September 23, 2012

聖人伝説と聖遺物崇拝の関係

  第一章 聖書・聖書外典が語る世界
 新約聖書の福音書は、六五~七五年頃に書かれたマルコ伝に始まり、八〇~九〇年代のマタイ伝・ルカ伝
に続いて、一世紀末頃にはヨハネ伝が編まれている。これらは、いずれもパレスティナ以外の地で、しかも
古代ギリシア語(コイネー)で書かれたという共通点を持つが、あくまでキリスト教布教のための福音書で
あり、厳密には歴史的事実を記したものではない。しかし、キリスト者となった人々が、福音書、その外典、
『黄金文書』などに描かれた事柄を信じ、新しいヨーロッパ世界をつくって来たのは紛れもない事実である。
そこで、これらの書物に記され、キリスト者が信じてきた世界とはどのようなものかを、特に聖人・聖遺物
崇拝との関わりについて触れながら考察してみたい。
(一)聖母マリアの伝説 
1 マリアの処女懐胎
 マタイ伝によれば、イエスは、聖母マリアの夫ヨセフがダヴィデ王から二七代目の子孫に当たることから、
「ユダヤの王」を継承できる血筋ということになる。しかし、イエスがマリアの処女懐胎によって生まれた
子供ならヨセフとの血のつながりはなくなる。こうした問題を簡単にクリアしたのが福音書の外典である。
聖書外典には『ヤコブ原福音書』、『偽トマス福音書』、『偽マタイ福音書』、『マリア誕生譚』、聖アムブロシ
ウスのテキスト〈DE VIRGINIBAL〉などがあり、それらはいずれも、ヨセフだけでなくマリアもダビデの
家系だったという。すなわち、ダビデの息子のうちソロモン王の家系がヨセフの先祖であり、もう一人の息
子ナタンの家系はマリアの父ヨアキムの先祖であると説明している。ヨアキムと結婚したアンナはマリアと
いう女の子を産むが、マリアとはヘブライ語で「海YAMの一滴の水MAR」または「女見神者」(預言者)
MYRIAMという意味である。三歳で神殿に預けられたマリアは、十二歳の時にベツレヘムBethlehemの大
工ヨセフについて行くように命じられた。ヨセフは、最初の結婚で四人の息子と二人の娘を持つ男やもめで
あった。彼は高齢であるし息子もいるのでマリアとの結婚を辞退したが、説得されて彼女を家に連れて帰っ
た。ヨセフはその後、家を建てる仕事に出かけ、二年間も留守にした。
 マリアは、数え年十四歳になった時、聖霊によって身ごもる。三月二五日、水くみに出かけたマリアは、
「喜べ、恵まれし女よ、主は汝と共にいる。汝は女の中で祝福されし者である」という声を聴く。怖くなっ
たマリアは急いで帰宅して織物をしていると、大天使ガブリエルが現れて「恐れてはいけません。マリアよ、
あなたは万物の主の前に恵みを得ました。主の言葉によって身ごもるでしょう。」と告げた。驚いたマリア
は「私が主の子を身ごもるですって」と聞き返すが、ガブリエルの説明を聞いて一旦は納得する。しかし、
許嫁ヨセフの留守中に自分の理解を超えたことが起きたことに不安が募り、親戚のエリザベツを訪ねている
(七月二日。現在は五月三一日に変えられた)。何故なら、婚約中の密通は姦通罪として石打ちの死刑に値
し、エリザベツが高齢にもかかわらず神の恵みで妊娠したと天使から知らされていたからである。いずれに
しても、マリアは妊娠三ヶ月の身重にもかかわらず、ガリラヤの都市ナザレNazaretから山里の町ユダまで
一人旅をし、エリザベツに会って安心した。二人はともに聖霊に満たされ主を讃えることが出来たと言われ
る。
 マリアがナザレに戻った後、しばらくして婚約者ヨセフが仕事を終えて帰ってくる。彼は、マリアが身ご
もっていることを知り怖れおののく。自分は神殿から引き取った乙女を守らなければならなかったのに、留
守の間に何者かがマリアを汚したと考えたからである。興奮したヨセフはなじったものの、マリアを姦通罪
の科で告発するすることは忍びがたいと思い直し、離縁して家から追い出すことしか彼女の命を救う途はな
いと観念した。ところが、ある夜、夢の中に大天使ガブリエルが現れて、マリアを妻としてとどめることを
怖れてはならないこと、彼女は聖霊によって身ごもったのであり、生まれる子はイエスと名付けるべきこと、
その子は民を救うであろうことなどを告げた。ヨセフは驚き、それが神の御心ならそれらを成就する必要が
あると考え、敬虔な諦めの境地に至ったという。こうして、ヨセフはマリアの保護者として彼女と「神の子」
を守る立場を選択したのである。
 マリアが臨月を迎えた頃、アウグストゥス帝Augustus(在位紀元前二七~後一四)の人口調査に関する勅
令(前六/七年頃)が発せられ、誰もが自分の出生地で戸籍登録を行う必要があった。そこでダヴィデ王の
家系であるヨセフはナザレの南方約一〇〇キロ以上離れたベツレヘムまで移動する。その間、身重の妻はロ
バの鞍に乗り、荒野を進んだのである。ようやくベツレヘムにたどり着いたヨハネは、まだ生まれていない
子供の名前を「ダヴィデの子孫ヨセフ、妻のマリア、その息子イエス」と記した。ベツレヘムにいる間にマ
リアが産気づき、宿を探したが見つからなかったため、やむを得ず馬小屋を借りて、イエスJesusは家畜た
ちに見守られながら誕生し、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたという。その直後、天使に救い主の
誕生を告げられた羊飼いたちや、星によって導かれてユダヤ人の王に贈り物を捧げる東方の三博士がこの馬
小屋に現れてイエスの誕生を祝福している。もっとも『ヤコブ原福音書』によれば、マリアはベツレヘム近
郊の洞窟の中でイエスを出産したことになっている。その時、サロメという女がマリアの処女懐胎を疑って
マリアの体を調べているが、それを確認すると、己の不信を嘆いてその手を焼かれたが、神に許しを請い、
赤子を抱き上げたところ癒されたという。
 なお、イエス誕生の年月については、マタイ伝では「ヘロデ王の治世にユダヤのベトレヘムで生まれた」
(第二章一)とあり、ルカ伝では、「カエサル・アウグストゥスから、全世界の戸口調査をせよとの勅令が出
た。この戸口調査はクィリニウスがシリア〔州〕の総督であった時施行された、最初のものであった」(第
二章一節)となっており、正確なところは分からない。また、誕生日は、コンスタンティヌス一世 Constantinus
Ⅰ(在位三〇六~三三七)が三二五年に召集したニケーア宗教会議で十二月二五日と定められたが、それに
伴ってさまざまな祝日が決定された。例えば、誕生から八日目の一月一日が割礼の祝日、六日が東方の三博
士が訪ねてきた主の顕現の主日、出産から四〇日をへた二月二日が蝋燭の祝福を伴う聖母お清めの祝日とな
る。聖母お清めの祝日は、ユダヤの戒律(レビ一二)の中に、男子を出産した女は汚れているので七日間男
と交渉を持てず、さらに三三日間は神殿にも上がれないという規定に対応している(女子を出産した場合は
それぞれ二倍となる)。
2 イエス誕生
 マリアの身に試練が続く。東方の三博士から「ユダヤの王が生まれた」と耳にしたヘロデ王が、ベツレヘ
ムとその周辺に住む二歳以下の男の子を皆殺しにする命令を出したからである。ヨセフの夢の中に現れた天
使がエジプトに逃げるよう告げたので、親子三人でロバの背に揺られながら約五〇〇キロも離れたエジプト
への逃避行を行った。一年ほど過ぎたある日、ヨセフは再びお告げでヘロデ王の死を知り、一家はナザレに
戻る。ヨセフの一家は毎年、過越祭paschaにはイェルサレムの神殿に詣でていたが、ヨセフ一一〇歳の時、
ついに死の時が訪れた。病を得たヨセフは死の恐怖から平静さを失ったが、少年イエスが声をかけるとヨセ
フは落ち着き、イエスこそが神の遣わした救い主だと実感し、出生の秘密を告げたと言われる。その時、マ
リアは既に三十代になっていたが、悲しみにうちふるえていた彼女を励まし救ったのもイエスである。 
 ヨセフの死後、イエスは直ぐに宣教を開始することなく、母マリアを支えながら十余年にわたって普通の
生活を過ごしたと思われる。その後、宣教活動を開始したイエスはわずか数年の布教活動の間に、現実に生
きる人間の眼には信じがたい「神の絶対愛」を証明するために病を癒し、悪魔を祓い、「律法は成就し、人
は神への信仰によって救われる」と説いた。一般にイエスの教えは「ユダヤ教の律法主義(ファリサイズム)
とユダヤの支配層を批判して神の愛を説き、己のごとく隣人を愛する者は救われ、最後の審判とともに神の
国に入れることを約束した」と理解され、反感を抱いたユダヤ人支配層が彼を殺そうとはかり、ローマの総
督ピラトゥスPilatus(ピラトPilato在任二六~三六)は政治犯としてローマ式の極刑である十字架刑に処し
たと言われる(三〇年頃)。
 しかし、イエスには以上のような記述では説明しきれない別の顔がある。先ず第一に、強烈な民族主義者
の顔であり、疎外された者への偏向、権力者・富者に対する激しい憤り、差別意識を併せ持つ反逆者の姿で
ある。マタイ伝によれば、イエスは使徒たちに対して「異邦人の道には行くな、またサマリア人の町には入
るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のもとへ行け」(第一〇章五~六)と命じ、「主よ、ダビデの
子よ、私に憐れみを。私の娘が悪霊に憑かれ、ひどく〔苦しんでおります〕」と叫ぶカナンの女に対して、
一旦は「私は、イスラエルの家の失われた羊たち以外の者のためには遣されていない」(第一五章二二~二
八)と冷たく拒絶している。一方でイエスは、時の権力者ヘロデ=アンティパスHerod Antipasを「狐」(ル
カ伝第一三章三一~三二)、パリサイ派を「蛇よ、蝮の裔よ」(マタイ伝第二三章三三)と罵り、弟子たち
に対して「金持ちが神の王国に入るよりは、駱駝が針の孔を通り抜ける方がまだやさしい」(同第一九章二
三~二四)と語っている。このような発言の底にあるのは、ヘロデ=アンティパスとその背後に控えている
ローマ帝国に対するユダヤ民衆の怒りや憎悪の念ではないか。換言すれば、ユダヤ民衆には民族的誇りを捨
てたヘレニストやローマ帝国の「帝国の論理」に対するどうにも抑えきれない感情があり、そこから派生し
た(集団的)抵抗の意志が存在したと考えられる。イエスの説く「愛と平和」はこうした激しさに裏打ちさ
れたものであった。
 第二に、福音書のそこかしこに描かれた「慰めの物語」や「奇跡物語」は、イエスが虐げられた人々、貧
しい人々、病める人々の側に居続けよう、人生の同伴者たろうとしていることを示している。しかし、これ
ら不幸な人々が求めるものも、結局のところは現実世界における〈効果〉でしかなかった。神の愛の現実的
無力に気づいたとき、彼等は掌を返したように裏切る。イエスが「あなたがたは徴と不思議を見ないかぎり、
決して信じないのであろう」(ヨハネ伝第四章四八)と悲しげに呟くのはそのためである。
 イエスがゴルゴダの丘で処刑されたとき、ユダヤの群衆はもとより、イエスの弟子たちもかかわり合いに
なることを怖れてガリラヤ(マタイ伝・マルコ伝)またはイェルサレム(ルカ伝・使徒行伝)に逃げ去った
と言う。しかし、ヨハネ伝によれば、「イエスの十字架のそばには、その母と彼の母の姉妹、クロパのマリ
アとマグダラのマリアが立っていた(スターバト・マーテルSTABAT MATER=母は立っていた)。さて、
イエスは母と、自分の愛していた弟子がそばに立っているのを見ると、母に言う、『女よ、ご覧なさい、〔こ
れが〕あなたの子です』。ついでその弟子に言う、『ご覧なさい、〔これが〕あなたの母だ』」(第一九章二五
~二七)と言い残している。ヨハネJoanneはこの時以来マリアを引き取り、実の母のように遇したと言わ
れている。
3 マリア昇天
 聖書外典によれば、イエスの復活と昇天ASCENSIO=latの後、聖霊に満たされた使徒たちが福音を伝える
ためにローマ世界各地に散った頃、マリアはシオン山(イェルサレム)近くに住み、息子イエスの思い出の
地をへめぐることを余生の生きがいとしていた。しかし、人の子の母として若くして残酷きわまる死に方を
した息子のことを考えると、痛いほどの悲しみがマリアの胸から薄らぐことはなかった。ある日、息子のこ
とを思って滂沱の涙を流していたマリアの前に、天使が現れて「祝福されたマリアさま、ヤコブに救いを与
えた方からの恵みをお受けください。ここに天国から持ってきた棕櫚(しゆろ)の葉があります。これをあなたの棺の
前につけなさい。三日後にあなたは肉体から離れられるでしょう。あなたの息子がお待ちしています。」と
告げた。マリアはこの知らせにたじろぐことはなかったが、イエス亡き後の行動をともにしてきた使徒たち
に囲まれて死にたい、彼らの手で埋葬されたいと望み、また魂が肉体を離れた後で悪霊に出会わないこと、
サタンの手先に邪魔されぬことを願った。そこで天使はマリアの願いが全て叶うことを告げて天に戻ったが、
マリアのもとには緑輝く大きな棕櫚の葉(実際はヤシ科の常緑高木ナツメヤシ・棗椰子のこと)が残されて
いたという。
 その頃ヨハネはエフェソスEphesos(小アジア西海岸の都市)で宣教していたが、突然稲妻が光り、白雲
が湧き上がったかと思うと、体が浮遊し、そのままマリアの家の前まで運ばれた。ヨハネの姿を認めたマリ
アは、喜びの涙を浮かべて、「息子ヨハネよ、あなたの師匠が私とあなたを母と子として結びつけた言葉を
覚えていますか。私にはいよいよ主からお迎えが来ました。私の体をしっかり守ってください。ユダヤ人た
ちは、イエスを産んだ女が死ぬときはその体を奪って火にくべてしまえと日ごろ言っているのです。この棕
櫚の葉を棺の前に立てて、無事に墓まで運んでください。」と頼んだという。各地に散らばっていた他の使
徒たちもヨハネ同様の方法で戻って来たので、マリアは神を祝福し、使徒たちは松明や燭台を灯してマリア
の周りにすわった。日没後三時間がたった頃、イエスが天使たち、族長たち、殉教者たち、告解師の軍団、処女(おとめ)
たちの聖歌隊を伴って現れ、聖母マリアの前で甘美な雅歌を歌い始めた。
 イエスの「さあ、いらっしゃい、私の選んだあなたよ、あなたの美しさゆえに私の玉座につけましょう」
という呼びかけに応えて、マリアは「心の準備はできています、主よ、心の準備はできています」という言
葉に続いて、あたかも若い日のように輝く顔で「すべての国が私を幸いな者と呼ぶでしょう、聖なる全能の
方が私にお恵みをくれたからです。」と歌った。さらに「来なさい、私の妻よ、冠をさずけましょう」とい
う主の声に、マリアは「参ります。私の救い主の中で私の心は喜びでいっぱいです」と答えた。こうしてマ
リアの魂はその肉体から離れて息子イエスに抱かれて去っていった。その時、マリアに肉体の苦痛は全くな
かったと言われる。
 主は使徒たちに「聖母の体をヨサファの谷に運んでそこにある新しい墓に入れなさい。そうして三日間、
私の来るのを待ちなさい」と言い残し、殉教者たちが持っていた薔薇の花と天使たちが抱えていた谷百合の
花が聖母マリアを包み込んだ。使徒たちは「私たちを覚えていてください」と叫んだ。また、天に残ってい
た天使たちは、イエスの御胸に抱かれて天へ向かうマリアの魂を見て感動し、それが誰かを知ろうとした。
するとイエスに付き従っていた天使たちは「イェルサレムの乙女たちの中で最も美しく慈悲と愛に満ちた方
です」と答えた。こうしてマリアは歓喜をもって迎えられ、息子の右側の栄光の玉座に座らされた。使徒た
ちはマリアの魂が真っ白に輝くのを見たという。
 なお、マリアはイェルサレム近郊で亡くなりゲッセマネの墓所に葬られたという説と、小アジアのエフェ
ソスで亡くなったという説がある。また、聖エピファニウスEpiphanius(三一五~四〇二)によれば、マリ
アはイエス昇天後も二四年間生き続けたという。受胎告知の時に一四歳だから、イエスを出産したのは一五
歳。イエスとともに三三年間生きたとすると、マリアは七二歳まで生きたことになる。もっとも教父エウセ
ビオスEusebios(二六三頃~三三九頃)の『教会史』の中に、使徒たちがユダヤの国とその周辺を宣教して
回るのに一二年かかったという記述があることから、マリアはイエスの死後一二年間生きて六〇歳で亡くな
ったという説もある。
 三人の乙女がマリアの遺体を洗うために衣服を脱がせたが、やはり大いなる光が出て誰も聖母の体を見た
者はいなかった。使徒たちが屍衣のマリアを板に乗せた時、ヨハネは(イエスの第一弟子と見なされていた)
ペテロに棕櫚の葉を持って先導するよう頼んだが、ペテロはその役割をヨハネに譲り、自分は遺体を運ぶと
申し出た。こうして葬列はヨセフが先導し、マリアの棺は使徒たちや伝道者パウロによって運ばれた。葬列
は彼らと天使たちの歌声とともに進んだが、白い雲が彼らを隠すように包んだため、周りの人々には全く見
えなかった。ところがマリアの葬列だという噂が広まると、使徒を殺してマリアの体を火にくべようとする
群衆が殺到し、ユダヤの祭司長はマリアの棺に手をかけた。すると群衆は光のために目が見えなくなり、祭
司長の手は遺体を載せた板から離れなくなって命乞いの叫びを発した。その時ペテロは祭司長に「主イエス
は真に神の子で、ここにおわすのはその聖なる母上だと信じます」と唱えさせ、ヨハネが持つ棕櫚の葉を借
りて武器を持つ群衆に向けて「主イエスを信じる者は癒され、信じない者は永遠に目が見えないだろう」と
言わせた。
 マリアの遺体が墓所に入れられてから三日目、約束どおりイエスが多くの天使たちを連れて現れ「平和が
あなたがたにありますように」と言い、使徒たちは神を讃えた。イエスが「今日私の母にどんな恵みをさし
あげればいいと思いますか」と尋ねたので、使徒たちは「あなたが死に打ち勝って復活し、永遠に統治され
ますように、あなたの母上も、復活させて永遠にあなたの右手に置かれますように」と答えた。すると大天
使ミカエルがマリアの魂を抱えて現れ、イエスは「起きなさい、お母さん、私の白鳩、栄光の聖櫃(せいき)、命の壺、
天の神殿、私を受胎した時に汚されなかったように、墓の中でも肉体は滅ぼされないでしょう」と声をかけ
た。するとマリアの肉体が墓から持ち上がり、魂が中に入って、多くの天使たちに伴われながら天に上げら
れていった(被昇天ASSUMERE)。
 このとき、後から駆けつけた使徒トマスThomas(懐疑主義者・実証主義者。インドで殉教)は墓所が空
であることを見ても聖母マリアの被昇天を信じなかったが、天からマリアの帯がひらひらと落ちてきてよう
やく得心がいったと言われている。マリアの帯は聖遺物としてさまざまの奇跡を起こすことになる。もっと
もマリアの衣服はすべて棺の中に残されたという説もあり、その一つである上衣(サンクタ・カミシア
Sancta Camisia、聖衣)は中世にパリ南西八〇キロほどの都市シャルトルにあるノートルダム大聖堂
Cathédrale Notre-Dame de Chartresに祀られて信仰と巡礼の対象となった。この上衣は奇蹟による病気治癒だ
けでなく、ノルマン侵攻の際にはこの上衣を竿にくくりつけて軍旗のように掲げて戦い、奇跡的勝利を得た
と言われる。
 天使たちとともに天に上げられた聖母マリアは、イエスに祝福され冠を授けられた(父と子と聖霊の三位
一体よって戴冠されたというイコンIkon, icon〔聖像画〕もある)。マリア戴冠については、サルド司教のメ
リトンが書いたと言われる聖書外典を、六世紀にトゥールのグレゴリウスGregorius(『フランク人の歴史』
Historia Francorumの著者)が使い始めてから広く流布するようになった。特に十二世紀に入って、サン・
ドニ修道院長シュジェールSugerによって神学的考察がなされ、彼が建設させたサン・ドニ大聖堂Basilique
de Saint-Denis (一一三六~四四年建設)をはじめとするゴシック式大聖堂を飾るイコンとなった。マリア
戴冠の意義は、その〈祝祭性〉にある。イエスの受難が荒々しく悲劇そのものであり、その昇天が使徒に宣
教を託す荘厳なものであるのに対して、聖母マリアの被昇天と戴冠は全く対照的な明るさ、華やかさがある。
 また、同世紀の聖ヴェルナルドゥスBernard (シトー修道会の聖ベルナール。クレルヴォーのベルナルド
ゥスBernard of Clairvaux。第二回十字軍勧説者)は、「マリアは、その身体に神性という恩寵を、そのここ
ろに神の愛という恩寵を、その口に人びとを慰藉する力という恩寵を、その手に寛大な慈悲という恩寵を受
けておられる」と述べ、さらにこう言っている。「マリアは、ほんとうに恩寵にみたされておられた。とい
うのは、その充溢(じゆういつ)から、囚われの人びとは解放を、病める人たちは治癒を、悲しみの人びとは慰めを、罪
人たちは罪の赦しを、義(ただ)しい人たちは恩寵を、天使たちは喜びを、聖三位一体は称賛と栄誉を、人の子(イ
エス)はまことの人間の身体を受けたからである」と。(『黄金伝説』の「主のお告げ」より引用)
 (二)聖女マリア・マグダレーナの伝説
1 海の聖なるマリアたち
 南フランスのローマ都市アルルArlesの中心部に、市庁舎や石造博物館などが並ぶレピュブリック広場が
ある。そして、その一角に古代劇場やコロッセウムへ向かう道の脇に旧主座司教座聖堂サン=トロフィーム
教会Église St-Trophime がたっている。この教会は、中世のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼Santiago
de Compostelaの出発地の一つとなったことで有名であるが、もともとは聖ステパノStephen(サン=テチエ
ンヌSaint-Étienne)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。一〇世紀頃から、当時共同墓地アリスカンに
眠っていた聖トロフィモの聖遺物をこの教会(サン=テチエンヌ大聖堂)に安置しなおそうという動きが持
ち上がり、プロヴァンス・ロマネスク様式教会堂の原型が建造された。やがて、九七二年に聖トロフィムス
の聖遺物(遺体)が移され、彼の名に因んでサン=トロフィーム大聖堂となったと言われている。
 ところで聖トロフィムスとはどのような人物なのか。彼は二二五年頃アルル司教となったが、やがて九世
紀頃、聖人崇拝の風潮が高まる中、『使徒行伝』第二一章二九の中に登場するトロフィモTróphimos(エフ
ェソス出身)との同一化がなされる。トロフィモとはパウロと行動をともにしていた男で、紀元四六年にア
ルルの町に到着してまもなく、カマルグの海辺Camargueに辿り着いた聖なるマリアたち、マグダラのマリ
ア、ラザロなど多くのキリスト者を迎え入れたことになっている。その場所は、ローヌ川が地中海にそそぐ
直前で大ローヌと小ローヌに分かれ、二筋の川がつくりだすデルタ地帯や湿地帯が広がるところで、十九世
紀以降はサント=マリー=ド=ラ=メールSaintes-Maries-de-la-Mer(海の聖なるマリアたち)と呼ばれてい
る。彼の地が特異な名称を持つのは、トロフィモがイェルサレムから小舟で逃れてきた「聖なるマリアたち」、
すなわちマリア・ヤコベ(聖母マリアの姉妹で、クレオパの妻)、マリア・サロメ(聖母マリアの姉妹で、
ゼベダイの妻。ヤコブとヨハネの母)と、マグダラのマリア(マリア・マグダレーナ)を迎え入れたという
伝承に由来し、その他にもマルタ、ラザロ、マルティア(マルタの召使い)、主によって目を開けてもらっ
たセドン(シドワーヌ)、マクシマン(マクシミヌス)なども流れ着いたと言われる。
 『黄金伝説』によれば、「主のご受難からかぞえて十四年目、弟子たちは、さまざまな国に出かけていっ
て、神の言葉を宣べ伝えていた。そのころ、主の七十二人の弟子たちのひとりの聖マクシミヌスは、使徒た
ちと行動をともにしていた。聖ペテロは、マグダラのマリアをこのマクシミヌスの手にゆだねた」という。
キリスト教徒弾圧の嵐が吹き荒れる中、捕らえられたマクシミヌスは無理やり小舟に乗せられて海(地中海)
に流され、同じ頃、聖母マリアの姉妹たち、マルタ、ラザロ、マグダラのマリアも暴徒に襲われて波騒ぐ大
海へと流された。「そうすることで、彼等をみな溺れ死にさせられると、不信仰な者たちは考えたのでした」。
実際何度も危機に遭遇したが、マクシミヌスが天に向かって祈りを捧げた結果、小舟は神の恵みに支えられ
て無事マルセイユMarseilleに到着したと言われる。しかし、いつの日か、聖なるマリアたちの乗った舟は
ローヌ川の河口(現在のサント=マリー=ド=ラ=メール)に漂着したと信じられるようになったのである。
その後、トロフィモはアルル近辺の洞窟内で祈り三昧の晩年を過ごし、彼の住んだ洞窟の上にモンマジュー
ル修道院が建設され、アルルの共同墓地アリスカンにも聖母マリアに捧げられた礼拝堂が建立されたと伝え
られている。マリア・ヤコベとマリア・サロメとこれに従うサラ(召使い)はその場に残り、サント=マリ
ーの地域住民と親しく交わって少しずつキリスト教信仰を伝えたものと思われている。 
 その他、サチュルナンはトゥールーズToulouseへ、またマルタとマクシマン(マクシミヌス)はエクス
=アン=プロヴァンス(エクス)Aix-en-Provenceへ向かい、マルタの弟ラザロはマルセイユへ行ったと言わ
れる。そしてマグダラのマリアは、いったんマルセイユに出た後でマクシマンの後を追ってエクスからサン
ト=ボーム山塊Massif de la Sainte-Baumeへ赴いたとされており、それぞれの地にはながく語りつがれる伝
説が残っている。
2 マグダラのマリアとは何者か
 マグダラのマリアとはどのような女性なのか。出身地マグダラはガリラヤ湖畔の町で、塩漬けの魚を周辺
各地に発送する漁業と商業の盛んな一大集散地であった。この町でマリアはどのような暮らしをしていたの
だろうか。彼女が福音書に登場するのは、主に福音の旅立ち(ルカ伝第八章一~三)、キリスト磔刑の立会
人(マタイ伝第二七章五五~五七、マルコ伝第一五章、ルカ伝第二三章四九、ヨハネ伝第一九章二五)、キ
リスト埋葬の立会人(マタイ伝第二七章六一、マルコ伝第一五章四七、ルカ伝第二三章五五)、キリスト復
活の証人(マタイ伝第二八章一~一〇、マルコ伝第一六章一~一一、ルカ伝第二四章一~一一、ヨハネ伝第
二〇章一~一八)としての四場面である。
 先ずマタイ伝・マルコ伝・ルカ伝では、キリスト磔刑に際して「そこには多くの女たちが遠くから見てい
た彼女らは、イエスに仕えながら、ガリラヤから彼に従って来た者たちである。その中には、マグダラのマ
リアと、ヤコブとヨセフとの母マリア、そしてゼベダイの子らの母もいた。」(マタイ伝)とあるが、ヨハ
ネ伝においては「イエスの十字架のそばには、その母と彼の母の姉妹、クロバのマリアとマグダラのマリア
が立っていた。」と書かれており、すぐ間近にいたように描かれている。また、キリスト復活の場面では、
マタイ伝・マルコ伝・ヨハネ伝が彼女と他のマリアたちがキリスト復活の最初の証言者として弟子たちに伝
える役割を果たしているが、マタイ伝は恐怖と歓喜と信頼の感情が入り交じった心理描写を特徴としており、
マルコ伝では驚きや動転、恐れの感情が強調されている。それに対して、ヨハネ伝のイエスは「私にしがみ
つくのはよしなさい。私はまだのぼって父のところにいるわけではないのだから。私の兄弟たちのところへ
行きなさい。」と優しく語り、所謂「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレNoli me tangere)」の主題もイエス
と彼女の関係の親密さを表している。こうしてマグダラのマリアは、初期キリスト時代の教父たちから「使
徒たちへの使徒」と呼ばれ、ギリシア正教会においては亜使徒という称号が使われている。
 このように、マグダラのマリアの位置づけをめぐる四人の福音書記者たちの間には著しい相違点が見られ
る。岡田温司氏に従ってより肯定的な立場からより否定的なものへという序列をつければ、ヨハネ、マタイ、
マルコ、ルカという順になろうか(中公新書『マグダラのマリア』参照)。そして注目すべきは最も否定的
なルカ伝の記述である。キリスト磔刑から三日目の早朝、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブのマリア、
そして彼女たちと一緒にいた女たちは香料を携えて墓参をするが、そこでキリスト復活を知って引き返し、
使徒たちに伝える。しかし、彼らはその話を信用せず、シモン・ペトロなど幾人かが墓に走って亜麻布だけ
が残っていることを確認している。その後、復活したキリストが最初にその姿を顕すのは、イェルサレムか
ら六〇スタディオン(約一一・五キロ)離れたエマオ村へ向かっていたペテロ、クレオパスの前にであった。
ルカは「まことに主は起こされ、シモンに現れた」と強調しているが、そこから明らかなことはマグダラの
マリアなど女性が果たした役割を軽く抑える一方で、使徒ペテロの威信を高めようとする意志である。
 こうした意志は、マグダラのマリアと「聖なるマリアたち」の三番目のマリア(ベタニア三兄妹の末子)
との混同を生み、やがて二人は同一人物なのではないかと理解されていく。そこで、話を「ラザロの甦り」
後まで遡らせたい。ヨハネ伝によれば、その頃のイエスは、弟子たちとともに荒れ野に近いエフライムとい
う町で暮らしていたという。ユダヤの過越祭が近づいたので、彼らはイェルサレムへ行こうとする。イェル
サレム到着の六日前、一行がベタニア村のラザロに家に立ち寄ったところ、イエスのために夕食の席が設け
られた。マルタの給仕で食事が始まろうとしたところ、「マリアが純粋で高価なナルド香油一リトラ(約三
二六グラム)を取ってイエスの足に注ぎ、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで満たされた。」(ヨ
ハネ伝第一二章三)。このとき、弟子の一人イスカリオテのユダがマリアの贅沢を非難するが、イエスは「彼
女のしたいようにさせてあげなさい。私の葬りの日のためにそれを取っておいたことになるためである。」
とたしなめている。マタイ伝やマルコ伝では、この出来事はベタニア村の重い皮膚病患者シモンの家で起き
たとなっているが、いずれにしても、塗油はイエスの葬送の用意、すなわち間もなく亡くなるイエスを清め
る行為と考えられている。
 しかし、ファリサイ派の家に招かれたイエスが食事の席に着いたときという設定で語る、ルカ伝(第七章
三六)では大きく異なる内容となっている。「その町の罪人であった一人の女が、彼がそのファリサイ人の
家で食事の座に着いていると知り、香油の〔入った〕石膏の壺を持って来て、後方から彼の足もとに進み出、
泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自分の髪の毛で〔それをいくども〕拭き、さらには彼の両足に接
吻し続け、また〔くり返し〕香油を塗った。」という。文中の「その町の罪人であった一人の女」とは娼婦
か、肉の欲情にまみれてその悪から抜け出せない女を意味している。しかし、イエスは「この女の罪は〔た
とえ〕多くとも赦されている。〔それは〕この女が多く愛したことから〔わかる〕。少ししか赦されない者
は、少ししか愛さないものだ。」と言い、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安らかに歩んで行きな
さい。」と励ましている。
 また、続く第八章の冒頭では「イエスは町や村を通って行きながら、宣教し、神の王国〔の福音〕を告げ
知らせていた。また、十二人も彼と一緒にいた。また、悪しき霊どもと病弱さから癒された何人かの女たち
も〔、同様に彼と一緒にいた〕。〔つまり、〕七つの悪霊どもが出て行った、マグダラの女と言われていたマ
リア、そしてヘロデの管理人クーザの妻ヨハンナ、そしてスサンナ、そして多くの他の女たちも〔一緒であ
った〕。彼女たちは、自らの財産の中から〔布施しながら〕彼らに仕えていた。」と記し、マグダラのマリ
アがイエスと行動をともにするようになったことを告げている。
 このようにヨハネ伝でベタニアのマリアが演じた役割は、ルカ伝では「その町の罪人であった一人の女」
の取って代わられ、あたかもそれがマグダラのマリアであるかの如く描かれている。トリックとでも言うべ
きこの変化の背後には、何らかの意志が存在するのではないか。アレクサンドリア学派の神学者オリゲネス
Origenes Adamantius(一八五頃~二五四頃)は、その著『雅歌注釈』において、旧約聖書『雅歌』に詠われ
た「花婿」と「花嫁」をそれぞれキリストと教会とに準えているが、同時に「花嫁」はベタニアのマリアに
当てはめることが出来るという。すなわち彼女の中に信仰と気高い愛の証を読み取ったのである。オリゲネ
スはもう一つの著書『雅歌講話』の中でベタニアのマリアとマグダラのマリアとは別人だと指摘しているが、
福音書書記ルカは前者に与えられた特性(花嫁と瞑想的生活)を後者に接ぎ木することに成功している。「そ
の町の罪人であった一人の女」はマグダラのマリアとなり、「泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自
分の髪の毛で〔それをいくども〕拭き、さらには彼の両足に接吻し続け、また〔くり返し〕香油を塗った」
行為は悔い改めと奉仕と愛の象徴となり、マグダラのマリアの存在はキリストへの敬虔な奉仕と瞑想的生活
の理想と化した。すなわち、マグダラのマリアは罪から罪へと押しやる肉の欲情に支配され、悲鳴をあげて
いた罪人であったからこそ悔い改めと希望の模範となり、隠修士(hermit,ermite,Eremit)としての後半生が用
意されることになったのである。
 さて、『黄金伝説』によれば、イエス=キリストの受難から十四年目、マグダラのマリアは聖マクシミヌ
ス(聖マクシマン)や聖母マリアの姉妹たち、マルタ、ラザロ等とともに小舟に乗せられ、荒れ狂う地中海
に放り出されたが、辛うじてマルセイユに漂着したという。ところが、宿を貸してくれる人がいなかったの
で、やむなく異教の神殿の入口に近い柱廊で宿借りを決め込んだ。ある日、マグダラのマリアは供物を捧げ
るために集まってきた人びとに「偽りの神々を礼拝することは止めなさい」と巧みな言葉で話しかけ、確信
に満ちた口調でキリストの教えを説き始めた。その後、この地方の領主が妻と一緒に神殿を訪れ、子宝の願
掛けをしようとしたとき、マグダラのマリアはキリストの信仰を説き、供香を止めさせた。さらに数日後、
マグダラのマリアは幻となって領主夫人の前に現れて「あなたがたは、贅沢な暮らしをしているくせに、ど
うして神の聖人たちが飢えと寒さに苦しんでおられるのを黙って見ているのですか」と言い、あの聖人たち
を助けるよう夫に忠告しなさいと、きつく言い聞かせた。しかし、夫人はそのことを夫に打ち明ける勇気が
なかったが、次の夜も現れ、そして三日目には夫婦の両方に現れて烈火のように怒った顔で「何という情け
知らずの人でしょう。あなたの父は、悪魔で、あなたは、その手先に違いありません。あなたが寝床をとも
にしているあなたの妻は、意地の悪い蛇です。わたしの言葉をあなたに取り次いでくれません。あなたは、
キリストの十字架の敵です。」と告げた。反省した領主夫妻は聖人たちを迎えて宿を貸し、必要なものは何
でも用立てたという。
 ある日、マグダラのマリアが説教をしているところに来た領主は、彼女が説いている信仰が真実であるこ
とを証明できるかと問うた。マリアは、ローマにいる師ペテロが示してくれた奇跡と説教によって証明でき
ると答えた。そこで領主夫妻は、自分たちに男の子を授けてくれたら全てあなたに従うと叫び、マリアの祈
りによって領主夫人はまもなく妊娠した。その後、領主はマグダラのマリアがキリストについて説いている
ことが本当かどうかを確かめるために、聖ペテロにいるローマへの旅を計画したところ、身重の妻も同行す
ることになった。そこでマグダラのマリアは、旅の途中で悪魔に危害を加えられないように、二人の肩に聖
なる十字架のしるしを縫いつけてやった。船出して一昼夜が過ぎた頃、時化が襲ってきた。領主夫人は、波
にもまれる船中で産み月よりも早く男児を出産するが、自らは息を引き取る。生まれたばかりの赤子は母親
の乳房を求めて泣き叫ぶが、水夫たちは無情にも嵐を鎮めるためには遺体を海に投げ捨てようとした。その
時、船から遠くないところに岩礁を見つけた領主は、洞穴のような場所に遺体を運び、自分のマントを広げ
てその上に遺体を寝かせ、赤子は母親の胸元に寄り添わせた。そしてマグダラのマリアのご加護を祈った後、
船に戻って先を急いだという。
 領主はローマに着いて聖ペテロに会い、旅の途中の一部始終を話すと、聖ペテロは「あなたのおつれあい
が眠り、お子さんが一緒に休んでいることを悲しんではなりません。主は誰に対しても思し召しのままに与
え、奪い、再び与える力、悲しみを喜びに変える力をお持ちだからです。」と言うのであった。その後、聖
ペテロは領主を連れてイェルサレムへ旅し、キリストが説教や奇跡を起こした場所などの聖跡を案内し、さ
らに十字架にかけられた場所や昇天した場所をみせながらキリスト教信仰の手ほどきをした。二年後に帰途
につくが、天主の思し召しで例の岩礁に上陸すると母子は健在であった。男児はマグダラのマリアに保護さ
れてすくすくと育っていたし、眠りから覚めた領主夫人は「あなたが帰ってきた聖地巡礼の旅から、私も今
戻って来たところです。」と話した。彼女が言うには、夫が聖ペテロの案内で聖地巡礼をしている間、彼女
はマグダラのマリアの導きで夫の側を歩いていたのである。やがてマルセイユに戻ると、マグダラのマリア
は弟子たちとともに説教をしていた。二人はマグダラのマリアの足もとに身を投げて、涙ながらに自分たち
の身に起こった出来事を話し、聖マクシミヌスから聖なる洗礼を受けたのである。その後、マルセイユの人
々は異教の神殿をことごとく打ち壊し、キリスト教の教会を建立した。マルセイユの初代司教には全員一致
で聖ラザロが選ばれ、その後、マリアと弟子たちが移ったエクスの司教には聖マクシミヌスが選出された。
3 隠修士としてのマリア・マグダレーナ
 一方、マグダラのマリアは天国を見ることのできる境地に達したいと思って人住まぬ荒野に引きこもった
という。そして伝承によれば、その場所は南フランスのサント=ボーム山塊Massif de la Sainte-Baumeの中
腹に掘られた洞窟だとされている。エクス=アン=プロヴァンスからローマ皇帝アウレリアヌスの名に因ん
だアウレリア街道を進むと、サント=ヴィクトワール山と石灰岩の岩肌がおよそ十二キロメートルにわたっ
て続くサント=ボーム山塊の間を通るルート(現在の国道七号線)にさしかかり、オーバーニュ、ロクヴォ
ワール、オーリオル、サン=ザカリーを経て、やがて右手に最高峰一一四七メートルのサント=ボーム山脈
が迫ってくる。山腹近くまでの下半分は森に覆われ、その上は黒みを帯びた斑点や無数の亀裂が走る垂直の
岸壁が聳えているが、ちょうど森から突き抜けた山肌に不気味に口を開けているのがサント=ボームの洞窟
(「聖なるボーム」とはプロヴァンス語のbaoumoに由来し、洞窟の意味)である。その場所は、サン・マ
クシマンの村からは南西へ二〇キロ以上離れた、海抜六七五メートルの地点である。
 彼女は天使の手で用意された場所で隠修士としての生活をおくり、日ごと七回迎える祈りの時間には天使
たちに導かれて天空にあがり天使たちの賛歌を聴き、そして三〇年間が過ぎたと言われている。復活祭の朝、
聖マクシミヌスはマグダラのマリアからの伝言を伝えたある司祭の言葉を信じてたった一人で教会に出かけ
てみた。すると、マグダラのマリアが天使たちの群れの真ん中で両手を広げて主に祈りを捧げていた。彼女
は地面から二キュピトの高さの高さに浮かんでおり、顔は眩しいばかりに光り輝いていた。聖マクシミヌス
は先の司祭はもとより、全ての聖職者たちを集合させ、マグダラのマリアが司教マクシミヌスの手で聖体と
聖血を拝領してその聖なる魂が天に昇っていくさまを見届けさせた。彼女が亡くなった後、教会内には甘美
な芳香が広がり、それは七日後まで続いたと言われる。聖マクシミヌスは、聖遺体に高価な香料をたっぷり
と振りかけ、盛大な礼をもって埋葬した。そして、自分が死んだらこの側に葬って欲しいと遺言を残したと
いう伝承が残っている。注①
第二章 聖遺物崇拝とキリスト教の関係
 中世史家ミカエル=ミッテラウアーMichael Mitterauerは、論文「大市の連続性と都市の誕生」の中で、「多
くの場合、宗教の変化は聖別された土地の分布をほとんど変えていない。ケルト人やゲルマン人の最古の至
聖所sanctuairesは、ローマの支配下においても大概は祭祀上の土地のままであり、その塔はキリスト教によ
って使用された。キリスト教の諸聖人は、ローマ以前またはローマの神々の後継者となったのである」と述
べている。注②
 しかし、五世紀に成立したフランク王国がローマ教会との提携関係を強化し、村落共同体を通してローマ
=カトリック教会信仰を強制したとはいえ、〈ローマ以前の、またはローマの神々〉が易々とキリスト教を
後継者に指名するとは思えない。それでは中世後期に新たな展開を見せたキリスト教世界は、国家権力が強
力に推進した宗教政策以外に、どのような力が作用して生まれたものなのであろうか。
(一)聖遺物崇拝の起源
 イエス・キリストの生涯と受難が端的に示すように、キリスト教はユダヤ教をはじめとする古代諸民族の
さまざまな宗教との軋轢に苦しみ、ローマ帝国の迫害も苛烈を極めるものであった。古代ローマ帝国は基本
的に寛容な宗教政策をとっていたが、三世紀以降にキリスト教徒の数が増加すると態度を豹変させた。特に
デキウス帝Decius(在位二四九~二五一)からディオクレティアヌス帝Diocletianus(在位二八四~三〇五)
にかけての大迫害時代には迫害が苛烈を極め、多くの殉教者がでた。しかし、迫害の犠牲者は命をかけて神
の意思を守り抜いた義しき人であり、キリストと同じ死をとげることによって信仰の正しさを立証した「神
の証人」、すなわち「殉教者」となる。すなわち、「殉教者は死をもって神との内的合体を果たした」とい
う観念が信徒の間に成立し、殉教者は神の不滅性を分有し、人を神に「執り成しうる」特別な霊力が付与さ
れた聖人と見なされるようになったのである。注③ 
 殉教者の遺骸に関する最古の記録は、スミュルナ教会 Smyrnaが司教ポリュカルポスPolykarposの殉教を
近隣諸教会に報じた書簡だと言われている。また、ポリュカルポスの処刑は、一五五/一五六年頃、同市の
コロッセウムにおいて執行されたことになっているが、エウセビオスEusebiosがマルクス=アウレリウス
帝Marcus Aurelius Antoninus (在位一六一~一八〇)の治世下だと記しているので一六一~一六九年頃かも
知れない。いずれにせよ二世紀後半に書かれた書簡の中に、「しかる後、我らは宝石よりも貴く黄金よりも
価高き骨を拾い集め、ふさわしき場所に安置した。事情の許すかぎり我らは歓びにあふれてこの場所につど
い、主の許しのもとに殉教によって彼が誕生した日を祝う」という記述がある。この文章に見られる遺骸に
対する強い愛着と畏敬の念は後の聖遺物崇拝に発達する可能性を示唆しているが、この段階ではポリュカル
ポスに対する追悼敬慕の感情が前面に出ており、少し後の聖遺物に寄せる感情とは明らかに異なっている。
注④
 一方、ローマ帝国による迫害の苛烈化は信仰の堅固化と信徒の増加をもたらしただけでなく、殉教者の遺
体を納めた墓所を崇敬の対象と変化させた。古代ローマ社会では死者を居住市壁外の墓地に埋葬し、親族は
命日に集まって故人を追憶し食事を共にする習わしを持っていた。迫害時代のキリスト教徒もこれに倣い、
都市郊外の殉教者の墓地や地下墳墓カタコンベに集い、故人を讃えて祈りを捧げ、共同で会食する。信徒は
「最後の晩餐」に倣い、そこがキリストの臨存するところ、祈りと聖霊の交錯する場として食卓を中心に礼
拝を執り行ったのである。これが後の聖餐式(ミサ)の起源であり、食卓は教会堂の祭壇に変化する。聖人
崇拝の原形を殉教者崇拝に求め、殉教者崇拝の起源を古代社会の葬送儀礼や死者儀礼の中に探ったことで知
られるイポリット・ドゥルエーH.Delehayeによれば、古代ローマ社会では埋葬後三日目、七日目、三〇日
目など特定の日に近親者が墓を訪れて死者と共餐する習慣があったが、キリスト教徒はローマの一般慣習を
踏襲しながらも、墓前祭を忌日ないし埋葬の日に固定して「誕生日」としての意味づけを与えたという。殉
教の日(忌日)を「生誕の日」として祝うために墓所に参集する慣行の成立は屍体の移動や分割を禁じたロ
ーマ古来の葬制慣習の変化をもたらしたのである。また埋葬地は殉教者の原籍origoとされ、教皇ダマスス
一世DamasusⅠ(在位三六六~三八四)は使徒ペテロPetrus・パウロPaulusが東方出身であることを承知の
上で「流された血によってローマ市民」であるとし、トゥールーズの初代司教サトゥルニヌスSaturninusに
関する聖サトゥルニヌス碑文は「血によって故郷と名を移し」と記している。注⑤
 そういう彼らが遺骸の移骨・分骨を当然と考える時、既に遺骸は聖遺物に転化し、聖者信仰が成立し始め
たと見なしてよいのではないか。渡邊昌美氏によれば、三世紀前半の聖サトゥルス(『ペルペトゥア受難記』)、
聖キプリアヌス(『聖キプリアヌス事蹟録』の例は未だ記念品レヴェルを超えるものではないが、四世紀初
頭の「雷鳴軍団」の兵士たち、すなわち四〇殉教者の場合には、殉教者自身が分骨はおろか分離埋葬すら嫌
がったのにもかかわらず灰の分配を是としており、既に聖遺物崇拝の急速な進展があったことを示唆してい
ると言う。たぐいまれな個性を持った人物の遺骸に対する尊崇の念は、なにもキリスト教徒に限ったことで
はないし、時代や地域を超えるものである。単なる物理的存在に過ぎないはずの遺骸に価値や意味を持たせ
るものは、見つめる者の〈心的状況〉である。キリスト教の信徒たちは、迫害や拷問に堪えた殉教者の壮絶
な死(肉体の最終的否定)を神との特別な関係や超肉体的な霊力が生まれる契機と受けとめた。殉教者の遺
骸は地上の可視的な遺体としてとどまっているが、その魂は天国で祝福されて最終審判における復活昇天が
約束されていると見たのである。したがって、殉教者の遺体は人類の最終的救済を触知できる神の保証物で
あり、神の摂理を地上にもたらし、敬虔な信徒の願いを神に仲介(執り成し)できる特別な霊力によってさ
まざまな奇跡を起こすと考えた。注⑥
(二)ミラノ勅令以後の変化
 三一三年、コンスタンティヌス帝Constantinus(在位三二四~三三七)が発したミラノ勅令Edictum
Mediolanensiumは聖人・聖遺物崇拝に大きな変化をもたらした。この勅令でキリスト教の布教は自由となり、
改宗者が急増する。一時期、背教者ユリアヌス帝Julianus(在位三六一~三六三)による異教復興という混
乱もあったが、ゲルマン民族大移動という危機に直面したテオドシウス一世TheodsiusⅠ(在位三七九~三
九五)は、三八〇年にキリスト教を奉じることを命じて宗教的安定を図り、三九二年には罰則規程を設けて
キリスト教を国教化した。その間、各都市には司教座が設置され、教会組織の整備も進んだ。また、教会ご
とにまちまちであった典礼もローマのそれに統一され始めた。
 以上のような政策転換は、キリスト教の信徒数を飛躍的に増大させた。しかし、信徒の急増は俗信の混入
につながり、聖遺物に対する需要の増大につながった。そして同時に迫害停止に伴う殉教者の急減・消滅は、
聖遺物の供給激減という新たな問題を発生させた。そこで考えられたのが証聖者confessonという生前の徳
による聖人であり、「昔の・忘れられた・誰も知らない」殉教者の発見・移葬による聖遺物の供給拡大であ
った。
 先ず聖人概念の問題であるが、教会初期から信仰への献身と完徳ゆえに生前から「聖なる人」と敬われて
いた教会指導者も存在した。それに加えて三世紀後半、エジプトの砂漠に住み苦行に励む聖アントニウス
Antonius、聖パコミウスPachomius(エジプト共住修道院の創始者)のような隠修士が現れると、それを慕う
人びとが群れをなすようになった。砂漠の僧窟はエジプトからシナイ半島、ヨルダンの谷へと広がり、四世
紀初めには修道院も開かれている。ローマ帝国がキリスト教に脅威を感じるようになるのはこの頃で、キリ
スト者を「皇帝崇拝を認めない無神論者」として迫害するようになった。特に大迫害時代には苛烈を極め、
多くの殉教者がでたが、その間にもキリスト教は社会階層や民族の違いをこえて広がりを見せて、三一三年
のキリスト教公認に至ったのである。キリスト教は国家権力との関係を強化しながら教会制度を整え、それ
に付随して聖職者や信者も都市内で平穏に暮らせるようになった。しかし、隠修士たちは豊かな世俗生活に
背を向け、あたかも「キリストに倣いて」真の信仰生活を送ろうと苦行の道を選択していた。すなわち、自
ら高位富裕の世俗すべてを投げ打ち、すすんで貧困、孤独、純潔、不眠、黙想などの徹底した禁欲、苦行の
信仰生活を選んだのである。彼らの中には深い学識と洞察力とをもって民衆の間に発生したさまざまな問題
を解決するなど社会的役割を果たす人物もいた。先に述べた聖アントニウスは紅海北西端に近いコルジム山
に隠棲し、「修道生活の父」と呼ばれた人物であるが、同時にアレクサンドリア主教アタナシウスAthanasius
と親交を結んでいた(アタナシウスは『聖アントニウス伝』〈Vita Antonii〉を著述している)。当時のキリ
スト教布教には、アタナシウスのように民衆の前面に立って説教するやり方と、聖アントニウスのように隠
修士としての生きざまが民衆の信頼を集めるという二つの方法が存在したのである。その結果、限界を超え
るまでの強烈な克己と苦行生活を過ごす隠修士たちは、殉教に劣らぬ「肉体の否定」を行っていると受けと
められようになり、「神の手、天国の栄光のなか」にある魂は幻視を感じ、予言をなし、悪霊に打ち克ち、
祈りによって信徒に天国の門を開くことができると信じられるようになった。こうして隠修士たちは霊的な
聖人、「緩慢な殉教者」と見なされて、その墓所は信徒との巡礼対象となっていく。
 一方、移葬の慣行は、コンスタンティヌス帝の母后ヘレナによる「真(まこと)の十字架」発見伝説に象徴される
ように、先ず東方に出現した。記録上最古の移葬は、デキウス帝の迫害で捕らえられ獄死した聖バビュラス
Babylasの聖遺物である。三五一~三五四年の間に、アンティオキア近郊のダフニ地区を浄めるために彼の
遺骨が移され、同地のアポロン神殿はキリスト教の礼拝所に変えられた(但し、ユリアヌス帝が再びアンテ
ィオキアに戻した)。続いて四世紀半ば過ぎには、コンスタンティウス二世ConstantiusⅡ(在位三三七~三
六一)が自前の名高い殉教者をもたぬ新都コンスタンティノープルを飾るため、聖テモテTimotheos(三五
六年)・聖アンデレAndreas(三五七年)・聖ルカLukasの移葬が執り行われ、皇帝自らローマ的慣行を無視
している。その後、テオドシウス一世の治世には聖パウロ、アルカディウス帝Arcadius(在位三八三~四〇
八)のそれには預言者サムエルSamouelの聖遺物の移葬という信じがたいことまで実施されている。
 西方世界では、ミラノ司教アンブロシウスAmbrosiusやヒッポ司教アウグスティヌスAugustinusが登場す
る四世紀末から五世紀前半に、聖遺物発見とそれに伴う奇跡が続発する。三七四年、司教職に就いたアンブ
ロシウスはアリウスAlius派側に立つミラノ宮廷の圧力に屈することなく、教会の自立性保持に努力したこ
とで知られる。三八六年、異端勢力はウァレンティニアヌス二世ValentinianusⅡ(在位三七五~三九二)の
母后ユスティナの支持を受けて、アリウス派保護法を制定させ、教会堂の明け渡しを要求した。この危機的
状況を回避させたのが、アンブロシウスによるゲルヴァシウスGervasius、プロタシウスProtasiusという二
人の殉教者の遺骸発見であった。二人はネロ帝Nero(在位五四~六八)の治世下に殉教したと思しきミラ
ノの保護聖人であるが、「その名も墓所も知られていず、人々はその上を歩いていた」というから、発見と
いうより創造と呼ぶべきかも知れない。二人の遺骸はミラノ郊外の教会の祭壇下に移葬され、その日に因ん
で祝日は六月十九日と定められた。アンブロシウスは、聖遺物の発見・移葬がもたらした聖人崇拝の高揚を
背景にしてアリウス派の要求を断固拒否し、グラティアヌス帝Gratianus(在位三七五~三八三)に命じて
異教の「勝利の女神」の祭壇を撤去させている
 彼はまた、三九三年にもボローニャ Bolognaのユダヤ人共同墓地に葬られていた二人の殉教者ヴィタリ
スVitalis・アグリコラAgricolaの遺骸を発見し、フィレンツェへの移葬式を執り行っている。これはウァレ
ンティニアヌス二世の暗殺で混乱している帝国西方を東帝テオドシウス一世が攻撃している最中のことであ
った。翌年、テオドシウス一世は全帝国を掌中に収めることに成功するが、アンブロシウスはその彼にさえ
教会堂の聖職者席への着座は認めず、一般信徒席に着くよう要求している。ノラ司教パウリヌスPaulinusは、
アンブロシウスの思想を「皇帝は教会の中にあり、教会の上にはいない」と表現したが、聖遺物の発見・移
葬が教会の自立性確保に一役買っていることは確かである。注⑦
(三)ゲルマン民族大移動による変化 ~アウグスティヌスと聖人・聖遺物崇拝~
 アンブロシウスによる聖遺物の発見・移葬が行われた三八六年は、アウグスティヌスがマニ教から離れて
ローマ=カトリック教に回心した年であり、彼は母親とともに奇跡に立ち会っている。翌年の復活祭前夜、
アンブロシウスの手で洗礼を受けたアウグスティヌスは、三九一年にヒッポの司祭となり、三九五年補助司
教、三九六年司教となった。その当時、北アフリカのカトリック教会を脅かしていたのは、ドナトゥス派
Donatistsの運動である。ドナトゥス派はカエキリアヌスCaecilianusのカルタゴ司教就任反対闘争から生ま
れた勢力で、反ローマ的民族運動や下層農民の抵抗運動と結びついて北アフリカに一大勢力を築いていた。
四一一年のカルタゴ教会会議において辛うじてドナトゥス派追放に成功した頃、新たに「人間は善行によっ
て救われる」と主張するローマの修道士ペラギウスPelagiusの考え方が浸透してきた。ペラギウスは「神は
人間を善なるものとして創造したのであるから、人間の原罪は人間の本質を汚すものではない。故に人間は
神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志によって功徳を積むことで救霊に至ることが可能である」と
主張した。アウグスティヌスはペラギウス主義Pelagianismに対して厳しい論陣を張り、「人間の持つ〈選択
の自由〉の中に神意の采配が宿っており、〈神の恩寵〉と結びついた選択によりはじめて道が開ける」とす
る神の恩寵と自由意志等に関する自説を確立した。ペラギウス主義はその後、四一六年のカルタゴ教会会議
で異端とされている。
 しかし、ゲルマン民族大移動の嵐は五世紀に入ってますます激しさを増すばかりで、四一〇年には西ゴー
ト王アラリックAlarichの軍がローマを襲って掠奪の限りを尽くしたと言われる。この事件は、キリスト教
に対する異教の反撃を招いた。すなわち、ローマが被った大災厄は〈ローマ以前またはローマの神々〉を捨
ててキリスト教を信仰した報いだとする非難の声がわき起こり、信者の中にも動揺が広がったのである。ア
ウグスティヌスが異教徒から受けた非難を論破する大著『神国論』〈De Civitate Dei〉全二二巻を著すのは四
一三~四二六年のことであり、聖遺物に関わるのは四二四年から翌年にかけての冬のことである。もちろん、
彼は最初から聖遺物崇拝や奇跡を容認していたわけではなく、カルタゴ教会会議決議(四〇一年)等によれ
ば、むしろ懐疑の念や警戒心を抱いていたと思われる。その決議には「いかなる殉教者の祠堂(メモリア)も、そこに遺
骸ないし確実なる遺物が存するのでないかぎり、安易に受け容れてはならない。夢や空しき霊感めいたもの
によって祭壇を設けることは万難を排して非難されなければならない。」「当該地区の司教において可能で
あるならば、ただちにそれらを破却すべきである。民衆の暴動によって妨害される場合にも、信者が迷信に
流れることなからんためには、これらを頻繁に訪れることのないよう信者に教えなければならない」(第一
四条)とあり、明らかに統制の姿勢をとっている。
 しかし、ローマ世界の解体を目の当たりにした信者の間に広がる動揺を食い止め、ローマ=カトリック教
会の秩序を再建するためには、聖遺物崇拝や奇跡をためらう余裕はなかった。四一五年、イェルサレムに近
いカファルガマラの僧ルキアヌスという男が、夢の中に律法学者ガマリエルGamlielが現れて、ガマリエル
やその二人の子ども、そして使徒ステパノ(聖ステファヌス)Stephanosの遺骸の在処を告げた、とイェル
サレム司教に急報した。聖ステファヌスは、十二使徒のうち最初に迫害の犠牲となったために「筆頭殉教者」
と呼ばれる聖人である。発掘するとギリシア文字でヘブル名を刻んだ四基の墓が現れ、報せを聞いて集まっ
た群衆のうち七三名が病を癒すという奇跡が起きたという。遺骸はイェルサレムの聖シオン教会に移葬され、
右腕は新たに建立されたコンスタンティノープルの聖ステファヌス聖堂に移されたが、啓示を受けて墓の在
処を知ったルキアヌスは「使徒の肢体のうち小さき骨の節々、および使徒の肉のしみこんだ土埃」を密かに
手許に留め置き、やがて西方に拡散する原因をつくったと言われる(ルキアヌス回状)。発掘のとき、現場
に居あわせたスペインの神学者パウルス・オロシウスPaulus Orosiusは、ルキアヌスから聖遺物の一部を乞
い受けて故郷に帰る途中、ミノルカ島やウザルムに一部を残し、そこから再配分されたものが地中海沿岸の
諸都市に伝えられた。ミノルカ島に分与された四一八年頃、聖遺物の一部がアウグスティヌスの弟子にあた
るウザルム司教エヴォドゥスにわたり、エヴォドゥスを通してアウグスティヌスにも分与されたものと思わ
れる。
 聖ステファヌスの遺物がヒッポ教会に到達したのは、前述のように四二四年から翌年にかけての冬と推定
されており、遅くとも四二五年の復活祭には聖堂内に安置されていた。この時、カッパドキアから来た巡礼
者パオロと、その姉妹パラディアに奇跡が起こる。彼らは大勢の兄弟姉妹がいたがそろって親不孝者で、母
親の呪いを受けたために「手足が震動してとまらない」奇病に取り憑かれ、仕事もままならないために「ロ
ーマ帝国のほぼ半ばを経巡る」巡礼の旅に出ていた。多くの兄弟姉妹のうちパオロとパラディアは夢告を頼
りにヒッポまでたどり着き、聖ステファヌスの聖遺物の前で治癒の奇跡にあずかることが出来た。先ず柵に
すがって祈っていたパオロが突然気絶して転倒したが、正気に返ったときには、多年の痼疾は全快していた。
三日後にはパラディアにも同じ奇跡が起きた。「柵に触れると倒れて眠ったようになっていたが、起き上が
ったときには完全に治癒していた」。「会衆はこもごも感嘆と泣き声をあげて、とどまるところを知らなか
った」(アウグスティヌス『神の国』二二巻八章)。
 ところで、ここで再確認しなければならないのは、アウグスティヌスの聖遺物崇拝に関する意図である。
アウグスティヌスは、「この頃、私は恩寵を受けた者たちの報告書libellumを公衆の間で朗読することを始
めた」(『神国論』二二巻)と述べているように、奇跡の記録化を推進しており、「かつて聖ステファヌスの
肉であった一つまみの埃」が到着して二年足らずでおよそ七〇件の報告書が作られ、ウザルムでは二巻の『聖
ステパノ奇跡録』が編まれた。彼の意図は、まず第一に聖遺物の顕彰を通してキリスト教信仰を鼓舞するこ
とにあり、第二に記録によって奇跡を客観化し、真正の奇蹟だけを識別し固定化することにあった。そして
最終目的としては、聖人・聖遺物崇拝の奔流を制御し、ローマ=カトリック教会の秩序を再建することにあ
ったと思われる。すなわち、「犠牲(聖餐)を捧げるのはあくまでも神に対してであって、殉教者に対して
ではない。聖職者は神に仕えるのであって殉教者に仕えるのではない」(『神国論』二二巻)、「ステファヌ
スのために祭壇を設けるのではない。ステファヌスの骨をもって神のための祭壇を築くのだ」(『説教』三
一八)というのが彼の基本姿勢であった。ここでは神への信仰と聖人崇拝の違いが明確に区別されているが、
他の教会人、ましてや改宗したばかりの一般信徒にその峻別は無理であったと思われる。注⑧

(四)キリスト教の土俗化・卑俗化
 アウグスティヌスが死の床についた時、ヒッポの町はヴァンダル族に包囲され、彼の教会と祖国とは侵入
者の蹂躙に委ねることとなった。したがって、彼の後継者に課せられた任務は、信者を護るだけでなく、侵
入してくる異教徒に福音を伝えること、すなわちゲルマン民族の土俗信仰を克服してキリスト教世界を西欧
全体に根づかせることも含まれていた。ノラ司教パウリヌスの友人シェルピス・セヴェール(スルピキウス
・セヴェルス)Selpice Severe(Sulpicius Severus)が著した『聖マルタン伝』〈Vita S.Martini〉に詳しいトゥー
ル司教マルタン(聖マルティヌス)Saint Martinもその一人である。彼は十五歳でローマ騎兵となり、ガリ
アのアミアンに駐屯している。その頃の彼は裸の物乞いに与える物さえなかったため、仕方なしに自分のマ
ントの半分を切って与えたが、夢の中にキリストが現れて「その男こそ私だ」と告げられた。やがて十八歳
の時受洗し、直ちに(あるいは三五六年に)退役してポワティエ司教ヒラリウスHilariusによって司祭に叙
階された後は、イタリア各地で隠修士生活を送っている。三七〇(または三七一)年に第三代トゥール司教
に就任し、その後はガリア各地を精力的に巡回説教しただけでなく、病気治癒を施し、樹木や墓など異教の
偶像を破壊して多くの信者を獲得したと言われている。シャルトルでは子どもを蘇生させ、リュテースでは
癩患者を治癒し、トリールでは悪霊に取り憑かれた者を救い、ヴィエンヌではパウリヌスの眼病を治した。
このように、ガリア各地で活躍した伝道者たちは異教の祠をキリスト教の教会堂に変え、悪霊憑きや病気の
治癒を施し、神罰を説きながら福音を広めたのである。しかし、伝道者たちは、宗教とは直接かかわりのな
い執拗な抵抗に遭う。古代の神々を排除することは比較的容易な場合も、現実生活や日常的経験の世界と結
びついた〈心的習慣〉はいつまでも残り続けた。したがって、ローマ=カトリック教会は民間伝承に対して
排除と吸収の両面作戦に迫られたのである。注⑨
 五・六世紀になると、都市郊外の墓上に設けられた礼拝所は、信徒の参集とともに比較的大きな教会(バ
シリカ)に発展し、信仰生活の拠点となった。初期フランク社会のガリアでは地下墳墓から聖人の遺骨を取
り上げ、石または木の匣(はこ)や棺に納め、祭壇の中や傍らに移す(移葬・遷座)する風習が一般化し、移葬の際
には盛大且つ厳粛な式典が挙行されて聖遺物と祭壇の一体化が確認された。その結果、有名聖遺物を所蔵す
る教会堂を信仰・礼拝の的とする巡礼が開始され、往来する信徒の必要から宿泊施設などが建設されて新た
なる都市が成立する。所謂「旧市」に対する「新市」の誕生で、従来は市壁によって分断されていた生と死
の領域が一つの空間になりつつあった。注⑩
 ゲルマン民族大移動と西ローマ帝国の崩壊を機に、西ヨーロッパの政治的重心は地中海からアルプス以北
に移る。五世紀末、ガリアの地ではフランク王国メロヴィング朝のクローヴィスClovis I(在位四八一/四
八二~五一一)がランス大司教レミギウスRemigius(聖レミRemi)の手でカトリックとしての洗礼を受け、
正統派キリスト教に転じた。トゥール司教グレゴリウスGregorius Turonensisが編んだ『フランク人の歴史』
によれば、スイスのアラマン人を撃破したトルビアックの戦い(四九六年)の後、十二月二五日に洗礼を受
けたという。ただし、受洗の年については四九八年、四九九年、五〇六年と諸説があり、場所も聖マルティ
ヌスMartinusの墓に巡礼した後のトゥールではないかとも考えられている。いずれにせよ、クローヴィス
は、正統派キリスト教に転じることでローマ=カトリック教会やガリア地方に住むローマ人貴族の支持を獲
得し、西欧社会に特徴的な教権(ローマ=カトリック教会)と俗権の提携が開始された。また、古代地中海
世界のキリスト教は一般民衆から漸次上層階級に広がっていったが、中世ヨーロッパ世界ではまず王や王族
に布教の狙いを定め、ついで貴族層・一般民衆に広めるという全く逆の流れであった。もちろん、王侯貴族
層の改宗がただちに全部族民に影響するわけではないが、土俗信仰からキリスト教信仰への大きな転機とな
ったことは疑いようがない。フランク王国メロヴィング朝はしばしば分裂と内紛を繰り返したが、その支配
領域がガリア全土に広がると、征服された東・西ゴート族やブルグント族なども漸次カトリックに転じてい
る。
 一方、ローマ=カトリック教は、ゲルマン諸族に広がる過程で、自らの変質を経験することになる。何故
なら、カトリックの聖職者や神学者が口をきわめて異教的慣行を非難しても、ながく土俗信仰に浸ってきた
人々の心に響くことはなかった。いかに王侯貴族層の信仰を集めたとしても、一般民衆の支持なくしては宗
教として存立できないことは明らかである。そこでやむを得ず、古ゲルマン以来の宗教的伝統に自らのロー
マ=カトリック教を接合させようとしたことが、キリスト教の「土俗化・卑俗化」を生むことになった。そ
して、ローマ=カトリック教会の頂点に君臨した教皇自身がこうした弾力的方策を採用したのである。
 ローマ司教(教皇)グレゴリウス一世GregoriusⅠ(在位五九〇~六〇四)は東方教会に敢然と挑戦し、
五九五年には世界総主教Oikoumenikos patriarchesという称号を用いたコンスタンティノープル総主教ヨハネ
ス四世JohannesⅣを〈非キリスト〉と弾劾し、翌年にはサン=アンドレア修道院長アウグスティヌス
Augustinusと修道士約四〇名をイングランド布教に派遣するほどの人物である。その彼が採用したのは、異
教の神殿や祠、神像の破壊というドラスティックな目に見える伝道方法ではなかった。彼が伝道士たちに命
じたのは、異教の神像は破壊するが、神殿や祠は破壊しないでキリスト教の教会堂として利用すること、新
たな教会堂には聖水をふり注ぎ、祭壇を設けて聖遺物を置くことであった。
グレゴリウス一世は、上記アウグスティヌスに写本、祭儀用の衣服や器具とともに「聖なる使徒や殉教者の
聖遺物」を送り、これらは「教会の経営と職務に必要なもの」と書き添えている。異教圧伏には聖遺物こそ
が最大の武器となったのである。祭壇の石の洞に納められた聖遺物は、異教の地方神や精霊(氏神)が果た
してきた役割を肩代わりし、当該地域の安寧を実現する。こうして聖遺物とそれが引き起こす奇跡は、ロー
マ=カトリック教会の想定をはるかに超えて重要性を獲得し、キリスト教信仰はあたかも聖人・聖遺物崇拝
の観を呈するようになったのである。注⑪
 このような流れを大きく広げたのが、カロリング朝のシャルルマーニュ帝Charlemagne(カール大帝Karl)
である。八〇〇年、クリスマス・ミサにおいて教皇レオ三世LeoⅢ(在位七九六~八一六)からローマ皇
帝の戴冠を受けたシャルルマーニュは、キリスト教の保護者を自任し、正統信仰の宣布という教会の負託に
十分応える宗教政策を展開した。八一一年までにローマ以北のイタリアに五つ、アルプス以北に十六の合計
二一の首都大司教管区を設置し、ほとんどの首都司教に大司教の権威を与えている。首都大司教管区は幾つ
かの司教区に細分化され、司教たちは大司教に服従する(七七九年ハリスタル勅令)とともに、司教区内の
監察と司教区会議の開催を義務づけられた。司教の権限は原則的に司教区内の総ての聖職者に及ぶことにな
っていたが、私有教会の司祭任命権は世俗領主が留保し、修道院の独立性も認めざるを得なかった。しかし、
シャルルマーニュは司教や修道院長を自由に任命する権限(聖職叙任権)を持ち、聖職者になるためには国
王の認可が必要であった。また、カール=マルテルKarl Martell以来、カロリング家は家臣を給養するため
に教会領を収公して恩給地beneficiumとして分配している。その際、カロリング家は教会側の土地所有権を
保障し、家臣との間に土地の貸借関係を構成させるとともに、借地人に対して地代(生産物の五分の一)を
支払うよう命じている。注⑫
 シャルルマーニュ帝はとりわけドイツ東部への福音拡大に尽力し、ザクセン人・西スラヴ人・アヴァール
人など異教徒を改宗させるために各地に司教区を設けて教会十分の一税の納入を法制化し、同じく数多く建
立させた修道院ではベネディクトゥス会則の普及に努めさせた。しかし同時に、八〇一年と八一三年の二度
にわたって開かれたカルタゴ教会会議では、聖遺物を祭壇に置くよう規定したニカイア公会議(七八七年)
の決定を踏襲し、聖遺物を欠く祭壇の破壊を命じている。さらには、ローマ=カトリック教会の動向に呼応
して、ザクセン人に対して異教的な魔法や占卜の行使者を奴隷として教会に引き渡すこと、それらの神々に
犠牲を捧げる者を処刑することなどを命じる一方で、宣誓や各種の「神判」、奴隷解放の際などにキリスト
教の聖遺物崇拝を取り入れるよう求めている。これらは、公権力が未成熟で、大多数の人々が文盲であった
古ゲルマン社会以来、個人や集団間の取り決めの際には可視的な保証物を介する「宣誓」が行われ、相手に
その遵守を強制する慣行が継承されてきたことに着目したからである。シャルルマーニュ帝は「あらゆる宣
誓は、教会内かまたは聖遺物を介してか、いずれかでなさるべき」と命じることによって、古ゲルマン的慣
行をキリスト教世界に取り入れ、超自然的な聖化による権威づけに成功した。こうして、聖遺物にかけての
宣誓は聖人の名における「厳粛な契約」と変化し、違反者は聖人への侮蔑として時には死をもって贖わなけ
ればならなかった。注⑬
(五)十一世紀の変化
 シャルルマーニュ帝の死後、フランク王国は分裂を繰り返し、やがて西フランク王国・東フランク王国・
イタリア王国に分かれていく。その間、西ヨーロッパ世界は封建制社会へ移行していったが、相次ぐ政治的
混乱は外敵の侵攻を招いた。南からイスラーム教徒、北方からノルマン人(ヴァイキング)、そして東方か
らはマジャール人が侵攻し、キリスト教会ならびに修道院は焼き討ちの対象とされ、民衆の恐怖心は極点に
達した。
 しかし、十一世紀を迎える頃に変化が訪れる。当時の西欧社会は、気候の温暖化に伴って農業生産が向上
し、外敵侵攻による混乱も収束して人々の暮らしが安定化に向かいだしたのである。すなわち、同世紀初め
から鉄製農具や重量有輪犂、二圃制度・三圃制度の普及で麦の収穫量が急増する農業革命や集村化現象が本
格化し、同世紀後半から十三世紀前半にかけては森林や荒れ地の開墾が進む大開墾時代を迎えていた。また
同時に荘園制度は従来の古典荘園から地代荘園(純粋荘園)への転換期に相当し、教会行事や農事暦と結び
ついた祭礼など共同体的結びつきが強まった。教区教会では教区司祭が冠婚葬祭や日曜ミサなどを通じて布
教活動に務めていたが、それらは土俗信仰とキリスト教が接合する場となってマリア信仰や聖人・聖遺物崇
拝、泉水を利用した病気治癒祈願などを爆発的に拡大させる契機ともなったのである。
 その間、ローマ=カトリック教会は世俗社会との関わりを深め、聖職者の結婚、世俗領主による聖職者の
任命はありふれたことで、聖職売買も珍しいことではなくなっている。一方、民衆の間では聖遺物崇拝の熱
がますます高まり、聖遺物が納められている教会・修道院への巡礼が流行となっていた。一〇世紀末のフラ
ンスなどでは貴族間の私闘を抑えるための「神の平和」運動が起きたが、十一世紀にはクリュニー修道院
Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny(ブルゴーニュ地方、九〇九年創建のベネディクト会修道院)を
中心とする教会刷新運動が大きなうねりとなって西欧全体を包んでいった。教皇グレゴリウス七世Gregorius
Ⅶ(在位一〇七三~八五)は教会刷新運動を背景に厳格な規律を求める大改革に着手し、帝国教会政策をと
る神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世Heinrich IVとの間に聖職叙任権闘争(一〇七五~一一二二)を展開して教
皇権の優位を勝ち取っている。
 この一連の動きの中で注目すべきは、マグダラのマリアの物語に登場する隠修士の存在である。一〇世紀
末から十一世紀にかけて南イタリアに多かったギリシア系修道士は贖罪のために森に入って瞑想と禁欲の
(まさしく隠修士としての)信仰生活を送っていたが、彼らは「悔い改めと奉仕と愛の象徴」である聖女マ
グダラのマリアに親近感を抱き、彼女に自らの庵の保護を委ねることが多かったという。こうした隠修士を
中心とする悔悛運動とクリュニー修道院を中心とする教会刷新運動が結合して物語が誕生し、教皇グレゴリ
ウス七世の所謂「グレゴリウス改革」を準備したのである。実際、改革の理論的支柱となったペトルス・ダ
ミアニ Petrus Damianusやシトー修道会の創立者であるモレームの聖ロベールSt. Robert de Molesmeなどは
いずれも隠修士であった。
 そして、教皇権の隆盛と深い関係にあったのが十字軍の派遣である。キリスト教最大の聖地イェルサレム
は、六三八年以来イスラーム教徒の支配下にあったが、この当時イェルサレムを支配下に置いていたセルジ
ューク朝がアナトリアに進出したため、脅威を感じたビザンツ皇帝アレクシオス一世が教皇ウルバヌス二世
UrbanusⅡ(在位一〇八八~九九)に救援を求めた。ウルバヌス二世は一〇九五年のクレルモン公会議で聖
地回復のための十字軍を提唱し、熱狂的な支持を集めることに成功する。翌年、第一回十字軍が出発し、こ
こに約二世紀にわたり七回に及ぶ十字軍遠征が開始された。十字軍は、教皇にとっては東西両教会統一の主
導権確保という目論見があったが、多くの民衆やキリスト教布教の最前線にいた司祭たちにとっては、殉教
者の勲功で名高い都市や、著名な聖人が禁欲修行を重ねて奇跡をもたらした場所への巡礼の最たる行為であ
った。
 第一回十字軍の背後で隠然たる力を発揮していたのはクリュニー修道院であり、その院長ピエール(尊者
ピエールPierre le Venerable)は「主がその足で立ちたもうた場所をおのれの目で眺めて涙を注ぐことは、
修道の戒律が我らに禁じている」とイェルサレム主教に書き送っている(『書簡』八三)。また、第二回十
字軍の勧説者として知られるシトー修道会の聖ベルナールBernard(クレルヴォーClairvauxのベルナルドゥ
ス)は、同会の全修道院長宛回状で十字軍に参加する修道僧や助修士を破門すると通知し、同会総会(一一
五七年)では「イェルサレムであれ、その他の地であれ、巡礼に出る修道僧は二度と故郷の修道院に帰るこ
とを許さない」と定めている。但し、ここで見落としてはならないのは、隠修士の系譜をひくことによって
一般信徒の模範と見なされた修道僧に対する禁令を通して巡礼を統制しようとする修道院勢力の意図であ
る。また、多くの禁令の存在は、かえって理屈を超えた衝動にも似た巡礼への憧れ、あるいは十字軍熱が民
衆間に横溢していたことを如実に示している。例えば民衆十字軍は、アミアンの隠者ピエールPierre l'Ermite
や騎士ゴーティエGautier Sans-Avoir(無一文のゴーティエ)に率いられて出発し、ボスフォラス海峡を渡
って全滅覚悟でルーム・セルジューク軍の中に突入したが、群衆の中にあったのはまさしく神のご加護への
信頼であった。
 ところで、多くの教会・修道院が競って聖遺物を集め、民衆の期待に応えようとしていたことは、大量の
「奇跡録」や「移葬記」などが作成されたことからも明らかである。フランス中央山地に建つサン・タヴォ
ー修道院Saint Avoldは一一八〇年からおよそ三〇年間にわたって入手した聖遺物を克明に記録しているが、
使徒や聖者の遺骸の一片(聖アンデレSaint Andréの肋骨一本、預言者アモスAmosの歯二枚など)のほか、
ベツレヘムの秣桶(まぐさおけ) の破片や聖母の靴のかけら、聖ステファヌスを打った石の破片などの二次的聖遺物も含
まれているし、はては「誰のものとも知れない遺骨がたくさん納められている箱」まであった。また、ラン
スのサン=レミ修道院Saint-Remiでは、一一四五年、地下墓室の聖ジブリアンという来歴の分からない聖者
の遺骸が入った容器を新調したところ、にわかに奇跡が起きて巡礼者が参集した。『聖ジブリアン奇跡録』
によれば、同年四月一六日から八月二四日までの間に一〇二件の奇跡(うち九八件が病気治癒)が発生して
いる。これらの記録から当時の人々がどのようなことに怖れを抱き、何を求めていたのかが推測できるが、
それらは古ゲルマン以来の土俗信仰と聖遺物崇拝とが結びついた結果の顕れでもある。注⑭
(六)聖人伝説と聖遺物崇拝の関係
 中世における三大巡礼地は、イェルサレム、ローマ、そしてサンチャゴ・デ・コンポステーラである。し
かし、それ以外にもトゥールの聖マルタンSaint Martin、カンタベリーの聖トマス・ベケットThomas Becket、
南イタリアのモンテ・ガルガノGarganoやフランスのモン・サン=ミシェルMont Saint-Michelにおける大
天使聖ミカエルSan Michele、シャルトルやフランス南西部のロカマドオールRocamadour における聖母マリ
ア、ヴェズレーのマグダラのマリアなどの大霊場が存在し、民衆の身近な霊場としては古ゲルマン以来の「聖
別された土地」locus sanctusが各地に点在していた。
ヨーロッパ各地に広がった「真正なる」聖遺物を獲得しようとする情熱の高まりは、聖人の遺骸を移葬す
るという強硬手段をとらせることになる。ここで再び取り上げるのは聖女マグダラのマリアである。前章で
見たように聖女の遺体は南フランスのサン・マクシマンに葬られたことになっていたが、十一世紀、福音書
にも載るほどに有名だが詳細は不明な彼女が移葬の対象者に選ばれ、その遺体はブルゴーニュ地方のヴェズ
レー修道院Vézelayへ移された。ヴェズレー修道院は、八五八年(八六一年)頃に創建されたバシリカ式教
会堂で、最初はイエス=キリストと聖母マリアに捧げられたベネディクト会修道院で、マグダラのマリアと
は何の関わりもなかった。しかし、十一世紀初め、修道院長として着任したジョフロワ Geoffroy(在職一
〇三七~一〇五〇)は、クリュニー修道院の戒律を受け入れるとともに、その当時ヴェルダンでマグダラの
マリアに捧げる聖堂を建設中であることに着目して、ヴェズレー修道院にも導入しようとした。この思いつ
きは功を奏し、聖遺物の公開はさまざまな奇跡を引き起こし、多くの巡礼者が押し寄せることになる。同世
紀後半とりわけ一〇九〇年代以降、マグダラのマリアは聖マドレーヌ大聖堂Basilique Sainte-Madelaine の守
護聖人として多くの民衆の信仰を集め、サンティアゴ・コンポステーラ巡礼の「サン・ジャックの道」(Les
chemins de Saint Jacques) のペリグー Perigueux を通るルートの起点となった。
 一〇五〇年教皇レオ九世LeoⅨ(在位一〇四九~五四)がジョフロワ修道院長に宛てた書簡が残ってお
り、その中にヴェズレー修道院を「救い主と聖母、ペテロとパウロ、マグダラのマリア」に捧げられた修道
院であるという記述がある。このように教皇のお墨付きを得たばかりか、多くの寄進を受けて広大な領地を
持つようになったヴェズレー修道院は、一〇九六年、当時のアルトー修道院長l'abbe Artaudが新しい聖堂の
建設に着手し、一一〇四年には完成させた(ただし、工事費用の負担は地域住民の肩に重くのしかかり、一
一〇六年に発生した暴動で修道院長が殺害されている)。また、一一二〇年には犠牲者一一二七人を出す大
火災が発生したが、ナルデクス(前室)を延伸する改築がなされ、一一三二年には教皇インノケンティウス
二世InnocentiusⅡ(在位一一三〇~四三)によって聖別されている(一一三八年完成)。ヴェズレー修道院
の繁栄を示す例は多い。例えば、一一四六年の復活祭の日(三月三一日)には聖ベルナールが第二回十字軍
を勧説しているし、一一六六年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが教会に対する支配強化を図るイ
ングランド王ヘンリ二世HenryⅡ(在位一一五四~八九)を批判してその支持者を破門し、英王自身の破門
も辞さないと言明したのもこの修道院でのことである。また、イングランド王リチャード一世RichardⅠ(the
Lion-Hearted在位一一八九~九九)と仏王フィリップ二世PhilippeⅡ(Auguste在位一一八〇~一二二三)が
三ヶ月間滞在し、合同軍を率いて第三回十字軍に出発したのもヴェズレーからである。注⑮
 しかし有名になるにつれて、パレスティナから遠く離れたヴェズレーになぜ聖女マグダラのマリアの遺体
があるのかを合理的に説明して、巡礼者たちを納得させる必要が出てくる。そこで考案されたのが、聖母マ
リアをはじめ多くの聖女たちのカマルグ上陸とサン・マクシマンからの移葬という物語である。十二世紀後
半に編まれたヴェズレー修道院の公式年代記によれば、サン・マクシマンに聖女マグダラのマリアの遺体が
あることを知ったヴェズレー修道院長と貴族ジラールGirart de Roussilon(八一〇頃~八七七)が修道士バ
ディロンを派遣し、この修道士が危険を冒して聖女の遺骨(頭蓋骨)を盗み出し、ヴェズレー修道院へ移葬
したという訳である。ヴェズレー修道院が案出したこの物語は、聖女たちのカマルグ上陸という伝承を生み
出しただけでなく、聖女マグダラのマリアの本来の墓所とされる聖堂 (La basilique de Sainte Marie-Madeleine
de Saint-Maximin-la-Sainte-Baume) の名前にもなっている聖マクシミヌスという聖人を創出し、ヴェズレー
に対抗したオータン司教座聖堂にラザロの遺体を出現させ、タラスコンにマルタの遺体を出現させる結果と
なったのである。また、この物語は、当時流布していた所謂「ジラール・ド・ルシヨン伝説」を移葬と結び
つけ、物語性と信憑性を高めることになり、『聖ヤコブの書』などにも採用された。一二六五年には聖遺物
の検認が行われ、ヴェズレー修道院に安置されていた棺の中からマグダラのマリアの名前を記した書類が発
見されたと発表している。
 ところが一二七九年に大事件が発生する。聖女マグダラのマリアの聖遺物争いで巻き返しを図るプロヴァ
ンス側が、ナポリ王シャルル二世Charles II d'Anjou立ち会いの下、エクス大司教区のサン・マクシマン修道
院のベネディクト会士たちによって古い地下礼拝堂から聖女マグダラのマリアの遺体が発見されたと発表し
たのである。聖女の遺体とともに由来を記した書類も発見され、そこには「サント=ボームの人々は、イス
ラーム教徒による破壊を恐れて、予め聖女の遺体を別人の遺体とすり替えていた」と記されていた。すなわ
ち、今回見つかったのが「真正の遺体」であって、ヴェズレーの修道士が当地から盗み出したと主張する遺
体は替え玉だったという訳である。聖女の遺体が発見されるや否や、サン・マクシマンでは奇跡が続発し、
その真正性を裏付けることとなった。
 しばらくの間、ヴェズレー修道院とサン・マクシマン修道院は、それぞれ自らの正統性を主張し合ってい
たが、やがて形勢はヴェズレーが不利になる。何故なら、ナポリ王シャルル二世は仏王ルイ九世LouisⅨ
(Saint Louis在位一二二六~七〇)の甥であり、プロヴァンス伯や両シチリア国王を兼ねる実力者だったか
らである。一二九四年、シャルル二世が支配するナポリ王国で教皇に選出されたボニファティウス八世
Bonifatius VIII(在位一二九四~一三〇三) は、その翌年にサン・マクシマンの遺体こそが「真正の」聖女
のものであると宣言し、以後、ヴェズレーの命運は断たれることになった。注⑯
 人間は弱い存在である。イエスの受難に厳格な父たる神の存在を認め、父と子と聖霊の栄光を讃える気持
ちに偽りはないけれども、それだけでは満たされないものがある。それゆえ母親のように柔らかく包み込ん
でくれる聖母マリアに対する憧れがあった。ひたすら無名で従順で、慎ましく禁欲的に生きた処女が天に上
げられて女王になるというマリア戴冠は、多くの人びとに感動を与えた。また、キリストへの敬虔な奉仕に
よって瞑想的生活の理想と見なされた聖女マグダラのマリアは、隠修士としての後半生が用意され、聖人崇
拝と聖遺物崇拝とを結びつける格好の材料を提供することになった。こうして聖母マリアや聖女マリア・マ
グダレーナの伝説は、古ゲルマン以来の土俗信仰とローマ=カトリック教の聖遺物崇拝とを結びつけ、キリ
スト教が新たな地平を切り開く役割を果たしていったのである。特に十一世紀以降は、西ヨーロッパのキリ
スト教を特徴づけている宗教的不安が女性的存在の重要性を高めていった。
 十六世紀フランスの神学者ギヨーム・ポステルGuillaume Postelによれば、人間の魂には男性原理(アニ
ムスanimus)と女性原理(アニマanima)が存在し、男性の魂のなかにも女性原理が存在すると言う。男は
より弱い性である女にひかれることで生のベクトルが下に向くのに対して、女はより強い男という性にひか
れることで、より高いものへ自分を導き自己実現を果たそうとするベクトルが働く。したがって、発展や完
成の原動力は、男へと向かう女のうちにあるというわけである。父なる神に対する子なるイエスも、教会も、
聖人たちも、その意味ではみな「女性」に相当し、自らを空しくして父なる神を目指すものに他ならない。
新約聖書の福音書に描かれたイエスの物語は、旧約聖書の男性預言者の時代(ユダヤ的男性社会)の終焉を
示しているが、どうしても男性原理から離れられない弱みが残っていた。その不完全な「女性原理」を補完
したのがマリア信仰であり聖女マグダラのマリアを通した祈りであった。こうして、キリスト教は、聖人・
聖遺物崇拝という衣を身につけて、静かに、そして人びとの暮らしの奥深くまで浸透していったのである。
 
【参考文献】
① 第一章は、荒井献・佐藤研責任編集『新約聖書』全五巻:第一分冊「マルコによる福音書」・「マタイ
 による福音書」、第二分冊「ルカ文書」、第三分冊「ヨハネ文書」、第四分冊「パウロ書簡」、第五分冊「パ
 ウロの名による書簡、公同書簡、ヨハネの黙示録」やヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』全四巻(前
 田敬作・今村孝訳)を基礎とし、竹下節子『聖母マリア』、田辺保『フランスにやってきたキリストの弟
 子たち』、岡田温司『マグダラのマリア』、高草茂『プロヴァンス古城物語』等を参考にして整理した。
 もちろん、異説が多いのは承知している。また、福音書における「マリヤ」は、本稿では統一して「マリ
 ア」と表記している。
② Michael Mitterauer, La continuite des foires et la naissance des  vulles,p711-34. 拙稿「古ゲルマンの土俗
 信仰とキリスト教」(『西欧初期中世社会の研究』所収)一二一頁引用
③ 青山吉信『聖遺物の世界』六頁参照
④ 渡邊昌美『中世の奇蹟と幻想』四二頁より引用。渡邊昌美「奇蹟と聖遺物」(『ヨーロッパ身分制社会
 の歴史と構造』所収)六八一~六八二頁、青山前掲書六~九頁、岡﨑前掲論文一二一~一二二頁参照
⑤ H.Delehaye, Les origines du culte des martyrs.2 edition.Bruxelles,1933.  岡﨑前掲論文一二二頁参照
⑥ 渡邊前掲論文六七八頁、青山前掲書十一~十四頁参照
⑦ 渡邊前掲論文六七一~六八六頁、岡﨑前掲論文一二一~一二七二頁参照
⑧ 渡邊前掲論文六八六~六九〇頁・「巡礼総論-奇跡、聖者、聖遺物、そして巡礼-」(歴史学研究会編
 『巡礼と民衆信仰』所収論文)三六~四四頁、岡﨑前掲論文一二一~一二七二頁、C・ドウソン『中世の
 キリスト教と文化』(野口啓祐訳)五九~六七頁・一六 四~一六六頁参照 Christopher Dawson,Medieval
 Religion,London:Sheed and Ward,1934 Medieval,Christianity,London:Burns And Oates,1924.
⑨ 今野國雄『修道院』四四~五一頁・『西欧中世の社会と教会』八八~八九頁、渡邊前掲論文七三~七四
 参照
⑩ 青山前掲書十六~十七頁参照
⑪ 青山前掲書二五~二八頁参照。ドイツ宣教に献身し殉教したベネディクト会修道士ボニファティウス 
 Bonifatiusは、七二三年、ガイスマール近くで雷神トールの聖なるオークを切り倒して異教の神の無力さ
 を実証した。これは、民族大移動という大きな変化の中で、ゲルマン固有の社会組織や宗教が解体過程に
 入っており、キリスト教が入り込む隙間を発見したことを示している。
⑫ 半田元夫・今野國雄『キリスト教史Ⅰ』二九一~二九七頁参照
⑬ 青山前掲書二八~三二頁、岡﨑前掲論文一一四~一二一頁参照
⑭ 渡邊「巡礼総論-奇跡、聖者、聖遺物、そして巡礼-」四九~五三頁参照
⑮ 渡邊「巡礼総論-奇跡、聖者、聖遺物、そして巡礼-」四九~五九頁参照
⑯ 田辺前掲書一二一~一七八頁、岡田前掲書三〇~四二頁参照
⑰ 竹下前掲書一四九~一五一頁、ウィリアム・J・ブースマ『ギヨーム=ポスタ ル-異 貌のルネサン
 ス人の生涯と思想 -』(長谷川光明訳)一〇三~一七二頁参照
 William James Bouwsma,Concordia Mundi: The Career and thought of Guillaume Postel(1510-1581). Cambridge,
 Harvard University Press,1957.
  一方、中世民衆の信仰について研究したR・マンセッリは、民衆は「キリストの啓示の〈ことば〉によ
 って与えられる諸事実を、・・・至高の権能によって保証された真実として受け容れ」るとして、「論理
 的事実よりも感情的な事実に継続して優越が認められることになり、先在する伝承が確としてひき続き変
 容と適合をみせつつ、知的な省察に由来する指示や禁止を越えたある現実(リアリティー)として続くこと
 になる」という。それ故、彼等は聖職者から教えられる複雑な教義から信仰に入るのではなく、個人的な
 救済の必要、すなわち保護や援助、慰めの要請などを表現する宗教的世界に生きていたという事実にも留
 意する必要があるという。R・マンセッリ『西欧中世の民衆信仰』(大橋喜之訳)二八頁参照
 Raoul Manselli,La Religion Populaire Au Moyan Âge,Problèmes de méthode et ďhistoire, Institut ďétudes   
 médiévales Albert-le-Grand,Montréal,1975.

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December 19, 2011

チェコスロヴァキアの歴史 4

4.フス主義革命運動
 (1)フス主義運動の原因
  ①15世紀初頭の社会的矛盾
・封建的土地所有者と従属的農民の対立
   ・貨幣経済の発展(都市への人口集中)
    →1)封建領主と「王領の町」の対立 
     2)富裕市民層(多くはドイツ国籍)とギルドに組織された零細手工業者(親
       方)の対立 
     3)親方と渡り職人の対立  4)上級貴族と小さな地主(下級貴族)の対立
②教会に対する反感
・教会ヒエラルキーの上層部(ほとんどは封建貴族層・富裕市民層出身)へ富が集
    中→下級貴族・下位聖職者に不満拡大
・贖宥状(免罪符)販売
 │*11世紀:カトリック教会は, 信徒の罪の中で告白と聖職者の赦罪宣告なしですむ暫定的罪│
 │  に対して,教会の定める一定条件の苦行に従えばその罪は消滅するとした。│
 │ 1096年.十字軍勃発に際し, 教皇ウルバヌス2世は従軍を苦行と認め, 非従軍者には金品の│
 │  寄進による罪業消滅を許した。│
 │ 1300年. 教皇ボニファティウス8世は, 苦行の中にローマの聖ペテロ教会・聖パウロ教会│
 │  への参詣・寄進を加えた(「聖年」宣言)。しかし, 参詣・寄進とも多くはなかった。│
 │ 1393年. 教皇ボニファティウス9世が贖宥状の地方出張販売を許可。ローマ参詣と同じ効│
 │  力を持つとして, 指定日時内に参詣寄進した証に符だ(受取証)を交付した。│
 │ 1457年. 贖宥状は死後の浄罪界にまで及ぶと宣言。→市場拡大のために地方での委託販売│
 │  を開始。│
③民族的対立(ドイツ人・チェコ人)
 (2)フスの影響と民衆の反対運動
  【ヤン・フスJan Hus, Johannes Huss, John Huss(1370頃~1415.7.6)】
 │・プラハの南南西75kmにあるフシネツで誕生(Jan Husは「フシネツのヤン」の意味。jan
 │ Husinecký, ラテン語ではJohannes de Hussinetz)。フスの両親は貧しいチェコ人。│
 │・1380年代半ば, カレル大学入学。親友ズノイモのスタニスラフStanislav ze Znojmaとは後│
 │ に対立。│
 │・1393年学術学士号授与 1394年論理学士号授与 1396年学術修士号授与 1398年教授│
 │・1400年聖職者任命 1401年哲学部長任命 1402年カレル大学学長任命│
 │・1402年ベトレーム礼拝堂説教師:ベトレーム礼拝堂(1391年建立, ベツレヘム教会)にお│
 │ いてチェコ語で説教│
 │ *1382年ヴァーツラフ4世の妹アンナがイングランド王リチャード2世〔位1377~1399│
 │  プランタジネット朝(1154~1399)最後の国王。エドワード黒太子の子〕と結婚。│
 │  〔英〕1215年マグナ=カルタ(大憲章)→1265年シモン=ド=モンフォールの議会→1295│
 │    年模範議会→1341年両院制(上院〔貴族院〕・下院〔庶民院〕)│
 │ *1401/1402年ウィクリフ〔英, オックスフォード大学〕の哲学書『プラハのヒエロニムス』│
 │  が伝わる。│
 │・1403年ウィクリフに賛同する55論文に関する議論禁止│
・1403年大司教ズビニェク・ザイーツ就任
  ・1405年フス, 説教者(synodical preache)として教会の乱脈を批判し, 貧者への搾取を
    弾劾→ 解任
  ・1409年クトナー・ホラ勅令
    ①ヴァーツラフ4世は教会大分裂(シスマ)で中立政策。しかし,大司教はローマ
     教皇グレゴリウス12世GregoriusⅫ〔位1406~12〕に忠実で, 大学でも国王に
     忠実なのはベーメン人のみであった。
    ②勅令:大学の諸問題に関する採決で, チェコ国民団3票, その他の3国民団1票
     とする。
     →多くのドイツ人教授たちがプラハ大学から去り,ライプツィヒ大学創立。
    *チェコ国民団:ウィクリフ支持派
バイエルン国民団・ザクセン国民団・ポーランド国民団:反対派
・大司教ズビニェク・ザイーツ, ピサ選立教皇アレクサンデル5世AlexanderⅤ〔位 
    1409~10〕拝謁→ウィクリフ派がベーメンの聖職者に騒動を持ち込んでいると
    告発。
  ・1409年(12.20)教書布告:大司教権限を強化し, ウィクリフ主義に法的手続き(ウィ
               クリフの著述を廃棄し, 教義の無効, 伝道禁止)
・1410年フス, 教皇に訴えるが, 全てのウィクリフの書物・写本が焚書。フスとその
    支持者追放。→フス, ベトレーム礼拝堂で説教→プラハの教会閉鎖。
  ・1411年大司教ズビニェク・ザイーツ死去
   1411年ピサ選立教皇ヨハネス23世Johannes XXIII〔位1410~15〕, ローマ教皇グ
    レゴリウス12世を庇護するナポリ王国(ラディズラーオ1世)を制圧するため
    十字軍派遣。
    →その軍事費を賄うため贖宥状を販売(この時はヴァーツラフ4世も教皇支持)。
・1412年フス, 論文(Quaestio magistri Johannis de indulgentiis)発表:内容はウィクリフの
    著書(De ecclesia)最終章とフスの論文(De absolutione a pena culpa)からの引用。教会の名の下
    で剣を挙げる権利は教皇や司教にもない。敵のために祈り, 罵る者たちに祝福を与えるべきであ
    ると主張。人は真の懺悔のために赦しを得るのであって, 金で贖(あがな)うことはできない。
*フスは貴族の保護を求めてコジー・フラーデク(チェコ南部)の城に転居。
■フス主義民衆運動の開始(1412)
・民衆がヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテインVok Voksaz Valdstejnaに導かれて
    教書を焼き捨てる。
   ・贖宥状販売を批判した職人3名斬首刑:フス派最初の殉教者
・教皇代理アルビック(大司教), フスに対して教書反対を止めるよう説得→失敗
・アルビック大司教, 枢機卿の命令を受けてフスを拘留(フス派の教会を破壊)→
    プラハから追放
  ・1412年(2/2)国王ヴァーツラフ4世, 宗教会議召集(プラハの大司教宮殿)
   ・フス本人の参加は認められなかったが, 自らの要求は伝えた。「わが国の教会問題に関して他国
    と同じ自由を持つべきであり, 何を認めて何を認めないかはわが国自身が決定すべきである。」
    (ウィクリフ『説教論』)。オーストリア近くのコジ-・フラーデク(ツィーゲンブルクZiegenburg)
    で論文執筆。
    ・国王, カトリックとフス派の和解を模索→失敗
・1413年ローマで評議会開催:フスの著作は異端とされ, 焚書命令
・1414年(11/1)コンスタンツ公会議召集:ジギスムント帝Sigismund(神聖ローマ皇
    帝位1411~1437)
①ジギスムント帝は会議中の身の安全を保障してフスを招待。→フスは遺書を認め
    て出立(1414.10.11)
②フス, コンスタンツ到着(11.3)→「異端者フスの相手はニェメツキー・ブロト
    ミハルMichal z Německého Broduである」と告示(11.4)→フス, 聖堂参事会員の
    邸宅からドミニコ修道院地下牢に移送(12.8)
③教皇ヨハネス23世JohannesXXⅢ(在位1410~1415),司教3名による委員会に
    フスの予備調査委任(12.4)→告発者側の証言者3名尋問(フスには証言者認めず)
   ④教皇ヨハネス23世, 退位を迫られてプラハから逃亡→廃位(1415)→フスの身柄は
    コンスタンツ大司教の居城(ライン川沿いのゴットリーベン城)に送付。知人と
    の連絡を絶ち, 昼夜を問わず鎖に繋いで73日間幽閉。
⑤公判のため聖フランシスコ会の修道院に移送。
    (6/5)初公判:フスはウィクリフを崇拝していることを認めたが, ウィクリフの聖
    餐論や45箇条教義を擁護したことは否定。→(6/8)最終公判
   ⑥(7/6)判決:大聖堂で荘厳なミサ・聖餐式→ローディの大司教が異端撲滅に関する
    説教→フス裁判の報告→聖職剥奪(フスの頭に「異端の首謀者」と書かれた高い
    紙帽子)→コンスタンツの市門の前で焚刑
     ・フスの告解を認めず。死刑執行人は衣類を脱がし, 両手を後ろ手に縛り, 首を柱に結びつけ
     首の高さまで薪と藁を積み上げた。最後に皇帝の家臣フォン・パッペンハイム伯が主張を撤回
     して命乞いをするよう勧めたが, フスは「私が間違った証言者に告発されたような教えを説い
     ていないことは, 神が知っておられる。私が書き, 教え, 広めた神の真実とともに, 私は喜んで
     死のう。」と述べて断った。遺灰は近くのライン川に捨てられた。
  ■聖餐(せいさん):イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。聖餐は主に
   西方の教派で使われる訳語だが, カトリック教会では「聖体拝領」, 「聖体の秘跡」と呼ぶ。新約
   聖書によれば, 「最後の晩餐」の際にイエスはパンを取り, 「これがわたしのからだである」とい
   い, 杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたという。カトリックと正教会
   のキリスト教徒たちは聖餐をサクラメント(秘跡)として行ってきたが, 宗教改革以降のプロテス
   タント教会は礼典という呼称を用いる。これは, 「神の救済は人間の行いによるのではなく, 信仰
   のみによる。」という考え方から来ており, 聖餐の執行そのものを救いの要件とは考えないためで
   ある。そして, 多くは聖餐を共同体の信仰を示すための儀式であるとしている。なお, フスの時代
   のローマ教会は信者に対してパンだけを与えていたが, フス派は聖杯(ワイン)をも認めて聖職者
   との差を否定した。
    カトリック教会では聖体の秘跡, すなわちパンとワインがイエスの体と血に変わること(聖体変
   化)とそれを信徒が分け合うこと(聖体拝領)がミサの中心である。ただ, パンといっても「御体(おんからだ)」
   と呼ばれるホスチア(薄いウェハース)だけを信徒が拝領するのが一般的である。「御血(おんち)」と呼ば
   れるワインの拝領も行われることもあるが, カリスと呼ばれる杯から飲むか, 聖体をワインに浸し
   て食べるかのどちらかの形で行われる。
   化体説:聖餐の秘蹟においてパンがキリストの肉に, 葡萄酒がキリストの血に変化するとする説。
・民衆運動の過激化 
   ・1416年イェロニーム・プラシュスキー(フスの支持者), 焼き殺される。
・群衆が小さな丘に集結→ターボルの丘, フラデッツ・クラーロヴェーの耕地, ムラ
               ダー・ヴォジツェの羊
・預言によって救済を得る5つの選ばれた町
    →プルゼン, クラトヴィ, ジャテッツ, ロウニ, スラニー
 (3)フス主義運動の全盛期(1419~1422)
・1419年(7/30)プラハの転覆
急進的説教師ヤン・ジェリフスキーに率いられた民衆が市役所襲撃。市民階級出
    身の評議員を窓から放り投げ, 新役員を選出。
・1419年(8/16)ヴァーツラフ4世逝去(1400年に皇帝を廃位された後も,ベーメン王
    としてヤン・フスとその支持者を保護)
    →新市街の貧民が修道院や裕福な司祭の館を襲撃。市役所から高位聖職者, 領主
    (一部), 裕福なドイツ人市民を追放。
*上級貴族:混乱を利用して教会や王の領地を奪取。過激化した民衆を警戒。
*富裕市民層(チェコ人):民衆運動に反対。
・ジギスムント帝(神聖ローマ皇帝位1411~1437, チェコ王位1419~1437)に対す
    る反感
・全フス軍の指揮官ヤン・ジシュカ・ス・トゥロツノヴァ(南チェコの自作農出身)
・青年期に自作農から土地を取り上げたロジュンベルクの領主への抵抗運動参加    
     ・1410年ポーランドとドイツ修道士団との戦争に参戦→グルントヴァルトの戦い(ポーランド
      軍勝利)
     ・「片眼の指揮官」として有名
*1420年ターボルTáborの設置:ヴルタヴァ川の支流であるルジュニツェ川沿い
    の高台に建てられた急進派(ターボル派)の軍事拠点(南ベーメン州)。スメタ
    ナは, 連作交響詩「わが祖国」の第5曲でターボルを扱っている。
・フス派軍の士気:合唱歌「誰ぞ, 神の兵士なるは」。厳格な組織・規律。戦車を
             利用した移動式防壁。鉄砲。
・千年王国論(Millenarianism, Millenarism, キリアズムChiliasm ):キリスト教終末
 論の一つ。終末の日が近づき, 神が直接地上を支配する千年王国(至福千年期)
 が間近になったと説く。千年王国に入るための条件である「悔い改め」を強調
 する。また, 至福の1000年間の終わりには、サタンとの最終戦争を経て最後の
 審判が待っているとされる。ヨハネの黙示録20章4節~7節。
・ターボル派の人々は家財の全てを持って集まり, 広場に設置された木桶に共有の
 動産を入れ, 皆で消費した。指導者層は支配階級の排除, あらゆる権力の民衆へ
 の移譲, 不動産の共有などを要求した。
・教会堂・聖画・聖像・祭壇などは不要。行列祈祷式, 鐘, 式服, 断食,断食,懺悔,
     祈祷, 死者のための犠牲を放棄。教会の祭日を廃止。
・無学な民衆(靴屋・仕立屋・鍛冶屋など)や女性が説教師や司祭となる。
・プラハの過激派(指導者ヤン・ジェリフスキー)
  ・1420年(7.14)フス派連合軍, ジギスムントの十字軍に勝利(ヴィートコフの丘〔現
     ジシュコフの丘〕頂上, ヴィシェフラート城下)→フス戦争開始
・1421年チャースラフ会議Čáslav/Tschaslau:ジギスムント帝をチェコ王位から降ろ 
 し, 行政委員会(20名:上級貴族5名・下級貴族7名・市民階級8名)を設置。
・フス派の内部対立:富裕市民層とヤン・ジェリフスキー(貧民層)・ターボル過激
             派の対立
     ↓   過激派の代表的人物:マルティン・フースカ, ペットル・カーニシュ
   1421年過激派を追放:信念を曲げない者は逮捕・火あぶり→貧民層の発言力低下。
   ターボルは, 零細市民と小地主(下級貴族)が優勢となる。
  ・1422年プラハで富裕市民層が権力掌握→ヤン・ジェリフスキーとその仲間9名を暗殺
       民衆蜂起→反動勢力が復権      
 (4)フス派の民族防衛戦争(1422~1434)
・1422年ジシュカ, ジギスムント軍をクトナー・ホラで撃破
     →ニェメツキー・ブロッド(現在のハヴリーチェクーフ・ブロッド)で壊滅
・ジシュカ, ターボルを出て北東チェコに「小ターボル」建設(フラデッツ・クラー
   ロヴェー)
・1424年マレショフの戦い(クトナー・ホラ近く):プラハ市民軍を撃破
・1424年(10/11)ジシュカ, プシビスラフで急死(ペスト)
・以後, ジシュカ軍は「みなしご」と呼ばれる。後継者は「禿の」大プロコプ
・1426年ターボル派・みなしご・プラハ人連合軍, ドイツ封建領主の遠征軍をウース
   ティー・ナド・ラベムで撃破
・1427年タホフでイギリス人枢機卿指揮の十字軍を撃破,
*フス派軍の遠征:スロヴァキア, ハンガリー, オーストリア, ドイツ, シュレジェン,
           バルト海沿岸→フス派の思想を「宣言文」の形で配布
・1431年ドマジュリツェの勝利:第5回十字軍(ローマ教皇の名代ユリアーン・ケサ
                  リーノが指揮)敗走
・バーゼル教会会議(教皇マルティヌス5世MartinusⅤ〔在位1417~31〕が召集)
    ①コンスタンツ教会会議の議事(教会改革)を続行しようとしたが, 一部に「公
     会議首位説」が出たため, 教皇により散会。
    ②大プロコプなどフス派も招待→フス派と枢機卿との議論の間に「領主軍団」結
     成(カトリックの領主貴族, 聖杯派貴族, プラハ旧市街の富裕市民)
・1434年(5/30)リパニの戦い:ターボル・みなしご連合軍, 領主軍団に完敗
    →ターボル派壊滅(大プロコプなど指導者は戦死。その他は捕らえられて火あぶ
     りの刑)。まもなく都市も神聖ローマ皇帝=ボヘミア王の統制下におかれた。
・1436年穏健フス派とカトリック教会との間に和解成立→フス戦争終結
  ・1436年ジギスムント帝(神聖ローマ皇帝位1411~1437, チェコ王位1419~1437),
    チェコ王として迎えられる。
①貴族・市民階級に土地財産の永久所有を保証
②バーゼル協定(1436):【ローマ教会】チェコ領内で奪われた封建領主・市民階級
     の不動産を返還させることに関して了解。ミサにおける聖杯という例外的権利
も許可(但し守る気はなかった)。
    ③ヤン・ロキツァン(聖杯派)をプラハ大司教として認定することを拒否
1437年ターボル派隊長ヤン・ロハーチュ・ス・ドゥベー, クトナー・ホラ近くのシオ
   ン山要塞で捕縛(拷問の上, プラハで仲間50名以上とともに処刑)。
1438年オーストリア大公アルブレヒト5世, オーストリア皇帝(皇帝アルブレヒト2
   世AlbrechtⅡ)・ハンガリー王・チェコ王に即位(在位1438~39)
   ・ハプスブルク家, 130年ぶりに皇帝位を回復
・ハプスブルク朝(1438~1740, ハプスブルク・ロートリンゲン朝1745~1806)

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November 19, 2011

チェコスロヴァキアの歴史 3


3.封建社会の繁栄(13~14世紀)
 (1)経済的・社会的変化
①森林地帯への入植化(13C~14C前半)→生産力の向上
*大開墾時代(11C後半~13C前半, シトー派修道会が積極的に取り組む)が中欧
     に波及
*封建領主は入植者に土地の「世襲的借地権」を保証(契約された領地民として
の義務を履行すれば割り当て地を取り上げない)。
*入植者に前払金zakup免除・・・前払権(pravo zakupne, nemecke pravo)
*村を新設:村長は最も裕福な者。下級裁判権・警察権・処罰権を持つ。
②三圃制度:耕地の1/3を常に休ませて, 地力の回復を図る方法。従来の二圃制度より生産力は高
          まったが, 種播き・収穫は各耕区ごとに同時に行わなければならなかった。
 │年 度│第1年度│第2年度│第3年度│第4年度│
 │季 節│春 夏 秋 冬│春 夏 秋 冬│春 夏 秋 冬│春 夏 秋 冬│
 │耕地A│ ● → ○ 休 閑 期   ●  →    ○・・・・・・ ● →  ○ 休閑│
 │耕地B│ ●  →   ○・・・・・ ● →  ○ 休 閑 期  ● →│
 │耕地C│ → ○・・・・・ ● → ○  休 閑 期   ●  → ○・・・・・│
 ●播種期  ○収穫期  →栽培期  ・・・放牧・犂耕期
     春播き(夏作物・春耕地):大麦・エン麦・豆類
     秋播き(冬作物・秋耕地):小麦・ライ麦
③鉄製農具の使用(鉄製犂)
④金・銀・銅の採掘・・・深い地下からの採鉱(馬力を動力源とした巻き上げ機)
ヴァーツラフ2世の鉱山法(1300年頃):鉱山事業関係法を統一的に調整
  ⑤銀貨プラハ・グロシュの鋳造(1300年):高額貨幣の鋳造
クトナー・ホラの王立造幣所
   金貨ドゥカーティ(フロレーニ)の鋳造(14世紀半ば)

⑥封建的地代の変化(生産物地代→貨幣地代):~14世紀末
前払金の金銭形式一般化

貨幣経済の伸展:封建領主の「地主」化。奴隷的隷属の解消。
⑦封建社会の変化
・貴族階級内部の分裂→領主貴族pansky:広大な土地を所有する封建領主
              騎士(下級騎士vladycky):武装騎士隊の構成要素
⑧都市の発達→古い町(国王から特権)・新興都市
   ・市場開設権
   ・1マイル権(都市の周辺1マイル以内では何人たちとも職業を営むことを許さない権利)
・ビール醸造権, 都市の周囲を防壁で囲う権利, 都市民としての権利
   ・自治権, 都市の紋章・印章に関する権利
   王の都市(kralovske mesto):王領地に置かれ, 国王から広範な特権を与えられた都市
    ・鉱山都市(イッフラヴァ, クトナー・ホラ, バンスカー・シュチアヴニツァ, クレムニツァ)
・特権的身分(privilegovany stav):貴族・騎士・聖職者
    市民身分(mestsky stav)
臣下の都市
⑨ギルド(cechy, 職業別組合)の成立(14世紀初め)
   ・1307年コシツェにおいて毛皮兄弟団創設
   ・商人ギルド(merchant guild, Kaufmanngilde):相互扶助・市場独占を目的に結成
富裕市民層が市政を掌握・・・参事会が都市生活を管理, 独自の法秩序を形成(?)
同職ギルド(craft guild, Zunft):手工業の親方たちが職業別に結成
1)相互扶助, 自由競争の禁止, 生産・労働時間・価格の統制, 技術保持
2)徒弟制度:親方(ミストル, マイスター), 職人(渡り職人), 徒弟
3)富裕市民層と職人の対立→ツンフト闘争(民族的対立の様相)
1381年, ルドヴィーク1世, ジリナの町議委員はスラヴ人とドイツ人を同
       数にするよう命じた勅令発布
・渡り職人=無産市民(plebejec)
不動産を持たないだけでなく, 多くは自分の仕事の道具もない, 日雇いの助手労働者
 (2)封建的専制の確立
①チェコ王国の権力拡大:プシェミスル朝(c.880~1306)
   ・プシェミスル・オタカル1世(在位1192~1230)
     *神聖ローマ皇帝の座をめぐってヴェルフェン家と争っていたシュタウフェン
      家を支援
     1212年, シチリア金印勅書(Zlata bula sicilska)発布:チェコ王国の自由拡大
1)今後, チェコの君主は国王の称号を名乗ること。
      2)チェコ王の選出はチェコ国内で行われ, 神聖ローマ皇帝はこれを追認す
        るだけであること。
      3)チェコ王はチェコ国内の司教を任命する権限を持つこと。
・フリードリヒ2世はシチリア王であり, 文書にその印章が付けられているために「シチリ
       ア金印勅書」という。
 │ローマ教皇インノケンティウス3世InnocentiusⅢ│
 │  (在位1198~1216, 教皇権の絶頂期)│
 │神聖ローマ皇帝フーリドリヒ2世(在位1215~1250)│
 │ 1198年, シチリア王(在位1198~1250):パレルモで統治│
 │ 1215年, 教皇インノケンティウス3世が独帝オットー4世廃位│
 │ 1224年, ナポリ大学創立│
 │ 1225~1240年, イェルサレム王→第5回十字軍(1228~29)│
■婚姻政策:最初の妻アデーレ, 二度目の妻コンスタンツェのと間に13人の子ども
            成長した娘たちはデンマーク王やケルンテン大公など外国の君主と結婚
     アネシュカAnežka(ドイツ名アグネス1211~1282)
・3歳でシトー派修道院に入る(現ポーランド領のシレジア地方トシェブニツァ)
大公妃ヤドヴィガ(シトー派修道院創設者。後に聖人)が養育。
*ヤドヴィガはモンゴル軍とのレグニツァ(独名リーグニッツLiegnitz)
        の戦いで落命するシレジア大公ヘンリク(独名ハインリヒ)の母親。
・3年後, プレモントレ会修道院へ移動(チェコ北部のドクサニ)
・8歳の時, オーストリア大公レオポルトの宮廷に移動・・・皇帝フリードリ
 ヒの息子ハインリヒと結婚する下準備。プシェミスル・オタカル1世は持参
 金3万マルク準備→失敗(ハインリヒはオーストリア大公の娘マルガレーテ
 と結婚) *ハインリヒは後に父親と対立し, 独王の位を奪われ幽閉
・英王ヘンリー3世との結婚を画策→失敗(原因不明)
・1230年プシェミスル・オタカル1世死去
   ・ヴァーツラフ1世VaclavⅠ(在位1230~1253)
     *〔伝記〕皇帝フリードリヒ2世がアネシュカに求婚→アネシュは誰とも結婚
       の意志がなく,教皇グレゴリウス9世に修道院入りを伝える→兄ヴァーツラ
       フ1世が皇帝に伝える。→皇帝から聖遺物その他の贈り物。
  ■托鉢修道会
   ①聖フランチェスコ修道会:1209年聖フランチェスコがアッシジ〔伊〕に
              設立(1223年教皇公認)
   ②聖ドミニコ修道会:1215年聖ドミニコ〔西〕がトゥールーズ〔仏〕に設
           立(1216年教皇公認)
・1231年アネシュカ, プラハに施療院建設(土地は母コンスタンツェ提供)
ミノリート派修道院建設(フランチェスコ派)→聖アネシュカ修道院の始まり
・1234年アネシュカ, 修道女となる(院長。まもなく退任となるが実質的統率
者)。式典に国王夫妻・司教も列席。教皇直属の修道院。
・教皇や聖キアーラ(クララ。聖フランシスコの協力者)と文通

  ■モンゴル民族侵入(1241年リーグニッツの戦い, ワールシュタットの戦い)
・ジンギス汗の甥バトゥ率いるモンゴル軍とシレジア公ハインリヒ2世の率
 いるドイツ・ポーランド連合軍との戦い。連合軍が大敗し, ハインリヒは
 戦死。モンゴル軍も多大の損害を受け南東方へ一時撤退。オゴタイ=ハン
 (太宗位1229~41)の病死によってモンゴル軍は引き上げる。
    ワールシュタット=「死体の山」の意。
   ・スロヴァキアとモラヴィアの一部を荒らし, 大勢の住民を奴隷として拉致
・1246年ヴァーツラフ1世の息子ヴラジスラフ, オーストリア大公の姪ゲルト
       ルードと結婚。
       6月オーストリア大公戦死→バーベンベルク家断絶(オーストリア獲得の
       好機)→1247年ヴラジスラフ病死(オーストリア獲得失敗)
     ・1247年暮れ, ヴァーツラフ1世の息子プシェミスル・オタカル(14歳)が父
      王の承諾なしにチェコ王に選出《貴族反乱》→国王, マイセンまで逃亡
     ・1249年国王, 勢力を建て直しプラハ奪回→アネシュカの仲介で親子対立解決
     ・1250年皇帝フリードリヒ2世死去
*生前, ヴァーツラフ1世は, 息子プシェミスル・オタカルをオーストリア統
治者として送り込み, バーベンベルク家のマルガレーテ(かつてドイツ王妃
の座をめぐってアネシュカとライバル関係にあった女性。プシェミスル・オ
タカルよりも30歳以上年上)と婚約。→オーストラリアを押さえた後, 離婚
してチェルニゴフ大公の娘クニグンデと結婚。
・1250年教皇インノケンティウス4世InnocentiusⅣ(在位1243~1254), アネ
      シュカの修道院の男子修道士に真紅の十字架と星を徽章として着用する許可
      →「紅星騎士団」の誕生  *3年後, 旧市街西側に移転(17世紀後半, そ
      の場所に「聖フランチェスコ教会」建設)
     ・1253年ヴァーツラフ1世死去→アネシュカの修道院に埋葬
・プシェミスル・オタカル2世(在位1253~1278)
・教皇との関係を重視:「プロイセン十字軍」を率いてバルト海沿岸まで遠征
 →遠征が契機となってケーニヒスベルク(現カリーニングラード)建設
・開拓により広大な耕地確保。都市の成立。鉱山開発。
・ドイツ王国のライン川右岸地域の国王代理。
 →最大版図(チェコ~オーストリア~スロヴァキアのクライン地方)
1)1273年9月, 選挙侯たちがチェコ王に一切知らせず, スイスの領主ハプス
      ブルク家のルードルフをドイツ王に選出。
      →ルードルフ1世RudolfⅠ(在位1273~91), プシェミスル・オタカル2
       世の領土拡大を不法とみなして裁判。出頭命令無視。→帝国追放の刑宣言
2)チェコ貴族の反抗。ハプスブルク家とハンガリー王が連合。
      →1278年8月28日,マルヒフェルトの戦い
       (モラヴィア平原。プシェミスル・オタカル2世敗死)
     3)一時期, オーストリアに併合される。
       オタ・ブラニボルスキー(未成年の王位継承者ヴァーツラフ2世の後見人)の軍
       隊が掠奪
     *神聖ローマ帝国:大空位時代(1256~1273年, 英仏の傀儡王権)
       ハプスブルク朝(1273~1291, 1298~1308, 1314~1330年)
       ナッサウ朝(1292~1298年)
       ルクセンブルク朝(1308~1313年)
       バイエルン朝(ヴィッテルスバッハ朝, 1314~1347年)
・1282年3月初め, アネシュカ死去(プラハ, 70歳)
*アネシュカは修道院礼拝堂に埋葬されたが, フス戦争の時に行方不明となる。
1879年福者
1989年聖人:教皇ヨハネ・パウロ2世が決定
    ■福者(ふくしゃ)は, カトリック教会において, 死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。
      この称号を受けることを列福という。その後, さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せら
      れることもある。
■聖人は, 殉教者や特に信仰と徳に秀でた死者を教皇の権限によって聖人と宣言し(列聖), そ
      の功徳が信徒の救いに有効であると認め, 崇敬の対象とする。
・ヴァーツラフ2世VaclavⅡ(在位1278~1305)
     1)ポーランド王(1300)・ハンガリー王(1301)・クロアティア王(1301)を
       兼摂。
     2)神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世AlbrechitⅠ(在位1298~1308)と対立
     3)ハンガリー王ラディスラフ4世の跡継ぎオンドジェイ3世逝去(1301):ア
       ルパードフツィ家(998~1301)断絶
       →ローマ教皇庁はカレル・ロベルト(ナポリ分家)をハンガリー王に据え
       ようと画策
     4)ハンガリーの領主貴族(中心はトレンチーン城主マトーシュ・チャーク)
       ・高位聖職者が反抗→聖ステパン(ハンガリー王国建国者シュチェパーン
        1世)の冠をチェコの王子ヴァーツラフ3世に献上
 │■ローマ教皇ボニファティウス8世(位1294~1303)・仏王フィリップ
 │ 4世(位1285~1314), 教会財産課税問題で対立
 │ 1302.教書「ウナム=サンクタム」:“余はカエサルなり, 皇帝なり”
 │ 1302.〔仏〕三部会召集:高位聖職者・貴族・平民(都市代表者)
 │ 1303.〔伊〕アナーニ事件:教皇敗北
   ・ヴァーツラフ3世VaclavⅢ:ハンガリー王位放棄
1306年(7/4), 皇帝位を狙ったオットカル2世の長男がヴァーツラフ3世暗殺 
       (ポーランド出征の際に, オロモウツで殺害)→プシェミスル家男系断絶
  ②ルクセンブルク朝(1310~1437)
・ヨハン(ヤン・ルツェンブルスキー, 在位1310~1346):独王ハインリヒ7世の
    息子
1)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカ・ルツェンブルクと結婚→チェコ王即位
2)チェコに馴染めず, ドイツやルクセンブルク, フランス, イタリアなどを転
       々としながら, 外交と戦争の生涯。シュレジェンなどの領地拡大
3)「外人王」→国内の実権は領主貴族が掌握
・1333年カレルをイタリアから呼び戻し, モラヴィア辺境伯とする。
4)クレシー(クレシュチャク)の戦い(1346)で戦死
        *百年戦争(1339~1453)でフランス側の味方
         ルクセンブルク伯はドイツ王の家臣でありながらフランスとの関係が
         深い。会話はフランス語。
     5)プラハ司教座, 大司教座に昇格
       1344年聖ヴィート大聖堂Katedrála svatého Víta建設開始→完成は1929年
・監督はフランスから呼んだアラスのマシュー(1352年死亡)→ドイツのグ
        ミュント出身のペーター・パーラー
・聖ヴァーツラフ礼拝堂:ヴァーツラフの遺骨・王冠
 南塔(聖ヴィート大聖堂の正面は通常のように西側ではなく, 南側)
        黄金の門
 │■アヴィヨン捕囚(教皇のバビロン捕囚1309~1399)│
 │ 1312.〔仏〕テンプル騎士団解散→全財産をヨハネ騎士団に移管│
 │ 1323.バイエルン国王ルートヴィヒ4世, イタリアのギベリン(皇帝党)援助│
 │ 1324.教皇ヨハネス22世, バイエルン国王ルートヴィヒ4世破門│
 │   ウィリアムのオッカム(オックスフォード大学教授, 唯名論)を教皇庁に召還│
 │   →ルートヴィヒ4世の宮殿に逃亡│
 │   バイエルン国王ルートヴィヒ4世, イタリア遠征→ミラノでイタリア王即位│
 │ 1328.バイエル国王ルートヴィヒ4世, ローマで神聖ローマ皇帝即位(位1328~47)│
 │ 1342.教皇クレメンス6世即位(カレルがパリ滞在中に知遇を得た聖職者ピエール│
 │   ・ロジェ)│
・カレル1世KarelⅠ(位1347~1378)
     =神聖ローマ皇帝カール4世KarlⅣ(位1355 ~1378)
1)ヨハン王の息子。7歳から14歳までパリで養育。生まれたときの名前は
       ヴァーツラフであったが, 仏王シャルル4世の名前をとってカレルとした。
       パリ滞在中にシャルルの従姉妹ブランシュと結婚。
     2)1346年(7/11)ドイツ王に選出(7人の選挙侯のうち5人の票)。
       バイエルン王ルートヴィヒ4世廃位宣言。
     3)1346年(8/26)クレシーの戦い:父ヨハン,仏王を援けてイングランドに敗死
1347年(9/2)チェコ王即位:カレル1世(在位1347~1378)
1350年ヴィッテルスバッハ家から神聖ローマ皇帝の戴冠用式用宝物・聖遺
 物獲得→カルルシュテイン城に保管。年1回, 教皇の許可を得てプラハ
 新市街の家畜広場(現カレル広場)で公開。見物に訪れた人には巡礼の
 証明と贖宥状を付与。
     4)1350年ローマ護民官コラ・デ・リエンツォ(一時クーデターで実権を掌握
        したが, その後追放), プラハの宮廷でイタリア遠征を説く。
        →リエンツォはアヴィニョンからローマに戻り, そこで殺害。
       1354年秋イタリアに向けて出立
       1355年(4/5)皇帝戴冠式(サン・ピエトロ大聖堂):神聖ローマ皇帝カール
        4世(位1355 ~1378)。神聖ローマ皇帝となった最初のチェコ王。
1356年詩人ペトラルカ, プラハ来訪
     5)ベーメン王国・モラヴィア辺境伯領・シュレジェン公国で「聖ヴァーツラ
       フ王冠の諸領邦」(別名「チェコ王冠の諸領邦」)構築。
・モラヴィア辺境伯・シュレジェン(シレジア)大公はチェコ王の家臣
・モラヴィア辺境伯にカレルの弟ヤン・インジフ即位(宮廷ブルノ)
     6)首都プラハは中欧における中心都市(人口3~4万人)
       ・1348年「新市街」建設
       ・要塞都市ヴィシェフラトの整備(王宮や教会の建て直し):ヴルタヴァ
        川右岸の丘の上
       ・「小市街」(マラー・ストラナ):ヴルタヴァ川左岸の城の下
       ・フラチャニ:大貴族の邸宅が立ち並ぶ屋敷町
・カルロフ(新市街南東)に「聖母マリア及び聖カール大帝教会」
       1348年プラハ大学(カレル大学)創建。
・教会の管轄下に置かれ, 学監(最高責任者)はプラハ大司教が兼務
・最初は建物がなかったが, 1360年代に学寮(コレギウム)を整備
・4学部:神学・法学・医学・自由学芸
・4国民団:①チェコ国民団(チェコ及びその東方地域)
      ②バイエルン国民団(ドイツ南部)
      ③ザクセン国民団(ドイツ北部)
      ④ポーランド国民団(シレジア・ポーランド)
       1402年カレル橋完成:ペーター・パーラー着工。
     7)1356年(1/10)ニュルンベルク帝国議会→「金印勅書」発布(1月23条→1
       月31条):聖俗7諸侯(マインツ大司教, トリール大司教, ケルン大司教
       ファルツ伯, ザクセン公, ブランデンブルク辺境伯, ベーメン王)を選帝侯
       とし, 帝国教会政策推進。
 │ 1338.ドイツ選帝侯会議(レンス〔ランス〕Reims, 当時は独領):多数決で選出さ 
 │   れた国王は同時に神聖ローマ皇帝であり, ローマ教皇の許可を必要としない。 
 │1339~1453.〔英仏〕百年戦争
 │■教会大分裂(シスマSchisma1378~1417):アヴィニョン←→ローマ
     8)1377年アヴィニョン捕囚(1309~77)解決→1378年教会大分裂(1378~
       1417)
9)選帝侯たちにチェコ語を学ばせるよう指示。
       スラヴ典礼の復活を企図:「ナ・スロヴァネフ(スラヴ人のための)」修道
       院(ベネディクト派)建立
  *クロアチアから修道士を招いて古代スラヴ語で典礼。
10)在位期間32年間のうちプラハ滞在は9~10年間。
      ・ドイツのニュルンベルクは2年半~3年間(ラウフの城が好み)。
      ・晩年, 北東ドイツのブランデンブルク獲得→ベルリン西方100kmのエルベ
       河畔(タンガーミュンデ)に宮殿建設→1377年引っ越し
・1378年息子ヴァーツラフとともにパリ訪問→(11/29)プラハで死去

・ヴァーツラフ4世VaclavⅣ(位1378~1419)
     ・カール4世の次男(生存者の中では長子)
     ・神聖ローマ皇帝ヴェンツェルWenzel(位1378~1400), ベーメン王(位137
      ~1419), ブランデンブルク選帝侯(位1373~1378), ルクセンブルク公ヴ
      ェンツェル2世(ヴェンセラス2世Venceslas I, 位1383~1419)。
     ・ドイツよりベーメンの統治に力を入れ、ローマ教皇指名の際に仏王シャルル
      6世に対して弱腰だったこと, イタリア僭主の1人・ジャン・ガレアッツォ
      ・ヴィスコンティをミラノ公に叙爵したことなどからドイツ諸侯は不満。 
     ・1400年,プファルツ選帝侯ループレヒト3世(プファルツ朝 位1400~1410
      を新皇帝に選出。
 │ 1398.フランス教会会議:アヴィニョン教皇庁からの財政的支援を拒否し, 教皇へ│
 │    の服従を廃止→ガリカニスムGallicanisme(フランス国家教会主義)│
 │ 1409.ピサ公会議:3教皇鼎立│
 │【教会革新運動】│
 │ ①ウィクリフ(英:オックスフォード大学教授)1379『聖餐について』│
 │   聖書主義, 聖職階級制度の否定│
 │ ②フス(チェコ:プラハ大学教授)聖書主義│
・ジギスムント帝Sigismund(神聖ローマ皇帝位1411~1437)
     1)ヴァーツラフ4世の弟:ブランデンブルク辺境伯(位1378~1437)
       ハンガリー王(位1387~1437)・チェコ王(位1419~1437)
     2)1396年ニコポリスの戦い:オスマン帝国(バヤジット1世)軍に敗北
     3)コンスタンツ公会議(1414~18)提唱:教会大分裂の解決
     ・1415年プラハ大学の教授や学長となったヤン=フスJohannes Huss焚刑
        →チェク人の反感
・ローマ教皇マルティヌス5世を統一教皇とすることでシスマを解決
       ・公会議首位説確認
       ・1419~1437年ベーメン王→フス戦争(1419~36)
■13, 14世紀の文化
  (1)ゴシック様式gothic:13世紀前半フランスから伝播(最盛期は14世紀後半)
    ・尖塔アーチを特色とする高い塔。柱間にステンドグラス
     →天・神への憧れ。軽快感。
・精確な構図, 自然・人間に対する写実的描写→理性主義の台頭
・初期ゴシック建築:アネシュスキー修道院, プラハの旧街区シナゴーグ, ヴィッ
      シー・ブロット, ズラター・コルナ, モラヴィアのティシュノフ, ヴェレフラ
      ットなどの修道院・教会堂。ピーセク城・ズヴィーコフ城・クシヴォクラー
      ト城・ベズデス城。
・14世紀半ば:プラハ新市街(ノヴェー・ムニェスト)設置
大規模な統一的計画:聖ヴィート寺院(建築士フランツォウス・マティア
       ーシュ・ス・アルラス, ペットル・パルレーシュ), カルロフ, エマウジ, カ
ロリウム, 旧市街の市庁舎(ラドニツェ), ティーンスキー礼拝堂, 処女マリ
ア・スニェジュナー教会, カレル橋
・14世紀後半(最盛期):カルルシュテイン城, コリーン・ナド・ラベムとプル
       ゼンの礼拝堂, コシツェの住居建築
(2)文学
    ①ダリミル著『年代記(クロニカ)』:チェコ貴族の階級的権利を主張
    ②ラテン語文学作品『ズブラスラフ年代記』  
③チェコ語による民衆演劇『膏薬(こうやく)売り』(14世紀前半, 復活祭劇)
  (3)カレル大学の開設(1348):中欧最初の大学
    ・専門用語(ラテン語)をチェコ語化
      ミストル・バルトロミェイ・フルメッツ(通称カレット。ミストルは教授の
      意), 手書きの『用語辞典(グロッサリー)』作製(7000語)

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July 02, 2011

チェコスロヴァキアの歴史 2


2.封建主義の発生と発展(12世紀まで)
 (1)サーモ王国(623~658):スラヴ部族連合体
①623年フランク人商人サーモを中心にアヴァール人撃退
②631年ヴォガスティスブルク城の戦い:フランク王国メロヴィング朝Meroving(448
      ~751, キリスト教国)敗北 *ヴォガスティスブルク城の位置は不明
③製鉄所:ジェレホヴィツェ・ウ・ウニチョヴァ(モラヴィア)で24個の溶鉱炉発見
  
 (2)大モラヴィア王国Moravia(830~890)
①822年モラヴィア人首長モイミール, フランク王に恭順の誓約
*フランク王国カロリング朝Caroling(751~987):ルイ1世LouisⅠ(在位814
 ~840)
*モラヴァ川沿いのミクルチツェ(100ha), ヘルスケー・フラジシュチュに大規
 模な防備 集落。
  ②キリスト教の浸透:フランク王国の宣教師がモラヴィア貴族に布教
   800年頃, キリスト教会建立(ミクルチツェだけで11, 全体で30近くの遺構発見)
   829年, パッサウ司教(フランク王国東南部), モラヴィアの教会を管轄
   830年頃, ザルツブルク大司教がニトラ領主プリビナの領内で教会堂献堂式
   845年ジェズノ(レーゲンスブルク)でチェコの上級貴族14名が洗礼
③833年頃, モラヴィア領主モイミール1世(在位830~846)がニトランスコからプ
    リビナ追放
   →大モラヴィア王国成立:モイミール家の権力の中心はモラヴィアとスロヴァキア
            城郭建設
   846年東フランク王ルートヴィヒ2世, モイミール廃位
④ロスティスラフ王(在位846~870, モイミールの甥)
   *フランク王国分裂
     843年ヴェルダン条約→東フランク王国・中部フランク王国・西フランク王国
     870年メルセン条約→東フランク王国(独)・イタリア王国(伊)・西フランク
               王国(仏)
   *東フランク王ルートヴィヒ2世の攻撃撃退
*ローマ教皇ニコラウス1世NicolausⅠ(在位858~867, ローマ=カトリック教)
    に使者派遣→東フランク王との友好関係維持を優先し, モラヴィア教会の自立拒
    否。
862年(863年説あり), ビザンティン皇帝ミカエル3世MichailⅠ(在位842~867,
    ギリシア正教)にスラヴ語でキリスト教布教のできる司祭の派遣を請願
863年学識あるギリシア人兄弟(弟コンスタンティノス(キュリロス), 兄メトデ
    ィオス), モラヴィアに来る。
    *彼等はソルン(ギリシアのテッサロニキ)のスラヴ語ができた。     
     ・コンスタンティノス(キュリロス), スラヴ語に適した「古代スラヴ語」(古代
     教会スラヴ語)を作成→典礼文書を翻訳→ローマの修道院で死去(869)
 │・グラゴール文字:コンスタンティノスが考案した文字。複雑すぎて使われなくなった。│
 │・フラホリック文字(後のキリル文字Cyrillicの原形):グラゴール文字よりも簡便で, 少│
 │ し後に考案された。現在のロシア・ウクライナ・バルカン方面で使用されるアルファベ│
 │ ットの原型。│
・ローマ教皇ハドリアヌス2世HadrianusⅡ(在位867~872), メトディオスを
 シルミウム大司教に叙任   
870年ロスティスラフ王捕らえられ, レーゲンスブルク(東フランク王国)送付→
 反逆罪で裁判。目を潰されて修道院幽閉。
⑤スヴァトプルク王の治世(在位870~894):最盛期
870年メトディオス, 再び大モラヴィア王国へ。→チェコ公ボジヴォイ・公妃ルドミ
 ラを洗礼(プシェミスル朝で実在が確認できる最初の人物)
880年メトディオスをローマに派遣
 ・ローマ教皇ヨハネス8世JohannesⅧ(在位872~882), 「スラヴ語派」の活
  動の正当性を認める裁定(典礼の際には福音書をまずラテン語で, 次ぎにスラ
  ヴ語で読み上げる)。大司教メトディオスの下にニトラ司教設置。
 ・大モラヴィア王国で死去(885)→ヴィヒングら「ラテン語派」, スラヴ語典礼を
  禁止。メトディオスの弟子を追放→礼拝はラテン語方式となる。
 ・「スラヴ語派」の一部はブルガリア王国(ボリス1世)の保護を受ける。
894年スヴァトプルク王死去→王国分裂
896年マジャール人Majyars, パンノニア平原に移動→901年東フランク・モラヴィ
 ア同盟成立←大モラヴィア王国解体(902~906)
  *チェコの中心はモラヴィアからベーメン(ボヘミア)に移動
c.900年マジャール人, トランシルヴァニア統一

 (3)ベーメン王国プシェミスル朝Bohmen(ボヘミア王国Bohemia,チェヒ国。後のチェコ
   王国, c.880~1306)
 ≪チェコの部族≫
    南部:ドゥーブレビ族
    ヘプ地域:フバネー族
    ジャテツコ:ルチャネー族
    北部:ディェチャネー族・リトムニェジチ族・プショヴァネー族・レジーム族
    北東部:ハルヴァート族
    ユウジムスコ:ズリチャネー族 
    ヴルタヴァ川左岸:チェコ族
①チェコ伝説:「女王リブシェとプシェミスルの物語」
  *神秘主義者プシェミスル・オラーチュ→歴史的に確認されているのは第8代ボジヴォイ1世
      BořivojⅠ(9世紀末)から。
②ヴァーツラフ1世Václav I(ベーメン公在位921~935):ボジヴォイの孫
・ヴラチスラフ1世とその妃ドラミホーラの息子。
 *ヴァーツラフを育てた祖母聖ルドミラは, ヴラチスラフ1世の戦死後に摂政となっていたド
  ラミホーラと対立して殺害された。ドラミホーラもまもなく貴族の離反にあって権力を失い,
  924/925年, 成人したヴァーツラフが実権を掌握した。
   ・キリスト教保護:プラハ城内に聖ヴィート教会堂建設
     *ドイツのザクセン地方で崇拝されていた聖人ファイト(チェコ名ヴィート)の遺骨の一部
       を譲り受けてフラチャニの丘に埋葬し, 教会建立。残存遺跡は現在の聖ヴィート説教壇土
       台の中に保存。教会はその後2回建て替えられ, 現在の大聖堂は14世紀以降に建設。
・ボレスラフによる暗殺(929):935年説あり。
     *伝承によれば, 935年ボレスラフは自分の領地に兄を招き, 礼拝のため教会に入ったところを
      斬りかかった。ヴァーツラフはこれを組み伏せたが, ボレスラフの家臣に取り囲まれ, 教会
      入口で抵抗むなしく殺されたという。
   →守護聖人聖ヴァーツラフ:命日(9月28日)は祝日
           「聖ヴァーツラフ伝説」
③ボレスラフ1世・ボレスラフ2世→チェコ国の強大化
・ボレスラフ1世BoleslavⅠ:クラクフ(ポーランド)まで影響力(960年代)
    ボレスラフ2世BoleslavⅡ:キエフ公国(ロシア)と国境を接する。
      神聖ローマ帝国のオットー1世OttoⅠ(東フランク王国ザクセン朝, 国王在
      位936~973, 神聖ローマ皇帝在位962~973)に対し, 封建的従属関係(宗
      主権)
     *イブラヒム・イブン・ヤクブ(スペイン・アラブ外交使節団随員), マグデブルクからプラ
      ハへの旅行(965年-971年)をし, プラハの繁栄の様子を記す。
チェコからの輸出品:毛皮・錫・馬・奴隷(戦争捕虜)
■封建制社会feudal society:荘園制・農奴制を基礎とし, 領主間の階層的主従関係
                 を持つ社会
封建制度:支配者内部の封建的主従関係
      *領主(主君)は家臣に対する報酬として所有権を分配
主    君:封土・保護(安堵) →臣下(家臣)
臣下(家臣):忠誠の誓約, 軍役奉仕→主君
*チェコ全土に宮廷・城・館・修道院・教会のネットワーク成立
■ローマ=カトリック教受容
     プラハ司教座設置(973):第2代司教スラヴィニーコヴェッツ・ヴォイツェッフ(聖人)
                    マインツ大司教座に所属。

・スラヴィニーコフツィ家(チェコ領東半分を支配するプシェミスル家のライバル)皆殺
  し(995)
      *ボレスラフ2世,リビツェ・ナド・ツィドリノウ城のスラヴィニーコフツィ家を襲撃→
        絶対的権力獲得
・古代スラヴ文学:「聖ルドミラの生涯」「聖ヴァーツラフの生涯」「聖ヴァーツラ
 フ正典」
④ポーランド王国ピアスト朝(西スラヴ族960~1370)の侵攻
・ボレスラフ2世死去→ベーメン王位をめぐる争い
・ボレスラフ・フラブリー王, クラコフスコ, モラヴィア, スロヴァキア征服
チェコに介入(1003)→プシェミスル部族が抵抗。神聖ローマ帝国に支援要請→ 
    ポーランド軍撃退
・ボレスラフ・フラブリー王死去(1025)→ベーメン王国, モラヴィア回復
ハンガリー王国(997建国)
   ・シュチェパーン1世(マジャール人アルパードフツィ族, 在位998~1038)
・スロヴァキア領有(1037)
⑤ブジェチスラフ1世(在位1034~1055)
・ポーランド侵攻→神聖ローマ帝国の圧力を受け失敗
・スロヴァキア侵攻(1042)失敗
⑥封建的分裂の時代(11世紀半ば~12世紀末):神聖ローマ帝国が介入
・ヴラチスラフ王1世(ブジェチスラフ1世の息子)
・ソビェスラフ1世, フルメッツの戦い(1126年, クルシュネー山)勝利→神聖ロー
 マ帝国撃退
・ヴラチスラフ2世, イタリア領内での戦いで勝利(1158)→王位に就く
■10~12世紀の文化
(1)異教とキリスト教の戦い
(2)大モラヴィア王国の文化遺産
  サーザヴァ修道院設立(1032):スラヴ語による典礼
1055.スピティフニェヴ2世, スラヴ人修道士追放
1061.ブラチスラフ1世, スラヴ人修道士呼び戻し
1097.再追放  *古代スラヴ文書の抹殺
(3)キリスト教会の役割 
     ①文化活動はキリスト教会・修道院が独占
②教会・修道院のネットワーク完成(12世紀)
*修道士会:ベネディクトゥス派・プレモンストラート派・シトー派
*ベネディクトゥス派
  ・聖ベネディクトゥス, モンテ・カッシーノ修道院建立(529伊)
・聖ベネディクトゥス会則(服従・清貧・貞潔の徳目。信仰・学問・労
         働の生活。“祈れ, 働け”)
*プレモンストラート派:ストラホフ修道院(1143年建立)
*シトー派修道会(1098年設立):12~13世紀全盛。
        ・聖ベネディクトゥス会則の遵守
・白い僧服(漂白や染色をしない質素な毛織物)
※聖職叙任権闘争(1075~1122)
       教皇グレゴリウス7世(在位1073~1085)
神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世(在位1056~1106):帝国教会政策
・カノッサの屈辱(1077)→ヴォルムス協約(1122):教会権力の自主性承認
※十字軍(1096~1291):教皇権の絶頂期・・・インノケンティウス3世
(在位1198~1216)
(4)教会堂建築:ロマネスク様式romanesque(10世紀末フランス中南部~12世紀)
・重厚な石壁, ドーム型(ローマ式)アーチ→重厚感
・円形の礼拝堂(ロトゥンダ), 広い空間を持った細長いバジリカ建築
・プラハ城内の聖イジーバシリカ式教会(920)・黒い塔(1135)
・宗教的彫刻・壁画
・宗教書の写本:11世紀ヴィシェフラッド・コーデックス
世俗的建築物:プラハ城, ヴィシェフラッド, オモロウツ宮殿
・ユデット橋(12世紀後半):プラハ最初の石橋。ヴラジスラフ2世の妃の名に因む。
・プシェミスル家の絵画(1134年ズノイモ城内の円形礼拝堂)
(5)チェコ年代記(12世紀初め):プラハ大聖堂参事会員コスマス作。ラテン語。

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June 26, 2011

チェコスロヴァキアの歴史 1

■はじめに ~中欧国家チェコ,スロヴァキアの民族・風土~ 
 【チェコ】
  ・チェコの中央には, エルツ山脈(西側)・ズデーテン山脈(北側)・ベーマヴァルト
  (ベーメンの森, 南側)に囲まれたベーメン盆地(ボヘミア盆地)が広がり, プラハを
   中心とするベーメン地方, 東部のモラヴィア地方, 北部のシロンスク地方に分けられ
   る。国土中央のベーメン盆地から北に向けてエルベ川が流れる。
  ・人口1027万人(2000年現在)。首都プラハ(人口120万人)は北緯50度06分。
 【スロヴァキア】
  ・カルパティア山脈の西端にあり, 国土の80%が海抜750m以上。山間を流れるヴァ
   ー川をはじめとする支流は南側を走るドナウ川に注ぐ。アムバー(琥珀)街道やベ
   ーメン街道などの古くからの要衝地。南部にザホールスカ平野, ボデュナイスカ平
   野, ヴォイホドスロヴェンスカ平野がある。
  ・人口540万人(2000年現在)。首都ブラティスラバ(人口45万人)は48度09分。

  *チェコの東側がスロヴァキア, 西にドイツ, 北にポーランド, 南にオーストリア。
  *スロヴァキアの東にウクライナ, 南にハンガリー。
1.古代社会の成立
 (1)原始共同社会の時代
・ネアンデルタール人(旧人Homo primogenus):洪積世末期(約20万年前)
  ①ポプラット市(スロヴァキア)で頭蓋骨発見
   *名称は, ポリーニーのネアンデル谷で発見されたことに因む。
 *同時代の人骨はモラヴィア地方(オホス, シプカ, クールナ), スロヴァキア(シャラ)で
     も発見。
②狩猟・採集の獲得経済
  ③埋葬の風習。道具・身体への彩色。毛皮の衣服。炉のある住居。
・ホモ・サピエンス(新人Homo sapiens sapiens):洪積世最末期(約4~3万年前)
①モラヴィアは中欧発展の中心地
   ②狩猟・採集の獲得経済 旧石器時代(打製石器・骨角器)→中石器時代(石刃石器・細石器)
③種族的連帯。母権制社会。
   ④マンモス狩猟者たちの文化・・・彫像「ヴィエストニツェのヴィーナス」
・新石器時代(4500~2500B.C.)
①農耕・牧畜の生産経済(食糧生産革命=新石器革命) 農耕:小麦・大麦・粟・豆類(ひら豆・ソラマメ・イン ゲ ン豆) 石製鍬・木製犂。石臼で製粉。植物繊維で織布。
牧畜:羊・山羊・牛・豚→余剰生産物
②土器の製造・・・最古の農耕民「渦巻き紋様土器人」
             新石器時代末期には縄文土器・釣鐘杯土器
③製品の交換:黒曜石(東スロヴァキア産)・琥珀製品(バルト海産)・金属製品 馬→四輪馬車の出現
  ④氏族社会:家系の萌芽。共同生活。
          大きな家屋(長さ20~30m, 時には40m):木の丸太, 枝, 土で造る。
⑤多神教。埋葬の風習(伸展葬, 時には屈葬。新石器時代末期には火葬)。
・金属器時代1(銅器時代→青銅器時代)
①クルシュネー・ホリ(中欧最大の錫鉱脈)
     ウーニェティツカー文化(プラハ近郊)・マジャロフスカー文化(スロヴァキア)
  ②青銅製の道具・武器・装飾品の生産→労働の分業化
③氏族社会内部に家族発生(家父長制大家族)→私有財産の発生→貧富の差拡大
     (階級制度の発生)
④モヒラ人の侵入(2000B.C.年代中葉)→ウーニェティツェ人・マジャロフツェ人支配
                           *モヒラは「古墳」の意味
⑤骨壺の野原人(2000B.C.年代末期):ルジツェ文化。
      *名称は, 火葬後, その灰を骨壺に納めて聖なる野原に安置したことに由来。
・金属器時代2(鉄器時代, 前7世紀~):スキタイ族やアルプス地方から伝播
①ハルシュタット期(~前4世紀, 鉄器時代前半)
      *ハルシュタット遺跡(高地オーストリア集落)
・チェコスロヴァキアは鉄鉱石の地表鉱床が豊か→鍛鉄(武器・斧・刃物) 鋳鉄(犂・鍬)
 ・部族の成立
      モヒラ人と土着民の融合→ビラニ文化(ビラニ・ウ・チェスケーホ・ブロドゥ遺跡)
②ラテーヌ期(400B.C.~鉄器時代後期, ラテーヌ文化):ケルト人の台頭
      *ラテーヌ遺跡(スイス)
     ・チェコ:ボイイ人(ケルト人の一部族, ボユー部族)→ラテン語のボヨヘムムBojohemum, ボヘミアBohemiaの語源
     ・スロヴァキア:コティヌー部族
     ・鉱山技術・製鉄技術の進歩。金の精錬。
      オッピドゥムoppidumでの交易(町・城砦都市に発展)
     ・原始奴隷制:不自由人・奴隷
 (2)奴隷制の時代
・ゲルマン民族やローマ人との遭遇(紀元前後の交替期~)
①ゲルマン民族:マルコマンニ族Marcomannni(族長マロブド), クアディ族
②ローマ帝国(27B.C.~1453):Pax Romana(27B.C.~180A.D.)
     ・ドナウ川流域に進出→ローマ都市の建設:ウィンドボナ(ウィーン)
・マルクス=アウレリウス帝Marcus Aurelius Antoninus Pius(五賢帝時代(96~
      180)の最後の皇帝, 在位161~180A.D.), マルコマンニ族(168~175年マ
      ルコマン戦争)やクアディ族と戦闘
・170年以降, マルコマンニ族・クアディ族・サルマタエ族等がローマに降伏
・マルクス=アウレリウス帝, ウィンドボナで病没(180)→ローマ帝国動揺
・軍人皇帝時代(235~284)
③遊牧民フン族の西進(東ゴート族支配)→ゲルマン民族大移動(375~)
ローマ帝国が東西分裂(395)
・アッティラ帝国:アッティラ王, 西ローマ帝国に侵入
       451年カタラウヌムの戦い(アッティラ帝国敗北)
452年イタリア侵入→ローマ司教レオ1世の説得で断念
・スラヴ民族Slavsの登場(5世紀頃)
①揺籃の地:カルパチア山脈の北方。オドラ川とドニエプル川に挟まれた広大な空間。
②農耕・牧畜・手工業(金工・木材加工・骨細工):発達度は低い。
家父長制大家族:父権的奴隷制(農業や手工業のみに奴隷を使用)
③アヴァール人・マジャール人・ブルガール人・モンゴル人・トルコ人を介してステップ遊牧民と接触
④スラヴ民族の移動(6世紀)
     エルベ以東→西スラヴ族(ポーランド人・チェック人・スロヴァキア人)
*6世紀前半, チェコ人・スロヴァキア人の共通の祖先が定住
     バルカン半島→南スラヴ族(セルビア人・クロアティア人・スロヴェニア人)
東スラヴ族(ロシア人・ウクライナ人)

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February 06, 2011

世界史教育の〈可能性〉を探る

1.はじめに 
 私は○○県立高校の地理歴史科(旧社会科)教員として30年間教壇に立ち, 主に科目 「世界史」の授業を担当してきた。6年間の管理職生活を終えた今春, 再任用制度を利用して再び世界史教育に取り組んでいる。その間, 県内の教員が自主的に参加する○○県高等学校教育研究会歴史部に参加してきた。高教研歴史部は関東歴史教育研究会・全国歴史教育研究会につながる組織で, 活動内容は(1)教科・科目の研究, (2)合同講演会(7月)・講演会(11月)の開催, (3)臨地研究会(8月)などである。歴史部には世界史研究委員会・日本史研究委員会・史跡研究委員会・○○史学編集委員会(部報『○○史学』発行)の4委員会があり, 研究成果の発表や授業実践報告は年2回開催される研修会や地区会で行われる。また, 副教材『資料に学ぶ世界の歴史』・『史料で探る○○の歴史』の発行や, 一般書『○○県の歴史散歩』(いずれも山川出版社)の出版にも関係している。

2.私が高等学校「世界史」で取り組んできたこと
 新採教員として教壇に立ちはじめた私は, 自分の高校時代とは全く異なる生徒たちと 向き合うことになった。その時, 私は生徒たちに何を教えたいのか, 生徒たちは私に何を求めているのか, そして「世界史」を単なる外国史の寄せ集めとしないためにはどのような工夫が必要か, と様々な難問に直面した。私は多くの試行錯誤を重ねたが, 当時の取り組みでいくらかの成果があったとすれば, それはプリントを活用した授業(原則として毎時間1枚使用)と板書の工夫であり, 中学校・高校の歴史教育を結びつける取り組みや大胆な授業内容の組み替えであったと思う。前者は教育困難校・進学校の区別なく, 予習・復習を習慣化させ, 授業が「わかり」, 試験が「できる」ようにする効果があった。また, 後者は中学校を訪問して実態把握に努め, 中学校社会科教科書(歴史的分野)に出てくる「世界史」的用語の調査を行った。私が利用した教科書は, 当時,○○県内の大部分の中学校で採用していた『中学生の社会科 日本の歩みと世界〔歴史〕』(中教出版)であり, その1984年版では合計611(事件426, 人物98, 年号87)の「世界史」的用語が使われていた(1993年版では合計792(事件585, 人物80, 年号127)と増加している)。
  その後, 私は全国有数の進学校に赴任したが, プリントを活用した授業が『世界史B研究ノート』の作成につながったものの, 基本的な授業スタイルに変化はなかった。但し, 教科・科目の目標だけでなく, 進学実績の実現という二兎を追う必要に迫られたことも事実で, 科目「世界史」の目標達成と大学受験を意識した指導とを両立させようとした。例えば, 国公立大学個別試験に出題される論述問題の指導は, 生徒たちの間に広がっていた「歴史は暗記科目」という誤解を解くことにつながったし, 私自身が『世界史B研究ノート』を編集する際に論述問題を意識するようになった。  
 また, その当時の私が特に力を入れていたのは「日本史」/「世界史」という歴史教育の壁を越える取り組みである。先ず第1に日本史の授業や教科書の内容を知る努力である。私は日本史の授業担当を申し出, 「世界史」を単なる外国史の集積としないためには何が必要であるかを探ろうとしたのである。その結果,『世界史B研究ノート』は, (特に近現代の分野で)日本に関わる内容が大幅に増えることとなった。第2に第二学年(転勤後は第一学年)の生徒に課した「歴史リポート」作成の指導である。それまでも同じような指導を続けてはいたが, 1993年に歴史部講演会講師として招聘した木村靖二先生から全ドイツの高校生が参加する研究コンクール「わが町のナチズム」の情報を得たことや, 1998年に○○日独文化協会の依頼で勤務校の生徒が「第二次世界大戦に関する共同研究」(日独英三国の高校生が参加)に参加したことが大きな転機となった。私は担当クラスの全生徒をインタビュー(A)・新聞記事(B)・教科書(C)・記念碑(D)・自由研究(E)に分けて調査・報告させた。後に元生徒の了解を取って勤務校の『紀要』第44号に(A)「それぞれの戦争~女性・子どもの戦争体験~」, (B)「第二次世界大戦と報道機関」, (C1)「第二次世界大戦下の日本の教育と学徒」, (C2)「第二次世界大戦当時の教育について」, (D)「第二次世界大戦に関する記念碑について」を記載したが, 高校生によるオーラルヒストリーの実践例だけでなく, 多くが所謂「経験のリアリズム」に満ちた小論文となったと考えている。 
 
3.高等学校における世界史教育の現状と課題
(1)学習指導要領の変遷と世界史教育
 社会科(現在の地理歴史科・公民科)は, 1947年版学習指導要領(試案)によって誕生した教科で, 同時に従来の「修身」・「日本歴史」・「日本地理」は廃止された。科目「世界史」は2年後の1949年に東洋史・西洋史をまとめる形で新設されたが, その段階では学習指導要領さえも準備できていなかった。そこで急遽, 中等学校教科書株式会社から三上次男『世界史・東洋史篇』・板倉勝正『世界史・西洋史篇』という準教科書が発行されたが,検定教科書の正式採用は1952年まで待たなければならなかった。1949年には村川堅太郎・山本達郎・林健太郎『世界史概説』(山川出版社)が教師用, 吉岡力『世界史の研究』(旺文社)が生徒用の参考書として出版されている。その後, 1951年版学習指導要領(試案)において科目「日本史」が設けられ, 法的拘束力を持つに至った1960年版学習指導要領では科目「倫理社会」(必修, 後の「倫理」)が新設された。
 戦後の高度経済成長が頂点に達しようとしていた1970年, 新しく作られた学習指導要領では「教育課程の現代化」が提唱されるようになり, 1978年版では「ゆとりと充実」, 1989年版では「新しい学力観」が声高く叫ばれるようになった。特に1989年版学習指導要領では社会科が解体されて新しく「地理歴史科」「公民科」が設けられ, 中学校社会科の学習内容変更もあって「世界史」が必修科目とされた。世界史必修化運動の先頭に立たれた林健太郎・増田四郎両先生の姿は, 今でも鮮明に記憶している。1984年, 茨城県教育委員会は社会科の科目設定調査を行っているが, 「世界史」を設置していない普通科高校は4.6%で, 専門高校では45.9%に達していた。これは普通科の95.4%, 専門科の54.1%の生徒が「世界史」を学んでいるのではなく, 選択履修できる可能性を示しているに過ぎない。したがって, 中学校だけではなく高校においても「世界史」を学んでいない高校生の割合は極めて高く, 必修化の論拠となったと言えよう。なお, 家庭科が男女必修となったのもこの時である。 
 1999年版学習指導要領では教育改革の動きが極点に達し, 完全学校週5日制(2002年 度実施)に対応するために授業内容が約3割削減された。主な改正点を列挙すると, ①卒業に必要な総単位数を従来の80単位以上から74単位以上に削減する。②全日制課程週当たり標準授業時数(含HR)を30単位時間に削減する。③必履修教科・科目の合計最小単位数を31単位まで引き下げる。地理歴史科は, 世界史A(2単位)及び世界史B(4単位)のうちから1科目, 日本史A(2単位)・日本史B(4単位)・地理A(2単位)・地理B(4単位)のうちから1科目を履修させる。④新設した「総合的な学習の時間」は3年間に3~6単位の範囲で履修させる。⑤「外国語科」と新設した「情報科」を必履修教科とする。⑥学校裁量を拡大して「特色ある学校づくり」を進めるために, 学校設定教科・科目の学習や高大連携などの学校外学修を大幅に認める, 等がある。その結果, 新しい教育課程では完全学校週5日制で12時間, 「総合的な学習の時間」で3時間, 情報科で2時間, 「理科総合A・B」で4時間, 合計21時間分(1学年当たり7時間分)の科目変更が必要となった。その結果, 従来のように世界史・日本史・地理を全て履修させるのは困難となり, 世界史Aを必履修として, 2学年から文型クラスは世界史B・日本史B・地理Bの中から1~2科目選択履修, 理型クラスは地理B(一部日本史B)というパターンがほとんどとなった。履修科目数の減少は選択科目の単位数増加という皮肉な現象を引き起こし, 文型の世界史B・日本史B・地理B場合は従来の4単位から8単位前後に増加している高校が多い。この傾向は, 2009年版学習指導要領に基づく教育課程でも踏襲されている。

(2)「世界史A」と「世界史B」の関係
 教育基本法改正問題が国民的話題となっていた2006年の秋, 北日本新聞社が富山県立高岡南高校の「未履修問題」を報道し(10月24日), 全国の教育界を揺り動かす一大事件に発展していった。その後, 地理歴史科だけでなく,情報科, 理科(理科総合A・B), 家庭科, 芸術科, 保健体育科(保健)などでも履修不足が判明したが, 同年12月13日発表の文部科学省「高等学校等の未履修開始年度等について」によれば, 未履修状態と化したのは公立学校で完全学校週5日制が施行された2002年以降が圧倒的に多いことが明らかとなっている。もちろん未履修問題は看過できる問題ではないが, 今なお生徒・保護者が求める土曜授業を行えない問題, 学校の実態にそぐわない教科・科目の設定という問題, 1単位時間の弾力化と未履修の関係, 履修・修得の問題など課題は多く, 何ら解決されていないと言っても過言ではない。
 さて, 私たちの世界史教育の問題に話を戻すと, 1965年に高校入学を果たした私にとって15年戦争(アジア太平洋戦争)は20年前のことだったが, 現在の高校生にとっては65年も前のことである。高校生の私が60年前の日露戦争を遙か昔のことと思ったように, 現在の高校生にとっては15年戦争は遠い過去の事件でしかない。しかし, 私たちが日露戦争以降の歴史を学ばなかったとしたら, 果たして「同時代を考える」ことが出来るであろうか。到底そうは思えない。そして, 現在の高校生が世界史の授業で「近現代史を学ぶ機会を奪われている」としたら, と考えると背筋が寒くなる。
 私は, 「世界史A」の授業では近現代史(特に現代史)に重点を置いた授業を展開してきたが, 高校教員の中には相変わらず古代史から始めて近代史で終わってしまう授業を行っている人もいると聞く。高教研歴史部では「世界史A」の授業研究も進めているが, 問題はそういう研修の場に出席しない教員が増えているという実態にある。社会科時代は大学で法・経済・商学部などで歴史とは全く関係のない学問を学んだ方が教員となることが多く, そういう方が「世界史」を担当することも一般化していた。そのため, 近現代史まで授業をすすめる意欲に乏しかったのかも知れない。しかし, 教員免許が地理歴史科・公民科に分かれてからは, 大学・大学院で地理・歴史を専門的に学んできた方が教員になる傾向が強まっている。これは社会科解体にともなうケガの功名かも知れないが, 私は新しい教員たちの現状打破の努力に期待している。

4.おわりに
(1)統一科目「歴史基礎」の設定について
 最後に4つの提言を述べたい。先ず第1に, 私は世界史・日本史を廃して統一科目「歴史基礎」を設定することに賛成しかねると考えている。何故なら, 世界史を単なる「外国史」の寄せ集めとしないためには, 日本史的内容を取り入れる努力が大切であるが, 新たに構想されている「歴史基礎」には異質な科目になってしまう危険性を感じるからである。確かに「歴史基礎」は世界史Aと日本史Aを合体させて両者の構造的関連づけを図る科目と言われているが, 現実には(対外関係を少々重視した)「日本史」となる可能性が高いと疑問視しているからである。私の不安が的外れでないならば, それは高校「世界史」が追求してきた内容とは明らかに異なるものとなる。「日本史」必修化を模索している勢力の動向を注視する必要もある。人間は己の内面を見つめるだけでは自己の真の姿が見えず, 他者を通してこそ見えてくる。だからこそ, 世界史・日本史がともに必要だと考えている。

(2)大学入試と高校世界史の関係について
 第2に, 私は世界史・日本史が暗記科目と言われる理由の多くは大学入試問題の内容と関係していると考えている。魅力のある歴史の授業を展開するためには, 講義形式の一斉授業だけでなく, 歴史リポートの作成, 発表や討議を交えた授業など様々な工夫が求められている。しかし, 大学入試問題が変わらなければ, 根本的解決にはつながらないと思う。大学は既にユニバーサル化していると言われるが, AO入試(AC入試)や推薦入試は大学側の都合で採用されたものであり, 大学入試センター試験の複線化(2016年)問題はその延長線上にある。所謂「高大接続テスト」問題も新入生に対するリメディアル教育の必要性から発生していると言える。私は日本国憲法第26条「すべて国民は, 法律の定めるところにより, その能力に応じて等しく教育を受ける権利を有する。」の精神を実現するのであれば, 大学入試センター試験を「資格試験」化し, 国公大学個別試験や私立大学入試は各大学の工夫に任せれば良いと考えている。その工夫の中には, 世界史・日本史の論述問題などが含まれる。

(3)大学における「世界史」教育・研究について
 第3は大学へのお願いである。1949年に設置された高校「世界史」はまだまだ発展途上の科目ではあるが, 私には多くの高校教員が60年間以上かけて同僚や生徒とともに創り上げてきたという自負がある。しかし, 不思議なことに, 大学においてはほとんど教育・研究がなされてこなかった。これは大学という組織の閉鎖性によるもので, 歴史学研究上の問題とも言える。近年はようやく一部の大学で取り上げられるようになってきたが, まだまだ数は少ない。私は, それぞれの分野で第一人者と呼ばれるような学者ではなく, 新進の研究者に「世界史」の講座を担当させることによって西洋史・東洋史・日本史の教育・研究に変化が生まれるのではないかと期待している。

(4)高校「世界史」が目指すべきこと
 第4は, 世界史教育の目標についてである。高等学校学習指導要領における「世界史A」と「世界史B」の目標は, 科目の特殊性に応じて大きく異なるが, 「歴史的思考力を培い, 国際社会に主体的に生きる日本国民としての自覚と資質を養う。」という最後の文章は同じである。それに対して西川正雄氏は「世界史という妖怪は未だに徘徊している」(『日本歴史学協会年報』別冊2002年3月)の中で「何を次の世代に伝えるのか。・・・『国民』ではなく,『市民』を目指していくべきではないか。」と述べている。確かに2008年末現在の在日外国人221万7,426人という数字は, 2009年度の茨城県民人口298.0万人よりは少ないが, 栃木県民200.4万人, 群馬県民200.9人よりは多く, 鳥取県・島根県・高知県民を合計した210.3万人よりも多い。したがって, 「日本国民としての自覚と資質を養う」だけでは済まされない現実がある。
 私は, さまざまな国籍を持つ生徒たちを前にして「世界史」の授業を行うとき, 日本列島に住む10代後半の若者たちが「私は何者なのだろうか。私が生きている現代はどのような時代なのか。私はこれからどのように発言し, 行動すべきなのか。」と考える際に, 何らかのヒントを与えることができたなら, 当該科目の目的を果たせたと見なして良いのではないかと考えてきた。皆様から寄せられた多くのご意見, ご批評を参考にし, 今暫くより良い授業をつくりあげる努力をしたいと思っている。

【参考文献】
 1.拙著「水戸一高世界史教育の現状と課題」(水戸一高『紀要』第35号・1997年)
 2.拙著「高校生と学ぶ近現代史~世界史小論文指導の試み~」(水戸一高『紀要』第44号・2006年)
 3.歴史学研究会『歴史学研究増刊号』(2009年9月)
4.南塚信吾『世界史なんていらない?』(岩波ブックレットNo.714)
 5.西川正雄「世界史という妖怪は未だに徘徊している」(『日本歴史学協会年報』別冊「歴史教育シンポジウム記録集1995年~1999年」2002年3月)
6.文部科学省『高等学校学習指導要領解説 地理歴史編』(平成22年6月)

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March 15, 2008

学力問題と大学入試改革

 国公立大学入学前期日程試験の合格発表が終了し、全国の高校では合否結果に一喜一憂している。不幸にして朗報を得られなかった受験生には、中・後期日程での捲土重来を願うばかりです。
 さて、大学の入学定員と志願者数が同数になる「大学全入時代」を迎えようとしている今日、大学進学者の「学力」をめぐる議論があちこちから聞こえてくる。ここでは、学力問題と大学入試制度の関係に限って私見を述べたい。
 先ず始めに、一九九〇年に慶應義塾大学総合政策学部・環境情報学部が導入して以来、急速に広がってきたアドミッション・オフィス(AO)入試に転機が訪れていることを指摘したい。AO入試のモデルは全国統一試験を持たないアメリカ合衆国にあり、受験者から提出される願書のなかに記載されているSAT(教育適性テスト)・AAP(ACTアセスメント)などの標準テスト成績や高校での学業成績を中心に合否の判定をしている。我が国では、「学力以外の多面的能力を評価する入試」として注目されたものの「推薦入試」の亜種とみなされ、高校長が推薦する高校生は〈大学が求める学生像〉とは重ならないと判断されてAO入試導入に踏み切る大学は増えなかった。ところが、第一六期中教審答申(一九九七年)を受けて、二〇〇〇年に東北大・筑波大・九州大・早稲田大などが導入して以来急速に増加し、(「学力」を重視するアメリカ合衆国とは反対に)書類や面接などで選考するAO入試が定着してきた。現在では、大学生の相当な割合が「学力」試験を経ないで入学しているのが実態である。
 AO入試が急増した背景には、一八歳人口の減少、高校教育の多様化と学力低下、新設大学の増加などがあり、皮肉にも大学側にとっては学生数の確保、高校側にとっては受験勉強をやらない(やれない)ような受験生の受け皿として有効に機能してきた。もちろん、一部の大学は高邁なアドミッション・ポリシーを掲げて努力してきたが、多くの大学に見られた学生数の確保優先姿勢は、大学生の学力低下を促進することとなった。その結果、大学の中には高等教育機関としての一定水準を維持し得なくなり、その存在理由を問われる事態となってきたのである。こうした深刻な事態は難関大学と言われる大学にも影響を及ぼし、国公立大学の間にはAO入試の廃止を含む見直し作業が進められている。例えば、鳥取大(二〇〇八年)・筑波大(〇九年)・一橋大(〇九年)・秋田県立大(〇九年)・九州大(一〇年)などの一部の学部では既に廃止が決定している。今後は、工夫を重ねてAO入試を続けるか、各大学の個別試験の中で〈大学が求める学生像〉に相応しい受験生の選抜を図ることの二者択一になるであろう。
 次に取り上げるのは、政府の教育再生会議が提唱した「高卒学力テスト(仮称)」の導入問題である。同会議が提唱した大学入試制度に関する改革素案によれば、このテストは国公私立を問わず「大学進学志願者全員が必ず受験」する必要があり、学習指導要領上の必履修教科・科目(保健体育・芸術・家庭・情報を除く)の「全科目合格者に大学進学資格を付与」するとしている。したがって、このテストに合格しないと大学を受験することが出来なくなる仕組みである。この案は、日本国憲法第二十六条「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」を実現する画期的な改革である。しかし、現実の高校教育に目を転じると、平成一九年度中学校卒業者の九七・七%が高校に進学(普通科七二・三%、専門科二七・七%)しており、高校生の多様化は多くの国民が想像する以上に進んでいる。したがって、全国の高校生に対して同一基準で「高卒学力テスト」を課すことにはあまりにも無理がある。それよりは、当該高校の校長の裁量権を拡大して、それぞれの高校の特徴と生徒の実態に即した教育を展開すること、生徒一人ひとりに学ぶ喜びを与え、自己実現を果たせるように指導することこそが重要であると思う。
 最後に、学力問題と大学入試制度改革に関する一つの提言をしたい。私は、教育再生会議が提唱した「高卒学力テスト(仮称)」の趣旨を生かしつつ、大学進学者の「質」を担保するためには、現行の大学入試センター試験を活用すべきだろうと考える。その方法は、① 国公私立を問わず大学進学志願者全員が必ず受験させる。②受験生は六教科(国語・地理歴史・公民・数学・理科・外国語)七科目(九〇〇点満点)を選択して受験する。③得点合計が四五〇点以上となった受験生には無条件で大学進学資格を付与する。④各大学の個別試験は本当に必要な教科・科目に絞って出題し、出題内容は優れた才能を生かすためには学習指導要領を逸脱しても可とする。こうすれば、教育再生会議が危惧している「特定分野が不得意だが、得意分野に秀でた生徒が大学に進学できなくなる」問題は解消することが出来るはずである。そして、教育を受ける機会の公平さが保たれ、大学では最高学府に相応しい教育・研究が実現できると思われる。
 ここに掲載している文章の著作権は, 全て岡崎賢治に属します。内容の一部または全部の転載・編集などは著作権所有者の同意なしに行われることを固く禁じます。
All Copyright of contents are belong to KENJI OKAZAKI . No part of my efforts may be reproduced or transmitted in any form by any means, electronical, mechanical, recording or otherwise,except extracts for the purpose of review, without the permission of the Copyright Owner.

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January 10, 2005

岡崎賢治著『マサリクの生きた時代-チェコスロヴァキア建国と日米関係-』

岡崎賢治著『マサリクの生きた時代-チェコスロヴァキア建国と日米関係-』(伊藤プリント社, 2004年) 1500円
  マサリクの生きた時代-チェコスロヴァキア建国と日米関係-
    1.はじめに  
    2.チェコスロヴァキアの地理と歴史  
    3.マサリクとチェコスロヴァキアの政治状況-学問と政治の狭間で-
4.第一次大戦勃発とチェコスロヴァキア独立運動  
5.チェコスロヴァキア軍団事件
6.マサリクと日本  
7.日米両政府の確執-帝国主義とナショナリズムの関係-  
8.中国大陸をめぐる日米両国の思惑  
9.チェコスロヴァキア軍団事件と対ソ干渉戦争  
10.チェコスロヴァキア共和国の独立  
11.シベリア出兵(対ソ干渉戦争)の悲劇  
12.チェコスロヴァキア共和国の解体

  民族とナショナリズムに関する一考察
    1.はじめに
    2.民族とは何か
    3.民族同一性の根拠となるもの-ユダヤ人の場合-
    4.ナショナリズムの変遷
    5.冷戦後のナショナリズム問題
    6.集団同一性とナショナリズムの関係

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岡崎賢治著『西欧初期中世社会の研究』

岡崎賢治著『西欧初期中世社会の研究』(富士美術印刷, 1994年) 2500円
  第1章 古代商業と封建制社会の関係
     1.問題の所在  2.マホメットとシャルルマーニュ  3.ヴァイキング時代の北欧商業  
     4.古代商業と封建制の関係
  第2章 「古典荘園制」の構造的特質
     1.はじめに  2.サン・ジェルマン・デ・プレ修道院所領明細帳の分析  
     3.「古典荘園制」的所領形態の起源-A.フルヒュルスト説を中心として-
    4.マンス=フーフェ制と「古典荘園制」の関係  5.在地的支配機構としての「古典荘園制」
  第3章 西洋中世都市の起源と連続性の問題
     1.はじめに  2.司教都市と大市の連続性  3.都市的機能の連続と恒常的市場の関係
  第4章 原始キリスト教とローマ帝国の関係
     1.はじめに  2.ユダヤ民族とキリスト教の関係  3.原始キリスト教との成立と発展  
     4.ローマ帝国とキリスト教  5.おわりに
  第5章 古ゲルマンの土俗信仰とキリスト教
     1.はじめに  2.古ゲルマンの土俗信仰と供犠  3.古ゲルマンの平和観念  4.キリスト教との出会い
     5.司教職と世俗権力, とりわけシャルルマーニュ  6.土俗信仰をのりこえるキリスト教  7.終わりに
 

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