英仏百年戦争
第二節 百年戦争第一期(一三三九~六〇年)
一 フランス王位継承問題
英仏両国の王領地をめぐる争いは、その源をノルマンディ公ギヨーム二世Guillaume II(在位一〇三五~八七、英王ウィリアム一世William I在位一〇六六~八七 )が行ったノルマン=コンクェストNorman Conquest(一〇六六年)に求めることができる。しかし、実質的には仏王ルイ七世と離婚したエレアノールが二カ月後にアンジュー伯アンリと再婚した一一五二年に始まるとするのが自然であろう。当時、イングランド王国ノルマン朝(一〇六六~一一五四4)の第三代国王ヘンリ一世Henry I(在位一一〇〇~三五)には男子の後継者がいなかったため、娘マティルダをアンジュー伯ジョフロワに嫁がせていた。そして、二人の間に生まれた息子こそがエレアノールの再婚相手アンリであった。一一五四年一二月一九日、 ウェストミンスター寺院で挙行されたヘンリ二世Henry II(在位一一五四~八九)の戴冠式でイングランド王国はプランタジネット朝(一一五四~一三九九)へと移行したが、一一五六年、彼はフランス王国の貴族(アンジュー伯・ノルマンディ公・ギエンヌ公)でもあったため、一一五六年には仏王ルイ七世に対して封建的臣従礼を行っている。
前述したように、仏王フィリップ二世(在位一一八〇~一二二三)期には王領地拡大が飛躍的に進み、第三代イングランド王ジョンJohn(在位一一九九~一二一六)からノルマンディを奪った(一二〇四年)だけでなく、一二〇六年にはジョン王とリュジニャン家Lusignanの争いに乗じてメーヌ、アンジュー、トゥーレーヌTouraineを手に入れ、フランス王権とアンジュー家の関係は完全に瓦解した。アンジュー家はまだギエンヌ公国の大部分を確保していたが、フランス王権が次第にその影響力を南部に伸ばし、 東部や西部・南部では諸侯の反乱が頻発するようになった。そして、フランスにおける王領地拡大の第二の画期となったのはルイ九世(在位一二二六~八五)の治世である。一二五九年暮れ、イングランド王ヘンリ三世Henry III(在位一二一六~七二)との間にパリ条約が締結され、アンジュー家は明確にカペー家に臣従することとなった。この条約では、アンジュー家がノルマンディ公領・アンジュー伯領・トゥレーヌ・ポワトゥ伯領を放棄すること、アンジュー家の家臣はアンジュー家とカペー王家が軍事衝突を起こした場合には後者を支援すること(一二七九年、アミアン条約で実施困難を確認)、カペー王家は封建法上の上訴管轄権(註⑭)を獲得したこと、アンジュー家君主は、フランス王権・アンジュー家双方の代替わりのたびに主君であるフランス王に対する臣従礼を行わねばならないことが定められた。註⑮
一二九三年、仏王フィリップ四世(在位一二八五~一三一四)期初めのことであるが、イングランド南岸の五港市とガスコーニュ地方のバヨンヌBayonne港に所属する船の連合船隊がブルターニュ近海でノルマンディ船隊と衝突して勝利を収めた後、ビスケー湾に面した港町ラ・ロシェルLa Rochelleを襲撃するという事件が発生した。フィリップ四世は、ガスコーニュを含むギエンヌの宗主権者エドワード一世Edward I(在位一二七二~一三〇七)の責任を追及し、翌年一月までに出頭するよう命じた。しかし、イングランド王が出頭命令に応じなかったため、五月一九日にはギエンヌ公領没収の判決が下り、ギエンヌ戦争(一二九四~九七年)へと発展した。この戦争に勝利したフランス王家は、ギエンヌ全土を占領し、アンジュー家に残ったのはガスコーニュ南西隅の一部とジロンド川東岸の都市のみであった(一二九七年、ヴィーヴ・サン・バヴォン休戦協定Vyve-Saint-Bavon)。その後、一三〇三年、パリ条約でカペー王家の占領地をアンジュー家に返還し、英仏両王家はイングランド王エドワード一世(一二九〇年、最初の妻エリナー・オブ・カスティルEleanor of Castileと死別していた)と仏王フィリップ四世の妹マルグリットMargaret、イングランド王エドワード一世の長子エドワード(後のエドワード二世)と仏王フィリップ四
世の娘イザベルという二組の結婚をまとめている。エドワード二世Edward II(在位一三〇七~二七)とイザベルの間にはエドワード三世が誕生するが、こうした婚姻関係の設定はフランス王位継承問題の原因となっていく。
実際、イングランド王エドワード一世はスコットランド問題に忙殺されていたとはいえ、王太子(後のエドワード二世)を送って代理による臣従礼で済ませ(一三〇四年)、四年後になってようやく妻マーガレットを迎えに行ったパリで舅フィリップ四世に臣従礼を行っている。また、仏王フィリップ四世の没後(一三一四年)、相次いで亡くなったルイ一〇世Louis X(在位一三一四~一六、フィリップ四世の長子)・ジャン一世Jean I(在位一三一六、ルイ一〇世の長子)に対するイングランド王エドワード二世の臣従礼は行われていない。なお、フィリップ五世Philippe V(在位一三一六~二二、フィリップ四世の次子)に対しては、一三一九年の代理による臣従礼の後、一三二〇年にはエドワード二世自身がフランスに赴いて臣従礼を行っている。
一三二二年に即位したシャルル四世Charles IV(在位一三二二~二八、フィリップ四世の末子)は、エドワード二世に対してアミアンに出頭して臣従礼を行うよう要求した。しかし、エドワード二世は長子エドワード(後のエドワード三世)をギエンヌ公として、彼に臣従礼を行わせる案を考え出し、シャルル四世も六万パリ・リーヴルの代価納入を条件に同意した。その結果、王太子エドワードが叔父シャルル四世に臣従礼を行ったのである。しかし翌年、ガロンヌ川中・下流域に広がるアジュネ地方Agenaisのサン・サルドス修道院Saint-sardosとその周辺地域の支配をめぐる紛争(サン・サルドス戦争)が勃発した時、仏王シャルル四世がモンペザ領主 Montpezatの無法を理由に再度のギエンヌ公領没収宣言を発したため、アンジュー家に残ったのはボルドー、バヨンヌほか一都市と若干の城のみとなった。一三二五年に締結された平和条約に基づいて、カペー王家はギエンヌに総代官一名とその下に一群の裁判官・行政官を派遣し、アンジュー家が任命権を持っていた各地の城代は総代官の指揮下に置かれることとなった。その間、渡仏していた王太子エドワードがイングランドの反国王派に籠絡されたため、シャルル四世はエドワードのギエンヌ占領を許した。しかし、一三二六年になるとエノー伯ギヨーム一世のもとへ身を寄せていたイングランド王妃イザベラ(仏王フィリップ四世の娘)が息子エドワードを擁してクーデターを起こすという事件が発生し、翌年にはエドワード二世が廃位され、新たに息子エドワード三世Edward III(在位一三二七~七七)が即位した。エドワード三世は早速ギエンヌ返還を要求し、アンジュー家は賠償金五万マルクを支払うこと、カペー王家はガスコーニュ領主八名をギエンヌから追放して彼等の城を破壊することという条件で、ギエンヌ返還が合意に達した(パリ条約)。
一三二八年二月、仏王シャルル四世が没し、カペー王家の男系子孫が断絶した。イングランド王エドワード三世は、母イザベルを通して〈フィリップ四世の孫にあたり、シャルル四世の甥にあたる〉という理由でフランス王位継承権を主張したが、諸侯会議はイングランド王室の介入を避けるためにヴァロワ伯フィリップ(フィリップ四世の弟の子)を王位継承者に選定し、五月フィリップ六世Philippe VI(在位一三二八~五〇)が即位した(ヴァロワ朝[一三二八~一五八九]成立)。翌年六月、エドワード三世はアミアンで臣従礼を行ったが、それは家臣としての義務内容が曖昧な単純臣従礼であったためフランス側にとっては不満が残った。仏王フィリップ六世は、ボワ・ド・ヴァンセンヌ条約Bois de Vincennes (1330
年)の批准を拒否し、パリに出頭して臣従礼をやり直すよう要求した。そこでエドワード三世は妥協の道を模索して、何かと出頭期限を遅らせていたが、やむを得ず一三三一年四月、渡仏しフィリップ六世と面会した。五月にはボワ・ド・ヴァンセンヌ条約の補足協定が成立し、エドワード三世は一身専属的臣従礼の義務を承認した(ただし、一三二九年「アミアンの臣従礼」を一身専属的臣従礼と解し、臣従礼のやり直しは行わなかった)。
ところで、イングランド王エドワード三世は祖父エドワード一世の対スコットランド政策を踏襲し、一三三二年以降、幾度も侵攻を繰り返している。しかし、イングランド軍の支援を受けて即位したスコットランド王エドワード・ベイリャルEdward Balliol(在位一三三二~五六)の統治は安定せず、同年末にはイングランドへ逃亡している。翌三三年、再びスコットランドへ攻め込んだエドワード三世は、ハリドン・ヒルHalidon Hillの戦いで勝利を収め、エドワード・ベイリャルを復帰させた。その結果、一三三四年にはデイヴィッド二世(一〇歳)が王妃ジョアン(エドワード三世の妹で一三歳)とともに母イザベラの母国フランスを頼って亡命している。その後、イングランド・スコットランド間紛争は教皇庁の呼びかけで休戦(一三三五~三六年)の運びとなったが、その間にフランス王権が実行しようとしていた十字軍派遣を教皇ベネディクトゥス一二世Benedictus XII(在位一三三四~四二)が弱気となって中止させたため、フィリップ六世は準備していた軍資金・軍隊をイングランド・スコットランド間紛争への介入資金として利用しようとした。一三三六年春、フィリップ六世はマルセイユMarseilleに集結させていた艦隊をノルマンディに回航させ、教皇が十字軍遠征費として徴収を認めていた「十分の一税」約四〇万リーヴルを対イングランド戦費として転用することの許諾を求めた(教皇はその要請を認めなかった)。一方、エドワード三世は、一三二八年、エノー伯女フィリッパPhilippa of Hainault(仏王フィリップ六世の妹ジャンヌの娘。姉マルガレーテは神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ四世〔バイエルンのヴィッテルスバッハ家Wittelsbach出身〕の皇后)と結婚して低地地方に地歩を固めていたが、一三三六年突然、低地地方への羊毛輸出禁止している。翌年イングランド王の使節がガンGandで市民代表と面会した際、市民代表はエドワード三世をフランス国王と認めて同盟の意志を表明したが、これは英仏間の対立を先鋭化する要因となった。
二 エドワード三世のフランス王位登極宣言
一三三七年、イングランド王エドワード三世は、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ四世Ludwig IV(在位一三一四~四七)との対仏同盟交渉を開始し、皇帝宛て書簡の中で初めて仏王フィリップ六世を〈現在フランス王として振る舞っているフィリップ〉と記して、自らの仏王位継承権の主張を再び持ち出す考えがあることを示唆している。同年六月、ギエンヌ地方で戦闘が開始され、ノルマンディ艦隊がイングランド南岸を襲撃した。英独同盟の成立後、フィリップ六世はギエンヌ公領没収宣言を発したが、エドワード三世も開封勅書(一〇月七日)でフランス王位継承権を主張し、数日後には臣従礼破棄宣言(「一三三七年の挑戦状」)をリンカン司教ヘンリ・バーガーシに託してフランス側に伝えている。
一三三八年一一月には教皇の勧めで英仏間の交渉が持たれたが、翌年七月、エドワード三世は教皇及び枢機卿会議に書簡を送って仏王位に対する自らの権利を主張するとともに、イングランド軍の根拠地をフランドルの東に隣接するブラバント地方Brabantの中心都市アントウェルペンAntwerpenに定め、フランドル伯領の南辺に沿ってヴェルマンドワ地方Vermandois(フランス北東部)のサン・カンタンSaint-Quentinに近いティエラシュThiéracheに向けて進軍させた。その時、仏王フィリップ六世が決戦を避けたので、イングランド軍は一旦アントウェルペンまで後退し(一〇月)、翌月にはフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールに同盟締結と縁組みを呼びかけている。ところがフランドルでは、前年にガンの富裕市民ヤーコブ・ファン・アルテフェルトJakob van Arteveldeを中心にブリュージュBruges、イープルYpresなど有力諸都市が団結してフランドル伯に対抗しており、一三三九年二月、フランドル伯はヴァロワ宮廷への亡命を余儀なくされた。アルテフェルト等は、初めのうちは英仏間の紛争に中立の姿勢を維持していたが、 一二月三日、ついにエドワード三世とフランドル諸都市の間で協定が成立し、(1)フランドルに対する羊毛禁輸を解除する、(2)イングランドの輸出羊毛指定市場をアントウェルペンからブリュージュへ移転させる、(3)フランドル諸都市に対して支援金一四万リーヴルを支払う、(4)仏王軍がフランドル攻撃をした場合、イングランド艦隊及び大陸派遣軍の一部はアルテフェルトの指揮下に入る、ことで合意した。
こうして一三四〇年二月六日、エドワード三世はガンで「フランス王位登極宣言」を発し、フランス地方貴族の支持を取り付けようとした。当時のフランス王国は、ヴァロワ家が支配する王領地と、ギエンヌ公国、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、フランドル伯領などの「領邦国家」からなる連合体であったが、エドワード三世のフランス王位登極宣言とフランス諸侯への呼びかけは、地方貴族が求める特権擁護の声を糾合して全国的な反ヴァロワ運動を起こす狙いがあったものと思われる。同年六月二四日には特別五港(シンクポーツcinque ports、ヘースティングズHastings、ロムニーRomney 、ハイスHythe、ドーヴァーDover、サンドウィッチSandwich)等から集めたイングランド艦隊二〇〇隻と兵士がゼーラントのスロイスSluys(仏名エクリューズ)で迎撃しようとしていた仏海軍を撃破することに成功する(スロイスの海戦)。この時、フランス軍はイングランド軍の長弓隊に対してクロスボウcrossbowで反撃したが及ばなかった。この勝利で、イングランドはドーヴァー海峡の制海権を獲得することに成功した。註⑯
三 イングランド軍の北西フランス侵攻
ノルマンディ地方は、一二〇四年、仏王フィリップ二世がアンジュー家から取り戻して以来、フランス国王の直轄領であり続けた。在地の教会や領主は一四世紀初めになっても司法・行政上の独自性を維持していたが、彼等にとって国王直轄化の進展が大きな脅威となり、王権による課税のために召集されたノルマンディ地方三部会では独自の法や慣習・財産・権利を守ろうとする意志が表明された。そして一三四四年、コタンタン半島Cotentin(ノルマンディ半島)の領主ゴドフロア・ダルクールGodefroi d'Harcourtがエドワード三世の宮廷において臣従を誓ったことが引き金となって、その二年後にはイングランド軍によるノルマンディ上陸が実現している。また同様に、フランス王権に対する不満を抱いていた人物にナヴァール王シャルル二世Charles II(在位一三四九~八七、フィリップ三世の曾孫でフィリップ六世の従弟の子)がいた。彼はナヴァール王国とシャンパーニュ伯領の相続権を有していたが、仏王フィリップ五世によってシャンパーニュ伯領を取りあげられ、ノルマンディ地方のモルタンMortainのみを付与されていたのである。一三五二年、シャルル二世は仏王ジャン二世の娘と結婚したが、ヴァロワ王家からの嫁資支給がないことが亀裂を決定的にし、彼もまたエドワード三世に接近していた。ナヴァール王国は、一三五六年にシャルル二世が捕らえられた後も、弟フィリップがゴドフロア・ダルクールと協力してエドワード3
世を〈仏王・ノルマンディ公〉として推戴し、臣従している。
一方、ノルマンディ地方の南側に隣接しているブルターニュBretagneでは、一一三六年以来、イングンドのリッチモンド伯Richmondがブルターニュ公を兼務し、伝統的にアンジュー家と親密な関係にあった。ブルターニュ公ジャン三世Jean IIIは、前述した一三三九年から翌年にかけての戦闘ではフランス側の味方をしたにもかかわらず、イングランドとの友好関係は維持されていた。ところが、継嗣を持たないジャン三世が一三四一年四月に亡くなり、ブルターニュ公位継承問題が浮上して来る。公位継承の候補者としては夭折した弟の娘ジャンヌとその夫シャルル・ド・ブロワCharles de Blois(フィリップ六世の甥)か、ジャン三世の異母弟ジャン・ド・モンフォールJean de Montfortが考えられた。しかし、ジャン・モンフォールが「ブルターニュの封建宗主たる仏王フィリップ六世は甥に有利な決定を下すはずだ」と考えて実力行使に出たため、ブルターニュ継承戦争が勃発した(一三四一年)。
ジャン・ド・モンフォールは、はじめナントNantesにある公の居城と遙か南方のリモージュLimogesに保管されていた財宝と資金を押さえ、ブルターニュ諸侯を招集して彼等の臣従を求めたが上手く行かなかった。そこで彼もまた、エドワード三世に接近する。同年六月にはイングランドの使者が来訪し、秋には同盟関係が成立して、リッチモンド伯領は条件付きでジャン・ド・モンフォールに与えられた。一方、 ヴァロワ宮廷側はシャルル・ド・ブロワをブルターニュ公として承認し、彼を支援するために派遣した国王軍がモンフォールを捕らえることに成功する。その際、辛うじて虜囚の身となることを免れたモンフォールの妻ジャンヌ・ド・フランドルJeanne de Flandreが再度の同盟交渉を行った結果、モンフォール派はエドワード三世を仏王と認めて、イングランド軍に公領内の都市・港湾・城塞に駐屯して徴税する権利を与える代わりに、イングランドからの軍事支援を獲得した(一三四二年夏)。一三四五年にはジャン・ド・モンフォールが没したが、エドワード三世はモンフォールの(同名の)子の後見人として養育に努め、ブルターニュ公国を支配し続けた(アンジュー家の軍隊は、一三九〇年代までブルターニュに駐屯していた)。
一三四六年、エドワード三世は、フランス王国軍の警備が手薄になっていたノルマンディ地方に上陸してカーンCaenなどを攻略した後、パリ近くまで侵攻した。しかし、彼らは仏王フィリップ六世がギエンヌから大軍を呼び戻してサン・ドニに集結させたという情報に接し、フランドル地方まで撤退しようとした。八月二六日、エドワード三世とその長子エドワード黒太子Edward, the Black Princeが率いるイングランド軍は、ソンム川の浅瀬を防衛していたフランス分隊を破った後、フランス北部の港町カレーCalaisの南方に位置するクレシーCrécyで仏軍を迎撃し、またしても長弓や大砲を駆使して大勝利を得た(一三四六年クレシーの戦い)。このように、エドワード三世の戦略方針は、フランス各地の領邦(特に北部・西部の、イングランドに近く、古くから関係の深い地域領邦)内の矛盾・対立を煽り、そこに介入して支持勢力を獲得し、敵対勢力から奪った領地を支持勢力に分配することで地歩を固めることにあった。その結果、一三五〇年代にはアンジュー家の古来の領地ギエンヌ(アキテーヌ)以外に、フランドル、ノルマンディ、ブルターニュなどに支持勢力を拡大し、〈仏王〉として軍隊を駐屯させるに至った。イングランドから遠く離れたブルゴーニュ公国でさえ、「エドワード三世が歴代仏王の戴冠式場であるランス司教座聖堂で戴冠式を挙行できたなら、仏王として認めてもよい」と考えたと言われている。
一三五〇年八月二二日、仏王フィリップ六世が身罷り、長子ジャン二世Jean II(在位一三五〇~六四)が即位した。そして一三五六年、前年からボルドー周辺で戦いを継続していたエドワード黒太子がイングランド軍を率いて北上を開始した。しかし同年九月、大雨のために行軍に遅れが生じ、ロワール川付近で仏王ジャン二世の軍勢に追いつかれた。九月一九日ポワティエPoitiersの戦いに臨んだエドワード黒太子は、かつて一六歳の時に経験したクレシーの戦いと同様の作戦をとり、濠と森に囲まれた自然の要害に陣取った。また、後方の森に隠した二〇〇騎ほどの騎兵部隊以外はみな歩兵として二部隊を編成し、その両翼にはロングボウを持った長弓部隊で固めた。一方、仏王ジャン二世は部隊を四分割し、第一陣はジャン・ド・クレルモンJean de Clermont 率いる三〇〇人ほどの騎士と槍を持ったドイツ傭兵部隊や弩部隊によって構成され、敵の長弓部隊に対抗する役目を負った。またフランス王太子シャルル(後のシャルル五
世)率いる部隊約四〇〇〇名が第二陣、王弟オルレアン公フィリップ率いる部隊約三〇〇〇人が第三陣となり、仏王ジャン二世率いる騎兵部隊約六〇〇〇人(そのうち三〇〇人以外は歩兵として戦いに参加)は第四陣とした。しかし、イングランド軍の長弓部隊が仏軍の騎士部隊の馬を狙い撃ちし、さらには騎士部隊が仏軍の側背面に回り込んで奇襲攻撃を加えたため、またしてもイングランド軍の大勝利となり、ジャン二世とその側近は捕虜とされた。ただし、王太子シャルルは辛うじてパリに帰還している。
4 ブレティニーの和約(一三六〇年)
ポワティエの戦いに勝利したイングランドは、ジャン二世の身代金として最初は五〇万ポンド(一ポンド=一トゥール貨リーヴル)を要求したが、そのうちエキュ金貨四〇〇万枚に減額している。一三五七年春、教皇庁の仲介を受けた英仏両国はボルドーで約二年間の休戦と講和条件に関する予備的秘密協定を成立させたと言われるが、詳細は明らかではない。ジャン二世のイングランド護送後に交渉が再開され、翌年前半には第一ロンドン条約が締結された。しかし、一三五八年にはフランス国内に農民一揆(ジャックリーの乱)や、パリのエティエンヌ・マルセルÉtienne Marcelの〈革命〉、ノルマンディ地方の反乱などが勃発し、身代金の第一回支払い分六〇万エキュを六カ月後には納入するという約束を履行できなかった。そのためエドワード三世は第一ロンドン条約の批准を拒み、これを破棄させている。註⑰
その当時、フランス王国では百年戦争に伴う混乱が全国三部会を変容させ、王権による支配が強化されていた各都市では有力市民の影響力が増していた。とりわけ一三四七年マルセイユに上陸した黒死病(ペスト、註⑱)は瞬く間にヨーロッパ全体に広がり、ポワティエの敗戦や戦争のための臨時税は貴族層と有力市民の対立を深刻化させた。その頃首都パリでは、衣類商の一族に生まれたエティエンヌ・マルセル(一三一五~五八)という男が、一三五〇年ノートルダム大聖堂参事会長となり、五四年以降は実質的なパリ市長に当たる「パリ商人頭」にまで上りつめていた。一三五五年、仏王ジャン二世は対イングランド戦費調達のために全国三部会を召集したが、エティエンヌは税収を管理する委員会の設置を提案して国王と対立した。一三五七年、ジャン二世がポワティエの戦いで捕虜とされると、エティエンヌは「租税徴収や軍隊の召集・休戦の調印などは全国三部会の承認が必要である」とする「大勅令」作成の中心的役割を果たしている。この時、パリに帰還していたシャルル王太子兼摂政が「大勅令」を拒否したため、エティエンヌは王位を狙っていたナヴァール王カルロス二世Carlos II(在位一三四九~八七)と協力して王太子の追い落としを図った。王太子シャルルがパリを離れた後、エティエンヌはパリ防衛を堅固なものとし、 一三五八年、ジャックリーの乱の指導者ギヨーム・カルルGuillaume Carleとの提携を模索した。同年5月末、サン=ルー=デスラン村Saint-Leu-d'Esserenで王太子側近の一人であるロベール=ド=クレルモンの甥ラウール=ド=クレルモンが殺されるという事件が発生し、これを契機に農民反乱がピカルディ、ノルマンディ、シャンパーニュなどフランス北東部に広がっていた(ジャックリーJacquerieとは、 短い胴衣jaquesを着ていた農民に対する蔑称)。暴動に参加した人々はそれぞれ指導者を選んで破壊や略奪行為に及んだが、その全体を統率したのがギヨーム・カルルであった。彼はパリで決起したエティエンヌとの共闘を目指したが、六月一〇日、カルロス二世に敗れて処刑されたため、反乱は急速に鎮静化に向かった。そして、ジャックリーの乱が鎮圧されるとエティエンヌの人気と勢力も瓦解し、彼はフランドルやイングランド王国にも支援を求めようとした。最期は(当初の目的からは外れて)自身の保身のためにカルロス二世を支援したと言われ、七月にカルロス二世を迎え入れる準備をしている時に守備隊長の一人に暗殺されている。その後、マルセル一党が逮捕され、王太子シャルルは貴族たちの歓呼の声を聞きながらパリに凱旋したのであった。
一三五九年三月、第二ロンドン条約草案が起草されたが、フランス全国三部会はこの草案を「認めることもできないし、実行可能でもない」として拒否している。その後、仏王太子シャルルとエドワード黒太子の間で交渉が進められ、翌年四月パリの南約二七マイルの小村ブレティニーBretignyでようやく和約が成立した(ブレティニーの和約)。その内容は、(1)仏王ジャン二世の身代金は三〇〇万金エキュ(五〇万ポンド)とし、第一回支払い分(六〇万金エキュ=一〇万ポンド)が支払われ次第、ジャン二世を釈放する。身代金の残金は毎年一回六年間にわたって四〇万金エキュずつ納入し、その間にフランス王族・大諸侯・一八都市の代表的市民からなる人質を順次釈放する。(2)ジャン二世釈放から一年以内にサントンジュSaintonge、アングーモワAngoumois、リムーザンLimousin、ケルシー Quercy 、ペリゴールPerigord、 ルーエルグRouergue、ビゴールBigorre、ゴールGaure、アジュネAgenaisを含むギエンヌ、北フランスのポワトゥー Poitou、カレーCalais、ギーヌGuisne, Guineをアンジュー家に引き渡す。(3)エドワード三世は仏王位請求権を放棄し、ノルマンディ、メーヌ、アンジュー、ブルターニュ、フランドルに対する請求を取り止めて、フランス国内から軍隊を撤退させる。(4)ヴァロワ家とスコットランドの同盟、アンジュー家とフランドルの同盟はそれぞれ廃棄することとした。ブレティニーの和約の実施最終日は一三六一n年一一月三〇日とされたが、一〇月にはジャン二世の仮釈放がなされている。しかし、合意内容は翌年春になっても完了せず、(2)に関する正式の権利放棄は行われなかった。
ところで、「ブレティニーの和約」締結後のフランス王国では、国家の仕組み自体に大きな変化が生まれている。ヴァロワ朝成立直後のフランスには、親王領とは異なる古い型の領邦が四つ(ギエンヌ、ブルゴーニュ、ブルターニュ、フランドル)が存在し、親王領邦は小規模なものが五つあるだけだった。ところが、一三世紀以降の王権拡大過程において獲得した領地は順次王領地に組み入れられ、国王はフランス国内における名誉と正義(最高・最終の上訴管轄権)と俸禄(すなわち土地・官職・年金)配分の最高・ 最大の源泉となり、対外政策決定の中心となっていく。やがて一四世紀後半のジャン二世期になると、王領地の一部を親王領として王家の次男以下の男子に授封するアパナージュ制の採用によってフランス王国の政治的力関係が大きく変化する。ジャン二世は次子ルイ一世にアンジューAnjou、メーヌMaine、プロヴァンスProvence)を、三子ジャンにベリー Berry(1360)、オーヴェルニュAuvergne(一三六〇)、ポワトゥーPoitou(一三七四)を授封した。また一三六一年にはカペー・ブルゴーニュ公家の断絶によってそのアパナージュが返還されたが、ジャン二世はこのブルゴーニュを末子フィリップに与えている(一三六三年)。その後、フィリップはフランドル伯家の女子相続人と結婚してフランドル、アルトワArtois、ルテルRethelも獲得した。なお、ブルターニュ公領は半独立国家的地位を獲得している(一三六四~一四九一〔一五三二〕)。こうして誕生した親王領は、王家の傍系家系の支配下にあり、 王族たちが王権行使を代行し、王権が発する諸制度(例えば上訴裁判権や課税権)を領邦内に適用させた。その結果、彼等は王の補助者として実権を掌握するようになり、やがて一五世紀の政治的分裂と王族間の内紛を引き起こす要因となっていく。註⑲
第三節 百年戦争第二期(一三六〇~一四一三年)
一 エドワード黒太子の統治
一三六二年、イングランド王エドワード三世は、アキテーヌ公領(ギエンヌ公国)を長子エドワード黒太子(一三三〇~七六)に知行として与え、彼に統治を委ねた。宮廷をボルドーに構えた黒太子は、四半世紀も続いた戦争や父の従妹ジョアン・オブ・ケントJoan of Kentとの結婚(一三六一年)に伴う豪奢な生活の必要から、一三六四年以降「炉税」(家庭に設置してある竈ごとに課税する人頭税。世帯・家族ごとに徴税台帳を作成したので戸別税ともいう。一三六四年から三年三回課税)を課した。ところが、強力な集権的権力による直轄統治という経験を持たないガスコーニュ地方Gascogneの人々は、彼の統治に強い不満の念を抱くようになる。
一方、ピレネー山脈の南側ではカスティリャ王国のペドロ一世Pedro I(在位一三五〇~六六、六七~六九)が父アルフォンソ一一世の病死によって王位を継承したが、有力諸侯の専横や母マリア(ポルトガル王ペドロ一世の姉)の裏切りに苦しんでいた。辛うじて実権掌握に成功した彼は、母をポルトガルに追放し、異母兄エンリケ・デ・トラスタマラ(後のエンリケ二世Enrique II)はラングドックLanguedocへ亡命した。彼が〈残酷王〉の異名をとるのは、母親や異母兄弟に対する惨い仕打ちのせいでもあるが、自分の妃ブランシュ(仏王シャルル五世の王妃の妹)を殺したことが大きい。一三六五年、カスティリャ王国とアラゴン王国の紛争が発生した時、王弟ルイ(ラングドック総督アンジュー公ルイ)の保護を受けていたエンリケが、アラゴンから援助を求められたルイとともにカスティリャへ攻め込んで来た。国内の支持を失っていたペドロ一世はエンリケ=ルイ連合軍に敗れて亡命し、エドワード黒太子に支援を要請した。その際、ビスケー湾に面したイベリア半島北東部のビスカヤ地方 Vizcaya(ビルバオを中心とするバスク地方Euskadi, País Vascoの一部)割譲と全戦費の負担を申し出ている。また、彼の反攻計画には、かねてからアンジュー家の同盟者であるナヴァール王カルロス二世(シャルル二世)も加わって実行された。
一三六七年四月三日、エドワード黒太子・ペドロ一世・カルロス二世の連合軍はナヘラNájeraの戦い(カスティリャ北東部のナヴァーラNavarreに近い町で、 かつてのナヴァーラ王国首都)でベルトラン・デュ・ゲクランBertrand du Guesclin率いる仏軍やエンリケ二世の軍に大勝し、ペドロ一世は復辟に成功する。しかし、黒太子は捕虜としたペドロの政敵たちを引き渡さず、ペドロ一世もビスカヤ地方割譲や戦費補償の約束を履行しなかった。その結果、黒太子は軍隊維持に窮してカスティリャからの撤兵を余儀なくされ、 またもやガスコーニュ地方への課税を試みている。
翌年一月、黒太子はアングレームAngoulêmeにアキテーヌ公領の身分制議会を召集し、炉一基当たり一〇スーSouの炉税徴収を五年間にわたって認められた。その際、 ブレティニーの和約で仏王の直轄領から併合された地域の住民は反対しなかったが、ガスコーニュ南部のアルマニャック伯L'Armagnacやアルブレの領主アルノー・アマニューArnaud Amanieu, sire d'Albret等が激しく抵抗した。アルマニャック伯は、直接の君主である黒太子が自己の主張に耳を貸さないことを知ると、黒太子の父であるイングランド王エドワード三世に訴え、さらにはエドワード三世が命じた調査結果を待たずに仏王シャルル五世にも訴えた。一三六八年四月、彼は「すべての宗主権者は自己の領民と臣民を譲渡することができるが、それは譲渡される臣民の同意を得た上でのことである」と主張して、アキテーヌ公エドワードの炉税賦課の非を訴え、自己及び自己の領民、さらには同調者の保護をシャルル五世の高等法院に訴え出たのである。一方、アルマニャック伯と叔父・甥の関係にあるアルノー・アマニュー(母親がアルマニャック伯の長姉)は、同年五月、王妃の妹マルグリット(ブルボン公ピエールの第五女)と結婚してヴァロワ王家側についたが、九月にはアルマニャック伯と同じ理由でパリ高等法院に上訴の手続きをしている。
仏王シャルル五世は、モンペリエMontpellier、オルレアンOrléans、トゥールーズToulouse各大学の高名な法学者の意見を聴取した上で、六月三〇日、上訴受理の決定をし、アルマニャック伯も正式にパリ高等法院に出頭して上訴の手続きをした(但し秘密裏に行った)。王はアルマニャック伯に保護を与え、彼とアルブレ領主の各々に年額四〇〇〇リーヴルの年金支給を約束した。アルマニャック伯の動きはアキテーヌ公領全体に動揺を与え、仏王の南部における代理人たるラングドック総督アンジュー公ルイがポワトゥ、 ペリゴール、ケルシー、ルーエルグ、アジュネなどガスコーニュ周辺地域に働きかけを行った結果、 翌六九年五月には約八〇〇~九〇〇名の上訴者が現れている。その間、仏王シャルル五世は一三六八年一一月一六日付の黒太子召喚状を作成し、翌年一月半ばにはトゥールーズの国王代官を通してボルドーに住む黒太子に送達された。召喚状には「アルブレ領主の訴えに応訴するため一三六九年五月二日パリ高等法院まで出頭すること」とあり、一二月三日にはアルマニャック伯らの上訴受理を公式に宣言した。しかし、一三六九年五月二日、黒太子の出頭はなく、パリ高等法院はそれを〈不従順〉として非難した。もちろん、イングランド王エドワード三世もこの問題への介入を試みたが、両者の交渉ははかばかしい成果を見ることがなかった。同年六月、エドワード三世がフランス王位請求権を再確認し、一一月にはシャルル五世がギエンヌ公国(アキテーヌ公領)没収宣言を発して、事態は完全に振り出しに戻ってしまった。
一三六九年、英仏間の百年戦争が再開され、仏軍はガスコーニュ東方と東北方のルーエルグRouergue、ケルシーQuercy、ペリゴールPégord、北フランスのポンティユPonthieuを、そして翌年にはアジュネAgenais、リムーザンLimousinを支配下に収めた。また一三七二年には、ベルトラン・デュ・ゲクラン率いる仏軍がポワトゥーPoitou、サントンジュSaintonge、アングーモワAngoumoisなどガスコーニュの北方からブルターニュの大部分を再征服した。六月にはビスケー湾に面したラ・ロシェルLa Rochelle沖合でカスティリャ王エンリケ二世がペンブルック伯Earl of Pembroke率いるイギリス艦隊に対して壊滅的打撃を与えることに成功し、ペンブルック伯自身も捕虜となった。一三七五年、イングランド軍はカレー、ボルドー、バイヨンヌBayonneを除いて駆逐され、北仏ではカレーとその周辺、ノルマンディのサン・ソーヴール城St. Sauveur、ブルターニュのブレスト港とその周辺の城塞、南仏ではボルドーを囲むガスコーニュ地方のみがイングランド領として残った。その間、一三七一年には病気がちとなった黒太子が帰国して弟ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントから実権を取り戻したが、一三七六年には四七歳で身罷った。翌年には父エドワード三世も逝去し、王位は黒太子の次男リチャード二世Richard II(在位一三七七~九九)が継承したが、リチャード二世は即位当時まだ一〇歳の子どもであり、国政は有力諸侯によって左右されることとなった。一三七五年六月、二年間の停戦が合意されたが、七七年には戦争が再開された。
二 王弟オルレアン公ルイとブルゴーニュ公フィリップの対立
一三八〇年、仏王シャルル五世が食中毒で没し、その長子がシャルル六世Charles VI(在位一三八〇~一四二二)として即位した。しかし、シャルル六世はまだ一一歳の少年であったため、父のすぐ下の弟アンジュー公が摂政(~一三八八)となり、ベリー公、ブルゴーニュ公、ブルボン公(シャルル五世の義弟)を含む一二名からなる評議会が組織され、王権の最高決定機関となった。一三八二年にアンジュー公がイタリア遠征に出た後は、ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)Philippe le Hardiが摂政として政権を動かしていたが、一三八四年頃にはシャルル六世が精神的に病み、王弟オルレアン侯ルイLouis de Valoisを加えた「多頭政治」へ移行する。シャルル六世の父シャルル五世は、一三五〇年四月、父ジャン二世の従妹ジャンヌ・ド・ブルボンJeanne de Bourbonと近親結婚をしたが、妻ジャンヌはその父ブルボン公ピエール一世、祖父ヴァロワ伯シャルル、ジャンヌの兄弟たちと同様に、後には遺伝性と思われる精神疾患に罹っている。したがって、シャルル六世の精神疾患も同じことが原因と考えられる。一三八五年、イザボー・ド・バヴィエールIsabeau de Bavièreとの結婚式を挙げたフィリップ六世は三八八年一一月に叔父のブル
ゴーニュ公フィリップを解任し、父の〈木彫人形〉と渾名された元顧問たちが政権に復帰し、前王晩年の対イングランド和解政策を踏襲することになった(一二月交渉開始)。一三八九年にはシャルル六世が親政宣言を発し、王弟オルレアン公ルイが評議会に参加する。註⑳
同年五月、イングランド王リチャード二世は同じく成年に達したことを宣言して政権を掌握し、対仏和平交渉に乗り出した。彼の支持者は父方の叔父ランカスター公ジョンのみであったが、同年夏にはカレーとブーローニュBoulogneの間にある小村レウリンゲンで三年間の休戦が成立した(レウリンゲンLeulinghenの休戦)。一三九二年、一三九三年、一三九四年と連続して休戦を更新した後、一三九六年リチャード二世は王妃アンに代わる後添えとして仏王シャルル六世の娘イザベルIsabella(当時七歳)を迎える条件で、休戦を二八年間延長することで合意に達した(パリ休戦条約)。ところが一三九九年二月、 ランカスター公が亡くなると、リチャード二世がランカスター公領を没収したため国内に不穏な空気が流れた。ランカスター公ジョンの息子ヘンリ・ボリングブロクHenry Bolingbrokeはしばらくフランスの王弟オルレアン公ルイの保護を受けていたが、ついに決起してリチャード二世の追放に成功する。同年秋、 彼はヘンリ四世Henry IV(在位一三九九~一四一三)として即位し、ランカスター朝Lancaste(一三九九
~一四七一)を創始するとともに、パリ休戦条約の継続を交渉してフランス側の承諾を得ている。註㉑
その間、一三九二年(一三九六年説もある)八月仏王シャルル六世が二四歳の若さで発狂したため、〈木彫人形〉の多くは宮廷から逃亡したが、一部は捕らえられ処刑された。その時、オルレアン公ルイは、王の叔父たちが政権に復帰することを容認する一方で、指導的地位を譲ることはなかった。やがて一三九九年夏に、オルレアン公とブルゴーニュ公フィリップの対立が表面化する。南フランスに多くの領地を持っていたオルレアン公がイタリアやギエンヌ地方への進出を目指していたのに対して、ブルゴーニュ公は領内のフランドル、ネーデルラント地方の対イングランド貿易を考慮して親イングランド政策を基本としていたため、両者の対立は避けられなかったのである。
一四〇〇年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルWenzel(ルクセンブルク家、在位一三七八~一四〇〇)廃位問題が発生した時、オルレアン公がヴェンツェル帝を支持したのに対して、ブルゴーニュ公は姻戚関係にある対立候補のライン宮中伯ルプレヒト三世Ruprecht IIIを推した。ヴェンツェル帝はベーメン王国中興の祖カール四世の長子で、ベーメン王ヴァーツラフ四世Václav IV(在位一三七八~一四一九)・ブランデンブルク選帝侯(在位一三七三~七八年)・ルクセンブルク公ヴェンツェル二世(ヴェンセラス2世Venceslas II、在位一三八三~一四一九)でもあったが、皇帝がドイツよりもベーメン王国の統治に力を入れていたこと、教皇指名問題で仏王シャルル六世に対する態度が弱腰だったこと、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティGian Galeazzo Visconti をミラノ公に叙爵したことなどにより、ドイツ諸侯間に不満が広がり、新たな皇帝としてルプレヒト三世Rubrecht III(在位一四〇〇~一〇)が選出された。その後、 ルプレヒト三世の後継者となったのはヴェンツェル帝の弟ジギスムント帝Sigismund(在位一四一一~三七)であるが、彼が教会大分裂(大シスマ、一三七八~一四一七年)を解決するために開いたコンスタンツ公会議Konstanz(一四一四~一八年)においても、ローマの正統派教皇を支持するブルゴーニュ公と、 ヴィスコンティ家との縁組みを取り持ったアヴィニョン派の肩を持つオルレアン公の対立は続いた。
一四〇二年には、財政関係官庁の一つである宝蔵室における官職の確保をめぐるオルレアン派とブルゴーニュ派の対立が深刻化した。当時の有力諸侯は、国王の俸禄配分の権能を自己に有利に動かすためには 評議会に席を求めるだけでなく、中央と地方の政府諸官庁に自己の影響・保護下にある人物を配置することで権勢を強めようとしていた。特に年金や租税からの交付金の継続的給付を確保するためには、財務関係の官庁に配下の人物を配置することが絶対に必要であった。すなわち、既に政治力を利用して公職を得ようとする猟官制度spoils systemが発生していたのである。
三 王弟オルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャンの対立
一四〇四年春、ブルゴーニュ公フィリップはインフルエンザと思われる感染症を患って没し、長子ジャンJean I(無畏公、在位一四〇四~一九)が後を継いだ。この年には英仏間の暫定休戦延長期間が期限切れとなり、翌年には、ジャン率いる仏軍が、ギエンヌ地方のイギリス側支配地域や北方のカレーに向けて攻撃を開始した。六月に入ってカレーを包囲したブルゴーニュ公ジャンはパリの中央政府に人的・物的支援を要請したが、オルレアン公の指導下にあった中央政府はこれを拒否している。また、オルレアン公がノルマンディやピカルディ方面への総司令官に任命されたことは、ジャンにとって大きな脅威となった。七月、仏王シャルル六世が一時的に正気に戻り、大評議会にブルゴーニュ公ジャンも召集された。ジャンは力の示威を決意して数千の兵士を率いてパリに向かったが、恐怖心からかシャルル六世は再び狂気に沈んでいる。オルレアン公は王妃を伴ってパリから逃れ、部下に命じて王太子シャルルを含む王子たちを彼の後について行かせた。しかしジャンは、王子らの一行を連れ戻すことに成功し、首都パリを事実上ブルゴーニュ軍の占領下においた。彼は評議会を開催させ、放漫経営によって直轄領収入が減少しただけでなく、対イングランド戦争遂行の目的で徴収された租税が別途使用されていると指摘し、問題の解決のためには評議会の改組が必要だと要求した。その後、パリ周辺にはオルレアン派・ブルゴーニュ派双方を支持する軍隊が続々と集結し、パリを頂点とした三角形の二辺の形に西にオルレアン軍、東にブルゴーニュ派が軍を布いた。しかし、やがてベリー公duc de Berryの仲介やシャルル六世の回復、オルレアン公が軍隊解散命令を出したという噂の流布に加えて、ブルゴーニュ公自身がパリ占領の経費が重荷となり占領軍の大部分を解散させることに同意するに至った。その結果、パリ東南方のムランMelunに逃れていたオルレアン公と王妃が帰京し、ブルゴーニュ公が提案した国政改革案はパリ高等法院に送付された上で握りつぶされた。ベリー公は、こうした状況変化に合わせるように、次第にオルレアン公に接近していく。
一四〇七年四月二八日付で発令された勅令により、評議会の多数派はオルレアン派となる。ところが同年一一月二三日の夜、オルレアン公ルイは王妃イザボー・ド・バヴィエールを訪問しようと出発したが、欺されてパリ市中の街路に向かうことになり、ブルゴーニュ公ジャンが放った刺客の一隊に暗殺されてしまった。そして二日後には、事件の首謀者がブルゴーニュ公であると判明した。伯父のベリー公から評議会への出席を止められたジャンは、身の危険を感じてフランドルへ逃走し、報復に備えて軍勢を建て直した。しかし翌年三月、ブルゴーニュ公は内乱を怖れたベリー公の融和策が功を奏して赦され、パリ市内で大規模な自己弁護講演会を開催している。講演会には王族をはじめ、評議会議員・諸侯・パリ市民・パリ大学の代表が参加する盛況ぶりで、神学者ジャン・プティJean Petit(パリ大学)が暗殺されたオルレアン公ルイを専制支配者と非難している。同年一二月にはオルレアン公の未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティValentine Viscontiが未成年の男子三人を遺して亡くなり、 反ブルゴーニュ勢力は次第に弱体化していった。
一四〇九年三月、ブルゴーニュ公ジャンは、オルレアン公殺害で国王を悩ませ苦しめたことを謝罪し、 シャルル六世から正式の赦免状を得た(シャルトルの和約)。ジャンはパリ町奉行を動かして宮内府長官ジャン・ド・モンタンJean de Montaign(宮廷官僚の巨頭で反ブルゴーニュ派)を逮捕し、汚職などの罪名で処刑した後、アンジュー公ルイ二世Louis II(ナヴァール王・シチリア王。ブルゴーニュ公の従兄)や王妃及び王妃の実家ヴィッテルスバッハ家(エノー・ホラント伯。ブルゴーニュ公の義弟)を味方に引き入れて政権を掌握した。その上、伯父ベリー公の勧めで一三歳に達した王太子ルイの後見と教育を引き受け、司法や財政の改革に着手しようとした。
翌年四月、ベリー公の主唱でオルレアン公シャルルCharles d'Orleans、ブルターニュ公ジャン五世Jean V de Bretagne、 アルマニャック伯ベルナール7世Bernard VII d'Armagnac(ベリー公の女婿)、クレルモン伯シャルルCharles de Clermont(ブルボン家の長子)、アランソン伯ジャン一世Jean I d'Alencon(ヴァロワ家の分家)がジアン・シュル・ロワールGien-sur-Loireに集結して同盟を結び、婚姻政策によってそれを補完することにした。まず政治的には国王の名誉を侵害する者並びにこれを助ける者に対抗して国王に奉仕することを誓約し、軍事的には各々自弁で合計九〇〇〇人の軍隊を組織することを決定した。そして一四一〇年にはオルレアン公シャルルがアルマニャック伯の娘ボンヌと再婚し、父の報復を図ってアルマニャック伯とともに反ブルゴーニュ派貴族を再結集させた。また、オルレアン公の妹はブルターニュ公の末弟に嫁ぎ、娘ジャンヌもアランソン公の長子と婚約している(二人はまだ満一歳に満たない幼児)。こうしてアルマニャック伯ベルナール七世は、未成年のオルレアン公や老年のベリー公に代わってオルレアン派の中心となり、後世の人々から〈アルマニャック派〉と呼ばれることになった。
一四一〇年夏、仏王シャルル六世は再び覚醒し、臣民が武装して王侯貴族の私兵となることを禁ずる勅令を発し、アルマニャック派諸侯にも軍隊解散を求めた。しかし、ブルゴーニュ軍がパリを占領して国王軍を掌握している状況の下では、アルマニャック派諸侯が自らの軍隊を解散するはずもなかった。八月末、両派の軍隊がパリにめがけて集結を開始したため、パリ市民は周辺の森へと避難した。九月にはベリー公の軍隊がシャルトルChartresを掠奪するという事件が起きたが、 当時の軍隊には外国人傭兵が多数参加していることもあって、盗賊集団と何ら変わりがなかった。したがって、両派軍隊のパリ周辺への集結は、沿道やパリ郊外の集落がひどい破壊・掠奪・暴行の対象とされたということでもある。一一月二日、ベリー公の本拠地ビセートル城Bicetreで休戦協定が締結され、(1)両派に属する王侯諸侯は各自の所領に退去する、(2)城砦の守備兵はその保安のために必要な最小限度まで縮小する、(3)王侯諸侯は王から公式の招きがない限り、パリに来てはならない、(4)王は両派の党派的色彩を持たない人物を評議会議員に任命する、(5)両派の軍隊を解散し、兵士は帰郷する、ことで合意した。しかし、休戦協定締結の六日後にはシャルル六世の病状が悪化したため、ブルゴーニュ派が多数を占める評議会が政府の動向を左右する事態となり、翌年には内戦が開始された。
ところで、アルマニャック・ブルゴーニュ両派の内戦開始は、英仏関係を根本的に変化させることになった。すなわち、従来の百年戦争はフランス王権がプランタジネット=イングランド勢力を排除しようとし、後者は必死に踏みとどまろうとして戦ったために、両王室の対決という性格が濃厚であった。ところが、フランスにおける内戦勃発以降、フランス内部の有力諸侯たちは自派の援軍としてイングランド軍を想定するようになり、時にはイングランド勢力をフランス国内に引き留めて自らの立場を有利にしようとさえした。一方、イングランド王ヘンリ四世も、この頃から長子ヘンリを仏王シャルル六世の末娘カトリーヌ・ド・ヴァロワCatherine de Valoisと結婚させて、ギエンヌ(アキテーヌ)問題を解決しようと模索していた。ところが、ヘンリ四世やカンタベリー大司教トマス・アランデルThomas Arundelを中心とする対仏慎重派(保守派)は、ギエンヌ問題の解決を基本としつつ「ブレティニーの和約」完全実施を目指したのに対して、王太子ヘンリや王の異母弟ボウフォート兄弟を中心とする積極進出派はブルゴーニュ派との友好関係を基本としながらも、北フランスへの進出を窺っていた。一四一一年四月頃、ブルゴーニュ公はヘンリ四世と連絡をとり、九月末から一〇月にかけてフランス北部のアラスArrasで同盟関係についての交渉をした(同年夏にはアルマニャック派もイングランドに使節を派遣してブルゴーニュ派を支援しないように申し入れたと言われている)。一〇月三日、ついにイングランド軍(槍兵二〇〇人・弓兵一八〇〇人)がブルゴーニュ公の指揮下に入り、首都への物資補給を断っていたアルマニャック軍を破ってパリ入城を果たした。この部隊は、北フランスでブルゴーニュ軍を援助した後、カレーに撤退した。なお、ヘンリ四世は自ら北フランス遠征を行う予定であったが、体調不良で取りやめた直後、ウィンチェスター司教ヘンリ・ボウフォートHenry Beaufortから退位を迫られている。憤慨したヘンリ四世は、同年一一月末から翌年一月にかけて対仏積極派を評議会と政府の要職から追放し、保守派に代えた。
一四一二年二月、ブルゴーニュ公はイングランドに使節団を派遣したが、政権から追われていた親ブルゴーニュ派とは同盟関係を築くことができなかった。春、イングランド政権はフランス内戦に関する中立声明を発表し、五月に入って内戦で優位に立っていたブルゴーニュ派が仏王シャルル六世の意を受けてギエンヌ地方に進軍すると、今度はヘンリ四世が態度を硬化させた。五月一六日、彼はフランドル諸都市がブルゴーニュ公のギエンヌ遠征を援助した場合には「英・フランドル間通商協定」を破棄すると通告し、二日後にはイングランド=アルマニャック派同盟を成立させた。やがて七月に入り、アルマニャック派の拠点となっていたベリー公領の中心都市ブールジュBourgesの攻囲戦に手間取っていたブルゴーニュ軍の内部では厭戦気運が広がり、一二日になって休戦協定が結ばれた。しかし、イングランドの対仏遠征軍は、この休戦協定の通告前に出発していたため、八月二二日、改めて「オーセールAuxerreの和約」が締結された。それは、(1)三年前の「シャルトルの和約」(一四〇九年)を再確認し、(2)オルレアン公・ブルゴーニュ公ともに公開状をイングランド王に送付して、それまでイギリスとの間で結ばれた一切の政治・軍事同盟を破棄し、今後は決してイングランドの援助を求めないことを確約するという内容で、翌日、両派の和解の趣旨を伝える書簡をイングランドへ送付している。
八月半ば、イングランド王ヘンリ4世の次男クラレンス公トマスThomas of Lancaster(Duke of Clarence)率いるイングランド軍がノルマンディに上陸し、九月初旬にはアルマニャック派との集合予定地ブロワに到着した。クラレンス公は進軍の途次、アルマニャック派からヘンリ四世に宛てた同盟破棄の通告文書を持った使者に会い、状況変化を把握していた。しかし彼は、アルマニャック派の変節を責める文書を送付したのみで、一一月一四日にはアルマニャック派から一五万金エキュ(二万五〇〇〇ポンド)の償金を得る代わりに年内にボルドーまで撤退するという協定を成立させた。
同年暮れ、仏王シャルル六世は内戦で枯渇した国庫を満たすための増税を図り、ラングドイユLanguedoilの三部会をパリに召集することを決定した。一四一三年に入って開催された三部会には、アルマニャック派をはじめとする貴族勢力の出席はあまり見られず、結果的に多数派となったパリ市民や諸都市の代表、パリ大学の代表などは(ブルゴーニュ派の意を受けて)政府改革や人事刷新を要求した。それに対し、宮廷内勢力は元パリ町奉行ピエール・デ・ゼサールPierre des Essarts率いる騎士隊を市内に導き入れた。宮廷勢力の動きを察知したパリ民衆、特に食肉商や皮革商のギルドに参加している人々は騎士隊と衝突し(四月二七日)、その対立は次第に激しさを増した。五月二七日には民衆蜂起の指導者シモン・カボシュSimon Cabocheの名をとった「カボシャン勅令」(二五八カ条)が発せられ、改革委員会はほぼ無制限の権能を与えられて改革を進めた。ブルゴーニュ公は民衆蜂起を抑えにかかり、その要求が王族の身辺にまで及ばないように動いたが効果はなく、国王と宮廷はパリから離れたアルマニャック派に期待するしかなかった。しかし、六月中旬以降には民衆による宮廷官僚虐殺事件を契機に穏和派市民が立ち上がり、彼等と宮廷との連携が成立した。また、七月中旬には宮廷とアルマニャック派の秘密交渉が開始されて、同月下旬から八月初旬にかけて「ポントワーズPontoiseの和約」が結ばれてアルマニャック派の名誉が回復された。八月三日、穏和派市民の支援を受けた宮廷はパリ市の秩序回復に成功し、過激派の指導者たちはブルゴーニュ公国へと逃亡して行った。こうしてブルゴーニュ派はパリから追放され、ブルゴーニュ公自身もフランドルへと逃げ帰っている(八月二三日)。その後、パリに戻って政権を樹立させたアルマニャック派は、カボシャン勅令を廃棄し、政府内部のブルゴーニュ派を大量粛清した。しかし、ベルナール七世を中心とするアルマニャック派と宮廷(特に王太子シャルル)との間には既に微妙な溝が生まれていた。註㉒
第四節 百年戦争第三期(一四一三~三五年)
一ヘンリ5世のフランス遠征
一四一三年三月二〇日、ヘンリ四世が没し、後継者ヘンリ五世Henry V(在位一四一三~二二)は対仏積極進出派に属していた(彼は政府公式文書に英語を使用することを奨励し、個人書簡に英語を使用した最初の王でもある)。同年秋、派遣された使節団はブルゴーニュ公に拝謁してヘンリ五世とブルゴーニュ公の末娘カトリーヌ・ド・ヴァロワとの結婚や、ノルマンディ地方にあるブルゴーニュ公領の一部(シェルブールCherbourg、カーンCaen、ル・クロトワLe Crotoy)を嫁資として引き渡すことなどを提案した。ところが、間もなく仏王シャルル六世の使節がブルゴーニュ公のもとにやって来たので、使節団はブルゴーニュ公との交渉を中断して仏王の使節との交渉を開始し、翌年六月一日までの休戦延長を決定した(暮れにはフランスからイングランドへ使節が派遣され、休戦期間を一四一五年二月まで延長)。
一四一四年二月、ブルゴーニュ軍がパリに迫った時、市内制圧に成功していたアルマニャック派は国王にブルゴーニュ公を「反乱者・王国の敵」と宣言させて攻撃を開始し、形勢不利となったブルゴーニュ公は北方に退却した。しかし、アルマニャック派は追撃の手をゆるめず、七月までにイル・ド・フランスÎle-de-Franceとフランドルの間の重要都市を支配下に収めた。その間、五月にレスターLeicesterでイングランド・ブルゴーニュ間の第一次英仏交渉が行われ、夏にイープルYpresで、そして九月にはサン・トメールSaint-Omer で再開されたが、いずれも攻守同盟は実現できなかった。翌年行われた第二次英仏交渉ではイングランドから、(1)ヘンリ五世の仏王位請求権は留保するが、シャルル六世と同等の統治権を譲渡すること(具体的にはノルマンディ、メーヌ、アンジュー、トゥレーヌ、ブルターニュ、フランドル、ポンティユ、ギーヌに加えてアキテーヌを譲ること)、(2)プロヴァンス伯領の大半は、 ヘンリ三世の妻アリエノールを経てイングランド王室に帰属しているはずなので、引き渡すこと、(3)ジャン二世の身代金の残額一六〇万金エキュ(英貨で四〇万マルク)を支払うこと、(4)ヘンリ五世とシャルル六世の娘カトリーヌ(キャサリン)の結婚に伴う嫁資は二〇〇万金エキュ(英貨で五〇万マルク)を下回らないこと、という厳しい要求を突きつけられた。ヘンリ五世の途方もない要求に脅威を感じたフランス王室は、ブルゴーニュ公の弟ブラバント公アントワーヌAntoineや妹エノー伯夫人マルグリットMargueriteの仲介を受けて休戦を実現させた。しかし、ブルゴーニュ公の姿勢に不信感を抱いたイングランドは、ブーローニュとエスダンHesdin(アルトワArtois西南部)その他二地点の二年間にわたる占領を要求したが、ブルゴーニュ公は明快な回答をしていない。三月には第三次英仏交渉の場がもたれたが、 ここでも捗捗しい成果は上げられなかった。
一四一五年八月から一一月にかけて、イングランド王ヘンリ五世は第一回フランス遠征を敢行した。先ずノルマンディ地方へと侵攻したイングランド軍は、セーヌ川河口のオンフルールHonfleurで二カ月に及んだ攻城戦や疫病の流行で消耗し、カレーへの帰還を余儀なくされた。しかし、ソンム川は仏軍によって厳重に警護されて渡ることが不可能なため、ペロンヌPéronne近くの防御の弱いと思われる場所を探して渡ることにした。イングランド軍七〇〇〇人はそこからカレーへ向かったが、五〇キロ南のアザンクールAzincourtで仏軍二万人が待ち構えていた(一〇月二五日)。仏軍の作戦は、中央に下馬した騎士と歩兵による大部隊を、左右に重装甲の騎兵部隊をそれぞれ配置し、中央の大部隊が正面からイングランド軍を攻撃する間に重装騎兵が敵の背後に回り込んで弓兵を駆逐するというものだった。それに対してイングランド軍は、全ての弓兵に約一・八メートルの長さで両端を尖らせた杭を持ち運ぶように命じ、仏軍の重装騎兵が来たときには、地面に打ち込むことで騎馬の突撃を阻止しようした。戦いが始まるまでに、仏軍の指揮系統の乱れを確認したヘンリ五世は、アザンクールの最も狭い場所まで敵軍をおびき寄せ、作戦通りの大勝することが出来た。こうして、長弓隊を駆使したイングランド軍は、重装騎兵隊にこだわるフランス諸侯軍に圧勝し、無事、カレーへの帰還を果たしたのである。
アザンクールの戦いでオルレアン公シャルルCharles Ire de Valois, duc d'Orleansがイングランドの捕虜(一四四〇年、莫大な身代金を払って解放)になり、一四一五年シャルル六世の長子ギエンヌ公ルイに続いて、一四一六年七月ベリー公、一四一七年トゥーレーヌ公ジャン(シャルル六世の次子)が相次いで他界した。その結果、シャルル六世の後継者としてはシャルル(七世)を残すのみとなり、アルマニャック派の筆頭ベルナール七世が独裁権を握ることとなった。一四一六年四月にはパリでブルゴーニュ派のクーデター計画が発覚したが、王妃イザボー・ド・バヴィエールがこの計画に関与した疑いが浮上し、彼女はトゥールの修道院に隠棲させられた。その間、神聖ローマ皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議の成功で教会大分裂を終わらせ、聖地回復のためには英仏両国の抗争を解決する必要があると判断し、調停に乗り出した。同年八月に結ばれたイングランドとのカンタベリー同盟条約では英仏関係を変化させることが出来なかったが、秋にカレーで開いた四カ国会議(イングランド・仏・ブルゴーニュ・独)や英仏間の交渉が実を結んで休戦となった(一四一六年一〇月~一七年二月)。
二 トロワの和約(一四二〇年)
しかし一四一七年七月には、ヘンリ五世の第二回フランス遠征が始まる。彼の目的はノルマンディとその周辺地域の征服にあり、一方、アルマニャック派を中心とするフランスの備えはブルゴーニュ軍への不信感から十分とは言えなかった。同年一一月、ヘンリ五世は孤立したアンジュー公、ブルターニュ公と個別に休戦協定を締結して西方・南方からの脅威を断ち、その冬のうちに西部ノルマンディを征服した。その間、ブルゴーニュ公ジャンは王妃の身柄を確保し、まずパリに近いシャルトルChartresに、ついでパリ東南方のトロワTroyesに臨時政府を樹立して、王太子シャルルを擁するアルマニャック派の中央政府パリ)と対立した。
翌年、ブルゴーニュ公ジャンがパリ北方の主要都市や城をおさえてノルマンディ東部に進出すると、イングランド=ブルゴーニュの関係が極めて微妙な変化を見せ始める。五月二九日早朝、アルマニャック派の支配に不満を抱く市民やブルゴーニュ派市民の内通でパリ市の城門が開き、ブルゴーニュ軍が市内になだれ込む。ブルゴーニュ公は国王シャルル六世の身柄確保に成功し、アルマニャック伯ベルナール七世はまだ睡眠中に捕らえられ、後に処刑された(六月一二日)。一方、王太子シャルルはパリ奉行の庇護を受けてパリ脱出に成功し、ブールジュBourgesに臨時政府を樹立した。この混乱で、パリ市内では五月二九
日に約一〇人、六月一日に四〇〇人、一二~一三日が二〇〇〇人の合計二五〇〇人程度が虐殺されたと言われている。そして七月一四日、ブルゴーニュ公ジャンは王妃を伴って首都パリに入り、ブルゴーニュ派の政府もトロワから移転してきた。
こうしてフランス王国は、ブルゴーニュ公が支配するパリ中心の地域(全土の約四分の一。北は北海沿岸、西はセーヌ川、南はブルゴーニュの南端、東は神聖ローマ帝国に挟まれた範囲)、王太子シャルルとアルマニャック派の政府があるブールジュ中心の南部・中部フランス(ガスコーニュを除く)、イングランドのランカスター家が支配するノルマンディ地方中心の西北部に三分割された。しかし同年九月、ブルターニュ公の仲介を受けたブルゴーニュ公とアルマニャック派の間で交渉が行われた。その結果、ブルゴーニュ公が王太子シャルルのドーフィネ、トゥーレーヌ、ポワトゥー領有を認め、さらにはパリ政府に三名の財務官を受け容れる代わりに、アルマニャック派もパリ政府に協力することで合意に達した。(サン・モール・デ・フォッセ協定Saint-Maur-des-Fosses。王太子シャルルは批准しなかった)。
同年、イングランド軍がノルマンディ地方の中心都市ルーアンRouenを攻囲したが、パリ政府が派遣した援軍はルーアンから七〇キロほど離れたボーヴェBeauvaisまでしか進めず、 翌一九年一月一九日にはルーアンを開城させられた。イングランド軍のパリ接近に動転したブルゴーニュ公と王妃イザボー・ド・バヴィエールは、宮廷をパリからトロワに移し、四月末には王太子シャルルとの交渉を再開して五月には休戦までこぎ着けた。また七月には、両派が相互に敵対することを止めて「国王の敵」であるイングランドとの同盟関係を破棄することで合意し(プイイPouillyの協定)、セーヌ川とその支流ヨンヌ川Yonneの合流点にあるモントローMontreauで直接会見を計画した。九月一〇日、ブルゴーニュ公ジャンと王太子シャルルはヨンヌ川を跨いで両端を石造の堅固な塔に守られた橋の上で会見したが、開始そうそう両人の随員が小競り合いを始め、ブルゴーニュ公はアルマニャック派の手で頭蓋骨を割られて急死した。ブルゴーニュ公落命の報せは翌日には速くもトロワの宮廷に届き、ガンに滞在していたブルゴーニュ公の継嗣シャロレ伯フィリップに回送された(九月一四日受領)。
一四一九年一〇月、新しくブルゴーニュ公となったフィリップ三世Philippe III(善良公、在位一四一九~六七)にはアルマニャック派を攻撃する力がなく、王妃の勧めもあってイングランド王ヘンリ五世との同盟交渉に入ることになった。翌年四月九日、トロワのヴァロワ宮廷を訪ねたヘンリ五世の使者とフランス国王夫妻・ブルゴーニュ派との間でようやく合意に達し、その際に作成された条約草案をもとに五月一九日、シャルル六世、ヘンリ五世、ブルゴーニュ公フィリップの三者それぞれの評議会の合同会議で決定し、シャルル六世の書簡の形で所謂「トロワの和約」が調印・批准・発布された。その内容は、(1)イングランド王ヘンリ五世はシャルル六世の娘カトリーヌと結婚し、シャルル六世の死後に仏王位を継承する。(2)カトリーヌ(キャサリン)の嫁資は年額四万金エキュ(英貨一万マルク)とし、全額をイングランド側の負担とする。(3)ヘンリ五世は王太子シャルルの支配下にある全領域を、シャルル六世のために征服することを約束する。(4)現在イングランド側の支配下にあるノルマンディは、ランカスター家の仏王位継承後、フランスに統合される。(5)シャルル六世に対してトロワ条約の遵守を誓約する者には所領・土地が安堵される。(6)ノルマンディ地方その他のイングランド軍占領地に聖職禄を持つ聖職者でその地を追われた者は、シャルル六世またはブルゴーニュ公に服従すれば聖職禄を戻させる。(7)フランス王権の統治機構はそのまま継続する。(8)ヘンリ五世の摂政就任の際には、フランス国王の戴冠宣誓と同じ宣誓を行う。(9)パリ高等法院の権威は維持する。(⒑)国王の司法組織と国王直轄領を担う官職には能力あるフランス人が任命され、王国は法と慣習に則って統治する。(⒒)フランスの貴族・教会・大学は現状を維持し、その特権は守られる。(⒓)穏当で必要な理由によらない限り、如何なる賦課や徴収も行われない。(⒔)これらの規定は、シャルル六世に服従する聖俗貴族、諸身分、都市及び都市市民の宣誓によって保障される。彼等は摂政ヘンリ五世に服従すること、ヘンリ五世によるフランス王位継承を受け入れること、またシャルル六世の死後にヘンリ五世を彼等の主君としてヘンリ五世に対する敵対行為にいかなる支援も与えないことを誓約する、という多岐に及ぶものであった。六月二日にはトロワでヘンリ五世とシャルル六世の娘カトリーヌの結婚式が挙行され、百年戦争勃発時のエドワード三世の目論見がほぼ達成されようとしていた(トロワ条約体制の完成)。
ところが、その二年後(一四二二年)の八月三一日、イングランド王ヘンリ五世がヴァンセンヌの森で急死し、彼が征服したノルマンディ地方の統治者として弟ベッドフォート公ジョンJohn of Lancasterをあて、仏王シャルル六世を補佐する摂政にはブルゴーニュ公フィリップをあてる遺言を残してこの世から去った。そのうえ、約二カ月後にはシャルル六世が没したため、「トロワの和約」を履行できるのか急に雲行きが怪しくなった。一一月一八日、ベッドフォード公はシャルル六世の葬儀からの帰途、自己の前方に「フランス国王の剣」を捧げ持たせて摂政の地位に就く意志を表明し、翌日にはパリ高等法院でまだ生後一〇カ月の幼子であるイングランド王ヘンリ六世Henry VI(在位一四二二~六一、七〇~七一)のフランス王位継承を宣言した。同月二四日、正式にフランス摂政の称号を使用し始めたベッドフォード公は、ロワール川以北の北フランス一帯を支配した。それに対してフランス東部の実力者ブルゴーニュ公フィリップは、シャルル六世が亡くなった当時、フランドル地方に滞在して招かれてもパリに戻ろうとはしなかった。彼はシャルル六世の葬儀にも参列していない。しかし、ベッドフォード公とブルゴーニュ公の妹アンヌとの婚約は前者に有利な条件で成立していたので、この時点ではベッドフォード公やイングランド王国との関係を弱める意向はなかったと考えられる。註㉓
三 エノー・ホラント・ゼーラント継承問題
低地地方(ネーデルラントNetherlands )をながく支配して来たのは、南ドイツのバイエルン公(ヴィッテルスバッハ家Wittelsbacher)であったが、少し前からヴァロワ・ブルゴーニュ公家がその獲得に意欲を示し始めていた。初代ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)は次男アントワーヌAntoineのためにブラバントBrabantを入手したうえ、長女をエノー・ホラント・ゼーラント伯に嫁がせて、さらに支配領域を拡大させようと狙っていた。ところが、一四一五年、アザンクールの戦いでブラバント公アントワーヌが戦死し、またその二年後にはエノー伯が亡くなってフィリップの計画は頓挫した。そこで第二代ブルゴーニュ公ジャン(無怖公)は、ブラバント公の継嗣である甥のジャン四世Jean IV(在位一四一五~二七)とエノーHainaut・ホラントHolland・ゼーラントZeelandの女子相続人となった姪のジャクリーヌJacqueline d'Hainautを婚約させ、ブルゴーニュ公家の勢力拡大を図った。この結婚はいとこ同士の結婚であったために教会法上の問題があり、神聖ローマ皇帝ジギスムントの反対もあったが、教皇マルティヌス五世Martinus V(在位一四一七~三一)は既成事実に押し切られる形でこれを承認した。ところが一四一七年、 亡くなったエノー伯の弟でリエージュ司教の職にあったヨーハンJohannという人物がホラント南部のドルトレヒトDordrechtに現れて、ジャクリーヌに対する後見を要求した。その結果、ホラント地方にヨーハン派とジャクリーヌ派の内乱が発生し、間もなくブルゴーニュ公ジャンの息子フィリップが父の委任を受けて両派の調停に入り、一四一九年二月、和平を成立させた。しかし、ジャクリーヌは、あまりにヨーハン派側に有利なこの和平案を拒否し、ヨーハンに対して譲歩を重ねる夫ジャン四世に愛想を尽かしたこともあって、翌年四月、母親を伴って夫のもとを離れ、一四二〇年にはイングランドへ亡命している。
その時、イングランド王ヘンリ五世はジャクリーヌを厚遇し、王の死後まもない同年一〇月、ジャクリーヌは王弟グロスタ公ハンフリHumphrey(duke of Gloucester)と結婚している。そして一四二三年春には、グロスタ公がブルゴーニュ公国との関係を無視してエノー・ホラント・ゼーラント伯の称号を使用し始めている。一四二四年一〇月、グロスタ公は軍隊を率いてカレーに上陸し、一一月にはアルトワArtoisを通過してエノーの大部分を占領することに成功した。ブルゴーニュ公はジャクリーヌの前夫ジャン四世が何ら有効な手立てを打てないことを見届けた上で、ジャン四世の弟サン・ポル伯フィリップPhilippe de Saint-Polを説得してブルゴーニュ=ブラバント連合軍を編成し、翌年三月エノーに侵入した。それギリスに逃げ帰ってしまった。ジャクリーヌは捕らえられてブルゴーニュ公の保護下に置かれたが、 やがて男装をして軟禁状態からの脱出に成功し、イングランドの夫に向けて再度遠征軍を派遣するよう要請した。
グロスタ公の行動は、イングランド王の同盟者であるブルゴーニュ公の利益を侵害するものであるが、 彼は国家における公の〈立場〉に関係なく、自らの家産や権利と思われるものを追求している。彼のような行動は、当時の貴族階級の間では美徳と考えられており、グロスタ公のような王族が自己一身の権利を徹底的に追求し始めると誰にも止められなかった。ベッドフォード公は弟の最初の遠征に際して、 ブルゴーニュ公と協力して再度の調停を試み、また教皇マルティヌス五世に仲介の要請を出したが、いずれも成功しなかった。そこでベッドフォード公はパリで摂政評議会を開催してこれによる調停にかけたが、グロスタ公はこれも拒否している。一四二五年一二月、グロスタ公が再度のネーデルラント遠征を企てると、ベッドフォード公はブルゴーニュ公との同盟関係を重視してこの事実を通報し、ブルゴーニュ公は遠征軍が上陸したブロウェルスハーフェンBrouwershavenで迎撃に成功した。その後、一四二七年初夏には、イングランドの摂政評議会がジャクリーヌの訴えに応えて援助を試みたが、ベッドフォード公の反対で企ては挫折している。翌年、教皇マルティヌス五世が公式にジャクリーヌとハンフリの結婚を無効と宣言し、グロスタ公もこの決定に従う意向を示したので、彼のネーデルラント進出は失敗に終わった。しかし、この企てはイングランドとブルゴーニュの関係に大きな傷を付けることにもなった。
その頃のブルゴーニュ公は、パリ政府の主導権をベッドフォード公に譲り、領土拡張の関心を低地地方に移していたため、いきおいフランス王国全体への関心を弱めていた。しかし、パリ政府に対するさまざまな要求や権利の主張を減じることはなかった。例えば一四二一年までは、ブールジュのシャルル王太子派に対する軍事費用の補填を要求している。ところがシャルル六世没後は、(イングランド王国のベッドフォード公に摂政職が移ったこともあり)軍事費をパリ政府に転嫁させることは困難となって、 王太子派との戦いに熱意を持てなくなった。一四二四年、ブルゴーニュ公は王太子との間でほぼ完全な休戦協定(シャンベリーChambéryの協定)を成立させ、その中で彼は初めてシャルル七世を〈フランス王〉と呼んでいる。こうしてブルゴーニュ公家は、一四二八年、ネーデルラント継承戦争に勝利を収めた後は、 イングランドとの盟約関係を蔑ろにして一気にブールジュ政府へ傾斜していったのである。註㉔
四 オルレアン解放(一四二九年)
一四二二年一〇月二一日、仏王シャルル六世が没し、三〇日には王太子が非合法の王シャルル七世Charles VII(勝利王、在位一四二二~六一)として即位した。王太子はヴァロワ家で唯一生存している嫡男(なお、母イザボー・ド・バヴィエールは、 彼を〈不義の子〉だからヴァロワ家の血を引いていないと証言)であり、ロワール川以南の広大な王領地を支配していた。そして彼は、多くの諸侯の支持を集めてパリ政府への抵抗を続けていたのである。王太子は一四二三年初めからローマ教皇マルティヌス五世・バール枢機卿・サヴォワ侯らを仲立ちとしてブルゴーニュ公フィリップと話し合いを開始し、翌年にはブルターニュ公ジャン五世Jean V de Bretagne(賢明王、在位一三九九~一四四二)とその弟リッシュモン伯アルテュールArthur de Richemont、シチリア王妃ヨランド・ダラゴンYolande d'Aragon(アンジュー公ルイ二世Louis II d'Anjouの妻で、その一人娘は王太子妃マリー・ダンジューMarie d'Anjou。また次男ルネ・ダンジューRené d'Anjouはロレーヌ公の娘を妻とし、バール枢機卿の養子となる)が加わる。同年九月、フランス東部のシャンベリーで合意された協定によれば、ブルゴーニュ公はフランスにおける軍事行動の停止を確約して、パリ政府対ブールジュ政府の抗争に関する中立の意志を表明したのに対して、 王太子はブルゴーニュ公領不可侵の声明を出した。この協定締結の前後には、一四二三年にリッシュモン伯アルテュールとマルグリッド・ド・ブルゴーニュMarguerite de Bourgogne(先の王太子ルイの妻であったが、一四一五年ルイ死去により寡婦となっていた)の結婚が、一四二五年にはブルボン公シャルルCharlesとアニェス・ド・ブルゴーニュAgnès de Bourgogneの結婚がなされた。一四二五年三月に王太子の宮廷に入ったアルテュールは、二年後に王太子の寵臣ピエール・ド・ジアックを失脚させて自ら側近筆頭の地位に就き、アルマニャック派追放に成功している。その間、王太子は一四二四年八月、スコットランドとロンバルディア地方出身の傭兵隊を主力とする一万四〇〇〇人を率いて、シャルトル北西に位置するヴェルヌイユ・シュール・アーヴルVerneuil sur Avreにおいてベドフォード指揮下のイングランド軍一万人と戦って敗れ、兵を引き揚げている。勝利を収めたイングランド軍は、ノルマンディ地方からメーヌへ、そしてペルシュ山脈を越えてシャルトルへ、さらにはボース平野を東へ進んだ。イングランド軍がオルレアンにたどり着いたのは一四二八年一〇月一二日のことで、そのまま冬越しの包囲陣を構えた。イングランド軍を指揮していたソールズヴェリSalisburyは、翌年五月八日、火砲から発射された石の弾丸に当たり戦死している。
さて、そこから遡ること一六年前の一四一二年一月六日(ユリウス暦)、ロレーヌ地方のムーズ河谷にあるドンレミ村(今日のロレーヌ地域圏ヴォージュ県ドンレミ=ラ=ピュセルDomremy-la-Pucelle)の裕福な農家に誕生したのがジャネットJeanetteことジャンヌ・ダルクJeanne d'Arc(一四一二~三一)である。当時のドンレミ村はバール公領Comté de Barに属しており、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれながらもフランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。村の守護聖人は聖レミRemiで、ジャンヌが洗礼を受けたのも村の中心にあるサン・レミ教会である。敬虔なキリスト教徒に成長したジャンヌは、一四二五年頃(一三歳頃)、初めて大天使ミシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの姿を幻視し、「イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよ」という神の〈声〉を聴いたと言う。フランス王家とブルゴーニュ公国の対立は、彼女にとっては〈ドンレミ村の敵であるブルゴーニュ公国の敵は、村の味方〉と映ったに違いない。一四二八年(一六歳頃)、ジャンヌは神の〈声〉に応えるべく、親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォークルールVaucouleurs(トゥール司教管区)の守備隊長ロベール・ド・ヴォードリクールを訪れた。翌年、再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メスJean de Metzとベルトラン・ド・プーランジBertrand de Poulengyという二人の貴族の援助でヴォードリクールに再会し、オルレアン近郊におけるニシンの戦い(一四二九年二月一二日、ルーヴレの戦い)で仏軍が敗北するという預言した。ヴォードリクールは前線からの報告でジャンヌの預言が的中したことを知って驚き、ジャンヌが協力者(騎士一人・準騎士一人・下僕四人)とともに王太子シャルルの王宮があるシノンChinonまで行くことを許可した。二月二三日、ジャンヌは乗馬用の男装をしてヴォークルールを出発し、三月四日にはフィエルボワFierboisに到着した。彼女はここで王太子への手紙を認め、 護衛をしてきた二人に託して送付した。その後、聖カトリーヌSainte Catherine の像に祈り、翌日には三度もミサに出席している。
三月六日、ジャンヌ・ダルクは再び出発して、昼食後、シノン城で王太子に拝謁している。その時、王太子は「気高い王太子様、私は殿下と殿下の王国に援軍をもたらすためここへ参りました。神の命令によって送られてきたのです」(『復権裁判』一四六頁)と語るジャンヌに驚く。しかし彼は、ジャンヌを異端と見なす可能性を否定してその高潔性を証明するために、彼女の身元調査の審議会開催とポワティエにおける教理問答を命じた。四月にジャンヌの審議に当たった委員会は、女性の手によって身体検査を行った結果、彼女の「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えの善きキリスト教徒であることを宣言」している。一方、パリからやって来た大学の神学者が行った教理問答では、神からの啓示を受けたかどうかは判断できないと留保したが、彼女の役割の聖性を示すに足るものがあるという〈有利な憶測〉を伝えた。こうしてジャンヌはオルレアンに向かうことを認められ、王太子妃マリーの母(アンジュー公妃ヨランド・ダラゴン)が資金援助していたオルレアン派兵軍との同行や騎士としての軍装着用が許された。
三月二五日、ジャンヌはトゥールで甲冑を作り、警固役として準騎士・従卒二名を指名している。また、トゥールのアウグスティヌス派修道士であり、ジャンヌの聴罪司祭を務めたこともあるジャン・パスクレルJean Pasquerelに会っている。これは、ロワール川上流の町ピュイPuyの巡礼(復活祭に先立つ聖金曜日が三月二五日の「お告げの祝日」と一致する年に行われる巡礼。一四二九年もその年に該当した)に参加した際、ジャンヌの母イザベル・ロメは、パスクレルに「娘ジャンヌ・ダルクに会って指導して欲しい」と依頼したためである。ジャンヌの二人の兄ピエール、ジャンはパスクレルに同行し、これ以降は妹のために尽くすことになった(長兄ジャックマンはドンレミ村で家を守った)。四月二八日、ジャンヌとブロワで合流した二人の兄、司祭・修道者の一行は、オルレアン戦のための食料・火薬を載せた六〇〇台の荷馬車や牛馬とともに出発した。註㉕
ジャンヌ一行がオルレアンに到着したのは、一四二九年四月二九日のことである。しかし、彼女らが着いたのはロワール左岸(南側)のブッシェ港で、そこはオルレアンをかなり通り越した場所だった。オルレアンに着いたものと思い込んだジャンヌは、野外ミサを執り行うように要請した。ところがその時、はるか川向こうにオルレアンの鐘楼が聳えているのを見つけたジャンヌは、いつになく激高したと言われている。しかし上手い具合に風向きが変わって、兵站を運ぶ船はオルレアン東のシェシィ港(右岸)に着岸できた。彼女はブルジョワの館に迎え入れられ、夕刻にはオルレアンに向けて出発した。深夜にはブルゴーニュ門が開かれ、軍旗を持つ従者たちの先導に続いて、白馬に乗ったジャンヌとジャン・ド・デュノワJean de Dunois(オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワの庶子)が進んだ。「乙女(ピュセルpucelle)は甲冑に身を固め、白馬に跨って町に入ってきた。先駆の兵に持たせた旗印には、純白の地に百合の花を手に持った二人の天使が描かれており、槍先の小旗には受胎告知のような図が描かれていた。天使がその前に百合の花を差し出しているマリア様の図であった」(『籠城日記』)。
ジャンヌ一行は、西側のルナール門近くにあるオルレアン公財務官ジャック・ブーシェーJacques Boucherの家(第二次世界大戦で焼失したが、メゾン・ジャンヌ・ダルクLa Maison de Jeanne d'Arcとして再建)の館に陣取った。当時オルレアン公シャルルは、アザンクールの戦い(一四一五年)以後はイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてイングランド軍と対峙していたのである。そのデュノワは、始めのうちジャンヌが作戦に関わることを認めなかった。しかし、五月一日朝、ジャンヌはルナール門の向かい側の数百メートル先にイングランド軍指令官タルボット(シュルーズベリー伯ジョン・タルボットJohn Talbot, 1st Earl of Shrewsbury)の要塞を発見し、その後一週間に及ぶ攻撃の幕が切って落とされた(ただし、五月五日のキリスト昇天祭には軍備を解いた)。ジャンヌは奇襲攻撃でサン=ルー要塞を撃破し(四日)、七日には「私を愛するものは続け」と兵士を叱咤激励し、 トゥーレル砦Fort des Tourelles の決戦でも勝利を得た(ジャンヌは、預言通りこの戦いで胸の上部に矢を受け負傷したが大事には至らなかった)。翌八日にはイングランド軍がオルレアンの包囲を解いて撤退し、ついにオルレアン解放が実現した。ジャンヌは自分こそが解放戦の指揮官と思いこんでいたが、実際は当時まだ二七歳ではあるが歴戦の勇士ジャン・ド・デュノワの力に負っていた。彼は王太子に忠義を尽くし、 後には侍従長となって公子の称号を得ている。しかし、彼は神懸かり的なジャンヌの活躍に驚き、 一四五六年の「復権裁判」では二七年前の感嘆の思いを証言している。
その後、ジャンヌ率いる仏軍は、ロワール川流域で小規模な戦闘を繰り返した。六月一二日、ジャンヌの軍隊がジャルジョーJargeauを占領してイングランド軍司令官サフォーク伯を捕らえた時、ブルターニュ公ジャン五世の弟リッシュモン伯アルテュールが合流の動きをみせた。しかし、リッシュモンド伯と激しく対立していた筆頭侍従ドゥ・ラ・トレムイユは、リッシュモン軍の合流阻止を命じた。ジャンヌと司令官アランソン公Jean II de Valois, duc d'Alencon(当時二〇歳)はこれに従おうとしたが、配下のラ・イルLa Hire(エティエンヌ・ド・ヴィニョルEtienne de Vignolles)、ジャン・ポトン・ド・ザントライユJean Poton de Xaintrailles、ジャン・ド・デュノワらは、武勇の誉れ高いリッシュモン元帥を迎え入れて合力すべしと主張した。ジャンヌは後者の意見を受け入れ、以後はリッシュモン伯が実質的な指揮を執ることになる。六月一八日、リッシュモン軍の合流を知ったボージャンシーBeaugencyは戦意を喪失して降伏している。
一方、イングランド軍の指揮官タルボットとジョン・ファストルフJohn Fastolfは、要衝のマン橋を仏軍に抑えられて反撃に失敗し、イル・ド・フランス方面への撤退を余儀なくされた。それに対して仏軍は追撃を行う。リッシュモン伯の配下のボーマノワールとブーサックに加え、騎馬部隊を率いたジャン・ポトン・ド・ザントライユとラ・イルが前衛となり、ジャンヌとリッシュモン大元帥が本隊を編成して後に続いた。イングランド軍のタルボットはパテー Patay近郊の森に陣を張って迎撃作戦に出たが、それを察知したラ・イルが素早く攻撃を開始してイングランド軍を壊滅させた。その結果、 タルボットは仏軍の捕虜となり、ファストルフは僅かな手勢と共に敗走した(六月一八日パテーの戦い)。この奇蹟とも言える勝利によって仏軍は一気に優勢に転じ、北に向けて進軍することになる。その間、ジャンヌと行動を共にしたアランソン公は、彼女の「復権裁判」で証言台に立ち、軍隊で飛び交っていた罵詈呪詛や娼婦の従軍を嫌悪していたこと、軍事における慧眼と予測においては歴戦の隊長に劣らずその任に相応しかったこと、 そして敬虔で貞淑な性格、美しい胸にについて言及している。彼女の胸は、他の兵士とともに藁の上で寝たときに何度か目撃したが、肉欲は全くそそられなかったという。ジャンヌは生身の女ではなく、死と隣り合わせの戦場における超常的な存在であった。
その間、王太子シャルルがオルレアンを訪れることはなく、感謝表明もかなり後のことであった(ただし、一四三〇年二月には免税などの特権を付与している)。彼は、ジャンヌを突き動かしている郷土愛や〈神聖な王〉という観念に対する警戒心を抱いており、彼女の戦闘主義よりも外交を優先させた。王太子はジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ、ランス大司教ルニョウ・ド・シャルトルに命じてブルゴーニュ公フィリップと交渉させ、ブルゴーニュ公国にはパリ進駐を認める代わりに、王太子自身はオアーズ川沿いの町(コンピエーニュCompiègne、ポン・サント・マクサンス Pont-Sainte-Maxence、クレイユCreil、サンリスSenlis)を獲得することで合意に達した。ブルゴーニュの『年代記』作者ジョルジュ・シャトランGeorge Chastellainによれば、「彼(王太子)には幾つかの目立った癖があった。主なものは移り気、猜疑心、嫉妬の三つである」。王太子はジャンヌたちのパリ攻撃に反対し、攻撃日程の変更を指示している。また、配下の部隊を撤退させ、ジャンヌやアランソン公の発意で架けられたセーヌ川の橋を破壊し、イングランド軍が支配するノルマンディ地方への進撃も禁じた。その間に、七月一七日にはランス大聖堂Reimsで聖別・戴冠式が挙行され、名実ともにフランス国王シャルル七世となったのである。同月二〇日、ランスを発ってコルベニーへ向かったシャルル七世は、聖マルクーMal-coul(五五八年頃没)の聖遺物館を礼拝して〈治癒の力〉を与えられた。その後、ランス大司教区のヴァイイVaillyに入ると町はすぐに王に服従を誓い、 それまでブルゴーニュ公に与していた周辺都市の領主や市政者たちも王のもとを訪れて町の鍵を献上し服従を誓った。こうしてソワソンSoissons、ランLaon、プロヴァンProvins、シャトー・ティエリChateau-Thierry、クロミエ Coulommiers、クレシィCrEcy、コンピエーニュCompiegneなどシャンパーニュ地方、 ピカルディ地方の主な諸都市がシャルル七世の支配下に入った。
九月に入ってジャンヌとアランソン公が率いていた軍隊はパリ攻撃(七~八日)に失敗し、ジャンヌの負傷もあって国王から攻撃中止の命令が出された。翌三〇年五月七日、ブルゴーニュ軍はコンピエーニュ包囲に成功し、二三日にはそこに現れたジャンヌを捕虜とする。その時、パリ大学はブルゴーニュ公にジャンヌの身柄引き渡しを要請し(二六日)、秋には身代金と引き換えにイングランド王国に売り渡された(一一月二一日)。そして一二月二四日、ルーアンに到着したジャンヌは、翌年一月九日から「処刑裁判」が開始され、五月三〇日にはヴィユ・マルシェVieux-Marcheにおいて焚刑に処せられたのである。註㉖
五 シャルル七世の聖別・戴冠式
一四二九年七月一七日、仏王シャルル七世がランス大聖堂Reimsで挙行した聖別・戴冠式は、中世国家の特徴を示しており、ジャンヌ・ダルクの生涯とも大いに関わっている。聖別儀式の最終日、シャルル7世はランス近郊のコルベニーにある聖マルクーの聖遺物館を礼拝することによって〈治癒の力〉を与えられたが、これは何を意味するのか。西洋中世における王としての正当性や適格性は、キリスト教的理念と深い関係があった。すなわち王は、〈神意の地上への伝達者〉として聖職者と類似した役割(半聖職者性)を担い、 同時に〈常人とは異なる特性・超越性〉が不可欠であることから神との近似性(半神性)をも求められる存在であった。したがって、中世国家の政治は必然的に神権的性格を帯び、王の〈聖性〉は不可欠の要素であった。聖別式(王に聖性を賦与する儀礼)sacreは、九〇〇年頃に成立した「エルトマンの定式書」まで遡り、「フルラードの定式書」(九八〇年頃成立)を経て、ルイ九世時代の「ランスの定式書」(一二三〇年頃)・「一二五〇年の定式書」「サンスの定式書」(一二五〇~七〇年頃)で確立したと言われる。聖別式を《sacre et couronnement》と表現するのは「ランスの定式書」からアンリ三世の聖別(一五七五年)までで、塗油と戴冠の両儀の一体性を指している。しかし、西欧における戴冠儀礼coronatio, couronnementは八〇〇年(シャルルマーニュ帝のローマ皇帝戴冠)までしか遡れないのに対して、塗油式unctio, onctionが既に六七二年、西ゴート王国ワムバ王Wamba(在位六七二~八〇)の即位式で導入されていることから、もともとは別個に開始されたものと思われる。フランスにおける両儀の一体化の始点をシャルル二世の聖別(八六九年)に求めて、ランス大司教ヒンクマルHincmar(在位八四五
~八八二)の果たした役割を強調する説があるが、ポスト・カロリング期(九世紀後半~一〇世紀末)に両儀の一体化がどの程度進んだかは未だ明らかでない。また、聖別が行われる場所がランス大司教座聖堂に固定化するのは、カペー朝第三代国王アンリ一世Henri I(在位一〇三一~六〇)の聖別(一〇二七年)からで、ブルボン復古王朝最後の国王シャルル一〇世Charles X(在位一八二四~三〇)の聖別(一八二五年)までの計三五回のうち三〇回も挙行されている。その理由は、ランス大司教座聖堂が一二世紀前半に〈王国全体の母にして頭〉の地位を得ただけでなく、大司教ヒンクマルがフランス国王の聖別をクローヴィスの洗礼と結びつけたことによる。ロベール家の諸王はサンス大司教から聖別を受けていたが、九三六年、カロリング系に王位が戻ってからはランス大司教が聖別の執行権を確保した。こうして、一一八〇年に始まるフィリップ二世の治世以降、(1)サン・ドニ修道院Abbaye de Saint-Denisからの「権標」regalia搬出(王に賦与される権標には、 右手薬指にはめる金の指輪annulus、右手に持つ上部に百合の花形がついた長杖、左手に持つ上部に象牙の手形がついた短杖がある)、(2)ランス近郊のサン・レミ修道院Basilique Saint-Remiからの聖油壜移送(聖油は聖皿にオリーヴ油を注ぎ、金製の針で芳香性の樹脂を混ぜ合わせて作られる。また塗油の部位は、頭頂、両肩、胸、背中、両掌、両肘の九カ所)、(3)ランス大司教座聖堂における聖別儀礼の挙行、という基本的な流れが確立した。また、聖別の挙行日は主日(日曜日)も充てられたが、降誕祭(一二月二五日)Noel, Christmas、復活祭(春分後の最初の満月の後の第一日曜日)Paques, Easter、聖霊降臨祭(復活後五〇日目の五旬祭)Pentecoteなど宗教上の大祭日が一般的となる。聖別儀式はランスへの入城に始まり瘰癧接触で終わる五日間の行事だが、三日目には剣の祝別、塗油、権標授与、戴冠diadema, coronaの順で儀式が行われる。
これらの儀式はそれぞれ王の持つ〈聖性〉にとって重要な意味を持つが、なかでも特異な儀式は瘰癧治癒である。聖別儀式の最終日に組み込まれた瘰癧scrofulae, ecrouelles(結核性のリンパ腺炎ないし皮膚疾患)治癒は、新国王がランス郊外のコルベニー施療院に赴いて聖人に供物を捧げ、祈禱を行った後で、集まった瘰癧患者の体に手を触れるという形で儀礼化されていた。こうした瘰癧治癒の儀礼は、聖者・聖遺物崇拝と密接に関連している。聖別儀礼の際に訪れるコルベニー施療院の守護聖者は六世紀にノルマンディ地方で活躍した聖マルクーで、その手で触れることにより病を治すことで知られていた。また、コルベニーは元来王宮の所在地であったが、八九八年、ノルマン人の侵攻を受けた聖マルクーを守護聖者とする僧院のために仏王シャルル三世が用地を寄進し、僧院はクータンスCoutancesからコルベニーへと移転した。彼等が持参した聖マルクーの聖遺物を館に安置して以来、歴代のフランス王はランスで塗油され戴冠した後、このコルベニーに巡礼して聖マルクーの聖遺物館を礼拝することで〈治癒の力〉を与えられたのである。その後、コルベニーには聖マルクー修道院が建てられ、その横に施療院が加えられた。治癒の奇蹟は王と治癒者を同一視する民衆的・土俗的信仰を生み、やがて王の治癒能力が聖別、塗油によるカトリック的な説明に転化したのである。したがって、シャルル七世が行った一連の聖別・戴冠式の行事は、聖者・聖遺物崇拝と相俟ってフランスに住む民衆の〈崇敬の念〉を集めることになり、ジャンヌ・ダルクも例外ではなかった。
六 ジャンヌ処刑裁判の意味
一四三〇年五月、ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュでブルゴーニュ派の捕虜になってから僅か一カ月後、ピエール・コーションPierre Cauchonという人物が彼女の裁判を取り仕切ることとなった。彼は一三七一年ブルジョワの子弟として生まれ、パリ大学に学んだ。神学部を六年で中退し、学者にはならなかったが実務能力や組織力に長けていたため一三九七年、一四〇三年と二度にわたって学長に選出されている。コーションはランスやボーヴェBeauvaisの司教座参事などの地位を得たが、高収入を得られる司教職を狙っていた(一四〇七年現在の日当は、パリ大学の博士・教授が三リーヴル、僧院長六リーヴル、司教一〇リーヴル)。当時は教皇庁がローマとアヴィニョンに分かれる教会大分裂(一三七八~一四一七年)の時代で、パリ大学はブルゴーニュ公とともに「仏王はアヴィニョン教皇庁と癒着している」と批判して大分裂解消の論陣を張っていたが、コーションも同じ立場であった。パリ大学は、仏王フィリップ四世と教皇ボニファティウス八世との権力争い以降、両者の間に入って双方から恩恵を得ていたが、教会統一後にはローマ教皇庁に納付される税金の分け前を得ることの方が有利だと判断したようである。
一四〇七年、オルレアン公ルイが暗殺されるという事件が発生したとき、パリ大学の神学者ジャン・プティJean Petitは翌年三月の講演会でブルゴーニュ公を弁護し、コーションもこれを是認した。そして、この事件を契機にブルゴーニュ公側近の一人となったコーションは、一四一三年カボシュの暴動L'emeute cabochienneを画策し、神聖ローマ皇帝ジギスムントが提唱したコンスタンツ公会議(一四一四~18
年)にフランス代表として参加している。神学者ジャン・ジェルソンJean Gersonはこの会議で大シスマ解決と公会議首位説を実現したが、〈独裁者殺し擁護の神学〉を弾劾しようとしたジャン・プティの訴えは、コーションがイタリア人枢機卿三人をはじめとする聖職者たちを買収したことで棄却された。フランスに戻ったコーションは、ブルゴーニュ公によって内閣審理官に任命され(年俸一五〇〇リーヴル)、アルマニャック派の司祭たちを裁いてはその資産を没収した。
ところが一四一九年九月一〇日、コーションが頼りとするブルゴーニュ公ジャンは、王太子との会見場モントローの橋の上で暗殺されてしまった。コーションはすかさずトロワの和約(一四二〇年五月一九日)の起草に関与し、新ブルゴーニュ公フィリップ三世やイングランド王ヘンリ五世だけでなく、仏王シャルル六世や統一教皇マルティヌス五世らの支持を得て、ボーヴェ司教に任命された。その後、彼はパリ郊外のムーランMoulinに赴いて仏軍駐屯地を引き渡す手助けをしたことから、次第にイングランド軍と関係を深めた。一四二二年イングランド王ヘンリ五世・仏王シャルル六世が相次いで身罷った時、コーションは幼いイングランド王ヘンリ六世や摂政ベッドフォート公の顧問となっている。また彼は、ベッドフォード公のパリにおける政府財源をフランスの聖職者から取りあげた資金で賄い、ローマ教皇への上納金には手を触れなかったことから、新教皇マルティヌス五世との関係も良好となった。ところが、一四二九年五月にジャンヌ・ダルクがオルレアン解放を果たし、七月にはシャルル七世がランスで戴冠式を挙行したため、 形勢不利に驚いたコーションは九月末、ベッドフォード公に付いていく形でイングランドへ渡っている。彼等の目的はイングランド議会から軍資金を出させることと、幼いヘンリ六世にパリ入城を促すことにあった。したがって、この当時のコーションは明らかに〈イギリス側の人間〉と見なされていた。
一四三〇年五月、ブルゴーニュ公の家臣ジャン・ド・リュクサンブールJean II de Luxembourgは、ジャンヌ・ダルクを自らの居城であるボールヴォワール城に連行し監視させた。ジャンのもとにはあらゆる陣営から身代金支払いの申し出が殺到したが、主君ブルゴーニュ公フィリップは同盟国イングランドに身柄を引き渡すよう指示した。五月二六日、パリ大学が裁判のためにジャンヌの身柄引き取りを要請したが、 ボーヴェ司教コーションは一万リーヴルでイングランド王ヘンリ六世に買い取らせた。また彼は、ジャンヌ・ダルクに対する異端審問の場所を英領ノルマンディ地方と指定し、自らを首席判事とした。コーションはジャンヌが捕らえられた場所を自分の管轄下のボーヴェ司教区内であったと強弁し、ルーアン大司教が不在のうちに参事会から買収した自分の所有地に(書類上の手続きなしに)法廷を開設したのである。
ところで、一一九九年教皇インノケンティウス三世によって設けられた異端審問は、一二三一年、教皇グレゴリウス九世が「異端の悔悛者は終身刑、悔悛しない異端者は死刑」という基準を設定していた。フランスの異端審問法廷はトゥールーズに常設され、一三世紀を通じて多くのカタリ派を火刑台に送ったので有名である(異端審問官ベルナール・ド・コーは一人で五四七一人のカタリ派を尋問)。しかしカタリ派が姿を消すと、異端に対する弾劾は司教の采配に任されるようになり、一四世紀初めのテンプル騎士団の裁判(一三〇七~一一年)を最後にながく開廷されたことがなかった。ジャンヌの異端裁判が行われた一四三一年の時点では、フランスの大審問官はパリ大学教授グウヴラン(神学博士)ただ一人だけであった。ブルゴーニュ派で固められたパリ大学の神学者たちは、ジャンヌに異端の容疑があることは認めたが、教会を脅かす力を持たない彼女を積極的に裁く理由を持たなかった。そのため、パリ大学教授グウヴランやルーアンの審問官ルメートルは異端審問の責務から逃げようとした。結局、ルメートルはグラヴラン教授の圧力に屈してこの仕事を引き受けたが、最後まで傍観者的態度をとり続けている(但し、コーションとルメートルはともに、ヘンリ六世から裁判報酬として一万リーヴルを受けとっている)。
一四三一年五月二八日(月)、二カ月間に及んだありとあらゆる迫害の末、ジャンヌは恐怖と疲労の極限状態で〈異端を捨てる〉ことを強制された。オルレアン解放以後の彼女の行動は、異端として弾劾できるようなものは見いだしがたく、唯一可能性があったのは男装の問題であった。女性の男装は、「女が男の着物を身にまとうことがあってはならない。男が女の着物を着ることがあってはならない。これらのことを行なう者はすべて、あなたの神ヤハウェが忌み嫌うものだからである」(『旧約聖書』申命記二二―五)とされ、教会法上も許されない行為である。しかし、ポワティエの神学者たちは、ジャンヌは神が下した使命を遂行するために男たちと暮らさねばならなかったのだから男装の必然性があると判断した。また、パリ大学のジャン・ジェルソンJean Gerson(一三九五年、パリ大学総長就任。ピサ教会会議やコンスタンツ公会議を主導て「公会議主義」を主張)は、旧約聖書の律法すべてが新約聖書に継承されたわけではなく、女性の男装の条件として〈必然性、有用性、目上の者からの例外的な許可〉という三点を規定した。戦場に赴くジャンヌにとって軍装は〈必要なもの〉であり、処女性を守るために〈有用なもの〉であり、神のお告げという最高権威者から〈許可〉されたものでもあったから、全ての条件を満たしていた。しかし、ジャンヌはオルレアン解放後も恒常的に、しかも身分の高い騎士の着衣を身につけていたことを理由として弾劾されることになる。終身刑と男装を捨てることを言い渡された日の四日後、再び男装をして審問法廷に引き出されたジャンヌは、聖カトリーヌと聖マルグリットから「異端破棄をすることによって彼女が合意した著しい背信」を神が大いに嘆かれたと知らされたからだと述べた。その結果、ジャンヌは「戻り異端」として火刑台に上ることになった。
五月三〇日(水)朝、ジャンヌは審問の陪席判事であるマルタン・ラドヴニュ修道士に告解Confessio(洗礼後に犯した自罪を告白し、神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。現在のカトリック教会では「赦しの秘跡」と呼んでいる)をして御聖体の秘蹟を拝領し、神と聖人に魂の救済を嘆願し続けた。やがて、八〇〇人以上の兵士に囲まれてヴィユ・マルシェ広場に引き出されると、付き添いの僧たちは涙を禁じ得なかったという。仮設台の上で教会から世俗の法官の手に引き渡す旨の宣告を受けたジャンヌは、跪いて祈りを捧げ、敵を赦し、十字架と聖水(司教・司祭により聖別された特別な水)を所望した。ルーアンの法官の命令で焚刑台に近づいたジャンヌは、イングランド人の渡した十字架に口づけをして胸に押し当てた。火が放たれた時には大声でイエスの名を叫んだと言われている。この光景を見つめていたルーアンの群衆やイングランド軍兵士たちは、彼女が〈魔女〉などではなく、〈善きキリスト者〉として精一杯生きた小さく無力な娘であることを知ることになった。彼等は聖女を殺すのに加担してしまったのである。うずたかく積まれていた薪は若い体を焼き尽くすには足りなかったらしく、開いた胸郭から血まみれの心臓が現れた。聖遺物が残ることを怖れたイングランド軍は、 丁寧に掻き集めた灰とともに全てをセーヌ川に捨ててしまったという。
ベッドフォード公が異端審問に固執した理由は、イングランド兵から〈魔女〉として怖れられたジャンヌを〈神の代理人〉である教会の手で抹殺する必要があったからである。その間、コーションは徹頭徹尾、ベッドフォード公の政治的思惑に沿って行動し、ジャンヌが最初に自分の過ちを認めた後も、他の法官の合意なしにイングランド側の牢獄に戻して、焚刑に価する「戻り異端」を誘導している。コーションは自ら推進した異端審問が教会法的にも違法処理の連続であることは承知していたようで、彼は自分の身柄保障をイングランド王に求め、焚刑後二週間しか経たない六月一二日にヘンリ六世名の念書を得ている。コーションは、ジャンヌの死後すぐにルーアン司教になることを期待したが、結果的にはリジュー司教Lisieuxにしかなれず、彼女の「復権裁判」に先立つ一四年前に亡くなっている(享年七一歳)。
一四五〇年二月一五日、仏王シャルル七世は、ジャンヌの母イザベル・ロメの請願を受けて「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」に関する調査を指示し、三月四日、ノワイヨン司教教会参事会員のギヨーム・ブイエが調査を開始した(教会に対する調査は一四五二年五月二日開始)。そして一四五五年一一月七日、ようやく「ジャンヌ・ダルク復権裁判」が、パリのノートルダム大聖堂で開始された。査問官ブレアルはコーションの罪状を長々と読み上げ、聖職者たちも自らの過去の言動に遮幕を掛けようとコーション不利の証言を重ねた。仏王シャルル七世やカトリック教会は、全ての罪をコーション一人に背負わせることで幕引きをしたのである。それはイングランド側にとっても都合の良いことであった。また、復権裁判で明らかになった戦場のジャンヌは、「自然の必要のために馬を降りることは決してなかった」「朝から晩まで、 甲冑を着けたまま、飲むことも食べることもせずに馬に乗っていた」という。ジャンヌが口にするのは水とワインと魚だけだったが、ワインは聖餐における「キリストの血」であり、魚はイエス・キリストの象徴であった。また、彼女が求めた唯一の〈肉〉は「キリストの体」である聖体パン(ホスチアHostia)である。彼女は、オルレアン解放から逮捕されるまでの間は週二回の聖体拝領をしており、一四二九年八
月、パリ北方のサンリスで待機していた時はアランソン公とともに二日続けて聖体拝領をしたという「証言」もある。したがって、彼女は拒食症患者の過活動状態にあり、拒食による病的痩せは女性としての体つきを変えただけでなく、生理不順の症状を引き起こしていた。ジャンヌは生理による出血どころか、汗も尿も極端に少なかったと言われるが、その一方でたびたび涙を流している。ジャンヌ・ダルクは拒食によって〈性差〉を超越し、聖体拝領と流す涙によって〈清らかさと力〉を体現したのである。一四五八年一一月二八日、母イザベル・ロメの死によって「復権裁判」は終了した。註㉗
第五節 百年戦争第四期(一四三五~五三年)
一 アラス平和会議(一四三五年)
一四二九年七月一七日、仏王シャルル七世がランス大聖堂で聖別・戴冠式を挙げていた時、リッシュモン伯アルテュールはイングランド王国の摂政ベッドフォード公との対決に忙殺されていた。彼の母ジャンヌ・ド・ナヴァールはフランスからイングランド王ヘンリ四世のもとに嫁ぎ、生まれたのがアルテュールである。彼ははじめアルマニャック派に属してブルゴーニュ公国と対立していたが、一四一五年、アザンクールの戦いで捕虜(一四二〇年解放)となった後はイングランド側の味方となり、一四二二年にはトゥーレーヌ公に叙爵された。しかし、イングランド王ヘンリ五世が亡くなった後は王太子の陣営に戻り、反英親仏の立場に転換した(一四二四年)。一四二五年、アルテュールは軍司令官に任用されたが、王太子の寵臣たちを追放し、筆頭侍従ボーリユの後任としてラ・トレムイユを推薦したことで王太子の信用を失い、 一四二七年には皮肉にもラ・トレムイユによって追放されてしまった。(前にも触れたように)一四二九年六月、ジャンヌ・ダルクに率いられた軍勢がロワール川の掃討作戦を開始した時、失地回復の好機とみた彼は合流してパテーの戦いの勝利に貢献した(六月一八日)という経緯がある。
一四三〇年、ジャンヌ・ダルクがブルターニュ軍に捕らえられ、イングランド軍に引き渡された際、ラ・イルやジル・ド・レイGilles de Raisなどジャンヌの崇拝者たちは独自に救援策を試みたが、シャルル七世やラ・トレムイユはジャンヌを見殺しにした。そのため、シャルル七世への反発が生まれたのを機に、リッシュモン伯とヨランド・ダラゴンはラ・トレムイユを捕らえて幽閉し、侍従にはヨランドの息子(王妃の弟)メーヌ伯シャルル Charles du Maineをあて、リッシュモン伯も再び総司令官の地位に返り咲いた(一四三三年)。その間、フランスはイングランド軍に対する反転攻勢を仕掛け、一四三五年五月のジュルブヴォワGerbevoyの戦いではラ・イル、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ等の活躍で勝利を収めた。
その頃、教会大分裂解消後に選出された教皇マルティヌス五世Martinus V(在位一四一七~三一)は、コンスタンツ公会議における「公会議の定期開催」という決定を受けて、パヴィアPavia 、ついでシエナSiena で公会議を行おうとしたが果たせず、一四三一年七月二三日になってようやくバーゼル公会議Basel(開催地がバーゼルからフェラーラFerrara、フィレンツェFirenze、ローマRomaへと移動したためバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議ともいう)を召集した。しかし、マルティヌス五世が開会を待たずに逝去したため、開催は次の教皇エウゲニウス四世Eugenius IV(在位一四三一~四七)に引き継がれた。この会議は二年間にわたる駆け引きの後に、教会改革を目指した多くの決定がなされ、懸案となっていたフス派の問題にも一応の解決を見た。英仏両国の和平に関しては教皇使節ニコロ・アルベルガーティNiccolo Albergatiが仲介の役割を担ったが、一四三三年八月、両国間で正統の仏王をめぐって激論が交わされてまとまらず、九月にはブルゴーニュ公が自国の代表団に(それまで同席していた)イングランド代表団の側から離れるよう指示した。それは結果的に仏王シャルル七世とブルゴーニュ公の接近をもたらし、一四三五年二月、ロワール川右岸で結ばれた「ヌヴェール協定」Neversでさらに密接なものとなる。この協定では、(1)ヴァロワ派の有力王族であるブルボン公とブルゴーニュ公の和解、(2)アラス平和会議の開催、 (3)仏王はブルゴーニュ公がイングランド王国との同盟を破棄した場合に生じる損失を補償すること、 が合意された。
同年夏、アルトワ地方の中心都市アラスArrasで、主催国ブルゴーニュと主要交戦国であるイングランド、フランス、そして仲介者としての教会が参加するアラス平和会議が開催された。その時、イングランド代表団はアラス旧市街に、フランス(七月三〇日到着)とブルゴーニュの代表団は新市街に宿泊したが、 旧市街と新市街の間には濠があり、両地区間の行き来は一つの門を通してしか行えないような構造になっていた。会議は新市街にあるサン・ヴァースト修道院Saint-Vaast内で開かれ、「調停方式」という特殊な方法で運営された。会議室には修道院長用の部屋の一つがあてられ、その周囲の部屋は代表団の控え室とされた(各国代表団は毎日、午前中は七時から八時の間に、午後は三時から四時の間に出頭して待機する)。会議室には向き合った形でベンチが二脚置かれ、首席調停者アルベルガーティ(枢機卿)や枢機卿ユーグ・ド・リュジニャンHugues de Lusignan、各国の首席代表以外に、公証人・書記・事務官等が着席したものと思われる。控え室に待機していた各国代表は順次会議室に呼ばれて和平提案を提出し、また相手方提案に関する反応を探った。しかし、英仏間の思惑のずれはあまりにも大き過ぎた。八月三一日、イングランド代表はアラス会議からの離脱の意向を表明し、九月四日にシャルル七世側の最終提案を拒否して、六日にはついに会議から脱退した。その結果、アラス会議は英仏間の平和回復を実現できなかったが、ブルゴーニュ公が負っていたトロワ条約の遵守義務という重荷からの解放と、フランス王国・ブルゴーニュ公国の和議という新たな課題を鮮明にした。こうして九月二一日のアラス平和条約調印で、フランス王国はブルゴーニュ公国の事実上の独立を承認する代わり、イングランドとの同盟関係を断ち切らせることに成功したのである。なお、 イングランドのベッドフォード公は、九月一四日、ルーアンにて没している。
二 領邦君主体制の終焉
一四三六年、フランス軍はパリ奪回のための行動を起こし、アリエ川東岸のムーランMoulins奪取に始まり、二月にはポントワーズPontoiseを支配下に収めた。パリは仏軍によってセーヌ川とマルヌ川という二つの河川を押さえられために食糧搬入が不可能となり、たちまち食糧難に陥った。パリ奪回の指揮をとっていたリッシュモン元帥は、四月一三日、サン=ジャック門から突入し、国王シャルル七世の名においてイングランドに協力していた者たちに対する特赦を約束して秩序回復に努めた。一五日にはイングランド軍が降伏し、パリはフランス王国の首都へと戻ったのである(四月一七日)。翌年一一月一二日、仏王シャルル七世はパリ帰還を果たした。ジャンヌ・ダルク処刑裁判を取り仕切ったコーションはルーアンへ逃亡し、その他のパリ大学教授たちは日和見主義者としての才能を遺憾なく発揮して、彼等の特赦と特権維持を嘆願した。また、一四三二年、イングランド王ヘンリ六世によって創設されたカーン大学など新設大学の廃止を要求し、これは大学の自治権喪失につながった(カーン大学は一四五二年、シャルル七世によって正式に創設を認可された)。また翌三八年には聖職者会議が開催されて「ブールジュ国事詔勅」が発令され、「フランス国家教会主義」(ガリカニスム Gallicanisme)の動きが始まる。
その間、一四三六年七月にブルゴーニュ公フィリップがカレー奪取を試みたが、イングランド軍に惨敗した。こうして英仏間の戦争は小康状態を保つようになり、一四四〇年五月には「二二カ月休戦協定」を結んでいる。しかし、一四四九年三月になると、アラゴン人傭兵隊長フランソワ・ド・シュリエンヌFrancois de Surienne率いるイングランド軍がブルターニュ公国のフジェールFougereを襲撃したことで休戦が破綻した。同年六月、シャルル七世はブルターニュ公国との攻守同盟を成立させ、翌月にはノルマンディ地方への攻撃を開始した。その頃、半独立状態にあったブルターニュ公国ではリッシュモン伯の兄ジャン五世Jean Vが身罷り(一四四二年)、その後は息子フランソワ一世Francois Iが継承したが、後見人はリッシュモン伯が務めていた。ルーアン南のポン・ド・ラルシュ城Pont-de-l'Archeを奪回してイングランド軍への攻撃を強めた仏軍は、八月以降はシャルル七世自らが軍の先頭に立ち、一一月にはルーアン総攻撃を命じた。劣勢にまわったイングランド軍はルーアンから退却するが、その後ヘンリ六世が派遣した援軍が辛うじて仏軍を撃破した。しかし、そこへ馳せ参じたのがリッシュモン伯率いるブルターニュ軍で、一四五〇年四月一五日、フォルミニFormignyの戦いで大勝利を収めた。この戦勝で勢いづいた仏軍は、大砲(註㉘)の威力でカーン(七月一日)、シェルブールCherbourg(八月一二日)を相次いで陥落させることに成功した。一四五〇年にはブルターニュ公のフランソワ一世が息子のないまま亡くなり、彼の遺言によって後を継いだ末弟ピエール二世PierreIIもまた実子のないまま逝去した。ついにブルターニュ公位はリッシュモン伯が継承することになり、彼はアルテュール三世Arthur III(在位一四五〇)として即位したのも束の間、同年健康を害して身罷った。甥のフランソワ二世、次いでその娘アンヌが後を継いだが、アンヌは仏王シャルル八世Charles VIII(在位一四八三~九八)に結婚を強要され、その死後はルイ一二世Louis XII(在位一四九八~一五一五)と再婚している。その結果、ブルターニュ公国はヴァロワ王家が相続することになり、やがて王領へと併合されたのである。
一四五〇年一〇月、ギエンヌ地方のベルジュラックBergeracを制圧した仏軍は、翌年ボルドーBordeaux(六月一二日)、バイオンヌBayonne(八月一二日)を支配下に収めた。しかし、一四五二年一〇月にはイングランド軍が再びボルドーを奪回したため、翌年三月、シャルル七世がギエンヌ遠征を敢行した。カスティヨンCastillonの戦い(七月一七日)で勝利を収めた仏軍は、一〇月一九日、再びボルドーを解放し、 一一〇年以上にわたって繰り広げられてきた百年戦争が終結した。その結果、ヨーロッパ大陸に残されたイングランド領はカレーのみとなり、イングランド王国はしばらくの間、島国として発展することになる。時のイングランド王ヘンリ六世の母キャサリン・オブ・ヴァロワCatherine of Valois(カトリーヌ・ド・フランスCatherine de France)には王位継承権がなく、彼は《Nemo plus juris ad alium transferre potest quam ipse habet》(自分が持っていない権利を相続させることは出来ない)というフランク族以来の『サリカ法典』Lex Salicaに従ってフランス王位を断念したと言われている。なお、イングランド軍のフランス出兵は16世紀前半まで繰り返されたが、その目的はフランスからの年金獲得にあった。
百年戦争を終結させたシャルル七世は、フランス王国のほぼ全域を王権の下に回復させた。彼は息子ルイとの確執に苦しみながらも、百年戦争で荒廃した国内の復興に励み、資本家ジャック・クールJacques Coeurによる財政整備(一四三六~五〇)、 官僚機構の整備、王国常備軍の創設などに精力的に取り組み、一四六一年七月二二日に逝去した。後を継いだルイ一一世Louis XI(慎重王、在位一四六一~八三)は、 ブルゴーニュ公シャルルCharles de Valois-Bourgogne(在位一四六七~七七)と対立し、一〇年間に及ぶブルゴーニュ戦争(一四七四~七七年)を展開した。この戦争は苦戦続きであったが、一四七六年にスイス傭兵(スイス盟約者団Alte Eidgenossenschaft)を雇ってからはグランソンGrandsonの戦い(三月二日)、モラMoratの戦い(六月二二日)と連続で勝利を収め、一四七七年一月、ブルゴーニュ公シャルルがロレーヌ公ルネ二世Rene II(在位一四七三~一五〇八)に敗れて戦死した(ナンシー Nancyの戦い)ことで、ブルゴーニュ公領の多くがフランス王国に併合された。ただし、ネーデルラントとフランシュ・コンテFranche-Comtéはシャルルの娘マリーMarie de Bourgougneが相続し、彼女が墺大公の子マクシミリアン(神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世Maximilian I、在位一四九三~一五一九)と結婚したために最終的にはハプスブルク家の所領になった。また、次の国王シャルル八世Charles VIII(温厚王、在位一四八三~九八)は、一四九一年アンヌ・ド・ブルターニュAnne de Bretagne(女公在位一四八八~一五一四)と結婚し、ブルターニュ公国を併合した(完全併合は一五三二年)。こうしてフランス国内の「領邦君主体制」は、ついに終焉の時を迎えたのである。註㉙
終節 フランス王国の強大化
一 王権の拡大と貴族=領主層の廷臣化
百年戦争が戦われた一四・一五世紀の西ヨーロッパでは、戦乱による農村の荒廃、黒死病の蔓延、飢饉の頻発などが原因で農村人口が激減し、耕作面積の縮小は生産総量の激減につながった。このような状況の下で、領主層は領主直営地からの収益や農民からの各種貢租収益が極度に低下したため、自己の所領内にいかに多くの耕作農民を確保するかが喫緊の課題となった。そこで彼等は、農民層に課してきた不自由貢租を減免し、人身的支配権を緩和するなどして譲歩せざるを得なかった(例えば、タイユ税tailleの定額化や人頭税・領外結婚税の廃止などがある)。農民支配の〈権力〉から〈権利〉への変質とも言える動きは、領主支配の物化(領主裁判権の低下や経済外的強制権の弱化)を招く。註㉚
また、中世中期に見られた地代の金納化・定額化に加えて、中世後期には戦争がもたらす財政悪化によって貨幣悪鋳(貨幣価値の低下)が繰り返され、結果的に領主層の実質収入の低下を引き起こした。そして、こうした変化は農村人口の激減下を生き抜いた農民に耕作面積の拡大という好機となって農民層の階層分化を促し、ラント制renteを生む。すなわち、富農層は自ら集積した保有地の一部を零細保有農や貧農に貸与して、その代償にラント(定期金)を徴収するようになったため、 下層農民は旧来の領主に納める地代(サンス)に加えて、富農に納入するラントも負うことになり、領主・富農・下層農民(保有農)という三者の所有権が重なり合うことになった。時には領主自身が農民保有地の上にラント権を設定する(上乗せサンスsur-cens)場合もあった。彼ら富農層は徐々に領主からの自立化を強め、一四八四年以降は身分制会議の構成員として王政にその意向を反映させてゆくことになる。
ところで、富農層や(農村部に土地を集積した)上層都市民によるラント権の設定は、領主が得ていた地代収入に対する蚕食を意味し、下層領主層の窮乏化の一因ともなった。領主層の中で騎士叙任式や武装のための費用を賄えなくなった者は、貴族・騎士身分から脱落するか、戦時には有給騎士として働くが平時には野武士(街道荒らし)や追剝団となるしかなかった。一方、中規模の世襲財産を有した貴族=領主層は王・諸侯から公職を得て自らの財産を確保し、大所領を有する有力家系の貴族=領主層は王・諸侯からそれ相応の官職を得て俸給を確保して所領支配の安堵を受けることが出来た。その結果、百年戦争が終結する一五世紀半ばを画期として王・諸侯のもとに新たな役人集団officiersが誕生し、貴族・上層都市民双方の出身者からなる〈名士〉notablesと呼ばれる社会集団が構成された。彼らは、役人として所領の管理、戦後の再建・復興を担うとともに、貧窮した騎士・小貴族から土地を購入するなどして支配階級の末端部分を形成していったのである。
こうした貴族=領主層の官職貴族化、廷臣化の動きは、国王への権力集中をもたらし、統治・官僚機構に変化が見られた。一二世紀に成立した国王顧問会議consiliumは一四世紀初めには大評議会grand conseilに発展し、フィリップ五世(在位一三一六~二二)期には新たに少人数で構成した枢密会議conseil priveも設置された。やがて一五世紀に入ると、大評議会の機能が国王専決裁判に限定されるようになり、立法・行政機能は基本的に枢密会議に帰属することになる。シャルル七世(在位一四二二~六一)期における国政に関する重要案件は後者によって担当された。こうして、王個人の意思から独立した〈国家としての意思〉を表明し、国家権力を行使する場が整備されていった。百年戦争が終結した一五世紀半ばにはレーン制的要素が決定的に後退し、ルイ一一世(在位一四六一~八三)期には大封臣(諸侯層)に対しても〈臣民〉としての服従が求められ、国内に住む全ての人間が一律に王国の臣民となったのである。フランスの一四・一五世紀は内乱・内戦の連続で、百年戦争終結後も公益同盟戦争(一四六四~六五)や道化戦争(一四八五)などが勃発している。これら一連の内乱・内戦はいずれも王族諸侯と大諸侯が連携して王権に反旗を翻す形であり、個々の局面においては諸侯が王権に優越し、独自の行政・徴税組織を整備して〈王国中の王国〉の様相を呈したこともある。しかし、彼等の目標は(王権の優位性を認めた上で)王国統治に参加し、王権を統制しつつ国家を実質的に支配・管理することにあった。すなわち、彼等もまた(貴族=領主層一般の同様に)王権への〈寄生的性格〉を有していたのである。一方、王権の側から見れば、王国統治に恒常的、組織的に関与させることによって貴族=領主層を取り込む必要があった。
二 国王裁判権の確立 ~領主裁判権・教会裁判権への侵蝕~
国王による公権力の集積は、基本的には貴族=領主層が持つ領主裁判権に対する侵蝕という形でなされた。ルイ九世治世の後半に始まる領主裁判権の蚕食は、(1)王と国家の利害に直結する訴訟は国王法廷に帰属するという「国王専決事犯」cas royauxが設定されたこと、(2)裁判結果が不適切と思われる場合、 あるいは不服の場合は上級法廷(最終的には国王法廷)が再審理する権限を持つという原則を確立し、国王裁判への上訴(アペルappel)が活発化したこと、(3)公的秩序を脅かしかねない刑事犯罪に対する領主裁判の遅滞・懈怠が生じた場合には、国王法廷が優先的に裁くことが出来るとする裁判先取システムpreventionを導入したことなどによって進行した。これらは王の持つ至上権、公的平和の維持権、立法権が前提となっており、フィリップ三世期に始まる三審級制(プレヴォ法廷→バイイ法廷→パルルマンparlement)が重要な支えとなった。
一方、王権による教会裁判権の侵蝕は、開始時期こそ少し遅れてフィリップ四世期となったが、基本的には領主裁判権に対する方法と同じように進行した。すなわち、王権が裁判権を拡大させる根拠を、王が持つ「公的秩序維持の責任」に置いたのである。具体的には、教会の権力濫用に対する検閲・制裁を通して司教の管轄下にあった宗教判事職officialite の権限を縮減し、それを王の裁判官の統制下に置こうとした。とりわけ封建的保有地や恩貸地beneficeの所有に関するもめ事については、公的秩序の危機、王が有する教会保護権tuitioを根拠に国王法廷が優先的に裁くようになった。
そして、王権による教会裁判への統制強化は、ガリカニスムGallicanisme(国家教会主義)につながる動きでもあった。これは教会を国家の枠内で捉え、王権の支配下に従属させるものであり、その理念は一三世紀以降の神学・教会法研究と教会統治の実践を通して発展した。例えばパドヴァのマルシリオMarsilio da Padova(一二七〇頃~一三四三)やオッカムのウィリアムWilliam of Ockham(一三〇〇頃~四九頃)らは原理論を提供し、ジャン・ド・ジェルソンJean Gerson(一三六三~一四二九)、 ピエール・ダイイPierre d'Ailly(一三五〇~一四二〇)らパリの法学修士たちが発展させた。しかし、ガリカニスム推進の決定的画期となったのは、シャルル七世による「ブールジュの国事証書」Pragmatique sanction de Bourgesの発布(一四三八年)である。これはバーゼル公会議の教令のいくつかをフランス向けに公布、適用したものであるが、教会立法の源泉を自らの公会議と王権に求めようとするフランス教会勢力の意向を反映している。その内容は、(1)公会議決定の教皇に対する優位性(公会議主義)、(2)聖職禄取得指名に関する教皇庁権限の制限、(3)教皇による教会課税の廃止または軽減、(4)ローマ教皇庁裁判所への上訴の規制・制限である。その後、国事証書はルイ一一世期(一四六一~八三)に一時的に廃止されたが、一五世紀末までにはその主要骨子が定着している。なお、フランスで国王専決裁判が法的資格を得るのは一五世紀後半以降のことである。
三 常備軍の創設
仏王シャルル七世がパリ帰還を果たしたのは一四三七年秋のことであるが、三年後の一四四〇年二月にはプラグリーPraguerieの乱と呼ばれる内乱に見舞われている。反乱の首謀者はブルボン公シャルル一世Charles I duc de Bourbonを中心とする有力諸侯で、彼等は国王とその寵臣による国政運営に深刻な危機感を抱いていたのであった。何故なら、王領地から切り離されて独自の支配圏と統治組織を持つ「諸侯国家」État prinicierへと発展してきた彼等の〈国家〉が強大な王権の下に統合されようとしていたからである。仏王シャルル六世期まではブルボン公など血統親王prince du sangが王国行政を牛耳ってきたが、シャルル七世の治世となってからは従来の慣行が破られ、寵臣シャルル・ダンジューCharles d'Anjouのようにアンジュー家三男で未だ所領も持たない人物が国政を左右するようになっていた。特に一四九三年一一月二日に発布された「オルレアン勅令」(全四六条)Ordonnance d'Orléansが血統親王たちの怒りを爆発させることになる。この勅令は、(1)フランス王国内すべての人々に対して軍隊の召集を禁じ、(2)兵士の略奪行為を禁じて秩序回復に努め、(3)国王以外の者の課税を禁ずる内容であった。
オルレアン勅令発布に際して召集された全国三部会には、ブルボン公シャルル一世をはじめ、ルネ・ダンジューRene d'Anjou、シャルル・ダンジュー、マルシェ伯Marche、ウ伯Eu、ヴァンドーム伯Vendome以外に、多くの聖職者、貴族、都市民が参加している。そこで重大な案件として取り上げられたのは、一四三五年「アラスの和約」締結で働く場所を失った傭兵たちが野武士(街道荒らし)routiers・追剝団écourcheursと呼ばれる集団を組織して各地を荒らしていたことであった。その当時、リッシュモン伯はデュノワ伯、 ラ・イル、ザントライユ等の武将を使ってイングランド軍に対する反転攻勢をかけていたが、(配下のブルターニュ兵はともかく)諸将の多くは相変わらず傭兵隊長的性質が強く、略奪を欲しいままにしていた。これでは民衆からの支持を得られないだけでなく、中立を守っているブルゴーニュ公国との同盟関係をも危うくなりかねない。したがって、「オルレアン勅令」には流浪する戦闘集団を配下に収めることによって軍事力を伸ばしているブルボン公など血統親王の実力を削き、従属と納税の代わりに特権と庇護を受けようとする優良都市との関係をより一層緊密にする意図があったのである。
一方、ブルボン公が「オルレアン勅令」に反発した理由は、血統親王としての自負心を傷つけられたことや国王の寵臣たちへの反発以外に、アパナージュの問題があった。所謂〈ブルボン国家〉が独自性を強めるのは、一三六四年にブルボン公となったルイ二世Louis IIからである。一四〇〇年、彼は息子クレルモン伯ジャンJean、comte de Clermont(後のブルボン公ジャン一世)とベリー公ジャンJean, duc de Berryの娘マリーMarieとの結婚に際して、国王からアパナージュとしてオーヴェルニュ公領・モンパンシェ伯領を受け取る約束をしていたが結果的に無視され、一四二五年、ジャン一世の治世になってようやく譲渡されたという経緯があった(当時、ブルボン公ジャン一世はイングランド軍の捕虜となっていたため、実際は公妃マリー・ド・ベリーに譲渡した)。ブルボン公をはじめとする血統親族が反乱を決意するのは、一四四〇年二月一七日、ブルボン公、アランソン公、ヴァンドーム伯、オルレアン私生児ジャンJean, bâtard d'Orléans、ショーモン卿Chaumont、プリ卿Prie等が参加したブロワBlois会談においてであった。この会談の直後、アランソン公がニオールNiortにいた王太子ルイ(後のルイ一一世)を説得して味方に引き込んだが、反乱はわずか五カ月で鎮圧された。その結果、王太子とブルボン公はシャルル七世に謝罪して恭順を誓い、ブルボン公はコルベイユ、ボワ・ド・ヴァンセンヌ、サンセール、ロッシュ城の返還を約束した。一方、国王は反乱に参加した王太子や貴族たちに赦免を与え、すべての戦闘行為の停止とあらゆる略奪行為の禁止を命じた。
しかし、同年一二月にはアラスの和約をなかなか実行しない仏王シャルル七世に不満を抱いていたブルゴーニュ公フィリップが、ながい捕虜生活から解放されたばかりのオルレアン公シャルルと同盟関係を結んだ。翌年三月、プラグリーの乱に荷担したアランソン公やブルターニュ公がブルゴーニュ=オルレアン同盟との協調を表明し、四月にはブルボン公も参加した。一四四二年一月二九日、ヌヴェールで開かれた会談には、ブルゴーニュ公、プラグリーの乱に参加したヴァンドーム伯、反乱の途中で身を引いたデュノワ伯、仲裁役のウ伯が参加し、彼らは連名で国王に向けた抗議文書を提出した。しかし、彼等はまたしても国王の寵臣を排除することができず、改革の要求は国王によるブルボン公の年金増額(一万四四〇〇フラン)、未払い年金九〇〇〇フランの支払いなどで骨抜きとされてしまった。
しかし、ここにきてプラグリーの乱以降滞っていた軍制改革の動きが見られるようになり、一四四三年から翌年にかけて「勅令隊」創設の構想が生まれ、隊長職候補としてはブルボン公、ブラン・ルーBlain Loup、 アントワーヌ・ド・シャバンヌAntoine de Chabannes、ジャン・ド・ブランシュフォールJean de Blanchefortという四人のブルボン派閥出身者が含まれていた。一四四三年八月、シャルル七世はスイス諸州の反乱に窮していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世Friedrich III(在位一四五二~九三)から援軍要請が届いていたが、翌年三月、トゥールにおけるイングランド軍との休戦条約締結の直後、王太子に命じてスイス遠征に向かわせた。その軍勢にはプラグリーの乱でブルボン公軍の中核として活躍したジャン・ダブシェJean d'Apchier、フランソワ・ダブシェFrançois d'Apchier、ジャン・ド・ブランシュフォール、グティエ・ド・ブルザックGautier de Brusac、ブラン・ルー、そしてブルボン公の二人の息子ピエール・ド・ボージューPierre de Beaujouとクレルモン伯も参加しており、要するに対外遠征を「野武士団」など王国内で跋扈していた戦闘集団を束ねることができる実力者の軍隊を国王軍に編入するために利用したのである。その間、シャルル七世自身はシャルル・ダンジュー等の側近を連れてアルザス・ロレーヌ地方へと向かい、神聖ローマ帝国との境界線における紛争を鎮めている。
二つの遠征後の一四四五年三月、シャルル七世はロレーヌ地方のナンシーNancyで発した「軍事改革に関する勅令」と「ルーピ=ル=シャテル勅令」Ordonnance de Louppy-le-Châtel によって「勅令隊」編制に乗り出す。すなわち、アルザス・ロレーヌ遠征に参加した部隊を再編成し、隊長一五人の下に選抜された優秀な槍兵一五〇〇名を配置することによって、フランス国王直属の軍隊を誕生させたのである。兵士たちは、俸給が受け取る代わりに常に軍事行動をとる準備が求められた。そして勅令隊長職に就任したブルボン公の代行官がジャック・ド・シャバンヌであり、ブラン・ルーやジャン・ダブシェが他の勅令隊長の代行官や分遣隊長職に就いている事実から明らかなことは、反国王勢力を構成していた有力諸侯がことごとく国王権力に包摂されたということである。この勅令隊創設はやがて「常備軍」編制につながっていく。
ここで改めてフランス王国における軍制の変化を振り返ってみると、一四世紀前半(フィリップ六世期、 一三二八~五〇)までは封建的軍隊としての性格が濃厚であったが、 ジャン二世からシャルル六世期(一三五〇~一四二二)に国王軍隊compagnieが形成され、シャルル七世からルイ一一世期(一四二二~八三)になって常備軍へ移行するという、三段階に分けられる(ただし、一四世紀初めには小貴族層の有給騎士soldats化が見られた)。これは百年戦争の勃発と相次ぐ敗北で軍隊の概念と組織の大幅な変容を余儀なくされ、一三五〇年頃には〈王の代理官の指揮の下で有給兵士が戦う〉本格的な国王軍隊を編制する必要が出ていたためである。その後、シャルル七世の勅令(一四四五年)によって勅令隊編制が明確に規定され、 同時に有給の騎馬隊による予備軍や一般人民の歩兵隊も創設された。また、ルイ一一世期には四軍管区が設定され、騎馬隊と歩兵隊が常備軍化している。このように、国王は公的秩序の最終責任主体として軍事力を確保する必要に迫られ、結果的に軍隊の「常備軍」化が推進されるとともに、それを支える財源確保が急務となったのである。
四 都市的新興貴族層の出現
中世後期における王権の拡大・強化は、都市や都市民との連携強化を抜きにしては語れないが、その背景には商品貨幣経済の発展に伴う商人・手工業者の台頭があった。例えばガンの上層商人ジャック・ファン・アルテフェルデJacques van Arteveldeが主導した反乱(一三三八年)がフランドル支配をめぐる英仏関係を大きく左右したこと、有名なパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの政治改革運動(一三五八年)が王位をめぐる王太子シャルル(五世)とナヴァール王シャルルの抗争と結びついて展開したこと、一五世紀初頭のアルマニャック派とブルゴーニュ派の抗争がパリの有力商人層の動向と大きく関係していたことを想起して欲しい。とりわけ重要なのは上層都市民(ブルジョワジー)の動向である。彼らの特徴は〈都市的新興貴族層〉としてしなやかに封建的秩序や貴族支配体制に参入し、王権と結びついて官職を得、「法服貴族」として国家機構の中に独自の位置を占めたことに求められる。シャルル七世期の富裕商人ジャック・クールはその典型で、経済力を背景にして戦費調達に貢献するとともに、財務官としては王権が聖俗諸侯層を押さえ込むことに貢献した。
ところで最初の全国三部会とされる一三〇二年王国集会に召集された都市代表団は、当該都市に賦与された特権から〈王の封臣〉と同様の立場にあると見なされた。この種の都市が所謂「優良都市」bonne villeで、王の権威に従属しつつその保護の下に置かれ、通貨政策、造幣、防衛・外交政策の策定、公益と公正のための裁判権行使などあらゆる面で、王としての職務執行の際の重要な協力者であった。一方、王権による都市への統制はルイ九世期以降に顕著となり、度量衡、職業選択、司法、財政など広範に行われるようになった。とりわけ都市財政への介入は、課税や援助金要求と結びついて顕著であった。その背景には国家機構の整備に伴う経費増大があるが、国王課税の実現という新たな事態に利益の芽を見いだしたのも新興貴族層であった。彼らは国家の重要役職に補任されて社会的地位と利益を得、人的ネットワークの構築をすることが出来たのである。こうした国王課税の重圧は都市財政の危機を招き、都市の貧民層を生み出しただけでなく、国王役人や新興貴族層に対する反乱を招くことになる。註㉛
註① H・ブルンナーHeinrich Brunner (一八四〇~一九一五)著『ドイツ法制史(die Bearbeitungen der deutschen Rechtsgeschichte』(全二巻、1887~92)は、中世の支配階級内部で相互に結ばれる主従関係(レーン制)Lehnswesenを中核とする政治・権力構造を明確にした著書として知られる。また、 H・ミッタイスHeinrich Mitteisは『レーン法と国家権力(Lehenrecht und Staatsgewalt)』(1933)、『中世盛期の国家(Der Staat des hohen Mittelalters)』(1940)はレーン制に関する機能論を展開し、邦訳としては世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』(Deutsche Rechtsgeschichte, ein Studienbuch, neubearbeitet von Heinz Lieberich, 11, erganzte Auflage, Munchen、1 969.が詳しい。我が国ではH・ミッタイスの理論を具体化させる形で堀米庸三氏・世良晃志郎氏らが議論を展開してきた。渡辺節夫著『フランスの中世社会』六八~七七頁、ハンス・K・シュルツ著『西欧中世史事典』三九~七六頁各参照。
註② レガリアregaliaとは、王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王であると認めさせる象徴となる物品のことで、王冠・王笏・宝珠の3種が知られる。
註③渡辺節夫前掲書六八~七七頁参照
註④渡辺節夫前掲書七八~八三頁参照。イングランド王の所領であった西南フランスは、アキテーヌAquitaine、ギエンヌGuienne、ガスコーニュGascogneという三つの名称で呼ばれるが、アキテーヌとは古代ローマ時代のアクィタニアAquitaniaに由来し、北はポワトゥー、東はオーヴェルニュまでの非常に広い範囲を指し、専ら英国側が使用した語である。またギエンヌは専らフランス側で使用された語で、 元来はアキテーヌと同義であったが、一三世紀以降はドルドーニュ川やガロンヌ川の流域を中心とする(ポワトゥーを除く)アキテーヌ北西部を指す。なお、ガスコーニュはビスケー湾岸のアキテーヌ西南部のことである。
註⑤ フランス王国におけるアパナージュ制は近世以降も存続し、フランス革命期の一七九二年になって廃止された。その後、ナポレオン一世やルイ一八世期に復活し、一八三〇年にオルレアン家のアパナージュが王領に復帰するまで続いた。
註⑥ 「国王会議」curia regisは公的な政策決定と執行を行う宮廷cour, curiaへと発展した。王邸(王の私的な家政機構)hotel, aulaや王宮(王の居所)palais, palatiumとは区別される。
註⑦ 一五世紀にはトゥールーズ、グルノーブル、ディジョン、ボルドー等に高等法院が設置され、グルノーブ
ル、ディジョン、アンジェ等には会計検査院が設けられた。
註⑧ 一四世紀にはいると、先任の退官者が一定額の報酬を受け取る代わりに後任候補者を王に推薦する売官制度が始められた。
註⑨ 全国三部会は、一三〇二年、フィリップ四世がパリのノートルダム大聖堂に召集したのが最初で、その後も身分制議会として召集され続け、王が徴税するときは関係者の同意を必要とするという「ローマ法の原則」が定着した。また、地方三部会は一四世紀の北フランスで発達し、南部や西部の辺境地帯ではクリアcuriaが地方三部会に発展した。
註⑩ フランス南部に成立したコンシュラ都市は、市政官コンシュルの団体(コンシュラconsulat)によって運営された。コンシュラは、市民のほか聖職者や都市領主も参加し、賦与された「コンシュラ証書」によって特権を享受した。
註⑪ 一三世紀後半、国王は「諸職の所有者」と見なされるようになり、都市の親方職位を得るためには国王役
人への献金が必要となった。また、頻繁に高利貸禁止の勅令が出された(一二三〇年・一二四三年・一二五四年・一二六三年)。
註⑫ 西欧中世社会における貨幣の基本単位(リブラlibra・ソリドゥスsolidus・デナリウスdenarius)が最初に定められたのは、七九四年、シャルルマーニュの勅令による。その後、ポスト・カロリング期の混乱によって、従来の統一貨幣に代わるアンジュー貨・プロヴァン貨・トゥール貨など地域ごとの貨幣が現れた。所謂「パリ貨」parisisが普及するのはルイ六世期で、カペー王権の強大化とともにフランス各地に浸透した。各通貨の交換比率は、1 libra=20 solidus=240 denarius(1 soridus=12 denarius)であったが、ルイ九9世期にパリ貨とトゥール貨の交換比が5 livres tournois=4 livres parisisと定められた。
註⑬ 渡辺節夫「中世の社会 封建制と領主制」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史1』所収第六論文二六九~三二六頁)・前掲書八~一一五頁参照
註⑭ 封建主君の家臣は、封建法廷における決定に不満であった場合、封建主君に上訴して再び争うことがある。封建宗主が有するこのような裁判権を上訴管轄権という。
註⑮ 臣従礼hommage, homageは、託身儀礼と忠誠宣誓からなる。託身儀礼は、まず家臣になることを望む者が無帽かつ無防備で主君と仰ぐ人の前に進み出て申し入れ、両者の合意が成立した時、主君となる者は按手礼で双務的契約関係に入ったことを示す。次の忠誠誓約では、家臣が聖書または聖遺物に左手を置き、右手を挙げてすべての人に対して主君を守り、忠誠を尽くすことを誓う。その後、主君から家臣に対する領地授封の儀式として、授封証書の授与や、武力によって本領安堵することを示す剣の授与、あるいは一本の草もしくは樹木の小枝を渡す儀式が行われた。また、臣従礼には単純臣従礼hommage simpleと一身専属的臣従礼hommage ligeとがあり、前者は主君に対する家臣の物的奉仕の義務だけが生じるが、後者は一身専属的家臣homo liguisとして主君に軍役奉仕の義務を負うことになる。城戸毅『百年戦争』註第一章一・一(3)参照
註⑯ イングランド軍の長弓隊が長さ四六フィート(一・二~一・八メートル)ほどで、一分間に六回程度連射できるロングボウLongbowを使用したのに対して、漢字文化圏では「弩」と呼ばれる射出武器とほぼ同一の構造と機能を持つ仏軍のクロスボウcrossbowは矢を込めるのに時間がかかるのが難点であった。
註⑰ 各種貨幣の交換比率は、一リーブルLivre=二〇スーSou(ソルSol)=八〇リアールLiards=二四〇デニエDenier。エキュecuは「盾」という意味で、紋章の盾がデザインされていることに由来する。最初のエキュは、ルイ九世時代の一二六六年に発行された金貨で、後には銀貨も発行された。金貨をエキュ・ドールecu d'or(ルイ金貨Louis D'or、六・五~八・二グラム)、銀貨をエキュ・ダルジャンecu d'argent(二五~三五グラム)
と呼ぶ。
註⑱ 黒死病(腺ペスト)は、一三四七年末、中東からイタリア商船によって運ばれてマルセイユに上陸し、ヨーロッパ全体に伝染した急性伝染病で、死亡率は中等度のもので七五%、悪質な場合は一〇〇%に近い。黒死病の名は死ぬ前に皮膚がしばしば黒色、紫色などのチアノーゼ症状を示すことに由来するが、元々は鼠類の病気だった。ペストにかかった鼠類の蚤が人間にとりついだ時、人間の病気に転化する。人間から人間への流行を媒介するのも蚤である。首や腋の下、下肢の付け根のリンパ腺を腫らして高熱で意識不明となった。中世都市では木造家屋が密集し、鼠類と蚤の巣窟だったところに、かつてのヨーロッパの悲劇がある。フランスでは一世紀半で人口の三〇 ~五〇%が死亡したと言われる。「靴屋の守護聖者サン・クレパンの祝日に靴製造人たちが仲間の死者を数えたら、最少一八〇〇の親方と徒弟が死んでいることが分かった。墓場の穴掘り役を務めた施療院の男たちは、マリア降誕日から無原罪の懐妊の祝日までの期間に(一四一八年九月八日から一二月八日まで)、一〇万人のパリ市民の死体を埋葬したと証言している。」(『パリ一市民の日記』)。鯖田豊之『歴史の焦点・ヨーロッパ中世と四大疫病』参照
註⑲ 城戸毅前掲書一三~八四頁、堀越孝一「百年戦争時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史1』所収第五論文二二三~二二九頁)各参照
註⑳ オルレアン公ルイの親王領は、パリ南方のオルレアン地方Orleansを中核としていたが、後にはアングーモワAngoumois、ペリゴールPerigord 、ブロワBlois、デュノワDunoisが追加された(オルレアン公一三九二~一四〇七、ヴァロワ伯、トゥーレーヌ公一三八六~九二、ブロワ伯一三九七~一四〇七、 アングレーム伯一四〇四~〇七、ペリゴール伯、ドルー伯、ソワソン伯)。
註㉑ ランカスター家は、エドワード三世の四男ジョン・オブ・ゴーントに始まるアンジュー王家の分家の一つ
であるが、ヘンリ三世の次男エドマンド・クラウチバックEdmund Crouchbackの長男トマスThomas はエドワード二世と対立して所領を没収されたうえ刑死した。しかし、トマスの弟ヘンリHenryの息子ヘンリ・オブ・グロスモントHenry of Grosmontが百年戦争で活躍し、一三五一年に再びランカスター公の称号を得た。ヘンリには息子がいなかったが、娘ブランシュBlanche がジョン・オブ・ゴーントと結婚し、ジョンがランカスター公となった。一方、一三八五年にはジョン・オブ・ゴーントの弟エドマンド・オブ・ラングリーがヨーク公の称号を得てヨーク家を起こし、ランカスター家に対抗する勢力となった。
註㉒ 城戸毅前掲書八五~一一二頁、堀越孝一前掲論文二二九~二四八頁各参照
註㉓ イングランド王国によるノルマンディ占領統治の詳細は、城戸毅前掲書一二一~二一〇頁参照
註㉔ ブラバントBrabantは現在のオランダとベルギーに跨る地域名で、エノーHainautはフランドルの東南に隣接する現在のベルギー西南部の地域である。また、ゼーラントZeelandはフランドルの東北に連なる現在のオランダの一部で、ホラントHollandはゼーラントの東北部にある地域である。
註㉕ 鎧の中心部である胸甲と背甲は、上半身の動きを可能とするために四個の部品の組み合わせからなり、 胸甲下部には二枚の直垂が付けられて鎖帷子で作られたスカート状のもので補った。脚部には小鉄板を組み合わせた腿当て、すね当てがあり、脚部先端は先の尖った靴で保護された。甲冑全体の重量は一八~二〇キロくらいで、鎧の下には胴着(刺し子の布)を着用した。ジャンヌ・ダルクの甲冑を作ったのはジラ・ド・モンバゾンという職人で、価格はトゥール貨幣一〇〇リーヴル。彼女の甲冑は士官用の立派なものではなく、下から二番目のランクという有り合わせのものであったが、白く輝く武具や白馬はもとより、軍旗や三角旗には聖母やキリストの名、天使、王家の百合などが縫い取られたという。
註㉖ Regine Pernoud, La Liberation d'Orleans, 1969.レジーヌ・ペルヌー著『オルレアンの解放』(高山一彦編訳)七~二三三頁、Edith Ennen, Frauen im Mittelalter.エーディト・エンネン著『西洋中世の女たち』(阿部謹也・泉眞樹子共訳)三九三~三九九頁、Andrea Hopkins, Most Wise and Valiant Ladies:Remarkable Lives of the Middle Age. 森本英夫監修 浅香佳子・小原平・傳田久仁子・熊谷知実訳『中世を生きる女性たち』一九~七三頁、三浦一郎著『世界史の中の女性たち』三九~四六頁各参照
註㉗ 城戸毅前掲書一一三~二一〇頁、高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』、レジーヌ・ペルヌー著『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(高山一彦訳)、竹下節子著『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活』各参照。
なお、一八九二年、教皇レオ一三世はジャンヌの徳性を認めて「尊者」の列に加えた。また一九〇九年、教皇ピウス一〇世は列福Beatificatioにより「福者」Beatoに、一九二〇年教皇ベネディクト一五世は列聖anonizatioにより「聖人」Saintの地位に上げている。一九二二年、教皇ピウス一一世Pius PP. XIはジャンヌ・ダルクを聖母マリアに次ぐフランス第二の「守護聖女」と宣言した。
註㉘ 火砲は中国の曾公亮編者『武経総要』(北宋)にも見られ、一〇~一一世紀には既に火薬系兵器が出現していたと考えられているが、一二二一年に殺傷用の火砲が造られ、大砲は一四世紀のドイツで発明されたと言われている。一四二三年以前につくられたモン・サン・ミシェルMont Saint-Michelの「ミクレット」(火砲)二門は、それぞれ長さが三・五三メートル、三・六四メートル、 口径は三六センチメートル、四八センチメートル、重量は七五キログラム、一五〇キログラムで、重さ四~一二リーヴルの石の砲弾を使用していた。また一四二九年のオルレアン攻防戦で王太子側が使用した武器には、重さ一二〇リーヴル(約六〇キログラム)の弾丸を発射する重砲や、モンタルジス、リファールなどと呼ばれたカノン砲以外に、軽量の携帯用武器(後の火縄銃、カービン銃)などがあった。
註㉙ 城戸毅前掲書二一一~二八八頁参照
註㉚ シャルル五世期の全国三部会(一三五五年、一三五九年)の決定に基づいて国王の徴税役人eluと徴税管区electionが創設され、全国的な徴税機構が確立した。管区数は当初約三〇管区であったが、シャルル七世期には七五管区まで増加している。各管区の中心都市に二~三人の徴税役人が配置され、間接税に関する徴税請負の入札、租税関係の紛争の裁定がなされた。当時の直接税の中心は戸口税(フアージュfouage)とタイユ税tailleであるが、両税はほぼ同一の税とみて良い。タイユ税は防衛・軍事的活動を支えるための領主的課税を継承した税で、分割割当てに特徴があったが、一三四〇年代以降は世帯を担税単位とする戸口税に取って代わられた。当初は戦費調達のための臨時的課税として全国三部会の協賛が必要であったが、一五世紀には恒常的国王課税となり、絶対王政期には王室財源の重要な租税に発達していった。軍事税の名目をもつため聖職者・貴族は同税の負担を免除されていた(官職保有者も免除)が、教会(聖職者)には聖職者十分の一税decimeが課せられた。これは既に一一四六年、第二回十字軍に際して課せられており、第四回ラテラノ公会議(一二一五年)において教皇の承認が必要とされた。彼等は聖職禄から諸経費を除いた純収益の一〇%が徴収された。
一方、間接税には援助税(エードaides)・取引税(トレートtraite)・塩税(ガベルgabelle)があり、いずれも領主的課税を継承したものであった。国王課税としての援助税は一三五五年の勅令に始まり、一時中断した後、一四三六年以降は間断なく徴収された。課税対象品目は飲料・小麦粉・家畜・建築資材など広範囲に及び、やがて特定商品の取引と流通に限定されるようになる。税率は商品価格の三〇分の一程度であった。また取引税は一三〇四年の勅令に始まる商品輸送にかかる税で、対象物資は極めて広範囲に及び、一定領域からの商品流出を防止する目的があった。特に援助税が普及しなかった南仏では、その代替として重視された。そして塩の売却と消費に対する塩税は、当初は穀物・油・葡萄酒も対象としていたが、やがて塩に限定されるようになる。その背景には対イングランド戦争による塩供給の逼迫があり、ルイ一〇世時代に行われた取引・分配への統制(一三一五年)にまで遡ることができる。これに税収目的が加わるのはフィリップ六世の勅令(一三三一年、一三四一年、一三四三年)以降で、ラングドイル三部会Langue d'oi:l(一三五五年)により北部全域に、そしてラングドック三部会Languedoc(一三六九年)によって南仏各地に塩税の適用が承認された。一三六六年、シャルル五世の勅令により、塩はすべて商人の手で塩倉grenierに集積させ、徴税役人grenetiersが売却し、販売価格の一定割合を王の取り分(税)として天引きする方式が確立した。税率は一三六〇年に二五%と固定されたが、一四世紀末になって五五%まで跳ね上がっている。またジャン二世は、諸侯支配領域については課税対象から除外している。渡辺節夫前掲書二一一~二一三頁参照。
註㉛ 渡辺節夫前掲書二〇四~二二三頁参照
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