チェコスロヴァキアの歴史 3
3.封建社会の繁栄(13~14世紀)
(1)経済的・社会的変化
①森林地帯への入植化(13C~14C前半)→生産力の向上
*大開墾時代(11C後半~13C前半, シトー派修道会が積極的に取り組む)が中欧
に波及
*封建領主は入植者に土地の「世襲的借地権」を保証(契約された領地民として
の義務を履行すれば割り当て地を取り上げない)。
*入植者に前払金zakup免除・・・前払権(pravo zakupne, nemecke pravo)
*村を新設:村長は最も裕福な者。下級裁判権・警察権・処罰権を持つ。
②三圃制度:耕地の1/3を常に休ませて, 地力の回復を図る方法。従来の二圃制度より生産力は高
まったが, 種播き・収穫は各耕区ごとに同時に行わなければならなかった。
│年 度│第1年度│第2年度│第3年度│第4年度│
│季 節│春 夏 秋 冬│春 夏 秋 冬│春 夏 秋 冬│春 夏 秋 冬│
│耕地A│ ● → ○ 休 閑 期 ● → ○・・・・・・ ● → ○ 休閑│
│耕地B│ ● → ○・・・・・ ● → ○ 休 閑 期 ● →│
│耕地C│ → ○・・・・・ ● → ○ 休 閑 期 ● → ○・・・・・│
●播種期 ○収穫期 →栽培期 ・・・放牧・犂耕期
春播き(夏作物・春耕地):大麦・エン麦・豆類
秋播き(冬作物・秋耕地):小麦・ライ麦
③鉄製農具の使用(鉄製犂)
④金・銀・銅の採掘・・・深い地下からの採鉱(馬力を動力源とした巻き上げ機)
ヴァーツラフ2世の鉱山法(1300年頃):鉱山事業関係法を統一的に調整
⑤銀貨プラハ・グロシュの鋳造(1300年):高額貨幣の鋳造
クトナー・ホラの王立造幣所
金貨ドゥカーティ(フロレーニ)の鋳造(14世紀半ば)
↓
⑥封建的地代の変化(生産物地代→貨幣地代):~14世紀末
前払金の金銭形式一般化
↓
貨幣経済の伸展:封建領主の「地主」化。奴隷的隷属の解消。
⑦封建社会の変化
・貴族階級内部の分裂→領主貴族pansky:広大な土地を所有する封建領主
騎士(下級騎士vladycky):武装騎士隊の構成要素
⑧都市の発達→古い町(国王から特権)・新興都市
・市場開設権
・1マイル権(都市の周辺1マイル以内では何人たちとも職業を営むことを許さない権利)
・ビール醸造権, 都市の周囲を防壁で囲う権利, 都市民としての権利
・自治権, 都市の紋章・印章に関する権利
王の都市(kralovske mesto):王領地に置かれ, 国王から広範な特権を与えられた都市
・鉱山都市(イッフラヴァ, クトナー・ホラ, バンスカー・シュチアヴニツァ, クレムニツァ)
・特権的身分(privilegovany stav):貴族・騎士・聖職者
市民身分(mestsky stav)
臣下の都市
⑨ギルド(cechy, 職業別組合)の成立(14世紀初め)
・1307年コシツェにおいて毛皮兄弟団創設
・商人ギルド(merchant guild, Kaufmanngilde):相互扶助・市場独占を目的に結成
富裕市民層が市政を掌握・・・参事会が都市生活を管理, 独自の法秩序を形成(?)
同職ギルド(craft guild, Zunft):手工業の親方たちが職業別に結成
1)相互扶助, 自由競争の禁止, 生産・労働時間・価格の統制, 技術保持
2)徒弟制度:親方(ミストル, マイスター), 職人(渡り職人), 徒弟
3)富裕市民層と職人の対立→ツンフト闘争(民族的対立の様相)
1381年, ルドヴィーク1世, ジリナの町議委員はスラヴ人とドイツ人を同
数にするよう命じた勅令発布
・渡り職人=無産市民(plebejec)
不動産を持たないだけでなく, 多くは自分の仕事の道具もない, 日雇いの助手労働者
(2)封建的専制の確立
①チェコ王国の権力拡大:プシェミスル朝(c.880~1306)
・プシェミスル・オタカル1世(在位1192~1230)
*神聖ローマ皇帝の座をめぐってヴェルフェン家と争っていたシュタウフェン
家を支援
1212年, シチリア金印勅書(Zlata bula sicilska)発布:チェコ王国の自由拡大
1)今後, チェコの君主は国王の称号を名乗ること。
2)チェコ王の選出はチェコ国内で行われ, 神聖ローマ皇帝はこれを追認す
るだけであること。
3)チェコ王はチェコ国内の司教を任命する権限を持つこと。
・フリードリヒ2世はシチリア王であり, 文書にその印章が付けられているために「シチリ
ア金印勅書」という。
│ローマ教皇インノケンティウス3世InnocentiusⅢ│
│ (在位1198~1216, 教皇権の絶頂期)│
│神聖ローマ皇帝フーリドリヒ2世(在位1215~1250)│
│ 1198年, シチリア王(在位1198~1250):パレルモで統治│
│ 1215年, 教皇インノケンティウス3世が独帝オットー4世廃位│
│ 1224年, ナポリ大学創立│
│ 1225~1240年, イェルサレム王→第5回十字軍(1228~29)│
■婚姻政策:最初の妻アデーレ, 二度目の妻コンスタンツェのと間に13人の子ども
成長した娘たちはデンマーク王やケルンテン大公など外国の君主と結婚
アネシュカAnežka(ドイツ名アグネス1211~1282)
・3歳でシトー派修道院に入る(現ポーランド領のシレジア地方トシェブニツァ)
大公妃ヤドヴィガ(シトー派修道院創設者。後に聖人)が養育。
*ヤドヴィガはモンゴル軍とのレグニツァ(独名リーグニッツLiegnitz)
の戦いで落命するシレジア大公ヘンリク(独名ハインリヒ)の母親。
・3年後, プレモントレ会修道院へ移動(チェコ北部のドクサニ)
・8歳の時, オーストリア大公レオポルトの宮廷に移動・・・皇帝フリードリ
ヒの息子ハインリヒと結婚する下準備。プシェミスル・オタカル1世は持参
金3万マルク準備→失敗(ハインリヒはオーストリア大公の娘マルガレーテ
と結婚) *ハインリヒは後に父親と対立し, 独王の位を奪われ幽閉
・英王ヘンリー3世との結婚を画策→失敗(原因不明)
・1230年プシェミスル・オタカル1世死去
・ヴァーツラフ1世VaclavⅠ(在位1230~1253)
*〔伝記〕皇帝フリードリヒ2世がアネシュカに求婚→アネシュは誰とも結婚
の意志がなく,教皇グレゴリウス9世に修道院入りを伝える→兄ヴァーツラ
フ1世が皇帝に伝える。→皇帝から聖遺物その他の贈り物。
■托鉢修道会
①聖フランチェスコ修道会:1209年聖フランチェスコがアッシジ〔伊〕に
設立(1223年教皇公認)
②聖ドミニコ修道会:1215年聖ドミニコ〔西〕がトゥールーズ〔仏〕に設
立(1216年教皇公認)
・1231年アネシュカ, プラハに施療院建設(土地は母コンスタンツェ提供)
ミノリート派修道院建設(フランチェスコ派)→聖アネシュカ修道院の始まり
・1234年アネシュカ, 修道女となる(院長。まもなく退任となるが実質的統率
者)。式典に国王夫妻・司教も列席。教皇直属の修道院。
・教皇や聖キアーラ(クララ。聖フランシスコの協力者)と文通
■モンゴル民族侵入(1241年リーグニッツの戦い, ワールシュタットの戦い)
・ジンギス汗の甥バトゥ率いるモンゴル軍とシレジア公ハインリヒ2世の率
いるドイツ・ポーランド連合軍との戦い。連合軍が大敗し, ハインリヒは
戦死。モンゴル軍も多大の損害を受け南東方へ一時撤退。オゴタイ=ハン
(太宗位1229~41)の病死によってモンゴル軍は引き上げる。
ワールシュタット=「死体の山」の意。
・スロヴァキアとモラヴィアの一部を荒らし, 大勢の住民を奴隷として拉致
・1246年ヴァーツラフ1世の息子ヴラジスラフ, オーストリア大公の姪ゲルト
ルードと結婚。
6月オーストリア大公戦死→バーベンベルク家断絶(オーストリア獲得の
好機)→1247年ヴラジスラフ病死(オーストリア獲得失敗)
・1247年暮れ, ヴァーツラフ1世の息子プシェミスル・オタカル(14歳)が父
王の承諾なしにチェコ王に選出《貴族反乱》→国王, マイセンまで逃亡
・1249年国王, 勢力を建て直しプラハ奪回→アネシュカの仲介で親子対立解決
・1250年皇帝フリードリヒ2世死去
*生前, ヴァーツラフ1世は, 息子プシェミスル・オタカルをオーストリア統
治者として送り込み, バーベンベルク家のマルガレーテ(かつてドイツ王妃
の座をめぐってアネシュカとライバル関係にあった女性。プシェミスル・オ
タカルよりも30歳以上年上)と婚約。→オーストラリアを押さえた後, 離婚
してチェルニゴフ大公の娘クニグンデと結婚。
・1250年教皇インノケンティウス4世InnocentiusⅣ(在位1243~1254), アネ
シュカの修道院の男子修道士に真紅の十字架と星を徽章として着用する許可
→「紅星騎士団」の誕生 *3年後, 旧市街西側に移転(17世紀後半, そ
の場所に「聖フランチェスコ教会」建設)
・1253年ヴァーツラフ1世死去→アネシュカの修道院に埋葬
・プシェミスル・オタカル2世(在位1253~1278)
・教皇との関係を重視:「プロイセン十字軍」を率いてバルト海沿岸まで遠征
→遠征が契機となってケーニヒスベルク(現カリーニングラード)建設
・開拓により広大な耕地確保。都市の成立。鉱山開発。
・ドイツ王国のライン川右岸地域の国王代理。
→最大版図(チェコ~オーストリア~スロヴァキアのクライン地方)
1)1273年9月, 選挙侯たちがチェコ王に一切知らせず, スイスの領主ハプス
ブルク家のルードルフをドイツ王に選出。
→ルードルフ1世RudolfⅠ(在位1273~91), プシェミスル・オタカル2
世の領土拡大を不法とみなして裁判。出頭命令無視。→帝国追放の刑宣言
2)チェコ貴族の反抗。ハプスブルク家とハンガリー王が連合。
→1278年8月28日,マルヒフェルトの戦い
(モラヴィア平原。プシェミスル・オタカル2世敗死)
3)一時期, オーストリアに併合される。
オタ・ブラニボルスキー(未成年の王位継承者ヴァーツラフ2世の後見人)の軍
隊が掠奪
*神聖ローマ帝国:大空位時代(1256~1273年, 英仏の傀儡王権)
ハプスブルク朝(1273~1291, 1298~1308, 1314~1330年)
ナッサウ朝(1292~1298年)
ルクセンブルク朝(1308~1313年)
バイエルン朝(ヴィッテルスバッハ朝, 1314~1347年)
・1282年3月初め, アネシュカ死去(プラハ, 70歳)
*アネシュカは修道院礼拝堂に埋葬されたが, フス戦争の時に行方不明となる。
1879年福者
1989年聖人:教皇ヨハネ・パウロ2世が決定
■福者(ふくしゃ)は, カトリック教会において, 死後その徳と聖性を認められた信徒に与えられる称号。
この称号を受けることを列福という。その後, さらに列聖調査がおこなわれて聖人に列せら
れることもある。
■聖人は, 殉教者や特に信仰と徳に秀でた死者を教皇の権限によって聖人と宣言し(列聖), そ
の功徳が信徒の救いに有効であると認め, 崇敬の対象とする。
・ヴァーツラフ2世VaclavⅡ(在位1278~1305)
1)ポーランド王(1300)・ハンガリー王(1301)・クロアティア王(1301)を
兼摂。
2)神聖ローマ皇帝アルブレヒト1世AlbrechitⅠ(在位1298~1308)と対立
3)ハンガリー王ラディスラフ4世の跡継ぎオンドジェイ3世逝去(1301):ア
ルパードフツィ家(998~1301)断絶
→ローマ教皇庁はカレル・ロベルト(ナポリ分家)をハンガリー王に据え
ようと画策
4)ハンガリーの領主貴族(中心はトレンチーン城主マトーシュ・チャーク)
・高位聖職者が反抗→聖ステパン(ハンガリー王国建国者シュチェパーン
1世)の冠をチェコの王子ヴァーツラフ3世に献上
│■ローマ教皇ボニファティウス8世(位1294~1303)・仏王フィリップ
│ 4世(位1285~1314), 教会財産課税問題で対立
│ 1302.教書「ウナム=サンクタム」:“余はカエサルなり, 皇帝なり”
│ 1302.〔仏〕三部会召集:高位聖職者・貴族・平民(都市代表者)
│ 1303.〔伊〕アナーニ事件:教皇敗北
・ヴァーツラフ3世VaclavⅢ:ハンガリー王位放棄
1306年(7/4), 皇帝位を狙ったオットカル2世の長男がヴァーツラフ3世暗殺
(ポーランド出征の際に, オロモウツで殺害)→プシェミスル家男系断絶
②ルクセンブルク朝(1310~1437)
・ヨハン(ヤン・ルツェンブルスキー, 在位1310~1346):独王ハインリヒ7世の
息子
1)ヴァーツラフ3世の妹エリシュカ・ルツェンブルクと結婚→チェコ王即位
2)チェコに馴染めず, ドイツやルクセンブルク, フランス, イタリアなどを転
々としながら, 外交と戦争の生涯。シュレジェンなどの領地拡大
3)「外人王」→国内の実権は領主貴族が掌握
・1333年カレルをイタリアから呼び戻し, モラヴィア辺境伯とする。
4)クレシー(クレシュチャク)の戦い(1346)で戦死
*百年戦争(1339~1453)でフランス側の味方
ルクセンブルク伯はドイツ王の家臣でありながらフランスとの関係が
深い。会話はフランス語。
5)プラハ司教座, 大司教座に昇格
1344年聖ヴィート大聖堂Katedrála svatého Víta建設開始→完成は1929年
・監督はフランスから呼んだアラスのマシュー(1352年死亡)→ドイツのグ
ミュント出身のペーター・パーラー
・聖ヴァーツラフ礼拝堂:ヴァーツラフの遺骨・王冠
南塔(聖ヴィート大聖堂の正面は通常のように西側ではなく, 南側)
黄金の門
│■アヴィヨン捕囚(教皇のバビロン捕囚1309~1399)│
│ 1312.〔仏〕テンプル騎士団解散→全財産をヨハネ騎士団に移管│
│ 1323.バイエルン国王ルートヴィヒ4世, イタリアのギベリン(皇帝党)援助│
│ 1324.教皇ヨハネス22世, バイエルン国王ルートヴィヒ4世破門│
│ ウィリアムのオッカム(オックスフォード大学教授, 唯名論)を教皇庁に召還│
│ →ルートヴィヒ4世の宮殿に逃亡│
│ バイエルン国王ルートヴィヒ4世, イタリア遠征→ミラノでイタリア王即位│
│ 1328.バイエル国王ルートヴィヒ4世, ローマで神聖ローマ皇帝即位(位1328~47)│
│ 1342.教皇クレメンス6世即位(カレルがパリ滞在中に知遇を得た聖職者ピエール│
│ ・ロジェ)│
・カレル1世KarelⅠ(位1347~1378)
=神聖ローマ皇帝カール4世KarlⅣ(位1355 ~1378)
1)ヨハン王の息子。7歳から14歳までパリで養育。生まれたときの名前は
ヴァーツラフであったが, 仏王シャルル4世の名前をとってカレルとした。
パリ滞在中にシャルルの従姉妹ブランシュと結婚。
2)1346年(7/11)ドイツ王に選出(7人の選挙侯のうち5人の票)。
バイエルン王ルートヴィヒ4世廃位宣言。
3)1346年(8/26)クレシーの戦い:父ヨハン,仏王を援けてイングランドに敗死
1347年(9/2)チェコ王即位:カレル1世(在位1347~1378)
1350年ヴィッテルスバッハ家から神聖ローマ皇帝の戴冠用式用宝物・聖遺
物獲得→カルルシュテイン城に保管。年1回, 教皇の許可を得てプラハ
新市街の家畜広場(現カレル広場)で公開。見物に訪れた人には巡礼の
証明と贖宥状を付与。
4)1350年ローマ護民官コラ・デ・リエンツォ(一時クーデターで実権を掌握
したが, その後追放), プラハの宮廷でイタリア遠征を説く。
→リエンツォはアヴィニョンからローマに戻り, そこで殺害。
1354年秋イタリアに向けて出立
1355年(4/5)皇帝戴冠式(サン・ピエトロ大聖堂):神聖ローマ皇帝カール
4世(位1355 ~1378)。神聖ローマ皇帝となった最初のチェコ王。
1356年詩人ペトラルカ, プラハ来訪
5)ベーメン王国・モラヴィア辺境伯領・シュレジェン公国で「聖ヴァーツラ
フ王冠の諸領邦」(別名「チェコ王冠の諸領邦」)構築。
・モラヴィア辺境伯・シュレジェン(シレジア)大公はチェコ王の家臣
・モラヴィア辺境伯にカレルの弟ヤン・インジフ即位(宮廷ブルノ)
6)首都プラハは中欧における中心都市(人口3~4万人)
・1348年「新市街」建設
・要塞都市ヴィシェフラトの整備(王宮や教会の建て直し):ヴルタヴァ
川右岸の丘の上
・「小市街」(マラー・ストラナ):ヴルタヴァ川左岸の城の下
・フラチャニ:大貴族の邸宅が立ち並ぶ屋敷町
・カルロフ(新市街南東)に「聖母マリア及び聖カール大帝教会」
1348年プラハ大学(カレル大学)創建。
・教会の管轄下に置かれ, 学監(最高責任者)はプラハ大司教が兼務
・最初は建物がなかったが, 1360年代に学寮(コレギウム)を整備
・4学部:神学・法学・医学・自由学芸
・4国民団:①チェコ国民団(チェコ及びその東方地域)
②バイエルン国民団(ドイツ南部)
③ザクセン国民団(ドイツ北部)
④ポーランド国民団(シレジア・ポーランド)
1402年カレル橋完成:ペーター・パーラー着工。
7)1356年(1/10)ニュルンベルク帝国議会→「金印勅書」発布(1月23条→1
月31条):聖俗7諸侯(マインツ大司教, トリール大司教, ケルン大司教
ファルツ伯, ザクセン公, ブランデンブルク辺境伯, ベーメン王)を選帝侯
とし, 帝国教会政策推進。
│ 1338.ドイツ選帝侯会議(レンス〔ランス〕Reims, 当時は独領):多数決で選出さ
│ れた国王は同時に神聖ローマ皇帝であり, ローマ教皇の許可を必要としない。
│1339~1453.〔英仏〕百年戦争
│■教会大分裂(シスマSchisma1378~1417):アヴィニョン←→ローマ
8)1377年アヴィニョン捕囚(1309~77)解決→1378年教会大分裂(1378~
1417)
9)選帝侯たちにチェコ語を学ばせるよう指示。
スラヴ典礼の復活を企図:「ナ・スロヴァネフ(スラヴ人のための)」修道
院(ベネディクト派)建立
*クロアチアから修道士を招いて古代スラヴ語で典礼。
10)在位期間32年間のうちプラハ滞在は9~10年間。
・ドイツのニュルンベルクは2年半~3年間(ラウフの城が好み)。
・晩年, 北東ドイツのブランデンブルク獲得→ベルリン西方100kmのエルベ
河畔(タンガーミュンデ)に宮殿建設→1377年引っ越し
・1378年息子ヴァーツラフとともにパリ訪問→(11/29)プラハで死去
・ヴァーツラフ4世VaclavⅣ(位1378~1419)
・カール4世の次男(生存者の中では長子)
・神聖ローマ皇帝ヴェンツェルWenzel(位1378~1400), ベーメン王(位137
~1419), ブランデンブルク選帝侯(位1373~1378), ルクセンブルク公ヴ
ェンツェル2世(ヴェンセラス2世Venceslas I, 位1383~1419)。
・ドイツよりベーメンの統治に力を入れ、ローマ教皇指名の際に仏王シャルル
6世に対して弱腰だったこと, イタリア僭主の1人・ジャン・ガレアッツォ
・ヴィスコンティをミラノ公に叙爵したことなどからドイツ諸侯は不満。
・1400年,プファルツ選帝侯ループレヒト3世(プファルツ朝 位1400~1410
を新皇帝に選出。
│ 1398.フランス教会会議:アヴィニョン教皇庁からの財政的支援を拒否し, 教皇へ│
│ の服従を廃止→ガリカニスムGallicanisme(フランス国家教会主義)│
│ 1409.ピサ公会議:3教皇鼎立│
│【教会革新運動】│
│ ①ウィクリフ(英:オックスフォード大学教授)1379『聖餐について』│
│ 聖書主義, 聖職階級制度の否定│
│ ②フス(チェコ:プラハ大学教授)聖書主義│
・ジギスムント帝Sigismund(神聖ローマ皇帝位1411~1437)
1)ヴァーツラフ4世の弟:ブランデンブルク辺境伯(位1378~1437)
ハンガリー王(位1387~1437)・チェコ王(位1419~1437)
2)1396年ニコポリスの戦い:オスマン帝国(バヤジット1世)軍に敗北
3)コンスタンツ公会議(1414~18)提唱:教会大分裂の解決
・1415年プラハ大学の教授や学長となったヤン=フスJohannes Huss焚刑
→チェク人の反感
・ローマ教皇マルティヌス5世を統一教皇とすることでシスマを解決
・公会議首位説確認
・1419~1437年ベーメン王→フス戦争(1419~36)
■13, 14世紀の文化
(1)ゴシック様式gothic:13世紀前半フランスから伝播(最盛期は14世紀後半)
・尖塔アーチを特色とする高い塔。柱間にステンドグラス
→天・神への憧れ。軽快感。
・精確な構図, 自然・人間に対する写実的描写→理性主義の台頭
・初期ゴシック建築:アネシュスキー修道院, プラハの旧街区シナゴーグ, ヴィッ
シー・ブロット, ズラター・コルナ, モラヴィアのティシュノフ, ヴェレフラ
ットなどの修道院・教会堂。ピーセク城・ズヴィーコフ城・クシヴォクラー
ト城・ベズデス城。
・14世紀半ば:プラハ新市街(ノヴェー・ムニェスト)設置
大規模な統一的計画:聖ヴィート寺院(建築士フランツォウス・マティア
ーシュ・ス・アルラス, ペットル・パルレーシュ), カルロフ, エマウジ, カ
ロリウム, 旧市街の市庁舎(ラドニツェ), ティーンスキー礼拝堂, 処女マリ
ア・スニェジュナー教会, カレル橋
・14世紀後半(最盛期):カルルシュテイン城, コリーン・ナド・ラベムとプル
ゼンの礼拝堂, コシツェの住居建築
(2)文学
①ダリミル著『年代記(クロニカ)』:チェコ貴族の階級的権利を主張
②ラテン語文学作品『ズブラスラフ年代記』
③チェコ語による民衆演劇『膏薬(こうやく)売り』(14世紀前半, 復活祭劇)
(3)カレル大学の開設(1348):中欧最初の大学
・専門用語(ラテン語)をチェコ語化
ミストル・バルトロミェイ・フルメッツ(通称カレット。ミストルは教授の
意), 手書きの『用語辞典(グロッサリー)』作製(7000語)
Recent Comments