フランス産業革命と一八四八年革命
一 フランス産業革命と関税政策
一八世紀後半のフランスは、第二次百年戦争の敗北で植民地支配の縮減を強いられ、一七六三年パリ条約以降は先行するイギリスに比して「相対的後進国」(遅塚忠躬氏)の地位に甘んじることとなった。この変化はやがてフランス全体に大きな政治的・経済的影響を与えることになるが、直ぐにはその兆候が現れることがなかった。すなわち、しばらくは残された西インドのアンティユ諸島と西アフリカ、母国を結ぶ大西洋三角貿易を継続させて〈貿易収支〉優先策をとり続けたため、各地の海港都市は植民地貿易による繁栄を享受し、その後背地では各種の産業が発達した。その代表例がナント、サン・マロの後背地メーヌやブルターニュの麻織物業、ボルドーの後背地ギュイエンヌのワイン生産、マルセイユの後背地ラングドックの毛織物業などである。また、当時は東南部を中心に絹織物業が急速に発展した時期でもあり、リヨン、サン=テティエンヌ、ニーム、トゥールなどの都市部ではギルド規制が形骸化し、周辺の農村部では一七六五年の王令で農村住民による製糸や撚糸の生産が許可されていた。例えば、リヨンの絹商人は〈生産規制制度〉syst?me diristeという束縛からの解放という国王による特権的保護を受けてドーフィネやヴィヴァレに大規模な撚糸場を建設した。すなわち、彼らは養蚕農家が糸繰機で生産した製糸を撚糸に作り替えて絹織物生産の拡大に結びつけたのである。
しかし、この経済システムは英仏通商条約(一七八六年イーデン条約)やその直後のフランス革命勃発で大きく変化する。すなわち、イギリス産業革命の影響を受けたフランスは一七九一年の関税改革を皮切りに〈国内産業〉優先策に転換し、九三年の「交戦諸国との通商禁止令」(三月一日)や「航海条例」(九月二一日)を経て、第一帝政期の「ベルリン勅令」(一八〇六年)・「ミラノ勅令」(〇七年)によって所謂「大陸制度」syst?me continentalを完成させたのである。もちろん、従来の〈貿易収支〉優先策から〈国内産業〉優先策への転換の背景には、イギリスによる海上封鎖とそれに伴う植民地貿易の後退がある。その結果、海港都市の多くは繁栄が頓挫し、後背地で成長していた植民地物産の加工業などは壊滅的ダメージを受けたのである。
それは、リヨンを中心に成長していた絹織物業も例外ではなく、一七六八~八八年に平均六〇〇〇トンあった繭の生産量は革命期には三五〇〇トンにまで減少した。その当時の糸繰場の多くは半農的な家内製糸filature familialeで一日当たりの生産は僅か一リーヴル程度にとどまっていたし、糸繰りの仕事は収繭後の一~三カ月間に過ぎなかった。しかし、一八〇五年にリヨンのゲンスールGensoulが蒸気煮繭機を発明したことで生糸生産が飛躍的に向上した。一八一一年頃には早くも製糸農家の一部が蒸気煮繭機を導入して経営規模を拡大し、ローヌ川沿いや地中海沿岸では三〇年頃までに蒸気煮繭機と蒸気発動機を備えた機械製糸業が普及している。一方、輸出用絹織物は上質の原糸を必要としたため、リヨンやサン=テティエンヌの絹資本はイタリアからの輸入を拡大させた。リヨンでは大規模な外国取引を行う絹商人をソワイユSoyeuxと呼んだが、第一帝政期に活躍したゲラン商会maison Guérinがその代表例である。彼らはイタリアから絹糸とくに生糸を輸入して織元に売り、米やオリーブ油の取引、送金・手形割引・両替などの金融業務と手広く営業していたが、とりわけ長期信用や絹糸の供与を通して織元を経営支配下に置いた。その当時、国産絹糸は約四〇〇トンで年間需要量の約三分の一に過ぎず、仏領イタリアから搬入した絹糸が約五三〇トン、そしてイタリア以外からの輸入絹糸が約二四〇トンに上った。しかし、ナポレオン戦争の敗北でイタリア産絹糸の輸入が滞ったために、ブルボン復古王政はいち早く絹糸・繭の輸出を禁じた。その後、七月王政は生糸・撚糸の輸出を解禁したものの高関税(一キログラム当たり三フラン)をかけて輸出を厳しく制限する一方で、原糸輸入に対しては比較的低関税(一キログラム当たり繭・生糸はそれぞれ約一フラン、撚糸は約二フラン)とした。さらに一八三三年六月には再び関税改革を実施し、生糸の輸入関税を五サンチーム、撚糸は一〇サンチームと極端に抑えたために絹糸とりわけ生糸の輸入が急増し、輸入生糸への依存度が一層高まった。生糸輸入量が総需要量(国内産生糸+輸入生糸)に占める割合は、一三%(一八三一年)、二一%(三二年)、三九%(三四年)、二七%(三五年)と推移したが、それは座繰製糸の衰退と機械製糸の拡大を意味していた。一八三〇年代にはボネC.J.Bonnetやアルル=デュフールArlès-Dufourなど代表的な絹商人・織元が競ってガール県・アルデッシュ県・ドローム県に製糸工場や撚糸工場を建設している。
ところで一九世紀初めの絹織物業には、(製糸業や撚糸業と異なり)織元marchands fabricants/fabricans・親方chefs d'atelier ・徒弟(職人)compagnons, apprentisという徒弟制度が残っていた。織元とは絹商人から購入した絹糸と図案を「機屋親方」と呼ばれた織布工に渡して織らせ、製品が完成次第、彼らに出来高工賃を支払う問屋制資本家のことである。一八一〇年現在二二〇人の織元は親方五六一六人を使い、織機一万二五六四台を所有していたから、織元一人当たり平均二六~二七人の親方と織機約六〇台を抱えており、親方の自宅には寝食を共にする徒弟工・徒弟女工が約四五〇〇人いたと考えられている。徒弟工・徒弟女工には見習い(見習い期間は一五~一八歳頃からの約三年間)と杼渡工(錦織のような大きな織物を作る時に杼shuttleを投げ渡す九~一三歳の子ども)がおり、親方は織元から受け取る工賃の半分を織賃として彼(彼女)らに支給した。当時の親方や徒弟は織元に対して〈絶対的・全面的従属〉関係に置かれていたが、親方よりも徒弟の数が少ないこともあって親方と徒弟の間には緩やかな対等性が見られた。
ところが、一九世紀初めにジョゼフ=マリ・ジャカールJoseph-Marie Jacquardが発明し、一八一五年ジャン・ブルトンJean Bretonが改良したジャガード織機(パンチカードの操作で複雑な文様を織ることが出来る自動織機)が導入されたことで、柄物輸出が伸びて絹織物需要が急増した。こうして一八三〇年頃には、高度の技術を要する紋織や綾織などの高級織物を生産するリヨン市内と、モスリンmousselineやクレープcrepe、フーラードfoulardなどの薄手平織の無地を織る農村部とで棲み分けが進んだ。絹織物はフランス全体でも一八〇八~一二年に二八%(シャプタルC.-A.-C.Chaptal)、三〇年代初期に約四分の一(ジョン・ボーリングJ.Bowring) が輸出にまわされたが、リヨン産の高級絹織物は一八一一年に七四%、三二年に八三%が輸出されている。(註①)。こうした状況の下で絹資本による織元支配が進行したが、その足元では機屋親方が職工を増やして生産規模の拡大を図ることで織元に対する〈対等性〉を獲得し始めていた。当時、親方は九〇〇〇人、職人は約三万人に膨れあがっていたが、職人は親方との同居をやめて通勤するようになり、次第に近代的な賃労働関係が成立し始めている。後述する一八三一年のリヨン反乱は「古い労働組織の崩壊の始まりであった」(E.パリゼE.Pariset)。
ところで、旧植民地帝国の崩壊による打撃をほとんど受けなかった繊維産業に綿織物業がある。フランスの綿織物業は一八世紀初めから主としてノルマンディ地方の比較的豊かな農村から発達したが、イギリス産業革命の影響が直ちに及んだわけではない。一七七一年にフランス中央部の都市サンスに初めて導入されたジェニー紡績機は、九〇年代には国内各地に普及したものの、農村における家内労働の補助的装置にとどまっていた。ところが、一七八五年に財務総監カロンヌCalonneの援助を受けた英人技師ジャック・ミルンJ.Milneがパリ郊外に改良アークライト紡績機の製作所を建設し、三年後にアミアン商人が工業奨励局の協力を得てミュール紡績機の密輸に成功したことで変化が生まれる。さらにはフランス革命期に英人技師ピックフォードPickfordがミュール紡績機を備えた工場を建設したことが契機となって綿工業が急速に発展した。その当時、綿紡績業は零細産業であったから、改良アークライト紡績機やミュール紡績機を導入しても手動式動力や馬力に頼ることが多かった。ところが、急流に恵まれたノルマンディ地方やヴォージュ山脈を縫う急流が恰好の水力を提供していたアルザス地方では水力紡績工場としての立地条件が整っており、綿紡績業が発展した。フランスで最初に蒸気発動機を備えた工場が建設されたのは一八〇三年のことであるが、水資源に乏しいフランドル地方などでは一八一八年以降、蒸気発動機を積極的に導入した。こうして一八〇四年以降、ミュール紡績機を備えた工場の増設に伴って従来からの家内労働による綿糸生産が激減し、一八一〇年頃には工場生産綿糸が一般化していった。したがって、 フランス産業革命の開始期はジャガード織機やミュール紡績機などが導入された一八一〇年前後と見なすことが出来る。やがて一八二〇年前後には〈綿工業の首都〉パリから地方に拡散する「拡散の時期」へと移行し、四〇年代にはノルマンディ地方、アルザス地方オー=ラン県、フランドル地方ノール県の三地域に集中するようになった。
前述したように、フランスの繊維工業は、第一帝政期において大陸制度に伴うイギリス経済との断絶が功を奏して発展を遂げている。綿織物業の発展は原綿の消費量や綿紡績紡錘数、綿糸生産量の増大からも確認できるが、一八三〇年には綿織物が麻織物や毛織物を超えて絹織物に次ぐ第二の主要輸出品に躍り出ている(註②)。その間、大衆用粗綿布rouenneries生産で知られたノルマンディ地方では、紡績・織布・捺染(または漂白・仕上)という三工程間の分業が成立した。また、〈棉花買付商→紡績業者→織布業者→織布仕上・取引商→貿易業者〉と流れる生産体制が整い、これらの業種間を媒介する仲買人や商人織元などの流通機構も整備された。こうした綿工業の発展の中で、とりわけ異彩を放っているのがアルザス地方である。この地方の繊維工業の端緒は「ナントの勅令」廃止(一六八五年)に伴う弾圧から逃れてきたユグノー(フランスのカルヴァン派)が始めた捺染業で、彼らの後裔たちは一八世紀半ばに高級捺染綿布indienne fineを生産する企業家へと成長し、オー=ラン県南部の都市ミュルーズMulhouseにはケクランKœchlin、ドルフスDollfus、シュランベルジュSchulumberger、ミークMiegなどの〈繊維貴族〉patriciat du textileが誕生している。ところがミュルーズの捺染業者はフランス革命やナポレオン戦争でイギリス綿布の輸入が途絶(一八〇六年二月綿布輸入禁止令)した時、 捺染業以外にも手を伸ばす必要が生じた(フランスの原綿輸入額は一八〇五年に二八〇万七九七八フラン、〇六年に一七三万一七五八フランであったが、一〇年には九万二七〇〇フランまで激減している)。そこで繊維貴族たちは直営のミュール紡績工場を建設し、織布工程を直営作業場や問屋制前貸の農村家内工業と連結することで紡績・織布・捺染の三工程を一貫して行う綿業企業家へと転身したのである。綿織物業の多角化は第一帝政末期までにほぼ完了するが、綿業企業家の数は約二〇人程度で、最初から企業規模が大きいのが特徴である。また、生産過程の合理化(=機械制の導入)は織布工程を直営作業場への集中化を促し、紡績工程における蒸気機関の導入をもたらした。一八一二年、ドルフス=ミーク社に始まるこれらの動きは二〇~三〇年代には大規模工場のほとんどで実現している。そして一八二六年にケクラン社が力織機を導入して機械制織布工場を設立したことが皮切りとなり、四七~四八年頃には力織機の台数が手織機のそれを上回るようになった。また、アルザス地方の綿織物業者の多くは機械の修理部門を併設していたが、生産過程の合理化とともに修理部門が機械製造工場へと成長している。なお、紡績機・力織機・蒸気機関を備えた機械製造工場の数は、一八四〇年頃には約三〇にまで増加してノルマンディとアルザスの経済的地位は完全に逆転した。因みに工場で使用される蒸気機関は一八二〇年の六五から六二五(三〇年)、三五九一(四〇年)、四八五三(四八年)と急増し、石炭消費量は一八三〇年から四七年の間に三倍増の七六四万トンとなる。ただし、国内産石炭だけでは賄いきれなかったために約二五〇万トンを輸入に頼っていた。
一方、機械製造工場の出現は、製鉄部門における新技術の開発(製銑工程へのコークス高炉koks、精錬・圧延工程へのパドル炉paddleとローラー圧延機の導入)を促進させることになる。かつてアンシャン・レジーム期の製鉄は、鉄鉱石から直接的に錬鉄や鋼を産出する直接製鉄法と、銑鉄生産(製錬工程)と錬鉄生産(精錬工程)からなる間接製鉄法が採られていた。前者はピレネー山脈に近いアリエージュ県やオード県という山岳地方に見られたカタロニア式製鉄と言われ、後者は一七八九年現在で銑鉄生産のための高炉が三五八基、フランシュ=コンテ式・ヴァロン式・ニヴェルネ式の精錬炉が一〇九〇基存在したが、いずれも経営規模が小さかった。そのためフランスの製鉄業はしばらく木炭高炉と木炭精錬炉の併用が続いたが、一七六九年にヴァンデル家Wendelがアヤンジュ製鉄所Hyange(モーゼル県)において木炭燃料にコークスkoks(石炭を乾留して炭素部分だけを残した燃料)を混ぜる銑鉄生産に成功し、八四年にはル・クルーゾ製鉄所Le Creusot(ソーヌ=エ=ロワール県)がフランス最初のコークス高炉の運転を始めている。註③
しかし、革命前の製鉄企業としてはディートリッヒ製鉄所De Dietrichや武器製造で知られたル・クルーゾ製鉄所のような大規模製鉄所も存在したが、多くは年間稼働期間が五~七カ月間と短く、農民の生計補充手段に過ぎない小規模経営だった。ところが、革命の勃発とともに国王や亡命貴族、教会が所有していた製鉄所が没収され、製鉄企業家・大商人・大借地農などに売却された。その結果、一部の製鉄企業家は吸収・合併を通して経営規模の拡大に努めたため、資本の集積や集中という現象が現れ始めた。(註④)。一八一五~二二年には復古王朝による「鉄輸入の自由化」を受けてデュフォーG.Dufaud、ガロアL.de Galloisなど中部フランスの製鉄業者が石炭とコークスを併用する製鉄に取り組み始め、二二~二三年には所謂「イギリス型製鉄所」foges anglaisと呼ばれる大規模製鉄所が約二〇カ所も設立されて二六年には倍増している。一八〇七年九月二日に公布された商法典(「会社法」)は会社を合名会社・合資会社・株式会社の三形態に分類しているが、当時の製鉄業は同族的・個人企業的性格の強い合名会社が多かった。しかし、二〇年代に入ると中部フランスのフルシャンボー工場Fourechambault、テルヌワール工場Terrenoireなどのように合資会社や株式会社という形態をとって大資本の調達に成功した企業も出現し、錬鉄を機械製造工場に売却することで莫大な利益を生み出し始めていた。
ところでフランスは、革命戦争やナポレオン戦争の時期にイギリス製品の輸入禁止や対英貿易の禁止を断行したが、大陸制度の崩壊後も激しい国際競争から国内産業を守るために超保護主義的な関税政策を維持した。フランスの産業革命は、この関税障壁に守られる形で一八二〇年代に入ってようやく本格化したのである。〈保護貿易主義〉を主張したのは、外国産の工業製品や原材料との競争を怖れる工業部門の企業家や鉱山・炭鉱・森林の所有者、農牧業者など多岐にわたったが、とりわけ関税改革に反対したのは産業革命で頭角を現した石炭・製鉄・機械などの産業資本家だった(註⑤)。
そして、こうした産業資本家と結びついたのが「オート・バンク」haute banqueと呼ばれた約二〇の商人銀行家négociantes-banquiers集団である。彼らは例えばユダヤ系のロチルド家Rothschildが羊毛・絹・茶、デレッセール家Delessertやオタンゲル家Hottinguerが綿花、セイエール家Seilièreが羊毛などと手広く国際貿易を展開し、ロンドン、アムステルダム、ニューヨークとパリを結ぶ国際金融網と豊富な自己資金を足がかりにして貿易為替業務を独占した。また彼らは輸入原材料を全国規模で販売しただけでなく、全国各地の生産者から依頼されて委託販売も行ったが、こうした営業の際に利用した為替手形や手形貸付がオート・バンクを手形決済機構へと成長させていった。ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparteは一八〇〇年にフランス銀行を設立して銀行券を全国的に使用させるなど国家統制の強化に乗り出したが、これは各地域間の為替相場の違いを利用して利益を生み出してきたオート・バンクにとっては脅威であった。そこでナポレオン一世が失脚した一八一四年に商業銀行家ジャック・ラフィットJacques Laffitteらがフランス銀行の改組を行い、翌年以降の貨幣・金融市場はフランス銀行とオート・バンクの二本立てとした。当時、ブルボン復古王朝は総額一六億フランもの対外負債を抱えていたが、一六~一八年に数度に及ぶ五%利付国債の発行を通して八億一四〇〇万フランの借り入れを実現している。この起債市場はロンドンのベアリングBaringやアムステルダムのホープHopeに依存したが、やがてパリのオート・バンクにも頼るようになり、スペイン戦争(一八二三年)や「亡命貴族の一〇億フラン法」(二五年)制定に伴う国債発行はロチルド家を中心とするオート・バンクが独占的に引き受けている。証券市場で売られた五%利付国債の相場は、一六年の証券取引所整備法や減債金庫再建法などの制定で所謂「上げ相場」となっており、オート・バンクに巨額の利潤をもたらした。
ところで、当時の銀行資本としてはフランス北部のアンザン鉱山会社に投資したペリエ銀行Périerやル・クルーゾ、フルシャンボー、アヤンジュ三大製鉄会社に融資したセイエール銀行Seillièreなどが有名だが、これらは重工業部門への投資を通して保護関税政策に賛同していた(註⑥)。一方、フランスの鉄道建設は一八二三年の炭坑用鉄道に始まるが、ここでも銀行資本が顔を出す。二六~二八年、サン=テティエンヌを中心にローヌ川とロワール川を結ぶ鉄道が建設され、製鉄業の各工程を連結させるための運搬手段として機能し始めた。そして、三三年に「鉄道建設用資金調達に関する法令」が制定され、三五年のパリ=サンジェルマン鉄道開業以降はロチルド家などのオート・バンクや大銀行が本格的に鉄道事業に参画する。しかし、七月王政期の政府は鉄道建設に私的資本の援助を期待しながらも、公益擁護の観点から私的資本が鉄道経営を牛耳ることは避けたいと考えて金融ブルジョワジーと対立し、三五年と三七年には政府案が議会で否決されている。四二年六月一一日になってようやく全国規模の鉄道計画に関する法律(「一八四二年鉄道法」)が成立し、政府・市町村は鉄道敷設に関する土地・建物の収用と基礎工事を引き受けて建設費の大部分を負担したが鉄道の所有権者にとどまった(四五年鉄道法改正で市町村の鉄道建設負担は除外)。一方、私的会社はレール据え付けや車輌の調達と経営費・補修費を負担するだけで、政府から営業権を一定期間譲渡されることになった。パリ・ロチルド家の祖ジェームス・ロチルドJames de Rothschildは、以前からベルギー総合会社などへの資本参加を通してアルザス・ロレーヌ産鉄鋼とイギリス・ベルギー産石炭を軌道に乗せようとしていたが、いよいよ実現の運びとなったのである。四五年に鉄道建設の認可を得た北部鉄道は、五二年までにクレイユ=サン・カンタン鉄道(四六年設立認可)やアミアン=ブローニュ鉄道(四五年設立認可)を合併し、パリからアミアン、リール、ベルギー国境を結ぶ線路の敷設に成功した。北部鉄道やパリ=ストラスブール鉄道(四五年設立認可)、パリ=リヨン鉄道(四五年設立認可)などの鉄道事業は、ジェームス・ロチルドのほかシャルル・ラフィットCharles Pierre Eugène Laffitte、エドワード・ブラントEdward Blount、ジャン=アンリ・オタンゲルJean-Henri Hottinguerなど銀行家を中心とする株式会社が担っている。(註⑦)
こうしてパリの大銀行を中核とする金融ブルジョワジーは大商人・大地主層と結びついて巨大な利益を得ただけでなく、彼らの始めた鉄道建設=経営を通して燃料・資材を供給する産業資本家とも資金面で繋がったのである。一八三〇年代における製鉄業の発展は、繊維工業機械の生産だけでなく、鉄道敷設に伴う軌条の需要増大にも起因する。確かに鉄道敷設が拡大するのは三八年以降であり、四二~五三年における軌条のための錬鉄生産は全体の一五%程度であるが、ヴァンデル家が二〇~二二年に、ル・クルーゾ製鉄所が二五年にそれぞれ設備投資をしたのは軌条増産を見越してのことである。ル・クルーゾ製鉄所は三八~四七年に新型高炉四基を建設し、四二年のパドル炉による鉄生産一四万二六〇〇トンのうち二〇%以上が軌条用錬鉄であった。そして、ドカズヴィル製鉄所Decazevilleやフルシャンボー製鉄所、アレー製鉄所Alais、ル・クルーゾ製鉄所など大企業は軌条市場を占有し、価格協定(三七年五月)や納入割当協定(四一年オルレアン鉄道)、競争忌避協定(四二年モンペリエ=ニーム鉄道)を結んでいる。こうして製鉄業を営む大企業は鉄道の発展を梃子にして資本蓄積を果たすとともに、その過程で生産の集中や企業連合の結成を果たして寡頭支配を強化したのである。
一方、鉄道会社の株主は銀行家を筆頭とする資産家・名望家によって占められていたが、とりわけパリ・ロチルド家は鉄道会社一二社の大株主・理事となり、鉄道株全体の約二割に相当する一八万四〇〇〇株を所有した。また、株式発行は当初、パリの大銀行が引き受けて顧客優先で配分するのが一般的であったため、鉄道会社の株主になれたのは少数の資産家・名望家に限られた。こうして額面の一割の払い込みだけで大量の株式を取得した有力者は流動する株式相場を眺めながら競って売却した。まさにプレミアム狙いの投機だったのである。そのため、鉄道株の売買は株式市場全体を刺激し、四五年には空前の狂乱投機となった。また、この投機熱の背後にはパリ=ルーアン鉄道やルーアン=ル・アーヴル鉄道の株式を取得したブラッシーT.BrasseyやマッケンジーW.Mackenzieなど英人富豪の姿があった。その時、パリとロンドンに緊密な金融関係を持っていたジェームス・ロチルドはイギリス資本導入の橋渡し役を担い、ラフィットはロンドンの銀行家エドワード・ブラントEdward Blountと組んで鉄道金融会社Laffitte Blount et Cieを設立し、ジャン=アンリ・オタンゲルもロンドンのベアリングス銀行Baringsと提携して鉄道金融会社Campagnie Baring, Hottinguer et Receveurs Generauxを作ってイギリス資本の導入を図った。その結果、イギリス資本はフランスにおける鉄道投資額の約三分の一を占め、ドイツやスイスを含めると外国資本が約三分の二に達したのである。
ところが、四五年下半期に下落し始めた株価は翌年になっても反騰の兆しが見られず、まず大衆投資家が鉄道投資から離れていった。一方、銀行筋は貸付信用の拡大を通して鉄道株の買い支えに出たが、やがて資金繰りに窮した多くの銀行が鉄道株の売りに転じると金融市場全体に混乱が拡がった。そしてほぼ同時期に、綿工業や羊毛工業の分野でも急激な景気後退が進行した。一八四五年、英仏両国における綿工業の活況やそれに伴う原綿需要の増大に押されて原綿価格が急騰し、綿製品価格の上昇に伴って国内需要が急速に萎んだのである。そして四六年秋以降はアメリカ棉花の不作とイギリス原綿市場の高騰に刺激されて投機買いが横行した。こうした状況に追い打ちをかけたのが四六年の凶作である。フランスの小麦収穫は豊作だった四四年より二六%、平年作だった四五年より一六%下回って六〇〇〇万ヘクトパスカルhPaとなり、七月までは一hPa当たり二二フラン台だった全国平均小麦価格は八月には二四フランへと上昇し、一〇月二六フラン、一二月二八フランと高騰している。これは全国各地の農村で穀物商が買い占めに走っただけでなく、パリの商業銀行家が輸入穀物の投機買いを始めたからであり、ロチルド家も一一月にはマルセイユ、ル・アーヴル、ダンケルクで買い占めに乗り出している。フランスの穀物輸入額(法定価)は四五年の一四九五万フランから九六一八万フラン(四六年)、一億七六九三万フラン(四七年)へと増大した。したがって穀物輸入は四六年下半期の二五万トンから翌年上半期には六二万トンまで増えて輸入総額の二一%を占めるに至り、四七年は二億三六〇〇万フランという大幅な入超を記録している。なお、四七年における穀物輸入相手国はロシア(六九八四万フラン)に次いでイギリス(一一八〇万フラン)が多いが、これはイギリスの第二次ピール内閣Robert Peel(在任一八四一~四六)が採用した〈自由貿易主義〉が関係している。四四年以降、対英貿易は綿織物・毛織物輸出と原毛輸入とが急増したが、四六年にピール政権が保守党主流派の反対を押し切って穀物法廃止に踏み切って以来、イギリスは最大の貿易相手国となっていた。
しかし、綿工業や羊毛工業の低迷状態が長引かなかったことにも注目する必要がある。確かにオルヌ県(ノルマンディ地方)のラ・フェルテ=マセLa Ferté-Macéでは綿織物業者が操業停止に追い込まれ、同じく輸出市場を持たないリールやルベLoubet、ルーアンなどでも深刻な不況に直面した。しかし、四六年の原綿輸入量は四四年の九%増、四五年の六%増となってこれまでの最高額に達していることから、綿工業が急速に回復したことが分かる。その原因は綿製品輸出の好調にあった。四六年の綿織物の輸出額は四四年を三五%、四五年を一〇%強上回っており、同様に毛織物や絹織物も対前年比四%上回っている。そして同じく、製鉄業も鉄道建設の拡張と歩調を合わせて活況を呈し始めた。四七年の鉄道建設費は四五年の二倍増、四六年の四五%増に膨れあがり、同年一月に敷設中の線路が一五四〇キロ、新規に認可された路線が八七三キロもあった。その前年にはル・クルーゾ製鉄所が資本金を五〇〇万フランに増資しただけでなく、ドカズヴィル製鉄所が高炉二基を増設し、ロワール・アルデーシュ会社Compagnie de la Loire et du l'Ardècheも増資に踏み切っており、この年の製鉄部門の総投資額は三〇〇〇万フランに達していた。その結果、コークス高炉は四四年の六一炉から七九炉(四五年)、一〇六炉(四六年)と急増し、パドル炉による錬鉄生産量も四四年の二〇万六五二一トンから二三万三七八三トン(四五年)、二五万四三二五トン(四六年)へと増えている。七月王政期の政府統計によれば、銑鉄の一トン当たり年間平均価格は四四年の一二八フランから一三六フラン(四五年)、一五三フラン(四六年)と推移しており、製鉄会社の経営陣は強気であった。四七年の鉄生産量は銑鉄が四五年を三七%、四六年を一五%上回っただけでなく、錬鉄が四五年を五〇%、四六年を四九%上回り、軌条も四五年を九〇%、四六年を六五%とそれぞれ上回っており、未曾有の活況を呈していたのである。
ところが、一八四七年、製鉄業はにわかに過剰生産に陥り、価格下落を引き起こした。サン=ディジエ鉄市場Saint-Didierでは一月七日から九月一六日までの間に白銑が二〇〇フランから一六〇フランへ、圧延鉄が四〇〇フランから三七〇フランへ、錬鉄が四〇〇フランから三六〇フランへと下落し、パリ市場でも同様の下げ幅を記録した。そして製鉄業の不振は鉄道建設の停滞と鉄道会社の株価急落をもたらした。もともと鉄道建設の拡張は株式発行に依存していたため、株式の過剰発行が証券市場を逼迫させていた。ラフィット型銀行のグアン金庫やバンドン金庫は一月末には鉄道株担保貸付を中止し、貸付先の株主に対して株を売却して貸付金を返済するよう要求した。そして四月に入るとイギリスに起きた所謂「四月危機」を契機に英人株主がフランスの鉄道株を手放し始め、九月には一斉に資本を引き上げたために証券取引所はパニックに陥った。こうして証券市場の混迷は新しく認可されたばかりの一部鉄道の資金調達を不可能にし、ボルドー=セット鉄道(四六年六月設立認可)やリヨン=アヴィニョン鉄道(四七年一月設立認可)は株主総会で解散を余儀なくされたのである。
このように、フランスの産業革命の特徴は、第一に政府による手厚い保護関税政策に守られつつ一八一〇年代に始まり、二〇年代以降には絹織物・綿織物などの繊維工業から製鉄業などの重工業へと発展した点にある。しかし、それはイギリス産業革命が綿工業から始まり、石炭・鉄鋼・機械など生産財生産部門に刺戟を与えつつ徐々に国民経済の自立的な再生産構造を高度化させた後に所謂「鉄道時代」railway ageを迎えたのとは全く対照的であった。すなわち、イギリスに比して「相対的後進国」であったフランスは、綿工業中心の産業革命が本格化した一八三〇年代には早くも鉄道建設が開始され、綿工業と鉄工業その他の重工業部門が一斉に産業革命を推進したという点が第二の特徴である。また第三に、アルザス地方の規模の大きな綿業資本が金融業者と結んで集中的に資本主義の発達を推進したことも特徴的であり、それはイギリスという先進国の生産力水準に追いつくための唯一の方法だったのである。そして、産業革命が大きく進展した四〇年代になって〈自由貿易主義〉という国際競争の荒波に巻き込まれ、新たな諸問題に直面することになる。註⑧
二 民衆運動の担い手 ~初期社会主義と労働運動~
さて、ジャン=ルイ・フランドランJean-Louis Flandrinの著書『性と歴史』によれば、一八世紀以降のフランスでは(カトリック教会の度重なる禁止命令にもかかわらず)意識的なバース・コントロールが行われ、出生率の目覚ましい低下が見られたという(註⑨)。ところが一方では、一八〇一年に二七三五万人だった人口が一六年に三〇五七万人、四六年に三五四〇万と増加したという統計もある。人口増加の原因はフランス革命やナポレオン戦争という混乱を乗り越えたことで経済が活性化したことや、衛生観念の普及で幼児死亡率が低下したことなどが考えられている。同じことは都市人口の動向にも当てはまり、一九世紀初めのパリには約五五万人が住んでいたが、一八三一年に七八万五八六二人、四一年に九三万五二六七人と急増し、五一年にはついに一〇五万三二六二人とヨーロッパ有数の巨大都市となっている(註⑩)。また、パリ市内の住宅はもともと一階にブルジョワが住み、屋根裏部屋に貧民が住むという垂直的な階層化が見られたが、この頃には西部のサン・トレノ街Saint-Honoréなどでブルジョワのための豪華な邸宅が建設される一方で、東部のフォブール・サン=タントワーヌ Faubourg St-Antoineなどでは貧民が住む労働者街となって水平的階層化も進んでいる。
ところで、一九世紀当初のフランスでは離村向都現象がさほど顕著とは言えなかった。また各都市内の事業所はほとんどが小規模で、パリやリヨンでは二~五人しか雇用しておらず、工業化の進んだアルザス地方でも平均約三五人だった。そして、そこで働く熟練労働者の多くは一日三~四フランほど稼ぎ、植字工・大工・石工の中には年収一〇〇〇フランになる者もいたという。ところが、産業革命に伴う機械化は労働者階級の比較的上層部の急速な分解を惹き起こした。旧来の手工業的職人労働は次第に必要とされなくなり、彼らはより下層の貧困労働者に落ちていったのである。そして、もともと低賃金で雇用不安に怯えていた家事奉公人や〈プティ・メティエ(しがない職業)〉Petits Metierと呼ばれていた行商人・水売り人・屑屋・流しの歌手などはさらに深刻な状況に陥った。こうした生業に従事していた貧民はパリ全体の人口の約一割を占めており、病院での死亡者数で言えば四分の一に達している。当時のパリでは犯罪が多発し、私生児(パリの出生数の約三分の一)や児童遺棄(年平均五五〇〇人)、嬰児殺し(年平均九〇件以上)、自殺(年約七〇〇件)などが突出して多かった。また、娼婦や乞食、流浪者、私生児、農村からの一時的流入者らはガルニ garniと呼ばれる家具付き宿泊所(ないし貸部屋)に住み、彼らが滞留するスラム街は同時に肺結核や佝僂病・コレラ・チフスの巣窟でもあった。こうして七月王政下では医師のヴィレルメLouis René Villerméやパラン・デュシャトLouis REne Villermeらの指摘を受けて下水処理システムなどの公衆衛生政策とともに、〈社会的貧困〉paupérismeの解消という課題が浮上した。また、七月王政下に始められたセーヌ県知事ランビュトーClaude-Philibert de Rambuteauによる都心改造や「ティエールの壁」建設工事が多くの非熟練労働者をパリに招き寄せ、事態をより深刻化させた。その当時、農村では人口増加に加えて分割相続による土地所有の細分化が進んでおり、多くの貧農たちが首都パリに雇用の場を求めて移動したのである。
しかし、当時の労働環境は極めて悪く、例えばフランドル地方の中心都市リールにおける紡績工場では、食事時間を入れて一日当たり一四~一五時間の長時間労働を強いられ、一八四七年時点の日給は男性が二フランを少し超える程度で、女性はその半分くらいであった。これは産業革命の開始によって女性・子どもという低賃金労働者の雇用増加に加えて、農村からの日雇い労働者の流入によって労働市場がだぶつき、賃金抑制につながったからである。そのうえ労働立法も極めて貧弱で、ようやく一八四一年の「児童労働制限法」で八歳未満児童の雇用と一三歳未満児童の夜業が禁止されたが、現実には違反者に対する摘発は行われていない。このように七月王政下の厳しい労働環境のなかで、主に建設関係の〈コンパニョナージュ(職人組合)〉compagnonnageが定期的な掛金と引き換えに仕事の斡旋や労働条件の交渉、衣食住の世話、葬儀代金の支払いなどを行う相互扶助的性格を帯びるようになる。彼らは伝統的なギルド(コルポラシオンCorporacion)的結合に個人的自発性を加えて〈アソシアシオン(生産協同組合)〉associationを組織し、次第に労働団体としての自立性を発揮し始めたのである。七月王政期の労働運動を研究したジャン=ピエール・アゲJean-Pierre Aguetによれば、当時のストライキ三八二件(パリ一一九件・リヨン二四件・マルセイユ九件など)の内訳は、産業部門別では手工業一六二件、建築業一二二件、繊維業八二件、鉱業・製鉄一六件の順に多く、職種別では紳士服仕立工三〇件、大工二四件、石工一七件、鉱山労働者及び製帽工一五件、家具製造工一三件、石切り工一〇件となっており、労働運動の主な担い手が新興の機械制工業に携わる労働者ではなく伝統的な手工業労働者だったことが分かる。また、一八三三年九~一二月の五四件と翌三四年一~四月の五件のストライキのうち少なくとも二九件は一時的または恒常的な組織が関わっており、建築労働者は「職人組合」、繊維工業の仕立工は相互扶助組合の形式をとる「職能組合」を結成していた。註⑪
こうした貧困問題や労働運動と結びついて一八三〇~四〇年代に登場するのが、「初期社会主義」である。それは一八世紀の重農主義者ケネーQuesnayや百科全書派のテュルゴTurgotが「なすに任せよ」laissez-faireの標語とともに唱えた自由放任主義や「自助の原理」だけではもはや失業や貧困の問題を解決することは困難であり、このままでは格差を拡大させ、貧困や無知を固定化しかねないとの考えに至ったからである。彼らは、社会的弱者の救済は個人ではなく、アソシアシオンや(場合によっては)国家を含むより大きな社会的結合体にしか為し得ないと判断し、産業を科学的に組織化することで〈生産と消費〉の均衡を図り、併せて〈富の分配〉の公正化を実現しようとした。すなわち、そのためにはあらゆる産業を金融資本や大地主の独占から解放し、無秩序な自由競争に替えて生産手段と生産物の均衡のとれた配置と分配を可能にする経済システムが必要だと主張した。フランス初期社会主義は「産業主義理論」を提唱したサン=シモンClaude Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simonを始めとして、カトリック的社会主義の祖と言われるビュシェPhilippe Joseph Benjamin Buchez や、後に二月革命で活躍するルイ・ブランLouis Blanc、自由な小生産者による相互扶助社会を理想としたプルードンPierre Joseph Proudhonと幅広いが、ここでは労働運動との関係からビュシェとルイ・ブランに注目したい。
先ずビュシェは、初めのうちこそサン・シモン派に属していたが、次第に労働者の主体性を重視するアソシアシオン論に傾いていった。彼の理論は一八四〇年九月に創刊された『アトリエ』紙(副題「労働者の精神的物質的利益をまもる機関紙」)L'Atelierに結集した印刷工コルボンClaude-Anthime Corbonら職人・熟練労働者に支持された。彼らは七月王政をプロテスタント的エゴイズムに基づく「レッセ・フェール」体制だと批判し、労働者のアソシアシオンが自主管理することで搾取のない社会(「社会的共和国」)を実現しようと呼びかけた。一方、『労働組織論』(一八四〇年)を著したルイ・ブランは、〈競争=無秩序な生産〉こそが諸悪の根源だとして民主国家による労働の組織化を主張した。すなわち、民衆は普通選挙を通して民主政府を成立させ、その政府が設ける「社会作業場」や職域ごとに組織されるアソシアシオンを通して〈生産の制御〉を図ろうとする理論である。彼の理論は大工場の労働者を想定して構築され、賃金の絶対的平等を主張したことなどにも特徴が見られた。註⑪
ところで一八三〇~四〇年代初めのフランスでは、一七九一年制定の「ル・シャプリエ法」(労働者団結禁止法)loi de Le Chapelierや一八一〇年公布の「刑法典二九一条」などによる規制を受けたものの、相互扶助を目的とする団体については規制対象から外されていたためアソシアシオン結成が相次いでいた。なかでもその後、パリの労働運動の中心となるパリ仕立工博愛協会Société philanthropique des ouvriers tailleurs de Parisは、病気・失業などの際の相互扶助と組合管理の就業斡旋を目的として三一年六月一日に結成された。博愛協会結成の契機となったのは同年上半期の賃金引き下げであったが、下半期には再度の引き下げ阻止に成功し、翌年一一月にはストライキを敢行して七年ぶりの賃上げを実現している。そして三三年一〇月初旬、注文が殺到する繁忙期に再びストの準備がなされた。もちろん、ストに関する集会は雇用主の目が光っていたから、仕事のない日曜日にそれも市外の居酒屋で極秘裡に開いている。そして二〇日頃、仕立工たちは経営者全員に礼服・コート類一着につき二フランの賃上げを要求する回状を送付し、二九日には市門の外で約三〇〇〇人規模の集会を開いて全面的ストライキに突入した。その時、パリの仕立業経営者は労働者の要求を拒否する大規模経営者(業界の貴族aristocratie du métier)二〇人余りと要求を受け入れた多くの小規模経営者とに分かれた。純然たる経営者=企業家である前者は前年のスト後に労働者の要求に譲歩しないこと、違反者には一〇〇〇フランの罰金を課すことを申し合わせており、スト発生後ただちに会合を開いてスト指導者を告訴するためのシュワルツSchwartz委員会を結成した。一方、賃上げを受け入れた後者は他の多くの手工業者と同じく自らも働く直接生産者だったから、独自の委員会を立ち上げるとともに労働者との共同組織を結成した。この労使共同組織は労使の相互理解・相互協力を謳う規約を設け、具体的には救済基金の設立、労働と雇用に関する需給調整など労使協調路線を選択している。したがって、ストライキの対象となったのは仕立工たちの要求を拒んだ大規模経営者だけである。職場放棄した仕立工たちは隊列を組んで各作業場を訪れて説得する〈l'embauchage〉を行い、既に建築労働者の「職人組合」が採用していた立入禁止mise en interditという戦術で大規模経営者から労働力を奪った。また、スト全体の指導はグリニョン委員長Grignonを中心とする計五名の行動委員会commission d'actionが行い、第四区のグルネル・サン・トレノ通り一三番地の居酒屋に設置された。彼らはスト参加者を二〇人ごとの班に編制し、パリ仕立工組合議長トロンサンTronsinを中心にプレシェール通りの居酒屋と契約してシチューとワインの食券を配付する食糧保障体制も整えている。また、約八〇〇〇~一〇〇〇〇人に膨れあがったスト参加者がストライキを継続するためには多くの闘争資金を準備する必要があったが、組合からの約八〇〇フランに加えて集会参加者からの拠出金、集会当日に仕事に就いていた労働者からの六一九フランを合わせて約二〇〇〇フランを確保しただけでなく、行動委員や協同作業所Atelier National責任者には二~四・五フランの日当が支払われており、既に専従制度が成立している。
さて、グリニョン委員長は四頁の小冊子を発行して閑職期と不慮の事故に備えうる賃金の獲得、健康と教育に必要な休息時間の確保、雇用主との平等で自立した関係の構築という労働運動の方向性を示したが、特に第三点に注目する必要がある。彼ら仕立工はただ単に裁断や縫製の技術だけでなく、布地の質や価格、モードの変化に関する知識が求められる熟練労働者であった。また、大規模な仕事場すなわち一流店の場合は裁断工がどのような紳士服を作るかを決定し、職工長が生産全体の指揮をとっていた。したがって、仕立工たちは原料価格や販売価格などについても熟知しており、経営者の利潤蓄積は偏に「自分たちの労働」に負っていると知る立場にあった。それ故、スト参加者は富裕者からの慈悲ではなく、自らの労働の対価として「支払われるべき賃金」を要求したのである。同時にそれは「人間としての尊厳」を取り戻すための主張でもあった。もちろん、一九世紀初めのパリにおいては就業の可否から労働条件に至るまで全ての決定権は雇用主にあり、労働者の「生存」は雇用主の恣意的判断によって左右されたと言っても過言ではない。しかし、生産技術に加えて流通・販売に関する知識をも習得した労働者たちは「資本」さえあれば雇用主なしでも経営が可能だと気づいていた。そして一一月四日、彼らは組合の救済基金の一部と五%の利子付株式の発行によって設立資金を調達し、サン・トレノ通り九九番地に念願の協同作業所を開設したのである。しかし、シュワルツ委員会の告訴を受けた警察が六日、一五日、二〇日と相次ぐ家宅捜査でストライキを壊滅に追い込んだ。逮捕者は延べ二〇〇人以上に及び、裁判所は社会秩序を乱したとしてグリニョンを懲役五年及び観察処分五年、トロンサンを懲役三年という厳罰に処している。パリの仕立工のストライキはルーアン、オルレアン、トゥール、アンジェ、ナント、リモージュ、リヨンなどフランス各地に飛び火したが、その背後にはパリから派遣されたオルガナイザーの姿があり、彼らは組合結成とストの組織化を誘導している。
一方その頃、政府の弾圧を受けて弱体化した反政府派の一部は結社を急いでいた。三〇年六月に結成された「人民の友」Société des Amis du peupleは三一年に発生したリヨン蜂起を支持し、三三年一〇月に「人間の権利協会」として再結成した。彼らは公平な分配や累進課税制度を要求しただけでなく、普通選挙による単一国民議会の創設を提唱し、一時は熟練労働者を中心に約三〇〇〇人の参加を得た。小ブルジョワ層と労働者の間に〈指導と同盟〉の関係が誕生しつつあったのである。新たな動向に危険な臭いを嗅ぎ取った第一次スールト内閣(在任一八三二~三四)Nicolas Jean-de-Dieu Soultは、三四年三月に「刑法典二九一条」の罰則規定を強化し、四月一〇日には「結社法」を制定して団体の事前許可制を定めた。しかし同日、リヨンで再び人間の権利協会リヨン支部と提携した労働者の同業組合が軍隊・国民軍と衝突し、市街戦に発展している。この蜂起はまもなく鎮圧されたが、労働争議はサン=テティエンヌ、アルボア、グルノーブル、マルセイユなどにも波及した。そして一三日、パリでも人間の権利協会を中心とする約四〇〇人がサン=メリ地区Saint-Merryのボーブール街・トランスノナン街・ウルル街などにバリケードを築いて蜂起したが、翌一四日には正規軍・国民軍約四万が集中砲火を浴びせて労働者たちを皆殺しにした(トランスノナン街の虐殺)。政府は全国の労働者蜂起を軍隊と国民軍の力によって抑え込み、約二〇〇〇人の逮捕者をだしたのである。
ところが政府の激しい弾圧にもかかわらず、労働運動はブルターニュ地方やロワール川流域、ボルドー地方や南部など広範囲に亘って密かに継続され、三七年二月二〇日、ナントの仕立工組合が家宅捜査を受けた際には仕立工博愛協会Société philanthropique des ouvriers Tailleursという全国三〇県にまたがる連合組織の存在が明らかになっている。この連合組織は五つのセンター都市(マルセイユ、ボルドー、ナント、トゥール、レンヌ)が周辺地域を指導する体制が整えられている。このような全国規模の職能組織の存在は、建築労働者などの「職人組合」と仕立工博愛協会以外はこれまでのところは確認されていない。谷川稔氏によれば、「職人組合」の若い労働者は技能を向上させるために「遍歴の旅」tour de Franceを経験する慣習があり、そのことが全国的連絡網を作るのに役立ったという。そして、既製服のない時代における紳士服は今日では想像も出来ないほど高額な商品であり、それを作り出す仕立工には熟練した技術が要求された。したがって、服飾産業の中心地パリは地方の仕立工にとっては憧れの遍歴都市であり、地方都市でもパリ仕立工博愛協会と同様の規約を持つ組合が結成されると、鉄道網の整備とともに情報が拡散して瞬く間に全国的組織に発展したものと考えられる。
その後、一八三九~四三年や四七年にも労働争議が発生した。四〇年二月、警視庁は労働者手帳を持たない労働者に対して裁判所に出頭するよう命じたが、二九日、裁判所は刑法に刑事罰規定がないことからこの布告を無効と断じた。四月に入って仕立工たちが賃上げを要求して再びストライキに突入したが、六月二日経営者の団体であるパリ仕立業者博愛協会Société philanthropique des Maîitres Tailleurs de Parisが労働者管理の徹底を図って労働者手帳の携帯を義務づけたことがストの規模拡大に繋がった。その時、ブルジョワ共和派の『ナシオナル』紙が七月九日号で裁判所の決定を引用して経営者団体を批判し、紛争解決のためには労使同数の合同委員会設置が必要と呼びかけて両者の受諾を得ている。しかし、八月五日・一九日と労働者側の代表が逮捕され、八月末にはストライキそのものが終結している。指導者トロンサンは懲役五年と観察処分一〇年、スイローSuireauは懲役三年と観察処分五年と厳しい処分を受けている。だが、経営者側も労働者手帳の導入撤回を受け入れ、賃上げにも同意したふしがある。
また、四三年には印刷工組合が労使調停委員会の設置とこれによる賃金表の作成を勝ち取っている。活版印刷業は比較的大規模であったことから労働者の団結が容易だったと思われるが、同じことは前述の建築労働者や新興工業業都市の労働者にも当てはまる。ところが、前述の紳士服仕立工たちの仕事場はせいぜい二〇~六〇人程度の小規模なものである。三三年のストライキの際に発行されたカベー派Étienne Cabe(共和主義者)の出版物には独身仕立工の年間必要生活費は一一七九フランと掲載されているが、この時に賃上げが実現したとしても一一一一フランであった。したがって、仕立工たちは生活苦という止むにやまれぬ事情からストに踏み切ったが、(グリニョン委員長のような組合幹部は別として)彼らの多くは労働者としての理論やイデオロギーを持っていたわけではなく、同じ職場内で築きあげた「人的結合関係」を頼りに争議に突入したと推測される。喜安朗氏は労働者の運動の活力として「労働の場を含む労働者の生活圏」の在り方に着目して「労働者の人的結合関係の強さ」を指摘している。より簡単に言えば、日夜同じ職場で苦楽をともにしてきた労働者たちの「仲間意識」が彼らの精神を突き動かしたのではないか。一八三〇~四〇年代のフランスでは労働者の組織化は緒に就いたばかりで、アグリコル・ペルディギエAgricol Perdiguierやフローラ・トリスタンFlora Tristanなどが『アトリエ』紙を通して労働者の団結と全国組織の必要性を訴え始めた段階だったのである。一方、企業家はもとより行政当局も労働争議の交渉相手として労働団体を認めようとはしないばかりか、労働者・貧民の〈貧困と犯罪〉を同一視していた。註⑫
三 第二共和政の成立 ~二月革命~
さて、一九世紀半ばのフランスでは、一八四五年のジャガイモ、翌年の小麦・ライ麦と深刻な不作が続き、四七年春には穀物価格が従来の三倍にまで上昇した。その結果、都市の民衆は毎日の食事代にも事欠く有様で、衣服など日用品の買い控えを余儀なくされた。この時、人々はそれまでの経験から一連の農業危機が商工業危機に連動する〈旧型恐慌〉がまた発生したと考えたようである。しかし実際はフランス経済史上初となる〈過剰生産恐慌〉が発生していたのである。いくつかの鉄道建設事業は、敷設停止に追い込まれて七五万人の失業者をだした。また、石炭産業では約二〇%が人員削減し、鉱業の三五%、木綿工業の三分の一が減産を強いられた。特に季節労働者に頼っていた建築部門は深刻なダメージを受け、副収入源の断たれた貧農たちは都市の貧民窟に潜り込むしかなかった。危機は金融業にも広がり始め、銀行取り付け騒ぎが起き、地方の小規模銀行や貯蓄金庫は破産に追い込まれた。こうして全国各地で穀物輸送車やパン屋への襲撃、労働者のストライキなどが発生する。とりわけ日雇農(農業労働者)の多い地方では騒擾が頻発し、四七年一月にはフランス中部のビュザンセBuzancais(アンドル県)では蜂起した民衆が三日間にわたって町を支配し、軍隊によって鎮圧されるまでカーニヴァルで祝ったという。一方、この頃にはついにブルジョワとりわけ僅かな生産手段しか持たない小ブルジョワPetite bourgeoisieも無能な政府に対する批判の声をあげ始めている。また当時は、ラマルティーヌAlphonse de Lamartine、ルイ・ブラン、ジュール・ミシュレJules Micheletらがフランス革命史に関する著書を出版したことも手伝ってか、知識人の間にはジャコバン派や第一共和政に対する再評価の気運が高まり、次第に共和主義の支持者が増え始めていた。
こうした急激な変化の中で政権を担当したのがギゾー首相François Pierre Guillaume Guizot(在任一八四七~四八)である。四六年八月一日に実施された総選挙は制限選挙制度を巧みに利用して政府与党(ギゾー派)が二九一議席を獲得し、反政府派一六八議席を圧倒した。しかし、非常事態に対するギゾー首相の対策は極めて緩慢であり、窮乏した農業労働者や都市労働者、職のない浮浪者への援助を渋り、外国産小麦の緊急輸入は巨額の財政赤字を惹き起こしただけであった。一方でギゾー政権は、軍備増強やパリ要塞化工事、鉄道建設のためには三億五〇〇〇万フランもの公債を発行し、鉄道会社への資金援助などを強行した。これらの財政政策は、いずれも公債発行の引き受け手である金融貴族に莫大な利益をもたらした。そしてこの財政を支えたのが地租の増収と間接税収入である。四六年の歳入一三億フランのうち八億フランが間接税収入であったが、選挙権を有しない貧しい農民や労働者に過重な負荷をかけていたのは明らかである。ギゾー政権は〈金融貴族の王朝〉と言われた七月王政の中でも典型的な金権政治を展開し、制限選挙に固執した。ギゾー首相は普通選挙の要求に対して「働いて金持ちになりたまえ。そうすれば諸君は有権者になれるであろう」と答えて拒否している。
さて四七年春、議会で反政府派のデュヴェルジエ・ド・オーランヌDuvergier de Hauranneが提出した選挙制度改革案が例年通り否決されると、七月には法網を潜り抜けるために会食の形をとって集会を開く「改革宴会」Banquetsの運動が開始された。七月王政の下、オディオン・バロOdilon Barrotやラマルティーヌらの野党議員は選挙制度改革や議会改革のためには共和派との共闘が必要と判断し、マラストArmand Marrastが主宰する『ナシオナル』紙に結集したブルジョワ共和派もこれに呼応した。彼らは改革宴会では選挙改革に限った議論を行うことを約束し、この運動が社会改革には踏み込まないように細心の注意を払っている。七月九日、パリのシャトー・ルージュChâteau Rougeで開かれた改革宴会は前年の選挙で反政府派を支援した「セーヌ県選挙人中央委員会」主導の下で開かれ、選挙権を持つ約一二〇〇人が会費一〇フランを支払って参加している。そして一六日にラマルティーヌがマコンで改革宴会を開いた後は急速に全国各地へと拡散し、八月八日(コルマル宴会)から一一月七日(リール宴会)までの間に合計二二回の宴会が開催された。こうして全国に約七〇の宴会が組織され、自由主義ブルジョワジーを中心に約二万二〇〇〇人が参加したのである。
とりわけ後にパリ・コミューンで活躍することになるシャルル・ドレクリューズLouis Charles Delescluzeが代議士ルドリュ・ロランAlexandre Auguste edru-Rollinを出席させた北部工業都市リールの改革宴会には小ブルジョワ共和派や急進派だけでなく、普通選挙権を要求する労働者大衆が参加したことで急速に先鋭化した。やがて運動の主導権は小ブルジョワ共和派が握り、『レフォルム』紙を拠点とする急進派もこれを機に積極的に運動に参加するようになった。同月二一日、ディジョンで開かれた宴会には一〇〇〇~一三〇〇人が参加し、エティエンヌ・アラゴÉtienne Vincent Aragoやルイ・ブラン、フェルディナン・フロコンFerdinand Flocon、そしてルドリュ・ロランが演説している。そして一二月一九日、フランス中央部のシャロン=シュル=ソーヌにおける宴会ではついにブルジョワ共和派への批判が噴出した。しかし、改革宴会運動の中心にいた王政派の政治家はあくまでも議会改革の一貫とみなしており、労働者大衆の運動とは一線を画していた。一方、小ブルジョワ共和派=急進派や労働者大衆のアピールに強く反応したのは、パリの国民軍兵士であった。一八四〇年代後半の不況、貧困に対して効果的な対策を講じないばかりか、金融貴族と結託して改革を先送りしているギゾー政権に不満を抱いていたのである。特に国民軍内の士官や下士官を選挙で決めていた彼らにとって、代議院議員の選挙権を認めないことに苛立ちを募らせていた。
さて一八四八年一月二日、カルティエ・ラタンにあるコレージュ・ド・フランスCollège de Franceでは前年に『フランス革命史』を著したばかりのミシュレ教授の講義が政府の圧力で禁止され、フランス中部のリモージュで開かれた改革宴会では乾杯の際に「人民主権、労働の組織、プロレタリアの平穏に関する問題、普通選挙、人民」などに捧げられた。だが、改革宴会運動の主唱者オディオン・バロらは運動の急進化を怖れてパリなどでは開催しない心づもりであった。ところが、パリで最も貧しい街区と言われていた第一二区の国民軍兵士たちが開催を決めたことで政界に激震が走った。何故なら国民軍が政治に関与することは一八三一年三月二二日に制定された法律で固く禁じられており、それまではあり得ないこととされていたからである。一月一四日、ギゾー政権はパリにおける改革宴会を禁止すると発表した。一方、改革宴会運動を推進してきた議員一〇七名は二月一三日、マドレーヌ広場近くのレストランに集合して「二月二二日にシャン・ゼリゼで開く」ことを決め、宴会を自らの統制下に置こうとした。そして二一日朝には『ナシオナル』紙がマラストの宣言文を掲載して翌二二日の抗議行動を呼びかけたが、政府は直ちにこの示威行動も禁止した。一方、ギゾー政権の強硬姿勢に怖れをなした野党議員たちは抗議表明を出すにとどめて街頭デモへの参加を見合わせ、小ブルジョワ共和派も同日『レフォルム』紙の事務所における緊急会合で善後策を相談した。その時、初期社会主義者の一人コーシディエールCaussidièreは蜂起準備を主張したが、ルドリュ・ロランやルイ・ブランは反対意見を述べ、結局は様子見を決め込んだ。彼らがこの決定的な瞬間に態度を保留したことで、翌日からの街頭デモの主導権は既存の政治家たちから離れてパリの民衆、とりわけ労働者大衆の手に移ったのであった。
そして二二日朝にはカルティエ・ラタンから学生が、また場末町のフォブール・サン=タントワーヌやベルヴィル Bellevilleからは労働者を中心とする多くの民衆が続々とマドレーヌ広場に集結し始め、選挙法改正やギゾー政権打倒を叫んだ。しかし、まだこの時点では政府側が介入を控えたために大きな混乱は生じなかった。ところが翌二三日になると政府によって正規軍が配備され、国民軍も非常召集されたが、多くの国民軍が改革を支持して反ギゾー政権の立場を表明したことで状況が一変した。七月王政の秩序維持装置であった国民軍が本来の機能をしなくなったことで勢いづいた民衆は、「ルイ・フィリップを倒せ」「共和政万歳」を叫んで憲兵隊と衝突した。特にかつてフランス革命勃発の際に最初の民衆騒動が発生した地域であり、一九世紀になっても指物業や家具・室内装飾業の仕事場が密集していたフォブール・サン=タントワーヌの職人や労働者たちが再び蜂起したことが大きかった。彼らはまず市庁舎を目指したが軍隊に追い払われ、コルドリ通りとフィリポオ通りの交差点にバリケードを築いた後、警視庁機動隊や歩兵部隊の攻撃で一旦はフォブール・サン=タントワーヌへと引き返した。その後、群衆は武器・弾薬を求めて第八区の区役所に押しかけ、困惑した国民軍士官がブールヴァールBoulevardやフォブール・サン=タントワーヌ内を示威行進することを提案した。国民軍の士官・下士官や兵士が誘導するデモ隊はバスティーユ広場を経由してオペラ座近くの『ナシオナル』紙の事務所前に辿り着き、マラストの「選挙と議会の改革を実現する」という演説を聴いた。国民軍士官たちはこれで示威行動を終わらせることができると踏んだが、興奮したデモ隊はさらに進んでブールヴァール・デ・キャプシーヌBl. des Capucinesにある外務省へと向かった。国民軍士官たちによる統制力はこの時点で完全に失われたのである。事態の急変に驚いたルイ=フィリップ王Louis-Philippe(在位一八三〇~四八)はギゾー首相を更迭してモレ伯Moléに組閣を命ずることで難局を乗り切ろうとしたが、組閣は難航した。そうこうしているうちに午後一〇時頃、外務省前大通りを固めていた正規軍第一四連隊がデモ隊の隊列に向けて一斉射撃を浴びせ、五二人の死者を出してしまった。
この偶発事件は民衆蜂起の合図となった。デモ参加者たちは当時のパリの習俗に倣ってカーニヴァルの山車の形式をとることで多くの民衆を蜂起に巻き込んでいった。すなわち、正規軍兵士による乱射で一旦は四散した群衆が再び現場に集まり、通りがかった運送会社の荷馬車に死体を収容し、ブールヴァール上を東に向かって練り歩き始めた。山車の列は途中で再び『ナシオナル』紙の事務所前で止まり、今度はガルニエ=パジェスGarnier-Pagèsの「銃撃は恐るべき犯罪行為である」という演説を聴いている。彼らはその後、サン・ドニ門のバリケードから引き返してブールヴァールを離れ、ポワソニエール大通りを曲がりながら南下してパリ中心部を目指した。途中のド・クレリ通り、モンマルトル通り、ジャン=ジャック・ルソー通りは一九世紀前半の騒擾事件の舞台となった街区であり、山車の行進は蜂起の波を広げるとともに、武器商人から平和裡に奪取した銃で武装化が進んだ。隊列は中央市場の北西端から反転する形で第四区の区役所へと進んでその中庭に、山のように積んできた遺体を荷台から下ろした。彼らが中央市場を目指したのは、ただ単に都市機能の中枢部だったからではなく、そこからセーヌ河岸にかけて、市場や船着き場で働く荷役人夫や屑屋・呼び売り人などの日雇い労働者が集まり住む地域だったからでもある。翌二四日朝にはパリ市内に一五〇〇カ所近いバリケードが築かれ、蜂起した民衆は兵営を占拠し、市庁舎を包囲した。この民衆による一斉蜂起を前にして国民軍司令官はとうとう隊組織をまとめることを諦め、それを見たビュジョ将軍率いる正規軍も矛先を納めることになった。その間、国王ルイ・フィリップはオディロン・バロに組閣を命じたが実現せず、正午過ぎには退位宣言に署名した。王位は孫のパリ伯フィリップLouis Philippe Albert d'Orléansに譲られることとなり、彼は母親のオルレアン公妃に連れられてテュイルリ宮殿から国会議事堂(ブルボン宮)へと出向いた。だが、武装した群衆が押しかけて大混乱に陥り、七月王政は瞬く間に倒壊したのであった。
その日のうちに早くもデュポン・ド・ルールDupont de l'Eureを首班(在任一八四八)とし、ラマルティーヌやブルジョワ共和派=ナシオナル派のマラスト、フランソワ・アラゴ(エティエンヌ・アラゴの兄)François Jean Dominique Arago、急進共和派=レフォルム派のフロコンFerdinand Flocon、ルドリュ・ロランらの臨時政府が市庁舎内に設置され、共和政宣言を発した。ラマルティーヌやフランソワ・アラゴはもともと共和主義者ではなかったが、民衆の蜂起を受けて俄に共和主義を標榜したのであった(「翌日の共和派」)。また、彼らは労働者大衆に対する指導力を持ち合わせてはいなかったが、七月王政崩壊という現実を前にして抜け目なく自らの政治的位置を確保した。翌二五日、市庁舎前のグレーヴ広場 (現在のオテル・ド・ヴィル広場)を占拠した群衆の中から北部鉄道会社の労働者代表マルシュを中心とする労働者二〇人ほどが銃を携えながら市庁舎内に入り、「共和政が真に民衆のためのものなら赤旗を国旗にせよ」と詰め寄り、「労働の組織、保証された労働の権利。病気の際の労働者とその家族への最低限の保証、労働者が労働できないとき貧困から救済されてあること、しかもこれは、主権者たる国民によって選定された諸手段による」という要請書を提出した。マルシュたちは閣僚のマリAlexandre-Thomas Marieやラマルティーヌと論争になったが、結局は丸め込まれて三色旗を共和国の国旗とすることを受け入れた。もっとも「翌日の共和派」の方も民衆の突き上げを食って社会主義者ルイ・ブラン、機械工アルベールAlexandre-Martin Albertの入閣を呑んでいる。そして新閣僚となったルイ・ブランが作成した法令には「臨時政府は労働によって労働者の生活を保証することを約束する。政府は労働者が自己の労働の利益を享受するために、彼らの間で団結せねばならぬことを認める。労働者に所属する臨時政府は、皇室(ママ)費にあてられている一〇〇万フランを労働者に与える」とあり、ガルニエ・パジェスとルイ・ブランの署名が添えられた。ルイ・ブランが書いた法令には労働者が要請した「労働の権利」という文言はなく、それは「労働者の生活を保証する」という言葉に置き換えられている。すなわち、労働者が求めた「労働の権利」とは〈労働の保証〉とそれを実現するための〈団結権〉を意味していたが、臨時政府の理解は〈失業対策〉でしかなく、この齟齬が第二共和政における分裂を惹き起こすのであった。註⑬
註① ジャガード織機の普及は絹撚糸の需要を促した。撚糸はもともとイタリアからの輸入糸が多く第 一帝政期の一八一二年には国内産撚糸一七二トンに対し、輸入撚糸は八五トンであった。撚糸生産は 仏人技師ジャック・ド・ヴォカンソンJacques de Vaucansonが一七四五年に発明したヴォカンソン式絹 織機の導入でいち早く工場生産が開始されたが小規模経営が続いた。なお、撚糸工場はアルデッシュ 県とドローム県に集中していた。Jean-Antoine-Claude Chaptal, De l'industrie française, Paris, 1819 tome II, p.120. British Parliamentary Papers. Industrial Revolution. Texitiles 5, Shannon, 1968.p.515.
本池立『フランス産業革命と恐慌』(御茶の水書房)二二一~二三五頁参照
註② マルコヴィッチT.J.Markovitchの試算では一七八一~九〇年の繊維別生産高は毛織物一億六〇〇 〇万リーヴル、絹織物八七〇〇万リーヴル、綿織物五〇〇〇万リーヴル、麻織物二億七〇〇万リーヴ ルであったが、シャプタルJ.-A.-C.Chaotalの試算では一八一二年の羊毛製品が二億三八一三フラン、 絹製品が一億七五六フラン、綿製品が一億九一六〇フラン、麻製品が二億四二八〇フランとなって綿 製品と麻製品の生産量の差が縮まり、一八二〇年代末になって逆転する。その原因は綿工業の発展と、 フランスの麻工業が相変わらず農村における家内工業段階に止まっていたのに対してイギリスでは機 械制生産の開始に成功したことが考えられる。英国産麻糸のフランスへの輸出量は、一八二〇年代に は年平均一トン未満であったが、一五トン(三一年)、五六トン(三二年)、一二九六トン(三五年)、 一九〇一トン(三六年)、三二〇〇トン(三七年)と急増している。なお、フランスの綿工業は原綿 すべてを輸入に依存しており、主な輸入相手国はアメリカ合衆国であった。一八二一年には二万二五 八七トン(米国四五%)であったが、綿工業の発展とともに三万一九一四トン(二六年、米国六八・ 一%)、二万八二二九トン(三一年、米国八〇・七%)、四万四三三一トン(三六年、米国八二%)、 五万五八七〇トン(四一年、米国九〇・一%)、六万四二二七トン(四六年、米国九四・六%)と増 加した。T.J.Markovitch, L'industrie française de 1789 a 1964, Cahiers le l'iSEA, série AF6, Paris, 1966, Tableau de base XVI. 本池立前掲書一三五~一四三、一六一~一六六頁参照
註③ 一四~一五世紀頃、ライン流域のジーガーラントSiegerlandで始まった高炉法による製鉄は膨大 な量の木炭を必要とし、森林資源の枯渇が問題視された。そのため一六世紀末頃から石炭の利用が試 みられ、一七〇九年英人アブラハム・デービー一世Abraham Darbyがコークス高炉の開発に成功した。 木炭高炉の約三倍の出銑能力を持つコークス高炉は石炭より燃えにくいという弱点があり、それを克 服したのが蒸気機関である。一七一二年英人ニューコメンThomas Newcomenが発明し、六九年ジェー ムズ・ワットJames Wattが改良した蒸気機関は、高炉の立地条件の問題を一気に解決した。また一八 二八年には英人ジェームス・ニールソン James Beaumont Neilsonが高炉に送風する空気を予め加熱す る熱風炉を発明して炉内の熱効率を高めることにも成功した。そして一七八三年、英人ヘンリ・コー トHenry Cortはパドル法puddling processによって反射炉内の炭素含量を減らすことに成功し、銑鉄か ら錬鉄や鍛鉄(鋼)を生産するのが容易になった。また、パドル炉は木炭精錬炉と比べて約二倍の生産 能力があったから生産費を約一二%削減することが出来たが、大規模生産は英人ヘンリ・ベッセマー Henry Bessemerによるベッセマー転炉の開発まで待たねばならなかった。
中沢護人『鋼の時代』(岩波新書)二五~八九頁参照
註④ 一七八九年現在の「所有帰属別製鉄所数」によれば、国家・国王一二、貴族二九八、僧族二七、 第三身分二〇二、会社六、不明三六二だった。Georges Bourgin et Hubert Bourgin, L'industrie sidêrurgique en France au début de la Révolution,1920. 本池立前掲書二五六頁参照。
註⑤ 産業資本家たちは七月王政期に企業者連合を結成し、議会や中央官庁への請願・陳情や新聞等に よる広報活動などを展開する圧力団体に成長した。とりわけ一八四〇年に結成した製鉄業利害委員会 はロビー活動を通して政府の関税引き下げ計画やベルギーとの関税同盟計画を頓挫させる中心的役割 を果たし、四六年一〇月にはいくつかの産業別企業者連合をまとめて「国民労働防衛連合」を結成し ている。一方、政府の保護関税政策に苦しんできたボルドー、マルセイユ、ル・アーヴルなどに拠点 を置く貿易商人や外国商品と十分に対抗できる高品質製品を生産していたリヨンの絹織物業者たちは 自由貿易主義を掲げ、四六年二月、ボルドーに「自由貿易中央連合」を設立した。
註⑥一八四五年現在の「企業形態別製鉄所数」統計によれば、製鉄所の多くは相変わらず個人企業(一 一二〇社)で同族資本に依拠していたが、大企業の場合は銀行資本が大きな役割を果たすようになっ た。例えばアヴェロン製鉄所Aveyronの大株主はピレ=ウィルPillet-WillやミレMilleret等のパリの銀 行家であり、ル・クルーゾ製鉄所もパリの銀行家グループのシャピタル・ボーダンChaptal-Bodinやオ ート・バンクの一つフォールドFouldが大株主だった。また、一八三三年に破産したル・クルーゾ製 鉄所を三六年に買収して操業再開にこぎ着けた合資会社シュナイダー社Schneider & Cieの最大株主は セイエール銀行だった。そしてアレー製鉄所会社の発起人・大株主はパリの銀行家グループだったし、 数年後に経営不振に陥った同製鉄所を三六年四月に引き受けた合資会社Drouillard Beroist et Cieの発起 人にして最大株主はパリの銀行家ドルラードDrouillardである。本池立前掲書二八〇~二八八頁参照
註⑦ 北部鉄道(資本金二億フラン)は筆頭株主ロチルド家が一〇万三〇〇〇株、ラフィット家が経営 するLaffitte,Blount et Cieが七万八〇〇〇株、オタンゲル家が二万二〇〇〇株とパリの銀行家が名を連 ね、有力オート・バンクもそれぞれ三〇〇〇株以上の大株主だった。また、ロチルド家はパリ=スト ラスブール鉄道(資本金一億二五〇〇万フラン)の一万四〇〇〇株、パリ=リヨン鉄道(資本金二億 フラン)の一万株を所有した。本池立前掲書二六八~三五一頁参照
註⑧ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」三六八~三七一頁、服部春彦「フランス復古王政・七月王 政」(岩波講座『世界歴史19 近代6』所収第二論文、岩波書店)六〇~六八頁、遠藤輝明「フランス 産業革命の展開過程」(高橋幸八郎編『産業革命の研究』所収第二論文)一二五~一八四頁・同「フ ランスにおける資本主義の発達」(岩波講座『世界歴史19 近代6』所収第一〇論文)二九一~三二二 頁、上垣豊「立憲王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収 第一〇論文、山川出版社)四七八~四九七頁、本池立前掲書一一七~三五一頁各参照
註⑨ Jean-Louis Flandrin, Le Sexe et l'Occident, Seuil, 1981.ジャン=ルイ・フランドラン『性と歴史』(宮原 信訳、新評論)、荻野美穂『生殖の政治学』(山川出版社)一〇~六五頁各参照
註⑩ 中野隆生『プラーグ街の住民たち』(山川出版社)一〇六頁・表6「パリ市およびセーヌ県の人口 の推移」参照
註⑪ 谷川稔「近世国民国家への道」(福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』所収第六論文)三 〇四~三〇九頁、同「コンパニョナージュと職能的共同体」(『シリーズ世界史への問い4 社会的結 合』所収第五論文、岩波書店)一三七~一六五頁、J.P.Aguet, Les Grèves sous la Monarchie de Juillet. 1830~1847, Genève, 1954. pp.366~67.、『ドーミエ風刺画の世界』(岩波文庫)、ジャン=アンリ・マルレ Jean-Henri Mrlet『タブロー・ド・パリ』(新評論)各参照
註⑫ 赤司道和「手工業労働者のストライキ運動 七月王政期のパリの紳士服仕立工の事例」(『北海道 大学文學部紀要』四二ー三)一三三~一六六頁参照
註⑬ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」(『世界各国史2 フランス史』所収第六論文、山川出版社) 三七五~三八二頁、同「フランス第二共和政」(岩波講座『世界歴史19近代6』所収第七論文、岩波 書店)一九四~二〇三頁、岡田信弘「フランス選挙制度史(三)」(『北大法学論集』三〇ー三)九四~ 九八頁各参照。
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