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December 23, 2011

チェコスロヴァキアの歴史 5

5.30年戦争に至るまでの社会的葛藤
 (1)反動の登場と民衆の反発
■思想家ペットル・ヘルチツキー
・著書『三種類の人』『説教集』『真の信仰の網』
    ・勤勉な人間のみがキリスト教的理想に即した正義の秩序を実現できる。救済は「死後の生活」
への準備の中に見いだせるものであり, その過程ではいかなる暴力・権力も拒否すべきである。
あらゆる役得・商売・その他の罪深い職業も避けるべきである。
1448年イジー・ス・ポジェブラット(東ベーメンの貴族同盟首領), チェコ王国の政
   権掌握。摂政(~1452)
   ・クンシュタートの領主貴族の家系。保守的フス派貴族。地方総督 zamsky spravce。
   ・南チェコのオルドジフ・ス・ロジュンベルカ(カトリック系領主貴族)に対抗
1457年チェコ同胞団(兄弟団)誕生(東チェコのクンヴァルト・ウ・ジャンベルカ村)
   ・1467年独自の教会設立
    ①ローマ教会との関係拒否。聖杯派とも意見を異なる。
②司祭を俗人から選出し, 礼拝の儀式を簡素化。
    ③ターボル派の革命的闘争心を否定。全ての希望を「死後の生活」の準備に見い
     だす。
1458年イジー・ス・ポジェブラット王即位(在位1458~1471)
   ・ハンガリー王マティアーシュ・フニャディ(通称コルヴィーン, イジーの娘婿)
    の即位(在位1458~90)
  1462年教皇ピウス2世PiusⅡ(在位1458~64), バーゼル協定無効宣言
・イジー・ス・ポジェブラット王を異端として断罪
   ・チェコ民族に対する十字軍派遣布告
   ・反イジー連合軍の結成
     カトリック派の封建支配層(「緑山党」 Zelenohorska jednotka )
     モラヴィア・スレスコ・ルジツェ地方の都市
     ハンガリー王マティアーシュ・コルヴィーン
   ・イジー王の平和提案:①キリスト教国間の永久平和の保証, ②ヨーロッパ王国連
    合の設立→外交交渉(1462~64)→ポーランド, 国内の都市・下級貴族・フス派
が協力
  1463年ハンガリー王マティアーシュ, オスマン十字軍としてベーメン遠征
  1468年民族防衛戦争(1468~71)
 │①ハンガリー王マティアーシュ, モラヴィア・スレスコ・ルジツェ地方支配
 │②イジー軍,ヴィレーモフ(チェコ・モラヴィア高原地帯)でマティアーシュ軍包囲
 │③マティアーシュ, カトリック派の支持を得て, オモロウツでチェコ王宣言
 │④チェコ優位。しかし, イジー急死。
1471年ヴラディスラフ2世VladislavⅡ即位(在位1471~1516):ヤゲウォ朝
   ・イジー王の遺志
   ・ポーランドのヴワディスワフ2世UlaszloⅡ(在位1456~1516, ハンガリー王在
    位1490~1516), チェコ王として即位
  1477年ハンガリー王マティアーシュ, 皇帝フリードリヒ3世FriedrichⅢ(在位1440 
   ~93)に宣戦布告
   ・1479年オロモウツ協定:ヴラディスラフ2世・マティアーシュ王
・1483年マクシミリアン1世, ブルグント・フランドル・ルクセンブルク3公領を
    領有→ハプスブルク家発展の基礎確立
・1485年マティアーシュ王, ウィーン入城
  1485年チェコ王国のカトリック派貴族・聖杯派貴族の和解成立(クトナー・ホラ協定)
  1490年ヴラディスラフ2世, ハンガリー王として即位(ウラースロー2世在位1490~
   1516):ヤゲウォ朝
 ■スロヴァキアにおける同胞団(兄弟団)の運動
1434年リパニの戦い→フス派残党, スロヴァキアへ逃亡
   ヤン・イスクラの傭兵隊(ハンガリー王位継承者ラヂスラフ・ポフロベク)に参加
1451年ルチェネッツの戦い:ハンガリー貴族軍団に勝利
*同胞団指導者はペットル・アクサミット・ス・コショヴァ
1456農民暴動→マティアーシュが同胞団を殲滅
1467年ヴェリケー・コストラニの戦い:マティアーシュ王の軍隊が同胞団を殲滅
*同胞団の指導者は絞首刑に処し, 傭兵は国王の軍隊に編入→黒連隊
 (2)15世紀末~16世紀における変化
①領主貴族による資本家的事業の発展
   1)漁獲池事業
   2)農場領主制(グーツヘルシャフトGutsherrschaft):農奴による賦役労働によっ
     て輸出用穀物の栽培, 羊の飼育。
   3)村を「臣下の町」に格上げ→ビール工場, 水車屋, ワイン蒸留所, 製材所, 精錬所,
     煉瓦工場, 織物工場, ガラス工場を経営
  ②鉱山業の繁栄(銀・金・鉄・錫・銅・鉛)
・16世紀初め, スロヴァキアは世界最大の銅産出国
   ・1516年ザンクト・ヨアヒムスタール(現在のヤーヒモフ)で銀採掘→銀貨「ヨア
    ヒムスターラー」Joachimsthaler(後に短縮されて「ターラー 」Thaler)」鋳造
    *絶対量の不足していたフローリン金貨に代わって広く流通。ドルDollarの語源。
   ・1525~26年スロヴァキアの大鉱山暴動
  ③封建反動と階級闘争の激化
   ・農奴的拘束の強化(賦役・貢納の強化)→農奴の都市への逃亡。農民一揆。
・都市貧民層の豊かな組合業者市民や富裕市民階級に対する暴動
・1483年プラハ暴動。1490年代モラヴィアのザーブジェフ領で農民一揆。
   ・1490年代リトムニェジツコのプロスコヴェッツ領の農奴が, 自由意思で隣の騎士
    ダリボル・ス・コゾエットの農奴となる。ダリボルは裁判で死刑。
   ・1496年クトナー・ホラ鉱山暴動→指導者斬首刑
・1517年クシヴォクラーツコ農民暴動鎮圧
・1520年代プラハ, プルゼン, ヤーヒモフ, イッフラヴァ, ブルノ, オロモウツで民衆
    暴動 
    *トマス・ミュンツァーThomas Müntzer(1490?~1525)がプラハなどで説教活動
・1525年ヤーヒモフ, ヘプ, ホッツコ, テプラー, ヴィシェブロットで民衆蜂起
④王権の弱体化(ヤゲウォ朝時代)
   ・ヴラディスラフ2世VladislavⅡ(在位1471~1516)
・ルドヴィーク王Ludvik (在位1516~1526)
・国王はハンガリーに住むことが多く, チェコの政治は領主貴族の思うまま。
⑤貴族と都市の闘争
・領主貴族:都市の経済的特権(生産・取引),政治的特権(国会と王の選挙権)を
    簒奪。騎士:商品輸送を襲撃→市民層による征伐。
・1500年「領邦条例」(ヴラディスラフの土地法):土地に関する封建領主の絶対権
   ・1517年クシヴォクラーツコの農民一揆→「聖ヴァーツラフの契約」(貴族と都市
    の対立を中断)
・大貴族の台頭。小貴族(騎士・郷士)の没落。
 (3)ハプスブルク家の支配と宗教戦争
  1517年ヴィッテンベルク大学教授マルティン=ルターが「95カ条の論題」を発表
   ・贖宥状(免罪符)販売批判〔宗教改革開始〕 
  1519年皇帝選挙:スペイン国王カルロス1世(ハプスブルク家)勝利
          神聖ローマ皇帝カール5世KarlⅤ(位1519~1556)
   ・1519年の皇帝選挙で仏王フランソワ1世(ヴァロワ朝, 在位1515~1547)と争った西王カル
     ロス1世(在位1516~1556)が使った選挙資金は85万グルデン。そのうちフッガー家から
     の融資は54万グルデンで, 残りはヴェルザー家とヴェネツィア商人から調達した。7選帝候
     (首席はマインツ大司教)に渡ったのは46万グルデン。
     *〔フッガー家〕本店アウグスブルク, 支店20, 連絡員駐在所60, 資産200万グルデン。
             金融・鉱山業(ティロルの銀山, ハンガリーの銅山
・ライプチヒ討論(ルター, ヨハン=エック):教皇の権威否定。
    信仰義認説:人は信仰によってのみ義とされる。
   ・1520年『キリスト者の自由』『キリスト教貴族に与う』『教皇のバビロン捕囚』
    ルター, 教皇レオ10世LeoⅩ(在位1513~1521)の勧告状焼き捨て
   ・1521年教皇, ルターを破門
    神聖ローマ皇帝カール5世, ヴォルムス帝国議会召集→帝国公民権剥奪。ルター
                              派禁止。
    ザクセン選帝候フリードリヒ, ルター保護(ワルトブルク城)→『新約聖書』を
    ドイツ語に翻訳(1523~24年『旧約聖書』も翻訳)
  1524~25年ドイツ農民戦争
   ・トマス・ミュンツァーThomas Müntzer(1490?~1525再洗礼派)
   ・ドイツ南部・中部の農民が領主制廃止や土地共有など対領主12カ条要求
    ルターは, 始め農民を支持していたが「対領主12カ条」に反対し, 諸侯に一揆鎮
    圧を要請 *信仰義認説のルターは, 伝統的秩序を重視し, 社会変革に反対。
  1526年モハッティの戦い:オスマン帝国(スレイマン1世)の攻撃でハンガリー王ラ
    ヨシュ2世LajosⅡ(在位1506~1526,チェコ王ルドヴィ-ク1516~1526)敗死
   ・オスマン帝国, ドナウ川・ティサ川の間を支配(~1699年カルロヴィツ条約)
    *ブラティスラヴァがハンガリー(ハプスブルク家部分)の首都
     スロヴァキアにマジャール人支配層が移住
     1)ハンガリー貴族の反ハプスブルク闘争(1604~1606)
     2)スロヴァキア民衆の蜂起(1606年・1609年鉱夫の暴動)
   ・オーストリア大公フェルディナント1世FerdinanndⅠ(ハプスブルク家, 神聖ロ
    ーマ皇帝在位1556~64), チェコ王国・ハンガリー王国(ともに在位1526~64)
    の王位を兼摂→3君主国の同君連合成立。
・チェコの王位に就く際, チェコ人顧問官の立ち会いの下で支配を行い, 宮廷をプラ
    ハに移すと約束→不実行
   ・貴族・官僚機構の導入(ウィーンのドイツ人採用)。土地台帳システム(→巨額
    の戦費を捻出)。→絶対君主制度の基礎
   ・神聖ローマ皇帝カール5世, 第1回シュパイエル帝国議会召集
    →ルター派黙認(ドイツ諸侯の協力が必要)
  1529年スレイマン1世の第1次ウィーン包囲失敗
   ・神聖ローマ皇帝カール5世, 第2回シュパイエル帝国議会召集→ルター派禁止
    ルター派, 皇帝に抗議(プロテスタントProtestant)→1530年シュマルカルデン同
                                盟結成
1546年シュマルカルデン戦争勃発
   ・プラハで反ハプスブルク暴動(1546~47)失敗
   ・武器や土地資産の没収。都市やギルドの自治権を極端に制限(都市に王直轄の警
    察官吏・総督を配置)。同胞団(兄弟団)弾圧。
   ・カトリック勢力・反革命勢力の台頭→イエズス会:プラハ(クレメンチウム)・
    オロモウツ・ブルノ・トルナヴァ
   ・「信仰の自由」を求める闘争
  1555年アウグスブルク宗教和議
   ・領邦国家・自由都市単位の信仰の自由→領邦教会制
  1561年プラハ大司教座再建
  1564年神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世MaximilianⅡ(在位1564~1576)即位。
   ・ハプスブルク家領, オーストリア, シュターアーマルク, ティロル系に3分割。
  1571年マクシミリアン2世, 新教を容認→1575年「チェコの信仰告白」確認
  1576年神聖ローマ皇帝ルードルフ2世RudolfⅡ(在位1576~1612), 新教徒弾圧
  1609年ルードルフ2世, 勅令書に署名(「信仰告白の自由」保証)→混迷
  ■「地理上の発見」の影響
   ①ヨーロッパ中心に世界が一体化
   ②植民活動が活発化:教皇子午線(1493), トルデシリャス条約(1494), サラゴサ条約
    (1529)
   ③ヨーロッパ世界が変化
    1)商業革命:アメリカ大陸貿易・インド洋貿易が繁栄
      ・イタリア・南ドイツ諸都市が没落→繁栄の中心地は大西洋沿岸に移動
      ・国際商業の中心地はアントワープ(白, 15~16世紀)
       *オランダ独立戦争(1568~1609)後はアムステルダム(蘭, 17世紀)
    2)価格革命cenova revoluce(銀価格の暴落)→物価騰貴
                          貨幣地代の普及→領主層に打撃
    3)商業資本の発達(ネーデルラント・英・仏)
      ・商業資本主義(→重商主義)
      ・農村家内工業から問屋制家内工業に移行
       *ニュルンベルクの仲買人が北チェコ・北モラヴィアから買い集めた。
       *渡り職人・賃金労働者の暴動
      ・〔中欧〕農場領主制(グーツヘルシャフト)・・・領主貴族の繁栄
*農民暴動(1575年プシーブラムスコ, ロジュミタールスコ)
  ■文化的発展
 ①チェコ語, チェコ民族文化の開花
   ②文化生活の民衆化
    ・1451年教皇使節エネアーシュ・シルヴィウス(後の教皇ピウス2世PiusⅡ〔在
     位1458~64〕, ターボル訪問。「このがさつな民衆も一つだけ長所を持ってい
     る。それは知識を愛していることだ。」
  ・印刷技術の普及:1468年プルゼンで『トロイ年代記』印刷
・ヒューマニズム(人文主義)が浸透
③1467年マティアーシュ王の提案でブラティスラヴァに大学設置
④専門領域
    ・法律書:ヴィクトリーン・コンネル・ゼ・ヴィシェフラッド
     ・文 学:ヤン・ブラホスラフ『グラマティカ』
     ・言語学:ヴァヴジネッツ・ベネディクティス・ネドジエル
     ・国家学:マルティン・ラコフスキー・ス・トゥルツェ
     ・鉱山学・冶金学:イジー・アグリコラ
・養魚池論:ヤン・スカーラ・ドウブラフスキー
     ・地 図:1518年チェコの地図(医者ミクラーシュ・クラウディアーン)
          1569年モラヴィアの地図(数学者・医者パヴェル・ファブリチウス)
     ・医 学:クジシュチャン・ス・プラハティッツ, ヤン・シンデル, ヤン・チェルニー
          ヤン・イェセンスキー
     ・自然学:タデアーシュ・ハーエク・ス・ハイク
     ・天文学:ツィプリアーン・ルヴォヴィツキー・ゼ・ルヴォヴィッツ
          チコ・ブラーエ(デンマーク人)
ヨハンネス・ケプラー(ドイツ人)『新天文学』Astronomia nova
     ・音 楽:貴族クリシュトフ・ハラント・ス・ポルジッツ(作曲家)
⑤後期ゴシック様式(15世紀後半~16世紀初頭):ヴラディスラフ・ゴシック
 ・マチェイ・レイセクの作品:①プラハのプラシュナ・ブラーナ
                   ②クトナー・ホラの聖バルバラ礼拝堂
 ・ベネディクト・レイトの作品:①プラハ城のヴラディスラフ・ザール
                    ②クトナー・ホラの教会堂
ルネサンス様式(1730年代~)
     ・プラハ城内の「アンナ王妃の夏の館」その他
    イェンスキー写本(風刺的絵画)

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December 19, 2011

チェコスロヴァキアの歴史 4

4.フス主義革命運動
 (1)フス主義運動の原因
  ①15世紀初頭の社会的矛盾
・封建的土地所有者と従属的農民の対立
   ・貨幣経済の発展(都市への人口集中)
    →1)封建領主と「王領の町」の対立 
     2)富裕市民層(多くはドイツ国籍)とギルドに組織された零細手工業者(親
       方)の対立 
     3)親方と渡り職人の対立  4)上級貴族と小さな地主(下級貴族)の対立
②教会に対する反感
・教会ヒエラルキーの上層部(ほとんどは封建貴族層・富裕市民層出身)へ富が集
    中→下級貴族・下位聖職者に不満拡大
・贖宥状(免罪符)販売
 │*11世紀:カトリック教会は, 信徒の罪の中で告白と聖職者の赦罪宣告なしですむ暫定的罪│
 │  に対して,教会の定める一定条件の苦行に従えばその罪は消滅するとした。│
 │ 1096年.十字軍勃発に際し, 教皇ウルバヌス2世は従軍を苦行と認め, 非従軍者には金品の│
 │  寄進による罪業消滅を許した。│
 │ 1300年. 教皇ボニファティウス8世は, 苦行の中にローマの聖ペテロ教会・聖パウロ教会│
 │  への参詣・寄進を加えた(「聖年」宣言)。しかし, 参詣・寄進とも多くはなかった。│
 │ 1393年. 教皇ボニファティウス9世が贖宥状の地方出張販売を許可。ローマ参詣と同じ効│
 │  力を持つとして, 指定日時内に参詣寄進した証に符だ(受取証)を交付した。│
 │ 1457年. 贖宥状は死後の浄罪界にまで及ぶと宣言。→市場拡大のために地方での委託販売│
 │  を開始。│
③民族的対立(ドイツ人・チェコ人)
 (2)フスの影響と民衆の反対運動
  【ヤン・フスJan Hus, Johannes Huss, John Huss(1370頃~1415.7.6)】
 │・プラハの南南西75kmにあるフシネツで誕生(Jan Husは「フシネツのヤン」の意味。jan
 │ Husinecký, ラテン語ではJohannes de Hussinetz)。フスの両親は貧しいチェコ人。│
 │・1380年代半ば, カレル大学入学。親友ズノイモのスタニスラフStanislav ze Znojmaとは後│
 │ に対立。│
 │・1393年学術学士号授与 1394年論理学士号授与 1396年学術修士号授与 1398年教授│
 │・1400年聖職者任命 1401年哲学部長任命 1402年カレル大学学長任命│
 │・1402年ベトレーム礼拝堂説教師:ベトレーム礼拝堂(1391年建立, ベツレヘム教会)にお│
 │ いてチェコ語で説教│
 │ *1382年ヴァーツラフ4世の妹アンナがイングランド王リチャード2世〔位1377~1399│
 │  プランタジネット朝(1154~1399)最後の国王。エドワード黒太子の子〕と結婚。│
 │  〔英〕1215年マグナ=カルタ(大憲章)→1265年シモン=ド=モンフォールの議会→1295│
 │    年模範議会→1341年両院制(上院〔貴族院〕・下院〔庶民院〕)│
 │ *1401/1402年ウィクリフ〔英, オックスフォード大学〕の哲学書『プラハのヒエロニムス』│
 │  が伝わる。│
 │・1403年ウィクリフに賛同する55論文に関する議論禁止│
・1403年大司教ズビニェク・ザイーツ就任
  ・1405年フス, 説教者(synodical preache)として教会の乱脈を批判し, 貧者への搾取を
    弾劾→ 解任
  ・1409年クトナー・ホラ勅令
    ①ヴァーツラフ4世は教会大分裂(シスマ)で中立政策。しかし,大司教はローマ
     教皇グレゴリウス12世GregoriusⅫ〔位1406~12〕に忠実で, 大学でも国王に
     忠実なのはベーメン人のみであった。
    ②勅令:大学の諸問題に関する採決で, チェコ国民団3票, その他の3国民団1票
     とする。
     →多くのドイツ人教授たちがプラハ大学から去り,ライプツィヒ大学創立。
    *チェコ国民団:ウィクリフ支持派
バイエルン国民団・ザクセン国民団・ポーランド国民団:反対派
・大司教ズビニェク・ザイーツ, ピサ選立教皇アレクサンデル5世AlexanderⅤ〔位 
    1409~10〕拝謁→ウィクリフ派がベーメンの聖職者に騒動を持ち込んでいると
    告発。
  ・1409年(12.20)教書布告:大司教権限を強化し, ウィクリフ主義に法的手続き(ウィ
               クリフの著述を廃棄し, 教義の無効, 伝道禁止)
・1410年フス, 教皇に訴えるが, 全てのウィクリフの書物・写本が焚書。フスとその
    支持者追放。→フス, ベトレーム礼拝堂で説教→プラハの教会閉鎖。
  ・1411年大司教ズビニェク・ザイーツ死去
   1411年ピサ選立教皇ヨハネス23世Johannes XXIII〔位1410~15〕, ローマ教皇グ
    レゴリウス12世を庇護するナポリ王国(ラディズラーオ1世)を制圧するため
    十字軍派遣。
    →その軍事費を賄うため贖宥状を販売(この時はヴァーツラフ4世も教皇支持)。
・1412年フス, 論文(Quaestio magistri Johannis de indulgentiis)発表:内容はウィクリフの
    著書(De ecclesia)最終章とフスの論文(De absolutione a pena culpa)からの引用。教会の名の下
    で剣を挙げる権利は教皇や司教にもない。敵のために祈り, 罵る者たちに祝福を与えるべきであ
    ると主張。人は真の懺悔のために赦しを得るのであって, 金で贖(あがな)うことはできない。
*フスは貴族の保護を求めてコジー・フラーデク(チェコ南部)の城に転居。
■フス主義民衆運動の開始(1412)
・民衆がヴォク・ヴォクサ・ヴァルトシュテインVok Voksaz Valdstejnaに導かれて
    教書を焼き捨てる。
   ・贖宥状販売を批判した職人3名斬首刑:フス派最初の殉教者
・教皇代理アルビック(大司教), フスに対して教書反対を止めるよう説得→失敗
・アルビック大司教, 枢機卿の命令を受けてフスを拘留(フス派の教会を破壊)→
    プラハから追放
  ・1412年(2/2)国王ヴァーツラフ4世, 宗教会議召集(プラハの大司教宮殿)
   ・フス本人の参加は認められなかったが, 自らの要求は伝えた。「わが国の教会問題に関して他国
    と同じ自由を持つべきであり, 何を認めて何を認めないかはわが国自身が決定すべきである。」
    (ウィクリフ『説教論』)。オーストリア近くのコジ-・フラーデク(ツィーゲンブルクZiegenburg)
    で論文執筆。
    ・国王, カトリックとフス派の和解を模索→失敗
・1413年ローマで評議会開催:フスの著作は異端とされ, 焚書命令
・1414年(11/1)コンスタンツ公会議召集:ジギスムント帝Sigismund(神聖ローマ皇
    帝位1411~1437)
①ジギスムント帝は会議中の身の安全を保障してフスを招待。→フスは遺書を認め
    て出立(1414.10.11)
②フス, コンスタンツ到着(11.3)→「異端者フスの相手はニェメツキー・ブロト
    ミハルMichal z Německého Broduである」と告示(11.4)→フス, 聖堂参事会員の
    邸宅からドミニコ修道院地下牢に移送(12.8)
③教皇ヨハネス23世JohannesXXⅢ(在位1410~1415),司教3名による委員会に
    フスの予備調査委任(12.4)→告発者側の証言者3名尋問(フスには証言者認めず)
   ④教皇ヨハネス23世, 退位を迫られてプラハから逃亡→廃位(1415)→フスの身柄は
    コンスタンツ大司教の居城(ライン川沿いのゴットリーベン城)に送付。知人と
    の連絡を絶ち, 昼夜を問わず鎖に繋いで73日間幽閉。
⑤公判のため聖フランシスコ会の修道院に移送。
    (6/5)初公判:フスはウィクリフを崇拝していることを認めたが, ウィクリフの聖
    餐論や45箇条教義を擁護したことは否定。→(6/8)最終公判
   ⑥(7/6)判決:大聖堂で荘厳なミサ・聖餐式→ローディの大司教が異端撲滅に関する
    説教→フス裁判の報告→聖職剥奪(フスの頭に「異端の首謀者」と書かれた高い
    紙帽子)→コンスタンツの市門の前で焚刑
     ・フスの告解を認めず。死刑執行人は衣類を脱がし, 両手を後ろ手に縛り, 首を柱に結びつけ
     首の高さまで薪と藁を積み上げた。最後に皇帝の家臣フォン・パッペンハイム伯が主張を撤回
     して命乞いをするよう勧めたが, フスは「私が間違った証言者に告発されたような教えを説い
     ていないことは, 神が知っておられる。私が書き, 教え, 広めた神の真実とともに, 私は喜んで
     死のう。」と述べて断った。遺灰は近くのライン川に捨てられた。
  ■聖餐(せいさん):イエス・キリストの最後の晩餐に由来するキリスト教の儀式。聖餐は主に
   西方の教派で使われる訳語だが, カトリック教会では「聖体拝領」, 「聖体の秘跡」と呼ぶ。新約
   聖書によれば, 「最後の晩餐」の際にイエスはパンを取り, 「これがわたしのからだである」とい
   い, 杯をとり「これがわたしの血である」といって弟子たちに与えたという。カトリックと正教会
   のキリスト教徒たちは聖餐をサクラメント(秘跡)として行ってきたが, 宗教改革以降のプロテス
   タント教会は礼典という呼称を用いる。これは, 「神の救済は人間の行いによるのではなく, 信仰
   のみによる。」という考え方から来ており, 聖餐の執行そのものを救いの要件とは考えないためで
   ある。そして, 多くは聖餐を共同体の信仰を示すための儀式であるとしている。なお, フスの時代
   のローマ教会は信者に対してパンだけを与えていたが, フス派は聖杯(ワイン)をも認めて聖職者
   との差を否定した。
    カトリック教会では聖体の秘跡, すなわちパンとワインがイエスの体と血に変わること(聖体変
   化)とそれを信徒が分け合うこと(聖体拝領)がミサの中心である。ただ, パンといっても「御体(おんからだ)」
   と呼ばれるホスチア(薄いウェハース)だけを信徒が拝領するのが一般的である。「御血(おんち)」と呼ば
   れるワインの拝領も行われることもあるが, カリスと呼ばれる杯から飲むか, 聖体をワインに浸し
   て食べるかのどちらかの形で行われる。
   化体説:聖餐の秘蹟においてパンがキリストの肉に, 葡萄酒がキリストの血に変化するとする説。
・民衆運動の過激化 
   ・1416年イェロニーム・プラシュスキー(フスの支持者), 焼き殺される。
・群衆が小さな丘に集結→ターボルの丘, フラデッツ・クラーロヴェーの耕地, ムラ
               ダー・ヴォジツェの羊
・預言によって救済を得る5つの選ばれた町
    →プルゼン, クラトヴィ, ジャテッツ, ロウニ, スラニー
 (3)フス主義運動の全盛期(1419~1422)
・1419年(7/30)プラハの転覆
急進的説教師ヤン・ジェリフスキーに率いられた民衆が市役所襲撃。市民階級出
    身の評議員を窓から放り投げ, 新役員を選出。
・1419年(8/16)ヴァーツラフ4世逝去(1400年に皇帝を廃位された後も,ベーメン王
    としてヤン・フスとその支持者を保護)
    →新市街の貧民が修道院や裕福な司祭の館を襲撃。市役所から高位聖職者, 領主
    (一部), 裕福なドイツ人市民を追放。
*上級貴族:混乱を利用して教会や王の領地を奪取。過激化した民衆を警戒。
*富裕市民層(チェコ人):民衆運動に反対。
・ジギスムント帝(神聖ローマ皇帝位1411~1437, チェコ王位1419~1437)に対す
    る反感
・全フス軍の指揮官ヤン・ジシュカ・ス・トゥロツノヴァ(南チェコの自作農出身)
・青年期に自作農から土地を取り上げたロジュンベルクの領主への抵抗運動参加    
     ・1410年ポーランドとドイツ修道士団との戦争に参戦→グルントヴァルトの戦い(ポーランド
      軍勝利)
     ・「片眼の指揮官」として有名
*1420年ターボルTáborの設置:ヴルタヴァ川の支流であるルジュニツェ川沿い
    の高台に建てられた急進派(ターボル派)の軍事拠点(南ベーメン州)。スメタ
    ナは, 連作交響詩「わが祖国」の第5曲でターボルを扱っている。
・フス派軍の士気:合唱歌「誰ぞ, 神の兵士なるは」。厳格な組織・規律。戦車を
             利用した移動式防壁。鉄砲。
・千年王国論(Millenarianism, Millenarism, キリアズムChiliasm ):キリスト教終末
 論の一つ。終末の日が近づき, 神が直接地上を支配する千年王国(至福千年期)
 が間近になったと説く。千年王国に入るための条件である「悔い改め」を強調
 する。また, 至福の1000年間の終わりには、サタンとの最終戦争を経て最後の
 審判が待っているとされる。ヨハネの黙示録20章4節~7節。
・ターボル派の人々は家財の全てを持って集まり, 広場に設置された木桶に共有の
 動産を入れ, 皆で消費した。指導者層は支配階級の排除, あらゆる権力の民衆へ
 の移譲, 不動産の共有などを要求した。
・教会堂・聖画・聖像・祭壇などは不要。行列祈祷式, 鐘, 式服, 断食,断食,懺悔,
     祈祷, 死者のための犠牲を放棄。教会の祭日を廃止。
・無学な民衆(靴屋・仕立屋・鍛冶屋など)や女性が説教師や司祭となる。
・プラハの過激派(指導者ヤン・ジェリフスキー)
  ・1420年(7.14)フス派連合軍, ジギスムントの十字軍に勝利(ヴィートコフの丘〔現
     ジシュコフの丘〕頂上, ヴィシェフラート城下)→フス戦争開始
・1421年チャースラフ会議Čáslav/Tschaslau:ジギスムント帝をチェコ王位から降ろ 
 し, 行政委員会(20名:上級貴族5名・下級貴族7名・市民階級8名)を設置。
・フス派の内部対立:富裕市民層とヤン・ジェリフスキー(貧民層)・ターボル過激
             派の対立
     ↓   過激派の代表的人物:マルティン・フースカ, ペットル・カーニシュ
   1421年過激派を追放:信念を曲げない者は逮捕・火あぶり→貧民層の発言力低下。
   ターボルは, 零細市民と小地主(下級貴族)が優勢となる。
  ・1422年プラハで富裕市民層が権力掌握→ヤン・ジェリフスキーとその仲間9名を暗殺
       民衆蜂起→反動勢力が復権      
 (4)フス派の民族防衛戦争(1422~1434)
・1422年ジシュカ, ジギスムント軍をクトナー・ホラで撃破
     →ニェメツキー・ブロッド(現在のハヴリーチェクーフ・ブロッド)で壊滅
・ジシュカ, ターボルを出て北東チェコに「小ターボル」建設(フラデッツ・クラー
   ロヴェー)
・1424年マレショフの戦い(クトナー・ホラ近く):プラハ市民軍を撃破
・1424年(10/11)ジシュカ, プシビスラフで急死(ペスト)
・以後, ジシュカ軍は「みなしご」と呼ばれる。後継者は「禿の」大プロコプ
・1426年ターボル派・みなしご・プラハ人連合軍, ドイツ封建領主の遠征軍をウース
   ティー・ナド・ラベムで撃破
・1427年タホフでイギリス人枢機卿指揮の十字軍を撃破,
*フス派軍の遠征:スロヴァキア, ハンガリー, オーストリア, ドイツ, シュレジェン,
           バルト海沿岸→フス派の思想を「宣言文」の形で配布
・1431年ドマジュリツェの勝利:第5回十字軍(ローマ教皇の名代ユリアーン・ケサ
                  リーノが指揮)敗走
・バーゼル教会会議(教皇マルティヌス5世MartinusⅤ〔在位1417~31〕が召集)
    ①コンスタンツ教会会議の議事(教会改革)を続行しようとしたが, 一部に「公
     会議首位説」が出たため, 教皇により散会。
    ②大プロコプなどフス派も招待→フス派と枢機卿との議論の間に「領主軍団」結
     成(カトリックの領主貴族, 聖杯派貴族, プラハ旧市街の富裕市民)
・1434年(5/30)リパニの戦い:ターボル・みなしご連合軍, 領主軍団に完敗
    →ターボル派壊滅(大プロコプなど指導者は戦死。その他は捕らえられて火あぶ
     りの刑)。まもなく都市も神聖ローマ皇帝=ボヘミア王の統制下におかれた。
・1436年穏健フス派とカトリック教会との間に和解成立→フス戦争終結
  ・1436年ジギスムント帝(神聖ローマ皇帝位1411~1437, チェコ王位1419~1437),
    チェコ王として迎えられる。
①貴族・市民階級に土地財産の永久所有を保証
②バーゼル協定(1436):【ローマ教会】チェコ領内で奪われた封建領主・市民階級
     の不動産を返還させることに関して了解。ミサにおける聖杯という例外的権利
も許可(但し守る気はなかった)。
    ③ヤン・ロキツァン(聖杯派)をプラハ大司教として認定することを拒否
1437年ターボル派隊長ヤン・ロハーチュ・ス・ドゥベー, クトナー・ホラ近くのシオ
   ン山要塞で捕縛(拷問の上, プラハで仲間50名以上とともに処刑)。
1438年オーストリア大公アルブレヒト5世, オーストリア皇帝(皇帝アルブレヒト2
   世AlbrechtⅡ)・ハンガリー王・チェコ王に即位(在位1438~39)
   ・ハプスブルク家, 130年ぶりに皇帝位を回復
・ハプスブルク朝(1438~1740, ハプスブルク・ロートリンゲン朝1745~1806)

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