第一節 ブルボン朝の成立
一六世紀後半のフランス王国は、ユグノー戦争(一五六二~九八年)という内戦に揺れていた。そして一五八九年、ヴァロワ朝最後の国王アンリ三世の暗殺により、ユグノー勢力の指導的立場にあったナヴァール王アンリが仏王アンリ四世Henri IV(在位一五八九~一六一〇)として王位を継承した(ブルボン朝Bourbon、一五八九~一七九二、一八一四~三〇年)ため、戦況に大きな変化が生じた。翌九〇年にはブルボン枢機卿シャルル一世が身罷り、後継者をめぐって混乱したカトリック同盟の一瞬の隙を突いたのが国王アンリ四世である。一五九三年七月二六日、彼は一転してサン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗し、 翌九四年二月二七日にはシャルトル大聖堂においてフランス国王としての戴冠式(成聖式)を挙行した 。その結果、カトリック教会は仏王アンリ四世を拒否する理由を失い、同年三月二二日、国王のパリ入城が実現している。
その当時、カトリック勢力の中心的立場にいたスペイン国王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)は三度目の王妃エリザベート・ド・ヴァロワÉlisabeth de Valoisとの間に生まれたイサベル・クララ・エウヘニアIsabel Clara Eugenia de Austriaをフランス王位に就けようとして失敗した。また、その年の暮れにはイエズス会クレルモン学院の学生ジャン・シャトルJean Châtelによる国王暗殺未遂事件が発生したため、 翌年一月、パリ高等法院はイエズス会に対して国外追放処分(一五九四~一六〇三年)を決定し、フェリペ二世のフランス征服という野望はついに頓挫した。一五九五年一月一七日、アンリ四世は対西宣戦布告を発し、翌年一月にはカトリック同盟の最高指導者マイエンヌ公シャルル・ド・ロレーヌCharles (II) de Lorraine, duc de Mayenneの降伏で、カトリック同盟を瓦解させた。しかし、スペイン軍の反撃は凄まじく、フランス国王軍は一五九七年九月になってようやくアミアンAmiensを奪回したほどである。その後、アンリ四世はスペインと同盟関係にあったメルクール公フィリップ・エマニュエルPhilippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre, marquis de Nomeny, Baron d'Ancenisを討つためにブルターニュへと向かい、翌年三月二〇日、メーヌ河畔のアンジェAngersでメルクール公の降伏を受け入れた。四月一三日、アンリ四世はシュリー公マクシミリアンMaximilien de Béthune, Duke of Sullyと相談のうえで有名な「ナントの勅令」Édit de Nantesを発して、改革派信徒(ユグノー)に対してカトリック教徒とほぼ同等の権利を与えている。同年五月二日、ヴェルヴァン条約Vervinsが締結され、ユグノー戦争はついに終焉の時を迎えたのである。註①
しかし、本格的な戦闘は収まったものの、カトリック同盟に与していた有力貴族たちは依然として強大な勢力を誇り、内戦による国土の荒廃も深刻な状態にあった。そこで、アンリ四世と宰相シュリー公は、 ギーズ家 Guiseなど有力貴族にさまざまな特権や役職を与えることによって対抗勢力とならないように周到な配慮をしている(ギーズ家には三つの地方総督職が付与された)。ところで、一六世紀後半の宗教戦争期には売官制vénalité des officesが広がり、中世騎士の流れをくむ伝統的貴族(「帯剣貴族」)と特別な勲功や官職売買をとおして貴族身分を獲得した「法服貴族」が併存していた。そして、官職貴族(廷臣)は毎年官職継承税マルク・ドールMarc d'orを支払い、かつ死ぬ四〇日以前に辞任と継承の宣告をすることで自らの子息に相続させることができたので、法服貴族の間でも官職の世襲化や売買が盛んになっていた。アンリ四世は一六〇四年、ポーレット法Pauletteを制定して、慣習化していた官職の世襲を正式に認める代わりに、毎年、官職価格の六〇分の一を国庫に納めることを義務づけた。その結果、この官職年税droit annuelは国家財政にとって必要不可欠な収入源となり、やがて世襲による官職の家産化は大貴族が築いてきた〈保護・被保護関係〉を破壊していくのである。註②
また、その一方で、アンリ四世はシュリー公の献言を受け入れて、内戦で疲弊したフランス経済の立て直しにも努めている。彼等は政権内の無駄な部局を整理し、徴税に際しての横領や職権乱用を厳しく取り締まって国家財政の健全化に努めるとともに、さまざまな産業の育成を奨励した。アンリ四世が王権を掌握したとき、フランス財政は破綻の危機に瀕しており、内戦中に地方総督や各都市によって徴税権や財政機構を奪われて租税の約二割が彼等の手に渡っていた。一五九六年には反対する名士会議、高等法院を抑えて消費税の導入を決めたが、ポワティエPoitiersやリモージュLimogesの反乱を受けてまもなく廃止に追い込まれた。
そこで一五九八年に財務卿となったシュリーは、財政改革に着手した。第一に取り組んだのは、主要財源であるタイユ税tailleの適正配分と徴収であった。当時のフランスは、国王の直轄財務機構が租税の配分・徴収に責任を持つ「エレクシオン地域」pays délectionsと、地方三部会に同意と配分、ときには徴収権すら認める「地方三部会地域」pays d'etatsとが存在したが、シュリーは両者に親任官僚を派遣して徴税業務を厳しく監視し、地方三部会地域をエレクシオン地域に組み込むことによって、地方三部会の課税同意権を剥奪しようと画策したのである。もちろん、地方三部会、地方総督、最高諸院などはこぞって反対したが、大きな流れとしてはシュリーの目指した方向に動き始めている。第二に、特権身分(聖職者・貴族)が免除されていた直接税(タイユ税)の比率を引き下げて、全ての身分が負担する間接税(塩税)を引き上げるという税制改革に取り組んでいる。例えば一五九六年のタイユ税総額は一八〇〇万リーヴルであったが、一六〇〇年代には平均一五八五万リーヴルまで減額されている。もちろん、税収不足は間接税の増税によって補ったわけだが、それは(増税しやすく安定した)財源の確保だけでなく、「特権身分への課税」という画期的改革をも意味していた。こうしたシュリーの財政改革は財政難を急速に克服させ、一六一〇年までに黒字に転換させたばかりか、国庫には一六〇〇万リーヴルもの現金が蓄えられた。財政改革の成功は、王権の財政基盤を安定させ、絶対王政の基礎を固める役割も果たした。何故なら財政改革は、登録権を盾にさまざまな改革に抵抗する高等法院や、徴税請負人の監査・裁判権を持つ会計法院に対して、王権が親任官僚の派遣や公金横領特別法廷を通して奪権闘争を挑む過程でもあったからである。こうした王権拡大の動きによって内務国務会議の重要性がますます増大し、ここから地方に派遣された親任官僚はルイ一四世期に確立する「地方長官制」へと発展していった。註③
ところで、シュリーには「農耕と牧畜はフランスの二つの乳房」という有名な言葉があるが、開墾を奨励して農耕地を拡張するなど「農本主義」的政策を推進し、葡萄や桑の植樹に力を入れてワイン造りや養蚕を盛んにした。一七世紀はじめは豊作が続き、その間にトウモロコシや野菜、葡萄などの新しい商品作物の栽培も盛んになったため、農業の多様化が進んだ。一方、内乱期に衰退した商工業はなかなか回復しなかったが、シュリーは交通網を整備して商品価格上昇の原因となっていた国内各地の関税を撤廃させている。また、絹織物・綿織物・硝子器具・壁掛けなどの輸出を振興し、絹織物業のリヨンLyon、オスマン帝国との交易の中心的役割を果たしたマルセイユ港Marseille、スペインへの穀物・織物の輸出港となったブレストBrest、ラ・ロシェルLa Rochelle、サン・マロSaint-Maloなどは急速に発展した。
こうした重商主義(貿易差額主義)的経済政策は、フランスの海外進出を促す結果となった。一六世紀前半、仏王フランソワ一世François I(在位一五一五~四七)の命を受けたカルティエJacques Cartier(一四九一~ 一五五七)の北米探検(一五三四~四二年)に始まる仏領カナダの建設は、一七世紀に入って大きく前進した。一六〇三年、アンリ四世の命を受けた探検家シャンプランSamuel de Champlain(一五六七頃~一六三五)は「ヌーヴェル・フランス会社」Nouvelle Franceの代理人としてノルマンディ地方のオンフルール港Honfleurから新大陸へと渡り、カナダのセント・ローレンス川流域を探検した。そして、1六〇五年にはアカディア沿岸のポール・ロワイヤルに、一六〇八年には現在のケベック市に交易所を設けて先住民との毛皮取引を開始した。こうして一六二七年に設立された「ヌーヴェル・フランス百人会社」Compagnie des Cent Associésは、セント・ローレンス川からミシシッピ川に及ぶ巨大な植民地に発展した。ただし、その後の英仏植民地戦争(第二次百年戦争)に敗れ、この会社は一七五九年、イギリス軍の占領を受けて、一七六三年のパリ条約で完全に消滅する。その間、イングランド(一六〇〇年)、オランダ(一六〇二年)が相次いで東インド会社を設立して香辛料交易に乗り出していたが、一六〇四年にはフランスも一五年間という期限付きの独占特許状を与えて「東インド会社」Compagnie française des Indes Orientalesを設立した。しかし 一六三五年、次の国王ルイ一三世の宰相リシュリューがマダガスカル島に中継港を築いて対インド貿易を活性化しようと目論んで失敗し、東インド会社は一度も商船を派遣できないまま、その構想はしばらく放置されることとなった。註④
ところで一六〇〇年、前妻マルグリット・ド・ヴァロワMarguerite de Valois(一五五三~一六一五)と離婚したばかりのアンリ四世は、トスカーナ大公フランチェスコ一世Francesco I de' Medici(在位一五七四~八七)の娘マリ・ド・メディシスMarie de Médicis(一五七五~一六四二)と再婚した。二人の間には、一六〇一年の王太子ルイの誕生に続いて合わせて六人の子宝に恵まれ、王太子ルイ、エリザベート(後の西王フェリペ四世妃イザベル)、クリスティーヌ(後のサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ一世妃クリスティーナ)、オルレアン公ガストンGaston Jean Baptiste de France(一六〇八~六〇)、アンリエット・マリ(イングランド王チャールズ一世妃ヘンリエッタ)の五人が成長した。再婚から一〇年の歳月が流れた一六一〇年五月一三日、サン=ドニ大聖堂でマリ・ド・メディシスを正式のフランス王妃と認める盛大な戴冠式が挙行された。しかし、その翌日、アンリ四世は寵臣リシュリューとの打ち合わせのためにルーヴル宮を出てマレ地区のアルスナル(工廠Arsenal)に向かったが、現在のレ・アールLes-Halles そばのフェロヌリー通り八番地において狂信的な旧教徒フランソワ・ラヴァイヤックFrançois Ravaillacという男に襲われ、刺殺された(享年五六歳)。王の亡骸は、強い香りのするバルサムを塗られてしばらくルーヴル宮に安置された後、王家の墓所であるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。なお、犯人フランソワ・ラヴァイヤックは、五月二七日、グレーヴ広場Place de Grève(現在のパリ市庁舎前広場)において(一六年前の殺人未遂犯シャトルと同じく)「八つ裂きの刑」という惨たらしい方法で公開処刑された。
第二節 王母マリ・ド・メディシスとルイ一三世の確執
一六一〇年五月一四日、王位を継承したのは王太子ルイであった。しかし、ルイ一三世Louis XIII(在位一六一〇~四三)は僅か八歳の少年であったため、成人する一六一七年までは王母マリが摂政として政務を執ることになり、翌日パリ高等法院の親裁座で摂政宣言がなされた(ルイ一三世の成聖式は、一〇月一七日、ランスReimaで挙行された)。彼女は先王のとった年金と官職の授与という有力貴族への懐柔政策を継続させたが、まもなくアンリ四世期の宰相シュリー公マクシミリアンを罷免して、彼女の輿入れの際に伴った侍女レオノーラ・ガリガイLeonora Galigaïとその夫アンクル元帥(アンクル侯爵コンチーノ・コンチニConcino Concini)を重用するようになった。また、メディチ家出身の彼女は、新旧両教徒の均衡に心を砕いた先王と違ってあからさまにカトリックを擁護する姿勢に転じ、一六一二年にはルイ一三世とスペイン王女アンヌ・ドートリッシュAnne d'Autriche(一六〇一~六六)、娘エリザベートとスペイン王太子フェリペ(後の西王フェリペ四世)という二組の結婚を決め、ハプスブルク家との提携を強めている(結婚式は一六一五年一〇月、ボルドーBordeauxとブルゴスBurgosで同時に挙行された)。また、その一方で、 次第に行き詰まりを見せ始めた財政問題を解決させるために、有力貴族層に授与してきた「特権」の再検討に乗り出した。註⑤
こうした新たな方針に反発したコンデ親王アンリ二世Henri II de Bourbon-Condéやブイヨン公、ヌムール公など有力貴族層は、一六一四年初め、国王に反旗を翻して東部の都市サント・ヌムーSainte-Menehouldを攻略した。彼等は一五九三年以来途絶えていた全国三部会États générauxの召集を約束させたが、ルイ一三世は反国王の姿勢を示していたブルターニュ地方のヴァンドーム公を屈服させ、その上で全国三部会開催直前の一〇月二日、パリ高等法院において満一三歳の成人年齢に達したことを披露する親臨法廷を開催して摂政体制の終結を宣言した。なお、ルーヴル宮に隣接するブルボン館において開催された全国三部会(一〇月二七日開会)の構成は、第一身分(聖職者)一三五名、第二身分(貴族)一三八名、第三身分(平民)一八七名であり、国王側の裏工作が功を奏して王権支持派が絶対多数を占めていた。また、三部会代表には上級官職に就いていた富裕層が多く、第一身分では大司教ないし司教が五九名、修道院長が三三名であり、下級聖職者に相当する司祭は五名に過ぎない。第二身分では国王から宮廷や軍隊などの上級官職を授与されていた貴族が七八名もおり、そのうち二六名は国務評定官の肩書きを有していた。そして第三身分では司法官職を中心とする官職保有者(オフィシエofficier)が一二一名と圧倒的に多く、法的には貴族と認定できる者が三一名、所領の所有者が七二名もいた。それに対して、商人は二名、ブルジョワは三
名、富農は一名しかおらず、明らかに第三身分代表は特権階級に接近しつつある階層から選抜されていたことが分かる。
さて、全国三部会は身分ごとの個別集会という形式で行われ、それぞれ地元の陳情書を携えた代表による議論が展開された。この全国三部会は富裕層の代表による議論という側面は否めなかったが、それでも第二身分と第三身分の主張には大きな隔たりがあった。前者は、近年の貴族や農民の貧窮・没落の原因を王権による徴税強化と新興ブルジョワ層による所領や官職の取得によるものと考えており、租税の軽減や 一定官職の貴族への留保、官職の世襲保有に道を開いたポーレット法の廃止、貴族に商業への関与を認めない貴族位喪失規定の見直し、貴族と平民を明確に区別できる服飾規定の制定などを提案した。一方、後者は租税軽減は四〇〇万リーヴル、ポーレット法廃止は一六〇万リーヴルの歳入不足を招くとして反対し、 大幅な貴族年金の削除こそが喫緊の課題であると主張し、ポーレット法を堅持しようとした。一六一五年二月二三日、全国三部会はそれぞれ身分ごとの陳情書を提出して閉幕したため、国政改革は不発に終わった。しかし、三部会代表の一部が政府側の誠意ある回答を期待してパリに留まっていたため、三月二四日、 国王は彼等をルーヴル宮に招き入れ、(1)官職売買の禁止、(2)貴族年金の削減、 (3)不正フィナンシエ(金融業者)financier摘発のための「特別裁判所」設置を約束している。全国三部会はこの後、一七八九 年五月まで召集されていない。一四世紀初めから続いてきた全国三部会という身分制議会は、一六世紀を境に衰退の一途をたどっており、絶対王政の開始とともにその役目を終えたのである。同じく地方三部会も一七世紀には衰退し、オート・オーヴェルニュは一六二四年、ドーフィネは一六二八年、ノルマンディは一六五五年に機能停止となった。これ以降、フランスの政治は国王を頂点とする官僚機構に依拠しつつ利害を調整する方法で進むことになる。註⑥
ところで、王母マリは全国三部会に出席していたリュソン Luçon 司教リシュリュー(一五八五~一六四二)の卓越した能力に着目し、一六一六年には国務卿に抜擢している。一方、次第に政治意識を高めつつあった息子ルイ一三世は、なかなか実権を手放そうとしない王母の背後にコンチニの影を認め、一六一七年四月二四日、腹心リュイーヌ公 Luynes(シャルル・ド・ダルベールCharles de D'Albert)の入れ知恵もあってルーヴル宮でコンチニを暗殺し、レオノーラを魔女として処刑した。この時、王母マリはロワール渓谷のブロワ城Bloisに幽閉され、国務卿の地位を追われたリシュリューは南部のアヴィニョンAvignonへと逃れている。こうして権力掌握に成功したルイ一三世は、翌年、官職世襲を保障したポーレット法を廃止し、二〇年には売官制度を再開した。その間、一六一九年二月、ブロワ城を脱出した王母マリは次男nのオルレアン公ガストンとともに反乱を起こし、二〇年にはリュイヌ公の政府に不満を抱いていた有力貴族層も加わったが、同年八月七日、ポン・ド・セPonts-de-Céの戦いであえなく鎮圧された。彼女はリシュリュー卿の取りなし(一六二〇年「アンジェ協定」Convention de Angers)で一時的に息子ルイ一三世と和解したが、その後も国王と王母マリや国璽尚書マリヤックMichel de Marillacとの確執は続いた。
一方、先王が発した「ナントの勅令」は、ユグノーに信仰の自由を保証しただけでなく、向こう八カ月間にわたる「安全保障地」と都市守備隊の存続を認めていたために、彼等の居住地域(一〇〇カ所以上)は半独立状態を維持して社会不安の要因となっていた。ルイ一三世は王母マリと同じく親カトリック政策に回帰していたが、一六一六年に編入したスペイン国境近くのベアルン地方Béarnでカトリックの援助をしたことが契機となって、ユグノー派の反発を買うことになった。一六二〇年の暮れ、ラ・ロシェルにおいて改革派全国大会が開かれ、翌年にはロアン公アンリHenri、duc de Rohanとその弟のスービーズ侯Benjamin deRohan, marquis de Soubiseを中心とする反乱が勃発した。ルイ一三世は、フランス西部のサン=ジャン=ダンジェリSaint-Jean-d'Angélyを陥落させてラ・ロシェルの封鎖を図り、ベアルン地方を襲撃したが、両者とも譲らず戦線膠着の状態となった。やがて一六二二年一〇月一八日、ユグノー都市をラ・ロシェルとフランス南部のモントーバンMontaubanに限定する「モンペリエ協定」Montpellierが締結されて妥協が図られ、モントーバンでは「国王の入市式」が挙行されたが、この日を境にユグノー派の勢力は大きく後退していった。註⑦
ところで、その当時、イングランド王国ステュアート朝Stuart(一六〇三~四九、一六六〇~一七一四
)を開いたジェームズ一世James I(在位一六〇三~二五)は、ハプスブルク家への対抗意識からフランスに接近しようとして失敗し、英仏関係が急速に悪化していた。それに対して、フランス国内ではルイ一三世から首席国務卿=宰相(在任一六二四~四二)に抜擢されたリシュリュー枢機卿(リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシーArmand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)がスペインと秘密講和を結び、イングランドの攻撃に備えていた。一六二五年、ユグノー派が再び武装蜂起した時、リシュリューはユグノー派の拠点ラ・ロシェルを包囲してスービーズ侯軍に致命的な打撃を与えた。一方、イングランド王チャールズ一世Charles I(在位一六二五~四九)の寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズGeorge Villiers, 1st Duke of Buckingham(一五九二~一六二八、海軍卿一六一九~二八)はユグノー派と連絡を取り合い、一六二七年六月、八〇隻の艦隊を率いてラ・ロシェル近くのレ島 Île de Réに押し寄せ、兵士約六〇〇〇人の上陸に成功した。そして、レ島の中心都市サン・マルタン・ド・レSt-Martin-de-Re は、国王に対する反乱には加わっていなかったためイングランド軍の猛攻を受ける羽目に陥った。一方、アングレーム公シャルルAngoulême率いるフランス国王軍(兵士約七〇〇〇人、騎兵約六〇〇人、砲二四門)は八月からラ・ロシェル包囲を開始し、九月以降はリシュリュー総司令官のもと総延長一二キロに及ぶ包囲線を構築して砦一一カ所、堡塁一八カ所には兵士約三〇〇〇人を配置した。イングランド王国は一六二八年四月、 八月の二度にわたって艦隊を派遣したもののラ・ロシェル支援に失敗し、一〇月二八日、ラ・ロシェルは無条件降伏をした。勢いづいたリシュリューは、一六二九年五月、ラングドック地方で抵抗を続けていたユグノー派を襲撃し、その首領ロアン公を国外追放に処した。こうしてラ・ロシェル包囲戦は、ルイ一三世とカトリック側の大勝利となり、ユグノー派は「信仰の自由」こそ認められたものの、あらゆる特権を失ったのである(一六二九年六月二八日「アレス王令」Alès)。
第三節 三十年戦争とフロンドの乱
一六一八年五月二三日、プロテスタント貴族とハプスブルク家が対立していたベーメン王国では、教会建築禁止令に反発した新教徒たちが市役所(現在のプラハ城)に押しかけて二人の代官と秘書を窓から崖下に突き落とすという事件(プラハ窓外投擲事件)が発生し、長く続く三十年戦争(一六一八~四八年)の発端となった。当時のベーメン王フェルディナン一世(在位一六一七~一九、二〇~三七)は、まもなく神聖ローマ皇帝フェルディナント二世Ferdinand II(在位一六一九~三七、オーストリア大公在位一六一九~三七、 ハンガリー王在位一六一九~二五)となるが、やがて一六二五年のデンマーク王クリスチャン四
世Christian IV(在位一五八八~一六四八)や一六三〇年のスウェーデン王グスタフ=アドルフGustav II Adolf(在位一六一一~三二)といったルター派を信奉する国王らが新教徒援助を名目に軍事介入したことから、単なる宗教戦争の域を超えて激しい国際干渉戦争へと拡大していった。
そのときフランス宮廷は様子見を決め込んでいたが、一六二四年秋、宰相リシュリューは、ミラノとドイツをつなぐ要衝に位置するヴァルテリン回廊地帯を管轄していた教皇軍が中立の立場を逸脱してスペイン軍の自由通行を認めていたことを口実に、サヴォイア公国を誘って出兵に踏み切った。この作戦はスペイン軍の反撃で失敗したが、一六二七年末、今度はマントヴァ公国継承問題に介入して反皇帝・反ハプスブルク側にまわり、翌年春から三〇年秋にかけて激しいカザーレ包囲戦Casaleを展開した。しかし、リシュリューの強引とも言える作戦は、宮廷内部に亀裂を引き起こした。リシュリューの目覚ましい台頭に不満を抱いた国璽尚書マリヤックMichel de Marillacら一部貴族は、長引く戦乱や飢饉発生による国内疲弊を心配していた王母マリと結託して、一六三〇年一一月一〇~一一日の会議で全面的な和平論を展開し、リシュリュー排斥のクーデターに打って出た。ルイ一三世も一旦はリシュリュー罷免に同意したものの、翌日には態度を翻してしまう(「裏切られた者たちの事件」journée des Dupes)。その結果、マリヤックは罷免され、王母マリと王弟ガストンは翌年フランス北部のコンピエーニュCompiègneに軟禁された後、国外のロレーヌ公のもとへと亡命した。一六三二年六月、ラングドック地方で王弟ガストンと提携した地方総督モンモランシ公の反乱が発生したが、これを鎮圧したリシュリューの支配体制は磐石となった。註⑨
ところで、リシュリューの宰相就任までのフランスでは海軍提督が海運行政を統括していたが、大西洋側の三つの官職をモンモランシ公、地中海側をギーズ公が担当し、残る海軍提督はブルターニュ総督ヴァンドーム公が兼務していた。しかしリシュリューは、一六二六年、シャレー事件(シュヴルーズ公爵夫人マリー・ド・ロアンMarie Aimée de Rohanが愛人シャレー伯とともに、ルイ一三世と王弟ガストンの地位を入れ替えようとした陰謀事件)に連座したヴァンドーム公から海運行政の権利を剥奪して、同年一〇月に新設された「航海・商業長官」に自ら就任した。翌三一年には海軍提督そのものを廃止し、三月には特権貿易会社の許認可権がすべてリシュリューに集められた。その後、英仏海峡から大西洋にいたるル・アーブル、ブルターニュ、ラ・ロシェル、ブルアージュの総督職を手に入れたリシュリューは、国務会議とは別に評議会を設置して海運行政を取り仕切った。そして一六三二年のモンモランシ公の反乱失敗(一〇月に処刑)で、リシュリューを抑えることが出来るのは国王のみとなったのである。
さて、一六三一年のロレーヌ出兵に成功したフランスは、一六三四年九月のネルトリンゲンNördlingenの戦いで神聖ローマ皇帝軍がスウェーデン軍に勝利を収めたのを見届けると、かねてより敵対関係にあったハプスブルク家に打撃を与える目的でオランダ、スウェーデンとの同盟関係を更新した。翌年五月、 フランスはついにスペインと神聖ローマ皇帝に宣戦布告して三十年戦争に参戦した。フランス・スペイン戦争(仏西戦争、一六三五~五九年)では、一六三六年七月、スペイン軍がピカルディ地方に侵入し、八月にはパリに近いコルビCorbieを攻略したが、その時ルイ一三世はパリ市民から義勇軍を募ってスペイン軍のパリ攻撃を断念させている。仏軍が攻勢に転じたのは一六四〇年のことで、スペイン王の支配下にあったポルトガル王国の独立(一六四〇年)を支援し、スペインのカタロニア地方では反乱が発生して仏軍を歓呼の声で迎え入れた。また八月には、アルトワ地方の中心都市アラスArrasが仏軍に降伏している。一六四二年には、コンデ親王率いる仏軍がフランドル地方からパリに向かっていたフランシスコ・ダ・メルロFrancisco da Merlot指揮のスペイン軍を撃破することにも成功した(五月一九日、ロクロワRocroiの戦い)。
こうしたフランスの勝利を支えていたのは、リシュリューによる軍制改革と軍備増強の取り組みであった。ルイ一三世治世初期のフランス軍は、フランス衛兵連隊、スイス衛兵連隊などからなる近衛軍団のほか、ナヴァール連隊やノルマンディ連隊など、一六世紀後半に起源を有する古式連隊(六個連隊)と、それを補強してアンリ四世期に創設された新規連隊(六個連隊)の三系列からなる約二万人の常備軍と、必要に応じて新しく編制される連隊や外国人の傭兵隊などの臨時軍からなり、一六二〇年代には合計約一〇万人で構成されていた。ところが、リシュリューは三十年戦争に参戦した一六三五年前後から軍備増強に乗り出し、一六四八年までに約二〇〇連隊(名目人数約二〇万人、実数は推定一二万五〇〇〇人)を擁する軍隊に発展させた。したがって、増強された大半の部分は傭兵隊などの臨時軍であると思われる。また、 一六二七年には大元帥職を廃止して、軍事行政を統括する権限を文官である陸軍担当国務卿(陸軍卿)に与え、軍隊の徴募や編制、軍需品や糧秣品の供給、軍隊の移動・冬営場所設定などが決定されるようになった。特に一六三五年以降は、軍政監察官や軍務官が各軍団に派遣されて、やがて常駐するようになっている。そして、こうした軍備増強はもちろん軍事費の増大に直結していた。一六三四年、課税台帳の見直しに着手したリシュリューは、頻繁に地方監察官を派遣して直接税の徴税体制を強化し、既存のタイユ税とその付加税以外に、軍隊糧秣税(一六三八年)・軍隊宿泊税(一六四一年)を加えた直接税を徴収し、民衆の生活を圧迫した。因みに、一六三〇年代後半までの通常収入は一〇〇〇万リーヴル台を推移していたが、一六四三年には五〇〇〇万リーヴルの大台に達している(阿河雄二郎「絶対王政成立期のフランス」図7〈一五七七~一六五三年の年間支出の変動〉参照)。また一六三七年には都市に対する御用金取り立てを開始し、一六四二年八月二二日以降は直接税の割当権・徴税権を与えられた地方監察官(司法・治安・財政監察官)が総徴税区(ジェネラリテgénéralité)に常駐する総括責任者(地方長官)として苛烈な徴税を実施した。
しかし、一六四二年一二月四日、宰相リシュリューはパリの自邸(パレ・カルディナルPalais Cardinal、後のパレ・ロワイヤルPalais Royal)で亡くなった。その少し前の一六三八年、国王夫妻には(二三年の結婚生活の末にようやく)待望の王位継承者(後のルイ一四世)が誕生したが、一六四三年四月二〇日、死を予感したルイ一三世は王族や重臣を召集し、王弟ガストンを王国総代理官とし、コンデ親王には国務会議入りを指示して王母アンヌ・ドートリッシュの摂政体制を支えるよう求めた。しかし五月一四日、ルイ一三世がパリ北西郊外のサン・ジェルマン・アン・レーSaint-Germain-en-Layeにおいて崩御(享年四一歳)すると、 後継者ルイ一四世Louis XIV(在位一六四三~一七一五)がわずか四歳の幼児であったため、フランス国内には動揺が走った。だが王母アンヌは間髪を入れず、翌日にはルイ一四世をルーヴル宮に移して、一八日、パリ高等法院の親臨法廷で事実上の即位式を挙行した。こうして彼女は摂政として国政を取り仕切り、もとは教皇庁駐仏大使だったマザラン枢機卿Jules Mazarin(一六〇二~六一)が王母の相談役と幼王の教育係として摂政を支えた。マザランは一六三九年フランスに帰化し、四一年にルイ一三世の推挙で枢機卿に就任したばかりで、リシュリューから後継者として指名されていた。それ故、彼は政策的にはリシュリューのそれを継承し、後のルイ一四世による絶対王政への地均しをしたとも言える。彼が政権運営を開始した頃のフランス財政は八五〇〇万リーヴルから一億五〇〇〇万リーヴルまで肥大し、間接税の増額などではとうてい対処できる状態ではなくなっていた。そこでマザランは、政府が租税収入を担保として富裕階級から遊休資本をひろく吸収する臨時財政措置、すなわち(1)一六世紀以来実施してきたラントrente(公債ないし長期借款)、(2)金融業者(フィナンシエ)に対して一定の前納金と引き換えに徴税権を譲渡するトレテtrait(特別収入請負)、(3)税収の前借りプレprêt(短期借款)をとる必要があった。政府のこうした措置は、借金返済のための新たな借金を積み重ねることにつながり、 財政破綻を招いた。既にリシュリュー後半期には有力フィナンシエが財務総監、財務監察官、国庫出納官、総徴税区収税官などの財政官職を手中に収めていたが、マザラン期には一六四三年に「直接税請負制」が導入されたことも手伝ってあらゆる財政活動が彼等によって独占されるようになった。その結果、フランスには慢性的な借金財政だけでなく、公私混同を当然視する財政運営、財政当局者とフィナンシエの癒着という構造的弊害が発生し、マザラン自身三七〇〇万リーヴルもの遺産を不正に蓄えた。
彼はまたハプスブルク家との対抗関係を重視し、三十年戦争への介入を続けたことでも知られる。一六四四年八月、 仏軍はドイツ南西部のフライブルクFreiburgでバイエルン選帝侯軍を主力とする神聖ローマ皇帝軍を破り、一六四八年五月にはテュレンヌ子爵Turenne率いる仏=スウェーデン連合軍がアウクスブルクAugusburg近郊のツスマルシャウゼンZusmarshausenの戦いで神聖ローマ皇帝=バイエルン連合軍を撃破することに成功した。また、 同年八月にはランスLens(アルトワ地方)の戦いでドイツ=スペイン連合軍を破り、三十年戦争におけるフランスの勝利を決定づけた。一〇月二四日、ようやく締結されたウェストファリア条約Pax Westphalica(Westfälischer Friede)は、独帝フェルディナント三世Ferdinand III(在位一六三七~五七)とフランス及びカトリック諸侯との間で結ばれたミュンスター講和条約Instrumentum Pacis Monasterienseと、独帝とスウェーデン(クリスティーナ女王Kristina、 在位一六三二~五四、グスタフ=アドルフの娘)及びプロテスタント諸侯との間で結ばれたオスナブリュック講和条約Instrumentum Pacis Osnabrugenseの総称である。この当時は国家が〈法人格〉を持つとは見なされていなかったので、講和会議には各宮廷が派遣した使節が出席する慣例となっていたが、ヨーロッパ各国から派遣された使節の総数は、ピューリタン革命(清教徒革命、一六四一~四九年)の内戦が続いていたイングランド王国、ロシア正教のモスクワ大公国、イスラーム教のオスマン帝国を除くヨーロッパ諸国とドイツ諸邦の君主が一九四名、全権委任者が一七六名であった。ミュンスターで締結された両条約の内容を総合すると、神聖ローマ帝国においてはアウクスブルク宗教和議(一五五五年)の合意事項を再確認するとともにカルヴァン派の信仰を公認することとし、約三〇〇の領邦主権国家が分立する状態となった。また、〈国家主権の不可侵性〉が確認され、オーストリア大公国からスイス、スペイン王国からネーデルラント連邦共和国がそれぞれ独立を認められた。一方、フランスはアルザス地方などライン左岸に領土を拡張し、スウェーデンも北ドイツに要地を拡大して北欧の大国にのし上がった。したがって、フランスのブルボン家はオーストリア・スペインを支配するハプスブルク家に対して優位に立つことになったのである。また、三十年戦争は王家を中心とする個別国家が主権をもって自国の利益を追求する世界を生み出したが、その結果、宗教やイデオロギーよりも〈国益〉を優先し、「力による均衡」balance of powerの観念や同盟外交を特徴とする主権国家体制(ウェストファリア体制Westphalian sovereignty)が誕生したのであった。
ところで、その後まもなく成立したイングランド共和国(一六四九~六〇
)の護国卿オリヴァー・クロムウェル Oliver Cromwell(在任一六五三~五八)は、一六五四年、第一次英蘭戦争(一六五二~五四)をウェストミンター講和条約 Westminsterに持ち込むとともに、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルとの通商条約を締結し、スペインに対する攻撃を開始した(英西戦争)。同年、ウィリアム・ペンWilliam Penn率いるイングランド艦隊はイスパニョーラ島を急襲し、翌年にはジャマイカを占領した。一六五五年、彼はフランスと和親通商条約を締結したが、五七年には軍事同盟にまで発展させ、一六五八年のフランス・スペイン戦争(仏西戦争、一六三五~五九年)では英仏連合軍が砂丘の戦いに勝利を収めてダンケルク Dunkerque占領に成功した。その結果、一六五九年一一月九日、仏西両国の間を流れるビダソア川にあるフェザント島で締結されたピレネー条約Pyrénéesで、フランスはロレーヌ公領から撤退する一方で、北部のアルトワArtoisと南部のルシヨンRoussillonを編入し、ピレネー山脈を境界とする国境が画定した。また翌六〇年六月九日にはバスク地方のサン・ジャン・ド・リュズ教会Saint-Jean-de-Luzにおいて、ルイ一四世とスペイン王女マリア・テレサMaría Teresa de Austri(マリ・テレーズ・ドートリッシュMarie Thérèse d'Autriche)の結婚式が挙行された。新婚の二人は八月二六日、パリで盛大な「国王の入市式」を行った後、郊外東方のヴァンセンヌ城Vincennesで一六六一年まで過ごしている。なお、この結婚でスペインは五〇万金エキュécuという莫大な持参金支払いを約束し、マリ・テレーズ・ドートリッシュはスペイン王位継承権を放棄している。
一方、三十年戦争の際に重税を課したことが引き金となって、フランス各地には農民暴動が発生した。リシュリュー期のフランスでは、一六二四年春のケルシー地方の農民一揆に始まり、一六三〇年にはディジョンDijon、エクス・アン・プロヴァンスAix-en-Provenceにおいて、それぞれブルゴーニュ、プロヴァンスの地方三部会が廃止されるとの噂から、監察官赴任への反対と地方特権の擁護を掲げた反王権暴動が勃発した。また一六三五年にはボルドーBordeaux、ペリグーPérigueux、アジャンAgenなど西南部の都市で居酒屋の営業税引き上げに反対する暴動が発生し、翌年にはやはり西南部アングーモア地方の農民たちが酒税増額を柱とする徴税強化に反対する一揆を起こしてアングレームAngoulêmeやコニャックCognacなどを包囲した。その後、一揆は拡大の一途をたどり、やがてポワトゥー地方やサントンジュ地方にまで広がった。翌三七年にはペリゴール地方を震源地とする農民一揆が発生し、宰相リシュリューはラ・ヴァレット公La Valetteの軍団を派遣して武装した農民二~三万人を抑えつけた。しかし、一六三八年一二月から翌年一月にかけては、ガスコーニュ地方に波及した農民一揆の勢力にマルシャックMarcillacとミランドMirandeを占拠されている。そして、 こうした民衆蜂起(クロカンの乱Révolte des Croquants)の中で最も政権を震撼させたのが、一六三九年七月一六日、バス・ノルマンディ地方のアヴランシュAvranchesで発生した塩田労働者を中心とする反塩税蜂起(ニュ・ピエNu-Piedの乱〔裸足党の乱〕)であったが、リシュリューは必死に、そして徹底的に弾圧している。
さて前述したように、一六四二年から翌年にかけて宰相リシュリューとルイ一三世が相次いで亡くなったが、一六四八年四月、新政権は財政危機を克服しようとしてポーレット法の廃止、官僚の俸給支払い停止を決めたために、今度は官職保有者等を刺激することとなった。とりわけ、ポーレット法廃止に反発した官職保有者たちは、パリのパレ・ド・ジュステスLe palais de justice において最高諸法院(高等法院・会計法院・租税法院・貨幣法院・大法院)の合同会議を開いて改革案を審議し、七月九日には地方長官制の廃止や直接税の減免、徴税請負制の廃止、高等法院の権限等を定める「聖ルイの間の宣言」を発表した。王権側はこうした要求をやむなく了承したが、マザランがパリ高等法院改革派判事ブルーセルBrousselを逮捕した(八月二六日)ことが引き金となって数百人のパリ民衆と法官たちが武装蜂起し、パリ市内には一〇〇〇箇所あまりのバリケードが築かれたという(一六四八~5三年、フロンドの乱。フロンドfrondeとは「投石あそび、 投石器」のこと )。
翌四九年一月五日の深夜から翌日にかけて、王母アンヌや宰相マザランは、まだ一〇歳の国王とともにパレ・ロワイヤルから退去してサン・ジェルマン・アン・レーへと逃れた(~八月一八日)。その時、反乱軍の中心にはコンティ公アルマン・ド・ブルボン・コンティArmand de Bourbon-Conti, prince de Contiがいたが、彼の兄コンデ親王ルイ二世Louis II de Bourbon, prince de Condé, Duc d'Enghienの軍がパリを逆包囲したため、三月には和議(リュエイユRueilの和約)が成立した。しかし、一六五〇年、自らの待遇に不満を抱いたコンデ親王は弟コンティ公や義兄ロングヴィル公Longuevilleとともに政権転覆を企てて蜂起し、 逆にマザランによって逮捕・投獄されてしまう。憤慨したコンデ親王派はブルゴーニュやノルマンディなどで再挙兵し、混乱は急速に拡大した。翌五一年二月、コンデ親王が釈放された時、身の危険を察知したマザランはドイツへと亡命し、宮廷もポワティエPoitiersに移動した。しかし、パリを制圧した反乱軍側が内部分裂を起こし、コンデ親王は九月にボルドーへ退去した。一六五二年、 コンデ親王は南西部の貴族やスペイン軍の支援を受けて再びパリをめざして進撃し、七月二日、 パリ市壁外のフォブール・サン・タントワーヌ地区Fauburug St.Antoineではテュレンヌ子爵軍とコンデ親王軍が激しい戦闘を繰り広げた。その時、故アンリ四世の三男ガストン・ドルレアンGaston d'Orléansの一人娘モンパンシエ夫人Montpensier(アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンAnne Marie Louise d'Orléans)がバスティーユ要塞の砲門を開けさせ、 コンデ親王軍がサン・タントワーヌ門から入城するのを手助けした。四日にはコンデ派貴族中心の臨時政府が成立したが、彼等はパリ市当局や市民たちと対立し、臨時政府はまもなく瓦解した。その結果、一〇月一三日、敗れたコンデ親王はオランダに逃れ、二一日にはルイ一四世と王母アンヌがパリ市民に迎えられ、ルーヴル宮に入った(~一六七一年)。翌二二日、政府は事態の掌握を宣言し、翌年末までに全国で地方監察官制を復活させた。翌五三年二月にはマザランもパリに帰還して反乱貴族を一掃し、七月にはコンデ親王派の拠点ボルドーが陥落して反乱軍はついに鎮圧された。一六五四年六月七日、ルイ一四世はランスで成聖式を挙行し、九日にはサン・レミ修道院前で瘰癧患者に触れている。また、コンデ親王は一六五四年にパリ高等法院から「死刑」の裁決を出されたが、ピレネー条約が締結された五九年には罪を赦され、フランスに帰国した。フロンドの乱は、このように極めて複雑な経過をたどるが、その担い手であったパリ高等法院を頂点とする官職保有者層、中小商工業者を中心とする民衆、そして最大の勢力を持っていた貴族層、とりわけ中小の帯剣貴族層などはことごとく敗れ去り、あらゆる権力は若き国王ルイ一四世のもとに集中していったのである。註⑩
第四節 太陽王ルイ一四世の絶対王政
(一) 王権神授説とコルベール主義
一六六一年三月九日、宰相マザランが亡くなった後、 ルイ一四世は宰相制度を廃止し、ボシュエJacques-Bénigne Bossuet(フランスのカトリック司教・神学者)の説く「王権神授説」に基づく親政政治を開始した。絶対主義時代の代表的政治理論である王権神授説は、 イングランドのフィルマーSir Robert Filmer(一五八八頃~一六五三)の『パトリアーカ(家父長論)』Patriarcha(一六八〇年)が有名であるが、 フランスではクロード・ドゥ・セーセルClaude de Seysselの『フランス王政論』La monarchie de France(一五一九年)、新教徒フランソワ・オットマンFrancois Hotmanの『フランコ・ガリア』Franco-Gallia(一五七三年)まで遡ることが出来る。しかし、特に有名なのは、ユグノー戦争の渦中にあって王権擁護と宗教的寛容を主張したポリティーク派のジャン・ボダンJean Bodin(一五三〇~九六)で、その著書『歴史認識方法論』(一五五六年)や『国家論』(一五七六年)などが知られている。時代は移り、一六五七年、王太后アンヌの前で説教したことが契機となって宮廷入りしたボシュエは、王太子ルイの教育係(一六七〇~八一年)を務めた後、一六八一年以降はモーMeaux の司教として活躍し、ガリカニスムの立場から専制政治と王権神授説を支持する発言で国王の信頼を高めた。ボシュエは『世界史叙説』(一六八五年)の中で、「国王の権威は神聖である。神は、国王を使者とし給い、国王を通じて人民を支配し給う。・・・国王の人格は神聖である。・・・王の人格は神聖であって、彼らに逆らうことは、神を汚すことに他ならない」(二宮宏之『西洋史料集成』より引用)と述べ、王権神授説を含む近代的な主権論を説いて中央集権国家体制を理論的に基礎づけた。ヴェルサイユ宮殿ヴィーナスの間に立つルイ一四世の青年像は、彼が「太陽王」と呼ばれたことを如実に表している。なお、彼が「太陽王」と呼ばれたのは、バレエで太陽神に扮したことから生まれた異名であるが、国王として絶対でありたいと願う彼の気持ちを代弁している。また、「朕は国家なり」L'etat, c'est moiという言葉は、 ルイ一四世を敬愛する啓蒙思想家ヴォルテールVoltaire(本名François-Marie Arouet、一六九四~一七七八)が『ルイ一四世の時代』に記したもので、 彼の創作と考えられている。
さて、親政を開始したルイ一四世は、国政の最高機関である最高国務会議から王太后アンヌや王族・有力貴族たちを排除し、各部門責任者に陸軍卿ミシェル・ル・テリエMichel le Tellierや外務卿ユーグ・ド・リオンヌHugues de Lionne、財務卿フーケNicolas Fouqueを充てるなど新興貴族やブルジョワ階層を登用して王権強化に努めている。ルイ一四世期の最高国務会議の出席者は三~五名程度に限られており、ながい治世を通しても計一七名と少数で、そのうち伝統的な帯剣貴族はルイ一四世の養育係を務めたヴィルロワ侯父子Villeroyなど三名に過ぎない。「三人組」に代表される新しい行政官僚集団は、 財務総監・国務卿・国務評定官という中央政府の要職者、地方行政の中心である「地方長官」(一七世紀半ば以降、地方監察官=アンタンダンintendantを地方長官と呼ぶ)、それらの輩出母体である訴願審査官などによって構成されていたが、多くはブルジョワから法服貴族へと社会的上昇をとげた家柄に属していた。ルイ一四世は彼等が作り上げた人脈関係の頂点に立ちながら、私的な絆を国王や国家に対する〈奉仕の観念〉と結びつけたのである。また、法服貴族や官職保有層に対しては、国王のみが〈主権〉を有するという理由で最高諸院の「最高」という呼称をやめさせて「上級」への変更を強制した後、二度(一六六七年・一六七三年)にわたって王令を発して上級諸院の建言権を奪い、彼等の抵抗能力を弱めている。そして、中世以来の自生的な社会集団であった帯剣貴族は、王権が実施した「貴族改め」(一六六四~六九、九一~九四年)によって身分を承認され、特権を付与される法的集団へと変質し、その勢力は大きく後退していった。
一方、地方行政では、ルイ一三世期から継承してきた地方監察官制を「地方長官」制に発展させ、 地方総督や地方三部会、自治都市などの権限を削減して当該地方の司法・財政・治安維持の権限を地方長官に与えた。また、従来の官職保有者が王権から相対的に自立した世襲官職であったのに対して、親任官僚(コミッセールcommissaire)である地方長官は委任権限を持つ臨時官という性格を持ち、上位監督権を行使するとともに、状況の変化に敏速に対応できるという利点もあった(一七一五年現在、 全国は三一の地方長官区に分かれていた)。そしてルイ一四世は、地方の事情に精通した名望家、とりわけ官職保有者を地方長官補佐subdéléguéに登用するなどきめ細かな配慮をしており、やがて国王による直接統治が浸透していった。しかし、「絶対王政」とは言っても、そこには限界があった。何故なら、ヨーロッパ近世国家の特徴として、国王権力と人民の間には「中間団体」が介在していたからである。中間団体の起源は中世以来の聖職者・貴族・平民の三身分全体に存在し、毛織物商人・肉屋などの都市ギルドや官職保有者などの職能団体、都市や州などを単位とする地縁的団体、農村共同体などが幅広く存在していた。国王はこれら中間団体に特権を与えてそれぞれに自立性を認め、その代わりに課税その他の義務を課したのである。例えば、 聖職者は定期的に聖職者会議を開催することができる代わりに上納金を納付した。また、ブルターニュなどの辺境の州では地方三部会を開催して自主的に課税額を決定し、農民たちは住民集会を開催して村長を選出して課税額を配分する権利を有していた。こうしてみると、当時のフランスは歴史的な自由や特権を享受する中間団体が層をなす「社団国家」の典型であったと言えよう。但し、ユダヤ人や異端者、浮浪者らは相変わらず「中間団体」からも排除されていた。
ところで、ルイ一四世が親政を開始して間もない一六六一年、死去したマザランの下で不正に蓄財を重ねていた財務卿ニコラ・フーケ(一六一五~八〇)が逮捕・投獄されて失脚した(一六六一年、財務卿職廃止)。その結果、 財務長官(財務のみ担当)となったのがライバルのコルベールJean-Baptiste Colbert(一六一九~八三)で、フーケがピネローロ要塞Pinerolo(ピエモンテ地方)に送られた一六六五年には財務総監(財務・財政担当)に任命された。コルベールは積年の戦費とフロンドの乱により破綻しかけていた国家財政の再建に着手し、一六六一年一一月、特別裁判所を設置して財務行政に関わったフィナンシエの不正を一六三五年まで遡って摘発するとともに、徴税請負制の合理化によって間接税収入を一六六一年の五二〇万リーヴルから一六八五年の二二〇〇万リーヴルへと引き上げた。また、一六六四年にはパリ周辺の五大徴税請負制領域内における関税が廃止され、一六八一年以降は全ての間接税を一括して引き受ける特定請負人と契約を結ぶ方式(この方式は一七二六年以降の「総括徴税請負制」ferme généraleに発展する)に変更し、さらには間接税増収を実現した。その結果、貧農を苦しめ続けてきたタイユ税の割当額の軽減をもたらし、 一六六一年の四二〇〇万リーヴルから一六六二~七二年平均三五五〇万リーヴルへと引き下げられた。しかし、一六七二年以降はオランダ侵略戦争(一六七二~七八年)、 プファルツ継承戦争(一六八八~九七年)、スペイン継承戦争(一七〇一~一三年)と続く戦争が国家財政の均衡を再び崩してしまう。例えば、 コルベールが亡くなる一六八三年は戦間期に相当するが、その年の軍事関係費総額六五〇〇万リーヴル(陸軍四五〇〇万リーヴル、海軍一一〇〇万リーブル、要塞の建設・補修費九〇〇万リーヴル)は歳費全体の五六・五%を占めているが、当然、戦争が行われていた年には歳費の七割をこえていたこともあり、 債務返済金は雪だるま式に膨れあがった。
話をもとに戻すと、コルベールは国内産業を保護・育成して輸出を奨励する一方で、保護関税を設けて輸入制限を図る重商主義(貿易差額主義)を推進したことで知られる。後に「コルベール主義」Colbertismeと称される彼の経済政策の特徴は、パリのゴブラン工場を始めとする王立マニュファクチュアの設立や外国人技術者の招聘、国内の道路整備や運河開拓、タペストリー・ガラス・織物・陶磁器などの産業育成と輸出振興にあり、これらはいずれも財政再建に大きく貢献した。また、一六六九年に海軍卿に就任したコルベールは、先行するオランダ・イングランドの海外市場に割り込もうとして、東インド会社Compagnie française des Indes orientales(一六六四年)や西インド会社Compagnie française des Indes occidentales(一六六四年)、レヴァント貿易を行うルヴァン会社Compagnie du Levant(一六七〇年)、西アフリカ貿易に携わるセネガル会社Compagnie du Sénégal(一六七三年)などの勅許会社を相次いで新設ないし再設立し、 市場開拓や植民政策を積極的に実行した。因みに東インド会社の資本金は一五〇〇万リーヴルで、国王・王族が四五%、宮廷貴族・国王役人が一六・五%、貿易商人が一六%、フィナンシエが八・五%を出資していた。南アジアではインド植民の拠点となるポンディシェリPondichéry(一六七三年)、シャンデルナゴルChandernagor(一六八九年)が建設され、北アメリカではヌーベル・フランスやアンティル諸島Antillesに総督が派遣された。また一六八二年には、ルイジアナ植民地 Louisianeを建設している。
ところで、陸軍卿ミシェル・ル・テリエの息子フランソワ=ミシェル・ル・テリエFrançois-Michel le Tellier(ルーヴォワ侯Marquis de Louvois)は、一六六六年、父辞任後の陸軍卿となり、軍制改革に乗り出した。従来は、陸軍の基本単位である連隊自体が、最高指揮官であるはずの国王に対して強い独立性を持っていた。その原因は、連隊長・中隊長職などの士官ポストが売官職であったために地方の有力貴族に独占され、また兵士の募集・雇用も連隊長が中央政府から請け負う形で実施したためである。そこでルーヴォア侯は国王直属の官僚(中央では陸軍卿、地方では地方長官や軍政監察官)による統制を強化し、(名誉職の連隊長や中隊長とならんで)国王直属の士官に実際上の指揮を執らせた。当時の陸軍の兵員数は、南ネーデルラント継承戦争(一六六七~六八年)時は名目一三万四〇〇〇人であったが、オランダ侵略戦争(一六七二~七八年)の時には名目二七万九六〇〇人(推定実数二五万三〇〇〇人)に増加している。また、プファルツ継承戦争(一六八八~九七年)が勃発した一六八八年一一月には従来の志願兵制から各教区から強制的に兵士を出させる「国王民兵制」に変更し、兵員の増加を図った。その結果、国王民兵を加えたフランス歩兵(砲兵も含む)は名目四二万人(推定実数三四万人)に増大し、これに騎兵、海兵などを加えるとフランス軍は総計約六〇万人の規模を誇るに至った(但し、 逃亡兵や水増し報告などにより少なくとも一五~二〇%の目減りが推定されている)。こうして質量ともに増強されたフランス陸軍は、 多くの侵略戦争を支えることになった。註⑪
(二) ルイ一四世の侵略戦争
1 南ネーデルラント継承戦争とオランダ侵略戦争
一六五八年、フランスはハプスブルク家(神聖ローマ帝国、スペイン王国)に対抗してドイツ諸邦と「ライン同盟」(~一六六八年)を結成し、一六六〇年には英蘭両国とともにバルト海支配をめぐるスウェーデン、ポーランド、デンマークの争いを調停して北欧諸国への影響力を確保していた(オリヴァOlivaの和約)。ルイ一四世が親政を開始した頃のイングランドでは、彼の従兄にあたるイングランド王チャールズ二世Charles II(在位一六六〇~八五)が亡命先のオランダから凱旋して王政復古(一六六〇年)を実現したばかりで、翌年には王弟オルレアン公フィリップPhilippe d'Orléans(一六四〇~一七〇一)とチャールズ二世の妹アンリエットHenriette d'Angleterreの婚姻を成立させ、 六二年にはオランダとの同盟も締結した。ところが、英仏両国の平和的な関係はまもなく破綻する。
一六六五年九月、ルイ一四世の義父に当たる西王フェリペ四世Felipe IV(在位一六二一~六五)が身罷り、その二度目の妃マリアナ・デ・アウストリアMariana de Austriaが産んだ王太子カルロスが即位してカルロス二世Carlos II(在位一六六五~一七〇〇)となった。ところが、フェリペ四世の遺言書には、新国王カルロス二世が死去した場合は神聖ローマ皇帝レオポルト一世Leopold I(在位一六五八~一七〇五)の婚約者マルガリータ・テレサMargarita Teresa de España(仏王妃マリ・テレーズ・ドートリッシの妹)がスペイン領を相続することと書かれていた。この事実を知ったルイ一四世は、王妃の持参金未納も手伝って反ハプスブルク感情を大いに刺激された。そこで彼は、西領ネーデルラントに属すブラバン地方(ブラバントBrabant)はカルロス二世の異母姉(仏王妃)が継承すべきである主張し、スペインに割譲を要求した。こうして勃発した南ネーデルラント継承戦争(一六六七~六八年、フランドル戦争・遺産帰属戦争)は、 ルイ一四世率いる仏軍が圧倒し、スペイン軍は後退を余儀なくされた。危機感を抱いたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)のヨハン・デ・ウィットJohan de Witt(議会派)は、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルSir William Templeと交渉してオランダ、イングランド、スウェーデンの「三国同盟」(一六六八年)を結成してフランスに対抗した。そこでルイ一四世はやむなく一六六八年、アーヘンAachen(エクス・ラ・シャペルAix-la-Chapelle)の和約を結び、西=ハプスブルク家からフランドル地方の軍事拠点一二カ所を奪うことには成功したが、戦争中に占領したフランシュ=コンテ地方Franche-Comté(中世のブルゴーニュ伯領にほぼ対応する地域)の返還を余儀なくされた。
しかし、三国同盟も長続きはしなかった。その当時、イングランド王国ステュアート復古王朝(一六六〇~一七一四年)は、共和制政府時代(一六四九~六〇年)に制定した航海法(一六五一年)が原因で英蘭戦争(一六五二~五四、六五~六七、七二~七四年)を戦っており、第二次英蘭戦争で勝利を収めたイングランドはオランダからニューアムステルダムNieuw Amsterdam(後のニューヨーク New York )を獲得している。その後、チャールズ二世は、ピューリタン革命の成果を骨抜きにしようと画策して議会と対立し、一六七〇年六月一日には独断でルイ一四世との間にドーヴァー密約Secret Treaty of Doverを交わした。この英仏間の密約で、イングランドはフランスからの資金援助を受ける代わりに、国内のカトリック勢力の保護と仏軍への協力を約束している。
こうして英蘭間の蜜月が短期間で終了した頃、ルイ一四世はスウェーデンにも接近した。しかし、スウェーデンの参戦は、オランダと結んだデンマークやブランデンブルク=プロイセン同君連合の参戦にもつながった。一六七二年、海上からイングランド軍が、陸上からは仏軍がオランダに攻め寄り、オランダ侵略戦争(一六七二~七八年)と第三次英蘭戦争(一六七二~七四年)がほぼ同時に勃発した。デ・ロイテルMichiel de Ruyter(本名Michiel Adriaenszoon)率いるオランダ海軍は頑強に抵抗したが、陸軍が弱体であったため、仏軍は容易にアムステルダムAmsterdamに迫ることができた。講和を模索したヨハン・デ・ウィットは兄コルネリス・デ・ウィットCornelis de Wittとともに民衆によって殺害され、古くからの大貴族であった総督派のオラニエ公ウィレムWillem III van Oranje-Nassau(ナッサウ伯在位一六五〇~一七〇二、オランダ総督在職一六七二~一七〇二)が権力を掌握した。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めるなど徹底抗戦の構えを示し、海軍もイングランド海軍を撃破することに成功した。こうして仏軍のアムステルダム攻略が見通しの立たなくなった頃、神聖ローマ皇帝レオポルト一世やドイツ諸侯の一部、スペインがオランダと同盟関係を結んだ。また、イングランド議会では、チャールズ二世の専制政治に抵抗して審査法(一六七三~一八二八年)が制定され、七四年にはオランダと講和を結んで戦争から撤退した。オラニエ公はさらにイングランドに接近し、一六七七年にはロンドンで王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ二世)の娘メアリMaryと結婚までしている。事態の急変に驚いたルイ一四世はオランダから軍を引き揚げることになったが、フランシュ・コンテでは皇帝軍やスペイン軍を破ることに成功し、 やがてオランダ軍を撃破して仏軍優位のうちに講和に持ち込むことが出来た。フランスは一六七八年、ナイメーヘン条約Nijmegenで、ハプスブルク家から(南ネーデルラント継承戦争で奪うことのできなかった)フランシュ・コンテ地方とフランドル地方の都市を獲得したが、神聖ローマ皇帝との講和では一六七〇年段階の状態に戻されてしまった。そこで、講和内容に満足できなかったルイ一四世は、一六八一年、
アルザス地方のストラスブール Strasbourgを占領した。また、二年後の一六八三年には、神聖ローマ皇帝レオポルト一世がオスマン帝国の第二次ウィーン包囲に苦しむのを脇に見ながらスペインとの戦端を開き、一六八四年、ドイツのレーゲンスブルクRegensburgで締結されたラティスボン条約 Ratisbonでルクセンブルクを獲得している。しかし、フランスの「統合政策」は周辺諸国の警戒心を呼び起こし、一六八六年、オランダ、スペイン、神聖ローマ皇帝、スウェーデン、ドイツ諸侯からなる「アウクスブルク同盟」Alliance of Augusburgが結成された。註⑫
2 プファルツ継承戦争とスペイン継承戦争
さて、一六八五年、ドイツ南西部のプファルツ選帝侯カール二世Karl IIが亡くなった時、彼には嫡子がなかったためにプファルツ=ジンメルン家Pfalz-Simmernの直系が途絶え、選帝侯位は遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムPhilipp Wilhelmが継承することになった。しかし、ルイ一四世は弟オルレアン公フィリップとカール二世の妹エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールÉlisabeth Charlotte de Bavièreの結婚を口実にして弟の相続権を主張し、一六八八年には仏軍を派兵してプファルツ継承戦争(一六八八~九七年、ファルツ継承戦争・アウクスブルク同盟戦争)に突入した。ところで当時のイングランドでは、ジェームズ二世James II(在位一六八五~八八)が相次いで「信仰自由宣言」(一六八七年、一六八八年)を発してカトリック信仰復活を図り、トーリ党(後の保守党)やホイッグ党(後の自由党)と呼ばれた議会勢力と厳しく対立していた。そして、彼にとってもう一つの頭痛の種は、次期国王に予定されていた長女メアリがプロテスタントで、審査法撤廃の意思がないと明言していたことであった。ところが六月一〇日、王妃メアリ・オヴ・モデナMary of Modenaが男子を出産したことでジェームズ二世の後もカトリックの君主を戴く可能性が高くなり、同月三〇日、危機感を抱いたホイッグ貴族等はオランダのオラニエ公ウィレムに宛てて招請状を発送した。その結果、一一月五日、オラニエ公率いるオランダ軍がイングランド南西部のトーベイTorbayに上陸し、国軍の支持を失っていたジェームズ二
世は一一月中の国外脱出に失敗した後、翌月一八日にはロンドンを出てフランスへと逃亡した。ロンドン入りしたオラニエ公は、翌年一月二二日、仮議会を招集したが、その議会はオラニエ公とメアリに共同王位を認めることで合意に達し、新国王が守るべき規範として一三項目にまとめた「権利宣言」を発表した。ウィリアム三世William III(在位一六八九~一七〇二)とメアリ二世Mary II (在位一六八九
~九四)が即位した直後(二月二三日)、仮議会を正式の議会とする法律が制定され、同年一二月一六日には権利宣言を「権利章典」として立法化した。
イングランドにおける名誉革命(一六八八~八九年)の動向に驚いたルイ一四世は、オランダ議会にジェームズ二世追討の遠征軍を派遣しないよう要請したが受け入れられず、オランダに対する宣戦布告を発した。一六八九年二月一五日、ジェームズ二世はルイ一四世から提供された仏軍を率いてアイルランドへと出発し、三月一二日、アイルランド南東部のキンセールKinsaleに上陸して、一二日後にはダブリン城Dublinに入った。その後、仏=アイルランド連合軍は東北部のアルスター地方に侵攻し、プロテスタントが立て籠もるロンドンデリーLondonderryを包囲したが、夏以降は戦線膠着状態に入った。一六九〇年六月、ウィリアム三世は三万の軍勢を率いてカリクファーガスCarrickfergusに上陸し、七月一日、レンスター地方のボイン川Boyne流域における戦闘ではイングランドに勝利をもたらした。ジェームズ二世は再びフランスへと逃れ、アイルランドは翌年一〇月に結ばれたリメリック条約Limerickで抵抗の術を失った。その間、ウィリアム三世は一六八九年五月にオーストリア、オランダとの間で対仏同盟を結び、一二月にはイングランド、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国、ブランデンブルク、ザクセン、バイエルン、サヴォイア、スウェーデンからなる「アウクスブルク同盟」に発展させてフランス包囲網をより強固にした。しかし、神聖ローマ帝国がオスマン帝国との戦いに力を削がれていたために、仏軍は南ネーデルラントのフルーリュスFleurusの戦い(一六九〇年)でオランダ軍を撃破し、ナミュールNamur占領に成功した。このようにフランス軍は、緒戦こそ勝利を収めていた。しかし、一六九二年、英仏海峡のラ・ウーグla-Hougueの海戦において英蘭連合軍に敗れ、大陸における戦況も一進一退を続けることとなった。そして、双方とも決定的勝利を得られないまま、戦争は九年間にも及んだのである。その間、フランスでは大飢饉(一六九三~九五年)が猛威を振るい、戦争の長期化は国家財政に過重な負担を強いた。外交交渉を続けていた英仏両国は、一六九七年九月、ライスワイク条約Ryswickを結び、フランスは(1)一六七〇年より占領して来たロレーヌの大部分を返還する、(2)ナイメーヘン条約以降に獲得した領土を(ストラスブールを除いて)返還する、(3)オランダの守備兵が西領ネーデルラントの要塞に駐屯することを許可する、(4)イングランド王ウィリアム三世の王位を承認することを承認した。なお、この条約文はフランス語で作成されており、以後、フランス語が欧州外交の共通言語となった。
しかし、プファルツ継承戦争が終結しても、ヨーロッパは次期スペイン国王の座をめぐって緊張が続いていた。ルイ一四世(ブルボン家)と神聖ローマ皇帝レオポルト一世(墺=ハプスブルク家)は、ともにスペイン王室と緊密な血縁関係にあり、王位継承権をめぐる争いを展開していたからである。ルイ一四世は西王フェリペ三世Felipe III(在位一五九八~一六二一)の王女アンヌ・ドートリッシュの息子であり、 フェリペ四世Felipe IV(在位一六二一~六五)の王女マリー・テレーズ・ドートリッシュの夫であった。一方、レオポルト一世もまた西王フェリペ三世の次女マリア・アナ・デ・アウストリアMaría Ana de Austriaの子であり、三度目の皇后エレオノーレ・マグダレーネ・テレーゼ・フォン・プファルツ=ノイブルクEleonore Magdalene Therese von Pfalz-Neuburgの妹マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ=ノイブルクMaria Anna von der Pfalz-Neuburgは西王カルロス二世の二度目の王妃である。フランス側のスペイン王位継承候補者は王太子ルイであったが、ルイ一四世は仏西合邦を諸外国が承認する環境にないことから王太子の次男アンジュー公フィリップを推し、レオポルト一世も次男のカール(後の神聖ローマ皇帝カール六世)を推薦していた。一方、スペインは仏=ブルボン家や墺=ハプスブルク家の直系親族を避け、バイエルン選帝侯マクシミリアン二世エマヌエルMaximilian II Emanuelに嫁いでいたマリア・アントニアMaria Antonia von Österreich(レオポルト一世とその最初の皇妃マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャMargarita Teresa de Españaの娘)の公子ヨーゼフ・フェルディナントFerdinand Leopold von Bayern (一六九二~九九)を王位継承者として望んでいた。そこでルイ一四世は密かにイングランド王ウィリアム三世に接近し、第一次スペイン分割条約(一六九八年一〇月一一日)で、ヨーゼフ・フェルディナントの王位継承を承認する代わりに、王太子ルイがスペイン領のシチリア、ナポリ、トスカーナ沿岸諸都市を、カール大公はミラノをそれぞれ獲得し、イングランドには貿易上の利権を与えることで合意に達した。しかし、西王カルロス二世はスペイン分割に強く抵抗し、スペイン王位と全領地をヨーゼフ・フェルディナントに相続させるための遺言書を作成した。ところが一六九九年二月六日、ヨーゼフ・フェルディナントがわずか六歳で早世したため、英仏両国はカール大公のスペイン王位継承と南ネーデルラント、海外植民地の継承を認める代わりに、王太子ルイはミラノを獲得すると決めた(一七〇〇年三月二五日、第二次スペイン分割条約)が、レオポルト一世はこの条約内容に反対した。
死の床にあった西王カルロス二世は、同年一〇月七日、今度はスペイン領不分割を条件にアンジュー公フィリップを王位継承者に指名する遺言書に署名し、アンジュー公もしくはその弟ベリー公シャルルCharles de France(一六八六~一七一四)が王位継承を拒否する場合はカール大公に相続させるとした。そして一一月一日、カルロス2世はついに身罷り、スペイン王位とスペインの全領土がすべてアンジュー公フィリップに譲られた。そこで、英仏両国は再び緊張関係に入った。一七〇一年八月、ウィリアム三世はイングランド、オーストリア、オランダを中心とする対仏同盟(「ハーグ同盟」Haag)を再結成したが、ルイ一四世はフランスに亡命していたジェームズ二世が亡くなる(九月一六日)と、すぐにその息子を正式のイングランド王「ジェームズ三世」James Francis Edward Stuartと宣言してイングランドとの外交関係を絶った。これは、同年六月にイングランド国内で「王位継承法」が成立し、次の国王と目されていたアン(ジェームズ二世の次女)の跡を継ぐ将来の国王予定者としてドイツのハノーファー選帝侯妃ソフィアSophiaが指名されてプロテスタントによる王位継承を決定したことへの対抗措置であった。また、神聖ローマ皇帝レオポルト一世は、西王フェリペ五世Felipe V(西=ボルボン家Borbón、在位一七〇〇~二四、二四~四六)の即位を認めず、カール大公の王位継承を一方的に宣言した。こうして一七〇一年、オーストリア軍が北イタリアに侵攻し、スペイン継承戦争(一七〇一~一三年)の戦端が開かれたのである。翌〇二年三月八日、今度はウィリアム三世が逝去し、跡を継いだアン女王Anne Stuart(在位一七〇二~〇七
)は同年五月にフランスに対する宣戦布告を発している。
仏西連合軍は、(仏軍が名目三八万人〔推定実数二五万五〇〇〇人〕と微減しているものの)バイエルン、ポルトガル、サヴォイアの支援を受けたために、兵力的には対仏同盟軍よりも優っていた。しかし、 一七〇三年、同盟軍はイベリア半島への進撃を果たし、 一七〇五年には一時的にバルセロナ占領にも成功してカタルーニャやバレンシアを支配下に置いた。その間、ドナウ河畔で戦われたブレンハイムBlenheimの戦い(一七〇四年八月一三日)でも仏=バイエルン連合軍がイングランド=オーストリア同盟軍に敗れた。その結果、バイエルンは実質的に戦線離脱したし、 ポルトガルとサヴォイアが対仏同盟側に寝返ったため、その後の仏西連合軍はもっぱら守勢にまわるようになった。勢いづいたイングランド海軍はジブラルタル(一七〇四年)、サルデーニャ、ミノルカ島(一七〇八年)を占領した。英仏両国の対立は新大陸にも飛び火し、アン女王戦争(一七〇二~一三年)ではアカディアAcadieをイングランド軍に占領された。しかし、戦争の長期化は同盟国側にもダメージを与え、レオポルト一世の跡を継いだ神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世Joseph I(在位一七〇五~一一)が一七一一年に亡くなると、カール大公がカール六世Karl VI(在位一七一一~四〇)として帝位を継承し、和平の気運が急速に高まった。
一七一三年四月一一日、ようやくユトレヒト条約Utrechtで講和が成立し、(1)フェリペ五世には、 (仏西合邦をしないことを条件に)スペイン王位継承とアメリカ植民地の領有を認める。(2)フランスは、「ジェームズ三世」を追放し、以後イングランド王位継承に介入しない。(3)イングランドはフランスからアカディアとニューファンドランドNewfoundland、ハドソン湾を、スペインからジブラルタルとミノルカ島を獲得する。(4)フランスは、ルイ一四世の治世に獲得した領土を保持する。(5)イングランドは三〇年間という期限付きで西領アメリカ植民地へのアフリカ黒人奴隷の独占的供給権(アシエントasiento)を獲得する、などが決められた。また翌一四年三月六日には、ルイ一四世と神聖ローマ皇帝カール6世との間でラシュタット条約Rastattが結ばれ、オーストリアはシチリアを除くミラノ、ナポリ、サルデーニャなど西領イタリアと西領ネーデルラントを獲得した。なお、フランスと(プロイセンを除く)神聖ローマ帝国全体とのバーデン条約Baden(九月七日)は別途に締結され、一〇年以上に及んだスペイン継承戦争はついに終結した。註⑬
(三) ルイ一四世の宗教政策
ルイ一四世の宗教政策は、王権の正統性の根拠を王権神授説に求め、教会組織を利用した統治を行ったことから、いきおい徹底した〈統制〉を目指すことになった。彼にとっては国家の正統信仰であるカトリックを守り異端を排除することは当然のことであり、伝統的なガリカニスム(フランス国家教会主義)Gallicanismeを強化するためには教皇権の干渉を排除することも不可避のことであった。ルイ一四世が即位した当時、フランス国内ではジャンセニスム派Jansenismeとイエズス会Societas Iesu(一五三四年創設)とが約三〇年間にわたって神学・道徳論争を繰り広げていた。そしてその一方では、カトリック教会と対立するユグノー派Huguenot(フランス改革派教会Eglise Réformée de France)が、一六二九年の「アレス王令」Alèsによって武装権を剥奪されながらも辛うじて勢力を維持していた。そこでルイ一四世は、 これら二つの問題を解決し、カトリック教とガリカニスムの関係に折り合いをつけようと考えたと思われる。
まず初めにジャンセニスムであるが、その起源は神の恩寵の意味の絶対化と人間の非力さを強調した一六世期の神学者ミシェル・バイウスMichael Baius(一五一三~八九)に遡ると言われ、彼の考えにはカルヴァン主義の影響が認められる。その後、アウグスティヌスの恩寵論をもとに人間の自由意志の無力さ、 罪深さを説いたイープル司教コルネリウス・ヤンセンCornelius Jansen(一五八五~一六三八)の遺著『アウグスティヌス』《Augustinus;humanae naturae sanitate》(一六四〇年)が出版された。しかし、この大著はアウグスティヌスや聖パウロの引用や注釈で埋め尽くされており、 (ましてやラテン語で書かれていたために)直ちに評判になることはなかった。ところが、パリの南西二八キロに位置するシュヴルーズ谷Chevreuseに建てられたポール・ロワイヤル修道院Port-Royal-des-Champs(シトー会女子修道院)の教導者サン=シランSaint-Cyran(一五八一~一六四三、本名Jean Duvergier de Hauranne)が「宰相リシュリューの政治はキリスト教の教えに反する」と厳しく批判してヴァンセンヌ城Vincennesの牢獄に収監(一六三八~四三年)されたことで、かえって隠修士たちの関心を呼んだと言われている。そして、ポール・ロワイヤル修道院長アンジェリーク・アルノーAngélique Arnauldの兄アントアーヌ・アルノーAntoine rnauld(一六一二~九四)が『頻繁なる聖体拝領について』《De la Frequente Communion》(一六四三年)という小論を発表し、極めて重要な宗教的行為である聖体拝領を週に何度も行うべきでないと指摘したことが論争の引き金となった。人間の原罪の重大性と恩寵の必要性を強調するジャンセニストは、聖体拝領に際しての準備と祈りを重視したのである。
それに対してイエズス会は、「もしわれわれに恩寵があれば、どんな生活をしていても救われるのだから、われわれの生き方が問題でなくなる恐れがある」と考え、ジャンセニストの主張は自由思想家(リベルタンlibertin)に与するものだと批判した。一方、ジャンセニスム派は「日常の善行に応じて永遠の生が取引されるわけではない」と再反論している。そして、ジャンセニストの敬虔で個人主義的な信仰や宗教的行為から生ずる「価値回復」の観念は、 ブルジョワ層が多数を占めつつあった高等法院の支持を集めていった。一方、 イエズス会を支持したのは(当然のことながら)教皇庁やパリ大学、フランス王権であり、 教皇インノケンティウス一〇世Innocentius X(在位一六四四~五五)は一六五三年の教皇勅書「クム・オッカジオーネ」において『アウグスティヌス』の中から抜き出した〈五つの命題〉(例えば「(五)キリストはすべての人のために死なれ、あるいは血を流し給うた、という主張は半ペラギウス的である」など)を使用してジャンセニスムを異端ととして断罪した。
ところで、「人間は考える葦である」(『パンセ』 Pensee)という言葉で知られる近代物理学の先駆者パスカルBlaise Pascal(一六二三~六二)もジャンセニストである。彼は、妹ジャクリーヌが一六五二年にポール・ロワイヤル修道院の修道女となった後、自分でも一六五五年一月七日に隠修士となっている。しかし、翌年三月二四日、同修道院礼拝堂で起きた奇蹟(姪のマルグリット・ペリエが、キリスト像に載せられていた茨の冠に触れて眼病が治ったこと)が、ジャンセニストとしての確信をもたらしたと言われる。しかし一六六〇年、教皇アレクサンデル七世Alexander VII(在位一六五五~六七〉はパスカルの『田舎の友への手紙』《Les Provinciales》(一六五六年)を発禁処分とした。ルイ一四世はローマ教皇によるジャンセニスム迫害を利用して統制強化に努め、一六七九年五月一六日、聴罪神父、学生、修練女ら約四〇人をポール・ロワイヤル修道院から追放した。そこで身の危険を感じたアントアーヌ・アルノーは、西領ネーデルラントへと亡命している。その後、一八世紀に入ると、ジャンセニスムは新しい展開を見せる。一六世期にフィリッポ・ロモロ・ネリFilippo Romolo Neri(一五一五~九五)が創設したオラトリオ会oratorio(キリストへの愛徳によって結ばれた司祭と信徒の共同体)に属していたパスキエ・ケネルPasquier Quesnel(16三四~一七一九)が、ジャンセニスムをガリカニスムと結びつけたからである。ルイ一四世は一七〇九年、
ポール・ロワイヤル修道院の取り壊しを命じ、一三年には教皇クレメンス一一世Clemens XI(在位一七〇〇~二一)からジャンセニスムを断罪する教皇勅書「ウニゲニトゥス=デ=フィリウス」を引きだすことに成功したが、この教書の受け入れを拒否したパリ大司教ノアイユ枢機卿Noaillesら一五名の司教、ジャンセニスムに心理的同調を示す高等法院らの反対が続いた。そして、ルイ一四世は国民宗教会議の召集を一七一五年九月に予定していたが、自身の死によって開催できなかった(この計画は摂政のオルレアン公フィリップによって廃棄された)。また、国王の死とともに、バスティーユに収監されていた数百人のジャンセニストが解放され、代わりにイエズス会士が投獄されている。
次にユグノー派の問題であるが、宰相リシュリューの時代、彼等に対する迫害は三十年戦争という外交上の理由によって和らいでいた。当時は、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸派やスウェーデン王国との同盟関係を維持するために、国内のユグノー派(カトリック教会は「偽改革派」RPR:Religion Prétendue Réforméeと呼んでいた)を敵に回すことは得策ではないと判断していたのである。しかし、一六四二~四三年にリシュリュー、ルイ一三世が相次いで亡くなると、ユグノー派を取り巻く環境は大きく変化した。宰相マザランは、イングランドとの和親通商及び軍事同盟(一六五五年、一六五七年)を締結した後に対ユグノー派政策を転換し、厳しい姿勢で臨むようになった。彼は一六五九年、ルーダンLoudunで開かれたユグノー派の全国教会会議を最後に全国会議開催を許可しないばかりか、外国人牧師(特にジュネーヴからの牧師)の招聘を禁じ、「ナントの勅令」に記されていない事項をすべて禁じたのである。
そしてルイ一四世が親政を開始した一六六一年以降は、「国家の統一には宗教の統一が不可欠である」との信念から、ユグノー派への迫害を強化した。一六八二年二月三日に開催された聖職者会議ではボシュエ起草の「フランス聖職者宣言」四ヵ条(三月一九日公布)が発表され、公会議至上主義やガリカン派Gallicanの独立などが謳われたが、この前後からルイ一四世の宗教政策に変化が見られた。すなわち、従来のガリカニスム擁護から〈カトリック教会の守護者〉へと姿勢を転換し、教皇庁との結びつきを重視する姿勢に舵を切ったのである。具体的には大法官ル・テリエFrançois-Michel le Tellier、陸軍卿ルーヴォワLouvois父子の指揮の下、ユグノー派の家に竜騎兵dragoon(ドラグーン・マスケット〔小型のマスケット銃〕やカービン銃などで武装した騎兵)を宿泊させ、カトリックへ改宗を強制し始めた。ドラゴナードDragonard(竜騎兵による迫害)は熾烈を極め、ユグノー派の多くは家具やワイン、さらには娘への暴行という恐怖心から改宗を余儀なくされ、新教国への亡命者も続出した。彼等は大西洋沿岸の港から脱出し、プロテスタント諸国はその受け入れに大童となった。一六八五年五月に開始された第二次ドラゴナードでは、スペイン国境に近いベアルンBéarnからラングドックLanguedoc、ローヌ川流域、サントンジュ Saintongeへと拡大し、改革派教会の組織はほぼ壊滅状態に陥った。同年一〇月一八日、ルイ一四世は「フォンテーヌブロー王令」Édit de Fontainebleauを発することで「ナントの勅令」を破棄し、二二日にはパリ高等法院により承認された。主要条文の内容は次のとおりである(『西洋史料集成』四一六~四一七頁引用)。
第一条 余は、永遠にして廃棄されることのない本勅令により、一五九八年四月ナントにおいて発せら
れた、余の祖父たる王の勅令をすべての項目にわたり、また同時に、翌五月二日決定せられたる特別勅令及びそれに関する国王勅書、ならびに、一六二九年七月ニームにおいて発せられたる勅令を無効として廃棄する。(中略)それに伴い余は、余に服する王国内に存するすべての改革派教会堂は、直ちに壊さるべきことを命ずる。
第二条 余は、改革派宗教に属する余の臣民が、いかなる場所または個人の住居におけるを問わず、また、
いかなる口実にもとづくによらず、改革派宗教の礼拝のために集会することは、これを認めない。
第四条 改革派牧師にして、ローマ・カトリック教に改宗することを望まぬものはすべて、本勅令公布後二週間以内に、余に服する王国より退去すべし。なおその間、説教、訓戒、その他の職務は、一切これを行うことを得ず。これに反するものは、ガリー船の刑に処せらるべし。
第八条 改革派信徒の子女については、爾後教区の司祭によって洗礼さるべきことを命ずる。
第一〇条 改革派宗教に属するすべての余の臣民、及びその妻子の、余に服する王国より出国すること、 またその資産を国外に搬出することは、これを絶対に禁止する。これに反するものは男子はガリー船の刑、女子は身柄拘束、財産没収の処分を受くべし。註⑭
フォンテーヌブロー王令が発せられた後、国境線と港の厳重な警戒網をかいくぐって国外に脱出したユグノーの数は、約二〇万人と推定されている。彼等の多くは、オランダ、イングランド、ドイツ北部、スイスなどへ逃れたが、この国外逃亡による労働力、技術、資産の流出は停滞していたフランス経済にさらなる打撃を与え、とりわけノルマンディ地方のカーンCaeやルーアンRouenなどではその影響が深刻であった。ルイ一四世の晩年は、相次ぐ戦争に伴う巨額の戦費支出、権威誇示のためのヴェルサイユ宮殿造営などで国家財政が逼迫していたが、フランス商工業の担い手であったユグノー派の逃亡は財政破綻をもたらす要因の一つとなった。一方、国内に残ったユグノーの多くは「改宗者」としてカトリックに帰依せざるを得なかったが、ラングドック、セヴェンヌ山脈Cévennes、ドーフィネDauphiné、ヴィヴァレVivaraisなどでは棄教を拒否して闘う抵抗運動が続いた(「砂漠の時代」)。特にセヴェンヌ地方ではユグノー派農民が信教の自由を求めて蜂起し、その指揮官カヴァリエJean Cavalier(一六八一~一七四〇)が遺した回想記『カミザール戦争の記録』は彼等の戦いぶりを見事に活写している。しかし、ユグノー派にとってはこのカミザールの乱La guerre des Camisards(一七〇二~〇五年、セヴェンヌ戦争La guerre des Cévennes)こそが最後の抵抗の場となった。
ところで、「ナントの勅令」廃止は、フランス国内にルイ一四世を讃える賛辞を巻き起こし、セヴィニエ侯爵夫人(マリー・ド・ラビュタン=シャンタルMarie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné、一六二六~九六)は「いまだかつて、そしていまより後もいかなる王もこれほどすばらしいことはできないでしょう」と述べている。しかし、外交的には思ったほどの成果を上げることは出来なかった。当時の教皇インノケンティウス一一世Innocentius XI(在位一六七六~八九)は「四カ条宣言」を承認したパリの聖職者会議を非難し、この会議に出席した新司教の叙階を拒否したため、一六八八年一月にはフランス国内の三三の司教座が空位となった。ルイ一四世は反教皇の動きを模索したが、同年一一月、イングランドにおいて名誉革命が勃発したために、ローマに対する姿勢を転換させた。一六九三年九月、ルイ一四世はやむなく「四カ条宣言」を取り消し、新教皇インノケンティウス一二世Innocentius XII(在位一六九一~一七〇〇)はそれに応えて(先に拒否した)叙階を執り行い、国王による司教区収入管轄権を全国的に認めている。また、フォンテーヌブロー王令の報せを受けたカトリック諸国の君主たちは慣例通りの祝福を寄せたものの、対フランス外交に特段の変化は見られなかった。註⑮
(四) ヴェルサイユ宮殿と宮廷文化
一八世期フランスを代表する啓蒙思想家ヴォルテールは、親政が開始された一六六一年以降を「ルイ一四世の世紀」と賞賛した。この「偉大な世紀」《Grand siècle》は、コルネイユPierre Corneille(一六〇六~八四)やラシーヌJean Baptiste Racine(一六三九~九九)、モリエールMolière(一六二二~七三)がフランス古典主義の栄光の座に君臨し、ヴェルサイユの饗宴が全国に放射された時代であった。しかし、それは太陽王ルイ一四世を中心とする王侯貴族の文化が〈権威〉を帯びて押しつけてくる〈秩序化〉の時代でもあり、整然と規則化された生活様式、芸術、学問に見られるように「統制された文化」を特徴としている。すなわち、ルイ一四世の時代には、今日的な意味での文学や芸術、あるいはより広く「文化」と呼ばれるようなものは存在せず、特定の誰かに仕えるという人的束縛から脱出できないでいた。
しかしそれは、絶対王権側が聖職者とは異なる新しいタイプの世俗的知識人を養成し、彼等の仕事を介して絶対王政という秩序を定着させるための努力をしていたと言うことでもある。彼等は一七世紀初めに誕生したアカデミーacadémieに着目し、一六三五年、宰相リシュリューは詩人ヴァランタン・コンラール Valentin Conrart のまわりに集まっていた私的グループを国家として公認し、アカデミー・フランセーズl'Académie françaiseを立ち上げた。その使命は、フランス語を〈国家〉nationの構成員(すなわち宮廷社会を構成する高位聖職者、宮廷貴族、有力ブルジョワ)の言語として練り上げることを通して、〈民衆〉(平民)personnesとの区別を明確化することにあった。もちろん、国家的制度化の対象となったのは言語だけではなく、ルイ一四世期の財務長官(後に財務総監)コルベールはアカデミー・フランセーズを改組して、官製芸術を定めるべき芸術アカデミーAcadémie des Beaux-Arts(一六四八年絵画彫刻アカデミー、一六六三年碑文・文芸アカデミー、一六六九年王立音楽アカデミー、一六七一年王立建築アカデミー)と科学アカデミーAcadémie des sciences(一六六六年)を創設して役割を拡大した。
なお、他の芸術分野と異なり、演劇アカデミーは作られなかったが、実質的には国家が演劇を独占・統制していた。例えば、ルイ一四世と劇作家モリエールの密接な関係は、一六五八年、笑劇『恋する博士』を観劇したことに始まり、ルイ一四世はモリエールにパリ滞留を命じてプティ・ブルボン劇場の使用を許可するとともに、モリエール劇団に(ブルゴーニュ座Théâtre de l'Hôtel de Bourgogneと同じく)「王弟殿下専属劇団」の地位を保証した。また一六六三年からは一〇〇〇リーヴルの年金・賞与を与えてモリエールが優れた文芸家であることを証明し、翌年にはモリエールの息子ルイ・ポークランの洗礼の代父を務めるほどであった。一六七三年、そのモリエールが亡くなると、ルイ一四世はオペラ上演に相応しい劇場を探していた宮廷楽長リュリJean-Baptiste de Lully(一六三二~八七)にモリエールが本拠地としていたパレ・ロワイヤル劇場を提供し、一六八〇年一〇月二一日にはゲネゴー座Théâtre Guénégaud(一六七三年、マレー座Théâtre du Maraisとモリエール座が合併)とブルゴーニュ座の合併を命じて王権直属の劇団コメディー・フランセーズComédie-Françaiseを誕生させた。またコルベールは、早くも一六六三年に創設した小アカデミーに知的活動全般を取り仕切る最高指導機関としての性格を与えており、その後に誕生したさまざまなアカデミーは小アカデミーの管理下に置かれた。その結果、「ルイ一四世の親政の最初の四年間のうちにコルベールの側近で練り上げられた計画は、技芸を王権国家に奉仕させることを狙いとしている。採用されたプロパガンダの主題は〈王の偉業〉であった」(アポストリデスJean-Marie Apostolidès )。このように、一七世紀の絶対王政確立期は、国家アカデミーの設立を通して王権が文化を独占し、 文芸や技芸を君主の栄光と国家を構成する少数者の利益に奉仕するための道具に変容させる過程でもあったのである。
そして〈王の偉業〉の実現には、ヴェルサイユ宮殿に代表される建築の果たした役割も大きい。ルイ一四世は、 フランス王家の「移動する宮廷」という伝統に従ってフォンテーヌブロー宮(一六六一年)、ルーヴル宮(一六六二~六六年)、サン・ジェルマン・アン・レー宮(一六六六~七三年、一六七六年、一六七八~八一年)などを転々と移動していたが、一六八二年に王宮をヴェルサイユに遷した。そもそもヴェルサイユ宮殿は、一六二三年、当時の国王ルイ一三世がパリ大司教から領地を購入し、翌年、建設長官ジュアン・ド・フルシJuan de Hulusiに命じて「館」(狩り小屋)を建設させたことに始まる。その後、一六三一~三四年に建築家フィリベール・ル・ロワPhilibert Le-Roによって拡張工事が続けられ、次の国王ルイ一四世がヴェルサイユと関わるようになるのは 親政を開始した一六六一年以降のことである。この年、ルイ一四世は財務卿フーケのヴォー・ル・ヴィコント城Château de Vaux-le-Vicomteを見たことが、彼を失脚させる原因となった。一七世紀バロック建築の先駆けとなったこの城は、建築家ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vau、画家シャルル・ル・ブランCharles Le Brun、造園家アンドレ・ル・ノートルAndré Le Nôtreを招いて建設にあたらせたが、国王の宮殿に優るとも劣らない豪華な造りはルイ一四世の不興を買った。ルイ・ル・ヴォー等はそのままヴェルサイユ宮殿の建設に転じることとなったのである。ただし、ヴェルサイユの地は水利が悪く、工事も難航したために一六六八年には一度計画の練り直しを迫られ、ようやく一応の完成を見て王宮移転の運びとなったのは一六八二年のことであった。その間、一六八〇年にはセーヌ左岸に設置された巨大揚水装置「マルリーの機械」Machine de Marly(直径一一・六九メートルの水車一四輪とポンプ二〇〇台)で高さ一五四メートルのマルリーの丘まで水を汲み上げ、そこから水道橋でヴェルサイユ宮殿まで水を引いた(一六八八年竣工)。ヴェルサイユ宮殿の噴水群は、こうした工夫の成果なのである。また、 アンドレ・ル・ノートル設計の庭園は、地形的変化に富み、立体的な空間表現を主体としたイタリア式庭園とは異なり、平坦で広大な敷地に軸線(ビスタvista)を設定しての左右対称性、幾何学的な池の配置や植栽の人工的整形などを特徴としており、一七~一八世紀に発達したフランス式庭園Jardin françaisの特徴を見て取ることが出来る。
一六八二年五月六日、ルイ一四世は古典様式とバロック様式を合体させたヴェルサイユ宮殿に王宮を遷し、貴族たちを宮殿の内部またはその周辺に住まわせることによって、廷臣や官吏ばかりでなく、多くの外国使節、請願者、出入り業者などがひしめく特異な世界をつくり上げた。彼は「官僚王」Rois ureaucratieと揶揄されるほど政務に精励し、治世末期には九〇〇名を超える国王秘書官(スクレテール・デュ・ロアsecrétaire du roi)に対してそれぞれ別個に課した職務を履行させ、直接国王に報告して指示を仰ぐよう命令したと言われる。ルイ一四世はまた、宮廷内における序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに遵守させ、同時に国王から下賜される栄誉や年金を競わせることで貴族たちがヴェルサイユ宮殿にほぼ常駐するように仕向け、彼等を監視下においたのである。彼はまたフランス王家の伝統であった公式晩餐(グラン・クヴェールGrand couvert)を死の直前まで欠かさず行うなど、起床から就寝までの宮廷生活を細部まで「儀式」と化し、複雑な礼儀作法を定めて宮廷礼式を遵守させたとも言われる。
そしてヴェルサイユに花開いた宮廷文化の世界をさらに華やかなものにしたのが、美しい女性たちである。ルイ一四世にはスペイン王室から迎えた王妃マリ・テレーズ・ドートリッシュ (一六三八~八三)がいたが、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールFrançoise Louise de La Baume Le Blanc(一六四四~一七一〇、ラ・ヴァリエール女公爵Duchesse de La Vallière、ヴォージュール女公爵Duchesse de Vaujours)、モンテスパン侯爵夫人Françoise Athénaïs de Mortemart, marquise de Montespan(一六四〇~一七〇七)、フォンタンジュ公爵夫人Duchesse de Fontanges(一六六一~八一)など多くの女性たちを愛妾とし、マントノン侯爵夫人Françoise d'Aubigné, Marquise de Maintenon(一六三五~一七一九)とは秘密結婚をしている。註⑯
しかし、相次ぐ戦争とヴェルサイユ宮殿建設に代表される〈王の偉業〉は、 深刻な財政困難を引き起こした。そこで王権はついに特権層への課税に踏み切り、一六九五年一月には国内の全住民が実際の収入金額とは全く関係なく、職業と地位に応じて二二の階層に区分され、区分ごとに納税額を定める「カピタシオン」capitationという新しい直接税を創設した(第一階層は王太子・最高国務会議メンバー・総括徴税請負人fermier généralなどで二〇〇〇リーヴル、最下位の第二二階層は兵士・日雇い・徒弟などで一リーヴル)。この新税は年間二一〇〇~二三〇〇万リーヴルの増収をもたらしたが、一六九七年、プファルツ継承戦争の終結とともに一旦廃止された。しかし、スペイン継承戦争に備えて一七〇一年三月に再び設けられ、今度は直接税タイユの納税者に関してはその付加税として徴収し、 タイユ免除者については職業に応じてさまざまな徴収方法が採用されたため、特権層に対する課税という性格が薄らいだままフランス革命勃発まで続いた。また、スペイン継承戦争が戦われていた一七〇九~一〇年にはヨーロッパを寒波と飢饉が襲い、これに対応するために一七一〇年一〇月、王権は(ごく少額の賃金を除いて)あらゆる収入の十分の一を徴収する「ディジエーム」dixième(十分の一税)を課税し、官職保有者については俸給から天引きし、その他の職業の場合は納税者に申告を義務づけた(ディジエームは一七一七年に一旦廃止された後、 一七三三年一〇月に復活した)。しかし、一七〇一年以降のカピタシオン税の場合は地方長官が在地貴族の協力を得て貴族の税額を査定したため不当に低く決定することが多く、地方三部会や都市は王権との間で一括納入契約を結ぶことで課税を免除された(聖職者は納税義務がなかった)。また、ディジエーム税の場合も、地方三部会・都市・フィナンシエなどの特権団体は上納金支払いや一括納入契約によって課税を免れ、聖職者は上納金八〇〇万リーヴルと引き換えに免税特権を得ていた。その結果、ルイ一四世の治世末年には歳入六九〇〇万リーヴルに対して、三四億六〇〇〇万リーヴルもの負債を抱える破綻国家になっていたのである。註⑰
その間、王室内では不幸が続き、ルイ一四世の嫡出子のなかで唯一成年に達した王太子ルイLouis de France(Dauphin Louis 一六六一~一七一一)が一七一一年四月一四日に、そして翌年二月一八日には彼の長男ブルゴーニュ公ルイLouis, duc de Bourgogne(一六八二~一七一二)が亡くなっている。次男フィリップは既に西王フェリペ五世となっていたため、三男ルイ(後のルイ一五世 一七一〇~七四)が王太子となった。スペイン継承戦争が終わって間もない一七一五年九月一日、ルイ一四世は波乱に富んだ生涯を閉じ、 遺体はフランス王室の慣例に従ってサン=ドニ大聖堂に埋葬された(享年七六歳)。そして、 国際的秩序の原則が、従来の王室間の利害から国民経済の形成を背景とする国家的利害へと流れを変えたのが、他ならぬルイ一四世の死であった。註⑱
註① 一五九四年にパリ高等法院がイエズス会を国外追放処分としたのは、直接的には国王暗殺未遂事件が原因であるが、その背景には一三~一四世紀以来続いてきたガリカニスムGallicanismeの伝統がある。ローマ=カトリック教世界におけるフランス教会(ガリカン教会)の独立性を主張し、フランス王権への服従を唱えるこの理念は、法学者によって理論的支柱を与えられ、高等法院はその守り手を自負していたのである。一五一六年、仏王フランソワ一世が教皇レオ一〇世と結んだボローニャ政教協約によれば、フランス国内の大司教、司教、修道院院長など高級聖職者の任命にあたっては王が候補者を指名し、教皇が叙階すると定め、ガリカニスムの伝統をより強固なものとしていた。一六世紀に発生した宗教改革の嵐を受けて開催されたトリエント公会議(一五四五~六三年)では教皇権至上主義(ユルトラ・モンタニスムultramontanism)が確認されたが、フランス王権と教会がこれを正式に受容したのは一六一五年のことである。アンリ四世がイエズス会のフランス復帰を許したのは一六〇三3年のことで、一六〇八年にはイエズス会士ピエール・コトン神父Pierre Cotonを自らの聴罪司祭としている。なお、一五九八年の調査では、改革派教会はフランス全土で七五九、牧師は八〇〇名を数えていることから、ユグノーは約一二五万人、人口の約一割を占めていたと推定されている。
拙稿「フランス・プロテスタントの反乱」(水戸一高『紀要』第五三号)、髙澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』)所収第三論文一四三~一五一頁参照
註② フランスの売官制は、一四八三年、財務官職の売官から開始され、やがて行政、司法、軍務などの官職に拡大していった。一六〇四年のポーレット法制定で官職の転売・相続が可能となり、保有官職(オフィスoffice)は報酬あるいは謝礼や賄賂として利用されるようになり、官職保有者(オフィシエofficier)は社会的信用や上流社会の人間としての箔を付けようとした。そのため、保有官職は投資の対象となり、商工業ブルジョワは競って購入した。一五一五年頃の官職保有者は約五〇〇〇人くらいと思われるが、一六一〇年代の約二万五〇〇〇人、一六四〇年代の約四万六〇〇〇人を経て、一六六一年当時は約五万人弱に急増している。とりわけ、高等法院評議官のような上級官職の保有者には「貴族」の資格が与えられたため、富裕者は眼の色を変えてより上級の官職を入手しようとしたのである。その結果、貴族階層には、中世以来の家門や血統を原理とする伝統的な「帯剣貴族」だけでなく、官職保有によって貴族に叙せられた「法服貴族」が現れた。もっとも後者は、鉱山開発や海上交易などの特例を除いて商工業に従事していることが判明すると、貴族資格を剥奪された。やがて多くのブルジョワが官職を購入して国王役人となった結果、国王の官僚統制が可能となり、支配領域の拡大に伴う統治組織の拡充も実現できた。 柴田三千雄『フランス史一〇講』(岩波新書)八八~九二頁、高澤紀恵前掲論文一七二頁各参照
註③ 髙澤紀恵前掲論文一四三~一五一頁、林田伸一「近世のフランス」(福井憲彦編『新版世界各国史⒓ フラ
ンス史』所収第四論文)一七二~一七五頁各参照。一七世紀前半、地方財務官trésoriers de France・管区徴税吏élusを中核とする直轄財務機構が整備されたエレクシオン地域は、パリ、アミアン、ボルドー、ブールジュ、 シャロン、リモージュ、リヨン、モントーバン、ムーラン、オルレアン、ポワティエ、リオン、ソワソン、トゥール、ルーアン、カーン、アランソン、ディジョン、グルノーブルという早くから王権に支配されてきた地方で、大部分は対人タイユtaille personelleの形で徴収された。それに対してブルターニュ、ラングドック、プロヴァンス、ベアルンなどの周辺部は地方三部会地域となっており、直接税の割当・徴収は地方三部会の協賛・承認を経て行われ、対物タイユ(地租)taille réelleの形で徴収された。千葉治男「フランス絶対王政の官僚機構」(『岩波講座世界歴史⒖ 近代2』所収第四論文二四二~二六九頁各参照
註④ 林田伸一「近世のフランス」一四四~二三八頁、阿河雄二郎「絶対王政成立期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』)所収第四論文一五三~一九九頁各参照
註⑤ 一六一〇年一〇月二一日、ルイ一三世はランス郊外のコルべニー施療院corbenyに赴き、聖別された国王の初仕事として聖マルクー修道院前に集合した瘰癧scrofulae, ecrouelles(結核性のリンパ腺炎ないし皮膚疾患)患者約九〇〇人に触れ、二七日にはパリにおいて勇壮な「国王の入市式」が挙行された。なお、当時の有力貴族は、王位をも狙う王族(国王アンリ四世の庶出子ヴァンドーム公セザール、親族のコンデ親王アンリ)、ユグノー戦争期にカトリック同盟の領袖であったギーズ公、ポリティーク派に転じたモンモランシ公、ヌヴェール公などの名門大貴族、アンリ三世の寵臣から台頭したエペルノン公、ベルガルド公などの新興大貴族に大別されたが、いずれも宮廷官職のほか、地方総督、都市総督など国王の代理人として地方全体を統括する官職を求めた。一六一〇年代を例にとれば、ヴァンドーム公はブルターニュ、コンデ親王はギュイエンヌ、ギーズ公はプロヴァンス、モンモランシ公はラングドック、ヌヴェール公はシャンパーニュ、ベルガルド公はブルゴーニュ、ロングヴィル公はピカルディの地方総督を務めていた。 拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)、髙澤紀恵前掲論文一四三~一五一頁各参照
註⑥ 阿河雄二郎前掲論文一五三~一九九頁参照
註⑦ 拙稿「フランス・プロテスタントの反乱」四〇~四一頁参照
註⑧ マザランの寵臣ニコラ・フーケ(一六一五~八〇)は、大蔵卿の地位を利用して私財を蓄え、自分の地所にヴォー・ル・ヴィコント城を建設した。後任の大蔵卿コルベールからフーケに関する報告を受けた国王ルイ一四世は、一六六一年に逮捕・投獄を命じた。三年後、国外追放の判決が下ったが、ルイ一四世は納得せず「終身刑」に改めた。一六六五年、フーケはピネローロ要塞Pinerolo(ピエモンテ地方)に送られ、一六八〇年三月に亡くなった。
註⑨ 王母マリ・ド・メディシス(一五七五~一六四二)は、一六二二年以降、フランドルの画家ルーベンスPeter Poul Rubensに二四点もの肖像画を描かせたが、一六四二年七月三日、彼がかつて所有していたケルンの屋敷で逝去した。
問⑩ 阿河雄二郎前掲論文一六五~一九九頁、近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史⒗ 主権国家と啓蒙』所収第一論文)四九~六五頁、柴田三千雄「フランス絶対王政の特質」(『岩波講座世界歴史⒖ 近代2』所収第四論文二〇三~二一七頁各参照
註⑪ 阿河雄二郎前掲論文一八一~一九九頁、林田伸一「最盛期の絶対王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』)所収第五論文二〇一~二二一頁、同「近世のフランス」一四四~二三八頁、柴田三千雄前掲書七六~九二頁各参照
註⑫ 林田伸一「最盛期の絶対王政」二二一~二三〇頁参照
註⑬ 林田伸一「最盛期の絶対王政」二二一~二三〇頁、今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 近世』二五一~二七七頁各参照
註⑭ 「フォンテーヌブロー王令」は『西洋史料集成』四一六~四一七頁より引用。なお、条文中の「一六二九年七月ニームにおいて発せられたる勅令」はアレス王令、「ガリー船の刑」はガレー船漕奴刑のことである。
註⑮ 林田伸一「最盛期の絶対王政」二〇一~二四四頁、今野國雄「絶対王政下のキリスト教」(半田元夫・今野圀雄『世界宗教史叢書2 キリスト教史Ⅱ』所収第六論文)二一二~二四一頁、Georges Duby, Robert Mandrou, HISTOIRE DE LA CIVILISATION FRANCAISE Tome II ジョルジュ・デュビィ、ロベール・マンドルー著『フランス文化史2』一五四~一六一頁、Jean Cavalier, Mémoires sur la guerre des Camisards, Traduction et notes par Frank Puaux, Paris, Payot, 1918.カヴァリエ著『フランス・プロテスタントの反乱 カミザール戦争の記録』各参照。
註⑯ 親政を開始したばかりの頃のルイ一四世は、王弟オルレアン公フィリップの妃アンリエット・ダングルテールHenriette d'Angleterr(一六四四~七〇)を愛していたと言われるが、そのスキャンダルを救ったのがルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールである(子どもが三人生まれたが、国王の寵愛がモンテスパン侯爵夫人に移ると一六七四年、修道院に入る)。モンテスパン侯爵夫人には〈陶器のトリアノン宮〉が与えられ、彼女は八人の子を産み、宮廷内に君臨した。しかし、一六七九年、モンパスパン侯爵夫人がキリスト教を冒瀆する黒ミサ事件に連座した咎で修道院入りすると、国王の気持ちはフォンタンジュ公爵夫人に移った。彼女も子どもを一人出産するが、国王の寵愛がマントノン侯爵夫人に移ったこともあり、修道院に入ってまもなく死去した。一六八三年七月三〇日、王妃マリ・テレーズ・ドートリッシュがこの世を去ると、一〇月上旬ルイ一四世はマントノン侯爵夫人と(身分が違うために)秘密結婚をした。この後、ルイ一四世の女性遍歴は止んだと言われる。
なお、ヴェルサイユ宮殿に集う王侯貴族の服装は、まさにバロック様式の〈形式主義〉に添うものであった。男性は螺旋状にカールした長い髪を垂らす「アロンジュ鬘」allongeをかぶり、大きな袖のついた長い胴着で、足元はハイヒールという出で立ちであった。また女性の髪型は「キャベツ巻き」(巻き毛を頭の周りに波立たせる髪型)に花を挿すことが流行していたが、一七世紀に入るとフォンタンジュ公爵夫人の名前がついた「フォンタンジュ結び」(針金を使用して六〇センチくらい持ち上げた髪をリボンやレースで留め、小さな蝶結びで飾りをつける髪型)に取って代わられた。また、男女共通の美顔法に美斑(付け黒子)があり、体臭を消すためには香水が使用された。青木英夫『西洋化粧文化史』六三~七一頁参照
註⑰ 増税は必ずしも民衆蜂起と直結するわけではない。確かにルイ一四世治世前半は一六六二年、ブーロネ地方の貧民戦争、一六六四年ガスコーニュ地方の反塩税一揆、一六七〇年ヴィヴァレ地方(北部ラングドック)の反王税蜂起、一六七五年ブルターニュ地方を中心とする印紙税一揆などの民衆蜂起が頻発したが、その後は大規模な蜂起がほとんど発生していない。その理由としては、王権と地方名望家層との関係が緊密化したことが指摘されている。なお、一七世紀以降の飢饉は一六三〇~三一年、四八~五二年、六一~六二年、九三~九四年、一七〇九~一〇年に発生している。林田伸一「最盛期の絶対王政」二三六~二三七頁、同「近世のフランス」一九〇~一九二頁、二宮浩之「フランス絶対王政の領域的・人口的基礎」((『岩波講座世界歴史⒖ 近代2』所収第四論文二一八~二四一頁各参照
註⑱ 水林章「ドン・ジュアンの埋葬」三七~八四頁、Jean-Marie Apostolidès, Le Roi-mashine : Spectacle et politique au temps de Louis XIV, Editions de Minuit, 1981, p.24. アポストリデス「犠牲に供された君主 ルイ一四世治下の演劇と政治 」、竹中幸史「ヴェルサイユの光と影」(杉本淑彦・竹中幸史編著『教養のフランス近現代史』所収)九~十七頁各参照。
【ヴェルサイユ宮殿関連年表】
一六二三 ルイ一三世、パリ大司教が領有していたヴェルサイユVersaillesを購入し、建設長官ジュアン・ド・フルシJuan de Hulusiに命じて「館」(狩り小屋)建設に着手
一六二四 「館」完成。館の周囲をめぐらす濠の工事開始。
一六二九 館近くにジュ・ド・ポーム場jeu de paume(テニスの先駆となったスポーツの施設)を二箇所建設
一六三一~三四 ヴェルサイユ宮拡張工事(建築家フィリベール・ル・ロワPhilibert Le-Roy)
一六五九 ルイ一四世、スペイン王女マリ=テレーズと結婚
一六五九~六六 テュイルリー宮Palais du Tuileriesの増改築工事(パリ1区)
一六六〇 ルーヴル宮Palais du Louvreの増改築開始(パリ一区)
一六六一 ルイ一四世、財務卿ニコラ・フーケNicolas Fouquetのヴォ・ル・ヴィコント城の豪華さに衝撃。
ヴェルサイユ宮殿の改築・拡大に着手(~一六七〇)。建築家ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vauが担当(1670
年以降はフランソワ・ドベルFrançois Dobbelsが継承)。庭園はアンドレ・ル・ノートルAndré Le Nôtre、室内装飾はシャルル・ル・ブランCharles Le Brunが担当。
一六六四 ヴェルサイユ祭典 モリエール『タルチュフ』初演。
一六六八 ヴェルサイユ宮殿の大拡張計画と政府機能移転を決定。王室建築家ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vau と建築長官ジャン=バティスト・コルベールJean-Baptiste Colbertが大改築案を検討。
大トリアノンGrand Trianonの大運河Grand Canalの第二期工事開始(アンドレ・ル・ノートル)。
一六六九~七〇 愛妾モンテスパン夫人Madame de Montespan(モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ドゥ・モルトゥマールFrançoise Athénaïs de Mortemar, marquise de Montespan、本名Françoise Athénaïs de Rochechouart de Mortemart、1640~1707)のために〈陶器のトリアノン宮〉建設
一六七〇 ヴェルサイユ宮〈大トリアノン宮〉le Grand Trianon、使用開始
一六七一 画家・室内装飾家シャルル・ル・ブランCharles Le Brunの指揮で〈王の大広間〉Grands Appartementsの装飾工事開始(~一六八一年)。
一六七八 建築家マンサールJules Hardouin-Mansart、大工事総監督に就任し〈鏡の間〉Galerie des Glaces建設着手(一六八五年竣工)。〈鏡の間〉天井の絵はシャルル・ル・ブラン担当。
一六八二 ルーブル宮からヴェルサイユ宮殿に王宮移転(遷都)
一六八四 巨大揚水装置「マルリーの機械」Machine de Marly完成
一六八五 ルイ一四世、マントノン夫人Madame de Maintenon(マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェFrançoise d'Aubigné, Marquise de Maintenon、1635~1719)と秘密結婚。
一六八七 〈陶器のトリアノン宮〉取り壊し。マンサールと義兄ロベール・ド・コットRobert de Cotte、〈大理石のトリアノン宮(大トリアノン)〉Grand Trianon改築(~一六八八年)。一六九一年、モンテスパン夫人、宮廷を退く(一七〇七年死去)
一七〇一 〈王の寝室〉chambre de Roiと控えの間〈牛眼の間〉Salon de l'œil de bœuf」完成
一七〇二 ヴェルサイユ宮殿大改装工事開始(一七一〇年礼拝堂竣工)
一七一五 ルイ一四世、ヴェルサイユ宮殿で逝去(享年七六歳)
一七一七 ロシア皇帝ピョートル一世、 ヴェルサイユ宮殿訪問
一七二二 七年間の空白の後、宮廷がヴェルサイユに帰還
一七二五 ルイ一五世、ポーランド王女マリア=レシツィンスカと結婚
一七三六〈ヘラクレスの間〉Salon d'Hercule完成
一七四一 ルイ一五世、〈トリアノン宮〉を王妃に贈る
一七四五 ポンパドゥール侯爵夫人Madame de Pompadour(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour, 1721~64)、ルイ一五世の愛妾となる
一七四八〈観劇の間(オペラ劇場)〉着工。ポンパドゥール夫人の〈田舎家〉建設。
一七五七 国王ルイ一五世暗殺未遂事件
一七六二 ポンパドゥール夫人のために〈トリアノン宮〉建設開始
一七六四 ポンパドゥール夫人、ヴェルサイユ宮殿で死去。
一七六八 王妃マリ・レグランスカMarie Leszozynska(1703~68)死去。デュ・バリー伯爵夫人Madame du Barry(本名Marie-Jeanne Bécu, 1743~93)、ルイ一五世の愛妾となる。
一七七〇〈観劇の間〉〈小トリアノン宮〉完成。
ヴェルサイユ宮殿で王太子ルイとオーストリア大公女マリ=アントワネットが結婚。
一七七四 ルイ一五世逝去(享年六四歳)。ルイ一六世、〈小トリアノン宮〉を王妃に贈る。
一七七七 オーストリア大公ヨーゼフ二世、隠密でヴェルサイユ訪問
一七八三 小トリアノンに王妃のための〈小村〉建設
一七八五〈王妃の首飾り〉事件
一七八九 全国三部会États généraux召集。
フランス革命勃発。ヴェルサイユ行進La Marche des Femmes sur Versailles
国王一家をテュイルリー宮殿へ連行。議会の機能もパリに移動。
*クリストファー・ヒバートChristopher Hibbert編「ベルサイユ宮殿歴史年表」(『ランドマーク世界史6 ベルサイユ宮殿』一六二~一六三頁)を参考にして作成
*本文中のヴェルサイユ宮殿に関係する写真は、 すべて筆者が一九七九年夏に撮影したものである。
第二節 アンシャン・レジームの終焉
(一) はじめに
フランス革命前の旧体制を「アンシャン・レジーム」Ancien régimeという。したがって、 アンシャン・レジームという用語は、 フランス革命との対比の中で定義されることになる。そして、 フランス絶対王政の象徴とされる国王ルイ一四世の時代が過ぎた一八世紀のフランス王国は、まさに革命前のアンシャン・レジーム期に相当する。その当時の西ヨーロッパ各国は、前世紀の不況(「危機の一七世紀」)を克服し、大西洋経済が大きく発展していた。とりわけ一七三〇年以降は好況期に突入し、農業・工業ともに生産が上昇に転じて、それらの価格も長期的な上昇傾向を示し始めた。景気の好転は貿易の動向にも顕著に表れて輸出入ともに増大し、世紀半ばまで急成長を遂げている。また、経済成長は人口の増加をもたらし、ヨーロッパ全体を苦しみのどん底に陥れたペストもマルセイユにおける流行(一七二〇年)を最後に跡絶えたため、フランスの人口も一八世紀初頭の約二一〇〇万人から同世紀末の約二八〇〇万人へと急増している。アンシャン・レジーム期の人口は、(正確な統計があるわけではないので、あくまで推定でしかないが)中世以来続いてきた身分制社会の中で第一身分(聖職者)が約一三万人、 第二身分(貴族)が約四〇万人で特権身分全体で約五三万人であるのに対して、第三身分(平民)は農民約二一五〇万人、市民約四五〇万人で全体では約二六〇〇万人程度だったと推定されている。
しかし、一八世紀フランス社会をもう少し注視してみると、一六世紀後半の宗教戦争期以降に広がりを見せてきた「売官制」vénalité de officesが、身分制度を大きく揺るがしていたことが分かる。「民衆」と呼ばれる社会的階層から何らかの成功を収めて「ブルジョワ」に上昇した人々は、経済的富裕度の違いだけではなく、民衆とは同じ食卓に着かないなどの社会的区別や生活様式の違いをもつ都市の「正規の住民」となり、市政参加権とか民兵や自警団をつくる際の参加権を獲得していた。彼等の中でも最上層ブルジョワに相当する金融業者などは蓄えた資産を官職の購入に投資し、先ずは値段の安い税務、徴税の官職から始まり、次は行政、そして司法、裁判の官職と買い換えを繰り返し、最後にその職を持てば貴族身分になれるという官職を購入したとき、その家はブルジョワを抜け出して「貴族」身分にたどり着けたのである。こうして富裕化したブルジョワが頻繁に貴族として叙任されるようになり、その一方で貴族による経営投資も拡大の一途をたどっていたため、結果として両者の「社会的混交」が進んだのもこの時期のことである。しかし、ブルジョワ間の社会的上昇競争が過熱化すると、数に限りのある「貴族」の身分をめぐって(イギリスの歴史家コリン・ルーカスColin Renshaw Lucasが指摘したように)フラストレーションが起こり、社会のいたるところに「ストレス・ゾーン」が生まれてきた。
一七一五年九月一日、フランス王国ではルイ一四世が崩御し、後を継いだ曾孫アンジュー公ルイはわずか五歳の幼児であった。彼はブルボン朝第四代国王ルイ一五世Louis XV(在位一七一五~七四)として即位したが、幼い国王に代わって政務を取り仕切ったのは、先王の甥にあたるオルレアン公フィリップPhilippe II(一六七四~一七二三)である。彼はパレ・ロワイヤルに居館を定め、ルイ一五世をテュイルリー宮殿に住まわせたため、政治の中心はヴェルサイユ宮殿からパリ市内へと戻ってきた。その結果、 パレ・ロワイヤルやリュクサンブール宮殿(オルレアン公の娘であるベリー公妃の居館)などは社交場としての華やかさを取り戻したと言われる。当時パレ・ロワイヤルの地続きの一角に建っていたオペラ座では頻繁に仮面舞踏会が催され、名門貴族やブルジョワたちが仮面の下に身分を隠して享楽に酔いしれた。格式と序列を重んじるヴェルサイユ宮廷社会とは対極的な世界が誕生し、 新しい「金の力」が社会を揺り動かしていたが、旧制度(アンシャン・レジーム)を根底から破壊するのは容易ではなく、そこにはストレスゾーンに発生した摩擦熱が燃え焦げる炎に変化しようとしていた。また、 大西洋沿岸部と内陸部・地中海沿岸部との地域間格差も拡大し、フランス社会全体に新たな危機が忍び寄っていたのである。
さて、長年、フランス革命の研究に打ち込まれた柴田三千雄氏は著書『フランス革命』(岩波セミナーブックス30)の中で、革命が起こる条件として「第一は、既存の支配体制の統合力が破綻すること、 第二は大規模な民衆騒擾、都市とか農村の民衆蜂起がおこること。第三は新しい政治指導集団にありうるものが存在すること。この三つの条件がそろった時に革命がおこるのであり、一つでもそれが欠けた場合には、 革命はおこらないといわれています。……革命というものは、いろいろな歴史的条件が複合した時におこるものなのです」と述べている。柴田氏の考え方は、アルベール・マティエAlbert Mathiez(一八七四~一九二三)の「複合革命論」を継承・発展させたジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvre(一八七四~一九五九)に影響されたものである。マティエと同じくソルボンヌ大学で長きにわたって教鞭を執ったG・ルフェーヴルは従来の政治史主体の「上からの」視点に立脚した革命史に対して、都市民衆や農民の視点に立った所謂「下から」のまなざしを持つ革命史研究に特徴がある。彼によれば、フランス革命とはアリストクラートaristocrate(貴族とそれに準ずるブルジョワbourgeois)、ブルジョワ、都市民衆、農民の四つの「革命」からなるが、結局は「ブルジョワ革命」が最大の成果を収めたという意味で「ブルジョワ革命」であるという。彼の学説の当否はしばらく措くとして、それまで辛うじて維持されてきた旧体制の「統合力」とは如何なるものであったのだろうか。また、その破綻はどこから始まったのだろうか。註①
(二) ルイ一五世の登場
一七一五年、パリ高等法院parlementの支持を得て摂政の座を獲得したオルレアン公フィリップは、旧貴族の影響力を削いできた財務総監や国務卿といった「大臣制」を廃止し、新たに伝統的な名門貴族を国政に関与させる「多元会議制」(ポリシノディPolysynodie)を導入した。すなわち、国政全般を統括する「摂政会議」Conseil de Régenceを設置して、その下に財務・外務・軍事・海事・内務・宗教・商事という七つの評議会を設けて政治・行政上の機能を多元的な合議体に改編したのである。そして、オルレアン公から財務評議会を主宰するように言われたノアイユ公Adrien Maurice, duc de Noaillesは、国家の累積債務を削減しようと考え、公債金利を一律四%の低率に固定して額面を従来の五分の二前後に切り下げ、また特別裁判所の設置を通して公金横領や不正利得の追及を徹底させようとした。しかし、緊縮財政の一方で、貨幣不足による景気低迷を防ぐために正貨の鋳造を増やし、その法定相場の引き上げで通貨流通量の拡大を図るという政策矛盾が原因で深刻な不況に陥り、一七一八年一月、ノアイユ公は財務評議会代表を辞任せざるを得なかった。それでも、財務評議会やトゥールーズ伯louis-Alexandre de Bourbon, comte de Toulouseの海事協議会などは相対的にまだましな方で、実務能力に乏しい名門貴族が担当した評議会の多くは機能不全に陥り、一七一八年以降、海事評議会を除いて徐々に廃止されていった。
そこで起用されたのが、既に一七一六年に個人銀行の設立を認められ、翌年に一般銀行、一八年に国立銀行への改組を認可されていたスコットランド人ジョン・ローJohn Law(一六七一~一七二九)である。彼はフランス初の銀行券(紙幣)を発行して慢性的な通貨不足を解消し、併せてその銀行券によって国家債務を償還して財務赤字の軽減を図ろうとした。また、経済活性化の手がかりとして植民地貿易の拡大にも目をつけていたジョン・ローは、一七一七年、ルイジアナ開発独占権を持つ西方会社(ミシシッピ会社)Compagnie d'Occidentを設立し、一九年にはインド会社Compagnie des Indes (西方会社、セネガル会社、 アフリカ会社、ギニア会社、サン・ドマング会社、シナ会社、東インド会社を統合)に拡大・改組している。しかし、(1)国立銀行が発行した一五億リーヴルの銀行券をインド会社という特権会社に引き受けさせる、(2)インド会社はこれを国家に貸し付けて、政府はそれを国債の債務償還に充てる、(3)債権者は銀行券や国債でインド会社が募集した一五億リーヴルの増資新株を購入する、(4)インド会社は償還金として流出した銀行券を吸収する、という所謂「ローのシステム」は彼の目論み通りには機能しなかった。それは、インド会社が四〇%もの配当を約束したことで熱狂的な投資ブームがおこり、額面五〇〇リーヴルの株券が一七二〇年一月五日には最高値の一万一〇〇〇リーヴルまで高騰したからである。同じ日、ジョン・ローは財務総監にまで上り詰めたが、経営実態からかけ離れた投機熱は冷めるのも早かった。パリ兄弟Pârisのような徴税請負人や、彼等と結びついていたコンティ親王ルイ・アルマンLouis Armand II, prince de Cntiやブルボン公アンリLouis-Henri de Bourbon-Condéなどの王族は先を見越して売り抜けに成功したが、バブル景気に酔いしれていた多くの貴族や民衆が噂を聞いて株取引の中心地カンカンポワ街に駆けつけたときには既に株価の大暴落が始まっていた。こうして金融市場が大混乱に陥り、投資にのめり込んでいた貴族の多くは破産の憂き目を味わうことになった。その結果、ジョン・ローは五月末に財務総監を解任され、ブリュッセル、ロンドンと逃亡を続けた後、一七二九年、ヴェネツィアで貧窮のうちに亡くなっている。註②
その後、一七二二年六月、ルイ一五世は宮廷をルーヴル宮殿からヴェルサイユ宮殿へと戻し、一〇月にはランス大聖堂において成聖式を執り行った。そして翌年二月一五日、一三歳の彼はパリ高等法院において成人の宣言をして摂政政治に終わりを告げた。また、一七二五年には元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキStanislaw I Leszczynski(在位一七〇四~〇九、一七三三)の娘マリ・レクザンスカMarie Leszczynskaと結婚し、その後一一人もの子宝に恵まれた。その間、一七二三~二六年にはブルボン公アンリを宰相としていたが、二六年以降はかつての養育係である支援者フルーリー枢機卿André Hercule de Fleury(一六五三~一七四三)に替えている。フルーリーは早速、財務総監ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォールMichel Robert Le Peletier des Forts(在任一七二六~三〇)やフィリベール・オリーPhilibert Orry(在任一七三〇~四五)の協力を得て財政再建に着手した。彼等は宮廷経費や年金の削減、 軍事費の抑制などの歳出削減策を断行する一方、増税などで歳入の増大を図り、一七三六年には財政収支の均衡に成功した。また、フランス各地の道路舗装に取り組み、 一七三八年にはサン・カンタン運河Saint-Quentinを開通させてセーヌ川右岸の支流オワーズ川とソンム川とを連結させた。その当時、英仏両国はルイ一四世の治世に始まる英仏植民地戦争(第二次百年戦争)の最中にあったが、フルーリー枢機卿は平和外交を展開し、イギリス(グレート・ブリテン王国)のウォルポール首相Robert Walpole(在任一七二一~四二、ホイッグ党。一七二一年、責任内閣制度を創始したことで有名な初代首相)との間にも比較的平和な関係を築くことができた。
ところが一七三三年、ルイ一五世は外務卿ジェルマン・ルイ・ショーブランの勧めもあってポーランド継承戦争(一七三三~三五年)への介入を始めた。この年、ポーランド王アウグスト二世August II(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト一世)が亡くなり、かつて露帝ピョートル一世Pyotr I がスウェーデン王国からバルト海域の覇権を奪取した北方戦争(一七〇〇~二一年)の最中にスウェーデン王カール一二世Karl XIIから傀儡のポーランド王とされたポーランド貴族スタニスワフ・レシチニスキと、 アウグスト二世の息子(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世)がともに王位を要求したことで、 継承戦争が勃発したのである。この時、ルイ一五世はスタニスワフ・レシチニスキの娘婿として義父を支持したが、その狙いは神聖ローマ皇帝カール六世Karl VI(在位一七一一~四〇)の皇女マリア・テレジア Maria Theresiaと婚約していたロレーヌ公フランソワ・エティエンヌ(ロートリンゲン公フランツ・シュテファンFranz Stephan von Lothringe)が持つロレーヌ公国を奪うことにあった。その時、フルーリー枢機卿は王妃の父に対して僅かな軍資金と兵力の提供にとどめて、ライン川流域やイタリア方面で展開された対オーストリア戦争に兵力を集中させ、さらにはスペインとサルデーニャ王国がフランス側に参戦したことも手伝って勝利を収めた。その結果、一七三八年に締結されたウィーン条約では、スタニスワフ・レシチニスキがポーランド王位を放棄する代償としてロレーヌ公国を獲得し(一七六六年、彼の死去でフランスに併合)、ロレーヌを失ったフランソワ・エティエンヌはトスカーナ大公国の継承者となった(トスカーナ大公フランチェスコ二世、在位一七三七~六五)。
(三) フランス外交の変化とオーストリア継承戦争・七年戦争
ポーランド継承戦争が終結した頃、(前述したように)フランスの国家財政はようやく均衡を回復したが、長年ルイ一五世を支えてきたフルーリー枢機卿はまもなく九〇歳になろうとしていた。したがって、国王を諫める者は誰もいなくなり、フランス外交の方針は大きく揺らぐことになる。一七四〇年一〇月二〇日、神聖ローマ皇帝カール6世が逝去し、その後は一七一三年の「国事勅書」(プラグマティッシェ=ザンクツィオンPragmatische Sanktion)に基づいて娘のマリア=テレジアがハプスブルク家の全家領を相続した。しかし、バイエルン選帝侯アール・アルブレヒトKarl Albrecht(在位一七二六~四五)がハプスブルク家領の相続を要求し、マリア=テレジアの夫フランツ・シュテファン(一七三六年結婚)がベーメン選帝侯位を帯びることにはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世(ポーランド・リトアニア国王アウグスト三世August III)が異議を唱えた。また、プロイセン王国のフリードリヒ二世Friedrich II(啓蒙専制君主)はシュレジェン占領の承認と引き換えにフランツ・シュテファンの皇帝選挙を支持すると申し出て、マリア=テレジアから拒否されている。註③
一七四一年四月、モルヴィッツ Mollwitzの会戦におけるプロイセンの勝利を契機に諸国がオーストリアに介入し、六月には普仏同盟が成立、バイエルン、ザクセン、スペインもハプスブルク諸領の分割協定を結んで攻め込んだ。フランスの支援を受けたバイエルン軍はオーストリア北方のベーメンに入り、一一月にはプラハを占領した。一方、プレスブルクに逃れたマリア=テレジアはハンガリー貴族やイタリアの支援を得て反撃に転じ、四二年二月一二日、ミュンヘン占領に成功する。同日、バイエルン選帝侯はフランクフルトで神聖ローマ皇帝カール七世Karl VII(在位一七四二~四五)に選出され、直ちに戴冠した。しかし、プロイセンの戦線離脱が墺軍に勢いをもたらし、バイエルン全域を占領した墺軍はプラハを仏軍から解放し、マリア=テレジアはベーメン王としての戴冠式を挙行した。一七四四年春、ルイ一五世は正式に墺英両国に宣戦布告を発し、六月にはプロイセンとあらためて軍事同盟を締結して戦闘状態に入った。その時、西王フェリペ五世はスペイン継承戦争(一七〇一~一四年)後のラシュタット条約(一七一四年)で墺領となっていたミラノ公国の奪回のために参戦し、一時は成功したものの、サルデーニャ王国が墺側についたことで最終的には失敗している。そして四五年一月には英・蘭・墺・ザクセン四ヵ国によるプロイセン分割協定を含む軍事同盟が成立し、勝敗の行方はがぜん不透明となった。ところが、同年一月二〇日皇帝カール七世が逝去し、一〇月一〇日にトスカーナ大公フランツ・シュテファンが皇帝フランツ一
世Franz I(在位一七四五~六五)に選ばれたことが後押しとなって、一二月二五日「ドレスデンの講和」が成立し、普王フリードリヒ二世はフランツ一世の帝位を承認することになった。
一方、オーストリア継承戦争中の一七四三年にフルーリー枢機卿が亡くなり、ルイ一五世は先王ルイ一四世に倣って親政を開始した。そして悔しいマリア=テレジアは、従来のヨーロッパ国際政治の常識では考えられない行動に出た。それが仏=ブルボン家と墺=ハプスブルク家という長く敵対関係にあった両国が同盟関係を結ぶ「外交革命」Diplomatic Revolution(一七五六年)である。ところで、ルイ一五世は一七三四年頃から公妾を持つようになっていたが、四四年頃、サロンsalonに出入りしていたジャンヌ=アントワネット・ポワソンJeanne-Antoinette Poisson(一七二一~六四)という女性を見初める。一七二一年、銀行家の娘として生まれた彼女は、既に徴税請負人シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールCharles-Guillaume Le Normant d'Étiolles(一七一七~九九)と結婚しており、二人の子どもを持つ母親であった。しかし、彼女の美貌と知的な振る舞いに魅了されたルイ一五世は、夫婦を別居させてポンパドゥール侯爵夫人Madame de Pompadourという称号を与え、一七四五年九月一四日には公妾としてヴェルサイユ宮殿三階に部屋を用意した。一七五〇年以降、彼女は体調を崩して公妾という立場を離れたが、国王の信頼が篤かったために政界に「ポンパドゥール派」が誕生したと言われる。そこに目を付けたのが、マリア=テレジアである。もちろん、仏墺同盟結成の最大要因は国際政治の力関係によるものではあるが、駐仏大使のカウニッツ伯爵Kaunitz-Rietberg(のち侯爵、宰相在位一七五三~九二)がルイ一五世の宮廷で権勢を振るっていたポンパドゥール夫人を動かしたことも、その一要因になったと考えられる。そして事態を急展開させたのは、一七五六年一月、イギリスとプロイセンの間で結ばれたウェストミンスター協定Konvention von Westminsterであった。イギリスはこの協定によってハノーファー公国Hannover(正式にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)の安全を、他方プロイセンはロシアからの脅威を解消しようとしたが、フランスにとってこの中立協定締結はプロイセンによる背信行為と映った。また、イギリスと同盟関係にあった露帝エリザベータElizaveta Petrovna(在位一七四一~六二、ピョートル一世の娘でロマノフ朝第六代皇帝)やザクセン選帝侯にとっても同じことであった。こうしてプロイセン王国は、イギリス=ハノーファー両国を除き、ヨーロッパのほぼ全ての国々を敵にまわことになり、孤立無援の状況に陥った。なお、ハノーファー公国がイギリス側についたのは、一七一四年、ハノーファー選帝侯ゲオルク一世がイギリス王ジョージ一世George I(在位一七一四~二七)として即位し、ハノーヴァー朝(現在のウィンザー朝)が創始して以来の関係が続いていたためである。
一七五六年八月二九日、「一七四〇年の風が嵐になった」(イギリスの歴史家グーチGeorge Peabody Gooch)。普王フリードリヒ二世は機先を制して、当時まだ公式には中立を守っていたザクセン選帝侯領に侵攻し、翌月九日にはドレスデンを陥落させて、ピルナに逃れたザクセン選帝侯を包囲した。一〇月一日にはロボジッツLobositzの戦いでザクセン=オーストリア連合軍を撃破し、一四日にはピルナのザクセン軍も降伏させた。一七五七年に入るとプロイセン軍はベーメン王国への侵攻を開始し、プラハ Prahyの戦い(五月六日)で勝利を収めたが、六月一八日のコーリン Kolinの戦いではダウン将軍麾下の墺軍から猛反撃を受けて初めて敗走した。一方、ハノーファーに軍を進めた仏軍は、七月二六日、ハステンベックHastenbeckの戦いで勝利を収めてその占領に成功し、九月八日の休戦協定(クローステル・ツェーヴェン協定Konvention von Kloster Zeven、クロスター・セヴン協定Convention of Kloster-Zeven)締結でハノーファーを事実上の支配下に置いた。しかし一一月五日、仏軍と(ドイツ帝国議会が派遣した)帝国軍はザーレ川西辺のロスバハRoßbachの戦いにおいて斜行戦術のプロイセン軍に撃破されてしまう。一方、 モイスの戦い(九月七日)、ブレスラウBreslauの戦い(一一月二二日)と順調に進軍していた墺軍も、シュレジェンのロイテンLeuthenの戦い(一二月五日)では敗北を喫している。こうして、プロイセン王国はハノーファーとシュレジェンの奪回に成功したのである。
しかし翌五八年、イギリスから初めて五七万ポンドもの援助金を得たプロイセン王国ではあったが、メーレンMähren(モラヴィアMoravia, Morava)への侵攻には成功したものの、肝心のオルミュッツ要塞Olmützを落とすことはできなかった。また、都ベルリンに迫っていたロシア軍をオーデル川・ヴァルタ川の合流点の北東に位置するツォルンドルフZorndorfの戦い(八月二五日)で辛うじて撃退させることに成功したものの、ザクセンのホッホキルヒ Hochkirchの戦い(一〇月一四日)ではダウン将軍率いる墺軍に歩兵の三分の一と砲一〇〇門を失う大敗を喫した。こうして劣勢に立ったプロイセンは、一七五九年八月のクーネルスドルフKunersdorfの会戦(八月一二日)では墺=露連合軍に壊滅的敗北を喫し、国王フリードリヒ二世自身が敵弾によって上着を打ち抜かれるありさまであった。翌六〇年八月にはベルリンの一部を占領されてプロイセンの命運も尽きるかと思われたが、ベルリン総攻撃をめぐって墺=露軍に亀裂が生じて露軍が退却したため、プロイセンとフリードリヒ二世は一命を取りとめることができた(ブランデンブルクの奇跡)。こうして同年一一月三日、エルベ河畔のトールガウTorgauの戦いで墺軍を破ったプロイセンは、 何とかザクセン確保に成功したのであった。
一方、フランスは北米やインドなどにおける植民地戦争でイギリス軍に負け続け、 プロイセンとの戦争どころではなくなっており、一七六一年八月にはついにスペインとの間で軍事同盟を締結して態勢の立て直しを図った。その時、イギリスのウィリアム・ピットWilliam Pitt(大ピット、後に首相〔在任一七六六~六八〕)はスペインに対しても宣戦布告しようとしたが、ニューカッスル首相Newcastle(在任一七五四~五六、五七~六二)や即位後間もないジョージ三世 George III(在位一七六〇~一八二〇)に反対され、辞職に追い込まれた。しかし結局は一七六二年一月に宣戦布告し、ポルトガルに侵攻したスペイン軍を撃退させるとともに、スペインの植民地であるキューバやフィリピンに大艦隊を派遣してハバマやマニラを占領している。しかし、長期間に及ぶ戦争は各国財政を疲弊させた。一七六一年一〇月、イギリスいぎりすかrあの援助を打ち切られて財政危機に陥ったプロイセンは貨幣改鋳で凌ごうとし、債務が膨らんだオーストリアも軍隊の規模縮小に踏み切っている。
そして一七六二年一月、露帝エリザベータの崩御が戦況を大きく転回させた。後継者のピョートル三世Pyotr III(在位一七六二年一月五日~七月九日、ドイツ語名カール・ペーター・ウルリヒKarl Peter Ulrich)はプロイセンと即時講和を結んで同盟者に変身し、破滅寸前まで追い詰められていたフリードリヒ二世を救ったのである。ピョートル三世は占領地域を全て返還し、賠償金も要求しなかったため、ロシア国内に不満の声が広がった。彼は早くも七月には皇后エカチェリーナ(後のエカチェリーナ二世Yekaterina II 〔在位1七六二~九六〕)支持の軍人たちによって殺害されてしまうが、エカチェリーナ二世も七年戦争では中立を守った。こうしてフリードリヒ二世は、五月にスウェーデンとの間に「ハンブルクの和議」を結んだ後、 ドイツに残ったロシア軍の一部の協力を得ながら、七月にはブルカースドルフ Burkersdorf の戦いに勝利を収め、七年戦争は終結したのである。神聖ローマ帝国内の主な諸侯は夏のうちに中立を宣言し、一一月にフランス主導で仏西英三ヵ国によるフォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、一二月にはザクセン選帝侯領のフベルツスブルクで和平交渉が開始された。フランスは仏英間のパリ条約(一七六三年二月一〇日)でカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、西インド諸島の一部、セネガル、インドを失い、それらはいずれも英領化された。またフリードリヒ二世は、プロイセン、オーストリア、ザクセン間で結ばれたフベルツスブルク条約(二月一五日)においてシュレジェンを確保し、マリア=テレジアの長男ヨーゼフ(後のヨーゼフ二世Joseph II〔在位一七六五~九〇〕)の皇帝選挙を支持すると約束した。
なお、ヨーロッパで七年戦争(一七五六~六三年)が戦われていたとき、北米やインドで展開されてきた英仏植民地戦争は、重大な局面を迎えていた。北米では一七五四年五二八日、アレゲニー川とモノンガヘラ川の合流地点(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)でジョージ・ワシントンGeorge Washington率いるヴァージニア植民地軍などがジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランスNouvelle-France(一五三四~一七六三年)民兵隊を襲撃するジュモンヴィルグレンJumonville Glenの戦いが発生し、翌年にはフレンチ=インディアン戦争French and Indian War(一七五五~六三年)に発展した。開戦直後はヌーベルフランス軍の勝利が続いていたが、イギリスの第二次ニューカッスル内閣で南部担当大臣を務めたウィリアム・ピットが実質的に指導し始めると形勢が逆転した。彼が植民地軍の軍事力を大幅に増強したのに対して、フランスはヨーロッパにおける七年戦争でプロイセンとその同盟国への援助を優先させたためである。一七五八年以降はイギリス軍の攻勢が続き、一七六〇年までにヌーベルフランスの中心地ケベックやモントリオールを攻略した。また、インドでは仏領インドの拠点ポンディシェリと英領インドのマドラスが戦ったカーナティック戦争Carnatic Wars(一七四四~六三年)の最中、一七五七年一〇月、フランス=ベンガル太守連合軍がロバート・クライヴRobert Clive率いる東インド会社軍に敗れた(プラッシーPlasseyの戦い)。フランスはこの劣勢を挽回しようとデカン高原のニザーム王国Nizamに駐屯していた兵士だけでなく軍艦もベンガル地方に派遣したが、圧倒的なイギリス海軍の力の前に大敗を喫したのであった(一七六〇年一月二二日、ヴァンデヴァッシュWandiwashの戦い)。註④
(四)フランスの財政・金融政策
ヨーロッパ大陸における七年戦争や北米・インドにおける英仏植民地戦争の勝敗を分けた要因の一つは、英仏両国の資金調達能力の差だという指摘がある(玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』)。確かに、(一六〇九年設立のアイルランド銀行よりは大分遅れるが)イギリスでは一六九四年創設のイングランド銀行が中央銀行としての機能を果たしていたのに対して、フランスでは一八〇〇年のナポレオン=ボナパルト Napoléon Bonaparteによるフランス銀行設立まで待たなければならなかった。その当時、イギリス政府の債務はフランスのそれよりも多かったが、中央銀行を持つが故に金融の信用度はフランスよりも高く、外国からの資金導入が容易であった。一八世紀のイギリスでは早くもイングランド銀行が国債を発行し、その返済を政府が保証するファンディング・システムFunding systemが発達しており、既に財政金融システムの中央集権化が進んでいたのである。また、財政面での相違も両国の戦費調達能力を大きく分けていた。当時、イギリスの税制は消費税を中心としており、それも所得が増えた階層をターゲットにしたビール、石炭、石鹸、皮革、ガラスといった「需要の所得弾力性」の高い奢侈品に課すことによって税収を伸ばしていたので、債務を抱えても返済しやすかった。そもそも産業革命前のイギリス議会では地主勢力が圧倒的に強かったために土地税を上げることは困難であり、間接税とりわけ消費税を主たる税収源とする必要があった。ただし、多くの貧民層のことを考慮すれば、生活必需品に課税することは不可能であったため、消費税の最大の負担者は貴族・ジェントリという最上層部ではなく、「中流層」middling sortと呼ばれる中間層であったと言われている。
一方、フランスの歳費収入の中心は、相変わらず直接税の土地税であった。七年戦争が終結して二年目に当たる一七六五年時点の英仏両国の「直接税・間接税比率」を比較してみると、直接税がイギリス二二%・フランス五四%、間接税がイギリス七五%・フランス四二%、その他がイギリス三%・フランス四%となっており、七年戦争以後のイギリスでは消費税・関税の割合が急速に増大しており、産業革命に突入し始めたことを如実に表している。一方、フランスの税制はどうなっていたのか。直接税の柱となっていたタイユtailleは、本来、防衛・軍事的活動を支えるための領主的課税という性格を継承した税であり、臨時的課税として三部会の協賛を必要としていたが、一五世紀以降は恒常的な国王課税となって王室財源の重要租税に成長していた。ただし、軍事税という名目を持つため聖職者や貴族、官職保有者は同税の負担を免除されていた。また、徴税は国王の直轄財務機構が租税の配分・徴収に責任を持つエレクシオン地域pays délectionsと、地方三部会に同意と配分、ときには徴収権すら認める地方三部会地域pays d'etatsgaとが存在したが、財務卿シュリーが登場した一六世紀末には親任官僚を派遣して徴税業務を厳しく監視し、地方三部会地域をエレクシオン地域に組み込むことによって地方三部会の課税同意権を剥奪しようとする努力がなされた。そして、親任官僚の派遣はルイ一四世期の地方長官(アンタンダンintendant de province)制に発展した。また、シュリーの改革には特権身分が免除されていたタイユ税の比率を引き下げて、全ての身分が負担する間接税(塩税)を引き上げるという税制改革に努めていることも特徴的であった。
また、タイユの納税者に対する付加税として徴収したカピタシオンcapitationという直接税は一七〇一年三月に再設されたが、地方長官が在地貴族の協力を得て貴族の税額を査定したために不当に低く決定されることが多く、地方三部会や都市は王権との間で一括納入契約を結ぶことで課税を免除されていたし、聖職者は納税義務そのものがなかった。さらには、一七三三年に復活したディジエーム(十分の一税)dixièmeもあらゆる収入の十分の一を徴収する直接税であったが、こちらも地方三部会や都市・フィナンシエfinancier(金融業者)などの特権団体は上納金支払いや一括納入契約により課税を免れ、聖職者は上納金八〇〇万リーヴルと引き換えに免税特権を得ていた。そこで一七四五年、財務総監に就任したマショー・ダルヌーヴィルJean-Baptiste de Machault d'Arnouville(在任一七四五~五四)は、戦間期の一七四九
年にヴァンティエームvingtième(二十分の一税)という新税を提案した。原案では全ての身分に差別なく、あらゆる土地や官職を課税対象にしていたため、翌年に開催された全国聖職者会議を始め、高等法院や地方三部会が激しく反発し、結果的には国王政府が例によって譲歩を重ねて顴骨堕胎され、ヴァンティエームは専ら農民に課す直接税と化してしまった。その結果、フランス革命勃発までの直接税・間接税の比率は、表「イギリスとフランスの直接税・間接税比率」のように推移し、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争が戦われた時期を除けば、直間比率は概ね直接税が間接税よりも若干上回る数字を残している。註⑤
(五)国王政府と高等法院の対立(1) ~ショワーズ改革と大法官モプー~
アンシャン・レジーム期に国王政府と激しく対立した高等法院の歴史は長く、一三世紀のルイ九世Louis IX(在位一二二六~七〇)の治世まで遡る。一三世紀後半の王権拡大にともなって、後の高等法院パルルマンParlement(一三二八年成立)の前身をなす、会計検査院シャンブル・デ・コントChambre des comptes(一三二〇年成立)の前身をなす、大評議会Grand conseil(一三一六年成立)の前身をなすが設立され、政務担当の国務会議、財政担当の会計監査院、司法を扱う高等法院へと発展し、宮廷の専門分化が進んだのである。シテ島に開設されたパリ高等法院は初め全国を管轄していたが、一四四三年に国王シャルル七世Charles VII(在位一四二二~六一)がトゥールーズ高等法院(ラングドック地方)の開設を認めた後は全国各地の行政首都に地方高等法院が設置された。しかし、パリ高等法院が最も広大な地域を管轄しており、最も権威のある法院であった。
高等法院は民事・刑事・行政の裁判権限を有し、終審裁判所の役割を担ったが、他の行政諸院の管轄事件に関しては上告が許された。また、最高責任者は国王に親任される法院長で、法院の司法官になるには弁護士資格を取得した後に売官制度を利用して官職を購入すれば良かった。なお、司法官の地位を世襲するにはポーレット法Paulette(一六〇四年)に基づいて毎年官職継承税マルク・ドールMarc d'orを支払い、かつ死ぬ四〇日以前に辞任と継承の宣告を行うことで子息に相続させることが可能となり、官職年税droit annuelを九年間払うことにより四〇日規定も免除された。このように、高等法院はあくまでも「裁判所」であったが、高等法院には全ての王令・法令を登録する責務(王令登録権)があり、国王に対して助言する権利(建白書提出権)と義務を帯びており、さらには治安維持や行政に関する指導権限を有したことで、やがて国王政府に対抗する組織へと成長したのである。しかし、絶対王政の最盛期を出現させた国王ルイ一四世は、国王のみが主権を行使できるとして最高諸院(高等法院・会計法院・租税法院・貨幣法院・大法院)cours souveratinesから「最高」という呼称を剥奪して「上級」という呼び名に変更した。また、最高諸院の中でも特に国王権力からの独立性が強かった高等法院に対しては王令登録権を奪い、 一六六七年と一六七三年の王令により建白書提出権を制限した。一六七五年三月、ボルドーで発生した民衆蜂起がブルターニュ地方に飛び火し、四月にレンヌ、五月初めにナントで大規模な反王税都市暴動が発生したときには、 有効な鎮圧手段を執らなかったレンヌとボルドーの高等法院を追放処分にしている。ところが、ルイ一四世が崩御してまもない一七一五年九月一二日、パリ高等法院はしたたかにもルイ一五世の親臨法廷で王令登録権・建白書提出権の回復に成功し、その後は租税問題や宗教問題などで国王政府とことごとく対立を繰り返すようになる。註⑥
この当時の宗教問題としては、一八世紀初め、南フランス各地に発生したプロテスタントの反乱(一七〇二~〇五年カミザールの乱La guerre des Camisards、セヴェンヌ戦争La guerre des Cévennes)以外に、ジャンセニスムJansénismeやイエズス会の問題が続いていた。そして、国王政府と高等法院はプロテスタント(ユグノー派)やイエズス会の問題に関しては概ね同一歩調をとったが、ジャンセニスム問題では深刻な対立関係に陥っている。一七一三年、教皇クレメンス一一世Clemens XI(在位一七〇〇~二一)が発したジャンセニスム弾劾の教皇勅書「ウニゲニトゥス」(神の御独り子Unigenitus)をめぐる教皇庁とジャンセニストの対立は、一七五二年、パリ大司教クリストフ・ド・ボーモンChristophe de beaumont du Repaireの指示を受けたサン・テティエンヌ・デュ・モン教区司祭が教皇勅書を受け入れない信者に「終油の秘蹟」を拒否するという事件を起こしたことで、一気に先鋭化した。一七世紀以降に流行したジャンセニスムは人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調して人々の心を捉えるようになり、高等法院の評定官の間にもジャンセニストが少なくなかったのである。そのため、パリ高等法院は「秘蹟拒否は行き過ぎた行為である」と判断して司祭を断罪したが、今度は反発した国務会議が高等法院裁決を破棄してしまった。翌年になると、パリ高等法院は「大建白書」を発して王権を厳しく批判し、国王政府も負けじとパリ高等法院のポントワーズPontoise追放を決定している。しかし、高等法院側も負けてはいない。彼等はエクス、ボルドー、トゥールーズ、レンヌ、ルーアンなどの地方高等法院や租税法院、さらには沸き立つ世論を味方にして対抗し、最後は国王政府の譲歩を引きだして追放解除を勝ち取ったのであった。註⑦
ところで、七年戦争が勃発して間もない一七五七年一月五日に発生した国王暗殺未遂事件(ダミアン事件、註⑧)の前後、ポンパドゥール夫人の不興を買った財務総監マショー・ダルヌーヴィル、陸軍卿ダルジャンソンRené Louis de Voyer de Paulmy d'Argensonが相次いで罷免され、一七五八年には彼女の推挙で外務卿となったショワズール公Étienne-François de Choiseul(在任一七五八~六一、六六~七〇)が登場する。彼は一七五二年、ショワズール・ボープレ夫人(従兄弟の妻)を国王の新しい愛妾にしようとする陰謀を密告してポンパドゥール夫人の信頼を獲得し、その後はローマ駐在大使として教皇ベネディクトゥス一四世Benedictus XIV(在位一七四〇~五八)とイエズス会問題の解決を探り、ウィーン大使としては外交革命(一七五六年)を側面から支えた。ショワズールが外務卿になった当時は七年戦争の最中であり、主戦派の彼はやがて陸軍卿(在任一七六一~七〇)・海軍卿(在任一七六一~六六)をも兼務する国王政府の最有力者にのし上がっていった。
ショワズールは「フランスの敵はイギリス」と考えており、その信念は七年戦争に敗れた後も変化することがなかった。また、彼自身は内政を重視したとは言いがたいが、彼の時代には開明的な専門職事務官によって国務会議の部局が充実している。特にリヨン地方長官から財務総監に任用されたベルタンHenri Léonard Bertin(在任一七五九~六三。辞任後も国務卿して残る)はトリュデーヌ父子(Daniel Charles Trudaine, Jean Charles Trudaine de Montigny)、ドルメッソンMarie François-de-Paule Lefèvre d'Ormessonなどの補佐を受けて自由主義的改革に乗り出した。例えば、農業では免税を伴う開墾・干拓の奨励(17六四年)、耕地囲い込みや共有地分割の許可(一七六七年以降、州単位で実施)を行い、工業では一七六二年に宣誓ギルドに加盟しない農村織物工業を許可してマニュファクチュア経営を拡大していた商人=製造業者層の経済的・社会的上昇を促した。また一七六三年には国内の穀物流通を自由化し、豊作時の輸出も許可している。こうした改革は改革立法をてこに中央集権化を強めようとする国王政府の意図に基づいていたが、地方に根を張る高等法院の頑強な抵抗に遭うことになった。また彼等の農業改革はフランス社会を根底から規定していた領主制の問題にメスを入れるものではないために、むしろ農村社会においては内部対立の火種となった。そして穀物流通の自由化は、買い占めを恐れる都市民衆・貧農層の不安を高めて騒擾に発展したため、一七七〇年には撤回されている。
ショワズールの下で財務総監ベルタンが自由主義的改革を行っていた一七六三年、ブルターニュ州軍司令官として赴任していたデギュイヨン公エマニュエルEmmanuel Armand, duc d'Aiguillonという人物が、住民の同意なく総括徴税請負人への新税を課そうとしてレンヌ高等法院と対立し、現地の司法機能は完全に麻痺した。翌年六月、国王ルイ一五世はレンヌ高等法院を解散させ、検事総長ラ・シャロテLa Chalotaisを逮捕して臨時法廷で裁こうとした。しかし、ラ・シャロテはポンパドゥール夫人やショワズールの人脈に与する男であり、パリやルーアンの高等法院がレンヌ高等法院を支持して一歩も譲らなかったことから、 最後はレンヌ高等法院の再開を容認せざるを得なかった。一七七〇年、デギュイヨン公がパリ高等法院で有罪判決を受けると、国王は所謂「ブルターニュ事件」のすべてを破棄し、さらには高等法院とショワズールとが繋がることを恐れてショワズール罷免に踏み切っている。その間に権勢を誇ったポンパドゥール夫人が死去し(一七六四年)、新しい愛妾デュ・バリ夫人Du Barry(一七四三~九三)と結びついた大法官モプーRené Nicolas Charles Augustin de Maupeou、財務総監テレJoseph Marie Terray、外務卿デギュイヨン公エマニュエルという反ショワズール派の三頭政治が開始された。特に大法官モプーは、一七七一年二月二三日司法改革に着手し、司法官職の売官制や裁判官への謝礼を禁止し、パリ高等法院管区内に控訴院に相当する五つの上級評定院を設置して高等法院が持つ権限の縮小化を図り、後には有給で解任可能な判事からなる新高等法院を設置した。モプーの改革は他の地域の高等法院にも拡大され、会計法院・租税法院など五つの最高諸院はすべて廃止された。註⑨
(六) 国王政府と高等法院の対立(2) ~テュルゴ、ネッケル、カロンヌの改革~
ショワズール失脚の一七七〇年、オーストリアから王太子ルイ・オーギュストのもとに嫁いできたのがマリ=アントワネットMarie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche(一七五五~九三)である。彼女は一七五五年一一月二日、神聖ローマ皇帝フランツ一世と帝妃マリア=テレジアの九番目の子として誕生した。七年戦争が終結して間もない一七六三年五月、母マリア=テレジアは末娘を仏王ルイ一五世の孫ルイ・オーギュストと結婚させようと考えてド・メルシー伯をフランスに派遣し、教育係としてド・ヴェルモン神父(ソルボンヌ大学)を招聘した。ルイ・オーギュストの父親(王太子ルイ・フェルディナン・ド・フランスLouis Ferdinand de France)はこの結婚話に反対していたが、その彼が一七六五年一二月に亡くなり、兄二人が夭折していたため三男ルイ・オーギュストが王太子となったのである。一七六九年六月、ルイ一五世から王太子との結婚に関する手紙が届き、翌年の復活祭(四月一五日)の日にフランスの特別大使ド・デュルフォールが六頭立て馬車四八台を連ねてウィーンに到着し、翌日には宮中参内と正式な結婚の申込みがなされた。一七日には大晩餐会・舞踏会が催され、翌日には大使側の返礼祝宴が開かれた。四月一九日、アウグスティヌス教会で形式的な結婚式が挙行され、ルイ王太子の代理は兄フェディナントが務めた。二一日にはマリ・アントワネット一行がフランスに向けて出発し、三七六頭の騎馬行列が華やかな雰囲気を醸し出したと言われる。五月六日には国境の町ストラスブルクに近いライン川の中州で「引き渡し式」が行われた。独仏両国側にそれぞれ玄関・控えの間(二小部屋付き)が設けられ、その中間につくられた大広間で花嫁の引き渡し式が挙行された。ただし、この会場を目撃した古典主義文学者ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(一七四九~一八三二)はゴブラン織りの壁掛けに描かれたギリシア神話「イアソンとメディアの物語」に不吉を感じ、憤慨したと言われている。五月一四日、国王ルイ一五世と王太子ルイはコンピエーニュの森まで出迎え、一六日にはヴェルサイユ宮殿「ルイ一四世の礼拝堂」で正式の結婚式が挙行された(ルイ王太子一五歳、マリ・アントワネット一四歳)。国家的な祝賀行事とするために当日は宮殿を一般開放としたが、夜の花火大会はあいにくの雷雨で中止となった。マリ・アントワネットが初めてパリを訪れたのは一七七三年六月八日のことで、ノートルダム大聖堂のミサに参列している。
さて、一七七四年五月一〇日、ルイ一五世が天然痘で身罷り、孫のルイ一六世Louis XVI(在位一七七四~九二)が即位した。彼は既に二〇歳になっていたが、一七四九年にポンパドゥール派によって失脚させられていたモールパ伯Comte de Maurepas(七三歳)が国務卿として復帰し、宮廷を取り仕切ることとなった。モールパ伯はスウェーデン大使ヴェルジェンヌCharles Gravier de Vergennesを外務卿に、リムーザン地方長官テュルゴAnne Robert Jaacques Turgot を海軍卿に招いた後、大法官モプーや財務総監テレを罷免してテュルゴを財務総監(在任一七七四~七六)につけた。こうして反ショワズール派による三頭政治の改革はすべて否定され、高等法院は旧に復したのである。モールパ伯の政治はショワズール派・改革派・高等法院などの勢力均衡の上に権力を維持しようとするものであったが、それはかえって宮廷内抗争を激化させ、王妃派と王弟派の対立を生んでしまった。その当時、王妃マリ・アントワネットは母マリア・テレジアの影響もあって愛妾の存在を嫌悪し、かねてからデュ・バリ夫人を嫌っていたルイ一五世の娘たち(アデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女)が王妃を味方につけようと画策したことが対立を一層深める結果となったのである。註⑩
財務総監となったテュルゴは宮廷費の削減や徴税の政府直轄化などの財政改革だけでなく、自由主義的経済理論に基づく改革に乗り出した。一七七四年九月には高等法院の反対にもかかわらず穀物・小麦粉の自由化を決定し、一二月には王令として登録させた。同年、天候不順で農作物は深刻な不作となり、翌年初めから穀物価格が急騰した。その結果、四月末から九月にかけてパリ周辺の民衆が市場と穀物価格の自主管理を求めて決起し、「小麦粉戦争」Guerre de Farinesと呼ばれる大規模な食糧暴動に発展した。その当時、蜂起した民衆は倉庫やパン屋の襲撃、輸送車や運搬船の差し押さえなどを行い、彼等の言う「公正価格」による販売を強制するのが通常の形態であったが、その理由は小麦やパンの値上がりの原因は天候不順などではなく、アリストクラートarisutocrate(貴族及び高位聖職者)による陰謀的な買い占めによるものだと決めつけていたからである。そして、彼等は自らの行動を政府当局への「警告」と見なし、当局が果たすべき義務の「代執行」を行っているに過ぎないと正当化していた(モラル・エコノミーmoral economy)。一方、政府当局側にもこうした民衆的観念に対応しようとする伝統的にパターナリズム(家父長制)paternalism的統治観念が存在した。ところがテュルゴは従来の慣行を全く無視して激しい弾圧を行ったため、これを境に伝統的な国王政府と民衆の関係にひびが入り、 民衆の国王に対するまなざしに変化が生じ始めた。また一七七六年一月、テュルゴは国王道路賦役やギルドの廃止など六王令を提案し、反対するパリ高等法院に対しては親臨法廷をもって強制的に登録させている。また同年、イングランド銀行をまねた割引銀行banque d'escompteを設置した。テュルゴはそのほか「ナントの勅令」復活や、全ての身分に課す単一地租、王領地の領主権廃止、デュポン・ド・ヌムールDupont de Nemoursの協力を得た地方行政改革などの構想を持っていたが、各方面から「秩序破壊」という批判が殺到して孤立感を深め、一七七六年五月、国王により罷免された。
その後、短期間、財務総監に任ぜられたクリュニーClugny de Nuits(在任一七七六) がテュルゴ時代の全ての王令を廃止し、同年一〇月には銀行家ネッケルJacques Necker(在任一七七六~八一)が財務長官に任命された。ジュネーヴ生まれの外国人であったネッケルは、政府内における権力基盤が脆弱であったため、 新課税には慎重な態度をとり続けた。既に大西洋の彼岸ではアメリカ独立革命(一七七五~八三年)が勃発していたが、一七七八年、アメリカ大陸会議のベンジャミン・フランクリンBenjamin Franklinの働きかけで仏王ルイ一六世が支援に踏み切ったときも、国庫借り入れによって戦費を賄おうとしたために負債が大幅に膨らむ結果となった。しかし、本来は開明的な銀行家であるネッケルは、まもなくテュルゴの構想へと回帰し、徴税など地方行政を行う(選挙による)「州議会」の設置に着手した。州議会の開設はベリー、オート・ギュイエンヌの二州にとどまったが、第三身分の議員数が特権身分のそれと同じく構想されており、国王政府と地方の知的エリート層を結ぶ機関となりうる画期的なものであった。しかし、こうした政策は既得権を侵害されることに敏感な地方長官や高等法院の抵抗を受け、また宮廷内でも孤立化を強いられたネッケルは一七八一年に罷免されてしまった。註⑪
ネッケルの後継者としてはジョリ・ド・フルリーJean Frannçois Joly de fleury(在任一七八一~八三)、ルフェーブル・ドルメッソンAndré Lefèvre d'Ormesson(在任一七八三)がいたが、いずれもたいした成果を残すことなく、一七八三年一〇月にリール地方長官カロンヌCharles Aleexandre de Calonne と交替した (財務総監在位一七八三~八七)。彼が就任した当時はアメリカ独立革命が終結し、その戦勝気分に浮かれた時期であった。カロンヌが財務総監に就任する少し前にヴェルサイユ条約Traité de Versailles(九月三日)が締結されて英仏西三カ国間に和平が成立したが、フランスにとっては莫大な負債を作ってまで参戦した割にはセネガル、セント・ルシア、トバゴ、インド植民地を回復したに過ぎないという情報が広がると、 国王政府に対する不満が高まっていった。その一方で、トマス・ジェファソンThomas Jefferson(第三代米大統領、在任一八〇一~〇九)らが起草した「アメリカ独立宣言」(一七七六年七月四日)に見られる天賦人権、人民主権、革命権(抵抗権)などの啓蒙思想はフランス国内に大きな影響を与えた。トマス・ジェファソン等に影響を与えたのはイギリスの思想家ジョン・ロックJohn Locke(一六三二~一七〇四)であるが、彼は名誉革命後の一六九〇年に『市民政府二論』(統治二論)Two Treatises of Governmentを発表し、「政府とは個々人が自己の自然権を守るために社会契約に基づいて作るものであるから、政府がこの目的にそぐわないものと化した場合には抵抗することができる」として名誉革命を理論的に正当化した。ジョン・ロックの社会契約説はイギリス植民地の人々に影響を与えただけでなく、アメリカ独立革命に参加したラ・ファイエット侯Marie-Joseph Paul de La Fayette(一七五七~一八三四)、サン・シモン伯Claude Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simon(一七六〇~一八二五)らによってフランス各地に伝えられたのである。ただし、ラ・ファイエットやサン・シモンが貴族身分であったことからも明らかなように、 啓蒙思想の影響を受けたのは民衆とは限らず、むしろ身分に関係なく知的エリート層に広がったと見なすべきである。
なぜなら、一七世紀後半のイギリスで興り、一八世紀にヨーロッパやアメリカの都市部に広まった啓蒙思想は、広範な人々に自由な考えと社会改革を促すことになったからである(「啓蒙」=リュミエールlumière〔光明〕の時代)。例えば一八世紀にはヴォルテールVoltaire(François-Marie Arouet、一六九四~一七七八)と親交を結んだ普王フリードリヒ二世、古典派音楽の代表モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart(一七五六~九一)を宮廷音楽家として雇い入れた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世、ヴォルテールやディドロDenis Diderot(一七一三~八四)の影響を受けた露帝エカチェリーナ二世などの「啓蒙専制君主」が現れている。一方、フランス王国ではラ・ファイエット夫人Madame de La Fayette(一六三四~九三)の小説『クレーヴの奥方』で知られているように、 既に一七世紀にはランブイエ館やスキュデリ嬢Magdeleine de Scudéry(一六〇七~一七〇一)の「土曜会」などのサロンsalonが開かれていたが、 (ルイ一四世の親政期にはヴェルサイユ宮殿が社交の中心となってサロン文化は廃れたものの)一八世紀に入るとタンサン夫人Guérin de Tencin(一六八五~一七四九)、ランベール伯夫人Anne Thérèse, comtesse de Lambert(一六四七~一七三三)、メーヌ公夫人Anne-Louise, duchesse du Maine(一六七六~一七五三)、同世紀後半にはジョフラン夫人Marie Thérèse Geoffrin(一六九九~一七七七)、デュ・デファン夫人Marquise Du Deffand(一六九七~一七八〇)、レスピナス嬢Julie Jeanne Eléonore, medemoisellie de Lespinasse(一七三二~七六)などが催したサロンには大貴族とその奥方、高等法院評定官、国王政府要人だけでなく、学者・作家・芸術家が招待されて賑わった。とりわけ注目すべきは、啓蒙思想家の領袖とでも呼ぶべきヴォルテールや人民主権を唱えたルソーJean-Jacques Rousseau(一七一二~七八)らがサロンに出入りし、新しい思想を普及させたことである。またその当時、民衆の間にも読み書きを習う習慣が広まり、物語やニュース・評論を載せる新聞・雑誌の刊行が始まったことも社会の変化を促す大きな要因となった。パリのカフェ文化は、一六八六年、サン=ジェルマン=デ=プレ界隈で営業を開始したル・プロコップLe-Procopeに始まると言われているが、居酒屋よりも少し上品なカフェcaféではコーヒーを飲むだけでなく、店内備え付けの新聞や雑誌が読まれ、市民の社交や情報交換の場所となったのである。やがてカフェ文化は、コーヒー・紅茶を飲む習慣の広がりとともにフランス人の生活に根付き、一八世紀に入るころには三〇〇軒ほどに増え、フランス革命前には約七〇〇軒になっていたという。大学やアカデミー、科学協会で誕生した啓蒙思想は、サロンやカフェを通じて多くの人々の間に浸透し、一八世紀後半には「世論」(「公共意見」opinion publique)を登場させる。深刻な財政難に陥った国王政府は、高等法院との確執を乗り切るために世論を味方につけようとし、選挙による代表制を導入して「啓蒙専制主義」despotisme éclairéの傾向を強めることとなった。その結果、国王政府と高等法院の双方は激しいパンフレット合戦を展開し、これが知的エリート層のみならず一般民衆をも「政治化」させたのである。註⑫
ところで、戦後不況が深刻化した一七八六年八月、カロンヌが提出した財政改革案は、全ての身分を対象とする新税「土地上納金」の課税、割引銀行の国立銀行への改組、州議会の設置という大胆な内容で、高等法院との無用な対決を避けるために「名士会議」に諮ることにした。この会議は国王が構成員を指名する臨時の諮問機関で、王族・高位聖職者・将軍・高等法院評定官・大都市市長ら合わせて一四四名によって構成された。翌年二月に召集された会議では、提案された改革案のほとんどに賛成が得られたが、 新税の問題から財政改革全体が暗礁に乗り上げ、混乱を収拾できないカロンヌは四月に罷免された。翌月、 名士会議議員のトゥールーズ大司教ロメニ・ド・ブリエンヌÉtienne Charles Loménie de Brienne を財務総監(在任一七八七~八八)に任命したが、名士会議自体が「自分たちには新税案に同意する権能がない」として討議の続行を拒否したため、月末には解散することとなった。しかし、ブリエンヌは六月二三日の王令で(ネッケル案を継承した)州議会設置を命じている。この議会は、 (市町村・県・州という階層性を有するものの)個々人の投票で議員が選出され、第三身分の議席数と特権身分の合計とを同数とするなど画期的な内容であった。ブリエンヌの狙いは、高等法院・地方三部会に代わる新たな代表機関の設置にあり、 地方の知的エリート層を国王政府に取り込むことにあった。ところが、この改革もまた激しい抵抗に遭い、 州議会設置は全部で一七州(ネッケル時代のベリー州、オート・ギュイエンヌ州を加えると一九州)にとどまった。しかし、新たな政治的・社会的基礎を創出しようとする国王政府の取り組みは、特権身分の抵抗だけでなく、第三身分の意識覚醒をも促すことに繫がったのである。
一方、パリ高等法院は「州議会」設置などの改革案については寛容であったが、七月以降に提案された財政改革案については断固として反対の姿勢を示した。彼等が全国三部会の開催を求めて国王政府と厳しく対立すると、地方の高等法院もこれに追随するようになった。こうして一七八七年夏以降は、国王ルイ一六世の親臨法廷における「王令の強制登録」、パリ高等法院による王令の破棄、パリ高等法院のトロワ追放(八月一四日、その後撤回)、一一月の「一七九二年全国三部会開催」の約束と続き、国王政府と高等法院は支離滅裂の対立を繰り返した。フランスの国王裁判権はいわゆる三審制で、代官裁判所(baillage, sénéchaussée)、上座裁判所présidial、最上級の高等法院parlementとに分かれていたが、一七八八年五月八日、国璽尚書ラモワニョンChrétien François de Lamoignonは、控訴審に相当する四七の「大バイヤージュ」法廷を創設して高等法院の権限を縮小させ、併せて王令登録権・建白書提出権を剥奪する王令を強制登録させた。この強硬策は全国各地の高等法院の反発を生み、これに帯剣貴族・聖職者が同調して「貴族の反乱」が広がった。反乱軍の主張は、州議会の設置反対(フランシュ・コンテ、ドーフィネ、ギュイエンヌなど)や地方三部会の復活(エノー、プロヴァンス、ドーフィネ)など地域差が見られたが、概ね貴族の慣習的特権を維持しようとする「地域割拠主義」の色彩が濃厚であった。なかでも地方三部会が存続していたブルターニュ州では、五月九日、レンヌで地方長官ベルトラン・ド・モルヴィルAntoine François de Bertrand de Moolleville が負傷する騒擾に発展した。一方、ドーフィネ州では六月七日、追放処分を受けた高等法院が町を出ようとした時、後に全国三部会議員となる弁護士のムーニエJean-Joseph MounierやバルナーヴAntoine Pierre Joseph Marie Barnaveら第三身分の人々が貴族と連携して軍隊と衝突し、屈服した地方長官は高等法院の復活を認めている(「瓦の日Journée des Tuiles」)。七月二一日、ムーニエやブルナーヴらが近郊のヴィジーユVizilleで開いた会議には聖職者・貴族・市民が合わせて七〇〇名以上も参加し、 地方三部会や全国三部会の同意がなければ新税を支払わないこと、それらの三部会では第三身分の議員数を他二身分の合計数と同じくすることを決議し、地方的特権よりも国家的統一性を優先させる意志を表明した。
ところで、一七八〇年以降、アメリカ独立革命でフランスを支援していたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、第四次英蘭戦争(一七八〇~八四年)に敗れ、一七八四年五月二〇日、パリ条約でインド南部のナーガパッティナムNagapattinamをイギリスに割譲した。仏蘭両国は一七八五年以降に公的な同盟関係に入ったが、一七八七年、親仏的な「パトリオッテン派」(愛国派)が総督ウィレム五世Willem V van Oranje-Nassau(在位一七五一~九五)に反乱を起こし、ウィレム五世はハーグからナイメーヘンへと逃れ、 首都アムステルダムやロッテルダムは反乱軍の手に落ちた。その時、義兄のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世Friedrich Wilhelm IIが派遣した普軍がオランダを制圧して愛国派を掃討し、翌年八月にはイギリス、プロイセン、オランダ間で軍事同盟が結成された。こうした危機的状況に陥ったとき、フランス政府内部では陸軍卿セギュールや海軍卿カストリが普軍に対抗するための派兵を主張したが、財務総監ブリエンヌは財政難を理由にこれを抑えてしまった。その当時のフランスの財政問題は、アメリカ独立革命への派兵が生んだ負債の増加だけではなかった。一七八六年九月二六日、 英仏両国は英仏通商条約の締結で相互に関税引き下げを合意していたが、既に産業革命(一七六〇~一八三〇年代)に突入していたイギリスの商品が大量に流入し、フランス経済を圧迫していたのである。オランダ問題は国王政府内の対立を激化させ、陸軍・海軍の二大臣の辞任に続いて、ブリエンヌもまた(さきに約束した全国三部会召集を一七八九年五月一日に繰り上げることを決めたうえで)八月二四日に辞職した。こうして、フランスの司法改革はまたしても挫折し、ネッケルの再登場となるのである。
しかし、「時すでに遅し」の状態となっていた。旧体制(アンシャン・レジーム)を支えてきた身分秩序の崩壊に続いて、国王政府と高等法院の間で保たれてきた絶妙なバランスが崩れたことが抜き差しならない対立に発展し、ストレス・ゾーンの摩擦熱がついに発火点に達したのである。一九世紀の政治思想家トクヴィルAlexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville(一八〇五~五九)によれば「革命というものは突然おこるものではない。改革がその前にあって、改革が失敗するところから革命がおこるのだ」。革命はすぐ間近に迫っていたのである。註⑬
註① 柴田三千雄『フランス革命』(岩波セミナーブックス30)一~六三頁、柴田三千雄「フランス革命とヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史⒙ 近代5』所収第六論文)六七~八〇頁、Albert Mathiez, La Révolution française, 3 vols.Collection Armand Colin. ねずまさし・市原豊太訳『フランス大革命』上・中・下(岩波文庫)、Georges Lefebvre, Quatre-vingt-neuf, Paris, 1939.高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳『1789―フランス革命序論』(岩波文庫)、各参照
註② 「ローのシステム」崩壊は、フランス経済を大混乱に陥れたものの、(長期的展望に立てば)その功績を見
逃してはならない。国家債務は明らかに減少し、流通し出した銀行券で農民の土地に重くのしかかっていた永代ラントを買い戻す例も数多く見られた。貿易面でも大西洋経済の活性化により、アンティル諸島の砂糖生産が増加し、ナントやボルドーなどの貿易港は活況にわいた。インド会社の根拠地ロリアン港では専属船舶数が倍増して三〇隻となり、北米のルイジアナ植民地では摂政オルレアン公の名に因むヌーヴェル・オルレアンLa Nouvelle-Orléans(ニューオリンズNew Orleans)という町が建設された。二宮宏之「十八世紀の政治と社会」第一~三節(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二四五~二六八頁参照
註③ 神聖ローマ皇帝カール六世は一七〇三3年の相続協定に加えて、一七一三年には「国事勅書」(プラグマティッシェ=ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を発してハプスブルク家領の不分割・不分離のみならず、女子相続の場合は自らの家系がヨーゼフ系に優先することを確定し、双方の家系に女子もなければ前代のレオポルト一世に発する女子を相続人とした。一七一七年にはマリア=テレジアが誕生したが、バイエルン選帝侯アール・アルブレヒトや西王フェリペ五世Felipe V(在位一七〇〇~二四、二四~四六年、仏王ルイ一四世の孫、西ボルボン朝=ブルボン朝の祖)は女子相続に反対し、普王フリードリヒ=ヴィルヘルム一世Friedrich Wilhelm I(在位一七一三~四〇、ホーエンツォレルン家)や仏王ルイ一五世も同調した。坂井榮八郎「二大国の対立と帝国」(成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史2』所収)一〇五~一一七頁参照
註④ 坂井榮八郎前掲論文一一一~一一七頁参照
註⑤ 玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』(ちくま新書)二九~三八頁参照。Peter Mathias and Patrick Karl O'Brien. “Taxation in Britain and France, 1750-1810:A comparison of the Social and Economic Incidence of Taxes Collected for the Centoral Governments ”, Journal of European Economic History.Vol.6, No.3, 1976, p.622. ジョン・ブリュアJohn Brewer『財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家一六八八―一七八三』、BritishParliamentary Papers, vol.35(1668-69)参照
註⑥ 柴田三千雄『フランス史一〇講』(岩波新書)八八~九二頁、高澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)一七二頁、林田伸一「最盛期の絶対王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二〇四頁、拙稿「フランス絶対主義の光と影」(水戸一高『紀要』第五四号)各参照。
註⑦ 一七一五年「管区に関する王令は、高等法院で審議し登録されない限り効力を持たない」と定められた王令登録権(ただし、国王が親臨会議を開催して登録を強制すれば従う必要がある)と建白書提出権を回復して蘇生した高等法院は、その後、プロテスタントやイエズス会の問題では国王政府と協調関係を維持した。例えば、一七六一年、パリ高等法院はあるイエズス会士の破産事件を契機にイエズス会そのものを有罪と断じて、 翌年には管区外への追放処分を行ったが、国王政府も一七六四年の王令でフランス全土におけるイエズス会の活動を禁じている。高等法院とイエズス会が対立した背景には、一七五八年、教皇クレメンス一三世Clemens XIII(在位一七五八~六九) の選出まで遡り、ガリカニスム(フランス国家教会主義)Gallicanisme的傾向があるジャンセニストとローマ教皇庁に直結していたイエズス会とが激しく対立したのである。なお、高等法院については拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(上)」(水戸一高『紀要』第五二号)三~一一頁、カミザールの乱(セヴェンヌ戦争)については拙稿「フランス・プロテスタントの反乱」(水戸一高『紀要』第五三号)を各参照のこと。
註⑧ 一七五七年一月五日の夕刻、ヴェルサイユ宮殿からトリアノン宮殿へ赴くために馬車に乗ろうとしたルイ一五世は、ロベール・フランソワ・ダミアンRobert-François Damiensという男に襲撃された。ダミアンは短刀で王の脇腹を刺したが、王は普通のコートの上にさらに毛皮のコートを重ね着していたため、傷はかすり傷程度のものであった。ダミアンはアルトワ地方の生まれだが妻や娘を捨ててパリへ出て、 高等法院評定官の邸などで働いていた四二歳の男で、勤め先の金貨二四〇ルイ(五七六〇リヴール)を盗んで逃亡していた。ダミアンはパリ市庁舎前のグレーヴ広場で、足責めの拷問を受けた上で八つ裂きの刑に処せられた。安達正勝『死刑執行人サンソン』(集英社新書)九五~一〇二頁参照
註⑨ 柴田三千雄「十八世紀の政治と社会」第四~五節(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二六八~二八〇頁参照
註⑩ 三浦一郎『世界史の中の女性たち』(社会思想社)一四一~一五二頁、パウル・クリストフ編『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(岩波書店)Paul Christoph, MARIA THERESIA GEHEIMER BRIEFWECHSEL MIT MARIE ANTOINETTE参照のこと。なお一七八五年八月一五日に起きた王妃マリ・アントワネットの「首飾り事件」は、宮廷に出入りしていたド・ラ・モット・ヴァロア伯爵夫人と称する女が、王妃の名を騙って、宝石商ベメールから五四〇粒ものダイヤモンドを連ねた首飾りを奪った事件。裁判ではヴァロア夫人が有罪となったが、民衆は王妃も同罪と受けとめた。また、マリ・アントワネットは一七七八年末の第一王女マリ・テレーズ・シャルロットMarie Thérèse Charlotte de France(一七七八~一八五一)出産以後、 第一王子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワLouis-Joseph Xavier François de France(一七八一~八九、王太子)、第二王子ルイ・シャルルLouis-Charles de France(王太子、 ルイ17世Louis XVII、一七八五~九五)、第二王女マリ・ソフィー・ベアトリス(一七八六~八七)と相次いで子宝に恵まれたが、一七八九年六月四日、第一王子が亡くなったとき、王室には埋葬費さえない状態となっており、銀の食器を売って工面したと伝えられている。
註⑪ 柴田三千雄前掲論文第六節二八〇~二八四頁参照
註⑫ フランスではプロテスタント教会が早くから聖書を日常語訳で読むのに必要な識字教育に取り組み、一七世紀にはカトリック教会も力を入れた。一九世紀後半に行われたマッジオロLouis Maggiolo(一八一一~九五)の調査では、教区記録簿に書かれた新郎・新婦の署名の有無から識字率を算出する方法がとられた、それによれば一六八六~九〇年の時点では男性二八・七%、女性一四%であった識字率が、一七八六~九〇年には男性四七・五%、女性二六・九%へと急上昇している。地域別に見ると西フランスのサン・マロとスイスのジュネーヴとを結ぶ直線の上方に位置する地域の識字率が高く、下方は低い。また、山岳地帯よりも平地で、貧しい地方よりも豊かな地方で、人口の過疎地域よりも稠密地域で識字率が高く、都市住民は周辺農村のそれよりも高い。農村の識字率が低い原因は、住民共同体の財政に干渉していた地方長官や行政官たちが、農業生産に使われるべき資金が教育費に回されることや、教育を受けた農村青年が都会に向かう離村向都現象を起こすことを恐れて農民教育に消極的だったことが考えられている。そして、重農主義者やディドロ、エルヴェシウスClaude-Adrien Helvétius(一七一五~七一)、ドルバックPaul-Henri Thiry,barond'Holbach(一七二三~八九)を除く啓蒙思想家の多く、例えばヴォルテールやルソーは農民教育に否定的であったことにも注目する必要がある。
柴田三千雄前掲論文第六節二八〇~二八四頁、長谷川輝夫「十八世紀の社会と文化」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二九六~三一四頁、林田伸一「近世のフランス」(福井憲彦編『新版世界各国史⒓ フランス史』所収)二二一~二三八頁、各参照。
註⑬ Alexis de Tocqueville;L'Ancien régime et la Révolution .トクヴィル著『アンシャン・レジームと革命』(井伊玄太郎訳、講談社学術文庫)参照
* 本文中の地図は『朝日=タイムズ 世界歴史地図』(朝日新聞社)一九六頁から引用し、写真はインターネットから利用させていただいた。
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