1.11世紀の変化
科学文明が驚異的な発展を成し遂げた20世紀は, 私たちの生活を豊かで便利なものに変えたが, 同時に人類の存在を危うくした時代でもある。今世紀になって我が国で発生した東日本大震災に伴う福島第一原発事故は, 私たちに対する最後の警鐘なのかも知れない。そして深刻な環境破壊の一つに, 地球温暖化の問題がある。二酸化炭素など温室効果ガスの大量発生は, 地球全体を温暖化させ, 気候変動や海水面の上昇をもたらすのは明らかだと言われている。
ところが, 長い歴史の中には, 地球の温暖化が人々の生活をより良い方向で変化させた時代がある。その代表例が11世紀である。もちろん, 温暖化は変化の一要因でしかないけれども, 確かに変化の背を押している。例えば「気候変動に関する政府間パネル」Intergovernmental Panel on Climate Change(IPCC)によれば, 過去2000年間の気候変動をグラフ化すると, 左表のようになり, 10~14世紀が「中世の温暖期」(MWP)に当たり, 14世紀半ばから19世紀半ばにかけては「小氷河期」(LIA)に相当する。従来から絵画資料や日記のような記述史料で指摘された温暖期について科学的な裏付けがなされたことになる。但し,「科学的」成果が本当に正しいか否かは, 未だ確定していないようである。
さて, 地球の温暖化は, 11世紀初めからの農業革命をもたした。その内容は多岐にわたり, 先ず第1に鉄製農具や重量有輪犂の使用, 家畜繋駕法の改良, 水車・風車の使用など技術面での変化がある。特に重量有輪犂の使用は, 家畜繋駕法の改良と相まって深く耕すことによってバクテリアの繁殖を促し, 農作物の収穫を増やすことにつながった。また, 第2にライン・ロワール両河川に挟まれたニーダーフランケン地方では, 三圃制度の普及によって地力回復を容易にしている。そして第3に, 開放耕地制度に伴う共同耕作は集村化現象を起こした。ゲルマン民族の定住期からカロリング期にかけての村落(原初村落Urdorf)は, 4・5戸から10戸内外の農民ホーフHof(家屋敷)のルーズな集合体(散村)で, 家屋敷近くに小規模な菜園(ブロック型耕地)と主穀を栽培するための広大な長地条型共同耕地(エッシュ耕地)を持ち, 標準農家1戸当たりの耕地面積は平均8~11モルゲンmorgen(1モルゲンは26~36ha)と言われる。それが, 農耕の集約化,(単独相続制から分割相続制への)相続慣行の変化, さらには土地の交換・売買・寄進の増加, 二圃制や三圃制度の普及, 既耕地の分割に加えて大開墾時代を迎えたことなどにより, 20~30戸内外(時には100戸以上)の密集村落(集村Gewanndorf)に変化する。
こうした集村化現象は, 従来の古典荘園から地代荘園(純粋荘園)への転換をもたらす。それは, 増加した定地賦役の増加が, 保有農による種子の用意につながり, 結果的に保有農の賦役労働と農民保有地耕作の合体を生み出したからである。その結果, 保有農民の賦役労働量が減少し, 生産物地代や貨幣地代を中心とする地代荘園へと変化する。また同時に, 共同体的結びつきが強化され, 所謂「村落共同体」が誕生する。集村の核となっていたのは教区司祭を中心とする教区教会で, 彼らは冠婚葬祭や日曜ミサを通じて布教活動を展開し, 教会行事や農事暦と結びついた祭礼などは共同体的結合を宗教面から補完した。また, 古来から連綿と続いてきた土俗信仰がローマ=カトリック教と接合したのもこの時代である。
一方, 荘園領主は, 貨幣地代の拡大によって収入の減少化という問題を抱えることになる。貨幣経済の浸透は(わずかではあるが)貨幣価値の低減を引き起こしたからである。彼らの危機意識は一円的な領域的裁判支配権として結実する。古典荘園の解体は領主裁判権juridiction seigneurialeに由来する人的支配関係の消滅ないし希薄化をもたらして農民層に身分的解放と連帯の契機を与えたが, 領主層はこうした動きを巧みに利用し, 土地と人民に対する支配を完成したのである。領主の公吏不入権(インムニタスimmunitas,インムニテートimmunitat)は有名であるが, 域内の行政・警察・裁判・課税などあらゆる権限が領主に集中し, 11世紀以降のフランスではシャテルニーchatellenieと呼ばれる城を中心として村落共同体を一円的に支配する領地が形成されたのである。既に9世紀後半に成立していた封建制社会の秩序観念は, 1027年頃, ランス司教アダルベロンAdalbéron de Reims(947頃~1030)によって定式化されたが, それはこうした変化に相応するものであった。所謂「神の家」には祈り, 労働, 戦いという3機能があり, それぞれ聖職者・農民・騎士が担うとされていたが, 地域の教会は生活規範を管理し, 領主は治安を担当し, そして民衆は経済活動に勤しむものと考えられた。こうして, 領主の館は従来の防護柵をめぐらした木造二階建てから, 12世紀には深い堀に囲まれた石造りの堅牢な城砦へと変化したのである。
封建制社会の成熟は, 農村手工業の発達を促し, 荘園内で生産された製品の商品化が活発となる。ヨーロッパに限らず, 古代社会の交易は奢侈品を遠隔地に輸送することによって利益を確保するものであったが, 新たに登場した中世商業は在地的・局地的商業と呼ばれる生活必需品の割合が次第に高まった点に特徴がある。古典荘園時代にも荘園内で商品生産が行われていたが, やがて商人たちが都市的集落(司教都市civitas・城砦都市burg・建設都市curtis)の周囲に定住するようになり, 商人定住地区wikに商人・手工業者の都市集住(スブルビウムsuburbium)が進んだ。10世紀以降, 彼らはノルマン人や封建諸侯の掠奪から身を守るために市壁建設を本格化させ, 12世紀頃には完成して中世都市が誕生する。14世紀初めのフランスには, パリParis, ルーアンRouen, ブールジュBourges, トゥールーズToulouse, モンペリエMontpellier, ボルドーBordeauxなど20以上の中世都市が誕生していた。注①
以上のような11世紀の変化は, そこに生きていた人々の暮らしに, そして国家の在り方やキリスト教世界に劇的な変化をもたらす。そこで, 聖職叙任権闘争や十字軍戦争に明け暮れた11~13世紀の西ヨーロッパ世界を, 三人の女性の生涯を見つめながら辿ってみたい。
2.聖職叙任権闘争と女伯マティルデ
ローマ=カトリック教の修道院は, 529年聖ベネディクトゥスBenedictus de Nursiaが建立したモンテ・カッシーノ修道院(伊)が最初で, その後あいついで, ヨーロッパ各地に建設された。聖ベネディクトゥスは, 服従・清貧・貞潔を徳目とし“祈れ, 働け”をモットーにした会則を制定したことで知られ, その後に設立された多くの修道院がこれをとり入れている。一方, ほぼ同じ時期にローマ教皇を頂点とする聖品的ヒエラルキーと行政的ヒエラルキーという2系統の階層制度を持つ教会組織が作られたために, 聖品的ヒエラルキーの上位を占める司教が同時に国王権力に従属する荘園領主であることは当たり前のことであった。それ故, 世俗権力による教会支配に違和感を抱く者はなく, 聖職者による聖職売買や妻帯が横行していた。修道院と教会は, 同じキリスト教の組織とはいっても全く相反する性格を有しており, やがてその矛盾が両者の対立を生み, 修道院による教会刷新運動が発生する。
10世紀末の南フランスに発生した「神の平和」(Paix de Dieu) 運動は, 989年1月ポワティエ伯領シャルー Charrouxでボルドー司教主催の教会会議が開催されて「なんぴとといえども, 農民またはほかの貧者からその財産, 牛, 驢馬, 山羊, 羊, 豚を奪った者は破門さるべし」として暴力停止を求めたことに始まり, 翌990年ナルボンヌ公会議でその遵守を騎士たちにも誓約をもって約束させた(注②)。戦乱の世に生きる人々が渇望した「神の平和」は, 宗教の力で封建諸侯間の私闘を抑え貧民たちの命や財産を保護しようとするもので, 修道院に対する期待の高まりに結びつく。そして, 修道院運動の核となったのは, 909年ないし910年アキテーヌ公ギヨームGuillaumeⅠ(在位898~918)がブルゴーニュのマコン伯領に建立したクリュニー修道院Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Clunyで, 初代院長ベルノーは聖ベネディクトゥス会則を厳守して貧民保護に努めた結果, 多くの人々の信望を集めたと言われる。注③
クリュニー修道院を中心とする教会刷新運動は, ローマ教皇と世俗権力の間で繰り広げられた聖職叙任権闘争(1075~1122)へと発展する。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世がクリュニー修道院の精神的後継者でもある教皇グレゴリウス7世に屈服するカノッサの屈辱(1077)は教皇権隆盛の端緒として有名であるが, ここではカノッサ城の女主人の動向に注目してみたい。
彼女の名はトスカーナ女伯マティルデMatilde di Canossa(1046~1115, 女伯にして女公commitissa ac ducatrix)といい, トスカーナ辺境伯ボニファッチョBonifacioと上ロートリンゲン公フリードリヒの娘ベアトリクスBeaticeとの間に次女として生まれた女性であった。暴君として知られた父親は彼女がまだ幼い頃に暗殺され, 未亡人となった母親は1054年従兄ゴッドフリート髭公(上ロートリンゲン公)と再婚している。新トスカーナ伯ゴッフレード(髭の殿様)は相次いで北イタリア各地を侵攻するが, イタリア政策を展開する神聖ローマ皇帝ハインリヒ3世Heinrich Ⅲ(ドイツ王在位1028~56, 皇帝在位1039~56)の攻撃には耐えきれず, ロートリンゲン地方へ逃亡している。残されたベアトリクスが長女マティルデを伴ってフィレンツェの皇帝に拝謁したところ, 二人とも拘束されてドイツへ連行され, カノッサ城にいた長男フェデリーゴと長女ベアトリーチェは二人とも殺されてしまった(1055年)。
1056年そのハインリヒ3世が亡くなり, 跡を継いだのは息子ハインリヒ4世Heinrich IV(ドイツ王在位1056~1105, 皇帝在位1084~1105, 以下「皇帝」と表記)である。息を吹き返したゴッフレードは実兄を新教皇ステファヌス9世(在位1057~58)として擁立することに成功したが, 1069年暮れには亡くなっている。当時マティルデは, 教皇庁最大の実力者イルデブランドIldebrandoの後見を受けるようになっており, 24歳の時, 彼の推薦で亡きゴッフレード髭公の先妻ウーダの子ゴッフレード2世(下ロートリンゲン公, せむしのゴッフレード)Gottfried der Buckligeと結婚し, しばらくはロートリンゲンで過ごした。しかし, 1071年頃出産した子どもが亡くなり, 翌年にはマントヴァMantovaに住む母ベアトリクスのもとへ戻ってしまう。彼女は後にイルデブランドの配慮で離婚し, 1076年2月ゴッフレード2世は刺客に襲われて落命する。こうして, トスカーナ地方には母ベアトリクス・娘マティルデの共同統治体制が成立したのである。
教皇庁では, 教皇のステファヌス9世, ニコラウス2世(在位1059~61), アレクサンデル2世(在位1061~73)が相次いで亡くなり, 1073年, イルデブランドが新教皇に選出された。教皇グレゴリウス7世Gregorius VII(在位1073~85)の出現である。彼は, 教会の自由・純潔・普遍を目標に, シモニア Simonia(聖職売買など聖職をめぐる一切の不正)や妻帯(ニコライティズムnicolatism)を厳しく断罪して聖職者の倫理的刷新を図る一方, 全教会に対する教皇権首位権の確立や, 教権の俗権からの解放(とりわけ俗権による聖職叙任の禁止), 教権の俗権に対する優越をめざした所謂「グレゴリウス改革」に取り組み, 帝国教会政策を推進していた神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世と対立する。ハインリヒ4世は, ドイツ諸侯の非協力に加えてザクセン公の反乱が起きたために, 1074年5月ニュルンベルクNürnbergでそれまでの叙任権をめぐる教皇への態度を謝罪し, 教皇への服従と教会改革への協力を約束した。しかし, 翌年ホーエンブルクHohenburg でザクセン公を破ると, 皇帝は子飼いの司祭テダルドをミラノ司教にして俗人による叙任を禁じた教皇に対して露骨に挑戦し, プッリャ・カラブリア伯ロベルト・グイスカルドRoberto il Guiscardo d'Altavilla(後の両シチリア王ルッジェーロ2世の叔父)と提携するなどして再びイタリア政策を強力に推進し始めた。
教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世に書簡を送って一連の動きを非難し, 教会による懲罰だけでなく, 王位剥奪まで示唆して警告した。激昂したハインリヒ4世は急遽ヴォルムス教会会議Worms(1076年1月24日開会)を召集したが, その会議には教皇に反感を抱いていたドイツの高位聖職者だけでなく, かつての教皇の盟友でありながら敵対者となった枢機卿ヒューゴ・カンディデゥスも出席していた。教会会議では教皇廃位を決定するとともに, 教皇に対する忠誠の誓いを破棄したため, 勢いに乗ったハインリヒ4世は教皇庁に新教皇の選出を要請した。彼等は, イタリアのピアチェンツァ司教会議Piacenzaでロンバルディア地方の司教たちの支持を確保した後, ローマのサン・ジョバンニ・イン・ラテラーノ大聖堂San Giovanni in Lateranoで開かれた司教会議にパルマ司教ローランドを派遣して教皇廃位の要請を伝達し, 教皇と皇帝の対立は決定的となった。
教皇グレゴリウス7世はハインリヒ4世を破門し, 臣下の「服従の誓い」を解いた。この宣言は教会共同体からの締め出しと帝位剥奪を狙ったものであるが, 教皇による皇帝の破門は予想以上の効果をもたらした。ドイツ諸侯は, 民衆の間にローマ=カトリック教が急速にそれも深く浸透しただけでなく, 教皇への同情も広がっているという状況変化を敏感に受けとめて, 皇帝に対する反旗を翻したのである。思いがけない事態に動転したハインリヒ4世は, 善後策を講じるために教会会議召集を命じたが参加者はほとんどなく, しかもザクセン公が再び叛旗を翻したため, 完全に窮地に追い込まれた。同年10月, ドイツ諸侯は, 教皇使節アルトマン司教の呼びかけに応じてトリブール会議Triburを開催し, 皇帝破門を認めただけでなく, 翌年2月22日までに教皇がハインリヒ4世の破門を解かなければ皇帝の位を廃し, 新皇帝を選出すると決定したのである。また, 同会議はドイツ国内の混乱を収拾するためのアウクスブルク会議Augsburgに教皇グレゴリウス7世が出席するよう要請している。
当時, ライン川西岸の都市オッペンハイムOppenheimに滞在していたハインリヒ4世は, 教皇との和解を急ぐ必要を感じて使節を派遣したが拒否され, 自ら教皇を訪ねる決意を固めた。そこでブルゴーニュを経て北イタリアに入り, ロンバルディア諸侯の歓迎を受けたために少し迷いが生じたが, 思い直してカノッサ城に滞在していたグレゴリウス7世を訪ねた。教皇はアウクスブルクに向かっていたが, 皇帝のイタリア入りの情報を得てパルマの南南東約25kmにあるカノッサに向かい, 親しいマティルデの館に入った訳である。ハインリヒ4世は改悛を示す服装でカノッサ城に向かい, (3日間待たされたものの)赦免を許され, 破門は解除された。
この結果はドイツ諸侯を失望させたが, 彼らにとって皇帝破門の問題は皇帝追い落としの口実に過ぎない。1077年3月には皇帝廃位を決議し, シュワーベン公ルドルフを新しいドイツ王として擁立した。1080年1月27日フラックハイムの戦いでルドルフが勝利を収め, 3月7日教皇は再びハインリヒ4世の破門と廃位を宣言した。しかし, 同年秋のメルセブルクの戦いでルドルフは討ち死にし, 形勢が完全に逆転した。ハインリヒ4世は既に6月16日ブリクセン教会会議を召集して教皇グレゴリウス7世廃位を宣言させ, ラヴェンナ大司教グイベルトを新教皇候補として指名している。
1081年ハインリヒ4世はイタリア遠征を敢行し, 頑強に抵抗したマティルデ軍をかわしてローマに前進した(マティルデは領地の多くを失う)。慌てた教皇グレゴリウス7世は南イタリアのノルマン軍に救援を依頼したが, ロベルト・グイスカルドはビザンツ帝国に遠征中であった。また, 英王ウィリアム1世William I(イングランド王在位1066~87, ノルマンディー公ギヨーム2世Guillaume Ⅱ在位1035~87)からは援助を拒否されている。そこで教皇は, ヴァティカンを離れて聖天使城(サンタンジェロ城)Castel Sant'Angeloに籠城した。1084年ハインリヒ4世はついにローマを占拠し, ラヴェンナ大司教を教皇クレメンス3世ClemensⅢ(在位1084~1110)として擁立するに至った。
しかし, 翌年にはノルマン軍がシチリア島のイスラーム軍制圧に成功し, 約35,000人の兵士がローマに向けて進軍していた。形勢不利を悟った皇帝軍はローマから退却し, ロベルトは難なくグレゴリウス7世の救出に成功した。しかし, ノルマン軍の主力はムスリム傭兵で, ローマに入るやいなやキリスト教徒に対する掠奪・暴行・放火と悪行の限りを尽くした。激昂したローマ市民は必死の覚悟で決起し, 教皇グレゴリウス7世とノルマン軍をローマから追放することに成功したのであった(5月25日グレゴリウス7世はサレルノSalernoで憤死)。
一方, トスカーナ地方では都市ルッカLucca が公然と皇帝に味方し, 加えてロンバルディア地方の皇帝軍が攻め寄せて来る事態となった。籠城を潔しとしないマティルデは, モデナModena方面に打って出てソルバイアの戦いで辛うじて皇帝軍を撃退させることに成功した。しかし, 師とも親とも仰ぐルッカ司教アンセルモ Sant'Anselmo(クリュニー派)が危篤の床にあることを知り, 悲嘆のどん底に突き落とされた。アンセルモはまもなくこの世から去っていった。
それに対して, ローマ市民は皇帝ハインリヒ4世が擁立した教皇クレメンス3世を認めず, 1086年モンテ・カッシーノ修道院長を教皇ヴィクトル3世VictorⅢ(在位1086~87)として擁立した。この教皇をめぐる対立で混迷したローマに, 新教皇を支持するマティルデ軍が入ったために内戦状態に陥った。1088年, 疲労困憊したヴィクトル3世が亡くなり, そこで新たにオスティア司教枢機卿が教皇に選出され, ウルバヌス2世Urbanus II(在位1088~92)が誕生した。彼はシャンパーニュ地方の地方貴族の家に生まれ, シャルトルーズ修道会創立者ブリュノンの指導を受けた後, ランス大司教座聖堂助祭となってからはケルンのブルーノに学んだ。1073年改革派の中心地クリュニー修道院に移り, 院長聖ユーグの薫陶を受け, やがて1077年に教皇グレゴリウス7世の招きでローマに行き, オスティア司教枢機卿になるという経歴を持つ。したがって, 「グレゴリウス改革」の際には教皇の右腕として活躍し, 特に対ドイツ外交で手腕を発揮してきた人物である。教皇就任後も師のブルーノをローマに招聘して教会改革路線を堅持し, 聖職売買の禁止, 司祭独身制の徹底などにより教会の綱紀粛正を実現させただけでなく, 聖職叙任権闘争も強力に展開した。その結果, アマルフィAmalfi, ベネヴェントBenevento, フランスのトロワTroyesなど諸都市も改革路線支持にまわり, 対立教皇クレメンス3世を圧倒することに成功したのであった。
一方, マティルデは1089年頃, 反皇帝派の有力者バイエルン大公ヴェルフ4世(ヴェルフェン家)の長男ヴェルフ5世と再婚した。彼女は既に40歳を過ぎており, ヴェルフ5世より27歳も年上であったためか夫婦仲が良いとはいえず, 1095年ヴェルフ5世はマティルデのもとから離れていった。1090年ハインリヒ4世が再びイタリアに侵攻してきたとき, マティルデの軍隊は敗れている。子どものいないマティルデは, 1080年頃と1102年の二度にわたって自らの所領を教会に遺贈する意志を表明しているが, その一方で1099年にはフィレンツェのグイドー・グエッラ伯を養子にしている(1108年までに解除)。また, 1111年にはビアネッロで皇帝ハインリヒ5世Heinrich V(ドイツ王在位1106~25, 皇帝在位1111~25)と会見したとき, 彼女の財産の相続権を認めたとも言われるが, 定かではない。
1093年, ロンバルディア地方のモンツァ大聖堂Duomo of Monzaでハインリヒ4世の次子コンラート(下ロートリンゲン公, ドイツ共治王在位1087~98)のイタリア王戴冠式が挙行された。当時, 父親のハインリヒ4世は皇妃と死別し, 1089年キエフ大公フセヴォロド1世の娘プラセーデと再婚していたが, ここでも夫婦仲が悪く, 皇帝はコンラートを溺愛していたと言われる。この戴冠式の出席者の多くは反皇帝派の領主で占められ, マティルデはコンラートをカノッサに招いて父を裏切る気にさせる。その後, 皇妃プラセーデが義子コンラートを追ってカノッサ城に出奔し, 皇帝は半狂乱になった。一方, コンラートは神聖ローマ皇帝コンラート2世Konrad IIと称するが, 実権を伴うものではなかった。また, 1095年教皇ウルバヌス2世の勧めでシチリア王ルッジェーロ1世の娘コンスタンツァ(12歳)と結婚し, ボルゴ・サンドンニーノという田舎の城に住むことにしたが, 義母プラセーデは失望のあまりロシアに帰り, 修道院に入っている。1098年ドイツ王位を剥奪されたコンラートは, 何のために父を裏切ったのかと激しい後悔の念にとらわれて, 27歳の若さで身罷った(1101年)。
一方, 教皇ウルバヌス2世は1095年のクレルモン公会議で十字軍派兵を決断し, 翌年から約200年間に及ぶ十字軍戦争(1096~1291)を開始した。その時, ハインリヒ4世の次子ハインリヒは父に背いて教皇陣営に馳せ参じている。1105年にはマインツ旅行中の父親を急襲して譲位を迫り, 皇帝ハインリヒ5世Heinrich V(ドイツ王在位1106~25, 皇帝在位1111~25)となった。塔内に幽閉されたハインリヒ4世は, 翌1106年失意のうちに逝去した。一方, マティルデは, 1115年跡継ぎなしの状態で亡くなり, その広大な所領は教皇や皇帝によって分けられ, 領域内の各都市は自立し, やがて北イタリアの都市国家群が形成されることになった。注④
3.十字軍とイスラーム世界
(1)ウルバヌス演説と民衆十字軍
11世紀以降, 西ヨーロッパではローマ=カトリック教信仰が「庶民の世界」にまで浸透し, それに伴ってローマRoma, イェルサレムJerusalm, サンチャゴ=デ=コンポステラSantiago de Compostelaなどへの聖地巡礼がさかんとなった。聖遺物崇拝と結びついた「聖別された土地」locus sanctusへの憧れは, 理屈を超えた衝動にも似たものがあり, まさしく「時代の精神」を反映していたと言って良い。ただし, 三大巡礼地の一つ聖地イェルサレムは, キリスト教のみならずユダヤ教やイスラーム教の聖地でもあったために, 複雑な歴史を辿ることになる。
7世紀以降, イェルサレムはイスラーム勢力の支配下にあったが, 当時イスラーム世界で圧倒的な力を誇っていたアッバース朝‘Abbās(750~1258, スンナ派)がユダヤ教徒・キリスト教徒を「啓典の民」とみなして特別優遇していたため, しばらくの間はほとんど問題がなかった。ところが, 10世紀に入るとイラン系のブワイフ朝Buwayh(932~1055, 12イマーム派)やカイロに拠点を置いたファーティマ朝Fatimah(909~1171, イスマイール派)などのシーア派が台頭し, スンナ派とシーア派の宗派間対立が激化した。特に10世紀後半以降はシーア派が優勢となり, 1009年ファーティマ朝のアル・ハーキムal-Hākim(在位996~1021)がシリア地方に進出してイェルサレムを占領し, キリスト教徒巡礼者を迫害した。この迫害は1021年彼の死とともに止み, 従来の友好関係に戻っている。その後, 1055年トルコ系イスラーム王朝であるセルジューク朝Saljüq(大セルジューク朝, 1038~1157)の孫トゥグリル・ベクTughril Beg(在位1038~63)がアッバース朝カリフから招かれてブワイフ朝をバグダードから追放し, 1057年にはスルタンsultanの称号を得た。彼は中東最大のイスラーム君主として君臨し, やがてビザンツ帝国領深く進出した。そのため1071年には, 東アナトリア地方の城塞都市マンズィカルト(マラーズギルドMalāzgird)近くでビザンツ軍とアルプ・アルスラーンAlp Arslān(トゥグリル・ベクの甥)率いるセルジューク朝軍が衝突し, 数の上では優勢であったビザンツ軍が大敗して皇帝ロマノス4世ディオエニスRomanos Ⅳ Dioyenis(在位1068~71)が捕虜となるという事件が発生した。この戦い以降,トルコ民族のアナトリアへの流入が急増し, キリスト教世界では危機意識が一気に高まった。
1076年セルジューク朝は, ファーティマ朝から聖地イェルサレムを奪回する。ところが, 1092年宰相ニザーム・アル・ムルクNizām al-Mulkがイスマーイール派によって暗殺され, 同年第3代スルタンのマリク・シャーMalik Shāhが亡くなると, セルジューク朝・ファーティマ朝ともに後継者争いから混乱が広がった。先ずセルジューク朝では, 跡を継いだ弟トゥトゥーシュが早くも1095年に亡くなったため, 後継者の地位をめぐって, その長子リドヴァンがアレッポAleppo, 弟ドゥカクがダマスカスDimashqをそれぞれ拠点にして争っている。一方, ファーティマ朝では, 1094年のアル・ムスタンフィル(第18代イマーム imām)没後, イマーム位をめぐって兄ニザールと弟アフマドが対立し, 宰相アフダルの妹婿であった後者が権力闘争に勝利してアル=ムスタアリー・ビッラーAl-Musta'liとして即位した。しかし, これを契機にイスマーイール派はムスタアリー派とシリア中部の山岳地帯やイラン・イラクを中心とするニザール派Nezāriyānに分裂することになった。
ところで, シリア情勢が混迷の度を高めていた1095年3月, イタリアでピアチェンツァ教会会議Piacenzaが開催され, ビザンツ皇帝アレクシオス1世コムニノスAlexios I Komninos(在位1081~1111)が派遣した使節は, イスラームによる被害を誇張し, 東方正教会守護の緊急性を教皇ウルバヌス2世(在位1088~99)に訴えた。当時, キリスト教世界は長く続いた東西対立が決定的となり, 1054年にコンスタンティノープル教会を中心とするギリシア正教とローマ教会を中心とするローマ=カトリック教とに分裂したばかりであったが, アレクシオス1世は(胸に含むことは噯気にも出さないで)キリスト教世界全体の危機を強調した。その後, ウルバヌス2世は海路からローヌ川を溯航してヴァランスValenceに到着し, クレルモン公会議Clermont(現クレルモン・フェランClermont-Ferrand)の召集令状を発した後, 南フランス各地を遊説行脚して十字軍計画の根回しを行っている。特にル=ピュイLe Puyでは第1回十字軍の教皇代理兼総司令官に指名される司教アデマール・ド・モンティユAdhemar de Monteilと, またサン=ジルSaint-Gillesでは1087年にアラゴンAragónへの所謂「スペイン十字軍」に参戦し, 今回新たに軍事司令官を委嘱することになるトゥールーズ伯・プロヴァンス辺境伯レーモン4世Raymond IV de Toulouseと会って, 具体的な遠征計画を練ったものと思われる。同年11月28日, フランス東部のオーヴェルニュ地方で開かれたクレルモン公会議の最終日, 東城門外に特設された野外大演説会場に現れたウルバヌス2世は, 数千人の大聴衆を圧倒する演説を行った。少し長くなるが, 彼の話しに耳を傾けてみたい。
「最愛の同胞諸君。至上者たる法王にして, 神に許されて全世界の最高聖職につくわたしウルバヌスは, この地方での神のしもべたちなるあなた方にとって, さしせまった重大な秋に, 神のおさとしを伝える使者として, ここにやって来たのである。・・・・
おお, 神の子らよ。あなた方はすでに同胞間の平和を保つこと, 聖なる教会にそなわる諸権利を忠実に擁護することを, これまでにもまして誠実に神に約束したが, そのうえ新たに・・・・あなた方が奮起すべき緊急な任務が生じたのである。・・・・すなわち, あなた方は東方に住む同胞に大至急援軍を送らなければならないということである。かれらはあなた方の援助を必要としており, かつしばしばそれを懇請しているのである。
その理由はすでにあなた方の多くがご承知のように, ペルシアの住民なるトルコ人がかれらを攻撃し, またローマ領の奥深く“聖グレゴリウスの腕”と呼ばれる地中海沿岸部〔ボスフォラス海峡, マルモラ海沿岸部をさす〕まで進出したからである。キリスト教国をつぎつぎに占領したかれらは, すでに多くの戦闘で七たびもキリスト教徒を破り, 多くの住民を殺しあるいは捕え, 教会堂を破壊しつつ神の王国を荒らしまわっているのである。これ以上かれらの行為を続けさせるなら, かれらはもっと大々的に神の忠実な民を征服するであろう。
されば・・・・神はキリストの旗手なるあなた方に, 騎士と歩卒をえらばず貧富を問わず, あらゆる階層の男たちを立ちあがらせるよう, そしてわたしたちの土地からあのいまわしい民族を根だやしにするよう・・・・くりかえし勧告しておられるのである」
ウルバヌス2世は雄弁家の域を超えて, 聴衆を一種の集団的興奮状態に引き入れる術を心得たカリスマ性があった。彼はさらに「あなた方には異教徒を相手に戦い, キリストの聖墓を汚辱から救い出す義務がある。もし, 郷里に残す家族のことが気にかかる者があれば, 福音書の《私よりも父や母を愛する人は私にふさわしくなく, 私よりも息子や娘を愛する人も私にふさわしくない》(マテオ10の37)という一節を思いだすべきである・・・・」と, 遠征への参加がキリスト者の義務であることを説き, 「あなた方がいま住んでいる土地はけっして広くない。十分肥えてもいない。そのため人々はたがいに争い, たがいに傷ついているではないか。したがって, あなた方は隣人のなかから出かけようとする者をとめてはならない。かれらを聖墓への道行きに旅立たせようではないか。《乳と蜜の流れる国》は, 神があなた方に与えたもうた土地である・・・・」と聖書由来の甘美な誘いを語っている。教皇ウルバヌス2世が「かの地, エルサレムこそ世界の中心にして, 天の栄光の王国である。その聖都へ, どうして行かずにすまされようか。」と述べたとき, 聴衆たちは「神のみ旨だ!」《Dieu le veult !》と叫んだという。注⑤
ウルバヌス2世は, 12月から翌年7月にかけて, オーヴェルニュ地方から西・北方フランスへと向かい, リモージュLimoges, ポワティエPoitiers, トゥールToursを訪れ, その後は再び南下し, ボルドーBordeaux, トゥールーズToulouse, ニームNimesなどを歴訪している。なかでもリモージュ(12月25日)・トゥール(3月14日)・ニーム(7月6日)では地方的な公会議を開催して, 十字軍の勧説を行っている。また北フランス各地の地方領主には手紙を認め, 彼の代理を務める勧説使を派遣するなどして, 十字軍派遣への協力を要請している。その結果, 遠征軍の出陣予定日(1096年8月15日聖母被昇天祭)には, 十字軍総司令官アデマールの麾下にはレーモン4世の軍団以外に, ゴドフロワGodefroy de BouillonとボードゥアンBaudouin 兄弟が率いるロレーヌ地方軍団, 王妃を離婚して不義を重ねたために破門されたフランス国王フィリップ1世Philippe I(在位1060~1108)の代理として乗りだしてきた王弟ヴェルマンドワ伯ユーグが率いるフランドル伯父子の軍団, すでにイタリアからビザンツ帝国に渡っていたノルマン人の軍団が編成されていた。
十字軍参加の理由は, 関係者の立場によってさまざまである。例えば, 教皇ウルバヌス2世にとっては東西両教会統一の主導権確保という目論見があり, 諸侯や騎士は武勲と戦利品を狙っていた。また, 民衆は贖宥や債務帳消しを求め, 商人たちは経済的利益を追求したとも言われる。しかし, 教皇や諸侯・騎士の目論見は時代の空気を読んでのことであり, その他の理由は十字軍の展開とともに後から付いてきたものとも言える。注⑥
例えば, アミアンの隠者ピエールPierre l'Ermiteという男は, ウルバヌス演説があった1095年の暮れからクレルモンの北150キロにあるベリー地方Berryで地を這うような説教を始め, 翌年4月にはケルンKölnの町で数千人の群衆を集めるまでになっている。隠者ピエールの説教に興奮した人々は, 自生的に民衆十字軍を結成した。彼等の多くは比較的暮らし向きの良い保有農民や都市民で, 自弁で武装し東方への長旅の費用を工面できる人々であった。教皇や諸侯勢力によって編成された公式の十字軍と異なり, いわば非公認の十字軍が誕生したのである。まずブルゴーニュ地方の騎士ゴーティエGautier Sans-Avoir(無一文のゴーティエ)に率いられたフランス人部隊が出発し, ついでフォルクマールとゴットシャルク両騎士及びライニンヘン伯エーミヒらが率いたドイツ人が後に続いて聖地イェルサレムを目指した。男女総勢4万人ほどに膨れあがった民衆十字軍は規律ある行軍をしていたが, 東方教会の領域に入ると物資調達が困難となって掠奪行為に走ったり, 深刻な飢えから脱落するものが増えていった。また, 街道筋の盗賊や領主たちに捕まって奴隷として売られた者も多かったと言われている。
民衆十字軍の5つの部隊のなかでコンスタンティノープルまでたどり着けたのは隠者ピエールと騎士ゴーティエが率いた2部隊だけであったが, それでもビザンツ皇帝アレクシオス1世にとっては予想外の大群衆であった。アレクシオス1世にとっては首都郊外で宿営を続ける民衆十字軍に対する食糧補給が負担であったばかりでなく, 秩序維持の観点からも軍勢を厄介払いする必要があった。そこで船を手配し, 彼等をボスフォラス海峡の向こう側へ渡らせることにした。8月初め, 民衆十字軍はアジア側の海岸に到達し, ヘレノポリスという小さな町に宿営したが, 飢えた兵士たちはギリシア人やトルコ人の集落を襲い, ルーム・セルジューク朝(1077~1308)の領土内に侵入している。このルーム・セルジューク朝とは, セルジューク朝(大セルジューク朝)の地方政権として誕生したイスラーム政権で, 当時のクルチ・アルスラーン1世(在位1092~1107)は首都ニカイアNicaea(現在のイズニク)陥落の噂を流して民衆十字軍を混乱させ, われ先にとニカイアに向かった彼等を徹底的に殺戮し, この戦いでゴーティエも落命している。民衆十字軍には冷静な戦況判断はなく, 彼等にあったのはまさしく「神のご加護」への全幅の信頼のみであった。注⑦
(2)第1回十字軍とイェルサレム王国
教皇ウルバヌス2世は, 1095年12月にフランドル諸侯に宛てた手紙で十字軍出陣の日を翌年8月15日と指定したが, 実際には準備の都合もあって部隊別に大きなずれが生じた。第一陣は8月中旬にパリを発ったヴェルマンドワ伯ユーグ率いる軍団で, ローマで教皇から「聖ペテロの旗」を授けられた後, 年末にはコンスタンティノープルに到着した。第二陣はほぼ同時期にフランスを発ったバス=ロレーヌ侯, 通称「ブイヨンのゴドフロア」の大軍で, 彼等は東ヨーロッパ経由でクリスマス直前に着いている。また第三陣は10月になってフランスを発ったフランドル伯ロベール1世・2世父子, その従兄弟にあたるノルマンディー侯ロベールとブロワ伯エティエンヌ等が率いる北フランス軍で, イタリアのルッカで教皇の閲兵, 祝福を受けた後, コンスタンティノープルに到着したのは5月14日のことであった。そして最後に出陣したのは教皇代理兼総司令官アデマールの司令部が帯同するレーモン4世の主力軍団で, コンスタンティノープル到着が1097年4月末と記録されていることから, 出発は早くとも前年暮れのことと推察されている。これら4集団以外にアプリア侯ボヘモンドとその甥タンクレドが率いるノルマン系南イタリア軍団が1096年8月末に加わり, 翌年4月10日には他の軍団と合流している。こうして結集した十字軍は, 第一陣と第三陣とで「フランス人」軍団, 第二陣が「ロレーヌ人」軍団, 第四陣が「プロヴァンス人」軍団, ボヘモンド侯の軍団が「ノルマン人」軍団と呼ばれ, 総兵力は3万人を超える(騎士4,200~4,500人, 歩卒約3万人)当時としては破格に大規模な編成をしていた。
ところで, 大軍を迎え入れたビザンツ皇帝アレクシオス1世は, 十字軍兵士を歓迎する素振りを見せていたが, 実際は全く反対であった。1081年ニケフォルス帝を追放して権力を握り, 富豪ドゥカス家 Dukasとの縁組みで財力も得ていた彼は, 狡知にたけた謀略家という顔がある。当時, ウクライナからカザフスタンに広がる草原地帯で活躍していたテュルク系遊牧民のクーマン族Kuman,Cuman(キプチャクQipchaq)を買収してペチェネグ族Pechenegsと戦わせ, その間に軍備を整えてクーマン族を破っている。また, ノルマン侵攻に際しては, 随時彼らを傭兵に雇う一方で, 南イタリアのノルマン人に対しては反対派のノルマン人に攻撃させている。したがって, ヴェルマンドワ伯ユーグがパリとローマから二度にわたって親書を送り, 彼の身分に相応しい格式と礼節をもって出迎えるよう求めた時, アレクシオス1世は歓迎の準備に遺漏がないよう気を配る一方で, 「ラテン人」の行動を厳重に見張って海賊行為や掠奪を許さないよう規制することを命じている。
アレクシオス1世の真の狙いは, 西ヨーロッパの諸勢力との関係を優位にすることと, 十字軍を利用してアナトリア地方のトルコ人勢力を追い出し, 自らの勢力範囲を拡大することにあった。十字軍が集結したとき, 彼は各司令官に「ラテン風」臣従の誓いを要求している。アレクシオス1世は隠者ピエールには温かい態度をとったが, 十字軍に対しては全く宗教的性格を認めず, イスラーム世界との戦いも聖戦とは考えていなかったのである。一方, 臣従の誓いを求められた司令官たちは, それを屈辱と受けとめ, ゴドフロアにいたっては部隊を率いてコンスタンティノープルの城壁に攻撃を加えている。彼等はビザンツ帝国の防衛戦争に荷担しているという意識がほとんどなく, コンスタンティノープルを単なる前進基地としか考えていなかった。彼等にあったのはビザンツ帝国に対する無知からくる偏見と劣等感であり, イスラーム教徒やユダヤ教徒などの異教徒を「悪魔」とみなす歪んだ観念であった。
十字軍の大軍は「聖グレゴリウスの腕」(ボスフォラス海峡)を渡り, 対岸の町スクダリからマルモア海沿いにニコメディアに進み, ニカイアNicaeaに出た。ニカイアに軍を敷いたのは1097年6月1日から3日のことで, ルーム・セルジューク朝のクルチ・アルスラーン1世はアナトリア高原のマラティヤMalatyaでダニシュメンド朝(賢者ダニシュメンドDanishmend Gazi)と戦っていたが, 十字軍襲来の報せを聞き, 急遽引き返した。戦闘は3週間弱を費やして辛うじて十字軍の勝利となった。その後は高原と渓谷が続く山中に入り, ドリレーウム, (小アジアの)アンティオキア, ラオディケイア, イコニウム(コニア)とほぼ東南方向に山道を辿り, タウロス山脈北側のヘラクレイア, テュアナを経て, 再び北側に戻る形で東へ進みとカエサリア(カイサリ)に出た。そこで南東に転じてアンチタウルス山脈の南端を越えてマラシュに至り, そこから真っ直ぐ南下してシリアの大都城アンティオキアAntiochiaに到達したのは10月20日のことであった。十字軍の第2行程にあたる小アジア=ルートは約900㎞あり, 戦闘を交えての踏破日数は5カ月弱を要した。
当時, アンティオキアはセルジューク朝の総督ヤギ・シヤンが治めており, 難攻不落の地に堅固な都城を築いていた。十字軍は, 東北角の聖パウロ門にボヘモンドのノルマン軍団, その右の犬門にレーモン伯の南フランス隊, さらに右の侯爵門にゴドフロアのロレーヌ隊という布陣で総攻撃をかけたが, 落城させることが出来たのは翌年6月3日のことであった。十字軍はアンティオキア占領と同時に虐殺と掠奪の限りを尽くしたが, 7月になってチフスが蔓延し, 教皇代理兼総司令官アデマールが罹患して8月1日に昇天している。その時, ボヘモンドはビザンツ帝国と東方正教会によるアンティオキア支配を否定し, 自らアンティオキア侯となった(アンティオキア侯国成立)。また彼は, アデマールの遺体はいずれ聖地イェルサレムの聖墳墓に埋葬するからと言って, アンティオキア市中の総大司教座聖ペテロ大聖堂に仮埋葬をしている。
一方, ゴドフロアの弟ボードゥアンはロレーヌ軍を率いて, 小アジア=ルートの終点マラシュから真東に向かう別行動をとり, ユーフラテス川上流のキリスト教徒アルメニア人を利用して, エデッサEdessa支配に成功した。彼はアルメニア人首長を謀略で亡き者にして自らエデッサ伯の称号を使うようになった(エデッサ伯国成立)。このように, 十字軍の諸侯・騎士たちは聖地奪還を忘れて領地争いに狂奔していた。そのため巡礼者たちは, 11月5日聖ペテロ大聖堂において開催されていた諸侯会議へ代表を送り, 出来るだけ早く聖地イェルサレムへ導くよう要求している。
民衆の要求に最初に応えたのはレーモン4世で, 1099年1月13日, 再び聖地を目指して出発した。彼等は内陸寄りのルートをブカイアー渓谷まで南下し, アルカーという町で後続のボヘモンド部隊を待って合流し, そこから海岸沿いにトリポリTripoli, ベイルートBeirut, シドンSidon, ティルスTyrus, アッコンAcreを通過し, カエサリアの南アルスーフとヤッファJaffa(テルアビブTel-Aviv)間で東南の山間部に入り, ベツレヘムBēth Lehem を訪れ, 6月7日ついにイェルサレムを望む郊外に到達した。ゴドフロア伯・フランドル伯・ボヘモンド侯らの後続部隊は, アルカーでレーモン伯の本隊に追いついたが敢えて別ルートを選択し, レバノン山脈の東側をたどってバアルベクBa'labakkからヨルダン川上流に沿ってガリレア湖畔に出て, その西岸を廻りナザレNazareth, ジェリコJerichoを経てイェルサレム北方の前進基地に入った。このように十字軍の行軍ルートは二つに分かれ, いずれも約530㎞を約4カ月弱で踏破出来たのは, イスラーム世界における対立が幸いした。すなわち, 十字軍がベイルートまでのセルジューク朝勢力圏や, その南のファーティマ朝勢力圏を通過する際には, ともに十字軍が対立する王朝を攻撃することを期待していたのである。しかし, 実際は激しい虐殺の繰り返しであった。そして, 十字軍が犯した大虐殺は, やがてイスラーム世界の団結をもたらすことになる。
当時, イェルサレムは, 1098年ムスタアリー率いるファーティマ朝がセルジューク朝から奪回したばかりであった。7月8日夜, 貧しい巡礼者の姿に立ち帰ったすべての十字軍兵士は, イエス=キリストが昇天したと伝えられるオリーヴ山に登り, 一斉に跪いて「謙遜と痛悔の心もて苦しげに吐息をつき涙を流しつつ, 天を仰いで援助を懇請した」という。またしても全軍の前に立った隠者ピエールが雄弁を振るい, 信仰と愛の力によって団結することの大切さを説いた。こうして「キリストの戦士たち」milites Christiとなった彼等は, 聖地解放の戦いを7月13日夜半と決定した。
ところで, 都城イェルサレムは海抜800mほどの二つの山, 東のモリヤー山と西のシオン山の上にあり, 東側と南西側は深い谷があり, 全体は高く厚い城壁で囲まれていた。当時の城壁は西の方に肩下がりになった平行四辺形で, 十字軍の攻撃で破られた北側(現在のキリスト教徒地区・イスラーム教徒地区)が約1,200m, 西側ダヴィデ門のところで40度ほど内側に曲がっているが約700m, 東と南がそれぞれ約800m前後の規模であった。城内は北方からのダマスカス街道がステファン門をくぐって南壁のシオン門にぬける南北に通る大路と, 西北からのヤッファ街道がダヴィデ門に入る東西に走る大路が直角に交差することによって4街区に分けられていた。今日, キリスト教徒地区となっている北西街区には聖墳墓教会があり, イスラーム教徒地区となっている東北街区の南寄り(モリアー山上)には「神殿の丘」が広がり, その中央には「岩のドーム」が, 南側にはソロモン王の宮殿跡に「エル=アクサ寺院」が聳える。またイスラーム教徒地区の南にはユダヤ教徒地区が, その西にはアルメニア正教を信じるアルメニア人地区が広がり, 「ダヴィデの塔」が建立されている。
十字軍の攻撃は, 主力を北壁の東地区に集結して左翼からゴドフロア侯の主力に続いてフランドル伯隊, ノルマンディー侯隊の順に展開し,最右翼はボヘモンド侯の甥タンクレド率いるノルマン人部隊とした。また, レーモン4世率いる南フランス人部隊は別働隊とし, 北西隅の角塔(後のタンクレド塔)から西壁中央のヤッフォ門(ダヴィデ門)に伸びるヤッフォ街道に布陣させたが, 戦闘開始後は城門外南方の聖母マリア=シオン教会を守護するために, 攻撃目標を南壁のシオン門に移している。最初の攻撃は城壁の外周を取り巻く空壕を越えて城壁に梯子を架けようとして失敗し, 翌14日は城の内側から吹き付けられたギリシア火(空気に触れると着火する液体で, ホースなどから発射し火炎放射器のように使用した)や投下される岩石に苦しみながら, 壕底に城壁の上縁まで達する攻城塔を建設した。ようやく15日になってゴドフロア侯の主力が車輪付き櫓スクローファを利用して城壁に取り付き, 櫓の頂と城壁上部に丸木橋を架けることに成功した。こうして北壁東地区のヘロデ門(花門)が内側から開かれ, 正午頃にはゴドフロアの軍旗が城壁上に翻った。都城の占拠に成功した十字軍兵士は, 聖所を独占して異教徒の財産を奪っただけでなく, 彼等を都城から追放し, 見境のない大量虐殺を行った。16日には市内のユダヤ人をシナゴーグに閉じこめ, 建物と一緒に焼き殺している。なお, 例外はダヴィデ塔に立て籠もっていたイェルサレム総督イフティカール・アッドゥーラで, レーモン4世が財宝と交換に見逃している,
こうして聖地イェルサレム奪回に成功した十字軍は, 7月17日諸侯会議を開いてイェルサレム総大司教の選任に着手した。当時, イェルサレム総大司教はギリシア正教会から任命されたシメオンという老人であったが, 7月初め亡命先のキプロス島で亡くなっていた。翌18日, 諸侯会議は総大主教選任を後回しにして, 世俗君主の推挙を行った。すなわち, アンティオキア同様, イェルサレムにおいてもビザンツ帝国・東方教会の管理権を認めないだけではなく, 教会国家設立を望んでいた教皇ウルバヌス2世(7月29日死亡)の意向にも反する世俗国家建設を決定したのである。イェルサレムの君主に就任したのはゴドフロアで, 彼は王の称号や王冠を辞退して「聖墳墓の守護者」Advocatus Sancti Sepulchriと自称したが, 実態は王そのものであった(イェルサレム王国1099~1187)。ゴドフロア王はイスラーム軍との対決を決意し, イェルサレムの東南方130~140kmにある海岸都市アスカロンAscalon(総督ラヴェダリウス)を攻撃する際にはイェルサレムの某所で発見された聖遺物「真の十字架」Vera Cruz(コンスタンティヌス帝の母ヘレナFlavia Julia Helenaが発見したと言われる)が将兵たちを鼓舞することに成功し, 8月11日にはイェルサレム王国の勝利となった。その後, 北方内陸部のサマリア地方やガレリア地方の征服にも成功し, 十字軍国家はイェルサレム王の直轄領(イェルサレム, ベツレヘム, ヤッファ)と, その宗主権下にあるアンティオキア侯領・エデッサ伯領・トリポリ伯領からなる封建国家群となった。
1100年7月18日ゴドフロア王が病没し, イェルサレム王位はエデッサ伯ボードゥアン1世(ゴドフロアの弟)が継承した。彼の課題は海岸線の諸都市を征服することによって十字軍国家全体の安全を確保し, 西欧との自由な交通・貿易路を見いだすことにあったが, 第1回十字軍に参加した諸侯・騎士の多くは既に帰国しており, 彼の軍事力は極めて心細いものでしかなかった。しかし, 幸いなことに第1回十字軍の勝利は西欧社会に興奮をもたらしていた。教皇ウルバヌス2世の後継者はパスカリス2世Paschal II(在位1099~1118)であったが, イタリアではミラノ司教アンセルモの呼びかけでロンバルディア軍団が結成され, ドイツではバイエルン侯ヴェルフや皇帝ハインリヒ4世の軍司令官コンラートなどが大軍を組織した。また, フランスでもリヨン大司教ユーグ・ド・ディーHugues de Dieを中心に北部のブロワ伯, 中部のヌヴェール伯, 南部のアキテーヌ侯ギヨーム9世Guillaume IX、Guilhen de Peiteu(吟遊詩人トゥルバドゥールとして有名)などの封建徴集軍が結成され, 行軍の途中でイェルサレムから帰国途中であったトゥールーズ伯レーモン4世の軍団もコンスタンティノープルから合流した。期せずして第1回十字軍を上回る総勢20万の大軍が結成され, 教皇代理を務めるユーグ・ド・ディーをはじめ, 大司教・司教・司祭・修道士などに加え, 貴婦人を含む女性や未成年者のような非戦闘員も参加した。しかし, 「1101年の十字軍」と呼ばれる大軍は, そのほとんどが聖地イェルサレムに辿り着けなかったと言われる。彼等は第1回十字軍の際にも「魔の巡礼路」となった小アジアルートを選択し, ルーム・セルジューク朝軍やトルコ系各部族のゲリラ攻撃に遭って苦戦し, さらにはシヴァスの牢に閉じこめられていたアンティオキア侯ボヘモンドを救出しようとルート変更したことが仇となって, アレッポ分国王リドヴァンの軍勢に敗れる結果となった。また, 第1回十字軍のアンティオキア占領の際に発見されたとされる「聖槍」Sainte Lance(十字架上のイエス・キリストの死を確認するために脇腹に刺したとされる槍)を捧げて軍勢の先頭に立ったレーモン4世は大敗してコンスタンティノープルへ逃げ帰り, ミラノ司教アンセルモも戦傷を負ってまもなく没している。そして, 別行動をとったアキテーヌ公ギヨーム9世の南仏軍も, イコニウム東方130kmにあるヘラクレイアでキリジ・アルスラン率いるトルコ軍に遭遇し, 壊滅している。
一方, ボードゥアン1世が1101年4月に開始した海岸線への攻撃は順調に進み, ヤッファ北方のアルスーフ, カエサリア陥落を手始めに1110年までにティルスを除くシリア=パレスティナ海岸の各要衝を獲得することに成功している。しかし, その間にはラムラの戦い(1102年ヤッファとイェルサレムの中間に位置)でブロワ伯エティエンヌが戦死し, ボードゥアン1世自身も敗れて逃走するという事件が発生し, イスラーム側にも反撃の気運が芽生え始めていた。例えば, 内シリアのセルジューク分国モスールの宰相モドゥードは, 1110年のエデッサ伯領に続いて翌年にはアンティオキア侯領の外オロンテス地方を攻撃し, 1113年にはダマスカス政権(英傑トゥグティンギン)と同盟してボードゥアン1世の軍をガリレヤ湖畔のアッシンナブラーに破っている。その後, モドゥードはダマスカスで暗殺された(1115年)が, 彼の後継者ブルスク・イブン・ブルスクは「聖戦」(ジハード)を呼びかけている。但し, 十字軍国家とイスラーム勢力の戦いは, 全体的には前者の勝利が続いていた。1115年アンティオキア侯ロジェロはオロンテ川東岸のテルダニートでブルスクを敗死に追い込み, 1125年にはイェルサレム=アンティオキア連合軍がモスール=ダマスカス連合軍をアレッポの北40kmにあるアザーズで撃破することに成功している。注⑧
4.「革新の世紀」12世紀
(1)アベラールとエロイーズ ~愛と修道の書簡~
第1回十字軍が聖地イェルサレムをめざして行軍を続けていた1098年, ブルゴーニュ出身の修道士聖ロベールRobert de Molesmeはモレームに庵を結び, ついでソーヌ川支流の沼地シトー(芦原)に移り住んだ。彼が創設したシトー派修道会Ordo Cisterciensisは, 既存のベネディクトゥス修道会やクリュニー修道会の流れを汲むが, 聖ベネディクトゥス戒律の厳守や 極端な質素さに特徴が見られた。先行した修道会が黒い修道服を身につけていたのに対して, 「白衣の修道士」(白い兄弟たち)と呼ばれた彼等が着ていた修道服は漂白も染色もしない毛織物であった。彼等の修道服は, シトー派修道会が目指す自己犠牲, 清貧, 福音主義の象徴でもあった。すなわち, 禁欲の観念が清貧と結びついて, クリュニー修道院が認めていた教会の所有や十分の一税, 領民支配をすべて禁じ, 食事も魚や乳製品, 卵類を摂ることを認められず, 許されたのは葉物や空豆のみであった。しかし, それゆえ, 第2代総長ハーディングが起草したと伝えられる「愛の憲章」(カルタ・ カリタティスCarta caritatis)が 多くの人々の崇敬を集めることになったものと思われる。彼等は, 毎年シトーに集まる修道会総会制度や母修道院長による巡察制度を整える一方で, 助修道士(労働に従事する平修士)制度を採用して活発な経済活動も展開した。注⑨
シトー派修道会は, 1112年聖ベルナールBernard de Clairvaux(1090~1153)の入会によって大きく発展する。ベルナールはディジョンDijonに近いシャトー=ド=フォンテーヌの領主一族の子で, 幼時にはサン・ヴォルル修道参事会(シャティヨン・シュル・セーヌChatillon-sur-Seine)で教育を受けた後に回心し, 22・23歳で入会(しかも父親をはじめ兄弟縁者30名を説得して一族集団入会)を果たした。1115年シャンパーニュ地方の東端の村クレルヴォーClairvaux(「明るい谷」の意)に彼を院長とする支院が開設される頃にはシトー派修道会の名声はヨーロッパ各地に広まった。「愛の聖者」とか「蜜の溢れ流れる博士」Doctor Mellifluusと称えられた聖ベルナールは, あらゆる身分階層の人々に「キリストの苦しみ」と「聖母マリアの嘆き」を教え, 神への愛と人間愛とを一致させ, 新しい人間の理想像を掲げたのである。
その頃, イェルサレム王ボードゥアン2世(同1世の従兄弟)は海岸都市ティルス包囲戦と同時にダマスカス=アレッポ同盟との戦いを行っており, キリスト教徒巡礼者の保護までは手が回らなかった。その時, ユーグ・ド・パンヤンHughes de Payens 及びジョフロワ・ド・サントメールを中心とする9名の者が貧しさに耐えながら, 酬いられることも世に認められることも望まず, ただ黙々と巡礼者保護という危険に身を挺していたと言われる。イェルサレム王国指導部は彼等の善行を讃えて「“主の神殿”の傍らにある王宮内に彼等の教会と住居を与えた」ので, 後に「テンプル(神殿)騎士団」(正式には「キリストとソロモン神殿の貧しき戦友たち」)Pauperes commilitones Christi Templique Solomoniciと呼ばれるようになる。イェルサレムの指導者たちはまた, 教皇庁とユーグ・ド・パンヤンの主筋にあたるシャンパーニュ伯ユーグにテンプル騎士団礼讃の手紙を送ったが, シャンパーニュ伯が聖ベルナールと親しい関係にあったためシトー派修道会内部にもその情報が伝わった。1128年教皇ホノリウス2世HonoriusⅡ(在位1124~30)はトロワ公会議Troyes(サン=ピエール・エ・サン=ポール聖堂)を召集し, 同会議に招かれた聖ベルナールの働きかけによって騎士と修道士を兼ねる人々によるテンプル騎士団結成が公認された。注⑩
1130年教皇ホノリウス2世が亡くなると教皇選挙で紛糾し, 後継に選ばれたインノケンティウス2世InnocentiusⅡ(在位1130~43)の対立教皇アナクレトゥス2世AnacletusⅡ(在位1130~38)が立つ分裂騒動が起きた。その時, 聖ベルナールはインノケンティウス2世の強力な擁護者となり, 教会政治においてもその手腕をいかんなく発揮している。1140年代に入って, 「12世紀の精神」と称された聖ベルナールは, 当代随一の学識者として知られたピエール・アベラールPierre Abelard(1079~1142)を厳しく論難するようになる。聖ロベールとアベラールの思想にはどのような違いがあったのだろうか。
12世紀の南フランスを中心として華麗に花開いた書簡体の作品『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』の第一書簡「厄災の記-アベラールから友人への慰めの手紙」によれば, アベラールは1079年ナントNantesに近いル・パレLe Palletという町に生まれ, 後に論敵となるロスケリヌスRoscelinusuや実在論者ギヨーム・ド・シャンポーGuilaume de Champeauxに師事した。やがて彼は, パリのノートルダム司教座聖堂付属学校の神学と哲学を講義する教師となり, 同時に聖堂参事会員にもなった。その頃には既に, アベラールの神学者・哲学者としての地位と名声は浸透しつつあった。ただし, アベラールは唯名論とも実在論とも異なる「普遍は個物の中にあり」とする概念論conceptualismを打ち立てたとされてきたが, 近年の中世哲学史の研究では懐疑的である。注⑪
さて1116年頃, アベラールは, 同じ聖堂参事会員であるフュルベールの姪エロイーズ(1100/1101~64)を知る。彼女はまだ17歳くらいであったが, ラテン語, ギリシア語, ヘブライ語を解する学識豊かな女性であった。年齢にして20歳以上も離れた二人ではあったが激しい恋に陥り, やがてエロイーズは妊娠する。12世紀の生んだ知の巨人に「真昼の悪魔」démon de midi(人生半ばで性的誘惑に陥ること)が襲いかかったのである。アベラールはエロイーズを密かに実家の妹ドニーズに預け, エロイーズはそこで男の子アストロラブAstrolabius(「天体観測器」の意)を出産した。二人は結婚するが, エロイーズの「結婚は哲学研究の妨げになる」という意見で別居結婚を選んだ(なお, 子どもは実家の妹に預けたままであった)。彼女は自己を犠牲にして愛するアベラールの地位を守ろうとしたのであり, その根底には「純粋な愛は結婚とは両立しない」という宮廷風恋愛の観念があったものと推察される。しかし, 二人の結婚は叔父フュルベールの怒りを買い, アベラールはエロイーズの身の危険を感じて彼女をパリ郊外のアルジャントゥイユ女子修道院Argenteuilに移し, 修道女となることを強いた。怒りがおさまらないフュルベールは, 彼が雇った豚の去勢を生業としている男とアベラールの召使いに指示して, アベラールの局部を切断させた。
この猟奇的事件後, アベラールはパリを離れてサン・ドニ修道院Saint-Denisの修道士となり, 「世俗の哲学者」から「神の哲学者」へと転身する。彼は信仰の基盤を理性によって明らかにしようとし, 聖書研究に弁証法を適用した新しい神学を構築していく。しかし, アベラールは, 1121年に開催されたソワッソン教会会議Soissonsにおいて異端とされ, 著書『神の三位にして一体なることについて』は焚書処分とされた。サン・メダール修道院Saint-Medardにおいて品行上問題のある修道士に対する教育を受けた後, 戻ったサン=ドニ修道院でディオニシウスDionysius(?~250頃)に関する論争から他の修道士と再び対立し, トロワ伯ティボー2世Thibaut II(ウィリアム征服王の孫。シャンパーニュ伯・ブロワ伯)が所有していたプロヴァンProvinsの小堂に逃れた。その後, ノジャン=シュル=セーヌNogent-sur-Seineの町から東南に5kmほど離れたアルデュッソン河畔に葦と藁とで三位一体の名を冠した礼拝堂パラクレトゥスParakletos(仏語でパラクレparaclet,「慰める者」の意。後に木材と石で再建した。)を建立するが, 1127年頃, 生まれ故郷にほど近いサン・ジルダ・ド・リュイス修道院長 St Gildas de Rhuysに選出され, 乱れきった修道院経営に苦労することになる。
その頃, サン・ドニ修道院長シュジュ(シュジェール)Sugerは, アルジャントゥイユ女子修道院の修道女たちを追放し, 1129年教皇ホノリウス2世と国王ルイ6世の同意を得てサン・ドニ修道院に帰属させることに成功している。1130年, アベラールはアルジャントゥイユ女子修道院を追われたエロイーズと10年ぶりに再会し, 彼女と同じ修道女団で彼女に付き従っていた数名をパラクレに呼び寄せた。エロイーズはアルジャントゥイユ女子修道院では次長の地位にあったが, 1130年パラクレでも修道院長に選ばれ, 亡くなるまでその地位にあった。またアルベールは, 礼拝堂及びそれに付属する一切のものを彼女たちに贈り, 教皇インノケンティウス2世の承認を得ることができた(1131年)。
エロイーズは, 同第二書簡「エロイーズからアベラールへ」の中で「ただあなただけが, 私の身も心も所有する方なの・・・・もし, この世をあまねく支配する皇帝アウグストゥスが光栄にも私に結婚を申し込まれ, とこしえに地球すべてがお前のものになるぞと約束されたとしても, その人の皇后であることよりも, あなたの情婦とみなされることの方が, 私にとっては喜ばしいことであり,名誉であることなのです」と激しく身悶えする恋情を露わにしている。彼女には,(夫に修道院入りを強いられた時点では)神に仕え「キリストの花嫁」になる意志は全くなく, 敬虔かつ純潔な修道女として万人の崇敬の的となってからも夫アベラールへの思いが弱まることはなかった。したがって, エロイーズを「神なき修道女」と批判するのは酷である。彼女の言葉とは裏腹に, エロイーズには女としての〈生身の愛〉と〈神への愛〉が矛盾なく両立していたが, アベラールは(男としての傲慢さからか)彼女の愛の豊かさに全く気づかない。それどころか彼は, 弁証学者としての粋を尽くして〈理性の声〉に従うよう諭し,〈神への愛〉を説くばかりである。彼女はアベラールとの愛を貫こうとする中で, アベラールに期待した古代的聖性の持つ虚偽に気づき始め, 自らは「愛の誇り」のために生きようと決意していたのではないだろうか。しかし, そうした女性の思いは, (悲しいことに)アベラールには全く理解できないことであった。前章でみたトスカーナ女伯マティルデと比較した時, エロイーズという女性が示す人間像は時代が「革新の世紀」12世紀に移行したことを如実に表していると思われる。
やがてサン・ジルダ・ド・リュイス修道院を脱出したアベラールは, パリに舞い戻ってサント=ジュヌヴィエーヴの丘に学校を設立して, 教授活動を再開する。この頃, イギリスからやって来たジョン・オブ・ソールズベリJohn of Salisbury(?~1200, ソールズベリ司祭長)が彼の講義を聴いている。しかし, 先ず理性によって信仰の基盤を明確にし, その後で信ずるというデカルト的立場に立つアベラール神学は, 当時の正統的神学と真っ向から対立することになる。アベラール神学に異端の臭いを嗅いだシトー会士ギヨーム・ド・サン・ティエリの告発を受けた聖ベルナールは,アベラール神学を「痴愚学」と嘲って罵倒した。1140年アベラールは, 国王ルイ7世Louis VII(在位1137~80)の臨席するサンス教会会議Sens(ブルゴーニュ地方)で再び異端とされ, 修道院への幽閉と以後の完全沈黙を命ぜられた。彼は教皇インノケンティウス2世に直訴しようと旅立つが, 途中でクリュニー修道院の尊者ピエールPetrus Venerabilis(1094~1156)に温かく迎えられ, 彼の仲介で聖ベルナールとも和解した。その後, アベラールはソーヌ河畔のサン・マルセル・レ・シャロン分院 Saint-Marcelに落ち着いて最後の執筆活動を行い, 『哲学者とユダヤ教徒とキリスト教徒の会話』を残し, 1142年ついに帰らぬ人となった(63歳)。彼の亡骸はパラクレ女子修道院長エロイーズのもとに送られ, 彼女は同女子修道院内に墓を建て, 以後, 22年間にわたって守り続けたという(1164年エロイーズも63歳で亡くなり, 同じ墓に合葬された)。二人の遺骨は15世紀になってパラクレ大教会に移葬され, フランス革命の時にそこから取り出されたが, 今では二人揃ってパリのペール・ラシューズ墓地Cimetière du Père-Lachaiseに眠っている。
ところで, アベラールが生きた12世紀のヨーロッパは, まさに十字軍戦争のさなかであったが, イスラーム世界との文化的交流は続いていた。特にシチリア王国の都パレルモPalermoではイスラーム世界(アラビア語)やビザンツ帝国(ギリシア語)の文献が, また, レコンキスタ運動(711~1492)が展開されていたイベリア半島のトレドToledoでもイスラーム世界の医学・数学などの文献がラテン語に翻訳されたため, 西欧の知識人たちに大きな刺激となった。その結果生まれた「12世紀ルネサンス」を担う知識人としては, アベラール以外に, カンタベリ大司教アンセルムAnselmus Cantuariensis(スコラ学の父), 『命題集』を残したペトルス・ロンバルドゥスPetrus Lombardus, シトー派修道士アラン・ド・リールAlain de Lille, ジョン・オブ・ソールズベリなどの名が挙げられる。
古代の教父哲学は, 「不合理なるがゆえに我信ず」credo quia absurdum(テリトリアヌスTertullianus)と教義の合理的根拠を示さなかった。それに対して8世紀頃の修道院付属学校scholaに始まる中世スコラ学は, 「哲学は神学の婢(はしため)」として, 理性的な哲学を信仰に役立つ道具と位置付け, 理性と信仰の調和を原則として教義の論証に努めた。「スコラ学の父」と言われたカンタベリー大司教アンセルムスAnselmus(1033~1109)は, プラトン主義に従って「知るために信ずる」ことを信条としていた。やがて12世紀にはいると, 人間性全体の探究と根拠の探究との調和が模索されるようになり, 普遍論争が起こる。アベラールの最初の師であるロスケリルスは「普遍は実在せず名称でしかない」とする唯名論者nominalistであり, ギヨームは「普遍とは物であり, 実在する」と説く実在論者realistであった。それに対して普遍を事物や概念と区別された言語論の次元で思索したアベラールは, 「普遍はものを表示する言葉(sermo)であって, ものの状態を表示する」として, 普遍を個物に内在的な実在であるとした。一方, 聖ベルナールは, 弁証法よりも十字架の謙遜を学んだ愛の神秘家であり, 意志・愛を通して帰るべき学僧としての帰郷の道を説いていた。したがって,「愛の聖者」聖ベルナールにとって, アベラールの合理主義的傾向は決して受け容れがたく, 厳しい論難を浴びせることにつながったのである。
こうした普遍論争や弁証論と「信愛の哲学」の論争は, やがて13世紀イタリアのトマス=アクィナスThomas Aquinas(1225頃~74)が「恩寵は自然を破壊せず, 自然を完成する」と説いて, 一応の終焉をみた。彼によれば, 三位一体論などの信仰の奥義は論証不能であり, 哲学と神学は異質のものである。しかし, 自然の光(理性)に基づく哲学的真理は人々を信仰に導く役割を果たすと同時に, 恩寵の光(啓示)に基づく宗教的真理によって完成され, 両者は相互補助の関係にあるとした。苦悩に満ちた人生を生きたアベラールは, 理性と信仰を区別しつつ両者の調和を求める哲学者・神学者たちの先覚者であったことがあらためて再確認できる。注⑫
(2)第2回十字軍と仏王妃エレアノール
12世紀初め, フランス西部に広大な領地を持っていたアキテーヌ公国では「中世の春」
を謳歌していた。当時の領主ギヨーム9世Guillaume IX, Guilhen de Peiteu(在位1088~ 1126)の宮廷には, 美食がふんだんに用意され, イスラームのエキゾチックな音楽やリュートの音色に愛の言葉を合わせるトゥルバドゥールtroubadour(フランス北部ではトゥルヴェールtrouvereと呼ばれる吟遊詩人)が活躍する豪華絢爛な文化が花開いていた。奔放な性格の彼は, 1115年にはシャテルロー副伯夫人ダンジュルーズを拉致してモーベルジュンヌの塔に住まわせるなどやりたい放題の暮らしをしており, この時, 最初の妻エルマンガルドに続いて二度目の妻フィリパもシノンChinon近郊のフォントヴロー修道院Fontevraudに隠棲させている。1121年, 彼は長子ギヨーム(後のギヨーム10世)とダンジュルーズの娘アエノールを結婚させ, 翌年に誕生したのがエレアノール(オイル語で Eleanor d'Aquitaine, オック語でアリエノールAlienor, 1122~1204)である。
その後, エレアノールには妹ペトロニラや弟ギヨームが誕生しているが, 1127年祖父, 1130年弟・母と相次いで家族が亡くなり, 1137年には父ギヨーム10世Guillaume X(在位1126~37)がサンチャゴ=デ=コンポステラ大聖堂への巡礼途中, 熱病に罹って復活祭の日曜日に逝去している。ギヨーム10世は亡くなる直前にアキテーヌ公領の相続人は娘エレアノールであることを確認して仏王ルイ6世LouisⅥ(在位1108~37, 肥満王)に保護を求め, 同年7月にはボルドーで仏王太子ルイ(後のルイ7世)との結婚式が行われた。その後, エレアノールは妹ペトロニラやアキテーヌ公国宮廷人を伴って慌ただしくパリに移り, シテ・パレ王宮Cite - Palais に入ったのもつかの間, 8月1日には義父ルイ6世が逝去し, 新婚の夫は仏王ルイ7世Louis VII(在位1137~80)となったのである。ルイ7世は, 父ルイ6世の宰相格であったサン・ドニ修道院長シュジェールを師と崇める敬虔なキリスト者であったが, 後にサン・ドニ修道院長となるウード・ド・ドゥイユによると「俗世の栄光には感覚的な喜びを感じない男」であった。そして, 王妃となったエレアノールを待っていたのは, 陽光豊かで美しいアキテーヌ地方や華やかな宮廷文化とは全く対照的な北国の生活であり, ルイ7世との単調な王室暮らしであった。
1141年, 妹ペトロニラがラウール・ド・ヴェルモンドワ伯に恋をした時, エレアノールはヴェルモンドワ伯が妻レオノーラと離婚できるよう画策している。レオノーラはシャンパーニュ伯ティボーの姪であったことから, シャンパーニュ伯が教皇インノケンティウス2世に直訴する運びとなり, 問題は一気に大きくなった。翌年の教会会議でラウールとレオノーラの結婚は有効と宣言された時, 王妃に味方したルイ7世はシャンパーニュ伯領を攻撃して聖ベルナールから激しい叱責を受けている。1144年にはサン・ドニ修道院長シュジェールと聖ベルナールの仲介でシャンパーニュ伯との和議が成立して奪った領地を返還したが, 仏王には教皇や聖ベルナールへの負い目が生じた。
その頃, シリア地方では1126年にアレッポのアクスングルが暗殺され, ダマスカスの英傑トゥグティギンも病死したため, 指導者の交替が進んだ。先ずアクスングルの後継者となったイマード=アッディン・ゼンギZengiは, シリア=セルジューク朝(1085~1117)の本拠地モスールに乗り込んでスルタンに次ぐ権威を身につけ, 征服活動を展開する。1139年ゼンギがダマスカス併合計画を実行に移した時, ダマスカス政権では将軍ウヌールが都城を死守し, 外交官ウサマ・イブン・ムンキドの活躍で十字軍国家「イェルサレム王国」との同盟を結ぶことに成功する。その結果, ゼンギはやむなくダマスカス併合を断念したが, 1144年にはエデッサ伯領攻撃に乗り出して, 12月23日には都城陥落をなしとげている。
翌1145年, 聖ベルナールの後押しで即位した教皇エウゲニウス3世EugeniusIII(在位1145~53)は, エデッサ伯領が失われたことを知るやいなや, 仏王ルイ7世に教皇教書を送って十字軍派遣を呼びかけた。同年のクリスマスの日, ルイ7世はブルージュBrugge(フランドル地方)の宮廷でイェルサレム巡礼の願望を明らかにし, 翌1146年3月31日には「十字」の印を授与されただけでなく, 聖ベルナールの手から直々に「十字架」の布が縫いつけられたマントを受け取っている。同年の復活祭の日, マグダラのマリアの遺骸(頭蓋骨)移葬で有名になっていたヴェズレーVézelayにおいて集会が開かれ, 聖ベルナールが「法王(エウゲニウス3世)の認可と彼自身の聖性により, 呼び集められた厖大な数の人々に」十字軍の熱烈な勧説を行った。聖ベルナールは, この演説の中で, 十字軍に「贖罪を果たした者が〈キリストの下僕〉となって福音を伝え, その目的のためには殉教をも厭わない〈愛の実践の場〉とする」ことを求めている。すなわち, 間もなく派遣される第2回十字軍(1147~49)は, 異教徒を信仰の妨害をする「悪魔」とみなす点においては初回と何ら変わりはないが, 教皇ウルバヌス2世の演説が聖書由来の甘美な誘いに満ちていたのに対して, 聖ベルナールのそれは真のキリスト者となるための「試練」の場としている点に新しさが見いだせる。
1147年6月8日, 仏王ルイ7世は妃エレアノールを伴ってサン・ドニ修道院から出発し, 聖地イェルサレムを目指した(前年出産した長女マリーはフランスに残している。)神聖ローマ皇帝コンラート3世Konrad III(ホーエンシュタウフェン家, 在位1138~52)率いるドイツ軍団は小アジアに入ったばかりのドリレウムDorylaeumで奇襲攻撃を受けて全兵力の9割を失い, ルイ7世の仏軍もラオディケイアLaodikeiaを通って地中海岸のアダリアAdalia(アッタリアAttalia)に抜ける山越えの強行軍で兵力の大半を消耗し尽くしてしまった。しかし, テンプル騎士団の騎士修道会第3代総長エヴラール・デ・バールEverard des Barres に補給を仰いだルイ7世は, ビザンツ海軍の舟艇を雇って辛うじてアンティオキア外港のサンシメオンStylites に上陸することができた。ルイ7世とコンラート3世はいずれもエデッサ伯領の奪回には何の関心も示さず, 聖ベルナールの示唆通り, 「キリストに再会する」ために聖地イェルサレムに辿り着いた。すなわち, 彼等は聖地巡礼を優先しており, 聖地解放の意欲が大分薄れていたのである。なお, ルイ7世がアンティオキア侯レーモン・ド・ポワティエRaymond de Poitiers(在位1136~49。エレアノールの父ギヨーム10世Guillaume Xの末弟で, エレアノールとともにボルドーのオンブリエール城で過ごしたことがある)の軍事的援助要請を拒否したことは, 国王夫妻の亀裂を深めることにつながったと言われている。
翌1148年6月24日, アッコンでイェルサレム王国と仏独軍による作戦会議が開催され, ダマスカス攻撃を決定した。しかし, ダマスカス政権の将軍ウヌールはイェルサレム王ボードゥアン3世Baudouin III(ボードゥアン2世の孫)の背信をいち早く察知し, 書簡で厳しく非難した。その一方で彼は, アレッポのヌーレディンNūr al-Dīn(ゼンギの孫)と同盟を結び, 7月24~29日に繰り広げられたダマスカス攻防戦はヌーレディンを中心とするイスラーム側(ダマスカス=アレッポ同盟)の勝利となった。また, 彼は1149年にはアンティオキア侯領の半ばに達する外オロンテス地方を奪い取り, 同侯レーモンを戦場で討ち取っている。1154年4月25日, ダマスカス入城を果たしたヌーレディンは, ついにシリア統一を実現させたのであった。注⑬
(3)第3回十字軍と英王妃エレアノール
第2回十字軍で裏切りの汚名と惨敗の不名誉を味わった仏王ルイ7世とその妃エレアノールには, 数奇な運命が待っていた。1149年別々の船で帰国した二人は, 教皇エウゲニウス3世を訪ね, 12年間の結婚生活で一人の娘しか生まれなかったのは近親結婚のためだとして離婚を認めるよう求めた。しかし教皇からは色よい返事はなく,(皮肉なことに)エレアノールは間もなく妊娠するが, 誕生したのはまたしても娘だった。
やがて1151年8月, アンジュー伯ジョフロワGeoffroi(プランタジネット家Plantagenet)が息子ヘンリ(後のヘンリ2世)を伴って仏王ルイ7世を訪ねて来た。彼は英王ヘンリ1世Henry I(ノルマン朝第3代イングランド王, 在位1100~35, ノルマンディー公アンリ1世Henri I在位1106~35)の娘マティルダMatildaと結婚してイングランド王位継承権を持っていた。マティルダは1114年神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世と結婚したが, 1125年皇帝逝去に伴ってイングランドに帰され, 1128年には10歳年少のアンジュー伯ジョフロワと再婚している。父親ヘンリ1世は長子ヘンリが海難事故で亡くなったとき, マティルダを後継者と定めていたが, 1135年英王死去の際にマティルダの従兄弟ティーヴン・オヴ・ブロワStephen(ブロワ家Blois唯一のイングランド王, 在位1135~54)に王位を奪われてしまった。1137年スティーヴン王はノルマンディー地方に侵攻し, 仏王ルイ6世に「臣従の礼」をとっている。これに対してジョフロワは, 1144年スティーヴン王からノルマンディー奪回に成功し, ノルマンディー公の称号を獲得した。しかし, 彼は未だに仏王に対する「臣従の礼」をとっていなかったので, 1151年あらためて仏王7世に対する忠誠の誓いをするためにやって来たのである。その際, エレアノールとプランタジネット家の人々が会ったという記録はないが, その7カ月後に変化が生まれる。
1152年3月21日, ロワール川沿いのボージャンシーBeaugencyで開かれた教会会議で 仏王ルイ7世とエレアノールの親族関係が確認され, 結婚無効とされた。ルイ7世はマリー, アリックスという二人の王女たちを嫡出子と認定されて親権を確保し, エレアノールは国王の臣下として忠誠を続けるという条件でアキテーヌ地方の広大な領地を確保し, 自由に再婚する権利を手に入れた。そして, この決定から二月もしない5月18日, ポワティエにおいてエレアノール(28歳)と英王太子ヘンリHenry(アンジュー伯アンリ, 18歳)の結婚式が挙行されたのである。その結果, 二人がフランスに所有する領地の面積は, 仏王のそれを遙かにしのぐ広大なものとなった。この事態の変化に動揺したルイ7世は, プランタジネット家に反感を抱いていたスティーヴン王やヘンリ王太子の末弟ジェフリーなどを含む有力諸侯を糾合してノルマンディー攻撃に打って出たが, ヘンリ王太子の軍隊によって撃退された。翌1153年1月, ヘンリ王太子は母マティルダにノルマンディー公国, 懐妊していた妻エレアノールにアンジュー伯領・アキテーヌ公国を託してイングランド攻撃に向かった。イギリス海峡を渡ったヘンリは, コッツウォルズ地方南部のマームズベリー城Malmesburyを占拠し, ウォリングフォードWallingford近くでスティーヴン王と対峙した。ユスターシュ王子を失って弱気となっていたスティーヴン王は和議を結び, 彼の死後はヘンリ王太子を後継者とすることで決着した。エレアノールは間もなく男児ギヨームを出産した(彼女はその後, 1155年ヘンリ, 56年マティルダ, 57年リチャード, 58年ジェフリー, 61年エレアノール, 65年ジョアンナ, 66年ジョンと合計8人の子どもを出産している)。そして, 1154年10月にスティーヴン王が身罷り, 同年12月19日, ついにウェストミンスター寺院Westminsterにおいて英王ヘンリ2世Henry II(プランタジネット朝初代のイングランド王, 在位1154~89)と王妃エレアノールの戴冠式が挙行される運びとなり, ここに「アンジュー帝国」が誕生したのである。
さて, イスラーム世界でも変化が生じていた。その当時, カイロに拠点を置くファーティマ朝(909~1171, シーア派)は, 相変わらず穀物輸出を主とする地中海貿易や, シナイ半島経由でヨルダンやイラクに通じる隊商交易が盛んで大きな富を得ていたが, 11世紀後半以降, カリフ権力は大幅に弱体化していた。国政は宰相が左右する状態となり, 1160年以降はイェルサレム王国に貢納金を払って保護を求める有様であった。1161年宰相イブン・ルッジクが亡くなると後継者争いが激しくなり, 権力闘争に敗れた宰相シャワルShawarはシリアのヌーレディンに保護を求めている。このようなファーティマ朝は, イェルサレム王アモーリ1世Amaury I(在位1163~74, ボードゥアン3世の弟)やヌーレディン(シリア政権)にとっては格好の餌食に見えた。
イェルサレム王国の第1次エジプト遠征(1163)は, ファーティマ朝がナイル川増水を利用して何とか防衛に成功したが, ヌーレディンが武将シールクーを派遣した第2次遠征(1164)ではシリア政権の勝利となり, シャワルが宰相に復帰した。しかし, シャワルは, ヌーレディンとの間で交わされた, 遠征費の全額負担やヌーレディンの宗主権を認めて貢納金を支払うなどの約束を破ってシールクーの退去を求めただけでなく, イェルサレム王国に援軍を要請した。アモーリ1世のエジプト遠征に危機感を抱いたヌーレディンは, アンティオキア侯国を攻め, 王不在中の国事を委ねられていたアンティオキア侯ボエモンやトリポリ伯を捕虜にして, 辛うじてイェルサレム王国を撤退させた。
1167年, イェルサレム王国とシリア政権の軍勢がエジプトを目指した(第3次エジプト遠征)。シールクー率いるシリア軍は, 3月18日アル・バーバイン近郊でイェルサレム・エジプト同盟軍を撃破した後, エジプト最大の都市アレクサンドリアAlexandriaを攻め落とした。その時, 体勢を立て直した同盟軍がアレクサンドリアを包囲して食糧攻めを行ったが, シールクーはアレクサンドリアを甥のサラーフ=アッディーンSelaheddine(サラディンSaladin注⑭)に任せて脱出し, 上エジプトの反シャワル勢力を味方にして和議に持ち込んでいる。第3次遠征はイェルサレム・エジプト同盟という成果を残したが, それに満足できなかったアモーリ1世は第4次エジプト遠征(1168~69)を敢行する。しかし, それは同盟関係を結んだファーティマ朝への裏切り行為にほかならず, 第3回遠征で活躍したテンプル騎士団は不参加を表明した(聖ヨハネ騎士団は遠征に賛同した)。エジプトに侵攻したイェルサレム軍のビルバイス住民虐殺は, エジプト人に徹底抗戦の決意をさせ, 宰相シャワルはカイロ旧市街放火を命じた。アモーリ1世はエジプト人の抵抗と背後から押し寄せてくるシールクー軍に怖れをなして, 1169年1月2日撤退した。その結果, 人望を失って殺害されたシャワルに代わってサラディンがエジプト宰相に就任し, 第5次エジプト遠征(1169)にも失敗したアモーリ1世は1174年赤痢に罹って亡くなり, イェルサレム王位は息子ボードゥアン4世Baudouin IV(在位1174~85)が継承した。
1169年, サラディン(在位1169~93)は, 叔父シールクーの死によって軍権を引き継ぎ, さらにはファーティマ朝宰相にも就任したことによってエジプト全土の掌握に成功した。彼がアイユーブ朝Ayyūb(1169~1250)を創始した後, 1171年ファーティマ朝は第14代カリフ・アーディドが世継ぎを儲けないまま病没したことによって滅亡し, エジプトの政権はシーア派からスンナ派へと移行した。1174年にはヌーレディンが亡くなり, サラディンはシリア=エジプト連合を構築することに成功する。その後のサラディンは, イクター制度に基づく強力な軍備を整え, イェルサレム王国攻撃の準備を行っている。
1187年, サラディンは満を持してイェルサレム王国攻撃に着手し, 5月にクレッソン泉の戦いCressonでテンプル・聖ヨハネ両騎士団を撃破した後, 7月にはヒッティーンHattinの戦いに臨んでいる。7月2日, アイユーブ軍は, サラディンを中央に, 彼の甥と若い息子を左右両翼に配して出動し, ガリラヤ湖畔のチベリアスTiberiasで陽動作戦を展開してイェルサレム軍の主力部隊を湖西の丘陵地帯に誘い出すことに成功した。イェルサレム王国軍はアモーリ1世の娘婿である「ギー王」(フランス貴族ギー・ド・リュジニャンGuy de Lusignan)を主将に, 各侯伯領主, テンプル・聖ヨハネ両騎士団総長などを各軍団長とする重装騎士1,200人, 軽装現地人騎士多数, 歩卒1万余の軍勢であった。4日の夜明けと同時に, 丘陵頂上の「ヒッティーンの角」と呼ばれる二つの突起部を東に越えた斜面で両軍が激突したが, アッコン司教が捧持していた「真の十字架」を奪われ, 無惨にも十字軍側の大敗となった(ギー王は捕虜となる)。5日後にアッコンが陥落し, 9月初めまでにシドン, ベイルート, ヤッファ, アスカロン, ガザが征服され, 同月20日にはついにイェルサレム攻防戦を迎えた。イェルサレム王国軍総帥は総大司教エルキュールであったが, 実戦指揮はビザンツ皇女マリア・コムネナ(アモーリ1世の寡婦で, ギー王の継母)を妻とするフランス貴族バリアン・ディブランがとった。戦闘はイェルサレム北壁で展開され, 双方とも夥しい死傷者を出した後, 30日になって休戦協定の作成に入り, サラディンは無血降伏の申し出を受諾した。10月2日, サラディン軍は聖都入城を果たし, 城壁高くイスラームの旗を翻した。岩のドームの円蓋高く聳えていた金箔の大十字架は引き降ろされたが, 聖墳墓教会をはじめとする多くの聖堂は破壊を免れた。
イェルサレム王国滅亡の報せは, 瞬く間にヨーロッパ各地に伝わった。その頃, イングランド王室では, 国王ヘンリ2世と息子たちが対立関係にあった。ヘンリ2世は, トマス・ベケットThomas Becket(1118頃~70)という人物に長子ヘンリの家庭教師をさせ, 後には大法官Lord Chancellorにまで取り立てて篤く信頼していた。ところが, ベケットがカンタベリー大司教(在任1162~70)に選任されてからは, 教会の自由をめぐって対立するようになった。ベケットは, 1166年ヴェズレー修道院において, 教会支配の強化をたくらむヘンリ2世を批判してその支持者を破門し, 英王自身の破門も辞さないと言明している。一方, ヘンリ2世は, 1170年教皇カリクストゥス3世CalixtusuⅢ(在位1168~78)の反対をものともせずに(ベケットではなく)ヨーク大司教の手でヘンリ王子を「小国王」として戴冠させ, 王党派の手によってベケットを暗殺している。一方, ヘンリ2世と心離れて久しいエレアノールは, ポワティエを自らの居城と定めていた。しかし, 1170年にリチャード王子をアキテーヌ公として承認させたことや, ノルマンディー騎士の娘「麗しのロザモンド」(愛妾ロザモンド・クリフォードRosamond Clifford )という女性の出現もあって, ヘンリ2世との溝が広がり, さらに冷たいものとなった。
1173年, ヘンリ2世とヘンリ王子が諍いを起こしたとき, 父王は王子を半ば軟禁状態でにしてノルマンディー地方へ連行したが, ヘンリ王子はヴィエンヌ川とロワール川の合流地点に立つシノン城Chinonから脱出して母の住む南部ポワトゥーPoitouへ急ぎ, 弟のリチャードやジェフリーとともに父王への造反計画を立てた。ヘンリ2世はエレアノールに対して三人の息子たちを連れてイングランドに戻るよう命じたが, 彼女はそれを無視して仏王ルイ7世の住むパリを目指した。しかし, 男装して騎士の一団に紛れ込んでいたエレアノールは途中で見破られ, 英王に引き渡された。以後, 彼女はソールズベリー塔Salisburyに幽閉され, 16年間にわたって事実上の囚われの身となった。翌1174年にはヘンリ2世と三人の王子たちの和議が成立したが, 1183年には再びヘンリ2世とヘンリ王子の諍いが再発し, 6月11日ヘンリ王子は赤痢と思われる症状が悪化して28歳の若さで亡くなっている。エレアノールは, 1184年のクリスマスにはウィンザー城Windsor でリチャード, ジョン, マティルダとの対面が許され, ジェフリーGeoffreyとはウェストミンスター寺院で会うことが出来た。なお, フランスでは1180年にルイ7世が逝去し, 後はフィリップ2世Philippe II(在位1180~1223, 尊厳王)に引き継がれた。
英仏関係がこのような状態にあった時, ヒッティーンの悲報がティルス大司教によって教皇クレメンス3世ClemensⅢ(在位1187~91)のもとに届けられた。教皇は直ちに回勅によって諸国に伝達し, 民衆巡礼団と封建徴集軍が編成された。しかし, その一方で英王室内の確執は続いていた。1189年, 英王子リチャードは仏王フィリップ2世と結託して父ヘンリ2世が所有していたル・マンLe Mans, トゥールToursに宣戦布告を発し, 潰瘍で病床にあったヘンリ2世は和議を結ばざるを得なかった。ヘンリ2世はリチャード王子ばかりか最愛のジョン王子までもが裏切っていると知った翌日に亡くなり, シノン近郊のフォントヴロー修道院に埋葬されている。リチャード1世Richard I(在位1189~99, 獅子心王Richard the Lionheart)は9月初旬の即位後, 直ちに軍資金をかき集め, 1190年夏には十字軍に参加するためにイングランドを出発した。彼は仏王フィリップ2世と共にヴェズレー修道院で3カ月間滞在し, 7月にはシチリアで落ち合う約束をしてイタリアに向けて出発した。
第3回十字軍(1189~92)は神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世Friedrich I(在位1152~90年, 赤髭王Barbarossa), 英王リチャード1世, 仏王フィリップ2世という大国の君主が揃って参加しているという特徴があるが, 1189年に出発した総司令フリードリヒ1世は, 翌年イコニウムの戦いでアイユーブ朝軍を打ち破るという大戦果を収めたものの, 1191年6月キリキアCilicia(小アジア南東部)のサレフ川において溺死している。そのため, 十字軍の中心は必然的に英仏軍となった。リチャード1世は, 聖地に向かう途中で妹ジョーン(シチリア王国第3代国王グリエルモ2世Guglielmo II il Buonoの未亡人)をめぐってシチリア王タンクレーディTancredi(ノルマン朝第4代国王, 在位1189~94)と争い, メッシーナを奪って屈服させた。また彼は, フィリップ2世の姉アレーと婚約して久しかったが, その約束を破棄して母エレアノールがはるばるシチリアまで連れてきたナヴァール王サンチョ6世Sancho VI(在位1150~94)の娘ベレンガリア・オブ・ナヴァールBerengaria of Navarreとの婚約を発表している。アレー姫が長い間にわたって父ヘンリ2世の愛人として子どもまで産んでいたという事情もあるが, 仏王フィリップ2世の配下に置かれるのを避けようとしたわけである。これにより, リチャード1世とフィリップ2世は決定的に対立するようになり, 互いに別行動をとるようになった。1191年春, リチャード1世は婚約者ベレンガリアや妹ジョーンを連れてイェルサレムに向かう途中で, 彼女たちが乗った船が難破し, キプロス太守に捕らえられた彼女たちの身代金を要求された。その時, リチャード1世はキプロス島を占領し, 5月12日ここで結婚式を挙げている。
仏軍は同年4月中旬にチュニス港に入港していたが, イングランド軍が合流できたのは6月7日のことであった。リチャード1世・フィリップ2世が総司令官となった英仏軍を中心に,オーストリア大公レオポルト5世Leopold V(在位1177~94)や先遣隊として既に到着していたモンテフェラート侯コンラートConrad(ロンバルディア貴族)の軍隊も加わって大軍が集結し, アッコンを包囲した。しかし, サラディンは十字軍の来襲に備えてパレスティナ, ダマスカス, アレッポ, エジプトその他から多くのイスラーム戦士を用意していたため, 戦況は二重包囲という異常な様相を呈することとなった。7月11日, 城壁下を掘進するトンネル作戦が功を奏して, 翌日にはアッコン総督アル・マシュトゥブが降伏を申し出た。早速, 十字軍側とサラディンの交渉が開始され, ムスリム捕虜の身代金2万ディナルの支払いや, 旧司教座聖堂に安置されていた「真の十字架」の返還, キリスト教徒捕虜の解放などを条件に停戦が成立した。しかし, なかなか約束が履行されないのに苛立ったリチャード1世は, ムスリム捕虜を大量に虐殺している。また, アッコン陥落の際に, レオポルト5世が自らの功績を誇示するために掲げた軍旗をリチャード1世に引き摺り降ろさせたことは, 両者の関係を険悪なものとした。なお, 仏王フィリップ2世は病気を口実に, アッコン陥落後まもなく帰国している。
ただ一人現地に残って転戦を繰り返していたリチャード1世は, 1192年9月2日, サラディンと3年間の休戦条約を結ぶことで合意し, 戦線の現状維持やキリスト教徒のイェルサレム巡礼の自由などが約束された(翌年, サラディンは逝去した)。この後, リチャード1世は病を得たこともあって聖地イェルサレムへの巡礼を辞して帰国の途についたが, 彼を乗せた艦隊は嵐にあって難破し, アドリア海北端のイストリア海岸に漂着した。こうしてリチャード1世は陸路で帰国を急ぐことになったが, 12月20日, 彼に恨みを持つオーストリア大公レオポルト5世に拿捕され, ドナウ川の要衝デュルンシュタインDurnsteinのクエリンガー城Kuenringerburgに幽閉された。レオポルト5世は, リチャード1世の身代金として銀貨15万マルクと人質として英王の家臣の家族を要求した。その後, リチャード1世はレオポルト5世の従兄弟にあたる神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世Heinrich VI(在位1191~97, シチリア王在位1194~97)のトリフェルス城Trifels(ランラント=プファルツ地方)に移されて屈辱の日々を過ごした。注⑮
母エレアノールは身代金(釈放の一時金10万マルクのうち, エレアノールは8万マルクを用意)と人質の確保に奔走し, 12月には純銀にして35トン分の身代金を携え, 直臣以上の貴族とその家族から選抜した人質200人や随行者を引き連れて息子の引き渡し場所へと出発した。その間に, ジョン王子はフランスに渡り, 仏王フィリップ2世との間で「次期イングランド王はジョン王子とし, フランスにおけるプランタジネット家の領地を支配する英王は仏王に対して〈臣従の礼〉をとる」約束を交わした。また二人は, リチャード1世の禁固をさらに9カ月伸ばしてもらうためにエレアノールが持参した身代金と同額の銀貨を皇帝ハインリヒ6世に差し出したが, 皇帝は臣下に説得されてリチャード1世を母の手に渡したとも言われている。1194年の聖母マリアお清めの祝日(聖燭節, 2月2日), マインツMainzにおいてマインツ大司教とケルン大司教がリチャード1世を「彼の自由と平和を皇帝側から母エレアノールの手へ」引き渡した。釈放されたリチャード1世はアントワープへ向かい, 3月にはイングランドに上陸している。その後, 彼は南部のウィンチェスター大聖堂Winchesterで二度目の結婚式を挙行し, 弟ジョンを屈服させた。また母エレアノールはフォントヴロー修道院に身を寄せた。なお, 時の教皇ケレスティヌス3世Celestine III(在位1191~98)は, リチャード1世を無実の罪で投獄したとして皇帝ハインリヒ6世やオーストリア大公レオポルト5世を破門している。
その後, 仏王フィリップ2世がノルマンディー公国に侵攻したため, リチャード1世は再び海を渡ったが, 1196年1月15日の和議で要塞ジゾールGisoreやヴァクサン地方Vaxinはフランス王国領となってしまった。そこでリチャード1世は, ノルマンディー公国の都ルーアンRouenを防衛するために, 1197 年から翌年にかけてガイヤール城Gaillardを建築し, フランス王国との戦争を準備した。しかし, イングランド財政は, 莫大な身代金や築城費で逼迫し, 新たな戦費を捻出するのは困難な状況にあった。そこで大法官となっていたカンタベリー大司教ヒューバート=ウォルターHubert Walter(リチャード1世の釈放に奔走した功績で1193年カンタベリー大司教に, 翌年大法官にそれぞれ就任)に命じて, 1198年新税カルケージCarucage(一定耕地保有税)を創設している。ところが, 翌年3月25日, リチャード1世がフランス南西部のリムーザン地方Limousinのシャリュス城Chalusを包囲したとき, クロスボウcrossbowの矢を左肩に受け, 4月6日, 「ジョンを後継ぎに」という最後の言葉を残して42 歳で亡くなった。
ところで, リチャード1世と弟ジョンとの間には三男ジェフリーGeoffreyがいたが, 彼は1181年ブルターニュ女公コンスタンス・ド・ブルターニュConstance de Bretagne(在位1166~96)と結婚してブルターニュ公ジョフロワ2世Geoffroy II(在位1181~86)となった。しかし, 1186年仏王フィリップ2世が開催した馬上槍試合で受けた傷がもとで落命したため, しばらくはコンスタンスが統治していたが, 1196年には遺児アーサーをブルターニュ公アルテュール1世Arthur I(在位1194~1203)として継承させた。1198年のリチャード1世逝去に際し, コンスタンスはイングランド王国とノルマンディー公国の宗主権を要求し, 仏王フィリップ2世やアンジューAnjou, メーヌMaine, トゥレーヌTouraineの貴族たちもコンスタンス支持で動き出した。その時, 愛息リチャード1世の葬儀以来, フォントヴォロー修道院に隠棲していたエレアノール77歳が再び動き出し, 彼女はアンジェAngers, ジョン王子はル・マンLe Mans奪回のための軍を出している。そして, エレアノールがアンジューとメーヌにおけるジョン王子の地位固めを行っている間に, ウェストミンスター寺院でジョン王John(在位1199~1216, 欠地王)の戴冠式が挙行された。
王位に就いたジョンは, 仏王フィリップ2世と和議を結び, エレアノールの孫娘ブランカ姫(末娘エレアノールの子)を仏王太子ルイに嫁がせることで合意した。年老いたエレアノールは気丈にもピレネー山脈を越えてブランカの住むカスティーリア王国まで長旅をし, 幼い花嫁を迎えている。しかし1202年,フィリップ2世は和議を無視し, またもやブルターニュ伯アルテュール1世と結託してノルマンディー公国に侵攻し, ポワティエまで兵を進めた。危機に瀕したエレアノールは, フォントヴロー修道院を離れてミラボー城Mirabeauに移ったが, そこを孫のアルテュール1世が攻撃してきた。ミラボー城はあえなく攻め落とされたものの, ル・マンからかけつけたジョン王がアルテュール1世軍を撃破した(1203年, アルテュール1世はノルマンディー地方のファレーズFalaiseの土牢で死亡)。しかし, 1204年4月1日, エレアノールの82年間におよぶ波乱に満ちた生涯はついに終わりを迎え, その遺体はフォントヴロー修道院に葬られた。彼女の墓碑には, 襞のある服とマントを身につけて読書する姿が刻まれているという。それはまさに, 高い教養と知的好奇心に満ちた女王の姿であり, 12世紀という「革新の世紀」を生き抜いた新しい女性の写し絵であった。注⑯
5.教皇権の絶頂期 ~変化の予兆~
(1)第4回十字軍と少年十字軍
エレアノールの最晩年に派遣された第4回十字軍(1202~04)は,「世界の光」(ライト=ムンディ)と畏敬された教皇インノケンティウス3世Innocentius III(在位1198~1216年)の勧説によるものである。彼はイタリアの名門コンティ家Contiの生まれで, パリ大学で神学を, ボローニャ大学で法学を収めた俊英で, 1198年37歳で教皇に選出されている。インノケンティウス3世の念願は「ウルバヌス2世の本源に復帰する」ことにあり, 1202年アイユーブ朝第4代カリフのアル・アーディル Al-Adil(在位1202~18)即位にイスラーム勢力回復の兆しを感じて, 聖地イェルサレム奪回の勧説を行うようになる。その結果, 北フランスを中心にフランドル伯ボードゥアン, ブロワ伯ルイ, ブーローニュ伯テオバルトなどが名乗りを上げ, 公称では騎士4,500人, 軽装騎士9,000人, 歩卒2万人という軍勢が用意された。
ところが, 実際の出発日には軍勢は半減し, 行軍予定や指揮官がめまぐるしく変更されるという体たらくであった。教皇は第3回十字軍と同じくシチリア島に集結して聖地に直行する案を想定していたが, 商圏をめぐってビザンツ帝国と対立していたヴェネツィア市民の意向でヴェネツィアからの出航となり, 司令官は出発直前に死亡したシャンパーニュ伯に代わってモンテフェラート侯コンラートが推戴された。十字軍兵士たちは渡航費にも事欠く有様であったから, ヴェネツィア総督の仲立ちで商人たちが用立てた謝礼金欲しさで参加し, ハンガリー王国からのザラ(ヴェネツィア対岸の港町ザダルZadar)奪回や, 東方貿易の拠点コンスタンティノープルConstantinopleを襲撃することに何の躊躇も示さなかった。当時, ザラにはビザンツ帝国の亡命皇帝が住んでおり, その息子であるアレクシオス皇子(後のアレクシオス4世アンゲロスAlexios IV Angelos, 在位1203~04)は十字軍兵士を彼の宮廷革命に利用しようとしたが, 十字軍兵士にとってはどうでもいいことであった。
1204年4月12日, 古代ローマ帝国以来, 約1500年の歴史を誇ったビザンツ帝国は, ついに滅亡した。その日以降, コンスタンティノープル市内は十字軍兵士による掠奪, 暴行, 虐殺の巷と化し, 昔日の繁栄は完全に消え失せた。5月16日, 聖ソフィア大聖堂Ayasofya, Hagia Sophiāにおいて皇帝ボードゥアン1世Baudouin I(在位1204~05, フランドル伯)の戴冠式が挙行され, ラテン帝国(1204~61)が誕生した。ボードゥアン1世は即位後, 皇帝選挙人(司教6人・領主騎士6人)に旧ビザンツ帝国領の分割を命じ, 首都から西を皇帝領とし, 東を遠征軍司令官モンテフェラート侯にあてがわれることとなった。しかし, 野心家のモンテフェラート侯は皇帝を説得して領地交換をし, ギリシア本土の切り取りに乗り出した。彼は順調にバルカン半島を征服していったが, アテネAthínaだけは頑強に抵抗した。しかし, これもシリアからジョフロワ・ド・ヴィラルドゥアンGeoffroiI de Villehardouin(後の第2代アカイア公, 在位1208~28)が来援し, 辛うじてギリシア全土の征服に成功した。こうしてギリシアは, モンテフェラート侯のテッサロニカ王国Thessalonikiとフランス貴族ギヨーム・ド・シャンプリットGuillaume de Champlitteのモレア公国Morea(ペロポンネソス半島)に二分され, いずれもラテン皇帝に臣従する封建国家として誕生した。
一方, 支配が難しい小アジアをあてがわれたボードゥアン1世は, ギリシア正教聖職者の支持を受けた亡命ギリシア人仮政府の抵抗に手を焼いた。その時, ブルガリア王カロヤンIoniţă Caloian(在位1197~1207)が教皇の庇護下に十字軍を志願し, ラテン帝国に協力を申し出た。しかし, ボードゥアン1世がクーマン人部隊14,000人を率いて馳せ参じたカロヤン王に対して「臣従の礼」を求めたことから対立し, ブルガリア王国は亡命ギリシア人仮政府に味方した。1205年4月, アドリアノープルの戦いに敗れたボードゥアン1世は捕虜とされ, 牢獄で謎の死をとげている。
1208年, 教皇インノケンティウス3世はバイエルン宮廷伯オットー8世(ヴィッテルスバッハ家Wittelsbach)と結んで神聖ローマ皇帝フィリップPhilipp von Schwaben(在位1198~1208, ホーエンシュタウフェン家Hohenstaufen)を暗殺し, ブランシュヴィク公オットー4世Otto IV(在位1208~15)の即位を認めている。また, イングランド王ジョンとはカンタベリー大司教の選任をめぐって対立し, 1209年ジョン王を破門した。一方, 彼が皇帝としたオットー4世が事もあろうにイタリア南部に勢力拡大を図ったため, 1210年今度はオットー4世も破門とした。英王ジョン王は教皇による破門を無視し続けていたが, 1213年教皇が仏王フィリップ2世のイングランド侵攻を支持したため, 慌ててイングランドを教皇に寄進して封建臣下となることを誓い, 辛うじて破門を解いてもらっている。その後, 英王ジョンは皇帝オットー4世, フランドル伯フェランFerrand, ブーロニュ伯等と謀ってフランス挟撃を目論んだが, 1214年7月27日ブーヴィーヌの戦いBouvines(フランドル地方)で仏王軍に大敗した。その結果, 仏王フィリップ2世はカペー朝国家dynastie des Capetiens(987~1328)を不動のものとすることに成功したが, 英王ジョンは大陸領土の回復に失敗し, 皇帝オットー4世は廃位されて前帝の甥にあたるフリードリヒ2世Friedrich II(在位1220~50, シチリア王フェデリーコ1世FedericoⅠ[在位1197~1250])が帝位に就いた。
ところで, 教皇インノケンティウス3世の治世には, 1212年「少年十字軍」という民衆十字軍も聖地を目指している。この十字軍の名称は, ロワール中流の町ヴァンドーム Vendôme近郊のクロワ村に住む牧童エティエンヌと, ライン川沿いの都市ケルンの少年ニコラスが, ほぼ同時に, それぞれ数千人から数万人の民衆を引き連れて聖地奪還に向かったことに由来する。ただし, 参加した民衆に占める少年の割合は必ずしも高くなく, 多くは不自由身分の使用人, 家内労働に従事する召使いなど社会的身分の低い貧民層であった(第1回十字軍前に発生した所謂「民衆十字軍」とは対照的である)。神からイェルサレム解放の使命を受ける幻視を経験した牧童エティエンヌは, 仏王フィリップ2世にその経緯を明かした。王は, パリ大学の教授たちに「この現象をどう解釈し, 少年たちをどう扱えばよいか」と諮問した結果, 聖地巡礼は不許可となり, 大部分の子どもたちは帰宅させられた。しかし, エティエンヌ少年はこの勧告を無視し, 多くの民衆を引き連れてローヌ川沿いにマルセイユへ行き, 二人の船主に頼んで大船7隻に分乗して聖地に向かった。出航後2日目の夜, 嵐に遭遇して船団はばらばらとなり, 2隻はサルディニア島近くの岩礁に衝突して沈み, 残り5隻はアルジェリア北東部のブージー港(現在のベジャイア Bejaia)とエジプトのアレクサンドリアAlexandriaに辿り着いたが, 乗客全員がイスラームの官憲に売り渡されたという。一方, ケルンのニコラス少年は, 数万の人々を連れてライン川を遡り, アルプスを越えてジャノヴァ Genovaに辿り着いたときには7,000人ほどに減っていた。ジェノヴァ市民は浮浪少年の群れに驚き, 即刻町から退去するよう命じている。注⑰
(2)アルビジョワ十字軍 ~異端カタリ派の追放~
ところで, 12世紀の西ヨーロッパには, 「リヨンの貧者」と呼ばれたヴァルド派Waldensiansや, ギリシア語でカタリKathari(「純粋な者」の意)と称する集団が誕生している。ここでは後者を取りあげるが, 彼等はあたかも使徒のように「キリストの貧者」pauperes Christiとして無所有で放浪し, 聖職者や修道士のように地上の所得に思い煩うことなくキリストの足跡に従い, 真の教会は自分たちのもとにあると確信していた(「使徒的生活」Vita apostolica)。また, 彼等はミサや聖体拝領の代わりに毎日のパン裂き, 洗礼の代わりに信者受け入れのための救慰礼(コンソラメントゥムConsolamentum, 按手)という独自の慣習と典礼を持つだけでなく, 肉欲を厳格に拒否し, 何事も宣誓をせず, 結婚を否定していた。1147年, 新たな集団の誕生を知った教皇エウゲニウス3世Eugenius III(在位1145~53)はカタリ派が広まっていた地方にシトー派修道士を派遣してカトリック教会への復帰を呼びかけたが, 一向に改善の兆しは見られず, 教皇アレクサンデル3世Alexander III(在位1159~81)が召集したリヨン教会会議(1163)や第3ラテラン公会議(1179)では正式に禁止している。
ところがその間に, コンスタンティノープルからボゴミール派司教ニケタスが, 1167年イタリア, ついでその後フランスのカタリ派を訪れて二元論的世界観に転向させ, カタリ派は独自の聖職階層制と統一的教理を持つ組織へと変貌した。このブルガリアの司祭ボゴミールBogomiles の名に因むボゴミール派とは, 10世紀半ばからバルカン半島に広まった一派で, 11世紀以降はビザンツ帝国内で厳格な二元論的宇宙論や救済論へと高められたと言われる。彼等は, 肉体を含め全ての物質的なものを神の創造物と認めず, 結婚などあらゆる肉欲を否定して, 悪魔によって創造された世界から「魂の救 済」だけを追求するようになった。イタリアではパタレニPatareni, 南フランスでは彼等の拠点となった都市アルビAlbiに因んでアルビ派Albigeoisと呼ばれるようになる。
1208年, 教皇インノケンティウス3世は再びシトー派修道士を派遣したが, その一人ピエール・ド・カステルノーPierre de Castelnauがトゥールーズ伯ライムンドゥス(レーモン6世)Raymond VI de Toulouseとの会談後, アルルArlesの町で殺害され, 教皇はレーモン6世を破門している(翌年6月解除)。翌年7月2日教皇特使アルノー・アモーリArnaud Amauryとレーモン6世が面会した際に, レーモン6世の甥でカルカソンヌCarcassonneとアルビの領主レーモン=ロジェ・トランカヴィルが教皇特使に恭順の態度を示さなかったことが対立を決定づけた。教皇は仏王フィリップ2世にアルビジョワ十字軍(1209~29)参戦を要請したが, 仏王は英王ジョンや神聖ローマ皇帝オットー4世との抗争を口実に辞退してため, 十字軍の中心はレスター伯シモン・ド・モンフォールSimon de Montfort, 6th Earl of Leicester(イングランド貴族)とアルノー・アモーリとなった。この時, 教皇が使徒の座にかけて破門貴族の領地は誰でも自由に切り取ってよい旨を宣じたので, 北フランス各地から約1万の兵士がリヨンLyonに集結した。身の危険を察知したレーモン6世はアルビ派掃討を誓って十字軍側に参加したが, レーモン=ロジェ・トランカヴィルは十字軍との妥協を拒否され, やむを得ず戦闘態勢に入った。十字軍の攻撃は7月21日ベジエBeziers攻撃(翌日の聖マドレーヌの日に陥落)に始まり, シトー派修道士アルノー・アモーリは「すべて殺せ。主はおのれの者を知りたまう」《Tuez-les tous, Dieu reconnaitra les siens.》と叫んだと言う(カエサリウスCaesarius『対話』)。 次ぎの標的カルカソンヌも約1週間で降伏させた。
ところが, 1211年に入るとトゥールーズ伯など現地諸侯とシモン・ド・モンフォール等十字軍指導部との間に亀裂が生まれ, モンペリエ教会会議Montpellier において決定されたレーモン6世破門を教皇が追認したことから, レーモン6世は反十字軍の態度を鮮明にせざるを得なかった。そして彼は要塞都市トゥールーズToulouseを死守し, 翌年までにトゥールーズ伯領のほとんどを奪回することに成功した。しかし, 1213年アラゴン王ペドロ2世Pedro II(在位1196~1213, バルセロナ伯)に臣従の誓いをし, ともに十字軍が立て籠もるミュレMuretを攻撃したレーモン6世ではあったが, この戦いに惨敗し(ペドロ2世戦死), トゥールーズ伯領もシモン・ド・モンフォールによって奪われてしまった。1215年, シモン・ド・モンフォールはトゥールーズ伯・プロヴァンス侯となり, カタリ派掃討は完成した。アルビジョワ十字軍の趨勢を見届けた教皇インノケンティウス3世は, 翌年7月16日, イタリアのペルージアPerugiaで急逝している(55歳)。
しかし, 1216年ノルマンディー貴族の支配に不満を抱いた民衆が戻ってきたレーモン6世とともに決起し, 翌年にはトゥールーズ伯領奪回に成功した。また1218年にはシモン・ド・モンフォールが戦死して息子のアモーリ・ド・モンフォールが跡を継ぎ, 1222年にはレーモン6世も亡くなってレーモン7世が継承した。1224年, レーモン7世がカルカソンヌ入城を果たすと, アモーリ・ド・モンフォールは逃走して南仏(ラングドックLanguedoc)の支配権を仏王ルイ8世Louis VIII(獅子王, 在位1223~26, フィリップ2世の長男)に譲渡している。そこで仏王ルイ8世は, 1225年トゥールーズ伯レーモン7世を破門に追い込み, 翌年には新たな十字軍を組織してラングドックからオーベルニュAuvergne, さらには当時神聖ローマ帝国領であったプロヴァンスProvenceの征服に乗り出した。彼は同年11月に急死するが, 跡を継いだルイ9世LouisⅨ(聖王ルイSaint-Louis,在位1226~70, 摂政は母ブランシュ)が十字軍を継承してトゥールーズ伯を奪い, 1229年にレーモン7世とパリ条約を結んでアルビジョワ十字軍は幕を下ろした。しかし, 1231年教皇グレゴリウス9世Gregorius IX(在位1227~41)は異端審問制をつくり,カタリ派に対する審問を托鉢修道会に委ねている。審問は苛烈を極め, 1244年モンセギュールMontsegurの山城に立て籠もった数百人のカタリ派残党は仏軍の攻撃で大敗し, 生存者全てが火刑に処せられた。注⑱
(3)教皇権絶頂期の終焉 ~変化の予兆~
さて, 第4回十字軍やアルビジョワ十字軍を勧説した教皇インノケンティウス3世は, 自ら引き起こした一連の動きをどう受け止めていたのだろうか。まず第一に, 聖地イェルサレム奪回という目標を捨ててコンスタンティノープル占領に「方向転換」した第4回十字軍は, 彼にとっては全く認められないものであった。しかしながら彼は, 最終的には「既成事実」すべてを黙認し, コンスタンティノープル総大司教モロシーニの叙任すら認めている。彼は治療できるものは治療し, 治療できないものだけを切除しなければならず, それによって病気が拡がらないようにする医者のことを好んで語ったという。彼は1215年の第4ラテラン公会議 Palazzo Laterano で「教皇は太陽, 皇帝は月」と演説したが, 彼にあったのはウルバヌス2世の勧説から遙か遠い「権力者」の顔でしかなかった。
第二に第4回十字軍やアルビジョワ十字軍は, イスラーム教という異教を攻撃したわけではないが, それに匹敵する激しい憎悪の念をより身近な存在であるキリスト教の分離派・異端者に対して向けるという人間の醜い一側面を表している。第4回十字軍はギリシア正教会の中心都市コンスタンティノープルを攻撃した戦争であり, アルビジョワ十字軍はローマ=カトリック教会を「悪魔の教会」として制度や秘蹟, 慣行などを一切否定する異端との闘いであった。異端審問官が「新マニ教徒」と呼んだカタリ派は, 中世盛期のフランス社会を批判した集団ではなく, 現世そのものを否定した人々である。したがって, カタリ派の中で救慰礼を受けて完徳者・善教徒・善信者となる者はごく少数で, 大多数は臨終の床での入信を希望する帰依者であった。すなわち, シトー派修道会の聖ベルナールが信望を集めた理由と同じように, カタリ派を支持した人々は彼等を完璧な清貧の者と認め, 自ら帰依者となることを選択したのである。現世において強大な権力や莫大な資財を蓄えた人間, 例えばローマ教皇やそれと結びついたシトー派修道士への厳しい眼差しが生まれつつあった。
第三に, 自然発生的に動き出した少年十字軍やカタリ派をはじめとする異端の群れは, 教皇権の最盛期にあったインノケンティウス3世でも全く制御できなかったことを如実に示している。その一方で, 当時の社会的権威, すなわち国王権力, 教会あるいは自治都市などは少年十字軍の社会的逸脱に荷担していないという事実にも注目する必要がある。また, ドミニコ修道会やフランチェスコ修道会などの托鉢修道会の出現は, 既存の聖職者(教区の聖職者や修道士)との間に激しい抗争や対立が生まれ, 教皇と教会との関係をより複雑化させた。教皇権の絶頂期に相当する13世紀初めに見せ始めた翳りは, やがて訪れる世俗権力との激しいせめぎ合いの予兆だったのである。
注①拙稿「『古典荘園制』の構造的特質」(『西欧初期中世社会の研究』所収第2論文)p36~60, 丹下栄「西欧的 農業の誕生」(堀越宏一・甚野尚志編著『15のテーマで学ぶ中世ヨーロッパ史』(所収第7論文)p145~162 参照
②「神の平和」運動が教会や弱者の保護を主眼としていたのに対して, 戦士や騎士同士の実力行使を抑制した のが「神の休戦」である。1027年ラングドックのエルヌ教区会議に続いて, 1041年のプロヴァンス教区会議で「神の休戦」が宣言された。具体的には, 待降節(クリスマスの4週間前)からクリスマスまで, 四旬節(復活祭の46日前の水曜日[灰の水曜日]から復活祭の前日[聖土曜日]までの期間を指す。また, 1094年のクレルモン公会議では, 正当な理由のある武力行使であっても, それが許されるのは月曜から木曜までとされた。福井憲彦編『フランス史』(新版世界各国史12)p89~90, 野口洋二「中世のキリスト教」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史1』所収第9論文)p440~460参照。
③クリュニー修道院は, アキテーヌ公ギヨームの土地寄進により成立し, 初代院長ベルノーの「絶対の自主独立」 方針を貫く。叫びの儀式(クラーモール)が知られ, 周辺諸侯と祈禱盟約を結んで連携を進めた。クリュニー修道院の特徴は, 何よりも祈禱と神を讃えることを重視しすることにあり, いかなる世俗権力からも自由で, ただ教皇庁にのみ属するとした。最盛期は第6代院長ユーグ時代の11世紀後半で,フランス・スペイン・北イタリアに約800の分院(本山から管理者を派遣されるプリュレ)・僧院(院長選出権を持つアベイAbbaye)・盟約僧院が存在した。第二クリュニーは第5代院長時代に改築し, 1095年に教皇ウルバヌス2世によって主祭壇を聖別された第三クリュニーはヴァティカンの聖ピエトロ大聖堂と同じ規模を誇ったが, フランス革命の際に没収され, 国有財産として競売にかけられた上, 解体された。なお, 尊者ピエールを最後に, 歴代院長はパリに居館(現在のクリュニー美術館)を構えるようになった。
④山辺規子「カノッサ家の盛衰-中世中期・北イタリアの貴族家系の一例」(1994年『奈良女子大学文学部研 究年報』第37号)p83~100, Edith Ennen, Frauen im Mittelater.エーディト・エンネン著・阿部謹也・泉眞樹子共訳『西洋中世の女たち』p113~120, 藤沢道郎『物語イタリアの歴史』p29~52各参照
⑤橋口倫介『十字軍』p43~47引用。ウルバヌス演説のオリジナル史料は存在せず, 今日に伝わる中世写本は 年代記類に含まれる二次的史料である。なお, クレルモン公会議では, 俗人による聖職授与の禁止や世俗諸侯の宣誓禁止など28条に及ぶ改革的教令を定め, 仏王フィリップ1世を離婚と不義の結婚のかどで破門した。その後, シャルトル司教イヴォが聖職に含まれる教権と俗権とを分離し, 教会と王双方にそれぞれの権利を認める方法を考案し, 1107年教皇パスカリス2世Paschal II(在位1099~1118)と仏王フィリップ1世・共同統治者ルイ(6世)との間で高位聖職者に対する叙任権問題が決着した。すなわち, 王や世俗諸侯は叙任権を放棄して推薦権のみを持つこととし, 高位聖職者の選出は司教座や修道院の聖堂参事会員によって行われることになった。神聖ローマ帝国における聖職叙任権闘争を解決させたヴォルムス協約(1122)も同様の方式による。
⑥十字軍戦争では, 「教会のために異教徒と戦う者が, その行動中に, この世の生命を終えたときは罪のゆるし をあずかることができる」とされて, 教理上の「赦免」が確認された。拙稿「聖人伝説と聖遺物崇拝の関係」1
012年『水戸一高紀要』第50号)p18~41参照。
⑦橋口前掲書p43~68参照
⑧橋口前掲書p69~126参照
⑨イルデブランド(後の教皇グレゴリウス7世)が1059年ラテラノ公会議において厳格な共同生活を提案したことを契機に, 1108年ギヨーム・ド・シャンポーがパリ近郊にサン・ヴィクトール会Saint- Victorを, 1119年聖ノルベールSt. Norbert de Xanten がランLaon近郊にプレモントレ会Premontreという修道参事会(聖堂参事会)を設立し, 聖アウグスティヌス会則を厳守した。一方, 巨大なロマネスク様式の教会堂を建設し, 莫大な富を持つに至ったクリュニー修道院や, マルムティエMarmoutier やマルセイユMarseilleのサン・ヴィクトール修道院Saint-Victor等の巨大修道院に対する批判の声も上がり始め, 聖ベネディクトゥス会則を厳守して修道生活を刷新しようとする動きが見られた。例えば, ランスReimsの聖堂参事会員ブルノーBrunoがグルノーブルGrenoble近くに設立したシャルトルーズ修道院Chartreuse(1084年)はやがてカルトゥジオ会Carthusiensisへと発展し, 巡回説教師ロベール・ダルブリッセルRobert d'Arbrisselがトゥール近くにの建てたフォントヴロー会 Fontevraud(男女の二重修道院, 1101年頃)や, エティエンヌ・ムュレがノルマンディー地方につくったグランモン会Grandmont(1124年)も知られている。また, 聖ベルナールのクリュニー修道院批判は, サンティエリ修道院長ギヨームGuillaume de Saint-Thierryに宛てた書簡形式の論文『ギヨーム大修道院長に送る弁明』(通称『アポロギア』)に詳しい。杉崎泰一郎「ベルナールの『アポロギア』について」(1993年『基督教学』第28巻・日本基督教学会北海道支部/北海道基督学会)参照。
⑩聖ヨハネ騎士団は1113年に公認されたが, もとはイタリア人巡礼者用病院であった。イェルサレムの聖墳墓 教会に隣接する場所に本部を置き, 祈り, 戦い, 貧者の病人を介護する任務を持つ。橋口倫介『騎士団』p29 ~213参照。
⑪沓掛良彦・横山安由美訳『アベラールとエロイーズ 愛の往復書簡』p225参照
⑫Philippe Wolff, L'éveil intellectuel de l'Europe. Editions du Seuil,Paris,1971フィリップ・ヴォルフ著・渡邊昌美訳『ヨーロッパの知的覚醒 中世知識人群像』P256~280, 山本巍・今井知正・宮本久雄・藤本隆志・門脇俊・野矢茂樹・高橋哲也『哲学原典資料集』(東京大学出版会)p76~104, 堀米庸三編『西欧精神の探究《革新の十二世紀》』各参照
⑬石井美樹子『王妃エレアノール 十二世紀ルネッサンスの華』p11~198,
Andrea Hopkins, Most Wise and Valiant Ladies:Remarkable Lives of the Middle Ages.
アンドレア・ホプキンズ著・森本英夫監修・浅香佳子・小原平・傳田久仁子・熊谷知美訳『中世を生きる女性たち』p75~94参照
⑭サラーフ=アッディーンSelaheddine(サラディンSaladin, 在位1169~93)はチグリス川右岸の寒村タクリートに生まれたクルド族Kurdsで, ゼンギやヌーレディンに仕えた父ナジムッディーン・アイユーブや叔父シールクー連れられて移動しながらイスラーム神学を修め, 1155年以降はダマスカス政権の宮廷官吏となっていた。
⑮英王リチャード1世の妻ベレンガリアや妹ジョーン(シチリア王グリエルモ2世未亡人)はラングドックに上陸し, トゥールーズ伯レーモン5世の許可を得てボルドーへ向かった。レーモン5世の息子(後のレーモン6世)は, ベレンガリアの侍女の一人ブルゴーニュ・ド・リュジニャン(後のキプロス王アモーリー2世の娘)と結婚し, ブルゴーニュとの離婚後は, 1196年にジョーンと再婚している。
⑯石井前掲書p199~429, アンドレア・ホプキンズ前掲書p95~125, エーディト・エンネン前掲書p218~229, 橋口『十字軍』p127~162各参照
⑰橋口『十字軍』p163~182, 野口洋二前掲論文p440~460各参照
⑱Herbert Grundmann, Ketzergeschichte des Mittelalterb ; Die Kirche in ihrer Geschichte, Ein Handbuch, Band 2 Lieferung G(1.Teil),Göttingen 1963 H.グルントマン著・今野國雄訳『中世異端史』(創文社歴史学叢書)p43~83, 渡邊昌美『異端審問』p29~119各参照。聖ドミニコDominicusが1215年トゥールーズ近郊のプルイユに設立したドミニコ修道会(翌年公認)は南フランスの異端討伐の先兵となり, 聖フランチェスコFrancescoは1209年アッシジにフランチェスコ修道会(1223年公認)を設立した。1290年, ドミニコ修道会はラングドック, フランチェスコ修道会はプロヴァンスと地域を分担した。
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