ナポレオン戦争と国民意識の覚醒
一 コルシカ独立運動の挫折
ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparte(一七六九~一八二一)は、一七六九年八月一五日、地中海に浮かぶコルシカ島で小貴族ボナパルト家の次男として誕生した。コルシカ島はナポレオン誕生の前年まではジェノヴァ共和国の領土だったから、少し前なら彼はイタリア人だったわけである。父親カルロ・ボナパルトCarlo Maria di Buonaparte(シャルル・ボナパルトCharles Marie de Bonaparte、一七四六~八五)は一七二九年に勃発したコルシカ独立運動(コルシカ革命)に身を捧げた闘士だったが、一七六八年、ジェノヴァがコルシカ島をフランス王国へ売却したことでボナパルト家に大きな変化が訪れる。翌六九年、圧倒的なフランス軍の力によってコルシカ独立運動はねじ伏せられ、指導者パスカル・パオリPascal Paoliはイギリスへと亡命した。その一方で、ナポレオンの父親カルロは仏軍に帰順して一七七一年には首尾良く島の中心都市アジャクシオの王立裁判所判事に任じられ、その後はフランス貴族としても追認された。カルロとその妻レティツァMaria Letizia Bonaparte(一七五〇~一八三六)には、長男ジョゼフJoseph(一七六八~一八四四)を筆頭に八人の子宝が恵まれている。
さて一七七九年、当時九歳のナポレオン少年は親元を離れて、シャンパーニュ地方のブリエンヌ王立幼年兵学校に入学し、五年半を過ごしている。孤独な寄宿舎暮らしの中でナポレオンを慰めたのは歴史書だった。やがて一七八四年一〇月、一五歳に成長したナポレオンはパリの士官学校へと進学し、兵種は当時の花形だった騎兵ではなく砲兵を選択している。その理由としては、数学が得意だったことが考えられ、後に砲兵将校として活躍する素地となった。地方の小貴族の生まれであるナポレオンは、パリでの暮らしに必ずしも馴染めなかったが、翌年二月の父カルロの病死はそれに追い打ちをかけた。ボナパルト家は収入の柱を失い、ナポレオン自身も任官を急ぐ必要に迫られた。ナポレオンの卒業時の成績は卒業生五八人の中で四二番だったというが、普通は四年程度かかる卒業をわずか一一カ月でなしとげた訳だから、優秀な学生だったはずである。
一七八五年一一月、一六歳のナポレオンは、リヨンから一〇〇キロほど南の都市ヴァランスにある砲兵連隊に少尉として着任した。しかし、父の死で家計が成り立たなくなったボナパルト家を手助けするために、ナポレオンは再三帰郷している。一七八八年六月、ナポレオンはオーソンヌ(ブルゴーニュ地方)に移動していた原隊に復帰したが、約一年後の八九年七月にフランス革命が勃発し、一九日、オーソンヌでも民衆蜂起が発生した。その時、コルシカ島に戻っていた兄ジョゼフ宛ての手紙の冒頭で「農民と下層民たちは、首都にならって、ありとあらゆる破壊行為を犯しました」と書いている。この文章から窺えることは、ナポレオンはこの時すでに都市民衆や農民たち側の人間ではなかったと言うことである。同年九月、ナポレオンは三度休暇届を提出してコルシカ島へ帰っているが、一一月には憲法制定国民議会においてコルシカ島民も同じ憲法の下で統治されるべきとの決議がなされた。その結果、コルシカ島においても封建的特権が廃止され、島の行政も従来の本土出身の官吏に代わってコルシカ人が担うようになった。そして一七九〇年七月、亡命先から戻ったパスカル・パオリは国民衛兵隊の県総司令官に、次いでコルシカ県行政府首長に選出されている。
一七九一年一月、ナポレオンはオーソンヌの兵営に戻り、六月には所属部隊とともにヴァランスへ移動した。国王ルイ一六世一家のヴァレンヌ事件が起きたこの月、ナポレオンは上級の貴族士官が大量に亡命したお陰で特別な軍功もなしに中尉に昇進した。同年九月三日、「一七九一年憲法」(九月一四日公布)の成立で立法議会を中心とする立憲王政(九一年体制)がようやく動き出した頃、ナポレオンは再びコルシカ島に渡っている。それというのも、コルシカ島で反革命派が失地回復を遂げ、パスカル・パオリらが窮地に追い込まれていたからである。そのような状況のなか、一七九二年四月に国民衛兵隊現場指揮官の選挙が行われ、島民感情に理解を示すパオリ派に対抗して立候補したナポレオンは、アジャクシオ第二大隊(全島で四大隊)の副隊長に選出された。ところが、当選まもない四月八日(復活祭)、「聖職者民事基本法」反対デモを行った島民とその警備に当たった国民衛兵隊とが衝突し、デモ隊側に死傷者が出る事態となった。ナポレオンは現場にはいなかったが、ボナパルト家に不満を抱く島民たちから糾弾され、翌五月にはフランス本土へ戻らざるを得なかった。
ヴァランスの砲兵連隊に復帰したナポレオンは、翌七月には大尉に昇進した。しかし、ナポレオンがコルシカ島へ行っている間に、国民公会のジロンド派政権は対墺宣戦(四月二〇日)を発して革命戦争に突入していた。前線では敗北が続き、六月二〇日にはパリ市内のいくつかの国民衛兵大隊を中心とする民衆が武装蜂起(六月二〇日事件)して、立法議会と国王に請願するという過激な行動に出た。ナポレオンは、六月二二日の兄ジョゼフ宛ての手紙の中で「ジャコバン・クラブ員どもは常識のない気違いです」と書いており、ここでもナポレオンの心は蜂起した民衆側にはいない。しかし、革命は進む。八月九日夜半から翌一〇日にかけて、国民衛兵大隊やマルセイユ、ブレストの連盟兵を中心とする蜂起部隊が国王一家の住むテュイルリ宮殿を包囲してスイス衛兵と衝突し、多数の死傷者をだす凄惨な殺戮戦となった。この「八月一〇日事件」で捕らえられた王室の人々はそれぞれタンプル塔に幽閉された。九月に入って仏軍がようやくプロイセン軍に勝利を収めたヴァルミーValmyの戦い(九月二〇日)の翌日、ヨーロッパ初の男性普通選挙を経て、国民公会が召集された。ジロンド派が主導したこの議会では王政廃止が決議され、翌二一日の共和制宣言によってフランス史上初の共和政治(第一共和政、一七九二~一八〇四年)が実現している。
翌九三年一月二一日、パリの革命広場で国王ルイ一六世の公開処刑が行われ、二月一日にはイギリス、オランダに対する宣戦布告によって革命戦争が拡大した。仏軍はすでに前年からサルディーニャ王国に侵攻しており、一七九二年一一月にサヴォイア、翌九三年一月にニースをそれぞれ併合し、二月にはコルシカ島の真南に位置するサルディーニャ島へと攻め込んでいる。それに対して、イギリスをはじめとする周辺諸国はフランス国内に拡散している革命思想の過激さにおののくと同時に、その対外侵略の速さに危機感を高めて第一回対仏大同盟(一七九三~九七年)を結成した。そうしたフランス革命の動向に危機意識を募らせていた一人に、コルシカ島のパスカル・パオリがいた。彼は共和政治を良しとせず、サルディーニャ侵攻にも警戒心を抱いていた。一方、一七九二年一〇月にコルシカ島に帰ったナポレオンは、アジャクシオ国民衛兵大隊を率いて翌年二月のサルディーニャ攻撃に参加している。この遠征は仏軍優勢のうちに推移していたが、勝利を目前にしてパスカル・パオリの甥にあたる遠征軍司令官セザリの命令で突然、撤退した。この撤退命令によってナポレオンとパスカル・パオリとは決裂し、四月二日、国民公会はパスカル・パオリをパリに召喚した。ところが五月に入って、国民公会の決定に反発したパオリ派の島民たちが蜂起し、ボナパルト家を襲撃している。ナポレオンは母や兄弟姉妹とともに島内を這々の体で逃げ惑い、六月になってようやく島を脱出する有様であった。こうして、彼のコルシカ島に対する熱い思いは無残にも打ち砕かれ、政治意識を大きく転換させる契機となった。註①
二 軍事独裁政権の成立
一七九三年六月、 ジャコバン独裁(革命独裁)の開始という激変の中で、ナポレオンは家族とともにマルセイユに居を構えた。当時、イタリア方面軍は墺=サルディーニャ連合軍と戦闘中だったが、ナポレオンは兵器輸送の任務に就き、ほどなくして軍隊内で頭角を現すことに成功する。それは、七月末に執筆し山岳派の有力者に贈った小冊子『ボケールの夜食』にマクシミリアン・ロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierreの弟で国民公会議員だったオーギュスタン・ロベスピエールAugustin Bon Joseph de Robespierreが注目したからである。同年六月二日、パリの民衆約八万人が蜂起して国民公会を包囲したとき、山岳派はジロンド派幹部二九名と大臣二名を逮捕し、自宅監禁に処した。しかし、ジロンド派幹部の多くはパリを抜け出してリヨンやボルドー、マルセイユ、トゥーロンなどに逃れ、パリ=山岳派に対する抵抗組織を結成した。地中海の海港都市トゥーロンでも六月以来、ジロンド派・王党派連合勢力による支配が始まり、八月二六日には彼らの手引きでイギリス=スペイン連合艦隊が入港し、王党派による「ルイ一七世万歳」宣言がおこなわれる事態となった。この危機を乗り越えるため、オーギュスタン・ロベスピエールはナポレオンを砲兵隊指揮官としてトゥーロンへ派遣し、少佐に昇進させて事態打開を図った。ナポレオンを中心とする仏軍は、一二月一七日夜から翌朝にかけてイギリス軍が陣取るエギュエット岬を攻撃し、形勢不利を悟った英=西連合艦隊は港から逃げ出した。こうして仏軍は一九日にはトゥーロンを回復し、ジロンド派や王党派を公開処刑に処した。ナポレオンはトゥーロン砲撃戦での活躍で三階級特進の准将(旅団長)となり、翌九四年二月にはイタリア方面軍砲兵隊司令官に任命されている。
ところが、山岳派による革命政府の内部では、最高価格法による物価統制の是非など多くの施策をめぐって激しい論争が起こり、混迷の度を深めていた。山岳派を含むすべての国民公会議員、そしてその背後にいるブルジョワや農民層は〈自由経済〉の死守を掲げていたが、都市の民衆は生活必需品全ての最高価格を定める〈統制経済〉を要求した。その時、マクシミリアン・ロベスピエールを中心とした革命政府は、トゥーロン砲撃が開始された一七日に「反革命容疑者法」を決議し、二九日には穀物・穀粉に限定されていた「最高価格法」(五月四日)を日用必需品すべてに拡大し、同時に一七九〇年の生活必需品と賃金を基準としてそれより三分の一と二分の一高い値に最高価格と最高賃金を設定する「総最高価格法」に発展させた。その結果、ロベスピエール派はブルジョワ・農民・民衆の全てを敵に回すことになり、自らの施策に反対する人々を反革命派として次々に粛清・処刑を繰り返した。極点に達した恐怖政治は全国各地に拡散し、反革命容疑者として収監された者は約五〇万人と言われ、革命裁判所で死刑判決を受けたのは一万六五九四人、死者総数は約三・五~四万人に達した。
その間、ナポレオンはオーギュスタン・ロベスピエールからフランソワ・アンリオFrançois Hanriotに代わってパリ市国民衛兵隊司令官に就任するよう要請されたが、革命独裁の動向を慎重に見極めようとして鄭重に断っている。翌九四年七月二七日、ナポレオンが危惧したように反ロベスピエール派による「テルミドールの反動」が起こり、二八日以降にはロベスピエール兄弟やフランソワ・アンリオらの処刑が続いた。こうして辛うじて断頭台を免れたナポレオンではあったが、オーギュスタン・ロベスピエールの庇護を受けていたという経歴が仇となり、八月九日、ニースで逮捕された。そして一〇日後には釈放されたものの、さらに一カ月間の禁足令に従わなければならなかった。その後、ナポレオンは軍務への復帰を申し出たが、提示されたのは反乱が続くヴァンデー地方の、それも歩兵旅団長であった。このポストを拒否したナポレオンは、約一年間の予備役暮らしを強いられた。翌年八月には生活費を稼ぐためにパリの戦争省測地局に職を得たが、不遇の彼に手を差し伸べたのが総裁ポール・バラスPaul Barras であった。
その当時、フランス国内では熱月派(テルミドーリアン)が総最高価格法の廃止(一七九四年一二月二四日)、聖職者民事基本法の撤廃(一七九五年二月二一日)など行き過ぎた改革の抑制に躍起となっており、ブルジョワ的秩序の確立を目指して「一七九五年憲法」(共和暦第三年憲法)の制定を急いでいた。ところが、仏軍による墺領ベルギーの占領に反対した王党派の集会が「ヴァンデミエール一三日のクーデター」(一〇月五日)に発展したとき、国内軍総司令官ポール・バラスはナポレオンを副官に据えて現場の指揮を執らせた。王党派約二万五〇〇〇人は国民公会がおかれていたテュイルリ宮殿やその隣のルーヴル宮殿に押しかけたが、ナポレオンが指揮した政府軍約五〇〇〇人は大砲四〇門を駆使して鎮圧に成功した。ナポレオンはこの功績で准将から少将へと昇進し、まもなくポール・バラスの後任として国内軍総司令官に就任した。
一七九五年八月二二日、国民公会で憲法草案が採択され、一〇月二七日には施行の運びとなった。また、民衆の台頭を抑えるために制限選挙制に戻して、五百人会と元老院による二院制議会を成立させ、一〇月三一日、前者が提出した総裁候補者リストから後者が選抜する方法で総裁政府(一七九五~九九年)が発足した。そして五名の総裁の一人として就任したのがポール・バラスである。彼はフランス革命中にマルセイユやトゥーロンの住民数百人を処刑して財産を没収し、公金横領の疑いで革命政府から召還された経歴を持つ。しかし、「テルミドールの反動」の時は、国民公会側兵士を率いて市庁舎を襲撃する活躍で熱月派の有力者にのし上がることに成功した。このようにポール・バラスは典型的な俗物であるが、ナポレオンはこの男と繋がりができたことで、後に妻となるジョゼフィーヌJoséphine de Beauharnais(一七六三~一八一四)を知ることになった。それは当時、総裁ポール・バラスの愛人となっていたジョゼフィーヌが、亡き夫アレクサンドル・ド・ボアルネAlexandre de Beauharnais(一七六〇~九四)との間に生まれた長男ウジェーヌEugène Rose de Beauharnais(一七八一~一八二四)を陸軍省へ遣いに出し、夫の遺品を受け取らせたことに始まる。彼女はそのお礼の挨拶に出かけてナポレオンに遭遇したわけである。急速に接近した二人は愛を育み、一七九六年三月九日、無宗教の結婚式を挙げた(ナポレオン二七歳、ジョゼフィーヌ三三歳)が、二日後にはイタリア方面軍司令官として出征しなければならなかった。註②
一七九六年、ナポレオン率いる仏軍四万人は地中海の港町ニースに集結した後、そこから海岸沿いにイタリア半島へ侵攻した(第一回イタリア遠征)。約一年半続いたこの戦役においてナポレオンは墺=サルディーニャ連合軍を撃破することに成功し、サルディーニャ王国との講和(一七九六年四月)を皮切りに、一七九七年二月には教皇庁にトレンティーノTolentino条約を受け入れさせ、同年一〇月一八日、オーストリアとカンポ=フォルミオCampo-Formioの和約を締結した。特にカンポ=フォルミオの和約では墺領ネーデルラント(現在のベルギー)とイオニア諸島を獲得し、併せてオーストリアがヴェネツィア以外には干渉しないと確約したことで第一回対仏大同盟を解散に追い込むことに成功した。また、一七九八年二月一五日には仏軍のローマ占領でトスカーナ地方に逃げていた教皇ピウス六世Pius VI(在位一七七五~九九)を捕らえてローマ共和国(一七九八~一八〇〇年)を建国し、年末にはサルディーニャ王カルロ・エマヌエーレ四世を退位させてピエモンテ地方を獲得している。ナポレオンは、仏軍が現在のオランダの地に建国したバタヴィア共和国(一七九五~一八〇六年)などの先例に倣ってリグーリャ共和国・チザルピーナ共和国など延べ九つの「姉妹共和国」République sœurをイタリアに建て、フランスの一七九五年憲法(共和暦第三年憲法)を付与している。文学者スタンダールStendhalは小説『パルムの僧院』La Chartreuse de Parmeの中でナポレオンをイタリア専制政治からの解放者として描いたが、確かにそうした側面は否定できないものの、姉妹共和国の実態はフランスの従属国そのものであった。註③
気をよくした総裁政府が次に狙いを定めたのはイギリスであった。オーストリアとのカンポ=フォルミオの和約が成立してまもない一〇月二六日、総裁政府はイギリス方面軍を編制し、その総司令官にナポレオンを任命した。翌九八年二月、ナポレオンはイギリス本土上陸作戦を敢行するための準備として英仏海峡沿岸を視察した結果、制海権をイギリスに握られたままでは困難と判断し、遠征の目的地をエジプトへ変更した。何故なら、第一にその当時のイギリスは、第一次産業革命(一七六〇~一八三〇年代)で経済的繁栄を享受し始めていたが、その繁栄の源を絶つためにはインド綿花の輸入ルートに当たるエジプトを抑えることでイギリス・インドの連絡網を遮断する必要があり、最終的にイギリスが持つ制海権の打破も可能ではないかと判断したわけである。そして第二に戦功を挙げることでフランス政界への進出を果たすことができるのではないかと期待したからである。元来、軍人は国王や貴族の命令一つで従軍する存在であったが、すでに配下の軍事力を背景として国家権力に圧力をかけうる勢力に成長していたのである。
五月一九日早朝、兵士三万七〇〇〇人を載せたフランス艦船四〇〇隻がトゥーロン港を発ち、六月一一日にマルタ騎士団を征服した後、二九日にはアレクサンドリア東方一二キロに位置するアブキール海岸の沖合に姿を現した。フランス艦隊は七月一日に上陸作戦を開始し、オスマン帝国のマムルーク軍団と戦い、瞬く間にアレクサンドリア占領に成功する。そして七月二一日、仏軍はカイロ西郊のナイル川左岸にあるインバーバ村を主戦場とするピラミッドの戦いにも勝利を収め、翌日には先鋒隊がカイロ入城を果たした。ところが、八月一日の夕刻、アブキール湾内に停泊していたフランス艦隊は、突然現れたイギリス海軍の奇襲を受けて混乱する。ネルソン提督率いるイギリス艦隊は翌朝までにフランス艦隊を圧倒し、フランス側に残されたのは小艦船四隻のみであった。しかし、イギリス艦隊には陸上戦の準備がなかったので、その後も陸上では仏軍の支配が続いた。そこでナポレオンは、ムスリム(イスラーム教徒)に信教の自由を保証するなど様々な懐柔策をとったが、早くも一〇月二一日にはカイロで反仏武装蜂起が発生し、フランスとオスマン帝国の対立が激化した。翌九九年一月にはイギリスとオスマン帝国による反仏同盟が成立し、三月には第二回対仏大同盟(一七九九~一八〇二年)に発展する。一月二四日、ナポレオンは機先を制すべく自ら仏軍約一万三〇〇〇人を率いてシリア地方への侵攻を開始し、二六日にガザ入城を果たし、三月三日にはパレスチナ中部のヤッフォ(現在のテルアビブ)を包囲した。その後、三月一九日にはアッコン(アッカ)を包囲したが、イギリス艦隊の補給を受けたアッコン守備隊が頑強に抵抗し続け、ナポレオンは五月一七日付で全軍に撤退命令を発せざるを得なかった。こうしてシリア遠征軍は戦死者約一二〇〇人、傷病者約二三〇〇人、さらにはペストによる死者約一〇〇〇人を出し、戦闘能力を保持したまま帰還できたのは全体の約六割に相当する八〇〇〇人程度であった。
しかし、ナポレオンのエジプト・シリア戦役失敗の原因は、ナポレオンの戦術だけの問題ではない。何故なら、一七九八年に始まる遠征は国家財政の逼迫から十分な兵糧が用意されず、ナポレオンはその多くを現地調達に頼ることになったからである。ラス・カーズLas Casesの『セント・ヘレナ回想録』によれば、先のイタリア戦役中に莫大な賠償金や美術品を奪って五〇〇〇万フランを総裁政府に送ったが、エジプト遠征の戦闘・占領経費はすべてエジプト側の負担で賄われ、行軍の際には都市や村落に対して略奪行為を行っている。ナポレオンはこうした略奪行為を公式には批判し、繰り返し軍紀粛清を訴えている。しかし、エジプト遠征はもともと糧食などの現地調達を想定しており、遠征立案者としてのナポレオンやそれを命じた総裁政府の責任は重い。しかし、窮地に立たされたナポレオンに千載一遇のチャンスが訪れる。一七九九年七月一一日、イギリス艦隊の支援を受けたオスマン帝国軍がアブキール海岸に上陸し、仏軍守備隊を全滅させたからである。この報せを受けたナポレオンは急遽カイロから駆けつけ、二六日の「アブキールの戦い」で圧勝した。その当時、ヨーロッパ大陸における仏軍は英墺露三カ国の攻勢に押されてライン川とアルプス山脈を結ぶラインまで後退し、国家存亡の危機にあった。また、フランス国内では政治的無能さを露呈した総裁政府への不信感が高まり、とりわけブルジョワ(富裕市民)層の間では重税に対する不満が広がっていた。そこでナポレオンはこの危機的状況をエジプト・シリア戦役失敗を帳消しにする絶好の機会と捉えたのである。八月二三日、ナポレオンはアレクサンドリア港を封鎖していたイギリス艦隊が補給のために小型帆船一隻だけを残してキプロス島へ向かった隙を突き、将兵約三〇〇人とともにフリゲート艦二隻と小型帆船二隻に分乗して脱出し、一〇月九日、フレジュス湾上陸に成功した。暗いニュースが続いて意気消沈していたフランス国民は、ナポレオンを「凱旋将軍」として歓喜の声で迎えることとなった。註④
ナポレオンにとっては起死回生の転機となったこの事件を利用した人物に、総裁アベ・シェイエスEmmanuel-Joseph Sieyès(Abbé Sieyès)がいる。彼はナポレオンやその弟リュシアン・ボナパルト(五百人会議長)Lucien Bonaparte、元外相タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgord、総裁ロジェ・ディコPierre Roger Ducosらと密談を重ね、一七九九年一一月九日、「ブリュメール一八日のクーデター」を決行した。その日の早朝、穏健共和派の議員たちは急進共和派や王党派には招集の連絡をしないまま元老院を開いて議場をパリ郊外のサン=クルー城へと移し、議場警護を名目にナポレオン・ボナパルトをパリ管区師団司令官に任命した。そして同夜のうちにクーデターを支持する穏健共和派議員だけで新憲法制定までの議会休会と臨時政府設置を決定し、リュクサンブール宮殿内にナポレオンとアベ・シェイエス、ロジェ・ディコによる「統領政府」Consulat(一七九九~一八〇四年)が成立した。
こうして三人の臨時統領とリュシアン・ボナパルトなど五百人会及び元老院の代表からなる委員会で新憲法草案の作成が開始された。しかし、委員会ではまもなく、一人の指導者による強権的政治体制を志向するナポレオンと、寡頭制的行政府にこだわるアベ・シェイエスやリュシアン・ボナパルト等との対立が表面化し、軍隊を後ろ楯にしたナポレオンの意見が通ることになる。一二月一三日に委員会が示した「共和暦第八年憲法」によれば、立法府は護民院Tribunat、立法院Corps législatif、元老院Sénatの三院とし、法律案の発議権を持つ政府には統領のもとで法律案および行政庁の命令案を作成する参事院Conseil d'Étatが設置された。政府によって発議された法案は護民院に通達され、立法院によって可決された後でなければ新法として公布されなかった。しかし、立法府には法案の発議権がないばかりか、護民院は法案の審議はするが表決ができず、立法院は表決はするが審議をする権限を持たなかった。しかも両院議員は、二一歳以上の男性有権者による普通選挙で議員候補者が選抜された後、第一統領に服従的な元老院によって選任されるという手続きを経て選出されるため、民意の反映はほとんど皆無であった。また、軍の指揮権や大臣指名権、外交権など重要権限は第一統領に集中させ、(革命期の憲法と異なり)革命の基本理念を記す人権宣言は削除されている。
こうした政府への権限集中は、ナポレオンの政治的意志が革命期の議会政治を否定し、独裁的政治秩序の確立を目指していることを表しており、一二月一五日、新憲法を国民投票に付すために発表された政府声明『フランス国民へ』は「革命は終わった」という印象的な文章で締めくくられている。そして一二月二五日、正式に統領政府(任期一〇年)が動き出したが、元総裁二人は統領職から外され、独裁者との批判を浴びないように配慮してカンバセレスCambacérèsとルブランLebrunを統領に選任したものの、第一統領にはナポレオン自身が就任している。その後、新憲法は国民投票にかけられたが、内務省発表によると賛成三〇一万票・反対一五六二票という大差で国民の支持を受け、一八〇〇年二月七日付けで追認された。二月一九日、ナポレオンは共和派の批判を無視して旧王宮のテュイルリ宮殿に移り住み、革命の終結を印象づけた。この日、パリの中心街はナポレオンの乗る白馬五頭立ての馬車列を中心に華やかなパレードが繰り広げられ、それ以後、宮殿では毎日のように盛大な宴会や儀式が催され、華やかな宮廷文化が再興された。
それではなぜフランス国民は、「ブリュメール一八日のクーデター」に始まるナポレオンの強権政治を許したのか。その理由の第一は、フランス革命から断続的に続いたクーデターの連続で民衆の間に政治的な麻痺感覚があったこと、第二に対仏大同盟の攻勢に危機意識を高めた国民の間に強力な軍事政権に対する期待が集まっていたこと、第三にインフレと失業に苦しむ都市民衆の間に現状打破の気運が高まっていたこと、第四に一七九九年四月の議会選挙で急進共和派が議席を増やしたことで、「総動員令」や富裕者向けの「強制公債」発行が決められ、七月一二日には反革命容疑者の親戚を逮捕して財産を没収する「人質法」を可決するなど「経済活動の自由」や私有財産権が危機に瀕していたことなどが考えられる。但し、新憲法はフランスが共和国であることを謳い、国有財産の取得者がその所有権を剥奪されることがないことも定めており、ナポレオンが単なる革命の「死刑執行人」ではなく、アンシャン・レジームを否定する革命の「相続人」でもあることを示している。そしてナポレオンは、民衆運動と関係の深い急進共和派や旧弊を引きずる王党派を嫌い、巧みな情報操作によって国民一般の願望や不安・恐れを利用する「ポピュリズム」populismの政治を展開するとともに、穏健共和派の支持母体であるブルジョワ(富裕市民)層の要望に応える施策を実施していく。例えば一八〇〇年、ナポレオンは総裁政府時代から続いていた振替銀行の拡大・改組を指示し、パリの大銀行家たちによってフランス銀行が設立された。フランス銀行は、当初、銀行券発行や手形割引、預金業務を行う私立銀行だったが、まもなく「一八〇三年四月一四日法」によって銀行券の独占発行権を付与され、名実ともに「中央銀行」としてフランス産業革命の準備を行うのである。なお、革命期からの課題であった財政再建は、徴税機構の中央集権化や中央銀行としてのフランス銀行設立、ジェルミナ・フランの制定(一八〇三年)などによって好転している。註⑤
三 ナポレオン帝国への道
一八〇〇年五月六日、ナポレオンは露帝パーヴェル一世を対仏戦争から離脱させるとともに、プロイセン、スウェーデン、デンマークには中立を守るよう確約させたうえで、第二回イタリア遠征へと出発した。これは第一回イタリア遠征で獲得した勢力圏をオーストリアによって奪い取られ、新たにジェノヴァを占領されたからである。サン=ベルナール峠を越えたナポレオン軍は、六月一四日、ピエモンテ地方の小村マレンゴMarengoで墺軍と対峙し、始めは劣勢だったがアントワーヌ・ドゼー将軍Antoine Desaix率いる別働隊の支援を受けて辛うじて勝利を収めることができた。また同年一二月三日、モロー将軍Moreau率いるライン派遣軍がホーエンリンデンHohenlindenの戦いで墺軍に勝利を収めた。その結果、墺軍は翌〇一年一月一五日のトレヴィゾTreviso 休戦条約によってマントヴァとヴェネツィアを除く北イタリアから撤退し、二月九日締結のリュネヴィルLunéville講和条約で四年前に結んだカンポ=フォルミオの和約を再確認してフランスによるライン左岸併合を承認した。また、ナポレオンはトスカーナ大公国・モーデナ公国・パルマ公国を支配することでほぼイタリア全土を保護下におき、ナポリ王国に対してもイギリス船舶の領内入港禁止と仏軍の駐留を認めさせた。こうして一八〇二年一月には「イタリア共和国」(一八〇二~一五年)が建国され、ナポレオンが大統領に、ミラノ貴族フランチェスコ=メルツィが副大統領に就任した。一方、一八〇〇年一〇月一日、ナポレオンはスペイン国王カルロス四世との間にサン・イルデフォンソSan Ildefonsoの和を結び、スペインは(第三国に譲渡しないことを条件に)アメリカ大陸のルイジアナをフランスに割譲してフランスの対外戦争に全面的に協力することを約束し、ナポレオンは翌年、カルロス四世の女婿ルドヴィーコ一世にエトルリア王位を与えた。註⑥
こうして、フランスの最大の敵国として残ったのがイギリスであった。ところがそのイギリスで、対仏強硬派のウィリアム・ピット内閣から融和派のヘンリ・アディントン内閣に代わる政権交代があり、三月二七日、英仏両国とフランスの同盟国スペイン、バタヴィア共和国の四カ国間でアミアンAmiens条約が締結された。この条約で、イギリスはマルタ島・ケープ植民地(バタヴィア共和国に返還)・エジプトから、そしてフランスはナポリ王国・ローマ教皇領からそれぞれ軍の撤収を約束し、ライン川左岸やイタリアにおけるフランスの優越権が認められた。またエジプトでは、一八〇一年八月に仏軍がイギリス=オスマン帝国連合軍に降伏していたが、そのエジプトから英軍が撤退することはナポレオンにとって大きな収穫であった。註⑦
さて、アミアン条約締結で束の間の平和を実現したナポレオンは、今度は革命勃発時から続いてきたカトリック教会との対立という問題の解決に乗り出した。マレンゴ会戦後の一八〇〇年六月一八日、信心深いとは到底思えないナポレオンが突然、ミラノ司教座聖堂のミサに出席した。これが教皇庁への接近のサインとなり、翌〇一年七月一六日、教皇ピウス七世Pius VII(在位一八〇〇~二三)との間に宗教協約(コンコルダートconcordat)を結んで関係修復を図った。この協約で、教皇はフランス王国に替わってフランス共和国を正式に承認しただけでなく、革命期に没収された教会財産の返還要求を行わないことを認めた。そして、第一統領ナポレオンは国内の司教を任命する権限を有し、司教は政府の同意を得て司祭を任命するが、その際にはそれぞれフランス国家への忠誠宣誓が求められた。その見返りとして聖職者は国家から俸給を支給される存在であることも確定した。こうしてローマ=カトリック教が国教に準ずる宗教となることで国民の宗教感情を満足させ、同時にカトリック教会は国家に服従する組織となった。すなわち、聖職者民事基本法の制定に始まる教会との対立に終止符が打たれ、王党派の地盤を崩すことにも成功したのである。コンコルダートが締結されて最初の復活祭にあたる一八〇二年四月一八日、宗教協約の公告がなされ、革命期にパリ民衆に破損されてワイン倉庫に転用されていたパリ司教座聖堂(ノートルダム大聖堂)において開催された式典にはナポレオン夫妻の姿もあった。註⑧
アミアン条約と宗教協約の締結はナポレオンを終身第一統領に押し上げ(一八〇二年八月二日)、八月四日には「共和暦第一〇年憲法」が成立した。また一八〇四年三月二一日に公布された「フランス人の民法典」Code civil des Français(一八〇七年九月三日、ベルギー、ライン左岸地方、オランダ王国にも適用され、「ナポレオン法典」Code Napoléonと改題)は国民の支持をさらに高めた。この法典は身分編・財産編・財産取得編に分かれており、全文二二八一条に書かれた内容は、万人の法の前の平等や個人意思の自由、私的所有権の絶対、家族の尊重などが記載され、フランス革命の精神が息づいていると言われる。しかし、民法典の内容は必ずしも革新的なものとは言えず、時代に逆行する条文も多い。例えば、革命期の一七九二年九月に成立した離婚法では「性格の不一致」を理由として夫婦のいずれか一方からの申し立てで離婚が認められたが、民法典では一方からの離婚申し立ては姦通の場合のみと限定した。また、民法典では既婚女性を法的無能力者と見なして訴訟行為を認めず、夫の協力または書面による同意なしには財産の贈与・譲渡や抵当権の設定もできなかった。そして、民法典は植民地にも適用されたが、あくまでも現地の白人を中心とするフランス国籍取得者にのみ適用された。一七九四年二月四日の国民公会では「プリュヴィオーズ一六日法」が決議され、植民地における奴隷制度の廃止を決定していたが、ナポレオンは「黒いジャコバン」と呼ばれた黒人指導者トゥサン・ルヴェルチュールToussaint Louverture率いるハイティ独立運動を鎮圧するために一八〇一年一二月から翌年二月にかけて仏西連合軍三万人を派遣している。また、一八〇二年五月二〇日には植民地における奴隷制度復活を布告した。註⑨
さて、一八〇四年五月一八日、ナポレオンを皇帝とし、フランスの政体を「帝政」とする議案が元老院を通過し、一一月には世襲皇帝制の是非を問う国民投票が行われたが、ナポレオンは(投票率こそ約五〇%と低かったが)賛成約三五〇万票、反対二五七九票と圧倒的支持を得た。 そして同年一二月二日、ノートルダム大聖堂で皇帝ナポレオン一世Napoléon I(在位一八〇四~一四、一五)の聖別式(戴冠式)が執り行われた。ナポレオン帝国(第一帝政)の誕生である。聖別式の様子は新古典主義の画家ダヴィドJacques-Louis Davidが描いた絵がルーヴル美術館とヴェルサイユ宮殿に展示されているが、シャルルマーニュ帝の古式に則って行われたことがよく分かる。ただし、聖別式に呼ばれた教皇ピウス七世は灌油を与えただけで、金の月桂冠の戴冠はナポレオン自身が行っており、教皇権に対する皇帝権の完全優位を見事に表している。また、ナポレオン一世は聖別式の三週間後に開かれた議会で「神と国民の意志が私をして玉座に就かせた」と述べているが、君主としての正当性を神の聖別だけでなく国民の意志(同意)にも求めている。そしてまた、彼は、極めて巧妙に中央集権化を進める一方で、言論・出版の統制を強化したが、フランス国民の多くは〈皇帝独裁〉を歓迎したのである。
ナポレオン一世の治世は久しぶりの安寧秩序を実現した時期であり、ブルジョワは聖職者や亡命貴族の土地を入手して社会的上昇の機会を得た。既に亡命貴族の多くは一八〇二年四月に制定された恩赦法によって帰国を果たし、彼らの旧所領が未だ公売されずに国有地のまま残っている場合は返還され、公売済みの場合でも先買権を与えられていた。そこでナポレオンは、翌月にレジョン・ドヌール勲章を制定して、新たに台頭してきたブルジョワ層に名誉と精神的満足を与えることにした。また一八〇八年三月、ナポレオン一世は旧貴族とは別に新しい貴族として爵位を与える制度を整えた。これは出自による身分階層ではなく、国家への寄与に応じた能力と貢献による階層秩序であると強調して身分的特権を与えることはなかったが、大公・公爵・伯爵・男爵・シュヴァリエChevalier(騎士)の五爵位からなる帝国貴族制度の出現は明らかに平等原理を否定している点に変わりはなかった。一方、都市労働者はストライキの禁止や「労働手帳」の携帯を強制されたが、賃金の上昇や食糧事情の改善に満足して帝政を支持し、中小農民たちは既得権の保護を求めて保守化したのであった。したがって、フランス革命によって出現した「国民国家」ではあったが、第一帝政期のフランスでは未だ「国民」の統合は未成熟であり、ナポレオンの強権政治に対する批判勢力も育っていないと言えよう。
また、統領政期・第一帝政期の人口動態に注目してみると、現在のフランス本土領域の人口は一八〇一年の二七三五万人から一八一六年の三〇五七万人に急増していることが分かる。この時期は相次ぐ戦争による多数の戦死者を出したが、それにもかかわらず人口が増加した要因は、幼児死亡率の低下や経済の活性化にあると思われる。一方、都市人口はマルセイユ、ボルドー、アンジェ、ブレスト、エクスなど一五都市ではイギリス貿易の途絶や植民地の喪失が原因で減少したが、首都パリやリール、オルレアン、カーン、クレルモンなど八都市は農村部からの流入によって起こる社会増が顕著となった。その当時、政府予算に占める公共事業費が急増し、とりわけパリでは政府と市の財政資金のほかに帝室費と特別税金庫(一八〇五年一〇月設置、一〇年一月「特別公共財産」と改組)から、一八〇〇~一三年の間に合計二億六二〇〇万フランという巨費が投じられ、テュイルリやルーヴルなどの宮殿の改築、エトワールとカルーゼルの両凱旋門、リヴォリ通り、ピラミッド通り、オステルリッツ橋、イエナ橋、マドレーヌ聖堂、証券取引所(現在のユーロネクスト)、ヴァンドーム広場記念碑(アウステルリッツ戦勝記念碑)など壮観な建築物が建てられた。また、シャトレの泉水や街灯の設置、下水道や卸売市場、ウルク運河の建設、ペール・ラシェーズ墓地の整備などがなされたのもこの時代である。建設ラッシュは一八一〇年三月の土地収用法制定でさらに促進され、工業生産力の向上など目覚ましい経済復興はパリをヨーロッパ最大の金融市場へと押し上げた。しかし、パリの経済発展を支えた地方出身者は正規の「労働者手帳」を持たない未熟練労働者が多く、不安定な生活や貧困に喘ぐ人々がほとんどであった。註⑩
さて、一八〇三年五月一六日にイギリス海軍が自国の港や沖合にあったフランスとバタヴィアの商船を拿捕したことが原因で、英仏両国は再び戦闘状態に入った。そして翌〇四年五月一〇日、イギリスでは対仏強硬派のウィリアム・ピット内閣が復活し、一八〇五年八月九日には英露墺三カ国による第三回対仏大同盟が結成された(一カ月後にナポリ王国も参加)。危機感を抱いたナポレオン一世はイギリス本土上陸作戦を立て、英仏海峡を望むブーローニュに軍事基地を建設して総勢五〇万人にも及ぶ大陸軍を編制した。フランス革命の原理と成果の「相続人」として皇帝の座に就いたナポレオン一世ではあったが、彼にとっては「一七九一年憲法」に定められた侵略戦争放棄という理念は全く無縁のものでしかなかった。こうしてフランスの兵員適齢年齢男性の約三割が軍務に就くようになり、一八〇五年四月には一八~二〇万人の兵士がブーローニュに集結した。ナポレオン一世はイギリス上陸と対オーストリアの両面作戦を発動したが、英仏海峡の制海権を握るために派遣した仏西連合艦隊(三三隻)は、一〇月二一日、トラファルガル沖Trafalgarの海戦でまたしてもネルソン提督率いるイギリス艦隊(二七隻)に敗れてしまう。註⑪
その間、ナポレオン一世は五月二六日、イタリア共和国を改めた「イタリア王国」(一八〇五~一四年)の王座に就き、副王としてはボアルネ公(ウジェーヌ・ボアルネ)を据えて大陸覇権に自信を深めていた。ところが、トラファルガル沖海戦の惨敗でオーストリアの動向に不安を抱いたナポレオン一世は軍を進め、一〇月一七日、バイエルン公国に侵攻してきた墺軍をシュトゥットガルト近郊のウルムUlmで破り、一一月一三日にはウィーン入城を果たした。そこで墺帝フランツ一世(神聖ローマ皇帝フランツ二世)はモラヴィアへと逃避し、露帝アレクサンドル一世とミハイル・クトゥーゾフが率いていた露軍と合流して態勢を立て直した。一二月二日、仏軍と露墺同盟軍はブルノ近郊のアウステルリッツAusterlitzで相まみえ、戦力的に不利だった仏軍が勝利を収める結果となった。こうして一二月二六日、プレスブルクPresbourg(現在はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)の和約が成立し、フランスはオーストリアから旧ヴェネツィア領東部諸州やイストリア、ダルマティアを奪い、ヴェネツィアをイタリア王国に併合して第三回対仏大同盟を解散に追い込んでいる。その当時のフランスでは、巨大な軍隊の経費(一八〇三~〇五年の軍事費六億三〇〇〇万フラン)が国家財政を圧迫し、フランス銀行の準備金減少から金融不安を引き起こし始めていたが、オーストリアから獲得した五〇〇〇フローリンという巨額の賠償金で一息つくことができた。
翌一八〇六年二月、 ナポレオン一世はナポリ王国の征服にも成功し、三月三〇日にはシチリア島に逃亡したフェルディナンド(ブルボン家)の後継国王として兄ジョゼフ(ジュゼッペ一世Giuseppe I、在位一八〇六~〇八)を即位させた。なお、兄ジョゼフがスペイン王として移った後のナポリ王には、ナポレオン一世の娘婿ジョアシャン・ミュラJoachim Murat-Jordyが継承してジョアッキーノ一世Gioacchino I(在位一八〇八~一五)となる。また、一八〇六年六月二二日には弟ルイLouis Bonaparteもバタヴィア共和国を改組した「オランダ王国」(一八〇六~一〇年)の国王ローデウェイク一世Lodewijk I(在位一八〇六~一〇)として即位し、まさに「ナポレオン帝国」が完成しようとしていた。
その頃ドイツでは、同年七月に普墺両国を除く全ドイツ諸邦同盟の「ライン同盟」Rheinbund(盟主はナポレオン一世)が成立し、翌月には墺帝フランツ一世が神聖ローマ皇帝位の放棄を行ってオットー一世以来の神聖ローマ帝国(九六二~一八〇六年)が名実ともに消滅した。フランスの覇権が中部ドイツまで及んだことで危機感を高めたプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、七月にまずロシアと同盟を結び、ついで一〇月六日、第四回対仏大同盟(一八〇六~〇七年)を成立させ、九日には対仏宣戦布告を発した。しかし、ナポレオン一世率いる仏軍はバイエルンからザクセン方面へと進撃し、一〇月一四日のイエナ・アウエルシュタットJena und Auerstedtの戦いで大勝利を収めた。同月二五日、首都ベルリンが陥落した後、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は東プロイセンに逃れてケーニヒスベルクKönigsberg(現在はロシアのカリーニングラード)に首都機能を移し、露軍の援軍を仰いだ。翌一八〇七年一月、ケーニヒスベルク攻撃を開始した仏軍は、二月七~八日のアイラウEylauの戦い(現在はロシアのバグラチオノフスク)で普露同盟軍に苦戦を強いられたものの、六月一四日のフリートラントFriedlandの戦いで一方的勝利を収めることに成功した。その結果、七月に入ってネマン川(ニーメン川)沿いの町ティルジットTilsit(現在はロシアのソヴィェツク)で講和が成立した(仏露間は七日、仏普間は九日に締結)。ナポレオン一世はこの条約で将来の対英軍事同盟への参加を期待してロシアには領土の割譲や賠償金を求めなかった。その一方でプロイセンに対しては領土を半減させ、一億二〇〇〇万フランという莫大な賠償金を課した。そして、プロイセンが失った南東部の旧領地にヴェストファーレン王国(一八〇七~一三年)を建国して弟ジェロームJérôme Bonaparteを国王(在位一八〇七~一三)に据え、西部の旧領地には普領ポーランドを独立させてワルシャワ公国(一八〇七~一五年)として、ともにライン同盟に参加させた。こうしてナポレオン一世は中欧及び東欧にも覇権を拡大し、プロイセンの降伏とロシアとの和解成立で第四回対仏同盟は瓦解したのである。
四 ナポレオン帝国の崩壊
一八〇六年五月、イギリス海軍がアムステルダムなどナポレオン帝国の港湾都市を海上封鎖したのに対して、同年一〇月にベルリン入りを果たしたナポレオン一世は、一一月二一日、イギリスと大陸諸国との間における通商・通信を禁ずる「大陸封鎖令」(ベルリン勅令)を発して反撃に出た。彼の狙いは、 第一次産業革命の最中にあったイギリスを経済的に〈封じ込める〉ことでその繁栄を挫き、大陸諸国にはフランスと貿易をさせることでフランスをヨーロッパ大陸における新たな経済的覇者とすることにあった。翌年一一月二三日と一二月一七日の「ミラノ勅令」でさらに封鎖が強化され、その結果、経済不況に苦しんだイギリスはナポレオン戦争に中立を宣言したアメリカ合衆国と対立して一八一二年には米英戦争(一八一二~一四年)に発展している。
ところが、大陸封鎖令は大陸諸国にとっても大変迷惑な命令だった。大陸諸国の中で貿易を経済の基盤としていたオランダやスウェーデン、工業が比較的発展していた西南ドイツ諸邦、農業国のロシア、プロイセン、イタリア、スペインなどにとって、イギリスとの貿易が止まることは大打撃であった。特に一八〇四年三月のアギャン公処刑事件以来、反ナポレオン政策を強化したスウェーデン国王グスタフ四世は、大陸封鎖令への参加を拒否した。そこでナポレオン一世は、一八〇七年九~一〇月、露帝アレクサンドル一世とドイツ中央部の町エルフルトで会談し、スウェーデンの属領フィンランドの「自由処分」を約束した。一方、スウェーデンはイギリスとの同盟関係樹立を模索したが、イギリスはそれには応じず、デンマークやロシアとの間で戦端を開いた。そこで露帝アレクサンドル一世はスウェーデンにナポレオン一世との和解を持ちかけたが、グスタフ四世の拒否でロシア・スウェーデン戦争(一八〇八~〇九年)へと突入し、デンマークとフランスもスウェーデンに対して宣戦布告をした。、その結果、戦いに敗れたスウェーデンは、九月一七日、フレデリクスハムンFredrikshamn条約でフィンランドとオーランド諸島の割譲をロシアに認め、翌年一月に結んだパリ条約で大陸封鎖令に従うことを約束した。また同年五月一七日、ナポレオン一世は大陸封鎖令違反を理由に教皇領併合を布告し、教皇ピウス七世は破門で対抗したが七月六日には逮捕されてサヴォナに囚われの身となった(一八一二年、フォンテーヌブロー城に幽閉)。そして、一八一〇年七月にオランダ王国、一二月にはハンブルク、リューベックなどのハンザ都市に加えて従属国の一つであったオルデンブルク公国を併合して最大版図を実現し、「ナポレオン帝国」が完成したのであった。註⑫
しかし、ナポレオン帝国の完成は、その反動でさまざまな反ナポレオン運動を生み出した。例えば、オーストリアはナポレオン帝国の覇権に挑戦するためにフランスの同盟国バイエルン王国に進軍し、イギリスとともに第五回対仏大同盟(一八〇九年)を結成した。ナポレオン一世は急遽二〇万の大軍で進撃し、五月三日にはウィーンを占領し、アスペルン=エスリング Aspern-Esslingの会戦(五月二一~二二日)では多くの死傷者を出したものの、七月五~六日のワグラムWagramの戦いではイタリア・ポーランド・バイエルンの支援を受けて辛うじて勝利を収めた。一〇月一四日、ウィーンで締結されたシェーンブルンSchönbrunn条約によって、フランスはトリエステとダルマティアを、バイエルン王国はザルツブルクとティロルを、ワルシャワ公国は北部ガルツィアとルブリンをそれぞれ獲得し、参戦していないロシアも東部ガルツィアを得ている。その結果、オーストリアは一時的に内陸国となっただけでなく、陸軍を一五万人に制限され、さらには八五〇〇万フランの賠償金を課せられるなどの屈辱を味わった。また、ナポレオン一世の支配に屈したプロイセンではシュタイン首相、ハルデンベルク首相による「プロイセン改革」(一八〇七~一四年)という〈上からの近代化〉を断行した。註⑬
一方、ピレネー山脈の向こうでは、スペインの抵抗が半島戦争に発展する。フランス革命以前のスペイン王国ボルボン朝では、国王カルロス四世が宰相マヌエル・ゴドイを登用して仏=ブルボン家との同族利害重視の外交を展開していたが、一七九三年以降は戦争状態が続いた。そして「テルミドールの反動」後は一転して友好関係を維持し、総裁政府との間でバーゼル平和条約(七月二二日)を締結している。しかし、一七九六年八月のサン・イルデフォンソ条約締結で今度はイギリスと戦端を開くことになり、一八〇一年には仏西連合軍としてポルトガル王国ブラガンサ朝への侵攻に発展した。一八〇七年七月、ナポレオン一世は、当時ヨーロッパ大陸側で唯一フランスに服さないポルトガルに対して、大陸封鎖令の遵守とイギリスとの同盟関係の破棄を要求した。そして一〇月には、スペイン宰相ゴドイとの間でポルトガル南端のアルガルヴェと中南部アレンテージョの付与を交換条件としてスペイン領内における仏軍の通過権を要求し、フォンテーヌブローFontainebleau条約(一〇月二七日)として結実した。ナポレオン一世の言質を真に受けたゴドイは、フランスのジュノ将軍Junot率いる仏西連合軍としてポルトガル侵攻を開始したが、ナポレオン一世の真の狙いはポルトガルへの進軍のみならず、スペイン北部・中央部の要衝を抑えることにあった。ようやくそのことに気づいたゴドイは、アランフェス離宮に滞在していた王室を南部へと退避させたが時すでに遅く、三月一七日には反ゴドイ派貴族が扇動する民衆暴動が発生している。その結果、カルロス四世は退位を余儀なくされ、民衆の支持を受けた息子のフェルナンド七世が即位することになった。フェルナンド七世は民衆の熱狂的歓迎のなかで首都マドリード入りを果たしたが、父王カルロス四世が退位宣言を撤回したために深刻な父子対立に発展した。そこで、ナポレオン一世は言葉巧みにスペイン王室の父子をピレネー山脈の麓の町バイヨンヌに呼び出し、マドリードに残っていたフランシスコ・デ・パウラ王子もフランスに移るよう画策した。五月二日朝、宮廷を出発せんとする王子を阻止しようとマドリード市民が蜂起し、それがフランス兵との衝突に発展した(一八〇八~一四年、半島戦争)。宮廷画家ゴヤGoyaの名作『五月三日』は、 翌三日にかけての仏軍による虐殺を描いた作品である。
その後、ナポレオン一世はカルロス四世・フェルナンド七世の双方に多額の年金と引き換えに退位を強制し、六月四日には自分の兄ジョゼフ(ナポリ王ジュゼッペ一世)を西王ホセ一世José I(在位一八〇八~一三)として即位させ、ボナパルト朝(一八〇八~一三年)を成立させた。しかしながら、スペイン各地に抵抗組織「地区評議会」が結成され、九月には一三の地区評議会を束ねる「中央評議会」に発展した。彼らは七月一九日のバイレンBairénの戦いで仏軍に勝利を収め、ホセ一世をマドリードから追放した。こうした事態に驚いたナポレオン一世は、一〇月一二日のエルフルト協定で「オーストリアがフランスに対して戦争を起こした場合、ロシアはオーストリアに対して敵対する宣言をし、フランスと共通の利益のために手を結ぶ」(仏露協定第一〇条)ことを約束し、後方の安全を確保した気になった。ところが、協定の交渉を委任されていた侍従長タレーランは、ナポレオン一世のヨーロッパ制覇という野望を阻止するためには露墺同盟が不可欠と考えて、協定文の中に「ロシアの対墺軍事行動」という文言を意識的に入れなかった(「タレーランの裏切り」)。また彼は、オーストリア駐仏大使メッテルニヒ(後の墺外相・宰相)に対して、露帝アレクサンドル一世にはオーストリア侵攻の意志がないことも伝えている。そうとも知らずにナポレオン一世は自ら大陸軍を率いてスペインを攻撃し、一二月四日にはマドリードに入った。しかし、タレーランと警察大臣フーシェ Joseph Fouchéの策謀や墺軍の作戦行動を知らされたナポレオン一世は急遽パリに戻り、即刻タレーランを免職に処した。しかし、一八一二年になってロシア遠征の必要から軍隊の一部を引き上げると、ポルトガルに駐屯していた英軍がスペイン領内に進撃を開始し、七月二二日、アラピレス Arapilesの戦いで大勝利を収めた。ホセ一世は宮廷をバリャドリーに遷して反撃を試みたが、スペイン民衆のゲリラ活動や英葡両軍の軍事力の方が上回り、翌年六月末にはフランス国境へと逃れ、スペイン国王の座から退いた。註⑭
話を、大陸封鎖令まで戻そう。ナポレオン帝国の栄光と挫折の潮目は、一八一一年に突然現れた。その前年、ナポレオン一世がハンザ都市やオルデンブルク公国を併合すると、ロシア帝国内にはフランスへの警戒心が一気に高まり、中立国船舶のロシア入港を許可するとともに、絹織物やワインなどフランス製品に対する関税引き上げを実施した。これは一向に効果の上がらない大陸封鎖の実情を見て取ったロシアの大胆な政策変更を意味していたが、一八〇四年からの対ペルシア戦争や〇六年からの対オスマン帝国との戦争を有利に進めただけでなく、ロシア・スウェーデン戦争(一八〇八~〇九年)に勝利を収めたことで強気に出たとも言える。それに対してナポレオン一世は、対ロシア戦争を意識して一八一一年以降の国家予算の大幅増額を指示し、陸軍省・海軍植民地省の予算は予算総額の六〇パーセントを占めるに至った。ところが、フランス国内ではブルジョワ(富裕市民)層が経済不況に苛立ちを募らせ、都市民衆や農民たちは食糧危機や増税、物価上昇、そして徴兵に苦しんでいた。特に一八一一年から翌年にかけての凶作は庶民の暮らしを直撃し、一八一二年三月、カーンでは食糧暴動が発生している。また、一八〇四年二月に創設された「一括税」(間接税)は翌年段階では総額五三〇〇万フランだったが、増税が続いた結果、一八一〇年には一億四五〇〇万フランにまで達し、一八一一年の歳入予算総額一〇億五六〇〇万フランに占める間接税四億六五〇〇万フラン(登記印紙税一億八九〇〇万フラン・関税一億四八〇〇万フラン・その他一億二八〇〇万フラン)の割合は約四四パーセントに達している。そして、ナポレオン一世は一八一二年二月二四日にプロイセン、そして三月一四日にオーストリアと軍事同盟を締結して対ロシア戦に備え、ロシアも四月七日に「通商の自由」を宣言して「大陸制度」Système continentalからの離脱を表明し、九日にはスウェーデンとの軍事同盟を締結するとともに、五月二八日、ブカレスト講和条約で露土戦争(一八〇六~一二年)を終結させてフランスとの対決姿勢を鮮明にした。
ナポレオン一世はこうした内外の閉塞状況を打破するためにロシア遠征を決断した。一八一二年五月九日にサン=クルー宮殿を発ったナポレオン一世は、ザクセンの首都ドレスデンに寄った後でワルシャワ公国、プロイセン王国を通過し、ネマン川を渡ってロシア帝国領内へと侵攻した。召集時の大陸軍は、皇帝直属の中央攻撃軍二五万人、ボアルネ公とジェローム・ボナパルトが指揮する前線軍一五万人、遊撃部隊六・七万人、予備軍二二・五万人の総勢約六九万人を超える大軍であった(以下、大陸軍の兵員数は異説が多いので一つの説と理解してほしい)。しかし、その内訳は仏軍が四五万人で、残りの同盟軍はオーストリア、ポーランド、バイエルン、ザクセン、プロイセン、ヴェストファーレン、その他のライン同盟諸邦、イタリア、スペイン、クロアティア、ポルトガル、オランダ、ベルギーからなる混成部隊であった。六月二三日、大陸軍は露領ポーランドへの進軍を開始したが、迎え撃つ露軍約九〇万人を指揮したバルクライ司令官は戦力を温存したまま退却を繰り返す焦土作戦をとり、遊撃隊のコサック騎兵や露軍別働隊が大陸軍の補給線や側背を脅かした。そのため大陸軍は脱落者が相次ぎ、ネマン川を渡るときに四七・五万人、七月のヴィルテブルクで三七・五万人、八月一七日のスモレンスクSmolenskの戦いで一五・五万人、九月七日のボロディノBorodinoの戦いで一三万人と減少し続けた。スモレンスクにおける戦闘後、ロシアの司令官はミハイル・クトゥーゾフに代わったが露軍の焦土作戦に変化は見られなかった。九月一五日、大陸軍一一万人がモスクワ入城を果たした時、その晩のうちに市内各地から火の手が上がり、三日間燃え続ける大火となった。こうして大陸軍は冬を前にロシアの打倒ばかりか食糧・医薬品の入手にも失敗し、一〇月一九日、モスクワからの退却を余儀なくされた時には一〇万人となっていた。その後、一〇月二四日のマロヤロスラヴェツMaloyaroslavetsの戦いでは辛うじて勝利を収めたが、一一月に入ると飢えや寒さ、疾病による死者・脱落者が相次ぎ、脱走兵も急増した。一一月三日のヴャジマで五万人、一一月九日のスモレンスクで三・七万人、一一月二八日のベレジナ川で三万人と兵力が激減し、一二月五日、ナポレオン一世は娘婿ジョアシャン・ミュラ(ナポリ王ジョアッキーノ一世)に後事を託して帰国の途についた。しかし、そのミュラ元帥もナポリ王国を守るためにボアルネ公に部隊を託して脱走し、ネマン川を渡るときの大陸軍は僅か五〇〇〇人の兵士になっていたと言う。
ナポレオン敗北の報せは瞬く間にヨーロッパ中を駆け巡り、諸国民は一斉に解放戦争(諸国民戦争)Befreiungskriegeに立ち上がった。ナポレオン一世による大陸制覇は侵略者フランスに対する反発から「ナショナリズム」(国民主義・民族主義)nationalismを呼び起こし、各国の民衆間に「国民意識」を植え付け始めたからである。一二月三〇日、プロイセンの将軍ヨルクが独断で露軍に領内通過を認めるタウロッゲンTauroggen協定を結び、プロイセン部隊が大陸軍から離脱したことが明らかとなり、それを契機にベルリンやミュンヘンなど大都市で反ナポレオンを標榜した民衆反乱が発生した。一八一三年二月二二日、プロイセンはロシアとの軍事同盟(カーリッシュKalisch条約)を成立させて旧領の奪回に乗り出し、三月一七日には正式に対仏宣戦布告を発した。
これに対してナポレオン一世は、新兵を徴募(一月一一日に三五万人、四月三日に一八万人、八月に三万人、一〇月に二八万人の徴兵令布告)して仏軍の再建を急いだ。何故なら、ロシア遠征で多くの戦死者・捕虜・脱走兵を出した仏軍には、スペイン派遣軍を除くと約七万五〇〇〇人の兵力しか残っていなかったからである。しかし、ロシア遠征軍の敗北は、国民の急激な「ナポレオン離れ」を引き起こし、参事会調査官の記録によると約二五万人もの徴兵拒否者がでている。四月一五日、サン=クルー宮殿を出発したナポレオン軍二〇万人はザクセンに入り、リュッツェン Lützenの戦い(五月二日)、バウツェンBautzenの戦い(五月二〇~二一日)において普露同盟軍を敗走させ、六月四日にはオーストリアの仲介で休戦協定を結ぶことに成功した。しかし、その間にもスペインでは、ウェリントン率いる英葡西同盟軍が仏軍を圧倒して北上していた。七月にスウェーデンが、そして休戦期間(~八月一〇日)が終了した八月一二日にはオーストリアも第六回対仏大同盟に参加し、一〇月には長年フランスと同盟関係にあったバイエルン王国が敵側に走った。八月以降、仏軍の劣勢は誰の目にも明らかとなり、一〇月一六~一九日のライプツィヒLeipzigの戦いでは、仏軍一九万人が同盟軍三六万人に包囲攻撃され、戦死者四万人・捕虜三万人を出して敗走した。戦闘最中の一八日にザクセンとヴュルテンベルクが同盟側に寝返ったのに続いて、一一月二日ヘッセン、三日ヴュルテンベルク、二〇日バーデンと相次いで同盟側に参加し、ライン連邦は完全に崩壊した。また、オランダでは仏軍撤退後の一二月二日、イギリスの支援を受けたオラニエ公ウィレム一世がアムステルダムに入城した。そして、スペインでは一〇月八日に仏軍が敗北し、一二月一一日のヴァランセ Valençay条約締結でフェルナンド七世の即位を承認した。
一方、一一月九日にパリに戻ったナポレオン一世は、一九日、新たに一五万人の徴兵を決めて軍勢の立て直しに着手したが、翌一四年一月には同盟軍がフランス東部に侵攻してきた。同月二五日、ナポレオン一世は兄ジョゼフに首都防衛を任せて、同盟軍をシャンパーニュ地方で迎撃した。ナポレオン軍は最初のうちこそ勝利したが、南方ではウェリントン軍がピレネー山脈を越えてフランスに侵攻し、ボルドーやリヨンが占領された。こうして三月三一日、ついにパリが陥落し、ナポレオン一世はパリ南東のフォンテーヌブロー宮殿に入った。そして、敗戦と国土の荒廃を目の当たりにした国民、とりわけ名望家層の間には皇帝不信と和平待望の気運が急速に広まった。四月一日、元老院はタレーランを首班とする臨時政府の樹立を宣言し、翌日には皇帝廃位を決議した(三日には立法院も皇帝廃位を決議)。それに対してナポレオン一世は、四月三日、近衛部隊にパリ突撃を下知したが、マルモン元帥Marmontなど将軍たちの反対(四月四日、「将軍連の反乱」)に遭い、ついに観念した。六日には退位宣言への署名に追い込まれ、一一日には同盟軍に対して無条件退位を承諾した。ナポレオン一世は得意の絶頂にあった一八〇九年一二月一五日に妻ジョゼフィーヌと正式離婚し、翌一〇年四月一日、墺帝フランツ一世(ハプスブルク家)の娘マリ・ルイーズMaria Louisa(一七九一~一八四七)と再婚していたが、一八一四年三月二九日、フランツ一世の使者を名乗る人物が現れて妻と嫡男(ローマ王ナポレオン二世Napoléon II、一八一一~三二)をウィーンへと連れ去った。
すべてを失ったナポレオンは自殺を図ったが未遂に終わり、四月二〇日、フォンテーヌブロー宮殿の「告別の庭」に面した馬蹄形階段の上で兵士たちに別れを告げ、五月四日には故郷コルシカ島に近いエルバ島へと流された。それから間もない五月二九日には、長く連れ添った前妻ジョゼフィーヌが風邪をこじらせてマルメゾン城で亡くなっている。気落ちしたナポレオンは、妻マリ・ルイーズと息子を呼び寄せる手紙を書いた。だが、ウィーンへ戻ってナイペルク伯爵に心を寄せるようになったマリ・ルイーズからの便りが届くことはなかった。九月一日、替わりに来島したのは愛人ヴァレフスカ伯爵夫人マリアMarie Walewska(一七八六~一八一六)とその子アレクサンドルAlexandre(一八一〇~六八)だったが、ナポレオンは三日後には帰している。註⑮
さて、ナポレオン失脚後のフランスでは、タレーランの働きでブルボン朝が復活し、一八一四年五月三日に亡命先のイギリスから戻ったルイ一八世Louis XVIII(ルイ一六世の弟、在位一八一四~一五、一五~二四)が即位した。そして、一三日に新政府が樹立され、三〇日の第一次パリ講和条約締結でフランスの国境線は一七九二年のそれに戻すことで決着した。また、六月四日の「一八一四年憲章」Charte constitutionnelle de 1814の公布で立憲王政が復活している。しかし、ブルボン復古王朝の成立を歓迎したのはごく一部の旧貴族や王党派だけで、多くの国民は新政府の反動的な政策に幻滅し、軍人や貧困大衆ばかりかブルジョワ層までが反政府側にまわった。
そして、一八一四年九月一日、ヨーロッパを混乱の渦に巻き込んできたフランス革命、ナポレオン戦争の後始末を相談するウィーン会議がシェーンブルン宮殿において開催される運びとなった。しかし、参加列国の利害が錯綜してなかなか結論を見いだせないでいた翌一五年二月二六日、ナポレオンは兵士約七〇〇人とともに七隻の船に分乗し、エルバ島からの脱出を試みた。三月一日、ゴルフ・ジュアンに上陸したナポレオンは、カンヌのノートルダム・ド・ボンボヤージュ教会に野営した後、ドーフィネの山地を通ってグルノーブルに至る「ナポレオン街道」を経てリヨンに入り、三月二〇日にはパリのテュイルリ宮殿の主となった。当時の新聞の見出しは目まぐるしく変化し、最後はナポレオン歓迎一色と化した。
こうして皇帝に復位したナポレオン一世は、ブルジョワ(富裕市民)層の支持を固めるために革命期に行われた国有地売却の不可侵性を改めて宣言し、それまで仲違いをしていた弟リュシアンの協力を得ながら、議会権限の拡大や思想・出版の自由を認めるなど自由主義的改革を断行した。ナポレオンはパリへの北上の途中、リヨンで帝国憲法改正を表明していたが、四月二四日、自由主義者バンジャマン・コンスタンHenri-Benjamin Constant de Rebecqueが起草した憲法改正案を帝国憲法(一七九九年一二月一三日憲法、一八〇二年八月二日元老院令、一八〇四年五月一八日元老院令)附加法として発表した。附加法によって議会は、皇帝の指名によって選ばれる貴族院と選挙によって選出される衆議院の二院制となり、立法権は皇帝と両院が行使できることになった(但し、法案発議権は政府のみにあり、両院に与えられたのは修正案提出権である)。また、この附加法では法の前の平等、信仰・思想・出版の自由や、封建貴族・封建的諸権利・領主権・教会十分の一税などの復活を認めないとし、国有財産売却の確定を宣言している。しかし、この自由主義憲法に対する名望家たちの反応は冷たく、彼らの気持ちはナポレオンから離れたままであった。六月一日、パリのシャン・ド・マルス公園で新憲法発布の式典が開催され、カンバセレスから「国民投票の結果、帝国憲法附加法が賛成一五三万二五二七票・反対四八〇二票の圧倒的多数で承認された」という報告がなされた。しかし、五月に行われた選挙を受けて六月三日に召集された衆議院議員六二九名のほとんどは名望家たちであり、皇帝に忠誠を誓う議員は三〇名に満たなかったと言われる。一方、四月半ば以降、ナントやレンヌなどブルターニュ地方で起こったフォブール連盟運動は短期間のうちに全国各地に広まった。しかし、革命期を想起させるこの運動は、パリの場合はボナパルト派による中産階級中心の運動であったが、それ以外はジャコバン派が指導する手工業者や労働者の運動であった。都市民衆の政治運動に恐怖心や嫌悪感を抱いていたナポレオン一世は、フォブール連盟運動に肩入れすることを避けて名望家層に接近するが、もはやかつての権威やカリスマ性は色あせ、統治能力の脆弱性は隠しようがなかった。
一方、ナポレオン復権の報せに驚いた英墺普露四カ国は、三月二五日、それぞれ一五万人の兵士の供出、二〇年間にわたる同盟関係の維持を約束したショーモンChaumont条約(一八一四年)を再確認し、フランス国境に約七〇~八〇万人(一説によると六五万)の兵力を集結させた。それに対してナポレオン一世は、六月一二日、第七回対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破する必要があると判断して出撃した。仏軍の兵力は一二万四〇〇〇人で、迎え撃つウェリントン公アーサー・ウェルズリー(後の首相)率いる英=蘭連合軍が九万五〇〇〇人、ブリュッヘル元帥の普軍が一二万四〇〇〇人であったが、露軍・墺軍は出撃が遅れた。オランダ(今日ではベルギー)におけるシャルルロワCharleroiの戦い(六月一五日)、リニLignyの戦い(六月一六日)では普軍を敗走させることができたが、仏軍も多くの死傷者を出した。そして一八日の正午前に開始されたワーテルローWaterlooの戦いは、仏軍七万四〇〇〇人に対して英=蘭連合軍は六万七〇〇〇人とフランスに有利であったが、夕刻に普軍が加わったことで形勢が逆転し、敗走した仏軍は死傷者三万人、捕虜七五〇〇人を数える惨憺たる結果となった。ヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoが著した大河小説『レ・ミゼラブル』Les Misérablesの前半部分は、ワーテルローの戦いの惨さを見事に描いたことで知られる。
さて、ナポレオン軍の敗北から三日後の二一日、衆議院では声高に皇帝退位が叫ばれ、ナポレオンを擁護する声はほとんど皆無に近かった。翌二二日、皇帝の座から退いたナポレオンは、二五日にマルメゾン城へと移っている。こうしてナポレオン一世の「百日天下」は、あえなく崩壊した。そして、皇帝退位に暗躍した元警察大臣フーシェを首班とする臨時政府が成立し、七月三日には同盟国との間で休戦協定が結ばれて事実上の降伏をした。その後、ナポレオンは普軍の追撃から逃れるためにビスケー湾岸にあるロシュフォール沖の小島へと急いだ。しかし、アメリカへの脱出計画はイギリス巡洋艦ベレロフォン号による海上封鎖で断念に追い込まれ、七月一七日にはイギリス軍艦にその身柄を預けることとなった。ナポレオンは英国のプリマス軍港を経て、八月七日にはノーサンバーランド号に乗せられて大西洋の彼方へと向かった。一〇月一五日、ナポレオンを乗せた軍艦はセント・ヘレナ島の沖合に到着し、翌日からは島での幽閉生活が始まった。彼には側近のグールゴーGourgaud、モントランMontholon、ラス・カーズらが随伴し、ナポレオンの口述筆記を行い、伝記を編纂した。やがて孤独で単調な暮らしはナポレオンの心身を蝕み、一八一八年頃からは頭痛とリウマチ、肝機能障害に悩み、鬱的症状を示すようになる。一八二一年五月五日、ナポレオンはついに亡くなり、亡骸は島に埋葬された(享年五一歳)。医師アントムマルチが遺体を解剖し、死因は胃癌と診断した。一八四〇年一二月五日、彼の遺骸の入った柩は「われ死なば骨をセーヌのほとりに埋めよ、わがかくも愛せしフランス人民に囲まれて憩わんことをこそ」という遺言に基づいて、アンヴァリッドの大ドーム下に安置された。そして、その傍らには最初の妻ジョゼフィーヌが静かに眠っている。註⑯
五 ナポレオンの統治と国民意識
さて、ナポレオン・ボナパルトは、フランス革命、総裁政府、統領政府、第一帝政とそれぞれ特徴のある政治形態の中を駆け抜けてきたが、その統治はどのように評価されるべきか。アルベール・マチエAlbert Mathiez(一八七四~一九三二)は、フランス革命期に「革命独裁」を行ったマクシミリアン・ロベスピエールを私的所有に制限を加えた「社会主義の先駆者」の一人と見なして、ジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvre(一八七四~一九五九)やアルベール・ソブールAlbert Soboul(一九一四~八二)から厳しい批判を浴びた。しかし、そのアルベール・ソブールがナポレオンを「革命の子」、真の啓蒙主義知性の人、啓蒙専制君主であり、彼の独裁は「軍事独裁」ではなく「個人独裁」だと高い評価を下すのに対して素直に首肯できない。何故なら、ロベスピエールが革命の軸足を都市民衆や貧農ではなく、新興ブルジョワ層に置いたように、「テルミドールの反動」後に頭角を現したナポレオンは、「ブルメール一八日のクーデター」という軍事行動によって政権を奪い取り、産業革命の準備をするブルジョワ層の経済力を背景にしつつ、巧みなポピュリズムpopulismで国民大衆の心を捕らえた人物だからである。確かにナポレオンは「フランス民法典」(ナポレオン法典)や帝国憲法附加法など、フランス革命以後の流れに沿って自由・平等を前進させており、その意味に限れば革命の「相続人」と言えよう。しかし、その彼は、革命が樹立した市民的民主主義という政治原理を無視して「軍事独裁」を敷き、共和制を廃して皇帝にまでなっている。したがって、亡命を余儀なくされた自由主義者のスタール夫人Anne Louise Germaine de Staël(一七六六~一八一七)の表現に倣って言えば革命に対する「親殺し」という側面を無視するわけにはいかないのである。
しかし、その責任をナポレオン個人にのみ負わせるのは酷である。何故なら、ナポレオンを皇帝にまで担ぎ上げたのはほかならぬフランス「国民」だからである。例えば、ブルジョワはナポレオンの軍事独裁を容認することで左右両翼からの脅威を免れ、革命戦争の拡大によって広大な市場を確保することが出来た。また、大陸制度と呼ばれる強力な保護政策によってイギリス商品の脅威から守られ、その間にフランス資本主義の基礎を築くことに成功した。一方、当時の農村人口は国家全体の約八五パーセントを占めていたと言われるが、ナポレオンが政権を掌握している間に農民の生活は確実に向上している。ジョルジュ・ルフェーヴルの学位論文『フランス革命下のノール県農民』(一九二四年)によれば、フランス最北部のノール県では、国土の約二〇パーセントを占めていた教会・修道院が消滅し、一七八九年に二二パーセントを占めていた貴族の持分が一八〇二年には一二パーセントに減少したのに対して、ブルジョワは一六パーセントから二八パーセント以上へ、農民は三〇パーセントから四二パーセント以上へと増大しており、ブルジョワと下層農民の双方にこれ以上の変革を望まない「現状肯定」の保守的ムードが広がっている。したがって、国民は戦争経済が破綻し、ブルジョワや都市民衆、農民たちが見限った段階でナポレオン帝国は崩壊したのである。
ところで、彼が作り上げた軍事独裁体制は、中央集権的な官僚行政機構に支えられていた点にも注目する必要がある。本池立氏によれば、ナポレオンは政権を奪取するとまもなく内務省、警察省、外務省、大蔵省、戦争省、海軍植民地省などを創設し、その後も国税省、戦争行政省、宗教省、工業商業省などを増設して行政機構の拡充に努めている。そして各省は部局・課に分かれ、局長・課長・下級職員などの職階制度が設けられて、職務の責任の所在、命令と服従の体系が明確にされた。また、官吏は地方行政を担う県知事や県庁職員、裁判所や土木建設庁、会計検査院などの判事・技師・職員を含めて約二万五〇〇〇人がいたが、いずれもナポレオンが選任し、高額の俸給・賞与が支給された。ナポレオンは地方制度改革にも着手し、彼によって選任された県知事は、世論監視や徴兵、道路管理などを主たる任務とし、まさに国家元首の代理人として地方に君臨した。また知事が市長を兼ねる首都パリを除いて、人口五〇〇〇人以上の都市には、同じくナポレオンが任免権を持つ市長と助役が置かれた。そして、こうした官吏の多くは革命期の国有地取得者や旧貴族出身者によって占められており、ナポレオンは近代的官僚行政システムを構築するとともにフランスを「名望家中心の社会」に戻したのである。
最後にナポレオンの統治と国民意識の関係について。フランスは革命を通して国民的統合を実現したが、同時にヨーロッパで最初に「ナショナリズム」(国民主義・民族主義)nationalismに目覚めた国家でもある。その当時、革命の推進者や支持者の間に広がった「革命万歳」という合い言葉は、自由と平等を実現する祖国フランスと自己を同一視する魂の叫びであったが、この「革命的ナショナリズム」とでも呼ぶべき感情は対仏大同盟軍との戦いが続く中で大きく変化する。それは、革命を防衛する名目で始めた戦争(革命戦争)が次第に侵略戦争へと性格を変化させることで、フランス国民のなかにあった革命的理想主義が大きく後退したからである。そして、このナショナリズムの変質を巧みに利用したのがナポレオンである。フランス国民の間には国家存亡の危機を煽る軍事独裁政権に対する厳しい批判の目が失われ、次第に自由・平等を追求する革命精神が希薄になっていく。また、ナポレオンは情報操作を駆使してポピュリズムに基づく政治を展開し、戦勝の栄光を語ることで国民の誇りをかきたて、大国意識を抱かせた。彼が世論操作に絶対的自信を持っていたことは、共和暦第八年憲法や終身第一統領制、世襲皇帝制を国民投票で決めたことで明らかである。国民投票で圧倒的支持を得た最大の理由は、戦勝によって歪められたナショナリズムの異様なまでの高揚感がナポレオンというシンボルに結晶していたことに求められる。すなわち、ナポレオンがフランス革命の正統な後継者であると同時に軍事的独裁者であるという矛盾は、祖国と国民の栄光という形で高められ、歪められたナショナリズムによって隠蔽されたのである。
しかし、フランス国内では軍事独裁の矛盾を隠すのに役だったナショナリズムは、フランス以外のヨーロッパ各国においては征服者ナポレオンに対する抵抗を引き起こす主な要因となった。その理由は、「革命的ナショナリズム」にはヨーロッパ全体に広がる「ユニヴァーサリズム」(普遍主義)universalismという側面もあったからである。そして、この普遍主義こそが本来はナポレオン戦争の大義名分だったはずである。ところが、自由と平等に基づく旧体制からの「解放」と、国民としての「自立」という考えがヨーロッパ各地に広がると、占領軍としてのフランス軍の実態はナポレオン戦争の大義名分から大きく逸脱していることを露呈した。そこで初めてヨーロッパ各地の従属国や対仏同盟国にはナショナリズムに覚醒した人々が現れた。そして、その中心となったのが民衆の武装蜂起から半島戦争に発展したスペインであり、「疾風怒濤」Sturm und Drangを経て民族性と国民意識に目覚めつつあったプロイセンであった。一八一三年、イギリス軍と皇帝・国王の軍隊とで構成されていた対仏大同盟軍に諸国民が参加する所謂「解放戦争」が勃発し、ついには「ナポレオン帝国」という軍事大国を倒したのである。この後、ナポレオンが築き上げた軍事独裁政権や中央集権的な官僚制行政機構は世界各国のモデルとなり、ヨーロッパに拡散したナショナリズムはロマン主義的風潮と結びつきながら、ウィーン体制という保守・反動の時代を突き崩して新しい世界を築く原動力となった。註⑰
註① 杉本淑彦『ナポレオン』(岩波新書)一~二七頁、本池立『ナポレオン 革命と戦争』(世界書院)三~三〇頁各参照
註② 拙稿「フランス革命と国民国家の関係」(茨城県立水戸第一高等学校『紀要第五六号』所収)一~二二頁、杉本淑彦前掲書二八~四七頁、本池立前掲書三〇~四五頁、松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史2』所収第九論文、山川出版社)三九二~四〇六頁各参照
註③ 北原敦「十八世紀改革期からナポレオン改革期へ」(山川出版社『世界各国史15イタリア史』所収第八論文)三三三~六五一頁、森田鉄郎・重岡保郎著『世界現代史22イタリア現代史』(山川出版社)六〇~七六頁、杉本淑彦前掲書五一~一二六頁各参照
註④ 本池立前掲書四五~七二頁参照。
註⑤ 杉本淑彦前掲書一二八~一三五頁、本池立前掲書四五~七二頁各参照
註⑥ 本池立前掲書九〇~九二頁参照。
註⑦ 本池立前掲書九五~九六頁参照。
註⑧ 杉本淑彦前掲書一四九~一五四頁、本池立前掲書九二~九四頁各参照
註⑨ 吉田静一「ナポレオン大陸体制」(『岩波講座世界歴史18近代5』所収第八論文、岩波書店)一九一~二三六頁、杉本淑彦前掲書一七一~一七五頁、本池立前掲書一三九~一四二頁各参照
註⑩ 杉本淑彦前掲書二一六頁、杉本淑彦「ナポレオンとその時代」(杉本淑彦・竹中幸史編著『教養のフランス近現代史』所収第三論文、ミネルヴァ書房)四一~五三頁、福井憲彦「フランス革命とナポレオン帝政」(福井憲彦編『世界各国史12フランス史2』所収第五論文、山川出版社)二七四~二八五頁、本池立「ナポレオン帝国」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第九論文)四〇七~四四一頁各参照。
註⑪ 本池立前掲書一〇六~一〇八頁参照。
註⑫ 杉本淑彦前掲書一七五~一九〇、二二三~二二五頁参照。
註⑬ 阪口修平「自由主義と保守主義」(木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』所収第五論文)一七一~一八三頁、本池立前掲書一〇八~一二六頁各参照。
註⑭ 本池立前掲書一二六~一三三頁、立石博高「アンシャン・レジームの危機と自由主義国家の成立」(立石博高編『世界各国史16スペイン・ポルトガル史』所収第九論文、山川出版社)二〇五~二四一頁、合田昌史「ブルジョワジーの世紀」(立石博高編『世界各国史16スペイン・ポルトガル史』所収第一五論文)四〇九~四三四頁、斉藤孝編『世界現代史23スペイン・ポルトガル現代史』(山川出版社)五五~六二頁各参照。
註⑮ 杉本淑彦前掲書九二~九四、一六〇~一六七頁、本池立前掲書一三三~一九三頁、倉持俊一「アレクサンドル一世の時代」(田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系ロシア史2』所収第三論文、山川出版社)一〇七~一三八頁、阪口修平前掲論文一七一~一八三頁各参照
註⑯ 遅塚忠躬「市民社会の成立」(『世界各国史2フランス史』所収第五論文、山川出版社)三二五~三四〇頁、本池立前掲書一九四~二二八頁・前掲論文四四一~四五五頁、田村秀夫『フランス革命』(中央大学出版部)一七一~二二二頁各参照。
註⑰ 高橋幸八郎「序文」(G・ルフェーヴル著、高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳『一七八九年 フランス革命序論』(岩波文庫)三~二三頁、遅塚忠躬前掲論文三二五~三四〇頁、本池立前掲論文四四一~四五五頁各参照
註⑱ そのほか、この文章を書くに際して次の文献を参考にした。Octave Aubry, LES PAGES IMMORTELLES DE NAPOLÉON choisies et expliquées, 1941.オクターヴ・オブリ編・大塚幸男訳『ナポレオン言行録』(岩波文庫)、José Cabanis, Le Sacre de Napoléon, 2 decembre 1804, Gallimard, 1970, 288p. ジョゼ・カバニス著・安斎和雄編訳『ドキュメンタリー・フランス史 ナポレオンの戴冠』(白水社)、Henri Calvet, Napoléon, 1943. アンリ・カルヴェ著・井上幸治訳『ナポレオン』(文庫クセジュ・白水社)、Roger Dufraisse, Napoléon, 1987.ロジェ・デュフレス著・安達正勝訳『ナポレオンの生涯』文庫クセジュ・白水社)、カール・マルクス著・高橋正雄訳「ルゥイ・ボナパルトのブリュメール十八日」(大内兵衛・向坂逸郎監修、マルクス・エンゲルス選集第六巻『革命と反革命』所収、新潮社)、杉本淑彦『ナポレオン伝説とパリ』(山川出版社)。
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