チェコスロヴァキアの歴史 14
14.チェコスロヴァキア共和国の動向
(1)新国家の建設
1918年(10/28)国民委員会, チェコスロヴァキア共和国独立宣言
(10/30)トゥルチャンスキ・スヴェティー・マルティンで「スロヴァキア国民評議
会」設立→(12/19)カトリックの司祭アンドレイ・フリンカ神父(1864~
1932), スロヴァキア人民党結成
(11/4)プラハ政府, ハンガリー支配下の暫定スロヴァキア政府任命
(11/13)国民委員会, 「臨時憲法」制定
(11/14)革命国民議会招集:1911年の帝国議会選挙結果に応じてチェコ人各党に
議席配分。スロヴァキア人議員は任命による選出。ドイツ人代表は不参加。
マサリク大統領(任期1918~1935)選出:大統領府はプラハ城。
クラマーシュ首相(国民民主党)・ベネシュ外相:全党派の連立内閣
*国民民主党は旧青年チェコ党を中心に再編した政党
8時間労働制・失業給付金制度を導入
*1918年(11月末)チェコのドイツ人地域占領
1919年(1月)スロヴァキア全域占領
1919年(2/25)通貨改革(ラシーン蔵相):旧帝国紙幣に印紙貼付。
通貨の一定額を国庫に回収→インフレ回避
(4/16)土地改革法:150ha以上の所有農地, 250ha以上の一般土地を収用→中小農
民に分配(1923~26年実施)
(5/1)ハンガリー赤軍, チェコスロヴァキア侵入
*1918年(10/17)ハンガリー王国独立承認→(10/30)ハンガリー10月革命:
ハンガリー共和国→1919年ハンガリー=ソヴィエト共和国(ベラ=クン
首相):ルーマニア軍の攻撃で崩壊
(6/16)「スロヴァキア評議会(ラダ)共和国」樹立(東スロヴァキアのプレショ
ウ。ヤノウシェク政権)→連合国の圧力でハンガリー軍撤退→スロヴァキ
ア評議会(ラダ)共和国政府消滅
(6月中旬)地方議会選挙・・・チェコのみで実施
・社会民主党・社会党(1925年以降は国民社会党)の合計で45%以上→クラ
マーシュ首相辞任
(7/8)トゥサル首相(社会民主党):社会民主党・社会党・農業党の連立内閣
(赤緑連立)
*鉱山労働者の経営参加を認める法律制定。土地改革法の実施細則制定。
1920年(2/29)憲法採択
*フランス第三共和国をモデルに制定されたもので、西欧式の中央集権的・民主共
和国をめざした。
①大統領職は国家元首ではあるが行政の長ではなく, 行政権は内閣に属す。
1)大統領は議会で選出。 2)首相の任命権。議会の解散権
3)7年任期。三選禁止(初代大統領マサリクは対象外)
②議院内閣制
1)立法権を持つ国民議会は二院制:任期6年の下院(定員300名), 任期8年の
上院(定員150名)はともに比例代表制。
2)直接・秘密・普通選挙。婦人にも選挙権・被選挙権。
3)国民議会は「下院優越の原則」。内閣は下院にのみ責任を負う。
(4月)新憲法に基づく最初の国政選挙:ドイツ人・ハンガリー人も参加
→第一党の社会民主党を中心とする中道左派連立政権発足:第二次トゥサル内
閣(赤緑連立内閣)・・・与党は議会の過半数に達せず
(9月)社会民主党分裂→第二次トゥサル内閣辞職
(9/15)チェルニー首相(モラヴィアの地方長官):無党派官僚の内閣。
国民民主党・人民党・農業党・社会党・社会民主党の代表5人で構成する
非公式委員会「ピェトカ」(チェコ語で数字の5を意味する)が閣外協力。
(12/9)12月ゼネスト開始
1921年(4/23)ルーマニアと相互援助条約締結
(5/14~16)社会民主党左派が分離して新たに共産党を結成。
*マサリク大統領が共産主義反対の態度を示したために、一時的に混乱。
(6/7)小協商成立(チェコスロヴァキア・ルーマニア・ユーゴスラヴィア)
*小協商3国はいずれもハンガリー人居住地区を併合→ハンガリーの領土回
復運動に備えた。フランスが支援。
1922年(10/28)ハンガリーと国境合意
(9/26)ベネシュ内閣成立(ベネシュ首相〔社会党〕は外相兼任):マサリク大統領
の意向
1922年(8/31)ユーゴスラヴィアと友好同盟締結
(10/7)第1次シュヴェフラ内閣(1922~29, 農業党)発足→政治的安定。
*シュヴェフラはクラマーシュ内閣から第二次トゥサル内閣までの内務相。
ピェトカの中心人物。
《与党》右派:国民民主党(大資本の利益代表):チェコ人
人民党(カトリック的な伝統保守利益代表):チェコ人
中道:農業党(農業利益代表):チェコ人・スロヴァキア人
左派:社会民主党(労働者利益代表):チェコ人・スロヴァキア人
社会党(労働者利益代表):チェコ人
《野党》スロヴァキア人民党(カトリック政党):スロヴァキア・ナショナリズム
社会民主党・国民党・農業者連盟・キリスト教社会人民党:ドイツ人
共産党:チェコ人・スロヴァキア人・ドイツ人・ハンガリー人
《フラト・グループ》マサリク大統領・ベネシュ外相を中心とする中道派
*「フラト」はチェコ語で「城」を意味する。
■チェコスロヴァキアで議会制民主主義を維持できた理由
①特権階級の勢力が弱く、教会も世俗的支配権を持たなかったこと。
│土地徴収法(1919年)による農地改革:土地所有面積に一定の制限を設け、農地│
│ 150ha以上、その他の土地250ha以上を持つ者から、この限度をこえる部分│
│ を有償で徴収。1927年までに大地主1730人から徴収して中小農民に分配し│
│ た土地は390万haに達した。但し、チェコスロヴァキアの土地価格は比較的│
│ 高かったため改革は富裕農民が新たな耕地入手の機会を得たとも言える。│
│ 100ha以上の大土地所有者の割合が改革前の16.0%から7.6%に減少した│
│ ことは大きな前進。改革前に全耕地の34~37%を所有していた大土地所有│
│ 者(全人口の0.1%)の約6割はドイツ人・マジャール人という外国人であ│
│ った。農地改革はチェコ人・スロヴァキア人の気持ちを満たすものだった。│
②サン=ジェルマン条約(1919対墺)・トリアノン条約(1920対ハンガリー)によっ
て新たにひかれた国境線の内側に豊富な地下資源や発達した工業地帯が含まれて
いたこと。
│ チェコスロヴァキア共和国は旧オーストリア帝国の約4分の1の領土・人│
│ 口しかなかったが、旧帝国の石炭の83%、鉱物の60%、砂糖の92%、化学│
│ 工業の75%、毛織物工業の80%、綿織物工業の75%、ガラス工業の75%、│
│ 製紙業の60%を含む地域がこの国家に属したのである。また、スロヴァキア│
│ ・ルテニアのような農業地帯も領有したため、全国土の43.9%は農業地帯と│
│ して確保されていた。│
③マサリクの持っていた政治的カリスマ性、国際政治における「チェコスロヴァキ
アの顔」。
・政治を中道諸政党中心の連立政権に委ね、自らはその調整役に徹した
マサリクの政治姿勢。→「非政治的な政治」
・1920(2/29)憲法制定→(5/27)マサリク大統領再選
(8/14)ユーゴスラヴィアと防御同盟結成・・・小協商の基礎
・1921(4/23)ルーマニアと友好条約締結
・1922(8/31)ユーゴスラヴィアと友好条約締結
・1924(1/25)フランスと相互援助条約締結
・1934(5/24)マサリク大統領再選
・1935(5/16)チェコ・ソ連相互援助条約締結
(11/18)ベネシュ大統領選出→(12/14)マサリク大統領引退
(2)チェコ人とスロヴァキア人の確執
・チェコスロヴァキア新国家体制:中央集権主義。
・チェコ語とスロヴァキア語はともに公用語となり、両言語を話す人々は単一民族「チ
ェコスロヴァキア民族」というのが公式の立場。その他は少数民族。
【チェコスロヴァキア共和国の民族構成】1,337万人(1921年統計)
│ ①チェコスロヴァキア人876万人 ②ドイツ人312万人 │
│ ③ハンガリー人75万人 ④ウクライナ系住民46万人│
│ ⑤その他(ユダヤ人・ポーランド人等)28万人│
■チェコスロヴァキア主義:チェコスロヴァキア人は単一民族
①憲法制定と同時に「少数民族の言語に関する法律」採択
裁判所の管轄区を単位に, 20%以上の人口をもつ少数民族は, その言語を行
政や司法, 教育で使用する権利を許可。
②チェコスロヴァキア共和国は, 世界で初めてユダヤ人を1つの民族として認め
た国家。
③チェコ人とスロヴァキア人が一つにならなければチェコスロヴァキア全人口の
過半数を確保できないという事情。
(1930年現在、両民族あわせて全人口の66.2%、チェコ人だけでは46%)
④工業地帯の大部分はチェコに偏在し, スロヴァキアは貧しい農業地帯
(1921年農林水産業人口:チェコ31.5%, スロヴァキア60.6%)
⑤チェコ人は、スロヴァキア人の政治意識は低く行政能力も乏しいと見て、スロ
ヴァキアの行政を彼らに任せなかった。彼等はスロヴァキア特有の聖職者主義
にも嫌悪感を抱き、カトリック教徒の多いスロヴァキア地方的感情を理解しよ
うとしなかった。
⑥カトリックの司祭アンドレイ・フリンカ神父(1864~1932)率いるスロヴァキ
ア人民党の支持者が増加。その得票率は1920年4月の21%から25年11月の
32%(但し1929年10月には約28%に下落)と増大し, 共産党の支持者も増え
ていった。
⑦スロヴァキアの自治権は、1927年7月の地方自治改革で少し拡大されたが、相
変わらず地方議会議員の3分の1と地方行政機関の長は中央政府から派遣され
ていた。
・1922年第一次シュヴェフラ内閣発足
経済不況→ラシーン蔵相の緊縮財政(1923年1月精神異常の元共産党員に暗殺)
・1923年(5月)民間航空会社, プラハ・ワルシャワ・イスタンブール・パリへの定期
便就航
(6月)スロヴァキア人民党, 「チェコ=スロヴァキア」への国名変更要求
・1924年フランス(1/25)・イタリア(5/19)と同盟条約
本格的経済回復→1926~28年には製糖業・繊維工業・金属工業・皮革工業・
ガラス工業などで空前の好景気を実現。
│*綿糸の輸出総額はイギリス、日本につぐ世界第3位。│
│ 金本位制を採用した1929年の砂糖輸出総額は60万トン。│
│*鉱業・冶金鉱業におけるウィトコウィツェ会社(ロートシルド系)、金属加工│
│ 業では軍需工業のシュコダ会社(シュネーデル=クルーゾー系)などは既に独│
│ 占資本主義段階に達した。│
│*1930年度の一般軍需品の輸出総額は英・仏・米についで世界第4位、純武器│
│ ではイギリスについで第二位。│
・1925年(11月)議会選挙:連立与党, 過半数に達せず→商工中産党を加えて内閣維持
*与党内対立→1926年(2月)シュヴェフラ首相, 病気を理由に辞職
*スロヴァキア人民党躍進:スロヴァキアに限定すれば35.4%
・1926年(3/18)第2次チェルニー内閣成立(官僚内閣)
(10/12)第3次シュヴェフラ内閣成立:ドイツ人政党が入閣
*農業利益とカトリック利益の提携内閣
*チェコスロヴァキア人政党:農業党・人民党・商工中産党・国民民主党
ドイツ人政党:農業者連盟・キリスト教社会人民党
スロヴァキア人:スロヴァキア人民党(1927年1月入閣)→地方行政改革
・1927年(5/27)マサリク大統領再選
・1929年(2月)シュヴェフラ首相, 病気のため辞職→第1次ウドルジャル首相(農業党)
(10月)議会選挙:社会民主主義政党が躍進
・社会民主党・国民社会党が与党復帰。
ドイツ人政党ではキリスト教社会人民党に代わって社会民主党が入閣。
スロヴァキア人民党副党首トゥカ, 反逆罪と外国への機密漏洩罪で有罪判決
→ウドルジャル内閣から離脱
(10/24)ニューヨーク, ウォール街の株価大暴落→世界恐慌
*世界恐慌の嵐, チェコスロヴァキア経済を直撃→両民族の合意, 根底から崩壊
│(1932年)輸出72%減少│
│ (3~4月)チェコ北西部の炭坑でストライキ発生(25,000人) │
│(1933年) 工業・農業生産は1929年の約60%に低下。輸出は28%に低下。│
│ 失業者数約130万人│
(12月)第2次ウドルジャル内閣
・1930年ハンガリー・チェコスロヴァキア貿易協定廃棄→スロヴァキア経済破綻。
*アメリカ合衆国やカナダへの移民。ドイツ, ベルギー, フランスへの出稼ぎ。
*スロヴァキア民族主義の高揚:スロヴァキア人民党内部で完全独立を求める声。
1935年以降はドイツ人との共同戦線。
・1932年(10/29)第1次マリペトル内閣成立(農業党):積極的経済政策
・1933年【独】(1/30)ナチス政権成立:ヒトラー首相→ドイツ第三帝国(1933~45)
(10/2)コンラート=ヘンラインが「ズデーテン=ドイツ郷土戦線」結成。
*ズデーテン=ラントのナチスは政府に禁止されることを恐れて自発的解散。
*ズデーテン=ラントのドイツ人(300万人以上)オーストリア共和国への編入を
希望。
・1934年(2/14)第2次マリペトル内閣成立:(2/17)平価切り下げ
(5/24)マサリク大統領, 再任
(6/9)ソ連と外交関係樹立→1935年(5/16)ソ連と相互援助条約締結
・1935年(5/19)総選挙:「ズデーテン=ドイツ郷土戦線」(「ズデーテン=ドイツ党」
と改称, ナチスから資金援助)得票率62%
*議席数:①農業党15% ②ズデーテン=ドイツ党14.7%
③社会民主党12.7% ④共産党10%
(8月)【コミンテルン】人民戦線戦術採用・・・共産党は社会民主党・農業党など
と反ファシズム統一戦線を組もうとしたが失敗】
(11/5)ホジャ内閣成立(農業党, スロヴァキア人):スロヴァキア人民党は入閣せず
(12/14)マサリク大統領辞任→(12/18)ベネシュ大統領就任
第2次ホジャ内閣:ドイツ人諸党が入閣
(ヘンライン派を除く)
(3)マサリクの死
1935年(12/14)マサリク大統領引退。→第二代大統領ベネシュ。
・引退後のマサリクは、プラハの西方約40キロにあって大統領在任中は大統領別邸
として使っていたラーニの館で暮らす。
1937年(9/14)マサリク死去(87歳)
・臨終の席には次男で当時は駐英大使であったヤン・マサリクJan Masaryk(後の外
相。1886~1948年)などの親族以外に、ベネシュ大統領、ホッジャ首相等が立ち
会う。
*妻シャーロットは、第一次世界大戦中に夫が国外に去ったことや長男ヘルベルトが
戦病死したことなどの心労が重なって鬱病にかかり、1923年死去。
・(9/17)遺体はプラハ城に移され、城の前には「共和国の父」を慕う弔問客が長蛇の
列。
・(9/21)柩は6頭立ての砲車に乗せられてプラハ市内をめぐった後、再びラーニの館
にもどり、そこに埋葬。
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