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June 13, 2020

フランス・プロテスタントの反乱 ~カルヴァン主義とユグノー戦争~

                                   
第一節 カルヴァン主義とは何か
(一)カルヴァンの生い立ち
 スイス宗教改革に名を残すジャン・カルヴァンJean Calvin(1509~64)は、一五〇九年七月一〇日、北フランスの小さな町ノワイヨンNoyonで生まれた。父ジェラール=コーヴァンは苦労して法律事務所を開設し、美しく信心深い母ジャンヌは若くして亡くなっている。当時のノワイヨンはブルゴーニュ公国État bourguignonの一部とされ、イタリア戦争(一四九四~一五五九年)を最終的に終結させたカトー・カンブレジ条約Traités du Cateau-Cambrésis締結(一五五九年)によってようやくフランス王国に復帰している。さて、コーヴァン家には子どもに大学教育を受けさせる経済的余裕はなかったが、幸い当時は将来教会に仕える者のために学資を提供する「教職禄」という制度が存在した。カルヴァンがこの制度を利用して兄(長男)シャルルの後を追うようにパリに遊学したのは、一四歳の夏のことであった(一五二三年八月)。彼が入学したのは、ラテン語学者・教育者として著名なマチュラン・コルディエMathurin Cordier(一四七九~一五六四)が指導する進歩的なラ・マルシュ学寮(コレージュ=ド=マルシュ)という学校であった。しかし、何故か一年後には保守的な校風で知られるモンテーギュ学寮(コレージュ=ド=モンテーギュ)に転校している。当時、隣国の神聖ローマ帝国内では、ヴィッテンベルク大学のマルティン・ルターMartin Luther(一四八三~一五四六)が「九五カ条の論題」を掲げて贖宥状批判を行ったことにより宗教改革の嵐が吹き荒れていた(一五一七年一〇月三一日)。したがって、フランス国内でも宗教改革の理論に論駁できる人材を養成することが喫緊の課題となっており、カトリック側の急先鋒ノエル・ベディエが学寮長を務めるモンテーギュ学寮がその要請に応えようとしていた。この学寮では、人文主義者ギヨーム・コップの教えを受ける機会に恵まれ、ほぼ同時期の学生としてイグナティウス・ロヨラIgnatius de Loyola(一四九一~一五五六)やフランソワ・ラブレーFrançois Rabelais(一四八三~一五五三
)がいる。註①
 一五二八年、モンテーギュ学寮を卒業して文学士の学位を得たカルヴァンは、オルレアン大学Universite d'Orleans法学部に進学する。カルヴァンはパリ時代から聖書研究を始めていたが、ドイツ人教師メルキョール・ヴォルマールMelchion Wolmar(一四九六~一五六一)の指導を受けてからはギリシア語原典を利用して学ぶようになった。これは、教皇レオ一〇世Leo X(在位一五一三~二一、メディチ家)に破門され、 神聖ローマ皇帝カール五世Karl V(在位一五一九~五六)から帝国公民権を剥奪されたルターが、ザクセン選帝侯フリードリヒのヴァルトブルク城に匿われている間に『新約聖書』(一五二一年)・『旧約聖書』(一五二三~二四年)をドイツ語に翻訳したのと同じで、カルヴァンもまたカトリック教会が使用しているラテン語訳聖書を信用できなくなっていたからである。また、 教師のヴォルマールはギリシア語聖書研究の手引きをすると同時に、ドイツにおける宗教改革の情報をもたらした。ただし、カルヴァンのオルレアンでの生活は短く、翌二九年にはベリー地方のブールジュ大学Bourgesへと移っている。ブールジュはゴシック建築のサン=テチエンヌ大聖堂(ブールジュ大聖堂Cathédrale de Bourges, 一一九五~一二五五年建造)が有名で、カトリック世界の重要な都市であった。このブールジュ大学には恩師のヴォルマールも転勤し、引き続き師弟の研究生活が継続された。
 しかしその頃、 故郷ノワイヨンでは父親が大変困難な状況にあった。カルヴァンがオルレアン大学に進学した頃から父ジェラールはノワイヨン司教と対立するようになり、やがて教会から破門され、ついにはその破門が解けないまま一五三一年五月二六日に亡くなったのである。晩年の父親はカルヴァンがこれ以上哲学や神学を学ぶことを好まなかったとも言われ、一五三一年ブールジュ大学を卒業して法学得業士の称号を手にしたカルヴァンは、王立教授団に加わって古典文学研究に邁進し、一五三二年四月には『セネカの寛容についての注解』を出版している。

(二)奴隷意志論とカルヴァンの回心
 古代末期の教父アウグスティヌスAurelius Augustinus(三五四~四三〇)によれば、人間はアダムの原罪によって「善をなす」意志の自由を失っており、罪人のままイエスの贖罪による救済を待つしかない、と説いた。この考えは中世キリスト教神学に継承され、「人間は自由な存在であるが自力では救いに入ることが出来ず、神の恵みによって救いを実現するためには善きわざを積み重ねる必要がある」と説かれ続けたのである。イタリア・ルネサンス期の哲学者ピコ・デラ・ミランドラGiovanni Pico della Mirandola(一四六三 ~九四) は、その論文『人間の尊厳について』において「おおアダムよ、・・・・われはおまえを天上的でも地上的でもない存在、可死的でも不死的でもない存在として創造した。それはおまえが自分でどういう形態をとっても、いわば自分の理解をもって、また自分の名誉のために、おまえの創造者にして形成者となるようにというためである。おまえは堕落して下等な被造物である禽獣となることもできる。おまえは自分の意志で決定して、より高等な園、言いかえれば神の園に再生することもできるのだ」(註②)と述べ、主体的な決断次第で人間は無限の可能性を切り開く事ができるとした。ピコは人間が無限の可能性を持てる前提としてキリストによる救済を措いている。
 この「自由意志論」を継承したのが、ルターと同時代に生きたヒューマニスト(人文主義者)のエラスムスErasmus(蘭、一四六九~一五三六)である。一五二四年、 エラスムスは『自由意志論』De lebero Arbitrioのなかで自由意志の役割を肯定し、人間の努力によって救済が神から与えられることを認めなければ一切の道徳が成立しないと主張した。したがって、ピコやエラスムスの自由意志論は、アウグスティヌス以来の系譜を引き継ぐものであった。ところが翌二五年、ルターはエラスムスの考えを真っ向から否定する『奴隷意志論』Deservo Arbitrioを発表し、救済はあくまでも神の恩寵によるものであり、自由意志は全く無力だと断言した。人間の運命は神に予定されており、自由意志に基づく努力によって何かになれると考えるのは神に対する冒涜に他ならない、としたのである。この論争の発端はノエル・ベダを中心とするパリ大学神学部がエラスムスに圧力をかけてルター批判を行わせたことに端を発するが、両者の相互批判は互いの誤解も手伝って水掛け論に終始した。註③
 しかし、ルターの「神の絶対的決定」の思想は、カルヴァンによって継承された。一五三三年、 突然、 カルヴァンに「回心」conversionが起きたのである。「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る」という信仰体験をしたカルヴァンは、それ以来ヒューマニストとしての生き方をやめ、一生を神に捧げることになる。一五五七年、彼が旧約聖書「詩篇」の注解を書いたとき、その序文の中に「・・・・しかし、神は突然の回心によって、年齢のわりには余りにも頑なになっている私の心を、屈服させて従順にならせたもうた」と記している。一五三三年以前のカルヴァンも神の存在を認めて直向きに崇拝していたことは事実であるが、回心以降は神が全てとなり、 自分は完全に無と化したのである。こうして神に捉えられたカルヴァンは、神の前で自由を放棄している人間こそが個人の自由と社会的自由とを獲得するための闘いを行える、と考えるようになる。

(三)フランスからの逃亡~ジュネーヴにおける改革(1)~
 一五三三年一一月一日、パリ大学総長ニコラ・コップNicolas Cop(一五〇六~?、ギョーム・コップの息子)は大学開講日に「キリスト教的哲学」という演題で講演を行ったが、その内容が極めて宗教改革の色合いが濃厚だったために問題となった。彼はカルヴァンの親友であったことから、今でも講演原稿の起草者はカルヴァンではないかと推測されている。その当時、仏王フランソワ一世François Ier de France(在位一五一五~四七)は教皇クレメンス七世Clemens VII (在位一五二三~三四)とフランス国内の異端撲滅を約束するマルセイユ協定(一五三三年)を締結したばかりであった。パリ大学からの内部告発を受けた国王は直ちに王令を発して、ニコラ・コップを最高裁判所に召喚した。危険を察知した二人はパリを脱出する。カルヴァンは友人ルイ・デュ・ティエが主任司祭をしていたフランス南西部の町アングレームAngoulêmeへと逃げ、シャルル・デスペヴィルという偽名を使っている。また翌三四年にはネラクNérac(四月)を経て故郷ノワイヨン(五月)へ行き、教職禄辞退の手続きをしている。その後、カルヴァンはメスMetzからシュトラスブルクStraßburg(ストラスブールStrasbourg)へと逃亡の旅を続けた。ところが、この年の一〇月、何者かがカトリック教会のミサを罵倒し、パリをはじめブロワ、オルレアンなど多くの都市で教皇やカトリック教徒を偽善者呼ばわりする怪文書をばら撒く事件が発生し、国王の寝室の扉にまで貼られる始末であった。この檄文事件に激怒したフランソワ一世が、即日「異端撲滅令」を発したため、フランス全土では約一カ月間にわたって迫害の嵐が吹き荒れた。パリではエチエンヌ・ド・ラ・フォルジュなど多くの殉教者を出す一方、イグナティウス・ロヨラ等によってカトリック的世界を守るためのイエズス会が結成された(一五四〇年認可)。
 ところがカルヴァンは、一五三五年一月、バーゼルBaselを訪れて『キリスト教綱要』初版を脱稿し、 フランソワ一世への献呈の辞を書き加えている。おそらく、その理由としてはフランソワ一世の落ち着かない宗教政策が挙げられるのではないか。カルヴァンの書いた『キリスト教綱要』の内容は、「信仰は聖書を基準とし、救済は信仰によってのみ得られる」とする福音主義(註④)そのものであるが、同時にフランソワ一世に対する反論という側面も併せ持っていた。出版は翌年三月まで遅れ(第二版一五三九年、 第三版一五四三年、第四版一五五〇年、最終版一五五九年)、生活に窮したカルヴァンはプロテスタントを保護していた北イタリアのフェラーラ公Ferrara の宮廷を訪ねている(一五三六年二月)。フェラーラ公エルレコ二世Ercole II d'Esteはカトリックの信奉者であったが、公爵夫人ルネRenee de France(国王ルイ一二世の娘。フランソワ一世の妃クロードの妹)は新教徒に対する理解者であった。しかし、やがて皇帝カール五世によるフェラーラ公国に対する圧力が強まり、宮廷の客人たちは四散するしかなかった。カルヴァンは西へ向かい、ピエモンテ地方の町アオスタAostaからサン=ベルナール峠越えでスイスに入り、 バーゼルからマルチン=ブーツァーMartin Butzer(一四九一~一五五一)やヴォルフガング=カピト Wolfgang Capito(一四七八~一五四一)など高名な指導者の住むストラスブルクへ向かうつもりであった。ところが、そのルートは仏王フランソワ一世と皇帝カール五世の戦いで通行不能となっており、やむを得ず一旦リヨンに出てからジュネーヴ Genève入りを目指すことになった。
 当時のジュネーヴは三方をサヴォイア公国Savoiaに囲まれ、司教はサヴォイア公と結びついていた。したがって、ジュネーヴはスイスの他の都市と同じく市会があり、時には市民総会が開催されていたが、 一五二六年の「共和都市独立宣言」後も完全に独立しているとは言い難い状態にあった。しかし、一五三二 年、所謂「モーMeauxの人々」の一人ギヨーム・ファレルGuillaume Farel(一四八九~一五六五)が訪れたときから、ジュネーヴは大きく変化した。ファレルが宗教改革を始めたからである(註⑤)。始めのうちはファレルの教えに耳を傾ける人はほとんど居なかったが、やがて新しい宗教こそがジュネーヴの独立に必要だと考える人々が増え、一五三六年五月二一日、全市民集会における投票を経て「福音によって生きる」宣言を発したのであった。但し、 ジュネーヴ市民が行ったのはあくまでも政治的独立を願った決断であり、宗教改革に踏み込んだわけではなかった。 
 しかし、 ファレルはついていた。カルヴァンがジュネーヴの町にやってきたからである。ファレルは早速、カルヴァンを訪ね、改革への手助けを懇願した。そしてファレルの熱意に感動したカルヴァンは、自らの予定を破棄して協力を約束したのである。バーゼルでの事務手続きを済ませたカルヴァンがジュネーヴで活動を開始するのは八月に入ってからで、彼の仕事はサン=ピエール教会La cathedrale protestante Saint-Pierre de Genèveの聖書講師であった。やがて一〇月になり、カルヴァンは新旧両派が激論を交わしていたローザンヌ会議Lausanneにファレルの随員として出席している。会議はファレル側が不利であったが、やがてカルヴァンの登場で新教徒側の勝利となり、ローザンヌも宗教改革に取り組むことを決意した。
 同年、カルヴァンはジュネーヴ教会の牧師となり、サン=ピエール教会で説教を開始した。当時、ジュネーヴには偶像破壊で飾りを削ぎ落とされた殺風景な教会堂があるのみで、教会組織や礼拝の様式はまだ確定していなかった。カルヴァンは教会組織の再建に当たって、さまざまな改革に乗り出した。第一に「規律」を要求し、そのためには信徒の間から信仰の模範となり、指導者たりうる長老たちを選出し、彼等に教会運営の一部を委ねたのである。第二に殺風景な礼拝を心豊かにするため「讃美歌」を重視した。彼は「神はわがやぐら」Ein' feste Burg ist unser Gott(現行讃美歌二六七番)を作詞・作曲したルターほどではないが、詩人クレマン・マローClément Marotが作詞した「詩編歌集」やテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeの訳詞を大切にし、無伴奏で歌わせた。ジュネーヴ詩編歌はフランスのユグノー詩編歌となり、やがて一七世紀のオランダや北ドイツでオルガン音楽を発展させる礎となっていく。
 カルヴァンが取り組んだ第三の改革は、「信仰教育」である。信仰とはまさしく心情に根ざすものではあるが、感情的にただ「ありがたがる」ことではない。宗教改革者が掲げた信仰とは、「あなたまかせの無自覚さをしりぞけた、きわめて主体的で、自己自身の存在の問題を深くとらえた、確乎とした認識(知識)」である(渡辺信夫著『カルヴァン』六三~六四頁)。彼等はキリストの「御言葉」を教えられ(聞き)、それを受け入れる決断をすることによって信仰が始まると考えた。カルヴァンは、一五三七年二月、信仰教育に用いる教程「信仰の手引き」(第一回カテキズムcatechism)を作成している。そして第四の改革は、カトリック教会の教会法によって規定されてきた「結婚」観を排し、新たなる倫理規範を構築することであった。宗教改革者の多くは結婚をしているが、カルヴァン自身も一五四〇年八月に子連れの未亡人イドレット・ド・ビュルIdelette de Bureと結婚している。彼女とその夫(病死)はフランスから逃れてきた再洗礼派(アナバプテストAnabaptist 註⑥)であったが、カルヴァンの指導で再洗礼派から離れていた。夫と死別したイドレットの中に純粋な信仰心と優れた家政能力を認めたカルヴァンは、まさに市民的感覚をもって結婚に踏み切ったと言われている。もっとも、一五四二年七月二八日に誕生した長男は間もなく亡くなり、妻イドレットも一五四九年三月二九日に没している。以上の改革四項目が一五三七年一月、「ジュネーヴ教会教会規則」としてまとめられ、 同年四月に成立した「ジュネーヴ教会信仰告白」では「第一にわれわれは明言する。われわれは、己が信仰と宗教の規範として、聖書―すなわち、神の言葉によらずして人間の知恵が考え出した如何なるものも混じておらぬ聖書にのみ従いたいと決意するものである」と徹底した聖書主義を表明している。

(四)ジュネーヴ市会との対立
 ところが一五三八年春、ファレルやカルヴァンとジュネーヴ市会とが衝突し、ジュネーヴにおける宗教改革は一時頓挫した。その原因は二つある。第一に、カルヴァンが作成した「信仰告白」は市会の承認を得て全市民に強制されることになったが、有力市民たちで構成されていたリベルタン(自由主義者)libertinが激しく抵抗し、信仰告白の宣誓を拒否する者が続出したからである。これに対してカルヴァンたちは市当局にリベルタン追放を要求し、両者の対立は決定的となった。そして第二の原因は、教会とジュネーヴ市会の関係をめぐる対立であった。その当時、宗教改革を推進していた政治家たちは、サヴォイア公国との繋がりを断ってスイス諸都市との連係を強めようと考えていたが、同じスイスの都市ベルンBernから宗教改革の形式面での統一を図りたいとの申し入れがあり、ジュネーヴ市会はそれを受け入れていた。ベルンの形式はジュネーヴのそれよりもかなり保守的で、聖餐式に使うパンはカトリック教会と同じくパン種を入れない円い薄い堅焼きパン(ホスティアhostia)であり、教会堂の中には洗礼盤を復活させる必要があった(洗礼盤は偶像破壊の際に取り払われていた)。また教会の祝日も、日曜日と受難週(カトリック教の聖週間。棕櫚の主日から復活祭の前日までの一週間)、復活節(復活祭から聖霊降臨祭までの五〇日間)だけでなく、ファレルが廃止したクリスマス、新年、受胎告知日、キリスト昇天日を守らなければならないとしていた。宗教改革者たちにとって、それらの申し入れ内容に反対すべき項目はなかったが、「ジュネーヴ政府からの要請によって教会の形式を変更する」ことは絶対に容認できなかった。カルヴァンたちは春の復活節に予定されていた聖餐式を取りやめ、市会はそれに対抗して牧師たちの説教を禁じた。しかし、カルヴァンたちは死を覚悟して説教を続けたため、市側はついにカルヴァン、ファレル、そして盲人牧師クローの三人を追放したのであった(一五三八年四月)。三人はひとまずバーゼルに滞在し、ファレルはヌーシャテルNeuchâtelへ、クローはローザンヌへと向かい、生涯を彼の地で過ごすことになる。
 ストラスブルクに招かれたカルヴァンは、(一旦バーゼルに戻るものの)マルチン・ブーツァーからの再要請で、あらためてこの都市に赴いたのは九月のことである。ストラスブルクはバーゼルからライン川沿いに下ったところにある古くからの「街道筋の町」で、 当時は自由都市であった。ここでも一五二四年から宗教改革が進められていたが、ルター派に同調することはなかった。宗教改革の中心にはブーツァーがおり、改革はヴォルフガング=カピト、カスパル・ヘディオ、マティアス・ツェル等の合議に基づいて進められていた。教会組織は一種の長老制を採用し、信徒の中から選ばれた教会執事が病人や貧者を助ける「愛のわざ」に従事していた。そして彼らがカルヴァンに求めたのはフランス人亡命者に対する牧師の役目であり、大学で講義を行うことであった。その間、カルヴァンは著作活動に励み、一五三九年には『キリスト教綱要』改訂第二版を出版し、『ローマ書注解』(一五四〇年出版)、『サドレト枢機卿への手紙』を書いている。また、カルヴァンは積極的に宗教会議に出席し、一五三九年のフランクフルト会議ではメランヒトンPhilipp Melanchthon(一四九七~一五六〇)と知り合い、一五四〇年にはハーゲナウ会議(七月)・ヴォルムス会議(一〇月)、そして一五四一年にはレーゲンスブルク会議に参加している。
 ところで当時のプロテスタントは、ルター派以外に、ブーツァーたちストラスブルク派、チューリヒZürichで宗教改革(一五二三~三一年)を始めたツヴィングリZwingl(一四八四~一五三一)の後継者たち、 そして第四グループとしてドイツ農民戦争(一五二四~二五年)を起こしたトマス・ミュンツァーThomas Müntzer(一四八九~一五二五)の後継者や再洗礼派のように「聖霊」を強調する派閥に分かれていた。そしてルター派は第四グループの存在を全く認めなかったが、ストラスブルク派やカルヴァンは彼等を切り捨てようとはしなかった。カルヴァンは神の御言葉と結びつかない聖霊の働きはないとして、 聖霊だけを強調して重視することを批判したが、 第四グループを全否定することはなかったのである。彼のこうした態度は第四グループの人々に受け容れられ、その聖霊論はカルヴァン神学の中で重要な位置を占めるようになっていく。

(五)ジュネーヴにおける改革(2)
 一五四一年九月一三日、カルヴァンは再びジュネーヴに呼び戻された。ジュネーヴでは、カルヴァン以外にこの難局を切り抜けることができる人物はいない、との意見が他を圧倒したのである。しかし、カルヴァンはジュネーヴでの仕事を再び一からやり直さなければならなかった。前回同様、まずは教会諸規定を整え(一一月公布)、カテキズムを用意することから始めた。彼が再建した教会組織の最高責任者は牧師であり、一人の牧師以上の権威を持つことができたのは毎週開かれる牧師会のみであった(そこでは聖書の共同研究がなされた)。また、市会によって選出された一二名の長老たちは、牧師五名とともに長老会(コンシストワールconsistoire)を構成して教会員の信仰生活の規律を厳守させるとともに、長老会内部の誤りを是正する機能をも果たした。長老は教会内部の職だから本来であれば信徒間の選挙で選ばれるべきだが、カルヴァンたちの教会は未だ都市国家ジュネーヴの政治的権力から完全には分離できていなかったため、長老は市会によって選出されたのである。しかし、長老が教会内では牧師と同格の存在となり、 以前なら牧師のみが行い得た霊的指導という権能を持ったことの意義は大きい。牧師と長老がともに協力して、キリストの権威を鮮やかに浮かび上がらせるように教会の秩序を整える体制が誕生したのである。そして、司教制の廃止と長老制の導入は、宗教改革と政治的独立を結びつけることとなった。註⑦
 ただし、カルヴァンは政治権力の必要性を認めていたものの、自分自身が神からその務めを命じられたとは受けとめてはいなかったと思われる。彼の政治に対する態度は、次のようなものである。すなわち、 神から政治権力を預かった者はこれを委託した神の意志から逸脱しないように細心の注意を払いながら統治行為を行う必要があり、統治される側の人民は政治の改善を求めても良いが、さまざまな権利を要求することは許されなかった。ただし、カルヴァンは説教者として政治権力を持つ者たちを神の御言葉に信服させただけでなく、教会代表として教会の要望を市政に反映させるよう要求・助言を繰り返したが、直接的な統治行為はとっていない。ルターが政治権力の教会監督権を容認していたのに対して、カルヴァンは神の意志と真理を決定するのはあくまでも教会であるとして、政治権力は教会を助け、教会が求める規律を忠実に実行する義務を持つと考えたのである。
 しかし、カルヴァンの教会諸規定に基づく要求が、放蕩に明け暮れていたジュネーヴ市民にとっては些か厳しすぎたようである。カルヴァンの厳しい態度に反発したリベルタンはわざと教会に反抗したが、教会側は市当局を動かして力で抑圧しようとした。例えば、トランプ作りのアモーは公衆の面前で謝罪させられたうえ罰金を払わされ、旧約聖書「雅歌」を聖書正典と認めなかったセバスティアン・カステリオンSebastian Castellioというサヴォイア人は一五四四年に追放処分を受けた。また、有力者フランシス・フェーブルFrancis Favreを後ろ楯に抵抗した軍司令官アミ・ペランAmi Prinは投獄され、一五五〇年にはジュネーヴから逃走した。さらには、自由恋愛主義を標榜していた都市貴族ジャック・グリュエJacques Gruetは瀆神と無神論のかどで処刑され(一五四七年)、仏人ジャン・ボルセックJean Bolsecはカルヴァンの予定説を攻撃したこと理由に追放の憂き目を味わっている(一五五一年)。リベルタンにとっては、こうした教会側の強権的態度こそが(フランス人亡命者カルヴァンによる)ジュネーヴの自由・独立に対する侵害と映ったようである。そこで自由主義者たちは暴動を起こしたが、カルヴァン等も聖餐停止処分で対抗した。その当時、ジュネーヴ教会はツヴィングリの後継者ブリンガーJohann Heinrich Bullinger(一五〇四~七五)率いるチューリヒ教会との間で「聖餐」に関する理解で一致を見たばかりであった(一五四九年チューリヒ協定)が、教会側の聖餐停止処分がまたしても市民を二分する結果となった。そして、一五四九年、当時の市会はまだリベルタンが主導権を握っていたが、翌年のアミ・ペラン逃亡以後は改革派が優勢となった。註⑧

(六)宗教改革と予定説
 宗教改革でルターやカルヴァンが目指したのは、何と言っても「原始キリスト教」への復帰であった。したがって、彼等にとってイエス・キリストとは神に近い人間ではなく、人間となった神そのものである。そして信徒にとっての救いとは、すべて神からの恵みとしてもたらされるものだった。ところが、ルネサンス運動の根幹をなすユマニスム(ヒューマニズム)humanismeの影響を受けた人々の中には、キリスト教の根本的教義である三位一体説を否定する者がいた。その代表がスペイン人ミゲル・セルベトMiguel Serveto(一五一一~五三)である。彼は長年にわたって南仏のヴィエンヌ大司教Vienneの侍医として生計を立てていたが、一五五三年、『キリスト教の再建』で三位一体説を批判するとともに、 カルケドン信条(註⑨)や幼児洗礼を否定した。その後、逮捕されたセルベトは監視の目を盗んで逃亡し、同年八月、ジュネーヴに姿を現した。セルベトはジュネーヴにおけるリベルタンの情報を得ていたので、彼らが歓迎してくれるものと信じていたが、意に反して逮捕・起訴されてしまった。それでもセルベトの目論見では、無罪判決を勝ち取った後はカルヴァンに代わって自らジュネーヴにおける宗教改革の主導権を握るという強気の算段であった。そのとき、まだ市民権を持っていなかったカルヴァンはセルベトを告訴する権利がなかったが、彼の意を体した若者が告訴人となった。ジュネーヴ市会は最初のうちはこの裁判をどう処理していいか分からず、同盟関係にある周辺諸都市に問い合わせたところ、すべてカルヴァンを支持する返事が戻ってきた。その結果、セルベト裁判は(本人の予想とは全く相反する)焚刑という厳しい判決を下したのであった。その時、ファレルが死刑囚となったセルベトを慰めて、最後の悔い改めをさせるためにヌーシャテルから呼ばれた。ファレルは、「彼は胸を叩いて恵みを祈り、神に呼ばわり、キリストに祈りを捧げ、キリストを救い主、いなそれ以上のものとして認めた。けれども、かれはキリストのうちに、神の子を認めず、ただ時間のうちに生きる人間を認めるものであった」との記録を残している。死刑が執行された一〇月二七日、二人の市会議員を連れたカルヴァンがセルベトを訪ねたが、死刑囚は最後まで自らの考えを変えなかったという。また、カルヴァンのストラスブルク時代の学生で、後に仲違いしたセバスティアン・カステリオンSebastian Castellioは、マルティヌス・ベリウスMartinus Belliusという偽名で『異端者についてーかれらは迫害されるべきかどうか』(一五五四年)を著し、セルベト裁判におけるカルヴァンの態度を厳しく批判している。こうしてセルベト裁判は、カルヴァンが「神権政治」を行ったという後世の評価を決定づけた。しかし、(繰り返すが)カルヴァンは教会代表として教会の要望を市政に反映させようとはしたが、統治者とはならかった。一六世紀半ば、まもなく激化する「魔女狩り」の季節を前にして、断固として異端の存在を許さない彼の姿勢が神権政治と映ったのである。註⑩
 次に、 ルターやカルヴァンの教えに共通するものとして、「予定説」を挙げなければならない。人間の罪性と無力さへの深刻な自覚からは、人間の可能性に関する徹底した悲観的、絶望的教説しか生まれない。すなわち、人間存在そのものが罪を犯さざるを得ない宿命を持ち、人間の意志が悪だけしか欲することが出来ないとすれば、人間とは自己の救いについて何ら関与できない全く無価値の存在ということになる。ここから、ルターは「それゆえ、善行によってではなく、ただ信仰のみ」(信仰義認説)と考えたが、 カルヴァンはより徹底して「恩寵を信じることも、これに服従することもすべて神の意志にある」と判断した。したがってカルヴァンの考え方に従えば、救いに相応しい者になるか(恩寵を信じるか)、それとも救いを拒む者となるか(恩寵を信じないのか)という決定についても、人間の自主的判断が入り込む余地はない。カルヴァンの「絶対予定説」は、信徒が宿命論的怠惰や奴隷的無気力に安住することを許さず、厳しい禁欲的実践へと駆り立てる。何故なら、「あらゆる被造物はそれ自体のために存在するものではなく、神に属すものとしてその存在の全てを〈神の栄光〉の顕現のために捧げることが被造物である信徒の義務だ」と考えたからである。そして具体的には、「滅びの子の徴は、厳しい教会規律から脱落していくことである。救いに選ばれた保証は、日毎の実践における証しによって確証される」と受けとめたのである。
 ところで一五五五年以降、ジュネーヴ市民はおおむねカルヴァンの教えに信服するようになり、教会と市政当局との関係も格段に良い方向に変化していった。そのため、カルヴァンの関心は次第にヨーロッパ各地の宗教改革、とりわけ祖国フランスの改革へと向けられ始めた。カルヴァンが『キリスト教綱要』を最初に出版したのは一五三六年で、五年後の一五四一年にはそのフランス語版を刊行した。その後、版を重ねるたびにフランス語版も作られていることからも明らかなように、彼の意識からフランスが消え去ることはなかったものと思われる。しかし、当時のフランス=プロテスタントがおかれていた状況は、同じ新教徒であってもジュネーヴや神聖ローマ帝国のそれとは全く異なっていた。先ずドイツでは、ルター派教会が君主権に大きな役割を認めたために世俗権力間の宗教戦争が長く続いていた。アウクスブルク宗教和議Augsburger Reichs- und Religionsfrieden(一五五五年九月二五日)で宗教戦争が終結し、ルター派の信仰が許されたが、この「信仰の自由」は領邦国家や自由都市単位の自由であったために領邦教会制度の発達を促し、国家権力と教会の結びつきを強化する結果となった。その頃、カトリック教会側はトリエント公会議Trient(一五四五~六三年)を開催し、教皇至上主義を確認して結束を固めるとともに、新航路発見と結びついたイエズス会の布教活動で失地回復を果たしていた。こうした対抗宗教改革(反宗教改革)の動きに対して、ドイツにおけるプロテスタント陣営の旗色は悪かった。ルターの晩年は宗派内の論争が続き、彼は道徳不要論のヨーハン・アグリコラJohann Agricola(一四九九~一五六六)を追放し、メランヒトンさえ攻撃している。ルターの死(一五四六年)後は、メランヒトンを範としてプロテスタント諸派の間に平和をもたらそうとしたフィリップ派と、フラキウス・イリュリクスFracius Illyricus(一五二〇~七五)を指導者としてルターの教えの神髄を守ろうとした純正ルター派に分かれて対立するようになった。こうして、 ドイツにおける宗教改革は急速に硬直化し、 カルヴァン派との連携は可能性を失ってしまった。また、 ストラスブルクのブーツァーはカトリックとの和解を目指したが失敗し、一五四九年にカンタベリー大主教トマス・クランマーThomas Cranmer の招きでイングランドに渡った後は、エドワード六世時代の教会改革に携わっている(イングランド国教会は摂政サマセット公の影響で初めのうちはカルヴァン主義的傾向が顕著であった)。
 それに対して、カルヴァンの影響を受けたフランスのプロテスタント教会は、国家権力とは離れた形で、 時には国家権力と対決する中で信徒を増やす努力をし、フランス各地に教会を増設させていった。カルヴァンはジュネーヴで一種の「神権政治」を行ったという誹りを受けたが、彼の理想は政治との繋がりを清算した純粋な教会の創造にあった。一五五九年五月二五日、フランス改革派教会が正式に発足し、カルヴァンが起草した「信条」と「教会諸規定」に基づく全く新しい教会として活動を開始した。しかし、カルヴァン主義を、勃興期にあるブルジョワ中産階級が封建的・教権的支配に対する闘争の一手段として採用した宗教と見なすことは出来ないし、資本主義社会の実践に適合的な宗教と単純に述べるのも無理がある。二〇世紀初め、マックス・ウェーバーMax Weber(一八六四~一九二〇)は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら〈神の栄光を増すため〉のものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる」と評価したが、一六世紀半ば以降の宗教改革はカトリック教会の支配に対する闘争だけでなく、新旧両派の宗教と結びついた世俗権力相互の闘いという側面を持ったがために、 極めて複雑な展開をする。
 カルヴァンは宗教改革への支持を得るために沢山の手紙を書き送っているが、その宛先はヨーロッパ各地で奮闘している改革者のみならず、権力闘争に明け暮れている王侯貴族や無名の信徒と多岐にわたっていた。その結果、カルヴィニズム(カルヴァン主義)Calvinismは一六世紀という新しい時代と結びつき、西欧各地に浸透していく。カルヴァン主義が最初に浸透したのは、一五五〇年代のネーデルラント南部の職人・農民やポーランド、ハンガリー、ベーメンなどの貴族層であり、一五六〇年代以降はフランス、イングランド、スコットランドへと拡がった。カルヴァンの思想ははじめのうち職人・農民という下層民に支持されたが、宗教改革がそれぞれの国家を揺るがす巨大なうねりとなったのは、貴族層の支持を集めるようになってからである。カルヴァンの絶対予定説を信じた人々は、カトリック勢力からの迫害を受けるたびに教派としての団結を強め、長老制度を有する彼らの教会組織が規律と力を高めていった。彼らの組織は都市や集会を単位として編成されたために教派的分裂の危険性が常につきまとっていたが、カルヴァンも(一六世紀前半に現れた宗教改革者の例にもれず)「悪い統治者といえども、これを罰しうるのは神だけだ」と見なしており、カルヴァン派と世俗権力の衝突は回避可能であった。スコットランドでも地方的、国民的な大会が開催されるようになり、そこには下部組織から選出・任命された代表者が出席するようになった。こうして改革派教会は比較的穏健な民衆性を保つと同時に、組織としての規律や、会衆の自発性・活力の維持を両立させることができたのである。その結果、スコットランドでは一五六〇年、ジョン・ノックスJohn Knoxが長老主義教会と「スコットランド信仰告白」をつくり、ネーデルラントでは一五六一年、ギイ・ド・ブレがフランス信条の影響を受けて「ベルギー信条」を作成した。またドイツのプファルツ侯フリードリヒ三世Friedrich III(在位一五五九~七六、ヴィッテルスバッハ家)がカルヴァン派に改宗し、カルヴァンの弟子たちに「ハイデルベルク信仰問答」(一五六三年)を作らせている。こうして西欧各地にカルヴァンの影響を受けた人々が活躍し、彼らは「改革派」(リフォームド・チャーチReformed Church)と呼ばれるようになる。しかし、ヨーロッパの中で経済的先進地域となるネーデルラント、イングランド、フランスなどでは国王と貴族層の権力闘争に新旧両派の教会が結びつき、カルヴァン主義は反権威的自由思想という性格を濃厚にするのである。晩年のカルヴァンは、ユグノー戦争Guerres de religion(一五六二~九八年)ではもちろんプロテスタント側を応援したが、一五六四年五月二七日、波乱の生涯に終わりを告げた(享年五五歳)。註⑪

第二節 フランスにおける福音主義
 一六世紀初め、フランス王国ヴァロワ朝の第九代国王フランソワ一世François I(在位一五一五~四七)は、即位直後から神聖ローマ帝国のマクシミリアン一世Maximilian I(在位一四九三~一五一九)とのイタリア戦争(一四九四~一五五九年)に直面していた。一五一五年、ヴェネツィアと結んだフランス軍はミラノに侵攻して教皇庁に圧力を加え、翌一六年には教皇レオ一〇世との間で、フランス国内の大司教・司教・修道院長など高級聖職者の任命に際しては仏王が候補者を指名し、教皇が叙階することを定めた「ボローニャ協定」Concordat of Bolognaを締結した。教会を国家の枠内で捉え、王権の支配下に従属させようとするガリカニスムGallicanisme(国家教会主義)の画期となったのは英仏百年戦争(一三三九~一四五三年)末期に発布された「ブールジュの国事証書」(一四三八年)であるが、このボローニャ協定によって長年続いた聖職叙任権をめぐる争いが決着し、フランス国王は国内教会に対する教皇権の影響力を弱めることが出来ただけでなく、貴族勢力に対しても大きな力を発揮することが出来るようになった。したがって、当時のフランスでは約六〇〇に及ぶ司教座、修道院が国王の権力機構の中に組み込まれており、王権を支える強力な柱としての機能を果たしていたのである。
 こうした国家教会体制の確立は、王権伸長に大きく貢献した。何故なら、中世以来続いてきた教会の末端組織「教区」を王権が利用できるようになったからである。一五三九年、ヴィレール・コトレ勅令は各教区の司祭に洗礼記録を載せた教区簿冊をつけるように命じ、その一一〇条・一一一条では公的文書におけるフランス語使用を義務づけている。また一五七九年、ブロワ勅令では洗礼に加えて婚姻や埋葬の記録も残すよう命じている。これらの教区簿冊の写しは国王裁判所に提出することが義務づけられていたため、 王権は「戸籍」の管理が可能となり、やがて来る中央集権国家、国民国家成立への足がかりを手にしたのである。そして王権の伸長は、王領地拡大によっても裏付けられる。当時、王国中心部に広大な領域を持ち、王権から半独立的状態になっていたブルボン公家の所領は、 当主シャルル三世Charles III de Bourbonが独帝カール五世やイングランド王ヘンリ八世と通じていたかどで没収され、一五二七年に王領に併合された。また、既に婚姻政策によってヴァロワ王朝と結びつけられていたブルゴーニュ公領も、一五三二年には地方三部会の同意を得て王領に統合されている。註⑫
 ところが、一五一七年、ヴィッテンベルク大学教授マルティン・ルターが始めたドイツ宗教改革や二年後の神聖ローマ皇帝選挙は、フランソワ一世の思惑から大きく外れることとなった。先ず宗教改革の発生は自らの権力基盤を危うくする恐れがあり、皇帝選挙ではより潤沢な資金を用意したハプスブルク家の西王カルロス一世Carlos I(在位一五一六~五六、独帝カール五世在位一五一九~五六)に敗れている(註⑬)。一五二〇年代には早くもルター派の思想がフランス国内にも浸透し始め、一五二五年のアランソン公シャルル四世の死後、二年たってナヴァール王エンリケ二世と再婚した王姉マルグリット・ド・ナヴァールMarguerite de Navarre(一四九二~一五四九)が暮らすナヴァール宮廷には、フランス宗教改革を始めたと言われるルフェーブル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaples(一四五〇頃~一五三六)やジェラール・ルセルGérard Roussel(一五〇〇頃~五〇)、ラ・マルシュ学寮でカルヴァンを指導したマチュラン・コルディエMathurin Cordier(一四七九~一五六四)、フランス語訳聖書の改訂(一五三五年)で名高いオリヴェタンOlivétan(一五〇六頃~三八)など数多くの人文主義者が集ったと言われる。また、ブールジュではカルヴァンを導いたドイツ人教師メルキョール・ヴォルマールMelchion Wolmar(一四九六~一五六一)がルター主義に理解を示し、パリ近郊のモー司教区Meauxでは一五二一年頃からブリソンネGuillaume Briçonnetやギヨーム・ファレル、ルフェーヴル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaples(一五三〇年アントウェルペンでフランス語訳聖書刊行)を中心として教会改革が開始されていた。しかし彼等は、聖書の権威を尊重し、信仰によってのみ義とされる福音主義の原理には目覚めていたが、カトリック改良派の範疇から抜け出るものではなかった。
 しかし、こうした人文主義的な福音主義運動やルターの著作物の流入、ドイツやスイスからやって来る遍歴説教者の活動などによって、フランスにも福音主義がじわりと浸透し始める。当時、独帝カール五世とのイタリア戦争の最中にあったフランソワ一世は、カトリックの信徒として基本的には反福音主義の立場にあったが、時には国内の超保守派やドイツ=プロテスタントとの関係を考慮してフランス=プロテスタントの活動を黙認するという相反する宗教政策を展開していた。
 一五二一年、フランソワ一世はミラノ公国を支配していたスフォルツァ家Sforzaの追放に成功したが、皇帝カール五世が教皇レオ一〇世と結んでミラノを攻撃し、フランス軍は退却を余儀なくされた。しかし、一五二三年に即位した教皇クレメンス七世Clemens VII(在位一五二三~三四、レオ一〇世の従弟)は、フランス王と皇帝のどちらにつくかで揺れていた。そこで一五二五年、ドイツ農民戦争(一五二四~二五年)の混乱の隙を突くように、フランソワ一世が直接指揮するフランス軍がロンバルディア地方になだれ込んだ。しかし、スペイン=神聖ローマ帝国連合軍(ハプスブルク家)とパヴィア駐屯軍は小銃とピケpiqueを巧みに使用してフランス軍を撃退することに成功した(二月二四日パヴィアPaviaの戦い)。その時、かつてフランソワ一世に仕え、一五二三年神聖ローマ帝国に亡命していたブルボン公シャルル三世が、皇帝軍を指揮してフランソワ一世を捕虜にする活躍を見せた。註⑭
 マドリードで幽囚の身となったフランソワ一世は、カール五世と教皇の関係を分断する目的でフランス国内における新教徒迫害指令(一五二五年)を出し、一五二六年には屈辱的なマドリード条約を結んで釈放された。帰国したフランソワ一世は条約不履行を宣言して、スペイン=神聖ローマ帝国連合に対抗するためにフランス南西部でコニャック神聖同盟Cognac(教皇・仏・英・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ)を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ・デステAlfonso d'Esteを破門し、ローマに幽閉した。また、 ドイツではヘッセン方伯フィリップ一世ら改革派諸侯によるゴータ・トルガウ同盟Gotha-Torgauが結成され、カトリック側のデサウ同盟Dessau に対抗している。翌二七年、周到な準備を重ねたフランソワ一世は戦争を再開したが、その時彼はゴータ・トルガウ同盟の支持を得るために一転してプロテスタントへの迫害中止命令を発している。一方、独帝カール五世はフランスと結んだ教皇クレメンス七世への報復のためにブルボン公シャルル三世をローマに派遣し、同年五月六日の戦闘で教皇軍を撃破した(教皇はティベル川右岸のサンタンジェロ城Castel Sant'Angeloに逃げ込んだ)。シャルル三世の指揮する皇帝軍はローマ包囲に成功したが、指揮官が狙撃で落命し、統制を失った皇帝軍は破壊と略奪の限りを尽くした(ローマ略奪Sacco di Roma)。皇帝軍は教皇の降伏(六月)後も居座り続け、この混乱の中で「イタリア・ルネサンス」は終焉の時を迎えたのである。
 その間、神聖ローマ帝国は、スレイマン一世Süleyman I(在位一五二〇~六六)率いるオスマン帝国という強大なイスラーム国家の進撃に怯えていた。一五二六年六月には迫り来るオスマン軍に動揺して第一回シュパイエル帝国議会が開催され、ヴォルムス勅令(一五二一年、ルター派禁止)の実施延期を決めている。しかし同年八月二九日、ハンガリー王兼ベーメン王ラヨシュ二世Lajos II(在位一五一六~二六、ベーメン王ルドヴィーク Ludvik Jagellonsky)率いる3万の軍勢はドナウ川のほとりのモハーチ平原で倍以上のオスマン軍と戦ったが、国王自身が戦死するなど壊滅的な敗北を喫した。ハンガリー軍が騎士を中心とする古い戦術をとったのに対して、オスマン軍が歩兵の小銃だけでなく三〇〇門の大砲を持っていたことが勝敗を分けたのである。そして、ハンガリー王の後継者としてはトランシルヴァニア地方の領主サポヤイ・ヤーノシュSzapolyai Janosが有力であったが、スレイマン一世を後ろ楯としたことでヨーロッパ諸国の君主から嫌われ、ラヨシュ二世の姉アンナの夫で王妃マリアの兄に当たるフェルディナント大公(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント一世)がベーメン・ハンガリーの統治を継承することになった。
 三年後の一五二九年四月二二日、神聖ローマ帝国内では第二回シュパイエル帝国議会が開催され、ヴォルムス勅令を再確認した。また、独仏間の戦争はドイツ軍の勝利となり、皇帝カール五世は教皇との間にバロセロナ条約Barcelona(六月)、フランスとの間にはカンブレー和議Cambrai(八月三日)をそれぞれ締結した。しかし同年、ハンガリー王位を逃したヤーノシュの要請で再びオスマン軍がハンガリーへと進撃し、九月二八日にはオーストリア大公国の都ウィーンが包囲された。しかし、スレイマン一世率いるオスマン軍は確かに強力ではあったが、既に補給線が伸びきっており、早くも冬将軍が押し寄せようとしていた。そのため、スレイマン一世はやむなく撤退を選択したのであった。第一次ウィーン包囲の緊張下、 カール五世はイタリアを支配下に収め、 翌三〇年には教皇クレメンス七世をボローニャに招いて神聖ローマ皇帝戴冠式を挙行している。(これが教皇による神聖ローマ皇帝戴冠の最後となった)註⑮
 一方、 仏王フランソワ一世は、一五二九年のカンブレー和議後は再びプロテスタントの迫害に転じ、 一五三三年(カルヴァン「回心」の年)に教皇クレメンス七世とマルセイユ協定を結んで異端撲滅を約束したことは先に見たとおりである。パリ大学総長ニコラス・コップの福音主義的演述が異端と断罪され、コップやカルヴァンがパリから逃げ出したのは、フランソワ一世がマルセイユ協定を即座に実行に移したからであった。しかし僅か三カ月後にはフランスとドイツ=プロテスタント諸侯との秘密同盟が成立したため迫害停止に変更し、一五三四年一〇月の檄文事件後の約一カ月に及ぶ激しい弾圧の後も三度目の寛容策を採用するなど、その新教徒対策は猫の目のようにめまぐるしく変化した。フランソワ一世はドイツ=プロテスタントの離反を恐れてプロテスタントに対する弾圧を中止し、デ・ベレの献言を容れてメランヒトンMelanchthonやブーツァーをフランスに招こうとしただけでなく、プロテスタントに好意的なアントワーヌ・デュプラ Antoineduprat Chancellierを大法官に任命し、亡命者を帰国させるための「寛容令」さえ発している。そして彼は、フランスにおける新教徒取り締まりは謀反を企てている騒擾者(具体的には再洗礼派)の掃討が目的であると宣伝していた。
 やがて一五三五年二月になると、フランソワ一世とスレイマン一世は、宗教の違いを乗り越えて共通の敵「神聖ローマ帝国」と対決することにした。すなわち、オスマン帝国が領内に住むフランス人に対して、 非イスラーム教徒であるにもかかわらず通商の自由や治外法権などを認める〈カピチュレーション〉capitulationという特権を与えたのである。その結果、イタリア戦争第三戦(一五三六~三八年)はフランス優位のうちに「ニースNiceの和約」(一五三八年)を結ぶことができ、もはやプロテスタントに甘い顔を見せる必要がなくなったフランソワ一世は一転して厳しい弾圧に乗り出した。一五三八年、一五三九年、 一五四〇年と連続して勅令が発せられ、一五四二年の「出版物検閲に関する勅令」ではカルヴァン著『キリスト教綱要』の写しを二時間以内に破棄することを命じ、一五四四年二月一四日にはノートルダム大聖堂の前庭でエティエンヌ・ドレによって印刷された『キリスト教綱要』が焼却され、七月一日の勅令では『キリスト教綱要』を高等法院に差し出さなかった者を絞首刑に処することを告げている(八月一九日には禁書目録が発表された)。また、一五四六年四月一七日ルーアン高等法院に異端を裁くための特別委員会が創設され、フランソワ一世が逝去してまもない一五四七年一〇月八日にはパリ高等裁判所内に火刑裁判所が設けられた。
 ところで、宗教改革の開始以降、新旧両派がともに公会議の召集を模索していたのに対して、フランソワ一世やイングランド王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)は公会議開催によってドイツ国内の宗教的対立が解消することを危惧していた。一五三七年五月二三日に召集されたマントヴァ公会議Mantovaは、ドイツ国内のシュマルカルデン同盟Schmalkaldischer Bund(一五三〇年結成)が事前に公会議への招請を拒否し(同年二月二四日)、フランソワ一世も開催地が皇帝の勢力圏内にあることを理由に断ったため開催が不可能となった。しかし、独帝カール五世はプロテスタント側との和解を追求し、一五三八年、フランスとの間に「ニームNîmesの和議」を結んで、一時的な休戦を実現させた。ところが、スペイン=ヴェネツィア連合艦隊がオスマン帝国海軍に敗れて(一五三八年、プレヴェザPrevezaの戦い)恐怖のどん底に陥れられた神聖ローマ帝国では、皮肉にも新旧両派の対立を解消する絶好の機会が訪れた。一五四一年には、そのオスマン帝国が再びハンガリーへの侵攻を開始した。カール五世がレーゲンスブルクRegensburgで調停工作に乗り出したとき、教皇パウルス三世Paulus III(在位一五三四~四九
)は枢機卿ガスパロ・コンタリーニを派遣したが、この試みは失敗に終わった。しかし、レーゲンスブルクでの調停失敗は、公会議開催の必要性を改めて痛感させたのである。枢機卿ジョヴァンニ・モローネがドイツとの折衝に当たった結果、枢機卿司教クリストフ・マドルッツォーが領主を務める北イタリアの帝国都市トリエントTrient(トレントTrento)で公会議を開催することでようやく合意に達した。ところがこの年の夏に仏独間の戦争が再開されたため、またしても公会議は中止となってしまった。翌四四年には、 独帝カール五世が勝利を収めて「フレピーの和議」(九月一八日)を締結したが、敗れたフランソワ一世が秘密条項でフランス司教の出席を約束したため公会議開催の主たる障碍は取り除かれた。一一月三〇日、教皇パウルス三世は公会議中止を取り消し、一五四五年三月一五日(四旬節第四日曜日)を期して開会することを宣言した(ただし、実際に開会できたのは一二月一三日)。トリエント公会議は一五六三年一二月四日の閉会まで都合一八年間にわたって開催されたが、フランスの司教が出席するのは第三期(一五六二年一月一八日第一七会議~六三年第二五会議)のみであった。トリエント公会議では、教義上の妥協が一切なかっただけでなく、聖書はヴルガータ版 Vulgata(カトリック教会の標準ラテン語訳聖書)以外の各国語訳を認められず、伝統的秘蹟の有効性や人の自由意志、神の赦しを再確認し、聖職者の職務励行や規律と資格改善を謳ったのであった。
 その間、ドイツのルターは改革派の急進的行動に当惑し、プロテスタント諸侯すなわち世俗権力との同盟関係を結ぶようになっていた。その結果、帝国都市六五のうち五〇都市までが改革派を受容し、ルターが亡くなる一五四六年にはシュマルカルデン戦争(一五四六~四七年)が勃発している。ドイツ北部の改革派諸侯・都市と皇帝やカトリック諸侯・都市が拠った南部勢力との戦いは、一五四七年四月二四日ミュールベルクMühlbergの戦いでザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒJohann Friedrich が捕虜となり、カトリック側の勝利となった。一五五五年九月二五日、アウクスブルク帝国議会Augsburgで新旧両派の和議が結ばれ、(1)帝国内における宗教戦争の終結(ただし、再洗礼派・カルヴァン派を除く)、(2)領邦君主および帝国都市の宗教的領域主権の容認(諸侯がカトリックとルター派のいずれかを選択し、各領域にその宗教を強制するcuius regio eius religio)とした。すなわち、領邦教会制度が成立したのである。この和議内容に失望したカール五世は欠席し(弟フェルディナントが臨席)、翌月にはブリュッセルの宮廷でネーデルラントを嫡子フェリペに生前贈与する式典を催した。また、その後半年もしないうちにスペインをフェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)に、オーストリアなどを弟フェルディナント一世Ferdinand I(在位一五五六~六四)に譲っている。
 一方、フランス国内の新旧両派は活発に布教活動を展開していたが、一五四〇年代から広まりだしたフランス=プロテスタント(ユグノーHuguenot)の勢力は、始めは都市の手工業者や小商人に信仰されただけだったが、次第に幅広い階層に支持されるようになった。一五五〇年代後半からは高等法院内部にユグノーが現れ、ついで兵士や貴族の中にも改宗者が続出してパリ地方、ロワール流域、西部および西南部フランス、リヨンやローヌ川下流の諸都市に浸透し、一五五九年には最初の全国教会会議がパリで開催されるまでになった(五月二五日、議長はフランソワ・モレル牧師)。一五六一年にはユグノー派の教会もしくは集団が二一五〇も存在し、プロテスタント人口は二〇〇万人にのぼった(その後は弾圧が激しくなったために、一五九八年に一二五万人、一六八一年に七三万人と減少したと推定されている)。

第三節 イングランド宗教改革とフランスの内乱
 1.イングランド宗教改革
 一六世紀前半、イングランド王国テューダー朝(一四八五~一六〇三年)では、第二代国王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)が国家主導で宗教改革を行い、カトリック世界からの自立を図っていた。しかし、元来の彼はルターの宗教改革に反対し、一五二一年には教皇レオ一〇世から「信仰擁護者」fidei defensorという称号を与えられたほどであった。ところが一五三三年、ヘンリ八世は王妃キャサリン・オブ・アラゴン Catherine of Aragon(メアリ一世の生母)との離婚を教皇クレメンス七
世に反対されたことに立腹し、翌年議会の協賛を得て国王至上法(首長法)Act of Supremacyを定め、国王を最高の長とするイングランド国教会Church of Englandを成立させた。その後、一五三六年、三九年には修道院を解散させ、ローマ派教会や修道院の土地・財産を没収してジェントリ(郷紳)gentryに売却している。ヘンリ八世は、再婚した王妃アン・ブーリンAnne Boleyn(エリザベス一世の生母)を反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪でロンドン塔に幽閉したうえ斬首刑とした(一五三六年五月一九日)後、3度目の結婚相手に選んだのが前の二人の王妃に仕えていたジェーン・シーモアJane Seymour(エドワード六世の生母。産褥死)という女性であった。ヘンリ八世はその後も、アン・オブ・クレーヴズAnne of Cleves(一五四〇年結婚、同年離婚)、キャサリン・ハワードKatherine Howard(アン・ブーリンの従姉妹、一五四〇年結婚、一五四二年離婚・刑死)、キャサリン・パーCatherine Parr(一五四三年結婚)と続けて不幸な結婚を繰り返す。そして、シーモア家はジェーンが唯一の嫡子エドワードを産んだことで王室に深く関与することに成功する。
 エドワード六世Edward VI(在位一五四七~五三)がわずか九歳の幼さで王位に就いた一五四七年、サマセット公エドワード・シーモアEdward Seymour, 1st Duke of Somersetは王室の実権を掌握したが、その間、一五四九年と一五五二年の二度にわたって祈禱書が作成され、イングランド国教会の脱カトリック化が進んだ。しかし、一五五二年始めにはエドワード・シーモアが王権壟断と反逆の科で処刑され、次いでノーサンバランド公ジョン・ダドリーJohn Dudley, 1st Duke of Northumberlandが実権を奪った。やがて病弱な国王の死期が近いと察知したノーサンバランド公は、自分の六男ギルフォードをエドワード六世の従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイJane Greyと結婚させて彼女を次の国王に据えようと画策した。死の床にあったエドワード六世は、結局それを了承して七月六日に亡くなった(享年一五歳)。ノーサンバランド公は王位継承権者メアリの身柄を拘束しようとしたが、身の危険を察知したメアリはノーフォーク公トーマス・ハワードThomas Howard, 3rd Duke of Norfolkに匿われロンドンを脱出する。七月一〇日にはジェーンがロンドン塔に入城して王位継承を宣言したが(ジェーン女王〔在位一五五三年七月一〇~一九日])、一方のメアリも一三日にイングランド東部のノリッチNorwichで即位を宣言した。やがて多くの支持者がメアリのもとに集結し、ノーサンバランド公の軍隊を撃破した。こうしてロンドンに呼び戻されたメアリは改めて「正統」の女王メアリ一世Mary I (在位一五五三~五八)の即位を宣言し、ノーサンバランド公とその子ギルフォード、そしてジェーン・グレイをいずれも反逆罪で斬首刑に処した。
 さて、スペイン王家の血を引くメアリ一世は敬虔なカトリック信者であり、彼女が結婚相手として選んだのは従兄の子にあたる西王太子フェリペ(後のフェリペ二世)であった。しかし、フェリペはメアリ一世より一一歳も年下であり、カトリックの宗主国のような国家の王太子であったから、この結婚には反対する者も多かった。だが、一五五四年七月に結婚式が挙行され、フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられた。翌五五年、メアリ一世は父ヘンリ八世以来の宗教改革を覆し、イングランド王国をカトリック世界に復帰させた。彼女はプロテスタントを迫害し、女性や子どもを含む多くの人々を処刑したことから「血まみれのメアリ」Bloody Maryと呼ばれている。一五五六年、夫フェリペはスペイン王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)として即位するために本国に帰国し、一年半後にはロンドンに戻ったものの、わずか三か月後には再びスペインに帰国して二度とメアリと会うことはなかった。メアリ一世は五年余の在位の後、一五五八年一一月一七日、卵巣腫瘍が原因で他界した。
 次の国王は、ヘンリ八世の二番目の王妃アン・ブーリンが産んだエリザベス一世Elizabeth I(在位一五五八~一六〇三)である。母親が処刑された後の彼女は「庶子」とされたが、一五四三年、第三王位継承法の発令で姉メアリとともに王位継承権を回復した(一五五二年には再び剥奪された)。メアリ一世の治世が始まって間もない一五五四年、エリザベスはワイアットWyattの乱に関与したのではないかと疑われ、最初ロンドン塔に、ついでコッツウォルズの町ウッドストックWoodstockに幽閉された。一五五八年、病に倒れたメアリ一世はエリザベスの王位継承を承認し、まもなくエリザベス一世が即位したのである。戴冠式は翌五九年一月一五日、ウェストミンスター寺院で行われ、カトリックのカーライル司教から聖別された。同年、イングランド議会はエドワード六世の宗教政策に基づいた教会法の作成に着手し、五月八日に新たな国王至上法と信仰統一法が制定され、イングランド国教会が再建されたのであった。イングランド宗教改革はその原因をヘンリ八世の個人的気質に求められることが多いが、実態はフランス、スペイン、神聖ローマ帝国という強大国に隣接するイングランドの存亡をかけた事件と捉えるべきであろう。すなわち、ヘンリ八世、エドワード六世、メアリ一世、エリザベス一世と続く紆余曲折は、イングランド統治階級が共通して模索した国家像の変遷でもあった。

 (二)カトリーヌ・ド・メディシスとアンボワーズ陰謀事件
 一方、フランス王国では一五四七年三月三一日、フランス=ルネサンスに巨大な足跡を残したフランソワ一世がついに身罷った。そして、一五世紀半ばから一六世紀前半にかけて強大化した王権は、彼の死とともに一旦後退期に入る。フランソワ一世から王位を継承したのは、第二王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワであった。そしてこのアンリ二世Henri II(在位一五四七~五九)と結ばれたのが、ユグノー戦争の中心人物の一人となるカトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis(伊語Caterina di Lorenzo de' Medici)であった。
 彼女は、一五一九年四月一三日、イタリアのフィレンツェFirenzeでウルビーノ公ロレンツォ二世・デ・メディチLorenzo di Piero de 'Medici(ロレンツォ・デ・メディチの孫)とオーヴェルニュ伯ジャン三世Jean de La Tour d'Auvergneの娘マドレーヌとの間に生まれた。父ロレンツォ二世は叔父の教皇レオ一〇世(在位一五一三~二一)によってウルビーノ公Urbinoに叙されたが、彼の亡き後はその称号を剥奪された。母マドレーヌはカトリーヌを出産するとまもなく黒死病に罹って亡くなり、一五一九年には父ロレンツォ二
世も死去したため、カトリーヌは親戚を転々としながら育つことになった。そのためカトリーヌ本人は、 父が公爵で母がブローニュ女伯爵であるにもかかわらず、比較的低い出自となった。しかし、一五二三年に一門のジュリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇クレメンス七世(在位一五二三~三四)に選出され、翌二四年にはマドレーヌの姉アンナが子どものないまま没したため、オーヴェルニュ伯領、ブーローニュ伯領、 ラ・トゥール男爵領がマドレーヌの一人娘カトリーヌに引き継がれることになった。一五三三年、教皇と仏王フランソワ一世の間で縁組交渉がまとまり、一〇月二八日、アンリ王子とカトリーヌはマルセイユで盛大な結婚式を挙げたのである。新婚の二人はともに一四歳の幼さで、カトリーヌは持参金一〇万デュカやオーヴェルニュ伯領などの領地、教皇から贈られた一〇万デュカ相当の宝石のほか、お供一〇〇〇人を伴って嫁いだ。しかし、夫アンリの寵愛は一八歳年上の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ夫人Diane de Poitiersに独占されていたと言われる。
 結婚後三年が経過した一五三六年八月、王太子フランソワ毒殺事件が発生し、夫アンリは王太子となる。そして、一五四七年フランソワ一世の死去によって、王太子はアンリ二世として王位を継承した。その間、カトリーヌは一五四四年の嫡男フランソワの誕生に始まり、エリザベート(一五四五年)、クロード(一五四七年)、シャルル(一五五〇年)、アンリ(一五五一年)、マルグリット(一五五二年)、エルキュール(一五五四年)と相次いで子宝に恵まれている(他の三人は嬰児のまま死亡)。しかし、カトリーヌの王妃としての権限は大きな制約を受け、彼女の求めたロワール渓谷のシュノンソー城Chenonceauはディアーヌ・ド・ポワチエ夫人に贈られてしまう。 
 ところで、アンリ二世の治世の間に、フランス政界で大きく台頭するのがギーズ家 Guiseである。ギーズ家は、ロレーヌ公国の君主家門ロレーヌ家の分家で、ロレーヌ公ルネ二世の次男クロードに始まる。クロードはフランソワ一世に仕えて公爵位とプランス・エトランジェPrince étrangerという地位を獲得し、フランス宮廷において極めて高い序列をしめるようになった。彼の長女メアリ・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ五世James V(在位一五一三~四二)の妃となり、一五四二年一二月八日、二人の間の第三子(長女)として誕生したのがメアリ・ステュアートMary Stuart(スコットランド女王メアリ一世、在位一五四二~六七)である。しかし、彼女は生誕まもない一二月一四日に父が急死し、兄二人が早世していたためにわずか生後六日で王位を継承した。摂政にはジェームズ二世の曾孫アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任し、イングランド王ヘンリ八世の要求で王太子エドワード(後のエドワード六世)と婚約させられたりもした。一五四七年、イングランドの実権を掌握したサマセット公エドワード・シーモアがスコットランドを攻撃し、 迎撃したアラン伯は大敗を喫した。危機に瀕したスコットランドでは、翌四八年、王母メアリの計らいで女王メアリ・ステュアートを仏王アンリ二世のもとに移し、彼女は以後フランス宮廷で育てられることとなった。やがて一五五八年四月二四日、メアリ・ステュアートと仏王太子フランソワ(後のフランソワ二 
世)の結婚式が挙行された。 
 一五五九年、長く続いたイタリア戦争がようやく終結し、四月初めにはフランスと神聖ローマ帝国・スペイン王国との間にカトー・カンブレジ条約(カトー・カンブレジはフランス北部ノール県の町)が締結された。この条約で、フランスはイタリアへの権利を完全に放棄し、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸をハプスブルク家の統治下におき、その代償としてロレーヌ地方を譲り受けた。また、スペインのフェリペ二世は一五五八年、イングランド王メアリ一世と死別した後、仏王アンリ二世の娘エリザベートÉlisabeth de Valois(イサベル・デ・バロイスIsabel de Valois)と再婚し、フィレンツェ公国(メディチ家)はトスカーナ地方の都市シエナSienaを獲得した。しかし、ユグノー派が初めて全国教会会議を開催したこの年の暮れ、待降節adventus(一一月三〇日の「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約四週間)から次の年の四旬節Quadragesima(復活祭の四六日前の水曜日[灰の水曜日]から復活祭の前日[聖土曜日]まで)の期間、カトリック民衆による虐殺が続いた。六月二日に発せられた「エクーアン勅令」Écouenはユグノー派に対する宣戦布告だったが、法の施行に責任を負わなければならない高等法院自体は極めて寛容的な態度であった。そこでアンリ二世は激怒し、トゥールーズで有罪判決を受けた四名の異端に恩赦を与えたとしてアンヌ・デュ・ブールを焚刑に処し、高等法院部長アントワーヌ・フュメなどはバスティーユに投獄された。ところが同年七月、イタリア戦争終結を祝う馬上槍試合でモンゴメリ伯ガブリエル・ド・ロルジュの突き出した槍が国王の眼に刺さるという不慮の事故が発生し、アンリ二世は急逝した(七月一〇日、享年四一歳)。その結果、病弱でまだ一五歳という若さの王太子が王位を継承し、フランソワ二世Francois II(在位一五五九~六〇)として即位したのである。また王母カトリーヌはその後の半生を黒い喪服で過ごすことになるが、仇敵ディアーヌ夫人の宮中立ち入りを禁じた。もっとも彼女は、ディアーヌ夫人からシュノンソー城を取り上げるが、その代わりにショーモン城Chaumontを与えている。
 ところで、フランソワ二世の即位は、王妃の外戚に当たるカトリック貴族ギーズ家一門とユグノー派貴族ブルボン家の対立を表面化させた(註⑯)。即位式の翌日、王妃の伯父にあたるロレーヌ枢機卿やギーズ公フランソワは国王夫妻とともにルーヴル宮殿に入り、ユグノー派弾圧に着手した。一方、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌ(ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンAntoine de Bourbon, duc de Vendôme)やその弟コンデ公ルイ一世Louis Ier de Bourbon-Condéを盟主としたユグノー派は、ギーズ家打倒とブロワ城にいた国王の拉致を謀ったが、(弁護士ダヴィネルがロレーヌ枢機卿にその情報を漏らしたため)事前に露見してしまった。ギーズ家は、ユグノー派の動きを察知して宮廷をロワール渓谷のアンボワーズ城Amboiseへと移し、城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけて指導者ラ・ルノディー等を惨殺した。捕縛された一五〇〇人以上のユグノーたちは、宮廷人の目の前でそれぞれ絞首刑、斬首刑、車裂の刑に処され、見せしめとして晒されたという(一五六〇年三月、アンボワーズ陰謀事件 la Conjuration d'Amboise)。
 王母カトリーヌは当初、ギーズ家とともに動かざるを得なかったが、宗教問題で一方に肩入れするのを避けようと配慮した。一五六〇年六月、カトリーヌはオルレアン三部会で国法の擁護者ミシェル・ド・ロピタル Michel de l'Hôpital を尚書局長(大法官)に任命し、八月にはフォンテーヌブロー宮Fontainebleauに諮問会議を召集してユグノーが特定の場所なら自由に礼拝できるようにしようとした。しかし、当のコンデ公がフランス南部で武装蜂起を開始したため、カトリーヌは彼を宮廷に召還し、国王に対する反逆罪で死刑の宣告をしなければならなかった。ところが同じ頃、息子フランソワ二世が狩猟から帰るやいなや「耳の後ろが痛い」と訴えて倒れてしまった。彼の病気は中耳炎であったが、その症状は脳葉にまで達して脳炎を引き起こしており、一二月五日には他界してしまった(享年一六歳)。カトリーヌはフランソワ二世が助からないと悟ったとき、ナヴァール王アントワーヌが次の国王(シャルル九世)の摂政になる権利を放棄するならば彼の弟コンデ公を釈放すると約束した。こうしてフランソワ二世の死去後、一三日に全国三部会がオルレアンで開催され、二一日の国務会議においてカトリーヌを摂政に任命して全権を委任し、コンデ公の命は救われたのである。なお、フランソワ二世との間に子供ができなかったメアリ・ステュアートは、翌六一年八月二〇日にスコットランドに帰国するはめとなった。註⑰

第四節 ユグノー戦争(一五六二~九八年)
 (一)宗教的融和策と戦争勃発
 新国王シャルル九世Charles IX(在位一五六〇~七四)は僅か一〇歳の幼王であり、対立するカトリック(ギーズ家)とユグノー派(ブルボン家)の調停は必然的に摂政カトリーヌの役目となった。彼女は国務会議を主宰して国政をスムーズに展開するためには宗教的融和策が肝要と考えたが、両者の関係改善を図るのは容易ではなかった。一五六一年一月、カトリーヌはユグノー派に対する「オルレアン寛容令」を出したが、猛反発したギーズ公フランソワは国王軍司令官アンヌ・ド・モンモランシAnne de Montmorencyやジャック・ド・サンタンドレJacques d'Albon de Saint-André 等と反動への道を進むことになる(カトリック「三頭政治」 triumviratの結成)。そして同年九月にはサン・ジェルマン・アン・レー三部会Saint-Germain-en-Layeの中でテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeを含む一二名の新教徒牧師をポワシーPoissyに招いてカトリック聖職者との会談を主宰したが、一〇月の最終会談で新旧両派は完全に決裂してしまった。それでもカトリーヌは、一五六〇年、六一年と連続して全国三部会を開き、国務会議に高等法院のメンバーを加えた拡大国務会議の討議を経て、翌六二年一月、「サン・ジェルマン寛容令」を発してユグノーの城壁外及び屋内での礼拝を容認した。しかし、同年三月一日ギーズ公がヴァシー村Vassy(シャンパーニュ地方)で開かれていたユグノー派の日曜礼拝を襲撃して七四人を殺害し、一〇四人を負傷させる事件(死者三〇人・負傷者一二〇人や、死者六〇人・負傷者二五〇人という異説あり)を起こしたことが、ユグノー戦争Guerres de religion (一五六二 ~九八)の戦端を開くことにつながった。
 ヴァシー事件後、ユグノー派は直ちに反撃に打って出た。コンデ公ルイ一世やガスパール・ド・コリニー提督Gaspard de Coligny(シャティヨン・コリニーの領主)を中心とするユグノー派は、シャルトル管区防衛長官ロベール・ド・ラ・エイ等を派遣してイングランド王エリザベス一世とハンプトン・コート密約Hampton Court を結び、兵士一万人とクラウン銀貨一〇万枚(クラウン銀貨一枚は五シリングに相当)という援助の見返りにカレーCalaisの返還とル・アーヴルLe Havreの担保がついた(秘密条項としてディエップDieppeとルーアンRouenの割譲も約束した)。その結果、イングランド軍はセーヌ河口のル・アーブルに上陸し、ユグノー派もフランス国内の諸都市を占拠した。しかし、国王軍も速やかに行動し、ユグノー派の拠点ルーアンを包囲した(一五六二年五~一〇月)。またドルーDreuxの戦い(一五六二年一二月)ではコンデ公ルイ一世を捕虜としたが、国王軍司令官モンモランシも捕らえられた。摂政カトリーヌはコリニー提督に帰順を呼びかけ、包囲戦で狙撃され死の床にあったナヴァール王アントワーヌのもとを訪ねている。しかし、六三年二月一八日、オルレアン包囲中のギーズ公フランソワはユグノー派のポルトロ・ド・メレという男が背後から撃った銃弾を受けて斃れるという事件が発生し、新旧両派とも戦争継続が困難となったこともあって、三月一九日にはアンボワーズ和解令(和解勅令)が発せられて休戦となった。この和解令はすべての臣下に「信仰の自由」を認めたが、「礼拝の自由」は貴族とりわけ上級裁判権を持つ貴族には認めたものの、一般民衆には極めて厳しい制約を課しており、パリ市内ではカトリックの礼拝しか認められなかった。
 一五六三年七月、カトリーヌは新旧両派の軍隊を派遣してイングランド軍に占領されていたル・アーヴルの奪還に成功した。そして翌月一七日、ルーアン高等法院はシャルル九世の成人を宣言し、カトリーヌの摂政は終了した。しかし、彼女は国政を主導し続け、一五六四年一月以降に行われた国王の国内巡幸(~一五六五年五月)に同行して王権回復に努めている。巡幸の途中、カトリーヌはブルゴーニュ地方のマコンMâconとアキテーヌ地方のネラックNéracと二度にわたってナヴァール王アントワーヌの未亡人ジャンヌ・ダンブレ Jeanne d'Albret(ナヴァール女王フアナ三世Juana III de Navarra、ユグノー派)と会見し、一五六五年二月にはスペイン国境付近のバイヨンヌBayonneにおいて娘エリザベートや西王フェリペ二世の首席顧問アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドFernando Álvarez de Toledo, Duque de Albaと会っている。しかし、カトリーヌが熱烈なカトリック信者フェリペ二世の顧問と会ったことや、国王シャルル九世がフランドル地方における旧教勢力を支援したことが、ユグノー派に危機感を募らせることとなった。註⑱
 一五六七年九月二八日、西王フェリペ二世が派遣したアルバ公の軍隊通過に怯えたユグノー派は、コンデ公を中心にシャルル九世を襲撃して自陣営に引き込もうとして失敗した(モーMeauxの奇襲)。不意を突かれた宮廷は、スイス傭兵六〇〇〇人に護られながらパリへと逃げ帰った。ユグノー派はその後、ビスケー湾の港湾都市ラ・ロシェルLa Rochelleなど幾つかの都市を征服し、ジャンヌ・ダルブレやその息子アンリ・ド・ブルボン(後のアンリ四世)が合流している。また九月二九日(聖ミカエルの祝日)、南フランスのニームではユグノー派がカトリック教徒一五〇人を井戸の底に投げ落とすという虐殺事件(ミチェラードMichelade)を起こしている。同年一一月一〇日に発生したサン=ドニの戦いは国王軍の勝利となった(この戦いで司令官モンモランシが戦死)が、プファルツ選帝侯の息子ヨハン・カジミール率いるドイツ軍の支援を受けたユグノー派はシャルトルChartres占領に成功している。その後、ユグノー軍はロワール川沿いのオルレアンやブロワBloisを攻略してパリに迫った。やがて戦いに疲れた両軍は、翌六八年3 
月二三日に「ロンジュモーLongjumeauの和議」を結び、アンボワーズ和解令の制限を撤廃してユグノーに対する「信仰の自由」を認めることになった。しかし、これを機にカトリーヌは宥和政策の破綻を認めてカトリック側に立つようになり、それまで宗教的融和策を推進してきた大法官ロピタルは罷免されて、ギーズ家一門が復権したのである。
 一五六八年八月、新旧両派は前年に結んだ和議を無視して緊張感を高め、身の危険を感じたコンデ公ルイ一世やコリニー提督等はノワイエNoyersの館から脱出してラ・ロシェルに籠城した。しかし、国王派によるユグノー虐殺が頻発し、ユグノー派の信仰は九月に発せられた「サン・モール勅令」Saint-Maurによって再び禁止されてしまった。国王軍が王弟アンジュー公アンリ(後のアンリ三世)を司令官としてスペイン・教皇領・トスカーナ大公国の支援を受けたのに対して、コンデ公ルイ一世を司令官とするユグノー派軍はフランス南西部の軍勢やドイツから駆けつけたプロテスタント民兵の協力を得て対抗した(ネーデルラントから駆けつけたオラニエ公ウィレム率いる軍隊は軍資金不足から国王軍の調略を受けて撤退した)。また、ユグノー派の軍資金の多くはイングランド王エリザベス一世から提供されたものであった。英仏百年戦争(一三三九~一四五三年)が終結してから既に一〇〇年以上が経過したが、その後も続いていた両国の対立関係は、スペインがフランス王室を援助し、イングランドがユグノー派の味方をする「宗教戦争」として激しい戦闘が繰り返されたのである。註⑲
 ユグノー派軍は先ずラ・ロシェルを防衛するためにポワトゥーPoitouなどサントンジュ地方の諸都市を包囲し、アングレームAngoulêmeやコニャックCognacを攻撃した。しかし、一五六九年三月一六日、ジャルナックJarnacの戦いで領袖コンデ公ルイ一世が戦死し、やむを得ず息子アンリ(一五歳)を名目上の司令官として実際はコリニー提督が指揮を執ることになった。また、国王シャルル九世の権威に対抗するため、ナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレの息子アンリ・ド・ブルボン(一六歳)を指導者とした。その後、ユグノー派軍はラロシュ=ラベイユLa Roche-l'Abeilleの戦い(六月二五日)で勝利を収めたものの、 一〇月三日のモンコントゥールMoncontour(ブルターニュ地方)の戦いでは大敗を喫してしまう。やがてフランス南西部で体勢を建て直したユグノー派軍は、一五七〇年春にトゥールーズToulouse を陥落させてローヌ川沿いに北上し、パリから約二〇〇キロのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールLa Charite-sur-Loire まで迫った。しかし、ここで両軍は軍資金の問題もあって妥協し、八月八日「サン・ジェルマンの和議」を結んでいる。この和議では、ユグノー派の「信仰と礼拝の自由」についてアンボワーズ和解令(一五六三年)の線まで戻ったばかりでなく、ユグノー派に対してラ・ロシェル、モントーバン、ラ・シャリテ、コニャックという四都市を安全保障都市として認めるという画期的な譲歩がなされた。註⑳

 (二)「サン・バルテルミの虐殺」と戦争の激化
 ユグノー戦争が小休止をした一五七〇年、王母カトリーヌは婚姻政策によってヴァロワ朝の権益を守ろうとした。同年、仏王シャルル九世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世Maximilian II(在位一五六四~七六)の皇女エリザベート・ドートリッシュÉlisabeth d'Autricheと結婚し、カトリーヌは二人いた王弟のいずれかをイングランド王エリザベス一世と結婚させようと画策した。また、西王フェリペ二世に嫁いだ長女エリザベートは一五六八年出産の際に亡くなっていたが、今度は末娘マルグリット・ド・ヴァロワMarguerite de Valoisをアンリ・ド・ブルボンのもとへ嫁がせようとしたのである。一五七二年、ジャンヌ・ダンブレは息子がユグノーに留まることを条件に息子とマルグリットの結婚に同意した。しかし、結婚式の準備やユグノー派への援助などで身をすり減らしていたジャンヌは肋膜炎に罹り、五日間病床に就いた後、六月九日に息を引き取った(享年四四歳)。そのため、息子アンリはナヴァール王位(在位一五七二~一六一〇)を継承した後、八月一八日にパリ市内のノートルダム大聖堂で結婚式を挙行したのであった。カトリックの新婦だけが大聖堂内に入り、新郎は司教館で待つという奇妙な結婚式は、新旧両派の「平和」の象徴という政治的意味をこめた儀式であった。
 その当時、ユグノー派の首領コリニー提督は国王シャルル九世の信任を得てカトリック教徒を援助する西王フェリペ2世を討とうとしていた(カトリーヌもコリニー提督に多額の一時金と年金を与えて国王諮問会議に復帰させた)。しかし、カトリーヌは新旧両教徒の均衡の上にこそ王室の安寧があると考えて旧教徒の首領ギーズ公アンリとも結んでいた。ナヴァール王アンリとマルグリットの結婚式には多くのユグノー派貴族も出席していたが、式の三日後、コリニー提督はルーヴル宮殿から宿舎へ戻ろうとしてプーリー通り(現在のルーヴル通り)の教会参事会員ヴィルミュールの屋敷にさしかかったところ、狙撃犯モールヴェールに銃撃を受けるという事件が発生した。提督は二発の銃撃で右手の人差し指を吹き飛ばされ、 左腕の肘を打ち砕かれた。狙撃犯は建物の裏手に用意していた馬に乗って逃亡しており、事件の首謀者が誰であったかは未だに確定してはいない。明らかなことは、王母カトリーヌに説得されたシャルル九世がユグノー派弾圧を決意し、市長ル・シャロンに命じてパリ市の城門を閉じてその鍵を保管し、セーヌ川の舟を引き揚げさせたということである。また、市民軍を武装させて広場、四つ辻、河岸の警護に当たらせ、 市庁舎前には狙撃兵を配置している。
 そして、コリニー提督狙撃事件の二日後にあたるサン・バルテルミSaint-Barthélemyの祝日(八月二四日)の朝四時頃、ユグノー派による報復を怖れたギーズ公アンリ、その伯父オーマール公とアングレームの私生児アンリ等が大勢の兵士を率いてコリニー提督の宿舎を襲撃した。提督はチェコ人ジャン・シマノヴィッチ(ベーメン出身であるためベームと呼ばれていた)の猟槍で突き刺され、窓の外に放り投げられた。瀕死の提督はトッシーニという男によってとどめを刺され、ヌヴェール公の従僕ペトルッチが首を切ってルーヴル宮殿に運び込んだ。ところが、「どぶ板の私生児たち」(ジュール・ミシュレJules Michelet)が死骸に飛びかかって切り刻み、セーヌ河岸まで引きずっていった。その後、血に飢えた民衆が遺体を引き取ってモンフォーコンMontfauconの死刑台に吊り下げ、その下で火を焚いて歓喜の声を上げたという。コリニー提督の死を確認したカトリーヌは、サン・ジェルマン・ローセロワ教会St-Germain l'Auxerroisの鐘を乱打させた。そして、この鐘の音が合図となって大規模な民衆暴動が発生し、国王派兵士とカトリック市民はユグノー派の貴族や市民たちを男女のみさかいなく、そして子どもまでをも惨殺したのである。パリの都市機能はほぼ崩壊し、市民たちの憎しみの感情はユグノーという宗派だけでなく、 ユグノー派貴族層の「豊かさ」に対しても向けられていた。彼等にとっては、帯剣貴族や法服貴族、商業資本家の区別は意味をなさず、ただ単にユグノー派という「貴族階級」に見えたのである。一五七二年当時のパリは、貨幣価値が下落して物価上昇が続き、夜ともなれば夜盗が横行する無法地帯と化していた。多くの浮浪者、乞食、荒んだ生活を強いられていた労務者、盗人たちにとって、物質的繁栄を「神の好意の表れ」とみなして謳歌していたユグノー派は許すことの出来ない存在でしかなかった。パリにおける虐殺は約一週間続き、約三〇〇〇人前後が犠牲者となった。その後、殺戮の嵐はフランス全土に吹き荒れ、秋までに一万人を超えるユグノーが殺害されたと言われる。
 その間、ナヴァール王アンリやコンデ公アンリは、元ユグノー派牧師ユーグ・シュロー・デュ・ロジエやブルボン枢機卿の説得を受け容れてカトリックに改宗し、辛うじて死を免れた。しかし、フランスにおけるユグノー派弾圧は苛烈を極め、恐慌状態に陥った人々の中にはカトリックへの改宗をしたり、国外逃亡を図る者も続出した。こうした情報に接した西王フェリペ二世はフランス大使サン・グアールを宮中に招いて談笑し、教皇グレゴリウス一三世Gregorius XIII(在位一五七二~八五)は祝砲を撃ち上げてカトリックの勝利を喜んだ。この後、ヴァザーリGiorgio Vasariは教皇の命令でフレスコ壁画「聖バルテルミの虐殺」(ヴァチカン宮殿)を描くことになる。対照的にイングランド王エリザベス一世は精神的ダメージを受けて喪に服し、駐仏大使ウォルシンガムを召還して抗議の意志を示した。しかし、ユグノー派は民衆を担い手とする抵抗運動を組織し、ロワール川中流のサンセールSancerreや武将ラ・ヌーが死守した大西洋岸の城塞都市ラ・ロシェルなどで激しい戦闘を繰り返した。特にラ・ロシェルでは、市長ジャック・アンリと商業資本家ジャック・サルベールが一三〇〇人の兵士とブルジョワ市民軍からなる守備隊を結成して徹底抗戦を続けた。一五七三年の聖燭祭 Candelaria(二月二日、聖母のお潔めの日Purificatio Maria)の数日後、アンジュー公アンリが率いる先遣隊に合流するため、アランソン公、コンデ公、モンモランシ公など多くの貴族が本来の宗派の壁を乗り越えて一緒にパリを発った。しかし、この混成部隊に亀裂が入るのに時間はかからなかった。当てもなく続く攻囲戦の中でポリティーク派をアランソン公の味方に引き込んだモンモランシ公はギーズ家一門を襲撃し、アランソン公はアンジュー公の部隊を攻撃する始末であった。こうしてユグノー派に対する攻撃は事実上困難となり、同年七月、ついに「ブーローニュ勅令」Boulogneが発せられて全てのユグノーに「信仰の自由」が与えられただけでなく、南部の3都市(ラ・ロシェル、ニーム、モントーバンMontauban)では「礼拝の自由」も認められた。註㉑
 一方、王母カトリーヌは新たな難問に直面していた。それはヨーロッパ東部の大国ポーランド=リトアニア連合王国の王位継承問題であった。この国家では、一五六九年「ルブリンLublinの連合」によってポーランド王国とリトアニア大公国が合同して複合君主制(ポーランド王がリトアニア大公を兼ねる)国家を誕生させたばかりであったが、国王ジグムント二世が嗣子なくして没したためにヤゲウォ朝Jagello(一三八六~一五七二年)が断絶してしまった。そこでポーランド議会は次期国王を選挙で決めると宣言し、独帝マクシミリアン二世の息子エルンスト大公、スウェーデン王ヨハン三世、ロシア皇帝イヴァン四世らと並んでフランスの王弟アンジュー公アンリが国王候補の一人として浮上したのであった。ポーランド国内では、悲惨なサン・バルテルミ事件の噂が広がってアンリの王位継承には否定的な意見も出たが、フランス王室からの働きかけが功を奏したようで、一五七三年五月五日、ポーランド議会はアンリをポーランド王に選出した。ところが、そのポーランド議会が王権制限条項(ヘンリク条項)やアンリ個人との統治契約(パクタ・コンヴェンタ)」の承認を要求したため、これに署名したアンリの心中にはポーランドに対する違和感が急速に広がってきた。また、兄シャルル九世の病気が悪化したため、次期フランス王位継承権者たるアンリは出国を躊躇するようになる。しかし翌七四年一月にはやむなくポーランドに入り、二月クラクフにあるヴァヴェル大聖堂Katedra Wawelskaで戴冠式を挙行した。ところが、五月三〇日、祖国フランスにおいてシャルル九世が崩御(享年二三歳)し、その訃報が六月一四日になってようやくアンリのもとへ届いた。同月一八日深夜、アンリは王宮から出奔し、二度とポーランドに戻ることはなかった。
 ところでサン・バルテルミ事件以後、ユグノー派は北部やロワール川流域において多くの亡命者や改宗者を出したが、この頃、宗教戦争は新しい段階に突入していた。従来のユグノー派は「礼拝の自由」が保障されることを願って王権を尊重してきたが、サン・バルテルミ事件という残虐な裏切り行為を知ったいまとなっては、王権に対する淡い期待も失われてしまったからである。ユグノーとして残った人々の中には『フランコ・ガリア』の著者オットマンHotmanのように「暴君放伐論」monarchomachia(人民は暴君に服従する義務はなく、その殺害も許されるとする反君主制理論)を主張する過激派も現れ、彼らは密かにカトリーヌの末子アランソン公フランソワHercule Françoisに接近し、一五七四年二月、ナヴァール王やコンデ公を宮廷から奪還しようとして失敗している。ほぼ同じ頃、北西部のバス・ノルマンディやポワトゥー、南部のローヌ渓谷などでもユグノー派が蜂起している。一方、パリなど大都市の内部では、都市商人層や高等法院官僚などを中心とするカトリック穏健派の間に新旧両派の融和を模索する集団(ポリティーク派Politiques)が台頭し、宗教問題よりも政治的配慮を優先する主張を展開して次第にギーズ家一門と対立するようになった。同年九月、アランソン公が宮廷から脱出してポリティーク派に加わり、東からはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンJohn I, Count Palatine of Zweibrückenがシャンパーニュ地方に侵入してきた。そして一一月には、ポリティーク派のラングドック地方総督アンリ・ド・ダンヴィル(モンモランシ大元帥の次男)が南仏のユグノー派と結託して王室に反旗を翻したため、フランス国内は大混乱に陥った。
 翌七五年二月一三日、アンジュー公アンリはランス大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Reimsで戴冠式を挙行して仏王アンリ三世Henri III(在位一五七四~八九)となり、その直後にはギーズ家の同族にあたるメルクール公ニコラNicolas de Lorraine, duc de Mercœurの娘ルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンLouise de Lorraine-Vaudémontと結婚している。しかし、翌年始め、ついに宮廷からの脱走に成功したナヴァール王アンリとコンデ公アンリが再びユグノー派に改宗して指導者に復帰した。また、国王夫妻に世継ぎが生まれなかったことで王位継承者の如く振る舞いだした王弟フランソワがドイツのプロテスタント諸侯の援軍を得てパリ進軍を行ったため、アンリ三世はやむなく「ボーリュー勅令」Édit de Beaulieu (五月六日所謂「王弟殿下の講和」)を発してユグノーの要求をほぼ全面的に受け入れた。すなわち、サン・バルテルミ事件における犠牲者の名誉回復や各高等法院における「新旧両派合同法廷」の設置、さらにはユグノーの「礼拝の自由」がパリ及び国王が滞在する町以外の全ての都市と場所で身分の区別なく認められたのである。
 しかし、国王の妥協に反発したギーズ公アンリは、一五七六年六月八日、親族のマイエンヌ公シャルルCharles (II) de Lorraine, duc de Mayenne、オマール公シャルルAumale、エルブフ公シャルルCharles Ier de Lorraine-Guise, duc d'Elbeuf、メルクール公フィリップ・エマニュエルPhilippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre、ロレーヌ公シャルル三世Charles IIIとともに「聖なるキリスト教同盟」(所謂「カトリック同盟」La ligue catholique)を結成して広大な領域を支配し、都市中間層の支持を集めることにも成功した。その結果、国王アンリ三世はやむなくブロワ三部会でカトリック同盟の要求を受け容れ、ボーリュー勅令はあえなく骨抜きとされた。同年一二月には、ユグノー派がポワトゥーやギュイエンヌで武装蜂起したが、この時は王弟アンジュー公フランソワ(元アランソン公)やダンヴィル伯のようなポリティーク派もカトリック同盟側に与しており、ユグノー派は全く不利な情勢にあった。結局、屈服したユグノー派は「ベルジュラック協定」Bergeracを結び、ボーリュー勅令で獲得した権利を全て失ったのである(その六日後、アンリ三世はその内容を確認し、「ポワティエ勅令」Poitiersを発した)。なお、 一五七九年一一月にコンデ公アンリ率いるユグノー派軍がカトリック同盟の拠点ラ・フェールを陥れて新たな戦いが始まったが、翌年一一月には「ル・フルクスの和議」が結ばれて停戦した。しかし、この妥協も四年間ほどしか維持できなかった。
 その間、一五八一年、フランスからの支援を期待していたネーデルラント議会は、王弟アンジュー公フランソワを王に選出し、スペインからの独立を宣言した(ネーデルラント連邦共和国)。しかし一五八四年、(何の権限も与えられず、カトリック信者であることから猜疑の目で見られていた)アンジュー公はクーデターを起こして失敗し、這々の体でフランスへ逃げ帰っている。また、ナヴァール王アンリのもとへ嫁いだマルグリット(王母カトリーヌの末娘)はフランス宮廷に戻って来てしまい(一五八二年)、一旦は帰国させたが、 八五年には再びナヴァール王国から逃げ出してガロンヌ河畔のアジャンAgenに引き籠もった。岩山の上に立つカルラ城Carlatに移ったマルグリットは愛人と暮らし始めたが、八六年一〇月、今度はウッソン城Ussonに幽閉され、愛人は処刑された。カトリーヌはその後、 二度と娘マルグリットと会うことはなかったと言われる。

 (三) 三アンリの戦い
 一五八四年六月一〇日、王弟で推定相続人であったアンジュー公フランソワが逝去した。その結果、サリカ法典第五九条に基づきルイ九世 Louis IX(在位一二二六~七〇
)の血を引くナヴァール王アンリが王位継承者として選ばれた(註㉒)。何故なら、ブルボン家の祖であるクレルモン公ロベールRobert de Clermontはルイ九世の六男であり、フィリップ三世Philippe III(在位一二七〇~八五)の末弟だったことでカペー家男系支流の一門となっており、ナヴァール王アンリはその家長であった。しかし、当時の彼は従弟のコンデ公アンリとともに教皇から破門された身にあり、ユグノーとしての信仰を捨てる意志のないことを表明していた。そこで同年一二月、宿敵ギーズ公アンリはカトリック同盟を代表する形で西王フェリペ二世と「ジョアンヴィル条約」Joinvilleを締結し、「異端」との戦争の準備をした。その当時、フェリペ二世は一五八〇年にスペイン=ポルトガル同君連合を成立させてヨーロッパ各地のカトリック支援を強化しており、彼としても渡りに船だった。一五八五年三月、ギーズ公アンリはピカルディ地方のペロンヌPéronneで旧教同盟を再結成し、ナヴァール王アンリの仏王位継承権を否定する宣言を発した(三〇日)。フランス王位への野心に燃えるギーズ家一門を中心に、彼らと保護=被保護関係で結ばれることによって特権回復や全国三部会の定期的開催を求める貴族たち、急進的なカトリック聖職者たちに加えて、多くの都市住民が自生的な組織をつくってギーズ家側に加わった。パリの場合、聖職者や司法役人、富裕商人層を中核とするグループが、パリ一六区内部とりわけ民兵組織の中に密かに根を張るようになった。二年後の六月、リヨン、オルレアン、ボルドー、ブールジュ、ナントなど多くの都市がパリの旧教組織と同盟関係を結んだ。こうしてユグノー戦争は、 国王アンリ3世(ヴァロワ朝)、ナヴァール王アンリ(ブルボン家)、ギーズ公アンリ(ギーズ家)が三つどもえの抗争を展開する「三アンリの戦い」という段階へと移行した。
 一五八五年三月、ギーズ公の北フランス占領で再び戦闘が開始された。同年七月七日、国王アンリ三世はギーズ公に配慮して、ユグノーの礼拝禁止や改宗に応じない者の国外追放(牧師は一カ月以内、信者は六カ月以内に国外追放)、ナヴァール王アンリの王位継承権無効を内容とする「ヌムール勅令」Nemoursを発した。教皇シクストゥス五世Sixtus V(在位一五八五~九〇)もこれに呼応してナヴァール王アンリを破門し、彼が持っていたナヴァール王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言している(九月九日奪権回勅)。また、イングランド王エリザベス一世によるメアリ・ステュアート処刑(一五八七年二月一八日)は、カトリック世界全体を怒りの渦に巻き込んだ。これに対してナヴァール王アンリは、ドイツ諸邦やイングランド、デンマークに資金援助を求めるとともに国内のポリティーク派などと結んで、一五八七年一〇月二〇日、クートラCoutrasの戦いで国王軍・カトリック同盟軍・スイス人傭兵の連合軍を撃破することに成功した。しかしその直後、アンリ三世はドイツから来ていたユグノー派支援軍を破ってパリ市民の期待を集めるようになったギーズ公の存在が疎ましくなった。翌八八年五月、国王はギーズ公勢力を抑えようとして失敗し、一二日には旧教同盟派を中核とするパリ市民が全市にバリケードを築いて反旗を翻し、国王とその軍隊が敗走するという事件が発生した(五月一二~一八日、バリケードの日)。この市民蜂起の背後にはギーズ公の熱狂的人気やカトリック信者の宗教的情熱に加えて、パリ市民の自治都市再現への期待などが混在していたと思われる。いずれにせよ、パリの全権はパリ一六区に設けられた九人制の評議会と一六区代表、三身分代表からなる連合総評議会が掌握し、カトリック同盟はこの革命政権を全国に拡大しようと考えた。その時、年老いた王母カトリーヌが国王とギーズ公の仲介役を果たし、アンリ三世はカトリック同盟が求めたヌムール勅令の再確認や、ナヴァール王アンリの叔父ブルボン枢機卿シャルル一世 Charles Ier de Bourbon(ギーズ公派)の王位継承、ギーズ公の国王総代官任命など屈辱的な内容を呑むことになった(七月二一日、ルーアンRouenで「統一王令」に署名)。
 パリを追われ、ロワール河岸に逃れたアンリ三世は、ルイ一二世の騎馬像が迎えるブロワ城に入った。城の中庭に立つと、今日でもゴシック風の繊細な飾りをつけた〈ルイ一二世の翼〉とフランス・ルネサンスの傑作とされる〈フランソワ一世の翼〉が残っている。後者の四層になっている塔形螺旋階段を登ると、 かつては二階に王太后カトリーヌの寝室があり、三階にはアンリ三世のそれがあった。九月になってアンリ三世が召集した三部会では平民部会議員がカトリック同盟の意向に沿った発言をし、一〇月には西王フェリペ二世の女婿サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ一世Carlo Emanuele I di Savoiaがピエモンテ地方のサルッツォSaluzzoに侵攻して来た。アンリ三世はこれらの背後にはギーズ公がいると確信した。そこで彼は先手を打つことにした。一二月二三日、会議のために伺候したギーズ公アンリは弟の枢機卿ルイLouis de Lorraineが待つ会議室に入った。彼は国王室隣の書斎で国王が会見を望んでいると告げられたが、それが合図で衛兵たちに襲われたのである。瀕死のギーズ公は王の寝室まで辿り着いて息絶えた(枢機卿ルイも連行中に矛で突き殺された)。その時姿を現したアンリ三世は、「生きていた頃よりも偉そうにして死んでいる」と言いながら、死体を足蹴にしたと言われている。しかし、未だこの大混乱が鎮まらない一五八九年一月五日、病床にあった王太后カトリーヌが逝去したのである(享年七〇歳)。註㉓
 盟主を失ったカトリック同盟は、ギーズ公アンリの次弟マイエンヌ公シャルルを後継者とし、アンリ三
世に対して宣戦布告をした。彼らは、ギーズ公シャルルCharles Ier de Guise(ギーズ公アンリの子)を西王フェリペ二世の娘イサベル・クララ・エウヘニアIsabel Clara Eugenia(仏王アンリ二世の孫娘)と結婚させてフランス王に擁立する計画を立てたとも言われている。対するアンリ三世は、ナヴァール王アンリ率いるユグノー派軍と連合してカトリック同盟との戦いを続けていた。ところが、パリ近くのサン・クルー城Saint-Cloudに滞在していた八月一日、アンリ三世はドミニコ会修道士ジャック・クレマンJacques Clémentの謁見を許したところ、この修道士は隠し持っていた短刀で国王を刺してしまった。瀕死の重体となったアンリ三世は死の床にナヴァール王アンリを呼び、彼にフランス王位を託すこととなった。翌日未明、アンリ三世は崩御し、一四世紀以来永きにわたって続いてきたヴァロワ朝はついに断絶した。なお、犯人クレマンはその場で取り押さえられ、まもなく八つ裂きの刑に処せられた。

 (四)ナントの勅令
 こうしてナヴァール王アンリがフランス王位を継承してアンリ四世Henri IV(在位一五八九~一六一〇)となり、新たにブルボン朝 Bourbons(一五八九~一七九二、一八一四~三〇)が開かれた。しかし、カトリック同盟はローマ教皇から破門されているアンリ四世の即位を認めず、ブルボン枢機卿シャルル一世を新国王シャルル一〇世として擁立し、マイエンヌ公を王国総代官に任命した。当時、アンリ四世の国王軍はフランス西部と南部を抑えただけで、北部と東部はカトリック同盟軍が支配していた。しかし、九月のアルクArquesの戦い(二〇~二一日)は国王軍側の勝利となり、その後もノルマンディ地方の掃討に成功した。年が明けて三月一四日、イヴリーIvryの戦い(ノルマンディ地方)でも勝利を収めたアンリ四世はパリを包囲したが、八月末にはパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼAlessandro Farnese率いるスペイン軍が攻め込んできたため、包囲網を解かなければならなかった。そして、一五九一年から翌年にかけてのルーアン包囲戦も同じような展開となっている。このように、アンリ四世は各地でカトリック同盟軍と戦いながらパリ攻略を目指していたが、頑強な抵抗を受けてどうにも陥落させることが出来ず、やがて「カトリック信者が圧倒的に多いパリの市民たちはユグノーのままの自分をフランス王として受け容れることはない」と観念することになる。
 その間、一五九〇年五月九日、ブルボン枢機卿シャルル一世が身罷った。一五九三年一月二六日、カトリック同盟のマイエンヌ公は新国王選出のための全国三部会をパリに招集した。西王フェリペ二世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをフランス王として送り込もうとしたが、パリ高等法院はこれに反対した。こうしたカトリック同盟側の足並みの乱れを突いたのがアンリ四世である。同年七月二六日、アンリ四世はサン=ドニ大聖堂Basilique de Saint-Denis でカトリックに改宗し、翌九四年二月二七7日にはパリ南西八〇キロにあるシャルトル大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Chartresにおいて戴冠式(成聖式)が執り行われた(戴冠式は伝統的にランス大聖堂で挙行するのが望ましいが、当時はカトリック同盟の影響下にあった)。こうしてカトリック教会はアンリ四世を拒むことが難しくなり、一五九四年三月二二日、王は念願のパリ入城を果たしたのである。また、この年の暮れにイエズス会クレルモン学院の学生による国王暗殺未遂事件が発生したため、翌年一月、カトリック教会はイエズス会をパリから追放し、一六日の聖職者会議では国王アンリ四世の即位を承認することになる。そしてパリ開城後、国内の都市の多くは国王に帰順するようになり、教皇クレメンス八世Clemens VIII(在位一五九二~一六〇五)もアンリ四世を赦免し、破門を取り消した。アンリ四世のパリ入城を可能にした要因の一つとしては、パリ市民の中にスペイン王国に対する恐怖心や、フランスの統一回復を期待したポリティーク派の勢いが増していたことなども挙げられる。
 一方、ユグノー派はアンリ四世の豹変に驚愕し、一五九四年と一五九六年の二回に亘って政治会議を開催して国王を警戒するようになった。こうした状況の下でアンリ四世は、一五九五年一月一七日、スペインに対して宣戦布告を発した。これは、カトリック教会に対しては西王フェリペ二世の本音がフランス侵略にあることを、そしてユグノー派には「国王は改宗をしたが決してカトリックのみに肩入れすることがない」ことを示すためであった。アンリ四世の対西戦争で標的としたのはカトリック同盟であり、 翌年一月にはマイエンヌ公の降伏によって同盟はついに瓦解した。しかし、スペイン軍の猛攻はすざましく、一五九五年四月にはカレーCalaisなど幾つかの都市を占領されてしまう。国王軍は何とか体勢を維持し、 九七年九月、半年以上にわたってスペイン軍に占領されていたアミアンAmiensを奪還し、その後はブルターニュ地方へと向かった。当時ブルターニュでは、カトリック同盟の指導者の一人メルクール公フィリップ・エマニュエルが地方総督に任命されていたが、彼は妻の持つ世襲権を根拠にブルターニュ公領とパンティエーブル公領の所有権を主張してナントNantesに政府を樹立し、西王フェリペ二
世とは同盟関係にあった。一五九八年三月二〇日、攻勢をかけていたアンリ四世はメーヌ川河畔のアンジェAngersでメルクール公の降伏を受け入れ、和平交渉のための特使をスペインに派遣した。また、四月一三日には国王顧問シュリー公マクシミリアンMaximilien de Béthune, Duke of Sullyと相談の上で「ナントの勅令」Édit de Nantesを発し、ユグノーに対してカトリック教徒とほぼ同等の権利を与えたのである。ここで、「ナントの勅令」の内容を確認してみよう。註㉔
 「ナントの勅令」は、公布趣旨を謳った前文に続いて全文九二条項(四月一三日)が記載されている( それに先立つ四月三日の許可書、その後に作成された四月三〇日の秘密条項、五月二日の五六秘密条項も含まれる)。先ず前文では、武力と敵意が王国内から消え去り、平安と安息とが達成された現在、あらゆる問題の中で常に最も危険で浸透力のある宗教問題から起こる悪と騒乱の原因を除去するために、カトリックと改革宗教(ユグノー)側双方から寄せられた苦情を慎重に考慮して、普遍的にして明快、率直にして絶対的な法令を与えるべく、この永久にして撤回すべからざる勅令を通じて以下のごとく命令する、と述べられている。
 主文第一条・第二条では、一五八五年以前から起きてきた争乱に関する記憶を消滅させ、今後如何なる人物もこれについて言及し、訴訟を起こすことは許されないと言論を封じ、現状凍結で事態の収束を図っている。また主文第三条以下の要旨は次のようである。第一に、カトリック信仰は王国で支配的なものと認められ、これまで中断されていたカトリックの礼拝は再興され、奪われていた建物や財産は返却されなければならない。第二に、改革宗教の信者(プロテスタント)は王国内すべてで「良心の自由」を、 また一五九六/九七年に事実上礼拝を行っていた場所において、さらには貴族の所領とパリを除く上級裁判管轄領域内での「礼拝の自由」を有する。また、彼等は自由礼拝権を有する場所で宗務会議や教会会議を開催し、埋葬地を設け、学校や印刷所を建てることが出来る。第三に、改革宗教の信者は大学、学校、病院への受け入れに関してはいかなる不利益も課されない。しかし、商業活動に際してはカトリックの祭日を尊重し、(カトリック教徒と同じく)近親結婚の禁令や納税義務には服さなければならない。第四に、改革宗教の信者は市民権の権能において制限を受けず、あらゆる公職にも就くことが出来る。そして、公共の安寧、治安維持、係争事件の解決のために、新旧両派合同の(同等に構成された)法廷を設けなければならない、としている。また、高等法院に登録する必要のない認可書と秘密条項のうち、前者は改革宗教の信者に対して都市単位に年間総額四万五〇〇〇エキュの援助金を授与した。後者ではユグノーに対して向こう八カ月間、一〇〇カ所以上の安全保障地を認め、ユグノー派が保持している都市守備隊も同じ期間維持することが許されただけでなく、年間一八万エキュの補助金支給が約束されたのである。
 以上のように、アンリ四世は、改革派信徒(ユグノー)の「信仰の自由」を保障し、(一定地域に限定はしたものの)公の「礼拝の自由」や、書籍の出版・販売を認めた。また、ユグノーがあらゆる地位・要職・官職・公務に就く権利も認めている。確かに「ナントの勅令」は新旧両派に完全平等の地位を与えたわけではないが、明らかに従来の寛容政策の枠を越えており、ながく続いた宗教戦争を終結させる力を持っていた。換言するならば、武力や論争では混迷したフランス王国の諸問題を解決することができないことが明らかとなり、新旧両派は現実的な政治レベルでの解決に身を委ねるしかなかったのである。一五九八年五月二日、フランス北部のピカルディ地方で結ばれたヴェルヴァン条約Vervinsによりユグノー戦争は終結の時を迎えることが出来た。西王フェリペ二世はこの条約締結によりカトー・カンブレジ条約(一五五九年)の時と同じ領土を仏王アンリ四世に認めることになり、やがて訪れるフランス絶対王政への出発点となったのである。註㉕

終節 「繁栄の一六世紀」から「危機の一七世紀」へ
 一五世紀初め、明帝国永楽帝の治世に、ムスリムの宦官鄭和が率いる大艦隊が南シナ海からインド洋を経て東アフリカのマリンディに至る南海遠征を敢行した(一四〇五~三三年、七回実施)。その結果、従来の中国を中心とする朝貢交易圏とムスリムのインド洋交易圏が結びつき、琉球王国、マラッカ海峡、南インド沿岸、紅海沿岸などを結節点とする東西交易ネットワークが成立し、同世紀末には香辛料の直接獲得に乗り出したポルトガル王国がこのネットワークに参入した。そしてほぼ同時期、スペイン王国は銀を求めてアメリカ大陸に進出し、ポトシ銀山やサカテカス銀山で産出された大量の銀をアカプルコ貿易(ガレオン貿易)でマニラにもたらし、同じくガレオン船でヨーロッパに輸送した。こうして東シナ海、南シナ海、インド洋だけでなく、大西洋と太平洋も東西交易ネットワークに加わり、全地球規模の交易網が誕生した。大西洋沿岸諸国の繁栄をもたらした「商業革命」は、「価格革命」と呼ばれる物価騰貴を発生させ、 それまで停滞していたヨーロッパ経済に活気を与えて、所謂「繁栄の一六世紀」を現出させたと言われている。ただし、一六世紀後半のメキシコ銀(墨銀)を中心とするアメリカ銀の流入が直接的に価格革命を引き起こした訳ではなく、近世三〇〇年間をかけて形成されたヨーロッパ市場は従来から緩やかなインフレ傾向を示しており、銀の流入が更なる押し上げ効果を発揮したのである。そして貨幣経済はやがて農村社会にまで浸透し、農民の一部は経済力をつけて領主から自立するようになる。次のグラフはF・ブローデルFernand Braudel(一九〇二~八五)が一四五〇~一七五〇年のヨーロッパにおける六〇弱の都市および地域における小麦価格の推移を集計したもので、「馬の首」として知られるものである。このグラフから一六世紀ヨーロッパにおける小麦価格の急騰が明らかであり、既に普及していた貨幣地代の固定化は、領主層に対して極めて多大なるダメージとなって社会階層の流動化を促すことになった。また、東部ドイツやポーランドでは西欧から毛織物や奢侈品を輸入し、代わりに穀物や原材料を輸出するために農場領主制(グーツヘルシャフトGutsherrschaft)が成立した。註㉖
 しかし、経済の繁栄が人々の心性に安定をもたらすとは限らない。一六世紀という大きな変動の時代は、社会の格差拡大が顕著になる時期であり、世紀後半は地球の小氷河期に相当したから天候不順による凶作・飢饉が追い打ちをかけた。一六世紀前半に始まるルターやカルヴァンの宗教改革は、後半に入って果てしない宗教騒擾の時代をもたらした。カルヴァン派の全国教会会議が初めて開催された一五五九年頃から新旧両派の騒擾が多発し、「悪さをする幽霊」という意味のユグノーHuguenotという語句がプロテスタント(新教徒)を意味する言葉として定着する。ただし、新旧両派の暴力行為はただ単に憎悪の発作による無軌道な行動ではなく、それぞれが持っている〈真の教義〉を擁護し、〈偽りの教義〉を論破する説教にも似た目的を有していたと言われる。また、当時のキリスト教信仰は信者個々人の内面的な営みとは限らず、家族や教区、村落といった共同体的な絆の中で行われる行為でもあったから、異端を自分たちの共同体を汚す存在と見なし、神の怒りを鎮め、異端によって傷つけられた社会的身体の統一を回復して真の統一を生み出すためには、異端という汚れを祓う必要があると考えたようである。プロテスタントの場合は聖具や聖画像に汚れを認めてその破壊に力を注いだ(偶像破壊運動)が、カトリック教会は異端者の身体を汚れの源泉ととらえて殺戮と死体冒瀆を行い、異端根絶に血道を上げた。フランス全土で一万人を超えるユグノーが惨殺されたサン・バルテルミ事件はその典型である。そして、宗教騒擾を引き起こす群衆の中核をなしたのは信心会、祭りの組織、若者組、民兵組織など共同体の中で重要な役割を担っていた集団であった。異様なまでに宗教的情熱が高まって新旧両派が激突した一六世紀後半、司法官ら都市部のエリート層は農村民衆の異教的伝統の中に「悪魔の陰謀」を見いだし、その宗教的・文化的征服に乗り出したのが、悪魔と契約しその手先となる魔女を告発する「魔女狩り」だと言われる。魔女狩りが最も盛んに行われたのはユグノー戦争期の一五六〇~一六三〇年(とりわけ一五八〇~一六一〇年)で、魔女狩りに新旧両派の区別はなかった。註㉗
 また、この時期の農村ではしばらく発生していなかった農民反乱が頻発するようになる。農民反乱が発生したのはフランス王国の周縁部に多く、魔女狩りが多発した地域と重複するという特徴がある。一五六二年のユグノー戦争勃発以降、軍隊が通過し戦場となった農村では、軍隊による糧食調達や宿営提供という過酷な負担を強いられ、これに黒死病(ペスト)の流行や飢饉が重なる。また、国王は戦争遂行のために重税を課し、地方貴族たちは種籾や家畜までをも奪い去る。そして、社会的混乱は人々を分極化する。ユグノー戦争の時期、とりわけ一五八六年から一六世紀末までの期間は土地の所有権が激しく移動した。東部のロレーヌ地方では、売却された土地の三五%は貴族に、二九%は都市住民に、一三%は聖職者の手に移り、残り一七・五%の農地は富農(領主所領の請負人や富裕な土地所有農民)が買い取ったという。その結果、農村共同体は彼ら富農と貧農(小作人、小屋住み農、農業労働者)との格差が極端に広がり、それが民衆蜂起につながった。一五七八年、プロヴァンスに発生した農民反乱は、翌年ローヌ川流域やノルマンディに拡大し、やがてブルターニュ、ブルゴーニュへと広がった。とりわけ一五九三年、南西部一帯に広まったクロカンの乱Révolte des Croquants(~一五九五年)は約五万人の叛徒が国王に対する反税闘争と反貴族の運動を展開したという。
 ところで、一六世紀を特徴づける都市化の動きは内乱に苦しんだ世紀後半にも続き、フランス全体の都市人口は増加の一途をたどった。都市人口(人口一万人以上の都市に住む人口)は、一五五〇年には約八一万人であったが、一六〇〇年には約一一〇万人に増加している(一六〇〇年頃のフランスの国土は約四六万平方キロメートルで、人口は約一九〇〇万人)。そして都市人口増加の原因は、自然増よりも新参者の流入という社会増によってもたらされた。米国の歴史家ナタリー・Z・デーヴィスNatalie Zemon Davis(一九二八~)の研究によれば、一五五〇~八〇年のリヨンではプロテスタントの男性の場合、七割近くが新参者だったという。都市の内部では一五三〇年頃から農産物の不足や物価騰貴によって実質賃金が低下し始めていたが、一五七〇年代以降は産業発展の鈍化に加えて穀物価格の高騰と失業の増加が職人ら賃金生活者をより貧窮化させた。また、この当時は原材料と道具を貸し付ける前貸問屋制と農村工業が結びついた「問屋制農村工業」が進展して農民層に現金収入の機会を提供したが、都市の手工業者にとっては高価な原料の供給を独占する問屋商人(商業資本家)への従属を強める結果となった。リヨンの絹織物、ノルマンディの毛織物、アミアンのセイエテ(絹を混ぜたサージ)製造、ブルターニュの綿織物などが問屋制の支配下に組み込まれ、手工業者は独立性を失っていく。そして貧窮化とともに手工業者の社会的地位は低下し、サンスSensでは一五三〇年、パリでは一五五四年、ランスでは一五九五年から親方層も含めあらゆる手工業者が市政から排除され、都市の役職は富裕商人、法曹家、国王役人が独占した。一五
世紀半ば以降、国王権力は都市財政に介入し始め、都市的新興貴族層と結んで国王課税を実現してきたが、彼らは国家の重要役職に補任されて社会的地位と利益を獲得していく。特に行政の中心都市では国王役人の数が増加し、租税法院や会計法院がおかれたモンペリエMontpellierでは、一五五〇~一六〇〇年の間に総人口が一万二五〇〇人から一万五五〇〇人に増えたのに対して、役人の数は一二四人から四四一人へと約四倍近く膨れあがっている。
 ところで、英仏百年戦争が終結した一五世紀半ば頃、大所領を持つ有力家系の貴族=領主層は王・諸侯からそれ相応の官職を得て俸給を確保し、所領支配の安堵を受けるようになった。彼らは新たな役人集団officiersを結成し、貴族・上層都市民双方の出身者からなる「名士」notablesと呼ばれる集団を構成するようになる。貴族=領主層の官職貴族(廷臣)化の動きは、国王への権力集中をもたらすことになるが、 一六世紀後半の宗教戦争期には「売官制」vénalité des officesの広がりと法服貴族の台頭で変化に拍車がかかった。中世以来、貴族とは家柄の古さと名誉を重んじ、血を通してのみ継承される特別な家門を指したが、この頃には貴族身分を新たに入手することが可能となった。すなわち、国王が特別な勲功をあげた臣下に対して貴族叙任状を付与したり、富裕な都市民が国王官職や都市の役職に就くことによって貴族身分を獲得する途が開かれたのである。一六世紀前半には既に国王官職を売却して戦費調達にあてる国王がいたが、同世紀後半にはその動きがいっそう強まった。一五七五年から八八年までの間にルーアン高等法院評定官職の価格が二倍に跳ね上がったように、官職価格の高騰はユグノー戦争期間中が特に著しい。そうなると地方の小貴族では入手が困難となり、これらの官職を購入したのは都市の富裕市民であった。こうして中世騎士の流れをくむ伝統的貴族(「帯剣貴族」)と官職売買をとおしてその身分を入手した「法服貴族」が併存することになり、後者の中には国家の政務を扱う国務会議に席を占める者までいた(一六世紀後半には法服貴族の間でも官職の世襲化が進み、官職の売買も増えた)。
 しかし、全ての帯剣貴族が没落傾向にあったわけではなく、地方総督gouverneurs de provinceとして強大な影響力、軍事力を誇る大貴族がフランス各地に割拠するようになる。一五世紀末から一六世紀初頭に国境地帯におかれた地方総督は、フランソワ一世の時代に一一から一六に増え、その権限も強化された。しかもポストの世襲が認められたため、大貴族は半ば独立した支配者として、数世代にわたってその地方に君臨し続けたのである。ラングドックのモンモランシ家、ドーフィネのレディギエール家、ブルゴーニュのマイエンヌ家などがその代表例で、彼等はしばしば地方三部会の支持を得て、王権の統制がきかない半独立的勢力として権勢を振るった。一方、家門と財産の保持を願う中小貴族は、大貴族をパトロン(保護者patron)、自らをクリアン(被保護者client)として認めて保護=被保護関係を結ぶ。この関係では、封建制のように封土の授受は伴わないが、相互利益と忠誠に基づく名誉ある関係には変わりない。例えば、 大貴族(保護者)は王権に働きかけて傘下の中小貴族が年金や官職を得られるように便宜を図り、中小貴族(被保護者)は大貴族の軍隊や家政に役職を得て戦争や宮廷伺候の際にはパトロンの紋章や制服を身につけて馳せ参じた。こうしてフランス全土に張りめぐらされた保護=被保護関係は、ラングドック、プロヴァンス、イル・ド・フランスに勢力を張るモンモランシ家、南西部を支配するブルボン親王家、シャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ家の三大グループが成立した。この三大グループのクリアンたちはパトロンの信仰に従ったため、ユグノー戦争は保護=被保護関係に宗教的結束が重なって複雑な展開を見せたが、最後に勝利を収めたのはカトリックに変化したブルボン家であった。註㉘
 以上のように、カトリック教会の普遍的権威を打ち砕いた宗教改革・宗教戦争は、それぞれの地域で世俗権力が宗派を内側に取り込みつつ権力強化を図ったため、宗教的対立が主権国家およびそれを基礎単位とする国際秩序を成立させるための重要な契機となった。これはフランスも例外ではなく、ハプスブルク家など外国勢力の介入に危機感を抱いて王国の統一を最優先する勢力を王権の周囲に集合させたことがユグノー戦争を終結に導き、次第に「主権国家」としてのフランス王国の姿が浮かんで見え始める。このように、イタリア戦争と宗教改革・宗教戦争が繰り広げられた一六世紀のヨーロッパでは、教皇や皇帝という個々の国家を超越する権力が衰えて、各国が独自性を強めた結果、自国の領域内で最高権力(主権)を主張する主権国家が形成されたのである。また、各国は特定の国家が強大化することを阻止する「勢力均衡」balance of power の考えに立って同盟外交を展開した。大使の駐在は一四五五年、ミラノとジェノヴァとの間で始まり、ヴェネツィアとオスマン帝国、スペイン、ネーデルラント、フランス、イングランドと神聖ローマ帝国、教皇庁が相互に使節団を駐在させてその安全を保障し、文書を交わすという恒常的外交の慣行が一六世紀初めまでに定着していた。こうした外交官の常駐制度や文書に基づく行政制度の整備によって、混沌とした近世ヨーロッパ世界に誕生した大小さまざまな主権国家群の中に、形式的に対等のルールを定めて戦争と交渉を繰り返す独特の秩序、すなわち主権国家体制Staatensystemが成立し、付随的に外交文書主義も定着したのである。なお、主権国家の内部には初歩的な「国民意識」も芽生えているが、 国民国家の誕生は市民革命期まで待たなければならない。

註① キリスト教の信徒が爆発的に増大した一一世紀頃、カトリック教会は一定条件の苦行を行えば暫有的罪は消滅するとした。そして一〇九六年の第一回十字軍派遣に際し、教皇ウルバヌス二世は従軍を苦行と認め、 非従軍者に対しては金品の寄進による罪業消滅を許した。やがて一三〇〇年には、教皇ボニファティウス八世がローマの聖ペテロ教会、聖パウロ教会への参詣・寄進を苦行の一部としている(「聖年」宣言)。そして一三九三年、教皇ボニファティウス九世は「贖宥状」(免罪符)の地方出張販売を開始し、指定された日時以内にローマ参詣や寄進を行った証として符(受取証)を交付した。一四五七年には贖宥状の効力が死後の浄罪界にまで及ぶと宣言し、地方での委託販売が開始された。一六世紀に入って、一五〇七年、教皇ユリウス二世が贖宥状総売上の三分の一を教皇庁に納入させ(販売許可料は別途納入)、一五一四年には教皇レオ一〇世が二分の一まで引き上げている。
  神聖ローマ帝国のマインツ大司教アルブレヒトAlbrecht(ホーエンツォレルン家。ブランデンブルク選帝侯の子でマグデブルク大司教とマインツ大司教を兼任。一五一八年枢機卿)は、フッガー家ヤーコプ二世Jakob II Fuggerが用立てた三万グルデンgulden(一グルデン=一フローリンflorinは三・五グラム金貨)を教皇に献上して贖宥状販売権を獲得した。ドミニコ派説教師テッツェルが贖宥状を売り歩いた際、売上金の半分はフッガー家ローマ支店を通じて教皇庁に入り、残り半分はフッガー家の金庫に入った。
註② 羽野幸春ほか『新倫理資料 改訂版』(実教出版)一三九頁より引用。ピコ・デラ・ミランドラGiovanni Pico della Mirandola(一四六三~九四) 『人間の尊厳について』(創元社)参照。
註③ エラスムスについては、沓掛良彦『エラスムス』(岩波現代全書)二〇~七二頁を参照のこと。
註④ 福音とは、イエス・キリストによってもたらされた神からの喜びの使信のことである。パウロは、福音の内容をイエス・キリストの死と復活を結びつけて「救い」の出来事と説いた。パウロ的な福音概念を継承したのがルターであり、彼は聖書に書かれたイエス・キリストの教えのみを福音とし、教会や聖職者の言葉ではなく、福音だけを信仰の拠り所とすべきであると主張した(福音主義・聖書主義)。したがって、福音主義という用語は、宗教改革の立場をとる考え方として使用されることが多い。
註⑤ ルモーヌ学寮(カルディナル・ルモワーヌ学院)で教鞭を執っていたときに同僚のルフェーブル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaplesから感化を受けたギヨーム・ファレルは、やがて一緒にギヨーム・ブリソンネGuillaume Briçonnetがパリ郊外のモーで始めていた改革運動に参加した。彼等「モーの人々」は、 はじめのうちは民衆の支持を得ていたが、一五二三年には異端視されて改革は挫折した。その後、ブリソンネやデタープルは王姉マルグリット・ド・ナヴァルMarguerite de Navarreのもとで保護を受けるようになり、ファレルは一五三二年にジュネーヴで改革に乗り出した後、一五三八年からはノイシャテルで宗教改革に取り組んだ。
註⑥ 再洗礼派(アナバプテストAnabaptist)はツヴィングリ派の中の急進派であったが、一五二五年に分離した。教理的特徴の一つは、幼児洗礼を否定して、成人の信仰告白に基づくバプテスマ(成人洗礼)baptismaを認めることにあり、幼児洗礼者にバプテスマを授けることがあるため再洗礼派と呼ばれる。カトリック教会だけでなく他のプロテスタント勢力からも迫害を受け、改革派からはウェストミンスター教会会議で排斥され、ルター派からは和協信条(一五七七年)などにより異端とされた。ドイツのミュンスターMünsterではB・ロートマンBernhard Rothmannの説教に応えてネーデルラントの再洗礼派が結集し、一五三四年、再洗礼派の神聖共同体、すなわち私的所有と貨幣を否定する「新しきイェルサレム」を出現させた(指導者ライデンのヤンJan van Leiden)。この神政独裁は翌年瓦解した。近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史16』所収第一論文)三七頁参照。
註⑦ 長老制とは、元来イスラエル時代の部族長を意味する長老が教会の指導・管理・運営することを指してい      
 たが、新約聖書では会衆の霊的指導に当たる職となっている。教会の職制の一つとして明示されるのは宗教改革の時代のことであり、バーゼルの宗教改革者エコランパーディウスJohannes Oecolampadiusの提唱に基づいてストラスブルクのブーツァーが導入したのが最初である。カルヴァンは牧師・教師・長老・執事の四重職制を教会規定の形で制度化した。また、長老制は段階的合議制をとっており、 信徒代表が牧師職と構成する長老会(小会)、幾つかの長老会で作られる会議体(中会presbytery)、最終的には全国的組織(大会)となる。
註⑧ 聖餐eucharistia(感謝の意)とは、キリスト者がパンと葡萄酒をもって象徴的に食事を共にすることによってキリストの死と復活を記念する儀礼である。『新約聖書』の「コリント人への第一の手紙」(一一:二三―二六)に登場する「最後の晩餐」の場で、イエスはパンをとり「これはあなたがたのための私のからだである」と言い、杯をとって「この杯は私の血における新しい契約である。あなたがたは飲むたびに、わたしを想い起こすために、このことを行いなさい」と述べたという。聖餐をめぐる解釈の相違は古くから存在し、宗教改革者たちの間でも違いが見られた。ルターはキリストの体と血とがパンと葡萄酒とともに在る(共在説)と主張したが、ツヴィングリなどスイスの神学者たちはパンと葡萄酒はキリストの体や血の徴に過ぎない(象徴説)とした。一五二九年、ヘッセン方伯フィリップ一世Philipp Iがマールブルク会談Marburgを召集して両者の和解を図ろうとしたが、ともに一歩も譲らなかったという。カルヴァンは一五四一年『聖餐論』を著し、両派の誤りは表象と真理の関係に関する不十分な理解と、表現の不的確さに由来するとした。すなわち、パンと葡萄酒はキリストが自らの実体を分かち与えるための道具であり、真理と結びついた徴であると説明している。
註⑨ 四五一年、マルキアヌス帝が召集したカルケドン公会議Concilium Chalcedonense(第四回公会議)は、 神たるイエスだけを認める単性論を異端とするとともに、正統アタナシウス派の説を整えて神とイエスと聖霊との三者を不可分なものとする三位一体説を確立した。公会議の閉会時に朗読されたカルケドン信条は、 「唯一且つ同一の」イエス・キリストは「真の神であり、真の人間」であり、「神性において父と同一本質の者であり、且つまた人性においてわれわれと同一本質の者」であり、「二つの本性において混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、分離されることがない」と宣言している。
註⑩ セバスティアン・カステリヨンSebastian Castellio『異端者を処罰すべからざるを論ず』(中央大学人文科学研究所編、 中央大学出版部)、シュテファン・ツヴァイクStefan Zweig『権力とたたかう良心』(みすず書房)、渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)・『フランス・ルネサンス断章』(岩波新書)各参照。
註⑪ G.R.Elton, Reformation Europe 1517-1559, London, 1963(The Fontana History of Europe). G・R・エルトン『宗教改革の時代一五一七―一五五九』(越智武臣訳、みすず書房)一五七~一七九頁、渡辺信夫『カルヴァン』(清水書院)一二~一一三頁、半田元夫・今野國雄『世界宗教史叢書2 キリスト教史Ⅱ』(山川出版社)九二~一二四頁各参照 
註⑫ 一六世紀のフランスでは、学芸や生活習慣におけるイタリア化italianisationという形でルネサンスが進行する。一五一五年、ルネサンス君主の典型と言われるフランソワ一世はボローニャで開催した教皇レオ一〇世との和平会談の際にイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(一四五二~一五一九)を招き、翌年暮れにはアンボワーズ城近くのクルー荘園を与えてその居館(クロ・リュセChâteau du Clos Lucé)に住まわせた。レオナルドは一五一九年五月二日にこの邸宅で亡くなるが、最晩年の二年半ほどはフランソワ一世から年金を受け取り、ミラノ貴族フランチェスコ・メルツィFrancesco Melziらとともに暮らした。田村秀夫『ルネサンス 歴史的風土』(中央大学出版部)一九二~二〇六頁参照。ガリカニスムについては、拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)参照。
註⑬ 仏王フランソワ一世は皇帝選挙資金として金貨四〇万エキュécu(一・五トン)を用意したが、ライバルの西王カルロス一世の選挙資金は金貨八五万グルデン(二トン)であった。後者の内訳はアウクスブルクの鉱山・金融業者フッガー家からの融資が五四万グルデンで、残りはヴェルザー家とヴェネツィア商人から調達したといわれる。そのうち四六万グルデンが七選帝侯(首席は債務に苦しんでいたマインツ大司教アルブレヒト)に渡った。カルロス一世は満場一致で神聖ローマ皇帝に選出され、ハプスブルク帝国が成立した。こうしてスペイン語・ドイツ語を解さないブルゴーニュ人シャルルは、一五二〇年、アーヘンで「ローマ人の王」として戴冠し、一五三〇年には教皇クレメンス七世をボローニャに招いて皇帝としての戴冠式を挙行したのである。これが教皇による神聖ローマ皇帝戴冠の最後となった。近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座 世界歴史⒗ 主権国家と啓蒙』所収論文)三二頁参照
註⑭ ピケpique(英語ではパイクpike)とは、一五~一七世紀頃、歩兵用の武器として使用された槍の一種である。四~七メートル程度の長い柄に二五センチほどの木の葉状の刃がついており、重量は三・五キログラムであった。ピケを持った歩兵は密集方陣または横隊を組んで前進し、突撃してくる騎兵や歩兵を迎撃した。一七世紀末、マスケット銃の先端に取り付け使用する銃剣の発明により、ピケは姿を消した。
註⑮ 一五四一年九月二九日、オスマン軍がブダ城を占拠したため、ハンガリー中・南部はオスマン帝国直轄領(~一六九九年)、北・北西部とクロアティアはハプスブルク家が統治するハンガリー王国(一五二六~一八六七年、都ブラチスラヴァ)、東部は東ハンガリー王国(一五二九~七〇年)とに三分割された。なお、現ルーマニアのトランシルヴァニア地方に誕生した東ハンガリー王国は後にトランシルヴァニア侯国Principatul Transilvaniei(1571~1711)となるが、オスマン帝国の宗主権下に置かれた半独立国家であり、支配者の多くは改革派のハンガリー人であった。
註⑯ ブルボン家はカペー王家の支流の一つで、一三二七年、カペー朝最後の王シャルル四世からブルボン公に叙せられたルイ一世に始まる。一五〇三年、ピエール二世が没するとブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男系が途絶え、娘シュザンヌと傍系ブルボン=モンパンシエ家 Montpensierのモンパンシエ伯シャルル(シャルル三世Charles III)が結婚して、共同で公位を継承した。しかし、仏王フランソワ一世と対立したシャルル三世の戦死(一五二七年)でブルボン家本流は途絶え、ブルボン公ルイ一世の四男ラ・マルシュ伯ジャック一世から五代目の末裔ヴァンドーム公シャルルCharles がブルボン=ヴァンドーム家Vendômeを興す。そしてシャルルの息子アントワーヌAntoineがナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレJeanne d'Albret(在位一五五五~七二)と結婚してナヴァール王位を獲得し、アントニオ一世(在位一五五五~六二)となった。なお、 ジャンヌ・ダンブレ(西名フアナ三世Juana III 、仏名ジャンヌ三世Jeanne III )は、ナヴァール王エンリケ二世と仏王フランソワ一世の姉マルグリットの娘で、熱心なユグノーであった。
註⑰ スコットランドでは一五五九~六〇年にプロテスタント(長老派教会・プレスビテリアンPresbyterianism, Presbyterian Church)の反乱が起こり、スコットランド王室を支援したフランス海軍はイングランド軍の介入で大打撃を受けた(一五六〇年七月六日、仏軍のスコットランド介入を禁止するエディンバラ条約Edinburghを締結した)。メアリ・ステュアートは一五六一年にスコットランドに戻ったが、 そのとき既にスコットランドの宗教改革は成功し、カトリックの彼女は孤立することになる。一五六五年七月二九日にイングランド王国の王位継承権を持つダーンリー卿ヘンリHenry Stuart, Lord Darnleyと再婚したが、その直後、政治顧問マリ伯ジェームズ・ステュアートJames Stewart(メアリの異母兄でプロテスタント)がエリザベス一世の支援を受けて反乱を起こした。この反乱はボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンJames Hepburn, 4th Earl of Bothwellが鎮圧した。翌六六年三月に重用していた秘書ダヴィッド・リッチオDavid Riccioが目の前で殺害されるという事件が起き、同年六月一九日には息子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ六世、イングランド王ジェームズ一世)をエディンバラ城Edinburgh内で出産した。一五六七年二月、ダーンリー卿の轢死体がカーク・オ・フィールド教会Kirk O'Field(エディンバラ)で発見された数日後、ボスウェル伯が女王メアリをダンバー城Dunbarへと連れ去り、五月一五日には結婚式を挙げた。しかし、まもなく反ボスウェル派貴族が決起し、六月一五日、カーバリー・ヒルで投降したメアリはロッホリーヴン城Loch Levenへと移され、七月二六日には廃位された。翌六八年五月、ロッホ リーヴン城から脱出したメアリは武装蜂起したもののあえなくマリ伯軍に敗れ、イングランドへ逃亡した。だが、彼女は相変わらずイングランド王位継承権者であると主張してエリザベス一世の不興を買い、エリザベス一世廃位の陰謀(一五七〇年リドルフィ事件、一五八六年バビントン事件)に関与したとされて死刑の判決が下され、一五八七7年二月一三日、フォザリンゲイ城 Fotheringayで処刑された。西王フェリペ二世がイングランドへ無敵艦隊(アルマダ)を派遣するのは翌八八年のことである。髙澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第三論文、山川出版社)一一三~一五一頁、三浦一郎『世界史の中の女性たち』(社会思想社教養文庫)九二~一一一頁、 岩根圀和『物語スペインの歴史』(中公新書)各参照
註⑱ ネーデルラントは古くから毛織物業や商業で栄えていたが、商業革命以後はフランドル地方のアントウェルペンAntwerpen(仏語Anvers)が国際商業の中心地となった。一六世紀後半、西王フェリペ二世はネーデルラントにカトリック信仰を強制し、都市に重税を課したため、一五六六年、貴族たちが自治権を求めて決起した。この反乱にカルヴァン派(ゴイセンGeusen)の商工業者が加わってオランダ独立戦争(一五六八~16〇九年)が勃発した。
註⑲ イングランド王エリザベス一世は、即位当初、フランスやスコットランドとは対立関係にあり、むしろカ トリック教国スペインとは友好関係を保っていた。しかし、イングランド国教会の確立とともにフランスやネーデルラントのプロテスタントを支援するようになり、イングランド北部のカトリック反乱を鎮圧したことで一五七〇年、教皇庁から破門された。この頃から彼女の反カトリック路線が定着し、イングランド海賊によるスペイン銀船隊襲撃などによって両国関係は緊迫した。髙澤紀恵前掲論文一一六頁、 三浦一郎前掲書一一二~一二三頁参照
註⑳ Philippe Erlanger, Le Massacre de la Saint-Bartélemy, Paris, 1960. フィリップ・エルランジェ『聖バルテルミーの大虐殺』(白水社ドキュメンタリー フランス史)磯見辰典編訳七~三一頁参照
註㉑ 磯見辰典編訳前掲書一二九~二〇四頁参照
註㉒ 久保正幡訳『サリカ法典』(創文社)一五八~一六〇頁参照
註㉓ 磯見辰典編訳二〇五~二四〇頁、田村秀夫『ルネサンス歴史的風土』一九二~一九六頁(中央大学出版部)各参照
註㉔ 二宮宏之訳『西洋史料集成』(平凡社)より引用 
 第1条 第一に、一五八五年三月初め以来余の即位に至る間、さらには、それに先立つ騒乱の間に、各地に生   
  じたる一切の事件は、起らざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。なお、検事総長その他、公人・私人を問わず、なにびとといえども、これらの事件に関し、いかなる時、いかなる機会にあっても、これを陳述・訴訟・訴追することは、いかなる裁判所におけるを問わず、これを認めない。
 第六条 余が臣民の間に、騒乱・紛議のいかなる動機も残さぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんら審問・誅求・迫害されることなく、生活し居住することを認める。彼らは、事宗教に関して、その信仰に反する行為を強いられることなく、また、本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追及されることもない。 
 第9条 余はまた、一五九六年より一五九七年八月末に至る間、改革派信徒によって、幾度か公に礼拝のおこなわれたる、余に服する都市においてはすべて、これに反する一切の法令、判決にかかわりなく、引き続きその礼拝を行うことを認める。 
 第⒔条 本勅令によって、裁可・承認せられたる場所におけるほかは、・・・いかなる改革派宗教の礼拝も、これをおこなうことを絶対に禁止する。 
 第⒕条 余の宮廷、イタリアに存する余の所領、およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域においては、 改革派宗教の礼拝は、いかなるものも、これを禁止する。ただしイタリアの所領およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域に居住する改革派信徒は、本勅令の規定に従う限り、その住居内において追及されることなく、その宗教のゆえをもって、その信仰に反する行為を強制せられることもない。 
 第21条 改革派宗教に関する書籍は、その公の礼拝の許されている都市における以外は、公に、印刷・販売されてはならない。 
 第27条 余が臣民の意志を望むごとく、より良く和解せしめ、爾後の一切の不満を除去するために、余は、 改革派宗教を現在または未来において公然と奉ずる者も、余の王国の、国王・領主あるいは都市の、すべての地位・要職・官職・公務を、この規定に反する一切の決定にかかわりなく、これを保持し行使しうるものとし、 なんら差別されることなく、これらの職務に従事しうるものとする。 
註㉕ ユグノー戦争は、第一次戦争(一五六二年三月~六三年三月アンボワーズ勅令)、第二次戦争(一五六七年九月~六八年三月ロンジュモー和議)、第三次戦争(一五六八~七〇年サン・ジェルマン和議)、第四次戦争(一五七二~七三年ブーローニュ勅令)、第五次戦争(一五七四~七六年ボーリュー勅令)、第六次戦争(一五七六~七七年ベルジュラック和議・ポワティエ勅令)、第七次戦争(一五七九~八〇年ル・フレクス和議)、第八次戦争(一五八五~九八年ナント勅令・ヴェルヴァン和議)に区分される。
註㉖ Fernand Braudel, “LA MÉDITERRANÉEE et le monde méditerranéen à l'époque de Philippe III”Armand Colin, Deuxième édition revue et corrigée, 1966. F・ブローデル『地中海⑤』(藤原書店)二七四頁、F.Braudel & F.Spooner, “Prices in Europe from 1450 to 1750”、 The Cambridge Economic History of Europe, vol. IV, Cambrige, at the University Press, 967, p.470. 
近藤和彦前掲論文二一頁、遅塚忠躬「経済史上の一八世紀」(『旧岩波講座 世界歴史⒘』所収第一論文)四四~五四頁各参照。なお、グラフは高校教科書『世界史B』(東京書籍)二一六頁より引用。
註㉗ Robert Muchembled, L'invention de l'homme moderne. Sensibilités, moeurs et comportements collectifs sous l'Ancien Régime, Fayard 1988. ロベール・ミュシャンブレッド『近代人の誕生 フランス民衆社会と習俗の文明化』(石井洋二郎訳、筑摩書房)参照
註㉘ 林田伸一「近世のフランス」(『新版世界各国史⒓ フランス史』所収第四論文、山川出版社)一四
四~一六九頁、近藤和彦前掲論文一七~二六、四三~四九頁、髙澤紀恵前掲論文一二〇~一二九頁各参照
*文中の地図は林田伸一「近世のフランス」(『新版世界各国史⒓ フランス史』所収第四論文、山川出版社) から複写し、写真は筆者が撮影したものである。

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