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September 23, 2012

聖人伝説と聖遺物崇拝の関係

  第一章 聖書・聖書外典が語る世界
 新約聖書の福音書は、六五~七五年頃に書かれたマルコ伝に始まり、八〇~九〇年代のマタイ伝・ルカ伝
に続いて、一世紀末頃にはヨハネ伝が編まれている。これらは、いずれもパレスティナ以外の地で、しかも
古代ギリシア語(コイネー)で書かれたという共通点を持つが、あくまでキリスト教布教のための福音書で
あり、厳密には歴史的事実を記したものではない。しかし、キリスト者となった人々が、福音書、その外典、
『黄金文書』などに描かれた事柄を信じ、新しいヨーロッパ世界をつくって来たのは紛れもない事実である。
そこで、これらの書物に記され、キリスト者が信じてきた世界とはどのようなものかを、特に聖人・聖遺物
崇拝との関わりについて触れながら考察してみたい。
(一)聖母マリアの伝説 
1 マリアの処女懐胎
 マタイ伝によれば、イエスは、聖母マリアの夫ヨセフがダヴィデ王から二七代目の子孫に当たることから、
「ユダヤの王」を継承できる血筋ということになる。しかし、イエスがマリアの処女懐胎によって生まれた
子供ならヨセフとの血のつながりはなくなる。こうした問題を簡単にクリアしたのが福音書の外典である。
聖書外典には『ヤコブ原福音書』、『偽トマス福音書』、『偽マタイ福音書』、『マリア誕生譚』、聖アムブロシ
ウスのテキスト〈DE VIRGINIBAL〉などがあり、それらはいずれも、ヨセフだけでなくマリアもダビデの
家系だったという。すなわち、ダビデの息子のうちソロモン王の家系がヨセフの先祖であり、もう一人の息
子ナタンの家系はマリアの父ヨアキムの先祖であると説明している。ヨアキムと結婚したアンナはマリアと
いう女の子を産むが、マリアとはヘブライ語で「海YAMの一滴の水MAR」または「女見神者」(預言者)
MYRIAMという意味である。三歳で神殿に預けられたマリアは、十二歳の時にベツレヘムBethlehemの大
工ヨセフについて行くように命じられた。ヨセフは、最初の結婚で四人の息子と二人の娘を持つ男やもめで
あった。彼は高齢であるし息子もいるのでマリアとの結婚を辞退したが、説得されて彼女を家に連れて帰っ
た。ヨセフはその後、家を建てる仕事に出かけ、二年間も留守にした。
 マリアは、数え年十四歳になった時、聖霊によって身ごもる。三月二五日、水くみに出かけたマリアは、
「喜べ、恵まれし女よ、主は汝と共にいる。汝は女の中で祝福されし者である」という声を聴く。怖くなっ
たマリアは急いで帰宅して織物をしていると、大天使ガブリエルが現れて「恐れてはいけません。マリアよ、
あなたは万物の主の前に恵みを得ました。主の言葉によって身ごもるでしょう。」と告げた。驚いたマリア
は「私が主の子を身ごもるですって」と聞き返すが、ガブリエルの説明を聞いて一旦は納得する。しかし、
許嫁ヨセフの留守中に自分の理解を超えたことが起きたことに不安が募り、親戚のエリザベツを訪ねている
(七月二日。現在は五月三一日に変えられた)。何故なら、婚約中の密通は姦通罪として石打ちの死刑に値
し、エリザベツが高齢にもかかわらず神の恵みで妊娠したと天使から知らされていたからである。いずれに
しても、マリアは妊娠三ヶ月の身重にもかかわらず、ガリラヤの都市ナザレNazaretから山里の町ユダまで
一人旅をし、エリザベツに会って安心した。二人はともに聖霊に満たされ主を讃えることが出来たと言われ
る。
 マリアがナザレに戻った後、しばらくして婚約者ヨセフが仕事を終えて帰ってくる。彼は、マリアが身ご
もっていることを知り怖れおののく。自分は神殿から引き取った乙女を守らなければならなかったのに、留
守の間に何者かがマリアを汚したと考えたからである。興奮したヨセフはなじったものの、マリアを姦通罪
の科で告発するすることは忍びがたいと思い直し、離縁して家から追い出すことしか彼女の命を救う途はな
いと観念した。ところが、ある夜、夢の中に大天使ガブリエルが現れて、マリアを妻としてとどめることを
怖れてはならないこと、彼女は聖霊によって身ごもったのであり、生まれる子はイエスと名付けるべきこと、
その子は民を救うであろうことなどを告げた。ヨセフは驚き、それが神の御心ならそれらを成就する必要が
あると考え、敬虔な諦めの境地に至ったという。こうして、ヨセフはマリアの保護者として彼女と「神の子」
を守る立場を選択したのである。
 マリアが臨月を迎えた頃、アウグストゥス帝Augustus(在位紀元前二七~後一四)の人口調査に関する勅
令(前六/七年頃)が発せられ、誰もが自分の出生地で戸籍登録を行う必要があった。そこでダヴィデ王の
家系であるヨセフはナザレの南方約一〇〇キロ以上離れたベツレヘムまで移動する。その間、身重の妻はロ
バの鞍に乗り、荒野を進んだのである。ようやくベツレヘムにたどり着いたヨハネは、まだ生まれていない
子供の名前を「ダヴィデの子孫ヨセフ、妻のマリア、その息子イエス」と記した。ベツレヘムにいる間にマ
リアが産気づき、宿を探したが見つからなかったため、やむを得ず馬小屋を借りて、イエスJesusは家畜た
ちに見守られながら誕生し、布にくるまれて飼い葉桶の中に寝かされたという。その直後、天使に救い主の
誕生を告げられた羊飼いたちや、星によって導かれてユダヤ人の王に贈り物を捧げる東方の三博士がこの馬
小屋に現れてイエスの誕生を祝福している。もっとも『ヤコブ原福音書』によれば、マリアはベツレヘム近
郊の洞窟の中でイエスを出産したことになっている。その時、サロメという女がマリアの処女懐胎を疑って
マリアの体を調べているが、それを確認すると、己の不信を嘆いてその手を焼かれたが、神に許しを請い、
赤子を抱き上げたところ癒されたという。
 なお、イエス誕生の年月については、マタイ伝では「ヘロデ王の治世にユダヤのベトレヘムで生まれた」
(第二章一)とあり、ルカ伝では、「カエサル・アウグストゥスから、全世界の戸口調査をせよとの勅令が出
た。この戸口調査はクィリニウスがシリア〔州〕の総督であった時施行された、最初のものであった」(第
二章一節)となっており、正確なところは分からない。また、誕生日は、コンスタンティヌス一世 Constantinus
Ⅰ(在位三〇六~三三七)が三二五年に召集したニケーア宗教会議で十二月二五日と定められたが、それに
伴ってさまざまな祝日が決定された。例えば、誕生から八日目の一月一日が割礼の祝日、六日が東方の三博
士が訪ねてきた主の顕現の主日、出産から四〇日をへた二月二日が蝋燭の祝福を伴う聖母お清めの祝日とな
る。聖母お清めの祝日は、ユダヤの戒律(レビ一二)の中に、男子を出産した女は汚れているので七日間男
と交渉を持てず、さらに三三日間は神殿にも上がれないという規定に対応している(女子を出産した場合は
それぞれ二倍となる)。
2 イエス誕生
 マリアの身に試練が続く。東方の三博士から「ユダヤの王が生まれた」と耳にしたヘロデ王が、ベツレヘ
ムとその周辺に住む二歳以下の男の子を皆殺しにする命令を出したからである。ヨセフの夢の中に現れた天
使がエジプトに逃げるよう告げたので、親子三人でロバの背に揺られながら約五〇〇キロも離れたエジプト
への逃避行を行った。一年ほど過ぎたある日、ヨセフは再びお告げでヘロデ王の死を知り、一家はナザレに
戻る。ヨセフの一家は毎年、過越祭paschaにはイェルサレムの神殿に詣でていたが、ヨセフ一一〇歳の時、
ついに死の時が訪れた。病を得たヨセフは死の恐怖から平静さを失ったが、少年イエスが声をかけるとヨセ
フは落ち着き、イエスこそが神の遣わした救い主だと実感し、出生の秘密を告げたと言われる。その時、マ
リアは既に三十代になっていたが、悲しみにうちふるえていた彼女を励まし救ったのもイエスである。 
 ヨセフの死後、イエスは直ぐに宣教を開始することなく、母マリアを支えながら十余年にわたって普通の
生活を過ごしたと思われる。その後、宣教活動を開始したイエスはわずか数年の布教活動の間に、現実に生
きる人間の眼には信じがたい「神の絶対愛」を証明するために病を癒し、悪魔を祓い、「律法は成就し、人
は神への信仰によって救われる」と説いた。一般にイエスの教えは「ユダヤ教の律法主義(ファリサイズム)
とユダヤの支配層を批判して神の愛を説き、己のごとく隣人を愛する者は救われ、最後の審判とともに神の
国に入れることを約束した」と理解され、反感を抱いたユダヤ人支配層が彼を殺そうとはかり、ローマの総
督ピラトゥスPilatus(ピラトPilato在任二六~三六)は政治犯としてローマ式の極刑である十字架刑に処し
たと言われる(三〇年頃)。
 しかし、イエスには以上のような記述では説明しきれない別の顔がある。先ず第一に、強烈な民族主義者
の顔であり、疎外された者への偏向、権力者・富者に対する激しい憤り、差別意識を併せ持つ反逆者の姿で
ある。マタイ伝によれば、イエスは使徒たちに対して「異邦人の道には行くな、またサマリア人の町には入
るな。むしろ、イスラエルの家の失われた羊のもとへ行け」(第一〇章五~六)と命じ、「主よ、ダビデの
子よ、私に憐れみを。私の娘が悪霊に憑かれ、ひどく〔苦しんでおります〕」と叫ぶカナンの女に対して、
一旦は「私は、イスラエルの家の失われた羊たち以外の者のためには遣されていない」(第一五章二二~二
八)と冷たく拒絶している。一方でイエスは、時の権力者ヘロデ=アンティパスHerod Antipasを「狐」(ル
カ伝第一三章三一~三二)、パリサイ派を「蛇よ、蝮の裔よ」(マタイ伝第二三章三三)と罵り、弟子たち
に対して「金持ちが神の王国に入るよりは、駱駝が針の孔を通り抜ける方がまだやさしい」(同第一九章二
三~二四)と語っている。このような発言の底にあるのは、ヘロデ=アンティパスとその背後に控えている
ローマ帝国に対するユダヤ民衆の怒りや憎悪の念ではないか。換言すれば、ユダヤ民衆には民族的誇りを捨
てたヘレニストやローマ帝国の「帝国の論理」に対するどうにも抑えきれない感情があり、そこから派生し
た(集団的)抵抗の意志が存在したと考えられる。イエスの説く「愛と平和」はこうした激しさに裏打ちさ
れたものであった。
 第二に、福音書のそこかしこに描かれた「慰めの物語」や「奇跡物語」は、イエスが虐げられた人々、貧
しい人々、病める人々の側に居続けよう、人生の同伴者たろうとしていることを示している。しかし、これ
ら不幸な人々が求めるものも、結局のところは現実世界における〈効果〉でしかなかった。神の愛の現実的
無力に気づいたとき、彼等は掌を返したように裏切る。イエスが「あなたがたは徴と不思議を見ないかぎり、
決して信じないのであろう」(ヨハネ伝第四章四八)と悲しげに呟くのはそのためである。
 イエスがゴルゴダの丘で処刑されたとき、ユダヤの群衆はもとより、イエスの弟子たちもかかわり合いに
なることを怖れてガリラヤ(マタイ伝・マルコ伝)またはイェルサレム(ルカ伝・使徒行伝)に逃げ去った
と言う。しかし、ヨハネ伝によれば、「イエスの十字架のそばには、その母と彼の母の姉妹、クロパのマリ
アとマグダラのマリアが立っていた(スターバト・マーテルSTABAT MATER=母は立っていた)。さて、
イエスは母と、自分の愛していた弟子がそばに立っているのを見ると、母に言う、『女よ、ご覧なさい、〔こ
れが〕あなたの子です』。ついでその弟子に言う、『ご覧なさい、〔これが〕あなたの母だ』」(第一九章二五
~二七)と言い残している。ヨハネJoanneはこの時以来マリアを引き取り、実の母のように遇したと言わ
れている。
3 マリア昇天
 聖書外典によれば、イエスの復活と昇天ASCENSIO=latの後、聖霊に満たされた使徒たちが福音を伝える
ためにローマ世界各地に散った頃、マリアはシオン山(イェルサレム)近くに住み、息子イエスの思い出の
地をへめぐることを余生の生きがいとしていた。しかし、人の子の母として若くして残酷きわまる死に方を
した息子のことを考えると、痛いほどの悲しみがマリアの胸から薄らぐことはなかった。ある日、息子のこ
とを思って滂沱の涙を流していたマリアの前に、天使が現れて「祝福されたマリアさま、ヤコブに救いを与
えた方からの恵みをお受けください。ここに天国から持ってきた棕櫚(しゆろ)の葉があります。これをあなたの棺の
前につけなさい。三日後にあなたは肉体から離れられるでしょう。あなたの息子がお待ちしています。」と
告げた。マリアはこの知らせにたじろぐことはなかったが、イエス亡き後の行動をともにしてきた使徒たち
に囲まれて死にたい、彼らの手で埋葬されたいと望み、また魂が肉体を離れた後で悪霊に出会わないこと、
サタンの手先に邪魔されぬことを願った。そこで天使はマリアの願いが全て叶うことを告げて天に戻ったが、
マリアのもとには緑輝く大きな棕櫚の葉(実際はヤシ科の常緑高木ナツメヤシ・棗椰子のこと)が残されて
いたという。
 その頃ヨハネはエフェソスEphesos(小アジア西海岸の都市)で宣教していたが、突然稲妻が光り、白雲
が湧き上がったかと思うと、体が浮遊し、そのままマリアの家の前まで運ばれた。ヨハネの姿を認めたマリ
アは、喜びの涙を浮かべて、「息子ヨハネよ、あなたの師匠が私とあなたを母と子として結びつけた言葉を
覚えていますか。私にはいよいよ主からお迎えが来ました。私の体をしっかり守ってください。ユダヤ人た
ちは、イエスを産んだ女が死ぬときはその体を奪って火にくべてしまえと日ごろ言っているのです。この棕
櫚の葉を棺の前に立てて、無事に墓まで運んでください。」と頼んだという。各地に散らばっていた他の使
徒たちもヨハネ同様の方法で戻って来たので、マリアは神を祝福し、使徒たちは松明や燭台を灯してマリア
の周りにすわった。日没後三時間がたった頃、イエスが天使たち、族長たち、殉教者たち、告解師の軍団、処女(おとめ)
たちの聖歌隊を伴って現れ、聖母マリアの前で甘美な雅歌を歌い始めた。
 イエスの「さあ、いらっしゃい、私の選んだあなたよ、あなたの美しさゆえに私の玉座につけましょう」
という呼びかけに応えて、マリアは「心の準備はできています、主よ、心の準備はできています」という言
葉に続いて、あたかも若い日のように輝く顔で「すべての国が私を幸いな者と呼ぶでしょう、聖なる全能の
方が私にお恵みをくれたからです。」と歌った。さらに「来なさい、私の妻よ、冠をさずけましょう」とい
う主の声に、マリアは「参ります。私の救い主の中で私の心は喜びでいっぱいです」と答えた。こうしてマ
リアの魂はその肉体から離れて息子イエスに抱かれて去っていった。その時、マリアに肉体の苦痛は全くな
かったと言われる。
 主は使徒たちに「聖母の体をヨサファの谷に運んでそこにある新しい墓に入れなさい。そうして三日間、
私の来るのを待ちなさい」と言い残し、殉教者たちが持っていた薔薇の花と天使たちが抱えていた谷百合の
花が聖母マリアを包み込んだ。使徒たちは「私たちを覚えていてください」と叫んだ。また、天に残ってい
た天使たちは、イエスの御胸に抱かれて天へ向かうマリアの魂を見て感動し、それが誰かを知ろうとした。
するとイエスに付き従っていた天使たちは「イェルサレムの乙女たちの中で最も美しく慈悲と愛に満ちた方
です」と答えた。こうしてマリアは歓喜をもって迎えられ、息子の右側の栄光の玉座に座らされた。使徒た
ちはマリアの魂が真っ白に輝くのを見たという。
 なお、マリアはイェルサレム近郊で亡くなりゲッセマネの墓所に葬られたという説と、小アジアのエフェ
ソスで亡くなったという説がある。また、聖エピファニウスEpiphanius(三一五~四〇二)によれば、マリ
アはイエス昇天後も二四年間生き続けたという。受胎告知の時に一四歳だから、イエスを出産したのは一五
歳。イエスとともに三三年間生きたとすると、マリアは七二歳まで生きたことになる。もっとも教父エウセ
ビオスEusebios(二六三頃~三三九頃)の『教会史』の中に、使徒たちがユダヤの国とその周辺を宣教して
回るのに一二年かかったという記述があることから、マリアはイエスの死後一二年間生きて六〇歳で亡くな
ったという説もある。
 三人の乙女がマリアの遺体を洗うために衣服を脱がせたが、やはり大いなる光が出て誰も聖母の体を見た
者はいなかった。使徒たちが屍衣のマリアを板に乗せた時、ヨハネは(イエスの第一弟子と見なされていた)
ペテロに棕櫚の葉を持って先導するよう頼んだが、ペテロはその役割をヨハネに譲り、自分は遺体を運ぶと
申し出た。こうして葬列はヨセフが先導し、マリアの棺は使徒たちや伝道者パウロによって運ばれた。葬列
は彼らと天使たちの歌声とともに進んだが、白い雲が彼らを隠すように包んだため、周りの人々には全く見
えなかった。ところがマリアの葬列だという噂が広まると、使徒を殺してマリアの体を火にくべようとする
群衆が殺到し、ユダヤの祭司長はマリアの棺に手をかけた。すると群衆は光のために目が見えなくなり、祭
司長の手は遺体を載せた板から離れなくなって命乞いの叫びを発した。その時ペテロは祭司長に「主イエス
は真に神の子で、ここにおわすのはその聖なる母上だと信じます」と唱えさせ、ヨハネが持つ棕櫚の葉を借
りて武器を持つ群衆に向けて「主イエスを信じる者は癒され、信じない者は永遠に目が見えないだろう」と
言わせた。
 マリアの遺体が墓所に入れられてから三日目、約束どおりイエスが多くの天使たちを連れて現れ「平和が
あなたがたにありますように」と言い、使徒たちは神を讃えた。イエスが「今日私の母にどんな恵みをさし
あげればいいと思いますか」と尋ねたので、使徒たちは「あなたが死に打ち勝って復活し、永遠に統治され
ますように、あなたの母上も、復活させて永遠にあなたの右手に置かれますように」と答えた。すると大天
使ミカエルがマリアの魂を抱えて現れ、イエスは「起きなさい、お母さん、私の白鳩、栄光の聖櫃(せいき)、命の壺、
天の神殿、私を受胎した時に汚されなかったように、墓の中でも肉体は滅ぼされないでしょう」と声をかけ
た。するとマリアの肉体が墓から持ち上がり、魂が中に入って、多くの天使たちに伴われながら天に上げら
れていった(被昇天ASSUMERE)。
 このとき、後から駆けつけた使徒トマスThomas(懐疑主義者・実証主義者。インドで殉教)は墓所が空
であることを見ても聖母マリアの被昇天を信じなかったが、天からマリアの帯がひらひらと落ちてきてよう
やく得心がいったと言われている。マリアの帯は聖遺物としてさまざまの奇跡を起こすことになる。もっと
もマリアの衣服はすべて棺の中に残されたという説もあり、その一つである上衣(サンクタ・カミシア
Sancta Camisia、聖衣)は中世にパリ南西八〇キロほどの都市シャルトルにあるノートルダム大聖堂
Cathédrale Notre-Dame de Chartresに祀られて信仰と巡礼の対象となった。この上衣は奇蹟による病気治癒だ
けでなく、ノルマン侵攻の際にはこの上衣を竿にくくりつけて軍旗のように掲げて戦い、奇跡的勝利を得た
と言われる。
 天使たちとともに天に上げられた聖母マリアは、イエスに祝福され冠を授けられた(父と子と聖霊の三位
一体よって戴冠されたというイコンIkon, icon〔聖像画〕もある)。マリア戴冠については、サルド司教のメ
リトンが書いたと言われる聖書外典を、六世紀にトゥールのグレゴリウスGregorius(『フランク人の歴史』
Historia Francorumの著者)が使い始めてから広く流布するようになった。特に十二世紀に入って、サン・
ドニ修道院長シュジェールSugerによって神学的考察がなされ、彼が建設させたサン・ドニ大聖堂Basilique
de Saint-Denis (一一三六~四四年建設)をはじめとするゴシック式大聖堂を飾るイコンとなった。マリア
戴冠の意義は、その〈祝祭性〉にある。イエスの受難が荒々しく悲劇そのものであり、その昇天が使徒に宣
教を託す荘厳なものであるのに対して、聖母マリアの被昇天と戴冠は全く対照的な明るさ、華やかさがある。
 また、同世紀の聖ヴェルナルドゥスBernard (シトー修道会の聖ベルナール。クレルヴォーのベルナルド
ゥスBernard of Clairvaux。第二回十字軍勧説者)は、「マリアは、その身体に神性という恩寵を、そのここ
ろに神の愛という恩寵を、その口に人びとを慰藉する力という恩寵を、その手に寛大な慈悲という恩寵を受
けておられる」と述べ、さらにこう言っている。「マリアは、ほんとうに恩寵にみたされておられた。とい
うのは、その充溢(じゆういつ)から、囚われの人びとは解放を、病める人たちは治癒を、悲しみの人びとは慰めを、罪
人たちは罪の赦しを、義(ただ)しい人たちは恩寵を、天使たちは喜びを、聖三位一体は称賛と栄誉を、人の子(イ
エス)はまことの人間の身体を受けたからである」と。(『黄金伝説』の「主のお告げ」より引用)
 (二)聖女マリア・マグダレーナの伝説
1 海の聖なるマリアたち
 南フランスのローマ都市アルルArlesの中心部に、市庁舎や石造博物館などが並ぶレピュブリック広場が
ある。そして、その一角に古代劇場やコロッセウムへ向かう道の脇に旧主座司教座聖堂サン=トロフィーム
教会Église St-Trophime がたっている。この教会は、中世のサンティアゴ・デ・コンポステーラ巡礼Santiago
de Compostelaの出発地の一つとなったことで有名であるが、もともとは聖ステパノStephen(サン=テチエ
ンヌSaint-Étienne)に献堂されたバシリカ式教会堂であった。一〇世紀頃から、当時共同墓地アリスカンに
眠っていた聖トロフィモの聖遺物をこの教会(サン=テチエンヌ大聖堂)に安置しなおそうという動きが持
ち上がり、プロヴァンス・ロマネスク様式教会堂の原型が建造された。やがて、九七二年に聖トロフィムス
の聖遺物(遺体)が移され、彼の名に因んでサン=トロフィーム大聖堂となったと言われている。
 ところで聖トロフィムスとはどのような人物なのか。彼は二二五年頃アルル司教となったが、やがて九世
紀頃、聖人崇拝の風潮が高まる中、『使徒行伝』第二一章二九の中に登場するトロフィモTróphimos(エフ
ェソス出身)との同一化がなされる。トロフィモとはパウロと行動をともにしていた男で、紀元四六年にア
ルルの町に到着してまもなく、カマルグの海辺Camargueに辿り着いた聖なるマリアたち、マグダラのマリ
ア、ラザロなど多くのキリスト者を迎え入れたことになっている。その場所は、ローヌ川が地中海にそそぐ
直前で大ローヌと小ローヌに分かれ、二筋の川がつくりだすデルタ地帯や湿地帯が広がるところで、十九世
紀以降はサント=マリー=ド=ラ=メールSaintes-Maries-de-la-Mer(海の聖なるマリアたち)と呼ばれてい
る。彼の地が特異な名称を持つのは、トロフィモがイェルサレムから小舟で逃れてきた「聖なるマリアたち」、
すなわちマリア・ヤコベ(聖母マリアの姉妹で、クレオパの妻)、マリア・サロメ(聖母マリアの姉妹で、
ゼベダイの妻。ヤコブとヨハネの母)と、マグダラのマリア(マリア・マグダレーナ)を迎え入れたという
伝承に由来し、その他にもマルタ、ラザロ、マルティア(マルタの召使い)、主によって目を開けてもらっ
たセドン(シドワーヌ)、マクシマン(マクシミヌス)なども流れ着いたと言われる。
 『黄金伝説』によれば、「主のご受難からかぞえて十四年目、弟子たちは、さまざまな国に出かけていっ
て、神の言葉を宣べ伝えていた。そのころ、主の七十二人の弟子たちのひとりの聖マクシミヌスは、使徒た
ちと行動をともにしていた。聖ペテロは、マグダラのマリアをこのマクシミヌスの手にゆだねた」という。
キリスト教徒弾圧の嵐が吹き荒れる中、捕らえられたマクシミヌスは無理やり小舟に乗せられて海(地中海)
に流され、同じ頃、聖母マリアの姉妹たち、マルタ、ラザロ、マグダラのマリアも暴徒に襲われて波騒ぐ大
海へと流された。「そうすることで、彼等をみな溺れ死にさせられると、不信仰な者たちは考えたのでした」。
実際何度も危機に遭遇したが、マクシミヌスが天に向かって祈りを捧げた結果、小舟は神の恵みに支えられ
て無事マルセイユMarseilleに到着したと言われる。しかし、いつの日か、聖なるマリアたちの乗った舟は
ローヌ川の河口(現在のサント=マリー=ド=ラ=メール)に漂着したと信じられるようになったのである。
その後、トロフィモはアルル近辺の洞窟内で祈り三昧の晩年を過ごし、彼の住んだ洞窟の上にモンマジュー
ル修道院が建設され、アルルの共同墓地アリスカンにも聖母マリアに捧げられた礼拝堂が建立されたと伝え
られている。マリア・ヤコベとマリア・サロメとこれに従うサラ(召使い)はその場に残り、サント=マリ
ーの地域住民と親しく交わって少しずつキリスト教信仰を伝えたものと思われている。 
 その他、サチュルナンはトゥールーズToulouseへ、またマルタとマクシマン(マクシミヌス)はエクス
=アン=プロヴァンス(エクス)Aix-en-Provenceへ向かい、マルタの弟ラザロはマルセイユへ行ったと言わ
れる。そしてマグダラのマリアは、いったんマルセイユに出た後でマクシマンの後を追ってエクスからサン
ト=ボーム山塊Massif de la Sainte-Baumeへ赴いたとされており、それぞれの地にはながく語りつがれる伝
説が残っている。
2 マグダラのマリアとは何者か
 マグダラのマリアとはどのような女性なのか。出身地マグダラはガリラヤ湖畔の町で、塩漬けの魚を周辺
各地に発送する漁業と商業の盛んな一大集散地であった。この町でマリアはどのような暮らしをしていたの
だろうか。彼女が福音書に登場するのは、主に福音の旅立ち(ルカ伝第八章一~三)、キリスト磔刑の立会
人(マタイ伝第二七章五五~五七、マルコ伝第一五章、ルカ伝第二三章四九、ヨハネ伝第一九章二五)、キ
リスト埋葬の立会人(マタイ伝第二七章六一、マルコ伝第一五章四七、ルカ伝第二三章五五)、キリスト復
活の証人(マタイ伝第二八章一~一〇、マルコ伝第一六章一~一一、ルカ伝第二四章一~一一、ヨハネ伝第
二〇章一~一八)としての四場面である。
 先ずマタイ伝・マルコ伝・ルカ伝では、キリスト磔刑に際して「そこには多くの女たちが遠くから見てい
た彼女らは、イエスに仕えながら、ガリラヤから彼に従って来た者たちである。その中には、マグダラのマ
リアと、ヤコブとヨセフとの母マリア、そしてゼベダイの子らの母もいた。」(マタイ伝)とあるが、ヨハ
ネ伝においては「イエスの十字架のそばには、その母と彼の母の姉妹、クロバのマリアとマグダラのマリア
が立っていた。」と書かれており、すぐ間近にいたように描かれている。また、キリスト復活の場面では、
マタイ伝・マルコ伝・ヨハネ伝が彼女と他のマリアたちがキリスト復活の最初の証言者として弟子たちに伝
える役割を果たしているが、マタイ伝は恐怖と歓喜と信頼の感情が入り交じった心理描写を特徴としており、
マルコ伝では驚きや動転、恐れの感情が強調されている。それに対して、ヨハネ伝のイエスは「私にしがみ
つくのはよしなさい。私はまだのぼって父のところにいるわけではないのだから。私の兄弟たちのところへ
行きなさい。」と優しく語り、所謂「我に触れるな(ノリ・メ・タンゲレNoli me tangere)」の主題もイエス
と彼女の関係の親密さを表している。こうしてマグダラのマリアは、初期キリスト時代の教父たちから「使
徒たちへの使徒」と呼ばれ、ギリシア正教会においては亜使徒という称号が使われている。
 このように、マグダラのマリアの位置づけをめぐる四人の福音書記者たちの間には著しい相違点が見られ
る。岡田温司氏に従ってより肯定的な立場からより否定的なものへという序列をつければ、ヨハネ、マタイ、
マルコ、ルカという順になろうか(中公新書『マグダラのマリア』参照)。そして注目すべきは最も否定的
なルカ伝の記述である。キリスト磔刑から三日目の早朝、マグダラのマリア、ヨハンナ、ヤコブのマリア、
そして彼女たちと一緒にいた女たちは香料を携えて墓参をするが、そこでキリスト復活を知って引き返し、
使徒たちに伝える。しかし、彼らはその話を信用せず、シモン・ペトロなど幾人かが墓に走って亜麻布だけ
が残っていることを確認している。その後、復活したキリストが最初にその姿を顕すのは、イェルサレムか
ら六〇スタディオン(約一一・五キロ)離れたエマオ村へ向かっていたペテロ、クレオパスの前にであった。
ルカは「まことに主は起こされ、シモンに現れた」と強調しているが、そこから明らかなことはマグダラの
マリアなど女性が果たした役割を軽く抑える一方で、使徒ペテロの威信を高めようとする意志である。
 こうした意志は、マグダラのマリアと「聖なるマリアたち」の三番目のマリア(ベタニア三兄妹の末子)
との混同を生み、やがて二人は同一人物なのではないかと理解されていく。そこで、話を「ラザロの甦り」
後まで遡らせたい。ヨハネ伝によれば、その頃のイエスは、弟子たちとともに荒れ野に近いエフライムとい
う町で暮らしていたという。ユダヤの過越祭が近づいたので、彼らはイェルサレムへ行こうとする。イェル
サレム到着の六日前、一行がベタニア村のラザロに家に立ち寄ったところ、イエスのために夕食の席が設け
られた。マルタの給仕で食事が始まろうとしたところ、「マリアが純粋で高価なナルド香油一リトラ(約三
二六グラム)を取ってイエスの足に注ぎ、自分の髪でその足を拭った。家は香油の香りで満たされた。」(ヨ
ハネ伝第一二章三)。このとき、弟子の一人イスカリオテのユダがマリアの贅沢を非難するが、イエスは「彼
女のしたいようにさせてあげなさい。私の葬りの日のためにそれを取っておいたことになるためである。」
とたしなめている。マタイ伝やマルコ伝では、この出来事はベタニア村の重い皮膚病患者シモンの家で起き
たとなっているが、いずれにしても、塗油はイエスの葬送の用意、すなわち間もなく亡くなるイエスを清め
る行為と考えられている。
 しかし、ファリサイ派の家に招かれたイエスが食事の席に着いたときという設定で語る、ルカ伝(第七章
三六)では大きく異なる内容となっている。「その町の罪人であった一人の女が、彼がそのファリサイ人の
家で食事の座に着いていると知り、香油の〔入った〕石膏の壺を持って来て、後方から彼の足もとに進み出、
泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自分の髪の毛で〔それをいくども〕拭き、さらには彼の両足に接
吻し続け、また〔くり返し〕香油を塗った。」という。文中の「その町の罪人であった一人の女」とは娼婦
か、肉の欲情にまみれてその悪から抜け出せない女を意味している。しかし、イエスは「この女の罪は〔た
とえ〕多くとも赦されている。〔それは〕この女が多く愛したことから〔わかる〕。少ししか赦されない者
は、少ししか愛さないものだ。」と言い、「あなたの信仰があなたを救ったのです。安らかに歩んで行きな
さい。」と励ましている。
 また、続く第八章の冒頭では「イエスは町や村を通って行きながら、宣教し、神の王国〔の福音〕を告げ
知らせていた。また、十二人も彼と一緒にいた。また、悪しき霊どもと病弱さから癒された何人かの女たち
も〔、同様に彼と一緒にいた〕。〔つまり、〕七つの悪霊どもが出て行った、マグダラの女と言われていたマ
リア、そしてヘロデの管理人クーザの妻ヨハンナ、そしてスサンナ、そして多くの他の女たちも〔一緒であ
った〕。彼女たちは、自らの財産の中から〔布施しながら〕彼らに仕えていた。」と記し、マグダラのマリ
アがイエスと行動をともにするようになったことを告げている。
 このようにヨハネ伝でベタニアのマリアが演じた役割は、ルカ伝では「その町の罪人であった一人の女」
の取って代わられ、あたかもそれがマグダラのマリアであるかの如く描かれている。トリックとでも言うべ
きこの変化の背後には、何らかの意志が存在するのではないか。アレクサンドリア学派の神学者オリゲネス
Origenes Adamantius(一八五頃~二五四頃)は、その著『雅歌注釈』において、旧約聖書『雅歌』に詠われ
た「花婿」と「花嫁」をそれぞれキリストと教会とに準えているが、同時に「花嫁」はベタニアのマリアに
当てはめることが出来るという。すなわち彼女の中に信仰と気高い愛の証を読み取ったのである。オリゲネ
スはもう一つの著書『雅歌講話』の中でベタニアのマリアとマグダラのマリアとは別人だと指摘しているが、
福音書書記ルカは前者に与えられた特性(花嫁と瞑想的生活)を後者に接ぎ木することに成功している。「そ
の町の罪人であった一人の女」はマグダラのマリアとなり、「泣きながら、涙で彼の両足を濡らし始め、自
分の髪の毛で〔それをいくども〕拭き、さらには彼の両足に接吻し続け、また〔くり返し〕香油を塗った」
行為は悔い改めと奉仕と愛の象徴となり、マグダラのマリアの存在はキリストへの敬虔な奉仕と瞑想的生活
の理想と化した。すなわち、マグダラのマリアは罪から罪へと押しやる肉の欲情に支配され、悲鳴をあげて
いた罪人であったからこそ悔い改めと希望の模範となり、隠修士(hermit,ermite,Eremit)としての後半生が用
意されることになったのである。
 さて、『黄金伝説』によれば、イエス=キリストの受難から十四年目、マグダラのマリアは聖マクシミヌ
ス(聖マクシマン)や聖母マリアの姉妹たち、マルタ、ラザロ等とともに小舟に乗せられ、荒れ狂う地中海
に放り出されたが、辛うじてマルセイユに漂着したという。ところが、宿を貸してくれる人がいなかったの
で、やむなく異教の神殿の入口に近い柱廊で宿借りを決め込んだ。ある日、マグダラのマリアは供物を捧げ
るために集まってきた人びとに「偽りの神々を礼拝することは止めなさい」と巧みな言葉で話しかけ、確信
に満ちた口調でキリストの教えを説き始めた。その後、この地方の領主が妻と一緒に神殿を訪れ、子宝の願
掛けをしようとしたとき、マグダラのマリアはキリストの信仰を説き、供香を止めさせた。さらに数日後、
マグダラのマリアは幻となって領主夫人の前に現れて「あなたがたは、贅沢な暮らしをしているくせに、ど
うして神の聖人たちが飢えと寒さに苦しんでおられるのを黙って見ているのですか」と言い、あの聖人たち
を助けるよう夫に忠告しなさいと、きつく言い聞かせた。しかし、夫人はそのことを夫に打ち明ける勇気が
なかったが、次の夜も現れ、そして三日目には夫婦の両方に現れて烈火のように怒った顔で「何という情け
知らずの人でしょう。あなたの父は、悪魔で、あなたは、その手先に違いありません。あなたが寝床をとも
にしているあなたの妻は、意地の悪い蛇です。わたしの言葉をあなたに取り次いでくれません。あなたは、
キリストの十字架の敵です。」と告げた。反省した領主夫妻は聖人たちを迎えて宿を貸し、必要なものは何
でも用立てたという。
 ある日、マグダラのマリアが説教をしているところに来た領主は、彼女が説いている信仰が真実であるこ
とを証明できるかと問うた。マリアは、ローマにいる師ペテロが示してくれた奇跡と説教によって証明でき
ると答えた。そこで領主夫妻は、自分たちに男の子を授けてくれたら全てあなたに従うと叫び、マリアの祈
りによって領主夫人はまもなく妊娠した。その後、領主はマグダラのマリアがキリストについて説いている
ことが本当かどうかを確かめるために、聖ペテロにいるローマへの旅を計画したところ、身重の妻も同行す
ることになった。そこでマグダラのマリアは、旅の途中で悪魔に危害を加えられないように、二人の肩に聖
なる十字架のしるしを縫いつけてやった。船出して一昼夜が過ぎた頃、時化が襲ってきた。領主夫人は、波
にもまれる船中で産み月よりも早く男児を出産するが、自らは息を引き取る。生まれたばかりの赤子は母親
の乳房を求めて泣き叫ぶが、水夫たちは無情にも嵐を鎮めるためには遺体を海に投げ捨てようとした。その
時、船から遠くないところに岩礁を見つけた領主は、洞穴のような場所に遺体を運び、自分のマントを広げ
てその上に遺体を寝かせ、赤子は母親の胸元に寄り添わせた。そしてマグダラのマリアのご加護を祈った後、
船に戻って先を急いだという。
 領主はローマに着いて聖ペテロに会い、旅の途中の一部始終を話すと、聖ペテロは「あなたのおつれあい
が眠り、お子さんが一緒に休んでいることを悲しんではなりません。主は誰に対しても思し召しのままに与
え、奪い、再び与える力、悲しみを喜びに変える力をお持ちだからです。」と言うのであった。その後、聖
ペテロは領主を連れてイェルサレムへ旅し、キリストが説教や奇跡を起こした場所などの聖跡を案内し、さ
らに十字架にかけられた場所や昇天した場所をみせながらキリスト教信仰の手ほどきをした。二年後に帰途
につくが、天主の思し召しで例の岩礁に上陸すると母子は健在であった。男児はマグダラのマリアに保護さ
れてすくすくと育っていたし、眠りから覚めた領主夫人は「あなたが帰ってきた聖地巡礼の旅から、私も今
戻って来たところです。」と話した。彼女が言うには、夫が聖ペテロの案内で聖地巡礼をしている間、彼女
はマグダラのマリアの導きで夫の側を歩いていたのである。やがてマルセイユに戻ると、マグダラのマリア
は弟子たちとともに説教をしていた。二人はマグダラのマリアの足もとに身を投げて、涙ながらに自分たち
の身に起こった出来事を話し、聖マクシミヌスから聖なる洗礼を受けたのである。その後、マルセイユの人
々は異教の神殿をことごとく打ち壊し、キリスト教の教会を建立した。マルセイユの初代司教には全員一致
で聖ラザロが選ばれ、その後、マリアと弟子たちが移ったエクスの司教には聖マクシミヌスが選出された。
3 隠修士としてのマリア・マグダレーナ
 一方、マグダラのマリアは天国を見ることのできる境地に達したいと思って人住まぬ荒野に引きこもった
という。そして伝承によれば、その場所は南フランスのサント=ボーム山塊Massif de la Sainte-Baumeの中
腹に掘られた洞窟だとされている。エクス=アン=プロヴァンスからローマ皇帝アウレリアヌスの名に因ん
だアウレリア街道を進むと、サント=ヴィクトワール山と石灰岩の岩肌がおよそ十二キロメートルにわたっ
て続くサント=ボーム山塊の間を通るルート(現在の国道七号線)にさしかかり、オーバーニュ、ロクヴォ
ワール、オーリオル、サン=ザカリーを経て、やがて右手に最高峰一一四七メートルのサント=ボーム山脈
が迫ってくる。山腹近くまでの下半分は森に覆われ、その上は黒みを帯びた斑点や無数の亀裂が走る垂直の
岸壁が聳えているが、ちょうど森から突き抜けた山肌に不気味に口を開けているのがサント=ボームの洞窟
(「聖なるボーム」とはプロヴァンス語のbaoumoに由来し、洞窟の意味)である。その場所は、サン・マ
クシマンの村からは南西へ二〇キロ以上離れた、海抜六七五メートルの地点である。
 彼女は天使の手で用意された場所で隠修士としての生活をおくり、日ごと七回迎える祈りの時間には天使
たちに導かれて天空にあがり天使たちの賛歌を聴き、そして三〇年間が過ぎたと言われている。復活祭の朝、
聖マクシミヌスはマグダラのマリアからの伝言を伝えたある司祭の言葉を信じてたった一人で教会に出かけ
てみた。すると、マグダラのマリアが天使たちの群れの真ん中で両手を広げて主に祈りを捧げていた。彼女
は地面から二キュピトの高さの高さに浮かんでおり、顔は眩しいばかりに光り輝いていた。聖マクシミヌス
は先の司祭はもとより、全ての聖職者たちを集合させ、マグダラのマリアが司教マクシミヌスの手で聖体と
聖血を拝領してその聖なる魂が天に昇っていくさまを見届けさせた。彼女が亡くなった後、教会内には甘美
な芳香が広がり、それは七日後まで続いたと言われる。聖マクシミヌスは、聖遺体に高価な香料をたっぷり
と振りかけ、盛大な礼をもって埋葬した。そして、自分が死んだらこの側に葬って欲しいと遺言を残したと
いう伝承が残っている。注①
第二章 聖遺物崇拝とキリスト教の関係
 中世史家ミカエル=ミッテラウアーMichael Mitterauerは、論文「大市の連続性と都市の誕生」の中で、「多
くの場合、宗教の変化は聖別された土地の分布をほとんど変えていない。ケルト人やゲルマン人の最古の至
聖所sanctuairesは、ローマの支配下においても大概は祭祀上の土地のままであり、その塔はキリスト教によ
って使用された。キリスト教の諸聖人は、ローマ以前またはローマの神々の後継者となったのである」と述
べている。注②
 しかし、五世紀に成立したフランク王国がローマ教会との提携関係を強化し、村落共同体を通してローマ
=カトリック教会信仰を強制したとはいえ、〈ローマ以前の、またはローマの神々〉が易々とキリスト教を
後継者に指名するとは思えない。それでは中世後期に新たな展開を見せたキリスト教世界は、国家権力が強
力に推進した宗教政策以外に、どのような力が作用して生まれたものなのであろうか。
(一)聖遺物崇拝の起源
 イエス・キリストの生涯と受難が端的に示すように、キリスト教はユダヤ教をはじめとする古代諸民族の
さまざまな宗教との軋轢に苦しみ、ローマ帝国の迫害も苛烈を極めるものであった。古代ローマ帝国は基本
的に寛容な宗教政策をとっていたが、三世紀以降にキリスト教徒の数が増加すると態度を豹変させた。特に
デキウス帝Decius(在位二四九~二五一)からディオクレティアヌス帝Diocletianus(在位二八四~三〇五)
にかけての大迫害時代には迫害が苛烈を極め、多くの殉教者がでた。しかし、迫害の犠牲者は命をかけて神
の意思を守り抜いた義しき人であり、キリストと同じ死をとげることによって信仰の正しさを立証した「神
の証人」、すなわち「殉教者」となる。すなわち、「殉教者は死をもって神との内的合体を果たした」とい
う観念が信徒の間に成立し、殉教者は神の不滅性を分有し、人を神に「執り成しうる」特別な霊力が付与さ
れた聖人と見なされるようになったのである。注③ 
 殉教者の遺骸に関する最古の記録は、スミュルナ教会 Smyrnaが司教ポリュカルポスPolykarposの殉教を
近隣諸教会に報じた書簡だと言われている。また、ポリュカルポスの処刑は、一五五/一五六年頃、同市の
コロッセウムにおいて執行されたことになっているが、エウセビオスEusebiosがマルクス=アウレリウス
帝Marcus Aurelius Antoninus (在位一六一~一八〇)の治世下だと記しているので一六一~一六九年頃かも
知れない。いずれにせよ二世紀後半に書かれた書簡の中に、「しかる後、我らは宝石よりも貴く黄金よりも
価高き骨を拾い集め、ふさわしき場所に安置した。事情の許すかぎり我らは歓びにあふれてこの場所につど
い、主の許しのもとに殉教によって彼が誕生した日を祝う」という記述がある。この文章に見られる遺骸に
対する強い愛着と畏敬の念は後の聖遺物崇拝に発達する可能性を示唆しているが、この段階ではポリュカル
ポスに対する追悼敬慕の感情が前面に出ており、少し後の聖遺物に寄せる感情とは明らかに異なっている。
注④
 一方、ローマ帝国による迫害の苛烈化は信仰の堅固化と信徒の増加をもたらしただけでなく、殉教者の遺
体を納めた墓所を崇敬の対象と変化させた。古代ローマ社会では死者を居住市壁外の墓地に埋葬し、親族は
命日に集まって故人を追憶し食事を共にする習わしを持っていた。迫害時代のキリスト教徒もこれに倣い、
都市郊外の殉教者の墓地や地下墳墓カタコンベに集い、故人を讃えて祈りを捧げ、共同で会食する。信徒は
「最後の晩餐」に倣い、そこがキリストの臨存するところ、祈りと聖霊の交錯する場として食卓を中心に礼
拝を執り行ったのである。これが後の聖餐式(ミサ)の起源であり、食卓は教会堂の祭壇に変化する。聖人
崇拝の原形を殉教者崇拝に求め、殉教者崇拝の起源を古代社会の葬送儀礼や死者儀礼の中に探ったことで知
られるイポリット・ドゥルエーH.Delehayeによれば、古代ローマ社会では埋葬後三日目、七日目、三〇日
目など特定の日に近親者が墓を訪れて死者と共餐する習慣があったが、キリスト教徒はローマの一般慣習を
踏襲しながらも、墓前祭を忌日ないし埋葬の日に固定して「誕生日」としての意味づけを与えたという。殉
教の日(忌日)を「生誕の日」として祝うために墓所に参集する慣行の成立は屍体の移動や分割を禁じたロ
ーマ古来の葬制慣習の変化をもたらしたのである。また埋葬地は殉教者の原籍origoとされ、教皇ダマスス
一世DamasusⅠ(在位三六六~三八四)は使徒ペテロPetrus・パウロPaulusが東方出身であることを承知の
上で「流された血によってローマ市民」であるとし、トゥールーズの初代司教サトゥルニヌスSaturninusに
関する聖サトゥルニヌス碑文は「血によって故郷と名を移し」と記している。注⑤
 そういう彼らが遺骸の移骨・分骨を当然と考える時、既に遺骸は聖遺物に転化し、聖者信仰が成立し始め
たと見なしてよいのではないか。渡邊昌美氏によれば、三世紀前半の聖サトゥルス(『ペルペトゥア受難記』)、
聖キプリアヌス(『聖キプリアヌス事蹟録』の例は未だ記念品レヴェルを超えるものではないが、四世紀初
頭の「雷鳴軍団」の兵士たち、すなわち四〇殉教者の場合には、殉教者自身が分骨はおろか分離埋葬すら嫌
がったのにもかかわらず灰の分配を是としており、既に聖遺物崇拝の急速な進展があったことを示唆してい
ると言う。たぐいまれな個性を持った人物の遺骸に対する尊崇の念は、なにもキリスト教徒に限ったことで
はないし、時代や地域を超えるものである。単なる物理的存在に過ぎないはずの遺骸に価値や意味を持たせ
るものは、見つめる者の〈心的状況〉である。キリスト教の信徒たちは、迫害や拷問に堪えた殉教者の壮絶
な死(肉体の最終的否定)を神との特別な関係や超肉体的な霊力が生まれる契機と受けとめた。殉教者の遺
骸は地上の可視的な遺体としてとどまっているが、その魂は天国で祝福されて最終審判における復活昇天が
約束されていると見たのである。したがって、殉教者の遺体は人類の最終的救済を触知できる神の保証物で
あり、神の摂理を地上にもたらし、敬虔な信徒の願いを神に仲介(執り成し)できる特別な霊力によってさ
まざまな奇跡を起こすと考えた。注⑥
(二)ミラノ勅令以後の変化
 三一三年、コンスタンティヌス帝Constantinus(在位三二四~三三七)が発したミラノ勅令Edictum
Mediolanensiumは聖人・聖遺物崇拝に大きな変化をもたらした。この勅令でキリスト教の布教は自由となり、
改宗者が急増する。一時期、背教者ユリアヌス帝Julianus(在位三六一~三六三)による異教復興という混
乱もあったが、ゲルマン民族大移動という危機に直面したテオドシウス一世TheodsiusⅠ(在位三七九~三
九五)は、三八〇年にキリスト教を奉じることを命じて宗教的安定を図り、三九二年には罰則規程を設けて
キリスト教を国教化した。その間、各都市には司教座が設置され、教会組織の整備も進んだ。また、教会ご
とにまちまちであった典礼もローマのそれに統一され始めた。
 以上のような政策転換は、キリスト教の信徒数を飛躍的に増大させた。しかし、信徒の急増は俗信の混入
につながり、聖遺物に対する需要の増大につながった。そして同時に迫害停止に伴う殉教者の急減・消滅は、
聖遺物の供給激減という新たな問題を発生させた。そこで考えられたのが証聖者confessonという生前の徳
による聖人であり、「昔の・忘れられた・誰も知らない」殉教者の発見・移葬による聖遺物の供給拡大であ
った。
 先ず聖人概念の問題であるが、教会初期から信仰への献身と完徳ゆえに生前から「聖なる人」と敬われて
いた教会指導者も存在した。それに加えて三世紀後半、エジプトの砂漠に住み苦行に励む聖アントニウス
Antonius、聖パコミウスPachomius(エジプト共住修道院の創始者)のような隠修士が現れると、それを慕う
人びとが群れをなすようになった。砂漠の僧窟はエジプトからシナイ半島、ヨルダンの谷へと広がり、四世
紀初めには修道院も開かれている。ローマ帝国がキリスト教に脅威を感じるようになるのはこの頃で、キリ
スト者を「皇帝崇拝を認めない無神論者」として迫害するようになった。特に大迫害時代には苛烈を極め、
多くの殉教者がでたが、その間にもキリスト教は社会階層や民族の違いをこえて広がりを見せて、三一三年
のキリスト教公認に至ったのである。キリスト教は国家権力との関係を強化しながら教会制度を整え、それ
に付随して聖職者や信者も都市内で平穏に暮らせるようになった。しかし、隠修士たちは豊かな世俗生活に
背を向け、あたかも「キリストに倣いて」真の信仰生活を送ろうと苦行の道を選択していた。すなわち、自
ら高位富裕の世俗すべてを投げ打ち、すすんで貧困、孤独、純潔、不眠、黙想などの徹底した禁欲、苦行の
信仰生活を選んだのである。彼らの中には深い学識と洞察力とをもって民衆の間に発生したさまざまな問題
を解決するなど社会的役割を果たす人物もいた。先に述べた聖アントニウスは紅海北西端に近いコルジム山
に隠棲し、「修道生活の父」と呼ばれた人物であるが、同時にアレクサンドリア主教アタナシウスAthanasius
と親交を結んでいた(アタナシウスは『聖アントニウス伝』〈Vita Antonii〉を著述している)。当時のキリ
スト教布教には、アタナシウスのように民衆の前面に立って説教するやり方と、聖アントニウスのように隠
修士としての生きざまが民衆の信頼を集めるという二つの方法が存在したのである。その結果、限界を超え
るまでの強烈な克己と苦行生活を過ごす隠修士たちは、殉教に劣らぬ「肉体の否定」を行っていると受けと
められようになり、「神の手、天国の栄光のなか」にある魂は幻視を感じ、予言をなし、悪霊に打ち克ち、
祈りによって信徒に天国の門を開くことができると信じられるようになった。こうして隠修士たちは霊的な
聖人、「緩慢な殉教者」と見なされて、その墓所は信徒との巡礼対象となっていく。
 一方、移葬の慣行は、コンスタンティヌス帝の母后ヘレナによる「真(まこと)の十字架」発見伝説に象徴される
ように、先ず東方に出現した。記録上最古の移葬は、デキウス帝の迫害で捕らえられ獄死した聖バビュラス
Babylasの聖遺物である。三五一~三五四年の間に、アンティオキア近郊のダフニ地区を浄めるために彼の
遺骨が移され、同地のアポロン神殿はキリスト教の礼拝所に変えられた(但し、ユリアヌス帝が再びアンテ
ィオキアに戻した)。続いて四世紀半ば過ぎには、コンスタンティウス二世ConstantiusⅡ(在位三三七~三
六一)が自前の名高い殉教者をもたぬ新都コンスタンティノープルを飾るため、聖テモテTimotheos(三五
六年)・聖アンデレAndreas(三五七年)・聖ルカLukasの移葬が執り行われ、皇帝自らローマ的慣行を無視
している。その後、テオドシウス一世の治世には聖パウロ、アルカディウス帝Arcadius(在位三八三~四〇
八)のそれには預言者サムエルSamouelの聖遺物の移葬という信じがたいことまで実施されている。
 西方世界では、ミラノ司教アンブロシウスAmbrosiusやヒッポ司教アウグスティヌスAugustinusが登場す
る四世紀末から五世紀前半に、聖遺物発見とそれに伴う奇跡が続発する。三七四年、司教職に就いたアンブ
ロシウスはアリウスAlius派側に立つミラノ宮廷の圧力に屈することなく、教会の自立性保持に努力したこ
とで知られる。三八六年、異端勢力はウァレンティニアヌス二世ValentinianusⅡ(在位三七五~三九二)の
母后ユスティナの支持を受けて、アリウス派保護法を制定させ、教会堂の明け渡しを要求した。この危機的
状況を回避させたのが、アンブロシウスによるゲルヴァシウスGervasius、プロタシウスProtasiusという二
人の殉教者の遺骸発見であった。二人はネロ帝Nero(在位五四~六八)の治世下に殉教したと思しきミラ
ノの保護聖人であるが、「その名も墓所も知られていず、人々はその上を歩いていた」というから、発見と
いうより創造と呼ぶべきかも知れない。二人の遺骸はミラノ郊外の教会の祭壇下に移葬され、その日に因ん
で祝日は六月十九日と定められた。アンブロシウスは、聖遺物の発見・移葬がもたらした聖人崇拝の高揚を
背景にしてアリウス派の要求を断固拒否し、グラティアヌス帝Gratianus(在位三七五~三八三)に命じて
異教の「勝利の女神」の祭壇を撤去させている
 彼はまた、三九三年にもボローニャ Bolognaのユダヤ人共同墓地に葬られていた二人の殉教者ヴィタリ
スVitalis・アグリコラAgricolaの遺骸を発見し、フィレンツェへの移葬式を執り行っている。これはウァレ
ンティニアヌス二世の暗殺で混乱している帝国西方を東帝テオドシウス一世が攻撃している最中のことであ
った。翌年、テオドシウス一世は全帝国を掌中に収めることに成功するが、アンブロシウスはその彼にさえ
教会堂の聖職者席への着座は認めず、一般信徒席に着くよう要求している。ノラ司教パウリヌスPaulinusは、
アンブロシウスの思想を「皇帝は教会の中にあり、教会の上にはいない」と表現したが、聖遺物の発見・移
葬が教会の自立性確保に一役買っていることは確かである。注⑦
(三)ゲルマン民族大移動による変化 ~アウグスティヌスと聖人・聖遺物崇拝~
 アンブロシウスによる聖遺物の発見・移葬が行われた三八六年は、アウグスティヌスがマニ教から離れて
ローマ=カトリック教に回心した年であり、彼は母親とともに奇跡に立ち会っている。翌年の復活祭前夜、
アンブロシウスの手で洗礼を受けたアウグスティヌスは、三九一年にヒッポの司祭となり、三九五年補助司
教、三九六年司教となった。その当時、北アフリカのカトリック教会を脅かしていたのは、ドナトゥス派
Donatistsの運動である。ドナトゥス派はカエキリアヌスCaecilianusのカルタゴ司教就任反対闘争から生ま
れた勢力で、反ローマ的民族運動や下層農民の抵抗運動と結びついて北アフリカに一大勢力を築いていた。
四一一年のカルタゴ教会会議において辛うじてドナトゥス派追放に成功した頃、新たに「人間は善行によっ
て救われる」と主張するローマの修道士ペラギウスPelagiusの考え方が浸透してきた。ペラギウスは「神は
人間を善なるものとして創造したのであるから、人間の原罪は人間の本質を汚すものではない。故に人間は
神からの恩寵を必要とはせず、自分の自由意志によって功徳を積むことで救霊に至ることが可能である」と
主張した。アウグスティヌスはペラギウス主義Pelagianismに対して厳しい論陣を張り、「人間の持つ〈選択
の自由〉の中に神意の采配が宿っており、〈神の恩寵〉と結びついた選択によりはじめて道が開ける」とす
る神の恩寵と自由意志等に関する自説を確立した。ペラギウス主義はその後、四一六年のカルタゴ教会会議
で異端とされている。
 しかし、ゲルマン民族大移動の嵐は五世紀に入ってますます激しさを増すばかりで、四一〇年には西ゴー
ト王アラリックAlarichの軍がローマを襲って掠奪の限りを尽くしたと言われる。この事件は、キリスト教
に対する異教の反撃を招いた。すなわち、ローマが被った大災厄は〈ローマ以前またはローマの神々〉を捨
ててキリスト教を信仰した報いだとする非難の声がわき起こり、信者の中にも動揺が広がったのである。ア
ウグスティヌスが異教徒から受けた非難を論破する大著『神国論』〈De Civitate Dei〉全二二巻を著すのは四
一三~四二六年のことであり、聖遺物に関わるのは四二四年から翌年にかけての冬のことである。もちろん、
彼は最初から聖遺物崇拝や奇跡を容認していたわけではなく、カルタゴ教会会議決議(四〇一年)等によれ
ば、むしろ懐疑の念や警戒心を抱いていたと思われる。その決議には「いかなる殉教者の祠堂(メモリア)も、そこに遺
骸ないし確実なる遺物が存するのでないかぎり、安易に受け容れてはならない。夢や空しき霊感めいたもの
によって祭壇を設けることは万難を排して非難されなければならない。」「当該地区の司教において可能で
あるならば、ただちにそれらを破却すべきである。民衆の暴動によって妨害される場合にも、信者が迷信に
流れることなからんためには、これらを頻繁に訪れることのないよう信者に教えなければならない」(第一
四条)とあり、明らかに統制の姿勢をとっている。
 しかし、ローマ世界の解体を目の当たりにした信者の間に広がる動揺を食い止め、ローマ=カトリック教
会の秩序を再建するためには、聖遺物崇拝や奇跡をためらう余裕はなかった。四一五年、イェルサレムに近
いカファルガマラの僧ルキアヌスという男が、夢の中に律法学者ガマリエルGamlielが現れて、ガマリエル
やその二人の子ども、そして使徒ステパノ(聖ステファヌス)Stephanosの遺骸の在処を告げた、とイェル
サレム司教に急報した。聖ステファヌスは、十二使徒のうち最初に迫害の犠牲となったために「筆頭殉教者」
と呼ばれる聖人である。発掘するとギリシア文字でヘブル名を刻んだ四基の墓が現れ、報せを聞いて集まっ
た群衆のうち七三名が病を癒すという奇跡が起きたという。遺骸はイェルサレムの聖シオン教会に移葬され、
右腕は新たに建立されたコンスタンティノープルの聖ステファヌス聖堂に移されたが、啓示を受けて墓の在
処を知ったルキアヌスは「使徒の肢体のうち小さき骨の節々、および使徒の肉のしみこんだ土埃」を密かに
手許に留め置き、やがて西方に拡散する原因をつくったと言われる(ルキアヌス回状)。発掘のとき、現場
に居あわせたスペインの神学者パウルス・オロシウスPaulus Orosiusは、ルキアヌスから聖遺物の一部を乞
い受けて故郷に帰る途中、ミノルカ島やウザルムに一部を残し、そこから再配分されたものが地中海沿岸の
諸都市に伝えられた。ミノルカ島に分与された四一八年頃、聖遺物の一部がアウグスティヌスの弟子にあた
るウザルム司教エヴォドゥスにわたり、エヴォドゥスを通してアウグスティヌスにも分与されたものと思わ
れる。
 聖ステファヌスの遺物がヒッポ教会に到達したのは、前述のように四二四年から翌年にかけての冬と推定
されており、遅くとも四二五年の復活祭には聖堂内に安置されていた。この時、カッパドキアから来た巡礼
者パオロと、その姉妹パラディアに奇跡が起こる。彼らは大勢の兄弟姉妹がいたがそろって親不孝者で、母
親の呪いを受けたために「手足が震動してとまらない」奇病に取り憑かれ、仕事もままならないために「ロ
ーマ帝国のほぼ半ばを経巡る」巡礼の旅に出ていた。多くの兄弟姉妹のうちパオロとパラディアは夢告を頼
りにヒッポまでたどり着き、聖ステファヌスの聖遺物の前で治癒の奇跡にあずかることが出来た。先ず柵に
すがって祈っていたパオロが突然気絶して転倒したが、正気に返ったときには、多年の痼疾は全快していた。
三日後にはパラディアにも同じ奇跡が起きた。「柵に触れると倒れて眠ったようになっていたが、起き上が
ったときには完全に治癒していた」。「会衆はこもごも感嘆と泣き声をあげて、とどまるところを知らなか
った」(アウグスティヌス『神の国』二二巻八章)。
 ところで、ここで再確認しなければならないのは、アウグスティヌスの聖遺物崇拝に関する意図である。
アウグスティヌスは、「この頃、私は恩寵を受けた者たちの報告書libellumを公衆の間で朗読することを始
めた」(『神国論』二二巻)と述べているように、奇跡の記録化を推進しており、「かつて聖ステファヌスの
肉であった一つまみの埃」が到着して二年足らずでおよそ七〇件の報告書が作られ、ウザルムでは二巻の『聖
ステパノ奇跡録』が編まれた。彼の意図は、まず第一に聖遺物の顕彰を通してキリスト教信仰を鼓舞するこ
とにあり、第二に記録によって奇跡を客観化し、真正の奇蹟だけを識別し固定化することにあった。そして
最終目的としては、聖人・聖遺物崇拝の奔流を制御し、ローマ=カトリック教会の秩序を再建することにあ
ったと思われる。すなわち、「犠牲(聖餐)を捧げるのはあくまでも神に対してであって、殉教者に対して
ではない。聖職者は神に仕えるのであって殉教者に仕えるのではない」(『神国論』二二巻)、「ステファヌ
スのために祭壇を設けるのではない。ステファヌスの骨をもって神のための祭壇を築くのだ」(『説教』三
一八)というのが彼の基本姿勢であった。ここでは神への信仰と聖人崇拝の違いが明確に区別されているが、
他の教会人、ましてや改宗したばかりの一般信徒にその峻別は無理であったと思われる。注⑧

(四)キリスト教の土俗化・卑俗化
 アウグスティヌスが死の床についた時、ヒッポの町はヴァンダル族に包囲され、彼の教会と祖国とは侵入
者の蹂躙に委ねることとなった。したがって、彼の後継者に課せられた任務は、信者を護るだけでなく、侵
入してくる異教徒に福音を伝えること、すなわちゲルマン民族の土俗信仰を克服してキリスト教世界を西欧
全体に根づかせることも含まれていた。ノラ司教パウリヌスの友人シェルピス・セヴェール(スルピキウス
・セヴェルス)Selpice Severe(Sulpicius Severus)が著した『聖マルタン伝』〈Vita S.Martini〉に詳しいトゥー
ル司教マルタン(聖マルティヌス)Saint Martinもその一人である。彼は十五歳でローマ騎兵となり、ガリ
アのアミアンに駐屯している。その頃の彼は裸の物乞いに与える物さえなかったため、仕方なしに自分のマ
ントの半分を切って与えたが、夢の中にキリストが現れて「その男こそ私だ」と告げられた。やがて十八歳
の時受洗し、直ちに(あるいは三五六年に)退役してポワティエ司教ヒラリウスHilariusによって司祭に叙
階された後は、イタリア各地で隠修士生活を送っている。三七〇(または三七一)年に第三代トゥール司教
に就任し、その後はガリア各地を精力的に巡回説教しただけでなく、病気治癒を施し、樹木や墓など異教の
偶像を破壊して多くの信者を獲得したと言われている。シャルトルでは子どもを蘇生させ、リュテースでは
癩患者を治癒し、トリールでは悪霊に取り憑かれた者を救い、ヴィエンヌではパウリヌスの眼病を治した。
このように、ガリア各地で活躍した伝道者たちは異教の祠をキリスト教の教会堂に変え、悪霊憑きや病気の
治癒を施し、神罰を説きながら福音を広めたのである。しかし、伝道者たちは、宗教とは直接かかわりのな
い執拗な抵抗に遭う。古代の神々を排除することは比較的容易な場合も、現実生活や日常的経験の世界と結
びついた〈心的習慣〉はいつまでも残り続けた。したがって、ローマ=カトリック教会は民間伝承に対して
排除と吸収の両面作戦に迫られたのである。注⑨
 五・六世紀になると、都市郊外の墓上に設けられた礼拝所は、信徒の参集とともに比較的大きな教会(バ
シリカ)に発展し、信仰生活の拠点となった。初期フランク社会のガリアでは地下墳墓から聖人の遺骨を取
り上げ、石または木の匣(はこ)や棺に納め、祭壇の中や傍らに移す(移葬・遷座)する風習が一般化し、移葬の際
には盛大且つ厳粛な式典が挙行されて聖遺物と祭壇の一体化が確認された。その結果、有名聖遺物を所蔵す
る教会堂を信仰・礼拝の的とする巡礼が開始され、往来する信徒の必要から宿泊施設などが建設されて新た
なる都市が成立する。所謂「旧市」に対する「新市」の誕生で、従来は市壁によって分断されていた生と死
の領域が一つの空間になりつつあった。注⑩
 ゲルマン民族大移動と西ローマ帝国の崩壊を機に、西ヨーロッパの政治的重心は地中海からアルプス以北
に移る。五世紀末、ガリアの地ではフランク王国メロヴィング朝のクローヴィスClovis I(在位四八一/四
八二~五一一)がランス大司教レミギウスRemigius(聖レミRemi)の手でカトリックとしての洗礼を受け、
正統派キリスト教に転じた。トゥール司教グレゴリウスGregorius Turonensisが編んだ『フランク人の歴史』
によれば、スイスのアラマン人を撃破したトルビアックの戦い(四九六年)の後、十二月二五日に洗礼を受
けたという。ただし、受洗の年については四九八年、四九九年、五〇六年と諸説があり、場所も聖マルティ
ヌスMartinusの墓に巡礼した後のトゥールではないかとも考えられている。いずれにせよ、クローヴィス
は、正統派キリスト教に転じることでローマ=カトリック教会やガリア地方に住むローマ人貴族の支持を獲
得し、西欧社会に特徴的な教権(ローマ=カトリック教会)と俗権の提携が開始された。また、古代地中海
世界のキリスト教は一般民衆から漸次上層階級に広がっていったが、中世ヨーロッパ世界ではまず王や王族
に布教の狙いを定め、ついで貴族層・一般民衆に広めるという全く逆の流れであった。もちろん、王侯貴族
層の改宗がただちに全部族民に影響するわけではないが、土俗信仰からキリスト教信仰への大きな転機とな
ったことは疑いようがない。フランク王国メロヴィング朝はしばしば分裂と内紛を繰り返したが、その支配
領域がガリア全土に広がると、征服された東・西ゴート族やブルグント族なども漸次カトリックに転じてい
る。
 一方、ローマ=カトリック教は、ゲルマン諸族に広がる過程で、自らの変質を経験することになる。何故
なら、カトリックの聖職者や神学者が口をきわめて異教的慣行を非難しても、ながく土俗信仰に浸ってきた
人々の心に響くことはなかった。いかに王侯貴族層の信仰を集めたとしても、一般民衆の支持なくしては宗
教として存立できないことは明らかである。そこでやむを得ず、古ゲルマン以来の宗教的伝統に自らのロー
マ=カトリック教を接合させようとしたことが、キリスト教の「土俗化・卑俗化」を生むことになった。そ
して、ローマ=カトリック教会の頂点に君臨した教皇自身がこうした弾力的方策を採用したのである。
 ローマ司教(教皇)グレゴリウス一世GregoriusⅠ(在位五九〇~六〇四)は東方教会に敢然と挑戦し、
五九五年には世界総主教Oikoumenikos patriarchesという称号を用いたコンスタンティノープル総主教ヨハネ
ス四世JohannesⅣを〈非キリスト〉と弾劾し、翌年にはサン=アンドレア修道院長アウグスティヌス
Augustinusと修道士約四〇名をイングランド布教に派遣するほどの人物である。その彼が採用したのは、異
教の神殿や祠、神像の破壊というドラスティックな目に見える伝道方法ではなかった。彼が伝道士たちに命
じたのは、異教の神像は破壊するが、神殿や祠は破壊しないでキリスト教の教会堂として利用すること、新
たな教会堂には聖水をふり注ぎ、祭壇を設けて聖遺物を置くことであった。
グレゴリウス一世は、上記アウグスティヌスに写本、祭儀用の衣服や器具とともに「聖なる使徒や殉教者の
聖遺物」を送り、これらは「教会の経営と職務に必要なもの」と書き添えている。異教圧伏には聖遺物こそ
が最大の武器となったのである。祭壇の石の洞に納められた聖遺物は、異教の地方神や精霊(氏神)が果た
してきた役割を肩代わりし、当該地域の安寧を実現する。こうして聖遺物とそれが引き起こす奇跡は、ロー
マ=カトリック教会の想定をはるかに超えて重要性を獲得し、キリスト教信仰はあたかも聖人・聖遺物崇拝
の観を呈するようになったのである。注⑪
 このような流れを大きく広げたのが、カロリング朝のシャルルマーニュ帝Charlemagne(カール大帝Karl)
である。八〇〇年、クリスマス・ミサにおいて教皇レオ三世LeoⅢ(在位七九六~八一六)からローマ皇
帝の戴冠を受けたシャルルマーニュは、キリスト教の保護者を自任し、正統信仰の宣布という教会の負託に
十分応える宗教政策を展開した。八一一年までにローマ以北のイタリアに五つ、アルプス以北に十六の合計
二一の首都大司教管区を設置し、ほとんどの首都司教に大司教の権威を与えている。首都大司教管区は幾つ
かの司教区に細分化され、司教たちは大司教に服従する(七七九年ハリスタル勅令)とともに、司教区内の
監察と司教区会議の開催を義務づけられた。司教の権限は原則的に司教区内の総ての聖職者に及ぶことにな
っていたが、私有教会の司祭任命権は世俗領主が留保し、修道院の独立性も認めざるを得なかった。しかし、
シャルルマーニュは司教や修道院長を自由に任命する権限(聖職叙任権)を持ち、聖職者になるためには国
王の認可が必要であった。また、カール=マルテルKarl Martell以来、カロリング家は家臣を給養するため
に教会領を収公して恩給地beneficiumとして分配している。その際、カロリング家は教会側の土地所有権を
保障し、家臣との間に土地の貸借関係を構成させるとともに、借地人に対して地代(生産物の五分の一)を
支払うよう命じている。注⑫
 シャルルマーニュ帝はとりわけドイツ東部への福音拡大に尽力し、ザクセン人・西スラヴ人・アヴァール
人など異教徒を改宗させるために各地に司教区を設けて教会十分の一税の納入を法制化し、同じく数多く建
立させた修道院ではベネディクトゥス会則の普及に努めさせた。しかし同時に、八〇一年と八一三年の二度
にわたって開かれたカルタゴ教会会議では、聖遺物を祭壇に置くよう規定したニカイア公会議(七八七年)
の決定を踏襲し、聖遺物を欠く祭壇の破壊を命じている。さらには、ローマ=カトリック教会の動向に呼応
して、ザクセン人に対して異教的な魔法や占卜の行使者を奴隷として教会に引き渡すこと、それらの神々に
犠牲を捧げる者を処刑することなどを命じる一方で、宣誓や各種の「神判」、奴隷解放の際などにキリスト
教の聖遺物崇拝を取り入れるよう求めている。これらは、公権力が未成熟で、大多数の人々が文盲であった
古ゲルマン社会以来、個人や集団間の取り決めの際には可視的な保証物を介する「宣誓」が行われ、相手に
その遵守を強制する慣行が継承されてきたことに着目したからである。シャルルマーニュ帝は「あらゆる宣
誓は、教会内かまたは聖遺物を介してか、いずれかでなさるべき」と命じることによって、古ゲルマン的慣
行をキリスト教世界に取り入れ、超自然的な聖化による権威づけに成功した。こうして、聖遺物にかけての
宣誓は聖人の名における「厳粛な契約」と変化し、違反者は聖人への侮蔑として時には死をもって贖わなけ
ればならなかった。注⑬
(五)十一世紀の変化
 シャルルマーニュ帝の死後、フランク王国は分裂を繰り返し、やがて西フランク王国・東フランク王国・
イタリア王国に分かれていく。その間、西ヨーロッパ世界は封建制社会へ移行していったが、相次ぐ政治的
混乱は外敵の侵攻を招いた。南からイスラーム教徒、北方からノルマン人(ヴァイキング)、そして東方か
らはマジャール人が侵攻し、キリスト教会ならびに修道院は焼き討ちの対象とされ、民衆の恐怖心は極点に
達した。
 しかし、十一世紀を迎える頃に変化が訪れる。当時の西欧社会は、気候の温暖化に伴って農業生産が向上
し、外敵侵攻による混乱も収束して人々の暮らしが安定化に向かいだしたのである。すなわち、同世紀初め
から鉄製農具や重量有輪犂、二圃制度・三圃制度の普及で麦の収穫量が急増する農業革命や集村化現象が本
格化し、同世紀後半から十三世紀前半にかけては森林や荒れ地の開墾が進む大開墾時代を迎えていた。また
同時に荘園制度は従来の古典荘園から地代荘園(純粋荘園)への転換期に相当し、教会行事や農事暦と結び
ついた祭礼など共同体的結びつきが強まった。教区教会では教区司祭が冠婚葬祭や日曜ミサなどを通じて布
教活動に務めていたが、それらは土俗信仰とキリスト教が接合する場となってマリア信仰や聖人・聖遺物崇
拝、泉水を利用した病気治癒祈願などを爆発的に拡大させる契機ともなったのである。
 その間、ローマ=カトリック教会は世俗社会との関わりを深め、聖職者の結婚、世俗領主による聖職者の
任命はありふれたことで、聖職売買も珍しいことではなくなっている。一方、民衆の間では聖遺物崇拝の熱
がますます高まり、聖遺物が納められている教会・修道院への巡礼が流行となっていた。一〇世紀末のフラ
ンスなどでは貴族間の私闘を抑えるための「神の平和」運動が起きたが、十一世紀にはクリュニー修道院
Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny(ブルゴーニュ地方、九〇九年創建のベネディクト会修道院)を
中心とする教会刷新運動が大きなうねりとなって西欧全体を包んでいった。教皇グレゴリウス七世Gregorius
Ⅶ(在位一〇七三~八五)は教会刷新運動を背景に厳格な規律を求める大改革に着手し、帝国教会政策をと
る神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世Heinrich IVとの間に聖職叙任権闘争(一〇七五~一一二二)を展開して教
皇権の優位を勝ち取っている。
 この一連の動きの中で注目すべきは、マグダラのマリアの物語に登場する隠修士の存在である。一〇世紀
末から十一世紀にかけて南イタリアに多かったギリシア系修道士は贖罪のために森に入って瞑想と禁欲の
(まさしく隠修士としての)信仰生活を送っていたが、彼らは「悔い改めと奉仕と愛の象徴」である聖女マ
グダラのマリアに親近感を抱き、彼女に自らの庵の保護を委ねることが多かったという。こうした隠修士を
中心とする悔悛運動とクリュニー修道院を中心とする教会刷新運動が結合して物語が誕生し、教皇グレゴリ
ウス七世の所謂「グレゴリウス改革」を準備したのである。実際、改革の理論的支柱となったペトルス・ダ
ミアニ Petrus Damianusやシトー修道会の創立者であるモレームの聖ロベールSt. Robert de Molesmeなどは
いずれも隠修士であった。
 そして、教皇権の隆盛と深い関係にあったのが十字軍の派遣である。キリスト教最大の聖地イェルサレム
は、六三八年以来イスラーム教徒の支配下にあったが、この当時イェルサレムを支配下に置いていたセルジ
ューク朝がアナトリアに進出したため、脅威を感じたビザンツ皇帝アレクシオス一世が教皇ウルバヌス二世
UrbanusⅡ(在位一〇八八~九九)に救援を求めた。ウルバヌス二世は一〇九五年のクレルモン公会議で聖
地回復のための十字軍を提唱し、熱狂的な支持を集めることに成功する。翌年、第一回十字軍が出発し、こ
こに約二世紀にわたり七回に及ぶ十字軍遠征が開始された。十字軍は、教皇にとっては東西両教会統一の主
導権確保という目論見があったが、多くの民衆やキリスト教布教の最前線にいた司祭たちにとっては、殉教
者の勲功で名高い都市や、著名な聖人が禁欲修行を重ねて奇跡をもたらした場所への巡礼の最たる行為であ
った。
 第一回十字軍の背後で隠然たる力を発揮していたのはクリュニー修道院であり、その院長ピエール(尊者
ピエールPierre le Venerable)は「主がその足で立ちたもうた場所をおのれの目で眺めて涙を注ぐことは、
修道の戒律が我らに禁じている」とイェルサレム主教に書き送っている(『書簡』八三)。また、第二回十
字軍の勧説者として知られるシトー修道会の聖ベルナールBernard(クレルヴォーClairvauxのベルナルドゥ
ス)は、同会の全修道院長宛回状で十字軍に参加する修道僧や助修士を破門すると通知し、同会総会(一一
五七年)では「イェルサレムであれ、その他の地であれ、巡礼に出る修道僧は二度と故郷の修道院に帰るこ
とを許さない」と定めている。但し、ここで見落としてはならないのは、隠修士の系譜をひくことによって
一般信徒の模範と見なされた修道僧に対する禁令を通して巡礼を統制しようとする修道院勢力の意図であ
る。また、多くの禁令の存在は、かえって理屈を超えた衝動にも似た巡礼への憧れ、あるいは十字軍熱が民
衆間に横溢していたことを如実に示している。例えば民衆十字軍は、アミアンの隠者ピエールPierre l'Ermite
や騎士ゴーティエGautier Sans-Avoir(無一文のゴーティエ)に率いられて出発し、ボスフォラス海峡を渡
って全滅覚悟でルーム・セルジューク軍の中に突入したが、群衆の中にあったのはまさしく神のご加護への
信頼であった。
 ところで、多くの教会・修道院が競って聖遺物を集め、民衆の期待に応えようとしていたことは、大量の
「奇跡録」や「移葬記」などが作成されたことからも明らかである。フランス中央山地に建つサン・タヴォ
ー修道院Saint Avoldは一一八〇年からおよそ三〇年間にわたって入手した聖遺物を克明に記録しているが、
使徒や聖者の遺骸の一片(聖アンデレSaint Andréの肋骨一本、預言者アモスAmosの歯二枚など)のほか、
ベツレヘムの秣桶(まぐさおけ) の破片や聖母の靴のかけら、聖ステファヌスを打った石の破片などの二次的聖遺物も含
まれているし、はては「誰のものとも知れない遺骨がたくさん納められている箱」まであった。また、ラン
スのサン=レミ修道院Saint-Remiでは、一一四五年、地下墓室の聖ジブリアンという来歴の分からない聖者
の遺骸が入った容器を新調したところ、にわかに奇跡が起きて巡礼者が参集した。『聖ジブリアン奇跡録』
によれば、同年四月一六日から八月二四日までの間に一〇二件の奇跡(うち九八件が病気治癒)が発生して
いる。これらの記録から当時の人々がどのようなことに怖れを抱き、何を求めていたのかが推測できるが、
それらは古ゲルマン以来の土俗信仰と聖遺物崇拝とが結びついた結果の顕れでもある。注⑭
(六)聖人伝説と聖遺物崇拝の関係
 中世における三大巡礼地は、イェルサレム、ローマ、そしてサンチャゴ・デ・コンポステーラである。し
かし、それ以外にもトゥールの聖マルタンSaint Martin、カンタベリーの聖トマス・ベケットThomas Becket、
南イタリアのモンテ・ガルガノGarganoやフランスのモン・サン=ミシェルMont Saint-Michelにおける大
天使聖ミカエルSan Michele、シャルトルやフランス南西部のロカマドオールRocamadour における聖母マリ
ア、ヴェズレーのマグダラのマリアなどの大霊場が存在し、民衆の身近な霊場としては古ゲルマン以来の「聖
別された土地」locus sanctusが各地に点在していた。
ヨーロッパ各地に広がった「真正なる」聖遺物を獲得しようとする情熱の高まりは、聖人の遺骸を移葬す
るという強硬手段をとらせることになる。ここで再び取り上げるのは聖女マグダラのマリアである。前章で
見たように聖女の遺体は南フランスのサン・マクシマンに葬られたことになっていたが、十一世紀、福音書
にも載るほどに有名だが詳細は不明な彼女が移葬の対象者に選ばれ、その遺体はブルゴーニュ地方のヴェズ
レー修道院Vézelayへ移された。ヴェズレー修道院は、八五八年(八六一年)頃に創建されたバシリカ式教
会堂で、最初はイエス=キリストと聖母マリアに捧げられたベネディクト会修道院で、マグダラのマリアと
は何の関わりもなかった。しかし、十一世紀初め、修道院長として着任したジョフロワ Geoffroy(在職一
〇三七~一〇五〇)は、クリュニー修道院の戒律を受け入れるとともに、その当時ヴェルダンでマグダラの
マリアに捧げる聖堂を建設中であることに着目して、ヴェズレー修道院にも導入しようとした。この思いつ
きは功を奏し、聖遺物の公開はさまざまな奇跡を引き起こし、多くの巡礼者が押し寄せることになる。同世
紀後半とりわけ一〇九〇年代以降、マグダラのマリアは聖マドレーヌ大聖堂Basilique Sainte-Madelaine の守
護聖人として多くの民衆の信仰を集め、サンティアゴ・コンポステーラ巡礼の「サン・ジャックの道」(Les
chemins de Saint Jacques) のペリグー Perigueux を通るルートの起点となった。
 一〇五〇年教皇レオ九世LeoⅨ(在位一〇四九~五四)がジョフロワ修道院長に宛てた書簡が残ってお
り、その中にヴェズレー修道院を「救い主と聖母、ペテロとパウロ、マグダラのマリア」に捧げられた修道
院であるという記述がある。このように教皇のお墨付きを得たばかりか、多くの寄進を受けて広大な領地を
持つようになったヴェズレー修道院は、一〇九六年、当時のアルトー修道院長l'abbe Artaudが新しい聖堂の
建設に着手し、一一〇四年には完成させた(ただし、工事費用の負担は地域住民の肩に重くのしかかり、一
一〇六年に発生した暴動で修道院長が殺害されている)。また、一一二〇年には犠牲者一一二七人を出す大
火災が発生したが、ナルデクス(前室)を延伸する改築がなされ、一一三二年には教皇インノケンティウス
二世InnocentiusⅡ(在位一一三〇~四三)によって聖別されている(一一三八年完成)。ヴェズレー修道院
の繁栄を示す例は多い。例えば、一一四六年の復活祭の日(三月三一日)には聖ベルナールが第二回十字軍
を勧説しているし、一一六六年にはカンタベリー大司教トマス・ベケットが教会に対する支配強化を図るイ
ングランド王ヘンリ二世HenryⅡ(在位一一五四~八九)を批判してその支持者を破門し、英王自身の破門
も辞さないと言明したのもこの修道院でのことである。また、イングランド王リチャード一世RichardⅠ(the
Lion-Hearted在位一一八九~九九)と仏王フィリップ二世PhilippeⅡ(Auguste在位一一八〇~一二二三)が
三ヶ月間滞在し、合同軍を率いて第三回十字軍に出発したのもヴェズレーからである。注⑮
 しかし有名になるにつれて、パレスティナから遠く離れたヴェズレーになぜ聖女マグダラのマリアの遺体
があるのかを合理的に説明して、巡礼者たちを納得させる必要が出てくる。そこで考案されたのが、聖母マ
リアをはじめ多くの聖女たちのカマルグ上陸とサン・マクシマンからの移葬という物語である。十二世紀後
半に編まれたヴェズレー修道院の公式年代記によれば、サン・マクシマンに聖女マグダラのマリアの遺体が
あることを知ったヴェズレー修道院長と貴族ジラールGirart de Roussilon(八一〇頃~八七七)が修道士バ
ディロンを派遣し、この修道士が危険を冒して聖女の遺骨(頭蓋骨)を盗み出し、ヴェズレー修道院へ移葬
したという訳である。ヴェズレー修道院が案出したこの物語は、聖女たちのカマルグ上陸という伝承を生み
出しただけでなく、聖女マグダラのマリアの本来の墓所とされる聖堂 (La basilique de Sainte Marie-Madeleine
de Saint-Maximin-la-Sainte-Baume) の名前にもなっている聖マクシミヌスという聖人を創出し、ヴェズレー
に対抗したオータン司教座聖堂にラザロの遺体を出現させ、タラスコンにマルタの遺体を出現させる結果と
なったのである。また、この物語は、当時流布していた所謂「ジラール・ド・ルシヨン伝説」を移葬と結び
つけ、物語性と信憑性を高めることになり、『聖ヤコブの書』などにも採用された。一二六五年には聖遺物
の検認が行われ、ヴェズレー修道院に安置されていた棺の中からマグダラのマリアの名前を記した書類が発
見されたと発表している。
 ところが一二七九年に大事件が発生する。聖女マグダラのマリアの聖遺物争いで巻き返しを図るプロヴァ
ンス側が、ナポリ王シャルル二世Charles II d'Anjou立ち会いの下、エクス大司教区のサン・マクシマン修道
院のベネディクト会士たちによって古い地下礼拝堂から聖女マグダラのマリアの遺体が発見されたと発表し
たのである。聖女の遺体とともに由来を記した書類も発見され、そこには「サント=ボームの人々は、イス
ラーム教徒による破壊を恐れて、予め聖女の遺体を別人の遺体とすり替えていた」と記されていた。すなわ
ち、今回見つかったのが「真正の遺体」であって、ヴェズレーの修道士が当地から盗み出したと主張する遺
体は替え玉だったという訳である。聖女の遺体が発見されるや否や、サン・マクシマンでは奇跡が続発し、
その真正性を裏付けることとなった。
 しばらくの間、ヴェズレー修道院とサン・マクシマン修道院は、それぞれ自らの正統性を主張し合ってい
たが、やがて形勢はヴェズレーが不利になる。何故なら、ナポリ王シャルル二世は仏王ルイ九世LouisⅨ
(Saint Louis在位一二二六~七〇)の甥であり、プロヴァンス伯や両シチリア国王を兼ねる実力者だったか
らである。一二九四年、シャルル二世が支配するナポリ王国で教皇に選出されたボニファティウス八世
Bonifatius VIII(在位一二九四~一三〇三) は、その翌年にサン・マクシマンの遺体こそが「真正の」聖女
のものであると宣言し、以後、ヴェズレーの命運は断たれることになった。注⑯
 人間は弱い存在である。イエスの受難に厳格な父たる神の存在を認め、父と子と聖霊の栄光を讃える気持
ちに偽りはないけれども、それだけでは満たされないものがある。それゆえ母親のように柔らかく包み込ん
でくれる聖母マリアに対する憧れがあった。ひたすら無名で従順で、慎ましく禁欲的に生きた処女が天に上
げられて女王になるというマリア戴冠は、多くの人びとに感動を与えた。また、キリストへの敬虔な奉仕に
よって瞑想的生活の理想と見なされた聖女マグダラのマリアは、隠修士としての後半生が用意され、聖人崇
拝と聖遺物崇拝とを結びつける格好の材料を提供することになった。こうして聖母マリアや聖女マリア・マ
グダレーナの伝説は、古ゲルマン以来の土俗信仰とローマ=カトリック教の聖遺物崇拝とを結びつけ、キリ
スト教が新たな地平を切り開く役割を果たしていったのである。特に十一世紀以降は、西ヨーロッパのキリ
スト教を特徴づけている宗教的不安が女性的存在の重要性を高めていった。
 十六世紀フランスの神学者ギヨーム・ポステルGuillaume Postelによれば、人間の魂には男性原理(アニ
ムスanimus)と女性原理(アニマanima)が存在し、男性の魂のなかにも女性原理が存在すると言う。男は
より弱い性である女にひかれることで生のベクトルが下に向くのに対して、女はより強い男という性にひか
れることで、より高いものへ自分を導き自己実現を果たそうとするベクトルが働く。したがって、発展や完
成の原動力は、男へと向かう女のうちにあるというわけである。父なる神に対する子なるイエスも、教会も、
聖人たちも、その意味ではみな「女性」に相当し、自らを空しくして父なる神を目指すものに他ならない。
新約聖書の福音書に描かれたイエスの物語は、旧約聖書の男性預言者の時代(ユダヤ的男性社会)の終焉を
示しているが、どうしても男性原理から離れられない弱みが残っていた。その不完全な「女性原理」を補完
したのがマリア信仰であり聖女マグダラのマリアを通した祈りであった。こうして、キリスト教は、聖人・
聖遺物崇拝という衣を身につけて、静かに、そして人びとの暮らしの奥深くまで浸透していったのである。
 
【参考文献】
① 第一章は、荒井献・佐藤研責任編集『新約聖書』全五巻:第一分冊「マルコによる福音書」・「マタイ
 による福音書」、第二分冊「ルカ文書」、第三分冊「ヨハネ文書」、第四分冊「パウロ書簡」、第五分冊「パ
 ウロの名による書簡、公同書簡、ヨハネの黙示録」やヤコブス・デ・ウォラギネ『黄金伝説』全四巻(前
 田敬作・今村孝訳)を基礎とし、竹下節子『聖母マリア』、田辺保『フランスにやってきたキリストの弟
 子たち』、岡田温司『マグダラのマリア』、高草茂『プロヴァンス古城物語』等を参考にして整理した。
 もちろん、異説が多いのは承知している。また、福音書における「マリヤ」は、本稿では統一して「マリ
 ア」と表記している。
② Michael Mitterauer, La continuite des foires et la naissance des  vulles,p711-34. 拙稿「古ゲルマンの土俗
 信仰とキリスト教」(『西欧初期中世社会の研究』所収)一二一頁引用
③ 青山吉信『聖遺物の世界』六頁参照
④ 渡邊昌美『中世の奇蹟と幻想』四二頁より引用。渡邊昌美「奇蹟と聖遺物」(『ヨーロッパ身分制社会
 の歴史と構造』所収)六八一~六八二頁、青山前掲書六~九頁、岡﨑前掲論文一二一~一二二頁参照
⑤ H.Delehaye, Les origines du culte des martyrs.2 edition.Bruxelles,1933.  岡﨑前掲論文一二二頁参照
⑥ 渡邊前掲論文六七八頁、青山前掲書十一~十四頁参照
⑦ 渡邊前掲論文六七一~六八六頁、岡﨑前掲論文一二一~一二七二頁参照
⑧ 渡邊前掲論文六八六~六九〇頁・「巡礼総論-奇跡、聖者、聖遺物、そして巡礼-」(歴史学研究会編
 『巡礼と民衆信仰』所収論文)三六~四四頁、岡﨑前掲論文一二一~一二七二頁、C・ドウソン『中世の
 キリスト教と文化』(野口啓祐訳)五九~六七頁・一六 四~一六六頁参照 Christopher Dawson,Medieval
 Religion,London:Sheed and Ward,1934 Medieval,Christianity,London:Burns And Oates,1924.
⑨ 今野國雄『修道院』四四~五一頁・『西欧中世の社会と教会』八八~八九頁、渡邊前掲論文七三~七四
 参照
⑩ 青山前掲書十六~十七頁参照
⑪ 青山前掲書二五~二八頁参照。ドイツ宣教に献身し殉教したベネディクト会修道士ボニファティウス 
 Bonifatiusは、七二三年、ガイスマール近くで雷神トールの聖なるオークを切り倒して異教の神の無力さ
 を実証した。これは、民族大移動という大きな変化の中で、ゲルマン固有の社会組織や宗教が解体過程に
 入っており、キリスト教が入り込む隙間を発見したことを示している。
⑫ 半田元夫・今野國雄『キリスト教史Ⅰ』二九一~二九七頁参照
⑬ 青山前掲書二八~三二頁、岡﨑前掲論文一一四~一二一頁参照
⑭ 渡邊「巡礼総論-奇跡、聖者、聖遺物、そして巡礼-」四九~五三頁参照
⑮ 渡邊「巡礼総論-奇跡、聖者、聖遺物、そして巡礼-」四九~五九頁参照
⑯ 田辺前掲書一二一~一七八頁、岡田前掲書三〇~四二頁参照
⑰ 竹下前掲書一四九~一五一頁、ウィリアム・J・ブースマ『ギヨーム=ポスタ ル-異 貌のルネサン
 ス人の生涯と思想 -』(長谷川光明訳)一〇三~一七二頁参照
 William James Bouwsma,Concordia Mundi: The Career and thought of Guillaume Postel(1510-1581). Cambridge,
 Harvard University Press,1957.
  一方、中世民衆の信仰について研究したR・マンセッリは、民衆は「キリストの啓示の〈ことば〉によ
 って与えられる諸事実を、・・・至高の権能によって保証された真実として受け容れ」るとして、「論理
 的事実よりも感情的な事実に継続して優越が認められることになり、先在する伝承が確としてひき続き変
 容と適合をみせつつ、知的な省察に由来する指示や禁止を越えたある現実(リアリティー)として続くこと
 になる」という。それ故、彼等は聖職者から教えられる複雑な教義から信仰に入るのではなく、個人的な
 救済の必要、すなわち保護や援助、慰めの要請などを表現する宗教的世界に生きていたという事実にも留
 意する必要があるという。R・マンセッリ『西欧中世の民衆信仰』(大橋喜之訳)二八頁参照
 Raoul Manselli,La Religion Populaire Au Moyan Âge,Problèmes de méthode et ďhistoire, Institut ďétudes   
 médiévales Albert-le-Grand,Montréal,1975.

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