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July 26, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 14


14.チェコスロヴァキア共和国の動向
(1)新国家の建設
 1918年(10/28)国民委員会, チェコスロヴァキア共和国独立宣言
    (10/30)トゥルチャンスキ・スヴェティー・マルティンで「スロヴァキア国民評議
       会」設立→(12/19)カトリックの司祭アンドレイ・フリンカ神父(1864~ 
                1932), スロヴァキア人民党結成
    (11/4)プラハ政府, ハンガリー支配下の暫定スロヴァキア政府任命
    (11/13)国民委員会, 「臨時憲法」制定
    (11/14)革命国民議会招集:1911年の帝国議会選挙結果に応じてチェコ人各党に
       議席配分。スロヴァキア人議員は任命による選出。ドイツ人代表は不参加。
       マサリク大統領(任期1918~1935)選出:大統領府はプラハ城。
       クラマーシュ首相(国民民主党)・ベネシュ外相:全党派の連立内閣
       *国民民主党は旧青年チェコ党を中心に再編した政党
        8時間労働制・失業給付金制度を導入
       *1918年(11月末)チェコのドイツ人地域占領
         1919年(1月)スロヴァキア全域占領
 1919年(2/25)通貨改革(ラシーン蔵相):旧帝国紙幣に印紙貼付。
                    通貨の一定額を国庫に回収→インフレ回避
(4/16)土地改革法:150ha以上の所有農地, 250ha以上の一般土地を収用→中小農
             民に分配(1923~26年実施)
    (5/1)ハンガリー赤軍, チェコスロヴァキア侵入
      *1918年(10/17)ハンガリー王国独立承認→(10/30)ハンガリー10月革命:
       ハンガリー共和国→1919年ハンガリー=ソヴィエト共和国(ベラ=クン
       首相):ルーマニア軍の攻撃で崩壊
    (6/16)「スロヴァキア評議会(ラダ)共和国」樹立(東スロヴァキアのプレショ
       ウ。ヤノウシェク政権)→連合国の圧力でハンガリー軍撤退→スロヴァキ
       ア評議会(ラダ)共和国政府消滅
(6月中旬)地方議会選挙・・・チェコのみで実施
・社会民主党・社会党(1925年以降は国民社会党)の合計で45%以上→クラ
       マーシュ首相辞任
(7/8)トゥサル首相(社会民主党):社会民主党・社会党・農業党の連立内閣
                   (赤緑連立)
*鉱山労働者の経営参加を認める法律制定。土地改革法の実施細則制定。
 1920年(2/29)憲法採択
   *フランス第三共和国をモデルに制定されたもので、西欧式の中央集権的・民主共
    和国をめざした。
   ①大統領職は国家元首ではあるが行政の長ではなく, 行政権は内閣に属す。
    1)大統領は議会で選出。 2)首相の任命権。議会の解散権 
    3)7年任期。三選禁止(初代大統領マサリクは対象外)
   ②議院内閣制
    1)立法権を持つ国民議会は二院制:任期6年の下院(定員300名), 任期8年の
     上院(定員150名)はともに比例代表制。
    2)直接・秘密・普通選挙。婦人にも選挙権・被選挙権。
    3)国民議会は「下院優越の原則」。内閣は下院にのみ責任を負う。
   
(4月)新憲法に基づく最初の国政選挙:ドイツ人・ハンガリー人も参加
     →第一党の社会民主党を中心とする中道左派連立政権発足:第二次トゥサル内
      閣(赤緑連立内閣)・・・与党は議会の過半数に達せず
(9月)社会民主党分裂→第二次トゥサル内閣辞職
(9/15)チェルニー首相(モラヴィアの地方長官):無党派官僚の内閣。
       国民民主党・人民党・農業党・社会党・社会民主党の代表5人で構成する
       非公式委員会「ピェトカ」(チェコ語で数字の5を意味する)が閣外協力。
(12/9)12月ゼネスト開始
  
 1921年(4/23)ルーマニアと相互援助条約締結
    (5/14~16)社会民主党左派が分離して新たに共産党を結成。
      *マサリク大統領が共産主義反対の態度を示したために、一時的に混乱。
    (6/7)小協商成立(チェコスロヴァキア・ルーマニア・ユーゴスラヴィア)
      *小協商3国はいずれもハンガリー人居住地区を併合→ハンガリーの領土回
       復運動に備えた。フランスが支援。
       1922年(10/28)ハンガリーと国境合意
(9/26)ベネシュ内閣成立(ベネシュ首相〔社会党〕は外相兼任):マサリク大統領
                                  の意向
 1922年(8/31)ユーゴスラヴィアと友好同盟締結
    (10/7)第1次シュヴェフラ内閣(1922~29, 農業党)発足→政治的安定。
*シュヴェフラはクラマーシュ内閣から第二次トゥサル内閣までの内務相。
       ピェトカの中心人物。
    《与党》右派:国民民主党(大資本の利益代表):チェコ人
人民党(カトリック的な伝統保守利益代表):チェコ人
        中道:農業党(農業利益代表):チェコ人・スロヴァキア人
左派:社会民主党(労働者利益代表):チェコ人・スロヴァキア人
社会党(労働者利益代表):チェコ人
《野党》スロヴァキア人民党(カトリック政党):スロヴァキア・ナショナリズム
社会民主党・国民党・農業者連盟・キリスト教社会人民党:ドイツ人
        共産党:チェコ人・スロヴァキア人・ドイツ人・ハンガリー人
《フラト・グループ》マサリク大統領・ベネシュ外相を中心とする中道派
        *「フラト」はチェコ語で「城」を意味する。
   ■チェコスロヴァキアで議会制民主主義を維持できた理由
   ①特権階級の勢力が弱く、教会も世俗的支配権を持たなかったこと。
 │土地徴収法(1919年)による農地改革:土地所有面積に一定の制限を設け、農地│
 │ 150ha以上、その他の土地250ha以上を持つ者から、この限度をこえる部分│
 │ を有償で徴収。1927年までに大地主1730人から徴収して中小農民に分配し│
 │ た土地は390万haに達した。但し、チェコスロヴァキアの土地価格は比較的│
 │ 高かったため改革は富裕農民が新たな耕地入手の機会を得たとも言える。│
 │  100ha以上の大土地所有者の割合が改革前の16.0%から7.6%に減少した│
 │ ことは大きな前進。改革前に全耕地の34~37%を所有していた大土地所有│
 │ 者(全人口の0.1%)の約6割はドイツ人・マジャール人という外国人であ│
 │ った。農地改革はチェコ人・スロヴァキア人の気持ちを満たすものだった。│
    
   ②サン=ジェルマン条約(1919対墺)・トリアノン条約(1920対ハンガリー)によっ
    て新たにひかれた国境線の内側に豊富な地下資源や発達した工業地帯が含まれて
    いたこと。
 │  チェコスロヴァキア共和国は旧オーストリア帝国の約4分の1の領土・人│
 │ 口しかなかったが、旧帝国の石炭の83%、鉱物の60%、砂糖の92%、化学│
 │ 工業の75%、毛織物工業の80%、綿織物工業の75%、ガラス工業の75%、│
 │ 製紙業の60%を含む地域がこの国家に属したのである。また、スロヴァキア│
 │ ・ルテニアのような農業地帯も領有したため、全国土の43.9%は農業地帯と│
 │ して確保されていた。│
   ③マサリクの持っていた政治的カリスマ性、国際政治における「チェコスロヴァキ
    アの顔」。
    ・政治を中道諸政党中心の連立政権に委ね、自らはその調整役に徹した
     マサリクの政治姿勢。→「非政治的な政治」
    ・1920(2/29)憲法制定→(5/27)マサリク大統領再選
       (8/14)ユーゴスラヴィアと防御同盟結成・・・小協商の基礎
    ・1921(4/23)ルーマニアと友好条約締結
    ・1922(8/31)ユーゴスラヴィアと友好条約締結
    ・1924(1/25)フランスと相互援助条約締結
    ・1934(5/24)マサリク大統領再選
・1935(5/16)チェコ・ソ連相互援助条約締結
       (11/18)ベネシュ大統領選出→(12/14)マサリク大統領引退
(2)チェコ人とスロヴァキア人の確執
  ・チェコスロヴァキア新国家体制:中央集権主義。
  ・チェコ語とスロヴァキア語はともに公用語となり、両言語を話す人々は単一民族「チ
   ェコスロヴァキア民族」というのが公式の立場。その他は少数民族。
  【チェコスロヴァキア共和国の民族構成】1,337万人(1921年統計)
 │ ①チェコスロヴァキア人876万人  ②ドイツ人312万人  │
 │ ③ハンガリー人75万人  ④ウクライナ系住民46万人│
 │ ⑤その他(ユダヤ人・ポーランド人等)28万人│
■チェコスロヴァキア主義:チェコスロヴァキア人は単一民族
①憲法制定と同時に「少数民族の言語に関する法律」採択
裁判所の管轄区を単位に, 20%以上の人口をもつ少数民族は, その言語を行
       政や司法, 教育で使用する権利を許可。
    ②チェコスロヴァキア共和国は, 世界で初めてユダヤ人を1つの民族として認め
     た国家。
    ③チェコ人とスロヴァキア人が一つにならなければチェコスロヴァキア全人口の
     過半数を確保できないという事情。
    (1930年現在、両民族あわせて全人口の66.2%、チェコ人だけでは46%)
④工業地帯の大部分はチェコに偏在し, スロヴァキアは貧しい農業地帯
(1921年農林水産業人口:チェコ31.5%, スロヴァキア60.6%)
    ⑤チェコ人は、スロヴァキア人の政治意識は低く行政能力も乏しいと見て、スロ
     ヴァキアの行政を彼らに任せなかった。彼等はスロヴァキア特有の聖職者主義
     にも嫌悪感を抱き、カトリック教徒の多いスロヴァキア地方的感情を理解しよ
     うとしなかった。
    ⑥カトリックの司祭アンドレイ・フリンカ神父(1864~1932)率いるスロヴァキ
     ア人民党の支持者が増加。その得票率は1920年4月の21%から25年11月の
     32%(但し1929年10月には約28%に下落)と増大し, 共産党の支持者も増え
     ていった。
    ⑦スロヴァキアの自治権は、1927年7月の地方自治改革で少し拡大されたが、相
     変わらず地方議会議員の3分の1と地方行政機関の長は中央政府から派遣され
     ていた。
  ・1922年第一次シュヴェフラ内閣発足
     経済不況→ラシーン蔵相の緊縮財政(1923年1月精神異常の元共産党員に暗殺)
・1923年(5月)民間航空会社, プラハ・ワルシャワ・イスタンブール・パリへの定期
   便就航
(6月)スロヴァキア人民党, 「チェコ=スロヴァキア」への国名変更要求
  ・1924年フランス(1/25)・イタリア(5/19)と同盟条約
     本格的経済回復→1926~28年には製糖業・繊維工業・金属工業・皮革工業・
     ガラス工業などで空前の好景気を実現。
 │*綿糸の輸出総額はイギリス、日本につぐ世界第3位。│
 │ 金本位制を採用した1929年の砂糖輸出総額は60万トン。│
 │*鉱業・冶金鉱業におけるウィトコウィツェ会社(ロートシルド系)、金属加工│
 │ 業では軍需工業のシュコダ会社(シュネーデル=クルーゾー系)などは既に独│
 │ 占資本主義段階に達した。│
 │*1930年度の一般軍需品の輸出総額は英・仏・米についで世界第4位、純武器│
 │ ではイギリスについで第二位。│
  ・1925年(11月)議会選挙:連立与党, 過半数に達せず→商工中産党を加えて内閣維持
    *与党内対立→1926年(2月)シュヴェフラ首相, 病気を理由に辞職
*スロヴァキア人民党躍進:スロヴァキアに限定すれば35.4%
  ・1926年(3/18)第2次チェルニー内閣成立(官僚内閣)
      (10/12)第3次シュヴェフラ内閣成立:ドイツ人政党が入閣
*農業利益とカトリック利益の提携内閣
*チェコスロヴァキア人政党:農業党・人民党・商工中産党・国民民主党
ドイツ人政党:農業者連盟・キリスト教社会人民党
スロヴァキア人:スロヴァキア人民党(1927年1月入閣)→地方行政改革

・1927年(5/27)マサリク大統領再選
  ・1929年(2月)シュヴェフラ首相, 病気のため辞職→第1次ウドルジャル首相(農業党)
(10月)議会選挙:社会民主主義政党が躍進
・社会民主党・国民社会党が与党復帰。
ドイツ人政党ではキリスト教社会人民党に代わって社会民主党が入閣。
スロヴァキア人民党副党首トゥカ, 反逆罪と外国への機密漏洩罪で有罪判決
      →ウドルジャル内閣から離脱
   (10/24)ニューヨーク, ウォール街の株価大暴落→世界恐慌
   *世界恐慌の嵐, チェコスロヴァキア経済を直撃→両民族の合意, 根底から崩壊
 │(1932年)輸出72%減少│
 │    (3~4月)チェコ北西部の炭坑でストライキ発生(25,000人)     │
 │(1933年) 工業・農業生産は1929年の約60%に低下。輸出は28%に低下。│
 │     失業者数約130万人│
(12月)第2次ウドルジャル内閣
  ・1930年ハンガリー・チェコスロヴァキア貿易協定廃棄→スロヴァキア経済破綻。
   *アメリカ合衆国やカナダへの移民。ドイツ, ベルギー, フランスへの出稼ぎ。
   *スロヴァキア民族主義の高揚:スロヴァキア人民党内部で完全独立を求める声。
                  1935年以降はドイツ人との共同戦線。
・1932年(10/29)第1次マリペトル内閣成立(農業党):積極的経済政策
  ・1933年【独】(1/30)ナチス政権成立:ヒトラー首相→ドイツ第三帝国(1933~45)
   (10/2)コンラート=ヘンラインが「ズデーテン=ドイツ郷土戦線」結成。
   *ズデーテン=ラントのナチスは政府に禁止されることを恐れて自発的解散。
   *ズデーテン=ラントのドイツ人(300万人以上)オーストリア共和国への編入を
    希望。
・1934年(2/14)第2次マリペトル内閣成立:(2/17)平価切り下げ
 (5/24)マサリク大統領, 再任
 (6/9)ソ連と外交関係樹立→1935年(5/16)ソ連と相互援助条約締結
  ・1935年(5/19)総選挙:「ズデーテン=ドイツ郷土戦線」(「ズデーテン=ドイツ党」
              と改称, ナチスから資金援助)得票率62%
    *議席数:①農業党15%  ②ズデーテン=ドイツ党14.7% 
         ③社会民主党12.7%  ④共産党10%
(8月)【コミンテルン】人民戦線戦術採用・・・共産党は社会民主党・農業党など
               と反ファシズム統一戦線を組もうとしたが失敗】
   (11/5)ホジャ内閣成立(農業党, スロヴァキア人):スロヴァキア人民党は入閣せず
(12/14)マサリク大統領辞任→(12/18)ベネシュ大統領就任
                第2次ホジャ内閣:ドイツ人諸党が入閣
                       (ヘンライン派を除く)

(3)マサリクの死
 1935年(12/14)マサリク大統領引退。→第二代大統領ベネシュ。
  ・引退後のマサリクは、プラハの西方約40キロにあって大統領在任中は大統領別邸
   として使っていたラーニの館で暮らす。
 1937年(9/14)マサリク死去(87歳)
  ・臨終の席には次男で当時は駐英大使であったヤン・マサリクJan Masaryk(後の外
   相。1886~1948年)などの親族以外に、ベネシュ大統領、ホッジャ首相等が立ち
   会う。
  *妻シャーロットは、第一次世界大戦中に夫が国外に去ったことや長男ヘルベルトが
   戦病死したことなどの心労が重なって鬱病にかかり、1923年死去。
  ・(9/17)遺体はプラハ城に移され、城の前には「共和国の父」を慕う弔問客が長蛇の
   列。
  ・(9/21)柩は6頭立ての砲車に乗せられてプラハ市内をめぐった後、再びラーニの館
   にもどり、そこに埋葬。

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July 13, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 13

13.チェコスロヴァキア共和国の独立
(1)チェコスロヴァキア軍団事件
1918年(4/25)ウラジヴォストークにチェコスロヴァキア軍団の第一陣到着。
   *ソヴィエト当局は軍団の保持する武器・弾薬の制限強化→軍団と地方ソヴィエト
    の衝突事件発生。→シベリア鉄道を利用した軍団輸送計画停滞。
   *(5月)「軍団を二分して、オムスク以西の部隊は北ロシアに進路変更するように」
    という連合国決定が伝達。→深刻な不安と激しい不満→強硬論台頭。
   *第七連隊長ラドラ・ガイダ大尉(本名ルドルフ・ガイドル):反革命軍に協力。
  ・(5/14)ウラル地方の中心都市チェリャビンスクで「事件」発生。
 │ 当時、チェコスロヴァキア軍団はシベリア鉄道を利用して西から東へ移動していた。ブレス│
 │ト=リトフスク条約締結後、ロシア各地の捕虜収容所に抑留されていた中欧同盟軍捕虜も東か│
 │ら西へと移動しており、チェリャビンスクで列車がすれ違った。その時、ハンガリー人捕虜が│
 │軍団兵士めがけて鉄の塊を投げつけ、チェコ人兵士が負傷。怒った軍団員が相手の輸送列車を│
 │襲撃して捕虜1名を殺害したため、3日後には、現地のソヴィエト当局が軍団員10名を逮捕す│
 │る事態となった。この事件処理に納得のいかなかったチェコスロヴァキア軍団は駅舎を武力占│
 │拠し、逮捕された仲間を奪回。│
チェリャビンスクはロシア連邦の都市で、ウラル
  山脈東麓にあり、ミアス川に沿う。チェリャビン
  スク州の中心都市で、重工業が盛んである。チェ
  リャビンスク駅はシベリア鉄道の正式な起点。人
  口は1,093,000人(2006年)。
  ・モスクワのソヴィエト政権は、民族会議ロシア支部の幹部二人の身柄を拘束し,チ
   ェコスロヴァキア軍団に対する武器引き渡し命令書を書かせた。
  ・偶然, チェリャビンスクで軍団代表者大会開催。→モスクワからの命令や, 軍団の
   武装解除・解体を指示する軍事人民委員トロツキーの命令をも拒絶し、あくまで
   東進継続を決定。→ガイダ大尉ら強硬派が指導権確立。
  ・チェコスロヴァキア軍団は5月末から6月初めにかけてヴォルガ、ウラル、シベリ
   ア各地の鉄道沿線都市を占拠し、反革命派の拠点を樹立。
  ・連合国側には、ロシアの「過激派」や「独墺俘虜」によって包囲され危機に瀕して
   いる, という誤報が流れた。
(2)英仏両国とチェコスロヴァキア軍団の関係
■ロシア革命の勃発とブレスト=リトフスク講和交渉の開始は、マサリク=グループ
   にとって大変な追い風。
   理由:講和条約の締結でロシアが戦線から離脱し、独墺軍が西部戦線に全力を投入。
 1917年【英】分離講和交渉に期待。
    【仏】チェコスロヴァキア軍団の組織化と民族会議の存在を認知する布告発表。
 1918年【英仏】中欧諸民族への支援を開始。
    【英】チェコスロヴァキア軍団をロシアで利用したい。
    【仏】軍団の西部戦線投入を最優先したい。
 ・(5月初め)【連合国最高軍事会議】軍団をオムスクで二分し、東側の部隊は東進を
   続け、西側の部隊は北進して北ロシアのアルハンゲリスク方面に向かわせる。  
  ・(6/3)英外相バルフォア, 民族会議を「連合国におけるチェコスロヴァキア人運動の
   最高機関」, 軍団を「連合国側で作戦に従事する組織された部隊」と認知。
   *ベネシュの外交的成果
  ・(6/10)『タイムズ』シベリア鉄道沿線占拠事件を報道。
  ・(6/30)仏大統領ポアンカレPoincareの臨席の下でチェコスロヴァキア第21連隊軍旗
      授与式。
    *【仏】東欧地域に対独障壁及びボリシェヴィズム「防疫線」を構築しようとい
        う新しい対外戦略を模索。
 ・(7/8)【米】日本政府にシベリア出兵申し入れ。
  ・(8/2)【日】寺内内閣, シベリア出兵宣言。
  ・(8/9)【英】チェコ=スロヴァキア軍及び民族会議を認知。
  ・(9/3)【米】民族会議を「事実上の交戦国政府」と認知。
  ・(9/9)【日】チェコ=スロヴァキア軍及び民族会議を認知。
(3)合衆国におけるマサリク────スロヴァキア民族主義への対応────
1918年(4/6)マサリク, 下関到着→(4/8)東京到着。米国大使館と連絡。
  ・(4/10)モリス米国大使の要請でロシア情勢に関する覚書提出。
  ・(4/13)覚書の要旨を米国務省に打電。
 │ 連合国はボリシェヴィキ政府に対して「事実上の承認」を与え、影響力を確保すべきだ。帝│
 │政派は支持すべきではなく、それ以外の反ボリシェヴィキ勢力も分裂していて成功の見込みが│
 │ない。ボリシェヴィキの権力確保は反対勢力の予想を超えて長期化し、いずれはボリシェヴィ│
 │キを含む左派連合政権が国民の支持を獲得すると思われる。→合衆国政府, 困惑│
 ・(4/20)マサリク, 横浜港から英国汽船エンプレス・オヴ・エイシア号でバンクーバ
    ーに向けて出航。
   *「獨逸の東方侵略」と題する英語の論文を『東京朝日新聞』に寄稿(4月19日
    ・20日・21日)。
・(5/5)マサリク, シカゴ入り。チェコ人・スロヴァキア人の移民組織が用意した盛大
    な街頭パレードと式典。10万人もの群衆。→ワシントン、ボストン、ボルチモア、
    クリーヴランド、ピッツバーグなど各都市を遊説
   *合衆国政府筋の対応は、かなり冷たい。ランシング国務長官との面会が実現した
    のはようやく6月3日。
  ・(6/19)マサリク, ウィルソン大統領に面会。
    ウィルソンはチェコスロヴァキア軍団を中核とする反ボリシェヴィキ勢力の結集
    を提案。マサリクは干渉戦争成功の可能性を否定。
  *パリのベネシュが、軍団を「一時的」にロシアで使うことで英仏両国と合意。
  ■ピッツバーグに本拠をおくスロヴァキア人連盟の人々と話し合う。
  ・マサリクは, スロヴァキアを含む「チュコスロヴァキア国家」の独立を主張。しか
   し, 現実に運動を担ってきたのはほとんどチェコ人。
  ・チェコスロヴァキア軍団の民族構成は、チェコ人が80%を占め、スロヴァキア人
   はせいぜい7%程度で、残りはロシア人・ポーランド人・南スラヴ人など。
  ・スロヴァキア人の自治を認めた「ピッツバーグ協定」に署名。
   →チェコスロヴァキアは中央集権国家として独立し、スロヴァキアの自治を無視。
(4)チェコスロヴァキア民族主義の高揚
1914年第一次世界大戦勃発→チェコ人の政治指導者主流派は静観。
 1916年皇帝フランツ=ヨーゼフ1世が墺領ポーランドでの自治権拡大を約束→オース
   トリア=ハンガリー帝国内では憲政論議が高まる。
  ・老帝崩御→新帝カール1世KarlⅠ(位1916~18年)即位。
  ・チェコ人の帝国議会議員, 「チェコ連盟」(超党派組織)や「チェコ民族委員会」
   を結成。
 1917墺=ハンガリー帝国共通外相チェルニーン, 連合国がウィルソン米大統領に示した
   戦争目的「チェコ=スロヴァキア人が外国の支配から解放されること」を拒否する
   ようチェコ連盟に圧力。
  ・チェコ連盟, 忠誠宣言。帝国議会召集や国政改革の実施, クラマーシュ釈放などを要
   求。→政府, 帝国議会召集。
 ・(5/30)帝国議会開会。チェコ連盟, ハプスブルク帝国の存続は認めたが、チェコス
   ロヴァキアの自治も要求する画期的宣言を発表。
1918年(7/13)チェコ民族委員会改組→チェコスロヴァキア民族委員会
                 (委員長クラマーシュ)
(5)チェコスロヴァキア共和国の独立
 1918年(9/26)ブルガリアが休戦協定調印。
  ・(10/3)【独】ウィルソン米大統領に和平を提案。
  ・(10/4)【墺】ウィルソン米大統領に和平を提案。
  ・(10/14)ベネシュ, チェコスロヴァキア臨時政府樹立を連合国に通告。
  ・(10/16)【墺=ハンガリー帝国】ポーランドの民族自決権を承認。「連邦制宣言」。
・(10/17)【墺】ハンガリーの分離独立を承認。
 ・(10/18)アメリカ合衆国にいたマサリクが, 連邦制宣言に対抗して「独立宣言」発表。
  ・(10/27)【墺】ドイツ帝国との同盟を破棄し, アメリカ合衆国に休戦要請。
  ・(10/28)午後七時、公会堂に集まった民族委員会がチェコスロヴァキア国家の独立
      を宣言
  ・(10/30)オスマン帝国が降伏。ハンガリー10月革命。
  ・(11/3)墺=ハンガリー帝国, 休戦条約調印。
      【独】キール軍港で水兵反乱。
  ・(11/9)【独】ベルリン暴動:ドイツ革命
   *マクス・フォン・バーデン首相, 独帝ヴィルヘルム2世の退位、皇太子の帝位継
    承権放棄を発表。
  ・(11/10)【独】皇帝退位、オランダ亡命→ドイツ帝国滅亡。
         ドイツ共和国(1919~33)成立:16州からなる連邦制国家
     *エーベルト首相(社会民主党):社会民主党SPD・独立社会民主党USPDの連
      立政権。→(12.29)独立社会民主党, 政府から離脱
           (12.31~1.1)ドイツ共産党KPD結成
  ・(11/11)【独】コンピエーニュの森で休戦協定調印→第一次世界大戦終結。
         ハプスブルク帝国崩壊。チェコスロヴァキア国家の独立確定。
  ・(11/13)ハンガリー王国降伏。
  ・(11/14)民族委員会, 「革命国民議会」に改組。
      マサリク大統領、クラマーシュ首相、ラシーン蔵相、シュベフラ内相、ベネ
      シュ外相、シュチュファーニク陸相らを選出。
  ・(11/17)ハンガリー共和国成立。
   *ハンガリーは相変わらずスロヴァキア地方を支配し続けたため, プラハ政府は軍
    隊を編成してスロヴァキア奪回に乗り出す。
  ・(11/20)ニューヨークにいたマサリク, 合衆国出発→(12/20)帰国。
 1919年(3月)【ハンガリー】社会主義革命→ハンガリー=ソヴィエト共和国成立
                    (ベラ=クン首相)。
  ・(4月)ハンガリー赤軍とチェコスロヴァキア軍との間に武力衝突。
  ・(6月)ハンガリー赤軍, スロヴァキア東部占領
     「スロヴァキア・ラダ(ソヴィエト)共和国」成立宣言。
         
(6)シベリア出兵(対ソ干渉戦争)の悲劇
①シベリア出兵の開始
1918年(3/3)ソヴィエト政権が中欧四国同盟とブレスト=リトフスク条約締結。
  ・西欧諸国は自力で対ソ干渉戦争を展開する余裕がなく、日米両国に期待。
  ・(5/14)チェコスロヴァキア軍団事件
  ・(7/2)最高戦争会議:英仏伊3国がシベリア出兵に関する要請。
  ・【米】(7/6)ウィルソン大統領が派兵決断。
     (7/8)チェコ兵捕虜の救出という人道的理由を名目に、日米両国が同じ兵力(二
個連隊7,000人)をウラジヴォストークに派遣するよう申し入れ。
       【日】慎重論者の山県有朋・伊東己代治らも動揺。
          外交調査会:原敬や牧野伸顕らごく少数を除いて、大多数はシベリ
                ア出兵賛成。
  ・【日】(7/17)後藤外相は在米石井大使に宛てた対米回答の訓電の中で、日米両国の同
      数出兵に反対。
   【米】日本に譲歩し、兵力を1万ないし1万5,000人以内とすることを希望。
  ・【日】(8/2)寺内内閣, 「シベリア出兵宣言」を官報に発表。
  ・(8/3)【英】ウラジヴォストーク上陸。
  ・(8/12)久留米第十二師団, ウラジヴォストーク上陸開始。
      *その後、アメリカ、カナダ、フランス、イタリア, 中国各部隊が上陸。
  ・【日】独断で増兵し、満州から第七・第三師団を送り込む。
     (9/4)ハバロフスク(哈府)占領。→プラゴウェシチェンスク、チタ、イルクー
      ツクと占領を続け、10月中に東部シベリア一帯の征服に成功。
    *1918年中にシベリアに派遣された兵士の数
      英軍(カナダを含め)5,800人、仏軍1,200人、米軍9,000人、伊軍1,400人、
      中国軍2,000人、日本軍7万2,400人。
  ・(11/16)【米】日本政府に抗議。
  ・(11/20)【日】兵士数を5万8,600人と回答。12月25日には非戦闘員を含めて2万
         6,000人に減ずると通報。
    *当時、アメリカ鉄道技師団はケレンスキー内閣Kerenskiiとシベリア鉄道・東
     清鉄道管理権に関する契約を締結していたが、日本政府は日本軍が出動する地
     域にあってはなるべく日本人技師を使用するよう認めさせ、東清鉄道の大部分
     を含む占領地域の鉄道掌握に成功。
②ソヴィエト政権内部の闘争
1917年(11/25)憲法制定会議議員選挙(比例代表制に基づく普通選挙)
   *第一党はボリシェヴィキではなく、農民層の支持を集めた社会革命党。
 1918年(1/18)憲法制定会議開会。
   *ボリシェヴィキ, 会議の冒頭で「勤労被搾取人民の権利の宣言」を読み上げたが、
    審議対象から外される。→ボリシェヴィキと社会革命党左派はともに退場→残さ
    れた議員たちは「土地基本法」、連合国への民主的講和の呼びかけ、ロシアは「民
    主連邦共和国」であるという3つの宣言を採択。
   *(1/19)憲法制定会議解散。→労兵ソヴィエト大会と農民ソヴィエト大会を合同し
    た大会で、「勤労被搾取人民の権利の宣言」採択。
   *レーニンLenin,「社会主義ソヴィエト共和国」宣言。→プロレタリア独裁体制。
 ・(3/3)ブレスト=リトフスク条約締結
   *バルト海沿岸、ポーランド、ベロルシアの一部、ザカフカースの一部を割譲。フ
    ィンランドやウクライナの独立を承認。→総人口の約3分の1、最大の穀倉地帯、
    石炭・鉄鉱石・原油などの鉱工業地帯を喪失。
   *ソヴィエト政権とボリシェヴィキ(3月上旬、「ロシア共産党」と改称)に分裂。
    社会革命党左派が農民パルチザン闘争を主張して人民委員を辞任。革命戦争論を
    主張していたブハーリンらも政権や党の役職から離れて党内反対派となった。
   *モスクワ遷都。
 ・(5/25)武装解除を求めるソヴィエト政権とチェコスロヴァキア軍団が武力衝突。
   *軍団はウラル地方から極東までシベリア鉄道沿線の各駅で武装蜂起。
   *5月末にはチェリャビンスク、ペンザ、トムスクを、6月にはオムスク、サマラ、
    クラスノヤルスク、ウラジヴォストークを占領。7月22日にはヴォルガ川の要
    衝シムビルスク、8月7日にはカザンの占領に成功。            
  ・(7/6)社会革命党左派, ドイツ大使ミルバッハを暗殺。
   *戦時共産主義(1918~20年)に反対。
   *食糧危機の根源をブレスト=リトフスク講和体制に見て, 政府を対独戦争に突入
    させようとした。
   *レーニンは議場の社会革命党員を逮捕→ロシア共産党一党独裁。      
   ■反ソヴィエト勢力の多くは、ロシア南部やヴォルガ流域一帯に集結。
   (6/8)旧憲法制定会議の社会革命党議員を中心とする組織がサマラで権力を握り、憲
     法制定会議委員会(略称「コムーチ」)を樹立。
   *コムーチ政府の支配はサマラ、シムビルスク、カザン各県や、サラトフ県の一部
    まで及んだ。
   *「ドン大軍管区」軍事アタマンに選出されていたクラスノフは、ウクライナを占
    領していたドイツ軍と提携しながらロシア南部で勢力を回復。
    (注)アタマンは、コサック共同体で選出される指導者の称号。この称号は14世紀頃に出現。
   *(7月)古都ヤロスラヴリで大規模な反ソヴィエト暴動発生。
   *(7/10)東部方面軍総司令官ムラヴィヨフ(社会革命党左派)が、チェコスロヴァ
    キア軍団との戦闘をやめて直ちにドイツ軍との戦いを開始するよう全軍に打電。
  ・(7/29)ロシア共産党中央委員会決議「革命の運命はウラルとヴォルガという辺境で
    決定される」。
  ・(8/8)軍事人民委員トロツキーTrotskii:モスクワを発ち、ヴォルガ川沿岸で展開し
    ているチェコスロヴァキア軍団との戦闘で陣頭指揮。
   (8/10)ドイツ軍と対峙している全部隊を東部戦線に移送
    →増援された赤軍がチェコスロヴァキア軍団に勝利。
    9月10日にカザンを、12日にはシムビルスクを奪還し、ヴォルガ流域一帯を支
    配下に置くことに成功。   *チェコスロヴァキア軍団の弱体化。     
  
   ■旧ロシア帝国領に30以上の反ソヴィエト政権が存在。
  ・(9/7~18)ウファーで開かれた「国家会議」で、オムスクに本拠を置く臨時シベリ
    ア政府とサマラ政府の合体を決定。→「1919年1月に招集予定の憲法制定会議
    まで」の全ロシア臨時政府(9/23ウファー執政政府成立)。
   *ヴォルガ流域における赤軍の勝利で、サマラに本拠を置いていたコムーチ政府は
    シベリアに移動。
  ・(10/9)ウファー執政政府, オムスクに移転(オムスク政府)。
  ・(11/18)オムスク政府内部でクーデタ発生→イギリスの支援を受けた元黒海艦隊司
    令官コルチャークが社会主義者排除に成功。
           
③対ソ干渉戦争と国内戦争
 1917年(12月)【英仏】作戦領域・勢力圏の分割協定成立
        イギリスがシベリアとザカフカースに、フランスがウクライナに出兵。
   *イギリスには中東地域の権益、フランスには露仏同盟以降の投資の確保という目
    的。
   *チェコスロヴァキア軍団救出の国際世論が、対ソ干渉戦争の名目的理由を用意。
 1918年(8月)日米両国中心の連合軍がウラジヴォストーク上陸→東シベリア占領。
    ロシア北方では、英軍が作戦開始。極北の町ムルマンスクからコラ半島を迂回し
    て白海に現れ、8月初旬にはオネガ、アルハンゲリスクを占領。
  ・(12月)仏軍, ウクライナ上陸。

 1919年ウラル戦線:コルチャーク将軍率いるオムスク政府が、チェコスロヴァキア軍
   団の協力を得て、赤軍の東部方面軍(第五軍)と激しい戦闘
  ・(4月)オムスク政府勝利→(4月末)赤軍の反攻で次第に後退。
   *コルチャーク将軍(大ロシア主義。反革命的な軍事独裁政治), 民心掌握に失敗。
  ・(5月)【日】列国にオムスク政府承認を提案→失敗。
  ・(6月)【英】チェコスロヴァキア軍団をアルハンゲリスク経由で脱出させる提案。
  ・(7月)オムスク政府, 軍事的劣勢。民心離反。→(11月)将軍, 東方移動。 
   *コルチャーク将軍,イルクーツク軍事革命委員会に引き渡され銃殺(1920年2/7)。
  ・(夏)デキーニン将軍率いる南ロシア軍(白衛軍)の台頭。
   *既にロシア南部(北カフカースやドン、ウクライナ全域)を支配。
  ・(7/3)デキーニン, 所謂「モスクワ指令」を発して北進開始。
   *退却を重ねる赤軍内部では、ソヴィエト政権に協力してきた旧軍将校たちの間に
    動揺。
   *ソヴィエト政権内部でも、退却するコルチャーコフ軍を追撃するのか、それとも
    東部方面軍の一部を南部戦線へ移動させるのかで意見が分かれ、対立が深刻化。
    →共和国全国総司令官ヴァツェチス(ラトビア人, 1873~38, 赤軍大粛清の犠牲
     者)逮捕。後継は旧陸軍大佐カーメネフ(1883~36年, ユダヤ系ロシア人。ソ
     ビエト政権の成立を宣言した第2回全露ソビエト大会議長、全露中央執行委員
     会議長、共産党政治局員、組織局員を歴任。スターリンによって失脚し、粛清
     された)。
   *トロツキーの影響力は急速に低下。
  ・(10/3)南ロシア軍, ヴォロネジ占領。→(10/13)オリョール占領。首都モスクワに接
    近。
  ・(5月)リトアニアのユジェーニチ将軍がバルト海方面からペトログラード攻撃。
  ・(9/28)ユジェーニチ将軍, 再度ペトログラード攻撃を開始。
  ・(10/5)政治局, モスクワ・トゥーラ地区を作戦上の最優先地区と定めてデキーニン
    軍との対決を重視。→ペトログラード危機→トロツキーが駆けつけて戦局逆転。
  ・デキーニン軍も退却。→(10/20)赤軍, オリョール奪回→(11/14)オムスク奪回→
   (年末)ロシア南部の制圧に成功。     
1920年(3月)デキーニン亡命。
  ・反革命軍はウランゲリ率いる部隊がクリミア半島に残っているだけ。
  ・(6月)ポーランド軍がウクライナに侵攻(1920~21年、ポーランド・ソヴィエト
    戦争)→ウランゲリ軍, ウクライナの一部を占領。
   *ウランゲリ, ポーランド軍の後退とともに赤軍に追いつめられ、11月には亡命。
    →赤軍と反革命軍の国内戦は終結。
 ■対ソ干渉戦争の終結
  1919年(4/19~20)ウクライナに派遣されていたフランス艦隊の一部が黒海反乱(ア
    ンドレ・マルティを中心とする対ソ干渉戦争反対の暴動)
    →フランスのクレマンソー内閣はオデッサからの撤兵を決定。
   *イギリス軍もバクーから撤退し、秋には北ロシアからも引きあげ。
 ①英仏両国民の間で、対独戦争が終結した後,兵士の復員を求める声が高まり,政
    治指導者がそれを無視できなかった。
    1.戦車・航空機・毒ガス・潜水艦などの各種新兵器の投入→膨大な人員・戦費
     を必要とする総力戦体制→主要交戦国は疲弊しきった。
    2.前線と兵站部の区別の消滅(戦争の性格が変化):前線で戦う兵士のみが命
     の危険に晒されるのではなく、銃後の女性・老人・子どもも殺戮の対象と変化
    (後方支援を行う者も攻撃対象)
   【一日当たりの戦死者数】
 │ ナポレオン戦争(1790~1815年)         233人│
 │ クリミア戦争(1853~56年)           1,075人│
 │ 南北戦争(1861~65年)     518人│
 │ 普墺戦争(1866年)        1,125人│
 │ 普仏戦争(1870~71年)・日露戦争(1904~05年) 292人│
 │ バルカン戦争(1912~13年)   1,914人│
 │ 第一次世界大戦          5,509人│
   ②英仏両国の対米債務の増加。
   【米】第一次世界大戦前、約35億ドルの債務国→(1915年)債権国→(大戦後)約125
      億ドルの債権国。
   【西欧諸国の対米債務】
    (1918年)イギリス約37億ドル、フランス約19.7億ドル、イタリア約10.3億ドル
    (1924年)イギリス約45.8億ドル、フランス約41.4億ドル、イタリア約21億ドル
  【主要交戦国の死傷者数・戦費】
 │国 家 名│死者(兵員・一般人)│負傷者(兵員)│戦  費│
 │ ドイツ帝国│   177万人│ 422万人│ 194億マルク│
 │ 墺=ハンガリー帝国│ 120万人│ 362万人│  99億マルク│
 │ イギリス王国│ 91万人│ 209万人│ 268億マルク│
 │ フランス共和国│ 136万人│ 427万人│ 134億マルク│
 │ ロシア帝国│ 170万人│ 495万人│ 106億マルク│
 │ アメリカ合衆国│ 12万人│ 36万人│ 129億マルク│
 │ イタリア王国│ 65万人│ 95万人│ 63億マルク│

  ③英仏両国の知識人・労働者:「社会主義」政権への干渉に反対
  【英】ロイド=ジョージ内閣:穏健路線をとる組合指導部の協力を取り付けるために
     も干渉戦争を早期に終わらせる必要。
  【仏】戦禍甚大。帝政ロシアに対する莫大な債権を喪失→ソヴィエト政権への怒り。
     しかし、アンドレ・マルティ中心の反乱を支持する勢力が存在し、深刻な経済
     危機を乗り切るための政策を優先→撤兵。
    *第一次世界大戦でハンガリー人居住地域を併合したチェコスロヴァキア・ルー
     マニア・ユーゴスラヴィアが「小協商」を形成して、ハンガリーの領土回復運
     動に備えていたことも影響。→対ソ干渉戦争の継続よりも、対独包囲網の形成
     を優先し、「小協商」との結びつきを強化。

④シベリア出兵とニコライエフスク事件
 1918年日本政府(寺内正毅内閣), シベリア出兵宣言
  ・久留米第十二師団を沿海、薩哈嗹(サガレン)、黒龍(アムール)の3州に派遣。
   第三師団を後貝加爾(ザバイカル)州方面に派遣。
   ウラジヴォストークに浦塩派遣軍司令部(司令官大谷喜久蔵大将)を設置。
  ・(10月)東シベリア一帯の征服に成功。
 1919年(3/31)水戸第十四師団にシベリア出兵のための臨時編成下令。
  ・(4/1)聯隊長(山下五三郎大佐)以下1,919名、馬44頭で、聯隊本部、三個大隊(大
   隊は四個中隊)、機関銃隊(機関銃12銃、狙撃砲2門)からなる歩兵第二聯隊編成。
 │1874年(明治7年)12月19日東京鎮台歩兵第二連隊として軍旗拝受、連隊本部│
 │ は宇都宮の宇都宮城内に設置。│
 │1877年(明治10年)西南戦争に従軍。│
 │1884年(明治17年)6月 連隊本部を宇都宮から佐倉に変更、宇都宮歩兵第二連│
 │ 隊第二大隊も佐倉へ移駐。│
 │1888年(明治21年)5月12日東京鎮台が改組となり、新設された東京第一師団│
 │ 佐倉歩兵第2旅団隷下となる。│
 │1894年(明治27年)日清戦争に従軍。│
 │1904年(明治37年)日露戦争に従軍。│
 │1907年(明治40年)9月 東京第一師団佐倉歩兵第二旅団隷下から、宇都宮第十│
 │ 四師団水戸歩兵第二七旅団隷下に変更となる。│
 │1908年(明治41年)4月 佐倉から水戸へ転営。│
 │1919年(大正8年)4月 シベリア出兵のためハバロフスクに上陸。│
 │1920年(大正9年)尼港事件で第三大隊が全滅。│
 │1931年(昭和6年)3月7日 上海呉淞に上陸、第一次上海事変。その後満州駐留、│
 │ 熱河作戦などに従軍。│
 │1934年(昭和9年)5月 帰還│
 │1937年(昭和12年)9月4日塘沽に上陸、永定河敵前渡河、保定会戦に参加。│
 │1939年(昭和14年)9月26日 復員下令、水戸へ帰還。│
 │1940年(昭和15年)8月 満州駐屯。│
 │1944年(昭和19年)4月 パラオ諸島ペリリュー島の守備につく。│
 │         11月24日- 決別電報を発信し玉砕。│
 │ 歴代の連隊長(特記ない限り陸軍大佐) 代 氏名 在任期間 備考 │
 │1 阿武素行 1874.3.24 - 1880.4.30 心得(少佐)、1878.11.大佐 │
 │2 児玉源太郎 1880.5.7 - 中佐、1883.2.大佐 │
 │3 内藤之厚 1885.5.26 - 中佐、1889.11.大佐 │
 │4 浅田信興 1892.9.21 - 中佐、1894.11.大佐 │
 │5 山田保永 1893.9.13 -    6 伊瀬知好成 1894.9.1 - │
 │7 松永正敏 1895.1.14 - 中佐、1895.1.18大佐 │
 │8 田部正壮 1896.10.21 - 中佐、1897.10.大佐 │
 │9 渡辺騏十郎 1903.7.20 -   10 恒吉忠道 1905.5.14 - │
 │11 永田克之 1907.11.18 -   12 高山公通 1912.9.28 - │
 │13 黒田善治 1914.8.8 -    14 山下五三郎 1916.8.18 - │
 │15 深水武平次 1919.7.25 -   16 多門二郎 1921.6.3 - │
 │17 安藤紀三郎 1922.8.15 -   18 中村浜作 1923.8.6 - │
 │19 鈴木美通 1925.5.1 -    20 長岡正雄 1926.3.2 - │
 │21 田中静壱 1930.8.1 -    22 中山健 1932.5.28 - │
 │23 横山勇 1934.8.1 -     24 石黒貞蔵 1936.3.28 - │
 │25 横山静雄 1938.3.1 -    26 鬼武五一 1939.3.9 - │
 │27 西本英夫 1942.4.1 -    28 中川州男 1943.6.10 - 1944.11.24 自決 │
  ・(4/19)青森港からウラジヴォストークに渡り, ハバロフスク(哈府)及びその以西
   の警備、ハバロフスク・クンドール間約340キロの黒龍鉄道(現在のシベリア鉄道)
   の警備。
  ・ウスリー鉄道(烏蘇里鉄道)を利用してハバロフスクに向かった師団のうち、聯隊
   主力は第十二師団からハバロフスク付近の警備を継承。
   第二大隊はイン守備隊・ビラ守備隊・オブルチエ守備隊に分かれ、第三大隊はサガ
   レン州ニコライエフスク(尼港)守備隊となった。 
  ・(5/24)第三大隊(隊長石川正雅少佐)は第十一・第十二中隊及び配属の機関銃二を
   指揮してハバロフスクを離れ、黒龍江(アムール川)を下航してニコライエフスク
   に到着した。→(6/1)第十一中隊をニコライエフスク東方8キロのチウヌイツラフ要
   塞の守備に当たらせた。
  *ニコライエフスク:アムール川の河口から約60キロ上流に開けた港町。サガレン
   州の州庁が置かれていた中心都市。当時の人口は約15,000人(夏季は30,000人)。
   10月から翌年5月までは海面やアムール川が全面氷結する極寒の地。     
  ・(6月)山下支隊(支隊長は歩兵第二聯隊長山下大佐)を編成。パルチザン掃討作戦。
  ・(7月)師団行動地域の変更。
   深水武平次大佐が山下大佐に代わって聯隊長として着任。
  ・(9月)再度の行動地域変更。
   聯隊は深水支隊(支隊長深水大佐、騎兵1個小隊、装甲列車3配属)としてハバロ
   フスク西方約50キロのウォロウマエーフカ・ウレトゥイ間約400キロの黒龍鉄道
   及び沿線の警備。20数回に及ぶ掃討作戦。
  ・(10月)シベリアの酷寒と積雪が日本軍を悩ませる。
  ・(11/17)ニコライエフスク・ハバロフスク間の通信線が切断。
  *1919年ニコライエフスクで越冬した日本人:第三大隊305名、その他陸軍27名、
   海軍電信隊員など43名、軍関係者計375名。石田虎松領事及び居留民約350名(朝
   鮮人は除く)。          
 1920年(1/5)【米】シベリアからの撤兵を決定→(1/9)日本政府に出兵中止を通告。
  ・ニコライエフスク守備隊は、パルチザン軍接近の情報を得て、第十二中隊河本中尉
   以下半個小隊をカキンスカヤ方面の反革命軍支援に、第十一中隊主力をチウヌイツ
   ラフ要塞に派遣。→戦闘は圧倒的に日本軍に不利。
  ・石田領事や駐在武官三宅海軍少佐から陸戦隊派遣の要請。
  ・(2/5)パルチザン軍の手によってチウヌイツラフ要塞,海軍電信所が陥落。→ニコラ
   イエフスク守備隊と外部の連絡は完全に途絶。     
  *水戸歩兵第二聯隊史刊行会編『水戸歩兵第二聯隊史』参照。
   革命軍, 黒龍州都ブラゴベシチエンスクに進攻し, 革命政府樹立。
  ・(2/6)黒龍州から撤兵。ハバロフスク以南への移動を決定。
  ・(2/13)救援隊派遣を決定。
  ・(2/21)旭川第二七聯隊付の多門中佐に尼港派遣隊の編成・派遣の命令。
  ・(2/24)休戦協定締結:①28日5時、両軍の軍事行動停止。
              ②現状維持を条件に,革命軍の尼港進入認可。
  ・トリャピーチン率いるパルチザン軍がニコライエフスクに進入。
     →反革命軍の武装解除。全ての行政機関を接収。市内は無秩序状態。
  ・(3/3)尼港派遣隊, 小樽港を出発→(3/6)引き返す。
  ・(3/11)革命軍参謀長ナウーモフ,守備隊本部を訪れ武装解除を要求。回答期限は翌日
      正午。
  ・(3/12)守備隊,攻撃開始。革命軍約4,000名。守備隊側の兵士は第三大隊288名を中
   心に陸軍が320名、海軍無線電信隊43名、居留民自警団50名の合計413名。
   13日朝までに兵営に戻れたのは約100名で、その多くが負傷。 
  ・(3/17)パルチザン軍, ハバロフスクからの電報(偽電報)を手渡し, 戦闘の即時停止
   や武器弾薬の引き渡しを要求。→(3/18)武装解除→(3/19)監獄移送。
・(3/24)深水支隊, ハバロフスクに集結。→(4/5)戦闘開始→(5/28)停戦協定締結。 
  ・(4/13)多門大佐に再びニコライエフスク出動命令。
  ・(4/16)小樽港出発→北樺太西岸のアレクサンドロフスク上陸。
  ・(5/7)津野一輔少将指揮する北部沿海州派遣隊編成。
  ・(5/12)多門支隊, 樺太対岸のデカストウリ上陸。
  ・(5/17)ハバロフスクの第十四師団からも国分支隊派遣。
 ・(5/21)ニコライエフスクのパルチザン軍, 撤退開始。
  ・(5/24~26)日本人捕虜の大量虐殺。
   *監獄には「大正九年五月二十四日午後十二時を忘るな」と記されていたという。
   *黒龍江(アムール川)の岸辺で殺された日本人捕虜は122名(陸軍108名・海軍
    2名・居留民12名)。
  ・(6/3)多門支隊主力がニコライエフスク到着。(6/4)津野少将。(6/5)国分支隊。
   *1920年3月27日, 尼港管区司令官トリヤーピンが「日本軍は、2月の戦闘で講
    和使節を2回殺害し、3月12日には赤軍を急襲した。」と事件の顛末を世界各国
    に電報で宣伝。(『SECURITARIAN』〔2001年7月号〕に記載された廣江清(防衛
    研究所戦史部)「防衛庁からの戦史 尼港事件」)。
 ・(6/6)北部沿海州派遣隊は多門大佐以下を調査委員に任命し, 事件の現地調査。
  ・(6/7)陸軍省, 奈良中将を中心とする調査会設置
  ・(6/24)陸海軍両省, 「尼港事件の顛末」発表。
   *日本国内では、陸海軍将兵・居留民併せて約700名の犠牲の報が伝わると、「シ
    ベリア出兵」が国際法上どのような意味を持つかについては目をつむり、反ソ感
    情の高まり。
   *日本政府, 事件解決までの処置として北樺太(北緯50度以北のサハリン州北半)
    の保障占領を決定し, 混成旅団を配置。
    【米】日本軍の北樺太保障占領に激しく抗議
       ワシントン会議(1921~22年):九カ国条約(1922年)で日本軍のシベ
                       リア撤退決定。         
  ・(10/21)第十四師団, ハバロフスクの警備から撤収。ウラジヴォストーク港から日本
    に向かい, 宇品を経て, 11月9日水戸屯営に帰還。
*戦費約8億円。戦死者約3,500人。
 1922年帝国在郷軍人後援会, 堀原練兵場(当時の渡里村、現在の水戸市堀原運動公園)
   に「尼港殉難者記念碑」建立。

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