フランス革命
第一節 フランス革命と国民国家
(一)アンシャン・レジームの崩壊
一八世紀後半、フランス革命前の旧体制「アンシャン・レジーム」Ancien régimeは、もはや中世以来の身分制度が根底から揺らぎだし、まさに崩壊寸前の状況にあった。当時の階層秩序は、聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民(第三身分)に分かれる伝統的な身分秩序と、富と功績によって社会的上昇をとげる新しいエリート的秩序との二本立てで成立していた。そして、ローマ=カトリック教会はながく人々の信仰を集めてきたが、その指導者たる高位聖職者に対する畏敬の念は、もはや忘れ去られようとしていた。なぜなら、司教や僧院長・司教座聖堂参事会員など高位聖職者の多くが貴族身分の者によって占められ、平民出身の聖職者はせいぜい司祭や助司祭・修道士にしかなれない現実があったからである。そして、 国王とともに国政を統御してきた貴族身分には古い家柄を誇る「帯剣貴族」(武家貴族)だけでなく、経済的に実力を蓄えた平民上層部(ブルジョワ)が官職や特権を購入して階層序列を駆け上がり、ついには貴族身分にまでたどり着いた「法服貴族」が存在し、一八世紀後半にはそれぞれ第三身分最上層(大ブルジョワ)との結びつきの重要性が増すにつれて両者の対立もほぼ解消していた。
また第三身分では、法服貴族との社会的混交が進んだ金融業者・徴税請負人・大商人などのブルジョワ上層部と、小間物・毛織物・帽子・布地・金銀細工・乾物食品の「六大ギルド」(後にワイン商人が加わる)の親方などの中流ブルジョワ、小規模ながらも独立した作業場や店舗を持つ手工業者や小店主などの小ブルジョワに分化していたが、絶対王政下における経済規制を廃止して競争原理に基づく自由主義経済への移行を志向している点では共通していた。ただし、それでいながらブルジョワ各層は王権によって特権を保障された「社団」corps constituéを編成していることから、いずれも絶対王政に対抗する反体制的階層ではなかった。一方、同じく平民階層に属してはいるが、ブルジョワジーの下に位置する最底辺の社会層が所謂「民衆」である。彼らは独立した仕事場や店舗を持たない賃金労働者で、コルポラシオン(宣誓ギルド)Corporation内の職種に属する熟練職人と、地方からの流入者が多い非熟練ないし特技性の弱い半熟練労働者に分けられ、後者はブルジョワとは同じ食卓にもつけないほどの格差のある生活を余儀なくされていた。また、アンシャン・レジーム末期になると、親方職が世襲的に固定化されて親方・職人間の溝が拡大していた。両者の対立は作業時間や賃金などの労働条件をめぐって発生することが一般的で、一七八五年七月、パリの石工・石切り工・モルタル工などの職人たちは日給引き下げに反対し、サント=ジュヌヴィエーヴ教会Abbaye Sainte-Geneviève de Parisやプティ・シャトレPetit Chateletなどの作業を放棄し、賃金維持に成功している。このように、彼らの経済観念は、利潤を追求する自由経済よりも基本的な生存権を重視し、当局には経済活動の規制を通して人々の暮らしを守る必要があるとする、伝統的な「モラル・エコノミー」に基づいているのが特徴的である。
そして、同じく第三身分に属す「農民」は、(東部のフランシュ・コンテや中央部のニヴェルネなどには農奴が存在していたものの)その多くが自由身分であり、土地所有者であった。アンシャン・レジーム下の農地は領主直領地と農民保有地に分かれ、後者の土地所有権は領主が上級所有権、保有農民が下級所有権を持つという二重構造をなしていた。土地所有農民が多い地方はアルザス、フランドル、ノルマンディのボカージュ地方、リムーザン、ロワール川流域、ソーヌ川やガロンヌ川流域に広がる平野部で、国土の北部よりも南部に多い傾向があった。ただし、王国全体を概観すれば、農民の所有地は平均三〇%程度と考えられ、その他の土地は聖職者・貴族・ブルジョワの手中にあった。したがって、農民の圧倒的多数は、 自分と家族を養いうる広さの土地を持つことはできず、飢えに苦しむ毎日を過ごしていた。農村で最も富裕な者は特権身分やブルジョワの所有地を借りて定額小作fermage(契約期間中は一定額の貨幣または一定量の現物を小作料として納める小作制度)を行う大借地農で、次が経営地の全部または一部を所有するラブルールlaboureurと呼ばれる階層であった。続いて小規模な定額小作農、収穫を地主と小作人とで分け合う分益小作métayageを行う小作農などが居り、最底辺では土地を持たない日雇農(農業プロレタリア)が生活苦に喘いでいた。農民の所有地面積は、一八世紀中葉以降の人口増加や分割相続によってさらに小規模となり、日雇農の数も急速に増大していた。註①
(二)財政問題と封建的貢租の関係
アンシャン・レジーム期のフランスにおいて、国論を二分していたのが財政問題である。その当時、 フランス王国は、英仏植民地戦争(第二次百年戦争)の敗北に続き、アメリカ独立革命(一七七五~八三年)に絡む出費で財政破綻に直面し、その改革が喫緊の課題となっていた。アンシャン・レジーム期の租税には直接税と間接税があり、前者には所得税(タイユ税taille)、人頭税(カピタシオンcapitation)、二十分の一税(ヴァンティエームvingtième)がありいずれも原則的には全所得を対象としていたが、特権身分(聖職者・貴族)は免除されることが多いため、第三身分(平民)とくに農民の負担が過大であった。また後者には国家の専売品、特に塩に課せられる塩税(ギャベルgabelle)や、 葡萄酒などアルコール飲料に課せられる物品税(エードade)、外国及び国内の関税などがあり、いずれも徴税請負人によって徴収された。二〇世紀のフランス革命史をリードしたジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvre(一八七四~一九五九)によると、一七八八年三月、国王ルイ一六世に提出された予算書では国庫収入が五億三〇〇万リーヴル、支出が六億二九〇〇万リーヴルとなっており、差し引き一億二六〇〇万リーヴルもの赤字となっていた。しかし、 より問題なのは支出内訳に占める負債総額三億一八〇〇万リーヴルという数字で、支出全体の五〇%以上を占めていたのである。近づく財政破綻を回避するためには増税が必要であったが、 第三身分の負担はすでに過重状態にあったため、新たな課税は不可能であった。例えば一七二六~四一年と一七八五~八九年とを比較すると、物価上昇が六五%であるのに対して労働者賃金は二二%しか上がっておらず、その一方で農民が負担する小作料は九八%も急上昇していたのである。
農民たちは国王だけでなくアリストクラート層arisutocrate(貴族及び高位聖職者)が課す諸負担も負わされたが、国王政府が徴収する租税や役務の拡充とともに、 アリストクラート層が命令する負担の方が重く感じられるようになった。例えば聖職者が徴収する「十分の一税」は、小麦・ライ麦・大麦・燕麦に課される〈大十分の一税〉とその他の雑穀や蔬菜、果実に課される〈小十分の一税〉があり、若干の畜産物にも十分の一税が課されていた。当時の農民が提出した陳情書によれば、こうした十分の一税は祭礼や聖堂・司祭舘の維持や貧民救済という本来の目的に使用されずに高位聖職者の収入となることが多く、「授封」されて世俗領主のものとなることさえあった。したがって、 村の司祭たちはせいぜい〈小十分の一税〉しか取り分がなく、農民たちは十分の一税を納めた後で祭礼維持費などを負担しなければならなかった。また、アリストクラート層は領民に対する領主裁判権を有していたが、 その中の司法警察権や刑事事件審理権を内容とする上級裁判権は彼らに何の利益ももたらさなかったので(一七七二年以降は)国王裁判所に付託し、民事訴訟や領主的諸貢租に関する紛争の司法・警察権を内容とする下級裁判権をより重視するようになった。その結果、領主裁判権から各種規制を布告する「罰令権」(バン領主権)や市場税・通行税を徴収する権利、城館の警備を命じる権利、領主のための個人的労役を課す権利、国王管轄下の主要道路を除く道路の所有権などが新たに発生してきた。とりわけ罰令権には生活に直結した製粉所・葡萄搾り器・パン焼き竈などの領主独占権(バナリテbanalit)や葡萄酒専売権が含まれていたから、農民たちの恨みを買う結果となった。また、アリストクラート層には領主裁判権に付随する名誉的特典として、 例えば教会における紋章付き特別席や聖水・聖餅の奉献、教会内陣下への埋葬、絞首台の設置、賦役労働の賦課など権利があったが、これらは農民の領主に対する従属を目に見える形で表していた。こうして農民たちの間には、十分の一税や封建的諸権利を盾に屈辱感を与え続けるアリストクラート層への憎悪の念が広がっていたのである。註②
(三)アリストクラート革命とブルジョワジーの革命化
1 「貴族の反乱」と全国三部会選挙集会
深刻な財政難の下で財務総監に就任したテュルゴやカロンヌ、財務長官ネッケルJacques Necker(在任一七七六~八一、八八~八九、八九~九〇)らが提案した財政改革案は、アリストクラート層に負担を分担させる内容であった。一七八七年四月末に名士会議が解散した後、 彼らの改革案はパリ高等法院から猛烈な反発を買い、地方の高等法院もこれに追随した。翌年五月八日、国王政府は高等法院の権限を縮小するため国璽尚書ラモワニョンGuillaume-Chrétien de Lamoignon de Malesherbesの改革を断行したが、パリ高等法院は全国三部会の開催を求めて国王政府と激しく対立した。その後、ディジョンやレンヌ、グルノーブルなど地方の高等法院や帯剣貴族・聖職者らが決起する「貴族の反乱」が全国に拡大し、グルノーブルではブルジョワも参加して三部会召集要求の運動が展開された。その結果、名士会議員から財務総監となっていたブリエンヌÉtienne-Charles de Loménie de Brienne(在任一七八七~八八)がついに一七九二年全国三部会召集を約束し、八月八日には召集日を一七八九年五月一日に繰り上げた。勢いを得た貴族たちの抵抗はさらに激化し、ブリエンヌに代わって再び財務長官に就任したネッケルは〈ラモワニョンの改革〉を撤回した。これは「貴族の反乱」の完全勝利を意味した。
こうした貴族の反乱の一つとして、一七八八年六月、第三身分と貴族が国王政府の軍隊と衝突する事件がドーフィネ州において発生している。そして翌月、騒動の中心にいた弁護士のムーニエやバルナーヴらが開いたヴィジーユ会議では、「地方三部会だけでなく全国三部会においても第三身分の議員数を特権身分の合計数と同じとする」ということが決議されたが、こうした動きはまもなく意味を持ってくる。それは、同年九月、パリ高等法院が身分別審議と三身分の代議員を同数とする〈貴族制原理〉に基づく意見を公表したのに対して、ブルジョワ階層を中心に「特権身分批判」の世論が沸き上がり、ブルジョワジーが独自の政治勢力として登場したからである。一二月に開催された国務顧問会議では第一身分、第二身分の議員合計と第三身分の議員とを同数とすることだけが決められ、会議の審議形式を身分別とするか、それとも合同して頭数制とするかについての決定は先送りしたことが、全国三部会冒頭の混乱を招くことにつながった。
一七八九年一月二四日、全国三部会代議員の一般的選出規則が公布されたが、肝心の選挙区に相当するバイイ管轄区の起源はフィリップ二世Philippe II(在位一一八〇~一二二三)の治世まで遡るもので、長い年月の間に地域間格差が拡大して全国一律の規則適用は困難となっていた。そこで、 全国のバイイ管轄区を「一級バイイ管轄区」と「二級バイイ管轄区」とに分け、後者の場合は全国三部会議員の直接選出を認めず、選挙集会メンバーの四分の一を「一級バイイ管轄区」の選挙集会に合流させることにした。そして、 世襲貴族の場合は封地の有無に関係なく選挙集会への参加を認めたが、新規授爵の貴族は第三身分の中に編入された。また、聖職者は司教・司祭の双方が聖職身分の選挙集会に出席することを認められたが、 全員が貴族出身である司教と、ほとんど全てが平民出身である司祭が同等の立場で出席することはアリストクラート層にとっては許しがたいことであった。一方、第三身分の選挙制度はさらに複雑であった。都市においては、第一次選挙が同業組合単位(非組合員の住民の場合は別個に集会を開催)で行われ、原則として職人にも投票権が与えられた。しかし実態は地域によって異なり、ランスにおける同業組合の選挙集会では親方しか出席を認めないか、あるいは親方にのみ決定権を与えている。また、人口の多いパリでは選挙直前(四月一三日)になって規則を決定したが、パリ市当局の商人頭Prévôt des Marchandsに与える招集権は旧市内・フォーブールの第三身分に限定し、旧市内・フォーブールの特権身分及び市壁外の全ての身分に対する招集権は王政役人のパリ長官Prévôt des Parisに与えている。また選挙単位は、聖職者は教区毎に、貴族は投票者数の均等を考慮して新たに設定した二〇の「デパルトマン」département毎に、そして第三身分は行政区の「カルティエ」quartierを三~四に細分化した六〇の「ディストリクト」district毎に第一次集会が開かれた。選挙資格は一七八九年初めの段階では「二五歳以上、三リーヴル以上の人頭税負担者」となっていたが、四月には「六リーヴル以上の人頭税負担者の男子で、パリに居住する者」とハードルを上げ、家事奉公人・職人・日雇い労働者などには選挙人資格を与えなかった。それに対して農村部では、 課税台帳に記載されている二五歳以上の住民は小教区単位の選挙集会への出席が認められたので、(両親と同居する成年男性を除いて)ほとんど全ての世帯主が出席資格を与えられた。註③
しかし、選挙制度の複雑さはこれだけではなく、第三身分の場合はそのことが結果的にブルジョワジーに有利な結果をもたらした。農村部では小教区単位の選挙集会において選出された第一次選挙人が全国三部会議員を選出する二段階選抜方式がとられ、都市部でも例えばパリにおいては地区代議員(選挙人四〇七人)が代表を選出するので同じく二段階選抜方式となった。しかし、多くの都市では諸団体の代議員がバイイ管轄区集会への都市共同体代表を選出し、この代表たちが小教区代議員と一緒に全国三部会代議員を選ぶ三段階選抜方式(二級バイイ管轄区の場合は前者が三段階選抜方式、後者が四段階選抜方式)がとられたため、民意から離れた代表が選ばれる可能性が高かった。また、選挙集会では呼名を受けた選挙人が会場前方に置かれた記入用紙の場所に移動して投票する方法が採られたために秘密性に乏しいだけでなく、集団的な陳情書を作成する必要から討論集会のような雰囲気を醸し出すことが多かったために、集会の政治的方向性はブルジョワや法曹界の人間たちが主導することになった。
一七八九年二~三月にかけて実施された特権身分の選挙集会では、宮廷貴族や自由主義貴族、新規授爵の貴族などは選出されず、アメリカ独立革命における活躍で一躍有名となった自由主義貴族のラ・ファイエット侯爵La Fayetteでさえ辛うじて当選に漕ぎ着ける有様であった。また、聖職者の集会では司祭の発言力が強く、オータン司教タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgordなど自由主義者が数多く当選した。そして四~五月に開かれた第三身分の選挙集会では法曹界の人々を議員に選出することが多く、ムーニエやバルナーヴ、 ル・シャプリエIssac-René-Guy Le Chapelier、ロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierreなどが当選している。例えば、四月二一日、一斉に開催されたパリの第一次選挙集会に集まった一万一七〇六人の職業別内訳は定かでないが、二三日に開かれた大司教舘における第二次選挙集会(選挙人集会)に集合した地区代議員四〇七人(選挙規則では一四七人と規定されていたが大幅に増加している)の内訳は法曹関係が四二%、商工業者が三四%、官職保有者が八%となっている。そして、 五月一二~一九日に明らかになった代表二〇人の内訳は、五名の弁護士を含む法曹関係者九人が最も多く、 大商人四人、官職保有者三人と続いている。第三身分の集会で選出された議員の中には、天文学者のバイイJean-Sylvain Baillyのようなアカデミー会員も含まれているが、聖職者集会で落選したアベ・シェイエス(シャルトルの司教代理)Abbé Sieyèsや貴族のミラボー伯爵Mirabeauが含まれていることにも注目する必要がある。
ところで四月二一日には、セーヌ川右岸の手工業者や地方からの移住者が数多く住むフォーブール・サン=タントワーヌFaubourg Saint-Antoineのサント・マルグリートでも第三身分の第一次選挙集会(ディストリクト集会)が開催された。その際、六人の選挙人の一人として選出された壁紙製造業者のレヴェイヨンRéveillonという男が「労働者の日給は一五スーで十分だ」という趣旨の発言をしたという噂が瞬く間にパリ市内を駆け巡った。二七日午後になって約五〇〇~六〇〇人の労働者がバスティーユ周辺に集まり、 ムフタール街を下ったところにあるゴブラン織り工場の建ち並ぶフォーブール・サン=マルセルFaubourg Saint- Marceauの労働者の加勢を得た。こうして約三万人に膨れあがった群衆は、市庁舎前のグレーヴ広場Place de la Greve(現在のオテル・ド・ヴィル広場)に集結して気勢を上げた後、隣接する集会でも硝石製造業者アンファン=トゥルヴェという男が同じような発言をしたとして家を襲撃され、翌日にはレヴェイヨンの家も火をかけられた。当時の職人や労働者の平均日給は一リーヴル(二〇スー)前後であったが、パリの民衆用パンの価格は一七八八年一一月に一二スー、八九年一月に一四スーと高騰を続け、二月には高等法院の介入で一四・五スーに価格を固定されたほどであった。したがって、新興ブルジョワの代表的存在にして〈民衆の敵〉たるレヴェイヨンの発言(本人は否定しているが)は、民衆の怒りを爆破させるには十分すぎる内容だったのである。但し、事件後の逮捕者約三〇人の中に、また死傷者の中にもレヴェイヨンの工場に雇われていた三〇〇人を超す労働者が一人も含まれていないことは、レヴェイヨン事件が労働争議ではないことを示している。鼓手を先頭に示威行進を開始した群衆は誰もが棍棒で武装し、ある者は厚紙に彩色した男の人形をくくりつけたT字型支柱を肩に担ぎ、また別の者は模擬裁判の立て札を掲げていたという。彼らは通行中のブルジョワに賛同を呼びかけて酒手をせびり、 ボルデ街の居酒屋で景気づけを行った後は、 グレーヴ広場で人形の公開処刑におよんだ。彼らの行動様式は、 ブルジョワの合理主義的行動とは明らかに異質なものであり、名付けるとしたら「政治的シャリヴァリ」charivari が適当であろう。註④
2 全国三部会から国民議会へ
さて一七八九年五月五日、国王ルイ一六世は、ムニュ公会堂に全国三部会を召集した。しかし、案の定、 会議の冒頭から議決方式をめぐるアリストクラート層と第三身分(とりわけブルジョワ)との対立が鮮明となった。すなわち、前者は身分制議会「全国三部会」の伝統にしたがって身分別に分離審議し投票することを主張し、後者は新しい時代に相応しい合同審議と個人別投票を掲げて一歩も譲らず、後者は開会劈頭の代議員資格審査から合同で行うよう強硬に主張した。そのため全国から集まった一二九六名(聖職者三三一名、貴族三一一名、平民六五四名、後に植民地から選出された議員一九名が加わって合計一三一五名)の代議員たちは、財政改革案の審議には全く入れないまま一カ月半の時が過ぎた。六月一〇日、第三身分はついに特権身分に最後通告を発して独自に合同審査を開始した。これは同年一月にアベ・シェイエスが「第三身分とは何か」と題するパンフレットを発行し、第三身分は特権身分を除外して単独で「国民議会」Assemblée nationaleを構成すべきだと提唱していたことも引き金となったのか、下級聖職者や地方出身貴族の一部が合流を始め、六月十七日にはついに国民議会が結成された。その頃、国王ルイ一六世は王太子ルイ=ジョゼフ(一七八一~八九)を失ったばかりでマルリの王宮に引き籠もっていたが、一九日夜、 王弟アルトワ伯爵comtes d'Artois(後のシャルル一〇世)ら強硬派が国王に働きかけて議場を閉鎖するという強硬策に出た。そこで国民会議は、やむを得ずヴェルサイユ宮殿の球戯場に議場を移し、討論を再開させた。その際、ムーニエが提案した「憲法制定まで国民議会を解散しない」という文面を議長のバイイが読み上げると、後に革命の節目で活躍することになるミラボーやシェイエス、ラ・ファイエットら多くの議員たちの間から国王を讃える歓呼の声がわき上がり、五七七名が署名に参加した(球戯場の誓い)。翌二一日には球戯場も閉鎖されたため、国民議会はやむを得ずサン=ルイ大聖堂に移動したが、二七日にはついに折れた国王の勧告を受けて貴族身分も国民議会に出席することとなった。こうして全国三部会における三身分の合流が実現し、議決方式も個人別投票で決着を見た。七月九日、国民議会は憲法委員会の委員を任命し、これ以後国民議会は「憲法制定国民議会」Assemblée nationale constituanteと呼ばれることになる。
ところが、貴族身分の大多数はその後も国民議会への出席を渋り、例え出席しても討議や投票への参加を拒否するようになる。それと時を同じくして、六月二六日以降、国王はパリとヴェルサイユ周辺に軍隊約二万人を集結させ、司令官にブロイ元帥Victor-François, duc de Broglie、パリにおける司令官代理にはブザンヴィル男爵をそれぞれ任命した。七月八日、国王周辺の不穏な動きに不安を覚えた議会側は軍隊召集の理由を問いただしたが、国王側からは秩序維持という説明だけが返ってきた。そして一一日に開かれた国王顧問会議では目障りなネッケルの罷免を決定し、保守的なブルトゥイユ男爵Breteuilを中心とする新内閣を発足させた。こうして政局は、従来からの〈国王とアリストクラート層の対立〉という構図から、 明らかに〈国王=アリストクラート層連合と第三身分の対立〉へと転換したのである。註⑤
(四) 民衆革命の勃発
1 バスティーユ牢獄襲撃
一七八九年七月一二日(日)の午後、財務長官ネッケルの罷免という報せがパリに伝わり、国民議会に対する武力弾圧の動きが顕わになると、富裕市民層(ブルジョワ)は選挙人集会においてコミューン議会の設置を決議し、選挙が行われるまでは「常設委員会」を設けてその権限を委ねることにした。革命前夜の不穏な空気が広がる中、落ち着きを失った市民たちが駆けつけたパレ・ロワイヤルPalais-Royalの広場では、カミーユ=デムーラン(ジャーナリスト)Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulinsがピストルを振りかざしながら「武器をとれ!」と絶叫していた。彼の言葉に突き動かされた多くの民衆がパレ・ロワイヤルからネッケル、オルレアン公の蝋人形と黒旗を先頭にして示威行進を開始し、ルイ一五世広場(現在のコンコルド広場)にさしかかったところでランベスク公爵Charles-Eugène de Lorraine, prince de Lambesc率いる王室付ドイツ人傭兵部隊と衝突した。民衆側にはフランス衛兵部隊が応援したから衝突は市街戦へと発展し、群衆の中には後に山岳派(モンタニャールMontagnards)の中心的役割を果たすことになるダントン(弁護士)Georges Jacques Dantonやマラー(医師)Jean-Paul Maratらが含まれていた。その当時、ダントンはパレ・ロワイヤル側のテアトル・フランセThéâtre Françaisと呼ばれた地区に住んでおり、この地区の民衆を扇動して運動に身を投じたのである。ブザンヴィル男爵率いる国王軍がシャン・ド・マルス Champ-de-Marsに引き上げた後のパリは混乱と無秩序の世界と化し、民衆の怒りの矛先はパリを囲む城壁の市門(バリエールbarrière)近くに建設されていた入市関税事務所に向けられ、パッシー市門Passy など四〇カ所が襲撃された。また、同日深夜から翌朝にかけてフォーブール・サン=ドゥニ Faubourg-Saint-Denisにあるサン・ラザール修道院 Saint-Lazareが襲撃され、穀物が押収された。註⑥
一三日、国王の軍隊がセーヴルSèvresとサン・クルーSaint-Cloudを結ぶ橋が押さえたため、 パリの民衆はヴェルサイユにある国民議会からの情報を全く失った。彼らの間には国王の軍隊がパリを完全包囲し、今にも総攻撃が仕掛けられるという噂が広がった。警鐘が鳴り響き、民衆は市門の警護だけではなく、市内にバリケードを築いて武器調達に奔走した。また、各ディストリクト集会ではそれぞれ八〇〇人をブルジョワ民兵(後の「国民衛兵」)に提供することを決定し、フランス衛兵も協力を約束した。市庁舎Hôtel de Villeに設置された二一名の常設委員会(議長は商人奉行ドゥ・フレッセルJacques de Flesselles)が民兵組織を編成した理由は、国王軍に対抗してパリの自衛を図ると同時に、民衆の無軌道な直接行動をコントロールして市内の秩序を確保することにあった。したがって、民兵は身元の確かなブルジョワ層から選抜しなければならず、委員会が調達しうる武器や軍需品は彼らのために手渡す予定であった。しかし、恐怖心に駆られた多くの群衆が市庁舎に押し寄せ、商人奉行に兵器廠を開けさせた。だが、 そこには約三六〇人分の小銃しかなく、全員の武装にはあまりにも少なすぎた。そこで今度は約七〇〇〇~八〇〇〇人に膨れあがった群衆がセーヌ右岸をひた走り、一四日朝、橋を渡ったその先にあるアンバリッドInvalides(廃兵院)で三万二〇〇〇丁の小銃を入手し、その後、バスティーユ牢獄Bastilleにも多くの武器が蓄えられているとの噂が広がったため、今度は反転してセーヌ川の両岸を流れに逆走してバスティーユにたどり着いた。バスティーユは高さ三〇メートルの城壁と二五メートル幅の壕で囲まれた堅固な牢獄で、司令官のドゥ・ローネー侯爵Bernard-René de Launayを中心に守備隊八〇人とスイス傭兵三〇人が警護に当たっていた。しかし、興奮した群衆は、武器と軍需品の引き渡しと町に威圧を加えている大砲を砲眼から引っ込めるよう要求し、長引く交渉の末に結局は銃撃戦となった。侵入者側は少なくとも九八人の死者と七三人の負傷者を出したが、ついにバスティーユ陥落に成功した。その後、彼らは槍先に司令官ドゥ・ローネーやこの日の対応の不手際を問われた商人奉行ドゥ・フレッセルの晒し首を掲げて市中を練り歩いた。襲撃に直接参加した者はせいぜい八〇〇~九〇〇人程度で、その中核を担ったのはフォーブール・サン=タントワーヌやマレ地区の住民と思われるが、従来とは異なって参加者の住居がパリ全域に広がっていた点に特徴が認められる。また、参加者の中には中流ブルジョワも含まれていたが、多くは指物師・家具師・錠前師などの製造業や小売業、建築、一般雑業に従事する小ブルジョワと彼らの庇護の下で暮らす職人や労働者たちであり、彼らのほとんどの者が国民衛兵に属していた。註⑦
そして、彼等にあったのは、理想を追い求める正義感だけではなかった。それよりも当時の社会に異議を挟むことで受けることになる「権力の報復」に対する恐怖心や、迫り来る国王軍の「暴力」に対する恐怖心の方が大きかったのではないかと想像される。それというのも、バスティーユ牢獄には「四人の偽造者と、貴族の家系の二人の狂人、ヴィット・ド・マルヴィル伯爵、ソラージュ伯爵と、ダミアン暗殺に関わって三十年来収容されていた反狂人のタヴェルニエ」(アルフレッド・フィエロ『パリ歴史事典』 鹿島茂監訳 白水社)の七人しか収監されていなかったからである。それにもかかわらず、襲撃対象とされた理由は専制主義の象徴だったからであり、そのことが彼等の中に広がっていた動揺と恐怖心の強さを物語っている。そもそも、パリには一九世紀にサンテ刑務所が建設されるまでは受刑者を収容する「刑務所」が存在していない。受刑者は、一七四八年までは海軍が持つガレー船の漕役囚として酷使され、それ以後も(ヴィクトル・ユゴーVictor-Marie Hugoが小説『レ・ミゼラブル』の中で描いたように)トゥーロンやブレストの海軍工廠の徒刑場で港湾作業に従事させられたのである。したがって、パリ市内の牢獄の大半は容疑者ないしは未決囚を収容する「拘置所」であり、今日のシャトレ広場Place du Châteletに建てられたグラン・シャトレや、マレ地区のフォルス牢獄(一七八二~一八四五年、グランド・フォルス)や女子用牢獄プティット・フォルスのような凶悪犯が収容されている「牢獄」を襲撃して彼等を解放する行為は余りにも危険すぎる、と認識していたからこそ襲撃対象から外されたのである。
2 農民蜂起と大恐怖
革命勃発の翌一五日、市庁舎に設けられた常設委員会(後の臨時委員会comité provisoire)はパリ市長maireとして国民議会議員のバイイを任命し、一七~二三日に各ディストリクトごとに行われた投票で市民の批准を受けた。この時から市当局は、〈自治的コミューン〉という性格に変化した。七月二五日、バイイは各ディストリクト二名の代表を選出して「パリ・コミューン代表者会議」(一二〇人会議)Assemblée des Représentants de la Commune de Parisを設置したが、やがて八月五日からは「一八〇人会議」、九月一九日からは「三〇〇人会議」へと発展し、そのうち六〇名が市評議会メンバーとして市長の行政を補佐することになった。また七月一五日には、民兵組織を「国民衛兵隊」garde nationaleと改称して総司令官にはラ・ファイエットを据えている。この時、ラ・ファイエットが兵士に与えた「パリ市の色である赤と青との間にブルボン王家の白を挟んだ徽章」こそが今日のフランス国旗の源である。なお、国民衛兵隊は各ディストリクト単位に五〇〇人が選出されて五中隊=一大隊が編成され、一〇大隊が一師団となるため、パリ全体では六師団、三万人の軍隊が編制された訳である。しかし、軍隊経験を持つ貴族の多くは有給の中隊、それも司令部直属の部隊に配属されたために、ディストリクトと中央司令部との間には溝が生じてくる。
一方、七月一五日のうちに国民議会に赴いて軍隊の送還を告げた国王は、翌日にはネッケルを財務長官に復職させ、一七日には国民議会の主だった議員とともにパリに出向いてバイイらの歓迎を受けることになる。しかし、首都パリに発した暴動は、燎原を走る炎のように瞬く間に全国に拡散した。多くの地方都市では決起した市民代表が民兵を組織して市政を掌握する「市制革命」を行い、農村部では槍や鎌で武装した農民たちが領主や地主の屋敷を襲撃し、封建的支配の象徴である土地台帳を焼却した。地方における蜂起は、ノルマンディのボカージュ地方、ピカルディ州、フランシュ・コンテ州、マコネ地方の四カ所で発生した。先ずボカージュ地方では、七月一七・一八日、ファレーズの週市で発生した暴動を契機として愛国派がカーンの城館を占拠し、二二日以降は農民反乱がノワロー川やマイエンヌ川周辺まで広がって八
月六日まで続いた。また北フランスのピカルディ州ではスカルプ川流域やサンブル川南部の修道院が襲撃された。東部のフランシュ・コンテ州では、七月一九日、ヴズール近くのカンセー城で起きた爆発事故が契機となって約三〇の城館が掠奪・放火の対象とされ、オート・アルザス地方でも七月二五日から三〇日にかけて反乱が発生している。そしてマコネ地方のイジュで発生した民衆蜂起は、南のボージョレ地方まで広がった。これらの民衆蜂起に共通していることは、攻撃対象がアリストクラート層であり、農民反乱の最大の目的はアリストクラート層が持つ領主的諸権利を放棄させることにあった。彼らもまた都市民衆と同じく、当局がやるべき正義の代執行をするという「モラル・エコノミー」の観念が背景にあったのである。したがって農民反乱における殺傷ざたはごく僅かで、彼らは領主的諸貢租徴収の根拠となっていた土地台帳など文書の焼却に主たる眼目が置かれていた。しかし、決起した民衆の間には「アリストクラートの陰謀」に対する恐怖心が渦巻いていたのも事実であった。貴族が野盗や浮浪者を雇って押し寄せてくるという噂が流れてパニック状態に陥った農民たちは、過剰なまでの〈防衛的反作用〉を示して武装を急ぎ、フランス全域が「大恐怖」Grande Peurと呼ばれる騒乱状態に陥ったのである。註⑧
3 封建的特権廃止宣言とフランス人権宣言
八月四日夜、国民議会(議長はル・シャプリエ)が再開され、国王から委任された農民暴動対策が話し合われた。彼らは当初、都市の民衆蜂起に関しては国民衛兵の設置で抑え込むことができるが、農民を服従させるには国王の軍隊とプレヴォ裁判に委ねる必要があると判断していた。前日の報告委員会では「議会が、地方当局に対しては秩序の回復を、人民に対しては租税・十分の一税・封建的諸貢租の支払いの継続を命じる」という布告が検討されたが、国王の軍隊に頼るとせっかく抑えた国王や宮廷勢力が再び力を増しかねないとの懸念から〈農民に満足を与える〉方針に切り替えている。当日、演壇に立った自由主義貴族ノアイユ子爵Noailles(ラ・ファイエットの義兄)は、租税負担の平等、封建的諸権利の買い戻し(有償廃止)、賦役・農奴制及びその他一切の人身的隷属の無償廃止を提案した。しかし、続いて登壇した自由主義貴族でフランス最大の土地所有者の一人であったエギヨン公爵Aiguillonは、すべて「買い戻し」という動議を提出している。深夜二時まで続いた議論の末、採択された「封建的特権廃止宣言」の内容は基本的に前者の意見に沿うものだった。すなわち、免税特権の廃止だけでなく、領主裁判権その他の〈人的権利〉は無条件かつ無賠償で廃止とするが、〈物的権利〉たる封建的地代は「買い戻し」とすると決定された(八月一一日法令化)。こうして第三身分は、封建的人身支配や身分差別という人格的隷従から解放されたが、一七九〇年五月の法令で貨幣地代は二〇年分の年貢、生産物地代は二五年分の年貢の一括払いによる封建的地代の廃止(買い戻し)とされ、農民にとっては極めて困難な課題が残ったのである。封建的地代の問題が当初の「無償廃止」から「有償廃止」へと変更されたのは、改革派議員の多くが領主・地主層出身であったためで、まさに顴骨堕胎の結果となった。また、領主直領地は地主が完全な所有権を有していたので解放の対象とはならなかった註⑨
そして一七日にはラ・ファイエットら五人委員会が起草した「フランス人権宣言」(人間及び市民の権利の宣言、全一七条)が議会に提出され、二六日に採択された。この宣言は立憲王政派が準備していた憲法前文に相当するもので、フランス社会にはびこってきた社団原理を否定し、何人をも差別しない「法の前の平等」を謳いあげるとともに、自由・平等の権利を掲げて専制政治からの解放を宣言した(「第一条 人は生まれながらに自由であり、 権利において平等である。社会的な区別は、共同の有益性にもとづく場合にのみ、設けることができる。第二条 あらゆる政治的な結合の目的は、人が自然に持っている取り消しできない諸権利を保全することにある。それらの権利とは、自由、所有、安全、抑圧への抵抗、である。」)。この第一条、第二条の条文にはイギリス経験論哲学者ジョン・ロックJohn Locke(一六三二~一七〇四)『市民政府二論』に出てくる「抵抗権」の影響が顕著であり、第三条「あらゆる主権の根源は、本質的に国民のうちにある。いかなる団体も個人も、明白に国民から由来するものでない権限を行使することはできない」とする「国民主権」の精神は、啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーJean-Jacques Rousseau(一七一二~七八)が『社会契約論』に書いた「人民主権」主義に源がある。しかしその一方で、革命の急進化を警戒した立憲王政派の一人であるデュポールAdrien Jean Francois Duportは抜け目なく第一七条「所有は、神聖で不可侵の権利であるがゆえに、適法に確認された公共の必要性が、事前の適正な補償という条件のもとで明白に要請する場合以外には、人は所有を奪われることはない」として、「所有権の不可侵」を挿入することを忘れてはいなかった。註⑩
4 一〇月事件(ヴェルサイユ行進)
革命の嵐がいったん沈静化した八月末、国民議会に結集し立憲政治を求めていた「愛国派」patriotes内部に亀裂が生じた。革命の進行に恐れを抱いたラリー・トランダールTrophime Gerard Lally-Tollendalやクレルモン・トネールClermont-Tonnerreらの保守グループ(穏健派)にムーニエらが参加し、貴族身分のための上院設置と、立法府決定を無効にできる国王の「絶対的拒否権」を主張したからである。それに対して愛国派内部の多数派となったバルナーヴ、デュポール、アレクサンドルとシャルルのドゥ・ラメット兄弟Frères Lameth(所謂「三頭派」Triumvirat)ら左派の人々はいずれもこれに反対し、ラ・ファイエットがパリ駐在米国大使ジェファソン Thomas Jefferson(在任一七八五~八九、後の第三代米国大統領)の邸宅で取り持とうとした調停も失敗に終わった。こうした動きに動揺した民衆は、八月三〇日、再びパレ・ロワイヤルに集結して示威行進を開始し、翌日には市庁舎に出向いて「ディストリクト会議の意向を聞け」と要求した。一方、穏健派の人々はアリストクラート層と協力して、九月一日には議会をソワッソンかコンピエーニュに移すことを国王に提案して発言力を増していた。一〇日に行われた憲法制定国民議会における二院制議会問題の票決では右派の棄権もあって八九票しか賛成が得られなかったが、翌日には国王の絶対的拒否権を承認させている。しかし、国王ルイ一六世は八月に成立した諸法令を未だ批准せず、九月二三日にはドゥーエに駐屯していたフランドル連隊約一〇〇〇人がヴェルサイユに到着して再び反革命の動きが蠢きだした。
ちょうどその頃、前年から続いた凶作は穀物価格の高騰を招き、革命の進行は失業者の増加と通貨の国外流出をもたらしていた。革命勃発の前日に一五・五スーにまで高騰した民衆用パンの公定価格は、八月に入ってパリ市の財政負担によって一二スーまで引き下げられたが、搬入不足が深刻となって民衆の不満は頂点に達しようとしていた。しかし、国民議会は八月二九日の法令で「穀物および穀粉の販売及び流通は王国の内部で自由たるべし」という〈穀物取引の自由〉という基本原則を定めてブルジョワ寄りの姿勢を鮮明にした。ところが九月に入って、マラーが創刊した『人民の友』やカミーユ・デムーランが作成したパンフレット(七月『自由フランス』、九月『パリ人への街頭演説』)が民衆を大いに刺激し、多くの支持を集めるようになる。そこへ一〇月一日、ヴェルサイユで事件が起きた。王や王妃も臨席したフランドル連隊歓迎の宴席において、士官たちが新生フランスを象徴する「三色の徽章」を踏みにじったのである。この事件は早速パリに伝えられ、パレ・ロワイヤルの広場や、ダントンが議長を務めていたコルドリエ・ディストリクトでは国王をパリに移すべきか否かが話し合われた。
五日の朝八時頃、パリ市内の女性たちがフォーブール・サン=タントワーヌや中央市場Les Hallesに近いサン=トゥスターシュSaint-Eustache界隈から市庁舎前に集まりだし、パンと夫たちのための武器を要求した。ところが、あいにく市長バイイや国民衛兵司令官ラ・ファイエットが不在だったため、男たちも加わった群衆は、急遽「ヴェルサイユ行進」La Marche des Femmes sur Versaillesを決定し、一〇時半頃には市庁舎内にあった武器を掠奪した。こうして「バスティーユ義勇兵」の一人マイヤールという若者の指揮の下、約六〇〇〇~七〇〇〇人に膨れあがった群衆がヴェルサイユ宮殿に向けて出発したのである。ラ・ファイエットはようやく正午頃になって市庁舎に姿を見せたが、そこに駆けつけた国民衛兵たちもヴェルサイユ行進を要求した。そこでラ・ファイエットとコミューン議会の委員二人が随行する形で国民衛兵とその他の群衆、少なくとも二万人がパリを出発したのは夕方五時頃であった。この日、ヴェルサイユでは午前中から国民議会が開かれ、国王による「八月・九月の諸法令に条件付同意を与える」という回答をめぐって激論が交わされていた。午後四時頃、雨でずぶ濡れになった女性たちが議会に到着し、入場を許されたマイヤールと女性代表は食糧確保とフランドル連隊の退去を要求したところ、議長ムーニエは食糧供給の確保だけを国王に求めることを決定した。一方、国王ルイ一六世はいつものように狩猟に出かけていたが、大臣サン・プリーストSaint-Priestからの伝言で近衛兵六〇〇人とフランドル連隊を呼集し、午後三
時には国務顧問会議を召集した。五時半頃、議場を出た女性たちが宮殿入り口の鉄柵まできたところ、近衛兵に押しとどめられた。彼女たちは王妃マリ・アントワネットの出産に駆けつけるほど国母に対する信頼感を寄せた時期もあったが、この時には会ってもくれない国王夫妻に苛立ちを募らせた。その後、議会からやって来たムーニエやその同僚議員の後に付いて行く形で六名の代表が入場を許され、国王からパリに小麦を送ること、ヴェルサイユにある限りのパンを提供することが約束された。ところが、夜九時過ぎにラ・ファイエットが派遣した二人の士官が宮殿に到着し、再度召集された国務顧問会議では宮廷の移転と諸法令の無条件受理を決定した(国王はその後意見を変えてヴェルサイユ残留を決めた)。ラ・ファイエットがヴェルサイユ宮殿に着いたのは夜一一時頃で、国務顧問会議は未明の三時頃に散会した。翌六日の午前六時頃には、泊まるところもなく夜を過ごした群衆が宮殿の鉄柵のところに集まりだし、 開け放しになっていた柵から中庭に入ったところで近衛兵と衝突した。群衆はラ・ファイエットの自制の声も聞かずに宮殿内へと乱入し、「王妃の間」にいたマリ・アントワネットは逃げ惑い、国王の居間に逃げ込んだところで国王や子どもたちとともに捕らえられた。こうして国王夫妻はパリのテュイルリ宮殿Palais des Tuileriesへと連行され、一一月九日には憲法制定国民議会もかつてルイ一五世がつくらせた調馬場にある二階建ての建物へと移転した。そしてこうした混乱の中、ムーニエら王党派議員の多くが国外や地方へと逃亡し、その後はラ・ファイエットやミラボーらの自由主義貴族が革命の主導権を握ることになったのである。註⑪
(五)立憲君主政治とその崩壊
1 九一年体制の成立
一七九〇年五月二一日、国民議会はパリ市の新しい在り方に関する審議を開始した。そして、 一カ月後の六月二一日には三〇〇人委員会が提出した原案に近い決定がなされ、自治権を主張するディストリクト側の要求はほぼ完全に拒否された。新市制によれば、パリの中央機関の役人はすべて市民の選挙で選ばれることになり、その選挙と行政の単位は従来の六〇のディストリクトから新たに編成される四八の「セクション」sectionへと変更された。また、 新たな市の選挙は直接選挙方式が採用され、 セクション毎に開かれる選挙集会において市長やコミューン総代procureur de la Commune・総代代理substiut(二名)・総評議会conseil général議員が選出された。総評議会議員の場合はセクション毎に三名が選ばれるため計一四四名が選出されたが、 その中からセクション毎に自治体役人一名を選び、さらには計四八名の自治体役人の中から五部局に分かれる一六名の行政官を選出した。こうして選ばれた役人たちは市長とともに市の執行機関となり、その他の総評議会議員九六名は名士notableと呼ばれた。一方、市以外の県・国レベルの選挙では、各セクションの住民数に比例した数の選挙人を選び、選挙人会議が役人・議員などを選ぶ間接選挙方式がとられた。なお、選挙集会への参加資格は〈能動的市民〉citoyen actifと呼ばれた「二五歳以上のフランス人男性で一年以上在住し、三日間の労働日に相当する直接税(パリでは三リーヴル以上)の納税者」に与えられ、選挙人や総評議会議員の被選挙資格は能動的市民のうち「一〇日間の労働日に相当する直接税(パリでは一〇リーヴル以上)の納付者」に付与された。また各セクションの総会では、治安維持や行政の手足となって動く警察委員やその書記、治安判事(それぞれ一名)や民事委員会(一六名)も選出された。さらには、ディストリクト時代には認可されていた総会の常時開催権(ペルマナンスpermanence)は認められないと決定した。こうして新市制は、新たに誕生したセクションを市当局の従属機関と位置づけ、民衆が求める〈直接民主制〉としての性格をほぼ完璧に否定するものとなった。その結果、市政を担う者はどのように変化したのか。先ず能動的市民の有資格者数はパリ全体で約八万一二〇〇人と推定されているが、その内訳は商工業に直接関係するブルジョワが過半数を占め、残りは法曹界などの自由職業人などで、職人や日雇い労働者は極めて稀であった。彼らのうち実際に登録されたのは半分以下と思われ、 しかも選挙集会や総会への出席率は極めて低かった。こうして市長バイイは再選され、総代・総代代理の三名も元高等法院の弁護士が選ばれたために市政の連続性は維持されたが、その一方で〈受動的市民〉(民衆)の声は市政に反映できない状況が続いた。したがって、新市制の下で窮屈な思いを強いられた活動家たちは、セクションの外側に自由な運動の場を求めることになった。
こうした状況のもとで一七九〇年以降のパリ市内に誕生したのが、「人民協会」société populaireである。政治クラブという概念からすれば、一七八九年一一月、サン=トレノ街Saint-Honoréのジャコバン修道院(ドミニコ修道会)内につくられた「憲法友の会」が最も早い。憲法友の会は全国三部会時代にブルターニュ出身の第三身分議員が結成した「ブルトン・クラブ」に始まり、ヴェルサイユ行進後は所謂「ジャコバン・クラブ」Club des Jacobinsと呼ばれ、一七九二年九月以降は「ジャコバン協会、自由と平等の友」と改称した。しかし、これは国民議会の議員たちが主導権を握る院外クラブであり、終始一貫してブルジョワのクラブであって民衆は一人も参加していない。したがって、多くのセクションに誕生した民衆的色彩の濃い人民協会としてはセーヌ川左岸のコルドリエ修道院内に居を定めた「人間と市民の権利の友人会」(通称「コルドリエ・クラブ」Club des Cordeliers)が初めてであり、ここからは山岳派(モンタニャールMontagnard)のダントンやデムーラン、ジャン=ランベール・タリアンJean-Lambert Tallien、エベール派のモモロAntoine-François MomoroやヴァンサンFranCois-Nicolas Vincent、ショーメットPierre-Gaspard Chaumetteなど著名な活動家が輩出している。註⑫
2 シャン=ド=マルスの虐殺
人民協会の設立が続いていた一七九一年の四月二日、国王の信頼が篤かったミラボーが急死し、もはや頼みの綱はラ・ファイエットのみとなった。革命の進行に伴う貴族や大ブルジョワの亡命は景気低迷となって暮らしを直撃し、巷にあふれた失業者は大量の浮浪者や乞食となって社会秩序を揺るがしていた。その間、印刷博愛クラブや大工職労働者友愛同盟などの「職人組合」が結成され、これらに刺激された蹄鉄工・帽子職人・靴工なども賃上げを要求して労使紛争が多発するようになった。パリ市当局がこうした問題の解決に手をこまねいていたわけではなく、すでに革命前の一七八九年五月には失業者対策としての公共事業を始めていたが、失業者の数はいっこうに減る傾向を見せず、九一年六月にはその数が三万一〇〇〇人に膨れあがって公共作業場閉鎖に追い込まれた。こうした情勢に危機感を抱いたブルジョワジーは、一七九一年三月二日、アラルド法loi dAllardeを制定してコルポラシオン(宣誓ギルド)を正式に廃止し、六月一四日の国民議会ではル・シャプリエ法(労働者団結禁止法、 一七九一~一八八四年)loi de Le Chapelierを定めて同一職種の職人・労働者の結社及び誓願、賃金協定を禁止し、一八八四年に結社法(バルデック・ルソー法) loi sur les associations制定まで間、フランスの労働運動はながい苦闘を強いられることになる。
ル・シャプリエ法制定後まもない六月二〇日の深夜、国王一家が密かにテュイルリ宮殿を抜けだしてオーストリアへの逃亡を図るという前代未聞の事件が発生した(ヴァレンヌ事件)。国王一家は翌日の夜にヴァレンヌVarennesで取り押さえられ、二五日にはパリに連れ戻されたが、パリ市内には革命を見捨てた国王に対する侮蔑の感情が広がり、共和制を求める声すら上がり始めた。コルドリエ・クラブは民衆の声に押されて合計一七回もの請願書を議会に提出し、市中のデモ行進をたびたび組織した。しかし、当時の国民議会は愛国派右派(ラ・ファイエット派)やジャコバン・クラブ右派(三頭派)が有力であり、彼らは必死に国王夫妻の無実を主張し、七月一五日には議会が設けた調査委員会から「国王は誘拐された」という報告書が提出されている。この報告書の内容に反発したジャコバン・クラブでは、ダントンやブリソーJacques Pierre Brissotらの請願起草委員を独自に選出し、翌日までに「国王の復権は国民の同意を必要とするが、その運動は憲法に基づく手段による」という内容の請願書をまとめた。しかし、この請願書をめぐってジャコバン・クラブは左右に分裂し、三頭派をはじめとする右派は近くのフィヤン修道院へ移り、 ラ・ファイエットの「一七八九年協会」と合流して新しい党派「フィヤン派」 Club des Feuillantsを結成し、 富裕市民(ブルジョワ)や自由主義貴族の期待を集めるようになる。一方、公共事業廃止に反対していた労働者大衆やコルドリエ・クラブなどは、その日、パリの練兵場シャン=ド=マルスChamp-de-Marsにおいて大規模な請願大会を予定していたが、ジャコバン・クラブの請願内容の再考を促すために翌日に延期した。ところが同日、国民議会が「国王が憲法への宣誓をすれば王権停止を解いて復権させる。不測の事態に備えて国民衛兵に予防措置を講じさせる」の二点を決議したため、ロベスピエールらジャコバン・クラブ左派は妥協して翌日の請願大会中止を決定した。ところが、ジャコバン・クラブ左派の決定はほとんど伝わらなかったようで、翌一七日、街頭の新聞売りの呼びかけに応じた群衆約五万人がシャン=ド=マルスに集合してしまった。これだけの人数を動員できたのは、人民協会が労働者の社会的不満を政治運動へ転化させることに成功したからにほかならない。だが、群衆の動きは市当局が許可している請願署名だけでなく、次第に禁じられていた「集合」の様相も見せ始め、そのうち取り囲む国民衛兵一万人に対して投石を開始した。緊迫した状況の中で市当局は戒厳令を発し、国民衛兵の発砲で五〇人以上の死者をだす大惨事に発展した(シャン=ド=マルスの虐殺Fusillade du Champ-de-Mars)。かくして革命を指導してきたラ・ファイエットの人気は凋落の一途をたどり、後に市長バイイが処刑される原因ともなった。シャン=ド=マルス事件は一七八九年の七月蜂起で成立した市当局・国民衛兵と民衆がはじめて公然と敵対したわけで、革命が新たなる段階に突入したことを示している。
ところで、保守派の妥協路線を排して革命をさらに徹底させようとした改革派にとっても、民衆運動の持つ潜在的なエネルギーを統御できる術はなく、活動家の一部は人民協会から再びセクションへと戻っていった。シャン=ド=マルス事件の後、市当局は参加者を根こそぎ逮捕しようとし、コルドリエ・クラブも閉鎖された。しかし、ジャコバン・クラブにとって幸いしたのは、事件を挟んで六~九月にかけて全国一斉に「立法議会」 Assemblée législativeのための選挙が行われたことであった。全国三部会代議員がそのまま横滑りした国民議会(憲法制定国民議会)と異なり、立法議会では前議員の再選禁止が定められていたために、保守的貴族の姿はほぼ完全に消え失せた。また、〈能動的市民〉数を納税額で絞る制限選挙制としたため、小ブルジョワや民衆が選出される心配も少なかった。そして選挙集会は、 公正さを期して(立候補制を採らずに)絶対的多数を得る者がでるまで投票を繰り返す方式がとられて長期化した。そして、 そのことが仕事を持つ一般市民の足を遠のかせ、特定の活動家が牛耳ることにつながったのである。例えばパリの議員選挙では、選挙人の多くが九一年体制派(保守派)によって占められていたが、彼らの間には現状肯定と選挙への無関心が広がって参加者が少なかった。こうした情勢の下で改革派は結束して選挙運動を展開し、二四名のパリ選出議員のうちブリソー、コンドルセ(山岳派に属した数学者・社会改革者)Condorcetら七名のジャコバン系選挙人の選出に成功した。また、立法議会議員として全国各地から選ばれてきた総数七四五名の多くは元来フィヤン派を支持していたが、改革派の説得工作が功を奏してジャコバン派議員一三六名を確保できたのである。バイイの辞職にともなって一一月に行われた市長選挙でも、ジャコバン派のペティオンPétionが国民衛兵司令官を辞して選挙に打って出たラ・ファイエットに大勝し、 総代にはマニュエルPierre Louis Manuel、総代代理にはダントンというともに改革派の活動家が市幹部に選ばれた。註⑬
3 革命戦争と八月十日事件
一七九一年九月三日、神聖ローマ皇帝レオポルト二世Leopold II(在位一七九〇~九二、マリ・アントワネットの兄)とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム二世Friedrich Wilhelm II(在位一七八六~九七)が、フランス革命に対する共同警告宣言(「ピルニッツ宣言」Déclaration de Pillnitz)を発してから一週間が経ったこの日に、立憲王政派の懸案であった「一七九一年憲法」がようやく成立し(九月一四日公布)、 立憲王政が開始された。この憲法下では三権分立の原則が採用され、立法権は一院制の立法議会(総数七四五名)に、司法権は裁判所に、そして執行権(行政権)は国王に属した。しかし、国王は議会に対して停止的拒否権(二会期四年間のみ議会の可決した法案を拒否できる権利)しかなかったために、議会の決議が国政を左右することとなった。一〇月一日に開会した立法議会では右翼席にフィヤン派二六四名、中間に独立派三四五名、左翼席にジャコバン派一三六名が座り、一二月九日、フィヤン派内閣が成立した。しかし、 議員を辞めたバルナーヴら三頭派が影響力を持ち続けたフィヤン派は、「封建的特権の無償廃止」に反対して宮廷貴族と結ぶなど、反革命的傾向が明らかとなってブルジョワ層の支持を失っていく。一方、ジャコバン派もブリソーやヴェルニョPierre Victurnien Vergniaud(ジロンド県選出)を中心とするブリソー派(後のジロンド派 Girondins)と、ダントン、マラー、ロベスピエールを中心とする左派(後の山岳派)とに分裂し、前者が有力者のサロンを活動の場として商工業ブルジョワと結びついたのに対して、後者は議員を辞めて『憲法の擁護者』という定期刊行物の発行人となったロベスピエールを中心にサン・キュロット(無産市民)Sans-culotteの支持を集めていた。その間、フランス各地では一七九一年秋から小麦価格の高騰で食糧問題が再燃し、サン・ドマング島の奴隷反乱に伴ってそれまで一リーヴル〔重量〕当たり二二~二五スーだった砂糖価格も九二年一月には突然三フラン=六〇スーに上昇したこと、アシニャ紙幣assignat(一七八九年一二月四日、国有化された教会財産を担保として発行した五分利付債券を、翌年に不換紙幣としたもの)が乱発されたことなどが背景となって、再び民衆運動が活発化した。なかでも九二年三月三日、エタムプ事件(パリ南方のエタムプ市Etampesで住民の価格統制要求を拒否した市長シモノーSimoneauが殺された事件)が発生した時、立法議会はシモノーを殉教者に祭り上げて六月には「法の祭典」という国家的祭典を挙行したが、エタムプ市に近いモーシャン村Mauchampsの司祭ドリヴィエDolivierは暴動を起こした農民たちを擁護する請願運動を開始した。ドリヴィエが同年五月に作成した請願書には「飢えない権利」le droit de ne pas jeûnerという文言があるが、これこそが最低限度の生活を営む権利、すなわち「生存権」であった。そして、この文書に共感を示したのがロベスピエールであった。但し、ドリヴィエが民衆や農民とりわけ貧農の利害を代弁したのに対して、ロベスピエールは「生存権の優位」を掲げてブルジョワジーの利害をある程度まで制約しようとはしたが、貧農の立場に立って土地問題の根本的解決を図る意思はなかった。註⑭
一七九二年三月一〇日、国王ルイ一六世は告発された外相ド・レッサールde Lessartを罷免し、ブリソーを中心とするジロンド派に組閣を命じた(内相を務めたロランの妻は後に断頭台の露と消えたロラン夫人Madame Rolandである)。その頃、フランス国内では国王一家やアルトワ伯、プロヴァンス伯などの亡命貴族と周辺諸国との関係を疑う世論が拡大の一途をたどっていたが、ジロンド派内閣はそうした時流に迎合し、好戦的な愛国心や優越心を煽るショーヴィニスムchauvinismeに走った。宮廷はフランスの敗北を期待して開戦を期待し、フィヤン派のラ・ファイエットも軍部の発言力拡大を見込んで開戦を主張した。また、人民協会や各セクションも「アリストクラート層の陰謀」を一掃できるとして積極的に開戦を支持した。その結果、バルナーヴやロベスピエールらの反対意見は開戦を支持する勇ましい声にかき消され、 四
月二〇日の対墺宣戦布告によって革命戦争が勃発した。ところが、既に革命の影響は軍隊内部にも及んでおり、指揮命令系統が混乱していたフランス軍は各地で敗戦を重ねた。当時の軍隊は、革命前からの正規の軍隊に国民衛兵から選抜された義勇兵が加わったことで二本立てとなっており、正規軍一大隊と義勇軍二大隊とで半旅団を編成し、少しずつ中隊レベルまで下げて軍隊の一本化を図ることができたのは179三年二月以降のことである。
その間、フランス国内では一七九〇年七月一二日、憲法制定国民議会で制定された「聖職者民事基本法」(聖職者市民法)Constitution civile du clergéをめぐる対立が激化していた。この法律により、一七八九年一一月オータン司教タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgorの提案に基づいて国家の管理下に置かれたカトリック教会の全ての土地を国有財産とすること、聖職者は公選によって選出され、国家から俸給が支給されることなどが規定され、九〇年一一月二七日には「国民と法と国王に忠実であることを誓う」ことが追加された。一七九一年四月、当時の教皇ピウス六世Pius VI(在位一七七五~九九)が聖書以外に誓いを立てさせる法律に断固反対を表明したため、フランス国内の聖職者は宣誓者と宣誓拒否者とに分かれて対立することになった。国王ルイ一六世は聖職者民事基本法については裁可したが、非宣誓聖職者の国外追放(五月二七日制定)と国民衛兵の基地創設(六月八日制定)を規定した法律の裁可は拒否権を行使している。一七九二年六月一三日、国王がデュムリエ内閣Dumouriezにいたジロンド派の大臣三名を罷免して再びフィヤン派内閣を任命すると、これが引き金となって二〇日にはフォーブール・サン=タントワーヌのキャンズ=ヴァン・セクションQuinze-Vingtsとフォーブール・サン=マルセルFaubourg Saint-Marcelのゴブラン・セクションGobelinsの国民衛兵大隊を中心とする住民が大挙して武装し、(パリ県当局の不許可を無視して)立法議会と国王に請願するという過激な行動に走った。彼らはテュイルリ宮殿の横口から国王の居室まで侵入して数時間にわたって国王一家を面罵しており、宮廷や立憲王政派の受けた衝撃にははかり知れないものがあった。
六月二〇日事件の後、保守派は強硬策に出て七月七日には市長ペティオンを停職させたが、これが裏目に出て中間的な立場のセクションは保守派を警戒するようになった。また、一〇日にフィヤン派内閣が総辞職し、翌日にはジロンド派の提案を受けて立法議会が「祖国は危機にあり」la patrie en dangerという非常事態宣言(公布は二一日)を発した。その間、セーヌ川右岸中央部のモーコンセイユ・セクション Mauconseilが総会の常時開催に踏み切ると、他の多くのセクションもこれに続いたため、二五日には正式に承認されて一種の政治クラブと化した。そして同じ二五日にプロイセン=オーストリア連合軍の最高司令官ブラウンシュヴァイク公フェルディナントKarl (II) Wilhelm Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttelが発表した、フランス王族に少しでも危害が加えられたならばパリを全面的に破壊するという内容の「ブラウンシュヴァイクの宣言」Manifeste de Brunswickがパリに伝わり、民衆の怒りを増幅させた。その結果、三一日にはテアトル=フランセ・セクションTheatre Francaisが受動的市民を含む「すべての市民」を国民衛兵に参加させる決議をし、翌日には立法議会も全市民を区別なく武装させることを決定した。受動的市民の参加は、政治的権利の不平等を定めた「九一年体制」の変更を意味しており、明らかに〈解釈改憲〉であるが、戦時の興奮がそれを容認したのである。
六月二〇日以後の反動政治のなかで、宮廷には国王に加えられた侮蔑を非難する決議が全国諸県から届くようになり、また立法議会におけるジロンド派の日和見的態度をみて楽観的な空気が漂っていた。一方、 七月二九日、ロベスピエールが〈憲法擁護〉という従来の態度を捨てて新憲法の制定、王権停止、行政官の刷新を行うために「国民公会」Convention nationaleを召集する必要があると演説したが、これはパリ市民の気持ちを代弁する内容であった。そしてその頃、バスティーユ牢獄襲撃を記念する連盟祭(七月一四日)のために集結した地方諸県の国民衛兵(連盟兵)の一部は式典後もパリに残り、とりわけブレスト部隊三〇〇人(二五日到着)とマルセイユ部隊五〇〇人(三〇日到着)の実力は際だって大きいものがあった。マルセイユから来た兵士たちが歌った「ラ=マルセイエーズ」La Marseillaiseは、今日では国歌となっている。各県の連盟兵はロベスピエールの指導下に「連盟兵中央委員会」をつくって相互に連絡をとり、ブレスト部隊の到着を待って二六日夜から二七日早朝にかけての武装蜂起を計画したが、参加者が少なく未遂に終わっている。その後、運動の主導権はフォーブール・サン=タントワーヌのキャンズ=ヴァン・セクションへと移り、八月九日二二時に行動を開始した。彼らは各セクションの代表三名を市庁舎へ派遣し、 開催中の市評議会を廃止して「蜂起コミューン」設置を認めさせ、パリの国民衛兵司令官マンダMandat(フィヤン派)を逮捕し、翌朝グレーヴ広場において銃殺した。フォーブール・サン=タントワーヌの国民衛兵指揮官サンテールAntoine Joseph Santerreは、急遽パリ司令官に任命されたことを知り、現場の指揮をゴブラン・セクションのアレクザンドルに委ねるために市庁舎へと出向いていたため、 王宮前のカルーゼル広場では蜂起部隊の指揮をとる者が誰もいなくなった。そして、国民衛兵の諸大隊やマルセイユ、ブレストの連盟兵が包囲したとき、国王一家はすでに王宮を離れて議場へと避難しており、戦意喪失の状態にあった。しかし、王宮防衛に当たっていたスイス衛兵の一部が発砲したことで戦闘が開始され、 その後は凄惨な殺戮が繰り広げられた。スイス衛兵の死者は約六〇〇人で、蜂起側の死傷者は約四〇〇人と言われる。こうして王権停止の決定がなされ、国王一家はタンプル塔Tour du Templeに幽閉されたのであった(八月十日事件)。註⑮
(六)共和政治の樹立とジャコバン独裁(革命独裁)
1 国民公会成立とルイ一六世の処刑
八月十日事件から一カ月余。蜂起後のパリ市内には、メンバーを一新させた市評議会(パリ・コミューン)と立法議会が成立させた臨時政府(臨時行政評議会)Conseil exécutif provisoireとが出現して、 まさに〈二重権力〉状態と化していた。しかし、後者は六名中五名がジロンド派(蜂起コミューン代表は法相ダントンのみ)であったし、パリ市当局はもとより地方都市の役人たちの顔ぶれにも変化がなかったから、 民衆の間には反革命側の反撃を怖れる空気が急速に広がった。そこで彼らは立法議会に圧力をかけて、一一日に反革命容疑者の逮捕を全国の市町村に許可させ、一七日には特別刑事裁判所の設置を決めさせた。また、二五日には封建的特権の〈条件付無償廃止〉が実現している。これは一七八九年八月四日の「封建的特権廃止宣言」によって領主権の廃止が有償と無償とに分けられた後、農民たちが〈すべて無償廃止〉と理解して地代納入を止めていたものを、この日改めて「領主が自らの権利を正当化する文書や証拠を提出した場合は〈有償廃止〉とする」と定めたものである。そしてこの変更は、もし領主が証拠を提出したならば確実に農民一揆が発生するという状況の下でのことなので、事実上〈すべて無償廃止〉と同じ意味となった。また二六日には宣誓拒否聖職者を二週間以内に国外退去とし、もしこれに従わない場合にはギアナ流刑とするという法令を可決させた。こうして反革命容疑者が大量に逮捕され、 パリの監獄は囚人で溢れんばかりとなったのである。
しかし、その間にも、八月二三日のロンウィLongwy陥落に続いてパリ東方のヴェルダン要塞包囲という戦況悪化が伝えられ、臨時政府は義勇兵派遣を決定することになった。ところが、義勇兵を派遣している隙に監獄から脱走した囚人たちが義勇兵の家族を襲うという噂が広がり、九月二日から六日(または七日)まで、暴徒と化した群衆が監獄を襲撃する「九月虐殺事件」Massacres de Septembreが発生した。民衆や連盟兵たちは九つの監獄を次々に襲撃し、そこに収監されていた囚人約二六〇〇人のうち、約半数の一一〇〇~一四〇〇人を監獄内に設けた「人民法廷」で即決裁判を行って虐殺を繰り返し、それ以外の囚人を無罪放免にしてしまった。犠牲者のうち何らかの政治的理由で収監されていた者は約四分の一しかいなかったと言われており、大部分は窃盗犯とかアシニャ紙幣偽造の容疑者などの非政治犯であった。この大虐殺の背景には、民衆の中に反革命側の反撃や戦争にたいする恐怖心だけでなく、政府や市当局がやるべきことをやらないから我々が代執行するという「モラル・エコノミー」に関わる観念があったものと思われる。
さて、八月十日事件や九月虐殺事件によって社会が急速に保守化する中、ヨーロッパ初の男性普通選挙(二一歳以上の男性による二段階の間接選挙)が行われた。一七九二年九月二一日には新憲法制定の任務を持つ国民公会(総数七四九名の一院制)がテュイルリ宮殿大広間に召集された( 第二回以降は立法議会と同じく屋内馬術練習場に移転)。登院した議員の中にはロベスピエールやペティオンなどの旧憲法制定国民議会議員約八〇名と、またブリソーやヴェルニオをはじめとする旧立法議会議員約二〇〇名が含まれていたものの、約三分の二は新人議員が占めていた。さらにその内訳を職業別に分類してみると、弁護士や判事などの法曹関係者が二一五名、地方行政経験者が約三八〇名とブルジョワ階層に属する議員が大半を占め、労働者の肩書きを持つ地方選出議員は二名しかいなかった。また、この時の選挙では受動的市民約三〇〇万人を含む約七〇〇万人の有権者がいたが、彼らは国民公会を自らの代表を送り込むところとは見なしておらず、実際に投票したのもせいぜい十分の一程度だったと推定されている。すなわち、民衆の間には未だ「代議制民主主義」という考えが根付いていなかったのである。それでも一応は普通選挙であったから反革命貴族やフィヤン派は当選できず、議場の右翼席にはブリソー、ヴェルニオ、前市長ペティオンらのジロンド派、平土間にはアベ・シェイエスらラ=プレーヌ党(平原派または沼沢派)La Plaineがそれぞれ座り、左翼席の高い座席はダントン、マラー、ロベスピエールらの山岳派(モンタニャール)が陣取っていた。ただし、それぞれの党派は、ただ単に革命路線の違いに基づいて分化した集団に過ぎない。例えばジロンド派は民衆運動の高揚を期待して革命戦争に突入したものの、そのエネルギーの大きさに戸惑って抑えにかかった議員たちであり、山岳派は革命遂行のためなら(過激化する民衆の要求を丸呑みにしてでも)民衆運動のエネルギーを自分たちの運動に利用したいと考える議員集団である。また、その政治的態度から〈中間派〉と言われることもあるラ=プレーヌ党は、三グループの中では最も保守的かつ流動的な集団であり、彼らがジロンド派・山岳派のどちらに与するかで革命全体の性格が変化した。したがって、刻々と変わる政治状況に応じてそれぞれの党派に属する議員数も変化していった。特に、ジロンド派にすり寄る姿勢を見せていたラ=プレーヌ党が、次第に風見鶏としての本領を発揮して山岳派を支持するようになったため、革命の急進化を促す結果となった。その原因は、劣勢が続いていた革命戦争に変化が生じたからである。九月一九日、ケラーマン Kellermann軍とデュムーリエDumouriez(ジロンド派内閣の外相)軍の合流で五万人の兵力に膨れあがったフランス軍が、翌日のヴァルミー Valmyの戦いでブラウンシュヴァイク公率いるプロイセン軍三万四〇〇〇人を圧倒し、ライン左岸とベルギー地方の占領に成功した。この戦勝は「革命精神の勝利」と称えられ、 プロイセン側に従軍していた文豪ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(一七四〇~一八三二)は「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と述べたと言われる。近代国民国家の軍隊(国民軍)が絶対君主制国家の傭兵軍を撃破した事実は、まさに歴史の分岐点にあったことを示している。
さて九月二一日、ジロンド派が主導する国民公会は王政廃止の決議をし、翌日の共和制宣言でフランス史上初の共和政治(一七九二~一八〇四年、第一共和政Première République française)を実現した。しかし、ジロンド派がダントンを金銭問題で糾弾し、パリ市内のセクションに影響力のあるマラーやロベスピエールを敵視したことが山岳派のまとまりを強化させ、中間派の離反を招いた。また、ジロンド派はタンプル塔に幽閉されていた前国王ルイ一六世を裁判にかけることは避けたいと考えていたが、一一月二〇日、テュイルリ宮殿内に造らせていた秘密の戸棚が発見され、そこから国王と外敵との通謀を示す動かぬ証拠が出てきた。この事件は秘密の戸棚をつくった錠前師ガマンが、王妃マリ・アントワネットから葡萄酒とビスケットのもてなしを受けたところ猛烈な腹痛に襲われたことを「毒殺の陰謀」と思いこみ、約一年後にジロンド派の内相ロランに通報したことに始まる。秘密の戸棚を自己の責任で開けたロランにも疑惑の眼が向けられ、国王裁判は避けられない事態となった。裁判は一二月六日から国民公会で始められたが、中間派の多くが山岳派に付いたこともあって国王の反革命的行動に対する責任を問う発言が続き、一七九三年一月一五~一七日の投票では投票総数七二一票のうち三八七票が死刑に無条件で賛成し、三三四票が拘留か条件付死刑に賛成したため死刑が確定した。また、翌々日の執行延期の可否を問う投票でも三八〇票対三一〇票の僅差ではあるが延期を否決した。一月二一日、革命広場で断頭台に架けられた後、国王の遺体はマドレーヌ墓地に埋葬された(一九世紀になってサン・ドニ僧院に移葬された)。また、王妃マリ・アントワネットは、八月二日になってシテ島西側のコンシェルジュリーConciergerieの独房に移されている。その間、国民公会は九二年一二月八日の法令で穀物取引の「最も完全な自由」を再確認し、二二日の法令では「穀物ないし穀粉の価格つり上げのために団結した者を二年間の鎖刑に処す」と定めて、 〈経済的自由主義〉を維持し続けている。註⑯
2 公安委員会と革命独裁
国王処刑から間もない一七九三年二月一日、国民公会は歯止めを失ったかのごとく、イギリス、オランダに対する宣戦布告を発して革命戦争を拡大させた。それに対して、イギリス首相ウィリアム・ピットWilliam Pitt(小ピット、在任一七八三~一八〇一、〇四~〇六、トーリー党)は、オランダ、プロイセン、 オーストリア、スペイン、ポルトガル、サルデーニャ、ナポリ王国、ドイツ諸侯国、ロシア、スウェーデンとともに第一回対仏大同盟Coalitions against France(一七九三~九七
年)を結成した。こうして俄然劣勢に立たされたフランス軍はベルギー戦線で敗北を喫し、おまけに司令官のデュムーリエ将軍が敵方に寝返るという信じられない事態に陥った。また三月一〇日にはブルターニュ半島南部にあたるヴァンデー地方Vendéeを中心とする農民反乱(一七九三~九五年)が発生し、国民公会を苦しめることとなった。森に囲まれたなかに畑が点在するこの地方は貧農が多く、カトリック信仰の篤い地域であった。保有地を持たない彼らには農民解放の恩恵は少なく、土地の再分配は都市のブルジョワを利するだけであったから〈ブルジョワ革命〉そのものを容認できなかった。とりわけ聖職者や教会に対する弾圧に続く国王処刑や増税に対する反発、二月二四日に発せられた「三〇万人募兵令」Levée de 300、000 hommes(満一八歳以上四一歳未満の未婚または子どものいない男性を対象とする志願兵制度)に対する忌避の動きが武装蜂起に発展し、騒乱は瞬く間に地方全体に拡散していった。行商人出身のジャック・カトリノーJacques Cathelineau を最高司令官に選出した「カトリック王党軍」は、地方貴族を味方に引き入れて勢力を拡大し、革命戦争のために国境線に国民衛兵を送り込んだために手薄となっていた現地政府軍を打ち破っていった。しかし六月に入り、彼らはブルターニュ地方の秘密組織「シュアヌリ」(ふくろう党)Chouannerieと合流するためナント市を攻撃したが、ナント市民が政府軍と協力して徹底抗戦に打って出たため、これを境に反乱軍の力は急速に萎んでいった。
この間、フランス国内では経済活動が停滞して革命戦争の遂行にも多大な支障を来すようになり、一七九三年一月一日、「一般防衛委員会」Comité de défense généraleを設立した。しかし、そのメンバーのほとんどがジロンド派議員によって占められていたために、民衆の間にはジロンド派批判の声が大きくなっていった。そこで三月二三日には一般防衛委員会を改組して「国防委員会」という全ての会派が参加する大連立政権を発足させたが、議論百出の状態が続いて再び機能不全に陥った。そこで四月六日、バレールBertrand Barère de Vieuzacやコンドルセの提案があって、国防委員会は「公安委員会」Comité de salut publicへと発展した。国民公会には二一の委員会が組織されていたが、こうして外交・軍事・一般行政を担当する公安委員会と主に治安を担当する保安委員会Comité de sûreté générale(一七九二年一〇月二日発足)に権力が集中することになった。公安委員九名は国民公会における投票で選出され、ラ=プレーヌ党七名・山岳派二名によって構成されたが、百戦錬磨のダントンが選ばれていたことから事実上彼の政権となった。公安委員会はテュイルリ宮殿に隣接するフロール舘内に置かれ、五月一〇日以降は国民公会もテュイルリ劇場に移転している。その間、ジロンド派が怖れたとおり、民衆運動の圧力を受けてアシニャ紙幣の強制流通(四月一一日)や穀物と穀粉の最高価格法(五月四日)、富裕者を対象とした一〇億フラン強制公債の発行などが決定された。
ところが、五月末からパリの民衆が再び蜂起する。五月三一日に発生した蜂起は内部不統一で失敗したが、六月二日には民衆約八万人が蜂起して国民公会を包囲し、パリ・コミューンを監視するための「一二人委員会」を創設したジロンド派幹部の逮捕を要求した。対応に苦慮した国民公会は公安委員会に調査を委ねようとして群衆に拒否され、改めて山岳派議員クートンGeorges Auguste Couthonの提案通りジロンド派逮捕を可決している。逮捕されたジロンド派幹部二九名と大臣二名は自宅監禁とされたが、 その多くはパリを抜け出して出身地のリヨンやボルドー、マルセイユ、トゥーロンなどに逃れ、パリ=山岳派に対する抵抗組織の結成を急ぐことになった。こうして国民公会の主導権を握った山岳派は、その後、新憲法の
起草を名目に公安委員会の改組を図って一時的に一四名体制としたが、今度は山岳派内部の対立が激しくなる。その引き金となったのが、食糧不足と物価騰貴を不満とするパリ民衆の動向であった。山岳派内では、〈経済統制〉に強く反対するダントンら寛容派議員と、民衆運動と関係が深いエベール派(エベールJacques René Hébertを中心とする民衆派)との対立が深刻化し、両者の中間にロベスピエールやその片腕サン・ジュストSaint-Just、クートンというロベスピエール派が座る構図となっていた。七月一〇日、公安委員会の改選が行われてダントン派が退陣したものの、新たな委員九名はバレールを除けばすべて山岳派議員となった。そして七月二七日、ガスパランGasparinの辞任を受けて公安委員会に登場するのがロベスピエールである。
彼らはまず六月二四日に採択されていた「一七九三年憲法」(共和国第一年憲法・ジャコバン憲法)を八月の人民投票で正式に成立させた。ルソーの影響を受けた新憲法は、主権在民を規定し、生活権や労働権、男性普通選挙権などを保障する画期的内容であった。憲法前文の人権宣言は、一七八九年の人権宣言で認められた権利に加えて公的扶助の義務や教育を受ける権利、圧政に対する蜂起などの権利を保障している。また、法律の制定にレファレンダム(人民投票)制度を採り入れ、直接民主主義の充実にも努めている。ところが八月一一日、ドラクロワDelacroix が新憲法に基づく新議会開設のための準備を提案したとき、ロベスピエールらは憲法発効支持者をエベール派やジロンド派の支持者と見なして反対し、国民公会の非解散と新憲法の無期限停止を決定している。ロベスピエールらは民衆運動の動向を意識しながら政策決定を進めてはいたが、彼らが目指していたのはあくまでも民意の結集点である国民公会を通した革命であって、民衆運動に重心を置くエベール派とは根本的に異なる考えを持っていたのである。しかし、パリの民衆運動はますます力を強め、革命政府に対して経済統制と反革命勢力打倒の厳しい措置を要求した。その結果、革命政府は、まず七月一七日に「封建的特権の無償廃止」を決定し、亡命貴族の土地を払い下げることで小土地所有農民の創設を実現した。また、八月に入ると反革命容疑者に対する逮捕法や、一八 ~二五歳の独身男性を徴兵し、徴兵を免れた者には武器製造などに徴用する「国民総動員令」la levée en masse(八月二三日)を決定した。
ところが八月二六日、イギリス海軍がトゥーロンに軍艦を入港させ、王党派による「ルイ一七世万歳」宣言が行われたが、この情報をひた隠しにしていた公安委員会はエベール派に近いビヨー=ヴァレンヌJacques Nicolas Billaud-Varenneに詰問されてはじめて明らかにした。九月四~五日、激怒した民衆や国民衛兵が国民公会に対する激しい抗議デモを行い、「革命軍」創設と反革命容疑者の逮捕、革命委員会の粛清だけでなく、生活必要物資の最高価格を定める〈価格統制〉を要求するまでエスカレートした。その圧力の前に震え上がった国民公会は、五日、ダントンが提案した「セクション総会は週二回とし、出席者には日当四〇スーを支払う」という法令を採択して、既に保守化が進んでいたセクションの指導者たちを使って民衆運動を抑制しようとした。その当時、山岳派を含むすべての国民公会議員が〈自由経済〉の死守を模索していたが、彼らは民衆の圧倒的なエネルギーの前に膝を屈してしまう。まず九日に食糧徴発や反革命容疑者の逮捕・処罰を任務とする「革命軍」が創設され、一七日には「反革命容疑者法」loi des suspectsを可決した。また二九日には、穀物・パンに限定されていた最高価格法を日用必需品すべてに拡大し、同時に各地域の一七九〇年の生活必需品と賃金を基準としてそれより三分の一と二分の一高い値に最高価格と最高賃金を設定する「総最高価格法」Maximumに発展させた。また、ラザール・カルノーLazare Nicolas Marguerite Carnotを中心に軍隊制度を整備し、共和暦Calendrier républicain(革命暦、一〇 月五日)や十進法に基づくメートル法の導入、理性崇拝を推進して「理性の祭典」(一一月一〇日)を開催するのは間もなくのことである。とりわけロベスピエールは、人間を再生させ、新しい国民をつくりあげる「教育」の重要性を意識し、教育からカトリック教会の影響力を排除しようとして初等教育制度の整備を構想している。彼の考えはコンドルセが考えた自由主義的な教育案とは対照的で、子どもの生活全体を管理する「国民学寮」による徳育を重視し、共和国に相応しい道徳を備えた市民の育成を目指すものであった。また、地方言語を否定して国語教育の重要性を強調したのは、ひとえに「国民国家」の原理を確立しようとしたからに他ならない。註⑰
さて、九月に入ってからの一連の動きに動揺した公安委員会は、民衆運動との関係が深いビヨー・ヴァレンヌとコロ・デルボワJean-Marie Collot d'Herboisを新規加入させたためにエベール派の発言力が増していった(一二月二九日、エロー・ド・セシェルHérault de Séchellesの逮捕で一一名体制となる)。因みに当時の公安委員会の構成員一二名は、ロベスピエール派がロベスピエール、サン・ジュスト、クートンの三
名だけで、エベール派(民衆派)が二名、所属不明が四名(プリュール・ドラ・マルヌPierre-Louis Prieur de la Marne、ジャンボン・サン・タンドレ Jeanbon Saint-Andre 、エロー・ド・セシェルHérault de Séchelles 、バレールBarère de Vieuzac)、その他の三名(ロベール・ランデJean-Baptiste Robert Lindet 、ラザール・カルノーLazare Nicolas Marguerite Carnot、プリュール・ド・ラ・コート・パールClaude Antoine Prieur de la Côte-d'Or)は保守的な右派であった。したがって、政権基盤の弱いロベスピエールははじめダントン派に接近して過激派(アンラジェEnragés)弾圧に乗り出し、その代表的存在である司祭ジャック・ルーJacques Roux(九月五日再逮捕、 翌年二月一〇日獄中自殺)やジャン・ヴァルレJean Varlet(その後の消息は不明)の逮捕に踏み切っている。
そして九月一三日、公安委員会以外のすべての委員会の改選を決定し、翌日には公安委員会が作成した候補者リストのなかから国民公会が選抜してそれぞれの委員を任命することになった。こうして、公安委員会と保安委員会の対立が決定的となった。何故なら、公安委員会の狙いは警察権力を持つ保安委員会からダントン派の影響力を排除することと、地方組織から反ロベスピエール派を追放することにあったからである。当時の保安委員会は一二名の委員が(公安委員会と同じく)三つの派閥に分かれており、ロベスピエール派はフランス革命期最大の画家ダヴィッドJacques-Louis David(新古典主義)を含め二名だけであった。また地方行政は、各市町村に設置された「監視委員会」(革命委員会)が自治体当局に代わって行政・治安の実権を握り、「国家代理官」(国民監視官)という役人が一〇日おきに地方の実態を公安委員会・保安委員会に報告する一方、中央からは指令通り実施しているかを監視するために国民公会議員約六〇人が「派遣議員」Représentants du peuple en missionとして地方に出張していたが、今後はいずれも公安委員会に対してのみ報告義務を負うことになった。そして一七日の「反革命容疑者法」制定以降は、 革命委員会が作成する曖昧な反革命容疑者リストに基づいて反ロベスピエール派弾圧がなされることとなった。その後、一〇月一〇日、サン・ジュストの「フランスの政府は平和の到来まで革命的である」という演説が拍手喝采で承認され、ここに憲法に基づかない「革命政府」Gouvernement révolutionnaireによる〈革命独裁〉が開始された。そして、革命政府に批判的な人間は保安委員会よって拘束され、革命裁判所Tribunal révolutionnaire(一七九三年三月一〇日設置、当初の名称は「特別刑事裁判所」)に送付されたのである。特に革命裁判所の裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンMartial Joseph Armand Hermanや検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルAntoine Fouquier de Tinville は大量の死刑判決を出したことで悪名が高い。その当時、ロベスピエールは、啓蒙思想家ルソーの著書『社会契約論』(一七六二年)のなかに出てくる「一般意志論」を自己流に解釈し、「個別的利害intérêt particulierに対する一般的利害intérêt généralの優越」という論理を構築していたが、彼は「我々は国民の真の代表として正義の実現に邁進する必要があり、それを阻害する勢力は打倒しなければならない」とする〈排除の論理〉に行き着いた。すなわち、〈排除の論理〉は、自己の掌握した権力を排他的に正当化する論理と表裏一体の関係にあり、他者に対する排除が暴力的に行われる時、「恐怖政治」terreurに転化するのである。彼らの「恐怖政治」とは、〈徳と恐怖〉を原理とする戦時非常体制下における政治を指し、徳は〈公共の善〉Bien publicへの献身を、そして恐怖はそれに反する者への懲罰を意味した。ロベスピエールによれば、「徳なくして恐怖は罪悪であり、恐怖なくしては無力である」。
その後、山岳派の革命実績は、革命的テロリズムに支えられていく。山岳派による独裁が始まって間もない一七九三年七月一三日にはジロンド派を支持する女性シャルロット・コルディCharlotte Cordayが浴槽に浸かっていたマラーを刺殺し、一〇月一六日には王妃マリ・アントワネットを処刑した。血なまぐさい雰囲気は、処刑という殺人行為を許す。一〇月三〇日にはブリソーら国民公会議員二一名が断頭台(ギロチン)の露と化し、一一月八日に処刑されたロラン夫人は「自由よ、汝の名において何と罪が犯されていることか」という言葉を残してこの世から去って行った。そしてまた、九三年一〇月から冬にかけて、フランス各地では「非キリスト教化運動」(キリスト教否定運動)が発生していたが、このことが公安委員会と民衆運動との対立を先鋭化させた。非キリスト教運動は聖職者の還俗、司祭の結婚、教会外での礼拝禁止、「理性の祭典」の挙行など多岐にわたったが、公安委員会は無用の混乱を引き起こしかねないと判断して反対を表明し、一二月六日には「礼拝の自由」(信仰の自由)を宣言した。革命政府は民衆運動の持つエネルギーを背景にして革命独裁を実現させたにもかかわらず、今度は自らの手で民衆運動を制御しようと決意し、この後は「革命は凍りついた」(サン・ジュスト)のであった。
恐怖政治は革命的同志内にも不信感を蔓延させ、深い猜疑心が仲間を死に追いやる。一七九四年、民衆運動家やエベール派に対する弾圧が開始され、三月一三~一四日にかけてエベール派が根こそぎ逮捕され、 エベールの処刑は二四日に行われた。また、恐怖政治に反対して前年七月から逃避生活を続けていたコンドルセも逮捕され、三月二九日獄中自殺を遂げている。そしてエベール派が壊滅すると、今度はその対極にあったダントン派が発言力を強め、山岳派内ではロベスピエール派とダントン派の対立が抜き差しならない事態へと発展する。その時、サン・ジュストは四月一日、「一般警察に関する法令」(ジェルミナル二七日法、芽月)を成立させ、公安委員会内に設置した「一般治安監察局」に公務員を監視して陰謀や職権乱用を摘発する権限を与え、逮捕命令は公安委員一人の署名ともう一人の副署だけで可能とした。その結果、四月五日には右派のダントン(三月三〇日逮捕)や恐怖政治を終了させようと寛容を説いてきたカミーユ・デムーランが処刑された。また四月から五月にかけて反革命容疑者に対する裁判はパリの革命裁判所で行うことと決定し、地方の革命裁判所と特別軍事法廷を原則廃止とした。また、ロベスピエールやコロ・デルボワに対する暗殺未遂事件をきっかけに、六月一〇日、「プレリアール二二日法」Loi du 22 prairial an II(草月)が制定されて反革命容疑者の範囲を拡大し、弁護人や証人を廃止して判決を死刑か無罪かの二者択一とするなど裁判手続きの簡素化・迅速化が進められた。その結果、死刑判決の数は大幅に増えていく。例えばパリ革命裁判所は裁判所設立の一七九三年四月六日から九四年六月一〇日までの約一年二カ月間に一二五一人の死刑判決をだしているが、その後ロベスピエールが失脚する九四年七月二七日までの一カ月半の間に一三七六人と急増している。
極点に達した恐怖政治は全国各地に拡散し、公安委員会から地方に送られた派遣議員による弾圧はパリ市内を上回る凄惨なものとなっていった。派遣議員はそれぞれ一~二の県を担当したが、地方の自治体当局が中央の公安委員会に非協力であったために、どうしても地方の不満分子と手を組むことが多くなる。彼らはほぼ無制限の権限を付与されており、公安委員会の権力を笠に着て軍隊のための人員徴募、食糧・武器等の徴発、将軍や部隊の監視などを強引に行った。時に任務の妨げになる不都合な事態が生じた場合には、臨時に行政命令や武力行使を含むあらゆる手段をとることが可能であったから、まさに派遣議員は事実上の独裁者であった。その結果、地方行政は大混乱に陥り、公安委員会もその対応に追われた。一七九四年四月一五日には九人の密使を送って派遣議員を監視させ、約六〇人いた派遣議員のうち無能な者、無用に過激なことを行った者など二一人をパリに召還した。そして召還は革命裁判所送りを意味したから、 恐怖心に駆られた彼らはテロリストとして行動することになる。こうして恐怖政治期に反革命容疑者として収監された者は約五〇万人にのぼり、死者の総数は約三・五~四万人に達したと言われる。死刑判決を受けた一万六五九四人のうち七五%は戒厳令に抵触した人々で、一五%は反革命の科で裁かれ、二%は宣誓拒否聖職者、一・五%が「買い占め人」だった。社会職業的に分類すると犠牲者の八〇%は旧第三身分(平民)が占め、なかでも日雇い労働者(三一・二五%)や農民(二八%)が多い。また地域別では、 ヴァンデーの反乱が起きた西部(五二%)が突出しており、 次いでリヨンやトゥーロンがある南東部(1九%)、パリ(一六%)の順に多い。註⑱
(七) フランス革命の終焉
1 テルミドールの反動
恐怖政治に支えられた変革は、それが急進的であればあるほど反発の度合いも高くなり、一気に反動的気運が広がった。革命は、封建的諸権利(封建地代)や教会十分の一税、貴族が有した財政的諸特権を全て廃棄させただけでなく、一七九四年二月二六日、三月三日にはサン・ジュストの提案で土地所有の移動=再分配(ヴァントーズ法décrets de ventôse)にまで踏み込んだ。ジョルジュ・ルフェーヴルの学位論文『フランス革命下のノール県農民』(一九二四年)によれば、国土の約二〇%を占めていた教会領は消滅し、 一七八九年に二二%を占めていた貴族の持分は一八〇二年には約一二%に減少してアリストクラート層の物質的基礎は解体した。その一方で、ブルジョワの土地所有は一六%から二八%以上に増大し、農民のそれも三〇%から四二%以上に増えている。こうして、フランス国内には小土地所有農民が創出されたが、 当時の農村における人口増加を考慮すれば、農民に分配された土地では十分とは言いがたい。その上、 フランス革命が実現した耕作や耕地囲い込みの自由は農村ブルジョワジーの活動を擁護し、大土地所有及び大農経営を促進させる結果となった。こうした農業革命は、ブルジョワと下層農民の双方にこれ以上の改革を望まない〈現状肯定〉の空気を広がらせたのである。
そして同時に、統制経済に対する抑えがたい嫌悪感を共有していたブルジョワジーにとって、経済活動の自由や私有財産の尊重という〈自由経済〉の原則は死守しなければならない命題であった。一方、革命政府が推し進めていた〈統制経済〉は食糧供給や物価統制を求める民衆の声に応える性格を有していたが、 その根幹をなす「総最高価格法」には賃金の最高価格も含まれており、そのことがサン・キュロットの怒りを爆発させたのである。また一七九三~九四年当時、徴兵による労働力不足が労働市場を底上げしていたが、企業家たちは国民公会議員への陳情を繰り返して賃金相場を低く設定させることに成功した。特に小銃や大砲を生産する軍需部門の賃金が低く抑えられたことが経済界全体に波及し、例えば従来は日給八
フランをとっていた石工の賃金は三・五フランまで下げられている。こうして都市内部でもブルジョワと民衆の対立が厳しさを増していたが、革命政府は民衆運動を規制してブルジョワの利益を優先させた。その結果、民衆の間には急速に山岳派に対する失望感が広がり、ロベスピエールら革命派から離れていったのである。
一七九四年六月二六日、ジュールダンJean-Baptiste Jourdan率いるフランス軍がフルリュス Fleurusの戦いでオーストリア軍に勝利を収め、南ネーデルラントとラインラントの大部分を制圧することに成功した。フランス軍が対仏大同盟軍をライン川以西から撤退させ、イタリア・スペインへの進撃を開始したという報せに世論がわき上がるなか、山岳派の一部は国民公会内の中間派と手を組み、密かにロベスピエール派打倒の画策を始めていた。そして同時に、一七九三年、ナントで私有財産を禁じる法令を発布してリヨン大虐殺を指導したジョゼフ・フーシェJoseph Fouché、マルセイユやトゥーロンの住民数百人を処刑して財産を没収し、公金横領嫌疑で召喚されたポール・バラスPaul François Jean Nicolas, vicomte de Barras、そしてボルドーにおける反革命派弾圧の際に愛人とした元侯爵夫人テレーズ・カバリュスThérèse Cabarrusに影響されて手心を加えるようになったジャン・ランベール・タリアンらの恥曝し地方派遣議員も反ロベスピエール運動に躍起となっていた。その頃、公安委員会は大きくロベスピエール派(ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン)、戦局好転で勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノー)、 恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ビョー・ヴァレンヌ、 コロー・デルボワ)に分裂して機能不全に陥り、勢力を盛り返してきた保安委員会との対立も深刻化していた。一方、ロベスピエールは理想通りに進まない革命の現実を前に頑なな態度をとるようになり、六月末からは支持者の多いジャコバン・クラブや公安委員会には顔を出すのに、思うようにならない国民公会には全く出席しなくなった。そして七月二六日、それまで対立関係にあった公安委員会と保安委員会が合同会議を開いて手を結び、反ロベスピエール派の包囲網が整えられたのである。
一七九四年七月二七日午前一一時頃、反ロベスピエール派が優勢となった国民公会が開かれ、議長コロー・デルボワJean-Marie Collot d'Herboisやタリアンは久しぶりに現れたロベスピエールの演説を阻止し、 短刀を振りかざしながら「暴君を打倒せよ」と叫んだタリアンの大声に呼応して、午後三時頃、ロベスピエール派逮捕が決議された。その時、パリ・コミューンが再び蜂起し、ロベスピエールは辛うじてパリ市庁舎へと逃げ込んだ。市庁舎にはパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオFrançois Hanriot率いる国民衛兵二〇〇人と民衆約三五〇〇人が駆けつけた。その後、国民公会がコミューン参加者の逮捕を決めたために群衆の多くが帰宅した深夜になってから、ポール・バラス率いる国民公会側兵士が市庁舎を襲撃した。市庁舎は大混乱に陥り、騒乱状態のなかで顎に銃弾を受けたロベスピエールがついに逮捕された。同時にロベスピエールの弟オーギュスタン Augustin Bon Joseph de Robespierre(弁護士)やサン・ジュスト、恐怖政治の過激化に一役買ったクートンやアンリオらも逮捕され、コンシェルジュリー牢獄送りとなった。翌二八日、かつてはロベスピエールの指示で多くの反革命派を断頭台に送り込んだ革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルによる有罪判決で、午後六時頃「革命広場」でロベスピエール以下二二名の死刑執行がなされた(革命広場はかつての「ルイ一五世広場」で、一七九五年以降の呼称は「コンコルド広場」Place de la Concorde)。翌日にはコミューンの参加者七〇名が、翌々日にはさらに一二名も処刑された。そしてジャン・バティスト・カリエJean-Baptiste Carrierやアントワーヌ・フーキエ・
タンヴィルらの山岳派残党も次々と処刑され、クーデターに加わったビョー・ヴァレンヌやコロー・デルボワらも恐怖政治を推進した責任を問われてギアナ高地への流罪とされた。
こうした熱月派(テルミドーリアンThermidoriens)によるクーデターは「テルミドールの反動」と呼ばれるが、彼らは〈反ロベスピエール〉という点では一致していたものの、 政治的立場はさまざまであった。熱月派右派は今回の政変には表面上は関わりを持たなかったラ=プレーヌ党議員とそれに同調した旧ダントン派(山岳派右派)であり、彼らの目的は革命独裁の解消にあった。また左派としては、集団指導体制による革命独裁の維持を模索した山岳派左派と、民衆運動を弾圧した革命独裁を解消して九三年憲法の実施を求める民衆運動指導者とがいた。しかし、国民公会では議会多数派の右派勢力がイニシアティヴを執り、急速に革命独裁の解消が進めらた。彼らは公安委員会の権限縮小や革命裁判所の改組、輸入の自由化、 総最高価格法の廃止(一二月二四日)、ジャコバン・クラブの閉鎖を次々と決定し、政教分離の原則の下、 聖職者民事基本法を撤廃(一七九五年二月二一日)して「信教の自由」を認めた。その間、パリ市内では法曹・商人・役人などの中流ブルジョワ家庭の青年(ジュネス・ドレjeunesse doree、 金ぴか若者組)によるジャコバン・クラブや民衆クラブへの襲撃、民衆運動家に対する脅迫・暴行が続いた。心荒む白色テロが相次ぐなか、民衆は「パンと九三年憲法」をスローガンとしてジェルミナールの蜂起(四月一~二日、 芽月)、プレリアールの蜂起(五月二〇~二三日、牧草月)を決行した。しかし二回とも熱月派によって鎮圧され、特に後者の場合はその後の取り締まり強化で活動家約一二〇〇人が逮捕され、国民衛兵約一七〇〇人も除籍されて民衆運動は壊滅的敗北を喫した。また、熱月派左派の議員たちも相次いで逮捕され、 処刑ないし流刑とされたために、国民公会は熱月派右派が牛耳る世界となった。そして彼らは、共和政治の安定やブルジョワ的秩序の確立を目指して、「一七九五年憲法」(共和国第三年憲法)の制定を急いだのである。
2 総裁政府と軍部の台頭
一七九五年八月二二日、国民公会においてボワシ・ダングラースFrançois-Antoine Boissy-d'Anglasらの憲法草案が採択され、国民公会解散(一〇月二六日)の翌日には新憲法施行の運びとなった。この憲法では行き過ぎた改革を抑えるために制限選挙制を復活させ、「直接税を納入する二一歳以上の男性国民が二五歳以上の男性の中から代議士選挙人三万人を選出する」という方法が採用された。そして代議士選挙人は、三〇歳以上の男性の中から「五百人会」議員五〇〇名と、四〇歳以上でかつ既婚者(または寡夫)の中から「元老院」議員二五〇名を選出した。九一年体制と比較すると資格制限が少し緩和されて有権者数が増えたが、被選挙権資格は逆に厳しく制限されて以前から見ると半減している。ここには選挙の裾野を広げて国家統合を進めたいという意思と、政治権力を握るのは少数のブルジョワ層に限定したいという目論見が透けて見える。また、新議員の三分の二は旧国民公会議員の中から抽選で選ぶという「三分の二法令」が施行されたことも熱月派右派に有利となるはずであった。
ところが、革命戦争の動向が彼らの思惑に狂いを生じさせた。一七九四年九月に開始したオランダ侵攻は内戦と財政悪化で続行も危ぶまれる状態となっていたが、翌年四月五日のプロイセン(バーゼル条約)を皮切りに、オランダ(五月一六日)、スペイン(七月二二日)と相次いで講和条約の締結に成功した。但し、オーストリアとだけは一時停戦を挟んで戦争が続いたが、ここにきてフランス軍は墺領ベルギーを併合するという強硬策に出た。一〇月五日、これに反対する王党派が開いた集会が「ヴァンデミエール一三日のクーデター」nsurrection royaliste du 13 Vendémiaire an IV(葡萄月)に発展したとき、有力な銀行家や御用商人と結託して私腹を肥やし、プロイセンやヴェネツィアからも莫大な賄賂を受けてきたポール・バラスが総司令官に任命され、彼は副官ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparteを派遣して反乱を鎮圧したのである。政変直後に実施された選挙の結果は、ブルジョワ共和制を志向する共和派三八〇名(穏健派一三八名・中央派二四二名)、王党派一六一名(反革命派八八名・立憲王政派七三名)、ネオ・ジャコバン派六四名、日和見派八四名、不明五二名の合計七五一名が当選し、辛うじて政権を担当することになった共和派(旧熱月派右派)は少数与党として綱渡り的政権運営を余儀なくされた。
こうして法律の発議権を有する五百人会と、五百人会が提出した法案に対する拒否権をもつ元老院という二院制議会が誕生した。五百人会・元老院の議員はいずれも毎年、定数の三分の一が改選の対象とされ、 五百人会が提出した一〇倍の候補者リストの中から元老院が総裁を選抜し、 毎年一名を改選した。そして一〇月三一日、ポール・バラスやカルノー、ラ・ルヴェリエールLouis-Marie de La Révellière-Lépeaux、 ルーベルJean-François Reubell(Rewbell)、ル・トゥルヌールÉtienne-François-Louis-Honoré Le Tourneurの五名で発足した「総裁政府」 Directoire(~九九年一一月九日)は、王党派への警戒心から左派寄りの政権運営に努めた。ところが一七九六年五月一〇日、私有財産廃止など革命の徹底化を目指した「バブーフの陰謀」が発覚した。この事件は、ピカルディ地方の農村から出て来てエベール派と関わりを持ったバブーフFrançois Noël Babeufと、北イタリアから亡命してロベスピエール派と交わったブオナロティFilippo Giuseppe Maria Ludovico Buonarrotiという二人の男がパリで巡りあったことに始まる。彼らは、ロベスピエールなど従来の革命家が考えた「フランス国民が平等に所有する」という概念から一歩踏み出し、はじめて私的所有の否定と財産の共同管理を柱とする共産主義的理論を打ち出した。しかしながら、 バブーフの革命論が社会変革の可能性を持つことができたのは、名家出身のブオナロティが身につけていた友愛結社フリーメイソンFreemasonryの組織論に負うことが大きく、彼らは秘密結社(「蜂起委員会」)による暴力革命を夢想していた。すなわち、山岳派の革命独裁と民衆運動の大衆動員とがここで初めて合流して大きな反政府運動が組織されようとしたが、ながく政治の世界で揉まれてきたブルジョワ共和派の方が一枚上手であった。
ところで、バブーフの陰謀事件で左派からの脅威を痛感した総裁政府は、今度は右寄りの政権運動に揺り戻す。その結果、一七九七年三~四月に行われた九五年憲法下における最初の五百人会選挙では三分の一の改選議員の大部分を占める一八二名が王党派によって占められ、両院の王党派議員総数は約三三〇名に達した。一方、再出馬した旧国民公会議員二一六名のうち再選できたのはわずか一一名に過ぎなかった。そこで総裁政府は、次の選挙でまたもや王党派が勝利するのではと危機感を募らせ、次なる行動に移る。選挙後、王党派に近いと噂されたジャン・シャルル・ピシュグリュJean-Charles Pichegruが五百人会議長に選ばれ、ナポレオン・ボナパルトが提出したピシュグリュの反革命活動の証拠を目にした時、三人の総裁(バラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエール)が軍隊を動員して「フリュクティドール一八日のクーデター」(一七九七年九月四日、実月)Coup d'État du 18 fructidor an Vを敢行した。東部戦線のオーシュ将軍Louis Lazare Hocheとイタリア戦線のナポレオン・ボナパルト将軍を味方につけた彼らは、オーシュ将軍の軍隊とナポレオンの副官オージュローCharles Pierre François Augereau配下のあわせて約八万人の兵士をパリに集結させ、王党派議員の当選を無効として五三名をギアナ流刑とした。また、残る総裁二人のうちラザール・カルノーは逃亡に成功したが、フランソワ・ド・バルテルミーFrançois de Barthélemyは逮捕されてギアナ送りとなった。
こうして、総裁政府が再び左派寄りの政治姿勢をとると、一七九八年四月の選挙ではネオ・ジャコバン派の進出が予想された。そこで総裁政府は先手をとって解散前の議会が選挙結果の審査をする権利を持つと決め、五月一一日、ネオ・ジャコバン派一〇六名の当選を無効とした(フロレアール二二日のクーデター、花月)。しかし、翌九九年三~四月の選挙でも総裁政府が推薦した候補者一八七名の大部分が落選したのとは対照的に、再びネオ・ジャコバン派約五〇名が当選し、左派は総数約一二〇名に増えている。しかも五月一六日に改憲派のアベ・シエイエスが総裁となったことで、総裁政府はさらに安定性を欠くことになった。五月に開会した新議会は冒頭から紛糾し、六月一八日、議会は二人の総裁を辞任に追い込み(プレリアール三〇日のクーデター、牧草月)、総裁や大臣に元国民公会議員を据え、「総動員令」(一七九八年九月五日に制定したジュルダン・デルブレル法loi Jourdan-Delbrelに基づき二〇~二五歳の男性を徴兵する)や富裕者に対する強制公債の発行を決めた。また、七月一二日には「人質法」を制定し、地方の県当局に対して亡命者や貴族、反革命容疑者の親戚を人質として逮捕し、彼らが持つ財産を没収して被害者の損害を賠償する権限を与えた。
その間、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はイタリア戦線で勝利を続け、一七九七年一〇月一七日、オーストリアとカンポ・フォルミオの和約Traité de Campo-Formioを結び、ベルギー、ロンバルディア地方、イオニア諸島を獲得した。しかし、総裁政府はその後も膨張政策をとり続け、スイスやイタリアに「姉妹共和国」を建設しただけでなく、イギリス産業革命を頓挫させるためにエジプト遠征(一七九八~九九年)を命じている。しかし、九八年末から翌年三月にかけて、英・露・墺・オスマン帝国・ナポリ王国が第二回対仏大同盟(一七九九~一八〇二年)を結成して対抗したため、一転してフランス軍は全線戦において敗北と後退を余儀なくされていった。ところで総裁政府期に入ってから、フランス軍の士官任命制は家柄にとらわれない才能主義に変化し、職業軍人化が進んでいた。その結果、ながい革命戦争の中で士官と兵士の間に一体感が醸成され、将軍と仕官との間には主従関係だけでなく濃密な人間関係が生まれ、軍部内にいくつかの派閥が誕生した。また、財政難に苦しむ総裁政府が十分な予算を用意しないまま戦争命令を出したことから、前線の部隊は現地調達で戦う必要に迫られ、 このことが軍部の台頭をさらに促す結果となった。こうした内外の情勢に憂慮したアベ・シェイエスは、 エジプト遠征から無断で帰国していたナポレオンと接触し、二人はクーデターを起こすことで合意した。一一月九日、五百人会議長リュシアン・ボナパルトLucien Bonaparte(ナポレオン・ボナパルトの弟)が民衆運動の影響を回避するために両院を郊外のサン・クルーに移し、同日、パリ地方の全軍司令官に任命された兄ナポレオン・ボナパルトが軍隊の圧力のもとで全総裁を辞職に追い込んだ(ブリュメール一八日のクーデター、霧月)。翌一〇日、 ナポレオン・ボナパルトは彼を支持する議員五〇人あまりを集めて、新憲法制定まで議会を休会とし、その間の行政権はナポレオン・ボナパルト、アベ・シェイエス、ロジェ・デュコPierre Roger Ducosの三人による臨時の「統領政府」Consulatに委ねると決議させた。こうして総裁政府はナポレオンによる軍部独裁へと道を譲り、フランス革命の幕は閉じられたのである。
3 フランス革命の史的意義
一八世紀末のフランスでは、絶対王政期のルイ一四世やその財務総監コルベールらが推進した国家主導主義étatisme, statismが中世以来の身分制秩序と結合し、国家による諸社団への特権授与が続いていた。また、英仏植民地戦争(第二次百年戦争)に勝利を収めて産業革命に突入したイギリスに対して、フランスは産業的発展の立ち遅れから相対的後進国に陥っていた。そしてフランスでは、列強諸国と対抗するために特定の輸出産業のみを保護育成する重商主義政策を続けていたために、大衆消費財部門のマニュファクチュアや農業の発展が滞り、産業革命が起こる環境にはなかった。したがって、ブルジョワの富は産業資本へ投下よりも土地購入に充てられることが多く、彼らは地主や領主・貴族となったのである。その結果、 フランスのブルジョワジーは体制内に取り込まれて独力で革命を担う得る階級には成長できなかったし、 貧しい民衆や零細農民の広範な滞留という問題が未解決のまま残っていた。
こうしたアンシャン・レジーム社会を背景にしてフランス革命が勃発するが、ジョルジュ・ルフェーヴルは、その著『一七八九年』の中で「アリストクラートの革命」la révolution aristocratique、 「ブルジョワの革命」la révolution bourgeoise、「民衆の革命」la révolution populaire、「農民の革命」la révolution paysanneが複合的に絡み合いながら、それぞれ独自のあるいは自立的な展開をとげたと指摘している。確かに「貴族の反乱」に始まるフランス革命は、一七八九年の「民衆と農民の蜂起」に脅威を感じたブルジョワが自由主義貴族と結んで〈妥協路線〉を選択し、「九一年体制」を築いた。しかしやがて、内外の反革命勢力の脅威に直面した立法議会が、九一年体制から疎外されていた民衆や農民の協力が必要と考え直し、九二年夏以降は一転して革命の徹底化を図った。もちろん、すべてのブルジョワが〈徹底路線〉に賛成するはずもないので、国民公会はジロンド派と山岳派の対立の場となり、やがて九三年六月以降はロベスピエールを中心とする公安委員会による「革命独裁」へと移行する。ロベスピエールは民衆運動を懐柔するためにジロンド派や(山岳派内部の)寛容派を排除したが、彼は基本的にはブルジョワの利害を第一に考える革命家であったから、返す刀で民衆や農民たちの運動に厳しい弾圧を加えている。アルベール・マチエAlbert Mathiez(一八七四~一九三二)は、私的所有を制限しようとしたロベスピエールを〈社会主義の先駆者〉の一人と見なしたが、ジョルジュ・ルフェーヴルやアルベール・ソブール Albert Soboul(一九一四
~八二)の批判を待つまでもなく、ロベスピエールをバブーフと直結させるには無理がある。旧体制や反革命勢力の一掃という課題を果たした革命政府は、まもなくブルジョワによって切り捨てられ(一七九四年「テルミドール反動」)、ブルジョワ主流派による総裁政府が成立した。
このようにフランス革命の流れを概観すると、アリストクラート、ブルジョワ、民衆、農民という四つの社会勢力が担った革命は極めて複雑な展開を示したが、そのジグザクに蛇行した歩みの中心にはいつでも〈ブルジョワ〉の存在があり、彼らが最終的には資本主義経済を実現する環境を整えたということを確認することができる。したがって、フランス革命の特徴は、第一に典型的な「ブルジョワ革命」であったことであり、 第二に一七八九年に発表された「人権宣言」や「一七九一年憲法」に始まる〈立憲主義〉の流れがまさしく「国民国家」への道を切り開いた点に求められる。しかし第三には、 ロベスピエールらの「革命独裁」という経験が軍部の台頭を促し、一九世紀以降の自由主義や民族主義を抑圧するウィーン体制につながったことも忘れてはならない。そして第四の特徴としては、「民衆と農民の革命」が社会を変革する大きな要因として登場したことも確認できる。彼らの目標が実現できたのはほんのわずかだが、 〈世論〉が国政を揺り動かし得ることを知らしめ、一九世紀以降の七月革命・二月革命、そして第三共和政の実現へとつながっていった。フランス革命は、著名な指導者か名もなき大衆(民衆・農民)であるかを問わず、人間の尊厳を賭けて立ち上がった人々の「魂の叫びであり、巨大な熱情の噴出であった」(遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』一八四頁)からこそ、その後の世界に大きな影響を与え続けたのである。註⑲
註① 革命前のフランスでは、麦秋が近づく端境期になると食糧不足に陥る恐れがあったため、各地域とも穀 物貯蔵庫を満たすことに腐心していた。したがって、穀物取引は厳重に規制され、農民が自由に販売すること は固く禁じられていた。彼らが都市の週市へ搬入した穀物は、市当局が作成した市場価格表に基づいて先ず 市民に、次いでパン屋、穀物商人の順で販売されたのである。ところが一七八七年に財務総監ブリエンヌが穀物の国内流通の自由化、週市外における販売の許可、さらには穀物輸出の許可を決定すると、穀物の流通 が加速化し、各地の穀物貯蔵庫は底をついた。そのうえ一七八八年は不作に苦しんだ年だったから、はやくも八月から穀物価格の高騰が始まり、翌年七月まで続いた。そこでネッケルは、外国での穀物買い付けを命じて輸入を奨励し、週市においてのみ販売させる制度を復活させるとともに、一七八九年四月には徴発によって週市に供給させる許可を地方総監に許可した。こうした農業危機は農民の購買力を低下させ、次に訪れた工業危機は大量の失業者や乞食を発生させた。その間、民衆は、十分の一税徴収権者や領主層が現物貢租を徴収して莫大な量の穀物を抱え込み、価格高騰を心待ちにしていることを見抜いていたのである。したがって、民衆が待望していたのは流通規制の強化であった。
ジョルジュ・ルフェーヴル著『一七八九年―フランス革命序論』(高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳)一七九~一八九頁 GeorgesLefebvre, Quatre-vingt-neuf, Paris, 1939.、柴田三千雄『パリのフランス革命』三一~六五頁参照。なお、フランス革命研究におけるブルジョワ革命論と修正主義の論争等については、ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書の序文(高橋幸八郎)三~二三頁、柴田三千雄前掲書の序論一~一七頁・『フランス革命』一~三八頁に簡潔にまとめられている。
註② アリストクラートとはデモクラートに対立する政治的・社会的概念で、その構成要素としては貴族及び 高位聖職者からなるが、高位聖職者は身分的には貴族noble(貴族身分noblesse)に属している。ジョルジュ・ ルフェーヴル前掲書三~八四、二一九~二三九頁参照。
註③ 一六七〇年、ルイ一四世は中世以来の伝統であったパリを囲む城壁を壊して開放都市とした。彼はまた、 セーヌ川両岸の旧城壁内の地域(町ville)を二〇の「カルティエ」(街区)quartierに区分し、その外側に広がる地域(フォーブール=町外れfoubourg)を放射線状に一四に区分した。ところが一七八五年、財政難に苦しむ政府は再びパリを市壁(通称「徴税請負人の壁」)で囲い込んだ。これは徴税組合に入った化学者のラヴォワジエLavoisierが、入市税関を不法に潜り抜ける密輸品を減らす秘策として壁の建設を提案したことに起因する。一七八五年に建設が開始された市壁は全長二三キロ、高さ三・三メートルで、内側に幅一二メートルの巡察路、外側には幅六〇メートルの大砲設置用の累道(ブールヴァールBoulevard)が走っていた。パリ全域を囲い込むには四五カ所の市門(バリエールbarrière。その後六〇カ所に増加)が設けられ、その側に入市関税事務所が建設された。それまでグラン・ブールヴァールの外側に区切りもなく広がっていたフォーブールは、 市外とは明確に区切られる境界を持ったことになる。なお、カルティエ(街区)は、革命勃発後の「一七九〇年六月二七日法」により四八の地区districtsに分割されて「セクション」 sectionと呼ばれた後、「共和暦四年葡萄月一九日(一七九五年一〇月一一日)法」による合併で一二の行政区(アロンディスマンArrondissement)に整理統合され、一八一一年五月一〇日、「カルティエ」という呼称に落ち着いた。柴田三千雄『パリのフランス革命』二〇~三〇頁参照。
註④ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書八五~一三九頁、柴田三千雄『パリのフランス革命』一〇二~一三二頁、同『フランス革命』三九~八五頁各参照。
註⑤ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書一四〇~一六六頁、柴田三千雄『フランス革命』八五~八九頁、松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第八論文)三三五~三五一頁各参照。
註⑥ 一七八九年の入市関税所襲撃事件で逮捕された七七人は、酒商人一七人・密輸商人一五人を除くと残りのほとんどが手工業者・小商主・雑役日雇いであり、そのうち賃金労働者は二三人と推定される。また、サン・ラザール修道院襲撃事件の逮捕者三七人のうち賃金労働者は三三人にのぼる。そして、徴税請負人の前歴を罪に問われたラヴォワジエは、一七九四年五月八日、ギロチンで処刑された。
柴田三千雄『パリのフランス革命』25、 138頁各参照。
註⑦ 現在、パリ市内を流れるセーヌ川には右岸と左岸、中州の島を結ぶ三七の橋が架けられているが、革命勃発時からのものはポン・ヌフPont Neuf(一五七八年)、マリー橋Pont Marie(一六一四年)、ロワイヤル橋Pont Royal(一六八五年)などごく僅かである。その多くは一九世紀以降に架け替えられたもので、コンコルド広場とオルセー河岸を結ぶコンコルド橋Pont de la Concordeは革命の最中にも建設が継続され、バスティーユ牢獄解体でできた廃材が利用されたことでも知られる。なお、当時のパリの総人口五〇~六〇万人のうち、職人や労働者は約七万五〇〇〇人(家族を含めると二五~三〇万人)程度と思われ、セーヌ川からブールヴァール及びその周辺に二万人以上、セーヌ左岸のパレ・マザランからパンテオンの間に少なくとも六〇〇〇人程度の労働者が住んでいた。ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書一九〇~二〇〇頁参照。
註⑧ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書二四五~二五五頁、柴田三千雄『フランス革命』八九~九五頁各参照。
註⑨ 国民議会の多数派が「都市の民衆蜂起は国民衛兵の設置で抑え込むことができる」と見なしたのは、七 月三一日、国民衛兵司令官ラ・ファイエットが総計六〇〇〇人の有給部隊を創設して旧来のフランス衛兵連隊に編入した際、上限二万四〇〇〇人の志願兵は一着八〇リーヴルもする高額の制服を自弁で購入することとしたため、「下層民」には志願できなかったからである。柴田三千雄『フランス革命』九五~一〇〇頁参照。
註⑩ フランス人権宣言の草稿はマレ地区のパリ歴史博物館Musée de l'Histoire de Paris(カルナヴァレ博物館Musée Carnavalet)に展示されており、共和国広場に立つ女神像の左手に載っているのも「人権宣言」である。
ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書二五九~三〇九・三三一頁、松浦義弘前掲書三五二~三五四頁各参照。
註⑪ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書三三六~三五〇頁参照。柴田三千雄『パリのフランス革命』一六三~一六六頁、同『フランス革命』一〇〇~一〇二頁、松浦前掲書三五四~三五七頁各参照。
一七八九年一二月、フランスの行政制度は従来の州制度をやめて八三の県に分割され、県はさらに郡(ディストリクト)、小郡(カントン)、市町村に下位区分された。人口二万五〇〇〇人以上の大都市の場合はリヨンとマルセイユがそれぞれ三二セクション、ボルドーが二八セクション、パリが四八セクションに区分され、選挙もセクション単位に行われるよう変更された。また、高等法院を頂点とした旧来の裁判制度も廃止され、地域レベルの治安判事、郡レベルの民事裁判所、県レベルの刑事裁判所、そして唯一の控訴院(破棄院)からなる裁判システムに変更された。そして、地方行政官僚や判事はいずれも原則的に公選とされた。
註⑫ ブリソー主導の「黒人友の会」(一七八八年設立)は植民地の黒人に市民権を与える運動を展開し、ラ・ファイエットらの「一七八九年協会」(一七九〇年四月設立)は宮廷や貴族との妥協を模索したことで知られる。柴田三千雄『パリのフランス革命』一八七~二二五頁、松浦前掲書三五六~三六〇頁各参照。
註⑬ 柴田三千雄『パリのフランス革命』二二五~二六九頁、松浦義弘前掲書三六〇~三六三
頁各参照。工兵大尉ルージュ・ド・リールが作ったフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」は、はじめ「ライン軍の歌」として歌われたが、一七九二年七月、パリに入ったマルセイユ部隊の兵士が歌ったことで改名された。ルージュ・ド・リールは後に反革命という指弾を受けて亡命した。原譜はフランス歴史博物館に保存されており、合唱する義勇兵の姿は「凱旋門」Arc de triomphe de l'Étoileの浮彫として残っている。また、国王一家が幽閉されたタンプル塔は、十字軍戦争の際に結成されたテンプル騎士団(一一二八年公認)の見張り塔であった。一三一二年、テンプル騎士団は国王フィリップ四世によって解散を命じられ、騎士団長ジャック・ド・モーレイ以下幹部五〇数名が男色などの罪で焚刑に処せられた。その後、城塞は解体・改修されて聖ヨハネ騎士団(一一一三年公認)に与えられたが、タンプル塔の名前は残った。
鹿島茂『失われたパリの復元』一一四頁、柴田三千雄『フランス革命』一一四~一二〇頁各参照。
註⑭ 遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ フランス革命の世界史的位置』参照
註⑮ 柴田三千雄『フランス革命』一二〇~一二五頁、松浦義弘前掲書三六四~三六八頁各参照
註⑯ 柴田三千雄『フランス革命』一二七~一四一頁、松浦義弘前掲書三六八~三七四頁各参照。国王ルイ一六
世の処刑については安達正勝『死刑執行人サンソン 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』が、またマリ・アント
ワネットの人物像はシュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット(上下)』(高橋禎二・秋山英夫訳)Stefan Zweig, Marie Antoinette-Bildnis eines mittleren Charakters(1932)、パウル・クリストフ編『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』MARIA THERESIA GEHEIMER BRIEFWECHSEL MIT MARIE ANTOINETTE edited by Paul Christoph 、三浦一郎『世界史の中の女性たち』一四一~一五二頁が詳しい。
註⑰ 一七九二年九月二二日、従来のグレゴリウス暦に代わって共和暦(革命暦)の採用が決定され、翌年一〇
月五日から一八〇六年一月一日まで使用された。河野健二『フランス革命小史』一三五~一三六頁参照
註⑱ 遅塚忠躬「ルソー、ロベスピエール、テロルとフランス革命」(『フランス革命を生きた「テロリスト」 ルカルパンティエの生涯』所収論文)一八九~二二四頁、松浦義弘前掲書三七四~三九〇頁各参照。
なお、恐怖政治期に処刑された著名人のうち、ダントン像はサン・ジェルマン通り、カミーユ・デムーラン 像はパレ・ロワイヤルに建てられているが、パリ市内にロベスピエール像は存在しない。田村秀夫『フラン ス革命 歴史的風土』一七〇頁参照。
註⑲ アルベール・マチエ『フランス大革命(上中下)』(ねづまさし・市原豊太訳)Albert Mathiez, La Révolution Française, 3 vols. Collection Armand Colin. アルベール・ソブール『フランス革命一七八九―一七九九(上下)』(小場瀬卓三・渡辺淳訳)、La Révolution Française 1789-1799 Albert Soboul Editions sociales, 1948. 柴田三千雄『フランス革命』一七四~二四六頁、遅塚忠躬『フランス革命を生きた「テロリスト」ルカルパンティエの生涯』七~一八八頁、松浦義弘前掲書三九〇~四〇六頁各参照
註⑳ この原稿を書くに際して、右記の著書・論文以外にジュール・ミシュレ『フランス革命史(上下)』(桑 原武夫・多田道太郎・樋口謹一訳)Jules Michelet, Histoire de la Révolution Française, édition etablie et commentee par Gérard Walter, Bibliothèque de la aPléiade, 2 tomes, 1961. J・M・.トムソン『ロベスピエールとフランス革命』(樋口謹一訳) ROBESOIERRE AND THE FRENCH REVOLUTION J.M.Thompson 1952. 高橋幸三郎『市民革命の構造 増補版』、河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』、河野健二著『フラ ンス革命の思想と行動』、同『革命と近代ヨーロッパ』、遅塚忠躬『ヨーロッパの革命』(世界の歴史⒕)、 桑原武夫編『フランス革命の指導者』、安達正勝『フランス革命の志士たち』、柴田三千雄「サン・キュロット」(『シリーズ世界史への問い6 民衆文化』所収第四論文)、松浦義弘「ロベスピエール現象とは何か」(『岩波講座世界歴史⒘ 環大西洋革命』所収第六論文)その他を参考にした。
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