『マサリクの生きた時代』要旨
『マサリクの生きた時代 -チェコスロヴァキア建国と日米関係一』(岡崎賢治著)
1.マサリクとチェコスロヴァキアの政治状況
チェコスロヴァキア共和国の初代大統領トマーシュ・マサリクThomas G. Masaryk(1850~1937)は, 1850年 3月7日,モラヴィア東南部のホドニーンで, 父ヨゼフ・マサリクと母親テレジエ・クローバーチコヴァーの長男 として誕生した。父親はスロヴァキア語を話すスロヴァキア人で,母親はドイツ語を話すモラヴィア人であった。15 歳の時,神父の薦めでブルノの古典学校への編入試験を受け二年次編入を認められたが, この年勃発した普墺戦争 でオーストリア帝国はドイツ連邦から排除され, 墺=ハンガリー帝国という二重君主国家が成立した。マサリクが 家庭教師を勤めていた家の主人はブルノ警察署長であったが, 彼のウィーン転勤に伴ってアカデミー古典学校6年 に編入された。その後, 1871年のドイツ帝国成立は, マサリクの帰属意識を鮮明にしていく。翌年ウィーン大学哲 学部に入学し, 76年には哲学博士の学位が授与された。1878年シャーロット・ガリグ(米)と結婚し, 翌年秋の新 学期からウィーン大学で教壇に立つ。
1882年, プラハ大学チェコ語部門の哲学教授として赴任したマサリクは, チェコの民族神話「リブシュの裁き」 を疑う「手稿論争」を経て政界への関与を深める。リアリストと呼ばれたマサリク, カイズル, クラマーシュは, 青 年チェコ党候補者として帝国議会選挙に当選した。しかし, 党内部で対立が深刻化し, 盟友のカイズルやクラマー シュが党の主導権を掌握する一方, マサリクは学究生活に戻っている。1899年, ユダヤ人に対する偏見が問題とな ったヒルスネル事件が発生し, チェコ・ナショナリズムや反ユダヤ主義の高まりの中でマサリクは厳しい立場に立 った。翌年, マサリクはチェコ人民党を設立したが,彼はあくまで「非政治的な政治」を目指していた。ロシア第一 革命後の普通選挙運動の高まりの中で, マサリクはチェコ進歩党を結成(1906)し, 選挙法改正がなされた1907年の 帝国議会選挙で政界に復帰している。
2.第一次大戦勃発とチェコスロヴァキア独立運動
19世紀後半, バルカン半島は汎スラヴ主義(露)・汎ゲルマン主義(独墺)の対立が深刻化し, 1908年ユーゴス ラヴィア統一主義を叫ぶザグレブ事件が発生した。マサリクは帝国議会でこの事件を取り上げ, 国内外に数多くの 支持者を生み出した。1914年第一次世界大戦が勃発したが, チェコ政界は帝国解体を唱える急進的行動に反対し, チェコ利権の確保を最優先させた。
一方マサリクはチェコ諸領邦が政治的独立を果たすのは無理という従来の考えを放棄して, 墺=ハンガリー帝国 解体に伴うチェコスロヴァキア国家建設という構想を抱くようになった。また, かつての盟友クラマーシュのネオ ・スラヴィズム運動には懐疑的で, ツァーリズムを厳しく批判し, ロシア帝国崩 壊を予言していた。同年末,社 会学者ベネシュの協力を得て活動の場を外国に移した。イタリア, スイス, フランスを経て, 1915年秋には歴史家シ ートン=ワトソンの招きでイギリスに移り, ロンドン大学キングス・カレッジ講師となっている。彼は就任講演の 中で「ヨーロッパは民族国家へと分解する一方で, それらを単位とする連邦を形成しつつある。」と指摘している。 ところでマサリクたちの窮状を救ったのは, アメリカ合衆国で活動していたチェコ人・スロヴァキア人の移民組織 であった。1916年チェコスロヴァキア民族会議(マサリク議長・ベネシュ書記長)が発足した。
3.チェコスロヴァキア軍団事件
連合国は, 第一次世界大戦という総力戦を勝ち抜くためにあらゆる方策を講じようとし, マサリクたちの運動に 対する合衆国移民組織からの資金援助にも特別なはからいを行った。しかし, 英仏両国には, 「ドイツのヨーロッ パ大陸における覇権確立阻止のためには独墺同盟解体が必要だが, 勢力均衡維持のためには中欧におけるハプスブ ルク帝国の存在はむしろ必要」という考え方も根強く存在した。1916年墺皇帝フランツ・ヨーゼフ1世が崩御し た後, カール1世・チェルニーン外相コンビは連合国との講和を模索した時, 英仏両国は墺=ハンガリー帝国の分 離講和に傾き, マサリクたち対する態度は手のひらを返すように大きく変化している。
一方, 大戦前は約35億ドルもの債務国であったアメリカ合衆国は, 戦時中の中立政策で1915年には債権国に転 化し, 英仏両国の対米債務高が増大した(1918年現在で約125億ドル)。1917年ウィルソン米大統領の「勝利なき 平和」演説以降, 連合国内部には「民族解放」あるいは「民族自決主義」という思想が芽生え, ロシア革命(11月 革命)直後に革命政府が発した「平和に関する布告」(無併合・無賠償・民族自決)がそれを大きな流れとした。 翌18年ウィルソン米大統領の「14カ条」が発表され, 第10条には墺=ハンガリー帝国の諸民族に「自治的な発展 の最大限の可能性が」与えられるべきであると記されていた。但し, 民族独立についての言及はなく, 独立運動は 明らかに行き詰まりを見せることになった。
ところで1914年当時、ロシア国内には約10万人のチェコ人・スロヴァキア人が暮らしていたが, 大戦勃発と同 時に部隊編成を志願し, チェコ戦士団はガリツィア戦線に従軍した。マサリクも軍事組織の編成計画に着手し, 連 合国内のチェコ人・スロヴァキア人移民と大量の戦争捕虜を義勇軍に編成しようとした。1917年ロシア革命(3 月革命)の第一報に喜んだマサリクは,欧米諸国に向けて革命への支持を訴え, ペトログラードに出向いている。 チェコスロヴァキア軍団「レギエ」が編制され, 急速に2個師団38,500人にまで拡大した。ところが, ボリシェヴ ィキによるロシア革命(11月革命)が発生し, マサリクはモスクワ, そしてキエフへと移った。キエフでは, 民族解 放を掲げるウクライナ中央ラーダ(評議会)とソヴィエトの権力闘争が激化し, 1918年2月, 前者はドイツ帝国と 講和を結び、食糧供給と引き替えに「ウクライナ人民共和国」建国を認めさせた。その間, チェコスロヴァキア軍 団のフランスへの移送問題は解決されず, 軍団は完全孤立の状態にあった。3月3日ブレスト=リトフスク条約締 結で, ソヴィエト政府がようやくシベリア経由での移動を正式許可し, 軍団は16日に出発した。モスクワに戻った マサリクは, 68歳の誕生日を迎えた3月7日の夜、シベリア横断鉄道で東に向かった。彼の狙いは, 軍団兵士を輸 送するための船舶を確保するために, 一足早くアメリカ合衆国に渡ることにあった。英国赤十字の引き上げ列車に 便乗させてもらったマサリクは, ようやくウラジヴォストクに辿り着いたが北アメリカへ渡る船は見つけられず, ハルビン・奉天経由で釜山に出, 下関に辿り着いたのは4月6日のことであった。
4.マサリクと日本
1918年4月6日, イギリス政府発行のパスポート(T・G・マルスデンという偽名)を使用して入国したマサリ クは, 8日には東京に移り帝国ホテルに宿泊した。彼は, 早速, 英米仏など連合国の大使館と接触し, 11日には横浜 の英字新聞『アドヴァタイザー』Advertiserにロシア情勢に関する分析記事を掲載している。また14日には, 朝日 新聞の前身である『東京朝日新聞』の取材に応じ, 翌日には「墺国を遁れた亡命のマ博士昨日突如東京に入る ◇ 大陰謀破れて死刑の宣告 ◇妻も娘も牢獄に投ぜらる」という記事が掲載された。19日, マサリクは外務省を訪問 して 「ロシアおよびフランス戦線でのチェコスロヴァキア軍部隊編成に関する上申書」を手渡し、翌日には横浜 港からエンブレス・オヴ・エイシア号でバンクーバーに向けて出港している。
5.日米両政府の確執 ー帝国主義とナショナリズムの関係ー
19世紀に大きく発展してきた世界経済は, 1873年の恐慌を契機に大規模な不況期に入った。しかし, 欧米諸国は この難局を乗り切るために技術革新(第二次産業革命)や重化学工業化などに取り組んだ結果, 独占資本が形成さ れ, 帝国主義段階に到達した。第2次ディズレーリ内閣時代(1874~80)のイギリスが最初で, アメリカ合衆国は 1890年前後にカリブ海政策に着手し, 1899年の「門戸開放宣言」で中国大陸に進出しようと企てている。一方, 我 が国は日清戦争後に帝国主義国家となり, 日露戦争以後は露骨に朝鮮半島の植民地化を進めた。日本は三次に及ぶ 日韓協約を経て, 1910年の日韓併合条約で韓国の植民地化を完成させる。その間, 日露戦争の際に発行した国債13 億円(内債約7億円・外債約6億円)は巨額の利払いを必要とし, 国家財政は危機的状態にあった。しかし, 軍事 費が総予算の30%を超える状態であったにもかかわらず, 1907年には露米独仏4国を仮想敵国とする「帝国国防 方針」を策定し, 陸軍を25師団(戦時50個師団)に, 海軍に所謂「八・八艦隊」建設を長期目標とした。また, 1907 年の恐慌を乗り越えて三井・三菱・住友・安田などの財閥が成長し, 政府に大きな影響力を持つようになった。
一方, アメリカ合衆国は従来のモンロー主義を変質させ, パン=アメリカニズムと勢力均衡外交を使い分けるよ うになる。ニューナショナリズム(新国民主義)を標榜したセオドア=ローズヴェルト大統領(共和党)は, 前任 者マッキンレー大統領のカリブ海政策を継承して棍棒外交を展開する一方, ヨーロッパや日本に対しては勢力均衡 外交を行ったが, 合衆国にとって日本は国威発揚の障害と映った。1906年サンフランシスコ市教育委員会が日本人 ほかアジア人の生徒を普通の公立学校から特殊学校に移すことを決定し, 1907年・1908年の「日米紳士協約」で は日本人の労働移民自粛を日本政府に認めさせた。また, 1908年の所謂「高平・ルート協定」では, 太平洋方面の 領土保全, 清帝国における商工業の機会均等・領土保全が決められた。さらには, 1909年日本移民制限法(カリフ ォルニア州), 1913年日本人による土地所有を禁ずる法律制定(カリフォルニア州), 1924年排日移民法, そして 太平洋戦争(1941~45)中の日系人強制収容所送りと続く一連の動きは日米対立を如実に表している。次のタフ ト大統領(共和党)は所謂「ドル外交」を展開し, 第三次日英同盟(1910)の適用範囲から合衆国を除外させること に成功した。
また, ニューフリーダム(新自由主義)で知られるウィルソン大統領(民主党)の外交は, しばしば「宣教師外交」と呼ばれるが, 世界中に資本主義経済・民主主義体制を広げることが自らの使命であると信じこんでいる外交で, その実態は「海兵隊外交」に他ならなかった。1914年第一次世界大戦が勃発した時, 合衆国は中立宣言を発したが, 1917年の融資額がドイツ側約3億ドル, 連合国側約25億ドルで明らかなように一方的に連合国側に肩入れしていた。同年, ドイツの無制限潜水艦作戦が合衆国に参戦の口実を与え, 戦争反対を主張する世界産業労働者同盟IWW, アメリカ社会党, ドイツ系移民に対して極めて厳しい弾圧をし, 国家総動員体制を築き上げている。
一方, 日本の寺内正毅内閣は, 袁世凱の死後, 黎元洪大総統と段祺瑞国務総理の対立が深刻化していた中国への進出を本格化させていた。所謂「西原借款」で中国政財界に食い込み, 欧米資本とりわけアメリカ資本の排除に動いた。1914年, 第二次日英同盟(1905)を口実に第一次世界大戦参戦に踏み切った日本は, 山東半島や赤道以北の独領南洋諸島の占領に成功した。こうして,日米両国は中国大陸だけでなく太平洋海域でも競合関係に入ったのである。
6.中国大陸をめぐる日米両国の思惑
1917年11月, レーニンを中心とするボリシェヴィキの社会主義革命(ロシア革命)が勃発し, 翌月にはブレス ト=リトフスク(ポーランド東部)でドイツとの休戦交渉が妥結した。慌てた連合国側は1918年東シベリア最大 の要衝ウラジヴォストークに軍艦派遣を申し合わせ, 日本からは「朝日」・「石見」ほか4隻の艦艇が派遣された。 しかし, ウクライナ中央ラーダとドイツ帝国の間で「ウクライナ人民共和国」建国の合意がなされ, 休戦協定を破 棄したドイツが再び行動を開始して都ペトログラードに迫る勢いであったため, ソヴィエト政府は急遽ブレスト= リトフスク条約を結ばざるを得なかった。そして, この条約締結はロシアの戦線離脱と大幅領土削減, そして連合 国にとっては東部戦線の崩壊を意味していた。4月, 日英両軍はウラジヴォストークに上陸し, 5月には日華陸軍 共同防敵軍事協定が結ばれた。7月, 合衆国は 日本にシベリア出兵を申し入れ, 翌月には寺内内閣の出兵宣言が出 されたのである。
7.チェコスロヴァキア軍団事件と対ソ干渉戦争
チェコスロヴァキア軍団の第一陣がウラジヴォストークに到着したのは, 1918年4月25日のことである。ソヴ ィエト当局が軍団の武器・弾薬を制限したため, 軍団内部では第七連隊長ラドラ・ガイダ大尉ら強硬論者が台頭し た。5月14日, ウラル地方の中心都市チェリャビンスクで「事件」が発生した。当時, 軍団はシベリア鉄道を利用 して東へ移動していたが, ブレスト=リトフスク条約締結後, ロシア各地の捕虜収容所に抑留されていた中欧同盟 軍捕虜が西へ移動しており, ちょうどチェリャビンスクで列車がすれ違った。その時, ハンガリー人捕虜が投げつ けた鉄の塊がチェコ人兵士に当たって負傷し, 怒った軍団員は捕虜1名を殺害した。三日後には, 現地のソヴィエ ト当局が軍団員10名を逮捕する事態となり, この事件処理に納得のいかなかった軍団は駅舎を武力占拠して逮捕 された仲間を奪回してしまった。軍団は5月末から6月初めにかけてヴォルガ, ウラル, シベリア各地の鉄道沿線 都市を占拠し, 反革命派の拠点を樹立していった。
ところで, ロシア革命の勃発とブレスト=リトフスク講和交渉の開始は, マサリク=グループにとって大変な追 い風となった。講和条約の締結でロシアが戦線から離脱し, 独墺軍が西部戦線に全力を投入することになったから である。1917~18年, 英仏両国は中央諸民族への援助を開始し, 日米両国も含めて連合国はマサリク率いる「チェ コスロヴァキア民族会議」を認知していった。1918年5月5日, シカゴ入りしたマサリクはチェコ人・スロヴァキ ア人移民組織が用意した盛大な街頭パレードと式典で迎えられた。その後, ワシントン, ボストン, ボルチモア, ク リーヴランド, ピッツバーグなど各都市を遊説し, いずれも大歓迎されたが, 合衆国政府筋の対応はかなり冷たいも のがあった。その理由は, 6月19日のウィルソン大統領との面会でも, ウィルソンがチェコスロヴァキア軍団を中 核とする反ボリシェヴィキ勢力の結集を提案したのに対して, マサリクが干渉戦争成功の可能性を否定したからで ある。また, マサリクはピッツバーグに本拠をおくスロヴァキア人連盟の人々と話し合い, スロヴァキア人の自治 を認めた「ピッツバーグ協定」に署名しているが, 1918年の独立後もスロヴァキアの自治は実現しなかった。
8.チェコスロヴァキア共和国の独立
1914年第一次世界大戦が勃発した時, チェコ人の政治指導者主流派は静観を決め込んでいたが, 1916年皇帝フラ ンツ=ヨーゼフ1世が崩御し, 新帝カール1世が即位した頃から政界が動き出した。チェコ人の帝国議会議員は超 党派組織「チェコ連盟」やチェコ民族委員会を結成したが, 翌17年5月の帝国議会でチェコ連盟は(ハプスブル ク帝国の存続は認めるが)チェコスロヴァキア自治の要求という画期的な宣言を発表した。1918年ブルガリア降 伏, ハンガリーの分離独立のいう動きの中で, 10月18日マサリクは合衆国で独立を宣言し, 28日にはプラハの民族 委員会もチェコスロヴァキア国家の独立を宣言した。11月11日の第一次世界大戦終結直後, 民族委員会は「革命 国民議会」に改組してマサリク大統領, クラマーシュ首相, ベネシュ外相らを選出した。11月20日にニューヨーク を出発したマサリクは, 12月20日に帰国している。
9.シベリア出兵(対ソ干渉戦争)の悲劇
1918年8月2日, 寺内内閣はシベリア出兵宣言を発し, 久留米第12師団がウラジヴォストークに, 満州からは第 3・第7師団が送り込まれた。9月4日のハバロフスク占領後, 破竹の勢いで侵攻した日本軍は10月中に東シベ リア一帯の征服に成功した。1918年中に派遣された日本軍は7万2,400人で, 英軍(カナダを含め)5,800人, 仏軍 1,200人, 米軍9,000人, 伊軍1,400人, 中国軍2,000人とは比較にならない多さであった。
ところで, プロレタリア独裁体制を築き上げたソヴィエト政府ではあったが, 総人口の約三分の一, 最大の穀倉地 帯・鉱工業地帯を失わせたブレスト=リトフスク条約は深刻な内部闘争を引き起こした。それは戦時共産主義を推 進するロシア共産党と, 食糧危機の根源をブレスト=リトフスク講和体制にみる社会革命党左派の対立であった。 7月, レーニンはロシア共産党一党独裁体制を樹立することに成功したが, その間にチェコスロヴァキア軍団事件 が発生し, 反ソヴィエト勢力の多くがロシア南部やヴォルガ流域一帯に集結し始めていた。6月, 社会革命党議員 を中心とする組織がサマラで権力を握り(コムーチ政府), ドン大軍管区軍事アタマンのクラスノフはロシア南部 で勢力を回復するなど, 旧ロシア帝国領に反ソヴィエト政権が30以上も成立した。
8月になって, トロツキー率いる赤軍はヴォルガ流域におけるチェコスロヴァキア軍団との戦闘に勝利を収め, この後, 軍団は急速に弱体化していった。その後, オムスクに本拠を置いた臨時シベリア政府とサマラ政府が合体 して全ロシア臨時政府(ウファー執政政府)が成立したが, 本拠をオムスクに移して間もなくクーデタが発生し, イギリスの支援を受けたコルチャークが社会主義者を排除した。彼は, 翌19年にチェコスロヴァキア軍団の協力 を得てウラル戦線で赤軍(東部方面軍)と激しい戦闘を繰り広げたが, 民心掌握に失敗し銃殺された。同年はデキ ーニン将軍率いる南ロシア軍が台頭し, リトアニアのユジェーニチ将軍もバルト海方面から攻撃して混乱が続い た。1920年にはポーランド・ソヴィエト戦争(~1921)が起きている。
1919年4月,黒海でフランス艦隊の一部が対ソ干渉戦争反対の暴動を起こし, フランスはオデッサからの撤兵を 決定した。英軍もバクーや北ロシアからの撤兵を打ち出した。また, 1920年1月, 合衆国がシベリアからの撤兵を 日本政府に通告してきたが, 翌月にはニコライエフスク守備隊と外部の連絡は完全に途絶していた。トリャピーチ ン率いるパルチザン軍はニコライエフスクに進入して反革命軍を武装解除し,3月12日の戦いでは守備隊員のほと んどが戦死した。日本からの援軍がようやく到着する寸前の5月24~26日には, 日本人捕虜の大量虐殺が行われ たと言われる(ニコエライエフスク事件。水戸歩兵第二聯隊史刊行会編『水戸歩兵第二聯隊史』参照)。日本政府 は事件解決までの処置として北樺太の保障占領を決定して混成旅団を配置したが,合衆国が激しく抗議し, ワシント ン会議で日本軍の撤兵を決定させた(1922年九カ国条約)。
10.チェコスロヴァキア共和国の解体
1918年11月, 革命国民議会でマサリク大統領(任期1918~1935)が選出され, 大統領府はプラハ城に置かれた。
1920年に採択された憲法は, フランス第三共和国をモデルに制定され, 西欧式の中央集権的・民主共和国をめざし た。大統領職は国家元首ではあるが行政の長ではなく, 行政権は内閣に属した。また, 立法権を持つ国民議会は二 院制で, 任期6年の下院(定員300名)・任期8年の上院(定員150名)はともに比例代表制, 直接・秘密・普通選 挙制で選挙され, 婦人にも選挙権・被選挙権が認められる画期的な憲法であった。国民議会には「下院優越の原則」 があり, 内閣は下院にのみ責任を負った。チェコスロヴァキアが政治的安定を得て, 議会制民主主義を維持できた 原因は, 特権階級の勢力が弱く教会も世俗的支配権を持たなかったこと, サン=ジェルマン条約・トリアノ ン条約 によって新たにひかれた国境線の内側に豊富な地下資源や発達した工業地帯が含まれていたこと, マサリクの持っ ていた政治的カリスマ性や国際政治における「チェコスロヴァキアの顔」としての役割, そして政治を中道諸政党 中心の連立政権に委ねて自らはその調整役に徹したマサリクの政治姿勢(「非政治的な政治」)などに求められる。
しかし, 新国家体制の中央集権主義は, チェコ人とスロヴァキア人の確執を生んだ。確かにチェコ語とスロヴァキア語はともに公用語となり、両言語を話す人々は単一民族「チェコスロヴァキア民族」というのが公式の立場であった。ところがその裏側には, チェコ人とスロヴァキア人が一つにならなければチェコスロヴァキア全人口の過半数を確保できない(1930年現在、両民族あわせて全人口の66.2%、チェコ人だけでは46%)という事情があった。スロヴァキアの自治権は, 1927年7月の地方自治改革で少し拡大されたが, 相変わらず地方議会議員の三分の一と地方行政機関の長は中央政府から派遣されていた。1924年以降の本格的経済回復でスロヴァキア人の不満は表に出ることはなかったが, 1929年秋に始まる世界恐慌の嵐はチェコスロヴァキア経済を直撃して両民族の合意を根底から崩す結果となった。特に1930年にハンガリー・チェコスロヴァキア貿易協定が廃棄されると, スロヴァキア経済は破綻に追い込まれ, アメリカ合衆国やカナダへの移民, ドイツ・ベルギー・フランスへの出稼ぎが急増することになった。こうして, スロヴァキア民族主義が高揚し, スロヴァキア人民党内部では完全独立を求める声が高まり, 1935年以降はズデーテン=ドイツ祖国戦線(「ズデーテン=ドイツ党」と改称)との共同戦線をするようになった。
1935年12月マサリク大統領が引退し, 第二代大統領にはベネシュが選出された。引退後のマサリクは, プラハの西方約40キロにあって大統領在任中は大統領別邸として使用していたラーニの館で暮らしていたが, 1937年9月14日, マサリクは帰らぬ人となった(87歳)。17日, 遺体はプラハ城に移され, 城の前には「共和国の父」を慕う弔問客が長蛇の列が出来たという。21日, マサリクの柩は6頭立ての砲車に乗せられてプラハ市内をめぐった後, 再びラーニの館にもどり、そこに埋葬された。
1938年, ナチス=ドイツはチェコスロヴァキアにズデーテン地方割譲を要求し, ミュンヘン会談では対独宥和策 が優先された。その結果, チェシーン地方の西半分がポーランドに, 南スロヴァキアがハンガリーに割譲され, 11月 にはベーメン=メーレン, スロヴァキア, ルテニアの3自治区からなる連邦制国家「チェコ=スロヴァキア共和国」 となった。翌39年にはヒトラーがハーハ大統領をベルリンに呼びつけ,「チェコ=スロヴァキア大統領はチェコ国 民の運命を信頼の念をもってドイツ帝国総統の手に委ねる」という文書に署名させて, ベーメン=メーレンはドイ ツ領, ルテニアはハンガリー領に編入され, スロヴァキアだけがドイツの保護国となった。こうして, チェコスロヴ ァキア共和国は完全に解体したのであった。
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Comments
ただのチェコビール好きではありません・・・。
マサリクの辿った足跡は、20世紀のヨーロッパ史・日本史双方に大きく影響しているのですね。
チェコからヨーロッパ史を紐解く、ってなかなか新鮮に感じましたよ!
Posted by: ビールはバドヴァー | April 30, 2005 12:36 PM
岡崎様
ご著書『マサリクの生きた時代』の要旨をブログを通じて拝見させていただき、大変興味を持ちました。マサリクが偽名で来日したことを知り、ぜひ詳細を知りたく、不躾ながらこのような形でお問い合わせさせていただきます。私自身はドイツ史の専門ですが、ぜひご著書を拝読いたしたいと思い、アマゾンや大学図書館などで検索しておりますが、購入方法の手がかりがつかめません。著者であられます岡崎様から購入することは可能でしょうか?
Posted by: Ayano Nakamura | February 15, 2007 01:47 PM