チェコスロヴァキアの歴史 11
11.チェコスロヴァキア軍団事件
(1)連合国の対オーストリア=ハンガリー政策
1.第一次大戦勃発後, 協商国(後に連合国と呼ばれる)・独墺同盟(もしくは中欧同
盟)は, ともに共通の戦争目的を持って戦っていたわけではない。
①墺=ハンガリー対セルビア, ②ドイツ対ロシア, ③ドイツ対フランス, ④ドイツ対イ
ギリスの戦いが同時に展開。
〔英仏〕:ドイツのヨーロッパ大陸における覇権確立阻止のためには独墺同盟解体が
必要。一方, ヨーロッパでの勢力均衡維持のためには中欧におけるハプスブ
ルク帝国も必要。
2.連合国内の戦時外交(各国の利害が錯綜)。
・〔露〕独領ポーランドとハプスブルク帝国領ポーランドを自国領ポーランドと併せ
て統合し, ロシア帝国内にポーランド自治王国を建設しようと企図。
・〔セルビア〕ボスニア=ヘルツィゴヴィナ併合やハプスブルク帝国内の南スラヴ族
居住地域の獲得を目指す。
・〔伊〕トレンティーノとダルマティアを要求。
1861.イタリア王国成立→1871.イタリア統一
*未回収のイタリア(イタリア・イレデンタ)Italia irredenta
・〔ルーマニア〕ハンガリー王国領トランシルヴァニアの併合を要求。
3.マサリクたちの運動が認められ, 合衆国の移民組織からの資金援助に特別な計らい。
・1915(10/15)キングス・カレッジ就任講演:ロバート・セシル外務次官がアスキス首
相のメッセージを代読。
・1916(2月)フランス首相ブリアン, マサリク等の運動に好意的な発言。
■第一次世界大戦を勝ち抜くためには, 国内及び植民地のあらゆる人的・物的資源を動
員するだけでなく, 敵国の動員を阻害するあらゆる方策をとる必要。
【秘密外交】
│1915年フサイン=マクマホン協定(マクマホン宣言):英国のエジプト高等弁務官│
│ マクマホンがアラブの指導者フサインに, 戦争協力を条件にアラブ居住区の独│
│ 占・独立を認めると通告。│
│1916年サイクス=ピコ協定:英仏露3国によるオスマン帝国領分割協定。パレステ│
│ ィナの国際管理約束。│
│1917年バルフォア宣言:イギリス外相バルフォア, ユダヤ人のパレスティナ建国運│
│ 動(シオニズム運動)への協力約束。│
│1917年モンタギュー宣言:イギリスのインド相モンタギュー, 戦争協力と独立運動│
│ 停止を条件に, 戦後の自治を約束。│
・【アメリカ合衆国】大戦前は約35億ドルもの債務国
→戦時中の中立政策で1915年には債権国に転化。
英仏両国の対米債務高が増大(1918年現在でイギリス約37億ドル, フランス約
19.7億ドル, イタリア約10.3億ドルなど合計約125億ドル)。
・英仏両国は合衆国内の世論の動向に神経をとがらせ, 合衆国内のチェコ人・スロヴ
ァキア人移民組織と密接な関係にあるマサリク等の運動に一定の配慮を示した。
1916年末ウッドロー・ウィルソン米大統領は交戦国がそれぞれの戦争目的を明らかにす
るよう求め, 「勝利なき平和」を模索。
*1917年(1月)連合国は「イタリア人, スラヴ人, ルーマニア人, そしてチェコ=ス
ロヴァキア人が外国の支配から解放されること」を目的とする。→「民族解放」
あるいは「民族自決主義」という思想。
・(11/21)〔墺〕皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が崩御→カール1世即位(29歳)。
│■カール1世 Karl I│
│(墺=ハンガリー帝国最後の墺皇帝・ハンガリー国王, 在位1916~1918)│
│・1887年, ハプスブルク=ロートリンゲン家の皇族オットー・フランツ・ヨーゼ│
│ フ大公とザクセン国王ゲオルクの娘マリア・ヨーゼファの長男として誕生。│
│・祖父カール・ルートヴィヒ大公は皇帝フランツ・ヨーゼフ1世及びメキシコ皇│
│ 帝マクシミリアンの弟。│
│・1914年, サライェヴォ事件でフランツ・フェルディナント大公夫妻が暗殺され│
│ たため, 皇位継承者に指名された。│
│・1916年, 第一次世界大戦中にフランツ・ヨ ーゼフ1世が86歳で死去し, カー│
│ ルは29歳で皇帝に即位。│
│・1917年皇后の兄であるパルマ公子シクストゥスを通して秘密裏に連合国側と│
│ の平和交渉に着手→フランスとの単独講和合意→1918年独墺間の離反を謀っ│
│ たフランス側によって暴露(交渉失敗)│
│・1918年(11.3)無条件降伏→(11.11)シェーンブルン宮殿「青磁の間」において│
│ 退位表明(国事不関与声明)│
│・1921年にハンガリー王国において復帰運動(失敗)→ポルトガル領マデイラ│
│ 島に亡命(1922年4月, 肺炎のため死去)│
・カール1世・チェルニーン外相コンビは連合国との講和を模索。→英仏両国は墺=
ハンガリー帝国の分離講和に傾き, マサリクやベネシュに対する態度は手のひらを
返すように大きく変化。
1917年(1/22)「勝利なき平和」演説→(4/6)ウィルソン米大統領, 参戦。
・戦勝国の復讐心や利己心に左右されない正義の原則に基づく講和の締結。国際紛争
を力でなく討議によって解決する国際機構の創設。講和会議における発言力向上。
*ルシタニア号事件(1915)やドイツ帝国の「無制限潜水艦作戦」(1917)
・(11/7)ロシア革命(11月革命)
*革命政府(人民委員会議), 「無併合・無賠償・民族自決」を柱とする「平和に
関する布告」を発表。
1918年(1/8)ウィルソン米大統領, 「14カ条」発表。
・第10条:墺=ハンガリー帝国の諸民族に「自治的な発展の最大限の可能性が」与
えられるべきである。→民族独立についての言及はなく, 独立運動は行き詰まり。
(2)チェコスロヴァキア軍団
1914年第一次世界大戦当時、ロシア国内には約10万人のチェコ人・スロヴァキア人が
暮らしていた。
・大戦勃発と同時に部隊編成を志願し、8月にはロシア帝国最高司令部に認可される。
「チェコ戦士団」(ロシア語で「チェシュスカーヤ・ドルジーナ」)は, 10月にガリツ
ィア戦線に従軍。チェコ戦士団への参加資格はロシア国籍を有する移民のみ。
1916年末チェコ戦士団1個旅団5,750名に拡大。
・チェコ戦士団を支える移民組織:親ロシア派のキエフ=グループと,マサリクを支持
するペトログラード=グループに分かれて対立。
・マサリクも西欧での運動開始と同時に、軍事組織を編成する計画に着手。
1916年春, 40万人のロシア軍兵士をフランス軍に派遣する計画。ベネシュがフラン
ス政府と交渉し, 派遣軍の中にロシア国内のチェコ人・スロヴァキア人兵士3万な
いし4万人を含めるよう働きかけたが失敗。
・連合国内のチェコ人・スロヴァキア人の移民と大量の戦争捕虜を義勇軍に編成しよ
うと計画。
*墺=ハンガリー軍の中のチェコ人・スロヴァキア人兵士の多くはロシア戦線に投入されていた
が、一部はセルビア戦線やイタリア戦線に送られた。セルビアやイタリアの戦線で捕虜になった
チェコ人・スロヴァキア人兵士は約4000人もフランスの捕虜収容所に送られていた。
1917年夏, フランス政府は(国際法上許されない)捕虜による義勇軍編成計画の交渉に
応じ、マサリク=グループと一応の合意。ロシアで編成されたチェコスロヴァキア
義勇軍をフランス軍の指揮下に置く必要が生じた。
(3)ロシア革命勃発とマサリク
1917年(3/8)ロシア革命(三月革命・露暦二月革命)
(3/12)労働者兵士代表評議会(ソヴィエト)成立
(3/15)皇帝ニコライ2世退位→ロシア帝国ロマノフ朝滅亡。
・リヴォフ内閣(立憲民主党)誕生→親ロシア派が力を弱め, マサリク支持の親西欧派が
主導権。マサリクの友人ミリュコーフが外相に就任し, 臨時政府はチェコ人・スロヴァ
キア人捕虜からの徴兵を許可。→4月独立部隊編成の命令。
・マサリク,ロシア三月革命の第一報に喜び,欧米諸国に向けて民主的ロシアの出現
を言明して,革命への支持を訴えた。
・同年5月、マサリクは駆逐艦2隻に護られながらロシアを目指し, ノルウェーのベ
ルゲン、オスロ、スウェーデンのストックホルムを経て、辛うじてペトログラード
に到着。→レーニンの「四月テーゼ」発表で政治的混乱→マサリクがペトログラー
ドに到着した日に、頼みのミリュコーフ外相は辞任。
・チェコスロヴァキア軍団「レギエ」編制:ロシア第11軍の指揮下。
ケレンスキー攻勢:三個連隊3500人が南西部戦線に配置され, 30,000人以上の捕虜
獲得。ケレンスキー攻勢は全体的には失敗。
・チェコスロヴァキア軍団2個師団38,500人に拡大。
・マサリク, 戦争の帰趨を決するのは西部戦線だと判断してチェコスロヴァキア軍団
の将校10人と兵士1100人をアルハンゲリスクからフランスに移送。
・〔露〕ボリシェヴィキによる「7月蜂起」失敗→社会革命党右派ケレンスキー内閣。
反革命の狼煙:コルニーロフ。
・(11/7)ロシア革命(十一月革命、露暦十月革命)。
レーニンを議長(首相)とする人民委員会議(革命政府)発足。
・十一月革命が勃発したとき、ペトログラードにいたマサリクは民族会議の勧めでモ
スクワに移った。マサリクが宿泊したメトロポリ・ホテルにケレンスキー派が立て
こもったため、彼は6日間にわたってボリシェヴィキ軍の包囲を受けた。革命軍事
委員会がメトロポリ・ホテルを奪還するのは14日のことで、その際マサリクは宿
泊客を代表してボリシェヴィキ軍と交渉。その後はウクライナのキエフに向かう。
(4)チェコスロヴァキア軍団の大移動
・キエフでは、民族解放を掲げるウクライナ中央ラーダ(評議会)とソヴィエトの権
力闘争が激化。
1818年(1月末)マサリク, 民族会議ロシア支部の名で「ロシアのチェコスロヴァキア軍
団はフランスで編成されつつあるチェコスロヴァキア人部隊の一部である」旨の宣
言を発表。
・(2月初め)マサリク, モスクワに戻る。
・(2/9)ウクライナ中央ラーダはドイツ帝国と講和を結び、食糧供給と引き替えに「ウ
クライナ人民共和国」を認めさせた。
・チェコスロヴァキア軍団のフランスへの移送問題は, 連合国の支援体制どころか移
送経路さえも決まらなかった。移送ルートは、北ロシアに進んでアルハンゲリスク
かムルマンスクから出航するという案も考えられたが、マサリクが選択したのはシ
ベリアを横断してウラジヴォストクに出るルート。
・チェコスロヴァキア軍団は完全孤立。
・1918年(2/18)ドイツ軍, 都ペトログラードに迫る勢い
(3/3)ブレスト=リトフスク条約締結→ソヴィエト政府と中欧同盟諸国の戦争は終了
(東部戦線消滅)
*トロツキーの長期交渉説、レーニンの即時締結説、ブハーリンの革命戦争論。
*ソヴィエト政権は, この条約でバルト海沿岸・ポーランド・ベロルシア・ザカフ
カースの一部を割譲しただけでなく、フィンランド・ウクライナの独立を容認。
旧ロシア帝国の約三分の一の人口が住む穀倉地帯や工業地帯を失う。
・(3/7)マサリク、68歳誕生日の夜、シベリア横断鉄道に乗車して東に向かう。マサ
リクの狙いは、軍団兵士を輸送するための船舶を確保するために、彼らよりも一足
早くアメリカ合衆国に渡ることにあった。
*マサリクは英国赤十字の引き上げ列車に便乗させてもらったが、シベリア鉄道は内戦の混乱で
長時間の停車を繰り返し、のろのろと進むしかなかった。マサリクはようやくウラジヴォース
トクに辿り着いたが、北アメリカへ渡る船は見つけられなかった。そこでやむを得ず、ハルビ
ン・奉天経由で釜山に出て、そこから船に乗り継いで下関に辿り着いたのが4月6日のことで
あった。
・(3/15)ソヴィエト政府, チェコスロヴァキア軍団のシベリア経由での移動を正式許可。
翌16日、軍団司令官ウラジミール・ニコラエヴィチ・ショコロフ少将(ロシア人)
は移動を命じ、17日以降武器の一部をソヴィエト軍に引き渡して出発。
・シベリアのザバイカル州と中華民国との国境地帯ではグレゴリー・セミョーノフに率いら
れた反革命軍が活発化。→軍団の移動を停止
・(3/27)「ペンザ協定」:軍団は「戦闘部隊としてではなく、自由な市民として移動す
る」こととなり、「反革命主義者に対する自衛のための」武器だけを所持できる。
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