ブルボン復古王政と七月革命
一 ブルボン復古王政と新しい革命の波
フランス革命勃発からの約一〇〇年間、フランスの政体は繰り返し発生する革命や戦争の影響を受けて激しく変化した。とりわけ、ナポレオン戦争後はブルボン復古王朝(一八一四~一五、一五~三〇年)、七月革命による七月王政(一八三〇~四八年)、二月革命による第二共和政(一八四八~五二年)、ルイ・ナポレオン大統領Charles Louis-Napoléon Bonaparteのクーデターで誕生した第二帝政(一八五二~七〇年)、普仏戦争敗北に伴う第三共和政(一八七〇~一九四〇年)と目まぐるしく交替している。こうした変化を突き動かしたものは何だったのか。ここでは、ブルボン復古王朝から二月革命までの政治・経済の動向や民衆の暮らし向きに注目しながら、フランス政体の変化を辿りたい。
さて一八一四年五月三日、ルイ一八世Louis XVIII(在位一八一四~一五、一五~二四)は亡命先のイギリスから戻り、革命で倒れたブルボン朝を復活させた。これはナポレオン一世によるヨーロッパ制覇を阻止したタレーランCharles-Maurice de Talleyrand- Périgordの功績が大きく、彼は一三日に新政府を樹立し、三〇日には国境線を一七九二年時点まで戻すことで対仏大同盟諸国と合意させて第一次パリ講和条約を締結した。しかし、四月六日に起草されていた憲法草案(元老院憲法)は国王の拒否で頓挫し、六月四日、ルイ一八世は改めて作成された「一八一四年憲章」Charte constitutionnelle de 1814を公布している。
新しい憲章(シャルト)体制下における政治の特徴は、第一に反革命の姿勢である。確かに憲章は「信仰の自由」を認め、ルイ一八世自身も国民的和解の姿勢を見せようとしたが、現実的にはローマ=カトリック教を国教とし、王権神授説を国王権力の正統性原理としていた。また、日曜休日の義務化や「聖体の祝日」Corpus Christiの行列が通る際には飾り付けを命じる勅令のほか、九月一三日の議会では未売却国有財産(とくに森林)を元の所有者へ返還するよう命じた決議をさせており、これらはいずれも革命を否定する反動的なものであった。また、翌一五年一月二一日にはマドレーヌ墓地から掘り起こしたルイ一六世とその妃マリ・アントワネットの遺骸をサン・ドニ大聖堂に移葬する「贖罪の儀式」が執り行われている。その結果、復古王政は強大な国王大権と相対的脆弱性を帯びた議会の併存という特徴を持つことになる。すなわち、神聖不可侵の存在である国王は緊急大権を持つと同時に、国家元首として行政権のほか司法権、軍隊統帥権、宣戦・講和・条約締結の諸権利、官吏任命権、法律の発議・裁可・公布を行う権利、議会の解散・停会権などを有したのである。一方、議会は王族と、国王が貴族・高級官吏・軍人等から随意に任命する世襲議員とによって構成される貴族院(上院Chambre des Pairs)と、国民の中から議員を選出する代議院(下院Chambre des Députés)の二院制議会となった。議会の主要な権限は毎年予算案に投票する権限以外に、法律案の審議権とその発議を王に請願する権利、課税協賛権、国王への上奏権、刑事事件に関して大臣を弾劾する権利などが付与されていた。
第二の特徴は、貴族やブルジョワに有利な制限選挙が行われ、国政には一般民衆の声が全く届かなかった点にある。一四年憲章には三〇〇フラン以上の直接税納税者で三〇歳以上の男性にのみ代議院議員の選挙権を、また一〇〇〇フラン以上の納税者で四〇歳以上の男性にのみ被選挙権を付与し(第三八条・第四〇条)、被選挙権者が県内で五〇名に満たない場合は一〇〇〇フラン以下の納税者の中から高額納税者を被選挙権者としてほじゅうした(第三九条)。しかも皮肉なことに、課税対象に応じて課税率が異なる当時の租税制度が不公平な選挙の後押しをしていた。すなわち、直接税の中核をなす地租が商工業に対する営業税よりも遙かに高率だったために、選挙では大土地所有者に有利に働いたのである。因みに被選挙人数は当初一・六万人程度だったが、選挙人数が一一万人(一八一七年)、一〇・五万人(二〇年)、九・九万人(二四年)、八・九万人(二七年)と漸減しているのは大土地所有者に対する減税が行われたからである。なお、一八一五年七月一三日、代議院議員を選出する選挙会les coliéges électorauxを召集するために勅令(オルドナンスordonnance)が公布され、郡選挙会(アロンディスマン選挙会coliéges d'arrondissement)と県選挙会(デパルトマン選挙会coliéges departement)による一種の二段階選挙制を採用した。前者の選挙人資格は満二一歳以上という年齢制限しかなかったが、後者のそれは満二一歳以上の高額納税者から選出され(第八条)、議員資格は満二五歳以上で一〇〇〇フラン以上の高額納税者に限定されていた(第一〇条・第一三条)。また、選挙方法は各郡選挙会が県の議員数と同数の候補者を選出し、県選挙会は少なくとも議員の半数はこの候補者リストの中から選出しなければならなかった(第五条・第七条)。したがって、実質的な選挙権は県選挙会を構成していた高額納税者の手に握られていたのである。。
また第三の特徴は、代議院議員として国政を左右する力を持ったのは大土地所有者とりわけ旧貴族だったという点に求められる。一八一四年憲章によれば「旧貴族はその爵位を回復し、新貴族はそれを保持する。王は随時に貴族をつくりうるが、しかし彼らに対して地位と名誉しか与えず、貴族は社会の負担と義務をまぬかれることはできない」(第七一条)とあり、この時期の貴族には、アンシャン・レジーム期の旧貴族、第一帝政期の帝政貴族、王政復古期に国王が創設した新貴族の三種類があったことが分かる。そして、爵位を世襲するためには〈貴族財産〉(貴族の称号とともに長男に渡される世襲財産)の設定が必要であるのは従前と変わりなく、侯爵・伯爵などの爵位は財産の多寡に応じて位階がつけられていた。しかし、革命以前の貴族と全く違うのは、もはや封建的・身分的特権が認められないということである。彼らは所有する土地の経営を借地農経営者に委ねる〈近代地主〉と、中・小の定額小作農や分益小作農に所有地を分割して貸し付ける〈寄生地主〉とに分かれていたが、後者のタイプが多かった。したがって、代議院議員として当選する貴族の多くは寄生地主であった。なお、一八一六年初め時点の代議院議員三八一名の内訳を見ると、旧貴族(反革命亡命者七三名を含む)が一七六名(四六%)、帝政貴族八名、ブルジョワ一九七名(五二%)となっている。
同年九月一日以降、外相に復帰したタレーランは全権大使としてウィーン会議(一八一四~一五年)に出席している。シェーンブルン宮殿を中心に開催されたこの講和会議は、ホスト国家オーストリアのメッテルニヒ外相が主導し、フランス革命やナポレオン戦争に伴うヨーロッパ全域の混乱を収束させようとした。会議には戦勝国から露帝アレクサンドル一世、プロイセン王国のハルデンベルク首相、ヴィルヘルム・フンボルト(ベルリン大学創設者)、イギリスのウェリントン公アーサー・ウェルズリー(後の首相)、外相カッスルレーなどが参加した。タレーランは「主権は軍事的征服によって得られるものではなく、正統な主権者が自発的に譲渡しない限り征服者に移譲されることはない」とする「正統主義」legitimismを提案し、フランス革命以前の各国王朝・君主を正統な主権者とみなす復古主義に大きな影響を与えた。しかし、その時すでに重要事項は英墺両国を中心に決定されており、フランスに有利な成果を引き出すには至らなかったと言われている。列国の利害が錯綜してなかなか結論を出せず、「会議は踊る、されど会議は進まず」Le Congrès ne marche pas, il danse.(ド・リーニュ侯)の状態が続いていた一八一五年二月、ナポレオン一世が流刑地エルバ島から脱出したという報せが届き、会議は大混乱に陥った。ナポレオン一世が最終的に敗れ去るワーテルローの戦いの九日前(六月九日)になってようやく、「ウィーン議定書」Vienna Protocolが締約され、フランス、スペイン(フェルナンド七世)、両シチリア王国(シチリア王フェルディナンド三世=ナポリ王フェルディナンド四世)ではともにブルボン朝が復活した。また同年、露帝アレクサンドル一世の提唱で成立した神聖同盟はイギリス、ローマ教皇領、オスマン帝国の参加拒否で十分に機能しなかったが、同じく一五年に結成された四国同盟(英普墺露)が自由主義や国民主義に基づく動きを封じ込める「ウィーン体制」の中核となっていく。
ナポレオン一世の「百日天下」が潰えた一八一五年七月三日、フランスでは元警察大臣フーシェJoseph Fouchéを首班とする臨時政府が休戦協定を締結し、八日にはルイ一八世が再びパリに帰還して第二次王政復古がなされた。そして翌九日に成立したタレーランを首班とする新政府は、アンシャン・レジーム(旧制度)下の絶対王政や山岳派による革命独裁、第一帝政の軍事独裁とは大きく異なる「立憲王政」を目指した。ところが、フランス革命期の「封建的特権廃止宣言」で深刻な打撃を被ったフランス西部や南部の中小貴族や聖職者の間ではアルトワ伯(ルイ一八世の弟)comtes d'ArtoisやヴィレールVillèle、シャトーブリアン Chateaubriand、モンモランシーMonmorency、ポリニャックPolignac等を中心とする「過激王党派」(ユルトラultra-royalistes)の支持者が急増していた。ユルトラは「フランスとナヴァールの王は『サリカ法典』Lex Salicaの単純適用によってのみ選ばれるべきだ」とする正統王朝主義(レジティミスムLégitimisme)の信奉者で〈王よりも王党的〉とも言われた。また彼らはシャルト体制の根幹をなす一四年憲章を旧制度と革命という二つの伝統の〈妥協の産物〉とみなして拒絶し、貴族としての身分的特権や政治的役割を保障する王国の再建を目指していた。こうして八月に入って復古王政における最初に実施された総選挙では、ユルトラが総議席数四〇二のうち三五〇議席を占める圧倒的勝利を収めることになった(「またと見出しがたい議会」la Chambre introuvable)。一方、ユルトラの台頭に反発した貴族やブルジョワたちは一八一五~一六年頃、「立憲王党派」royalistes constitutionnelsを結成している。この政治グループは歴史家ギゾーFrançois Pierre Guillaume Guizotやロワイエ=コラールRoyer-Collard等の「純理派」(ドクトリネールdoctrinaires)が中心となり、絶対王政や国民主権を否定してシャルト体制を擁護するという特徴を持っていた。
同年九月二六日、勢いづいたユルトラはタレーラン政権を退陣に追い込んだ。しかし、一一月二〇日に締結した第二次パリ講和条約は、ベルギー方面やライン川沿いの領土を失うなどフランスにとって厳しい内容であった。また国内ではユルトラの台頭という反動的気運の中で南部を中心に〈白色テロル〉が横行し、カトリック教徒によるプロテスタント虐殺などが頻発して混乱が広がった。ユルトラ主導の代議院では次の会期まで個人の自由を停止し、死刑や王室に対する不敬罪を追加した「言論出版法」を制定し、「臨時即決裁判所設置に関する法律」の制定(一二月二七日)を受けてボナパルト派や共和主義者に対する徹底した追及を行った。フランス全土では約七万人が逮捕され、臨時即決裁判所において約二〇〇〇件が処理され、約九〇〇〇人が政治犯として処罰された。ナポレオン軍の英雄ネー元帥Michel Neyの処刑(一二月七日)が行われたのもこの頃のことである。しかし、フランス革命期や第一帝政期の成果を否定して絶対王政期への復古を目指すユルトラの姿勢は、換言すれば革命期の農民革命で土地を確保した全国の農民を敵にまわすことでもあった。フランスを占領していた連合軍は農民による内乱の再来を怖れ、ユルトラ主導の代議院を解散させることこそが占領軍縮小の条件だと復古王朝に迫っている。翌一六年、連合国と同じ危機感を抱いたルイ一八世やリシュリュー内閣(在任一八一五~一八)Richelieuは復古王政の安定のために議会解散を強行した。その結果、一六年一〇月に実施された第二回総選挙では国王の思惑通り政府支持の立憲王党派が一四二議席を占め、ユルトラは九二議席の少数派に転落している。こうした状況の下で「一八一七年二月五日法」(レネ法Lainé)が公布され、選挙権及び被選挙権の資格は一八一四年憲章の要件に戻され、各県庁所在地で開かれる県選挙会に議員指名権を付与する直接選挙制と名簿式三回投票制の導入も決定された。直接選挙制は革命期の「一七九三年憲法」でも採用されてはいたが、実施の運びとなったのは一八一七年の総選挙が最初である。この改正はユルトラの選挙地盤である農村の土地所有者層(地主・農民)にダメージを与える一方で、都市に住むブルジョワ層を利する内容だった。また、選挙で勝利を収めた立憲王党派内で力をつけた純理派はルイ一八世の寵臣ドュカーズDecazesの権威を利用して改革を進め、軍隊内の採用・昇進に国王が介入するのを避けるための「グヴィオン・サン・シール法」Gouvion Saint-Cyr(一八一八年三月一〇日)や出版法違反者を陪審裁判で裁く「ド・セール諸法」Lois De Serre(同年五月)を制定し、連合国に対する賠償金問題を公債政策と内外の銀行からの資金調達によって解決した。こうして、一〇月九日エクス・ラ・シャペル(アーヘン)列国会議で占領軍の撤退を実現するとともに、翌月にはウィーン体制を支える四国同盟に加盟して五国同盟に発展させ、保守反動体制の一翼を担うようになったのである。
さて、一八一七年選挙法に基づく総選挙(一八一七、一八、一九年)が繰り返された結果、ユルトラが三五議席、立憲王党派が一九議席をそれぞれ失ったのに対して、一八一七年に立憲王党派から分離した左翼の「独立派」indépendantsが目覚ましい躍進を遂げている。この党派を指導していたのは政治思想家バンジャマン・コンスタンBenjamin Constant、商人銀行家のジャック・ラフィットJacques Laffitteやカジミール・ペリエCasimir Périer、アメリカ革命やフランス革命で活躍したラ・ファイエット侯La Fayettenadoなどであり、支持者は自由主義を標榜するブルジョワジーが多かった。しかし、独立派が一八一九年の総選挙で改選議席数五五のうち三五議席を占めて総議員数を約八〇名に増やしたことは、右翼ユルトラを大いに刺激することになった。彼らはルイ一八世やウィーン体制諸国に対して密かに政治工作をすすめた。その頃、ドイツ連邦(一八一五~六六年)の指導者メッテルニヒはブルシェンシャフト運動を抑圧してカールスバートの決議(一八一九年、現在はチェコのカルロヴィ・ヴァリ)を出したばかりであり、一八二〇年一月にはスペインのフェルナンド七世に対する軍部の反乱が発生している。メッテルニヒはウィーン体制の綻びを繕うためにもフランス国内情勢に警戒の目を光らせていたが、一八二〇年、彼の不安が現実となる。二月一三日、狂信的ボナパルト派のルイ・ピエール・ルヴェルがアルトワ伯シャルルの次男シャルル・フェルディナン・ダルトワCharles Ferdinand d'Artoisをオペラ座前で刺殺するベリー公暗殺事件が発生し、それに続くドュカーズ内閣(任期一八一九~二〇)総辞職を契機として政治反動の嵐が起こり、与党の立憲王党派は左右に分裂してそれぞれ左右両極に吸収され、院内勢力は「王党派」royalistesと「自由派」libérauxとに収斂した。
同年六月二九日、ユルトラは大土地所有者の政治的発言力の強化を図るために新しい選挙法(「一八二〇年六月二九日法」)を公布させ、代議院総数四三〇名のうち二五八名は郡選挙会によって、残り一七二名は県選挙会によって選出されることになった。その結果、各県の高額納税者(上位四分の一)で構成されていた県選挙会の選挙人(全国で約二万五〇〇〇人)は郡と県の選挙会で二度投票できることになった。政府はまた、地租減税を実施して自由主義的思想の持ち主と想定した一万四五〇〇人の選挙権を剥奪している。こうして同年一一月に実施された総選挙では、この年の改選議席五一に新設の一七四議席を加えた二二三議席のうち右派(ユルトラ、旧中道右派)が一九〇議席を得て、わずか三三議席にとどまった自由派を圧倒した。
選挙結果に勢いづいたユルトラはリシュリュー内閣(在任一八二〇~二一)に自派の三名を入閣させ、翌二一年秋の改選後はユルトラ単独のヴィレール内閣(在任一八二一~二八)を成立させてシャルト体制にとどめを刺した。彼らは教会勢力との連携を深め、一八二二年には高位聖職者フレシヌスFrayssinousを大学局総監に任命して中・高等教育に影響を及ぼし、ソルボンヌ大学ではギゾーやクーザンVictor Cousinの講義を止めさせ、リヨン大学では司教が教授を任命できるように変更させた。翌二三年一月、シャトーブリアン外相は前年からの暴動に苦慮していた西王フェルナンド七世を援助するために仏軍を派遣し、一二月二日のアウステルリッツ戦勝記念日には遠征軍司令官アングレーム公duc d'Angoulêmeの凱旋行進を挙行した。戦勝に沸く祝賀気分は翌二四年二~三月の総選挙に影響し、右派は総議席四三〇のうち四一一議席を占めるほぼ完璧な勝利を収めている(「再び見出された議会」la Chambre retrouvée)。また「一八二四年六月九日法」によって議員の五分の一を毎年改選する制度を廃止するとともに、議員任期の五年から七年への延長という〈憲章違反〉の決定を行って長期政権の確立を図った。一方、ラ・ファイエットら自由派の一部は二〇年八月一九日、秘密結社やボナパルト派の軍人グループと結んで武装蜂起したが失敗に終わった。その後、イタリアの秘密結社カルボナリCarbonariを移植したシャルボヌリCharbonnerieが推定三万人の加入者を獲得し、一八二二年二月にラ・ファイエットらも関与した蜂起を準備したが、これまた失敗に終わっている。その間、中小ブルジョワや労働者層は国政から排除されて政府が推進する高関税政策(註①)の犠牲者となり、民衆の間には次第に共和主義が浸透し、自由主義ブルジョワジーと共和主義の結合という動きが見られ始めた。
ヴィレール内閣の下でユルトラが「我が世の春」を謳歌していた二四年九月一六日、ルイ一八世が他界し、彼には子がいなかったため、弟アルトワ伯がシャルル一〇世Charles X(在位一八二四~三〇)として即位した。成聖式は二五年五月二九日伝統に則ってランス大聖堂で行われ、大司教の手によって厳かな戴冠式・塗油式が挙行された。こうしてユルトラは国王・政府・議会の三者を押さえ、反動的な政策を推進する。例えば二五年四月二七日に成立した「亡命貴族の一〇億フラン法」le milliard des émigrésは、フランス革命期に国外に逃亡して財産を没収=国有化された旧亡命貴族に対して国家が補償しようとする法律である。ただし、売却済み財産を旧所有者に返還させることは現実的には困難であったため、亡命貴族(旧所有者)に賠償対象財産の評価額(約一〇億フラン)の名目資本に相当する三分利付公債を五年間に分けて与えた。もっとも、旧亡命貴族がこの法律によってかつての所有地を買い戻すことはほぼ不可能だったが、政府としては長年の懸案事項であった亡命者賠償問題にけりをつけ、旧亡命貴族や国有財産取得者をユルトラ支持者とすることには成功したわけである。
しかし、強引な議会運営は自由派やユルトラ内の極右分子(ラ・ブルドネ一派la Bourdonnaye)の反発を招いただけでなく、銀行家や産業資本家など自由主義者との対立をもたらし、地租三〇〇フラン以上の納入者を対象とする長子相続法案は貴族院すら通過できなかった。またその当時、ウィーン体制を揺るがしかねないギリシア独立戦争(一八二一~二九年)が戦われていたが、フランス国内でもロマン主義の画家ドラクロワDelacroixの代表作「キオス島の虐殺」(一八二四年)に刺激されてギリシア独立を支援する世論が高まっていた。ヴィレール内閣はメッテルニヒに気兼ねしてギリシア支援を避けていたが、世論に押される形でオスマン帝国への干渉戦争に踏み切った。二七年一〇月二七日、英仏露連合艦隊が勝利を収めたナヴァリノ海戦は、フランス国内の自由主義的風潮を高め、反政府を標榜する新聞が言論界をリードするようになる。政府はこうした動きを抑えようと既に前年一二月には出版物統制法案を提出していたが、二七年四月には長子相続法案と同じく、貴族院すら通過できなかった。そして政府の言論統制に反対したのは新聞だけでなかった。パリの国民衛兵隊la Garde nationaleは閲兵中のシャルル一〇世に対して「新聞の自由」「内閣を倒せ」と叫んで国王の怒りを買い、四月二九日解散を命じられた。これは国王とブルジョワの決裂につながっていく。同年一一月、事態処理に窮したシャルル一〇世は地方の支持を期待して議会の解散に踏み切った。しかし、反政府勢力が議席の過半数を占める結果となり、ヴィレール内閣は退陣に追い込まれた(二八年一月)。こうしてユルトラ政権は一旦崩壊したが、その背景には後述する産業革命(一八一〇年代~第二帝政期)があり、ノルマンディ地方やアルザス地方、リヨンなど中心とする繊維工業の発達がブルジョワジーの躍進を支えていた。その後、二八年一月に穏健王党派のマルティニャック内閣Martignac(在任一八二八~二九)、翌年八月からはユルトラのポリニャック内閣Polignac(在任一八二九~三〇)と続いたが、その間の議会は自由派とヴィレール支持の穏健王党派がともに一五〇~一八〇議席を占め、ユルトラは六〇~八〇議席と少数派にとどまっていた。註②
二 社会改革の夢 ~七月革命~
1 七月革命とシャルト体制
一八三〇年三月一八日、代議院ではポリニャック内閣不信任の勅語奉答文が二二一名の賛成で可決された。賛成議員のうちブルジョワが六三%、帝政貴族が一六%を占めたのに対して、反対議員一八一名のうち旧貴族が六三%に達したことから、代議院はブルジョワを中心とする反政府勢力と旧貴族を中心とする政権側との対立が抜き差しならない局面に達したことを示している。五月一六日、国王・政府側は反対派議員を一掃するために代議院解散に打って出て、七月五日にはアルジェリア侵攻の最初の成果であるアルジェ占領のニュースがもたらされた。しかし、六月末から七月初めに実施された選挙の結果は政府の思うようにはならず、政府系議員一四三名に対して反政府系議員は二七四名も当選した。そこでシャルル一〇世は、憲章第一四条に規定された国家安全のための勅令発布権の発動を決意し、七月二五日、所謂「七月勅令」と呼ばれる四勅令を発した(註③)。第一に出版の自由の停止、第二に(未召集の)新議会の解散を命じた。そして第三に代議院の議席数を一八二〇年以前の二五八議席に戻し、県選挙会にのみ議員選出権を認めて郡選挙会には県選挙会への候補者提出権のみを認めた。これは参政権の完全な行使を各県の選挙人の中で多額納税者(上位四分の一)に限定することを意味した。また、選挙人・被選挙人資格の必要納税額の算定に際して営業税・戸窓税を除外して地租と人的動産税のみに限るよう変更し、営業税負担者すなわちブルジョワから参政権を剥奪しようとした。また第四に次期選挙日を九月(郡選挙六日・県選挙一八日)とすることを命じている。
ところで一八一五年五月インドネシア中南部のタンボラ山大噴火がもたらした翌一六年ヨーロッパや北米大陸を襲った「夏のない夏」による農作物の壊滅的被害を除き、ブルボン復古王朝が成立してしばらくの間は概ね好況が続いた。しかし、二〇年代後半からは穀物の収穫高が徐々に落ちはじめ、価格上昇に転じている。特に二六年には不況で都市労働者に払われる賃金が大幅に削減されるようになり、同年のジャガイモ不作が追い打ちをかけた。穀物の関税引き下げを求める声は全国に拡がったが、シャルル一〇世は大土地所有者からの圧力を受けて関税据え置きを決めている。その結果、都市経済も保護関税政策に伴う諸外国の報復関税や農村部の購買力低下の影響を受けて不況に喘ぐこととなった。例えばパリ有数の銀行家ラフィットは破産の瀬戸際まで追い詰められたし、二九年から三〇年にかけての冬の寒さは貧者を凍死させた。しかし、一八三〇年頃には不況が峠を越し、一時頻発していた穀物運搬車への襲撃や民衆による市場価格への介入(「公正価格」による販売を求める運動)も下火になっていたので、政府側に油断があった。
七月二六日、官報「モニトゥール」に掲載された七月勅令を読んだ反政府系ジャーナリストたちは一斉に反発し、『ナシオナル』紙Le Nationalは号外を発行して倒閣運動を呼びかけた。夜に入ると早くもセーヌ河畔には三色旗が翻るようになり、パレ・ロワイヤル付近には印刷工や学生たちが集まりだした。翌二七日、『ナシオナル』紙のみならず『グローブ』Le Globe、『タン』Le Temps両紙も勅令を無視して新聞を発行した。そのため政府の指示を受けた警察が印刷所を襲撃して新聞紙や活字を没収し、市内各地に発生した小競り合いには軍隊も投入された。パリ東部の労働者街ではバリケードが築かれ始め、学生と職人・労働者が提携し、ついにはラ・ファイエットを中心に再編制された国民衛兵隊が武装蜂起した。そして二八日未明には商人銀行家ラフィット(独立派)が動き出し、そこにカジミール・ペリエやラ・ファイエットが加わって蜂起の司令塔が成立した。国民衛兵隊を先頭にした民衆は瞬く間にパリ市庁舎やノートルダム大聖堂を占拠し、(午後には正規軍の反撃で一時的に市庁舎が政府側に戻ったが)二九日未明の反撃で再び奪還に成功した。同日、参謀本部の置かれたラフィット邸宅に集合した幹部たちは、ラ・ファイエットを国民衛兵総司令官に決定し、ラフィットやカジミール・ペリエら五人からなる臨時市委員会を組織した。国民衛兵隊は共和派やボナパルト派の軍経験者を加えたうえで、正規軍の二連隊を寝返らせ、スイス衛兵が護るルーブル宮を陥落させることにも成功した。こうして七月二七日から二九日まで続いたブルジョワと民衆による武装蜂起は成功し、ヴェルサイユ近郊にいたシャルル一〇世は八月半ばにイギリスへと亡命し、その後は故国に戻ることがなかった(「栄光の三日間」Les Trois Glorieuses)。蜂起に参加した民衆は、大工・家具職人・靴職人などの職人と熟練労働者が圧倒的に多く、死者約八〇〇人、負傷者約四〇〇〇人を出す壮絶な戦闘は、ロマン主義の画家ドラクロワによって「民衆を導く自由の女神」が描かれ、バスティーユ広場の「七月の円柱」として称えられている。
しかし、革命の混乱がどうにか鎮まった時点では、フランスの政体が共和政か帝政、それとも立憲王政になるのかは未だ流動的であった。だが、革命の演出家ラフィットは単なる陰謀政治家ではなかった。ピレネー山脈に近い南西部の都市バイヨンヌで大工の子として生まれた彼は、一七八八年パリに出てスイス人銀行家 J.ペレゴーの簿記係として職を得、一八〇四年頭取となった後、フランス銀行理事を経て総裁(一四~一九年)と自らの才覚だけを武器に社会的地位を高めてきた男である。その間、革命期の混乱をジロンド派支持者として潜り抜け、皇帝ナポレオン一世とも渡り合った筋金入りの自由主義者であり、一六年にはパリ選出の代議院議員となっていた。そして、七月革命の最中、ラフィットは開明的な「市民王」ルイ・フィリップLouis-Philippeを担ぎ出し、民衆運動の暴発を警戒していたラ・ファイエットとタッグを組ませることを考えつく。七月三一日、市庁舎のバルコニーにラ・ファイエットと並んでルイ・フィリップが登場したとき、(彼の思惑通り)民衆は二人を歓呼の声で迎えた。何故なら、ルイ・フィリップはブルボン家の支流オルレアン家という名門の出身であり、革命戦争に参加した経歴を持つ男だったからである。すなわち、民衆の間には〈個人(国王シャルル一〇世)〉の資質よりも〈王政〉という統治システムこそ問題だったということに気づいている人は少なかったのである。ただし、七月革命期の国際環境(ウィーン体制)や革命の主体を考慮すれば、この時点で共和政が成立する可能性はあまり高くなかった。それより七月革命がヨーロッパ各地に及ぼした影響力に着目すべきである(註④)。
その後、憲章が修正され、八月九日にはルイ・フィリップが代議院が置かれていたブルボン宮に出向いて国王としての即位式が挙行された。ただし、その内容はブルボン復古王朝のそれとは全く異なり、両院議員を前にして修正憲章を遵守する旨の宣誓文を読み上げることで「フランス人の王」roi des Françaisルイ・フィリップ(在位一八三〇~四八)として玉座に昇るという極めて簡素な儀式であった。彼は神授王権を否定し、ローマ=カトリック教は国教の座から滑り落ちたのである。彼が受け入れた三〇年憲章(八月一四日公布)の特徴は、第一に一四年憲章の前文を削除することで王から国民に賦与する〈欽定憲法〉としての性格を改め、王と国民との間に結ばれた〈協約憲法〉に変化したことに求められる。第二に王の法律停止権が廃止され、貴族院・代議院両院の法律発議権を認め、代議院議長を議員自らが選出できること、代議院議員選挙の選挙権・被選挙権を拡大したことで、国王大権の縮小、議会権限の拡張が実現したことにある。すなわち、三〇年憲章の公布で二重投票制が廃止され(第六九条)、代議院の選挙人資格は二五歳以上、被選挙人のそれは三〇歳以上にそれぞれ引き下げられた(第三二条・第三四条)。また、「三一年四月一九日法」によって代議院議員四五九名を選出する小選挙区絶対多数三回投票制が採用され(第三八条・第三九条・第五四条・第五五条)、選挙人たるに必要な最低納税額は二〇〇フラン(第一条)に、被選挙人のそれは五〇〇フランに引き下げられている(第五九条)。その結果、選挙人資格を持つ人数は(当時の好況や人口増加も手伝って)一八三〇年六月の九・四六万人から、一六・七万人(三一年七月)、一七・一万人(三七年一一月)、二〇・一万人(三九年三月)、二二万人(四二年七月)、二四・八万人(四六年八月)と増加している。ただし、三〇年憲章では依然として国王による行政権独占や法律の裁可・公布権、代議院の解散・停会権などを認めており、イギリスの議会王政にはほど遠い状態にあった。また、貴族院は議員世襲が禁止されたために大幅な定数減となり、官僚は知事七六名・副知事一九六名・市長約四〇〇名・司法官約一〇〇名が入れ替えられ、将軍七五名のうち六五名を退役とした。
ところで、七月王政に対する宣誓を拒否して辞職した議員九三名のうち約三〇%が旧貴族であったのに対して、三〇年秋から翌年にかけて行われた補欠選挙で当選した議員一一〇名のうち約六五%がブルジョワ出身だったことにも着目する必要がある。七月王政期の代議院議員は、旧貴族の占める割合が大幅に減少し、ブルジョワ議員が優勢と変化したが、銀行家・商工業者の占める割合は相変わらず低いままであり、官吏・地主議員の数は一九三名(一八三四年)→一九一名(三七年)→一七五名(四〇年)→一八八名(四六年)と推移して平均約四割前後を占めていたことが分かる。すなわち、七月王政期の議会は、旧貴族や帝政貴族の手から離れたものの、未だ商工業ブルジョワジーがイニシアティヴをとるまでには至っていない。しかし、前述の被選挙人資格=納税額五〇〇フランが年収二五〇〇~五〇〇〇フランの富裕層への課税額であることや、当時の労働者の年収が高くても約七五〇フランだったことを考慮すれば、七月王政が相変わらず〈名望家の時代〉だったことは明らかである。註⑤
2 抵抗派と運動派の対立
さて、議会内で多数を占めることになった立憲的諸党派(オルレアン派)はまもなく二つに分裂した。一方は中道右派のカジミール・ペリエや純理派のギゾー、ブロイ公Broglieらによる「抵抗派」parti de la Résistanceで、彼らは三〇年憲章を運動の到達点と見なして現行の秩序維持を目指した。他方、アドルフ・ティエールLouis Adolphe Thiersやオディロン・バロOdilon Barrotなどの「運動派」parti du Mouvementは三〇年憲章を出発点と見なして革命の徹底化とベルギーやポーランド、イタリアなどの国民主義的運動への支援を模索した。そして一八三〇年一一月二日、革命の興奮が醒めやらぬうちに政権を獲得したのはラフィット(在任一八三〇~三一を首班とする運動派であった。ラフィットは七月革命の政治的収拾を行った黒幕であり、〈銀行家たちの王〉・〈王の銀行家〉として知られる金融貴族である。しかし、議会の外では参政権を持たない小ブルジョワや学生・労働者を中心とする民衆運動が力を増しており、一二月末には議会において国民衛兵総司令官としての権限を削減されたラ・ファイエットが抗議の辞職をしている。ラフィット内閣は翌三一年二月一四~一五日に起きたパリ大司教舘襲撃事件が保守派からの攻撃材料となり、オーストリアへの対抗心から北イタリア派兵を企てたことが原因となって三月一二日、罷免された。その結果、政権はカジミール・ペリエ率いる抵抗派内閣(在任一八三〇~三一)へと移ったが、彼の父はフランス銀行創立者の一人で、彼自身もパリを代表するペリエ銀行の支配人であったから金融貴族による支配はその後も続いたわけである。
新政府は運動派の改革に賛同した県知事・市町村長・郡長・検事を根こそぎ粛清し、いくつかの国民衛兵隊を解散に追い込み、さらには反政府系新聞を抑えにかかった。また一〇月にはリヨンの絹織物業の小工場主・労働者が「商人業者」marchand-fabricantと呼ばれた資本家に対して賃金引き上げを要求し、商人業者代表が承認したにもかかわらず、資本家側はそれを実行に移さないばかりか政府に働きかけて新賃金表の無効を宣言させた。一一月二一日、怒りに震えた小工場主・労働者たちが蜂起したが、政府は軍隊二万人と大砲五〇門を動員して一二月五日までに鎮圧している。翌三二年にはパリ市民約二万人の命を奪ったコレラが流行してペリエ自身も五月一六日に病死したが(註⑥)、抵抗派はその後も一八四八年の二月革命まで政権を維持した。しかし、ルイ・フィリップ王がしばらくは首相職を置かなかったこともあって、国政は安定性を欠いたままであった。その間、亡命先のナポリから密かに帰国したベリー公妃マリ・カロリーヌMarie Carolineがヴァンデー地方で反乱(五月末~六月)を起こし、パリでは共和主義者を中心とする蜂起(六月五~六日)が発生した。政府は西部諸県とパリに戒厳令を布いて反乱を抑え込み、同年一〇月一一日に成立したスールト元帥Soultを首班とする内閣(在位一八三二~三四)によってどうにか政治危機を乗り越えた。なお、一一月に逮捕されたマリ・カロリーヌは前年一二月に再婚していたが、三三年五月に獄中で不倫の子を産み、正統主義はスキャンダルまみれとなった。
一方、政府の弾圧を受けて弱体化した反政府派はまもなく分裂する。三〇年一月に創刊された『ナシオナル』紙の出資者ラフィット(金融貴族・前首相)や編集者ティエール等は議会主義にとどまったが、一部のブルジョワは結社の成立を急いだ。一方、三〇年六月に結成された「人民の友」Société des Amis du peupleは三一年に発生したリヨンの労働者蜂起を支持し、三三年一〇月に「人間の権利協会」Société des droit de l'homme et du citoyenとして再結成されたとき、一〇~二〇人単位の下部組織には多数の労働者が参加した。彼らは労働生産物の公平な分配や累進課税制度を要求しただけでなく普通選挙による単一国民議会の創設を提唱し、一時は熟練労働者を中心に約三〇〇〇人が参加している。人間の権利協会を中心に小ブルジョワ層と労働者の間に指導と同盟の関係が生まれつつあったのである。こうした動向に危険な臭いをかぎ取ったスールト内閣は、二〇人以上の結社を取り締まり対象としていた「刑法二九一条」を修正し、二〇人以下の結社にも適用できるようにし、併せて指導者だけでなく加入者全員を告発の対象とした(三四年三月成立)。しかし、政府が団体の事前許可制を定めた「結社法」を制定させた三四年四月一〇日には、リヨンで再び賃金問題から人間の権利協会リヨン支部と提携関係にあった労働者の同業組合が軍隊・国民衛兵隊と衝突し、市街戦に発展した。この蜂起が鎮圧された直後から労働争議がサン=テティエンヌ、アルボア、グルノーブル、マルセイユなどに波及し、パリでは軍隊の出動で「トランスノナン街の虐殺」が行われた。政府は全国の労働者蜂起を軍隊と国民衛兵の力によって抑え込み、約二〇〇〇人の逮捕者をだした。また六月に実施した総選挙では政府派が約三二〇議席を獲得し、穏健共和派は壊滅的な敗北を喫している。
三五年三月一二日、ブロイ内閣(在任一八三五~三六)が発足して抵抗派による七月体制は盤石となったかに見えたが、ティエールが中道左派グループを結成し、オディロン・バロを中心とする王朝左派もに約一〇〇議席を獲得したため政治は再び流動化し始めた。ブロイ内閣は同年七月二八日(七月革命記念日)にコルシカ人フィエスキGiuseppe Fieschiが起こした国王暗殺未遂事件を機に強権的な政治を展開するようになり、九月には新聞など出版物に対する検閲制度を強化した。ところが、こうした重苦しい空気の中で翌三六年二月二二日に権力を手中に収めたのが中道左派のティエールである。ジャーナリスト出身の彼は世論の動向を察知するのに長け、内乱発生に苦しむスペイン政府の支援要請を自らの権力基盤の拡大に利用しようとした。彼はイギリスと結んでスペインへの軍事介入を模索したが、ルイ・フィリップ王は大陸諸国の反発を怖れて反対し、九月にはティエールを辞職に追い込んだ。その結果、議会に基盤を持たないモレ伯Moléを首班とする内閣(在任一八三六~三九)が成立し、それ以後は国王の傀儡政府とそれに協賛する官吏議員による議会政治が続いた。ルイ・フィリップ王は、この頃から自らを玉座に就けたラフィットらよりも、産業資本家やロチルド家Rothschild(英語名ロスチャイルド家、註⑦)に代表される「オートバンク」Haute Banqueを重視するようになっていく。
一方、ギゾーやティエール、オディロン・バロ等は反政府勢力を糾合して「連合」coalitionを結成し、三九年三月の総選挙では野党連合が二四〇議席を占めて政府派二〇〇議席を圧倒した。同年五月一二日、スールト内閣(在任一八三九~四〇)が成立したその日に社会主義者ブランキLouis Auguste Blanquiを中心とする秘密結社「季節社」がパリ市庁舎や警視庁を襲撃し、共和派による選挙法改正運動も勢いづいた。こうした混乱に加えて経済不況が追い打ちをかけ、ブルジョワジーの間には安定政権を待望する気運が一気に広がった。ティエールはこの機を逃さず、英国流の「君臨すれども統治せず」という自説を展開して野党共闘を実現して王室に圧力を加えたため、三月一日、ルイ・フィリップ王はやむなく第二次ティエール内閣(在任一八四〇)を容認した。ティエールは前回と同じ轍を踏まないようにするには世論を味方につける必要があると判断し、国民の間に根強く残る〈ナポレオン崇拝〉熱を利用しようとした。一八二三年末にラス・カーズLas Cases著『セント・ヘレナ回想録』が出版され、ナポレオン熱に火が付いていたのである。ナポレオン一四は回想録の中で革命の守護者として描かれ、民衆の間には軍事的栄光を体現した軍人としてはもとより、愛国的且つ左翼的な革命推進者というナポレオン像が流布していた。ティエールはウィリアム・ラム英首相と交渉してナポレオン一世の遺骸の返還を実現し、レミュザ内相Rémusatが遺骸の帰還を公表した四〇年五月一二日、「わが国の正統な君主であった」と述べて公式に名誉回復をさせている。もちろんルイ・フィリップ王はナポレオン崇拝の広がりを危惧してもいたが、王太子オルレアン公に説得されて遺骸の帰還を受け入れている。それというのも当時はボナパルト派の代議院議員が皆無だったし、ナポレオン一世の嫡男ライヒシュタット公フランツFranz, Herzog von Reichstadt(ナポレオン二世Napoléon II)が没した三二年の後は、ルイ・ナポレオン(ナポレオン一世の弟ルイ・ボナパルトの三男)が帝位継承者として名乗りを上げてストラスブール(三六年一〇月三〇日)やブーローニュ(四〇年八月六日)で蜂起したものの、いずれも失敗に終わっていたからである。逮捕されたルイ・ナポレオンが終身禁錮重労働を宣告されて北フランスのアム要塞に収監された一〇月頃、セント・ヘレナ島ではナポレオン一世の遺骸発掘が行われた。一一月三〇日、遺骸を乗せた軍艦はノルマンディ地方のシェルブール港に入り、そこで川船に移し替えてセーヌ川を遡航し、一二月一五日未明、パリ北西郊の河港クールブヴォワへと到着した。その日は朝九時から葬送行進が始まり、金色の衣で飾られた一六頭の黒馬が並列四頭立てで霊柩車を曳き、エトワール凱旋門からシャンゼリゼ通りをコンコルド広場まで下り、午後二時にはアンヴァリッド舘へと辿り着いた。そして、遺骸の納めされた柩はパリ大司教やルイ・フィリップ王の聖水撒布を受けてドーム教会内に安置されたのである(註⑧)。
ところが、第二次ティエール内閣は外交問題で躓き、ナポレオン移葬の少し前に斃れている。一八三九年六月二四日、オスマン帝国とエジプトとの間に勃発した第二次エジプト・トルコ戦争(一八三九~四〇年)は、エジプト総督ムハンマド=アリーが前回に続いて勝利を収めたのに対して、英仏露三国はオスマン帝国の解体を狙って介入したが、列強は一枚岩ではなかった。そして四〇年、ロンドン会議においてエジプトを支持したティエール政権は、イギリスの所謂「パーマストン外交」(英外相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル)に圧倒されてしまう。七月一五日、英露普墺四国はムハンマド=アリーに対してエジプト・スーダンにおける世襲支配権を認める代償としてシリアを放棄させる「四国ロンドン協定」を締結し、フランスは深刻な孤立状態に陥った。一方、ロシア艦隊もボスフォラス・ダーダネルス両海峡の自由通航権を盛り込んだウンキャル・スケレッシ条約(一八三三年)を破棄され、外国船の通航は全面禁止となった。翌四一年、フランスも参加して「五国ロンドン協定」(国際海峡議定書)が締結され、仏露両国はともに東地中海・中近東への進出を阻止されたのであった。
一八四〇年一〇月二九日、再びスールト内閣(在任一八四〇~四七)が発足した。この内閣の首班はスールト元帥だったが、実権を握っていたのは純理派のギゾー外相であり、閣僚のほとんどは純理派と中道右派に属していた。この所謂「スールト=ギゾー内閣」は対外的には平和、国内においては秩序維持を標榜する政治的・社会的保守主義を掲げたが、四二年七月の総選挙でも政権与党が反対派を約七〇議席上回る程度しか確保できず、不安定な政権運営が続いた。そこでギゾーはルイ・フィリップ王に急接近し、国政における指導的役割を認めることで王室の支援を仰ぐことにした。その結果、四六年八月の総選挙では好況も手伝って与党議員が二九一名も当選し、反対派議員一六八名を圧倒した。しかし、この選挙は反政府派に対して議会制度や選挙制度の不合理を強く認識させ、彼らによる政治改革運動を活性化させる結果となった。何故なら、当時は代議士が俸給を国家から受け取る〈官吏〉を兼ねることが出来たために官吏ポストが政府による多数派工作に利用され、極端な制限選挙制の下で代議士の七割以上が四〇〇票足らず(極端な例は一〇〇票未満)で当選し、港湾関係の公共事業や鉄道・郵便・道路の問題が話題となる利益誘導型選挙となるなど政権与党に有利な側面が顕在化していたからである。註⑨
註① ブルボン復古王政期の大土地所有者は専ら保護関税による穀物価格の高値維持に腐心したが、政 府は彼らの要請を受けて一八一九年・二一年には輸入穀物の低価格化と連動して高関税を課し、場合 によっては輸入禁止措置をとっている。また、こうした保護関税政策は産業革命で頭角を現しつつあ った産業資本家にとっても重要であり、外国産の原材料や工業製品の輸入に高関税を課し、一八二〇 年・二二年に制定された法令では肩掛けやカシミヤ織、インド絹布を輸入禁止としている。
註② 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」(『世界各国史2 フランス史』所収第六論文、山川出版社)三四一~三五七頁、服部春彦「フランス復古王政・七月王政」(岩波講座『世界歴史19近代6』所収第二論文、岩波書店)三三~五〇頁、上垣豊「立憲王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第一〇論文、山川出版社)四五七~四六三頁、岡田信弘「フランス選挙制度史(二)」(『北大法学論集』三〇ー二)一四三~一四九頁各参照。 イゴネP.-B.Higonnetの研究によれば、一八二七~三〇年の代議院は旧貴族が議員全体の四一%を占めていたが、その内訳はユルトラ六三%、与党右派五六%、左派二一%と続いていた。また帝政貴族は議員全体の一〇%を占め、内訳はユルトラ二%、与党右派五%、左派一七%となっている。そしてブルジョワは議員全体の四九%を占め、内訳はユルトラ三六%、与党右派三九%、左派五七%であった。したがって、復古王政期の代議院は未だ旧貴族・帝政貴族主導の議会と言えようが、一方でブルジョワジーが反政府勢 力の中核を担うまでに成長しつつあったことも見て取れる。P.-B.Higonnet , La composition de la Chambre des Deputes de1828 a 1831 ,Revue historique, t.CCXXXIX,avril-juin 1968, p.376.
註③ 赤井彰訳「七月勅令Ordonnances de Juillet」(平凡社『西洋史料集成』・東京法令『世界史資料下』 七八~八〇頁)参照
註④ 七月革命はウィーン体制を大きく揺るがせる結果となった。産業革命が進んでいた南ネーデルラントではオランダ支配からの独立革命(一八三〇~三一年)が起こり、一八三一年立憲王政のベルギー王国が誕生した(ザクセン=コブルク家のレオポルド一世即位)。また、ポーランドやハンガリーの独立運動、イタリア・ドイツの立憲政治を求める運動は、それぞれロシアやオーストリアの介入で挫折したが、ナショナリズムや立憲主義がヨーロッパ共通の課題であることを明確にした。イタリアではカルボナリ党の反乱(一八三〇年)が失敗したが、翌年にはマッツィーニの指導下に「青年イタリア」が結成された。
註⑤ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」三五七~三六二頁、服部春彦前掲論文五〇~五三頁、上垣豊前掲論文四六三~四六五頁、谷川稔「近世国民国家への道」(福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』所収第六論文)二八六~三〇一頁、岡田信弘前掲論文一四九~一五〇頁各参照。
註⑥ 古くからインドのガンジス河口のデルタ地帯に限られていたコレラが、世界的規模の大流行に転 じたのは一八一七年のことである。フランスでの流行は三一年三月のカレーが最初で、翌年三月二六 日にはパリでも死者が確認されている。その後、パリにおける死者は一万八四〇二人にも達したが、 その原因の一つは劣悪な住宅環境に求められる。一八三二年時点のパリには既に高さ一・八メートル、 幅七五~八〇センチの石造地下下水道が総延長一〇七キロに亘って整備されていたが、肝心の水洗ト イレの設置が進まず、下水道は屎尿類を一切受け入れない一般汚水専用下水道だった。ヴィクトル・ ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンが逃げ込んだ下水道には屎尿類は流れ ていなかったのである。鯖田豊之「西ヨーロッパの日常生活ー住」(講座・比較文化第三巻『西ヨーロ ッパと日本人』所収、研究社)二八一~二八八頁、喜安朗『パリの聖月曜日』(平凡社)八五~一一八頁、 見市雅俊『コレラの世界史』(晶文社)一七九~一八三頁各参照
註⑦ ロチルド家Rothschild(英語読み「ロスチャイルド家」、ドイツ語読み「ロートシルト家」)の歴史は、一八世紀後半フランクフルトのゲットー(ユダヤ人強制居住地区)ghetto出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトMayer Amschel Rothschildがヘッセン=カッセル方伯家の宮廷御用商に任ぜられたことに始まる。彼の五人の息子が、フランクフルト(長男アムシェル Amschel Mayer Freiherr von Rothschild)、ウィーン(次男ザロモンSalomon Meyer Freiherr von Rothschild)、ロンドン(三男ネイサンNathan Mayer Rothschild)、ナポリ(四男カールCarl Mayer von Rothschild)、パリ(五男ジェームスLe baron James de Rothschild)に分かれてそれぞれ商業銀行業を発展させた。一九〇一年にフランクフルト家とナポリ家、三八年にウィーン家が閉鎖し、現存するのはロンドン家とパリ家だけである。両家は日露戦争に際して日本政府に巨額の貸し付けを行い、関東大震災後の復興融資を通じて日本経済にも深く浸透した。なお、フランスのボルドー・ワインで最高格付けを得ている五大シャトーのうち、ロンドン家のナサニエルNathaniel de Rothschild が一八五三年に購入したシャトー・ムートン・ロチルドChâteau mouton rothschild(一九七三年一級格付け)、パリ家のジェームズが一八六八年に購入したシャトー・ラフィット・ロチルドChâteau Lafite-Rothschild(一八五五年一級格付け)はロチルド家が所有している。横山三四郎『ロスチャイルド家』(講談社現代新書)参照
註⑧ 杉本淑彦『ナポレオン伝説とパリ』(山川出版社)一三五~一四〇頁参照
註⑨ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」三六二~三六八頁、服部春彦前掲論文五三~六〇頁、上垣豊前掲論文四六三~四七八頁、谷川稔「近世国民国家への道」(福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』所収第六論文)二三〇一~三一〇頁、岡田信弘前掲論文一五〇~一五二頁、伊藤満智子「オ ーギュスト・ブランキと七月王政期の共和派運動」(『歴史学研究』三六三号所収)二〇~二一頁各参照。 イゴネの研究によれば、一八三一年~三四年の議会において旧貴族・帝政貴族はそれぞれ一二%にとどまり、七五%を占めたブルジョワ議員が圧倒している。ただし、各議員の職業は官吏(二〇%)・弁護士(一九%)・軍人(一八%)が多いが、それらはいずれも相当規模の土地所有者だったことが判明している。その後、一八四〇年の議会では議員総数四五九名のうち貴族は九二名(二〇%)に減少しており、職業別では官吏(三八%)、地主(三〇%)、自由職業(一九%)、銀行家・大商人・製造業者(一三%)の順であった。またテュデスクA.-J.Tudesqの研究によると、一八四〇年の一〇〇〇フラン以上 の納税者は一万三三一一人でその内訳は地主六五%、官吏一二%、大商人一一%、自由職業六%、工業家五%であるが、官吏と自由職業従事者の多くは地主であり、大商人や工業家も大土地所有者ゆえに高額納税者となっていた。また同年、五〇〇〇フラン以上の高額納税者五一二人のうち二三八人が、そして一万フラン以上の納税者五八人のうち三九人がいずれも貴族であった。したがって、七月王政期を通して国政を左右していた階層は未だ貴族=大土地所有者だったことは明らかである。A.-J.Tudesq, Les grands notables en France,pp.94-97.
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