チェコスロヴァキアの歴史 10
10.第一次大戦勃発とチェコスロヴァキア独立運動
(1)ボスニア=ヘルツェゴヴィナ問題
│1870年代〔露〕アレクサンドル2世〔在位1855~81〕南下政策再開。│
│ 〈汎スラヴ主義〉Pan-Slavism。│
│1868~76年〔露〕中央アジア三汗国(コーカンド汗国・ブハラ汗国・ヒヴァ汗国)│
│ を保護国化・併合│
│1873年三帝同盟〔独墺露〕│
│1875年〔日露〕千島樺太交換条約:宗谷海峡を国境とし, 千島列島を日本領, 樺太をロ│
│ シア領とする。樺太の邦人漁業権承認。│
│ *日露和親条約(1854):下田・箱館・長崎開港。択捉(えとろふ)・ウルップ間を国境とし,
│ 樺太は雑居地。│
│1875年ボスニア・ヘルツェゴヴィナで反乱発生│
│ →セルビア・モンテネグロ・ブルガリアに波及。│
│1877~1878年露土戦争→サン=ステファノ条約(1878)│
│ ①ルーマニア・セルビア・モンテネグロが独立 ②大ブルガリア建国 │
│ ③ロシアの黒海沿岸支配│
│1878年ベルリン会議:ドイツ首相ビスマルク・ゴルチャコフ露外相│
│ ディズレーリ英首相・アンドラシー墺外相│
│ ・〈汎ゲルマン主義〉Pan-Germanismの独墺両国,〈汎スラヴ主義〉のロシア│
│ 〈帝国主義〉Imperialismのイギリス。│
│ ・ベルリン条約(1878)│
│ ①ルーマニア・セルビア・モンテネグロが独立 │
│ ②ブルガリアは領土を縮小し自治国(オスマン帝国に服属) │
│ ③〔露〕ベッサラビア・小アジアの一部獲得│
│ ④〔英〕キプロス島獲得│
│ ⑤〔墺〕ボスニア=ヘルツェゴヴィナの管轄権獲得│
│ →独露関係の悪化:独墺同盟(1879)・独墺伊三国同盟(1882~1915)│
│ 独露再保障条約(1887~1890)│
│1881年墺=ハンガリー帝国, セルビア王国と関税同盟・秘密同盟条約締結。│
│ ・〔セルビア王国〕ボスニア=ヘルツェゴヴィナ問題で墺=ハンガリー帝国に不満。│
│ マケドニア問題でブルガリア公国と対立したため墺=ハンガリー帝国の支持が│
│ 必要。│
│1882年〔墺〕ルーマニア王国と秘密同盟条約締結。│
│ 〔独〕ヴィルヘルム2世〔在位1888~1918〕:世界政策│
│ 1890年宰相ビスマルク失脚 1898年海軍増強法│
│1899年〔独〕バグダード鉄道を中心とする3B政策│
│ (ベルリンBerlin・ビザンティウムByzantium・バグダードBaghdad)│
│1903年〔セルビア王国〕将校団のクーデターが発生し親墺派の国王夫妻を暗殺。│
│1906年豚戦争:墺=ハンガリー帝国がセルビアからの豚肉輸入を禁止。│
│1908年サロニカ革命(青年トルコ党革命):立憲君主制樹立。│
│ *英仏両国の圧力で民族産業育成に失敗→独墺側に接近。│
│ ブルガリア独立宣言(10月5日):オスマン帝国から独立│
│ 〔墺〕ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合│
│ ・帝国南部に住む南スラヴ族(クロアティア人・スロヴェニア人・セルビ│
│ ア人)のナショナリズムを刺激。│
│ ・新たに獲得したボスニア=ヘルツェゴヴィナの帰属問題が発生(民族的│
│ 均衡を崩しかねない深刻な問題)→結局,ボスニア=ヘルツェゴヴィナ│
│ はオーストリア・ハンガリーのいずれにも帰属せず,墺=ハンガリー共│
│ 通内閣の大蔵省が管理。│
(2)ザグレブ裁判とマサリク
1908年ハンガリー王国内で一定の自治権を与えられていたクロアティア王国で南スラヴ
族の統合を求める「ユーゴスラヴィア統一主義」を叫ぶ事件発生。
・クロアティア国内のセルビア人53人が,セルビア王国の首都ベオグラードに本拠
を置く政治組織と結託して,南スラヴ族居住地域をセルビアに併合しようと画策し
た容疑で逮捕。
1909年,クロアティア王国の首都ザグレブで裁判開始。
・マサリク,帝国議会で緊急質問。裁判と併合問題全体の調査を要求する動議提出→
否決。
・被告の中の31人に5年から12年の実刑判決。
・1910年控訴院で全員無罪(「疑わしきは罰せず」が理由)。
・マサリクが関係したその他の裁判:フリードユンク裁判・ヴァシチ裁判。
・マサリクは,一連の裁判で南スラヴ世界の「英雄」となり,帝国内外に数多くの支
持者を生み出した。
(3)バルカン戦争と第一次世界大戦の勃発
1911年マサリク, プラハ大学退官。帝国議会選挙で再選。
・チェコ人議員は108名。第一党は農業党(37議席),第二党は社会民主党(26議席)。
1911~1912年イタリア・トルコ戦争
・ローザンヌ条約(1912):〔伊〕トリポリ・キレナイカ獲得(リビアと改称)
1912~1913年第1次バルカン戦争
・バルカン同盟(ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシア)×オスマン帝国
・ロンドン条約(1913):〔オスマン帝国〕イスタンブール以外のヨーロッパ側領土, ク
レタ島を割譲
・アルバニア独立
1913年第2次バルカン戦争
・セルビア・モンテネグロ・ギリシア・ルーマニア・オスマン帝国×ブルガリア
・ブカレスト条約(1913):ブルガリア,領土割譲→独墺に接近。
・バルカン戦争が勃発したとき,マサリクは墺=ハンガリー外相ベルヒトルトとセル
ビア首相バシッチとの利害調整に動き,ブルガリア・セルビア間の仲介も画策した。
■〔墺=ハンガリー帝国〕セルビア警戒論台頭
・好戦派:対セルビア「予防戦争論」を主張
慎重派:フランツ・フェルディナントFranz Ferdinand(皇帝フランツ・ヨーゼフ1
世Franz JosephⅠ〔在位1848~1916〕の甥で皇位継承者)。理由は帝国経
済の脆弱さ。ロシア参戦の懸念。ドイツ帝国からの支援に関する不安など。
・皇弟マクシミリアンは, ナポレオン3世を中心とするメキシコ出兵(1861~67)で
帝位についたものの, 民衆蜂起の犠牲となって刑場の露と消えた。
マクシミリアン1世/マクシミリアーノ1世Maximilian I, Maximiliano I de Mexico、
(ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝, 在位1864~67)
・妻はベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン。
・レフォルマ戦争(メキシコ):自由主義的な改革を推進しようとするベニート
・フアレスらと保守派の間で内戦。フアレス側が優勢。
・保守派は仏皇帝ナポレオン3世と結んで巻き返し策。1861年アメリカ合衆国が
南北戦争(1861~65)に突入して介入が困難だったことを利用してフランスな
どがメキシコに軍事干渉(1861~67)。
・1864年ナポレオン3世がオーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡と
して帝位に就けた。→メキシコ国民からの支持はなし。南北戦争後, 合衆国は
モンロー主義に基づきマクシミリアンの即位に反対。マクシミリアン自体が自
由主義的思想を有しており, メキシコの保守派とも良好な関係を築けなかった。
・フランスはプロイセン王国の台頭でメキシコ問題を放棄。フランス軍撤退。
・マクシミリアンは自由主義勢力に捕らえられ, 側近のミゲル・ミラモン, トマス
・メヒアの両将軍と共に銃殺刑。ウィーンのカプツィーナー納骨堂に埋葬。
・エドゥアール・マネ:フランスの軍服を着た銃殺隊による処刑場面を描くこと
でマクシミリアンを見殺しにしたナポレオン3世を批判。
皇妃エリザベートElisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach(1837.12.24~1898.9.10)
・オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇
后。ハンガリー語名はエルジェーベトErzsebet。愛称シシィSissi, Sissy, Sisi。
・バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリア
ンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として誕生。1854年4月, 16歳で結婚。
・母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さが耐えられず,
宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い, 大西洋に浮かぶマデイラ諸島など
に療養に行ったり, 夫の同行でイタリアを訪問したり, 個人的に旅行に出かけた
り病院を慰問したりと, 生涯を通してウィーンから逃避し続けた。
・エリーザベトは死ぬまでハンガリーを愛した。普墺戦争敗北後, ハンガリーの
自治権を認めたアウスグライヒ締結の際の陰の推進者。
・皇太子ルドルフ自殺:不仲の妃との離婚が認められず, 素性のいかがわしい踊
り子マリー・カスバルと恋仲となり, 最後はヴェッツエラ男爵令嬢とウィーン
郊外マイヤリングの狩猟館で心中(1889年)。夫の死後喪服を着続けた女帝マ
リア・テレジアに倣い, エリザベートは死ぬまで喪服を脱ぐ事はなかった。
・1898年, 旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりでイタリア人の無政府主義者
ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて
殺害された。
・ヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ・神々の黄昏』に登場するバイエルン国
王ルートヴィヒ2世は従兄の子。ルートヴィヒ2世は彼女に片思いをしていた
との説もある。王の前途を心配したエリーザベトは妹のゾフィーと婚約させよ
うと計画したが, ルートヴィヒ2世の婚約破棄に怒ったエリーザベトはその後
疎遠となる。
1914年サライェヴォ事件(6月28日)
・フランツ・フェルディナント夫妻,ボスニア生まれのセルビア人学生ガウリロ・プ
リンツィプにより暗殺。
・ドイツ帝国, 全面的支持(白紙委任)→〔墺=ハンガリー帝国〕対セルビア戦決意
・ハンガリー政府首相ティサは, ロシアの干渉や, 戦勝によるセルビア領獲得が帝国内
のスラヴ人人口のさらなる増大につながることを懸念。→帝国外相ベルヒトルト
Berchtoldがセルビアからは領土を取得しない旨の約束。ティサ首相も最後通牒同意。
・最後通牒の手交(7月23日):訪露中であった仏大統領ポワンカレの帰国後。
・セルビア政府回答(7月25日)→墺=ハンガリー政府, 宣戦布告(7月28日)。
・ロシア・フランス・イギリスの所謂「三国協商」はセルビア王国側について参戦。
・日本の対独宣戦布告(8月23日)。
(4)第一次世界大戦(1914~18)と東部戦線
1914年〔独〕中立国ベルギーに通過許可要求(8/2)
・シュリーフェン計画:先ずベルギーを通過してフランスを倒し,反転してロシアを
叩くという対仏露二面作戦。1905年陸軍参謀総長シュリーフェンSchlieffenが立案。
・侵犯開始(8/4)→イギリス参戦→〔独〕フランス・ベルギーの国境線突(8/24~25)
・マルヌの戦い(9月初旬):英仏軍は反撃に転じ,独軍はエーヌ川まで退却。
→西部戦線は膠着状態。
・東部戦線では墺=ハンガリー軍が主導権。東プロイセンとガリツィアの二方向から
攻撃してきたロシア軍と衝突。
・東プロイセン方面では,ヒンデンブルク率いるドイツ軍が数的劣性をはねのけて,
タンネンベルクの戦い(8月末)・マズール湖沼地帯の会戦(9月初め)と勝利。
ガリツィア方面では墺=ハンガリー軍がロシア軍の猛攻撃に苦戦。
・墺=ハンガリー帝国もドイツ同様,対セルビア戦に重点を置く「計画B(バルカン)」
と,対ロシア戦を重視する「計画R(ロシア)」を用意。
参謀総長コンラートはロシア参戦が明らかになる7月31日以前に「計画B」を発
令し,予備兵力とされていた第二軍を南方に派遣した。
・〔独〕墺=ハンガリー帝国に対して,ロシアの前進を阻止するよう再三要請。
〔墺=ハンガリー帝国〕(8/1)「作戦R」に変更。
第二軍はセルビア方面に移動を開始し,2日にはセルビアとの間で戦闘開始。24日
にはセルビア軍に押し戻され,北上。
・墺=ハンガリー軍は8月末からのルヴフ攻防戦に敗北。→9月総退却。
捕虜10万人を含む兵力40万人喪失。
・〔露〕東ガリツィア占領後, スロヴァキア地方に接近。
ロシア軍はワルシャワ方面で再結集後,独領ポーランドへ向かい独軍と衝突。
・〔独〕露領ポーランドの主要都市ウッチを占領。→露領ポーランドをワルシャワ西
方で南北に貫いた後,ガリツィアをドニエステル川の南に沿って走り,カルパチア
山脈にいたる東部戦線を設定。
*東部戦線は西部戦線よりも長く,交通の便が悪かったため,防御能力は極めて脆弱。
・〔墺=ハンガリー帝国〕再びセルビア王国攻撃(11月)→撃退(12月)。
(5)戦時下のプラハ
1914年ロシア軍最高司令官ニコライ大公の名前でハプスブルク帝国内諸民族の「解放」
を唱える文書作成。
・農業党(アントニーン・シュヴェフラ党首):第一党としての責任を自覚して冷静。
社会民主党(フミール・シュメラル党首):帝国解体を唱える急進的行動に反対。
*帝国経済の枠の中で発展しているチェコ地方の利権を守ることを重視。
・青年チェコ党(マサリクのかつての盟友クラマーシュが党首):社会民主党と同じ。
クラマーシュKarel Kramar:親ロシア派の政治家。
①スラヴ人の連帯を主張する〈ネオ・スラヴィズム運動〉の提唱者。
②ロシア人ジャーナリストのスヴァトコフスキーに宛てた書簡で「スラヴ帝国」
構想を提唱→ロシア帝国にも伝わる。
*「スラヴ帝国」:ロシア・チェコ・ブルガリア・セルビア・モンテネグロからな
り, ロシア皇帝がスラヴ皇帝を兼ねる。二院制の共通議会で, 帝国参議院は各構
成国を代表する勅撰議員で構成。
*クラマーシュ構想には,青年チェコ党主流派・農業党・社会民主党が慎重姿勢。
・ロシア帝国内で結成されたチェコ人・スロヴァキア人移民による義勇軍の一部が,
ロシア軍最高司令部の指示のもとでプラハに潜入しチェコ蜂起を促す。
1914年マサリクは家族同伴でザクセン州(ドイツ)の保養地に行き, 夏季休暇。
・プラハに戻ったマサリクは,積極的な情報収拾活動。
・中立国オランダを訪問(9月・10月):フランス人歴史家エルネスト・ドゥニ,イ
ギリス人歴史家で東欧問題の権威R・W・シートン=ワトソン,『タイムズ』のス
ティード等に手紙を送り,二度目の旅行の際にようやくR・W・シートン=ワトソ
ンとの意見交換。
・国内では,チェコ人政党の指導者はもとより,ベーメン総督トゥーン伯,前オース
トリア首相エルンスト・ケルバーなどのドイツ人政治家とも会談。
・大戦前のマサリクは,少ない人口,大国に挟まれた地理的環境,民族混住状況など
を理由にチェコ諸領邦が政治的独立を果たすのは無理と考えていた。
→①情報収集で,墺=ハンガリー帝国の指導者に国政改革の意思がないことを知る。
②もし独墺同盟が勝利を収めてもそれはドイツの勝利であって,墺=ハンガリー
帝国の勝利とは言えないのではないか,という疑念。
③墺=ハンガリー帝国が結果的にドイツの属国と化すのであれば、チェコ人を支
配下に置く「ハプスブルク帝国」は存在理由を失いことになるではないか。
【結論】墺=ハンガリー帝国の解体とチェコスロヴァキア国家建設という構想。
・マサリクはロシアには早くから関心を抱き,幾度も訪露。
・ロシア思想研究の集大成として1913年『ロシアとヨーロッパ』(佐々木俊次・行田
良雄訳『ロシア思想史』みすず書房全2巻)をドイツ語で著述。
強烈なツァーリズム批判。ロシア帝国崩壊を予言。→ロシア政府もマサリクを警戒
し,彼の論文は発禁処分。
・マサリクは,西欧列強とりわけ英仏両国のチェコに対する関心を喚起し,ロシアの
影響力を相殺することを考えた。
・ヨーロッパ国際政治の伝統「勢力均衡論」を利用。・・・独墺同盟の敗北でハプス
ブルク帝国が解体でもすればチェコ国家もしくはチェコスロヴァキア国家の独立も
夢ではなくなる。また,ハプスブルク帝国解体までは至らない場合でも, 西欧列強
の影響力によって国政改革が実現し,連邦制国家体制の下でチェコにも自治権が与
えられるかも知れない。
・マサリクは,後に独立運動の片腕となる社会学者エドヴァルト・ベネシュEdvard
Benes(1912年プラハ大学哲学部講師)と知り合う。1914年第一次世界大戦が勃発
したとき, ベネシュは政界転出を図り,マサリクが率いているリアリスト党の機関
紙『チャス』の編集部に参加。
64歳の老教授マサリクと30歳の青年ベネシュとの信頼関係。
・マサリクは,もし墺=ハンガリー帝国が敗北した時には「チェコ民族国家」を,ま
たドイツも敗北した時には「歴史的領土にスロヴァキアを加えた国家」を成立させ
ようとする画期的な構想を示す。ベネシュが工面した資金で国外脱出。
1915〔露〕ガリツィア方面から後退。→クラマーシュ構想破綻。
(6)国外での民族独立運動
1914年(12/17)マサリク, 娘オルガを連れてプラハを出発→ヴェネツィア,フィレンツ
ェを経由してローマに到着。イタリアでオルガの病気を治すというのが表向きの理
由。
・ローマで南スラヴ族の活動家やセルビア・ロシアの在外公館と接触。
1915年(1/11)スイスのジュネーヴに移動(中立国スイスを活動拠点とする)。
・スイスはヨーロッパ各国の政治亡命者で溢れかえる状態(レーニンも「封印列車」
で帰国するまで滞在)。
・1月末, 同志から帰国すればただちに逮捕されるという警告が届く。イタリア駐在
の墺=ハンガリー公使マッキオ男爵,マサリクの行動を逐一本国に報告。
・ベネシュ,マサリクの独立運動構想を携えて社会民主党のシュメラルを訪問→拒否。
・(2~9月)ヴェルダンの戦い:仏軍(ペタン将軍), ヴェルダン要塞死守。
死傷者:仏軍約36万人・独軍約34万人
(5月)ユトランド沖海戦:英国の制海権揺るがず。
*英仏艦隊の海上封鎖で, ドイツ軍は植民地を失い軍需品・食糧の補給困
難。
(6~11月)ソンムの戦い:連合軍の反撃失敗。英軍, 戦車使用。
死傷者:連合軍約90万人・独軍約60万人
■新兵器の登場
│ ①毒ガス:イープルの戦い(1915)で独軍が使用(塩素ガス)│
│ ②戦 車:ソンムの戦い(1916)で英軍が使用│
│ ③潜水艦:独軍の「Uボート」 U-Boot,U-Boa。第1次世界大戦では約300隻が建造│
│ され, 商船約5,300隻を撃沈する戦果を上げた。第二次世界大戦では, │
│ 1,131隻が建造され, 商船約3,000隻・空母2隻・戦艦2隻を撃沈。│
│ ④飛行機・飛行船:第一次世界大戦では, 飛行機は最初偵察機として使用。最初は│
│ ピストルで撃ち合ったが, 機関銃が装備され戦闘機が生まれた。また敵│
│ 地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。イギリスは世│
│ 界最初の雷撃機を製造。一部の機体では骨組みや外板に金属を使用。│
■総力戦体制 :女性や植民地住人を含めた戦時体制
│ ①労働力不足を補うため, 女性を工場に動員→女性の職場進出を促進│
│ ②アジア・アフリカ人を兵士・労働者として大量動員(300万人以上)│
│ ・〔英〕インド人兵士約150万人をメソポタミア戦線に動員│
│ 戦争を口実にエジプト保護国化│
│ 〔仏〕アルジェリア人・モロッコ人を大量動員│
・(4/3)東部戦線でプラハ第28歩兵連隊1400名が集団でロシア側に投降。
(5/21)クラマーシュ逮捕
(6月)ムラダー・ボレスラフ第36歩兵連隊が投降→反ハプスブルク勢力に対する警
戒を強化
(7/12)ラシーン逮捕
・(9/3)プラハに残っていたベネシュが,偽造旅券でまず同盟国ドイツに行き, スイス
との国境の町コンスタンツから辛うじてスイス領内に到着。
・(9月末)マサリク, ベネシュはともにパリに移動。
・マサリク,歴史家シートン=ワトソンの招きに応じてロンドンに移る。フランスで
の活動はベネシュやシュチェファーニクに任せて, イギリスで啓蒙活動。
ロンドン大学キングス・カレッジのスラヴ学専門部門講師。
(10/15)就任講演は『ヨーロッパの危機に於ける小民族の問題』
│□ マサリクはまず民族と国家が別なものであると強調する。即ち国家が「人工的な」もの│
│ であるのに対して, 言語や文化で結ばれた人間集団としての民族は「自然なもの」であり「民│
│ 主的なもの」である。したがって, 国家は民族に基づいて創らなければならず, 東欧に数多│
│ くの小国家が出現するのは歴史の流れの中では必然の現象であると主張する。つづいてマ│
│ サリクは, 「歴史は統合の過程であると同時に, 分解の過程」でもあり, 「組織化された多様│
│ 性へと歴史は向かっている」。即ち, ヨーロッパは「民族国家」へと分解する一方で, それら│
│ を単位とする「連邦」を形成しつつある。「主権は相対的であります。なぜならあらゆる民│
│ 族の経済的, 文化的相互依存は拡大しているからです。……ヨーロッパはますます連邦化さ│
│ れ, 機構化されています。この所与の状況と発展のなかで小民族は、成長しつつあるヨーロ│
│ ッパ機構へ平和な手段で加入する権利を要求しているのであります。」と結んだ。│
│□ マサリクの小国家「独立」論は, 国家の中での自治, 連邦, 宗主権下での自治, 同君連合な│
│ ど, その国のおかれた状況でその形態が決まるという極めて幅広く考えられた多様性に富む│
│ ものであった。また「相互依存」という考え方は, 現在のヨーロッパ連合EUや全欧安保協│
│ 力会議などを考えると、マサリクの示したヨーロッパの将来像は極めて洞察力に満ちたも│
│ のであったことが分かる。事実,EUの生みの親であるクーデンホーフ・カレルギーはマサ│
│ リクの信奉者であった。但しマサリクは, 現実の権力政治の存在を無視していたわけではな│
│ く, この講演の最後の部分でポーランド, チェコスロヴァキア, ユーゴスラヴィアなどの諸国│
│ は「いわゆる緩衝国家となろう」と発言し, 勢力均衡論的観点から戦後国際政治を予見して│
│ いる。│
・ロンドンに移ったマサリクたちは, 本国との連絡が途絶えがちとなり, 活動資金の入
手ほぼ不可能。
・一人の日本人外交官がマサリクと接触。駐英大使館参事官の本多熊太郎(1874~
1948, 当時42歳前後で, 後にドイツ大使・中国大使を歴任)。
本多熊太郎:東京法学院(中央大学)法科在学中の1894年5月, 外務省留学生試験
合格。翌年, 外務省書記生試験に合格し外務省入省。1901年, 小村寿太郎外相の
秘書官となりポーツマス講和会議に随行。スイス公使・ドイツ大使を務めて退任。
1940年, 松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権(南京政府)に中国大使として赴
任。1944年東條内閣外交顧問に就任。1945年12月A級戦犯として逮捕され巣鴨
刑務所に収監。その後, 病気により釈放。
・マサリクたちの窮状を救ったのは, アメリカ合衆国で活動していたチェコ人・スロ
ヴァキア人の移民組織。
1910年当時, アメリカ合衆国にはチェコ人50万人・スロヴァキア人28万人が居住。
第一次世界大戦直前には多くのスロヴァキア人が移民し, チェコ人・スロヴァキア
人の合計はおそらく100万人以上。
│□ 合衆国で最初に移民の組織化に着手したのは, 親ロシア派のコニーチェク=│
│ ホルスキー。モスクワのチェコ人組織の指導者であった彼は, 1914年12月以│
│ 降パリで活動。1915年2月アメリカに渡ったが, 移民たちの支持を集めること│
│ はできなかった。│
│□ マサリクは, エマヌエル・ヴィクトル・ヴォスカやヴォイタ・ベネシュ(マ│
│ サリクの片腕となったエドヴァルト・ベネシュの兄)等を通して合衆国内の移│
│ 民組織に食い込むことに成功。│
1916年「チェコスロヴァキア民族会議」発足
・議長マサリク, 副議長にデューリヒとミラン・ラスチスラフ・シュチェファーニク
(スロヴァキア人),書記長にベネシュ。
・対外的には「チェコ民族会議」や「ボヘミア民族会議」という名称が使われる。
英語ではCzecho-Slovakia(チェコ=スロヴァキア)と表現されることもあった。
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