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January 28, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 10


10.第一次大戦勃発とチェコスロヴァキア独立運動
(1)ボスニア=ヘルツェゴヴィナ問題
 │1870年代〔露〕アレクサンドル2世〔在位1855~81〕南下政策再開。│
 │       〈汎スラヴ主義〉Pan-Slavism。│
 │1868~76年〔露〕中央アジア三汗国(コーカンド汗国・ブハラ汗国・ヒヴァ汗国)│
 │  を保護国化・併合│
 │1873年三帝同盟〔独墺露〕│
 │1875年〔日露〕千島樺太交換条約:宗谷海峡を国境とし, 千島列島を日本領, 樺太をロ│
 │                シア領とする。樺太の邦人漁業権承認。│
 │  *日露和親条約(1854):下田・箱館・長崎開港。択捉(えとろふ)・ウルップ間を国境とし,
 │              樺太は雑居地。│
 │1875年ボスニア・ヘルツェゴヴィナで反乱発生│
 │   →セルビア・モンテネグロ・ブルガリアに波及。│
 │1877~1878年露土戦争→サン=ステファノ条約(1878)│
 │  ①ルーマニア・セルビア・モンテネグロが独立  ②大ブルガリア建国  │
 │  ③ロシアの黒海沿岸支配│
 │1878年ベルリン会議:ドイツ首相ビスマルク・ゴルチャコフ露外相│
 │           ディズレーリ英首相・アンドラシー墺外相│
 │ ・〈汎ゲルマン主義〉Pan-Germanismの独墺両国,〈汎スラヴ主義〉のロシア│
 │  〈帝国主義〉Imperialismのイギリス。│
 │ ・ベルリン条約(1878)│
 │  ①ルーマニア・セルビア・モンテネグロが独立  │
 │  ②ブルガリアは領土を縮小し自治国(オスマン帝国に服属)  │
 │  ③〔露〕ベッサラビア・小アジアの一部獲得│
 │  ④〔英〕キプロス島獲得│
 │  ⑤〔墺〕ボスニア=ヘルツェゴヴィナの管轄権獲得│
 │  →独露関係の悪化:独墺同盟(1879)・独墺伊三国同盟(1882~1915)│
 │           独露再保障条約(1887~1890)│
 │1881年墺=ハンガリー帝国, セルビア王国と関税同盟・秘密同盟条約締結。│
 │ ・〔セルビア王国〕ボスニア=ヘルツェゴヴィナ問題で墺=ハンガリー帝国に不満。│
 │    マケドニア問題でブルガリア公国と対立したため墺=ハンガリー帝国の支持が│
 │    必要。│
 │1882年〔墺〕ルーマニア王国と秘密同盟条約締結。│
 │   〔独〕ヴィルヘルム2世〔在位1888~1918〕:世界政策│
 │ 1890年宰相ビスマルク失脚   1898年海軍増強法│
 │1899年〔独〕バグダード鉄道を中心とする3B政策│
 │     (ベルリンBerlin・ビザンティウムByzantium・バグダードBaghdad)│
 │1903年〔セルビア王国〕将校団のクーデターが発生し親墺派の国王夫妻を暗殺。│
 │1906年豚戦争:墺=ハンガリー帝国がセルビアからの豚肉輸入を禁止。│
 │1908年サロニカ革命(青年トルコ党革命):立憲君主制樹立。│
 │    *英仏両国の圧力で民族産業育成に失敗→独墺側に接近。│
 │   ブルガリア独立宣言(10月5日):オスマン帝国から独立│
 │  〔墺〕ボスニア=ヘルツェゴヴィナ併合│
 │     ・帝国南部に住む南スラヴ族(クロアティア人・スロヴェニア人・セルビ│
 │      ア人)のナショナリズムを刺激。│
 │     ・新たに獲得したボスニア=ヘルツェゴヴィナの帰属問題が発生(民族的│
 │      均衡を崩しかねない深刻な問題)→結局,ボスニア=ヘルツェゴヴィナ│
 │      はオーストリア・ハンガリーのいずれにも帰属せず,墺=ハンガリー共│
 │      通内閣の大蔵省が管理。│
  
(2)ザグレブ裁判とマサリク
1908年ハンガリー王国内で一定の自治権を与えられていたクロアティア王国で南スラヴ
   族の統合を求める「ユーゴスラヴィア統一主義」を叫ぶ事件発生。
  ・クロアティア国内のセルビア人53人が,セルビア王国の首都ベオグラードに本拠
   を置く政治組織と結託して,南スラヴ族居住地域をセルビアに併合しようと画策し
   た容疑で逮捕。
 1909年,クロアティア王国の首都ザグレブで裁判開始。
  ・マサリク,帝国議会で緊急質問。裁判と併合問題全体の調査を要求する動議提出→
   否決。
  ・被告の中の31人に5年から12年の実刑判決。
  ・1910年控訴院で全員無罪(「疑わしきは罰せず」が理由)。
 ・マサリクが関係したその他の裁判:フリードユンク裁判・ヴァシチ裁判。
  ・マサリクは,一連の裁判で南スラヴ世界の「英雄」となり,帝国内外に数多くの支
   持者を生み出した。
(3)バルカン戦争と第一次世界大戦の勃発
 1911年マサリク, プラハ大学退官。帝国議会選挙で再選。
  ・チェコ人議員は108名。第一党は農業党(37議席),第二党は社会民主党(26議席)。
 1911~1912年イタリア・トルコ戦争
  ・ローザンヌ条約(1912):〔伊〕トリポリ・キレナイカ獲得(リビアと改称)
 1912~1913年第1次バルカン戦争
・バルカン同盟(ブルガリア・セルビア・モンテネグロ・ギリシア)×オスマン帝国
  ・ロンドン条約(1913):〔オスマン帝国〕イスタンブール以外のヨーロッパ側領土, ク
                     レタ島を割譲
  ・アルバニア独立
 1913年第2次バルカン戦争
・セルビア・モンテネグロ・ギリシア・ルーマニア・オスマン帝国×ブルガリア
・ブカレスト条約(1913):ブルガリア,領土割譲→独墺に接近。
  ・バルカン戦争が勃発したとき,マサリクは墺=ハンガリー外相ベルヒトルトとセル
   ビア首相バシッチとの利害調整に動き,ブルガリア・セルビア間の仲介も画策した。
■〔墺=ハンガリー帝国〕セルビア警戒論台頭
  ・好戦派:対セルビア「予防戦争論」を主張
   慎重派:フランツ・フェルディナントFranz Ferdinand(皇帝フランツ・ヨーゼフ1
       世Franz JosephⅠ〔在位1848~1916〕の甥で皇位継承者)。理由は帝国経
       済の脆弱さ。ロシア参戦の懸念。ドイツ帝国からの支援に関する不安など。
  ・皇弟マクシミリアンは, ナポレオン3世を中心とするメキシコ出兵(1861~67)で
   帝位についたものの, 民衆蜂起の犠牲となって刑場の露と消えた。
   マクシミリアン1世/マクシミリアーノ1世Maximilian I, Maximiliano I de Mexico、
   (ハプスブルク=ロートリンゲン家出身のメキシコ皇帝, 在位1864~67)
    ・妻はベルギー国王レオポルド1世の王女シャルロッテ・フォン・ベルギエン。
    ・レフォルマ戦争(メキシコ):自由主義的な改革を推進しようとするベニート
     ・フアレスらと保守派の間で内戦。フアレス側が優勢。
    ・保守派は仏皇帝ナポレオン3世と結んで巻き返し策。1861年アメリカ合衆国が
     南北戦争(1861~65)に突入して介入が困難だったことを利用してフランスな
     どがメキシコに軍事干渉(1861~67)。
    ・1864年ナポレオン3世がオーストリア皇帝の弟であるマクシミリアンを傀儡と
     して帝位に就けた。→メキシコ国民からの支持はなし。南北戦争後, 合衆国は
     モンロー主義に基づきマクシミリアンの即位に反対。マクシミリアン自体が自
     由主義的思想を有しており, メキシコの保守派とも良好な関係を築けなかった。
    ・フランスはプロイセン王国の台頭でメキシコ問題を放棄。フランス軍撤退。
・マクシミリアンは自由主義勢力に捕らえられ, 側近のミゲル・ミラモン, トマス
     ・メヒアの両将軍と共に銃殺刑。ウィーンのカプツィーナー納骨堂に埋葬。
・エドゥアール・マネ:フランスの軍服を着た銃殺隊による処刑場面を描くこと
     でマクシミリアンを見殺しにしたナポレオン3世を批判。
   皇妃エリザベートElisabeth Amalie Eugenie von Wittelsbach(1837.12.24~1898.9.10)
    ・オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝(兼国王)フランツ・ヨーゼフ1世の皇
     后。ハンガリー語名はエルジェーベトErzsebet。愛称シシィSissi, Sissy, Sisi。
    ・バイエルン王家であるヴィッテルスバッハ家傍系のバイエルン公マクシミリア
     ンとバイエルン王女ルドヴィカの次女として誕生。1854年4月, 16歳で結婚。
    ・母方の伯母で姑であるゾフィー大公妃がとりしきる宮廷の厳格さが耐えられず,
     宮廷生活や皇后としての義務や職務を嫌い, 大西洋に浮かぶマデイラ諸島など
     に療養に行ったり, 夫の同行でイタリアを訪問したり, 個人的に旅行に出かけた
     り病院を慰問したりと, 生涯を通してウィーンから逃避し続けた。
・エリーザベトは死ぬまでハンガリーを愛した。普墺戦争敗北後, ハンガリーの
     自治権を認めたアウスグライヒ締結の際の陰の推進者。
    ・皇太子ルドルフ自殺:不仲の妃との離婚が認められず, 素性のいかがわしい踊
     り子マリー・カスバルと恋仲となり, 最後はヴェッツエラ男爵令嬢とウィーン
     郊外マイヤリングの狩猟館で心中(1889年)。夫の死後喪服を着続けた女帝マ
     リア・テレジアに倣い, エリザベートは死ぬまで喪服を脱ぐ事はなかった。
    ・1898年, 旅行中のジュネーヴ・レマン湖のほとりでイタリア人の無政府主義者
     ルイジ・ルケーニに鋭く研ぎ澄まされた短剣のようなヤスリで心臓を刺されて
     殺害された。
・ヴィスコンティの映画『ルートヴィヒ・神々の黄昏』に登場するバイエルン国
     王ルートヴィヒ2世は従兄の子。ルートヴィヒ2世は彼女に片思いをしていた
     との説もある。王の前途を心配したエリーザベトは妹のゾフィーと婚約させよ
     うと計画したが, ルートヴィヒ2世の婚約破棄に怒ったエリーザベトはその後
     疎遠となる。
    
 1914年サライェヴォ事件(6月28日)
  ・フランツ・フェルディナント夫妻,ボスニア生まれのセルビア人学生ガウリロ・プ
   リンツィプにより暗殺。
  ・ドイツ帝国, 全面的支持(白紙委任)→〔墺=ハンガリー帝国〕対セルビア戦決意
  ・ハンガリー政府首相ティサは, ロシアの干渉や, 戦勝によるセルビア領獲得が帝国内
   のスラヴ人人口のさらなる増大につながることを懸念。→帝国外相ベルヒトルト 
   Berchtoldがセルビアからは領土を取得しない旨の約束。ティサ首相も最後通牒同意。
  ・最後通牒の手交(7月23日):訪露中であった仏大統領ポワンカレの帰国後。
  ・セルビア政府回答(7月25日)→墺=ハンガリー政府, 宣戦布告(7月28日)。
  ・ロシア・フランス・イギリスの所謂「三国協商」はセルビア王国側について参戦。
  ・日本の対独宣戦布告(8月23日)。
(4)第一次世界大戦(1914~18)と東部戦線
1914年〔独〕中立国ベルギーに通過許可要求(8/2)
  ・シュリーフェン計画:先ずベルギーを通過してフランスを倒し,反転してロシアを
   叩くという対仏露二面作戦。1905年陸軍参謀総長シュリーフェンSchlieffenが立案。
  ・侵犯開始(8/4)→イギリス参戦→〔独〕フランス・ベルギーの国境線突(8/24~25)
  ・マルヌの戦い(9月初旬):英仏軍は反撃に転じ,独軍はエーヌ川まで退却。
                →西部戦線は膠着状態。
 ・東部戦線では墺=ハンガリー軍が主導権。東プロイセンとガリツィアの二方向から
   攻撃してきたロシア軍と衝突。
  ・東プロイセン方面では,ヒンデンブルク率いるドイツ軍が数的劣性をはねのけて,
   タンネンベルクの戦い(8月末)・マズール湖沼地帯の会戦(9月初め)と勝利。
   ガリツィア方面では墺=ハンガリー軍がロシア軍の猛攻撃に苦戦。
  ・墺=ハンガリー帝国もドイツ同様,対セルビア戦に重点を置く「計画B(バルカン)」
   と,対ロシア戦を重視する「計画R(ロシア)」を用意。
   参謀総長コンラートはロシア参戦が明らかになる7月31日以前に「計画B」を発
   令し,予備兵力とされていた第二軍を南方に派遣した。
  ・〔独〕墺=ハンガリー帝国に対して,ロシアの前進を阻止するよう再三要請。
   〔墺=ハンガリー帝国〕(8/1)「作戦R」に変更。
   第二軍はセルビア方面に移動を開始し,2日にはセルビアとの間で戦闘開始。24日
   にはセルビア軍に押し戻され,北上。
  ・墺=ハンガリー軍は8月末からのルヴフ攻防戦に敗北。→9月総退却。
   捕虜10万人を含む兵力40万人喪失。
  ・〔露〕東ガリツィア占領後, スロヴァキア地方に接近。
   ロシア軍はワルシャワ方面で再結集後,独領ポーランドへ向かい独軍と衝突。
  ・〔独〕露領ポーランドの主要都市ウッチを占領。→露領ポーランドをワルシャワ西
   方で南北に貫いた後,ガリツィアをドニエステル川の南に沿って走り,カルパチア
   山脈にいたる東部戦線を設定。
   *東部戦線は西部戦線よりも長く,交通の便が悪かったため,防御能力は極めて脆弱。
 ・〔墺=ハンガリー帝国〕再びセルビア王国攻撃(11月)→撃退(12月)。
(5)戦時下のプラハ
 1914年ロシア軍最高司令官ニコライ大公の名前でハプスブルク帝国内諸民族の「解放」
   を唱える文書作成。
  ・農業党(アントニーン・シュヴェフラ党首):第一党としての責任を自覚して冷静。
   社会民主党(フミール・シュメラル党首):帝国解体を唱える急進的行動に反対。
   *帝国経済の枠の中で発展しているチェコ地方の利権を守ることを重視。
 ・青年チェコ党(マサリクのかつての盟友クラマーシュが党首):社会民主党と同じ。
   クラマーシュKarel Kramar:親ロシア派の政治家。
    ①スラヴ人の連帯を主張する〈ネオ・スラヴィズム運動〉の提唱者。
    ②ロシア人ジャーナリストのスヴァトコフスキーに宛てた書簡で「スラヴ帝国」
     構想を提唱→ロシア帝国にも伝わる。
   *「スラヴ帝国」:ロシア・チェコ・ブルガリア・セルビア・モンテネグロからな
     り, ロシア皇帝がスラヴ皇帝を兼ねる。二院制の共通議会で, 帝国参議院は各構
     成国を代表する勅撰議員で構成。
   *クラマーシュ構想には,青年チェコ党主流派・農業党・社会民主党が慎重姿勢。
・ロシア帝国内で結成されたチェコ人・スロヴァキア人移民による義勇軍の一部が,
   ロシア軍最高司令部の指示のもとでプラハに潜入しチェコ蜂起を促す。
 1914年マサリクは家族同伴でザクセン州(ドイツ)の保養地に行き, 夏季休暇。
  ・プラハに戻ったマサリクは,積極的な情報収拾活動。
  ・中立国オランダを訪問(9月・10月):フランス人歴史家エルネスト・ドゥニ,イ
   ギリス人歴史家で東欧問題の権威R・W・シートン=ワトソン,『タイムズ』のス
   ティード等に手紙を送り,二度目の旅行の際にようやくR・W・シートン=ワトソ
   ンとの意見交換。
  ・国内では,チェコ人政党の指導者はもとより,ベーメン総督トゥーン伯,前オース
トリア首相エルンスト・ケルバーなどのドイツ人政治家とも会談。
・大戦前のマサリクは,少ない人口,大国に挟まれた地理的環境,民族混住状況など
   を理由にチェコ諸領邦が政治的独立を果たすのは無理と考えていた。
   →①情報収集で,墺=ハンガリー帝国の指導者に国政改革の意思がないことを知る。
    ②もし独墺同盟が勝利を収めてもそれはドイツの勝利であって,墺=ハンガリー
     帝国の勝利とは言えないのではないか,という疑念。
    ③墺=ハンガリー帝国が結果的にドイツの属国と化すのであれば、チェコ人を支
     配下に置く「ハプスブルク帝国」は存在理由を失いことになるではないか。
  【結論】墺=ハンガリー帝国の解体とチェコスロヴァキア国家建設という構想。
 ・マサリクはロシアには早くから関心を抱き,幾度も訪露。
  ・ロシア思想研究の集大成として1913年『ロシアとヨーロッパ』(佐々木俊次・行田
   良雄訳『ロシア思想史』みすず書房全2巻)をドイツ語で著述。
   強烈なツァーリズム批判。ロシア帝国崩壊を予言。→ロシア政府もマサリクを警戒
   し,彼の論文は発禁処分。
  ・マサリクは,西欧列強とりわけ英仏両国のチェコに対する関心を喚起し,ロシアの
   影響力を相殺することを考えた。
  ・ヨーロッパ国際政治の伝統「勢力均衡論」を利用。・・・独墺同盟の敗北でハプス
   ブルク帝国が解体でもすればチェコ国家もしくはチェコスロヴァキア国家の独立も
   夢ではなくなる。また,ハプスブルク帝国解体までは至らない場合でも, 西欧列強
   の影響力によって国政改革が実現し,連邦制国家体制の下でチェコにも自治権が与
   えられるかも知れない。
  ・マサリクは,後に独立運動の片腕となる社会学者エドヴァルト・ベネシュEdvard
   Benes(1912年プラハ大学哲学部講師)と知り合う。1914年第一次世界大戦が勃発
   したとき, ベネシュは政界転出を図り,マサリクが率いているリアリスト党の機関
   紙『チャス』の編集部に参加。
   64歳の老教授マサリクと30歳の青年ベネシュとの信頼関係。
  ・マサリクは,もし墺=ハンガリー帝国が敗北した時には「チェコ民族国家」を,ま
   たドイツも敗北した時には「歴史的領土にスロヴァキアを加えた国家」を成立させ
   ようとする画期的な構想を示す。ベネシュが工面した資金で国外脱出。
 1915〔露〕ガリツィア方面から後退。→クラマーシュ構想破綻。
(6)国外での民族独立運動
 1914年(12/17)マサリク, 娘オルガを連れてプラハを出発→ヴェネツィア,フィレンツ 
   ェを経由してローマに到着。イタリアでオルガの病気を治すというのが表向きの理
   由。
  ・ローマで南スラヴ族の活動家やセルビア・ロシアの在外公館と接触。
 1915年(1/11)スイスのジュネーヴに移動(中立国スイスを活動拠点とする)。
  ・スイスはヨーロッパ各国の政治亡命者で溢れかえる状態(レーニンも「封印列車」
   で帰国するまで滞在)。
  ・1月末, 同志から帰国すればただちに逮捕されるという警告が届く。イタリア駐在
   の墺=ハンガリー公使マッキオ男爵,マサリクの行動を逐一本国に報告。
  ・ベネシュ,マサリクの独立運動構想を携えて社会民主党のシュメラルを訪問→拒否。
・(2~9月)ヴェルダンの戦い:仏軍(ペタン将軍), ヴェルダン要塞死守。
                  死傷者:仏軍約36万人・独軍約34万人
   (5月)ユトランド沖海戦:英国の制海権揺るがず。
       *英仏艦隊の海上封鎖で, ドイツ軍は植民地を失い軍需品・食糧の補給困
        難。
   (6~11月)ソンムの戦い:連合軍の反撃失敗。英軍, 戦車使用。
死傷者:連合軍約90万人・独軍約60万人
■新兵器の登場
 │ ①毒ガス:イープルの戦い(1915)で独軍が使用(塩素ガス)│
 │ ②戦 車:ソンムの戦い(1916)で英軍が使用│
 │ ③潜水艦:独軍の「Uボート」 U-Boot,U-Boa。第1次世界大戦では約300隻が建造│
 │      され, 商船約5,300隻を撃沈する戦果を上げた。第二次世界大戦では,  │
 │      1,131隻が建造され, 商船約3,000隻・空母2隻・戦艦2隻を撃沈。│
 │ ④飛行機・飛行船:第一次世界大戦では, 飛行機は最初偵察機として使用。最初は│
 │      ピストルで撃ち合ったが, 機関銃が装備され戦闘機が生まれた。また敵│
 │      地上空まで飛んでいって爆弾を落とす爆撃機も誕生した。イギリスは世│
 │      界最初の雷撃機を製造。一部の機体では骨組みや外板に金属を使用。│
 ■総力戦体制 :女性や植民地住人を含めた戦時体制
 │ ①労働力不足を補うため, 女性を工場に動員→女性の職場進出を促進│
 │ ②アジア・アフリカ人を兵士・労働者として大量動員(300万人以上)│
 │ ・〔英〕インド人兵士約150万人をメソポタミア戦線に動員│
 │     戦争を口実にエジプト保護国化│
 │  〔仏〕アルジェリア人・モロッコ人を大量動員│
  ・(4/3)東部戦線でプラハ第28歩兵連隊1400名が集団でロシア側に投降。
   (5/21)クラマーシュ逮捕
   (6月)ムラダー・ボレスラフ第36歩兵連隊が投降→反ハプスブルク勢力に対する警
                           戒を強化
   (7/12)ラシーン逮捕
  ・(9/3)プラハに残っていたベネシュが,偽造旅券でまず同盟国ドイツに行き, スイス
   との国境の町コンスタンツから辛うじてスイス領内に到着。
  ・(9月末)マサリク, ベネシュはともにパリに移動。
  ・マサリク,歴史家シートン=ワトソンの招きに応じてロンドンに移る。フランスで
   の活動はベネシュやシュチェファーニクに任せて, イギリスで啓蒙活動。
   ロンドン大学キングス・カレッジのスラヴ学専門部門講師。
   (10/15)就任講演は『ヨーロッパの危機に於ける小民族の問題』
 │□ マサリクはまず民族と国家が別なものであると強調する。即ち国家が「人工的な」もの│
 │ であるのに対して, 言語や文化で結ばれた人間集団としての民族は「自然なもの」であり「民│
 │ 主的なもの」である。したがって, 国家は民族に基づいて創らなければならず, 東欧に数多│
 │ くの小国家が出現するのは歴史の流れの中では必然の現象であると主張する。つづいてマ│
 │ サリクは, 「歴史は統合の過程であると同時に, 分解の過程」でもあり, 「組織化された多様│
 │ 性へと歴史は向かっている」。即ち, ヨーロッパは「民族国家」へと分解する一方で, それら│
 │ を単位とする「連邦」を形成しつつある。「主権は相対的であります。なぜならあらゆる民│
 │ 族の経済的, 文化的相互依存は拡大しているからです。……ヨーロッパはますます連邦化さ│
 │ れ, 機構化されています。この所与の状況と発展のなかで小民族は、成長しつつあるヨーロ│
 │ ッパ機構へ平和な手段で加入する権利を要求しているのであります。」と結んだ。│
 │□ マサリクの小国家「独立」論は, 国家の中での自治, 連邦, 宗主権下での自治, 同君連合な│
 │ ど, その国のおかれた状況でその形態が決まるという極めて幅広く考えられた多様性に富む│
 │ ものであった。また「相互依存」という考え方は, 現在のヨーロッパ連合EUや全欧安保協│
 │ 力会議などを考えると、マサリクの示したヨーロッパの将来像は極めて洞察力に満ちたも│
 │ のであったことが分かる。事実,EUの生みの親であるクーデンホーフ・カレルギーはマサ│
 │ リクの信奉者であった。但しマサリクは, 現実の権力政治の存在を無視していたわけではな│
 │ く, この講演の最後の部分でポーランド, チェコスロヴァキア, ユーゴスラヴィアなどの諸国│
 │ は「いわゆる緩衝国家となろう」と発言し, 勢力均衡論的観点から戦後国際政治を予見して│
 │ いる。│
  ・ロンドンに移ったマサリクたちは, 本国との連絡が途絶えがちとなり, 活動資金の入
   手ほぼ不可能。
  ・一人の日本人外交官がマサリクと接触。駐英大使館参事官の本多熊太郎(1874~ 
   1948, 当時42歳前後で, 後にドイツ大使・中国大使を歴任)。
   本多熊太郎:東京法学院(中央大学)法科在学中の1894年5月, 外務省留学生試験
    合格。翌年, 外務省書記生試験に合格し外務省入省。1901年, 小村寿太郎外相の
    秘書官となりポーツマス講和会議に随行。スイス公使・ドイツ大使を務めて退任。
    1940年, 松岡洋右外相に起用されて汪兆銘政権(南京政府)に中国大使として赴
    任。1944年東條内閣外交顧問に就任。1945年12月A級戦犯として逮捕され巣鴨
    刑務所に収監。その後, 病気により釈放。
  ・マサリクたちの窮状を救ったのは, アメリカ合衆国で活動していたチェコ人・スロ
   ヴァキア人の移民組織。
   1910年当時, アメリカ合衆国にはチェコ人50万人・スロヴァキア人28万人が居住。
   第一次世界大戦直前には多くのスロヴァキア人が移民し, チェコ人・スロヴァキア
   人の合計はおそらく100万人以上。
 │□ 合衆国で最初に移民の組織化に着手したのは, 親ロシア派のコニーチェク=│
 │ ホルスキー。モスクワのチェコ人組織の指導者であった彼は, 1914年12月以│
 │ 降パリで活動。1915年2月アメリカに渡ったが, 移民たちの支持を集めること│
 │ はできなかった。│
 │□ マサリクは, エマヌエル・ヴィクトル・ヴォスカやヴォイタ・ベネシュ(マ│
 │ サリクの片腕となったエドヴァルト・ベネシュの兄)等を通して合衆国内の移│
 │ 民組織に食い込むことに成功。│
 1916年「チェコスロヴァキア民族会議」発足
  ・議長マサリク, 副議長にデューリヒとミラン・ラスチスラフ・シュチェファーニク
  (スロヴァキア人),書記長にベネシュ。
  ・対外的には「チェコ民族会議」や「ボヘミア民族会議」という名称が使われる。
   英語ではCzecho-Slovakia(チェコ=スロヴァキア)と表現されることもあった。

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January 14, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 9


9.マサリクとチェコスロヴァキアの政治状況 ~学問と政治の狭間で~
 (1)トマーシュ・マサリクTomáš Masaryk(1850.3.7~1937.9.14, チェコの社会学者・哲
   学者・政治家で, チェコスロヴァキア共和国の初代大統領〔在任1918~1935年〕)。
の生い立ち
  1850年3月7日,モラヴィア東南部のホドニーン生まれ。
  ・父親ヨゼフ・マサリクと母親テレジエ・クローバーチコヴァーの間に生まれた長 
   男。父親はスロヴァキア語を話すスロヴァキア人で,母親はドイツ語を話すモラヴ
   ィア人。
  ・6歳の時,ホドニーンの小学校に入学(ドイツ語クラス)→父親の転勤でチェイコ
   ヴィツェ町の小学校に転校。
・11歳の時、フルトペチェの下級実科学校(修業年限2年ないし3年)に進学。
・ウィーンの飾り職人の工房で奉公→チェイチ村の鍛冶屋で働く→下級実科学校時代
 の恩師がチェイコヴィツェ町の小学校補助教員の仕事を世話。
・15歳の時,神父の薦めでブルノの古典学校への編入試験を受け合格(二年次編入)。
 ブルノ警察署長の家で家庭教師。弟ルドヴィークを引き取る。
 (2)ブルノ時代のマサリク
   *1780年代以来, オーストリアでは初等教育制度の充実をめざす政策を展開
  1849年プラハに設置された実科学校でチェコ語による中等教育開始
   *1860年代に普及。但し, マサリクが入学したブルノ古典学校はドイツ語を教育語
    とする学校。
  1867年同じ町にチェコ語を使う古典学校が開設→彼の通う学校ではチェコ語を選択科
   目からも外し, (親の承諾が必要な)特別授業でのみ使用。
  1869年マサリク(5年生), カトリック信仰の形式主義に反発。校長による退学勧告。
   ブルノ警察署長が自らのウィーン転勤に際して, マサリクを連れて行った。
 (3)ウィーンでの生活(アカデミー古典学校時代)
  1869年アカデミー古典学校編入(6年生)。級友50人の中でチェコ人は4人。
   *躍動感に満ちあふれた華やかな「リングシュトラーセ・クルトゥーア」文化
  1870年ヴァチカン公会議が教皇の「無謬性」を宣言
   *教皇の無謬性:教皇が公会議において宣言した霊的な啓示は信ずべきものになる。
   →マサリク,カトリック教会からの離脱と「ギリシア・ユニエイト」への改宗を表明
   →マサリクの改宗は正式のものではないことが判明し,学籍簿は再び「カトリック」
   と書き改められた。→1880年会宗派教会で入信手続き(プロテスタント)。
 │1868年スペイン九月革命:イサベル2世, フランス亡命(9/18)
 │1869年スペイン王位継承問題
 │ 1869年憲法制定(6/6)
 │ 1870年プロイセンの王族レオポルトを後継者と決めたが, 仏帝ナポレオン3世の反対で取り消し
 │    エムス電報事件
 │1870~1871年普仏戦争
 │  1870年(9/1)セダンの戦い:フランス敗北
 │     (9/4)ガンベッタ国防政府の共和政宣言・対独抗戦
 │  1871年(1/28)パリ開城→(2月)休戦協定・ボルドー議会(ティエール大統領)
 │  (3/18~5/28)パリ=コミューン:史上最初の労働者・市民による自治政府(72日間)
 │ →1871年(5/10)フランクフルト条約:〔独〕アルザス=ロレーヌの大部分獲得 賠償金50億フラン
 │      ドイツ帝国(1871~1918)成立:ヴィルヘルム1世, ヴェルサイユ宮殿でドイツ皇帝即位。
 │      *連邦制国家:22君主国・3自由都市。南ドイツ諸邦も参加。
 │  プロイセン王=ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世
 │1871年〔墺〕ホーエンヴァルト内閣成立:チェコ人との妥協による政治の安定化を模索
 │  ①チェコ諸領邦の自治権拡大│  ②チェコ諸領邦におけるドイツ語・チェコ語の同権確認
 │  ③皇帝フランツ・ヨーゼフ1世がプラハでチェコ王冠の戴冠式を挙行する等の提案
→ドイツ人やハンガリー人が反発→政府, チェコ人との妥協を放棄。
  1871年:マサリクの帰属意識が鮮明化
   ①ウィーンに学ぶチェコ人大学生のクラブ「アカデミー協会」に参加しようとした
   (実際にはウィーン大学入学後に参加)。
   ②チェコ語で「愛国者」を意味するヴラスチミルを冠したヴラスチミル・マサリクという名前を使用。
   ③本格的なロシア語学習を開始(古典学校修了時にはほぼ修得)。
 │1864~1876年第1インターナショナル〔国際労働者協会〕:マルクス指導
 │   本部ロンドン(→ニューヨーク)。イギリスの穏和な労働運動が中心。
 │1867年【墺(チェコの領域を含む)】「12月憲法」
 │   経済活動の自由, 思想信仰の自由, 学問教育の自由, 集会結社の自由, 言論出版 の自由
→労働者団体の結成(ブルノ, リベレッツ, プラハ, ブラティスラヴァ)
 │ ■学校法:義務教育年限を14歳までとする制度導入
 │   ・尋常小学校(8年制)   ・尋常小学校(5年制)・高等小学校(3年制)・ギムナジウム(8年制)
 │    実用学校(7年制)│   ・師範学校(4年制)
 │1868年戒厳令
 │1868~1872年経済的発展
 │ 1862~72年チェコ地方に100前後の製糖工場新設│ 1869年商業銀行(ジヴノステンスキー・バンカ)創業
 │ 1869年凸版印刷術発明(ヤクプ・フスニーク)→1878年凹版印刷術発明(カレル・クリーチュ)
 │ 1871年プラハ株取引所開設
 │1873~1879年経済危機
 │ ・資本の集中と中央集権化・・・大企業の巨大化。大農園は中小農民の土地兼併│ ・12~14時間労働
 │ ・労働者家庭は1部屋だけの湿った暖房もない薄暗い部屋で生活。
 │  食事:薄いスープ, ジャガイモ, 代用コーヒー
 │  *代用コーヒーとは, コーヒー豆以外の原料を使い, コーヒーに似せて作られる飲み物のこと。
原料としては, タンポポの根, ジャガイモ, カボチャの種, 大豆などがある。
 │ ・結核・骨軟化症・貧血症などの疾病流行
 │ ・アメリカへ移民の増加(チェコ1850年代開始, スロヴァキア1860年代開始) ・周辺国への移動
 (4)ウィーン大学哲学部
  1872年アカデミー古典学校卒業。ウィーン大学哲学部入学。
   ・古典文献学専攻→哲学研究:テオドル・ゴンペルツ教授のギリシア哲学史受講。
  1873年ロベルト・ツィンマーマン教授の哲学史受講。
   ・5月1日ウィーン万国博覧会。5月9日ブラックフライデー(株価大暴落)
   ・2歳年下の弟マルチン死亡(極寒の行軍でひいた風邪をこじらせ,最後はチフスに罹って亡くなる)。
  1874年フランツ・ブレンターノ教授がウィーン大学赴任。
  1876年学位論文「プラトンにおける精神の本質」提出→哲学博士の学位授与。
  1877年ライプツィヒで研究生活。妻となるシャーロット・ガリグと出会う。
   ・1850年11月28日, ニューヨークのブルックリン生まれ。マサリクと同い年の26歳。
二人はたちまち恋に陥り,まもなく婚約。
   ・シャーロット帰国。マサリクもウィーンに戻って年末に『社会学原理』と題する教授資格請求論文提出。
  1878年シャーロットが馬車から落ちて重傷。マサリク渡米。結婚式。
   ・結婚後, 妻の名字をミドル・ネームに入れてトマーシュ・ガリグ・マサリクと名乗り, 古典学校以来使ってき
たヴラスチミル(愛国者)は使わなくなった。
   ・論文『群衆現象としての自殺』再提出。
  1879年教授資格授与(3月7日):マサリク29回目の誕生日。
   ・長男ヘルベルト誕生。
   ・秋の新学期からウィーン大学で教壇に立つ。無給の私講師。
  1880年長女アリツェ誕生。

 (5)プラハ大学哲学部教授としての生活 ── オーストリア帝国におけるチェコの政治状況─── 
 │1874年スロヴァキア語のギムナジウム閉鎖
 │ ・スロヴァキア民族の教育機関「スロヴァキア基金」解散(1875)
 │1874年オーストリア社会民主党結成
 │ →1878年オーストリア社会民主党内部に「チェコスラヴ社会民主党」設置
 │1874年チェコ国民党から国民自由党(一般には「青年チェコ党」)独立
 │ ・老チェコ党は大土地所有者(貴族層)と妥協的であると批判→選挙権拡大, 自治を要求。
 │1878年領邦議会選挙:両党が連合して院内会派結成を前提とする選挙戦を展開。
 │           老チェコ党69議席・青年チェコ党14議席。
 │1879年帝国議会選挙:チェコ人議員, 16年ぶりにウィーンの議会に復帰。
 │1879年〔墺〕ターフェ内閣(1868~70, 79~93)成立。
 │ ・エドゥアルト・ターフェ伯爵Eduard Taaffeは,皇太子フランツ・ヨーゼフの御学友。 
 │ ・ベーメンとモラヴィアから選出されたチェコ人議員は,「チェコ・クラブ」という院内会派を結成して帝国議
会の与党。老チェコ党員アロイス・プラジャークが入閣。
 │ ・チェコ人議員の帝国への忠誠と引き換えに行政面での改革
 │  ①シュトレマイヤー言語令:ドイツ語・チェコ語がベーメンとモラヴィアにおける外務公用語(役所の窓口
用 語)として対等の地位。
 │  ②チェコ語を教育言語とする初等・中等学校を増設。
 │  ③1882年ドイツ語を教育言語とする部門(通称ドイツ大学)と,新たに創設されたチェコ語を教育言語と
する部門(通称チェコ大学)に分割。
 │ ・帝国政府・ドイツ人に利する結果→チェコ人と隣国ハンガリー王国と格差拡大→老チェコ党と青年チェコ
党に亀裂
 │ ・労働運動の弾圧:「飴と鞭」政策
 │  1)鉱山労働の時間短縮。障害や疾病に関する保険制度。
 │  2)労働団体・組織の解散。機関誌の発行禁止。社会主義運動弾圧。
  1882年マサリク, プラハ大学(正式にはカレル=フェルディナント大学)のチェコ語部門の哲学教授として赴任。
   ・プラハ大学哲学部は,カレル橋側の複合建築クレメンティヌムの中。
   ・教授就任講義「蓋然性の計算とヒュームの懐疑」。
  1883年評論誌『アテーネウム』創刊。
  1885年末,プラハ大学教授ヤン・ゲバウエルがヴァーツラフ・ハンカが発見したとされる中世チェコ語で書か
れた詩文や,匿名の人物から民族博物館宛に送付された
    手稿(チェコの民族神話「リブシュの裁き」の物語)を疑う論考発表。
  1886年プラハ大学教授マルチン・ハタラ教授が激しく攻撃。→「手稿論争」
   ・マサリクはヤン・ゲバウエル教授支援。
 │1883年プラハ国民劇場完成
 │■ベドジフ・スメタナBedřich Smetana(1824.3.2~1884.5.12, ドイツ語名Friedrich Smetana):チェコの作
曲家。「ヴルタヴァ」(モルダウ)を含む一連の6つの交響詩から成る『わが祖国』(Ma Vlast)が有名。
 │  スメタナは1824年3月2日, ボヘミア北部のリトミシュル(Litomyšl Leitomischl)でビールの醸造技師の
息子として生まれた。若い頃にピアノとヴァイオリンを学び, 家族の参加していた趣味的な弦楽四重奏団
で演奏していた。父親の抵抗にも拘らず, 音楽を学ぶためにプラハへ赴いたスメタナはある貴族の音楽
教師の座を獲得し, 1848年には作曲家フランツ・リストからの資金援助を受けて音楽学校を設立した。 1874年に中途失聴者となるが作曲活動を続│
 │け,   代表作に『わが祖国』がある。│
 │   1884年, プラハの精神病院へ収容された後, この地で生涯を終え, ヴィシェフラットの民族│
 │  墓地に葬られた。チェコ国民楽派の開祖。彼の歌劇の多くはチェコの題材に基いており, 中で│
 │  も『売られた花嫁』は喜劇として最もよく知られている。アントニン・ドヴォルザークに大│
 │  きな影響を与えた。│
 │   スメタナ博物館はカレル橋近くにあり, ヴルタヴァ川(モルダウ川)右岸に面している。1863│
 │  ~69年, スメタナはこの家に住み, オペラ《売られた花嫁》を作曲した。博物館前はカフェに│
 │  なっており, カレル橋とプラハ城の眺めが美しい。│
 │  歌劇 :『ボヘミアのブランデンブルク人』(1862)・『売られた花嫁』(1863)・『ダリボル』(1867)│
 │ │
 │      『リブシェ』(1872)・『二人のやもめ』(1874)・『口づけ』(1876)・『秘密』(1878) │
 │      『悪魔の壁』(1882)・『ヴィオラ』(未完) │
 │    管弦楽曲:祝典交響曲 作品6(1853)・交響詩『リチャード三世』(Richard III)作品11 │
 │     (1857-58)・交響詩『ヴァレンシュタインの陣営』作品14(1858-59) │
 │      交響詩『ハーコン・ヤルル』(Hakon Jarl)作品16 (1861-62) │
 │      連作交響詩『わが祖国』(Ma Vlast)(6曲)(1874-79) │
 │      祝典序曲 ニ長調 作品4(1848-49)・プラハの謝肉祭 │
 │    室内楽曲:弦楽四重奏曲第1番ホ短調『わが生涯より』(1876) │
 │      弦楽四重奏曲第2番ニ短調(1882-83)・ピアノ三重奏曲ト短調作品15(1855) │
 │      『わが故郷から』(ヴァイオリンとピアノのための2曲)(1880) │
 (6)青年チェコ党の躍進
  1887年院内会派の分裂。
    ヤン・ヘルベン等若手ジャーナリストが隔週紙『チャス』創刊。
  1888年青年チェコ党の帝国議会議員が独自会派を設立。
  1889年領邦議会議員選挙:老チェコ党55議席, 青年チェコ党42議席獲得。
   ・チェコ人議員合計が83名から97名に増加。老チェコ党の圧倒的優位が崩壊。
   ・『チャス』週刊紙化。マサリク, 編集責任。
   ・『チャス』はマサリク, ヨゼフ・カイズル教授Josef Kaizl(プラハ大学政治経済学
    担当。1885~87年老チェコ党帝国議会議員),プラハ大学時代にカイズルの講義
    を聴いたこともあるカレン・クラマーシュKarel Kramarを結びつける。
    →老チェコ党系ジャーナリズムは彼等を「リアリスト」と呼ぶ。
  *1889~1914.第二インターナショナル〔国際社会主義者大会〕結成
   ・本部パリ。フランス社会党・ドイツ社会民主党中心。
   ・1890年5月1日メーデー行進 
  1890年「人民綱領草案」発表
   ・クラマーシュが政治、カイズルが経済、マサリクが文化問題を担当。
   ・全体的にはパラツキーが1848年革命時に示した〈オーストリア・スラヴィズム〉
    の精神を踏襲。オーストリア帝国の枠組み内での「諸民族の同権」,「スラヴ人の
    連帯」を要求。
   ・貴族特権の廃止,婦人教育の促進を含む教育機会の拡大,チェコ語・ドイツ語の
    同権,チェコ人企業家の保護を要求。
   ・普通選挙の実施を要求。(領邦議会を重視する立場から)帝国議会の直接選挙に
    反対。
   ・「手稿論争」でマサリクたちを激しく攻撃した青年チェコ党の指導者の一人ユリ
    ウス・グレーグルとの交渉が成功。リアリストの主張の受入と三人組の入党で合
    意。 
  1891年3月帝国議会選挙:青年チェコ党, 老チェコ党に圧勝。
   ・青年チェコ党の選挙綱領, リアリスト・グループが作成。三人も同党候補者とし
    て当選。
   ・チェコ人政界の主導権, 青年チェコ党に移動。
 │■クーリエ制kurieという独特の制限選挙│
 │ ・大土地所有者に投票権を認める第1クーリエ, 商工会議所会員の第2クーリエ, 一定額以上│
 │  の納税者による都市と農村の第3及び第4クーリエ,クーリエ別に選挙が行われる制度。特│
 │  に有権者に対する議員の割り当ては極端に第1・第2クーリエに多く, また都市と農村では│
 │  前者が有利。│
 │ ・1882年第3・第4クーリエの納税額引き下げ→青年チェコ党, 中産階級下層部に支持者拡 │
 │ 大。│
 │ ・1891年帝国議会議員選挙(小選挙区制):都市の第3クーリエでは青年チェコ党57%の得 │
 │ 票で21議席確保。老チェコ党は12議席。農村の第4クーリエでは,青年チェコ党が58% │
 │ の得票で16議席全てを確保。│
 │ ・マサリクは南西ベーメンの都市選挙区で当選。帝国議会で教育問題に関する演説。│
 │ ・1893年普通選挙権を求める大衆運動│
 │  1894~96年8時間労働制, 労働者の生活改善を求める経済闘争→激しい弾圧│
 │■〔墺〕ターフェ内閣:行政区画を言語によって細分化し, 諸民族の住み分けを実│
 │    現しようとして貴族保守派やドイツ人リベラル派,老チェコ党と合意。│
 │ →青年チェコ党:政権与党の合意はチェコ諸領邦の一体性を損なうと激しく反 │
 │         発。│
 │ *青年チェコ党内部で, 帝国の連邦制化を要求する急進派と, 政府との妥協も必│
 │  要と考える穏健派(カイズル, クラマーシュ)の対立が深刻化。│
 │  盟友のカイズルやクラマーシュが次第に党の主導権掌握。│
  1893年マサリク,議員辞職→学究生活に戻る。
    雑誌『ナシェ・ドバ(我が時代)』創刊。
    1895年論文『チェコ問題』『われわれの現在の危機』発表。
    1896年論文『ヤン・フス』『カレル・ハヴリーチェク』発表。
    1898年『社会問題』(マルクス主義批判を通して独自の社会主義論を展開)。
  1894年青年チェコ党穏健派, 急進派の一部を党から排除。
    男子普通選挙の実施, チェコ人大学の増設, チェコ語をドイツ語と同じ内務公用語
   (役所内で用いうる公用語)とすることなどを要求。
  1895年バデーニ内閣成立。政局安定化のために青年チェコ党穏健派と交渉。
  1896年選挙制度改革:新たに第5クーリエを設け, 24歳以上の全ての男子に選挙権 
   を付与。→有権者数を三倍以上に増大。
   ・議員数合計353に対して, 第5クーリエで付け加えられた議席は72。第1クーリ
    エと資格制限のない第5クーリエの間の一票の格差は1250倍。
  1897年3月選挙:社会民主党14名当選(ブルノ選出のヨゼフ・ヒベシュを含めチェ
    コ人5名, ドイツ人6名の合計11名がチェコ地区から選出)
   ・全オーストリア社会民主党分裂(民族的亀裂)
   ・チェコスラヴ労働組合連合設置(プラハ)
  1897年チェコ語もチェコ諸領邦の内務公用語として認める言語令提示→ゲオルク・リ
    ッター・フォン・シェーネラー(ドイツ人民族主義者)の議事妨害運動→デバー
    ニの言語令撤回→デバーニ内閣総辞職。
  1898年トゥーン内閣成立。カイズルが大蔵大臣として入閣(1901年死亡, 47歳)。
  1899年農民党agralni strana結成。                       
     

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チェコスロヴァキアの歴史 8


8.バッハ絶対主義体制
■バッハ体制時代:1848年革命以後の新絶対主義政治。内務大臣アレクサンダー・フォ
          ン・バッハの名に因む。
 │(1)鉱工業の発展│
 │ ①オストラヴァやクラッドノの無煙炭鉱山, 北チェコの褐炭鉱山(石炭の中でも石│
 │  炭化度が低く, 水分や不純物の多い最低品位なもの)│
 │ ②コークス溶鉄法の普及│
 │ ③機械工業の開始(1850~60年代)│
 │  ・プラハ:リングホーフェル工場(スミーホフ地区)・ダニェク製作所(カルリ│
 │        ーン)│
 │  ・プルゼニ:ヴァルトシュテイン伯爵の鉄工場│
 │       (1860年代半ばにエミル・シュコダが入手)│
 │ ④繊維産業:工場制機械工業に移行│
 │(2)職業法(1859年):職業の自由を法律で保証。ギルド制度消滅。│
 │(3)交通革命:蒸気機関車を配備した鉄道網│
 │(4)外国資本の流入。│
 │  ハプスブルク帝国西半分とハンガリー領域との関税障壁撤廃→安価な穀物流入│
 │ 工業生産の重心が次第にハンガリー(特にペシュト)に移動│
 │■バッハ絶対主義体制(←1848年革命の挫折)│
 │ フランツ=ヨーゼフ1世Franz JosephⅠ(位1848~1916):1851年憲法廃止│
 │(1)国家行政の整備(国家行政の中心はウィーン)│
 │ ・国内主要都市(プラハ, ブルノ, オパヴァ)には「地方総督」を, その下には「地│
 │  方長官」(全体で約100名)配備。│
 │ ・制限選挙制度→自治機構:地域代表(チェコ領域のみ)・地方議会│
 │              国税・地方税の徴収→道路・下水・学校・病院の財源。│
 │  *スロヴァキアの行政の基礎は州・委員会で, ブダペシュト政権に直属。│
 │ ・徴税・郵便・鉄道・煙草販売は国家独占│
 │(2)司法制度:地域法廷→地域高等法廷→最高法廷(ウィーン)│
 │(3)軍隊(徴兵制度)。警察・憲兵による監視体制。│
 │(4)ゲルマン化(オーストリア愛国主義):役所・学校ではドイツ語導入。│
 │(5)民衆の抵抗│
 │ ・バンスカー・シュチアヴニツァにおける炭坑夫ストライキ(1852)│
 │ ・カレル・ハヴリーチェク・ボロフスキーの活動(「民族新聞」, 「スラヴ新聞」)│
 │ 1853年聖地管理権問題:聖地イェルサレムの管理権をめぐってカトリック教会・ギ│
 │            リシア正教会が対立→フランス・ロシアの対立に発展│
 │  【露】(ニコライ1世〔在位1825~1855〕)モルダヴィアとワラキア占領│
 │ 1853~1856年クリミア戦争:セヴァストーポリの戦い(1854~55)│
 │  【露】オスマン帝国・英・仏・普・墺(1854)・サルディニア(1855)に敗北│
 │ 1856年パリ条約:オスマン帝国の領土保全。国際海峡協定の再確認(ボスフォラス│
 │  海峡・ダーダネルス海峡の中立化)。黒海の中立化。│
 │  【露】南下政策失敗→墺露両国の関係が悪化│
 │  【サルディニア王国】英仏の支持の取り付けに成功│
 │    ヴィットリオ=エマヌエーレ2世〔在位1849~61, 伊王位1861~78〕│
 │    カヴール首相〔任期1861〕│
 │ 1858年プロンビエールの密約(サルディニア・仏)│
 │  仏皇帝ナポレオン3世がサヴォイア・ニース割譲を条件に援助約束 │
 │ 1859~1860年イタリア統一戦争:対墺戦争│
 │  1859年ヴィッラフランカの和約:【サ】ロンバルディア併合│
 │  1860年仏, 単独講和→【サ】中部イタリア併合│
 │     ガリバルディ(青年イタリア党出身, 千人隊〔赤シャツ隊〕), 両シチリア│
 │     王国征服(シチリア上陸, ナポリ王国占領)│
 │     【サ】ナポリ王国併合│
 │  1861年イタリア王国の成立(都トリノ→フィレンツェ→ローマ)│
 ■立憲君主制の復活
 │ 1860年フランツ=ヨーゼフ1世Ⅰ(位1848~1916), 「10月認可」発布│
 │                         (絶対主義廃止)│
 │ 1861年「二月勅令」:連邦制の要求無視│
 │  ①帝国議会(rada):二院制│
 │   ・上院(貴族議会):非公選の皇族議員・貴族議員・勅任議員によって構成さ│
 │             れ, 議員の多くが終身任期。│
 │   ・下院(代議員議会)│
 │  ②帝国議会議員(下院)の選出方法:各領邦議会に議席を割り振る不平等なもの。│
 │   領邦議会選挙は厳しい制限選挙→大土地所有者や都市に有利な議席配分。│
 │   チェコ諸領邦における政治はドイツ人に有利│
 │   チェコ人代議士の割合:プラハ議会は約1/3, ブルノ議会は約1/5, オパヴァ議会│
 │              は1人, ハンガリー議会は0人。│
 │   →チェコ人政治指導者, 帝国議会・領邦議会をボイコット(~1879年10月)│
 │ ■19世紀後半におけるハプスブルク帝国内の政治的対立軸│
 │  ・身分秩序の維持と帝国の一体性を最優先する保守的中央集権派│
 │    ウィーンの官僚勢力。「上からの近代化」志向。リベラル派との接点。│
 │   身分制打破と地域自治の推進を目指すリベラル的地方分権派。│
 │  ・チェコ国民党(1860年成立):チェコ人上層貴族や中産階級を基盤。│
 │   〈保守的地方分権派〉的傾向→1861年二月勅令(連邦制無視)に反発し, 立憲│
 │    的改革や地方分権を要求→分裂傾向。│
 │ 1861年「スロヴァキア民族の宣言」:シュテファン・ダクスネル起草│
 │  ・独立民族としてのスロヴァキア人の承認, ハンガリー王国内における自治単位│
 │   としてのスロヴァキア領の宣言, スロヴァキア教育協会・スロヴァキア学校制│
 │   度の拡大を要求│
 │  →1863年「スロヴァキア財団」設立→ギムナジウム開設│
 │ 1864年デンマーク戦争│
 │  【普】ヴィルヘルム1世〔在位1861~88〕│
 │     ビスマルク首相〔在任1862~90〕:鉄血政策, 参謀総長モルトケ│
 │   普墺が同盟│
 │  →1865年ガシュタイン協定:シュレスヴィヒ公国はプロイセン, ホルシュタイン│
 │                公国はオーストリアの管轄下。│
 │ 1866年普墺戦争→プラハ平和条約│
 │  【普】シュレスヴィヒ・ホルシュタインを併合→北ドイツ連邦(1867~71)  │
 │  【墺】ドイツ連邦から排除│
 │ 1867年オーストリア皇帝フランツ=ヨーゼフ1世, マジャール人の要求をいれて「ハ│
 │ ンガリー王国」建設→「墺=ハンガリー帝国」(1867~1918)│
 │ ■《アウスグライヒ(和協)体制》Ausgleich│
 │  ・オーストリア帝国・ハンガリー王国は, フランツ=ヨーゼフ1世という共同君│
 │   主を戴く二重君主国家。│
 │  ・内政はほぼ完全な自治を享受し, 共通の外務・陸海軍, 及び両国にかかわる財│
 │   政を担当する大蔵からなる「共通内閣」を持つ特殊な政体。│
 │  ・アウスグライヒ体制は二重国家という意味では分権的といえるが, それぞれの│
 │   国家にとっては従来以上に中央集権的。│
 ││
 │墺皇帝=ハンガリー国王│
 │┌──────────────┴─────────┐│
 │【墺】│首相(墺政府)│   【ハンガリー】│首相(ハンガリー政府)│
 │││共通閣議││││
 ││┌────┼────┐│││
 ││国防軍│       共通蔵相  共通外相  共通陸相││国防軍│
 │││││
 ││ 総督│共通軍│ 総督││
 ││ ボスニア=ヘルツェゴヴィナ政庁││ クロアティア政府┼─┐│
 ││ 地方議会││ クロアティア議会│││
 │││
 │┌────────────┐││
 ││墺帝国議会│→│墺代議団│ハンガリー代議団│←│ハンガリー王国議会│←┘ 40名│
 │ 60名└────────────┘60名│
 │ 共通議会(ウィーン, ブダペシュトで交互に開催│
 ││
 │ 1867年【墺(チェコの領域を含む)】「12月憲法」│
 │     *形式的ではあるが基本的人権を保障(経済活動の自由, 思想信仰の自由,
 │      学問教育の自由, 集会結社の自由, 言論出版の自由)│
 │    【ハンガリー】「1848年憲法」│
 ││
 │ ■墺=ハンガリー帝国で産業・経済の自由化が本格化(1860年代)│
 │  ・都市計画や鉄道網の整備│
 │  ・ウィーンの証券取引所がヨーロッパ大陸における株式売買の中心的役割│
 │  ・1873年の万博開催が決定→土地や株式の投機が活発化(実体経済のないバブル│
 │   現象)│
《1848~67年の文化》
 ①哲学:アウグスティン・スメタナ, F.M.クラーツェル
 ②自然科学:ヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニュ(プラハ大学)
 ③文学:ボジェナ・ニェムツォヴァー『おばあさん』, カレル・ヤロミール・エルベン
    『花束』, ハヴリーチェク『聖ヴラジミールの洗礼』・『チロル・エレジー』
 ④造形芸術:ヨゼフ・マーネス, アドルフ・コサーレク, カレル・プルキニェ, ソビェス
     ラフ・ピンカス, ペーテル・ボフーン, ラジスラフ・ドゥナイスキー
 ⑤演劇・音楽:1862年最初のチェコ語常設劇場「暫時(prozatimni)劇場」開設
 ⑥文化活動の発展:「芸術会議」, 「フラホリー」(歌手の団体), 「スヴァトボル」(作
          家集団), 「ソコル」(体育協会)。
・百科事典『教養事典』全11巻出版(1859~74)
   ・「スロヴァキア基金」設立(1863)

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高校教育私論

  

 昨年12月16日、朝日新聞「記者有論」に掲載された山上浩二郎氏(社会部)の文章「高校教育 最低限の学びくらいは」を読み、少なからず違和感を抱いた。山上氏は「学びの質がこれ以上落ちないためにはどうすればいいのか。」と問い、高校・大学両者の教育を一体にとらえて「『全入時代』の学びの将来像を描くべきだ」と主張する。また、「高校も大学も入試の圧力では勉強の意欲を維持できない。」ために、「『高卒ならこのくらい』という全体の共通性がなくなってきた」ことを問題視し、多様化路線を転換して「学校間格差を縮めて学びの内容を充実させるべきだ」と説いている。しかし、私は山上氏も指摘している「進学率98%の高校、えり好みしなければどこかには入れる大学」という実態の前では、氏の主張ではとても解決策とは思えない。
 先ず第一に、高校教育に関する認識の相違がある。戦後、高度経済成長とともに伸びてきた高校進学率は今や全入状態と化したために、「幅広く生徒を受け入れるための多様化」を必要としたのである。にもかかわらず、同じ高校という枠組みでしばり、生徒の実態に即した教育ができていないことに問題がある。確かに多様化路線の中で普通科高校・専門高校以外に総合高校が誕生し、全日制・定時制以外に通信制や中等教育学校が誕生したが、未だそれぞれが個性的な教育を実現したとは言い難い。例えば普通科高校では新たな必修科目の出現で地理歴史科・理科などでかつてなら誰もが履修した科目を教えられず、専門高校では資格取得を目指した特殊な学科以外は学習意欲を持てない生徒が多い、など問題が山積している。多様化した高校を従来通り一括りにして良いのかという問題もあるが、いずれにせよ、各学校の実態に即した教育課程を編成できるように改善する必要があり、専門高校生に対しては専門職としての誇りを持たせるべきである。
 第二に、山上氏は「私大では学力検査のないAO・推薦入試で入学する学生が5割を超える」現状から、入試の圧力は大学教育の改善策とはならないとしているが、それではユニバーサル状態にある大学を変える解決策は生まれない。私は、国公私立を問わず大学進学志願者全員に「大学入試センター試験」受験を課すことこそが、大学進学者の「質」を担保する有効な方策だと思うがいかがか。その際、受験科目は6教科(国語・地理歴史・公民・数学・理科・外国語)7科目(900点満点)とし、得点合計が一定数を超えた受験生には無条件で大学進学資格を付与すべきである。私がセンター試験を「資格試験」化した方が良いと考える理由は、大学進学者の学力担保と教育を受ける機会の公平さを確保するためである。センター試験後に行われる一般入試(個別試験)・推薦入試・AO入試では、各大学の学部・学科が本当に必要とする教科・科目に絞って出題し、学力試験を課さないでスポーツその他の特技や面接・小論文等で選抜することも可能であろう。特に個別試験では「特定分野に秀でた受験生を入学させる」工夫が求められ、最高学府に相応しい教育・研究を実現できるように配慮すべきである。私は、例え誰であろうとも「学ぶ意欲」がありさえすれば、国家・地域社会はその人間にあった学舎を用意してあげるべきだと考える。しかし、低学力の者、学力は高いが大学教育に期待していない者などが「とりあえず進学」することを放置して良いとは思わない。何故なら、「とりあえず大学進学」は大学の役割否定に繋がっているし、 国公私立大学の区別なく税金で運営されている現状を考えれば全く無駄なことをしていると言わざるを得ない。そして、高校・大学の教育に共通して重要なことは、日本国憲法第26条や教育基本法第4条を読み返すまでもなく、誰もが納得する「公平さ」である。

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January 13, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 7

7.二重革命の時代 ~ 産業革命・フランス革命の影響 ~
 │【産業革命】技術革新に伴う産業・経済・社会の大変革
 │ 《イギリス産業革命(1760~1830)》
 │   ①イギリス革命により特権・ギルド制度の廃止。国内市場の統一。
 │   ②マニファクチュアの発展や植民地貿易で資本蓄積。
 │   ③豊富な労働力・食糧の確保。
 │    農業革命(18世紀後半~19世紀前半):穀物価格の高騰→原料農業から食料
 │                      農業へ転換
 │    第二次囲い込み運動:地主貴族が土地兼併→資本主義的農業
 │              独立自営農民(ヨーマン)が没落→工場労働者
 │    農業技術の改良(四輪作法):三圃農法の休耕地に蕪と飼料作物栽培(クロ
 │                  ーヴァー)
 │     *4年周期で大麦→クローヴァー→小麦→蕪を生産する「ノーフォーク農法」の採用で
 │       休耕地がなくなり, 穀物増産。ノーフォークはイングランド東部の州。
 │   ④豊富な工業原料(石炭・鉄鉱石, インド・アメリカの綿花)。
 │   ⑤英仏植民地戦争の勝利や海外市場の獲得で市場拡大。 ⑥科学技術の発達。
 │ 《技術革新》①技術革命:近代製鉄法, 木綿工業の機械化(紡績・織布)。
 │       ②動力革命(蒸気機関)。③交通革命(蒸気機関車・蒸気船)
 │【フランス革命・ナポレオン戦争】
 ││1789年:三部会召集。国民議会成立(→憲法制定議会)。
 ││     バスティーユ襲撃(フランス革命勃発)。国民軍結成。
 ││     封建的特権廃止宣言
 ││     人権宣言(自由平等の権利, 自然権の保全, 国民主権, 所有権の不可侵)
 ││     ルイ16世・マリー=アントワネット夫妻, パリ連行(←ヴェルサイユ宮殿)
 ││1791年:ヴァレンヌ逃亡事件。立法議会(1791~92)
 ││1792年:8月10日事件(国王をタンプル塔に幽閉)。国民公会(1792~95)。
 ││    第1共和政治(1792~1804)。
 ││1793年:ルイ16世処刑。第1回対仏大同盟(1793~97)。
 ││    ジャコバン独裁(1793~94)→テルミドールの反動(1794)
 ││1795年:総裁政府(1795~1799)
 ││1799年:ブリュメール18日のクーデター(ナポレオン=ボナパルト)→統領政
 ││    府(1799~1804)
 ││1804年:第一帝政(1804~14, 15, ナポレオン1世)
 ││1806年:アウステルリッツ三帝会戦〔仏墺露〕
 ││    →ライン同盟成立(1806~13):盟主ナポレオン1世。
 ││                   普墺を除く全ドイツ諸国同盟    
 ││     神聖ローマ帝国(962~1806)滅亡
 ││    大陸封鎖令(ベルリン勅令):対英経済封鎖
 ││1807年:プロイセン改革(~14)
 ││1808年:半島戦争(スペイン, ~14)
 ││1812年:ロシア遠征(モスクワ遠征)
 ││1814年:ウィーン会議(~1815, シェーンブルン宮殿〔墺〕)
 (1)農業の進歩と産業革命
①農業の発展
   ・牧場をつぶし, 養魚場を干拓して耕作地拡大。人工肥料の導入。
   ・鋤ruchadloの改良(1824~27年, ヴェヴェルク・スリヴィトゥヴィー兄弟)
・ジャガイモ・サトウキビ(→製糖業)・トウモロコシ・煙草の栽培。
    新飼料(クローヴァー, ムラサキウマゴヤシ, イガマメ)の栽培。
・大農園では連続栽培法採用(18世紀末):イギリスのノーフォーク農法に相当。
  ②産業の発展
   ・フランス革命・ナポレオン戦争(需要の増大。イギリスとの競争中断)
    →鉄工業・繊維工業(紡績・織布)の発展
    →ハプスブルク帝国の財政破産(1811年):貨幣価値1/5に下落
③産業革命
   ・ナポレオン戦争終結→イギリス商品との競争
 │1760年代イギリス産業革命開始→ベルギー, フランス(1810年代~第二帝政期),アメリカ合衆
 │ 国(1810~60年代),ドイツ(1830~70年代),ロシア(1860年代以降),日本(1890年代)
 │1835年ニュルンベルクで蒸気機関車が走る(ヨーロッパ大陸で最初)。
   ・チェコの産業革命(1830/40年代以降)
    1)織物産業・綿糸産業(色とりどりに捺染した安価な布地が流行)
      *プラハはハプスブルク領内最大の工業都市に成長。
      *ベーメン第二の都市プルゼニでは機械工業が発達。ショコダ製作所(兵器
       製造会社)。ベーメン南部の都市チェスケー・ブジェヨヴィツェ(ガラス
       工業・製糖業)。
      *プルゼニ,チェスケー・ブジェヨヴィツェは,ともに帝国有数のビール製造
       業の拠点。
    2)1830年代半ば, コークス溶鉄法(ヴィトコヴィツェ製鉄工場)
    3)1815~1817年, プラハ高等技術学校技師ヨゼフ・ボジェク, 蒸気機関車・蒸
       気船の組み立て
      1825年, 鉄道馬車(アルプス~チェスケー・ブジェヨヴィツェ)で塩の運搬
       開始
      1845年ウィーンからブルノを経てプラハに至る「カイゼリン・エリーザベト
       西部鉄道」全通
    4)1824年, チェコ貯蓄銀行設立。1842年, スロヴァキア貯蓄銀行設立。
 (2)ウィーン体制と新しい革命の波 -1848年革命の影響 -
 │1814~1815年ウィーン会議(シェーンブルン宮殿):「正統主義」
 │ ・フランス革命やナポレオン戦争の中で追求された自由・平等の理念や「国民国
 │  家の原則」は無視
 │ ・主権国家間の《勢力均衡》(balance of power)を最優先する国際秩序の再建。
 │ ・革命期にヨーロッパ各地で芽生えた「リベラリズム」(自由主義)や,「ナショ
 │  ナリズム」(国民主義・民族主義)と厳しく対立。
 │ ■ドイツ連邦(35君主国家と4自由市)
 │ ・フランクフルト連邦議会(オーストリア代表が議長)
 │ ・メッテルニヒ体制:秘密警察が市民生活のあらゆる領域に入り込み,革命思想
 │  や自由主義思想,そしてナショナリズムの伝播と流布を摘発。
 │ ・「ビーダーマイヤー」Biedermeierの名で呼ばれる市民文化。
 │ *ビーダーマイヤーとは, 19世紀前半のドイツやオーストリアを中心に, より身近で日常的なモ
 │ ノに目を向けようとして生まれた市民文化の形態の総称。ビーダーマイヤー時代は, ウィーン体
 │ 制(1815年)から1848年革命までの期間であるが, 1830年代あたりまでという捉え方もある。
 │ ナポレオン戦争後の諦念的ムードの中で, 理想主義的で観念的なものへの反発がおき, 理念的な
 │ ものを追求せず日常的で簡素なものに目を向け, 探求する風潮が出てきた。語源はドイツの判事
 │ ルートヴィヒ・アイヒロットによって書かれた, 1850年のドイツの風刺週刊誌『フリーゲンデ
 │ ・ブレッター』 (Fliegende Blatter) の中に登場する架空の小学校教員ゴットリープ・ビーダー
 │ マイヤーに由来する。
 │1817年ブルシェンシャフト運動→1819年カールスバートの決議
 │1830年ハンガリー独立運動
 │1833年「ドイツ関税同盟」(プロイセン中心の経済的統合)
 │ ・プロイセン中心の「北ドイツ関税同盟」に南ドイツ関税同盟・中部ドイツ通商
 │  同盟が加盟して成立。リストの影響大。
 │ ・産業革命(資本主義の発達)→政治的統合の要求
 │1848年ウィーン三月革命
 │ ・メッテルニヒ,ロンドン亡命。皇帝フェルディナント1世FerdinandⅠ(位1835
 │  ~1848), 憲法制定と自由主義的改革を約束して退位。
 │ ・フランツ=ヨーゼフ1世Franz JosephⅠ(位1848~1916), 革命弾圧。
 │ ・フランクフルト国民議会(大ドイツ主義・小ドイツ主義)→小ドイツ主義決定
 │  →ドイツ統一失敗
  ①人口の増大
【1781年】400万人以下→【1846年】650万人(プラハ12万5000人)
②資本主義経済の発生
   ・農村家内工業の衰退→紡績職人・織物職人が失職→工場労働者(1日12~16時
    間労働。労働者総数の約半数は子ども(6~12歳))
   ・階級対立(資本家・労働者)の発生
    1843~1844年, チェコ領地における労働者暴動(プリント布地の捺染工。ブルノ
    プラハ, リベレツコ)
③1848年革命
   1848年(2月)フランス二月革命→「諸国民の春」
      (3月13日~10月)ウィーン三月革命:学生・市民・労働者の反乱
                         メッテルニヒ, ロンドン亡命
       ・皇帝フェルディナント1世FerdinandⅠ(位1835~1848), 憲法制定と
        自由主義的改革を約束して退位。
       ・フランツ=ヨーゼフ1世Franz JosephⅠ(位1848~1916), パリの「六
        月蜂起」鎮圧を知り, 革命弾圧。
       ・ベーメンではチェック人の自治が認められ, ハンガリーではコシュート
        Kossuthの指導の下に独立政府を樹立。→諸民族間の利害対立→チェッ
        ク人の民族独立運動弾圧。ハンガリーもロシアの支援を受けたオースト
        リア軍に抑え込まれてしまった。
      (3月18日~11月)ベルリン三月革命
       ・カンプハウゼン内閣(自由主義)
         :憲法制定約束。国内のポーランド独立運動抑圧。
       ・国王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世(在位1840~61), 一時引退(3/22
      (3月18日)ハンガリーにおける農奴制の廃止 
      (3月後半~4月)プラハ織物工の抗議行動 
      (3月末)南スロヴァキアの農民暴動とバンスカー・シュティアヴニツア鉱
           山労働者の抗議行動 
      (4月)オーストリア皇帝フェルディナント1世の内閣書簡
      (4月11日)フランクフルト・アン・マインへのフランティシェク・パラ
           ツキーの書簡
      (5月11日)「スロヴァキア人民の要求」 
      (6月初)軍隊によるプラハ郊外の工場占拠
      (6月2日)スロヴァキア議会開会 
      (6月12~17日)プラハ6月暴動 
      (6月)プラハでスラヴ民族会議開催(歴史家パラツキー) 
      (9月7日)オーストリアにおける農奴制の廃止
      (9月18~28日)スロヴァキアへの義勇軍の遠征 
      (10月)ウィーン暴動 
      (11月22日)クロムニェジーシュにおける帝国議会開会
   1848~49年フランクフルト国民議会
    1)議員は各邦における普通選挙で選出(官吏・学者・資本家が中心)
    2)プロイセン王を皇帝とする憲法制定(1849年, 立憲君主国):小ドイツ主義
    3)プロイセン王拒否→ドイツ統一失敗
     ■大ドイツ主義:ドイツ連邦の領域(墺・ベーメン・モラヴィアも含む)を連邦制的に統
               一しようとする構想。ハンガリーは領域外なので構想から排除される。
               墺皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は反対。は
     ■小ドイツ主義:オーストリアを排除し, プロイセン中心に統一しようとする構想。
               普王フリードリヒ=ヴィルヘルム4世, ドイツ皇帝の冠を拒否。
  ④民族再興運動の展開
  【チェコ】
   ・ヴァーツラフ・マチェイ・クラメリウス, 「愛国新聞(ヴァラステンスケー・ノヴィ
     ニ)」創刊(1789年)
   ・チェコ王立学術協会:啓蒙的学問。鉱物学者イグナーツ・アントニーン・ボルン
・「総合技術学校」開校(1806年, プラハ, 校長Fr.J.ゲルストネル)
    「プラハ音楽院」開校(1808年創設, 授業開始はナポレオン戦争の影響で1811年)
     :音楽と演劇の指導を目的とする高等教育機関。
      初代学長ベドルジフ・ディヴィシュ・ヴェベル
    ■プラハ旧市街にあるプラハ音楽院は, アコーディオン, ギター, ピアノ, オルガンを含む器楽演
     奏や、声楽、作曲、指揮、演劇の教育を提供している。修業年限は6年間。カリキュラムには
     一般教育とともに, 専門的な音楽理論, 語学教育も含まれる。オーケストラと室内管弦楽団, 劇
     団, 複数の室内楽アンサンブルを付設しており, 年間に約250回の演奏会と約40回の演劇を開
     催している。1891年, ドヴォルザークが作曲科の学科長に就任, 1901~1904年は学長。191
     年のチェコスロバキア独立後, 演劇学科とバレエ学科が設立された。
「チェコ博物館」開館(後の民族博物館, 1818年)
   【スロヴァキア】
   ・標準スロヴァキア語の誕生:カトリック司祭アントン・ベルノラーク
                 基本は西スロヴァキア地方の方言
    標準スロヴァキア語の基礎確立(1843年)
     リュドヴィート・シュトゥール, ヨゼフ・ミロスラフ・フルバン, ミハル・ミロ
     スラフ・ホッジャ等の知識人。中部スロヴァキア方言を取り上げた。
・「学術協会」設立(1785年)。「スロヴァキア職人協会」設立(1786年)
    「スロヴァキアの言語と文学を愛する者の協会」設立(1834年)
    全スロヴァキア文化組織「タトリーン」設立(1844年)
リュドヴィート・シュトゥール, 「スロヴァキア民族新聞」創刊(1845年)
   【代表的人物】
・ヨゼフ・ユングマン(1773~1847):『チェコ・独辞典』(全5巻)
   ・P.C.シャファジーク(1795~1861):『スラヴ民族の古代的性格』(1837)
・ヤン・コラール(1793~1852):叙事詩『スラヴの娘』(1824)
 ・フランティシェク・パラツキー(歴史家1798~1876)
     1)「チェコ博物館雑誌」創刊(1827)
     2)1848年革命:オーストリア政府擁護の立場からフランクフルト国民議会招
       待を拒否。プラハで第1回スラヴ民族会議を主催。
     3)第1回オーストリア帝国議会の議員に選出(1848):帝国の連邦化を目指
       して憲法草案起草(欽定憲法発布で無効)
     4)老チェコ党の創設に参加(1860年代初め)
     5)チェコ民族史観の確立:『ボヘミア・モラヴィア史』5巻(ドイツ語版183
       ~67年, チェコ語版1848~76年)
・自然科学:プラハ大学のプレスロヴィー兄弟(植物学。ヤン・スヴァトプルク
     カレル・ボジヴォイ)。ヤン・エヴァンゲリスタ・プルキニェ(生理学), ベル
     ナルド・ボルザーノ(近代数学)
   ・フランティシェク・チェラコフスキー(1789~1852):詩人(ロマン主義)
   ・フランティシェク・シュクロウプ(1801~1862):作曲家。
     1)チェコ最初のオリジナル・オペラ『いかけ屋』上演(1826)
     2)チェコ国歌《わが故郷よいずこ(我が家何処や)》作曲(1834):ヨゼフ・
       カイエターン・ティルの劇『靴屋の春祭り』の挿入歌。
・ヤンコ・マトゥーシュカ(作詞), スロヴァキアの国歌《タトラ山の上に雷光が
     走る(稲妻がタトラの上を走り去り)》作詞(1844)

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January 07, 2012

チェコスロヴァキアの歴史 6

6.白山後期における民族の隷属化
 (1)チェコ戦争(1618~1648三十年戦争)
  1618年(5/23)〔チェコ王国〕プロテスタント貴族とハプスブルク家が衝突し, 教会建
   築禁止令に興奮したプロテスタント貴族100名以上が市役所(現在のプラハ城)に
   押しかけ,二人の代官(ヴィレーム・スラヴァタ, ヤロスラフ・ス・マルチニッツ)
   と秘書を窓から崖下に突き落としてしまうという事件が発生(所謂「デフェンスト
   ラツェ」。
  ・監督30名による「身分代表政府」設置→イエズス会を国外に追放し, 財産没収。ハ
   プスブルク朝に対する防衛抵抗軍設置→チェコ戦争(1618~1648年三十年戦争)
  ・反ハプスブルク抵抗運動の内部分裂
    ①貴族間の対立:反ハプスブルク朝・非カトリックの多数派と, ハプスブルク朝
     ・ローマ教会と結びついた少数派の対立
    ②貴族階級と都市民との階級対立 
  1619(7月)チェコ王国「身分代表議会」開催
  ・王権制限。ハプスブルク家をチェコ王位から引きずり下ろす。
  ・フリードリヒ・ファルツキー公(プロテスタント貴族)を王位に選出。
   *新王は英王と近親関係にあるのでイギリス・オランダが援軍を派遣してくれるの
    ではと期待→派遣なし
   *他のプロテスタント貴族も新王に支援なし。
  ・ザクセン選帝候ヤン・イジー(ルター派), ハプスブルク側に寝返る(両ルジツェ
   地方分与の話しに乗る)。
  1620年(11/8)ビーラー・ホラ(白山Bila Hora)の戦い
  ・2時間の戦闘で皇帝の派遣した十字軍に惨敗。
   王侯貴族・カトリック勢力の勝利→土地は無条件で勝者に分配(国土の3/4)。
・フリードリヒ・ファルツキー等, チェコから逃亡。
  ・1621(6/12)反乱代表者27名(貴族3・騎士7・市民17), プラハ旧市街広場で処刑。
   ヴァーツラグ・ブドヴェッツ・ス・ブドヴァ, ヤーヒム・オンドジェイ・シュリク, クリシュトフ
    ・ハラント・ス・ポルジッツ, カレル大学長ヤン・イェセンスキー(医者)
  ・通貨悪鋳(所謂「長い硬貨」dlouha mince)→物価高騰(穀物価格4000%高騰)→
   国家財政の破綻(1622~1623)
  ・カトリック信仰の強制(イエズス会)
    プロテスタント説教師, 国外追放。
    1627年法令:特権的身分で改宗しない者は国外追放。
    1651年時点の改宗者は1/5以下→反改革委員会を設置
  ・ヴァルトシュタインやリヒテンシュタインなどの貴族はプラハ城の建つ「フラチャ
   ニの丘」の南側地域マラー・ストラナにバロック式の館を建設。
  ・プラハのような都市部ではドイツ語文化が普及し, 農村部ではチェコ語文化。
  1627年土地改革法(チェコ1627年, モラヴィア1628年)
  ・チェコの王位はハプスブルク家の世襲とすることを宣言
  ・民衆の抵抗:1625年アルブレヒト・ス・ヴァルトシュテイナの農奴反乱
         1627年コウジムスコやチャースラフスコで民衆蜂起
         1628年フラデツコで民衆蜂起
  ・スロヴァキアの民衆蜂起(1631~1632):マジャール人も参加
    1632年指導者ペットル・チャーサール処刑(四つ裂き)
 1648年ウェストファリア条約→《主権国家体制》
  ・〔ミュンスター〕独帝フェルディナント3世とフランス及びカトリック諸侯の条約
  ・〔オスナブリュック〕独帝フェルディナント3世とスウェーデン及びプロテスタン
             ト諸侯の条約
  ①アウグスブルク宗教和議の再確認。カルヴァン派公認。
  ②領邦主権:ドイツ領邦国家の分立を固定化(ドイツ諸邦は独立国に近い主権を認め
        られた。)
   ・神聖ローマ帝国が有名無実化 → 国家統一や近代化の障害。
  ③【仏】アルザス, ライン左岸に領土拡大
   【スウェーデン】北ドイツの西ポメラニア, ブレーメン司教領に領土拡大
   【ブランデンブルク=プロイセン同君連合】北ドイツの東ポメラニア, マグデブル
    クに領土拡大
  ④スイス・オランダの独立承認
      
  ・ハプスブルク朝, 絶対主義国家の基礎確立
  ・人口減少(戦争と国外移住で1/3以下に減少):チェコ地方100万人, モラヴィア地
   方50万人。ドイツ人の流入。
  ・増税:半分は税金として国家へ, 残りは封建的所有者へ(一部は教区司祭へ)
個人的隷属・・・封建領主が全ての権限。鞭打ち・焼き印・さらし台。
■三十年戦争後の闘争
  1672年オラヴァ暴動→指導者ガシュパル・ピカ処刑
  1680年農奴暴動→「苦役保有権」(ロボトニー・パテント):苦役を正当化
1683~1685年南スロヴァキアからトルコ人追放→ハプスブルク朝, スロヴァキア民衆
                       弾圧
1687年プレショフの虐殺(貴族24名と抵抗市民)
  1693年ホッコの反乱の指導者ジャン・スラットキー(通称コジナ)処刑
1703年東南スロヴァキアで農奴反乱(指導者フランティシェク・ラコーツィ2世) 
 ・ラコーツィ軍敗北→1711年サートマールスキーの平和
1713年スロヴァキアの山岳地帯で活動した義賊の指導者ユライ・ヤーノシィーク・ス
 ・テルホヴェー処刑
 *オンドラーシュ・ス・ヤノヴィッツ・ウ・フリートクも同様の義賊
 ■コメニウスJohannes Amos Comenius(1592.3.28~1670.11.15)
・モラヴィア東部のニヴェニツェ生まれの宗教家・教育者。本名はヤン・アーモs・
   コメンスキーJan Ámos Komenský。
  ・兄弟団の伝統に則って「開かれた言葉の門」「世界の迷宮と心の楽園」「教育学」「幼
   稚園教育」その他を執筆→近代学校制度の創始者
  ・兄弟団の教育施設の監督を務めていたが, 三十年戦争の混乱の中で故国を追われて
   生涯故郷に戻ることはできず, 最後はオランダで死亡。
・同一年齢・同時入学・同一学年・同一内容・同時卒業などの学校のしくみや生涯学
   習の構想。
  パヴェル・ストラーンスキー『チェコ国について』
  パヴェル・スカーラ・ゼ・スホジェ(歴史家)。ヴァーツラフ・ホラル(版画家)
 (2)ギルド制度の崩壊とマニュファクチュアの勃興
①産業構造の変化(17世紀半ば。本格化は18世紀)
 ・職種別小規模生産は社会需要に対応不可能→1738年ギルド制度改革 
②工場制手工業(マニュファクチュア)
・織物業・布加工業から導入
家内制手工業で製造された半製品(紡績糸, 未加工の布)→工場で織布, 染め,
     その他で加工(後には機械で紡績・織布)
・運送システムの変化
問屋制家内工業→マニュファクチュアの工場を農村地帯(貴族の大農園)に設
     置 *農村には原材料(亜麻・羊毛), エネルギー源(川の流れ, 薪)がある。
・経営者の変化:最初は封建領主→(農奴制廃止)→産業資本家(ブルジョア)
・最古のマニュファクチュア:チェコ地方では1697年, スロヴァキアでは1666年
③初期資本主義的生産関係の芽生え
・ギルドによる生産:原則として親方も職人・徒弟とともに仕事場で働く。
・マニュファクチュアによる生産:経営者は賃金労働者の仕事から離れる。

 (3)絶対主義時代 ~ 主権国家間の抗争 ~
 │ 1701~1713年スペイン継承戦争→1713年ユトレヒト条約│
 │ 1703年相続協定〔ハプスブルク家:レオポルト1世在位1658~1705〕│
 │ ・墺系(ヨーゼフ系)と西系(カール系)はともに男系相続とする。一方の男系が│
 │  断絶した場合には他の男系が相続し, 双方の男系が断絶した場合には女系相続に移│
 │  る。→ヨーゼフ1世〔在位1705~1711〕→カール6世〔在位1711~1740〕│
 │ 1713年国事詔書(プラグマティッシェ=ザンクツィオン)│
 │ ・1703年相続協定に加えて, 全家領の不分割・不分離, 女系相続の場合はカール系が│
 │  優先することを確定。双方に女系もなければレオポルト1世に発する女子とする。│
 │ 1714年ラシュタット条約:神聖ローマ皇帝カール6世,ミラノ,ナポリ,サルディニ│
 │ ア,南ネーデルラント獲得。│
 │ 1716年, カール6世に男子誕生(数ヶ月後死亡)│
 │ 1717年, マリア=テレジア誕生・・・その後, 二人の女児誕生 │
 │ ・マリア=テレジアMaria Theresia(1717~80, 皇后位1740~1780)│
 │   神聖ローマ皇帝フランツ1世シュテファンの皇后にして共同統治者, オーストリア大公(在│
 │  位1740~80), ハンガリー女王(在位1740~80), ベーメン女王(在位1743~80)。オー│
 │  ストリア系ハプスブルク家男系の最後の君主であり, 彼女の子供たちの代からは正式には夫│
 │  の家名ロートリンゲン(ロレーヌ)との複合姓(二重姓)でハプスブルク=ロートリンゲン│
 │  家となる。│
 │ ・夫フランツ1世FranzⅠ(墺帝位1740~65,神聖ローマ皇帝位1745~65)│
 │ *バイエルン王カール7世〔在位1742~45〕, 西王フェリペ5世〔在位1700~│
 │    46, ブルボン家〕, 普王フリードリヒ2世〔在位1740~86, ホーエンツォレル│
 │    ン家〕, 仏王ルイ15世〔在位1715~74, ブルボン家〕と対立│
 │ 1740~1748年オーストリア継承戦争│
 │ 1748年アーヘン条約:【普】シュレジェン獲得, 【墺】フランツ1世の帝位承認│
 │ 外交革命:ブルボン家〔仏〕とハプスブルク家〔墺〕が同盟│
 │      仏・スウェーデン・露(女帝エリザベータ)が墺の味方│
 │ 1756~1763年七年戦争 *普軍, チェコ侵入(プラハ制圧)→撤退│
 │ 1763年フベルツスブルクの和約(現在はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)│
 │  【普】シュレジェン確保│
 │  【墺】オーストリア大公ヨーゼフが, 将来, ドイツ皇帝となることを確認│

①マリア・テレジア時代の行政改革
 ・「テレジアの土地台帳」作成:領民及び領主の土地・収入を記録→課税資料
・人口調査(1752年)→徴税・徴兵の資料
チェコ領内に300万人以上(チェコ人は210万人)。
   スロヴァキア領内に約200万人〔1780年代〕
・チェコ・オーストリア共通の「国家中央行政機関」設置(1749年):
②学校制度の改革
・全ての教区に小学校設置(基本的3科目は読み, 書き, 算術)
 ・大都市には高等学校・師範学校設置
 ・ギムナジウム(5年制):聖職者の教育。イエズス会が指導(1773年解散)
 ・授業用語はドイツ語
③国内産業の保護
 ・外国製品の輸入を禁止(または高関税を課して輸入制限)。
・企業家に融資。特許権付与。新技術の専門家招聘。
 ・道路建設。河川を航行可能とするための工事。貨幣・度量衡の統一。紡績・織物
  職人養成学校の設立。チェコ・オーストリア間の関税廃止。
・最重要産業は織物業。輸出産業はチェコ・ガラス(クリスタル)。
 ・マニュファクチュア:労働者の搾取→子どもの酷使(1日12~16時間労働)
④ヨーゼフ2世JosepⅡ〔在位1765~1790〕:啓蒙専制君主
 ・1770年, 妹マリ=アントワネット, 仏王太子ルイ(後のルイ16世Louis XVI〔在
  位1774~92〕)と結婚
 ・18世紀後半~ジャガイモ, クローバー, 蕪(かぶ)の栽培。麻・亜麻の栽培。
  ■麻(あさ)は、植物表皮の内側にある柔繊維または、葉茎などから採取される繊維の総称。
     元来日本語で麻繊維は大麻(学名Cannabis sativa)から作られた繊維を指す名称であった。古
     代から日本に自生し繊維利用の盛んだった植物Cannabis sativaを麻と呼称していたが, 後に海
     外より持ち込まれた亜麻, 苧麻(ちょま :カラムシ, ラミー)などを含めた植物繊維全般を指し
     て「麻」の名称を使うようになったため、本来の麻Cannabis sativaを植物の背丈が大きく成長
     する特徴から, 大麻(おおあさ, たいま)と区別して呼称するようになった。
      現在日本で麻の名称で流通している繊維のほとんどは亜麻(学名Linum usitatissimum)から
     作られるリンネル(リネン)である。フランス語ではランと発音され, ランジェリーはアマの
     高級繊維を使用した女性の下着に由来する。また繊維の強靭性から, 高級でない繊維はテント
     や帆布としてかつて広く利用され, 大航海時代の船の帆布はアマの繊維であった。古くは亜麻
     の糸を「ライン」Lineといい, この単語は細くて丈夫な亜麻糸からの連想で「線・筋」という
     英単語になった。連作障害が起き易いため6~7年の輪作を行う。4月頃に種子を蒔き, 7~
     8月に抜きとって収穫する。
・農村住民の貧困:長期の戦争, 凶作, 増加する税金・苦役→極貧生活(1770年代
    初め集団的餓死者の発生)→農奴の暴動(1768年ドブジーシュの領地)
・1775年の農奴大蜂起
 この蜂起は1775年5月のゼレナー・ホラ(「緑の山」)に建てられた聖ヤン・ネポムツキー
     巡礼教会(1720年列福, 1722年献堂, 1769年完成)への巡礼の頃に計画されていた。ナーホト
     領リティニェ郡の治安判事アントニーン・ニーヴァルトが秘密の「農民政府」を組織していた。
     しかし, 1月(または2月)頃, マリア・テレジアが既に苦役廃止の「黄金勅令」を出してい
     るのに貴族がそれを隠しているという噂が広がり, 予定より早く行動を開始した。農奴たちは
     プラハに向かう途中, 貴族の館を襲撃し, 苦役と農奴身分の廃止を要求。彼らの幟には「自由
     を, さもなくば死を」とか「黄金の時代を」と書かれていた。暴動はプラハを目前とする場所
     で鎮圧され, 反逆者7名が絞首刑, その他は牢獄行きか強制労働に処せられた。
・1775年の苦役勅令:領主の完全な恣意を制限
・農奴制の廃止(1781)
 緩やかな従属に変化(農民が他の領地に移る際に従来の領主の了解をとる必要はない。
    領主は領民の結婚や, 彼らの子どもが他の領地に移転するのを禁止する権利を失う。)
スロヴァキア, ハンガリーの農奴制廃止(1785)
 ・非カトリック教徒の暴動(1777~1781年)
・宗教寛容令(1781):ヨーゼフ主義(非カトリック教徒に信教の自由を付与。例外
              はターボル派を中心とするベーメン同胞団。)
   ・修道院の解散。貴族の免税特権廃止。
   ・ヨーゼフ2世の没後, 彼の改革はほとんど撤回されてしまった。
   □1784年, フラチャニ, マラー・ストラナ, 旧市街, 新市街を統合し「歴史的プラハ」
    誕生。ユダヤ人街(ヨゼフォフ地区)もプラハ市に統合。
  ⑤レオポルト2世LeopoldⅡ〔在位1790~1792〕:ヨーゼフ2世の弟
 ■1650~1781年の文化
  (1)チェコ語文学の没落:白山時代の文学作品を焚書(イエズス会のアントニーン・
    ユニアーシュ)
(2)バロック様式:16世紀後半~18世紀初め(絶対主義最盛期)
           豪壮・華麗。人間の感覚に直接訴えかける躍動感。
  ■バロック(仏: 英: baroque, 独: Barock)とは, 16世紀末から17世紀初頭にかけイタリアのロー
    マ, マントヴァ, ヴェネツィア, フィレンツェで誕生し, ヨーロッパの大部分へと急速に広まった
    美術・文化の様式。バロック芸術は秩序と運動の矛盾を超越するための大胆な試みとしてルネサ
    ンスの芸術運動の後に始まった。カトリック教会の対抗改革(反宗教改革運動)や, ヨーロッパ
    諸国の絶対王政を背景に, 影響は彫刻・絵画・文学・建築・音楽などあらゆる芸術領域に及び,
    誇張された動き, 凝った装飾の多用, 強烈な光の対比のような劇的な効果, 緊張, 時として仰々し
    いまでの豊饒さや壮大さなどによって特徴づけられる。ロココ様式Rococo(1720~1760年頃,
    絶対主義の末期。繊細・優美。洗練された華麗で王朝風の装飾性が特徴)を経て, 18世紀末には
    新古典主義へと移行した。
     なお, バロックという語は, 真珠や宝石のいびつな形を指すポルトガル語のbarrocoから来てい
    るとか, 中世の学者が論理体系を構築するうえで複雑で難解な論法を指すのに使ったラテン語の
    Barocoからきているとか言われる。但し, 当時の芸術家は古典主義と考えていた。
   ・プラハの聖ミキラーシュ寺院, チェルニーンスキー宮殿, カレル橋の彫像, ヤロム
    ニェジツェ・ウ・スヴィタフの館。
   ・建築家:カルロ・ルラゴ。クリシュトフ。キリアーン・ディーンツェンホーフェ
        ル父子。
   ・彫刻家:マチアーシュ・ブラウン。フェルディナント・マクシミリアン・ブロコ
        ッフ。イグナーツ・プラッツェラ。
   ・画 家:カレル・シュクレータ。ペットル・ブランドル。ヴァーツラフ・ヴァヴ
        ジネッツ・ライネル。ノベルト・グルント(ロココ様式の風俗画)。ヤ
        ン・クペツキー(肖像画)。
   ・チェコ音楽
   ・学 問:ヤン・マルクス・マルツィ(医学・物理学)。イザーク・ツァヴァン(哲
        学)。ヤーン・バルタザル・マギン。マチェイ・ベル。


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