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June 25, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 12

12.日米両政府の確執────帝国主義とナショナリズムの関係──── 
(1)マサリクと日本
 1918年(4/6)マサリク, イギリス政府発行のパスポート(T・G・マルスデンという偽名)
   を使用して下関港に到着。→8日東京。帝国ホテルに宿泊したマサリク。
  ・英米仏など連合国の大使館と接触。
  ・11日横浜の英字新聞『アドヴァタイザー』Advertiserにロシア情勢に関する分析記
   事を掲載。
  ・14日, 朝日新聞の前身である『東京朝日新聞』の記者が取材。
  翌15日『東京朝日新聞』第5面には「墺国を遁れた亡命のマ博士昨日突如東京に
   入る ◇大陰謀破れて死刑の宣告 ◇妻も娘も牢獄に投ぜらる」という見出しの記
   事が掲載。                  
  ・(4/16)警視庁総督官房高等課外事係に属していた竹山安太郎(警視庁通訳兼警部)
   が, 帝国ホテルでマサリクに面会。
   *竹山は後にマサリクの第一次世界大戦回顧録を翻訳し、『チェックスロワキア国、建国と理想』
    (1931年)という題で出版。
  ・(4/19)マサリク, 外務省訪問。外務次官代理が応対。マサリクは「ロシアおよびフ
   ランス戦線でのチェコスロヴァキア軍部隊編成に関する上申書」という題がつけら
   れたロシア語の書類を手渡し、その内容を説明。
  ・(2/20)横浜からエンブレス・オヴ・エイシア号でバンクーバーに向けて出港。  
   *伝記『幣原喜重郎』(幣原平和財団、1955年)によれば、「チェッコ独立運動の指導者であるマ
     サリックは、この事情を連合国に訴えるためシベリアを通過して日本にも来たが、当時、その
     何者であるかを我が外務省でも知らず、彼が米国についてから外電がその名を大きく報じたの
     で、はじめてそんな大物であったのかとびっくりしたこともあった」(P125)という。
    *『牧野伸顕回顧録(下)』(文藝春秋新社)によれば、「彼(マサリク)の護衛を命じられた警部
     某は、数日間のことに過ぎなかったにも拘らず、朝夕彼に咫尺してその人物に感銘し、彼の大
なる崇拝者となって、私の所に彼の経歴等を聞きに度々訪ねて来た」(中公文庫、P157~158)
とある。牧野は、彼の知人であり、マサリクの協力者でもあった英国人ジャーナリストのウィ
     ッカム・スティードが書いたマサリク関係の記事の切り抜きが手元にあったので、それをその
「警部某」に渡したと記しているが、この警部は竹山安太郎で間違いない。

(2)帝国主義時代の開始
 ■19世紀に大きく発展してきた世界経済は、1873年の恐慌を契機に大規模な不況期に
  入った。この年の5月1日、第5回万国博覧会がウィーンで開催され、直径101m・高
さ84mの円屋根館ロトウンデが建設された。
 *万国博覧会:アルバート公(ヴィクトリア女王の夫)の助力で開催されたロンドン万博(1851年)
以来、パリ(1855年)・ロンドン(1862年)・パリ(1867年)と英仏両国が交互に開催してきた。
万博開催の背景には産業発展とナショナリズムの高揚。日本が万博に関係したのは、徳川幕府の遣
   欧使節団が見学した第3回ロンドン万博が最初で、第4回パリ万博には幕府側と薩長連合側が対立
  しながら参加。明治政府になって最初に公式参加したのが第5回ウィーン万博で、日本は名古屋城の
  金の鯱や鎌倉大仏の実物大模型などを展示。当時,アメリカ大陸を経由してヨーロッパを訪れていた
  岩倉使節団も見学(『米欧回覧実記』第五巻、岩波文庫p.29~30)。
 1873年(5/9)株価大暴落(ブラック・フライデー)→大規模な不況→欧米諸国では、技術革新
(第二次産業革命)や重化学工業の発展による経済再編→独占資本の形成。
 ■帝国主義段階に突入:第二次ディズレーリ内閣(1874~80年)のイギリスが最初。
  アメリカ合衆国では第1回汎米会議開催(1889年)か、フロンティア消滅宣言やシ
ャーマン反トラスト法制定(1890年)あたり。「カリブ海政策」Caribbena Policy.
1898年米西戦争でフィリピン・グァム・プエルトリコを獲得。ハワイ併合。
  1899年国務長官ジョン=ヘイが「門戸開放宣言」。               
          
(3)日露戦争以後の日本
 1904~1905年日露戦争→米大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で講和会議(8/10)。
             日露両国の全権小村寿太郎とヴィッテが出席。
 1905年(7/29)桂=タフト協定
  (9/5)日露講和条約(ポーツマス条約)
   ①大韓帝国に対する日本の指導・監督権を容認する。
   ②ロシアが持っていた旅順・大連に対する租借権を日本に譲渡する。
   ③ロシアが所有していた東清鉄道の支線「長春~旅順」を日本に譲渡する。
   ④北緯50度以南の南樺太(サハリン南部)を日本に割譲する。
   ⑤沿海州・カムチャツカ沿岸の漁業権を日本に認める、など。
  *「日比谷焼き討ち事件」。騒乱を鎮めるために東京市及び府下5郡に戒厳令が出さ
   れ、死者17人・負傷者約500人・検挙者約2,000人。愛国的排外主義。
  *〔米〕まず自国の利益を確保してから、日露戦争以後の国際政治において優位にた
   てるよう講和会議の場を提供。日露戦争を契機にして反日感情を強める。
   1906年サンフランシスコ学童入学拒否事件。
   1909年日本移民制限法(カリフォルニア州)。1924年排日移民法。
   太平洋戦争(1941~45年)中の日系人強制収容所送り。    
■〔日本〕日露戦争を契機として大陸政策をさらに積極化。
 1904年第一次日韓協約:大韓帝国政府内に日本政府推薦の財政・外交顧問を置き、重
   要案件は事前に日本政府と協議させた。
 1905年第二次日韓協約(乙巳(いっし)条約・韓国保護条約)
   伊藤博文を初代統監とする韓国統監府が設置されて、韓国の外交事務を担当した。
   第二次日韓協約は、伊藤博文が司会した韓国閣議で、最終的には5対2の多数決で
   「可決シタルモノト認メ」たが、皇帝の高宗は批准書への御璽の押印を拒否。
 1907年ハーグ密使事件:第二回万国平和会議で日本による韓国保護国化の実態を訴えよ
うとして失敗。→伊藤から皇太子(純宗)への譲位か批准書への押印のどちらかを
   選択するよう迫られ, 高宗は前者を選ぶ。軍隊解散。
   第三次日韓協約:韓国の内政全般を掌握。激化した義兵運動を徹底的に弾圧。
 1909年安重根による伊藤博文暗殺事件。
 1910年日韓併合条約→韓国の植民地化完成。
  *かつて閔妃が日本軍守備隊・日本人壮士に殺害された(1895年)場所としても知
   られる景福宮の敷地内に、朝鮮総督府設置。初代総督には陸軍の寺内正毅が就任。
  *朝鮮総督府庁舎は1945年の解放後も国立中央博物館として使用されてきたが、1995
   年韓国の国民感情を逆撫でるとして解体。朝鮮総督府建設の際に、景福宮の前の光
   化門も取り壊しを検討されたが、民芸研究家柳宗悦の抗議で辛くも移築され、朝鮮
   戦争後現在地に復元。     
 *桂園時代(桂太郎・西園寺公望)
   総予算中に占める軍事費の比率は30%をこえる状態。
   1907年「帝国国防方針」策定:ロシア帝国ついで米独仏三国を想定敵国とし、これ
    に備えるため陸軍は現有の17師団から25師団(戦時50個師団)に、海軍は2
    万トン級戦艦8隻、1万8,000トン級巡洋艦8隻を基幹とする約50万トンの「八
    ・八艦隊」建設を長期目標と定めた。
 1911年日米通商航海条約:関税自主権の回復に成功。
  *1907年の恐慌を乗り越えて三井・三菱・住友・安田などの財閥が成長。
   紡績業は輸出面で英米両国と対抗できるようになり、製糸業も合衆国向け輸出が急
   増して輸出高世界最高となった(1909年)。軍需品や重工業資材の輸入はそれを上
   回り、貿易収支は1906年・1908年を除き大幅赤字が続いていた。
  *日露戦争の際に約13億円もの国債(内債約7億円・外債約6億円)発行→巨額の
   利払いは国家財政を危機的状態に。   
 ・(7/30)明治天皇崩御→皇太子嘉仁親王が践祚。元号は大正。
  ・(10/10)中国で辛亥革命勃発。
 1912(1/1)孫文を臨時大総統とする「中華民国」臨時政府成立。
  ・北洋軍閥の巨頭袁世凱, 南京政府と取引して清朝を滅ぼした後、孫文に代わって臨
   時大総統に就任。北京遷都。
  ・〔日本〕陸軍は朝鮮駐屯軍を2師団増設するよう要求→財政再建の必要に迫られて
   いた第二次西園寺内閣拒否。
   上原勇作陸相の「帷幄(いあく)上奏事件」が引き金になって第二次西園寺内閣崩壊。
    *帷幄上奏とは、君主制国家において、帷幄機関である軍部が軍事に関する事項を君主に対し
      て上奏すること。帷幄とは「帷(とばり)をめぐらせた場所」のことで、転じて君主(天皇、皇帝)
      を指す言葉。
  ・第三次桂内閣時代には犬養毅(つよし)(立憲国民党)・尾崎行雄(立憲政友会)らによる「閥
   族打破・憲政擁護」をスローガンとする第一次護憲運動。
  ・海軍出身の山本権兵衛内閣。
 1914年春第二次大隈重信内閣発足:陸軍の2師団増設を求める元老・陸軍グループが
                  組閣させた。          
  ・(6/28)サライェヴォ事件→第一次世界大戦勃発。
  ・日本が対独宣戦に踏み切った公式の理由は第二次日英同盟(1905年)。
   同盟協約の適用範囲は東アジア及びインドに限定されており、これらの地域におい
   て日英両国の利益が危機に陥らない限り参戦義務は生じない。→(8/7)イギリスから
   極東水域におけるドイツ仮装巡洋艦(武装商船)の捜索撃破の依頼。
  ・(8/7)夜、大隈首相の私邸で臨時閣議を開いて参戦を決め、翌日加藤高明外相(立憲
   同志会)は日光田母沢の御用邸で大正天皇に時局を奏上し、夕刻には元老会議で参
   戦決定の了解を得る。
   →日本の参戦を望んでいないイギリス政府は、さきの要請を婉曲に取り消してきた。
    ①日本の山東半島攻撃で中国との貿易に支障,
    ②米・仏・蘭・豪など太平洋方面に利害関係を持つ国々の間に対日警戒心が増大
  ・【英】日本の参戦やむなしと判断し、戦闘区域を膠州湾租借地のある山東方面とそ
      の付近水域に限定。
  ・【独】中国に対して膠州湾租借地還付の約束を与えて日本の攻撃を避けようとした。
  ・【日】慌てて15日に対独最後通牒を手交→23日に宣戦布告。
      陸軍, 久留米第18師団を改編した独立第18師団を青島に派遣。
   (9/2)同師団,長崎・宇品より乗船した先発輸送隊とともに上陸開始→(11/7)陥落。
   海軍:第一艦隊・第二艦隊は陸軍の山東作戦に協力。
      第一南遣支隊、マリアナ・カロリン・マーシャル群島方面占領。
      第二南遣支隊、西カロリン群島方面でマラッカ海峡周辺の警備。→(10/14)
      赤道以北の独領南洋諸島の占領に成功→日米両国はこの海域で競合関係。
  ・【日】1914年12月加藤外相は対華交渉の訓令を交付。
 1915年(1/18)日置公使が袁世凱大総統に「対華21カ条の要求」を提示。
   ①山東省におけるドイツ権益の継承
   ②南満州及び東部内蒙古における日本の権益拡大
   ③福建省不割譲条約の再確認  ④日中合弁事業の承認
  ・(5/9)袁世凱政府はついに日本側修正案を受諾。
   *対日ボイコット運動。中国では5月9日を「国恥日」。第三革命(1915~16)勃発。
    1916年(6/6)袁世凱死去。

(4)モンロー主義の変質(パン=アメリカニズムと勢力均衡外交)
  *モンロー主義:1823年, 第5代大統領モンロー(在任1817~25)が提唱したアメ
   リカ合衆国の基本的外交原則。ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に新たな植民地を持
   つこと, あるいは古い政治制度を持ち込もうとすることに反対し, 一方アメリカ合衆
   国はヨーロッパの問題に関与しない。
 ■T.ローズヴェルト大統領 〔第26代大統領, 在任1901~09, 共和党〕
  ・ニューヨーク州知事→マッキンレー大統領の暗殺で副大統領より昇格
  ・革新主義Progressivism:トラスト規制, 労使関係の調停, 自然保全政策
   ニューナショナリズム(新国民主義)New Nationalism
  ・前任者マッキンレー大統領のカリブ海政策を継承→帝国主義的棍棒政策
 1904年「モンロー主義へのローズヴェルトの系(コロラリー)」発表。
  ・棍棒外交(モンロー主義の変質)。ヨーロッパや日本に対しては勢力均衡外交。
  ・日露戦争後の日本は, 合衆国の国威発揚の障害。
 1905年日露講和条約締結→日清条約。南満州鉄道経営は、(条約締結前から)桂首相が
   アメリカの企業家ハリマンとの共同経営を約束。→小村寿太郎外相などの反対で取
   りやめ。
 1906年サンフランシスコ市教育委員会が日本人ほかアジア人の生徒を普通の公立学校
   から特殊学校に移すことを決定。
 1907年・1908年「日米紳士協約」:日本人の労働移民自粛を日本政府容認。
 1907年【米】戦艦16隻からなる大艦隊の世界周航。     
 1908年駐米大使高平小五郎と米国務長官ルートとの間に所謂「高平・ルート協定」成立。
   太平洋方面の両国の領土保全、清帝国における商工業の機会均等、領土保全。
 1909年日本移民制限法。
 1913年日本人による土地所有を禁ずる法律制定(カリフォルニア州)。
       
 ■ウィリアム・ハワード・タフト大統領〔第27代大統領, 在任1909~13, 共和党〕
  ・革新主義:トラスト規制, 累進所得税制, 上院議員直接選挙の実現
  ・所謂「ドル外交」:T.ローズヴェルトがドミニカ共和国の対外債務を合衆国の銀
   行に肩代わりさせて財政的支配を行ったやり方を、カリブ海諸国全体に拡大。東ア
   ジア外交にも適用。
   ・国務長官フィランダー・ノックス:満州が日露両国の実質的な保護地域となって
   米製品排除を警戒→前奉天総領事ストレイトを代表とする使節団を派遣
 1909年ボーリング商会(英)と共同で錦愛鉄道(錦州~チチハル~愛琿)の利権獲得。
  ・「満州鉄道中立化」案提案→挫折→日露両国は合衆国のドル外交に対する警戒心。
 1910年第二次日露協約:満蒙における両国の勢力範囲・特殊利権等を定め、第三国の
        妨害に対しては共同措置。             
 1911年【米】湖広鉄道(広東~漢口~成都)のための英仏独3国借款団に提携を求め
       4国借款団として満州開発。
       イギリスに急接近→第三次日英同盟:適用範囲から米国を除外。
(5)新自由主義と合衆国の世界戦略
 ■・前大統領セオドア=ローズヴェルトTheodore Roosevelt(共和党)
  ・現職のタフトWilliam Howard Taft(共和党)
  ・ウッドロー・ウィルソンWoodrow Wilson(民主党)
*党大会で指名獲得に失敗したT.ローズヴェルトが革新党を結成して立候補したた
   め、民主党のウィルソンと三つどもえの選挙戦となり, ウィルソンは共和党分裂の
   間隙を縫って見事当選(1912年)。
 ■ウッドロー・ウィルソン大統領〔第28代大統領, 在任1913~21, 民主党〕
  ・プリンストン大学長・ニュージャージー州知事を経験。
  ・革新主義:ニューフリーダム(新自由主義)New Freedom。
    *ニューナショナリズムが強力な連邦政府を中心とする国益重視の考え方である
     のに対して、ニューフリーダムは独占資本主義を否定して個人の自由や自助努
     力を大切にする政策。但し、ニューフリーダムは1914年のクレイトン反トラ
     スト法・連邦取引委員会法として結実するが、それらは独占企業の一掃とは遠
     くかけ離れた内容。
  ・「宣教師外交」:世界中にアメリカ合衆国のような資本主義経済・民主主義体制を広
    げることが自らの使命であると信じていた。しかし皮肉にも、宣教師外交の実態
    はメキシコ、ハイティ、ドミニカ、キューバ、ニカラグアに米軍を派遣して合衆
    国の言いなりになる政権を作ろうとする海兵隊外交というのが実態であった。 
        
1914年(7/28)第一次世界大戦勃発→(8/4)中立宣言。
  ・イギリスの対独海上封鎖策を容認。英仏露などの連合国にのみ輸出。
 1915年国内銀行が連合諸国に融資することを容認→1917年:ドイツ側への融資額約3
   億ドル。連合国側には約25億ドル。
  ・第一次世界大戦が(合衆国の仲介なしに)連合国の勝利になるへの危機感。→1915
   年前半から講和会議を斡旋。
  ・ルシタニア号事件:イギリス客船がドイツの潜水艦により撃沈。
            米人128人を含む1,196人死亡。
 1916年ユトランド沖海戦。
 1917年(1/22)上院で「勝利なき平和」演説:国際平和機構の設立、公海の自由、軍縮。
  ・(2/1)【独】無制限潜水艦作戦→【米】参戦の口実。
  ・メキシコに対して軍事同盟を提案したドイツ外相ツィンメルマンの電報暴露。
  ・(4/2)ウィルソン大統領, 議会で宣戦教書読み上げ。
   *上院82対6, 下院375対50の圧倒的多数の賛成を得て参戦決定。 
  *1916年に女性として最初に当選を果たしたジャネット・ランキン下院議員(共
和党・モンタナ州), 宗教的反戦主義者, 社会主義者,ラフォレットらの革新派, ド
イツ系移民など反戦を貫き通した。
*戦争反対を主張する世界産業労働者同盟IWW、アメリカ社会党、ドイツ系移民に
    対して極めて厳しい弾圧→国家総動員体制。
    IWWのストライキに対して連邦軍派遣。平和主義者に対しては防諜法(1917年)
    や治安法(1918年)を制定。急進的知識人を国外追放。
   *ドイツ語教育禁止, ドイツ語文献の焼却。
  ・選抜徴兵法:全ての成年男子に登録義務。
    約480万人のうち200万人程度がフランス戦線で戦った(約11万人が戦死)。
  ・【米】東アジアでは軍事力を行使することがなかったため、日本の中国進出に対し
   て効果的な手を打てない。
   *1915年(3/16)ブライアン国務長官Bryan, 珍田捨巳駐英大使に所謂「ブライアン
    =ノート」手交。「対華21カ条の要求」不承認。日本と山東省・南満州・東部内
    蒙古との間には特殊な関係をつくりだす領土的隣接性が存する。
 1916年【日】大隈改造内閣→寺内正毅内閣発足(超然内閣)
  ・力による中国進出という対華方針を変更→日中親善関係の樹立。
   *中華民国政府に対する財政支援を通して日本との関係を緊密化させ, 中国大陸へ
    の進出を推進しようという意図。
   *袁世凱の死→黎元洪大総統と段祺瑞国務総理が対立。
    中華民国政府の財政支援要求の窓口となる五国銀行団体からドイツ銀行団を排除
    してアメリカ銀行団を加えようとする改組問題が浮上。
   *寺内内閣, 段祺瑞政権(安徽派)に接近。
   *所謂「西原借款」:西原亀三(元大陸浪人)・大蔵大臣勝田主計。
    1917年交通銀行業務整理のための借款(2,500万円)を手始めに、合計8件1億
    4,500万円の借款契約(西原借款以外の借款も含めると合計34件2億4,000万円)。
    西原借款の契約当事者は日本興業銀行・朝鮮銀行・台湾銀行と日本資本の入った
    中華滙業(かいぎよう)銀行。
   *日華経済提携の強化を通して欧米資本、とりわけアメリカ資本の排除を企図。
  ・【米】ウィルソン大統領, 共和党候補チャールズ・エヴァンズ・ヒューズに約910万
      票対850万票の僅差で再選。
  ・米中運河借款問題
    山東・江蘇両省の運河改修600万ドル借款契約の動き→日本が抗議
    1917(3月)600万ドルのうち250万ドルを日本興業銀行が分担することで了解。
    *日本政府はアメリカ資本の自由な活動を厳しく規制。
(6)中国参戦問題と日米関係
1916年ヴェルダン要塞をめぐる攻防戦(仏軍約36万人・独軍約34万人の死傷者)
  ・ソンムの戦い(連合軍約90万人・独軍約60万人の死傷者)。英軍が戦車使用。 
  ・ユトランド沖海戦→連合国側の制海権は揺るがず。
 1917年(2/1)【独】無制限潜水艦作戦
  ・(1/11)【英】日本に対してマルタ島を基地にして潜水艦攻撃から輸送船を護衛する
   1駆逐隊と、インド洋・南大西洋の警備に当たる軽巡洋艦2隻の派遣を要請。  
   (2/2)【日】巡洋艦「明石」1隻と2駆逐隊(駆逐艦8隻)をマルタ島へ, 巡洋艦2
   隻「対馬」・「新高」を喜望峰基地(サイモンスタウン)に派遣する旨回答。
   ドイツが支配してきた山東半島や南洋諸島の権益を継承できるよう要求。
  ・【英】赤道以南のドイツ領南洋諸島に対するイギリスの要求を日本政府が支持する
   ことを条件に日本側要求を呑む。→日本の作戦区域が地中海・南アフリカ方面にま
   で拡大。
 ・【中華民国】1917年(3/14)対独断交
   *段祺瑞国務総理:対独参戦の見返りに列国からの財政援助、義和団事件に伴う賠
            償金支払いの中止、海関税率の引き上げ実現を要求。
    広州に生まれた広東軍政府(孫文)や黎元洪大総統は参戦反対。
   *(5/23)黎元洪大総統, 段祺瑞国務総理を罷免。
   *(6/13)張勲が黎大総統に迫って国会を解散させ, 「復辟」(清朝再興)を強行。
 (8/14)宣戦布告。
(7)中国大陸をめぐる日米両国の思惑
1917年(4/6)アメリカ合衆国が連合国側に立って参戦。
  ・(5/30)日本政府が前外相石井菊次郎を特使として派遣することを決定。中国に於け
      る日本の特殊地位を認めさせることが目的。
  ・【中華民国】段祺瑞が再び北京政権を掌握。
         英米両国と深い関係を持つ馮国璋(直隷派)が臨時大総統就任。
  ・太平洋方面における日米海軍作戦協定成立。
   (11/2)日米共同宣言(所謂「石井・ランシング協定」)
        日本政府, 『ブライアン=ノート』再確認に成功。
1917年(11/7)ロシア革命(十一月革命・露暦十月革命)
  ・(11/8)レーニンを議長(首相)とする人民委員会議(革命政府)発足。
   *連合国側・独墺側の双方に即時停戦を呼びかけ、無併合・無賠償・民族自決を骨
    子とする「平和に関する布告」発表→連合国側・独墺側ともに無視。
  ・(12/2)ブレスト=リトフスク(ポーランド東部)で休戦交渉妥結。
 1918年(1月)【連合国】東シベリア最大の要衝ウラジヴォストークに軍艦を派遣申し合
    わせ。日本からは「朝日」・「石見」ほか4隻の艦艇を派遣。
   *時期尚早論:アメリカ合衆国に配慮した元老山県有朋
    積極論:本野外相・後藤新平外相(4月~,「東亜経済同盟」説)をはじめとする外
        務省。軍部は反革命軍のセミヨーノフを支援。
  ・(2/9)ウクライナ中央ラーダとドイツ帝国との講和成立。「ウクライナ人民共和国」
    建国で合意。
  ・(2/18)【独】ソヴィエト政府との休戦協定を破棄して再び行動を開始し, 都ペトロ
    グラードに迫る勢い
   (3/3)ブレスト=リトフスク条約締結:【ソ】戦線離脱。大幅に領土削減。
                    【連合国】東部戦線の崩壊。
  ・(4/5)日英両軍, ウラジヴォストーク上陸。
  ・(4/6)マサリク, 下関上陸。
  ・(5/16)日華陸軍共同防敵軍事協定の締結。
   *寺内正毅内閣は再び西原亀三を使って広範な対華経済政策に着手。
    吉会鉄道借款予備契約(前渡金1,000万円)・吉黒金鉱森林借款契約3,000万円。
  ・(5月末)チェコスロヴァキア軍団の蜂起。
  ・(8/2)寺内内閣, シベリア出兵宣言。  

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我が家に竹山安太郎の著作が1冊ありましたが、後日紛失。竹山安太郎の妹(のぶ)が、私の実祖母に当たります。のぶが婚前に会津の三瓶との間に産んだ父を、上柳家に養子に出したと聞いています。
日東出版はもうありませんが、竹山の名は懐かしく拝読しました。

Posted by: 上柳隆 | October 13, 2017 11:45 AM

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