June 13, 2020

フランス産業革命と一八四八年革命

 
  一 フランス産業革命と関税政策
 一八世紀後半のフランスは、第二次百年戦争の敗北で植民地支配の縮減を強いられ、一七六三年パリ条約以降は先行するイギリスに比して「相対的後進国」(遅塚忠躬氏)の地位に甘んじることとなった。この変化はやがてフランス全体に大きな政治的・経済的影響を与えることになるが、直ぐにはその兆候が現れることがなかった。すなわち、しばらくは残された西インドのアンティユ諸島と西アフリカ、母国を結ぶ大西洋三角貿易を継続させて〈貿易収支〉優先策をとり続けたため、各地の海港都市は植民地貿易による繁栄を享受し、その後背地では各種の産業が発達した。その代表例がナント、サン・マロの後背地メーヌやブルターニュの麻織物業、ボルドーの後背地ギュイエンヌのワイン生産、マルセイユの後背地ラングドックの毛織物業などである。また、当時は東南部を中心に絹織物業が急速に発展した時期でもあり、リヨン、サン=テティエンヌ、ニーム、トゥールなどの都市部ではギルド規制が形骸化し、周辺の農村部では一七六五年の王令で農村住民による製糸や撚糸の生産が許可されていた。例えば、リヨンの絹商人は〈生産規制制度〉syst?me diristeという束縛からの解放という国王による特権的保護を受けてドーフィネやヴィヴァレに大規模な撚糸場を建設した。すなわち、彼らは養蚕農家が糸繰機で生産した製糸を撚糸に作り替えて絹織物生産の拡大に結びつけたのである。
 しかし、この経済システムは英仏通商条約(一七八六年イーデン条約)やその直後のフランス革命勃発で大きく変化する。すなわち、イギリス産業革命の影響を受けたフランスは一七九一年の関税改革を皮切りに〈国内産業〉優先策に転換し、九三年の「交戦諸国との通商禁止令」(三月一日)や「航海条例」(九月二一日)を経て、第一帝政期の「ベルリン勅令」(一八〇六年)・「ミラノ勅令」(〇七年)によって所謂「大陸制度」syst?me continentalを完成させたのである。もちろん、従来の〈貿易収支〉優先策から〈国内産業〉優先策への転換の背景には、イギリスによる海上封鎖とそれに伴う植民地貿易の後退がある。その結果、海港都市の多くは繁栄が頓挫し、後背地で成長していた植民地物産の加工業などは壊滅的ダメージを受けたのである。
 それは、リヨンを中心に成長していた絹織物業も例外ではなく、一七六八~八八年に平均六〇〇〇トンあった繭の生産量は革命期には三五〇〇トンにまで減少した。その当時の糸繰場の多くは半農的な家内製糸filature familialeで一日当たりの生産は僅か一リーヴル程度にとどまっていたし、糸繰りの仕事は収繭後の一~三カ月間に過ぎなかった。しかし、一八〇五年にリヨンのゲンスールGensoulが蒸気煮繭機を発明したことで生糸生産が飛躍的に向上した。一八一一年頃には早くも製糸農家の一部が蒸気煮繭機を導入して経営規模を拡大し、ローヌ川沿いや地中海沿岸では三〇年頃までに蒸気煮繭機と蒸気発動機を備えた機械製糸業が普及している。一方、輸出用絹織物は上質の原糸を必要としたため、リヨンやサン=テティエンヌの絹資本はイタリアからの輸入を拡大させた。リヨンでは大規模な外国取引を行う絹商人をソワイユSoyeuxと呼んだが、第一帝政期に活躍したゲラン商会maison Guérinがその代表例である。彼らはイタリアから絹糸とくに生糸を輸入して織元に売り、米やオリーブ油の取引、送金・手形割引・両替などの金融業務と手広く営業していたが、とりわけ長期信用や絹糸の供与を通して織元を経営支配下に置いた。その当時、国産絹糸は約四〇〇トンで年間需要量の約三分の一に過ぎず、仏領イタリアから搬入した絹糸が約五三〇トン、そしてイタリア以外からの輸入絹糸が約二四〇トンに上った。しかし、ナポレオン戦争の敗北でイタリア産絹糸の輸入が滞ったために、ブルボン復古王政はいち早く絹糸・繭の輸出を禁じた。その後、七月王政は生糸・撚糸の輸出を解禁したものの高関税(一キログラム当たり三フラン)をかけて輸出を厳しく制限する一方で、原糸輸入に対しては比較的低関税(一キログラム当たり繭・生糸はそれぞれ約一フラン、撚糸は約二フラン)とした。さらに一八三三年六月には再び関税改革を実施し、生糸の輸入関税を五サンチーム、撚糸は一〇サンチームと極端に抑えたために絹糸とりわけ生糸の輸入が急増し、輸入生糸への依存度が一層高まった。生糸輸入量が総需要量(国内産生糸+輸入生糸)に占める割合は、一三%(一八三一年)、二一%(三二年)、三九%(三四年)、二七%(三五年)と推移したが、それは座繰製糸の衰退と機械製糸の拡大を意味していた。一八三〇年代にはボネC.J.Bonnetやアルル=デュフールArlès-Dufourなど代表的な絹商人・織元が競ってガール県・アルデッシュ県・ドローム県に製糸工場や撚糸工場を建設している。
 ところで一九世紀初めの絹織物業には、(製糸業や撚糸業と異なり)織元marchands fabricants/fabricans・親方chefs d'atelier ・徒弟(職人)compagnons, apprentisという徒弟制度が残っていた。織元とは絹商人から購入した絹糸と図案を「機屋親方」と呼ばれた織布工に渡して織らせ、製品が完成次第、彼らに出来高工賃を支払う問屋制資本家のことである。一八一〇年現在二二〇人の織元は親方五六一六人を使い、織機一万二五六四台を所有していたから、織元一人当たり平均二六~二七人の親方と織機約六〇台を抱えており、親方の自宅には寝食を共にする徒弟工・徒弟女工が約四五〇〇人いたと考えられている。徒弟工・徒弟女工には見習い(見習い期間は一五~一八歳頃からの約三年間)と杼渡工(錦織のような大きな織物を作る時に杼shuttleを投げ渡す九~一三歳の子ども)がおり、親方は織元から受け取る工賃の半分を織賃として彼(彼女)らに支給した。当時の親方や徒弟は織元に対して〈絶対的・全面的従属〉関係に置かれていたが、親方よりも徒弟の数が少ないこともあって親方と徒弟の間には緩やかな対等性が見られた。
 ところが、一九世紀初めにジョゼフ=マリ・ジャカールJoseph-Marie Jacquardが発明し、一八一五年ジャン・ブルトンJean Bretonが改良したジャガード織機(パンチカードの操作で複雑な文様を織ることが出来る自動織機)が導入されたことで、柄物輸出が伸びて絹織物需要が急増した。こうして一八三〇年頃には、高度の技術を要する紋織や綾織などの高級織物を生産するリヨン市内と、モスリンmousselineやクレープcrepe、フーラードfoulardなどの薄手平織の無地を織る農村部とで棲み分けが進んだ。絹織物はフランス全体でも一八〇八~一二年に二八%(シャプタルC.-A.-C.Chaptal)、三〇年代初期に約四分の一(ジョン・ボーリングJ.Bowring) が輸出にまわされたが、リヨン産の高級絹織物は一八一一年に七四%、三二年に八三%が輸出されている。(註①)。こうした状況の下で絹資本による織元支配が進行したが、その足元では機屋親方が職工を増やして生産規模の拡大を図ることで織元に対する〈対等性〉を獲得し始めていた。当時、親方は九〇〇〇人、職人は約三万人に膨れあがっていたが、職人は親方との同居をやめて通勤するようになり、次第に近代的な賃労働関係が成立し始めている。後述する一八三一年のリヨン反乱は「古い労働組織の崩壊の始まりであった」(E.パリゼE.Pariset)。
 ところで、旧植民地帝国の崩壊による打撃をほとんど受けなかった繊維産業に綿織物業がある。フランスの綿織物業は一八世紀初めから主としてノルマンディ地方の比較的豊かな農村から発達したが、イギリス産業革命の影響が直ちに及んだわけではない。一七七一年にフランス中央部の都市サンスに初めて導入されたジェニー紡績機は、九〇年代には国内各地に普及したものの、農村における家内労働の補助的装置にとどまっていた。ところが、一七八五年に財務総監カロンヌCalonneの援助を受けた英人技師ジャック・ミルンJ.Milneがパリ郊外に改良アークライト紡績機の製作所を建設し、三年後にアミアン商人が工業奨励局の協力を得てミュール紡績機の密輸に成功したことで変化が生まれる。さらにはフランス革命期に英人技師ピックフォードPickfordがミュール紡績機を備えた工場を建設したことが契機となって綿工業が急速に発展した。その当時、綿紡績業は零細産業であったから、改良アークライト紡績機やミュール紡績機を導入しても手動式動力や馬力に頼ることが多かった。ところが、急流に恵まれたノルマンディ地方やヴォージュ山脈を縫う急流が恰好の水力を提供していたアルザス地方では水力紡績工場としての立地条件が整っており、綿紡績業が発展した。フランスで最初に蒸気発動機を備えた工場が建設されたのは一八〇三年のことであるが、水資源に乏しいフランドル地方などでは一八一八年以降、蒸気発動機を積極的に導入した。こうして一八〇四年以降、ミュール紡績機を備えた工場の増設に伴って従来からの家内労働による綿糸生産が激減し、一八一〇年頃には工場生産綿糸が一般化していった。したがって、 フランス産業革命の開始期はジャガード織機やミュール紡績機などが導入された一八一〇年前後と見なすことが出来る。やがて一八二〇年前後には〈綿工業の首都〉パリから地方に拡散する「拡散の時期」へと移行し、四〇年代にはノルマンディ地方、アルザス地方オー=ラン県、フランドル地方ノール県の三地域に集中するようになった。
 前述したように、フランスの繊維工業は、第一帝政期において大陸制度に伴うイギリス経済との断絶が功を奏して発展を遂げている。綿織物業の発展は原綿の消費量や綿紡績紡錘数、綿糸生産量の増大からも確認できるが、一八三〇年には綿織物が麻織物や毛織物を超えて絹織物に次ぐ第二の主要輸出品に躍り出ている(註②)。その間、大衆用粗綿布rouenneries生産で知られたノルマンディ地方では、紡績・織布・捺染(または漂白・仕上)という三工程間の分業が成立した。また、〈棉花買付商→紡績業者→織布業者→織布仕上・取引商→貿易業者〉と流れる生産体制が整い、これらの業種間を媒介する仲買人や商人織元などの流通機構も整備された。こうした綿工業の発展の中で、とりわけ異彩を放っているのがアルザス地方である。この地方の繊維工業の端緒は「ナントの勅令」廃止(一六八五年)に伴う弾圧から逃れてきたユグノー(フランスのカルヴァン派)が始めた捺染業で、彼らの後裔たちは一八世紀半ばに高級捺染綿布indienne fineを生産する企業家へと成長し、オー=ラン県南部の都市ミュルーズMulhouseにはケクランKœchlin、ドルフスDollfus、シュランベルジュSchulumberger、ミークMiegなどの〈繊維貴族〉patriciat du textileが誕生している。ところがミュルーズの捺染業者はフランス革命やナポレオン戦争でイギリス綿布の輸入が途絶(一八〇六年二月綿布輸入禁止令)した時、 捺染業以外にも手を伸ばす必要が生じた(フランスの原綿輸入額は一八〇五年に二八〇万七九七八フラン、〇六年に一七三万一七五八フランであったが、一〇年には九万二七〇〇フランまで激減している)。そこで繊維貴族たちは直営のミュール紡績工場を建設し、織布工程を直営作業場や問屋制前貸の農村家内工業と連結することで紡績・織布・捺染の三工程を一貫して行う綿業企業家へと転身したのである。綿織物業の多角化は第一帝政末期までにほぼ完了するが、綿業企業家の数は約二〇人程度で、最初から企業規模が大きいのが特徴である。また、生産過程の合理化(=機械制の導入)は織布工程を直営作業場への集中化を促し、紡績工程における蒸気機関の導入をもたらした。一八一二年、ドルフス=ミーク社に始まるこれらの動きは二〇~三〇年代には大規模工場のほとんどで実現している。そして一八二六年にケクラン社が力織機を導入して機械制織布工場を設立したことが皮切りとなり、四七~四八年頃には力織機の台数が手織機のそれを上回るようになった。また、アルザス地方の綿織物業者の多くは機械の修理部門を併設していたが、生産過程の合理化とともに修理部門が機械製造工場へと成長している。なお、紡績機・力織機・蒸気機関を備えた機械製造工場の数は、一八四〇年頃には約三〇にまで増加してノルマンディとアルザスの経済的地位は完全に逆転した。因みに工場で使用される蒸気機関は一八二〇年の六五から六二五(三〇年)、三五九一(四〇年)、四八五三(四八年)と急増し、石炭消費量は一八三〇年から四七年の間に三倍増の七六四万トンとなる。ただし、国内産石炭だけでは賄いきれなかったために約二五〇万トンを輸入に頼っていた。
一方、機械製造工場の出現は、製鉄部門における新技術の開発(製銑工程へのコークス高炉koks、精錬・圧延工程へのパドル炉paddleとローラー圧延機の導入)を促進させることになる。かつてアンシャン・レジーム期の製鉄は、鉄鉱石から直接的に錬鉄や鋼を産出する直接製鉄法と、銑鉄生産(製錬工程)と錬鉄生産(精錬工程)からなる間接製鉄法が採られていた。前者はピレネー山脈に近いアリエージュ県やオード県という山岳地方に見られたカタロニア式製鉄と言われ、後者は一七八九年現在で銑鉄生産のための高炉が三五八基、フランシュ=コンテ式・ヴァロン式・ニヴェルネ式の精錬炉が一〇九〇基存在したが、いずれも経営規模が小さかった。そのためフランスの製鉄業はしばらく木炭高炉と木炭精錬炉の併用が続いたが、一七六九年にヴァンデル家Wendelがアヤンジュ製鉄所Hyange(モーゼル県)において木炭燃料にコークスkoks(石炭を乾留して炭素部分だけを残した燃料)を混ぜる銑鉄生産に成功し、八四年にはル・クルーゾ製鉄所Le Creusot(ソーヌ=エ=ロワール県)がフランス最初のコークス高炉の運転を始めている。註③
 しかし、革命前の製鉄企業としてはディートリッヒ製鉄所De Dietrichや武器製造で知られたル・クルーゾ製鉄所のような大規模製鉄所も存在したが、多くは年間稼働期間が五~七カ月間と短く、農民の生計補充手段に過ぎない小規模経営だった。ところが、革命の勃発とともに国王や亡命貴族、教会が所有していた製鉄所が没収され、製鉄企業家・大商人・大借地農などに売却された。その結果、一部の製鉄企業家は吸収・合併を通して経営規模の拡大に努めたため、資本の集積や集中という現象が現れ始めた。(註④)。一八一五~二二年には復古王朝による「鉄輸入の自由化」を受けてデュフォーG.Dufaud、ガロアL.de Galloisなど中部フランスの製鉄業者が石炭とコークスを併用する製鉄に取り組み始め、二二~二三年には所謂「イギリス型製鉄所」foges anglaisと呼ばれる大規模製鉄所が約二〇カ所も設立されて二六年には倍増している。一八〇七年九月二日に公布された商法典(「会社法」)は会社を合名会社・合資会社・株式会社の三形態に分類しているが、当時の製鉄業は同族的・個人企業的性格の強い合名会社が多かった。しかし、二〇年代に入ると中部フランスのフルシャンボー工場Fourechambault、テルヌワール工場Terrenoireなどのように合資会社や株式会社という形態をとって大資本の調達に成功した企業も出現し、錬鉄を機械製造工場に売却することで莫大な利益を生み出し始めていた。
 ところでフランスは、革命戦争やナポレオン戦争の時期にイギリス製品の輸入禁止や対英貿易の禁止を断行したが、大陸制度の崩壊後も激しい国際競争から国内産業を守るために超保護主義的な関税政策を維持した。フランスの産業革命は、この関税障壁に守られる形で一八二〇年代に入ってようやく本格化したのである。〈保護貿易主義〉を主張したのは、外国産の工業製品や原材料との競争を怖れる工業部門の企業家や鉱山・炭鉱・森林の所有者、農牧業者など多岐にわたったが、とりわけ関税改革に反対したのは産業革命で頭角を現した石炭・製鉄・機械などの産業資本家だった(註⑤)。
 そして、こうした産業資本家と結びついたのが「オート・バンク」haute banqueと呼ばれた約二〇の商人銀行家négociantes-banquiers集団である。彼らは例えばユダヤ系のロチルド家Rothschildが羊毛・絹・茶、デレッセール家Delessertやオタンゲル家Hottinguerが綿花、セイエール家Seilièreが羊毛などと手広く国際貿易を展開し、ロンドン、アムステルダム、ニューヨークとパリを結ぶ国際金融網と豊富な自己資金を足がかりにして貿易為替業務を独占した。また彼らは輸入原材料を全国規模で販売しただけでなく、全国各地の生産者から依頼されて委託販売も行ったが、こうした営業の際に利用した為替手形や手形貸付がオート・バンクを手形決済機構へと成長させていった。ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparteは一八〇〇年にフランス銀行を設立して銀行券を全国的に使用させるなど国家統制の強化に乗り出したが、これは各地域間の為替相場の違いを利用して利益を生み出してきたオート・バンクにとっては脅威であった。そこでナポレオン一世が失脚した一八一四年に商業銀行家ジャック・ラフィットJacques Laffitteらがフランス銀行の改組を行い、翌年以降の貨幣・金融市場はフランス銀行とオート・バンクの二本立てとした。当時、ブルボン復古王朝は総額一六億フランもの対外負債を抱えていたが、一六~一八年に数度に及ぶ五%利付国債の発行を通して八億一四〇〇万フランの借り入れを実現している。この起債市場はロンドンのベアリングBaringやアムステルダムのホープHopeに依存したが、やがてパリのオート・バンクにも頼るようになり、スペイン戦争(一八二三年)や「亡命貴族の一〇億フラン法」(二五年)制定に伴う国債発行はロチルド家を中心とするオート・バンクが独占的に引き受けている。証券市場で売られた五%利付国債の相場は、一六年の証券取引所整備法や減債金庫再建法などの制定で所謂「上げ相場」となっており、オート・バンクに巨額の利潤をもたらした。
 ところで、当時の銀行資本としてはフランス北部のアンザン鉱山会社に投資したペリエ銀行Périerやル・クルーゾ、フルシャンボー、アヤンジュ三大製鉄会社に融資したセイエール銀行Seillièreなどが有名だが、これらは重工業部門への投資を通して保護関税政策に賛同していた(註⑥)。一方、フランスの鉄道建設は一八二三年の炭坑用鉄道に始まるが、ここでも銀行資本が顔を出す。二六~二八年、サン=テティエンヌを中心にローヌ川とロワール川を結ぶ鉄道が建設され、製鉄業の各工程を連結させるための運搬手段として機能し始めた。そして、三三年に「鉄道建設用資金調達に関する法令」が制定され、三五年のパリ=サンジェルマン鉄道開業以降はロチルド家などのオート・バンクや大銀行が本格的に鉄道事業に参画する。しかし、七月王政期の政府は鉄道建設に私的資本の援助を期待しながらも、公益擁護の観点から私的資本が鉄道経営を牛耳ることは避けたいと考えて金融ブルジョワジーと対立し、三五年と三七年には政府案が議会で否決されている。四二年六月一一日になってようやく全国規模の鉄道計画に関する法律(「一八四二年鉄道法」)が成立し、政府・市町村は鉄道敷設に関する土地・建物の収用と基礎工事を引き受けて建設費の大部分を負担したが鉄道の所有権者にとどまった(四五年鉄道法改正で市町村の鉄道建設負担は除外)。一方、私的会社はレール据え付けや車輌の調達と経営費・補修費を負担するだけで、政府から営業権を一定期間譲渡されることになった。パリ・ロチルド家の祖ジェームス・ロチルドJames de Rothschildは、以前からベルギー総合会社などへの資本参加を通してアルザス・ロレーヌ産鉄鋼とイギリス・ベルギー産石炭を軌道に乗せようとしていたが、いよいよ実現の運びとなったのである。四五年に鉄道建設の認可を得た北部鉄道は、五二年までにクレイユ=サン・カンタン鉄道(四六年設立認可)やアミアン=ブローニュ鉄道(四五年設立認可)を合併し、パリからアミアン、リール、ベルギー国境を結ぶ線路の敷設に成功した。北部鉄道やパリ=ストラスブール鉄道(四五年設立認可)、パリ=リヨン鉄道(四五年設立認可)などの鉄道事業は、ジェームス・ロチルドのほかシャルル・ラフィットCharles Pierre Eugène Laffitte、エドワード・ブラントEdward Blount、ジャン=アンリ・オタンゲルJean-Henri Hottinguerなど銀行家を中心とする株式会社が担っている。(註⑦)
 こうしてパリの大銀行を中核とする金融ブルジョワジーは大商人・大地主層と結びついて巨大な利益を得ただけでなく、彼らの始めた鉄道建設=経営を通して燃料・資材を供給する産業資本家とも資金面で繋がったのである。一八三〇年代における製鉄業の発展は、繊維工業機械の生産だけでなく、鉄道敷設に伴う軌条の需要増大にも起因する。確かに鉄道敷設が拡大するのは三八年以降であり、四二~五三年における軌条のための錬鉄生産は全体の一五%程度であるが、ヴァンデル家が二〇~二二年に、ル・クルーゾ製鉄所が二五年にそれぞれ設備投資をしたのは軌条増産を見越してのことである。ル・クルーゾ製鉄所は三八~四七年に新型高炉四基を建設し、四二年のパドル炉による鉄生産一四万二六〇〇トンのうち二〇%以上が軌条用錬鉄であった。そして、ドカズヴィル製鉄所Decazevilleやフルシャンボー製鉄所、アレー製鉄所Alais、ル・クルーゾ製鉄所など大企業は軌条市場を占有し、価格協定(三七年五月)や納入割当協定(四一年オルレアン鉄道)、競争忌避協定(四二年モンペリエ=ニーム鉄道)を結んでいる。こうして製鉄業を営む大企業は鉄道の発展を梃子にして資本蓄積を果たすとともに、その過程で生産の集中や企業連合の結成を果たして寡頭支配を強化したのである。
 一方、鉄道会社の株主は銀行家を筆頭とする資産家・名望家によって占められていたが、とりわけパリ・ロチルド家は鉄道会社一二社の大株主・理事となり、鉄道株全体の約二割に相当する一八万四〇〇〇株を所有した。また、株式発行は当初、パリの大銀行が引き受けて顧客優先で配分するのが一般的であったため、鉄道会社の株主になれたのは少数の資産家・名望家に限られた。こうして額面の一割の払い込みだけで大量の株式を取得した有力者は流動する株式相場を眺めながら競って売却した。まさにプレミアム狙いの投機だったのである。そのため、鉄道株の売買は株式市場全体を刺激し、四五年には空前の狂乱投機となった。また、この投機熱の背後にはパリ=ルーアン鉄道やルーアン=ル・アーヴル鉄道の株式を取得したブラッシーT.BrasseyやマッケンジーW.Mackenzieなど英人富豪の姿があった。その時、パリとロンドンに緊密な金融関係を持っていたジェームス・ロチルドはイギリス資本導入の橋渡し役を担い、ラフィットはロンドンの銀行家エドワード・ブラントEdward Blountと組んで鉄道金融会社Laffitte Blount et Cieを設立し、ジャン=アンリ・オタンゲルもロンドンのベアリングス銀行Baringsと提携して鉄道金融会社Campagnie Baring, Hottinguer et Receveurs Generauxを作ってイギリス資本の導入を図った。その結果、イギリス資本はフランスにおける鉄道投資額の約三分の一を占め、ドイツやスイスを含めると外国資本が約三分の二に達したのである。
 ところが、四五年下半期に下落し始めた株価は翌年になっても反騰の兆しが見られず、まず大衆投資家が鉄道投資から離れていった。一方、銀行筋は貸付信用の拡大を通して鉄道株の買い支えに出たが、やがて資金繰りに窮した多くの銀行が鉄道株の売りに転じると金融市場全体に混乱が拡がった。そしてほぼ同時期に、綿工業や羊毛工業の分野でも急激な景気後退が進行した。一八四五年、英仏両国における綿工業の活況やそれに伴う原綿需要の増大に押されて原綿価格が急騰し、綿製品価格の上昇に伴って国内需要が急速に萎んだのである。そして四六年秋以降はアメリカ棉花の不作とイギリス原綿市場の高騰に刺激されて投機買いが横行した。こうした状況に追い打ちをかけたのが四六年の凶作である。フランスの小麦収穫は豊作だった四四年より二六%、平年作だった四五年より一六%下回って六〇〇〇万ヘクトパスカルhPaとなり、七月までは一hPa当たり二二フラン台だった全国平均小麦価格は八月には二四フランへと上昇し、一〇月二六フラン、一二月二八フランと高騰している。これは全国各地の農村で穀物商が買い占めに走っただけでなく、パリの商業銀行家が輸入穀物の投機買いを始めたからであり、ロチルド家も一一月にはマルセイユ、ル・アーヴル、ダンケルクで買い占めに乗り出している。フランスの穀物輸入額(法定価)は四五年の一四九五万フランから九六一八万フラン(四六年)、一億七六九三万フラン(四七年)へと増大した。したがって穀物輸入は四六年下半期の二五万トンから翌年上半期には六二万トンまで増えて輸入総額の二一%を占めるに至り、四七年は二億三六〇〇万フランという大幅な入超を記録している。なお、四七年における穀物輸入相手国はロシア(六九八四万フラン)に次いでイギリス(一一八〇万フラン)が多いが、これはイギリスの第二次ピール内閣Robert Peel(在任一八四一~四六)が採用した〈自由貿易主義〉が関係している。四四年以降、対英貿易は綿織物・毛織物輸出と原毛輸入とが急増したが、四六年にピール政権が保守党主流派の反対を押し切って穀物法廃止に踏み切って以来、イギリスは最大の貿易相手国となっていた。
 しかし、綿工業や羊毛工業の低迷状態が長引かなかったことにも注目する必要がある。確かにオルヌ県(ノルマンディ地方)のラ・フェルテ=マセLa Ferté-Macéでは綿織物業者が操業停止に追い込まれ、同じく輸出市場を持たないリールやルベLoubet、ルーアンなどでも深刻な不況に直面した。しかし、四六年の原綿輸入量は四四年の九%増、四五年の六%増となってこれまでの最高額に達していることから、綿工業が急速に回復したことが分かる。その原因は綿製品輸出の好調にあった。四六年の綿織物の輸出額は四四年を三五%、四五年を一〇%強上回っており、同様に毛織物や絹織物も対前年比四%上回っている。そして同じく、製鉄業も鉄道建設の拡張と歩調を合わせて活況を呈し始めた。四七年の鉄道建設費は四五年の二倍増、四六年の四五%増に膨れあがり、同年一月に敷設中の線路が一五四〇キロ、新規に認可された路線が八七三キロもあった。その前年にはル・クルーゾ製鉄所が資本金を五〇〇万フランに増資しただけでなく、ドカズヴィル製鉄所が高炉二基を増設し、ロワール・アルデーシュ会社Compagnie de la Loire et du l'Ardècheも増資に踏み切っており、この年の製鉄部門の総投資額は三〇〇〇万フランに達していた。その結果、コークス高炉は四四年の六一炉から七九炉(四五年)、一〇六炉(四六年)と急増し、パドル炉による錬鉄生産量も四四年の二〇万六五二一トンから二三万三七八三トン(四五年)、二五万四三二五トン(四六年)へと増えている。七月王政期の政府統計によれば、銑鉄の一トン当たり年間平均価格は四四年の一二八フランから一三六フラン(四五年)、一五三フラン(四六年)と推移しており、製鉄会社の経営陣は強気であった。四七年の鉄生産量は銑鉄が四五年を三七%、四六年を一五%上回っただけでなく、錬鉄が四五年を五〇%、四六年を四九%上回り、軌条も四五年を九〇%、四六年を六五%とそれぞれ上回っており、未曾有の活況を呈していたのである。
 ところが、一八四七年、製鉄業はにわかに過剰生産に陥り、価格下落を引き起こした。サン=ディジエ鉄市場Saint-Didierでは一月七日から九月一六日までの間に白銑が二〇〇フランから一六〇フランへ、圧延鉄が四〇〇フランから三七〇フランへ、錬鉄が四〇〇フランから三六〇フランへと下落し、パリ市場でも同様の下げ幅を記録した。そして製鉄業の不振は鉄道建設の停滞と鉄道会社の株価急落をもたらした。もともと鉄道建設の拡張は株式発行に依存していたため、株式の過剰発行が証券市場を逼迫させていた。ラフィット型銀行のグアン金庫やバンドン金庫は一月末には鉄道株担保貸付を中止し、貸付先の株主に対して株を売却して貸付金を返済するよう要求した。そして四月に入るとイギリスに起きた所謂「四月危機」を契機に英人株主がフランスの鉄道株を手放し始め、九月には一斉に資本を引き上げたために証券取引所はパニックに陥った。こうして証券市場の混迷は新しく認可されたばかりの一部鉄道の資金調達を不可能にし、ボルドー=セット鉄道(四六年六月設立認可)やリヨン=アヴィニョン鉄道(四七年一月設立認可)は株主総会で解散を余儀なくされたのである。
 このように、フランスの産業革命の特徴は、第一に政府による手厚い保護関税政策に守られつつ一八一〇年代に始まり、二〇年代以降には絹織物・綿織物などの繊維工業から製鉄業などの重工業へと発展した点にある。しかし、それはイギリス産業革命が綿工業から始まり、石炭・鉄鋼・機械など生産財生産部門に刺戟を与えつつ徐々に国民経済の自立的な再生産構造を高度化させた後に所謂「鉄道時代」railway ageを迎えたのとは全く対照的であった。すなわち、イギリスに比して「相対的後進国」であったフランスは、綿工業中心の産業革命が本格化した一八三〇年代には早くも鉄道建設が開始され、綿工業と鉄工業その他の重工業部門が一斉に産業革命を推進したという点が第二の特徴である。また第三に、アルザス地方の規模の大きな綿業資本が金融業者と結んで集中的に資本主義の発達を推進したことも特徴的であり、それはイギリスという先進国の生産力水準に追いつくための唯一の方法だったのである。そして、産業革命が大きく進展した四〇年代になって〈自由貿易主義〉という国際競争の荒波に巻き込まれ、新たな諸問題に直面することになる。註⑧

  二 民衆運動の担い手 ~初期社会主義と労働運動~ 
 さて、ジャン=ルイ・フランドランJean-Louis Flandrinの著書『性と歴史』によれば、一八世紀以降のフランスでは(カトリック教会の度重なる禁止命令にもかかわらず)意識的なバース・コントロールが行われ、出生率の目覚ましい低下が見られたという(註⑨)。ところが一方では、一八〇一年に二七三五万人だった人口が一六年に三〇五七万人、四六年に三五四〇万と増加したという統計もある。人口増加の原因はフランス革命やナポレオン戦争という混乱を乗り越えたことで経済が活性化したことや、衛生観念の普及で幼児死亡率が低下したことなどが考えられている。同じことは都市人口の動向にも当てはまり、一九世紀初めのパリには約五五万人が住んでいたが、一八三一年に七八万五八六二人、四一年に九三万五二六七人と急増し、五一年にはついに一〇五万三二六二人とヨーロッパ有数の巨大都市となっている(註⑩)。また、パリ市内の住宅はもともと一階にブルジョワが住み、屋根裏部屋に貧民が住むという垂直的な階層化が見られたが、この頃には西部のサン・トレノ街Saint-Honoréなどでブルジョワのための豪華な邸宅が建設される一方で、東部のフォブール・サン=タントワーヌ Faubourg St-Antoineなどでは貧民が住む労働者街となって水平的階層化も進んでいる。
 ところで、一九世紀当初のフランスでは離村向都現象がさほど顕著とは言えなかった。また各都市内の事業所はほとんどが小規模で、パリやリヨンでは二~五人しか雇用しておらず、工業化の進んだアルザス地方でも平均約三五人だった。そして、そこで働く熟練労働者の多くは一日三~四フランほど稼ぎ、植字工・大工・石工の中には年収一〇〇〇フランになる者もいたという。ところが、産業革命に伴う機械化は労働者階級の比較的上層部の急速な分解を惹き起こした。旧来の手工業的職人労働は次第に必要とされなくなり、彼らはより下層の貧困労働者に落ちていったのである。そして、もともと低賃金で雇用不安に怯えていた家事奉公人や〈プティ・メティエ(しがない職業)〉Petits Metierと呼ばれていた行商人・水売り人・屑屋・流しの歌手などはさらに深刻な状況に陥った。こうした生業に従事していた貧民はパリ全体の人口の約一割を占めており、病院での死亡者数で言えば四分の一に達している。当時のパリでは犯罪が多発し、私生児(パリの出生数の約三分の一)や児童遺棄(年平均五五〇〇人)、嬰児殺し(年平均九〇件以上)、自殺(年約七〇〇件)などが突出して多かった。また、娼婦や乞食、流浪者、私生児、農村からの一時的流入者らはガルニ garniと呼ばれる家具付き宿泊所(ないし貸部屋)に住み、彼らが滞留するスラム街は同時に肺結核や佝僂病・コレラ・チフスの巣窟でもあった。こうして七月王政下では医師のヴィレルメLouis René Villerméやパラン・デュシャトLouis REne Villermeらの指摘を受けて下水処理システムなどの公衆衛生政策とともに、〈社会的貧困〉paupérismeの解消という課題が浮上した。また、七月王政下に始められたセーヌ県知事ランビュトーClaude-Philibert de Rambuteauによる都心改造や「ティエールの壁」建設工事が多くの非熟練労働者をパリに招き寄せ、事態をより深刻化させた。その当時、農村では人口増加に加えて分割相続による土地所有の細分化が進んでおり、多くの貧農たちが首都パリに雇用の場を求めて移動したのである。
 しかし、当時の労働環境は極めて悪く、例えばフランドル地方の中心都市リールにおける紡績工場では、食事時間を入れて一日当たり一四~一五時間の長時間労働を強いられ、一八四七年時点の日給は男性が二フランを少し超える程度で、女性はその半分くらいであった。これは産業革命の開始によって女性・子どもという低賃金労働者の雇用増加に加えて、農村からの日雇い労働者の流入によって労働市場がだぶつき、賃金抑制につながったからである。そのうえ労働立法も極めて貧弱で、ようやく一八四一年の「児童労働制限法」で八歳未満児童の雇用と一三歳未満児童の夜業が禁止されたが、現実には違反者に対する摘発は行われていない。このように七月王政下の厳しい労働環境のなかで、主に建設関係の〈コンパニョナージュ(職人組合)〉compagnonnageが定期的な掛金と引き換えに仕事の斡旋や労働条件の交渉、衣食住の世話、葬儀代金の支払いなどを行う相互扶助的性格を帯びるようになる。彼らは伝統的なギルド(コルポラシオンCorporacion)的結合に個人的自発性を加えて〈アソシアシオン(生産協同組合)〉associationを組織し、次第に労働団体としての自立性を発揮し始めたのである。七月王政期の労働運動を研究したジャン=ピエール・アゲJean-Pierre Aguetによれば、当時のストライキ三八二件(パリ一一九件・リヨン二四件・マルセイユ九件など)の内訳は、産業部門別では手工業一六二件、建築業一二二件、繊維業八二件、鉱業・製鉄一六件の順に多く、職種別では紳士服仕立工三〇件、大工二四件、石工一七件、鉱山労働者及び製帽工一五件、家具製造工一三件、石切り工一〇件となっており、労働運動の主な担い手が新興の機械制工業に携わる労働者ではなく伝統的な手工業労働者だったことが分かる。また、一八三三年九~一二月の五四件と翌三四年一~四月の五件のストライキのうち少なくとも二九件は一時的または恒常的な組織が関わっており、建築労働者は「職人組合」、繊維工業の仕立工は相互扶助組合の形式をとる「職能組合」を結成していた。註⑪
 こうした貧困問題や労働運動と結びついて一八三〇~四〇年代に登場するのが、「初期社会主義」である。それは一八世紀の重農主義者ケネーQuesnayや百科全書派のテュルゴTurgotが「なすに任せよ」laissez-faireの標語とともに唱えた自由放任主義や「自助の原理」だけではもはや失業や貧困の問題を解決することは困難であり、このままでは格差を拡大させ、貧困や無知を固定化しかねないとの考えに至ったからである。彼らは、社会的弱者の救済は個人ではなく、アソシアシオンや(場合によっては)国家を含むより大きな社会的結合体にしか為し得ないと判断し、産業を科学的に組織化することで〈生産と消費〉の均衡を図り、併せて〈富の分配〉の公正化を実現しようとした。すなわち、そのためにはあらゆる産業を金融資本や大地主の独占から解放し、無秩序な自由競争に替えて生産手段と生産物の均衡のとれた配置と分配を可能にする経済システムが必要だと主張した。フランス初期社会主義は「産業主義理論」を提唱したサン=シモンClaude Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simonを始めとして、カトリック的社会主義の祖と言われるビュシェPhilippe Joseph Benjamin Buchez や、後に二月革命で活躍するルイ・ブランLouis Blanc、自由な小生産者による相互扶助社会を理想としたプルードンPierre Joseph Proudhonと幅広いが、ここでは労働運動との関係からビュシェとルイ・ブランに注目したい。
 先ずビュシェは、初めのうちこそサン・シモン派に属していたが、次第に労働者の主体性を重視するアソシアシオン論に傾いていった。彼の理論は一八四〇年九月に創刊された『アトリエ』紙(副題「労働者の精神的物質的利益をまもる機関紙」)L'Atelierに結集した印刷工コルボンClaude-Anthime Corbonら職人・熟練労働者に支持された。彼らは七月王政をプロテスタント的エゴイズムに基づく「レッセ・フェール」体制だと批判し、労働者のアソシアシオンが自主管理することで搾取のない社会(「社会的共和国」)を実現しようと呼びかけた。一方、『労働組織論』(一八四〇年)を著したルイ・ブランは、〈競争=無秩序な生産〉こそが諸悪の根源だとして民主国家による労働の組織化を主張した。すなわち、民衆は普通選挙を通して民主政府を成立させ、その政府が設ける「社会作業場」や職域ごとに組織されるアソシアシオンを通して〈生産の制御〉を図ろうとする理論である。彼の理論は大工場の労働者を想定して構築され、賃金の絶対的平等を主張したことなどにも特徴が見られた。註⑪
 ところで一八三〇~四〇年代初めのフランスでは、一七九一年制定の「ル・シャプリエ法」(労働者団結禁止法)loi de Le Chapelierや一八一〇年公布の「刑法典二九一条」などによる規制を受けたものの、相互扶助を目的とする団体については規制対象から外されていたためアソシアシオン結成が相次いでいた。なかでもその後、パリの労働運動の中心となるパリ仕立工博愛協会Société philanthropique des ouvriers tailleurs de Parisは、病気・失業などの際の相互扶助と組合管理の就業斡旋を目的として三一年六月一日に結成された。博愛協会結成の契機となったのは同年上半期の賃金引き下げであったが、下半期には再度の引き下げ阻止に成功し、翌年一一月にはストライキを敢行して七年ぶりの賃上げを実現している。そして三三年一〇月初旬、注文が殺到する繁忙期に再びストの準備がなされた。もちろん、ストに関する集会は雇用主の目が光っていたから、仕事のない日曜日にそれも市外の居酒屋で極秘裡に開いている。そして二〇日頃、仕立工たちは経営者全員に礼服・コート類一着につき二フランの賃上げを要求する回状を送付し、二九日には市門の外で約三〇〇〇人規模の集会を開いて全面的ストライキに突入した。その時、パリの仕立業経営者は労働者の要求を拒否する大規模経営者(業界の貴族aristocratie du métier)二〇人余りと要求を受け入れた多くの小規模経営者とに分かれた。純然たる経営者=企業家である前者は前年のスト後に労働者の要求に譲歩しないこと、違反者には一〇〇〇フランの罰金を課すことを申し合わせており、スト発生後ただちに会合を開いてスト指導者を告訴するためのシュワルツSchwartz委員会を結成した。一方、賃上げを受け入れた後者は他の多くの手工業者と同じく自らも働く直接生産者だったから、独自の委員会を立ち上げるとともに労働者との共同組織を結成した。この労使共同組織は労使の相互理解・相互協力を謳う規約を設け、具体的には救済基金の設立、労働と雇用に関する需給調整など労使協調路線を選択している。したがって、ストライキの対象となったのは仕立工たちの要求を拒んだ大規模経営者だけである。職場放棄した仕立工たちは隊列を組んで各作業場を訪れて説得する〈l'embauchage〉を行い、既に建築労働者の「職人組合」が採用していた立入禁止mise en interditという戦術で大規模経営者から労働力を奪った。また、スト全体の指導はグリニョン委員長Grignonを中心とする計五名の行動委員会commission d'actionが行い、第四区のグルネル・サン・トレノ通り一三番地の居酒屋に設置された。彼らはスト参加者を二〇人ごとの班に編制し、パリ仕立工組合議長トロンサンTronsinを中心にプレシェール通りの居酒屋と契約してシチューとワインの食券を配付する食糧保障体制も整えている。また、約八〇〇〇~一〇〇〇〇人に膨れあがったスト参加者がストライキを継続するためには多くの闘争資金を準備する必要があったが、組合からの約八〇〇フランに加えて集会参加者からの拠出金、集会当日に仕事に就いていた労働者からの六一九フランを合わせて約二〇〇〇フランを確保しただけでなく、行動委員や協同作業所Atelier National責任者には二~四・五フランの日当が支払われており、既に専従制度が成立している。
 さて、グリニョン委員長は四頁の小冊子を発行して閑職期と不慮の事故に備えうる賃金の獲得、健康と教育に必要な休息時間の確保、雇用主との平等で自立した関係の構築という労働運動の方向性を示したが、特に第三点に注目する必要がある。彼ら仕立工はただ単に裁断や縫製の技術だけでなく、布地の質や価格、モードの変化に関する知識が求められる熟練労働者であった。また、大規模な仕事場すなわち一流店の場合は裁断工がどのような紳士服を作るかを決定し、職工長が生産全体の指揮をとっていた。したがって、仕立工たちは原料価格や販売価格などについても熟知しており、経営者の利潤蓄積は偏に「自分たちの労働」に負っていると知る立場にあった。それ故、スト参加者は富裕者からの慈悲ではなく、自らの労働の対価として「支払われるべき賃金」を要求したのである。同時にそれは「人間としての尊厳」を取り戻すための主張でもあった。もちろん、一九世紀初めのパリにおいては就業の可否から労働条件に至るまで全ての決定権は雇用主にあり、労働者の「生存」は雇用主の恣意的判断によって左右されたと言っても過言ではない。しかし、生産技術に加えて流通・販売に関する知識をも習得した労働者たちは「資本」さえあれば雇用主なしでも経営が可能だと気づいていた。そして一一月四日、彼らは組合の救済基金の一部と五%の利子付株式の発行によって設立資金を調達し、サン・トレノ通り九九番地に念願の協同作業所を開設したのである。しかし、シュワルツ委員会の告訴を受けた警察が六日、一五日、二〇日と相次ぐ家宅捜査でストライキを壊滅に追い込んだ。逮捕者は延べ二〇〇人以上に及び、裁判所は社会秩序を乱したとしてグリニョンを懲役五年及び観察処分五年、トロンサンを懲役三年という厳罰に処している。パリの仕立工のストライキはルーアン、オルレアン、トゥール、アンジェ、ナント、リモージュ、リヨンなどフランス各地に飛び火したが、その背後にはパリから派遣されたオルガナイザーの姿があり、彼らは組合結成とストの組織化を誘導している。
 一方その頃、政府の弾圧を受けて弱体化した反政府派の一部は結社を急いでいた。三〇年六月に結成された「人民の友」Société des Amis du peupleは三一年に発生したリヨン蜂起を支持し、三三年一〇月に「人間の権利協会」として再結成した。彼らは公平な分配や累進課税制度を要求しただけでなく、普通選挙による単一国民議会の創設を提唱し、一時は熟練労働者を中心に約三〇〇〇人の参加を得た。小ブルジョワ層と労働者の間に〈指導と同盟〉の関係が誕生しつつあったのである。新たな動向に危険な臭いを嗅ぎ取った第一次スールト内閣(在任一八三二~三四)Nicolas Jean-de-Dieu Soultは、三四年三月に「刑法典二九一条」の罰則規定を強化し、四月一〇日には「結社法」を制定して団体の事前許可制を定めた。しかし同日、リヨンで再び人間の権利協会リヨン支部と提携した労働者の同業組合が軍隊・国民軍と衝突し、市街戦に発展している。この蜂起はまもなく鎮圧されたが、労働争議はサン=テティエンヌ、アルボア、グルノーブル、マルセイユなどにも波及した。そして一三日、パリでも人間の権利協会を中心とする約四〇〇人がサン=メリ地区Saint-Merryのボーブール街・トランスノナン街・ウルル街などにバリケードを築いて蜂起したが、翌一四日には正規軍・国民軍約四万が集中砲火を浴びせて労働者たちを皆殺しにした(トランスノナン街の虐殺)。政府は全国の労働者蜂起を軍隊と国民軍の力によって抑え込み、約二〇〇〇人の逮捕者をだしたのである。
 ところが政府の激しい弾圧にもかかわらず、労働運動はブルターニュ地方やロワール川流域、ボルドー地方や南部など広範囲に亘って密かに継続され、三七年二月二〇日、ナントの仕立工組合が家宅捜査を受けた際には仕立工博愛協会Société philanthropique des ouvriers Tailleursという全国三〇県にまたがる連合組織の存在が明らかになっている。この連合組織は五つのセンター都市(マルセイユ、ボルドー、ナント、トゥール、レンヌ)が周辺地域を指導する体制が整えられている。このような全国規模の職能組織の存在は、建築労働者などの「職人組合」と仕立工博愛協会以外はこれまでのところは確認されていない。谷川稔氏によれば、「職人組合」の若い労働者は技能を向上させるために「遍歴の旅」tour de Franceを経験する慣習があり、そのことが全国的連絡網を作るのに役立ったという。そして、既製服のない時代における紳士服は今日では想像も出来ないほど高額な商品であり、それを作り出す仕立工には熟練した技術が要求された。したがって、服飾産業の中心地パリは地方の仕立工にとっては憧れの遍歴都市であり、地方都市でもパリ仕立工博愛協会と同様の規約を持つ組合が結成されると、鉄道網の整備とともに情報が拡散して瞬く間に全国的組織に発展したものと考えられる。
その後、一八三九~四三年や四七年にも労働争議が発生した。四〇年二月、警視庁は労働者手帳を持たない労働者に対して裁判所に出頭するよう命じたが、二九日、裁判所は刑法に刑事罰規定がないことからこの布告を無効と断じた。四月に入って仕立工たちが賃上げを要求して再びストライキに突入したが、六月二日経営者の団体であるパリ仕立業者博愛協会Société philanthropique des Maîitres Tailleurs de Parisが労働者管理の徹底を図って労働者手帳の携帯を義務づけたことがストの規模拡大に繋がった。その時、ブルジョワ共和派の『ナシオナル』紙が七月九日号で裁判所の決定を引用して経営者団体を批判し、紛争解決のためには労使同数の合同委員会設置が必要と呼びかけて両者の受諾を得ている。しかし、八月五日・一九日と労働者側の代表が逮捕され、八月末にはストライキそのものが終結している。指導者トロンサンは懲役五年と観察処分一〇年、スイローSuireauは懲役三年と観察処分五年と厳しい処分を受けている。だが、経営者側も労働者手帳の導入撤回を受け入れ、賃上げにも同意したふしがある。
 また、四三年には印刷工組合が労使調停委員会の設置とこれによる賃金表の作成を勝ち取っている。活版印刷業は比較的大規模であったことから労働者の団結が容易だったと思われるが、同じことは前述の建築労働者や新興工業業都市の労働者にも当てはまる。ところが、前述の紳士服仕立工たちの仕事場はせいぜい二〇~六〇人程度の小規模なものである。三三年のストライキの際に発行されたカベー派Étienne Cabe(共和主義者)の出版物には独身仕立工の年間必要生活費は一一七九フランと掲載されているが、この時に賃上げが実現したとしても一一一一フランであった。したがって、仕立工たちは生活苦という止むにやまれぬ事情からストに踏み切ったが、(グリニョン委員長のような組合幹部は別として)彼らの多くは労働者としての理論やイデオロギーを持っていたわけではなく、同じ職場内で築きあげた「人的結合関係」を頼りに争議に突入したと推測される。喜安朗氏は労働者の運動の活力として「労働の場を含む労働者の生活圏」の在り方に着目して「労働者の人的結合関係の強さ」を指摘している。より簡単に言えば、日夜同じ職場で苦楽をともにしてきた労働者たちの「仲間意識」が彼らの精神を突き動かしたのではないか。一八三〇~四〇年代のフランスでは労働者の組織化は緒に就いたばかりで、アグリコル・ペルディギエAgricol Perdiguierやフローラ・トリスタンFlora Tristanなどが『アトリエ』紙を通して労働者の団結と全国組織の必要性を訴え始めた段階だったのである。一方、企業家はもとより行政当局も労働争議の交渉相手として労働団体を認めようとはしないばかりか、労働者・貧民の〈貧困と犯罪〉を同一視していた。註⑫

  三 第二共和政の成立 ~二月革命~
 さて、一九世紀半ばのフランスでは、一八四五年のジャガイモ、翌年の小麦・ライ麦と深刻な不作が続き、四七年春には穀物価格が従来の三倍にまで上昇した。その結果、都市の民衆は毎日の食事代にも事欠く有様で、衣服など日用品の買い控えを余儀なくされた。この時、人々はそれまでの経験から一連の農業危機が商工業危機に連動する〈旧型恐慌〉がまた発生したと考えたようである。しかし実際はフランス経済史上初となる〈過剰生産恐慌〉が発生していたのである。いくつかの鉄道建設事業は、敷設停止に追い込まれて七五万人の失業者をだした。また、石炭産業では約二〇%が人員削減し、鉱業の三五%、木綿工業の三分の一が減産を強いられた。特に季節労働者に頼っていた建築部門は深刻なダメージを受け、副収入源の断たれた貧農たちは都市の貧民窟に潜り込むしかなかった。危機は金融業にも広がり始め、銀行取り付け騒ぎが起き、地方の小規模銀行や貯蓄金庫は破産に追い込まれた。こうして全国各地で穀物輸送車やパン屋への襲撃、労働者のストライキなどが発生する。とりわけ日雇農(農業労働者)の多い地方では騒擾が頻発し、四七年一月にはフランス中部のビュザンセBuzancais(アンドル県)では蜂起した民衆が三日間にわたって町を支配し、軍隊によって鎮圧されるまでカーニヴァルで祝ったという。一方、この頃にはついにブルジョワとりわけ僅かな生産手段しか持たない小ブルジョワPetite bourgeoisieも無能な政府に対する批判の声をあげ始めている。また当時は、ラマルティーヌAlphonse de Lamartine、ルイ・ブラン、ジュール・ミシュレJules Micheletらがフランス革命史に関する著書を出版したことも手伝ってか、知識人の間にはジャコバン派や第一共和政に対する再評価の気運が高まり、次第に共和主義の支持者が増え始めていた。
 こうした急激な変化の中で政権を担当したのがギゾー首相François Pierre Guillaume Guizot(在任一八四七~四八)である。四六年八月一日に実施された総選挙は制限選挙制度を巧みに利用して政府与党(ギゾー派)が二九一議席を獲得し、反政府派一六八議席を圧倒した。しかし、非常事態に対するギゾー首相の対策は極めて緩慢であり、窮乏した農業労働者や都市労働者、職のない浮浪者への援助を渋り、外国産小麦の緊急輸入は巨額の財政赤字を惹き起こしただけであった。一方でギゾー政権は、軍備増強やパリ要塞化工事、鉄道建設のためには三億五〇〇〇万フランもの公債を発行し、鉄道会社への資金援助などを強行した。これらの財政政策は、いずれも公債発行の引き受け手である金融貴族に莫大な利益をもたらした。そしてこの財政を支えたのが地租の増収と間接税収入である。四六年の歳入一三億フランのうち八億フランが間接税収入であったが、選挙権を有しない貧しい農民や労働者に過重な負荷をかけていたのは明らかである。ギゾー政権は〈金融貴族の王朝〉と言われた七月王政の中でも典型的な金権政治を展開し、制限選挙に固執した。ギゾー首相は普通選挙の要求に対して「働いて金持ちになりたまえ。そうすれば諸君は有権者になれるであろう」と答えて拒否している。
 さて四七年春、議会で反政府派のデュヴェルジエ・ド・オーランヌDuvergier de Hauranneが提出した選挙制度改革案が例年通り否決されると、七月には法網を潜り抜けるために会食の形をとって集会を開く「改革宴会」Banquetsの運動が開始された。七月王政の下、オディオン・バロOdilon Barrotやラマルティーヌらの野党議員は選挙制度改革や議会改革のためには共和派との共闘が必要と判断し、マラストArmand Marrastが主宰する『ナシオナル』紙に結集したブルジョワ共和派もこれに呼応した。彼らは改革宴会では選挙改革に限った議論を行うことを約束し、この運動が社会改革には踏み込まないように細心の注意を払っている。七月九日、パリのシャトー・ルージュChâteau Rougeで開かれた改革宴会は前年の選挙で反政府派を支援した「セーヌ県選挙人中央委員会」主導の下で開かれ、選挙権を持つ約一二〇〇人が会費一〇フランを支払って参加している。そして一六日にラマルティーヌがマコンで改革宴会を開いた後は急速に全国各地へと拡散し、八月八日(コルマル宴会)から一一月七日(リール宴会)までの間に合計二二回の宴会が開催された。こうして全国に約七〇の宴会が組織され、自由主義ブルジョワジーを中心に約二万二〇〇〇人が参加したのである。
 とりわけ後にパリ・コミューンで活躍することになるシャルル・ドレクリューズLouis Charles Delescluzeが代議士ルドリュ・ロランAlexandre Auguste edru-Rollinを出席させた北部工業都市リールの改革宴会には小ブルジョワ共和派や急進派だけでなく、普通選挙権を要求する労働者大衆が参加したことで急速に先鋭化した。やがて運動の主導権は小ブルジョワ共和派が握り、『レフォルム』紙を拠点とする急進派もこれを機に積極的に運動に参加するようになった。同月二一日、ディジョンで開かれた宴会には一〇〇〇~一三〇〇人が参加し、エティエンヌ・アラゴÉtienne Vincent Aragoやルイ・ブラン、フェルディナン・フロコンFerdinand Flocon、そしてルドリュ・ロランが演説している。そして一二月一九日、フランス中央部のシャロン=シュル=ソーヌにおける宴会ではついにブルジョワ共和派への批判が噴出した。しかし、改革宴会運動の中心にいた王政派の政治家はあくまでも議会改革の一貫とみなしており、労働者大衆の運動とは一線を画していた。一方、小ブルジョワ共和派=急進派や労働者大衆のアピールに強く反応したのは、パリの国民軍兵士であった。一八四〇年代後半の不況、貧困に対して効果的な対策を講じないばかりか、金融貴族と結託して改革を先送りしているギゾー政権に不満を抱いていたのである。特に国民軍内の士官や下士官を選挙で決めていた彼らにとって、代議院議員の選挙権を認めないことに苛立ちを募らせていた。
 さて一八四八年一月二日、カルティエ・ラタンにあるコレージュ・ド・フランスCollège de Franceでは前年に『フランス革命史』を著したばかりのミシュレ教授の講義が政府の圧力で禁止され、フランス中部のリモージュで開かれた改革宴会では乾杯の際に「人民主権、労働の組織、プロレタリアの平穏に関する問題、普通選挙、人民」などに捧げられた。だが、改革宴会運動の主唱者オディオン・バロらは運動の急進化を怖れてパリなどでは開催しない心づもりであった。ところが、パリで最も貧しい街区と言われていた第一二区の国民軍兵士たちが開催を決めたことで政界に激震が走った。何故なら国民軍が政治に関与することは一八三一年三月二二日に制定された法律で固く禁じられており、それまではあり得ないこととされていたからである。一月一四日、ギゾー政権はパリにおける改革宴会を禁止すると発表した。一方、改革宴会運動を推進してきた議員一〇七名は二月一三日、マドレーヌ広場近くのレストランに集合して「二月二二日にシャン・ゼリゼで開く」ことを決め、宴会を自らの統制下に置こうとした。そして二一日朝には『ナシオナル』紙がマラストの宣言文を掲載して翌二二日の抗議行動を呼びかけたが、政府は直ちにこの示威行動も禁止した。一方、ギゾー政権の強硬姿勢に怖れをなした野党議員たちは抗議表明を出すにとどめて街頭デモへの参加を見合わせ、小ブルジョワ共和派も同日『レフォルム』紙の事務所における緊急会合で善後策を相談した。その時、初期社会主義者の一人コーシディエールCaussidièreは蜂起準備を主張したが、ルドリュ・ロランやルイ・ブランは反対意見を述べ、結局は様子見を決め込んだ。彼らがこの決定的な瞬間に態度を保留したことで、翌日からの街頭デモの主導権は既存の政治家たちから離れてパリの民衆、とりわけ労働者大衆の手に移ったのであった。
 そして二二日朝にはカルティエ・ラタンから学生が、また場末町のフォブール・サン=タントワーヌやベルヴィル Bellevilleからは労働者を中心とする多くの民衆が続々とマドレーヌ広場に集結し始め、選挙法改正やギゾー政権打倒を叫んだ。しかし、まだこの時点では政府側が介入を控えたために大きな混乱は生じなかった。ところが翌二三日になると政府によって正規軍が配備され、国民軍も非常召集されたが、多くの国民軍が改革を支持して反ギゾー政権の立場を表明したことで状況が一変した。七月王政の秩序維持装置であった国民軍が本来の機能をしなくなったことで勢いづいた民衆は、「ルイ・フィリップを倒せ」「共和政万歳」を叫んで憲兵隊と衝突した。特にかつてフランス革命勃発の際に最初の民衆騒動が発生した地域であり、一九世紀になっても指物業や家具・室内装飾業の仕事場が密集していたフォブール・サン=タントワーヌの職人や労働者たちが再び蜂起したことが大きかった。彼らはまず市庁舎を目指したが軍隊に追い払われ、コルドリ通りとフィリポオ通りの交差点にバリケードを築いた後、警視庁機動隊や歩兵部隊の攻撃で一旦はフォブール・サン=タントワーヌへと引き返した。その後、群衆は武器・弾薬を求めて第八区の区役所に押しかけ、困惑した国民軍士官がブールヴァールBoulevardやフォブール・サン=タントワーヌ内を示威行進することを提案した。国民軍の士官・下士官や兵士が誘導するデモ隊はバスティーユ広場を経由してオペラ座近くの『ナシオナル』紙の事務所前に辿り着き、マラストの「選挙と議会の改革を実現する」という演説を聴いた。国民軍士官たちはこれで示威行動を終わらせることができると踏んだが、興奮したデモ隊はさらに進んでブールヴァール・デ・キャプシーヌBl. des Capucinesにある外務省へと向かった。国民軍士官たちによる統制力はこの時点で完全に失われたのである。事態の急変に驚いたルイ=フィリップ王Louis-Philippe(在位一八三〇~四八)はギゾー首相を更迭してモレ伯Moléに組閣を命ずることで難局を乗り切ろうとしたが、組閣は難航した。そうこうしているうちに午後一〇時頃、外務省前大通りを固めていた正規軍第一四連隊がデモ隊の隊列に向けて一斉射撃を浴びせ、五二人の死者を出してしまった。 
 この偶発事件は民衆蜂起の合図となった。デモ参加者たちは当時のパリの習俗に倣ってカーニヴァルの山車の形式をとることで多くの民衆を蜂起に巻き込んでいった。すなわち、正規軍兵士による乱射で一旦は四散した群衆が再び現場に集まり、通りがかった運送会社の荷馬車に死体を収容し、ブールヴァール上を東に向かって練り歩き始めた。山車の列は途中で再び『ナシオナル』紙の事務所前で止まり、今度はガルニエ=パジェスGarnier-Pagèsの「銃撃は恐るべき犯罪行為である」という演説を聴いている。彼らはその後、サン・ドニ門のバリケードから引き返してブールヴァールを離れ、ポワソニエール大通りを曲がりながら南下してパリ中心部を目指した。途中のド・クレリ通り、モンマルトル通り、ジャン=ジャック・ルソー通りは一九世紀前半の騒擾事件の舞台となった街区であり、山車の行進は蜂起の波を広げるとともに、武器商人から平和裡に奪取した銃で武装化が進んだ。隊列は中央市場の北西端から反転する形で第四区の区役所へと進んでその中庭に、山のように積んできた遺体を荷台から下ろした。彼らが中央市場を目指したのは、ただ単に都市機能の中枢部だったからではなく、そこからセーヌ河岸にかけて、市場や船着き場で働く荷役人夫や屑屋・呼び売り人などの日雇い労働者が集まり住む地域だったからでもある。翌二四日朝にはパリ市内に一五〇〇カ所近いバリケードが築かれ、蜂起した民衆は兵営を占拠し、市庁舎を包囲した。この民衆による一斉蜂起を前にして国民軍司令官はとうとう隊組織をまとめることを諦め、それを見たビュジョ将軍率いる正規軍も矛先を納めることになった。その間、国王ルイ・フィリップはオディロン・バロに組閣を命じたが実現せず、正午過ぎには退位宣言に署名した。王位は孫のパリ伯フィリップLouis Philippe Albert d'Orléansに譲られることとなり、彼は母親のオルレアン公妃に連れられてテュイルリ宮殿から国会議事堂(ブルボン宮)へと出向いた。だが、武装した群衆が押しかけて大混乱に陥り、七月王政は瞬く間に倒壊したのであった。
 その日のうちに早くもデュポン・ド・ルールDupont de l'Eureを首班(在任一八四八)とし、ラマルティーヌやブルジョワ共和派=ナシオナル派のマラスト、フランソワ・アラゴ(エティエンヌ・アラゴの兄)François Jean Dominique Arago、急進共和派=レフォルム派のフロコンFerdinand Flocon、ルドリュ・ロランらの臨時政府が市庁舎内に設置され、共和政宣言を発した。ラマルティーヌやフランソワ・アラゴはもともと共和主義者ではなかったが、民衆の蜂起を受けて俄に共和主義を標榜したのであった(「翌日の共和派」)。また、彼らは労働者大衆に対する指導力を持ち合わせてはいなかったが、七月王政崩壊という現実を前にして抜け目なく自らの政治的位置を確保した。翌二五日、市庁舎前のグレーヴ広場 (現在のオテル・ド・ヴィル広場)を占拠した群衆の中から北部鉄道会社の労働者代表マルシュを中心とする労働者二〇人ほどが銃を携えながら市庁舎内に入り、「共和政が真に民衆のためのものなら赤旗を国旗にせよ」と詰め寄り、「労働の組織、保証された労働の権利。病気の際の労働者とその家族への最低限の保証、労働者が労働できないとき貧困から救済されてあること、しかもこれは、主権者たる国民によって選定された諸手段による」という要請書を提出した。マルシュたちは閣僚のマリAlexandre-Thomas Marieやラマルティーヌと論争になったが、結局は丸め込まれて三色旗を共和国の国旗とすることを受け入れた。もっとも「翌日の共和派」の方も民衆の突き上げを食って社会主義者ルイ・ブラン、機械工アルベールAlexandre-Martin Albertの入閣を呑んでいる。そして新閣僚となったルイ・ブランが作成した法令には「臨時政府は労働によって労働者の生活を保証することを約束する。政府は労働者が自己の労働の利益を享受するために、彼らの間で団結せねばならぬことを認める。労働者に所属する臨時政府は、皇室(ママ)費にあてられている一〇〇万フランを労働者に与える」とあり、ガルニエ・パジェスとルイ・ブランの署名が添えられた。ルイ・ブランが書いた法令には労働者が要請した「労働の権利」という文言はなく、それは「労働者の生活を保証する」という言葉に置き換えられている。すなわち、労働者が求めた「労働の権利」とは〈労働の保証〉とそれを実現するための〈団結権〉を意味していたが、臨時政府の理解は〈失業対策〉でしかなく、この齟齬が第二共和政における分裂を惹き起こすのであった。註⑬
 
註① ジャガード織機の普及は絹撚糸の需要を促した。撚糸はもともとイタリアからの輸入糸が多く第 一帝政期の一八一二年には国内産撚糸一七二トンに対し、輸入撚糸は八五トンであった。撚糸生産は 仏人技師ジャック・ド・ヴォカンソンJacques de Vaucansonが一七四五年に発明したヴォカンソン式絹 織機の導入でいち早く工場生産が開始されたが小規模経営が続いた。なお、撚糸工場はアルデッシュ 県とドローム県に集中していた。Jean-Antoine-Claude Chaptal, De l'industrie française, Paris, 1819 tome II,   p.120. British Parliamentary Papers. Industrial Revolution. Texitiles 5, Shannon, 1968.p.515.
 本池立『フランス産業革命と恐慌』(御茶の水書房)二二一~二三五頁参照
註② マルコヴィッチT.J.Markovitchの試算では一七八一~九〇年の繊維別生産高は毛織物一億六〇〇 〇万リーヴル、絹織物八七〇〇万リーヴル、綿織物五〇〇〇万リーヴル、麻織物二億七〇〇万リーヴ ルであったが、シャプタルJ.-A.-C.Chaotalの試算では一八一二年の羊毛製品が二億三八一三フラン、 絹製品が一億七五六フラン、綿製品が一億九一六〇フラン、麻製品が二億四二八〇フランとなって綿 製品と麻製品の生産量の差が縮まり、一八二〇年代末になって逆転する。その原因は綿工業の発展と、 フランスの麻工業が相変わらず農村における家内工業段階に止まっていたのに対してイギリスでは機 械制生産の開始に成功したことが考えられる。英国産麻糸のフランスへの輸出量は、一八二〇年代に は年平均一トン未満であったが、一五トン(三一年)、五六トン(三二年)、一二九六トン(三五年)、 一九〇一トン(三六年)、三二〇〇トン(三七年)と急増している。なお、フランスの綿工業は原綿 すべてを輸入に依存しており、主な輸入相手国はアメリカ合衆国であった。一八二一年には二万二五 八七トン(米国四五%)であったが、綿工業の発展とともに三万一九一四トン(二六年、米国六八・ 一%)、二万八二二九トン(三一年、米国八〇・七%)、四万四三三一トン(三六年、米国八二%)、 五万五八七〇トン(四一年、米国九〇・一%)、六万四二二七トン(四六年、米国九四・六%)と増 加した。T.J.Markovitch, L'industrie française de 1789 a 1964, Cahiers le l'iSEA, série AF6, Paris, 1966, Tableau de base XVI. 本池立前掲書一三五~一四三、一六一~一六六頁参照
註③ 一四~一五世紀頃、ライン流域のジーガーラントSiegerlandで始まった高炉法による製鉄は膨大 な量の木炭を必要とし、森林資源の枯渇が問題視された。そのため一六世紀末頃から石炭の利用が試 みられ、一七〇九年英人アブラハム・デービー一世Abraham Darbyがコークス高炉の開発に成功した。 木炭高炉の約三倍の出銑能力を持つコークス高炉は石炭より燃えにくいという弱点があり、それを克 服したのが蒸気機関である。一七一二年英人ニューコメンThomas Newcomenが発明し、六九年ジェー ムズ・ワットJames Wattが改良した蒸気機関は、高炉の立地条件の問題を一気に解決した。また一八 二八年には英人ジェームス・ニールソン James Beaumont Neilsonが高炉に送風する空気を予め加熱す る熱風炉を発明して炉内の熱効率を高めることにも成功した。そして一七八三年、英人ヘンリ・コー トHenry Cortはパドル法puddling processによって反射炉内の炭素含量を減らすことに成功し、銑鉄か ら錬鉄や鍛鉄(鋼)を生産するのが容易になった。また、パドル炉は木炭精錬炉と比べて約二倍の生産 能力があったから生産費を約一二%削減することが出来たが、大規模生産は英人ヘンリ・ベッセマー  Henry Bessemerによるベッセマー転炉の開発まで待たねばならなかった。
 中沢護人『鋼の時代』(岩波新書)二五~八九頁参照
註④ 一七八九年現在の「所有帰属別製鉄所数」によれば、国家・国王一二、貴族二九八、僧族二七、 第三身分二〇二、会社六、不明三六二だった。Georges Bourgin et Hubert Bourgin, L'industrie sidêrurgique en  France au début de la Révolution,1920. 本池立前掲書二五六頁参照。
註⑤ 産業資本家たちは七月王政期に企業者連合を結成し、議会や中央官庁への請願・陳情や新聞等に よる広報活動などを展開する圧力団体に成長した。とりわけ一八四〇年に結成した製鉄業利害委員会 はロビー活動を通して政府の関税引き下げ計画やベルギーとの関税同盟計画を頓挫させる中心的役割 を果たし、四六年一〇月にはいくつかの産業別企業者連合をまとめて「国民労働防衛連合」を結成し ている。一方、政府の保護関税政策に苦しんできたボルドー、マルセイユ、ル・アーヴルなどに拠点 を置く貿易商人や外国商品と十分に対抗できる高品質製品を生産していたリヨンの絹織物業者たちは 自由貿易主義を掲げ、四六年二月、ボルドーに「自由貿易中央連合」を設立した。
註⑥一八四五年現在の「企業形態別製鉄所数」統計によれば、製鉄所の多くは相変わらず個人企業(一 一二〇社)で同族資本に依拠していたが、大企業の場合は銀行資本が大きな役割を果たすようになっ た。例えばアヴェロン製鉄所Aveyronの大株主はピレ=ウィルPillet-WillやミレMilleret等のパリの銀 行家であり、ル・クルーゾ製鉄所もパリの銀行家グループのシャピタル・ボーダンChaptal-Bodinやオ ート・バンクの一つフォールドFouldが大株主だった。また、一八三三年に破産したル・クルーゾ製 鉄所を三六年に買収して操業再開にこぎ着けた合資会社シュナイダー社Schneider & Cieの最大株主は セイエール銀行だった。そしてアレー製鉄所会社の発起人・大株主はパリの銀行家グループだったし、 数年後に経営不振に陥った同製鉄所を三六年四月に引き受けた合資会社Drouillard Beroist et Cieの発起 人にして最大株主はパリの銀行家ドルラードDrouillardである。本池立前掲書二八〇~二八八頁参照
註⑦ 北部鉄道(資本金二億フラン)は筆頭株主ロチルド家が一〇万三〇〇〇株、ラフィット家が経営 するLaffitte,Blount et Cieが七万八〇〇〇株、オタンゲル家が二万二〇〇〇株とパリの銀行家が名を連 ね、有力オート・バンクもそれぞれ三〇〇〇株以上の大株主だった。また、ロチルド家はパリ=スト ラスブール鉄道(資本金一億二五〇〇万フラン)の一万四〇〇〇株、パリ=リヨン鉄道(資本金二億 フラン)の一万株を所有した。本池立前掲書二六八~三五一頁参照
註⑧ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」三六八~三七一頁、服部春彦「フランス復古王政・七月王 政」(岩波講座『世界歴史19 近代6』所収第二論文、岩波書店)六〇~六八頁、遠藤輝明「フランス 産業革命の展開過程」(高橋幸八郎編『産業革命の研究』所収第二論文)一二五~一八四頁・同「フ ランスにおける資本主義の発達」(岩波講座『世界歴史19 近代6』所収第一〇論文)二九一~三二二 頁、上垣豊「立憲王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収 第一〇論文、山川出版社)四七八~四九七頁、本池立前掲書一一七~三五一頁各参照
註⑨ Jean-Louis Flandrin, Le Sexe et l'Occident, Seuil, 1981.ジャン=ルイ・フランドラン『性と歴史』(宮原 信訳、新評論)、荻野美穂『生殖の政治学』(山川出版社)一〇~六五頁各参照
註⑩ 中野隆生『プラーグ街の住民たち』(山川出版社)一〇六頁・表6「パリ市およびセーヌ県の人口 の推移」参照
註⑪ 谷川稔「近世国民国家への道」(福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』所収第六論文)三 〇四~三〇九頁、同「コンパニョナージュと職能的共同体」(『シリーズ世界史への問い4 社会的結 合』所収第五論文、岩波書店)一三七~一六五頁、J.P.Aguet, Les Grèves sous la  Monarchie de Juillet.   1830~1847, Genève, 1954. pp.366~67.、『ドーミエ風刺画の世界』(岩波文庫)、ジャン=アンリ・マルレ Jean-Henri Mrlet『タブロー・ド・パリ』(新評論)各参照
註⑫ 赤司道和「手工業労働者のストライキ運動 七月王政期のパリの紳士服仕立工の事例」(『北海道 大学文學部紀要』四二ー三)一三三~一六六頁参照
註⑬ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」(『世界各国史2 フランス史』所収第六論文、山川出版社) 三七五~三八二頁、同「フランス第二共和政」(岩波講座『世界歴史19近代6』所収第七論文、岩波 書店)一九四~二〇三頁、岡田信弘「フランス選挙制度史(三)」(『北大法学論集』三〇ー三)九四~ 九八頁各参照。

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ブルボン復古王政と七月革命

                          
 一 ブルボン復古王政と新しい革命の波
 フランス革命勃発からの約一〇〇年間、フランスの政体は繰り返し発生する革命や戦争の影響を受けて激しく変化した。とりわけ、ナポレオン戦争後はブルボン復古王朝(一八一四~一五、一五~三〇年)、七月革命による七月王政(一八三〇~四八年)、二月革命による第二共和政(一八四八~五二年)、ルイ・ナポレオン大統領Charles Louis-Napoléon Bonaparteのクーデターで誕生した第二帝政(一八五二~七〇年)、普仏戦争敗北に伴う第三共和政(一八七〇~一九四〇年)と目まぐるしく交替している。こうした変化を突き動かしたものは何だったのか。ここでは、ブルボン復古王朝から二月革命までの政治・経済の動向や民衆の暮らし向きに注目しながら、フランス政体の変化を辿りたい。
 さて一八一四年五月三日、ルイ一八世Louis XVIII(在位一八一四~一五、一五~二四)は亡命先のイギリスから戻り、革命で倒れたブルボン朝を復活させた。これはナポレオン一世によるヨーロッパ制覇を阻止したタレーランCharles-Maurice de Talleyrand- Périgordの功績が大きく、彼は一三日に新政府を樹立し、三〇日には国境線を一七九二年時点まで戻すことで対仏大同盟諸国と合意させて第一次パリ講和条約を締結した。しかし、四月六日に起草されていた憲法草案(元老院憲法)は国王の拒否で頓挫し、六月四日、ルイ一八世は改めて作成された「一八一四年憲章」Charte constitutionnelle de 1814を公布している。
 新しい憲章(シャルト)体制下における政治の特徴は、第一に反革命の姿勢である。確かに憲章は「信仰の自由」を認め、ルイ一八世自身も国民的和解の姿勢を見せようとしたが、現実的にはローマ=カトリック教を国教とし、王権神授説を国王権力の正統性原理としていた。また、日曜休日の義務化や「聖体の祝日」Corpus Christiの行列が通る際には飾り付けを命じる勅令のほか、九月一三日の議会では未売却国有財産(とくに森林)を元の所有者へ返還するよう命じた決議をさせており、これらはいずれも革命を否定する反動的なものであった。また、翌一五年一月二一日にはマドレーヌ墓地から掘り起こしたルイ一六世とその妃マリ・アントワネットの遺骸をサン・ドニ大聖堂に移葬する「贖罪の儀式」が執り行われている。その結果、復古王政は強大な国王大権と相対的脆弱性を帯びた議会の併存という特徴を持つことになる。すなわち、神聖不可侵の存在である国王は緊急大権を持つと同時に、国家元首として行政権のほか司法権、軍隊統帥権、宣戦・講和・条約締結の諸権利、官吏任命権、法律の発議・裁可・公布を行う権利、議会の解散・停会権などを有したのである。一方、議会は王族と、国王が貴族・高級官吏・軍人等から随意に任命する世襲議員とによって構成される貴族院(上院Chambre des Pairs)と、国民の中から議員を選出する代議院(下院Chambre des Députés)の二院制議会となった。議会の主要な権限は毎年予算案に投票する権限以外に、法律案の審議権とその発議を王に請願する権利、課税協賛権、国王への上奏権、刑事事件に関して大臣を弾劾する権利などが付与されていた。
 第二の特徴は、貴族やブルジョワに有利な制限選挙が行われ、国政には一般民衆の声が全く届かなかった点にある。一四年憲章には三〇〇フラン以上の直接税納税者で三〇歳以上の男性にのみ代議院議員の選挙権を、また一〇〇〇フラン以上の納税者で四〇歳以上の男性にのみ被選挙権を付与し(第三八条・第四〇条)、被選挙権者が県内で五〇名に満たない場合は一〇〇〇フラン以下の納税者の中から高額納税者を被選挙権者としてほじゅうした(第三九条)。しかも皮肉なことに、課税対象に応じて課税率が異なる当時の租税制度が不公平な選挙の後押しをしていた。すなわち、直接税の中核をなす地租が商工業に対する営業税よりも遙かに高率だったために、選挙では大土地所有者に有利に働いたのである。因みに被選挙人数は当初一・六万人程度だったが、選挙人数が一一万人(一八一七年)、一〇・五万人(二〇年)、九・九万人(二四年)、八・九万人(二七年)と漸減しているのは大土地所有者に対する減税が行われたからである。なお、一八一五年七月一三日、代議院議員を選出する選挙会les coliéges électorauxを召集するために勅令(オルドナンスordonnance)が公布され、郡選挙会(アロンディスマン選挙会coliéges d'arrondissement)と県選挙会(デパルトマン選挙会coliéges departement)による一種の二段階選挙制を採用した。前者の選挙人資格は満二一歳以上という年齢制限しかなかったが、後者のそれは満二一歳以上の高額納税者から選出され(第八条)、議員資格は満二五歳以上で一〇〇〇フラン以上の高額納税者に限定されていた(第一〇条・第一三条)。また、選挙方法は各郡選挙会が県の議員数と同数の候補者を選出し、県選挙会は少なくとも議員の半数はこの候補者リストの中から選出しなければならなかった(第五条・第七条)。したがって、実質的な選挙権は県選挙会を構成していた高額納税者の手に握られていたのである。。
 また第三の特徴は、代議院議員として国政を左右する力を持ったのは大土地所有者とりわけ旧貴族だったという点に求められる。一八一四年憲章によれば「旧貴族はその爵位を回復し、新貴族はそれを保持する。王は随時に貴族をつくりうるが、しかし彼らに対して地位と名誉しか与えず、貴族は社会の負担と義務をまぬかれることはできない」(第七一条)とあり、この時期の貴族には、アンシャン・レジーム期の旧貴族、第一帝政期の帝政貴族、王政復古期に国王が創設した新貴族の三種類があったことが分かる。そして、爵位を世襲するためには〈貴族財産〉(貴族の称号とともに長男に渡される世襲財産)の設定が必要であるのは従前と変わりなく、侯爵・伯爵などの爵位は財産の多寡に応じて位階がつけられていた。しかし、革命以前の貴族と全く違うのは、もはや封建的・身分的特権が認められないということである。彼らは所有する土地の経営を借地農経営者に委ねる〈近代地主〉と、中・小の定額小作農や分益小作農に所有地を分割して貸し付ける〈寄生地主〉とに分かれていたが、後者のタイプが多かった。したがって、代議院議員として当選する貴族の多くは寄生地主であった。なお、一八一六年初め時点の代議院議員三八一名の内訳を見ると、旧貴族(反革命亡命者七三名を含む)が一七六名(四六%)、帝政貴族八名、ブルジョワ一九七名(五二%)となっている。
 同年九月一日以降、外相に復帰したタレーランは全権大使としてウィーン会議(一八一四~一五年)に出席している。シェーンブルン宮殿を中心に開催されたこの講和会議は、ホスト国家オーストリアのメッテルニヒ外相が主導し、フランス革命やナポレオン戦争に伴うヨーロッパ全域の混乱を収束させようとした。会議には戦勝国から露帝アレクサンドル一世、プロイセン王国のハルデンベルク首相、ヴィルヘルム・フンボルト(ベルリン大学創設者)、イギリスのウェリントン公アーサー・ウェルズリー(後の首相)、外相カッスルレーなどが参加した。タレーランは「主権は軍事的征服によって得られるものではなく、正統な主権者が自発的に譲渡しない限り征服者に移譲されることはない」とする「正統主義」legitimismを提案し、フランス革命以前の各国王朝・君主を正統な主権者とみなす復古主義に大きな影響を与えた。しかし、その時すでに重要事項は英墺両国を中心に決定されており、フランスに有利な成果を引き出すには至らなかったと言われている。列国の利害が錯綜してなかなか結論を出せず、「会議は踊る、されど会議は進まず」Le Congrès ne marche pas, il danse.(ド・リーニュ侯)の状態が続いていた一八一五年二月、ナポレオン一世が流刑地エルバ島から脱出したという報せが届き、会議は大混乱に陥った。ナポレオン一世が最終的に敗れ去るワーテルローの戦いの九日前(六月九日)になってようやく、「ウィーン議定書」Vienna Protocolが締約され、フランス、スペイン(フェルナンド七世)、両シチリア王国(シチリア王フェルディナンド三世=ナポリ王フェルディナンド四世)ではともにブルボン朝が復活した。また同年、露帝アレクサンドル一世の提唱で成立した神聖同盟はイギリス、ローマ教皇領、オスマン帝国の参加拒否で十分に機能しなかったが、同じく一五年に結成された四国同盟(英普墺露)が自由主義や国民主義に基づく動きを封じ込める「ウィーン体制」の中核となっていく。
 ナポレオン一世の「百日天下」が潰えた一八一五年七月三日、フランスでは元警察大臣フーシェJoseph Fouchéを首班とする臨時政府が休戦協定を締結し、八日にはルイ一八世が再びパリに帰還して第二次王政復古がなされた。そして翌九日に成立したタレーランを首班とする新政府は、アンシャン・レジーム(旧制度)下の絶対王政や山岳派による革命独裁、第一帝政の軍事独裁とは大きく異なる「立憲王政」を目指した。ところが、フランス革命期の「封建的特権廃止宣言」で深刻な打撃を被ったフランス西部や南部の中小貴族や聖職者の間ではアルトワ伯(ルイ一八世の弟)comtes d'ArtoisやヴィレールVillèle、シャトーブリアン Chateaubriand、モンモランシーMonmorency、ポリニャックPolignac等を中心とする「過激王党派」(ユルトラultra-royalistes)の支持者が急増していた。ユルトラは「フランスとナヴァールの王は『サリカ法典』Lex Salicaの単純適用によってのみ選ばれるべきだ」とする正統王朝主義(レジティミスムLégitimisme)の信奉者で〈王よりも王党的〉とも言われた。また彼らはシャルト体制の根幹をなす一四年憲章を旧制度と革命という二つの伝統の〈妥協の産物〉とみなして拒絶し、貴族としての身分的特権や政治的役割を保障する王国の再建を目指していた。こうして八月に入って復古王政における最初に実施された総選挙では、ユルトラが総議席数四〇二のうち三五〇議席を占める圧倒的勝利を収めることになった(「またと見出しがたい議会」la Chambre introuvable)。一方、ユルトラの台頭に反発した貴族やブルジョワたちは一八一五~一六年頃、「立憲王党派」royalistes constitutionnelsを結成している。この政治グループは歴史家ギゾーFrançois Pierre Guillaume Guizotやロワイエ=コラールRoyer-Collard等の「純理派」(ドクトリネールdoctrinaires)が中心となり、絶対王政や国民主権を否定してシャルト体制を擁護するという特徴を持っていた。
 同年九月二六日、勢いづいたユルトラはタレーラン政権を退陣に追い込んだ。しかし、一一月二〇日に締結した第二次パリ講和条約は、ベルギー方面やライン川沿いの領土を失うなどフランスにとって厳しい内容であった。また国内ではユルトラの台頭という反動的気運の中で南部を中心に〈白色テロル〉が横行し、カトリック教徒によるプロテスタント虐殺などが頻発して混乱が広がった。ユルトラ主導の代議院では次の会期まで個人の自由を停止し、死刑や王室に対する不敬罪を追加した「言論出版法」を制定し、「臨時即決裁判所設置に関する法律」の制定(一二月二七日)を受けてボナパルト派や共和主義者に対する徹底した追及を行った。フランス全土では約七万人が逮捕され、臨時即決裁判所において約二〇〇〇件が処理され、約九〇〇〇人が政治犯として処罰された。ナポレオン軍の英雄ネー元帥Michel Neyの処刑(一二月七日)が行われたのもこの頃のことである。しかし、フランス革命期や第一帝政期の成果を否定して絶対王政期への復古を目指すユルトラの姿勢は、換言すれば革命期の農民革命で土地を確保した全国の農民を敵にまわすことでもあった。フランスを占領していた連合軍は農民による内乱の再来を怖れ、ユルトラ主導の代議院を解散させることこそが占領軍縮小の条件だと復古王朝に迫っている。翌一六年、連合国と同じ危機感を抱いたルイ一八世やリシュリュー内閣(在任一八一五~一八)Richelieuは復古王政の安定のために議会解散を強行した。その結果、一六年一〇月に実施された第二回総選挙では国王の思惑通り政府支持の立憲王党派が一四二議席を占め、ユルトラは九二議席の少数派に転落している。こうした状況の下で「一八一七年二月五日法」(レネ法Lainé)が公布され、選挙権及び被選挙権の資格は一八一四年憲章の要件に戻され、各県庁所在地で開かれる県選挙会に議員指名権を付与する直接選挙制と名簿式三回投票制の導入も決定された。直接選挙制は革命期の「一七九三年憲法」でも採用されてはいたが、実施の運びとなったのは一八一七年の総選挙が最初である。この改正はユルトラの選挙地盤である農村の土地所有者層(地主・農民)にダメージを与える一方で、都市に住むブルジョワ層を利する内容だった。また、選挙で勝利を収めた立憲王党派内で力をつけた純理派はルイ一八世の寵臣ドュカーズDecazesの権威を利用して改革を進め、軍隊内の採用・昇進に国王が介入するのを避けるための「グヴィオン・サン・シール法」Gouvion Saint-Cyr(一八一八年三月一〇日)や出版法違反者を陪審裁判で裁く「ド・セール諸法」Lois De Serre(同年五月)を制定し、連合国に対する賠償金問題を公債政策と内外の銀行からの資金調達によって解決した。こうして、一〇月九日エクス・ラ・シャペル(アーヘン)列国会議で占領軍の撤退を実現するとともに、翌月にはウィーン体制を支える四国同盟に加盟して五国同盟に発展させ、保守反動体制の一翼を担うようになったのである。
 さて、一八一七年選挙法に基づく総選挙(一八一七、一八、一九年)が繰り返された結果、ユルトラが三五議席、立憲王党派が一九議席をそれぞれ失ったのに対して、一八一七年に立憲王党派から分離した左翼の「独立派」indépendantsが目覚ましい躍進を遂げている。この党派を指導していたのは政治思想家バンジャマン・コンスタンBenjamin Constant、商人銀行家のジャック・ラフィットJacques Laffitteやカジミール・ペリエCasimir Périer、アメリカ革命やフランス革命で活躍したラ・ファイエット侯La Fayettenadoなどであり、支持者は自由主義を標榜するブルジョワジーが多かった。しかし、独立派が一八一九年の総選挙で改選議席数五五のうち三五議席を占めて総議員数を約八〇名に増やしたことは、右翼ユルトラを大いに刺激することになった。彼らはルイ一八世やウィーン体制諸国に対して密かに政治工作をすすめた。その頃、ドイツ連邦(一八一五~六六年)の指導者メッテルニヒはブルシェンシャフト運動を抑圧してカールスバートの決議(一八一九年、現在はチェコのカルロヴィ・ヴァリ)を出したばかりであり、一八二〇年一月にはスペインのフェルナンド七世に対する軍部の反乱が発生している。メッテルニヒはウィーン体制の綻びを繕うためにもフランス国内情勢に警戒の目を光らせていたが、一八二〇年、彼の不安が現実となる。二月一三日、狂信的ボナパルト派のルイ・ピエール・ルヴェルがアルトワ伯シャルルの次男シャルル・フェルディナン・ダルトワCharles Ferdinand d'Artoisをオペラ座前で刺殺するベリー公暗殺事件が発生し、それに続くドュカーズ内閣(任期一八一九~二〇)総辞職を契機として政治反動の嵐が起こり、与党の立憲王党派は左右に分裂してそれぞれ左右両極に吸収され、院内勢力は「王党派」royalistesと「自由派」libérauxとに収斂した。
 同年六月二九日、ユルトラは大土地所有者の政治的発言力の強化を図るために新しい選挙法(「一八二〇年六月二九日法」)を公布させ、代議院総数四三〇名のうち二五八名は郡選挙会によって、残り一七二名は県選挙会によって選出されることになった。その結果、各県の高額納税者(上位四分の一)で構成されていた県選挙会の選挙人(全国で約二万五〇〇〇人)は郡と県の選挙会で二度投票できることになった。政府はまた、地租減税を実施して自由主義的思想の持ち主と想定した一万四五〇〇人の選挙権を剥奪している。こうして同年一一月に実施された総選挙では、この年の改選議席五一に新設の一七四議席を加えた二二三議席のうち右派(ユルトラ、旧中道右派)が一九〇議席を得て、わずか三三議席にとどまった自由派を圧倒した。
 選挙結果に勢いづいたユルトラはリシュリュー内閣(在任一八二〇~二一)に自派の三名を入閣させ、翌二一年秋の改選後はユルトラ単独のヴィレール内閣(在任一八二一~二八)を成立させてシャルト体制にとどめを刺した。彼らは教会勢力との連携を深め、一八二二年には高位聖職者フレシヌスFrayssinousを大学局総監に任命して中・高等教育に影響を及ぼし、ソルボンヌ大学ではギゾーやクーザンVictor Cousinの講義を止めさせ、リヨン大学では司教が教授を任命できるように変更させた。翌二三年一月、シャトーブリアン外相は前年からの暴動に苦慮していた西王フェルナンド七世を援助するために仏軍を派遣し、一二月二日のアウステルリッツ戦勝記念日には遠征軍司令官アングレーム公duc d'Angoulêmeの凱旋行進を挙行した。戦勝に沸く祝賀気分は翌二四年二~三月の総選挙に影響し、右派は総議席四三〇のうち四一一議席を占めるほぼ完璧な勝利を収めている(「再び見出された議会」la Chambre retrouvée)。また「一八二四年六月九日法」によって議員の五分の一を毎年改選する制度を廃止するとともに、議員任期の五年から七年への延長という〈憲章違反〉の決定を行って長期政権の確立を図った。一方、ラ・ファイエットら自由派の一部は二〇年八月一九日、秘密結社やボナパルト派の軍人グループと結んで武装蜂起したが失敗に終わった。その後、イタリアの秘密結社カルボナリCarbonariを移植したシャルボヌリCharbonnerieが推定三万人の加入者を獲得し、一八二二年二月にラ・ファイエットらも関与した蜂起を準備したが、これまた失敗に終わっている。その間、中小ブルジョワや労働者層は国政から排除されて政府が推進する高関税政策(註①)の犠牲者となり、民衆の間には次第に共和主義が浸透し、自由主義ブルジョワジーと共和主義の結合という動きが見られ始めた。
 ヴィレール内閣の下でユルトラが「我が世の春」を謳歌していた二四年九月一六日、ルイ一八世が他界し、彼には子がいなかったため、弟アルトワ伯がシャルル一〇世Charles X(在位一八二四~三〇)として即位した。成聖式は二五年五月二九日伝統に則ってランス大聖堂で行われ、大司教の手によって厳かな戴冠式・塗油式が挙行された。こうしてユルトラは国王・政府・議会の三者を押さえ、反動的な政策を推進する。例えば二五年四月二七日に成立した「亡命貴族の一〇億フラン法」le milliard des émigrésは、フランス革命期に国外に逃亡して財産を没収=国有化された旧亡命貴族に対して国家が補償しようとする法律である。ただし、売却済み財産を旧所有者に返還させることは現実的には困難であったため、亡命貴族(旧所有者)に賠償対象財産の評価額(約一〇億フラン)の名目資本に相当する三分利付公債を五年間に分けて与えた。もっとも、旧亡命貴族がこの法律によってかつての所有地を買い戻すことはほぼ不可能だったが、政府としては長年の懸案事項であった亡命者賠償問題にけりをつけ、旧亡命貴族や国有財産取得者をユルトラ支持者とすることには成功したわけである。
 しかし、強引な議会運営は自由派やユルトラ内の極右分子(ラ・ブルドネ一派la Bourdonnaye)の反発を招いただけでなく、銀行家や産業資本家など自由主義者との対立をもたらし、地租三〇〇フラン以上の納入者を対象とする長子相続法案は貴族院すら通過できなかった。またその当時、ウィーン体制を揺るがしかねないギリシア独立戦争(一八二一~二九年)が戦われていたが、フランス国内でもロマン主義の画家ドラクロワDelacroixの代表作「キオス島の虐殺」(一八二四年)に刺激されてギリシア独立を支援する世論が高まっていた。ヴィレール内閣はメッテルニヒに気兼ねしてギリシア支援を避けていたが、世論に押される形でオスマン帝国への干渉戦争に踏み切った。二七年一〇月二七日、英仏露連合艦隊が勝利を収めたナヴァリノ海戦は、フランス国内の自由主義的風潮を高め、反政府を標榜する新聞が言論界をリードするようになる。政府はこうした動きを抑えようと既に前年一二月には出版物統制法案を提出していたが、二七年四月には長子相続法案と同じく、貴族院すら通過できなかった。そして政府の言論統制に反対したのは新聞だけでなかった。パリの国民衛兵隊la Garde nationaleは閲兵中のシャルル一〇世に対して「新聞の自由」「内閣を倒せ」と叫んで国王の怒りを買い、四月二九日解散を命じられた。これは国王とブルジョワの決裂につながっていく。同年一一月、事態処理に窮したシャルル一〇世は地方の支持を期待して議会の解散に踏み切った。しかし、反政府勢力が議席の過半数を占める結果となり、ヴィレール内閣は退陣に追い込まれた(二八年一月)。こうしてユルトラ政権は一旦崩壊したが、その背景には後述する産業革命(一八一〇年代~第二帝政期)があり、ノルマンディ地方やアルザス地方、リヨンなど中心とする繊維工業の発達がブルジョワジーの躍進を支えていた。その後、二八年一月に穏健王党派のマルティニャック内閣Martignac(在任一八二八~二九)、翌年八月からはユルトラのポリニャック内閣Polignac(在任一八二九~三〇)と続いたが、その間の議会は自由派とヴィレール支持の穏健王党派がともに一五〇~一八〇議席を占め、ユルトラは六〇~八〇議席と少数派にとどまっていた。註②

二 社会改革の夢 ~七月革命~
  1 七月革命とシャルト体制
 一八三〇年三月一八日、代議院ではポリニャック内閣不信任の勅語奉答文が二二一名の賛成で可決された。賛成議員のうちブルジョワが六三%、帝政貴族が一六%を占めたのに対して、反対議員一八一名のうち旧貴族が六三%に達したことから、代議院はブルジョワを中心とする反政府勢力と旧貴族を中心とする政権側との対立が抜き差しならない局面に達したことを示している。五月一六日、国王・政府側は反対派議員を一掃するために代議院解散に打って出て、七月五日にはアルジェリア侵攻の最初の成果であるアルジェ占領のニュースがもたらされた。しかし、六月末から七月初めに実施された選挙の結果は政府の思うようにはならず、政府系議員一四三名に対して反政府系議員は二七四名も当選した。そこでシャルル一〇世は、憲章第一四条に規定された国家安全のための勅令発布権の発動を決意し、七月二五日、所謂「七月勅令」と呼ばれる四勅令を発した(註③)。第一に出版の自由の停止、第二に(未召集の)新議会の解散を命じた。そして第三に代議院の議席数を一八二〇年以前の二五八議席に戻し、県選挙会にのみ議員選出権を認めて郡選挙会には県選挙会への候補者提出権のみを認めた。これは参政権の完全な行使を各県の選挙人の中で多額納税者(上位四分の一)に限定することを意味した。また、選挙人・被選挙人資格の必要納税額の算定に際して営業税・戸窓税を除外して地租と人的動産税のみに限るよう変更し、営業税負担者すなわちブルジョワから参政権を剥奪しようとした。また第四に次期選挙日を九月(郡選挙六日・県選挙一八日)とすることを命じている。
 ところで一八一五年五月インドネシア中南部のタンボラ山大噴火がもたらした翌一六年ヨーロッパや北米大陸を襲った「夏のない夏」による農作物の壊滅的被害を除き、ブルボン復古王朝が成立してしばらくの間は概ね好況が続いた。しかし、二〇年代後半からは穀物の収穫高が徐々に落ちはじめ、価格上昇に転じている。特に二六年には不況で都市労働者に払われる賃金が大幅に削減されるようになり、同年のジャガイモ不作が追い打ちをかけた。穀物の関税引き下げを求める声は全国に拡がったが、シャルル一〇世は大土地所有者からの圧力を受けて関税据え置きを決めている。その結果、都市経済も保護関税政策に伴う諸外国の報復関税や農村部の購買力低下の影響を受けて不況に喘ぐこととなった。例えばパリ有数の銀行家ラフィットは破産の瀬戸際まで追い詰められたし、二九年から三〇年にかけての冬の寒さは貧者を凍死させた。しかし、一八三〇年頃には不況が峠を越し、一時頻発していた穀物運搬車への襲撃や民衆による市場価格への介入(「公正価格」による販売を求める運動)も下火になっていたので、政府側に油断があった。
 七月二六日、官報「モニトゥール」に掲載された七月勅令を読んだ反政府系ジャーナリストたちは一斉に反発し、『ナシオナル』紙Le Nationalは号外を発行して倒閣運動を呼びかけた。夜に入ると早くもセーヌ河畔には三色旗が翻るようになり、パレ・ロワイヤル付近には印刷工や学生たちが集まりだした。翌二七日、『ナシオナル』紙のみならず『グローブ』Le Globe、『タン』Le Temps両紙も勅令を無視して新聞を発行した。そのため政府の指示を受けた警察が印刷所を襲撃して新聞紙や活字を没収し、市内各地に発生した小競り合いには軍隊も投入された。パリ東部の労働者街ではバリケードが築かれ始め、学生と職人・労働者が提携し、ついにはラ・ファイエットを中心に再編制された国民衛兵隊が武装蜂起した。そして二八日未明には商人銀行家ラフィット(独立派)が動き出し、そこにカジミール・ペリエやラ・ファイエットが加わって蜂起の司令塔が成立した。国民衛兵隊を先頭にした民衆は瞬く間にパリ市庁舎やノートルダム大聖堂を占拠し、(午後には正規軍の反撃で一時的に市庁舎が政府側に戻ったが)二九日未明の反撃で再び奪還に成功した。同日、参謀本部の置かれたラフィット邸宅に集合した幹部たちは、ラ・ファイエットを国民衛兵総司令官に決定し、ラフィットやカジミール・ペリエら五人からなる臨時市委員会を組織した。国民衛兵隊は共和派やボナパルト派の軍経験者を加えたうえで、正規軍の二連隊を寝返らせ、スイス衛兵が護るルーブル宮を陥落させることにも成功した。こうして七月二七日から二九日まで続いたブルジョワと民衆による武装蜂起は成功し、ヴェルサイユ近郊にいたシャルル一〇世は八月半ばにイギリスへと亡命し、その後は故国に戻ることがなかった(「栄光の三日間」Les Trois Glorieuses)。蜂起に参加した民衆は、大工・家具職人・靴職人などの職人と熟練労働者が圧倒的に多く、死者約八〇〇人、負傷者約四〇〇〇人を出す壮絶な戦闘は、ロマン主義の画家ドラクロワによって「民衆を導く自由の女神」が描かれ、バスティーユ広場の「七月の円柱」として称えられている。
 しかし、革命の混乱がどうにか鎮まった時点では、フランスの政体が共和政か帝政、それとも立憲王政になるのかは未だ流動的であった。だが、革命の演出家ラフィットは単なる陰謀政治家ではなかった。ピレネー山脈に近い南西部の都市バイヨンヌで大工の子として生まれた彼は、一七八八年パリに出てスイス人銀行家 J.ペレゴーの簿記係として職を得、一八〇四年頭取となった後、フランス銀行理事を経て総裁(一四~一九年)と自らの才覚だけを武器に社会的地位を高めてきた男である。その間、革命期の混乱をジロンド派支持者として潜り抜け、皇帝ナポレオン一世とも渡り合った筋金入りの自由主義者であり、一六年にはパリ選出の代議院議員となっていた。そして、七月革命の最中、ラフィットは開明的な「市民王」ルイ・フィリップLouis-Philippeを担ぎ出し、民衆運動の暴発を警戒していたラ・ファイエットとタッグを組ませることを考えつく。七月三一日、市庁舎のバルコニーにラ・ファイエットと並んでルイ・フィリップが登場したとき、(彼の思惑通り)民衆は二人を歓呼の声で迎えた。何故なら、ルイ・フィリップはブルボン家の支流オルレアン家という名門の出身であり、革命戦争に参加した経歴を持つ男だったからである。すなわち、民衆の間には〈個人(国王シャルル一〇世)〉の資質よりも〈王政〉という統治システムこそ問題だったということに気づいている人は少なかったのである。ただし、七月革命期の国際環境(ウィーン体制)や革命の主体を考慮すれば、この時点で共和政が成立する可能性はあまり高くなかった。それより七月革命がヨーロッパ各地に及ぼした影響力に着目すべきである(註④)。
 その後、憲章が修正され、八月九日にはルイ・フィリップが代議院が置かれていたブルボン宮に出向いて国王としての即位式が挙行された。ただし、その内容はブルボン復古王朝のそれとは全く異なり、両院議員を前にして修正憲章を遵守する旨の宣誓文を読み上げることで「フランス人の王」roi des Françaisルイ・フィリップ(在位一八三〇~四八)として玉座に昇るという極めて簡素な儀式であった。彼は神授王権を否定し、ローマ=カトリック教は国教の座から滑り落ちたのである。彼が受け入れた三〇年憲章(八月一四日公布)の特徴は、第一に一四年憲章の前文を削除することで王から国民に賦与する〈欽定憲法〉としての性格を改め、王と国民との間に結ばれた〈協約憲法〉に変化したことに求められる。第二に王の法律停止権が廃止され、貴族院・代議院両院の法律発議権を認め、代議院議長を議員自らが選出できること、代議院議員選挙の選挙権・被選挙権を拡大したことで、国王大権の縮小、議会権限の拡張が実現したことにある。すなわち、三〇年憲章の公布で二重投票制が廃止され(第六九条)、代議院の選挙人資格は二五歳以上、被選挙人のそれは三〇歳以上にそれぞれ引き下げられた(第三二条・第三四条)。また、「三一年四月一九日法」によって代議院議員四五九名を選出する小選挙区絶対多数三回投票制が採用され(第三八条・第三九条・第五四条・第五五条)、選挙人たるに必要な最低納税額は二〇〇フラン(第一条)に、被選挙人のそれは五〇〇フランに引き下げられている(第五九条)。その結果、選挙人資格を持つ人数は(当時の好況や人口増加も手伝って)一八三〇年六月の九・四六万人から、一六・七万人(三一年七月)、一七・一万人(三七年一一月)、二〇・一万人(三九年三月)、二二万人(四二年七月)、二四・八万人(四六年八月)と増加している。ただし、三〇年憲章では依然として国王による行政権独占や法律の裁可・公布権、代議院の解散・停会権などを認めており、イギリスの議会王政にはほど遠い状態にあった。また、貴族院は議員世襲が禁止されたために大幅な定数減となり、官僚は知事七六名・副知事一九六名・市長約四〇〇名・司法官約一〇〇名が入れ替えられ、将軍七五名のうち六五名を退役とした。
 ところで、七月王政に対する宣誓を拒否して辞職した議員九三名のうち約三〇%が旧貴族であったのに対して、三〇年秋から翌年にかけて行われた補欠選挙で当選した議員一一〇名のうち約六五%がブルジョワ出身だったことにも着目する必要がある。七月王政期の代議院議員は、旧貴族の占める割合が大幅に減少し、ブルジョワ議員が優勢と変化したが、銀行家・商工業者の占める割合は相変わらず低いままであり、官吏・地主議員の数は一九三名(一八三四年)→一九一名(三七年)→一七五名(四〇年)→一八八名(四六年)と推移して平均約四割前後を占めていたことが分かる。すなわち、七月王政期の議会は、旧貴族や帝政貴族の手から離れたものの、未だ商工業ブルジョワジーがイニシアティヴをとるまでには至っていない。しかし、前述の被選挙人資格=納税額五〇〇フランが年収二五〇〇~五〇〇〇フランの富裕層への課税額であることや、当時の労働者の年収が高くても約七五〇フランだったことを考慮すれば、七月王政が相変わらず〈名望家の時代〉だったことは明らかである。註⑤

  2 抵抗派と運動派の対立
 さて、議会内で多数を占めることになった立憲的諸党派(オルレアン派)はまもなく二つに分裂した。一方は中道右派のカジミール・ペリエや純理派のギゾー、ブロイ公Broglieらによる「抵抗派」parti de la Résistanceで、彼らは三〇年憲章を運動の到達点と見なして現行の秩序維持を目指した。他方、アドルフ・ティエールLouis Adolphe Thiersやオディロン・バロOdilon Barrotなどの「運動派」parti du Mouvementは三〇年憲章を出発点と見なして革命の徹底化とベルギーやポーランド、イタリアなどの国民主義的運動への支援を模索した。そして一八三〇年一一月二日、革命の興奮が醒めやらぬうちに政権を獲得したのはラフィット(在任一八三〇~三一を首班とする運動派であった。ラフィットは七月革命の政治的収拾を行った黒幕であり、〈銀行家たちの王〉・〈王の銀行家〉として知られる金融貴族である。しかし、議会の外では参政権を持たない小ブルジョワや学生・労働者を中心とする民衆運動が力を増しており、一二月末には議会において国民衛兵総司令官としての権限を削減されたラ・ファイエットが抗議の辞職をしている。ラフィット内閣は翌三一年二月一四~一五日に起きたパリ大司教舘襲撃事件が保守派からの攻撃材料となり、オーストリアへの対抗心から北イタリア派兵を企てたことが原因となって三月一二日、罷免された。その結果、政権はカジミール・ペリエ率いる抵抗派内閣(在任一八三〇~三一)へと移ったが、彼の父はフランス銀行創立者の一人で、彼自身もパリを代表するペリエ銀行の支配人であったから金融貴族による支配はその後も続いたわけである。
 新政府は運動派の改革に賛同した県知事・市町村長・郡長・検事を根こそぎ粛清し、いくつかの国民衛兵隊を解散に追い込み、さらには反政府系新聞を抑えにかかった。また一〇月にはリヨンの絹織物業の小工場主・労働者が「商人業者」marchand-fabricantと呼ばれた資本家に対して賃金引き上げを要求し、商人業者代表が承認したにもかかわらず、資本家側はそれを実行に移さないばかりか政府に働きかけて新賃金表の無効を宣言させた。一一月二一日、怒りに震えた小工場主・労働者たちが蜂起したが、政府は軍隊二万人と大砲五〇門を動員して一二月五日までに鎮圧している。翌三二年にはパリ市民約二万人の命を奪ったコレラが流行してペリエ自身も五月一六日に病死したが(註⑥)、抵抗派はその後も一八四八年の二月革命まで政権を維持した。しかし、ルイ・フィリップ王がしばらくは首相職を置かなかったこともあって、国政は安定性を欠いたままであった。その間、亡命先のナポリから密かに帰国したベリー公妃マリ・カロリーヌMarie Carolineがヴァンデー地方で反乱(五月末~六月)を起こし、パリでは共和主義者を中心とする蜂起(六月五~六日)が発生した。政府は西部諸県とパリに戒厳令を布いて反乱を抑え込み、同年一〇月一一日に成立したスールト元帥Soultを首班とする内閣(在位一八三二~三四)によってどうにか政治危機を乗り越えた。なお、一一月に逮捕されたマリ・カロリーヌは前年一二月に再婚していたが、三三年五月に獄中で不倫の子を産み、正統主義はスキャンダルまみれとなった。
 一方、政府の弾圧を受けて弱体化した反政府派はまもなく分裂する。三〇年一月に創刊された『ナシオナル』紙の出資者ラフィット(金融貴族・前首相)や編集者ティエール等は議会主義にとどまったが、一部のブルジョワは結社の成立を急いだ。一方、三〇年六月に結成された「人民の友」Société des Amis du peupleは三一年に発生したリヨンの労働者蜂起を支持し、三三年一〇月に「人間の権利協会」Société des droit de l'homme et du citoyenとして再結成されたとき、一〇~二〇人単位の下部組織には多数の労働者が参加した。彼らは労働生産物の公平な分配や累進課税制度を要求しただけでなく普通選挙による単一国民議会の創設を提唱し、一時は熟練労働者を中心に約三〇〇〇人が参加している。人間の権利協会を中心に小ブルジョワ層と労働者の間に指導と同盟の関係が生まれつつあったのである。こうした動向に危険な臭いをかぎ取ったスールト内閣は、二〇人以上の結社を取り締まり対象としていた「刑法二九一条」を修正し、二〇人以下の結社にも適用できるようにし、併せて指導者だけでなく加入者全員を告発の対象とした(三四年三月成立)。しかし、政府が団体の事前許可制を定めた「結社法」を制定させた三四年四月一〇日には、リヨンで再び賃金問題から人間の権利協会リヨン支部と提携関係にあった労働者の同業組合が軍隊・国民衛兵隊と衝突し、市街戦に発展した。この蜂起が鎮圧された直後から労働争議がサン=テティエンヌ、アルボア、グルノーブル、マルセイユなどに波及し、パリでは軍隊の出動で「トランスノナン街の虐殺」が行われた。政府は全国の労働者蜂起を軍隊と国民衛兵の力によって抑え込み、約二〇〇〇人の逮捕者をだした。また六月に実施した総選挙では政府派が約三二〇議席を獲得し、穏健共和派は壊滅的な敗北を喫している。
 三五年三月一二日、ブロイ内閣(在任一八三五~三六)が発足して抵抗派による七月体制は盤石となったかに見えたが、ティエールが中道左派グループを結成し、オディロン・バロを中心とする王朝左派もに約一〇〇議席を獲得したため政治は再び流動化し始めた。ブロイ内閣は同年七月二八日(七月革命記念日)にコルシカ人フィエスキGiuseppe Fieschiが起こした国王暗殺未遂事件を機に強権的な政治を展開するようになり、九月には新聞など出版物に対する検閲制度を強化した。ところが、こうした重苦しい空気の中で翌三六年二月二二日に権力を手中に収めたのが中道左派のティエールである。ジャーナリスト出身の彼は世論の動向を察知するのに長け、内乱発生に苦しむスペイン政府の支援要請を自らの権力基盤の拡大に利用しようとした。彼はイギリスと結んでスペインへの軍事介入を模索したが、ルイ・フィリップ王は大陸諸国の反発を怖れて反対し、九月にはティエールを辞職に追い込んだ。その結果、議会に基盤を持たないモレ伯Moléを首班とする内閣(在任一八三六~三九)が成立し、それ以後は国王の傀儡政府とそれに協賛する官吏議員による議会政治が続いた。ルイ・フィリップ王は、この頃から自らを玉座に就けたラフィットらよりも、産業資本家やロチルド家Rothschild(英語名ロスチャイルド家、註⑦)に代表される「オートバンク」Haute Banqueを重視するようになっていく。
 一方、ギゾーやティエール、オディロン・バロ等は反政府勢力を糾合して「連合」coalitionを結成し、三九年三月の総選挙では野党連合が二四〇議席を占めて政府派二〇〇議席を圧倒した。同年五月一二日、スールト内閣(在任一八三九~四〇)が成立したその日に社会主義者ブランキLouis Auguste Blanquiを中心とする秘密結社「季節社」がパリ市庁舎や警視庁を襲撃し、共和派による選挙法改正運動も勢いづいた。こうした混乱に加えて経済不況が追い打ちをかけ、ブルジョワジーの間には安定政権を待望する気運が一気に広がった。ティエールはこの機を逃さず、英国流の「君臨すれども統治せず」という自説を展開して野党共闘を実現して王室に圧力を加えたため、三月一日、ルイ・フィリップ王はやむなく第二次ティエール内閣(在任一八四〇)を容認した。ティエールは前回と同じ轍を踏まないようにするには世論を味方につける必要があると判断し、国民の間に根強く残る〈ナポレオン崇拝〉熱を利用しようとした。一八二三年末にラス・カーズLas Cases著『セント・ヘレナ回想録』が出版され、ナポレオン熱に火が付いていたのである。ナポレオン一四は回想録の中で革命の守護者として描かれ、民衆の間には軍事的栄光を体現した軍人としてはもとより、愛国的且つ左翼的な革命推進者というナポレオン像が流布していた。ティエールはウィリアム・ラム英首相と交渉してナポレオン一世の遺骸の返還を実現し、レミュザ内相Rémusatが遺骸の帰還を公表した四〇年五月一二日、「わが国の正統な君主であった」と述べて公式に名誉回復をさせている。もちろんルイ・フィリップ王はナポレオン崇拝の広がりを危惧してもいたが、王太子オルレアン公に説得されて遺骸の帰還を受け入れている。それというのも当時はボナパルト派の代議院議員が皆無だったし、ナポレオン一世の嫡男ライヒシュタット公フランツFranz, Herzog von Reichstadt(ナポレオン二世Napoléon II)が没した三二年の後は、ルイ・ナポレオン(ナポレオン一世の弟ルイ・ボナパルトの三男)が帝位継承者として名乗りを上げてストラスブール(三六年一〇月三〇日)やブーローニュ(四〇年八月六日)で蜂起したものの、いずれも失敗に終わっていたからである。逮捕されたルイ・ナポレオンが終身禁錮重労働を宣告されて北フランスのアム要塞に収監された一〇月頃、セント・ヘレナ島ではナポレオン一世の遺骸発掘が行われた。一一月三〇日、遺骸を乗せた軍艦はノルマンディ地方のシェルブール港に入り、そこで川船に移し替えてセーヌ川を遡航し、一二月一五日未明、パリ北西郊の河港クールブヴォワへと到着した。その日は朝九時から葬送行進が始まり、金色の衣で飾られた一六頭の黒馬が並列四頭立てで霊柩車を曳き、エトワール凱旋門からシャンゼリゼ通りをコンコルド広場まで下り、午後二時にはアンヴァリッド舘へと辿り着いた。そして、遺骸の納めされた柩はパリ大司教やルイ・フィリップ王の聖水撒布を受けてドーム教会内に安置されたのである(註⑧)。
 ところが、第二次ティエール内閣は外交問題で躓き、ナポレオン移葬の少し前に斃れている。一八三九年六月二四日、オスマン帝国とエジプトとの間に勃発した第二次エジプト・トルコ戦争(一八三九~四〇年)は、エジプト総督ムハンマド=アリーが前回に続いて勝利を収めたのに対して、英仏露三国はオスマン帝国の解体を狙って介入したが、列強は一枚岩ではなかった。そして四〇年、ロンドン会議においてエジプトを支持したティエール政権は、イギリスの所謂「パーマストン外交」(英外相パーマストン子爵ヘンリー・ジョン・テンプル)に圧倒されてしまう。七月一五日、英露普墺四国はムハンマド=アリーに対してエジプト・スーダンにおける世襲支配権を認める代償としてシリアを放棄させる「四国ロンドン協定」を締結し、フランスは深刻な孤立状態に陥った。一方、ロシア艦隊もボスフォラス・ダーダネルス両海峡の自由通航権を盛り込んだウンキャル・スケレッシ条約(一八三三年)を破棄され、外国船の通航は全面禁止となった。翌四一年、フランスも参加して「五国ロンドン協定」(国際海峡議定書)が締結され、仏露両国はともに東地中海・中近東への進出を阻止されたのであった。
 一八四〇年一〇月二九日、再びスールト内閣(在任一八四〇~四七)が発足した。この内閣の首班はスールト元帥だったが、実権を握っていたのは純理派のギゾー外相であり、閣僚のほとんどは純理派と中道右派に属していた。この所謂「スールト=ギゾー内閣」は対外的には平和、国内においては秩序維持を標榜する政治的・社会的保守主義を掲げたが、四二年七月の総選挙でも政権与党が反対派を約七〇議席上回る程度しか確保できず、不安定な政権運営が続いた。そこでギゾーはルイ・フィリップ王に急接近し、国政における指導的役割を認めることで王室の支援を仰ぐことにした。その結果、四六年八月の総選挙では好況も手伝って与党議員が二九一名も当選し、反対派議員一六八名を圧倒した。しかし、この選挙は反政府派に対して議会制度や選挙制度の不合理を強く認識させ、彼らによる政治改革運動を活性化させる結果となった。何故なら、当時は代議士が俸給を国家から受け取る〈官吏〉を兼ねることが出来たために官吏ポストが政府による多数派工作に利用され、極端な制限選挙制の下で代議士の七割以上が四〇〇票足らず(極端な例は一〇〇票未満)で当選し、港湾関係の公共事業や鉄道・郵便・道路の問題が話題となる利益誘導型選挙となるなど政権与党に有利な側面が顕在化していたからである。註⑨

註① ブルボン復古王政期の大土地所有者は専ら保護関税による穀物価格の高値維持に腐心したが、政 府は彼らの要請を受けて一八一九年・二一年には輸入穀物の低価格化と連動して高関税を課し、場合 によっては輸入禁止措置をとっている。また、こうした保護関税政策は産業革命で頭角を現しつつあ った産業資本家にとっても重要であり、外国産の原材料や工業製品の輸入に高関税を課し、一八二〇 年・二二年に制定された法令では肩掛けやカシミヤ織、インド絹布を輸入禁止としている。
註② 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」(『世界各国史2 フランス史』所収第六論文、山川出版社)三四一~三五七頁、服部春彦「フランス復古王政・七月王政」(岩波講座『世界歴史19近代6』所収第二論文、岩波書店)三三~五〇頁、上垣豊「立憲王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第一〇論文、山川出版社)四五七~四六三頁、岡田信弘「フランス選挙制度史(二)」(『北大法学論集』三〇ー二)一四三~一四九頁各参照。 イゴネP.-B.Higonnetの研究によれば、一八二七~三〇年の代議院は旧貴族が議員全体の四一%を占めていたが、その内訳はユルトラ六三%、与党右派五六%、左派二一%と続いていた。また帝政貴族は議員全体の一〇%を占め、内訳はユルトラ二%、与党右派五%、左派一七%となっている。そしてブルジョワは議員全体の四九%を占め、内訳はユルトラ三六%、与党右派三九%、左派五七%であった。したがって、復古王政期の代議院は未だ旧貴族・帝政貴族主導の議会と言えようが、一方でブルジョワジーが反政府勢 力の中核を担うまでに成長しつつあったことも見て取れる。P.-B.Higonnet , La composition de la Chambre des Deputes de1828 a 1831 ,Revue historique, t.CCXXXIX,avril-juin 1968, p.376.
註③ 赤井彰訳「七月勅令Ordonnances de Juillet」(平凡社『西洋史料集成』・東京法令『世界史資料下』 七八~八〇頁)参照
註④ 七月革命はウィーン体制を大きく揺るがせる結果となった。産業革命が進んでいた南ネーデルラントではオランダ支配からの独立革命(一八三〇~三一年)が起こり、一八三一年立憲王政のベルギー王国が誕生した(ザクセン=コブルク家のレオポルド一世即位)。また、ポーランドやハンガリーの独立運動、イタリア・ドイツの立憲政治を求める運動は、それぞれロシアやオーストリアの介入で挫折したが、ナショナリズムや立憲主義がヨーロッパ共通の課題であることを明確にした。イタリアではカルボナリ党の反乱(一八三〇年)が失敗したが、翌年にはマッツィーニの指導下に「青年イタリア」が結成された。
註⑤ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」三五七~三六二頁、服部春彦前掲論文五〇~五三頁、上垣豊前掲論文四六三~四六五頁、谷川稔「近世国民国家への道」(福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』所収第六論文)二八六~三〇一頁、岡田信弘前掲論文一四九~一五〇頁各参照。
註⑥ 古くからインドのガンジス河口のデルタ地帯に限られていたコレラが、世界的規模の大流行に転 じたのは一八一七年のことである。フランスでの流行は三一年三月のカレーが最初で、翌年三月二六 日にはパリでも死者が確認されている。その後、パリにおける死者は一万八四〇二人にも達したが、 その原因の一つは劣悪な住宅環境に求められる。一八三二年時点のパリには既に高さ一・八メートル、 幅七五~八〇センチの石造地下下水道が総延長一〇七キロに亘って整備されていたが、肝心の水洗ト イレの設置が進まず、下水道は屎尿類を一切受け入れない一般汚水専用下水道だった。ヴィクトル・ ユゴーの名作『レ・ミゼラブル』の主人公ジャン・バルジャンが逃げ込んだ下水道には屎尿類は流れ ていなかったのである。鯖田豊之「西ヨーロッパの日常生活ー住」(講座・比較文化第三巻『西ヨーロ ッパと日本人』所収、研究社)二八一~二八八頁、喜安朗『パリの聖月曜日』(平凡社)八五~一一八頁、 見市雅俊『コレラの世界史』(晶文社)一七九~一八三頁各参照
註⑦ ロチルド家Rothschild(英語読み「ロスチャイルド家」、ドイツ語読み「ロートシルト家」)の歴史は、一八世紀後半フランクフルトのゲットー(ユダヤ人強制居住地区)ghetto出身のマイアー・アムシェル・ロートシルトMayer Amschel Rothschildがヘッセン=カッセル方伯家の宮廷御用商に任ぜられたことに始まる。彼の五人の息子が、フランクフルト(長男アムシェル Amschel Mayer Freiherr von Rothschild)、ウィーン(次男ザロモンSalomon Meyer Freiherr von Rothschild)、ロンドン(三男ネイサンNathan Mayer Rothschild)、ナポリ(四男カールCarl Mayer von Rothschild)、パリ(五男ジェームスLe baron James de Rothschild)に分かれてそれぞれ商業銀行業を発展させた。一九〇一年にフランクフルト家とナポリ家、三八年にウィーン家が閉鎖し、現存するのはロンドン家とパリ家だけである。両家は日露戦争に際して日本政府に巨額の貸し付けを行い、関東大震災後の復興融資を通じて日本経済にも深く浸透した。なお、フランスのボルドー・ワインで最高格付けを得ている五大シャトーのうち、ロンドン家のナサニエルNathaniel de Rothschild が一八五三年に購入したシャトー・ムートン・ロチルドChâteau mouton rothschild(一九七三年一級格付け)、パリ家のジェームズが一八六八年に購入したシャトー・ラフィット・ロチルドChâteau Lafite-Rothschild(一八五五年一級格付け)はロチルド家が所有している。横山三四郎『ロスチャイルド家』(講談社現代新書)参照
註⑧ 杉本淑彦『ナポレオン伝説とパリ』(山川出版社)一三五~一四〇頁参照
註⑨ 喜安朗「ブルジョワ王政と市民社会」三六二~三六八頁、服部春彦前掲論文五三~六〇頁、上垣豊前掲論文四六三~四七八頁、谷川稔「近世国民国家への道」(福井憲彦編『新版世界各国史12 フランス史』所収第六論文)二三〇一~三一〇頁、岡田信弘前掲論文一五〇~一五二頁、伊藤満智子「オ ーギュスト・ブランキと七月王政期の共和派運動」(『歴史学研究』三六三号所収)二〇~二一頁各参照。 イゴネの研究によれば、一八三一年~三四年の議会において旧貴族・帝政貴族はそれぞれ一二%にとどまり、七五%を占めたブルジョワ議員が圧倒している。ただし、各議員の職業は官吏(二〇%)・弁護士(一九%)・軍人(一八%)が多いが、それらはいずれも相当規模の土地所有者だったことが判明している。その後、一八四〇年の議会では議員総数四五九名のうち貴族は九二名(二〇%)に減少しており、職業別では官吏(三八%)、地主(三〇%)、自由職業(一九%)、銀行家・大商人・製造業者(一三%)の順であった。またテュデスクA.-J.Tudesqの研究によると、一八四〇年の一〇〇〇フラン以上 の納税者は一万三三一一人でその内訳は地主六五%、官吏一二%、大商人一一%、自由職業六%、工業家五%であるが、官吏と自由職業従事者の多くは地主であり、大商人や工業家も大土地所有者ゆえに高額納税者となっていた。また同年、五〇〇〇フラン以上の高額納税者五一二人のうち二三八人が、そして一万フラン以上の納税者五八人のうち三九人がいずれも貴族であった。したがって、七月王政期を通して国政を左右していた階層は未だ貴族=大土地所有者だったことは明らかである。A.-J.Tudesq, Les grands notables en France,pp.94-97.

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ナポレオン戦争と国民意識の覚醒

一 コルシカ独立運動の挫折                         
ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparte(一七六九~一八二一)は、一七六九年八月一五日、地中海に浮かぶコルシカ島で小貴族ボナパルト家の次男として誕生した。コルシカ島はナポレオン誕生の前年まではジェノヴァ共和国の領土だったから、少し前なら彼はイタリア人だったわけである。父親カルロ・ボナパルトCarlo Maria di Buonaparte(シャルル・ボナパルトCharles Marie de Bonaparte、一七四六~八五)は一七二九年に勃発したコルシカ独立運動(コルシカ革命)に身を捧げた闘士だったが、一七六八年、ジェノヴァがコルシカ島をフランス王国へ売却したことでボナパルト家に大きな変化が訪れる。翌六九年、圧倒的なフランス軍の力によってコルシカ独立運動はねじ伏せられ、指導者パスカル・パオリPascal Paoliはイギリスへと亡命した。その一方で、ナポレオンの父親カルロは仏軍に帰順して一七七一年には首尾良く島の中心都市アジャクシオの王立裁判所判事に任じられ、その後はフランス貴族としても追認された。カルロとその妻レティツァMaria Letizia Bonaparte(一七五〇~一八三六)には、長男ジョゼフJoseph(一七六八~一八四四)を筆頭に八人の子宝が恵まれている。
 さて一七七九年、当時九歳のナポレオン少年は親元を離れて、シャンパーニュ地方のブリエンヌ王立幼年兵学校に入学し、五年半を過ごしている。孤独な寄宿舎暮らしの中でナポレオンを慰めたのは歴史書だった。やがて一七八四年一〇月、一五歳に成長したナポレオンはパリの士官学校へと進学し、兵種は当時の花形だった騎兵ではなく砲兵を選択している。その理由としては、数学が得意だったことが考えられ、後に砲兵将校として活躍する素地となった。地方の小貴族の生まれであるナポレオンは、パリでの暮らしに必ずしも馴染めなかったが、翌年二月の父カルロの病死はそれに追い打ちをかけた。ボナパルト家は収入の柱を失い、ナポレオン自身も任官を急ぐ必要に迫られた。ナポレオンの卒業時の成績は卒業生五八人の中で四二番だったというが、普通は四年程度かかる卒業をわずか一一カ月でなしとげた訳だから、優秀な学生だったはずである。 
 一七八五年一一月、一六歳のナポレオンは、リヨンから一〇〇キロほど南の都市ヴァランスにある砲兵連隊に少尉として着任した。しかし、父の死で家計が成り立たなくなったボナパルト家を手助けするために、ナポレオンは再三帰郷している。一七八八年六月、ナポレオンはオーソンヌ(ブルゴーニュ地方)に移動していた原隊に復帰したが、約一年後の八九年七月にフランス革命が勃発し、一九日、オーソンヌでも民衆蜂起が発生した。その時、コルシカ島に戻っていた兄ジョゼフ宛ての手紙の冒頭で「農民と下層民たちは、首都にならって、ありとあらゆる破壊行為を犯しました」と書いている。この文章から窺えることは、ナポレオンはこの時すでに都市民衆や農民たち側の人間ではなかったと言うことである。同年九月、ナポレオンは三度休暇届を提出してコルシカ島へ帰っているが、一一月には憲法制定国民議会においてコルシカ島民も同じ憲法の下で統治されるべきとの決議がなされた。その結果、コルシカ島においても封建的特権が廃止され、島の行政も従来の本土出身の官吏に代わってコルシカ人が担うようになった。そして一七九〇年七月、亡命先から戻ったパスカル・パオリは国民衛兵隊の県総司令官に、次いでコルシカ県行政府首長に選出されている。
 一七九一年一月、ナポレオンはオーソンヌの兵営に戻り、六月には所属部隊とともにヴァランスへ移動した。国王ルイ一六世一家のヴァレンヌ事件が起きたこの月、ナポレオンは上級の貴族士官が大量に亡命したお陰で特別な軍功もなしに中尉に昇進した。同年九月三日、「一七九一年憲法」(九月一四日公布)の成立で立法議会を中心とする立憲王政(九一年体制)がようやく動き出した頃、ナポレオンは再びコルシカ島に渡っている。それというのも、コルシカ島で反革命派が失地回復を遂げ、パスカル・パオリらが窮地に追い込まれていたからである。そのような状況のなか、一七九二年四月に国民衛兵隊現場指揮官の選挙が行われ、島民感情に理解を示すパオリ派に対抗して立候補したナポレオンは、アジャクシオ第二大隊(全島で四大隊)の副隊長に選出された。ところが、当選まもない四月八日(復活祭)、「聖職者民事基本法」反対デモを行った島民とその警備に当たった国民衛兵隊とが衝突し、デモ隊側に死傷者が出る事態となった。ナポレオンは現場にはいなかったが、ボナパルト家に不満を抱く島民たちから糾弾され、翌五月にはフランス本土へ戻らざるを得なかった。
ヴァランスの砲兵連隊に復帰したナポレオンは、翌七月には大尉に昇進した。しかし、ナポレオンがコルシカ島へ行っている間に、国民公会のジロンド派政権は対墺宣戦(四月二〇日)を発して革命戦争に突入していた。前線では敗北が続き、六月二〇日にはパリ市内のいくつかの国民衛兵大隊を中心とする民衆が武装蜂起(六月二〇日事件)して、立法議会と国王に請願するという過激な行動に出た。ナポレオンは、六月二二日の兄ジョゼフ宛ての手紙の中で「ジャコバン・クラブ員どもは常識のない気違いです」と書いており、ここでもナポレオンの心は蜂起した民衆側にはいない。しかし、革命は進む。八月九日夜半から翌一〇日にかけて、国民衛兵大隊やマルセイユ、ブレストの連盟兵を中心とする蜂起部隊が国王一家の住むテュイルリ宮殿を包囲してスイス衛兵と衝突し、多数の死傷者をだす凄惨な殺戮戦となった。この「八月一〇日事件」で捕らえられた王室の人々はそれぞれタンプル塔に幽閉された。九月に入って仏軍がようやくプロイセン軍に勝利を収めたヴァルミーValmyの戦い(九月二〇日)の翌日、ヨーロッパ初の男性普通選挙を経て、国民公会が召集された。ジロンド派が主導したこの議会では王政廃止が決議され、翌二一日の共和制宣言によってフランス史上初の共和政治(第一共和政、一七九二~一八〇四年)が実現している。
翌九三年一月二一日、パリの革命広場で国王ルイ一六世の公開処刑が行われ、二月一日にはイギリス、オランダに対する宣戦布告によって革命戦争が拡大した。仏軍はすでに前年からサルディーニャ王国に侵攻しており、一七九二年一一月にサヴォイア、翌九三年一月にニースをそれぞれ併合し、二月にはコルシカ島の真南に位置するサルディーニャ島へと攻め込んでいる。それに対して、イギリスをはじめとする周辺諸国はフランス国内に拡散している革命思想の過激さにおののくと同時に、その対外侵略の速さに危機感を高めて第一回対仏大同盟(一七九三~九七年)を結成した。そうしたフランス革命の動向に危機意識を募らせていた一人に、コルシカ島のパスカル・パオリがいた。彼は共和政治を良しとせず、サルディーニャ侵攻にも警戒心を抱いていた。一方、一七九二年一〇月にコルシカ島に帰ったナポレオンは、アジャクシオ国民衛兵大隊を率いて翌年二月のサルディーニャ攻撃に参加している。この遠征は仏軍優勢のうちに推移していたが、勝利を目前にしてパスカル・パオリの甥にあたる遠征軍司令官セザリの命令で突然、撤退した。この撤退命令によってナポレオンとパスカル・パオリとは決裂し、四月二日、国民公会はパスカル・パオリをパリに召喚した。ところが五月に入って、国民公会の決定に反発したパオリ派の島民たちが蜂起し、ボナパルト家を襲撃している。ナポレオンは母や兄弟姉妹とともに島内を這々の体で逃げ惑い、六月になってようやく島を脱出する有様であった。こうして、彼のコルシカ島に対する熱い思いは無残にも打ち砕かれ、政治意識を大きく転換させる契機となった。註① 
 
二 軍事独裁政権の成立
一七九三年六月、 ジャコバン独裁(革命独裁)の開始という激変の中で、ナポレオンは家族とともにマルセイユに居を構えた。当時、イタリア方面軍は墺=サルディーニャ連合軍と戦闘中だったが、ナポレオンは兵器輸送の任務に就き、ほどなくして軍隊内で頭角を現すことに成功する。それは、七月末に執筆し山岳派の有力者に贈った小冊子『ボケールの夜食』にマクシミリアン・ロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierreの弟で国民公会議員だったオーギュスタン・ロベスピエールAugustin Bon Joseph de Robespierreが注目したからである。同年六月二日、パリの民衆約八万人が蜂起して国民公会を包囲したとき、山岳派はジロンド派幹部二九名と大臣二名を逮捕し、自宅監禁に処した。しかし、ジロンド派幹部の多くはパリを抜け出してリヨンやボルドー、マルセイユ、トゥーロンなどに逃れ、パリ=山岳派に対する抵抗組織を結成した。地中海の海港都市トゥーロンでも六月以来、ジロンド派・王党派連合勢力による支配が始まり、八月二六日には彼らの手引きでイギリス=スペイン連合艦隊が入港し、王党派による「ルイ一七世万歳」宣言がおこなわれる事態となった。この危機を乗り越えるため、オーギュスタン・ロベスピエールはナポレオンを砲兵隊指揮官としてトゥーロンへ派遣し、少佐に昇進させて事態打開を図った。ナポレオンを中心とする仏軍は、一二月一七日夜から翌朝にかけてイギリス軍が陣取るエギュエット岬を攻撃し、形勢不利を悟った英=西連合艦隊は港から逃げ出した。こうして仏軍は一九日にはトゥーロンを回復し、ジロンド派や王党派を公開処刑に処した。ナポレオンはトゥーロン砲撃戦での活躍で三階級特進の准将(旅団長)となり、翌九四年二月にはイタリア方面軍砲兵隊司令官に任命されている。
ところが、山岳派による革命政府の内部では、最高価格法による物価統制の是非など多くの施策をめぐって激しい論争が起こり、混迷の度を深めていた。山岳派を含むすべての国民公会議員、そしてその背後にいるブルジョワや農民層は〈自由経済〉の死守を掲げていたが、都市の民衆は生活必需品全ての最高価格を定める〈統制経済〉を要求した。その時、マクシミリアン・ロベスピエールを中心とした革命政府は、トゥーロン砲撃が開始された一七日に「反革命容疑者法」を決議し、二九日には穀物・穀粉に限定されていた「最高価格法」(五月四日)を日用必需品すべてに拡大し、同時に一七九〇年の生活必需品と賃金を基準としてそれより三分の一と二分の一高い値に最高価格と最高賃金を設定する「総最高価格法」に発展させた。その結果、ロベスピエール派はブルジョワ・農民・民衆の全てを敵に回すことになり、自らの施策に反対する人々を反革命派として次々に粛清・処刑を繰り返した。極点に達した恐怖政治は全国各地に拡散し、反革命容疑者として収監された者は約五〇万人と言われ、革命裁判所で死刑判決を受けたのは一万六五九四人、死者総数は約三・五~四万人に達した。
その間、ナポレオンはオーギュスタン・ロベスピエールからフランソワ・アンリオFrançois Hanriotに代わってパリ市国民衛兵隊司令官に就任するよう要請されたが、革命独裁の動向を慎重に見極めようとして鄭重に断っている。翌九四年七月二七日、ナポレオンが危惧したように反ロベスピエール派による「テルミドールの反動」が起こり、二八日以降にはロベスピエール兄弟やフランソワ・アンリオらの処刑が続いた。こうして辛うじて断頭台を免れたナポレオンではあったが、オーギュスタン・ロベスピエールの庇護を受けていたという経歴が仇となり、八月九日、ニースで逮捕された。そして一〇日後には釈放されたものの、さらに一カ月間の禁足令に従わなければならなかった。その後、ナポレオンは軍務への復帰を申し出たが、提示されたのは反乱が続くヴァンデー地方の、それも歩兵旅団長であった。このポストを拒否したナポレオンは、約一年間の予備役暮らしを強いられた。翌年八月には生活費を稼ぐためにパリの戦争省測地局に職を得たが、不遇の彼に手を差し伸べたのが総裁ポール・バラスPaul Barras であった。
その当時、フランス国内では熱月派(テルミドーリアン)が総最高価格法の廃止(一七九四年一二月二四日)、聖職者民事基本法の撤廃(一七九五年二月二一日)など行き過ぎた改革の抑制に躍起となっており、ブルジョワ的秩序の確立を目指して「一七九五年憲法」(共和暦第三年憲法)の制定を急いでいた。ところが、仏軍による墺領ベルギーの占領に反対した王党派の集会が「ヴァンデミエール一三日のクーデター」(一〇月五日)に発展したとき、国内軍総司令官ポール・バラスはナポレオンを副官に据えて現場の指揮を執らせた。王党派約二万五〇〇〇人は国民公会がおかれていたテュイルリ宮殿やその隣のルーヴル宮殿に押しかけたが、ナポレオンが指揮した政府軍約五〇〇〇人は大砲四〇門を駆使して鎮圧に成功した。ナポレオンはこの功績で准将から少将へと昇進し、まもなくポール・バラスの後任として国内軍総司令官に就任した。
一七九五年八月二二日、国民公会で憲法草案が採択され、一〇月二七日には施行の運びとなった。また、民衆の台頭を抑えるために制限選挙制に戻して、五百人会と元老院による二院制議会を成立させ、一〇月三一日、前者が提出した総裁候補者リストから後者が選抜する方法で総裁政府(一七九五~九九年)が発足した。そして五名の総裁の一人として就任したのがポール・バラスである。彼はフランス革命中にマルセイユやトゥーロンの住民数百人を処刑して財産を没収し、公金横領の疑いで革命政府から召還された経歴を持つ。しかし、「テルミドールの反動」の時は、国民公会側兵士を率いて市庁舎を襲撃する活躍で熱月派の有力者にのし上がることに成功した。このようにポール・バラスは典型的な俗物であるが、ナポレオンはこの男と繋がりができたことで、後に妻となるジョゼフィーヌJoséphine de Beauharnais(一七六三~一八一四)を知ることになった。それは当時、総裁ポール・バラスの愛人となっていたジョゼフィーヌが、亡き夫アレクサンドル・ド・ボアルネAlexandre de Beauharnais(一七六〇~九四)との間に生まれた長男ウジェーヌEugène Rose de Beauharnais(一七八一~一八二四)を陸軍省へ遣いに出し、夫の遺品を受け取らせたことに始まる。彼女はそのお礼の挨拶に出かけてナポレオンに遭遇したわけである。急速に接近した二人は愛を育み、一七九六年三月九日、無宗教の結婚式を挙げた(ナポレオン二七歳、ジョゼフィーヌ三三歳)が、二日後にはイタリア方面軍司令官として出征しなければならなかった。註②
 一七九六年、ナポレオン率いる仏軍四万人は地中海の港町ニースに集結した後、そこから海岸沿いにイタリア半島へ侵攻した(第一回イタリア遠征)。約一年半続いたこの戦役においてナポレオンは墺=サルディーニャ連合軍を撃破することに成功し、サルディーニャ王国との講和(一七九六年四月)を皮切りに、一七九七年二月には教皇庁にトレンティーノTolentino条約を受け入れさせ、同年一〇月一八日、オーストリアとカンポ=フォルミオCampo-Formioの和約を締結した。特にカンポ=フォルミオの和約では墺領ネーデルラント(現在のベルギー)とイオニア諸島を獲得し、併せてオーストリアがヴェネツィア以外には干渉しないと確約したことで第一回対仏大同盟を解散に追い込むことに成功した。また、一七九八年二月一五日には仏軍のローマ占領でトスカーナ地方に逃げていた教皇ピウス六世Pius VI(在位一七七五~九九)を捕らえてローマ共和国(一七九八~一八〇〇年)を建国し、年末にはサルディーニャ王カルロ・エマヌエーレ四世を退位させてピエモンテ地方を獲得している。ナポレオンは、仏軍が現在のオランダの地に建国したバタヴィア共和国(一七九五~一八〇六年)などの先例に倣ってリグーリャ共和国・チザルピーナ共和国など延べ九つの「姉妹共和国」République sœurをイタリアに建て、フランスの一七九五年憲法(共和暦第三年憲法)を付与している。文学者スタンダールStendhalは小説『パルムの僧院』La Chartreuse de Parmeの中でナポレオンをイタリア専制政治からの解放者として描いたが、確かにそうした側面は否定できないものの、姉妹共和国の実態はフランスの従属国そのものであった。註③ 
 気をよくした総裁政府が次に狙いを定めたのはイギリスであった。オーストリアとのカンポ=フォルミオの和約が成立してまもない一〇月二六日、総裁政府はイギリス方面軍を編制し、その総司令官にナポレオンを任命した。翌九八年二月、ナポレオンはイギリス本土上陸作戦を敢行するための準備として英仏海峡沿岸を視察した結果、制海権をイギリスに握られたままでは困難と判断し、遠征の目的地をエジプトへ変更した。何故なら、第一にその当時のイギリスは、第一次産業革命(一七六〇~一八三〇年代)で経済的繁栄を享受し始めていたが、その繁栄の源を絶つためにはインド綿花の輸入ルートに当たるエジプトを抑えることでイギリス・インドの連絡網を遮断する必要があり、最終的にイギリスが持つ制海権の打破も可能ではないかと判断したわけである。そして第二に戦功を挙げることでフランス政界への進出を果たすことができるのではないかと期待したからである。元来、軍人は国王や貴族の命令一つで従軍する存在であったが、すでに配下の軍事力を背景として国家権力に圧力をかけうる勢力に成長していたのである。
 五月一九日早朝、兵士三万七〇〇〇人を載せたフランス艦船四〇〇隻がトゥーロン港を発ち、六月一一日にマルタ騎士団を征服した後、二九日にはアレクサンドリア東方一二キロに位置するアブキール海岸の沖合に姿を現した。フランス艦隊は七月一日に上陸作戦を開始し、オスマン帝国のマムルーク軍団と戦い、瞬く間にアレクサンドリア占領に成功する。そして七月二一日、仏軍はカイロ西郊のナイル川左岸にあるインバーバ村を主戦場とするピラミッドの戦いにも勝利を収め、翌日には先鋒隊がカイロ入城を果たした。ところが、八月一日の夕刻、アブキール湾内に停泊していたフランス艦隊は、突然現れたイギリス海軍の奇襲を受けて混乱する。ネルソン提督率いるイギリス艦隊は翌朝までにフランス艦隊を圧倒し、フランス側に残されたのは小艦船四隻のみであった。しかし、イギリス艦隊には陸上戦の準備がなかったので、その後も陸上では仏軍の支配が続いた。そこでナポレオンは、ムスリム(イスラーム教徒)に信教の自由を保証するなど様々な懐柔策をとったが、早くも一〇月二一日にはカイロで反仏武装蜂起が発生し、フランスとオスマン帝国の対立が激化した。翌九九年一月にはイギリスとオスマン帝国による反仏同盟が成立し、三月には第二回対仏大同盟(一七九九~一八〇二年)に発展する。一月二四日、ナポレオンは機先を制すべく自ら仏軍約一万三〇〇〇人を率いてシリア地方への侵攻を開始し、二六日にガザ入城を果たし、三月三日にはパレスチナ中部のヤッフォ(現在のテルアビブ)を包囲した。その後、三月一九日にはアッコン(アッカ)を包囲したが、イギリス艦隊の補給を受けたアッコン守備隊が頑強に抵抗し続け、ナポレオンは五月一七日付で全軍に撤退命令を発せざるを得なかった。こうしてシリア遠征軍は戦死者約一二〇〇人、傷病者約二三〇〇人、さらにはペストによる死者約一〇〇〇人を出し、戦闘能力を保持したまま帰還できたのは全体の約六割に相当する八〇〇〇人程度であった。
しかし、ナポレオンのエジプト・シリア戦役失敗の原因は、ナポレオンの戦術だけの問題ではない。何故なら、一七九八年に始まる遠征は国家財政の逼迫から十分な兵糧が用意されず、ナポレオンはその多くを現地調達に頼ることになったからである。ラス・カーズLas Casesの『セント・ヘレナ回想録』によれば、先のイタリア戦役中に莫大な賠償金や美術品を奪って五〇〇〇万フランを総裁政府に送ったが、エジプト遠征の戦闘・占領経費はすべてエジプト側の負担で賄われ、行軍の際には都市や村落に対して略奪行為を行っている。ナポレオンはこうした略奪行為を公式には批判し、繰り返し軍紀粛清を訴えている。しかし、エジプト遠征はもともと糧食などの現地調達を想定しており、遠征立案者としてのナポレオンやそれを命じた総裁政府の責任は重い。しかし、窮地に立たされたナポレオンに千載一遇のチャンスが訪れる。一七九九年七月一一日、イギリス艦隊の支援を受けたオスマン帝国軍がアブキール海岸に上陸し、仏軍守備隊を全滅させたからである。この報せを受けたナポレオンは急遽カイロから駆けつけ、二六日の「アブキールの戦い」で圧勝した。その当時、ヨーロッパ大陸における仏軍は英墺露三カ国の攻勢に押されてライン川とアルプス山脈を結ぶラインまで後退し、国家存亡の危機にあった。また、フランス国内では政治的無能さを露呈した総裁政府への不信感が高まり、とりわけブルジョワ(富裕市民)層の間では重税に対する不満が広がっていた。そこでナポレオンはこの危機的状況をエジプト・シリア戦役失敗を帳消しにする絶好の機会と捉えたのである。八月二三日、ナポレオンはアレクサンドリア港を封鎖していたイギリス艦隊が補給のために小型帆船一隻だけを残してキプロス島へ向かった隙を突き、将兵約三〇〇人とともにフリゲート艦二隻と小型帆船二隻に分乗して脱出し、一〇月九日、フレジュス湾上陸に成功した。暗いニュースが続いて意気消沈していたフランス国民は、ナポレオンを「凱旋将軍」として歓喜の声で迎えることとなった。註④
 ナポレオンにとっては起死回生の転機となったこの事件を利用した人物に、総裁アベ・シェイエスEmmanuel-Joseph Sieyès(Abbé Sieyès)がいる。彼はナポレオンやその弟リュシアン・ボナパルト(五百人会議長)Lucien Bonaparte、元外相タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgord、総裁ロジェ・ディコPierre Roger Ducosらと密談を重ね、一七九九年一一月九日、「ブリュメール一八日のクーデター」を決行した。その日の早朝、穏健共和派の議員たちは急進共和派や王党派には招集の連絡をしないまま元老院を開いて議場をパリ郊外のサン=クルー城へと移し、議場警護を名目にナポレオン・ボナパルトをパリ管区師団司令官に任命した。そして同夜のうちにクーデターを支持する穏健共和派議員だけで新憲法制定までの議会休会と臨時政府設置を決定し、リュクサンブール宮殿内にナポレオンとアベ・シェイエス、ロジェ・ディコによる「統領政府」Consulat(一七九九~一八〇四年)が成立した。
 こうして三人の臨時統領とリュシアン・ボナパルトなど五百人会及び元老院の代表からなる委員会で新憲法草案の作成が開始された。しかし、委員会ではまもなく、一人の指導者による強権的政治体制を志向するナポレオンと、寡頭制的行政府にこだわるアベ・シェイエスやリュシアン・ボナパルト等との対立が表面化し、軍隊を後ろ楯にしたナポレオンの意見が通ることになる。一二月一三日に委員会が示した「共和暦第八年憲法」によれば、立法府は護民院Tribunat、立法院Corps législatif、元老院Sénatの三院とし、法律案の発議権を持つ政府には統領のもとで法律案および行政庁の命令案を作成する参事院Conseil d'Étatが設置された。政府によって発議された法案は護民院に通達され、立法院によって可決された後でなければ新法として公布されなかった。しかし、立法府には法案の発議権がないばかりか、護民院は法案の審議はするが表決ができず、立法院は表決はするが審議をする権限を持たなかった。しかも両院議員は、二一歳以上の男性有権者による普通選挙で議員候補者が選抜された後、第一統領に服従的な元老院によって選任されるという手続きを経て選出されるため、民意の反映はほとんど皆無であった。また、軍の指揮権や大臣指名権、外交権など重要権限は第一統領に集中させ、(革命期の憲法と異なり)革命の基本理念を記す人権宣言は削除されている。
こうした政府への権限集中は、ナポレオンの政治的意志が革命期の議会政治を否定し、独裁的政治秩序の確立を目指していることを表しており、一二月一五日、新憲法を国民投票に付すために発表された政府声明『フランス国民へ』は「革命は終わった」という印象的な文章で締めくくられている。そして一二月二五日、正式に統領政府(任期一〇年)が動き出したが、元総裁二人は統領職から外され、独裁者との批判を浴びないように配慮してカンバセレスCambacérèsとルブランLebrunを統領に選任したものの、第一統領にはナポレオン自身が就任している。その後、新憲法は国民投票にかけられたが、内務省発表によると賛成三〇一万票・反対一五六二票という大差で国民の支持を受け、一八〇〇年二月七日付けで追認された。二月一九日、ナポレオンは共和派の批判を無視して旧王宮のテュイルリ宮殿に移り住み、革命の終結を印象づけた。この日、パリの中心街はナポレオンの乗る白馬五頭立ての馬車列を中心に華やかなパレードが繰り広げられ、それ以後、宮殿では毎日のように盛大な宴会や儀式が催され、華やかな宮廷文化が再興された。
 それではなぜフランス国民は、「ブリュメール一八日のクーデター」に始まるナポレオンの強権政治を許したのか。その理由の第一は、フランス革命から断続的に続いたクーデターの連続で民衆の間に政治的な麻痺感覚があったこと、第二に対仏大同盟の攻勢に危機意識を高めた国民の間に強力な軍事政権に対する期待が集まっていたこと、第三にインフレと失業に苦しむ都市民衆の間に現状打破の気運が高まっていたこと、第四に一七九九年四月の議会選挙で急進共和派が議席を増やしたことで、「総動員令」や富裕者向けの「強制公債」発行が決められ、七月一二日には反革命容疑者の親戚を逮捕して財産を没収する「人質法」を可決するなど「経済活動の自由」や私有財産権が危機に瀕していたことなどが考えられる。但し、新憲法はフランスが共和国であることを謳い、国有財産の取得者がその所有権を剥奪されることがないことも定めており、ナポレオンが単なる革命の「死刑執行人」ではなく、アンシャン・レジームを否定する革命の「相続人」でもあることを示している。そしてナポレオンは、民衆運動と関係の深い急進共和派や旧弊を引きずる王党派を嫌い、巧みな情報操作によって国民一般の願望や不安・恐れを利用する「ポピュリズム」populismの政治を展開するとともに、穏健共和派の支持母体であるブルジョワ(富裕市民)層の要望に応える施策を実施していく。例えば一八〇〇年、ナポレオンは総裁政府時代から続いていた振替銀行の拡大・改組を指示し、パリの大銀行家たちによってフランス銀行が設立された。フランス銀行は、当初、銀行券発行や手形割引、預金業務を行う私立銀行だったが、まもなく「一八〇三年四月一四日法」によって銀行券の独占発行権を付与され、名実ともに「中央銀行」としてフランス産業革命の準備を行うのである。なお、革命期からの課題であった財政再建は、徴税機構の中央集権化や中央銀行としてのフランス銀行設立、ジェルミナ・フランの制定(一八〇三年)などによって好転している。註⑤

 三 ナポレオン帝国への道
 一八〇〇年五月六日、ナポレオンは露帝パーヴェル一世を対仏戦争から離脱させるとともに、プロイセン、スウェーデン、デンマークには中立を守るよう確約させたうえで、第二回イタリア遠征へと出発した。これは第一回イタリア遠征で獲得した勢力圏をオーストリアによって奪い取られ、新たにジェノヴァを占領されたからである。サン=ベルナール峠を越えたナポレオン軍は、六月一四日、ピエモンテ地方の小村マレンゴMarengoで墺軍と対峙し、始めは劣勢だったがアントワーヌ・ドゼー将軍Antoine Desaix率いる別働隊の支援を受けて辛うじて勝利を収めることができた。また同年一二月三日、モロー将軍Moreau率いるライン派遣軍がホーエンリンデンHohenlindenの戦いで墺軍に勝利を収めた。その結果、墺軍は翌〇一年一月一五日のトレヴィゾTreviso 休戦条約によってマントヴァとヴェネツィアを除く北イタリアから撤退し、二月九日締結のリュネヴィルLunéville講和条約で四年前に結んだカンポ=フォルミオの和約を再確認してフランスによるライン左岸併合を承認した。また、ナポレオンはトスカーナ大公国・モーデナ公国・パルマ公国を支配することでほぼイタリア全土を保護下におき、ナポリ王国に対してもイギリス船舶の領内入港禁止と仏軍の駐留を認めさせた。こうして一八〇二年一月には「イタリア共和国」(一八〇二~一五年)が建国され、ナポレオンが大統領に、ミラノ貴族フランチェスコ=メルツィが副大統領に就任した。一方、一八〇〇年一〇月一日、ナポレオンはスペイン国王カルロス四世との間にサン・イルデフォンソSan Ildefonsoの和を結び、スペインは(第三国に譲渡しないことを条件に)アメリカ大陸のルイジアナをフランスに割譲してフランスの対外戦争に全面的に協力することを約束し、ナポレオンは翌年、カルロス四世の女婿ルドヴィーコ一世にエトルリア王位を与えた。註⑥
 こうして、フランスの最大の敵国として残ったのがイギリスであった。ところがそのイギリスで、対仏強硬派のウィリアム・ピット内閣から融和派のヘンリ・アディントン内閣に代わる政権交代があり、三月二七日、英仏両国とフランスの同盟国スペイン、バタヴィア共和国の四カ国間でアミアンAmiens条約が締結された。この条約で、イギリスはマルタ島・ケープ植民地(バタヴィア共和国に返還)・エジプトから、そしてフランスはナポリ王国・ローマ教皇領からそれぞれ軍の撤収を約束し、ライン川左岸やイタリアにおけるフランスの優越権が認められた。またエジプトでは、一八〇一年八月に仏軍がイギリス=オスマン帝国連合軍に降伏していたが、そのエジプトから英軍が撤退することはナポレオンにとって大きな収穫であった。註⑦
 さて、アミアン条約締結で束の間の平和を実現したナポレオンは、今度は革命勃発時から続いてきたカトリック教会との対立という問題の解決に乗り出した。マレンゴ会戦後の一八〇〇年六月一八日、信心深いとは到底思えないナポレオンが突然、ミラノ司教座聖堂のミサに出席した。これが教皇庁への接近のサインとなり、翌〇一年七月一六日、教皇ピウス七世Pius VII(在位一八〇〇~二三)との間に宗教協約(コンコルダートconcordat)を結んで関係修復を図った。この協約で、教皇はフランス王国に替わってフランス共和国を正式に承認しただけでなく、革命期に没収された教会財産の返還要求を行わないことを認めた。そして、第一統領ナポレオンは国内の司教を任命する権限を有し、司教は政府の同意を得て司祭を任命するが、その際にはそれぞれフランス国家への忠誠宣誓が求められた。その見返りとして聖職者は国家から俸給を支給される存在であることも確定した。こうしてローマ=カトリック教が国教に準ずる宗教となることで国民の宗教感情を満足させ、同時にカトリック教会は国家に服従する組織となった。すなわち、聖職者民事基本法の制定に始まる教会との対立に終止符が打たれ、王党派の地盤を崩すことにも成功したのである。コンコルダートが締結されて最初の復活祭にあたる一八〇二年四月一八日、宗教協約の公告がなされ、革命期にパリ民衆に破損されてワイン倉庫に転用されていたパリ司教座聖堂(ノートルダム大聖堂)において開催された式典にはナポレオン夫妻の姿もあった。註⑧
 アミアン条約と宗教協約の締結はナポレオンを終身第一統領に押し上げ(一八〇二年八月二日)、八月四日には「共和暦第一〇年憲法」が成立した。また一八〇四年三月二一日に公布された「フランス人の民法典」Code civil des Français(一八〇七年九月三日、ベルギー、ライン左岸地方、オランダ王国にも適用され、「ナポレオン法典」Code Napoléonと改題)は国民の支持をさらに高めた。この法典は身分編・財産編・財産取得編に分かれており、全文二二八一条に書かれた内容は、万人の法の前の平等や個人意思の自由、私的所有権の絶対、家族の尊重などが記載され、フランス革命の精神が息づいていると言われる。しかし、民法典の内容は必ずしも革新的なものとは言えず、時代に逆行する条文も多い。例えば、革命期の一七九二年九月に成立した離婚法では「性格の不一致」を理由として夫婦のいずれか一方からの申し立てで離婚が認められたが、民法典では一方からの離婚申し立ては姦通の場合のみと限定した。また、民法典では既婚女性を法的無能力者と見なして訴訟行為を認めず、夫の協力または書面による同意なしには財産の贈与・譲渡や抵当権の設定もできなかった。そして、民法典は植民地にも適用されたが、あくまでも現地の白人を中心とするフランス国籍取得者にのみ適用された。一七九四年二月四日の国民公会では「プリュヴィオーズ一六日法」が決議され、植民地における奴隷制度の廃止を決定していたが、ナポレオンは「黒いジャコバン」と呼ばれた黒人指導者トゥサン・ルヴェルチュールToussaint Louverture率いるハイティ独立運動を鎮圧するために一八〇一年一二月から翌年二月にかけて仏西連合軍三万人を派遣している。また、一八〇二年五月二〇日には植民地における奴隷制度復活を布告した。註⑨
 さて、一八〇四年五月一八日、ナポレオンを皇帝とし、フランスの政体を「帝政」とする議案が元老院を通過し、一一月には世襲皇帝制の是非を問う国民投票が行われたが、ナポレオンは(投票率こそ約五〇%と低かったが)賛成約三五〇万票、反対二五七九票と圧倒的支持を得た。 そして同年一二月二日、ノートルダム大聖堂で皇帝ナポレオン一世Napoléon I(在位一八〇四~一四、一五)の聖別式(戴冠式)が執り行われた。ナポレオン帝国(第一帝政)の誕生である。聖別式の様子は新古典主義の画家ダヴィドJacques-Louis Davidが描いた絵がルーヴル美術館とヴェルサイユ宮殿に展示されているが、シャルルマーニュ帝の古式に則って行われたことがよく分かる。ただし、聖別式に呼ばれた教皇ピウス七世は灌油を与えただけで、金の月桂冠の戴冠はナポレオン自身が行っており、教皇権に対する皇帝権の完全優位を見事に表している。また、ナポレオン一世は聖別式の三週間後に開かれた議会で「神と国民の意志が私をして玉座に就かせた」と述べているが、君主としての正当性を神の聖別だけでなく国民の意志(同意)にも求めている。そしてまた、彼は、極めて巧妙に中央集権化を進める一方で、言論・出版の統制を強化したが、フランス国民の多くは〈皇帝独裁〉を歓迎したのである。
 ナポレオン一世の治世は久しぶりの安寧秩序を実現した時期であり、ブルジョワは聖職者や亡命貴族の土地を入手して社会的上昇の機会を得た。既に亡命貴族の多くは一八〇二年四月に制定された恩赦法によって帰国を果たし、彼らの旧所領が未だ公売されずに国有地のまま残っている場合は返還され、公売済みの場合でも先買権を与えられていた。そこでナポレオンは、翌月にレジョン・ドヌール勲章を制定して、新たに台頭してきたブルジョワ層に名誉と精神的満足を与えることにした。また一八〇八年三月、ナポレオン一世は旧貴族とは別に新しい貴族として爵位を与える制度を整えた。これは出自による身分階層ではなく、国家への寄与に応じた能力と貢献による階層秩序であると強調して身分的特権を与えることはなかったが、大公・公爵・伯爵・男爵・シュヴァリエChevalier(騎士)の五爵位からなる帝国貴族制度の出現は明らかに平等原理を否定している点に変わりはなかった。一方、都市労働者はストライキの禁止や「労働手帳」の携帯を強制されたが、賃金の上昇や食糧事情の改善に満足して帝政を支持し、中小農民たちは既得権の保護を求めて保守化したのであった。したがって、フランス革命によって出現した「国民国家」ではあったが、第一帝政期のフランスでは未だ「国民」の統合は未成熟であり、ナポレオンの強権政治に対する批判勢力も育っていないと言えよう。
 また、統領政期・第一帝政期の人口動態に注目してみると、現在のフランス本土領域の人口は一八〇一年の二七三五万人から一八一六年の三〇五七万人に急増していることが分かる。この時期は相次ぐ戦争による多数の戦死者を出したが、それにもかかわらず人口が増加した要因は、幼児死亡率の低下や経済の活性化にあると思われる。一方、都市人口はマルセイユ、ボルドー、アンジェ、ブレスト、エクスなど一五都市ではイギリス貿易の途絶や植民地の喪失が原因で減少したが、首都パリやリール、オルレアン、カーン、クレルモンなど八都市は農村部からの流入によって起こる社会増が顕著となった。その当時、政府予算に占める公共事業費が急増し、とりわけパリでは政府と市の財政資金のほかに帝室費と特別税金庫(一八〇五年一〇月設置、一〇年一月「特別公共財産」と改組)から、一八〇〇~一三年の間に合計二億六二〇〇万フランという巨費が投じられ、テュイルリやルーヴルなどの宮殿の改築、エトワールとカルーゼルの両凱旋門、リヴォリ通り、ピラミッド通り、オステルリッツ橋、イエナ橋、マドレーヌ聖堂、証券取引所(現在のユーロネクスト)、ヴァンドーム広場記念碑(アウステルリッツ戦勝記念碑)など壮観な建築物が建てられた。また、シャトレの泉水や街灯の設置、下水道や卸売市場、ウルク運河の建設、ペール・ラシェーズ墓地の整備などがなされたのもこの時代である。建設ラッシュは一八一〇年三月の土地収用法制定でさらに促進され、工業生産力の向上など目覚ましい経済復興はパリをヨーロッパ最大の金融市場へと押し上げた。しかし、パリの経済発展を支えた地方出身者は正規の「労働者手帳」を持たない未熟練労働者が多く、不安定な生活や貧困に喘ぐ人々がほとんどであった。註⑩
 さて、一八〇三年五月一六日にイギリス海軍が自国の港や沖合にあったフランスとバタヴィアの商船を拿捕したことが原因で、英仏両国は再び戦闘状態に入った。そして翌〇四年五月一〇日、イギリスでは対仏強硬派のウィリアム・ピット内閣が復活し、一八〇五年八月九日には英露墺三カ国による第三回対仏大同盟が結成された(一カ月後にナポリ王国も参加)。危機感を抱いたナポレオン一世はイギリス本土上陸作戦を立て、英仏海峡を望むブーローニュに軍事基地を建設して総勢五〇万人にも及ぶ大陸軍を編制した。フランス革命の原理と成果の「相続人」として皇帝の座に就いたナポレオン一世ではあったが、彼にとっては「一七九一年憲法」に定められた侵略戦争放棄という理念は全く無縁のものでしかなかった。こうしてフランスの兵員適齢年齢男性の約三割が軍務に就くようになり、一八〇五年四月には一八~二〇万人の兵士がブーローニュに集結した。ナポレオン一世はイギリス上陸と対オーストリアの両面作戦を発動したが、英仏海峡の制海権を握るために派遣した仏西連合艦隊(三三隻)は、一〇月二一日、トラファルガル沖Trafalgarの海戦でまたしてもネルソン提督率いるイギリス艦隊(二七隻)に敗れてしまう。註⑪ 
 その間、ナポレオン一世は五月二六日、イタリア共和国を改めた「イタリア王国」(一八〇五~一四年)の王座に就き、副王としてはボアルネ公(ウジェーヌ・ボアルネ)を据えて大陸覇権に自信を深めていた。ところが、トラファルガル沖海戦の惨敗でオーストリアの動向に不安を抱いたナポレオン一世は軍を進め、一〇月一七日、バイエルン公国に侵攻してきた墺軍をシュトゥットガルト近郊のウルムUlmで破り、一一月一三日にはウィーン入城を果たした。そこで墺帝フランツ一世(神聖ローマ皇帝フランツ二世)はモラヴィアへと逃避し、露帝アレクサンドル一世とミハイル・クトゥーゾフが率いていた露軍と合流して態勢を立て直した。一二月二日、仏軍と露墺同盟軍はブルノ近郊のアウステルリッツAusterlitzで相まみえ、戦力的に不利だった仏軍が勝利を収める結果となった。こうして一二月二六日、プレスブルクPresbourg(現在はスロヴァキアの首都ブラチスラヴァ)の和約が成立し、フランスはオーストリアから旧ヴェネツィア領東部諸州やイストリア、ダルマティアを奪い、ヴェネツィアをイタリア王国に併合して第三回対仏大同盟を解散に追い込んでいる。その当時のフランスでは、巨大な軍隊の経費(一八〇三~〇五年の軍事費六億三〇〇〇万フラン)が国家財政を圧迫し、フランス銀行の準備金減少から金融不安を引き起こし始めていたが、オーストリアから獲得した五〇〇〇フローリンという巨額の賠償金で一息つくことができた。
 翌一八〇六年二月、 ナポレオン一世はナポリ王国の征服にも成功し、三月三〇日にはシチリア島に逃亡したフェルディナンド(ブルボン家)の後継国王として兄ジョゼフ(ジュゼッペ一世Giuseppe I、在位一八〇六~〇八)を即位させた。なお、兄ジョゼフがスペイン王として移った後のナポリ王には、ナポレオン一世の娘婿ジョアシャン・ミュラJoachim Murat-Jordyが継承してジョアッキーノ一世Gioacchino I(在位一八〇八~一五)となる。また、一八〇六年六月二二日には弟ルイLouis Bonaparteもバタヴィア共和国を改組した「オランダ王国」(一八〇六~一〇年)の国王ローデウェイク一世Lodewijk I(在位一八〇六~一〇)として即位し、まさに「ナポレオン帝国」が完成しようとしていた。
 その頃ドイツでは、同年七月に普墺両国を除く全ドイツ諸邦同盟の「ライン同盟」Rheinbund(盟主はナポレオン一世)が成立し、翌月には墺帝フランツ一世が神聖ローマ皇帝位の放棄を行ってオットー一世以来の神聖ローマ帝国(九六二~一八〇六年)が名実ともに消滅した。フランスの覇権が中部ドイツまで及んだことで危機感を高めたプロイセンのフリードリヒ・ヴィルヘルム三世は、七月にまずロシアと同盟を結び、ついで一〇月六日、第四回対仏大同盟(一八〇六~〇七年)を成立させ、九日には対仏宣戦布告を発した。しかし、ナポレオン一世率いる仏軍はバイエルンからザクセン方面へと進撃し、一〇月一四日のイエナ・アウエルシュタットJena und Auerstedtの戦いで大勝利を収めた。同月二五日、首都ベルリンが陥落した後、フリードリヒ・ヴィルヘルム三世は東プロイセンに逃れてケーニヒスベルクKönigsberg(現在はロシアのカリーニングラード)に首都機能を移し、露軍の援軍を仰いだ。翌一八〇七年一月、ケーニヒスベルク攻撃を開始した仏軍は、二月七~八日のアイラウEylauの戦い(現在はロシアのバグラチオノフスク)で普露同盟軍に苦戦を強いられたものの、六月一四日のフリートラントFriedlandの戦いで一方的勝利を収めることに成功した。その結果、七月に入ってネマン川(ニーメン川)沿いの町ティルジットTilsit(現在はロシアのソヴィェツク)で講和が成立した(仏露間は七日、仏普間は九日に締結)。ナポレオン一世はこの条約で将来の対英軍事同盟への参加を期待してロシアには領土の割譲や賠償金を求めなかった。その一方でプロイセンに対しては領土を半減させ、一億二〇〇〇万フランという莫大な賠償金を課した。そして、プロイセンが失った南東部の旧領地にヴェストファーレン王国(一八〇七~一三年)を建国して弟ジェロームJérôme Bonaparteを国王(在位一八〇七~一三)に据え、西部の旧領地には普領ポーランドを独立させてワルシャワ公国(一八〇七~一五年)として、ともにライン同盟に参加させた。こうしてナポレオン一世は中欧及び東欧にも覇権を拡大し、プロイセンの降伏とロシアとの和解成立で第四回対仏同盟は瓦解したのである。
 
 四 ナポレオン帝国の崩壊
 一八〇六年五月、イギリス海軍がアムステルダムなどナポレオン帝国の港湾都市を海上封鎖したのに対して、同年一〇月にベルリン入りを果たしたナポレオン一世は、一一月二一日、イギリスと大陸諸国との間における通商・通信を禁ずる「大陸封鎖令」(ベルリン勅令)を発して反撃に出た。彼の狙いは、 第一次産業革命の最中にあったイギリスを経済的に〈封じ込める〉ことでその繁栄を挫き、大陸諸国にはフランスと貿易をさせることでフランスをヨーロッパ大陸における新たな経済的覇者とすることにあった。翌年一一月二三日と一二月一七日の「ミラノ勅令」でさらに封鎖が強化され、その結果、経済不況に苦しんだイギリスはナポレオン戦争に中立を宣言したアメリカ合衆国と対立して一八一二年には米英戦争(一八一二~一四年)に発展している。
 ところが、大陸封鎖令は大陸諸国にとっても大変迷惑な命令だった。大陸諸国の中で貿易を経済の基盤としていたオランダやスウェーデン、工業が比較的発展していた西南ドイツ諸邦、農業国のロシア、プロイセン、イタリア、スペインなどにとって、イギリスとの貿易が止まることは大打撃であった。特に一八〇四年三月のアギャン公処刑事件以来、反ナポレオン政策を強化したスウェーデン国王グスタフ四世は、大陸封鎖令への参加を拒否した。そこでナポレオン一世は、一八〇七年九~一〇月、露帝アレクサンドル一世とドイツ中央部の町エルフルトで会談し、スウェーデンの属領フィンランドの「自由処分」を約束した。一方、スウェーデンはイギリスとの同盟関係樹立を模索したが、イギリスはそれには応じず、デンマークやロシアとの間で戦端を開いた。そこで露帝アレクサンドル一世はスウェーデンにナポレオン一世との和解を持ちかけたが、グスタフ四世の拒否でロシア・スウェーデン戦争(一八〇八~〇九年)へと突入し、デンマークとフランスもスウェーデンに対して宣戦布告をした。、その結果、戦いに敗れたスウェーデンは、九月一七日、フレデリクスハムンFredrikshamn条約でフィンランドとオーランド諸島の割譲をロシアに認め、翌年一月に結んだパリ条約で大陸封鎖令に従うことを約束した。また同年五月一七日、ナポレオン一世は大陸封鎖令違反を理由に教皇領併合を布告し、教皇ピウス七世は破門で対抗したが七月六日には逮捕されてサヴォナに囚われの身となった(一八一二年、フォンテーヌブロー城に幽閉)。そして、一八一〇年七月にオランダ王国、一二月にはハンブルク、リューベックなどのハンザ都市に加えて従属国の一つであったオルデンブルク公国を併合して最大版図を実現し、「ナポレオン帝国」が完成したのであった。註⑫
 しかし、ナポレオン帝国の完成は、その反動でさまざまな反ナポレオン運動を生み出した。例えば、オーストリアはナポレオン帝国の覇権に挑戦するためにフランスの同盟国バイエルン王国に進軍し、イギリスとともに第五回対仏大同盟(一八〇九年)を結成した。ナポレオン一世は急遽二〇万の大軍で進撃し、五月三日にはウィーンを占領し、アスペルン=エスリング Aspern-Esslingの会戦(五月二一~二二日)では多くの死傷者を出したものの、七月五~六日のワグラムWagramの戦いではイタリア・ポーランド・バイエルンの支援を受けて辛うじて勝利を収めた。一〇月一四日、ウィーンで締結されたシェーンブルンSchönbrunn条約によって、フランスはトリエステとダルマティアを、バイエルン王国はザルツブルクとティロルを、ワルシャワ公国は北部ガルツィアとルブリンをそれぞれ獲得し、参戦していないロシアも東部ガルツィアを得ている。その結果、オーストリアは一時的に内陸国となっただけでなく、陸軍を一五万人に制限され、さらには八五〇〇万フランの賠償金を課せられるなどの屈辱を味わった。また、ナポレオン一世の支配に屈したプロイセンではシュタイン首相、ハルデンベルク首相による「プロイセン改革」(一八〇七~一四年)という〈上からの近代化〉を断行した。註⑬
 一方、ピレネー山脈の向こうでは、スペインの抵抗が半島戦争に発展する。フランス革命以前のスペイン王国ボルボン朝では、国王カルロス四世が宰相マヌエル・ゴドイを登用して仏=ブルボン家との同族利害重視の外交を展開していたが、一七九三年以降は戦争状態が続いた。そして「テルミドールの反動」後は一転して友好関係を維持し、総裁政府との間でバーゼル平和条約(七月二二日)を締結している。しかし、一七九六年八月のサン・イルデフォンソ条約締結で今度はイギリスと戦端を開くことになり、一八〇一年には仏西連合軍としてポルトガル王国ブラガンサ朝への侵攻に発展した。一八〇七年七月、ナポレオン一世は、当時ヨーロッパ大陸側で唯一フランスに服さないポルトガルに対して、大陸封鎖令の遵守とイギリスとの同盟関係の破棄を要求した。そして一〇月には、スペイン宰相ゴドイとの間でポルトガル南端のアルガルヴェと中南部アレンテージョの付与を交換条件としてスペイン領内における仏軍の通過権を要求し、フォンテーヌブローFontainebleau条約(一〇月二七日)として結実した。ナポレオン一世の言質を真に受けたゴドイは、フランスのジュノ将軍Junot率いる仏西連合軍としてポルトガル侵攻を開始したが、ナポレオン一世の真の狙いはポルトガルへの進軍のみならず、スペイン北部・中央部の要衝を抑えることにあった。ようやくそのことに気づいたゴドイは、アランフェス離宮に滞在していた王室を南部へと退避させたが時すでに遅く、三月一七日には反ゴドイ派貴族が扇動する民衆暴動が発生している。その結果、カルロス四世は退位を余儀なくされ、民衆の支持を受けた息子のフェルナンド七世が即位することになった。フェルナンド七世は民衆の熱狂的歓迎のなかで首都マドリード入りを果たしたが、父王カルロス四世が退位宣言を撤回したために深刻な父子対立に発展した。そこで、ナポレオン一世は言葉巧みにスペイン王室の父子をピレネー山脈の麓の町バイヨンヌに呼び出し、マドリードに残っていたフランシスコ・デ・パウラ王子もフランスに移るよう画策した。五月二日朝、宮廷を出発せんとする王子を阻止しようとマドリード市民が蜂起し、それがフランス兵との衝突に発展した(一八〇八~一四年、半島戦争)。宮廷画家ゴヤGoyaの名作『五月三日』は、 翌三日にかけての仏軍による虐殺を描いた作品である。
 その後、ナポレオン一世はカルロス四世・フェルナンド七世の双方に多額の年金と引き換えに退位を強制し、六月四日には自分の兄ジョゼフ(ナポリ王ジュゼッペ一世)を西王ホセ一世José I(在位一八〇八~一三)として即位させ、ボナパルト朝(一八〇八~一三年)を成立させた。しかしながら、スペイン各地に抵抗組織「地区評議会」が結成され、九月には一三の地区評議会を束ねる「中央評議会」に発展した。彼らは七月一九日のバイレンBairénの戦いで仏軍に勝利を収め、ホセ一世をマドリードから追放した。こうした事態に驚いたナポレオン一世は、一〇月一二日のエルフルト協定で「オーストリアがフランスに対して戦争を起こした場合、ロシアはオーストリアに対して敵対する宣言をし、フランスと共通の利益のために手を結ぶ」(仏露協定第一〇条)ことを約束し、後方の安全を確保した気になった。ところが、協定の交渉を委任されていた侍従長タレーランは、ナポレオン一世のヨーロッパ制覇という野望を阻止するためには露墺同盟が不可欠と考えて、協定文の中に「ロシアの対墺軍事行動」という文言を意識的に入れなかった(「タレーランの裏切り」)。また彼は、オーストリア駐仏大使メッテルニヒ(後の墺外相・宰相)に対して、露帝アレクサンドル一世にはオーストリア侵攻の意志がないことも伝えている。そうとも知らずにナポレオン一世は自ら大陸軍を率いてスペインを攻撃し、一二月四日にはマドリードに入った。しかし、タレーランと警察大臣フーシェ Joseph Fouchéの策謀や墺軍の作戦行動を知らされたナポレオン一世は急遽パリに戻り、即刻タレーランを免職に処した。しかし、一八一二年になってロシア遠征の必要から軍隊の一部を引き上げると、ポルトガルに駐屯していた英軍がスペイン領内に進撃を開始し、七月二二日、アラピレス Arapilesの戦いで大勝利を収めた。ホセ一世は宮廷をバリャドリーに遷して反撃を試みたが、スペイン民衆のゲリラ活動や英葡両軍の軍事力の方が上回り、翌年六月末にはフランス国境へと逃れ、スペイン国王の座から退いた。註⑭
 話を、大陸封鎖令まで戻そう。ナポレオン帝国の栄光と挫折の潮目は、一八一一年に突然現れた。その前年、ナポレオン一世がハンザ都市やオルデンブルク公国を併合すると、ロシア帝国内にはフランスへの警戒心が一気に高まり、中立国船舶のロシア入港を許可するとともに、絹織物やワインなどフランス製品に対する関税引き上げを実施した。これは一向に効果の上がらない大陸封鎖の実情を見て取ったロシアの大胆な政策変更を意味していたが、一八〇四年からの対ペルシア戦争や〇六年からの対オスマン帝国との戦争を有利に進めただけでなく、ロシア・スウェーデン戦争(一八〇八~〇九年)に勝利を収めたことで強気に出たとも言える。それに対してナポレオン一世は、対ロシア戦争を意識して一八一一年以降の国家予算の大幅増額を指示し、陸軍省・海軍植民地省の予算は予算総額の六〇パーセントを占めるに至った。ところが、フランス国内ではブルジョワ(富裕市民)層が経済不況に苛立ちを募らせ、都市民衆や農民たちは食糧危機や増税、物価上昇、そして徴兵に苦しんでいた。特に一八一一年から翌年にかけての凶作は庶民の暮らしを直撃し、一八一二年三月、カーンでは食糧暴動が発生している。また、一八〇四年二月に創設された「一括税」(間接税)は翌年段階では総額五三〇〇万フランだったが、増税が続いた結果、一八一〇年には一億四五〇〇万フランにまで達し、一八一一年の歳入予算総額一〇億五六〇〇万フランに占める間接税四億六五〇〇万フラン(登記印紙税一億八九〇〇万フラン・関税一億四八〇〇万フラン・その他一億二八〇〇万フラン)の割合は約四四パーセントに達している。そして、ナポレオン一世は一八一二年二月二四日にプロイセン、そして三月一四日にオーストリアと軍事同盟を締結して対ロシア戦に備え、ロシアも四月七日に「通商の自由」を宣言して「大陸制度」Système continentalからの離脱を表明し、九日にはスウェーデンとの軍事同盟を締結するとともに、五月二八日、ブカレスト講和条約で露土戦争(一八〇六~一二年)を終結させてフランスとの対決姿勢を鮮明にした。
 ナポレオン一世はこうした内外の閉塞状況を打破するためにロシア遠征を決断した。一八一二年五月九日にサン=クルー宮殿を発ったナポレオン一世は、ザクセンの首都ドレスデンに寄った後でワルシャワ公国、プロイセン王国を通過し、ネマン川を渡ってロシア帝国領内へと侵攻した。召集時の大陸軍は、皇帝直属の中央攻撃軍二五万人、ボアルネ公とジェローム・ボナパルトが指揮する前線軍一五万人、遊撃部隊六・七万人、予備軍二二・五万人の総勢約六九万人を超える大軍であった(以下、大陸軍の兵員数は異説が多いので一つの説と理解してほしい)。しかし、その内訳は仏軍が四五万人で、残りの同盟軍はオーストリア、ポーランド、バイエルン、ザクセン、プロイセン、ヴェストファーレン、その他のライン同盟諸邦、イタリア、スペイン、クロアティア、ポルトガル、オランダ、ベルギーからなる混成部隊であった。六月二三日、大陸軍は露領ポーランドへの進軍を開始したが、迎え撃つ露軍約九〇万人を指揮したバルクライ司令官は戦力を温存したまま退却を繰り返す焦土作戦をとり、遊撃隊のコサック騎兵や露軍別働隊が大陸軍の補給線や側背を脅かした。そのため大陸軍は脱落者が相次ぎ、ネマン川を渡るときに四七・五万人、七月のヴィルテブルクで三七・五万人、八月一七日のスモレンスクSmolenskの戦いで一五・五万人、九月七日のボロディノBorodinoの戦いで一三万人と減少し続けた。スモレンスクにおける戦闘後、ロシアの司令官はミハイル・クトゥーゾフに代わったが露軍の焦土作戦に変化は見られなかった。九月一五日、大陸軍一一万人がモスクワ入城を果たした時、その晩のうちに市内各地から火の手が上がり、三日間燃え続ける大火となった。こうして大陸軍は冬を前にロシアの打倒ばかりか食糧・医薬品の入手にも失敗し、一〇月一九日、モスクワからの退却を余儀なくされた時には一〇万人となっていた。その後、一〇月二四日のマロヤロスラヴェツMaloyaroslavetsの戦いでは辛うじて勝利を収めたが、一一月に入ると飢えや寒さ、疾病による死者・脱落者が相次ぎ、脱走兵も急増した。一一月三日のヴャジマで五万人、一一月九日のスモレンスクで三・七万人、一一月二八日のベレジナ川で三万人と兵力が激減し、一二月五日、ナポレオン一世は娘婿ジョアシャン・ミュラ(ナポリ王ジョアッキーノ一世)に後事を託して帰国の途についた。しかし、そのミュラ元帥もナポリ王国を守るためにボアルネ公に部隊を託して脱走し、ネマン川を渡るときの大陸軍は僅か五〇〇〇人の兵士になっていたと言う。
 ナポレオン敗北の報せは瞬く間にヨーロッパ中を駆け巡り、諸国民は一斉に解放戦争(諸国民戦争)Befreiungskriegeに立ち上がった。ナポレオン一世による大陸制覇は侵略者フランスに対する反発から「ナショナリズム」(国民主義・民族主義)nationalismを呼び起こし、各国の民衆間に「国民意識」を植え付け始めたからである。一二月三〇日、プロイセンの将軍ヨルクが独断で露軍に領内通過を認めるタウロッゲンTauroggen協定を結び、プロイセン部隊が大陸軍から離脱したことが明らかとなり、それを契機にベルリンやミュンヘンなど大都市で反ナポレオンを標榜した民衆反乱が発生した。一八一三年二月二二日、プロイセンはロシアとの軍事同盟(カーリッシュKalisch条約)を成立させて旧領の奪回に乗り出し、三月一七日には正式に対仏宣戦布告を発した。
 これに対してナポレオン一世は、新兵を徴募(一月一一日に三五万人、四月三日に一八万人、八月に三万人、一〇月に二八万人の徴兵令布告)して仏軍の再建を急いだ。何故なら、ロシア遠征で多くの戦死者・捕虜・脱走兵を出した仏軍には、スペイン派遣軍を除くと約七万五〇〇〇人の兵力しか残っていなかったからである。しかし、ロシア遠征軍の敗北は、国民の急激な「ナポレオン離れ」を引き起こし、参事会調査官の記録によると約二五万人もの徴兵拒否者がでている。四月一五日、サン=クルー宮殿を出発したナポレオン軍二〇万人はザクセンに入り、リュッツェン Lützenの戦い(五月二日)、バウツェンBautzenの戦い(五月二〇~二一日)において普露同盟軍を敗走させ、六月四日にはオーストリアの仲介で休戦協定を結ぶことに成功した。しかし、その間にもスペインでは、ウェリントン率いる英葡西同盟軍が仏軍を圧倒して北上していた。七月にスウェーデンが、そして休戦期間(~八月一〇日)が終了した八月一二日にはオーストリアも第六回対仏大同盟に参加し、一〇月には長年フランスと同盟関係にあったバイエルン王国が敵側に走った。八月以降、仏軍の劣勢は誰の目にも明らかとなり、一〇月一六~一九日のライプツィヒLeipzigの戦いでは、仏軍一九万人が同盟軍三六万人に包囲攻撃され、戦死者四万人・捕虜三万人を出して敗走した。戦闘最中の一八日にザクセンとヴュルテンベルクが同盟側に寝返ったのに続いて、一一月二日ヘッセン、三日ヴュルテンベルク、二〇日バーデンと相次いで同盟側に参加し、ライン連邦は完全に崩壊した。また、オランダでは仏軍撤退後の一二月二日、イギリスの支援を受けたオラニエ公ウィレム一世がアムステルダムに入城した。そして、スペインでは一〇月八日に仏軍が敗北し、一二月一一日のヴァランセ Valençay条約締結でフェルナンド七世の即位を承認した。
 一方、一一月九日にパリに戻ったナポレオン一世は、一九日、新たに一五万人の徴兵を決めて軍勢の立て直しに着手したが、翌一四年一月には同盟軍がフランス東部に侵攻してきた。同月二五日、ナポレオン一世は兄ジョゼフに首都防衛を任せて、同盟軍をシャンパーニュ地方で迎撃した。ナポレオン軍は最初のうちこそ勝利したが、南方ではウェリントン軍がピレネー山脈を越えてフランスに侵攻し、ボルドーやリヨンが占領された。こうして三月三一日、ついにパリが陥落し、ナポレオン一世はパリ南東のフォンテーヌブロー宮殿に入った。そして、敗戦と国土の荒廃を目の当たりにした国民、とりわけ名望家層の間には皇帝不信と和平待望の気運が急速に広まった。四月一日、元老院はタレーランを首班とする臨時政府の樹立を宣言し、翌日には皇帝廃位を決議した(三日には立法院も皇帝廃位を決議)。それに対してナポレオン一世は、四月三日、近衛部隊にパリ突撃を下知したが、マルモン元帥Marmontなど将軍たちの反対(四月四日、「将軍連の反乱」)に遭い、ついに観念した。六日には退位宣言への署名に追い込まれ、一一日には同盟軍に対して無条件退位を承諾した。ナポレオン一世は得意の絶頂にあった一八〇九年一二月一五日に妻ジョゼフィーヌと正式離婚し、翌一〇年四月一日、墺帝フランツ一世(ハプスブルク家)の娘マリ・ルイーズMaria Louisa(一七九一~一八四七)と再婚していたが、一八一四年三月二九日、フランツ一世の使者を名乗る人物が現れて妻と嫡男(ローマ王ナポレオン二世Napoléon II、一八一一~三二)をウィーンへと連れ去った。 
 すべてを失ったナポレオンは自殺を図ったが未遂に終わり、四月二〇日、フォンテーヌブロー宮殿の「告別の庭」に面した馬蹄形階段の上で兵士たちに別れを告げ、五月四日には故郷コルシカ島に近いエルバ島へと流された。それから間もない五月二九日には、長く連れ添った前妻ジョゼフィーヌが風邪をこじらせてマルメゾン城で亡くなっている。気落ちしたナポレオンは、妻マリ・ルイーズと息子を呼び寄せる手紙を書いた。だが、ウィーンへ戻ってナイペルク伯爵に心を寄せるようになったマリ・ルイーズからの便りが届くことはなかった。九月一日、替わりに来島したのは愛人ヴァレフスカ伯爵夫人マリアMarie Walewska(一七八六~一八一六)とその子アレクサンドルAlexandre(一八一〇~六八)だったが、ナポレオンは三日後には帰している。註⑮
 さて、ナポレオン失脚後のフランスでは、タレーランの働きでブルボン朝が復活し、一八一四年五月三日に亡命先のイギリスから戻ったルイ一八世Louis XVIII(ルイ一六世の弟、在位一八一四~一五、一五~二四)が即位した。そして、一三日に新政府が樹立され、三〇日の第一次パリ講和条約締結でフランスの国境線は一七九二年のそれに戻すことで決着した。また、六月四日の「一八一四年憲章」Charte constitutionnelle de 1814の公布で立憲王政が復活している。しかし、ブルボン復古王朝の成立を歓迎したのはごく一部の旧貴族や王党派だけで、多くの国民は新政府の反動的な政策に幻滅し、軍人や貧困大衆ばかりかブルジョワ層までが反政府側にまわった。
 そして、一八一四年九月一日、ヨーロッパを混乱の渦に巻き込んできたフランス革命、ナポレオン戦争の後始末を相談するウィーン会議がシェーンブルン宮殿において開催される運びとなった。しかし、参加列国の利害が錯綜してなかなか結論を見いだせないでいた翌一五年二月二六日、ナポレオンは兵士約七〇〇人とともに七隻の船に分乗し、エルバ島からの脱出を試みた。三月一日、ゴルフ・ジュアンに上陸したナポレオンは、カンヌのノートルダム・ド・ボンボヤージュ教会に野営した後、ドーフィネの山地を通ってグルノーブルに至る「ナポレオン街道」を経てリヨンに入り、三月二〇日にはパリのテュイルリ宮殿の主となった。当時の新聞の見出しは目まぐるしく変化し、最後はナポレオン歓迎一色と化した。
こうして皇帝に復位したナポレオン一世は、ブルジョワ(富裕市民)層の支持を固めるために革命期に行われた国有地売却の不可侵性を改めて宣言し、それまで仲違いをしていた弟リュシアンの協力を得ながら、議会権限の拡大や思想・出版の自由を認めるなど自由主義的改革を断行した。ナポレオンはパリへの北上の途中、リヨンで帝国憲法改正を表明していたが、四月二四日、自由主義者バンジャマン・コンスタンHenri-Benjamin Constant de Rebecqueが起草した憲法改正案を帝国憲法(一七九九年一二月一三日憲法、一八〇二年八月二日元老院令、一八〇四年五月一八日元老院令)附加法として発表した。附加法によって議会は、皇帝の指名によって選ばれる貴族院と選挙によって選出される衆議院の二院制となり、立法権は皇帝と両院が行使できることになった(但し、法案発議権は政府のみにあり、両院に与えられたのは修正案提出権である)。また、この附加法では法の前の平等、信仰・思想・出版の自由や、封建貴族・封建的諸権利・領主権・教会十分の一税などの復活を認めないとし、国有財産売却の確定を宣言している。しかし、この自由主義憲法に対する名望家たちの反応は冷たく、彼らの気持ちはナポレオンから離れたままであった。六月一日、パリのシャン・ド・マルス公園で新憲法発布の式典が開催され、カンバセレスから「国民投票の結果、帝国憲法附加法が賛成一五三万二五二七票・反対四八〇二票の圧倒的多数で承認された」という報告がなされた。しかし、五月に行われた選挙を受けて六月三日に召集された衆議院議員六二九名のほとんどは名望家たちであり、皇帝に忠誠を誓う議員は三〇名に満たなかったと言われる。一方、四月半ば以降、ナントやレンヌなどブルターニュ地方で起こったフォブール連盟運動は短期間のうちに全国各地に広まった。しかし、革命期を想起させるこの運動は、パリの場合はボナパルト派による中産階級中心の運動であったが、それ以外はジャコバン派が指導する手工業者や労働者の運動であった。都市民衆の政治運動に恐怖心や嫌悪感を抱いていたナポレオン一世は、フォブール連盟運動に肩入れすることを避けて名望家層に接近するが、もはやかつての権威やカリスマ性は色あせ、統治能力の脆弱性は隠しようがなかった。
 一方、ナポレオン復権の報せに驚いた英墺普露四カ国は、三月二五日、それぞれ一五万人の兵士の供出、二〇年間にわたる同盟関係の維持を約束したショーモンChaumont条約(一八一四年)を再確認し、フランス国境に約七〇~八〇万人(一説によると六五万)の兵力を集結させた。それに対してナポレオン一世は、六月一二日、第七回対仏大同盟の態勢が整う前にこれを撃破する必要があると判断して出撃した。仏軍の兵力は一二万四〇〇〇人で、迎え撃つウェリントン公アーサー・ウェルズリー(後の首相)率いる英=蘭連合軍が九万五〇〇〇人、ブリュッヘル元帥の普軍が一二万四〇〇〇人であったが、露軍・墺軍は出撃が遅れた。オランダ(今日ではベルギー)におけるシャルルロワCharleroiの戦い(六月一五日)、リニLignyの戦い(六月一六日)では普軍を敗走させることができたが、仏軍も多くの死傷者を出した。そして一八日の正午前に開始されたワーテルローWaterlooの戦いは、仏軍七万四〇〇〇人に対して英=蘭連合軍は六万七〇〇〇人とフランスに有利であったが、夕刻に普軍が加わったことで形勢が逆転し、敗走した仏軍は死傷者三万人、捕虜七五〇〇人を数える惨憺たる結果となった。ヴィクトル・ユーゴーVictor Hugoが著した大河小説『レ・ミゼラブル』Les Misérablesの前半部分は、ワーテルローの戦いの惨さを見事に描いたことで知られる。
 さて、ナポレオン軍の敗北から三日後の二一日、衆議院では声高に皇帝退位が叫ばれ、ナポレオンを擁護する声はほとんど皆無に近かった。翌二二日、皇帝の座から退いたナポレオンは、二五日にマルメゾン城へと移っている。こうしてナポレオン一世の「百日天下」は、あえなく崩壊した。そして、皇帝退位に暗躍した元警察大臣フーシェを首班とする臨時政府が成立し、七月三日には同盟国との間で休戦協定が結ばれて事実上の降伏をした。その後、ナポレオンは普軍の追撃から逃れるためにビスケー湾岸にあるロシュフォール沖の小島へと急いだ。しかし、アメリカへの脱出計画はイギリス巡洋艦ベレロフォン号による海上封鎖で断念に追い込まれ、七月一七日にはイギリス軍艦にその身柄を預けることとなった。ナポレオンは英国のプリマス軍港を経て、八月七日にはノーサンバーランド号に乗せられて大西洋の彼方へと向かった。一〇月一五日、ナポレオンを乗せた軍艦はセント・ヘレナ島の沖合に到着し、翌日からは島での幽閉生活が始まった。彼には側近のグールゴーGourgaud、モントランMontholon、ラス・カーズらが随伴し、ナポレオンの口述筆記を行い、伝記を編纂した。やがて孤独で単調な暮らしはナポレオンの心身を蝕み、一八一八年頃からは頭痛とリウマチ、肝機能障害に悩み、鬱的症状を示すようになる。一八二一年五月五日、ナポレオンはついに亡くなり、亡骸は島に埋葬された(享年五一歳)。医師アントムマルチが遺体を解剖し、死因は胃癌と診断した。一八四〇年一二月五日、彼の遺骸の入った柩は「われ死なば骨をセーヌのほとりに埋めよ、わがかくも愛せしフランス人民に囲まれて憩わんことをこそ」という遺言に基づいて、アンヴァリッドの大ドーム下に安置された。そして、その傍らには最初の妻ジョゼフィーヌが静かに眠っている。註⑯

五 ナポレオンの統治と国民意識
さて、ナポレオン・ボナパルトは、フランス革命、総裁政府、統領政府、第一帝政とそれぞれ特徴のある政治形態の中を駆け抜けてきたが、その統治はどのように評価されるべきか。アルベール・マチエAlbert Mathiez(一八七四~一九三二)は、フランス革命期に「革命独裁」を行ったマクシミリアン・ロベスピエールを私的所有に制限を加えた「社会主義の先駆者」の一人と見なして、ジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvre(一八七四~一九五九)やアルベール・ソブールAlbert Soboul(一九一四~八二)から厳しい批判を浴びた。しかし、そのアルベール・ソブールがナポレオンを「革命の子」、真の啓蒙主義知性の人、啓蒙専制君主であり、彼の独裁は「軍事独裁」ではなく「個人独裁」だと高い評価を下すのに対して素直に首肯できない。何故なら、ロベスピエールが革命の軸足を都市民衆や貧農ではなく、新興ブルジョワ層に置いたように、「テルミドールの反動」後に頭角を現したナポレオンは、「ブルメール一八日のクーデター」という軍事行動によって政権を奪い取り、産業革命の準備をするブルジョワ層の経済力を背景にしつつ、巧みなポピュリズムpopulismで国民大衆の心を捕らえた人物だからである。確かにナポレオンは「フランス民法典」(ナポレオン法典)や帝国憲法附加法など、フランス革命以後の流れに沿って自由・平等を前進させており、その意味に限れば革命の「相続人」と言えよう。しかし、その彼は、革命が樹立した市民的民主主義という政治原理を無視して「軍事独裁」を敷き、共和制を廃して皇帝にまでなっている。したがって、亡命を余儀なくされた自由主義者のスタール夫人Anne Louise Germaine de Staël(一七六六~一八一七)の表現に倣って言えば革命に対する「親殺し」という側面を無視するわけにはいかないのである。
しかし、その責任をナポレオン個人にのみ負わせるのは酷である。何故なら、ナポレオンを皇帝にまで担ぎ上げたのはほかならぬフランス「国民」だからである。例えば、ブルジョワはナポレオンの軍事独裁を容認することで左右両翼からの脅威を免れ、革命戦争の拡大によって広大な市場を確保することが出来た。また、大陸制度と呼ばれる強力な保護政策によってイギリス商品の脅威から守られ、その間にフランス資本主義の基礎を築くことに成功した。一方、当時の農村人口は国家全体の約八五パーセントを占めていたと言われるが、ナポレオンが政権を掌握している間に農民の生活は確実に向上している。ジョルジュ・ルフェーヴルの学位論文『フランス革命下のノール県農民』(一九二四年)によれば、フランス最北部のノール県では、国土の約二〇パーセントを占めていた教会・修道院が消滅し、一七八九年に二二パーセントを占めていた貴族の持分が一八〇二年には一二パーセントに減少したのに対して、ブルジョワは一六パーセントから二八パーセント以上へ、農民は三〇パーセントから四二パーセント以上へと増大しており、ブルジョワと下層農民の双方にこれ以上の変革を望まない「現状肯定」の保守的ムードが広がっている。したがって、国民は戦争経済が破綻し、ブルジョワや都市民衆、農民たちが見限った段階でナポレオン帝国は崩壊したのである。
 ところで、彼が作り上げた軍事独裁体制は、中央集権的な官僚行政機構に支えられていた点にも注目する必要がある。本池立氏によれば、ナポレオンは政権を奪取するとまもなく内務省、警察省、外務省、大蔵省、戦争省、海軍植民地省などを創設し、その後も国税省、戦争行政省、宗教省、工業商業省などを増設して行政機構の拡充に努めている。そして各省は部局・課に分かれ、局長・課長・下級職員などの職階制度が設けられて、職務の責任の所在、命令と服従の体系が明確にされた。また、官吏は地方行政を担う県知事や県庁職員、裁判所や土木建設庁、会計検査院などの判事・技師・職員を含めて約二万五〇〇〇人がいたが、いずれもナポレオンが選任し、高額の俸給・賞与が支給された。ナポレオンは地方制度改革にも着手し、彼によって選任された県知事は、世論監視や徴兵、道路管理などを主たる任務とし、まさに国家元首の代理人として地方に君臨した。また知事が市長を兼ねる首都パリを除いて、人口五〇〇〇人以上の都市には、同じくナポレオンが任免権を持つ市長と助役が置かれた。そして、こうした官吏の多くは革命期の国有地取得者や旧貴族出身者によって占められており、ナポレオンは近代的官僚行政システムを構築するとともにフランスを「名望家中心の社会」に戻したのである。 
最後にナポレオンの統治と国民意識の関係について。フランスは革命を通して国民的統合を実現したが、同時にヨーロッパで最初に「ナショナリズム」(国民主義・民族主義)nationalismに目覚めた国家でもある。その当時、革命の推進者や支持者の間に広がった「革命万歳」という合い言葉は、自由と平等を実現する祖国フランスと自己を同一視する魂の叫びであったが、この「革命的ナショナリズム」とでも呼ぶべき感情は対仏大同盟軍との戦いが続く中で大きく変化する。それは、革命を防衛する名目で始めた戦争(革命戦争)が次第に侵略戦争へと性格を変化させることで、フランス国民のなかにあった革命的理想主義が大きく後退したからである。そして、このナショナリズムの変質を巧みに利用したのがナポレオンである。フランス国民の間には国家存亡の危機を煽る軍事独裁政権に対する厳しい批判の目が失われ、次第に自由・平等を追求する革命精神が希薄になっていく。また、ナポレオンは情報操作を駆使してポピュリズムに基づく政治を展開し、戦勝の栄光を語ることで国民の誇りをかきたて、大国意識を抱かせた。彼が世論操作に絶対的自信を持っていたことは、共和暦第八年憲法や終身第一統領制、世襲皇帝制を国民投票で決めたことで明らかである。国民投票で圧倒的支持を得た最大の理由は、戦勝によって歪められたナショナリズムの異様なまでの高揚感がナポレオンというシンボルに結晶していたことに求められる。すなわち、ナポレオンがフランス革命の正統な後継者であると同時に軍事的独裁者であるという矛盾は、祖国と国民の栄光という形で高められ、歪められたナショナリズムによって隠蔽されたのである。
しかし、フランス国内では軍事独裁の矛盾を隠すのに役だったナショナリズムは、フランス以外のヨーロッパ各国においては征服者ナポレオンに対する抵抗を引き起こす主な要因となった。その理由は、「革命的ナショナリズム」にはヨーロッパ全体に広がる「ユニヴァーサリズム」(普遍主義)universalismという側面もあったからである。そして、この普遍主義こそが本来はナポレオン戦争の大義名分だったはずである。ところが、自由と平等に基づく旧体制からの「解放」と、国民としての「自立」という考えがヨーロッパ各地に広がると、占領軍としてのフランス軍の実態はナポレオン戦争の大義名分から大きく逸脱していることを露呈した。そこで初めてヨーロッパ各地の従属国や対仏同盟国にはナショナリズムに覚醒した人々が現れた。そして、その中心となったのが民衆の武装蜂起から半島戦争に発展したスペインであり、「疾風怒濤」Sturm und Drangを経て民族性と国民意識に目覚めつつあったプロイセンであった。一八一三年、イギリス軍と皇帝・国王の軍隊とで構成されていた対仏大同盟軍に諸国民が参加する所謂「解放戦争」が勃発し、ついには「ナポレオン帝国」という軍事大国を倒したのである。この後、ナポレオンが築き上げた軍事独裁政権や中央集権的な官僚制行政機構は世界各国のモデルとなり、ヨーロッパに拡散したナショナリズムはロマン主義的風潮と結びつきながら、ウィーン体制という保守・反動の時代を突き崩して新しい世界を築く原動力となった。註⑰
 
 註① 杉本淑彦『ナポレオン』(岩波新書)一~二七頁、本池立『ナポレオン 革命と戦争』(世界書院)三~三〇頁各参照
 註② 拙稿「フランス革命と国民国家の関係」(茨城県立水戸第一高等学校『紀要第五六号』所収)一~二二頁、杉本淑彦前掲書二八~四七頁、本池立前掲書三〇~四五頁、松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史2』所収第九論文、山川出版社)三九二~四〇六頁各参照
 註③ 北原敦「十八世紀改革期からナポレオン改革期へ」(山川出版社『世界各国史15イタリア史』所収第八論文)三三三~六五一頁、森田鉄郎・重岡保郎著『世界現代史22イタリア現代史』(山川出版社)六〇~七六頁、杉本淑彦前掲書五一~一二六頁各参照
 註④ 本池立前掲書四五~七二頁参照。
 註⑤ 杉本淑彦前掲書一二八~一三五頁、本池立前掲書四五~七二頁各参照
 註⑥ 本池立前掲書九〇~九二頁参照。
 註⑦ 本池立前掲書九五~九六頁参照。
 註⑧ 杉本淑彦前掲書一四九~一五四頁、本池立前掲書九二~九四頁各参照
 註⑨ 吉田静一「ナポレオン大陸体制」(『岩波講座世界歴史18近代5』所収第八論文、岩波書店)一九一~二三六頁、杉本淑彦前掲書一七一~一七五頁、本池立前掲書一三九~一四二頁各参照
 註⑩ 杉本淑彦前掲書二一六頁、杉本淑彦「ナポレオンとその時代」(杉本淑彦・竹中幸史編著『教養のフランス近現代史』所収第三論文、ミネルヴァ書房)四一~五三頁、福井憲彦「フランス革命とナポレオン帝政」(福井憲彦編『世界各国史12フランス史2』所収第五論文、山川出版社)二七四~二八五頁、本池立「ナポレオン帝国」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第九論文)四〇七~四四一頁各参照。
 註⑪ 本池立前掲書一〇六~一〇八頁参照。
 註⑫ 杉本淑彦前掲書一七五~一九〇、二二三~二二五頁参照。
 註⑬ 阪口修平「自由主義と保守主義」(木村靖二編『世界各国史13ドイツ史』所収第五論文)一七一~一八三頁、本池立前掲書一〇八~一二六頁各参照。
 註⑭ 本池立前掲書一二六~一三三頁、立石博高「アンシャン・レジームの危機と自由主義国家の成立」(立石博高編『世界各国史16スペイン・ポルトガル史』所収第九論文、山川出版社)二〇五~二四一頁、合田昌史「ブルジョワジーの世紀」(立石博高編『世界各国史16スペイン・ポルトガル史』所収第一五論文)四〇九~四三四頁、斉藤孝編『世界現代史23スペイン・ポルトガル現代史』(山川出版社)五五~六二頁各参照。
 註⑮ 杉本淑彦前掲書九二~九四、一六〇~一六七頁、本池立前掲書一三三~一九三頁、倉持俊一「アレクサンドル一世の時代」(田中陽兒・倉持俊一・和田春樹編『世界歴史大系ロシア史2』所収第三論文、山川出版社)一〇七~一三八頁、阪口修平前掲論文一七一~一八三頁各参照
 註⑯ 遅塚忠躬「市民社会の成立」(『世界各国史2フランス史』所収第五論文、山川出版社)三二五~三四〇頁、本池立前掲書一九四~二二八頁・前掲論文四四一~四五五頁、田村秀夫『フランス革命』(中央大学出版部)一七一~二二二頁各参照。
註⑰ 高橋幸八郎「序文」(G・ルフェーヴル著、高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳『一七八九年 フランス革命序論』(岩波文庫)三~二三頁、遅塚忠躬前掲論文三二五~三四〇頁、本池立前掲論文四四一~四五五頁各参照
註⑱ そのほか、この文章を書くに際して次の文献を参考にした。Octave Aubry, LES PAGES IMMORTELLES DE NAPOLÉON choisies et expliquées, 1941.オクターヴ・オブリ編・大塚幸男訳『ナポレオン言行録』(岩波文庫)、José Cabanis, Le Sacre de Napoléon, 2 decembre 1804, Gallimard, 1970, 288p. ジョゼ・カバニス著・安斎和雄編訳『ドキュメンタリー・フランス史 ナポレオンの戴冠』(白水社)、Henri Calvet, Napoléon, 1943. アンリ・カルヴェ著・井上幸治訳『ナポレオン』(文庫クセジュ・白水社)、Roger Dufraisse, Napoléon, 1987.ロジェ・デュフレス著・安達正勝訳『ナポレオンの生涯』文庫クセジュ・白水社)、カール・マルクス著・高橋正雄訳「ルゥイ・ボナパルトのブリュメール十八日」(大内兵衛・向坂逸郎監修、マルクス・エンゲルス選集第六巻『革命と反革命』所収、新潮社)、杉本淑彦『ナポレオン伝説とパリ』(山川出版社)。

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英仏百年戦争

第二節 百年戦争第一期(一三三九~六〇年)
一 フランス王位継承問題
 英仏両国の王領地をめぐる争いは、その源をノルマンディ公ギヨーム二世Guillaume II(在位一〇三五~八七、英王ウィリアム一世William I在位一〇六六~八七 )が行ったノルマン=コンクェストNorman Conquest(一〇六六年)に求めることができる。しかし、実質的には仏王ルイ七世と離婚したエレアノールが二カ月後にアンジュー伯アンリと再婚した一一五二年に始まるとするのが自然であろう。当時、イングランド王国ノルマン朝(一〇六六~一一五四4)の第三代国王ヘンリ一世Henry I(在位一一〇〇~三五)には男子の後継者がいなかったため、娘マティルダをアンジュー伯ジョフロワに嫁がせていた。そして、二人の間に生まれた息子こそがエレアノールの再婚相手アンリであった。一一五四年一二月一九日、 ウェストミンスター寺院で挙行されたヘンリ二世Henry II(在位一一五四~八九)の戴冠式でイングランド王国はプランタジネット朝(一一五四~一三九九)へと移行したが、一一五六年、彼はフランス王国の貴族(アンジュー伯・ノルマンディ公・ギエンヌ公)でもあったため、一一五六年には仏王ルイ七世に対して封建的臣従礼を行っている。
 前述したように、仏王フィリップ二世(在位一一八〇~一二二三)期には王領地拡大が飛躍的に進み、第三代イングランド王ジョンJohn(在位一一九九~一二一六)からノルマンディを奪った(一二〇四年)だけでなく、一二〇六年にはジョン王とリュジニャン家Lusignanの争いに乗じてメーヌ、アンジュー、トゥーレーヌTouraineを手に入れ、フランス王権とアンジュー家の関係は完全に瓦解した。アンジュー家はまだギエンヌ公国の大部分を確保していたが、フランス王権が次第にその影響力を南部に伸ばし、 東部や西部・南部では諸侯の反乱が頻発するようになった。そして、フランスにおける王領地拡大の第二の画期となったのはルイ九世(在位一二二六~八五)の治世である。一二五九年暮れ、イングランド王ヘンリ三世Henry III(在位一二一六~七二)との間にパリ条約が締結され、アンジュー家は明確にカペー家に臣従することとなった。この条約では、アンジュー家がノルマンディ公領・アンジュー伯領・トゥレーヌ・ポワトゥ伯領を放棄すること、アンジュー家の家臣はアンジュー家とカペー王家が軍事衝突を起こした場合には後者を支援すること(一二七九年、アミアン条約で実施困難を確認)、カペー王家は封建法上の上訴管轄権(註⑭)を獲得したこと、アンジュー家君主は、フランス王権・アンジュー家双方の代替わりのたびに主君であるフランス王に対する臣従礼を行わねばならないことが定められた。註⑮
 一二九三年、仏王フィリップ四世(在位一二八五~一三一四)期初めのことであるが、イングランド南岸の五港市とガスコーニュ地方のバヨンヌBayonne港に所属する船の連合船隊がブルターニュ近海でノルマンディ船隊と衝突して勝利を収めた後、ビスケー湾に面した港町ラ・ロシェルLa Rochelleを襲撃するという事件が発生した。フィリップ四世は、ガスコーニュを含むギエンヌの宗主権者エドワード一世Edward I(在位一二七二~一三〇七)の責任を追及し、翌年一月までに出頭するよう命じた。しかし、イングランド王が出頭命令に応じなかったため、五月一九日にはギエンヌ公領没収の判決が下り、ギエンヌ戦争(一二九四~九七年)へと発展した。この戦争に勝利したフランス王家は、ギエンヌ全土を占領し、アンジュー家に残ったのはガスコーニュ南西隅の一部とジロンド川東岸の都市のみであった(一二九七年、ヴィーヴ・サン・バヴォン休戦協定Vyve-Saint-Bavon)。その後、一三〇三年、パリ条約でカペー王家の占領地をアンジュー家に返還し、英仏両王家はイングランド王エドワード一世(一二九〇年、最初の妻エリナー・オブ・カスティルEleanor of Castileと死別していた)と仏王フィリップ四世の妹マルグリットMargaret、イングランド王エドワード一世の長子エドワード(後のエドワード二世)と仏王フィリップ四
世の娘イザベルという二組の結婚をまとめている。エドワード二世Edward II(在位一三〇七~二七)とイザベルの間にはエドワード三世が誕生するが、こうした婚姻関係の設定はフランス王位継承問題の原因となっていく。
 実際、イングランド王エドワード一世はスコットランド問題に忙殺されていたとはいえ、王太子(後のエドワード二世)を送って代理による臣従礼で済ませ(一三〇四年)、四年後になってようやく妻マーガレットを迎えに行ったパリで舅フィリップ四世に臣従礼を行っている。また、仏王フィリップ四世の没後(一三一四年)、相次いで亡くなったルイ一〇世Louis X(在位一三一四~一六、フィリップ四世の長子)・ジャン一世Jean I(在位一三一六、ルイ一〇世の長子)に対するイングランド王エドワード二世の臣従礼は行われていない。なお、フィリップ五世Philippe V(在位一三一六~二二、フィリップ四世の次子)に対しては、一三一九年の代理による臣従礼の後、一三二〇年にはエドワード二世自身がフランスに赴いて臣従礼を行っている。
 一三二二年に即位したシャルル四世Charles IV(在位一三二二~二八、フィリップ四世の末子)は、エドワード二世に対してアミアンに出頭して臣従礼を行うよう要求した。しかし、エドワード二世は長子エドワード(後のエドワード三世)をギエンヌ公として、彼に臣従礼を行わせる案を考え出し、シャルル四世も六万パリ・リーヴルの代価納入を条件に同意した。その結果、王太子エドワードが叔父シャルル四世に臣従礼を行ったのである。しかし翌年、ガロンヌ川中・下流域に広がるアジュネ地方Agenaisのサン・サルドス修道院Saint-sardosとその周辺地域の支配をめぐる紛争(サン・サルドス戦争)が勃発した時、仏王シャルル四世がモンペザ領主 Montpezatの無法を理由に再度のギエンヌ公領没収宣言を発したため、アンジュー家に残ったのはボルドー、バヨンヌほか一都市と若干の城のみとなった。一三二五年に締結された平和条約に基づいて、カペー王家はギエンヌに総代官一名とその下に一群の裁判官・行政官を派遣し、アンジュー家が任命権を持っていた各地の城代は総代官の指揮下に置かれることとなった。その間、渡仏していた王太子エドワードがイングランドの反国王派に籠絡されたため、シャルル四世はエドワードのギエンヌ占領を許した。しかし、一三二六年になるとエノー伯ギヨーム一世のもとへ身を寄せていたイングランド王妃イザベラ(仏王フィリップ四世の娘)が息子エドワードを擁してクーデターを起こすという事件が発生し、翌年にはエドワード二世が廃位され、新たに息子エドワード三世Edward III(在位一三二七~七七)が即位した。エドワード三世は早速ギエンヌ返還を要求し、アンジュー家は賠償金五万マルクを支払うこと、カペー王家はガスコーニュ領主八名をギエンヌから追放して彼等の城を破壊することという条件で、ギエンヌ返還が合意に達した(パリ条約)。
 一三二八年二月、仏王シャルル四世が没し、カペー王家の男系子孫が断絶した。イングランド王エドワード三世は、母イザベルを通して〈フィリップ四世の孫にあたり、シャルル四世の甥にあたる〉という理由でフランス王位継承権を主張したが、諸侯会議はイングランド王室の介入を避けるためにヴァロワ伯フィリップ(フィリップ四世の弟の子)を王位継承者に選定し、五月フィリップ六世Philippe VI(在位一三二八~五〇)が即位した(ヴァロワ朝[一三二八~一五八九]成立)。翌年六月、エドワード三世はアミアンで臣従礼を行ったが、それは家臣としての義務内容が曖昧な単純臣従礼であったためフランス側にとっては不満が残った。仏王フィリップ六世は、ボワ・ド・ヴァンセンヌ条約Bois de Vincennes (1330 
年)の批准を拒否し、パリに出頭して臣従礼をやり直すよう要求した。そこでエドワード三世は妥協の道を模索して、何かと出頭期限を遅らせていたが、やむを得ず一三三一年四月、渡仏しフィリップ六世と面会した。五月にはボワ・ド・ヴァンセンヌ条約の補足協定が成立し、エドワード三世は一身専属的臣従礼の義務を承認した(ただし、一三二九年「アミアンの臣従礼」を一身専属的臣従礼と解し、臣従礼のやり直しは行わなかった)。
 ところで、イングランド王エドワード三世は祖父エドワード一世の対スコットランド政策を踏襲し、一三三二年以降、幾度も侵攻を繰り返している。しかし、イングランド軍の支援を受けて即位したスコットランド王エドワード・ベイリャルEdward Balliol(在位一三三二~五六)の統治は安定せず、同年末にはイングランドへ逃亡している。翌三三年、再びスコットランドへ攻め込んだエドワード三世は、ハリドン・ヒルHalidon Hillの戦いで勝利を収め、エドワード・ベイリャルを復帰させた。その結果、一三三四年にはデイヴィッド二世(一〇歳)が王妃ジョアン(エドワード三世の妹で一三歳)とともに母イザベラの母国フランスを頼って亡命している。その後、イングランド・スコットランド間紛争は教皇庁の呼びかけで休戦(一三三五~三六年)の運びとなったが、その間にフランス王権が実行しようとしていた十字軍派遣を教皇ベネディクトゥス一二世Benedictus XII(在位一三三四~四二)が弱気となって中止させたため、フィリップ六世は準備していた軍資金・軍隊をイングランド・スコットランド間紛争への介入資金として利用しようとした。一三三六年春、フィリップ六世はマルセイユMarseilleに集結させていた艦隊をノルマンディに回航させ、教皇が十字軍遠征費として徴収を認めていた「十分の一税」約四〇万リーヴルを対イングランド戦費として転用することの許諾を求めた(教皇はその要請を認めなかった)。一方、エドワード三世は、一三二八年、エノー伯女フィリッパPhilippa of Hainault(仏王フィリップ六世の妹ジャンヌの娘。姉マルガレーテは神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ四世〔バイエルンのヴィッテルスバッハ家Wittelsbach出身〕の皇后)と結婚して低地地方に地歩を固めていたが、一三三六年突然、低地地方への羊毛輸出禁止している。翌年イングランド王の使節がガンGandで市民代表と面会した際、市民代表はエドワード三世をフランス国王と認めて同盟の意志を表明したが、これは英仏間の対立を先鋭化する要因となった。
 
 二 エドワード三世のフランス王位登極宣言
 一三三七年、イングランド王エドワード三世は、神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ四世Ludwig IV(在位一三一四~四七)との対仏同盟交渉を開始し、皇帝宛て書簡の中で初めて仏王フィリップ六世を〈現在フランス王として振る舞っているフィリップ〉と記して、自らの仏王位継承権の主張を再び持ち出す考えがあることを示唆している。同年六月、ギエンヌ地方で戦闘が開始され、ノルマンディ艦隊がイングランド南岸を襲撃した。英独同盟の成立後、フィリップ六世はギエンヌ公領没収宣言を発したが、エドワード三世も開封勅書(一〇月七日)でフランス王位継承権を主張し、数日後には臣従礼破棄宣言(「一三三七年の挑戦状」)をリンカン司教ヘンリ・バーガーシに託してフランス側に伝えている。
 一三三八年一一月には教皇の勧めで英仏間の交渉が持たれたが、翌年七月、エドワード三世は教皇及び枢機卿会議に書簡を送って仏王位に対する自らの権利を主張するとともに、イングランド軍の根拠地をフランドルの東に隣接するブラバント地方Brabantの中心都市アントウェルペンAntwerpenに定め、フランドル伯領の南辺に沿ってヴェルマンドワ地方Vermandois(フランス北東部)のサン・カンタンSaint-Quentinに近いティエラシュThiéracheに向けて進軍させた。その時、仏王フィリップ六世が決戦を避けたので、イングランド軍は一旦アントウェルペンまで後退し(一〇月)、翌月にはフランドル伯ルイ・ド・ヌヴェールに同盟締結と縁組みを呼びかけている。ところがフランドルでは、前年にガンの富裕市民ヤーコブ・ファン・アルテフェルトJakob van Arteveldeを中心にブリュージュBruges、イープルYpresなど有力諸都市が団結してフランドル伯に対抗しており、一三三九年二月、フランドル伯はヴァロワ宮廷への亡命を余儀なくされた。アルテフェルト等は、初めのうちは英仏間の紛争に中立の姿勢を維持していたが、 一二月三日、ついにエドワード三世とフランドル諸都市の間で協定が成立し、(1)フランドルに対する羊毛禁輸を解除する、(2)イングランドの輸出羊毛指定市場をアントウェルペンからブリュージュへ移転させる、(3)フランドル諸都市に対して支援金一四万リーヴルを支払う、(4)仏王軍がフランドル攻撃をした場合、イングランド艦隊及び大陸派遣軍の一部はアルテフェルトの指揮下に入る、ことで合意した。  
 こうして一三四〇年二月六日、エドワード三世はガンで「フランス王位登極宣言」を発し、フランス地方貴族の支持を取り付けようとした。当時のフランス王国は、ヴァロワ家が支配する王領地と、ギエンヌ公国、ブルゴーニュ公国、ブルターニュ公国、フランドル伯領などの「領邦国家」からなる連合体であったが、エドワード三世のフランス王位登極宣言とフランス諸侯への呼びかけは、地方貴族が求める特権擁護の声を糾合して全国的な反ヴァロワ運動を起こす狙いがあったものと思われる。同年六月二四日には特別五港(シンクポーツcinque ports、ヘースティングズHastings、ロムニーRomney 、ハイスHythe、ドーヴァーDover、サンドウィッチSandwich)等から集めたイングランド艦隊二〇〇隻と兵士がゼーラントのスロイスSluys(仏名エクリューズ)で迎撃しようとしていた仏海軍を撃破することに成功する(スロイスの海戦)。この時、フランス軍はイングランド軍の長弓隊に対してクロスボウcrossbowで反撃したが及ばなかった。この勝利で、イングランドはドーヴァー海峡の制海権を獲得することに成功した。註⑯
 
 三 イングランド軍の北西フランス侵攻
 ノルマンディ地方は、一二〇四年、仏王フィリップ二世がアンジュー家から取り戻して以来、フランス国王の直轄領であり続けた。在地の教会や領主は一四世紀初めになっても司法・行政上の独自性を維持していたが、彼等にとって国王直轄化の進展が大きな脅威となり、王権による課税のために召集されたノルマンディ地方三部会では独自の法や慣習・財産・権利を守ろうとする意志が表明された。そして一三四四年、コタンタン半島Cotentin(ノルマンディ半島)の領主ゴドフロア・ダルクールGodefroi d'Harcourtがエドワード三世の宮廷において臣従を誓ったことが引き金となって、その二年後にはイングランド軍によるノルマンディ上陸が実現している。また同様に、フランス王権に対する不満を抱いていた人物にナヴァール王シャルル二世Charles II(在位一三四九~八七、フィリップ三世の曾孫でフィリップ六世の従弟の子)がいた。彼はナヴァール王国とシャンパーニュ伯領の相続権を有していたが、仏王フィリップ五世によってシャンパーニュ伯領を取りあげられ、ノルマンディ地方のモルタンMortainのみを付与されていたのである。一三五二年、シャルル二世は仏王ジャン二世の娘と結婚したが、ヴァロワ王家からの嫁資支給がないことが亀裂を決定的にし、彼もまたエドワード三世に接近していた。ナヴァール王国は、一三五六年にシャルル二世が捕らえられた後も、弟フィリップがゴドフロア・ダルクールと協力してエドワード3 
世を〈仏王・ノルマンディ公〉として推戴し、臣従している。
 一方、ノルマンディ地方の南側に隣接しているブルターニュBretagneでは、一一三六年以来、イングンドのリッチモンド伯Richmondがブルターニュ公を兼務し、伝統的にアンジュー家と親密な関係にあった。ブルターニュ公ジャン三世Jean IIIは、前述した一三三九年から翌年にかけての戦闘ではフランス側の味方をしたにもかかわらず、イングランドとの友好関係は維持されていた。ところが、継嗣を持たないジャン三世が一三四一年四月に亡くなり、ブルターニュ公位継承問題が浮上して来る。公位継承の候補者としては夭折した弟の娘ジャンヌとその夫シャルル・ド・ブロワCharles de Blois(フィリップ六世の甥)か、ジャン三世の異母弟ジャン・ド・モンフォールJean de Montfortが考えられた。しかし、ジャン・モンフォールが「ブルターニュの封建宗主たる仏王フィリップ六世は甥に有利な決定を下すはずだ」と考えて実力行使に出たため、ブルターニュ継承戦争が勃発した(一三四一年)。
 ジャン・ド・モンフォールは、はじめナントNantesにある公の居城と遙か南方のリモージュLimogesに保管されていた財宝と資金を押さえ、ブルターニュ諸侯を招集して彼等の臣従を求めたが上手く行かなかった。そこで彼もまた、エドワード三世に接近する。同年六月にはイングランドの使者が来訪し、秋には同盟関係が成立して、リッチモンド伯領は条件付きでジャン・ド・モンフォールに与えられた。一方、 ヴァロワ宮廷側はシャルル・ド・ブロワをブルターニュ公として承認し、彼を支援するために派遣した国王軍がモンフォールを捕らえることに成功する。その際、辛うじて虜囚の身となることを免れたモンフォールの妻ジャンヌ・ド・フランドルJeanne de Flandreが再度の同盟交渉を行った結果、モンフォール派はエドワード三世を仏王と認めて、イングランド軍に公領内の都市・港湾・城塞に駐屯して徴税する権利を与える代わりに、イングランドからの軍事支援を獲得した(一三四二年夏)。一三四五年にはジャン・ド・モンフォールが没したが、エドワード三世はモンフォールの(同名の)子の後見人として養育に努め、ブルターニュ公国を支配し続けた(アンジュー家の軍隊は、一三九〇年代までブルターニュに駐屯していた)。
 一三四六年、エドワード三世は、フランス王国軍の警備が手薄になっていたノルマンディ地方に上陸してカーンCaenなどを攻略した後、パリ近くまで侵攻した。しかし、彼らは仏王フィリップ六世がギエンヌから大軍を呼び戻してサン・ドニに集結させたという情報に接し、フランドル地方まで撤退しようとした。八月二六日、エドワード三世とその長子エドワード黒太子Edward, the Black Princeが率いるイングランド軍は、ソンム川の浅瀬を防衛していたフランス分隊を破った後、フランス北部の港町カレーCalaisの南方に位置するクレシーCrécyで仏軍を迎撃し、またしても長弓や大砲を駆使して大勝利を得た(一三四六年クレシーの戦い)。このように、エドワード三世の戦略方針は、フランス各地の領邦(特に北部・西部の、イングランドに近く、古くから関係の深い地域領邦)内の矛盾・対立を煽り、そこに介入して支持勢力を獲得し、敵対勢力から奪った領地を支持勢力に分配することで地歩を固めることにあった。その結果、一三五〇年代にはアンジュー家の古来の領地ギエンヌ(アキテーヌ)以外に、フランドル、ノルマンディ、ブルターニュなどに支持勢力を拡大し、〈仏王〉として軍隊を駐屯させるに至った。イングランドから遠く離れたブルゴーニュ公国でさえ、「エドワード三世が歴代仏王の戴冠式場であるランス司教座聖堂で戴冠式を挙行できたなら、仏王として認めてもよい」と考えたと言われている。
 一三五〇年八月二二日、仏王フィリップ六世が身罷り、長子ジャン二世Jean II(在位一三五〇~六四)が即位した。そして一三五六年、前年からボルドー周辺で戦いを継続していたエドワード黒太子がイングランド軍を率いて北上を開始した。しかし同年九月、大雨のために行軍に遅れが生じ、ロワール川付近で仏王ジャン二世の軍勢に追いつかれた。九月一九日ポワティエPoitiersの戦いに臨んだエドワード黒太子は、かつて一六歳の時に経験したクレシーの戦いと同様の作戦をとり、濠と森に囲まれた自然の要害に陣取った。また、後方の森に隠した二〇〇騎ほどの騎兵部隊以外はみな歩兵として二部隊を編成し、その両翼にはロングボウを持った長弓部隊で固めた。一方、仏王ジャン二世は部隊を四分割し、第一陣はジャン・ド・クレルモンJean de Clermont 率いる三〇〇人ほどの騎士と槍を持ったドイツ傭兵部隊や弩部隊によって構成され、敵の長弓部隊に対抗する役目を負った。またフランス王太子シャルル(後のシャルル五
世)率いる部隊約四〇〇〇名が第二陣、王弟オルレアン公フィリップ率いる部隊約三〇〇〇人が第三陣となり、仏王ジャン二世率いる騎兵部隊約六〇〇〇人(そのうち三〇〇人以外は歩兵として戦いに参加)は第四陣とした。しかし、イングランド軍の長弓部隊が仏軍の騎士部隊の馬を狙い撃ちし、さらには騎士部隊が仏軍の側背面に回り込んで奇襲攻撃を加えたため、またしてもイングランド軍の大勝利となり、ジャン二世とその側近は捕虜とされた。ただし、王太子シャルルは辛うじてパリに帰還している。

 4 ブレティニーの和約(一三六〇年)
ポワティエの戦いに勝利したイングランドは、ジャン二世の身代金として最初は五〇万ポンド(一ポンド=一トゥール貨リーヴル)を要求したが、そのうちエキュ金貨四〇〇万枚に減額している。一三五七年春、教皇庁の仲介を受けた英仏両国はボルドーで約二年間の休戦と講和条件に関する予備的秘密協定を成立させたと言われるが、詳細は明らかではない。ジャン二世のイングランド護送後に交渉が再開され、翌年前半には第一ロンドン条約が締結された。しかし、一三五八年にはフランス国内に農民一揆(ジャックリーの乱)や、パリのエティエンヌ・マルセルÉtienne Marcelの〈革命〉、ノルマンディ地方の反乱などが勃発し、身代金の第一回支払い分六〇万エキュを六カ月後には納入するという約束を履行できなかった。そのためエドワード三世は第一ロンドン条約の批准を拒み、これを破棄させている。註⑰
その当時、フランス王国では百年戦争に伴う混乱が全国三部会を変容させ、王権による支配が強化されていた各都市では有力市民の影響力が増していた。とりわけ一三四七年マルセイユに上陸した黒死病(ペスト、註⑱)は瞬く間にヨーロッパ全体に広がり、ポワティエの敗戦や戦争のための臨時税は貴族層と有力市民の対立を深刻化させた。その頃首都パリでは、衣類商の一族に生まれたエティエンヌ・マルセル(一三一五~五八)という男が、一三五〇年ノートルダム大聖堂参事会長となり、五四年以降は実質的なパリ市長に当たる「パリ商人頭」にまで上りつめていた。一三五五年、仏王ジャン二世は対イングランド戦費調達のために全国三部会を召集したが、エティエンヌは税収を管理する委員会の設置を提案して国王と対立した。一三五七年、ジャン二世がポワティエの戦いで捕虜とされると、エティエンヌは「租税徴収や軍隊の召集・休戦の調印などは全国三部会の承認が必要である」とする「大勅令」作成の中心的役割を果たしている。この時、パリに帰還していたシャルル王太子兼摂政が「大勅令」を拒否したため、エティエンヌは王位を狙っていたナヴァール王カルロス二世Carlos II(在位一三四九~八七)と協力して王太子の追い落としを図った。王太子シャルルがパリを離れた後、エティエンヌはパリ防衛を堅固なものとし、 一三五八年、ジャックリーの乱の指導者ギヨーム・カルルGuillaume Carleとの提携を模索した。同年5月末、サン=ルー=デスラン村Saint-Leu-d'Esserenで王太子側近の一人であるロベール=ド=クレルモンの甥ラウール=ド=クレルモンが殺されるという事件が発生し、これを契機に農民反乱がピカルディ、ノルマンディ、シャンパーニュなどフランス北東部に広がっていた(ジャックリーJacquerieとは、 短い胴衣jaquesを着ていた農民に対する蔑称)。暴動に参加した人々はそれぞれ指導者を選んで破壊や略奪行為に及んだが、その全体を統率したのがギヨーム・カルルであった。彼はパリで決起したエティエンヌとの共闘を目指したが、六月一〇日、カルロス二世に敗れて処刑されたため、反乱は急速に鎮静化に向かった。そして、ジャックリーの乱が鎮圧されるとエティエンヌの人気と勢力も瓦解し、彼はフランドルやイングランド王国にも支援を求めようとした。最期は(当初の目的からは外れて)自身の保身のためにカルロス二世を支援したと言われ、七月にカルロス二世を迎え入れる準備をしている時に守備隊長の一人に暗殺されている。その後、マルセル一党が逮捕され、王太子シャルルは貴族たちの歓呼の声を聞きながらパリに凱旋したのであった。
一三五九年三月、第二ロンドン条約草案が起草されたが、フランス全国三部会はこの草案を「認めることもできないし、実行可能でもない」として拒否している。その後、仏王太子シャルルとエドワード黒太子の間で交渉が進められ、翌年四月パリの南約二七マイルの小村ブレティニーBretignyでようやく和約が成立した(ブレティニーの和約)。その内容は、(1)仏王ジャン二世の身代金は三〇〇万金エキュ(五〇万ポンド)とし、第一回支払い分(六〇万金エキュ=一〇万ポンド)が支払われ次第、ジャン二世を釈放する。身代金の残金は毎年一回六年間にわたって四〇万金エキュずつ納入し、その間にフランス王族・大諸侯・一八都市の代表的市民からなる人質を順次釈放する。(2)ジャン二世釈放から一年以内にサントンジュSaintonge、アングーモワAngoumois、リムーザンLimousin、ケルシー Quercy 、ペリゴールPerigord、 ルーエルグRouergue、ビゴールBigorre、ゴールGaure、アジュネAgenaisを含むギエンヌ、北フランスのポワトゥー Poitou、カレーCalais、ギーヌGuisne, Guineをアンジュー家に引き渡す。(3)エドワード三世は仏王位請求権を放棄し、ノルマンディ、メーヌ、アンジュー、ブルターニュ、フランドルに対する請求を取り止めて、フランス国内から軍隊を撤退させる。(4)ヴァロワ家とスコットランドの同盟、アンジュー家とフランドルの同盟はそれぞれ廃棄することとした。ブレティニーの和約の実施最終日は一三六一n年一一月三〇日とされたが、一〇月にはジャン二世の仮釈放がなされている。しかし、合意内容は翌年春になっても完了せず、(2)に関する正式の権利放棄は行われなかった。
 ところで、「ブレティニーの和約」締結後のフランス王国では、国家の仕組み自体に大きな変化が生まれている。ヴァロワ朝成立直後のフランスには、親王領とは異なる古い型の領邦が四つ(ギエンヌ、ブルゴーニュ、ブルターニュ、フランドル)が存在し、親王領邦は小規模なものが五つあるだけだった。ところが、一三世紀以降の王権拡大過程において獲得した領地は順次王領地に組み入れられ、国王はフランス国内における名誉と正義(最高・最終の上訴管轄権)と俸禄(すなわち土地・官職・年金)配分の最高・ 最大の源泉となり、対外政策決定の中心となっていく。やがて一四世紀後半のジャン二世期になると、王領地の一部を親王領として王家の次男以下の男子に授封するアパナージュ制の採用によってフランス王国の政治的力関係が大きく変化する。ジャン二世は次子ルイ一世にアンジューAnjou、メーヌMaine、プロヴァンスProvence)を、三子ジャンにベリー Berry(1360)、オーヴェルニュAuvergne(一三六〇)、ポワトゥーPoitou(一三七四)を授封した。また一三六一年にはカペー・ブルゴーニュ公家の断絶によってそのアパナージュが返還されたが、ジャン二世はこのブルゴーニュを末子フィリップに与えている(一三六三年)。その後、フィリップはフランドル伯家の女子相続人と結婚してフランドル、アルトワArtois、ルテルRethelも獲得した。なお、ブルターニュ公領は半独立国家的地位を獲得している(一三六四~一四九一〔一五三二〕)。こうして誕生した親王領は、王家の傍系家系の支配下にあり、 王族たちが王権行使を代行し、王権が発する諸制度(例えば上訴裁判権や課税権)を領邦内に適用させた。その結果、彼等は王の補助者として実権を掌握するようになり、やがて一五世紀の政治的分裂と王族間の内紛を引き起こす要因となっていく。註⑲

第三節 百年戦争第二期(一三六〇~一四一三年)
 一 エドワード黒太子の統治
 一三六二年、イングランド王エドワード三世は、アキテーヌ公領(ギエンヌ公国)を長子エドワード黒太子(一三三〇~七六)に知行として与え、彼に統治を委ねた。宮廷をボルドーに構えた黒太子は、四半世紀も続いた戦争や父の従妹ジョアン・オブ・ケントJoan of Kentとの結婚(一三六一年)に伴う豪奢な生活の必要から、一三六四年以降「炉税」(家庭に設置してある竈ごとに課税する人頭税。世帯・家族ごとに徴税台帳を作成したので戸別税ともいう。一三六四年から三年三回課税)を課した。ところが、強力な集権的権力による直轄統治という経験を持たないガスコーニュ地方Gascogneの人々は、彼の統治に強い不満の念を抱くようになる。
一方、ピレネー山脈の南側ではカスティリャ王国のペドロ一世Pedro I(在位一三五〇~六六、六七~六九)が父アルフォンソ一一世の病死によって王位を継承したが、有力諸侯の専横や母マリア(ポルトガル王ペドロ一世の姉)の裏切りに苦しんでいた。辛うじて実権掌握に成功した彼は、母をポルトガルに追放し、異母兄エンリケ・デ・トラスタマラ(後のエンリケ二世Enrique II)はラングドックLanguedocへ亡命した。彼が〈残酷王〉の異名をとるのは、母親や異母兄弟に対する惨い仕打ちのせいでもあるが、自分の妃ブランシュ(仏王シャルル五世の王妃の妹)を殺したことが大きい。一三六五年、カスティリャ王国とアラゴン王国の紛争が発生した時、王弟ルイ(ラングドック総督アンジュー公ルイ)の保護を受けていたエンリケが、アラゴンから援助を求められたルイとともにカスティリャへ攻め込んで来た。国内の支持を失っていたペドロ一世はエンリケ=ルイ連合軍に敗れて亡命し、エドワード黒太子に支援を要請した。その際、ビスケー湾に面したイベリア半島北東部のビスカヤ地方 Vizcaya(ビルバオを中心とするバスク地方Euskadi, País Vascoの一部)割譲と全戦費の負担を申し出ている。また、彼の反攻計画には、かねてからアンジュー家の同盟者であるナヴァール王カルロス二世(シャルル二世)も加わって実行された。
一三六七年四月三日、エドワード黒太子・ペドロ一世・カルロス二世の連合軍はナヘラNájeraの戦い(カスティリャ北東部のナヴァーラNavarreに近い町で、 かつてのナヴァーラ王国首都)でベルトラン・デュ・ゲクランBertrand du Guesclin率いる仏軍やエンリケ二世の軍に大勝し、ペドロ一世は復辟に成功する。しかし、黒太子は捕虜としたペドロの政敵たちを引き渡さず、ペドロ一世もビスカヤ地方割譲や戦費補償の約束を履行しなかった。その結果、黒太子は軍隊維持に窮してカスティリャからの撤兵を余儀なくされ、 またもやガスコーニュ地方への課税を試みている。
翌年一月、黒太子はアングレームAngoulêmeにアキテーヌ公領の身分制議会を召集し、炉一基当たり一〇スーSouの炉税徴収を五年間にわたって認められた。その際、 ブレティニーの和約で仏王の直轄領から併合された地域の住民は反対しなかったが、ガスコーニュ南部のアルマニャック伯L'Armagnacやアルブレの領主アルノー・アマニューArnaud Amanieu, sire d'Albret等が激しく抵抗した。アルマニャック伯は、直接の君主である黒太子が自己の主張に耳を貸さないことを知ると、黒太子の父であるイングランド王エドワード三世に訴え、さらにはエドワード三世が命じた調査結果を待たずに仏王シャルル五世にも訴えた。一三六八年四月、彼は「すべての宗主権者は自己の領民と臣民を譲渡することができるが、それは譲渡される臣民の同意を得た上でのことである」と主張して、アキテーヌ公エドワードの炉税賦課の非を訴え、自己及び自己の領民、さらには同調者の保護をシャルル五世の高等法院に訴え出たのである。一方、アルマニャック伯と叔父・甥の関係にあるアルノー・アマニュー(母親がアルマニャック伯の長姉)は、同年五月、王妃の妹マルグリット(ブルボン公ピエールの第五女)と結婚してヴァロワ王家側についたが、九月にはアルマニャック伯と同じ理由でパリ高等法院に上訴の手続きをしている。
仏王シャルル五世は、モンペリエMontpellier、オルレアンOrléans、トゥールーズToulouse各大学の高名な法学者の意見を聴取した上で、六月三〇日、上訴受理の決定をし、アルマニャック伯も正式にパリ高等法院に出頭して上訴の手続きをした(但し秘密裏に行った)。王はアルマニャック伯に保護を与え、彼とアルブレ領主の各々に年額四〇〇〇リーヴルの年金支給を約束した。アルマニャック伯の動きはアキテーヌ公領全体に動揺を与え、仏王の南部における代理人たるラングドック総督アンジュー公ルイがポワトゥ、 ペリゴール、ケルシー、ルーエルグ、アジュネなどガスコーニュ周辺地域に働きかけを行った結果、 翌六九年五月には約八〇〇~九〇〇名の上訴者が現れている。その間、仏王シャルル五世は一三六八年一一月一六日付の黒太子召喚状を作成し、翌年一月半ばにはトゥールーズの国王代官を通してボルドーに住む黒太子に送達された。召喚状には「アルブレ領主の訴えに応訴するため一三六九年五月二日パリ高等法院まで出頭すること」とあり、一二月三日にはアルマニャック伯らの上訴受理を公式に宣言した。しかし、一三六九年五月二日、黒太子の出頭はなく、パリ高等法院はそれを〈不従順〉として非難した。もちろん、イングランド王エドワード三世もこの問題への介入を試みたが、両者の交渉ははかばかしい成果を見ることがなかった。同年六月、エドワード三世がフランス王位請求権を再確認し、一一月にはシャルル五世がギエンヌ公国(アキテーヌ公領)没収宣言を発して、事態は完全に振り出しに戻ってしまった。
一三六九年、英仏間の百年戦争が再開され、仏軍はガスコーニュ東方と東北方のルーエルグRouergue、ケルシーQuercy、ペリゴールPégord、北フランスのポンティユPonthieuを、そして翌年にはアジュネAgenais、リムーザンLimousinを支配下に収めた。また一三七二年には、ベルトラン・デュ・ゲクラン率いる仏軍がポワトゥーPoitou、サントンジュSaintonge、アングーモワAngoumoisなどガスコーニュの北方からブルターニュの大部分を再征服した。六月にはビスケー湾に面したラ・ロシェルLa Rochelle沖合でカスティリャ王エンリケ二世がペンブルック伯Earl of Pembroke率いるイギリス艦隊に対して壊滅的打撃を与えることに成功し、ペンブルック伯自身も捕虜となった。一三七五年、イングランド軍はカレー、ボルドー、バイヨンヌBayonneを除いて駆逐され、北仏ではカレーとその周辺、ノルマンディのサン・ソーヴール城St. Sauveur、ブルターニュのブレスト港とその周辺の城塞、南仏ではボルドーを囲むガスコーニュ地方のみがイングランド領として残った。その間、一三七一年には病気がちとなった黒太子が帰国して弟ランカスター公ジョン・オブ・ゴーントから実権を取り戻したが、一三七六年には四七歳で身罷った。翌年には父エドワード三世も逝去し、王位は黒太子の次男リチャード二世Richard II(在位一三七七~九九)が継承したが、リチャード二世は即位当時まだ一〇歳の子どもであり、国政は有力諸侯によって左右されることとなった。一三七五年六月、二年間の停戦が合意されたが、七七年には戦争が再開された。

 二 王弟オルレアン公ルイとブルゴーニュ公フィリップの対立
一三八〇年、仏王シャルル五世が食中毒で没し、その長子がシャルル六世Charles VI(在位一三八〇~一四二二)として即位した。しかし、シャルル六世はまだ一一歳の少年であったため、父のすぐ下の弟アンジュー公が摂政(~一三八八)となり、ベリー公、ブルゴーニュ公、ブルボン公(シャルル五世の義弟)を含む一二名からなる評議会が組織され、王権の最高決定機関となった。一三八二年にアンジュー公がイタリア遠征に出た後は、ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)Philippe le Hardiが摂政として政権を動かしていたが、一三八四年頃にはシャルル六世が精神的に病み、王弟オルレアン侯ルイLouis de Valoisを加えた「多頭政治」へ移行する。シャルル六世の父シャルル五世は、一三五〇年四月、父ジャン二世の従妹ジャンヌ・ド・ブルボンJeanne de Bourbonと近親結婚をしたが、妻ジャンヌはその父ブルボン公ピエール一世、祖父ヴァロワ伯シャルル、ジャンヌの兄弟たちと同様に、後には遺伝性と思われる精神疾患に罹っている。したがって、シャルル六世の精神疾患も同じことが原因と考えられる。一三八五年、イザボー・ド・バヴィエールIsabeau de Bavièreとの結婚式を挙げたフィリップ六世は三八八年一一月に叔父のブル
ゴーニュ公フィリップを解任し、父の〈木彫人形〉と渾名された元顧問たちが政権に復帰し、前王晩年の対イングランド和解政策を踏襲することになった(一二月交渉開始)。一三八九年にはシャルル六世が親政宣言を発し、王弟オルレアン公ルイが評議会に参加する。註⑳
 同年五月、イングランド王リチャード二世は同じく成年に達したことを宣言して政権を掌握し、対仏和平交渉に乗り出した。彼の支持者は父方の叔父ランカスター公ジョンのみであったが、同年夏にはカレーとブーローニュBoulogneの間にある小村レウリンゲンで三年間の休戦が成立した(レウリンゲンLeulinghenの休戦)。一三九二年、一三九三年、一三九四年と連続して休戦を更新した後、一三九六年リチャード二世は王妃アンに代わる後添えとして仏王シャルル六世の娘イザベルIsabella(当時七歳)を迎える条件で、休戦を二八年間延長することで合意に達した(パリ休戦条約)。ところが一三九九年二月、 ランカスター公が亡くなると、リチャード二世がランカスター公領を没収したため国内に不穏な空気が流れた。ランカスター公ジョンの息子ヘンリ・ボリングブロクHenry Bolingbrokeはしばらくフランスの王弟オルレアン公ルイの保護を受けていたが、ついに決起してリチャード二世の追放に成功する。同年秋、 彼はヘンリ四世Henry IV(在位一三九九~一四一三)として即位し、ランカスター朝Lancaste(一三九九
~一四七一)を創始するとともに、パリ休戦条約の継続を交渉してフランス側の承諾を得ている。註㉑
 その間、一三九二年(一三九六年説もある)八月仏王シャルル六世が二四歳の若さで発狂したため、〈木彫人形〉の多くは宮廷から逃亡したが、一部は捕らえられ処刑された。その時、オルレアン公ルイは、王の叔父たちが政権に復帰することを容認する一方で、指導的地位を譲ることはなかった。やがて一三九九年夏に、オルレアン公とブルゴーニュ公フィリップの対立が表面化する。南フランスに多くの領地を持っていたオルレアン公がイタリアやギエンヌ地方への進出を目指していたのに対して、ブルゴーニュ公は領内のフランドル、ネーデルラント地方の対イングランド貿易を考慮して親イングランド政策を基本としていたため、両者の対立は避けられなかったのである。
 一四〇〇年、神聖ローマ皇帝ヴェンツェルWenzel(ルクセンブルク家、在位一三七八~一四〇〇)廃位問題が発生した時、オルレアン公がヴェンツェル帝を支持したのに対して、ブルゴーニュ公は姻戚関係にある対立候補のライン宮中伯ルプレヒト三世Ruprecht IIIを推した。ヴェンツェル帝はベーメン王国中興の祖カール四世の長子で、ベーメン王ヴァーツラフ四世Václav IV(在位一三七八~一四一九)・ブランデンブルク選帝侯(在位一三七三~七八年)・ルクセンブルク公ヴェンツェル二世(ヴェンセラス2世Venceslas II、在位一三八三~一四一九)でもあったが、皇帝がドイツよりもベーメン王国の統治に力を入れていたこと、教皇指名問題で仏王シャルル六世に対する態度が弱腰だったこと、ジャン・ガレアッツォ・ヴィスコンティGian Galeazzo Visconti をミラノ公に叙爵したことなどにより、ドイツ諸侯間に不満が広がり、新たな皇帝としてルプレヒト三世Rubrecht III(在位一四〇〇~一〇)が選出された。その後、 ルプレヒト三世の後継者となったのはヴェンツェル帝の弟ジギスムント帝Sigismund(在位一四一一~三七)であるが、彼が教会大分裂(大シスマ、一三七八~一四一七年)を解決するために開いたコンスタンツ公会議Konstanz(一四一四~一八年)においても、ローマの正統派教皇を支持するブルゴーニュ公と、 ヴィスコンティ家との縁組みを取り持ったアヴィニョン派の肩を持つオルレアン公の対立は続いた。
 一四〇二年には、財政関係官庁の一つである宝蔵室における官職の確保をめぐるオルレアン派とブルゴーニュ派の対立が深刻化した。当時の有力諸侯は、国王の俸禄配分の権能を自己に有利に動かすためには 評議会に席を求めるだけでなく、中央と地方の政府諸官庁に自己の影響・保護下にある人物を配置することで権勢を強めようとしていた。特に年金や租税からの交付金の継続的給付を確保するためには、財務関係の官庁に配下の人物を配置することが絶対に必要であった。すなわち、既に政治力を利用して公職を得ようとする猟官制度spoils systemが発生していたのである。

 三 王弟オルレアン公ルイとブルゴーニュ公ジャンの対立
 一四〇四年春、ブルゴーニュ公フィリップはインフルエンザと思われる感染症を患って没し、長子ジャンJean I(無畏公、在位一四〇四~一九)が後を継いだ。この年には英仏間の暫定休戦延長期間が期限切れとなり、翌年には、ジャン率いる仏軍が、ギエンヌ地方のイギリス側支配地域や北方のカレーに向けて攻撃を開始した。六月に入ってカレーを包囲したブルゴーニュ公ジャンはパリの中央政府に人的・物的支援を要請したが、オルレアン公の指導下にあった中央政府はこれを拒否している。また、オルレアン公がノルマンディやピカルディ方面への総司令官に任命されたことは、ジャンにとって大きな脅威となった。七月、仏王シャルル六世が一時的に正気に戻り、大評議会にブルゴーニュ公ジャンも召集された。ジャンは力の示威を決意して数千の兵士を率いてパリに向かったが、恐怖心からかシャルル六世は再び狂気に沈んでいる。オルレアン公は王妃を伴ってパリから逃れ、部下に命じて王太子シャルルを含む王子たちを彼の後について行かせた。しかしジャンは、王子らの一行を連れ戻すことに成功し、首都パリを事実上ブルゴーニュ軍の占領下においた。彼は評議会を開催させ、放漫経営によって直轄領収入が減少しただけでなく、対イングランド戦争遂行の目的で徴収された租税が別途使用されていると指摘し、問題の解決のためには評議会の改組が必要だと要求した。その後、パリ周辺にはオルレアン派・ブルゴーニュ派双方を支持する軍隊が続々と集結し、パリを頂点とした三角形の二辺の形に西にオルレアン軍、東にブルゴーニュ派が軍を布いた。しかし、やがてベリー公duc de Berryの仲介やシャルル六世の回復、オルレアン公が軍隊解散命令を出したという噂の流布に加えて、ブルゴーニュ公自身がパリ占領の経費が重荷となり占領軍の大部分を解散させることに同意するに至った。その結果、パリ東南方のムランMelunに逃れていたオルレアン公と王妃が帰京し、ブルゴーニュ公が提案した国政改革案はパリ高等法院に送付された上で握りつぶされた。ベリー公は、こうした状況変化に合わせるように、次第にオルレアン公に接近していく。
 一四〇七年四月二八日付で発令された勅令により、評議会の多数派はオルレアン派となる。ところが同年一一月二三日の夜、オルレアン公ルイは王妃イザボー・ド・バヴィエールを訪問しようと出発したが、欺されてパリ市中の街路に向かうことになり、ブルゴーニュ公ジャンが放った刺客の一隊に暗殺されてしまった。そして二日後には、事件の首謀者がブルゴーニュ公であると判明した。伯父のベリー公から評議会への出席を止められたジャンは、身の危険を感じてフランドルへ逃走し、報復に備えて軍勢を建て直した。しかし翌年三月、ブルゴーニュ公は内乱を怖れたベリー公の融和策が功を奏して赦され、パリ市内で大規模な自己弁護講演会を開催している。講演会には王族をはじめ、評議会議員・諸侯・パリ市民・パリ大学の代表が参加する盛況ぶりで、神学者ジャン・プティJean Petit(パリ大学)が暗殺されたオルレアン公ルイを専制支配者と非難している。同年一二月にはオルレアン公の未亡人ヴァレンティナ・ヴィスコンティValentine Viscontiが未成年の男子三人を遺して亡くなり、 反ブルゴーニュ勢力は次第に弱体化していった。
一四〇九年三月、ブルゴーニュ公ジャンは、オルレアン公殺害で国王を悩ませ苦しめたことを謝罪し、 シャルル六世から正式の赦免状を得た(シャルトルの和約)。ジャンはパリ町奉行を動かして宮内府長官ジャン・ド・モンタンJean de Montaign(宮廷官僚の巨頭で反ブルゴーニュ派)を逮捕し、汚職などの罪名で処刑した後、アンジュー公ルイ二世Louis II(ナヴァール王・シチリア王。ブルゴーニュ公の従兄)や王妃及び王妃の実家ヴィッテルスバッハ家(エノー・ホラント伯。ブルゴーニュ公の義弟)を味方に引き入れて政権を掌握した。その上、伯父ベリー公の勧めで一三歳に達した王太子ルイの後見と教育を引き受け、司法や財政の改革に着手しようとした。
翌年四月、ベリー公の主唱でオルレアン公シャルルCharles d'Orleans、ブルターニュ公ジャン五世Jean V de Bretagne、 アルマニャック伯ベルナール7世Bernard VII d'Armagnac(ベリー公の女婿)、クレルモン伯シャルルCharles de Clermont(ブルボン家の長子)、アランソン伯ジャン一世Jean I d'Alencon(ヴァロワ家の分家)がジアン・シュル・ロワールGien-sur-Loireに集結して同盟を結び、婚姻政策によってそれを補完することにした。まず政治的には国王の名誉を侵害する者並びにこれを助ける者に対抗して国王に奉仕することを誓約し、軍事的には各々自弁で合計九〇〇〇人の軍隊を組織することを決定した。そして一四一〇年にはオルレアン公シャルルがアルマニャック伯の娘ボンヌと再婚し、父の報復を図ってアルマニャック伯とともに反ブルゴーニュ派貴族を再結集させた。また、オルレアン公の妹はブルターニュ公の末弟に嫁ぎ、娘ジャンヌもアランソン公の長子と婚約している(二人はまだ満一歳に満たない幼児)。こうしてアルマニャック伯ベルナール七世は、未成年のオルレアン公や老年のベリー公に代わってオルレアン派の中心となり、後世の人々から〈アルマニャック派〉と呼ばれることになった。
一四一〇年夏、仏王シャルル六世は再び覚醒し、臣民が武装して王侯貴族の私兵となることを禁ずる勅令を発し、アルマニャック派諸侯にも軍隊解散を求めた。しかし、ブルゴーニュ軍がパリを占領して国王軍を掌握している状況の下では、アルマニャック派諸侯が自らの軍隊を解散するはずもなかった。八月末、両派の軍隊がパリにめがけて集結を開始したため、パリ市民は周辺の森へと避難した。九月にはベリー公の軍隊がシャルトルChartresを掠奪するという事件が起きたが、 当時の軍隊には外国人傭兵が多数参加していることもあって、盗賊集団と何ら変わりがなかった。したがって、両派軍隊のパリ周辺への集結は、沿道やパリ郊外の集落がひどい破壊・掠奪・暴行の対象とされたということでもある。一一月二日、ベリー公の本拠地ビセートル城Bicetreで休戦協定が締結され、(1)両派に属する王侯諸侯は各自の所領に退去する、(2)城砦の守備兵はその保安のために必要な最小限度まで縮小する、(3)王侯諸侯は王から公式の招きがない限り、パリに来てはならない、(4)王は両派の党派的色彩を持たない人物を評議会議員に任命する、(5)両派の軍隊を解散し、兵士は帰郷する、ことで合意した。しかし、休戦協定締結の六日後にはシャルル六世の病状が悪化したため、ブルゴーニュ派が多数を占める評議会が政府の動向を左右する事態となり、翌年には内戦が開始された。
 ところで、アルマニャック・ブルゴーニュ両派の内戦開始は、英仏関係を根本的に変化させることになった。すなわち、従来の百年戦争はフランス王権がプランタジネット=イングランド勢力を排除しようとし、後者は必死に踏みとどまろうとして戦ったために、両王室の対決という性格が濃厚であった。ところが、フランスにおける内戦勃発以降、フランス内部の有力諸侯たちは自派の援軍としてイングランド軍を想定するようになり、時にはイングランド勢力をフランス国内に引き留めて自らの立場を有利にしようとさえした。一方、イングランド王ヘンリ四世も、この頃から長子ヘンリを仏王シャルル六世の末娘カトリーヌ・ド・ヴァロワCatherine de Valoisと結婚させて、ギエンヌ(アキテーヌ)問題を解決しようと模索していた。ところが、ヘンリ四世やカンタベリー大司教トマス・アランデルThomas Arundelを中心とする対仏慎重派(保守派)は、ギエンヌ問題の解決を基本としつつ「ブレティニーの和約」完全実施を目指したのに対して、王太子ヘンリや王の異母弟ボウフォート兄弟を中心とする積極進出派はブルゴーニュ派との友好関係を基本としながらも、北フランスへの進出を窺っていた。一四一一年四月頃、ブルゴーニュ公はヘンリ四世と連絡をとり、九月末から一〇月にかけてフランス北部のアラスArrasで同盟関係についての交渉をした(同年夏にはアルマニャック派もイングランドに使節を派遣してブルゴーニュ派を支援しないように申し入れたと言われている)。一〇月三日、ついにイングランド軍(槍兵二〇〇人・弓兵一八〇〇人)がブルゴーニュ公の指揮下に入り、首都への物資補給を断っていたアルマニャック軍を破ってパリ入城を果たした。この部隊は、北フランスでブルゴーニュ軍を援助した後、カレーに撤退した。なお、ヘンリ四世は自ら北フランス遠征を行う予定であったが、体調不良で取りやめた直後、ウィンチェスター司教ヘンリ・ボウフォートHenry Beaufortから退位を迫られている。憤慨したヘンリ四世は、同年一一月末から翌年一月にかけて対仏積極派を評議会と政府の要職から追放し、保守派に代えた。
 一四一二年二月、ブルゴーニュ公はイングランドに使節団を派遣したが、政権から追われていた親ブルゴーニュ派とは同盟関係を築くことができなかった。春、イングランド政権はフランス内戦に関する中立声明を発表し、五月に入って内戦で優位に立っていたブルゴーニュ派が仏王シャルル六世の意を受けてギエンヌ地方に進軍すると、今度はヘンリ四世が態度を硬化させた。五月一六日、彼はフランドル諸都市がブルゴーニュ公のギエンヌ遠征を援助した場合には「英・フランドル間通商協定」を破棄すると通告し、二日後にはイングランド=アルマニャック派同盟を成立させた。やがて七月に入り、アルマニャック派の拠点となっていたベリー公領の中心都市ブールジュBourgesの攻囲戦に手間取っていたブルゴーニュ軍の内部では厭戦気運が広がり、一二日になって休戦協定が結ばれた。しかし、イングランドの対仏遠征軍は、この休戦協定の通告前に出発していたため、八月二二日、改めて「オーセールAuxerreの和約」が締結された。それは、(1)三年前の「シャルトルの和約」(一四〇九年)を再確認し、(2)オルレアン公・ブルゴーニュ公ともに公開状をイングランド王に送付して、それまでイギリスとの間で結ばれた一切の政治・軍事同盟を破棄し、今後は決してイングランドの援助を求めないことを確約するという内容で、翌日、両派の和解の趣旨を伝える書簡をイングランドへ送付している。
 八月半ば、イングランド王ヘンリ4世の次男クラレンス公トマスThomas of Lancaster(Duke of Clarence)率いるイングランド軍がノルマンディに上陸し、九月初旬にはアルマニャック派との集合予定地ブロワに到着した。クラレンス公は進軍の途次、アルマニャック派からヘンリ四世に宛てた同盟破棄の通告文書を持った使者に会い、状況変化を把握していた。しかし彼は、アルマニャック派の変節を責める文書を送付したのみで、一一月一四日にはアルマニャック派から一五万金エキュ(二万五〇〇〇ポンド)の償金を得る代わりに年内にボルドーまで撤退するという協定を成立させた。
同年暮れ、仏王シャルル六世は内戦で枯渇した国庫を満たすための増税を図り、ラングドイユLanguedoilの三部会をパリに召集することを決定した。一四一三年に入って開催された三部会には、アルマニャック派をはじめとする貴族勢力の出席はあまり見られず、結果的に多数派となったパリ市民や諸都市の代表、パリ大学の代表などは(ブルゴーニュ派の意を受けて)政府改革や人事刷新を要求した。それに対し、宮廷内勢力は元パリ町奉行ピエール・デ・ゼサールPierre des Essarts率いる騎士隊を市内に導き入れた。宮廷勢力の動きを察知したパリ民衆、特に食肉商や皮革商のギルドに参加している人々は騎士隊と衝突し(四月二七日)、その対立は次第に激しさを増した。五月二七日には民衆蜂起の指導者シモン・カボシュSimon Cabocheの名をとった「カボシャン勅令」(二五八カ条)が発せられ、改革委員会はほぼ無制限の権能を与えられて改革を進めた。ブルゴーニュ公は民衆蜂起を抑えにかかり、その要求が王族の身辺にまで及ばないように動いたが効果はなく、国王と宮廷はパリから離れたアルマニャック派に期待するしかなかった。しかし、六月中旬以降には民衆による宮廷官僚虐殺事件を契機に穏和派市民が立ち上がり、彼等と宮廷との連携が成立した。また、七月中旬には宮廷とアルマニャック派の秘密交渉が開始されて、同月下旬から八月初旬にかけて「ポントワーズPontoiseの和約」が結ばれてアルマニャック派の名誉が回復された。八月三日、穏和派市民の支援を受けた宮廷はパリ市の秩序回復に成功し、過激派の指導者たちはブルゴーニュ公国へと逃亡して行った。こうしてブルゴーニュ派はパリから追放され、ブルゴーニュ公自身もフランドルへと逃げ帰っている(八月二三日)。その後、パリに戻って政権を樹立させたアルマニャック派は、カボシャン勅令を廃棄し、政府内部のブルゴーニュ派を大量粛清した。しかし、ベルナール七世を中心とするアルマニャック派と宮廷(特に王太子シャルル)との間には既に微妙な溝が生まれていた。註㉒
    
第四節 百年戦争第三期(一四一三~三五年)
 一ヘンリ5世のフランス遠征
 一四一三年三月二〇日、ヘンリ四世が没し、後継者ヘンリ五世Henry V(在位一四一三~二二)は対仏積極進出派に属していた(彼は政府公式文書に英語を使用することを奨励し、個人書簡に英語を使用した最初の王でもある)。同年秋、派遣された使節団はブルゴーニュ公に拝謁してヘンリ五世とブルゴーニュ公の末娘カトリーヌ・ド・ヴァロワとの結婚や、ノルマンディ地方にあるブルゴーニュ公領の一部(シェルブールCherbourg、カーンCaen、ル・クロトワLe Crotoy)を嫁資として引き渡すことなどを提案した。ところが、間もなく仏王シャルル六世の使節がブルゴーニュ公のもとにやって来たので、使節団はブルゴーニュ公との交渉を中断して仏王の使節との交渉を開始し、翌年六月一日までの休戦延長を決定した(暮れにはフランスからイングランドへ使節が派遣され、休戦期間を一四一五年二月まで延長)。
 一四一四年二月、ブルゴーニュ軍がパリに迫った時、市内制圧に成功していたアルマニャック派は国王にブルゴーニュ公を「反乱者・王国の敵」と宣言させて攻撃を開始し、形勢不利となったブルゴーニュ公は北方に退却した。しかし、アルマニャック派は追撃の手をゆるめず、七月までにイル・ド・フランスÎle-de-Franceとフランドルの間の重要都市を支配下に収めた。その間、五月にレスターLeicesterでイングランド・ブルゴーニュ間の第一次英仏交渉が行われ、夏にイープルYpresで、そして九月にはサン・トメールSaint-Omer で再開されたが、いずれも攻守同盟は実現できなかった。翌年行われた第二次英仏交渉ではイングランドから、(1)ヘンリ五世の仏王位請求権は留保するが、シャルル六世と同等の統治権を譲渡すること(具体的にはノルマンディ、メーヌ、アンジュー、トゥレーヌ、ブルターニュ、フランドル、ポンティユ、ギーヌに加えてアキテーヌを譲ること)、(2)プロヴァンス伯領の大半は、 ヘンリ三世の妻アリエノールを経てイングランド王室に帰属しているはずなので、引き渡すこと、(3)ジャン二世の身代金の残額一六〇万金エキュ(英貨で四〇万マルク)を支払うこと、(4)ヘンリ五世とシャルル六世の娘カトリーヌ(キャサリン)の結婚に伴う嫁資は二〇〇万金エキュ(英貨で五〇万マルク)を下回らないこと、という厳しい要求を突きつけられた。ヘンリ五世の途方もない要求に脅威を感じたフランス王室は、ブルゴーニュ公の弟ブラバント公アントワーヌAntoineや妹エノー伯夫人マルグリットMargueriteの仲介を受けて休戦を実現させた。しかし、ブルゴーニュ公の姿勢に不信感を抱いたイングランドは、ブーローニュとエスダンHesdin(アルトワArtois西南部)その他二地点の二年間にわたる占領を要求したが、ブルゴーニュ公は明快な回答をしていない。三月には第三次英仏交渉の場がもたれたが、 ここでも捗捗しい成果は上げられなかった。
 一四一五年八月から一一月にかけて、イングランド王ヘンリ五世は第一回フランス遠征を敢行した。先ずノルマンディ地方へと侵攻したイングランド軍は、セーヌ川河口のオンフルールHonfleurで二カ月に及んだ攻城戦や疫病の流行で消耗し、カレーへの帰還を余儀なくされた。しかし、ソンム川は仏軍によって厳重に警護されて渡ることが不可能なため、ペロンヌPéronne近くの防御の弱いと思われる場所を探して渡ることにした。イングランド軍七〇〇〇人はそこからカレーへ向かったが、五〇キロ南のアザンクールAzincourtで仏軍二万人が待ち構えていた(一〇月二五日)。仏軍の作戦は、中央に下馬した騎士と歩兵による大部隊を、左右に重装甲の騎兵部隊をそれぞれ配置し、中央の大部隊が正面からイングランド軍を攻撃する間に重装騎兵が敵の背後に回り込んで弓兵を駆逐するというものだった。それに対してイングランド軍は、全ての弓兵に約一・八メートルの長さで両端を尖らせた杭を持ち運ぶように命じ、仏軍の重装騎兵が来たときには、地面に打ち込むことで騎馬の突撃を阻止しようした。戦いが始まるまでに、仏軍の指揮系統の乱れを確認したヘンリ五世は、アザンクールの最も狭い場所まで敵軍をおびき寄せ、作戦通りの大勝することが出来た。こうして、長弓隊を駆使したイングランド軍は、重装騎兵隊にこだわるフランス諸侯軍に圧勝し、無事、カレーへの帰還を果たしたのである。
 アザンクールの戦いでオルレアン公シャルルCharles Ire de Valois, duc d'Orleansがイングランドの捕虜(一四四〇年、莫大な身代金を払って解放)になり、一四一五年シャルル六世の長子ギエンヌ公ルイに続いて、一四一六年七月ベリー公、一四一七年トゥーレーヌ公ジャン(シャルル六世の次子)が相次いで他界した。その結果、シャルル六世の後継者としてはシャルル(七世)を残すのみとなり、アルマニャック派の筆頭ベルナール七世が独裁権を握ることとなった。一四一六年四月にはパリでブルゴーニュ派のクーデター計画が発覚したが、王妃イザボー・ド・バヴィエールがこの計画に関与した疑いが浮上し、彼女はトゥールの修道院に隠棲させられた。その間、神聖ローマ皇帝ジギスムントはコンスタンツ公会議の成功で教会大分裂を終わらせ、聖地回復のためには英仏両国の抗争を解決する必要があると判断し、調停に乗り出した。同年八月に結ばれたイングランドとのカンタベリー同盟条約では英仏関係を変化させることが出来なかったが、秋にカレーで開いた四カ国会議(イングランド・仏・ブルゴーニュ・独)や英仏間の交渉が実を結んで休戦となった(一四一六年一〇月~一七年二月)。

 二 トロワの和約(一四二〇年)
しかし一四一七年七月には、ヘンリ五世の第二回フランス遠征が始まる。彼の目的はノルマンディとその周辺地域の征服にあり、一方、アルマニャック派を中心とするフランスの備えはブルゴーニュ軍への不信感から十分とは言えなかった。同年一一月、ヘンリ五世は孤立したアンジュー公、ブルターニュ公と個別に休戦協定を締結して西方・南方からの脅威を断ち、その冬のうちに西部ノルマンディを征服した。その間、ブルゴーニュ公ジャンは王妃の身柄を確保し、まずパリに近いシャルトルChartresに、ついでパリ東南方のトロワTroyesに臨時政府を樹立して、王太子シャルルを擁するアルマニャック派の中央政府パリ)と対立した。
翌年、ブルゴーニュ公ジャンがパリ北方の主要都市や城をおさえてノルマンディ東部に進出すると、イングランド=ブルゴーニュの関係が極めて微妙な変化を見せ始める。五月二九日早朝、アルマニャック派の支配に不満を抱く市民やブルゴーニュ派市民の内通でパリ市の城門が開き、ブルゴーニュ軍が市内になだれ込む。ブルゴーニュ公は国王シャルル六世の身柄確保に成功し、アルマニャック伯ベルナール七世はまだ睡眠中に捕らえられ、後に処刑された(六月一二日)。一方、王太子シャルルはパリ奉行の庇護を受けてパリ脱出に成功し、ブールジュBourgesに臨時政府を樹立した。この混乱で、パリ市内では五月二九 
日に約一〇人、六月一日に四〇〇人、一二~一三日が二〇〇〇人の合計二五〇〇人程度が虐殺されたと言われている。そして七月一四日、ブルゴーニュ公ジャンは王妃を伴って首都パリに入り、ブルゴーニュ派の政府もトロワから移転してきた。
 こうしてフランス王国は、ブルゴーニュ公が支配するパリ中心の地域(全土の約四分の一。北は北海沿岸、西はセーヌ川、南はブルゴーニュの南端、東は神聖ローマ帝国に挟まれた範囲)、王太子シャルルとアルマニャック派の政府があるブールジュ中心の南部・中部フランス(ガスコーニュを除く)、イングランドのランカスター家が支配するノルマンディ地方中心の西北部に三分割された。しかし同年九月、ブルターニュ公の仲介を受けたブルゴーニュ公とアルマニャック派の間で交渉が行われた。その結果、ブルゴーニュ公が王太子シャルルのドーフィネ、トゥーレーヌ、ポワトゥー領有を認め、さらにはパリ政府に三名の財務官を受け容れる代わりに、アルマニャック派もパリ政府に協力することで合意に達した。(サン・モール・デ・フォッセ協定Saint-Maur-des-Fosses。王太子シャルルは批准しなかった)。
 同年、イングランド軍がノルマンディ地方の中心都市ルーアンRouenを攻囲したが、パリ政府が派遣した援軍はルーアンから七〇キロほど離れたボーヴェBeauvaisまでしか進めず、 翌一九年一月一九日にはルーアンを開城させられた。イングランド軍のパリ接近に動転したブルゴーニュ公と王妃イザボー・ド・バヴィエールは、宮廷をパリからトロワに移し、四月末には王太子シャルルとの交渉を再開して五月には休戦までこぎ着けた。また七月には、両派が相互に敵対することを止めて「国王の敵」であるイングランドとの同盟関係を破棄することで合意し(プイイPouillyの協定)、セーヌ川とその支流ヨンヌ川Yonneの合流点にあるモントローMontreauで直接会見を計画した。九月一〇日、ブルゴーニュ公ジャンと王太子シャルルはヨンヌ川を跨いで両端を石造の堅固な塔に守られた橋の上で会見したが、開始そうそう両人の随員が小競り合いを始め、ブルゴーニュ公はアルマニャック派の手で頭蓋骨を割られて急死した。ブルゴーニュ公落命の報せは翌日には速くもトロワの宮廷に届き、ガンに滞在していたブルゴーニュ公の継嗣シャロレ伯フィリップに回送された(九月一四日受領)。
 一四一九年一〇月、新しくブルゴーニュ公となったフィリップ三世Philippe III(善良公、在位一四一九~六七)にはアルマニャック派を攻撃する力がなく、王妃の勧めもあってイングランド王ヘンリ五世との同盟交渉に入ることになった。翌年四月九日、トロワのヴァロワ宮廷を訪ねたヘンリ五世の使者とフランス国王夫妻・ブルゴーニュ派との間でようやく合意に達し、その際に作成された条約草案をもとに五月一九日、シャルル六世、ヘンリ五世、ブルゴーニュ公フィリップの三者それぞれの評議会の合同会議で決定し、シャルル六世の書簡の形で所謂「トロワの和約」が調印・批准・発布された。その内容は、(1)イングランド王ヘンリ五世はシャルル六世の娘カトリーヌと結婚し、シャルル六世の死後に仏王位を継承する。(2)カトリーヌ(キャサリン)の嫁資は年額四万金エキュ(英貨一万マルク)とし、全額をイングランド側の負担とする。(3)ヘンリ五世は王太子シャルルの支配下にある全領域を、シャルル六世のために征服することを約束する。(4)現在イングランド側の支配下にあるノルマンディは、ランカスター家の仏王位継承後、フランスに統合される。(5)シャルル六世に対してトロワ条約の遵守を誓約する者には所領・土地が安堵される。(6)ノルマンディ地方その他のイングランド軍占領地に聖職禄を持つ聖職者でその地を追われた者は、シャルル六世またはブルゴーニュ公に服従すれば聖職禄を戻させる。(7)フランス王権の統治機構はそのまま継続する。(8)ヘンリ五世の摂政就任の際には、フランス国王の戴冠宣誓と同じ宣誓を行う。(9)パリ高等法院の権威は維持する。(⒑)国王の司法組織と国王直轄領を担う官職には能力あるフランス人が任命され、王国は法と慣習に則って統治する。(⒒)フランスの貴族・教会・大学は現状を維持し、その特権は守られる。(⒓)穏当で必要な理由によらない限り、如何なる賦課や徴収も行われない。(⒔)これらの規定は、シャルル六世に服従する聖俗貴族、諸身分、都市及び都市市民の宣誓によって保障される。彼等は摂政ヘンリ五世に服従すること、ヘンリ五世によるフランス王位継承を受け入れること、またシャルル六世の死後にヘンリ五世を彼等の主君としてヘンリ五世に対する敵対行為にいかなる支援も与えないことを誓約する、という多岐に及ぶものであった。六月二日にはトロワでヘンリ五世とシャルル六世の娘カトリーヌの結婚式が挙行され、百年戦争勃発時のエドワード三世の目論見がほぼ達成されようとしていた(トロワ条約体制の完成)。
 ところが、その二年後(一四二二年)の八月三一日、イングランド王ヘンリ五世がヴァンセンヌの森で急死し、彼が征服したノルマンディ地方の統治者として弟ベッドフォート公ジョンJohn of Lancasterをあて、仏王シャルル六世を補佐する摂政にはブルゴーニュ公フィリップをあてる遺言を残してこの世から去った。そのうえ、約二カ月後にはシャルル六世が没したため、「トロワの和約」を履行できるのか急に雲行きが怪しくなった。一一月一八日、ベッドフォード公はシャルル六世の葬儀からの帰途、自己の前方に「フランス国王の剣」を捧げ持たせて摂政の地位に就く意志を表明し、翌日にはパリ高等法院でまだ生後一〇カ月の幼子であるイングランド王ヘンリ六世Henry VI(在位一四二二~六一、七〇~七一)のフランス王位継承を宣言した。同月二四日、正式にフランス摂政の称号を使用し始めたベッドフォード公は、ロワール川以北の北フランス一帯を支配した。それに対してフランス東部の実力者ブルゴーニュ公フィリップは、シャルル六世が亡くなった当時、フランドル地方に滞在して招かれてもパリに戻ろうとはしなかった。彼はシャルル六世の葬儀にも参列していない。しかし、ベッドフォード公とブルゴーニュ公の妹アンヌとの婚約は前者に有利な条件で成立していたので、この時点ではベッドフォード公やイングランド王国との関係を弱める意向はなかったと考えられる。註㉓

 三 エノー・ホラント・ゼーラント継承問題
 低地地方(ネーデルラントNetherlands )をながく支配して来たのは、南ドイツのバイエルン公(ヴィッテルスバッハ家Wittelsbacher)であったが、少し前からヴァロワ・ブルゴーニュ公家がその獲得に意欲を示し始めていた。初代ブルゴーニュ公フィリップ(豪胆公)は次男アントワーヌAntoineのためにブラバントBrabantを入手したうえ、長女をエノー・ホラント・ゼーラント伯に嫁がせて、さらに支配領域を拡大させようと狙っていた。ところが、一四一五年、アザンクールの戦いでブラバント公アントワーヌが戦死し、またその二年後にはエノー伯が亡くなってフィリップの計画は頓挫した。そこで第二代ブルゴーニュ公ジャン(無怖公)は、ブラバント公の継嗣である甥のジャン四世Jean IV(在位一四一五~二七)とエノーHainaut・ホラントHolland・ゼーラントZeelandの女子相続人となった姪のジャクリーヌJacqueline d'Hainautを婚約させ、ブルゴーニュ公家の勢力拡大を図った。この結婚はいとこ同士の結婚であったために教会法上の問題があり、神聖ローマ皇帝ジギスムントの反対もあったが、教皇マルティヌス五世Martinus V(在位一四一七~三一)は既成事実に押し切られる形でこれを承認した。ところが一四一七年、 亡くなったエノー伯の弟でリエージュ司教の職にあったヨーハンJohannという人物がホラント南部のドルトレヒトDordrechtに現れて、ジャクリーヌに対する後見を要求した。その結果、ホラント地方にヨーハン派とジャクリーヌ派の内乱が発生し、間もなくブルゴーニュ公ジャンの息子フィリップが父の委任を受けて両派の調停に入り、一四一九年二月、和平を成立させた。しかし、ジャクリーヌは、あまりにヨーハン派側に有利なこの和平案を拒否し、ヨーハンに対して譲歩を重ねる夫ジャン四世に愛想を尽かしたこともあって、翌年四月、母親を伴って夫のもとを離れ、一四二〇年にはイングランドへ亡命している。
その時、イングランド王ヘンリ五世はジャクリーヌを厚遇し、王の死後まもない同年一〇月、ジャクリーヌは王弟グロスタ公ハンフリHumphrey(duke of Gloucester)と結婚している。そして一四二三年春には、グロスタ公がブルゴーニュ公国との関係を無視してエノー・ホラント・ゼーラント伯の称号を使用し始めている。一四二四年一〇月、グロスタ公は軍隊を率いてカレーに上陸し、一一月にはアルトワArtoisを通過してエノーの大部分を占領することに成功した。ブルゴーニュ公はジャクリーヌの前夫ジャン四世が何ら有効な手立てを打てないことを見届けた上で、ジャン四世の弟サン・ポル伯フィリップPhilippe de Saint-Polを説得してブルゴーニュ=ブラバント連合軍を編成し、翌年三月エノーに侵入した。それギリスに逃げ帰ってしまった。ジャクリーヌは捕らえられてブルゴーニュ公の保護下に置かれたが、 やがて男装をして軟禁状態からの脱出に成功し、イングランドの夫に向けて再度遠征軍を派遣するよう要請した。
 グロスタ公の行動は、イングランド王の同盟者であるブルゴーニュ公の利益を侵害するものであるが、 彼は国家における公の〈立場〉に関係なく、自らの家産や権利と思われるものを追求している。彼のような行動は、当時の貴族階級の間では美徳と考えられており、グロスタ公のような王族が自己一身の権利を徹底的に追求し始めると誰にも止められなかった。ベッドフォード公は弟の最初の遠征に際して、 ブルゴーニュ公と協力して再度の調停を試み、また教皇マルティヌス五世に仲介の要請を出したが、いずれも成功しなかった。そこでベッドフォード公はパリで摂政評議会を開催してこれによる調停にかけたが、グロスタ公はこれも拒否している。一四二五年一二月、グロスタ公が再度のネーデルラント遠征を企てると、ベッドフォード公はブルゴーニュ公との同盟関係を重視してこの事実を通報し、ブルゴーニュ公は遠征軍が上陸したブロウェルスハーフェンBrouwershavenで迎撃に成功した。その後、一四二七年初夏には、イングランドの摂政評議会がジャクリーヌの訴えに応えて援助を試みたが、ベッドフォード公の反対で企ては挫折している。翌年、教皇マルティヌス五世が公式にジャクリーヌとハンフリの結婚を無効と宣言し、グロスタ公もこの決定に従う意向を示したので、彼のネーデルラント進出は失敗に終わった。しかし、この企てはイングランドとブルゴーニュの関係に大きな傷を付けることにもなった。
 その頃のブルゴーニュ公は、パリ政府の主導権をベッドフォード公に譲り、領土拡張の関心を低地地方に移していたため、いきおいフランス王国全体への関心を弱めていた。しかし、パリ政府に対するさまざまな要求や権利の主張を減じることはなかった。例えば一四二一年までは、ブールジュのシャルル王太子派に対する軍事費用の補填を要求している。ところがシャルル六世没後は、(イングランド王国のベッドフォード公に摂政職が移ったこともあり)軍事費をパリ政府に転嫁させることは困難となって、 王太子派との戦いに熱意を持てなくなった。一四二四年、ブルゴーニュ公は王太子との間でほぼ完全な休戦協定(シャンベリーChambéryの協定)を成立させ、その中で彼は初めてシャルル七世を〈フランス王〉と呼んでいる。こうしてブルゴーニュ公家は、一四二八年、ネーデルラント継承戦争に勝利を収めた後は、 イングランドとの盟約関係を蔑ろにして一気にブールジュ政府へ傾斜していったのである。註㉔

 四 オルレアン解放(一四二九年)
 一四二二年一〇月二一日、仏王シャルル六世が没し、三〇日には王太子が非合法の王シャルル七世Charles VII(勝利王、在位一四二二~六一)として即位した。王太子はヴァロワ家で唯一生存している嫡男(なお、母イザボー・ド・バヴィエールは、 彼を〈不義の子〉だからヴァロワ家の血を引いていないと証言)であり、ロワール川以南の広大な王領地を支配していた。そして彼は、多くの諸侯の支持を集めてパリ政府への抵抗を続けていたのである。王太子は一四二三年初めからローマ教皇マルティヌス五世・バール枢機卿・サヴォワ侯らを仲立ちとしてブルゴーニュ公フィリップと話し合いを開始し、翌年にはブルターニュ公ジャン五世Jean V de Bretagne(賢明王、在位一三九九~一四四二)とその弟リッシュモン伯アルテュールArthur de Richemont、シチリア王妃ヨランド・ダラゴンYolande d'Aragon(アンジュー公ルイ二世Louis II d'Anjouの妻で、その一人娘は王太子妃マリー・ダンジューMarie d'Anjou。また次男ルネ・ダンジューRené d'Anjouはロレーヌ公の娘を妻とし、バール枢機卿の養子となる)が加わる。同年九月、フランス東部のシャンベリーで合意された協定によれば、ブルゴーニュ公はフランスにおける軍事行動の停止を確約して、パリ政府対ブールジュ政府の抗争に関する中立の意志を表明したのに対して、 王太子はブルゴーニュ公領不可侵の声明を出した。この協定締結の前後には、一四二三年にリッシュモン伯アルテュールとマルグリッド・ド・ブルゴーニュMarguerite de Bourgogne(先の王太子ルイの妻であったが、一四一五年ルイ死去により寡婦となっていた)の結婚が、一四二五年にはブルボン公シャルルCharlesとアニェス・ド・ブルゴーニュAgnès de Bourgogneの結婚がなされた。一四二五年三月に王太子の宮廷に入ったアルテュールは、二年後に王太子の寵臣ピエール・ド・ジアックを失脚させて自ら側近筆頭の地位に就き、アルマニャック派追放に成功している。その間、王太子は一四二四年八月、スコットランドとロンバルディア地方出身の傭兵隊を主力とする一万四〇〇〇人を率いて、シャルトル北西に位置するヴェルヌイユ・シュール・アーヴルVerneuil sur Avreにおいてベドフォード指揮下のイングランド軍一万人と戦って敗れ、兵を引き揚げている。勝利を収めたイングランド軍は、ノルマンディ地方からメーヌへ、そしてペルシュ山脈を越えてシャルトルへ、さらにはボース平野を東へ進んだ。イングランド軍がオルレアンにたどり着いたのは一四二八年一〇月一二日のことで、そのまま冬越しの包囲陣を構えた。イングランド軍を指揮していたソールズヴェリSalisburyは、翌年五月八日、火砲から発射された石の弾丸に当たり戦死している。
 さて、そこから遡ること一六年前の一四一二年一月六日(ユリウス暦)、ロレーヌ地方のムーズ河谷にあるドンレミ村(今日のロレーヌ地域圏ヴォージュ県ドンレミ=ラ=ピュセルDomremy-la-Pucelle)の裕福な農家に誕生したのがジャネットJeanetteことジャンヌ・ダルクJeanne d'Arc(一四一二~三一)である。当時のドンレミ村はバール公領Comté de Barに属しており、周囲をブルゴーニュ公領に囲まれながらもフランス王家への素朴な忠誠心を持った村だった。村の守護聖人は聖レミRemiで、ジャンヌが洗礼を受けたのも村の中心にあるサン・レミ教会である。敬虔なキリスト教徒に成長したジャンヌは、一四二五年頃(一三歳頃)、初めて大天使ミシェル、聖カトリーヌ、聖マルグリットの姿を幻視し、「イングランド軍を駆逐して王太子をランスへと連れて行きフランス王位に就かしめよ」という神の〈声〉を聴いたと言う。フランス王家とブルゴーニュ公国の対立は、彼女にとっては〈ドンレミ村の敵であるブルゴーニュ公国の敵は、村の味方〉と映ったに違いない。一四二八年(一六歳頃)、ジャンヌは神の〈声〉に応えるべく、親類のデュラン・ラソワに頼み込んでヴォークルールVaucouleurs(トゥール司教管区)の守備隊長ロベール・ド・ヴォードリクールを訪れた。翌年、再びヴォークルールを訪れたジャンヌは、ジャン・ド・メスJean de Metzとベルトラン・ド・プーランジBertrand de Poulengyという二人の貴族の援助でヴォードリクールに再会し、オルレアン近郊におけるニシンの戦い(一四二九年二月一二日、ルーヴレの戦い)で仏軍が敗北するという預言した。ヴォードリクールは前線からの報告でジャンヌの預言が的中したことを知って驚き、ジャンヌが協力者(騎士一人・準騎士一人・下僕四人)とともに王太子シャルルの王宮があるシノンChinonまで行くことを許可した。二月二三日、ジャンヌは乗馬用の男装をしてヴォークルールを出発し、三月四日にはフィエルボワFierboisに到着した。彼女はここで王太子への手紙を認め、 護衛をしてきた二人に託して送付した。その後、聖カトリーヌSainte Catherine の像に祈り、翌日には三度もミサに出席している。
 三月六日、ジャンヌ・ダルクは再び出発して、昼食後、シノン城で王太子に拝謁している。その時、王太子は「気高い王太子様、私は殿下と殿下の王国に援軍をもたらすためここへ参りました。神の命令によって送られてきたのです」(『復権裁判』一四六頁)と語るジャンヌに驚く。しかし彼は、ジャンヌを異端と見なす可能性を否定してその高潔性を証明するために、彼女の身元調査の審議会開催とポワティエにおける教理問答を命じた。四月にジャンヌの審議に当たった委員会は、女性の手によって身体検査を行った結果、彼女の「高潔な暮らしぶり、謙遜、誠実、純真な心映えの善きキリスト教徒であることを宣言」している。一方、パリからやって来た大学の神学者が行った教理問答では、神からの啓示を受けたかどうかは判断できないと留保したが、彼女の役割の聖性を示すに足るものがあるという〈有利な憶測〉を伝えた。こうしてジャンヌはオルレアンに向かうことを認められ、王太子妃マリーの母(アンジュー公妃ヨランド・ダラゴン)が資金援助していたオルレアン派兵軍との同行や騎士としての軍装着用が許された。
三月二五日、ジャンヌはトゥールで甲冑を作り、警固役として準騎士・従卒二名を指名している。また、トゥールのアウグスティヌス派修道士であり、ジャンヌの聴罪司祭を務めたこともあるジャン・パスクレルJean Pasquerelに会っている。これは、ロワール川上流の町ピュイPuyの巡礼(復活祭に先立つ聖金曜日が三月二五日の「お告げの祝日」と一致する年に行われる巡礼。一四二九年もその年に該当した)に参加した際、ジャンヌの母イザベル・ロメは、パスクレルに「娘ジャンヌ・ダルクに会って指導して欲しい」と依頼したためである。ジャンヌの二人の兄ピエール、ジャンはパスクレルに同行し、これ以降は妹のために尽くすことになった(長兄ジャックマンはドンレミ村で家を守った)。四月二八日、ジャンヌとブロワで合流した二人の兄、司祭・修道者の一行は、オルレアン戦のための食料・火薬を載せた六〇〇台の荷馬車や牛馬とともに出発した。註㉕
 ジャンヌ一行がオルレアンに到着したのは、一四二九年四月二九日のことである。しかし、彼女らが着いたのはロワール左岸(南側)のブッシェ港で、そこはオルレアンをかなり通り越した場所だった。オルレアンに着いたものと思い込んだジャンヌは、野外ミサを執り行うように要請した。ところがその時、はるか川向こうにオルレアンの鐘楼が聳えているのを見つけたジャンヌは、いつになく激高したと言われている。しかし上手い具合に風向きが変わって、兵站を運ぶ船はオルレアン東のシェシィ港(右岸)に着岸できた。彼女はブルジョワの館に迎え入れられ、夕刻にはオルレアンに向けて出発した。深夜にはブルゴーニュ門が開かれ、軍旗を持つ従者たちの先導に続いて、白馬に乗ったジャンヌとジャン・ド・デュノワJean de Dunois(オルレアン公ルイ・ド・ヴァロワの庶子)が進んだ。「乙女(ピュセルpucelle)は甲冑に身を固め、白馬に跨って町に入ってきた。先駆の兵に持たせた旗印には、純白の地に百合の花を手に持った二人の天使が描かれており、槍先の小旗には受胎告知のような図が描かれていた。天使がその前に百合の花を差し出しているマリア様の図であった」(『籠城日記』)。
 ジャンヌ一行は、西側のルナール門近くにあるオルレアン公財務官ジャック・ブーシェーJacques Boucherの家(第二次世界大戦で焼失したが、メゾン・ジャンヌ・ダルクLa Maison de Jeanne d'Arcとして再建)の館に陣取った。当時オルレアン公シャルルは、アザンクールの戦い(一四一五年)以後はイングランドの捕虜となっており、異母弟ジャン・ド・デュノワがオルレアン公家の筆頭としてイングランド軍と対峙していたのである。そのデュノワは、始めのうちジャンヌが作戦に関わることを認めなかった。しかし、五月一日朝、ジャンヌはルナール門の向かい側の数百メートル先にイングランド軍指令官タルボット(シュルーズベリー伯ジョン・タルボットJohn Talbot, 1st Earl of Shrewsbury)の要塞を発見し、その後一週間に及ぶ攻撃の幕が切って落とされた(ただし、五月五日のキリスト昇天祭には軍備を解いた)。ジャンヌは奇襲攻撃でサン=ルー要塞を撃破し(四日)、七日には「私を愛するものは続け」と兵士を叱咤激励し、 トゥーレル砦Fort des Tourelles の決戦でも勝利を得た(ジャンヌは、預言通りこの戦いで胸の上部に矢を受け負傷したが大事には至らなかった)。翌八日にはイングランド軍がオルレアンの包囲を解いて撤退し、ついにオルレアン解放が実現した。ジャンヌは自分こそが解放戦の指揮官と思いこんでいたが、実際は当時まだ二七歳ではあるが歴戦の勇士ジャン・ド・デュノワの力に負っていた。彼は王太子に忠義を尽くし、 後には侍従長となって公子の称号を得ている。しかし、彼は神懸かり的なジャンヌの活躍に驚き、 一四五六年の「復権裁判」では二七年前の感嘆の思いを証言している。
 その後、ジャンヌ率いる仏軍は、ロワール川流域で小規模な戦闘を繰り返した。六月一二日、ジャンヌの軍隊がジャルジョーJargeauを占領してイングランド軍司令官サフォーク伯を捕らえた時、ブルターニュ公ジャン五世の弟リッシュモン伯アルテュールが合流の動きをみせた。しかし、リッシュモンド伯と激しく対立していた筆頭侍従ドゥ・ラ・トレムイユは、リッシュモン軍の合流阻止を命じた。ジャンヌと司令官アランソン公Jean II de Valois, duc d'Alencon(当時二〇歳)はこれに従おうとしたが、配下のラ・イルLa Hire(エティエンヌ・ド・ヴィニョルEtienne de Vignolles)、ジャン・ポトン・ド・ザントライユJean Poton de Xaintrailles、ジャン・ド・デュノワらは、武勇の誉れ高いリッシュモン元帥を迎え入れて合力すべしと主張した。ジャンヌは後者の意見を受け入れ、以後はリッシュモン伯が実質的な指揮を執ることになる。六月一八日、リッシュモン軍の合流を知ったボージャンシーBeaugencyは戦意を喪失して降伏している。
一方、イングランド軍の指揮官タルボットとジョン・ファストルフJohn Fastolfは、要衝のマン橋を仏軍に抑えられて反撃に失敗し、イル・ド・フランス方面への撤退を余儀なくされた。それに対して仏軍は追撃を行う。リッシュモン伯の配下のボーマノワールとブーサックに加え、騎馬部隊を率いたジャン・ポトン・ド・ザントライユとラ・イルが前衛となり、ジャンヌとリッシュモン大元帥が本隊を編成して後に続いた。イングランド軍のタルボットはパテー Patay近郊の森に陣を張って迎撃作戦に出たが、それを察知したラ・イルが素早く攻撃を開始してイングランド軍を壊滅させた。その結果、 タルボットは仏軍の捕虜となり、ファストルフは僅かな手勢と共に敗走した(六月一八日パテーの戦い)。この奇蹟とも言える勝利によって仏軍は一気に優勢に転じ、北に向けて進軍することになる。その間、ジャンヌと行動を共にしたアランソン公は、彼女の「復権裁判」で証言台に立ち、軍隊で飛び交っていた罵詈呪詛や娼婦の従軍を嫌悪していたこと、軍事における慧眼と予測においては歴戦の隊長に劣らずその任に相応しかったこと、 そして敬虔で貞淑な性格、美しい胸にについて言及している。彼女の胸は、他の兵士とともに藁の上で寝たときに何度か目撃したが、肉欲は全くそそられなかったという。ジャンヌは生身の女ではなく、死と隣り合わせの戦場における超常的な存在であった。
その間、王太子シャルルがオルレアンを訪れることはなく、感謝表明もかなり後のことであった(ただし、一四三〇年二月には免税などの特権を付与している)。彼は、ジャンヌを突き動かしている郷土愛や〈神聖な王〉という観念に対する警戒心を抱いており、彼女の戦闘主義よりも外交を優先させた。王太子はジョルジュ・ド・ラ・トレモイユ、ランス大司教ルニョウ・ド・シャルトルに命じてブルゴーニュ公フィリップと交渉させ、ブルゴーニュ公国にはパリ進駐を認める代わりに、王太子自身はオアーズ川沿いの町(コンピエーニュCompiègne、ポン・サント・マクサンス Pont-Sainte-Maxence、クレイユCreil、サンリスSenlis)を獲得することで合意に達した。ブルゴーニュの『年代記』作者ジョルジュ・シャトランGeorge Chastellainによれば、「彼(王太子)には幾つかの目立った癖があった。主なものは移り気、猜疑心、嫉妬の三つである」。王太子はジャンヌたちのパリ攻撃に反対し、攻撃日程の変更を指示している。また、配下の部隊を撤退させ、ジャンヌやアランソン公の発意で架けられたセーヌ川の橋を破壊し、イングランド軍が支配するノルマンディ地方への進撃も禁じた。その間に、七月一七日にはランス大聖堂Reimsで聖別・戴冠式が挙行され、名実ともにフランス国王シャルル七世となったのである。同月二〇日、ランスを発ってコルベニーへ向かったシャルル七世は、聖マルクーMal-coul(五五八年頃没)の聖遺物館を礼拝して〈治癒の力〉を与えられた。その後、ランス大司教区のヴァイイVaillyに入ると町はすぐに王に服従を誓い、 それまでブルゴーニュ公に与していた周辺都市の領主や市政者たちも王のもとを訪れて町の鍵を献上し服従を誓った。こうしてソワソンSoissons、ランLaon、プロヴァンProvins、シャトー・ティエリChateau-Thierry、クロミエ Coulommiers、クレシィCrEcy、コンピエーニュCompiegneなどシャンパーニュ地方、 ピカルディ地方の主な諸都市がシャルル七世の支配下に入った。
 九月に入ってジャンヌとアランソン公が率いていた軍隊はパリ攻撃(七~八日)に失敗し、ジャンヌの負傷もあって国王から攻撃中止の命令が出された。翌三〇年五月七日、ブルゴーニュ軍はコンピエーニュ包囲に成功し、二三日にはそこに現れたジャンヌを捕虜とする。その時、パリ大学はブルゴーニュ公にジャンヌの身柄引き渡しを要請し(二六日)、秋には身代金と引き換えにイングランド王国に売り渡された(一一月二一日)。そして一二月二四日、ルーアンに到着したジャンヌは、翌年一月九日から「処刑裁判」が開始され、五月三〇日にはヴィユ・マルシェVieux-Marcheにおいて焚刑に処せられたのである。註㉖

 五 シャルル七世の聖別・戴冠式
 一四二九年七月一七日、仏王シャルル七世がランス大聖堂Reimsで挙行した聖別・戴冠式は、中世国家の特徴を示しており、ジャンヌ・ダルクの生涯とも大いに関わっている。聖別儀式の最終日、シャルル7世はランス近郊のコルベニーにある聖マルクーの聖遺物館を礼拝することによって〈治癒の力〉を与えられたが、これは何を意味するのか。西洋中世における王としての正当性や適格性は、キリスト教的理念と深い関係があった。すなわち王は、〈神意の地上への伝達者〉として聖職者と類似した役割(半聖職者性)を担い、 同時に〈常人とは異なる特性・超越性〉が不可欠であることから神との近似性(半神性)をも求められる存在であった。したがって、中世国家の政治は必然的に神権的性格を帯び、王の〈聖性〉は不可欠の要素であった。聖別式(王に聖性を賦与する儀礼)sacreは、九〇〇年頃に成立した「エルトマンの定式書」まで遡り、「フルラードの定式書」(九八〇年頃成立)を経て、ルイ九世時代の「ランスの定式書」(一二三〇年頃)・「一二五〇年の定式書」「サンスの定式書」(一二五〇~七〇年頃)で確立したと言われる。聖別式を《sacre et couronnement》と表現するのは「ランスの定式書」からアンリ三世の聖別(一五七五年)までで、塗油と戴冠の両儀の一体性を指している。しかし、西欧における戴冠儀礼coronatio, couronnementは八〇〇年(シャルルマーニュ帝のローマ皇帝戴冠)までしか遡れないのに対して、塗油式unctio, onctionが既に六七二年、西ゴート王国ワムバ王Wamba(在位六七二~八〇)の即位式で導入されていることから、もともとは別個に開始されたものと思われる。フランスにおける両儀の一体化の始点をシャルル二世の聖別(八六九年)に求めて、ランス大司教ヒンクマルHincmar(在位八四五
~八八二)の果たした役割を強調する説があるが、ポスト・カロリング期(九世紀後半~一〇世紀末)に両儀の一体化がどの程度進んだかは未だ明らかでない。また、聖別が行われる場所がランス大司教座聖堂に固定化するのは、カペー朝第三代国王アンリ一世Henri I(在位一〇三一~六〇)の聖別(一〇二七年)からで、ブルボン復古王朝最後の国王シャルル一〇世Charles X(在位一八二四~三〇)の聖別(一八二五年)までの計三五回のうち三〇回も挙行されている。その理由は、ランス大司教座聖堂が一二世紀前半に〈王国全体の母にして頭〉の地位を得ただけでなく、大司教ヒンクマルがフランス国王の聖別をクローヴィスの洗礼と結びつけたことによる。ロベール家の諸王はサンス大司教から聖別を受けていたが、九三六年、カロリング系に王位が戻ってからはランス大司教が聖別の執行権を確保した。こうして、一一八〇年に始まるフィリップ二世の治世以降、(1)サン・ドニ修道院Abbaye de Saint-Denisからの「権標」regalia搬出(王に賦与される権標には、 右手薬指にはめる金の指輪annulus、右手に持つ上部に百合の花形がついた長杖、左手に持つ上部に象牙の手形がついた短杖がある)、(2)ランス近郊のサン・レミ修道院Basilique Saint-Remiからの聖油壜移送(聖油は聖皿にオリーヴ油を注ぎ、金製の針で芳香性の樹脂を混ぜ合わせて作られる。また塗油の部位は、頭頂、両肩、胸、背中、両掌、両肘の九カ所)、(3)ランス大司教座聖堂における聖別儀礼の挙行、という基本的な流れが確立した。また、聖別の挙行日は主日(日曜日)も充てられたが、降誕祭(一二月二五日)Noel, Christmas、復活祭(春分後の最初の満月の後の第一日曜日)Paques, Easter、聖霊降臨祭(復活後五〇日目の五旬祭)Pentecoteなど宗教上の大祭日が一般的となる。聖別儀式はランスへの入城に始まり瘰癧接触で終わる五日間の行事だが、三日目には剣の祝別、塗油、権標授与、戴冠diadema, coronaの順で儀式が行われる。
 これらの儀式はそれぞれ王の持つ〈聖性〉にとって重要な意味を持つが、なかでも特異な儀式は瘰癧治癒である。聖別儀式の最終日に組み込まれた瘰癧scrofulae, ecrouelles(結核性のリンパ腺炎ないし皮膚疾患)治癒は、新国王がランス郊外のコルベニー施療院に赴いて聖人に供物を捧げ、祈禱を行った後で、集まった瘰癧患者の体に手を触れるという形で儀礼化されていた。こうした瘰癧治癒の儀礼は、聖者・聖遺物崇拝と密接に関連している。聖別儀礼の際に訪れるコルベニー施療院の守護聖者は六世紀にノルマンディ地方で活躍した聖マルクーで、その手で触れることにより病を治すことで知られていた。また、コルベニーは元来王宮の所在地であったが、八九八年、ノルマン人の侵攻を受けた聖マルクーを守護聖者とする僧院のために仏王シャルル三世が用地を寄進し、僧院はクータンスCoutancesからコルベニーへと移転した。彼等が持参した聖マルクーの聖遺物を館に安置して以来、歴代のフランス王はランスで塗油され戴冠した後、このコルベニーに巡礼して聖マルクーの聖遺物館を礼拝することで〈治癒の力〉を与えられたのである。その後、コルベニーには聖マルクー修道院が建てられ、その横に施療院が加えられた。治癒の奇蹟は王と治癒者を同一視する民衆的・土俗的信仰を生み、やがて王の治癒能力が聖別、塗油によるカトリック的な説明に転化したのである。したがって、シャルル七世が行った一連の聖別・戴冠式の行事は、聖者・聖遺物崇拝と相俟ってフランスに住む民衆の〈崇敬の念〉を集めることになり、ジャンヌ・ダルクも例外ではなかった。

 六 ジャンヌ処刑裁判の意味
 一四三〇年五月、ジャンヌ・ダルクがコンピエーニュでブルゴーニュ派の捕虜になってから僅か一カ月後、ピエール・コーションPierre Cauchonという人物が彼女の裁判を取り仕切ることとなった。彼は一三七一年ブルジョワの子弟として生まれ、パリ大学に学んだ。神学部を六年で中退し、学者にはならなかったが実務能力や組織力に長けていたため一三九七年、一四〇三年と二度にわたって学長に選出されている。コーションはランスやボーヴェBeauvaisの司教座参事などの地位を得たが、高収入を得られる司教職を狙っていた(一四〇七年現在の日当は、パリ大学の博士・教授が三リーヴル、僧院長六リーヴル、司教一〇リーヴル)。当時は教皇庁がローマとアヴィニョンに分かれる教会大分裂(一三七八~一四一七年)の時代で、パリ大学はブルゴーニュ公とともに「仏王はアヴィニョン教皇庁と癒着している」と批判して大分裂解消の論陣を張っていたが、コーションも同じ立場であった。パリ大学は、仏王フィリップ四世と教皇ボニファティウス八世との権力争い以降、両者の間に入って双方から恩恵を得ていたが、教会統一後にはローマ教皇庁に納付される税金の分け前を得ることの方が有利だと判断したようである。
 一四〇七年、オルレアン公ルイが暗殺されるという事件が発生したとき、パリ大学の神学者ジャン・プティJean Petitは翌年三月の講演会でブルゴーニュ公を弁護し、コーションもこれを是認した。そして、この事件を契機にブルゴーニュ公側近の一人となったコーションは、一四一三年カボシュの暴動L'emeute cabochienneを画策し、神聖ローマ皇帝ジギスムントが提唱したコンスタンツ公会議(一四一四~18 
年)にフランス代表として参加している。神学者ジャン・ジェルソンJean Gersonはこの会議で大シスマ解決と公会議首位説を実現したが、〈独裁者殺し擁護の神学〉を弾劾しようとしたジャン・プティの訴えは、コーションがイタリア人枢機卿三人をはじめとする聖職者たちを買収したことで棄却された。フランスに戻ったコーションは、ブルゴーニュ公によって内閣審理官に任命され(年俸一五〇〇リーヴル)、アルマニャック派の司祭たちを裁いてはその資産を没収した。
 ところが一四一九年九月一〇日、コーションが頼りとするブルゴーニュ公ジャンは、王太子との会見場モントローの橋の上で暗殺されてしまった。コーションはすかさずトロワの和約(一四二〇年五月一九日)の起草に関与し、新ブルゴーニュ公フィリップ三世やイングランド王ヘンリ五世だけでなく、仏王シャルル六世や統一教皇マルティヌス五世らの支持を得て、ボーヴェ司教に任命された。その後、彼はパリ郊外のムーランMoulinに赴いて仏軍駐屯地を引き渡す手助けをしたことから、次第にイングランド軍と関係を深めた。一四二二年イングランド王ヘンリ五世・仏王シャルル六世が相次いで身罷った時、コーションは幼いイングランド王ヘンリ六世や摂政ベッドフォート公の顧問となっている。また彼は、ベッドフォード公のパリにおける政府財源をフランスの聖職者から取りあげた資金で賄い、ローマ教皇への上納金には手を触れなかったことから、新教皇マルティヌス五世との関係も良好となった。ところが、一四二九年五月にジャンヌ・ダルクがオルレアン解放を果たし、七月にはシャルル七世がランスで戴冠式を挙行したため、 形勢不利に驚いたコーションは九月末、ベッドフォード公に付いていく形でイングランドへ渡っている。彼等の目的はイングランド議会から軍資金を出させることと、幼いヘンリ六世にパリ入城を促すことにあった。したがって、この当時のコーションは明らかに〈イギリス側の人間〉と見なされていた。
 一四三〇年五月、ブルゴーニュ公の家臣ジャン・ド・リュクサンブールJean II de Luxembourgは、ジャンヌ・ダルクを自らの居城であるボールヴォワール城に連行し監視させた。ジャンのもとにはあらゆる陣営から身代金支払いの申し出が殺到したが、主君ブルゴーニュ公フィリップは同盟国イングランドに身柄を引き渡すよう指示した。五月二六日、パリ大学が裁判のためにジャンヌの身柄引き取りを要請したが、 ボーヴェ司教コーションは一万リーヴルでイングランド王ヘンリ六世に買い取らせた。また彼は、ジャンヌ・ダルクに対する異端審問の場所を英領ノルマンディ地方と指定し、自らを首席判事とした。コーションはジャンヌが捕らえられた場所を自分の管轄下のボーヴェ司教区内であったと強弁し、ルーアン大司教が不在のうちに参事会から買収した自分の所有地に(書類上の手続きなしに)法廷を開設したのである。
 ところで、一一九九年教皇インノケンティウス三世によって設けられた異端審問は、一二三一年、教皇グレゴリウス九世が「異端の悔悛者は終身刑、悔悛しない異端者は死刑」という基準を設定していた。フランスの異端審問法廷はトゥールーズに常設され、一三世紀を通じて多くのカタリ派を火刑台に送ったので有名である(異端審問官ベルナール・ド・コーは一人で五四七一人のカタリ派を尋問)。しかしカタリ派が姿を消すと、異端に対する弾劾は司教の采配に任されるようになり、一四世紀初めのテンプル騎士団の裁判(一三〇七~一一年)を最後にながく開廷されたことがなかった。ジャンヌの異端裁判が行われた一四三一年の時点では、フランスの大審問官はパリ大学教授グウヴラン(神学博士)ただ一人だけであった。ブルゴーニュ派で固められたパリ大学の神学者たちは、ジャンヌに異端の容疑があることは認めたが、教会を脅かす力を持たない彼女を積極的に裁く理由を持たなかった。そのため、パリ大学教授グウヴランやルーアンの審問官ルメートルは異端審問の責務から逃げようとした。結局、ルメートルはグラヴラン教授の圧力に屈してこの仕事を引き受けたが、最後まで傍観者的態度をとり続けている(但し、コーションとルメートルはともに、ヘンリ六世から裁判報酬として一万リーヴルを受けとっている)。
 一四三一年五月二八日(月)、二カ月間に及んだありとあらゆる迫害の末、ジャンヌは恐怖と疲労の極限状態で〈異端を捨てる〉ことを強制された。オルレアン解放以後の彼女の行動は、異端として弾劾できるようなものは見いだしがたく、唯一可能性があったのは男装の問題であった。女性の男装は、「女が男の着物を身にまとうことがあってはならない。男が女の着物を着ることがあってはならない。これらのことを行なう者はすべて、あなたの神ヤハウェが忌み嫌うものだからである」(『旧約聖書』申命記二二―五)とされ、教会法上も許されない行為である。しかし、ポワティエの神学者たちは、ジャンヌは神が下した使命を遂行するために男たちと暮らさねばならなかったのだから男装の必然性があると判断した。また、パリ大学のジャン・ジェルソンJean Gerson(一三九五年、パリ大学総長就任。ピサ教会会議やコンスタンツ公会議を主導て「公会議主義」を主張)は、旧約聖書の律法すべてが新約聖書に継承されたわけではなく、女性の男装の条件として〈必然性、有用性、目上の者からの例外的な許可〉という三点を規定した。戦場に赴くジャンヌにとって軍装は〈必要なもの〉であり、処女性を守るために〈有用なもの〉であり、神のお告げという最高権威者から〈許可〉されたものでもあったから、全ての条件を満たしていた。しかし、ジャンヌはオルレアン解放後も恒常的に、しかも身分の高い騎士の着衣を身につけていたことを理由として弾劾されることになる。終身刑と男装を捨てることを言い渡された日の四日後、再び男装をして審問法廷に引き出されたジャンヌは、聖カトリーヌと聖マルグリットから「異端破棄をすることによって彼女が合意した著しい背信」を神が大いに嘆かれたと知らされたからだと述べた。その結果、ジャンヌは「戻り異端」として火刑台に上ることになった。
 五月三〇日(水)朝、ジャンヌは審問の陪席判事であるマルタン・ラドヴニュ修道士に告解Confessio(洗礼後に犯した自罪を告白し、神からの赦しと和解を得る信仰儀礼。現在のカトリック教会では「赦しの秘跡」と呼んでいる)をして御聖体の秘蹟を拝領し、神と聖人に魂の救済を嘆願し続けた。やがて、八〇〇人以上の兵士に囲まれてヴィユ・マルシェ広場に引き出されると、付き添いの僧たちは涙を禁じ得なかったという。仮設台の上で教会から世俗の法官の手に引き渡す旨の宣告を受けたジャンヌは、跪いて祈りを捧げ、敵を赦し、十字架と聖水(司教・司祭により聖別された特別な水)を所望した。ルーアンの法官の命令で焚刑台に近づいたジャンヌは、イングランド人の渡した十字架に口づけをして胸に押し当てた。火が放たれた時には大声でイエスの名を叫んだと言われている。この光景を見つめていたルーアンの群衆やイングランド軍兵士たちは、彼女が〈魔女〉などではなく、〈善きキリスト者〉として精一杯生きた小さく無力な娘であることを知ることになった。彼等は聖女を殺すのに加担してしまったのである。うずたかく積まれていた薪は若い体を焼き尽くすには足りなかったらしく、開いた胸郭から血まみれの心臓が現れた。聖遺物が残ることを怖れたイングランド軍は、 丁寧に掻き集めた灰とともに全てをセーヌ川に捨ててしまったという。
 ベッドフォード公が異端審問に固執した理由は、イングランド兵から〈魔女〉として怖れられたジャンヌを〈神の代理人〉である教会の手で抹殺する必要があったからである。その間、コーションは徹頭徹尾、ベッドフォード公の政治的思惑に沿って行動し、ジャンヌが最初に自分の過ちを認めた後も、他の法官の合意なしにイングランド側の牢獄に戻して、焚刑に価する「戻り異端」を誘導している。コーションは自ら推進した異端審問が教会法的にも違法処理の連続であることは承知していたようで、彼は自分の身柄保障をイングランド王に求め、焚刑後二週間しか経たない六月一二日にヘンリ六世名の念書を得ている。コーションは、ジャンヌの死後すぐにルーアン司教になることを期待したが、結果的にはリジュー司教Lisieuxにしかなれず、彼女の「復権裁判」に先立つ一四年前に亡くなっている(享年七一歳)。
 一四五〇年二月一五日、仏王シャルル七世は、ジャンヌの母イザベル・ロメの請願を受けて「ジャンヌ・ダルク処刑裁判」に関する調査を指示し、三月四日、ノワイヨン司教教会参事会員のギヨーム・ブイエが調査を開始した(教会に対する調査は一四五二年五月二日開始)。そして一四五五年一一月七日、ようやく「ジャンヌ・ダルク復権裁判」が、パリのノートルダム大聖堂で開始された。査問官ブレアルはコーションの罪状を長々と読み上げ、聖職者たちも自らの過去の言動に遮幕を掛けようとコーション不利の証言を重ねた。仏王シャルル七世やカトリック教会は、全ての罪をコーション一人に背負わせることで幕引きをしたのである。それはイングランド側にとっても都合の良いことであった。また、復権裁判で明らかになった戦場のジャンヌは、「自然の必要のために馬を降りることは決してなかった」「朝から晩まで、 甲冑を着けたまま、飲むことも食べることもせずに馬に乗っていた」という。ジャンヌが口にするのは水とワインと魚だけだったが、ワインは聖餐における「キリストの血」であり、魚はイエス・キリストの象徴であった。また、彼女が求めた唯一の〈肉〉は「キリストの体」である聖体パン(ホスチアHostia)である。彼女は、オルレアン解放から逮捕されるまでの間は週二回の聖体拝領をしており、一四二九年八
月、パリ北方のサンリスで待機していた時はアランソン公とともに二日続けて聖体拝領をしたという「証言」もある。したがって、彼女は拒食症患者の過活動状態にあり、拒食による病的痩せは女性としての体つきを変えただけでなく、生理不順の症状を引き起こしていた。ジャンヌは生理による出血どころか、汗も尿も極端に少なかったと言われるが、その一方でたびたび涙を流している。ジャンヌ・ダルクは拒食によって〈性差〉を超越し、聖体拝領と流す涙によって〈清らかさと力〉を体現したのである。一四五八年一一月二八日、母イザベル・ロメの死によって「復権裁判」は終了した。註㉗
    
第五節 百年戦争第四期(一四三五~五三年)
 一 アラス平和会議(一四三五年)
 一四二九年七月一七日、仏王シャルル七世がランス大聖堂で聖別・戴冠式を挙げていた時、リッシュモン伯アルテュールはイングランド王国の摂政ベッドフォード公との対決に忙殺されていた。彼の母ジャンヌ・ド・ナヴァールはフランスからイングランド王ヘンリ四世のもとに嫁ぎ、生まれたのがアルテュールである。彼ははじめアルマニャック派に属してブルゴーニュ公国と対立していたが、一四一五年、アザンクールの戦いで捕虜(一四二〇年解放)となった後はイングランド側の味方となり、一四二二年にはトゥーレーヌ公に叙爵された。しかし、イングランド王ヘンリ五世が亡くなった後は王太子の陣営に戻り、反英親仏の立場に転換した(一四二四年)。一四二五年、アルテュールは軍司令官に任用されたが、王太子の寵臣たちを追放し、筆頭侍従ボーリユの後任としてラ・トレムイユを推薦したことで王太子の信用を失い、 一四二七年には皮肉にもラ・トレムイユによって追放されてしまった。(前にも触れたように)一四二九年六月、ジャンヌ・ダルクに率いられた軍勢がロワール川の掃討作戦を開始した時、失地回復の好機とみた彼は合流してパテーの戦いの勝利に貢献した(六月一八日)という経緯がある。
 一四三〇年、ジャンヌ・ダルクがブルターニュ軍に捕らえられ、イングランド軍に引き渡された際、ラ・イルやジル・ド・レイGilles de Raisなどジャンヌの崇拝者たちは独自に救援策を試みたが、シャルル七世やラ・トレムイユはジャンヌを見殺しにした。そのため、シャルル七世への反発が生まれたのを機に、リッシュモン伯とヨランド・ダラゴンはラ・トレムイユを捕らえて幽閉し、侍従にはヨランドの息子(王妃の弟)メーヌ伯シャルル Charles du Maineをあて、リッシュモン伯も再び総司令官の地位に返り咲いた(一四三三年)。その間、フランスはイングランド軍に対する反転攻勢を仕掛け、一四三五年五月のジュルブヴォワGerbevoyの戦いではラ・イル、ジャン・ポトン・ド・ザントライユ等の活躍で勝利を収めた。
 その頃、教会大分裂解消後に選出された教皇マルティヌス五世Martinus V(在位一四一七~三一)は、コンスタンツ公会議における「公会議の定期開催」という決定を受けて、パヴィアPavia 、ついでシエナSiena で公会議を行おうとしたが果たせず、一四三一年七月二三日になってようやくバーゼル公会議Basel(開催地がバーゼルからフェラーラFerrara、フィレンツェFirenze、ローマRomaへと移動したためバーゼル・フェラーラ・フィレンツェ公会議ともいう)を召集した。しかし、マルティヌス五世が開会を待たずに逝去したため、開催は次の教皇エウゲニウス四世Eugenius IV(在位一四三一~四七)に引き継がれた。この会議は二年間にわたる駆け引きの後に、教会改革を目指した多くの決定がなされ、懸案となっていたフス派の問題にも一応の解決を見た。英仏両国の和平に関しては教皇使節ニコロ・アルベルガーティNiccolo Albergatiが仲介の役割を担ったが、一四三三年八月、両国間で正統の仏王をめぐって激論が交わされてまとまらず、九月にはブルゴーニュ公が自国の代表団に(それまで同席していた)イングランド代表団の側から離れるよう指示した。それは結果的に仏王シャルル七世とブルゴーニュ公の接近をもたらし、一四三五年二月、ロワール川右岸で結ばれた「ヌヴェール協定」Neversでさらに密接なものとなる。この協定では、(1)ヴァロワ派の有力王族であるブルボン公とブルゴーニュ公の和解、(2)アラス平和会議の開催、 (3)仏王はブルゴーニュ公がイングランド王国との同盟を破棄した場合に生じる損失を補償すること、 が合意された。
 同年夏、アルトワ地方の中心都市アラスArrasで、主催国ブルゴーニュと主要交戦国であるイングランド、フランス、そして仲介者としての教会が参加するアラス平和会議が開催された。その時、イングランド代表団はアラス旧市街に、フランス(七月三〇日到着)とブルゴーニュの代表団は新市街に宿泊したが、 旧市街と新市街の間には濠があり、両地区間の行き来は一つの門を通してしか行えないような構造になっていた。会議は新市街にあるサン・ヴァースト修道院Saint-Vaast内で開かれ、「調停方式」という特殊な方法で運営された。会議室には修道院長用の部屋の一つがあてられ、その周囲の部屋は代表団の控え室とされた(各国代表団は毎日、午前中は七時から八時の間に、午後は三時から四時の間に出頭して待機する)。会議室には向き合った形でベンチが二脚置かれ、首席調停者アルベルガーティ(枢機卿)や枢機卿ユーグ・ド・リュジニャンHugues de Lusignan、各国の首席代表以外に、公証人・書記・事務官等が着席したものと思われる。控え室に待機していた各国代表は順次会議室に呼ばれて和平提案を提出し、また相手方提案に関する反応を探った。しかし、英仏間の思惑のずれはあまりにも大き過ぎた。八月三一日、イングランド代表はアラス会議からの離脱の意向を表明し、九月四日にシャルル七世側の最終提案を拒否して、六日にはついに会議から脱退した。その結果、アラス会議は英仏間の平和回復を実現できなかったが、ブルゴーニュ公が負っていたトロワ条約の遵守義務という重荷からの解放と、フランス王国・ブルゴーニュ公国の和議という新たな課題を鮮明にした。こうして九月二一日のアラス平和条約調印で、フランス王国はブルゴーニュ公国の事実上の独立を承認する代わり、イングランドとの同盟関係を断ち切らせることに成功したのである。なお、 イングランドのベッドフォード公は、九月一四日、ルーアンにて没している。

 二 領邦君主体制の終焉
 一四三六年、フランス軍はパリ奪回のための行動を起こし、アリエ川東岸のムーランMoulins奪取に始まり、二月にはポントワーズPontoiseを支配下に収めた。パリは仏軍によってセーヌ川とマルヌ川という二つの河川を押さえられために食糧搬入が不可能となり、たちまち食糧難に陥った。パリ奪回の指揮をとっていたリッシュモン元帥は、四月一三日、サン=ジャック門から突入し、国王シャルル七世の名においてイングランドに協力していた者たちに対する特赦を約束して秩序回復に努めた。一五日にはイングランド軍が降伏し、パリはフランス王国の首都へと戻ったのである(四月一七日)。翌年一一月一二日、仏王シャルル七世はパリ帰還を果たした。ジャンヌ・ダルク処刑裁判を取り仕切ったコーションはルーアンへ逃亡し、その他のパリ大学教授たちは日和見主義者としての才能を遺憾なく発揮して、彼等の特赦と特権維持を嘆願した。また、一四三二年、イングランド王ヘンリ六世によって創設されたカーン大学など新設大学の廃止を要求し、これは大学の自治権喪失につながった(カーン大学は一四五二年、シャルル七世によって正式に創設を認可された)。また翌三八年には聖職者会議が開催されて「ブールジュ国事詔勅」が発令され、「フランス国家教会主義」(ガリカニスム Gallicanisme)の動きが始まる。
 その間、一四三六年七月にブルゴーニュ公フィリップがカレー奪取を試みたが、イングランド軍に惨敗した。こうして英仏間の戦争は小康状態を保つようになり、一四四〇年五月には「二二カ月休戦協定」を結んでいる。しかし、一四四九年三月になると、アラゴン人傭兵隊長フランソワ・ド・シュリエンヌFrancois de Surienne率いるイングランド軍がブルターニュ公国のフジェールFougereを襲撃したことで休戦が破綻した。同年六月、シャルル七世はブルターニュ公国との攻守同盟を成立させ、翌月にはノルマンディ地方への攻撃を開始した。その頃、半独立状態にあったブルターニュ公国ではリッシュモン伯の兄ジャン五世Jean Vが身罷り(一四四二年)、その後は息子フランソワ一世Francois Iが継承したが、後見人はリッシュモン伯が務めていた。ルーアン南のポン・ド・ラルシュ城Pont-de-l'Archeを奪回してイングランド軍への攻撃を強めた仏軍は、八月以降はシャルル七世自らが軍の先頭に立ち、一一月にはルーアン総攻撃を命じた。劣勢にまわったイングランド軍はルーアンから退却するが、その後ヘンリ六世が派遣した援軍が辛うじて仏軍を撃破した。しかし、そこへ馳せ参じたのがリッシュモン伯率いるブルターニュ軍で、一四五〇年四月一五日、フォルミニFormignyの戦いで大勝利を収めた。この戦勝で勢いづいた仏軍は、大砲(註㉘)の威力でカーン(七月一日)、シェルブールCherbourg(八月一二日)を相次いで陥落させることに成功した。一四五〇年にはブルターニュ公のフランソワ一世が息子のないまま亡くなり、彼の遺言によって後を継いだ末弟ピエール二世PierreIIもまた実子のないまま逝去した。ついにブルターニュ公位はリッシュモン伯が継承することになり、彼はアルテュール三世Arthur III(在位一四五〇)として即位したのも束の間、同年健康を害して身罷った。甥のフランソワ二世、次いでその娘アンヌが後を継いだが、アンヌは仏王シャルル八世Charles VIII(在位一四八三~九八)に結婚を強要され、その死後はルイ一二世Louis XII(在位一四九八~一五一五)と再婚している。その結果、ブルターニュ公国はヴァロワ王家が相続することになり、やがて王領へと併合されたのである。
 一四五〇年一〇月、ギエンヌ地方のベルジュラックBergeracを制圧した仏軍は、翌年ボルドーBordeaux(六月一二日)、バイオンヌBayonne(八月一二日)を支配下に収めた。しかし、一四五二年一〇月にはイングランド軍が再びボルドーを奪回したため、翌年三月、シャルル七世がギエンヌ遠征を敢行した。カスティヨンCastillonの戦い(七月一七日)で勝利を収めた仏軍は、一〇月一九日、再びボルドーを解放し、 一一〇年以上にわたって繰り広げられてきた百年戦争が終結した。その結果、ヨーロッパ大陸に残されたイングランド領はカレーのみとなり、イングランド王国はしばらくの間、島国として発展することになる。時のイングランド王ヘンリ六世の母キャサリン・オブ・ヴァロワCatherine of Valois(カトリーヌ・ド・フランスCatherine de France)には王位継承権がなく、彼は《Nemo plus juris ad alium transferre potest quam ipse habet》(自分が持っていない権利を相続させることは出来ない)というフランク族以来の『サリカ法典』Lex Salicaに従ってフランス王位を断念したと言われている。なお、イングランド軍のフランス出兵は16世紀前半まで繰り返されたが、その目的はフランスからの年金獲得にあった。
 百年戦争を終結させたシャルル七世は、フランス王国のほぼ全域を王権の下に回復させた。彼は息子ルイとの確執に苦しみながらも、百年戦争で荒廃した国内の復興に励み、資本家ジャック・クールJacques Coeurによる財政整備(一四三六~五〇)、 官僚機構の整備、王国常備軍の創設などに精力的に取り組み、一四六一年七月二二日に逝去した。後を継いだルイ一一世Louis XI(慎重王、在位一四六一~八三)は、 ブルゴーニュ公シャルルCharles de Valois-Bourgogne(在位一四六七~七七)と対立し、一〇年間に及ぶブルゴーニュ戦争(一四七四~七七年)を展開した。この戦争は苦戦続きであったが、一四七六年にスイス傭兵(スイス盟約者団Alte Eidgenossenschaft)を雇ってからはグランソンGrandsonの戦い(三月二日)、モラMoratの戦い(六月二二日)と連続で勝利を収め、一四七七年一月、ブルゴーニュ公シャルルがロレーヌ公ルネ二世Rene II(在位一四七三~一五〇八)に敗れて戦死した(ナンシー Nancyの戦い)ことで、ブルゴーニュ公領の多くがフランス王国に併合された。ただし、ネーデルラントとフランシュ・コンテFranche-Comtéはシャルルの娘マリーMarie de Bourgougneが相続し、彼女が墺大公の子マクシミリアン(神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世Maximilian I、在位一四九三~一五一九)と結婚したために最終的にはハプスブルク家の所領になった。また、次の国王シャルル八世Charles VIII(温厚王、在位一四八三~九八)は、一四九一年アンヌ・ド・ブルターニュAnne de Bretagne(女公在位一四八八~一五一四)と結婚し、ブルターニュ公国を併合した(完全併合は一五三二年)。こうしてフランス国内の「領邦君主体制」は、ついに終焉の時を迎えたのである。註㉙
 
終節 フランス王国の強大化
 一 王権の拡大と貴族=領主層の廷臣化
 百年戦争が戦われた一四・一五世紀の西ヨーロッパでは、戦乱による農村の荒廃、黒死病の蔓延、飢饉の頻発などが原因で農村人口が激減し、耕作面積の縮小は生産総量の激減につながった。このような状況の下で、領主層は領主直営地からの収益や農民からの各種貢租収益が極度に低下したため、自己の所領内にいかに多くの耕作農民を確保するかが喫緊の課題となった。そこで彼等は、農民層に課してきた不自由貢租を減免し、人身的支配権を緩和するなどして譲歩せざるを得なかった(例えば、タイユ税tailleの定額化や人頭税・領外結婚税の廃止などがある)。農民支配の〈権力〉から〈権利〉への変質とも言える動きは、領主支配の物化(領主裁判権の低下や経済外的強制権の弱化)を招く。註㉚
また、中世中期に見られた地代の金納化・定額化に加えて、中世後期には戦争がもたらす財政悪化によって貨幣悪鋳(貨幣価値の低下)が繰り返され、結果的に領主層の実質収入の低下を引き起こした。そして、こうした変化は農村人口の激減下を生き抜いた農民に耕作面積の拡大という好機となって農民層の階層分化を促し、ラント制renteを生む。すなわち、富農層は自ら集積した保有地の一部を零細保有農や貧農に貸与して、その代償にラント(定期金)を徴収するようになったため、 下層農民は旧来の領主に納める地代(サンス)に加えて、富農に納入するラントも負うことになり、領主・富農・下層農民(保有農)という三者の所有権が重なり合うことになった。時には領主自身が農民保有地の上にラント権を設定する(上乗せサンスsur-cens)場合もあった。彼ら富農層は徐々に領主からの自立化を強め、一四八四年以降は身分制会議の構成員として王政にその意向を反映させてゆくことになる。
ところで、富農層や(農村部に土地を集積した)上層都市民によるラント権の設定は、領主が得ていた地代収入に対する蚕食を意味し、下層領主層の窮乏化の一因ともなった。領主層の中で騎士叙任式や武装のための費用を賄えなくなった者は、貴族・騎士身分から脱落するか、戦時には有給騎士として働くが平時には野武士(街道荒らし)や追剝団となるしかなかった。一方、中規模の世襲財産を有した貴族=領主層は王・諸侯から公職を得て自らの財産を確保し、大所領を有する有力家系の貴族=領主層は王・諸侯からそれ相応の官職を得て俸給を確保して所領支配の安堵を受けることが出来た。その結果、百年戦争が終結する一五世紀半ばを画期として王・諸侯のもとに新たな役人集団officiersが誕生し、貴族・上層都市民双方の出身者からなる〈名士〉notablesと呼ばれる社会集団が構成された。彼らは、役人として所領の管理、戦後の再建・復興を担うとともに、貧窮した騎士・小貴族から土地を購入するなどして支配階級の末端部分を形成していったのである。
 こうした貴族=領主層の官職貴族化、廷臣化の動きは、国王への権力集中をもたらし、統治・官僚機構に変化が見られた。一二世紀に成立した国王顧問会議consiliumは一四世紀初めには大評議会grand conseilに発展し、フィリップ五世(在位一三一六~二二)期には新たに少人数で構成した枢密会議conseil priveも設置された。やがて一五世紀に入ると、大評議会の機能が国王専決裁判に限定されるようになり、立法・行政機能は基本的に枢密会議に帰属することになる。シャルル七世(在位一四二二~六一)期における国政に関する重要案件は後者によって担当された。こうして、王個人の意思から独立した〈国家としての意思〉を表明し、国家権力を行使する場が整備されていった。百年戦争が終結した一五世紀半ばにはレーン制的要素が決定的に後退し、ルイ一一世(在位一四六一~八三)期には大封臣(諸侯層)に対しても〈臣民〉としての服従が求められ、国内に住む全ての人間が一律に王国の臣民となったのである。フランスの一四・一五世紀は内乱・内戦の連続で、百年戦争終結後も公益同盟戦争(一四六四~六五)や道化戦争(一四八五)などが勃発している。これら一連の内乱・内戦はいずれも王族諸侯と大諸侯が連携して王権に反旗を翻す形であり、個々の局面においては諸侯が王権に優越し、独自の行政・徴税組織を整備して〈王国中の王国〉の様相を呈したこともある。しかし、彼等の目標は(王権の優位性を認めた上で)王国統治に参加し、王権を統制しつつ国家を実質的に支配・管理することにあった。すなわち、彼等もまた(貴族=領主層一般の同様に)王権への〈寄生的性格〉を有していたのである。一方、王権の側から見れば、王国統治に恒常的、組織的に関与させることによって貴族=領主層を取り込む必要があった。
  
 二 国王裁判権の確立 ~領主裁判権・教会裁判権への侵蝕~
国王による公権力の集積は、基本的には貴族=領主層が持つ領主裁判権に対する侵蝕という形でなされた。ルイ九世治世の後半に始まる領主裁判権の蚕食は、(1)王と国家の利害に直結する訴訟は国王法廷に帰属するという「国王専決事犯」cas royauxが設定されたこと、(2)裁判結果が不適切と思われる場合、 あるいは不服の場合は上級法廷(最終的には国王法廷)が再審理する権限を持つという原則を確立し、国王裁判への上訴(アペルappel)が活発化したこと、(3)公的秩序を脅かしかねない刑事犯罪に対する領主裁判の遅滞・懈怠が生じた場合には、国王法廷が優先的に裁くことが出来るとする裁判先取システムpreventionを導入したことなどによって進行した。これらは王の持つ至上権、公的平和の維持権、立法権が前提となっており、フィリップ三世期に始まる三審級制(プレヴォ法廷→バイイ法廷→パルルマンparlement)が重要な支えとなった。
一方、王権による教会裁判権の侵蝕は、開始時期こそ少し遅れてフィリップ四世期となったが、基本的には領主裁判権に対する方法と同じように進行した。すなわち、王権が裁判権を拡大させる根拠を、王が持つ「公的秩序維持の責任」に置いたのである。具体的には、教会の権力濫用に対する検閲・制裁を通して司教の管轄下にあった宗教判事職officialite の権限を縮減し、それを王の裁判官の統制下に置こうとした。とりわけ封建的保有地や恩貸地beneficeの所有に関するもめ事については、公的秩序の危機、王が有する教会保護権tuitioを根拠に国王法廷が優先的に裁くようになった。
 そして、王権による教会裁判への統制強化は、ガリカニスムGallicanisme(国家教会主義)につながる動きでもあった。これは教会を国家の枠内で捉え、王権の支配下に従属させるものであり、その理念は一三世紀以降の神学・教会法研究と教会統治の実践を通して発展した。例えばパドヴァのマルシリオMarsilio da Padova(一二七〇頃~一三四三)やオッカムのウィリアムWilliam of Ockham(一三〇〇頃~四九頃)らは原理論を提供し、ジャン・ド・ジェルソンJean Gerson(一三六三~一四二九)、 ピエール・ダイイPierre d'Ailly(一三五〇~一四二〇)らパリの法学修士たちが発展させた。しかし、ガリカニスム推進の決定的画期となったのは、シャルル七世による「ブールジュの国事証書」Pragmatique sanction de Bourgesの発布(一四三八年)である。これはバーゼル公会議の教令のいくつかをフランス向けに公布、適用したものであるが、教会立法の源泉を自らの公会議と王権に求めようとするフランス教会勢力の意向を反映している。その内容は、(1)公会議決定の教皇に対する優位性(公会議主義)、(2)聖職禄取得指名に関する教皇庁権限の制限、(3)教皇による教会課税の廃止または軽減、(4)ローマ教皇庁裁判所への上訴の規制・制限である。その後、国事証書はルイ一一世期(一四六一~八三)に一時的に廃止されたが、一五世紀末までにはその主要骨子が定着している。なお、フランスで国王専決裁判が法的資格を得るのは一五世紀後半以降のことである。

 三 常備軍の創設
 仏王シャルル七世がパリ帰還を果たしたのは一四三七年秋のことであるが、三年後の一四四〇年二月にはプラグリーPraguerieの乱と呼ばれる内乱に見舞われている。反乱の首謀者はブルボン公シャルル一世Charles I duc de Bourbonを中心とする有力諸侯で、彼等は国王とその寵臣による国政運営に深刻な危機感を抱いていたのであった。何故なら、王領地から切り離されて独自の支配圏と統治組織を持つ「諸侯国家」État prinicierへと発展してきた彼等の〈国家〉が強大な王権の下に統合されようとしていたからである。仏王シャルル六世期まではブルボン公など血統親王prince du sangが王国行政を牛耳ってきたが、シャルル七世の治世となってからは従来の慣行が破られ、寵臣シャルル・ダンジューCharles d'Anjouのようにアンジュー家三男で未だ所領も持たない人物が国政を左右するようになっていた。特に一四九三年一一月二日に発布された「オルレアン勅令」(全四六条)Ordonnance d'Orléansが血統親王たちの怒りを爆発させることになる。この勅令は、(1)フランス王国内すべての人々に対して軍隊の召集を禁じ、(2)兵士の略奪行為を禁じて秩序回復に努め、(3)国王以外の者の課税を禁ずる内容であった。 
 オルレアン勅令発布に際して召集された全国三部会には、ブルボン公シャルル一世をはじめ、ルネ・ダンジューRene d'Anjou、シャルル・ダンジュー、マルシェ伯Marche、ウ伯Eu、ヴァンドーム伯Vendome以外に、多くの聖職者、貴族、都市民が参加している。そこで重大な案件として取り上げられたのは、一四三五年「アラスの和約」締結で働く場所を失った傭兵たちが野武士(街道荒らし)routiers・追剝団écourcheursと呼ばれる集団を組織して各地を荒らしていたことであった。その当時、リッシュモン伯はデュノワ伯、 ラ・イル、ザントライユ等の武将を使ってイングランド軍に対する反転攻勢をかけていたが、(配下のブルターニュ兵はともかく)諸将の多くは相変わらず傭兵隊長的性質が強く、略奪を欲しいままにしていた。これでは民衆からの支持を得られないだけでなく、中立を守っているブルゴーニュ公国との同盟関係をも危うくなりかねない。したがって、「オルレアン勅令」には流浪する戦闘集団を配下に収めることによって軍事力を伸ばしているブルボン公など血統親王の実力を削き、従属と納税の代わりに特権と庇護を受けようとする優良都市との関係をより一層緊密にする意図があったのである。   
 一方、ブルボン公が「オルレアン勅令」に反発した理由は、血統親王としての自負心を傷つけられたことや国王の寵臣たちへの反発以外に、アパナージュの問題があった。所謂〈ブルボン国家〉が独自性を強めるのは、一三六四年にブルボン公となったルイ二世Louis IIからである。一四〇〇年、彼は息子クレルモン伯ジャンJean、comte de Clermont(後のブルボン公ジャン一世)とベリー公ジャンJean, duc de Berryの娘マリーMarieとの結婚に際して、国王からアパナージュとしてオーヴェルニュ公領・モンパンシェ伯領を受け取る約束をしていたが結果的に無視され、一四二五年、ジャン一世の治世になってようやく譲渡されたという経緯があった(当時、ブルボン公ジャン一世はイングランド軍の捕虜となっていたため、実際は公妃マリー・ド・ベリーに譲渡した)。ブルボン公をはじめとする血統親族が反乱を決意するのは、一四四〇年二月一七日、ブルボン公、アランソン公、ヴァンドーム伯、オルレアン私生児ジャンJean, bâtard d'Orléans、ショーモン卿Chaumont、プリ卿Prie等が参加したブロワBlois会談においてであった。この会談の直後、アランソン公がニオールNiortにいた王太子ルイ(後のルイ一一世)を説得して味方に引き込んだが、反乱はわずか五カ月で鎮圧された。その結果、王太子とブルボン公はシャルル七世に謝罪して恭順を誓い、ブルボン公はコルベイユ、ボワ・ド・ヴァンセンヌ、サンセール、ロッシュ城の返還を約束した。一方、国王は反乱に参加した王太子や貴族たちに赦免を与え、すべての戦闘行為の停止とあらゆる略奪行為の禁止を命じた。
 しかし、同年一二月にはアラスの和約をなかなか実行しない仏王シャルル七世に不満を抱いていたブルゴーニュ公フィリップが、ながい捕虜生活から解放されたばかりのオルレアン公シャルルと同盟関係を結んだ。翌年三月、プラグリーの乱に荷担したアランソン公やブルターニュ公がブルゴーニュ=オルレアン同盟との協調を表明し、四月にはブルボン公も参加した。一四四二年一月二九日、ヌヴェールで開かれた会談には、ブルゴーニュ公、プラグリーの乱に参加したヴァンドーム伯、反乱の途中で身を引いたデュノワ伯、仲裁役のウ伯が参加し、彼らは連名で国王に向けた抗議文書を提出した。しかし、彼等はまたしても国王の寵臣を排除することができず、改革の要求は国王によるブルボン公の年金増額(一万四四〇〇フラン)、未払い年金九〇〇〇フランの支払いなどで骨抜きとされてしまった。
しかし、ここにきてプラグリーの乱以降滞っていた軍制改革の動きが見られるようになり、一四四三年から翌年にかけて「勅令隊」創設の構想が生まれ、隊長職候補としてはブルボン公、ブラン・ルーBlain Loup、 アントワーヌ・ド・シャバンヌAntoine de Chabannes、ジャン・ド・ブランシュフォールJean de Blanchefortという四人のブルボン派閥出身者が含まれていた。一四四三年八月、シャルル七世はスイス諸州の反乱に窮していた神聖ローマ皇帝フリードリヒ三世Friedrich III(在位一四五二~九三)から援軍要請が届いていたが、翌年三月、トゥールにおけるイングランド軍との休戦条約締結の直後、王太子に命じてスイス遠征に向かわせた。その軍勢にはプラグリーの乱でブルボン公軍の中核として活躍したジャン・ダブシェJean d'Apchier、フランソワ・ダブシェFrançois d'Apchier、ジャン・ド・ブランシュフォール、グティエ・ド・ブルザックGautier de Brusac、ブラン・ルー、そしてブルボン公の二人の息子ピエール・ド・ボージューPierre de Beaujouとクレルモン伯も参加しており、要するに対外遠征を「野武士団」など王国内で跋扈していた戦闘集団を束ねることができる実力者の軍隊を国王軍に編入するために利用したのである。その間、シャルル七世自身はシャルル・ダンジュー等の側近を連れてアルザス・ロレーヌ地方へと向かい、神聖ローマ帝国との境界線における紛争を鎮めている。
 二つの遠征後の一四四五年三月、シャルル七世はロレーヌ地方のナンシーNancyで発した「軍事改革に関する勅令」と「ルーピ=ル=シャテル勅令」Ordonnance de Louppy-le-Châtel によって「勅令隊」編制に乗り出す。すなわち、アルザス・ロレーヌ遠征に参加した部隊を再編成し、隊長一五人の下に選抜された優秀な槍兵一五〇〇名を配置することによって、フランス国王直属の軍隊を誕生させたのである。兵士たちは、俸給が受け取る代わりに常に軍事行動をとる準備が求められた。そして勅令隊長職に就任したブルボン公の代行官がジャック・ド・シャバンヌであり、ブラン・ルーやジャン・ダブシェが他の勅令隊長の代行官や分遣隊長職に就いている事実から明らかなことは、反国王勢力を構成していた有力諸侯がことごとく国王権力に包摂されたということである。この勅令隊創設はやがて「常備軍」編制につながっていく。
 ここで改めてフランス王国における軍制の変化を振り返ってみると、一四世紀前半(フィリップ六世期、 一三二八~五〇)までは封建的軍隊としての性格が濃厚であったが、 ジャン二世からシャルル六世期(一三五〇~一四二二)に国王軍隊compagnieが形成され、シャルル七世からルイ一一世期(一四二二~八三)になって常備軍へ移行するという、三段階に分けられる(ただし、一四世紀初めには小貴族層の有給騎士soldats化が見られた)。これは百年戦争の勃発と相次ぐ敗北で軍隊の概念と組織の大幅な変容を余儀なくされ、一三五〇年頃には〈王の代理官の指揮の下で有給兵士が戦う〉本格的な国王軍隊を編制する必要が出ていたためである。その後、シャルル七世の勅令(一四四五年)によって勅令隊編制が明確に規定され、 同時に有給の騎馬隊による予備軍や一般人民の歩兵隊も創設された。また、ルイ一一世期には四軍管区が設定され、騎馬隊と歩兵隊が常備軍化している。このように、国王は公的秩序の最終責任主体として軍事力を確保する必要に迫られ、結果的に軍隊の「常備軍」化が推進されるとともに、それを支える財源確保が急務となったのである。

 四 都市的新興貴族層の出現
中世後期における王権の拡大・強化は、都市や都市民との連携強化を抜きにしては語れないが、その背景には商品貨幣経済の発展に伴う商人・手工業者の台頭があった。例えばガンの上層商人ジャック・ファン・アルテフェルデJacques van Arteveldeが主導した反乱(一三三八年)がフランドル支配をめぐる英仏関係を大きく左右したこと、有名なパリの商人頭エティエンヌ・マルセルの政治改革運動(一三五八年)が王位をめぐる王太子シャルル(五世)とナヴァール王シャルルの抗争と結びついて展開したこと、一五世紀初頭のアルマニャック派とブルゴーニュ派の抗争がパリの有力商人層の動向と大きく関係していたことを想起して欲しい。とりわけ重要なのは上層都市民(ブルジョワジー)の動向である。彼らの特徴は〈都市的新興貴族層〉としてしなやかに封建的秩序や貴族支配体制に参入し、王権と結びついて官職を得、「法服貴族」として国家機構の中に独自の位置を占めたことに求められる。シャルル七世期の富裕商人ジャック・クールはその典型で、経済力を背景にして戦費調達に貢献するとともに、財務官としては王権が聖俗諸侯層を押さえ込むことに貢献した。
ところで最初の全国三部会とされる一三〇二年王国集会に召集された都市代表団は、当該都市に賦与された特権から〈王の封臣〉と同様の立場にあると見なされた。この種の都市が所謂「優良都市」bonne villeで、王の権威に従属しつつその保護の下に置かれ、通貨政策、造幣、防衛・外交政策の策定、公益と公正のための裁判権行使などあらゆる面で、王としての職務執行の際の重要な協力者であった。一方、王権による都市への統制はルイ九世期以降に顕著となり、度量衡、職業選択、司法、財政など広範に行われるようになった。とりわけ都市財政への介入は、課税や援助金要求と結びついて顕著であった。その背景には国家機構の整備に伴う経費増大があるが、国王課税の実現という新たな事態に利益の芽を見いだしたのも新興貴族層であった。彼らは国家の重要役職に補任されて社会的地位と利益を得、人的ネットワークの構築をすることが出来たのである。こうした国王課税の重圧は都市財政の危機を招き、都市の貧民層を生み出しただけでなく、国王役人や新興貴族層に対する反乱を招くことになる。註㉛

註① H・ブルンナーHeinrich Brunner (一八四〇~一九一五)著『ドイツ法制史(die Bearbeitungen der deutschen Rechtsgeschichte』(全二巻、1887~92)は、中世の支配階級内部で相互に結ばれる主従関係(レーン制)Lehnswesenを中核とする政治・権力構造を明確にした著書として知られる。また、 H・ミッタイスHeinrich Mitteisは『レーン法と国家権力(Lehenrecht und Staatsgewalt)』(1933)、『中世盛期の国家(Der Staat des hohen Mittelalters)』(1940)はレーン制に関する機能論を展開し、邦訳としては世良晃志郎訳『ドイツ法制史概説』(Deutsche Rechtsgeschichte, ein Studienbuch, neubearbeitet von Heinz Lieberich, 11, erganzte Auflage, Munchen、1 969.が詳しい。我が国ではH・ミッタイスの理論を具体化させる形で堀米庸三氏・世良晃志郎氏らが議論を展開してきた。渡辺節夫著『フランスの中世社会』六八~七七頁、ハンス・K・シュルツ著『西欧中世史事典』三九~七六頁各参照。
註② レガリアregaliaとは、王権などを象徴し、それを持つことによって正統な王であると認めさせる象徴となる物品のことで、王冠・王笏・宝珠の3種が知られる。
註③渡辺節夫前掲書六八~七七頁参照
註④渡辺節夫前掲書七八~八三頁参照。イングランド王の所領であった西南フランスは、アキテーヌAquitaine、ギエンヌGuienne、ガスコーニュGascogneという三つの名称で呼ばれるが、アキテーヌとは古代ローマ時代のアクィタニアAquitaniaに由来し、北はポワトゥー、東はオーヴェルニュまでの非常に広い範囲を指し、専ら英国側が使用した語である。またギエンヌは専らフランス側で使用された語で、 元来はアキテーヌと同義であったが、一三世紀以降はドルドーニュ川やガロンヌ川の流域を中心とする(ポワトゥーを除く)アキテーヌ北西部を指す。なお、ガスコーニュはビスケー湾岸のアキテーヌ西南部のことである。
註⑤ フランス王国におけるアパナージュ制は近世以降も存続し、フランス革命期の一七九二年になって廃止された。その後、ナポレオン一世やルイ一八世期に復活し、一八三〇年にオルレアン家のアパナージュが王領に復帰するまで続いた。
註⑥ 「国王会議」curia regisは公的な政策決定と執行を行う宮廷cour, curiaへと発展した。王邸(王の私的な家政機構)hotel, aulaや王宮(王の居所)palais, palatiumとは区別される。
註⑦ 一五世紀にはトゥールーズ、グルノーブル、ディジョン、ボルドー等に高等法院が設置され、グルノーブ   
 ル、ディジョン、アンジェ等には会計検査院が設けられた。
註⑧ 一四世紀にはいると、先任の退官者が一定額の報酬を受け取る代わりに後任候補者を王に推薦する売官制度が始められた。
註⑨ 全国三部会は、一三〇二年、フィリップ四世がパリのノートルダム大聖堂に召集したのが最初で、その後も身分制議会として召集され続け、王が徴税するときは関係者の同意を必要とするという「ローマ法の原則」が定着した。また、地方三部会は一四世紀の北フランスで発達し、南部や西部の辺境地帯ではクリアcuriaが地方三部会に発展した。
註⑩ フランス南部に成立したコンシュラ都市は、市政官コンシュルの団体(コンシュラconsulat)によって運営された。コンシュラは、市民のほか聖職者や都市領主も参加し、賦与された「コンシュラ証書」によって特権を享受した。
註⑪ 一三世紀後半、国王は「諸職の所有者」と見なされるようになり、都市の親方職位を得るためには国王役   
 人への献金が必要となった。また、頻繁に高利貸禁止の勅令が出された(一二三〇年・一二四三年・一二五四年・一二六三年)。
註⑫ 西欧中世社会における貨幣の基本単位(リブラlibra・ソリドゥスsolidus・デナリウスdenarius)が最初に定められたのは、七九四年、シャルルマーニュの勅令による。その後、ポスト・カロリング期の混乱によって、従来の統一貨幣に代わるアンジュー貨・プロヴァン貨・トゥール貨など地域ごとの貨幣が現れた。所謂「パリ貨」parisisが普及するのはルイ六世期で、カペー王権の強大化とともにフランス各地に浸透した。各通貨の交換比率は、1 libra=20 solidus=240 denarius(1 soridus=12 denarius)であったが、ルイ九9世期にパリ貨とトゥール貨の交換比が5 livres tournois=4 livres parisisと定められた。
註⑬ 渡辺節夫「中世の社会 封建制と領主制」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史1』所収第六論文二六九~三二六頁)・前掲書八~一一五頁参照
註⑭ 封建主君の家臣は、封建法廷における決定に不満であった場合、封建主君に上訴して再び争うことがある。封建宗主が有するこのような裁判権を上訴管轄権という。
註⑮ 臣従礼hommage, homageは、託身儀礼と忠誠宣誓からなる。託身儀礼は、まず家臣になることを望む者が無帽かつ無防備で主君と仰ぐ人の前に進み出て申し入れ、両者の合意が成立した時、主君となる者は按手礼で双務的契約関係に入ったことを示す。次の忠誠誓約では、家臣が聖書または聖遺物に左手を置き、右手を挙げてすべての人に対して主君を守り、忠誠を尽くすことを誓う。その後、主君から家臣に対する領地授封の儀式として、授封証書の授与や、武力によって本領安堵することを示す剣の授与、あるいは一本の草もしくは樹木の小枝を渡す儀式が行われた。また、臣従礼には単純臣従礼hommage simpleと一身専属的臣従礼hommage ligeとがあり、前者は主君に対する家臣の物的奉仕の義務だけが生じるが、後者は一身専属的家臣homo liguisとして主君に軍役奉仕の義務を負うことになる。城戸毅『百年戦争』註第一章一・一(3)参照
註⑯ イングランド軍の長弓隊が長さ四六フィート(一・二~一・八メートル)ほどで、一分間に六回程度連射できるロングボウLongbowを使用したのに対して、漢字文化圏では「弩」と呼ばれる射出武器とほぼ同一の構造と機能を持つ仏軍のクロスボウcrossbowは矢を込めるのに時間がかかるのが難点であった。
註⑰ 各種貨幣の交換比率は、一リーブルLivre=二〇スーSou(ソルSol)=八〇リアールLiards=二四〇デニエDenier。エキュecuは「盾」という意味で、紋章の盾がデザインされていることに由来する。最初のエキュは、ルイ九世時代の一二六六年に発行された金貨で、後には銀貨も発行された。金貨をエキュ・ドールecu d'or(ルイ金貨Louis D'or、六・五~八・二グラム)、銀貨をエキュ・ダルジャンecu d'argent(二五~三五グラム)
と呼ぶ。
註⑱ 黒死病(腺ペスト)は、一三四七年末、中東からイタリア商船によって運ばれてマルセイユに上陸し、ヨーロッパ全体に伝染した急性伝染病で、死亡率は中等度のもので七五%、悪質な場合は一〇〇%に近い。黒死病の名は死ぬ前に皮膚がしばしば黒色、紫色などのチアノーゼ症状を示すことに由来するが、元々は鼠類の病気だった。ペストにかかった鼠類の蚤が人間にとりついだ時、人間の病気に転化する。人間から人間への流行を媒介するのも蚤である。首や腋の下、下肢の付け根のリンパ腺を腫らして高熱で意識不明となった。中世都市では木造家屋が密集し、鼠類と蚤の巣窟だったところに、かつてのヨーロッパの悲劇がある。フランスでは一世紀半で人口の三〇 ~五〇%が死亡したと言われる。「靴屋の守護聖者サン・クレパンの祝日に靴製造人たちが仲間の死者を数えたら、最少一八〇〇の親方と徒弟が死んでいることが分かった。墓場の穴掘り役を務めた施療院の男たちは、マリア降誕日から無原罪の懐妊の祝日までの期間に(一四一八年九月八日から一二月八日まで)、一〇万人のパリ市民の死体を埋葬したと証言している。」(『パリ一市民の日記』)。鯖田豊之『歴史の焦点・ヨーロッパ中世と四大疫病』参照
註⑲ 城戸毅前掲書一三~八四頁、堀越孝一「百年戦争時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系フランス史1』所収第五論文二二三~二二九頁)各参照
註⑳ オルレアン公ルイの親王領は、パリ南方のオルレアン地方Orleansを中核としていたが、後にはアングーモワAngoumois、ペリゴールPerigord 、ブロワBlois、デュノワDunoisが追加された(オルレアン公一三九二~一四〇七、ヴァロワ伯、トゥーレーヌ公一三八六~九二、ブロワ伯一三九七~一四〇七、 アングレーム伯一四〇四~〇七、ペリゴール伯、ドルー伯、ソワソン伯)。
註㉑ ランカスター家は、エドワード三世の四男ジョン・オブ・ゴーントに始まるアンジュー王家の分家の一つ  
 であるが、ヘンリ三世の次男エドマンド・クラウチバックEdmund Crouchbackの長男トマスThomas はエドワード二世と対立して所領を没収されたうえ刑死した。しかし、トマスの弟ヘンリHenryの息子ヘンリ・オブ・グロスモントHenry of Grosmontが百年戦争で活躍し、一三五一年に再びランカスター公の称号を得た。ヘンリには息子がいなかったが、娘ブランシュBlanche がジョン・オブ・ゴーントと結婚し、ジョンがランカスター公となった。一方、一三八五年にはジョン・オブ・ゴーントの弟エドマンド・オブ・ラングリーがヨーク公の称号を得てヨーク家を起こし、ランカスター家に対抗する勢力となった。
註㉒ 城戸毅前掲書八五~一一二頁、堀越孝一前掲論文二二九~二四八頁各参照
註㉓ イングランド王国によるノルマンディ占領統治の詳細は、城戸毅前掲書一二一~二一〇頁参照
註㉔ ブラバントBrabantは現在のオランダとベルギーに跨る地域名で、エノーHainautはフランドルの東南に隣接する現在のベルギー西南部の地域である。また、ゼーラントZeelandはフランドルの東北に連なる現在のオランダの一部で、ホラントHollandはゼーラントの東北部にある地域である。
註㉕ 鎧の中心部である胸甲と背甲は、上半身の動きを可能とするために四個の部品の組み合わせからなり、 胸甲下部には二枚の直垂が付けられて鎖帷子で作られたスカート状のもので補った。脚部には小鉄板を組み合わせた腿当て、すね当てがあり、脚部先端は先の尖った靴で保護された。甲冑全体の重量は一八~二〇キロくらいで、鎧の下には胴着(刺し子の布)を着用した。ジャンヌ・ダルクの甲冑を作ったのはジラ・ド・モンバゾンという職人で、価格はトゥール貨幣一〇〇リーヴル。彼女の甲冑は士官用の立派なものではなく、下から二番目のランクという有り合わせのものであったが、白く輝く武具や白馬はもとより、軍旗や三角旗には聖母やキリストの名、天使、王家の百合などが縫い取られたという。
註㉖ Regine Pernoud, La Liberation d'Orleans, 1969.レジーヌ・ペルヌー著『オルレアンの解放』(高山一彦編訳)七~二三三頁、Edith Ennen, Frauen im Mittelalter.エーディト・エンネン著『西洋中世の女たち』(阿部謹也・泉眞樹子共訳)三九三~三九九頁、Andrea Hopkins, Most Wise and Valiant Ladies:Remarkable Lives of the Middle Age. 森本英夫監修 浅香佳子・小原平・傳田久仁子・熊谷知実訳『中世を生きる女性たち』一九~七三頁、三浦一郎著『世界史の中の女性たち』三九~四六頁各参照
註㉗ 城戸毅前掲書一一三~二一〇頁、高山一彦編訳『ジャンヌ・ダルク処刑裁判』、レジーヌ・ペルヌー著『ジャンヌ・ダルク復権裁判』(高山一彦訳)、竹下節子著『戦士ジャンヌ・ダルクの炎上と復活』各参照。
なお、一八九二年、教皇レオ一三世はジャンヌの徳性を認めて「尊者」の列に加えた。また一九〇九年、教皇ピウス一〇世は列福Beatificatioにより「福者」Beatoに、一九二〇年教皇ベネディクト一五世は列聖anonizatioにより「聖人」Saintの地位に上げている。一九二二年、教皇ピウス一一世Pius PP. XIはジャンヌ・ダルクを聖母マリアに次ぐフランス第二の「守護聖女」と宣言した。
註㉘ 火砲は中国の曾公亮編者『武経総要』(北宋)にも見られ、一〇~一一世紀には既に火薬系兵器が出現していたと考えられているが、一二二一年に殺傷用の火砲が造られ、大砲は一四世紀のドイツで発明されたと言われている。一四二三年以前につくられたモン・サン・ミシェルMont Saint-Michelの「ミクレット」(火砲)二門は、それぞれ長さが三・五三メートル、三・六四メートル、 口径は三六センチメートル、四八センチメートル、重量は七五キログラム、一五〇キログラムで、重さ四~一二リーヴルの石の砲弾を使用していた。また一四二九年のオルレアン攻防戦で王太子側が使用した武器には、重さ一二〇リーヴル(約六〇キログラム)の弾丸を発射する重砲や、モンタルジス、リファールなどと呼ばれたカノン砲以外に、軽量の携帯用武器(後の火縄銃、カービン銃)などがあった。
註㉙ 城戸毅前掲書二一一~二八八頁参照
註㉚ シャルル五世期の全国三部会(一三五五年、一三五九年)の決定に基づいて国王の徴税役人eluと徴税管区electionが創設され、全国的な徴税機構が確立した。管区数は当初約三〇管区であったが、シャルル七世期には七五管区まで増加している。各管区の中心都市に二~三人の徴税役人が配置され、間接税に関する徴税請負の入札、租税関係の紛争の裁定がなされた。当時の直接税の中心は戸口税(フアージュfouage)とタイユ税tailleであるが、両税はほぼ同一の税とみて良い。タイユ税は防衛・軍事的活動を支えるための領主的課税を継承した税で、分割割当てに特徴があったが、一三四〇年代以降は世帯を担税単位とする戸口税に取って代わられた。当初は戦費調達のための臨時的課税として全国三部会の協賛が必要であったが、一五世紀には恒常的国王課税となり、絶対王政期には王室財源の重要な租税に発達していった。軍事税の名目をもつため聖職者・貴族は同税の負担を免除されていた(官職保有者も免除)が、教会(聖職者)には聖職者十分の一税decimeが課せられた。これは既に一一四六年、第二回十字軍に際して課せられており、第四回ラテラノ公会議(一二一五年)において教皇の承認が必要とされた。彼等は聖職禄から諸経費を除いた純収益の一〇%が徴収された。
 一方、間接税には援助税(エードaides)・取引税(トレートtraite)・塩税(ガベルgabelle)があり、いずれも領主的課税を継承したものであった。国王課税としての援助税は一三五五年の勅令に始まり、一時中断した後、一四三六年以降は間断なく徴収された。課税対象品目は飲料・小麦粉・家畜・建築資材など広範囲に及び、やがて特定商品の取引と流通に限定されるようになる。税率は商品価格の三〇分の一程度であった。また取引税は一三〇四年の勅令に始まる商品輸送にかかる税で、対象物資は極めて広範囲に及び、一定領域からの商品流出を防止する目的があった。特に援助税が普及しなかった南仏では、その代替として重視された。そして塩の売却と消費に対する塩税は、当初は穀物・油・葡萄酒も対象としていたが、やがて塩に限定されるようになる。その背景には対イングランド戦争による塩供給の逼迫があり、ルイ一〇世時代に行われた取引・分配への統制(一三一五年)にまで遡ることができる。これに税収目的が加わるのはフィリップ六世の勅令(一三三一年、一三四一年、一三四三年)以降で、ラングドイル三部会Langue d'oi:l(一三五五年)により北部全域に、そしてラングドック三部会Languedoc(一三六九年)によって南仏各地に塩税の適用が承認された。一三六六年、シャルル五世の勅令により、塩はすべて商人の手で塩倉grenierに集積させ、徴税役人grenetiersが売却し、販売価格の一定割合を王の取り分(税)として天引きする方式が確立した。税率は一三六〇年に二五%と固定されたが、一四世紀末になって五五%まで跳ね上がっている。またジャン二世は、諸侯支配領域については課税対象から除外している。渡辺節夫前掲書二一一~二一三頁参照。
註㉛ 渡辺節夫前掲書二〇四~二二三頁参照

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フランス革命

 第一節 フランス革命と国民国家
(一)アンシャン・レジームの崩壊
一八世紀後半、フランス革命前の旧体制「アンシャン・レジーム」Ancien régimeは、もはや中世以来の身分制度が根底から揺らぎだし、まさに崩壊寸前の状況にあった。当時の階層秩序は、聖職者(第一身分)・貴族(第二身分)・平民(第三身分)に分かれる伝統的な身分秩序と、富と功績によって社会的上昇をとげる新しいエリート的秩序との二本立てで成立していた。そして、ローマ=カトリック教会はながく人々の信仰を集めてきたが、その指導者たる高位聖職者に対する畏敬の念は、もはや忘れ去られようとしていた。なぜなら、司教や僧院長・司教座聖堂参事会員など高位聖職者の多くが貴族身分の者によって占められ、平民出身の聖職者はせいぜい司祭や助司祭・修道士にしかなれない現実があったからである。そして、 国王とともに国政を統御してきた貴族身分には古い家柄を誇る「帯剣貴族」(武家貴族)だけでなく、経済的に実力を蓄えた平民上層部(ブルジョワ)が官職や特権を購入して階層序列を駆け上がり、ついには貴族身分にまでたどり着いた「法服貴族」が存在し、一八世紀後半にはそれぞれ第三身分最上層(大ブルジョワ)との結びつきの重要性が増すにつれて両者の対立もほぼ解消していた。
また第三身分では、法服貴族との社会的混交が進んだ金融業者・徴税請負人・大商人などのブルジョワ上層部と、小間物・毛織物・帽子・布地・金銀細工・乾物食品の「六大ギルド」(後にワイン商人が加わる)の親方などの中流ブルジョワ、小規模ながらも独立した作業場や店舗を持つ手工業者や小店主などの小ブルジョワに分化していたが、絶対王政下における経済規制を廃止して競争原理に基づく自由主義経済への移行を志向している点では共通していた。ただし、それでいながらブルジョワ各層は王権によって特権を保障された「社団」corps constituéを編成していることから、いずれも絶対王政に対抗する反体制的階層ではなかった。一方、同じく平民階層に属してはいるが、ブルジョワジーの下に位置する最底辺の社会層が所謂「民衆」である。彼らは独立した仕事場や店舗を持たない賃金労働者で、コルポラシオン(宣誓ギルド)Corporation内の職種に属する熟練職人と、地方からの流入者が多い非熟練ないし特技性の弱い半熟練労働者に分けられ、後者はブルジョワとは同じ食卓にもつけないほどの格差のある生活を余儀なくされていた。また、アンシャン・レジーム末期になると、親方職が世襲的に固定化されて親方・職人間の溝が拡大していた。両者の対立は作業時間や賃金などの労働条件をめぐって発生することが一般的で、一七八五年七月、パリの石工・石切り工・モルタル工などの職人たちは日給引き下げに反対し、サント=ジュヌヴィエーヴ教会Abbaye Sainte-Geneviève de Parisやプティ・シャトレPetit Chateletなどの作業を放棄し、賃金維持に成功している。このように、彼らの経済観念は、利潤を追求する自由経済よりも基本的な生存権を重視し、当局には経済活動の規制を通して人々の暮らしを守る必要があるとする、伝統的な「モラル・エコノミー」に基づいているのが特徴的である。
 そして、同じく第三身分に属す「農民」は、(東部のフランシュ・コンテや中央部のニヴェルネなどには農奴が存在していたものの)その多くが自由身分であり、土地所有者であった。アンシャン・レジーム下の農地は領主直領地と農民保有地に分かれ、後者の土地所有権は領主が上級所有権、保有農民が下級所有権を持つという二重構造をなしていた。土地所有農民が多い地方はアルザス、フランドル、ノルマンディのボカージュ地方、リムーザン、ロワール川流域、ソーヌ川やガロンヌ川流域に広がる平野部で、国土の北部よりも南部に多い傾向があった。ただし、王国全体を概観すれば、農民の所有地は平均三〇%程度と考えられ、その他の土地は聖職者・貴族・ブルジョワの手中にあった。したがって、農民の圧倒的多数は、 自分と家族を養いうる広さの土地を持つことはできず、飢えに苦しむ毎日を過ごしていた。農村で最も富裕な者は特権身分やブルジョワの所有地を借りて定額小作fermage(契約期間中は一定額の貨幣または一定量の現物を小作料として納める小作制度)を行う大借地農で、次が経営地の全部または一部を所有するラブルールlaboureurと呼ばれる階層であった。続いて小規模な定額小作農、収穫を地主と小作人とで分け合う分益小作métayageを行う小作農などが居り、最底辺では土地を持たない日雇農(農業プロレタリア)が生活苦に喘いでいた。農民の所有地面積は、一八世紀中葉以降の人口増加や分割相続によってさらに小規模となり、日雇農の数も急速に増大していた。註①

(二)財政問題と封建的貢租の関係
アンシャン・レジーム期のフランスにおいて、国論を二分していたのが財政問題である。その当時、 フランス王国は、英仏植民地戦争(第二次百年戦争)の敗北に続き、アメリカ独立革命(一七七五~八三年)に絡む出費で財政破綻に直面し、その改革が喫緊の課題となっていた。アンシャン・レジーム期の租税には直接税と間接税があり、前者には所得税(タイユ税taille)、人頭税(カピタシオンcapitation)、二十分の一税(ヴァンティエームvingtième)がありいずれも原則的には全所得を対象としていたが、特権身分(聖職者・貴族)は免除されることが多いため、第三身分(平民)とくに農民の負担が過大であった。また後者には国家の専売品、特に塩に課せられる塩税(ギャベルgabelle)や、 葡萄酒などアルコール飲料に課せられる物品税(エードade)、外国及び国内の関税などがあり、いずれも徴税請負人によって徴収された。二〇世紀のフランス革命史をリードしたジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvre(一八七四~一九五九)によると、一七八八年三月、国王ルイ一六世に提出された予算書では国庫収入が五億三〇〇万リーヴル、支出が六億二九〇〇万リーヴルとなっており、差し引き一億二六〇〇万リーヴルもの赤字となっていた。しかし、 より問題なのは支出内訳に占める負債総額三億一八〇〇万リーヴルという数字で、支出全体の五〇%以上を占めていたのである。近づく財政破綻を回避するためには増税が必要であったが、 第三身分の負担はすでに過重状態にあったため、新たな課税は不可能であった。例えば一七二六~四一年と一七八五~八九年とを比較すると、物価上昇が六五%であるのに対して労働者賃金は二二%しか上がっておらず、その一方で農民が負担する小作料は九八%も急上昇していたのである。
農民たちは国王だけでなくアリストクラート層arisutocrate(貴族及び高位聖職者)が課す諸負担も負わされたが、国王政府が徴収する租税や役務の拡充とともに、 アリストクラート層が命令する負担の方が重く感じられるようになった。例えば聖職者が徴収する「十分の一税」は、小麦・ライ麦・大麦・燕麦に課される〈大十分の一税〉とその他の雑穀や蔬菜、果実に課される〈小十分の一税〉があり、若干の畜産物にも十分の一税が課されていた。当時の農民が提出した陳情書によれば、こうした十分の一税は祭礼や聖堂・司祭舘の維持や貧民救済という本来の目的に使用されずに高位聖職者の収入となることが多く、「授封」されて世俗領主のものとなることさえあった。したがって、 村の司祭たちはせいぜい〈小十分の一税〉しか取り分がなく、農民たちは十分の一税を納めた後で祭礼維持費などを負担しなければならなかった。また、アリストクラート層は領民に対する領主裁判権を有していたが、 その中の司法警察権や刑事事件審理権を内容とする上級裁判権は彼らに何の利益ももたらさなかったので(一七七二年以降は)国王裁判所に付託し、民事訴訟や領主的諸貢租に関する紛争の司法・警察権を内容とする下級裁判権をより重視するようになった。その結果、領主裁判権から各種規制を布告する「罰令権」(バン領主権)や市場税・通行税を徴収する権利、城館の警備を命じる権利、領主のための個人的労役を課す権利、国王管轄下の主要道路を除く道路の所有権などが新たに発生してきた。とりわけ罰令権には生活に直結した製粉所・葡萄搾り器・パン焼き竈などの領主独占権(バナリテbanalit)や葡萄酒専売権が含まれていたから、農民たちの恨みを買う結果となった。また、アリストクラート層には領主裁判権に付随する名誉的特典として、 例えば教会における紋章付き特別席や聖水・聖餅の奉献、教会内陣下への埋葬、絞首台の設置、賦役労働の賦課など権利があったが、これらは農民の領主に対する従属を目に見える形で表していた。こうして農民たちの間には、十分の一税や封建的諸権利を盾に屈辱感を与え続けるアリストクラート層への憎悪の念が広がっていたのである。註②

(三)アリストクラート革命とブルジョワジーの革命化
1 「貴族の反乱」と全国三部会選挙集会
深刻な財政難の下で財務総監に就任したテュルゴやカロンヌ、財務長官ネッケルJacques Necker(在任一七七六~八一、八八~八九、八九~九〇)らが提案した財政改革案は、アリストクラート層に負担を分担させる内容であった。一七八七年四月末に名士会議が解散した後、 彼らの改革案はパリ高等法院から猛烈な反発を買い、地方の高等法院もこれに追随した。翌年五月八日、国王政府は高等法院の権限を縮小するため国璽尚書ラモワニョンGuillaume-Chrétien de Lamoignon de Malesherbesの改革を断行したが、パリ高等法院は全国三部会の開催を求めて国王政府と激しく対立した。その後、ディジョンやレンヌ、グルノーブルなど地方の高等法院や帯剣貴族・聖職者らが決起する「貴族の反乱」が全国に拡大し、グルノーブルではブルジョワも参加して三部会召集要求の運動が展開された。その結果、名士会議員から財務総監となっていたブリエンヌÉtienne-Charles de Loménie de Brienne(在任一七八七~八八)がついに一七九二年全国三部会召集を約束し、八月八日には召集日を一七八九年五月一日に繰り上げた。勢いを得た貴族たちの抵抗はさらに激化し、ブリエンヌに代わって再び財務長官に就任したネッケルは〈ラモワニョンの改革〉を撤回した。これは「貴族の反乱」の完全勝利を意味した。
こうした貴族の反乱の一つとして、一七八八年六月、第三身分と貴族が国王政府の軍隊と衝突する事件がドーフィネ州において発生している。そして翌月、騒動の中心にいた弁護士のムーニエやバルナーヴらが開いたヴィジーユ会議では、「地方三部会だけでなく全国三部会においても第三身分の議員数を特権身分の合計数と同じとする」ということが決議されたが、こうした動きはまもなく意味を持ってくる。それは、同年九月、パリ高等法院が身分別審議と三身分の代議員を同数とする〈貴族制原理〉に基づく意見を公表したのに対して、ブルジョワ階層を中心に「特権身分批判」の世論が沸き上がり、ブルジョワジーが独自の政治勢力として登場したからである。一二月に開催された国務顧問会議では第一身分、第二身分の議員合計と第三身分の議員とを同数とすることだけが決められ、会議の審議形式を身分別とするか、それとも合同して頭数制とするかについての決定は先送りしたことが、全国三部会冒頭の混乱を招くことにつながった。
一七八九年一月二四日、全国三部会代議員の一般的選出規則が公布されたが、肝心の選挙区に相当するバイイ管轄区の起源はフィリップ二世Philippe II(在位一一八〇~一二二三)の治世まで遡るもので、長い年月の間に地域間格差が拡大して全国一律の規則適用は困難となっていた。そこで、 全国のバイイ管轄区を「一級バイイ管轄区」と「二級バイイ管轄区」とに分け、後者の場合は全国三部会議員の直接選出を認めず、選挙集会メンバーの四分の一を「一級バイイ管轄区」の選挙集会に合流させることにした。そして、 世襲貴族の場合は封地の有無に関係なく選挙集会への参加を認めたが、新規授爵の貴族は第三身分の中に編入された。また、聖職者は司教・司祭の双方が聖職身分の選挙集会に出席することを認められたが、 全員が貴族出身である司教と、ほとんど全てが平民出身である司祭が同等の立場で出席することはアリストクラート層にとっては許しがたいことであった。一方、第三身分の選挙制度はさらに複雑であった。都市においては、第一次選挙が同業組合単位(非組合員の住民の場合は別個に集会を開催)で行われ、原則として職人にも投票権が与えられた。しかし実態は地域によって異なり、ランスにおける同業組合の選挙集会では親方しか出席を認めないか、あるいは親方にのみ決定権を与えている。また、人口の多いパリでは選挙直前(四月一三日)になって規則を決定したが、パリ市当局の商人頭Prévôt des Marchandsに与える招集権は旧市内・フォーブールの第三身分に限定し、旧市内・フォーブールの特権身分及び市壁外の全ての身分に対する招集権は王政役人のパリ長官Prévôt des Parisに与えている。また選挙単位は、聖職者は教区毎に、貴族は投票者数の均等を考慮して新たに設定した二〇の「デパルトマン」département毎に、そして第三身分は行政区の「カルティエ」quartierを三~四に細分化した六〇の「ディストリクト」district毎に第一次集会が開かれた。選挙資格は一七八九年初めの段階では「二五歳以上、三リーヴル以上の人頭税負担者」となっていたが、四月には「六リーヴル以上の人頭税負担者の男子で、パリに居住する者」とハードルを上げ、家事奉公人・職人・日雇い労働者などには選挙人資格を与えなかった。それに対して農村部では、 課税台帳に記載されている二五歳以上の住民は小教区単位の選挙集会への出席が認められたので、(両親と同居する成年男性を除いて)ほとんど全ての世帯主が出席資格を与えられた。註③
しかし、選挙制度の複雑さはこれだけではなく、第三身分の場合はそのことが結果的にブルジョワジーに有利な結果をもたらした。農村部では小教区単位の選挙集会において選出された第一次選挙人が全国三部会議員を選出する二段階選抜方式がとられ、都市部でも例えばパリにおいては地区代議員(選挙人四〇七人)が代表を選出するので同じく二段階選抜方式となった。しかし、多くの都市では諸団体の代議員がバイイ管轄区集会への都市共同体代表を選出し、この代表たちが小教区代議員と一緒に全国三部会代議員を選ぶ三段階選抜方式(二級バイイ管轄区の場合は前者が三段階選抜方式、後者が四段階選抜方式)がとられたため、民意から離れた代表が選ばれる可能性が高かった。また、選挙集会では呼名を受けた選挙人が会場前方に置かれた記入用紙の場所に移動して投票する方法が採られたために秘密性に乏しいだけでなく、集団的な陳情書を作成する必要から討論集会のような雰囲気を醸し出すことが多かったために、集会の政治的方向性はブルジョワや法曹界の人間たちが主導することになった。
一七八九年二~三月にかけて実施された特権身分の選挙集会では、宮廷貴族や自由主義貴族、新規授爵の貴族などは選出されず、アメリカ独立革命における活躍で一躍有名となった自由主義貴族のラ・ファイエット侯爵La Fayetteでさえ辛うじて当選に漕ぎ着ける有様であった。また、聖職者の集会では司祭の発言力が強く、オータン司教タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgordなど自由主義者が数多く当選した。そして四~五月に開かれた第三身分の選挙集会では法曹界の人々を議員に選出することが多く、ムーニエやバルナーヴ、 ル・シャプリエIssac-René-Guy Le Chapelier、ロベスピエールMaximilien François Marie Isidore de Robespierreなどが当選している。例えば、四月二一日、一斉に開催されたパリの第一次選挙集会に集まった一万一七〇六人の職業別内訳は定かでないが、二三日に開かれた大司教舘における第二次選挙集会(選挙人集会)に集合した地区代議員四〇七人(選挙規則では一四七人と規定されていたが大幅に増加している)の内訳は法曹関係が四二%、商工業者が三四%、官職保有者が八%となっている。そして、 五月一二~一九日に明らかになった代表二〇人の内訳は、五名の弁護士を含む法曹関係者九人が最も多く、 大商人四人、官職保有者三人と続いている。第三身分の集会で選出された議員の中には、天文学者のバイイJean-Sylvain Baillyのようなアカデミー会員も含まれているが、聖職者集会で落選したアベ・シェイエス(シャルトルの司教代理)Abbé Sieyèsや貴族のミラボー伯爵Mirabeauが含まれていることにも注目する必要がある。
ところで四月二一日には、セーヌ川右岸の手工業者や地方からの移住者が数多く住むフォーブール・サン=タントワーヌFaubourg Saint-Antoineのサント・マルグリートでも第三身分の第一次選挙集会(ディストリクト集会)が開催された。その際、六人の選挙人の一人として選出された壁紙製造業者のレヴェイヨンRéveillonという男が「労働者の日給は一五スーで十分だ」という趣旨の発言をしたという噂が瞬く間にパリ市内を駆け巡った。二七日午後になって約五〇〇~六〇〇人の労働者がバスティーユ周辺に集まり、 ムフタール街を下ったところにあるゴブラン織り工場の建ち並ぶフォーブール・サン=マルセルFaubourg Saint- Marceauの労働者の加勢を得た。こうして約三万人に膨れあがった群衆は、市庁舎前のグレーヴ広場Place de la Greve(現在のオテル・ド・ヴィル広場)に集結して気勢を上げた後、隣接する集会でも硝石製造業者アンファン=トゥルヴェという男が同じような発言をしたとして家を襲撃され、翌日にはレヴェイヨンの家も火をかけられた。当時の職人や労働者の平均日給は一リーヴル(二〇スー)前後であったが、パリの民衆用パンの価格は一七八八年一一月に一二スー、八九年一月に一四スーと高騰を続け、二月には高等法院の介入で一四・五スーに価格を固定されたほどであった。したがって、新興ブルジョワの代表的存在にして〈民衆の敵〉たるレヴェイヨンの発言(本人は否定しているが)は、民衆の怒りを爆破させるには十分すぎる内容だったのである。但し、事件後の逮捕者約三〇人の中に、また死傷者の中にもレヴェイヨンの工場に雇われていた三〇〇人を超す労働者が一人も含まれていないことは、レヴェイヨン事件が労働争議ではないことを示している。鼓手を先頭に示威行進を開始した群衆は誰もが棍棒で武装し、ある者は厚紙に彩色した男の人形をくくりつけたT字型支柱を肩に担ぎ、また別の者は模擬裁判の立て札を掲げていたという。彼らは通行中のブルジョワに賛同を呼びかけて酒手をせびり、 ボルデ街の居酒屋で景気づけを行った後は、 グレーヴ広場で人形の公開処刑におよんだ。彼らの行動様式は、 ブルジョワの合理主義的行動とは明らかに異質なものであり、名付けるとしたら「政治的シャリヴァリ」charivari が適当であろう。註④

2 全国三部会から国民議会へ
さて一七八九年五月五日、国王ルイ一六世は、ムニュ公会堂に全国三部会を召集した。しかし、案の定、 会議の冒頭から議決方式をめぐるアリストクラート層と第三身分(とりわけブルジョワ)との対立が鮮明となった。すなわち、前者は身分制議会「全国三部会」の伝統にしたがって身分別に分離審議し投票することを主張し、後者は新しい時代に相応しい合同審議と個人別投票を掲げて一歩も譲らず、後者は開会劈頭の代議員資格審査から合同で行うよう強硬に主張した。そのため全国から集まった一二九六名(聖職者三三一名、貴族三一一名、平民六五四名、後に植民地から選出された議員一九名が加わって合計一三一五名)の代議員たちは、財政改革案の審議には全く入れないまま一カ月半の時が過ぎた。六月一〇日、第三身分はついに特権身分に最後通告を発して独自に合同審査を開始した。これは同年一月にアベ・シェイエスが「第三身分とは何か」と題するパンフレットを発行し、第三身分は特権身分を除外して単独で「国民議会」Assemblée nationaleを構成すべきだと提唱していたことも引き金となったのか、下級聖職者や地方出身貴族の一部が合流を始め、六月十七日にはついに国民議会が結成された。その頃、国王ルイ一六世は王太子ルイ=ジョゼフ(一七八一~八九)を失ったばかりでマルリの王宮に引き籠もっていたが、一九日夜、 王弟アルトワ伯爵comtes d'Artois(後のシャルル一〇世)ら強硬派が国王に働きかけて議場を閉鎖するという強硬策に出た。そこで国民会議は、やむを得ずヴェルサイユ宮殿の球戯場に議場を移し、討論を再開させた。その際、ムーニエが提案した「憲法制定まで国民議会を解散しない」という文面を議長のバイイが読み上げると、後に革命の節目で活躍することになるミラボーやシェイエス、ラ・ファイエットら多くの議員たちの間から国王を讃える歓呼の声がわき上がり、五七七名が署名に参加した(球戯場の誓い)。翌二一日には球戯場も閉鎖されたため、国民議会はやむを得ずサン=ルイ大聖堂に移動したが、二七日にはついに折れた国王の勧告を受けて貴族身分も国民議会に出席することとなった。こうして全国三部会における三身分の合流が実現し、議決方式も個人別投票で決着を見た。七月九日、国民議会は憲法委員会の委員を任命し、これ以後国民議会は「憲法制定国民議会」Assemblée nationale constituanteと呼ばれることになる。
ところが、貴族身分の大多数はその後も国民議会への出席を渋り、例え出席しても討議や投票への参加を拒否するようになる。それと時を同じくして、六月二六日以降、国王はパリとヴェルサイユ周辺に軍隊約二万人を集結させ、司令官にブロイ元帥Victor-François, duc de Broglie、パリにおける司令官代理にはブザンヴィル男爵をそれぞれ任命した。七月八日、国王周辺の不穏な動きに不安を覚えた議会側は軍隊召集の理由を問いただしたが、国王側からは秩序維持という説明だけが返ってきた。そして一一日に開かれた国王顧問会議では目障りなネッケルの罷免を決定し、保守的なブルトゥイユ男爵Breteuilを中心とする新内閣を発足させた。こうして政局は、従来からの〈国王とアリストクラート層の対立〉という構図から、 明らかに〈国王=アリストクラート層連合と第三身分の対立〉へと転換したのである。註⑤

 (四) 民衆革命の勃発
1 バスティーユ牢獄襲撃
一七八九年七月一二日(日)の午後、財務長官ネッケルの罷免という報せがパリに伝わり、国民議会に対する武力弾圧の動きが顕わになると、富裕市民層(ブルジョワ)は選挙人集会においてコミューン議会の設置を決議し、選挙が行われるまでは「常設委員会」を設けてその権限を委ねることにした。革命前夜の不穏な空気が広がる中、落ち着きを失った市民たちが駆けつけたパレ・ロワイヤルPalais-Royalの広場では、カミーユ=デムーラン(ジャーナリスト)Lucie Simplice Camille Benoist Desmoulinsがピストルを振りかざしながら「武器をとれ!」と絶叫していた。彼の言葉に突き動かされた多くの民衆がパレ・ロワイヤルからネッケル、オルレアン公の蝋人形と黒旗を先頭にして示威行進を開始し、ルイ一五世広場(現在のコンコルド広場)にさしかかったところでランベスク公爵Charles-Eugène de Lorraine, prince de Lambesc率いる王室付ドイツ人傭兵部隊と衝突した。民衆側にはフランス衛兵部隊が応援したから衝突は市街戦へと発展し、群衆の中には後に山岳派(モンタニャールMontagnards)の中心的役割を果たすことになるダントン(弁護士)Georges Jacques Dantonやマラー(医師)Jean-Paul Maratらが含まれていた。その当時、ダントンはパレ・ロワイヤル側のテアトル・フランセThéâtre Françaisと呼ばれた地区に住んでおり、この地区の民衆を扇動して運動に身を投じたのである。ブザンヴィル男爵率いる国王軍がシャン・ド・マルス Champ-de-Marsに引き上げた後のパリは混乱と無秩序の世界と化し、民衆の怒りの矛先はパリを囲む城壁の市門(バリエールbarrière)近くに建設されていた入市関税事務所に向けられ、パッシー市門Passy など四〇カ所が襲撃された。また、同日深夜から翌朝にかけてフォーブール・サン=ドゥニ Faubourg-Saint-Denisにあるサン・ラザール修道院 Saint-Lazareが襲撃され、穀物が押収された。註⑥
一三日、国王の軍隊がセーヴルSèvresとサン・クルーSaint-Cloudを結ぶ橋が押さえたため、 パリの民衆はヴェルサイユにある国民議会からの情報を全く失った。彼らの間には国王の軍隊がパリを完全包囲し、今にも総攻撃が仕掛けられるという噂が広がった。警鐘が鳴り響き、民衆は市門の警護だけではなく、市内にバリケードを築いて武器調達に奔走した。また、各ディストリクト集会ではそれぞれ八〇〇人をブルジョワ民兵(後の「国民衛兵」)に提供することを決定し、フランス衛兵も協力を約束した。市庁舎Hôtel de Villeに設置された二一名の常設委員会(議長は商人奉行ドゥ・フレッセルJacques de Flesselles)が民兵組織を編成した理由は、国王軍に対抗してパリの自衛を図ると同時に、民衆の無軌道な直接行動をコントロールして市内の秩序を確保することにあった。したがって、民兵は身元の確かなブルジョワ層から選抜しなければならず、委員会が調達しうる武器や軍需品は彼らのために手渡す予定であった。しかし、恐怖心に駆られた多くの群衆が市庁舎に押し寄せ、商人奉行に兵器廠を開けさせた。だが、 そこには約三六〇人分の小銃しかなく、全員の武装にはあまりにも少なすぎた。そこで今度は約七〇〇〇~八〇〇〇人に膨れあがった群衆がセーヌ右岸をひた走り、一四日朝、橋を渡ったその先にあるアンバリッドInvalides(廃兵院)で三万二〇〇〇丁の小銃を入手し、その後、バスティーユ牢獄Bastilleにも多くの武器が蓄えられているとの噂が広がったため、今度は反転してセーヌ川の両岸を流れに逆走してバスティーユにたどり着いた。バスティーユは高さ三〇メートルの城壁と二五メートル幅の壕で囲まれた堅固な牢獄で、司令官のドゥ・ローネー侯爵Bernard-René de Launayを中心に守備隊八〇人とスイス傭兵三〇人が警護に当たっていた。しかし、興奮した群衆は、武器と軍需品の引き渡しと町に威圧を加えている大砲を砲眼から引っ込めるよう要求し、長引く交渉の末に結局は銃撃戦となった。侵入者側は少なくとも九八人の死者と七三人の負傷者を出したが、ついにバスティーユ陥落に成功した。その後、彼らは槍先に司令官ドゥ・ローネーやこの日の対応の不手際を問われた商人奉行ドゥ・フレッセルの晒し首を掲げて市中を練り歩いた。襲撃に直接参加した者はせいぜい八〇〇~九〇〇人程度で、その中核を担ったのはフォーブール・サン=タントワーヌやマレ地区の住民と思われるが、従来とは異なって参加者の住居がパリ全域に広がっていた点に特徴が認められる。また、参加者の中には中流ブルジョワも含まれていたが、多くは指物師・家具師・錠前師などの製造業や小売業、建築、一般雑業に従事する小ブルジョワと彼らの庇護の下で暮らす職人や労働者たちであり、彼らのほとんどの者が国民衛兵に属していた。註⑦
そして、彼等にあったのは、理想を追い求める正義感だけではなかった。それよりも当時の社会に異議を挟むことで受けることになる「権力の報復」に対する恐怖心や、迫り来る国王軍の「暴力」に対する恐怖心の方が大きかったのではないかと想像される。それというのも、バスティーユ牢獄には「四人の偽造者と、貴族の家系の二人の狂人、ヴィット・ド・マルヴィル伯爵、ソラージュ伯爵と、ダミアン暗殺に関わって三十年来収容されていた反狂人のタヴェルニエ」(アルフレッド・フィエロ『パリ歴史事典』 鹿島茂監訳 白水社)の七人しか収監されていなかったからである。それにもかかわらず、襲撃対象とされた理由は専制主義の象徴だったからであり、そのことが彼等の中に広がっていた動揺と恐怖心の強さを物語っている。そもそも、パリには一九世紀にサンテ刑務所が建設されるまでは受刑者を収容する「刑務所」が存在していない。受刑者は、一七四八年までは海軍が持つガレー船の漕役囚として酷使され、それ以後も(ヴィクトル・ユゴーVictor-Marie Hugoが小説『レ・ミゼラブル』の中で描いたように)トゥーロンやブレストの海軍工廠の徒刑場で港湾作業に従事させられたのである。したがって、パリ市内の牢獄の大半は容疑者ないしは未決囚を収容する「拘置所」であり、今日のシャトレ広場Place du Châteletに建てられたグラン・シャトレや、マレ地区のフォルス牢獄(一七八二~一八四五年、グランド・フォルス)や女子用牢獄プティット・フォルスのような凶悪犯が収容されている「牢獄」を襲撃して彼等を解放する行為は余りにも危険すぎる、と認識していたからこそ襲撃対象から外されたのである。

2 農民蜂起と大恐怖
革命勃発の翌一五日、市庁舎に設けられた常設委員会(後の臨時委員会comité provisoire)はパリ市長maireとして国民議会議員のバイイを任命し、一七~二三日に各ディストリクトごとに行われた投票で市民の批准を受けた。この時から市当局は、〈自治的コミューン〉という性格に変化した。七月二五日、バイイは各ディストリクト二名の代表を選出して「パリ・コミューン代表者会議」(一二〇人会議)Assemblée des Représentants de la Commune de Parisを設置したが、やがて八月五日からは「一八〇人会議」、九月一九日からは「三〇〇人会議」へと発展し、そのうち六〇名が市評議会メンバーとして市長の行政を補佐することになった。また七月一五日には、民兵組織を「国民衛兵隊」garde nationaleと改称して総司令官にはラ・ファイエットを据えている。この時、ラ・ファイエットが兵士に与えた「パリ市の色である赤と青との間にブルボン王家の白を挟んだ徽章」こそが今日のフランス国旗の源である。なお、国民衛兵隊は各ディストリクト単位に五〇〇人が選出されて五中隊=一大隊が編成され、一〇大隊が一師団となるため、パリ全体では六師団、三万人の軍隊が編制された訳である。しかし、軍隊経験を持つ貴族の多くは有給の中隊、それも司令部直属の部隊に配属されたために、ディストリクトと中央司令部との間には溝が生じてくる。
一方、七月一五日のうちに国民議会に赴いて軍隊の送還を告げた国王は、翌日にはネッケルを財務長官に復職させ、一七日には国民議会の主だった議員とともにパリに出向いてバイイらの歓迎を受けることになる。しかし、首都パリに発した暴動は、燎原を走る炎のように瞬く間に全国に拡散した。多くの地方都市では決起した市民代表が民兵を組織して市政を掌握する「市制革命」を行い、農村部では槍や鎌で武装した農民たちが領主や地主の屋敷を襲撃し、封建的支配の象徴である土地台帳を焼却した。地方における蜂起は、ノルマンディのボカージュ地方、ピカルディ州、フランシュ・コンテ州、マコネ地方の四カ所で発生した。先ずボカージュ地方では、七月一七・一八日、ファレーズの週市で発生した暴動を契機として愛国派がカーンの城館を占拠し、二二日以降は農民反乱がノワロー川やマイエンヌ川周辺まで広がって八
月六日まで続いた。また北フランスのピカルディ州ではスカルプ川流域やサンブル川南部の修道院が襲撃された。東部のフランシュ・コンテ州では、七月一九日、ヴズール近くのカンセー城で起きた爆発事故が契機となって約三〇の城館が掠奪・放火の対象とされ、オート・アルザス地方でも七月二五日から三〇日にかけて反乱が発生している。そしてマコネ地方のイジュで発生した民衆蜂起は、南のボージョレ地方まで広がった。これらの民衆蜂起に共通していることは、攻撃対象がアリストクラート層であり、農民反乱の最大の目的はアリストクラート層が持つ領主的諸権利を放棄させることにあった。彼らもまた都市民衆と同じく、当局がやるべき正義の代執行をするという「モラル・エコノミー」の観念が背景にあったのである。したがって農民反乱における殺傷ざたはごく僅かで、彼らは領主的諸貢租徴収の根拠となっていた土地台帳など文書の焼却に主たる眼目が置かれていた。しかし、決起した民衆の間には「アリストクラートの陰謀」に対する恐怖心が渦巻いていたのも事実であった。貴族が野盗や浮浪者を雇って押し寄せてくるという噂が流れてパニック状態に陥った農民たちは、過剰なまでの〈防衛的反作用〉を示して武装を急ぎ、フランス全域が「大恐怖」Grande Peurと呼ばれる騒乱状態に陥ったのである。註⑧

3 封建的特権廃止宣言とフランス人権宣言
八月四日夜、国民議会(議長はル・シャプリエ)が再開され、国王から委任された農民暴動対策が話し合われた。彼らは当初、都市の民衆蜂起に関しては国民衛兵の設置で抑え込むことができるが、農民を服従させるには国王の軍隊とプレヴォ裁判に委ねる必要があると判断していた。前日の報告委員会では「議会が、地方当局に対しては秩序の回復を、人民に対しては租税・十分の一税・封建的諸貢租の支払いの継続を命じる」という布告が検討されたが、国王の軍隊に頼るとせっかく抑えた国王や宮廷勢力が再び力を増しかねないとの懸念から〈農民に満足を与える〉方針に切り替えている。当日、演壇に立った自由主義貴族ノアイユ子爵Noailles(ラ・ファイエットの義兄)は、租税負担の平等、封建的諸権利の買い戻し(有償廃止)、賦役・農奴制及びその他一切の人身的隷属の無償廃止を提案した。しかし、続いて登壇した自由主義貴族でフランス最大の土地所有者の一人であったエギヨン公爵Aiguillonは、すべて「買い戻し」という動議を提出している。深夜二時まで続いた議論の末、採択された「封建的特権廃止宣言」の内容は基本的に前者の意見に沿うものだった。すなわち、免税特権の廃止だけでなく、領主裁判権その他の〈人的権利〉は無条件かつ無賠償で廃止とするが、〈物的権利〉たる封建的地代は「買い戻し」とすると決定された(八月一一日法令化)。こうして第三身分は、封建的人身支配や身分差別という人格的隷従から解放されたが、一七九〇年五月の法令で貨幣地代は二〇年分の年貢、生産物地代は二五年分の年貢の一括払いによる封建的地代の廃止(買い戻し)とされ、農民にとっては極めて困難な課題が残ったのである。封建的地代の問題が当初の「無償廃止」から「有償廃止」へと変更されたのは、改革派議員の多くが領主・地主層出身であったためで、まさに顴骨堕胎の結果となった。また、領主直領地は地主が完全な所有権を有していたので解放の対象とはならなかった註⑨
そして一七日にはラ・ファイエットら五人委員会が起草した「フランス人権宣言」(人間及び市民の権利の宣言、全一七条)が議会に提出され、二六日に採択された。この宣言は立憲王政派が準備していた憲法前文に相当するもので、フランス社会にはびこってきた社団原理を否定し、何人をも差別しない「法の前の平等」を謳いあげるとともに、自由・平等の権利を掲げて専制政治からの解放を宣言した(「第一条 人は生まれながらに自由であり、 権利において平等である。社会的な区別は、共同の有益性にもとづく場合にのみ、設けることができる。第二条 あらゆる政治的な結合の目的は、人が自然に持っている取り消しできない諸権利を保全することにある。それらの権利とは、自由、所有、安全、抑圧への抵抗、である。」)。この第一条、第二条の条文にはイギリス経験論哲学者ジョン・ロックJohn Locke(一六三二~一七〇四)『市民政府二論』に出てくる「抵抗権」の影響が顕著であり、第三条「あらゆる主権の根源は、本質的に国民のうちにある。いかなる団体も個人も、明白に国民から由来するものでない権限を行使することはできない」とする「国民主権」の精神は、啓蒙思想家ジャン=ジャック・ルソーJean-Jacques Rousseau(一七一二~七八)が『社会契約論』に書いた「人民主権」主義に源がある。しかしその一方で、革命の急進化を警戒した立憲王政派の一人であるデュポールAdrien Jean Francois Duportは抜け目なく第一七条「所有は、神聖で不可侵の権利であるがゆえに、適法に確認された公共の必要性が、事前の適正な補償という条件のもとで明白に要請する場合以外には、人は所有を奪われることはない」として、「所有権の不可侵」を挿入することを忘れてはいなかった。註⑩

4 一〇月事件(ヴェルサイユ行進)
革命の嵐がいったん沈静化した八月末、国民議会に結集し立憲政治を求めていた「愛国派」patriotes内部に亀裂が生じた。革命の進行に恐れを抱いたラリー・トランダールTrophime Gerard Lally-Tollendalやクレルモン・トネールClermont-Tonnerreらの保守グループ(穏健派)にムーニエらが参加し、貴族身分のための上院設置と、立法府決定を無効にできる国王の「絶対的拒否権」を主張したからである。それに対して愛国派内部の多数派となったバルナーヴ、デュポール、アレクサンドルとシャルルのドゥ・ラメット兄弟Frères Lameth(所謂「三頭派」Triumvirat)ら左派の人々はいずれもこれに反対し、ラ・ファイエットがパリ駐在米国大使ジェファソン Thomas Jefferson(在任一七八五~八九、後の第三代米国大統領)の邸宅で取り持とうとした調停も失敗に終わった。こうした動きに動揺した民衆は、八月三〇日、再びパレ・ロワイヤルに集結して示威行進を開始し、翌日には市庁舎に出向いて「ディストリクト会議の意向を聞け」と要求した。一方、穏健派の人々はアリストクラート層と協力して、九月一日には議会をソワッソンかコンピエーニュに移すことを国王に提案して発言力を増していた。一〇日に行われた憲法制定国民議会における二院制議会問題の票決では右派の棄権もあって八九票しか賛成が得られなかったが、翌日には国王の絶対的拒否権を承認させている。しかし、国王ルイ一六世は八月に成立した諸法令を未だ批准せず、九月二三日にはドゥーエに駐屯していたフランドル連隊約一〇〇〇人がヴェルサイユに到着して再び反革命の動きが蠢きだした。
ちょうどその頃、前年から続いた凶作は穀物価格の高騰を招き、革命の進行は失業者の増加と通貨の国外流出をもたらしていた。革命勃発の前日に一五・五スーにまで高騰した民衆用パンの公定価格は、八月に入ってパリ市の財政負担によって一二スーまで引き下げられたが、搬入不足が深刻となって民衆の不満は頂点に達しようとしていた。しかし、国民議会は八月二九日の法令で「穀物および穀粉の販売及び流通は王国の内部で自由たるべし」という〈穀物取引の自由〉という基本原則を定めてブルジョワ寄りの姿勢を鮮明にした。ところが九月に入って、マラーが創刊した『人民の友』やカミーユ・デムーランが作成したパンフレット(七月『自由フランス』、九月『パリ人への街頭演説』)が民衆を大いに刺激し、多くの支持を集めるようになる。そこへ一〇月一日、ヴェルサイユで事件が起きた。王や王妃も臨席したフランドル連隊歓迎の宴席において、士官たちが新生フランスを象徴する「三色の徽章」を踏みにじったのである。この事件は早速パリに伝えられ、パレ・ロワイヤルの広場や、ダントンが議長を務めていたコルドリエ・ディストリクトでは国王をパリに移すべきか否かが話し合われた。
五日の朝八時頃、パリ市内の女性たちがフォーブール・サン=タントワーヌや中央市場Les Hallesに近いサン=トゥスターシュSaint-Eustache界隈から市庁舎前に集まりだし、パンと夫たちのための武器を要求した。ところが、あいにく市長バイイや国民衛兵司令官ラ・ファイエットが不在だったため、男たちも加わった群衆は、急遽「ヴェルサイユ行進」La Marche des Femmes sur Versaillesを決定し、一〇時半頃には市庁舎内にあった武器を掠奪した。こうして「バスティーユ義勇兵」の一人マイヤールという若者の指揮の下、約六〇〇〇~七〇〇〇人に膨れあがった群衆がヴェルサイユ宮殿に向けて出発したのである。ラ・ファイエットはようやく正午頃になって市庁舎に姿を見せたが、そこに駆けつけた国民衛兵たちもヴェルサイユ行進を要求した。そこでラ・ファイエットとコミューン議会の委員二人が随行する形で国民衛兵とその他の群衆、少なくとも二万人がパリを出発したのは夕方五時頃であった。この日、ヴェルサイユでは午前中から国民議会が開かれ、国王による「八月・九月の諸法令に条件付同意を与える」という回答をめぐって激論が交わされていた。午後四時頃、雨でずぶ濡れになった女性たちが議会に到着し、入場を許されたマイヤールと女性代表は食糧確保とフランドル連隊の退去を要求したところ、議長ムーニエは食糧供給の確保だけを国王に求めることを決定した。一方、国王ルイ一六世はいつものように狩猟に出かけていたが、大臣サン・プリーストSaint-Priestからの伝言で近衛兵六〇〇人とフランドル連隊を呼集し、午後三
時には国務顧問会議を召集した。五時半頃、議場を出た女性たちが宮殿入り口の鉄柵まできたところ、近衛兵に押しとどめられた。彼女たちは王妃マリ・アントワネットの出産に駆けつけるほど国母に対する信頼感を寄せた時期もあったが、この時には会ってもくれない国王夫妻に苛立ちを募らせた。その後、議会からやって来たムーニエやその同僚議員の後に付いて行く形で六名の代表が入場を許され、国王からパリに小麦を送ること、ヴェルサイユにある限りのパンを提供することが約束された。ところが、夜九時過ぎにラ・ファイエットが派遣した二人の士官が宮殿に到着し、再度召集された国務顧問会議では宮廷の移転と諸法令の無条件受理を決定した(国王はその後意見を変えてヴェルサイユ残留を決めた)。ラ・ファイエットがヴェルサイユ宮殿に着いたのは夜一一時頃で、国務顧問会議は未明の三時頃に散会した。翌六日の午前六時頃には、泊まるところもなく夜を過ごした群衆が宮殿の鉄柵のところに集まりだし、 開け放しになっていた柵から中庭に入ったところで近衛兵と衝突した。群衆はラ・ファイエットの自制の声も聞かずに宮殿内へと乱入し、「王妃の間」にいたマリ・アントワネットは逃げ惑い、国王の居間に逃げ込んだところで国王や子どもたちとともに捕らえられた。こうして国王夫妻はパリのテュイルリ宮殿Palais des Tuileriesへと連行され、一一月九日には憲法制定国民議会もかつてルイ一五世がつくらせた調馬場にある二階建ての建物へと移転した。そしてこうした混乱の中、ムーニエら王党派議員の多くが国外や地方へと逃亡し、その後はラ・ファイエットやミラボーらの自由主義貴族が革命の主導権を握ることになったのである。註⑪
  
 (五)立憲君主政治とその崩壊
1 九一年体制の成立
一七九〇年五月二一日、国民議会はパリ市の新しい在り方に関する審議を開始した。そして、 一カ月後の六月二一日には三〇〇人委員会が提出した原案に近い決定がなされ、自治権を主張するディストリクト側の要求はほぼ完全に拒否された。新市制によれば、パリの中央機関の役人はすべて市民の選挙で選ばれることになり、その選挙と行政の単位は従来の六〇のディストリクトから新たに編成される四八の「セクション」sectionへと変更された。また、 新たな市の選挙は直接選挙方式が採用され、 セクション毎に開かれる選挙集会において市長やコミューン総代procureur de la Commune・総代代理substiut(二名)・総評議会conseil général議員が選出された。総評議会議員の場合はセクション毎に三名が選ばれるため計一四四名が選出されたが、 その中からセクション毎に自治体役人一名を選び、さらには計四八名の自治体役人の中から五部局に分かれる一六名の行政官を選出した。こうして選ばれた役人たちは市長とともに市の執行機関となり、その他の総評議会議員九六名は名士notableと呼ばれた。一方、市以外の県・国レベルの選挙では、各セクションの住民数に比例した数の選挙人を選び、選挙人会議が役人・議員などを選ぶ間接選挙方式がとられた。なお、選挙集会への参加資格は〈能動的市民〉citoyen actifと呼ばれた「二五歳以上のフランス人男性で一年以上在住し、三日間の労働日に相当する直接税(パリでは三リーヴル以上)の納税者」に与えられ、選挙人や総評議会議員の被選挙資格は能動的市民のうち「一〇日間の労働日に相当する直接税(パリでは一〇リーヴル以上)の納付者」に付与された。また各セクションの総会では、治安維持や行政の手足となって動く警察委員やその書記、治安判事(それぞれ一名)や民事委員会(一六名)も選出された。さらには、ディストリクト時代には認可されていた総会の常時開催権(ペルマナンスpermanence)は認められないと決定した。こうして新市制は、新たに誕生したセクションを市当局の従属機関と位置づけ、民衆が求める〈直接民主制〉としての性格をほぼ完璧に否定するものとなった。その結果、市政を担う者はどのように変化したのか。先ず能動的市民の有資格者数はパリ全体で約八万一二〇〇人と推定されているが、その内訳は商工業に直接関係するブルジョワが過半数を占め、残りは法曹界などの自由職業人などで、職人や日雇い労働者は極めて稀であった。彼らのうち実際に登録されたのは半分以下と思われ、 しかも選挙集会や総会への出席率は極めて低かった。こうして市長バイイは再選され、総代・総代代理の三名も元高等法院の弁護士が選ばれたために市政の連続性は維持されたが、その一方で〈受動的市民〉(民衆)の声は市政に反映できない状況が続いた。したがって、新市制の下で窮屈な思いを強いられた活動家たちは、セクションの外側に自由な運動の場を求めることになった。
こうした状況のもとで一七九〇年以降のパリ市内に誕生したのが、「人民協会」société populaireである。政治クラブという概念からすれば、一七八九年一一月、サン=トレノ街Saint-Honoréのジャコバン修道院(ドミニコ修道会)内につくられた「憲法友の会」が最も早い。憲法友の会は全国三部会時代にブルターニュ出身の第三身分議員が結成した「ブルトン・クラブ」に始まり、ヴェルサイユ行進後は所謂「ジャコバン・クラブ」Club des Jacobinsと呼ばれ、一七九二年九月以降は「ジャコバン協会、自由と平等の友」と改称した。しかし、これは国民議会の議員たちが主導権を握る院外クラブであり、終始一貫してブルジョワのクラブであって民衆は一人も参加していない。したがって、多くのセクションに誕生した民衆的色彩の濃い人民協会としてはセーヌ川左岸のコルドリエ修道院内に居を定めた「人間と市民の権利の友人会」(通称「コルドリエ・クラブ」Club des Cordeliers)が初めてであり、ここからは山岳派(モンタニャールMontagnard)のダントンやデムーラン、ジャン=ランベール・タリアンJean-Lambert Tallien、エベール派のモモロAntoine-François MomoroやヴァンサンFranCois-Nicolas Vincent、ショーメットPierre-Gaspard Chaumetteなど著名な活動家が輩出している。註⑫

2 シャン=ド=マルスの虐殺
人民協会の設立が続いていた一七九一年の四月二日、国王の信頼が篤かったミラボーが急死し、もはや頼みの綱はラ・ファイエットのみとなった。革命の進行に伴う貴族や大ブルジョワの亡命は景気低迷となって暮らしを直撃し、巷にあふれた失業者は大量の浮浪者や乞食となって社会秩序を揺るがしていた。その間、印刷博愛クラブや大工職労働者友愛同盟などの「職人組合」が結成され、これらに刺激された蹄鉄工・帽子職人・靴工なども賃上げを要求して労使紛争が多発するようになった。パリ市当局がこうした問題の解決に手をこまねいていたわけではなく、すでに革命前の一七八九年五月には失業者対策としての公共事業を始めていたが、失業者の数はいっこうに減る傾向を見せず、九一年六月にはその数が三万一〇〇〇人に膨れあがって公共作業場閉鎖に追い込まれた。こうした情勢に危機感を抱いたブルジョワジーは、一七九一年三月二日、アラルド法loi dAllardeを制定してコルポラシオン(宣誓ギルド)を正式に廃止し、六月一四日の国民議会ではル・シャプリエ法(労働者団結禁止法、 一七九一~一八八四年)loi de Le Chapelierを定めて同一職種の職人・労働者の結社及び誓願、賃金協定を禁止し、一八八四年に結社法(バルデック・ルソー法) loi sur les associations制定まで間、フランスの労働運動はながい苦闘を強いられることになる。
ル・シャプリエ法制定後まもない六月二〇日の深夜、国王一家が密かにテュイルリ宮殿を抜けだしてオーストリアへの逃亡を図るという前代未聞の事件が発生した(ヴァレンヌ事件)。国王一家は翌日の夜にヴァレンヌVarennesで取り押さえられ、二五日にはパリに連れ戻されたが、パリ市内には革命を見捨てた国王に対する侮蔑の感情が広がり、共和制を求める声すら上がり始めた。コルドリエ・クラブは民衆の声に押されて合計一七回もの請願書を議会に提出し、市中のデモ行進をたびたび組織した。しかし、当時の国民議会は愛国派右派(ラ・ファイエット派)やジャコバン・クラブ右派(三頭派)が有力であり、彼らは必死に国王夫妻の無実を主張し、七月一五日には議会が設けた調査委員会から「国王は誘拐された」という報告書が提出されている。この報告書の内容に反発したジャコバン・クラブでは、ダントンやブリソーJacques Pierre Brissotらの請願起草委員を独自に選出し、翌日までに「国王の復権は国民の同意を必要とするが、その運動は憲法に基づく手段による」という内容の請願書をまとめた。しかし、この請願書をめぐってジャコバン・クラブは左右に分裂し、三頭派をはじめとする右派は近くのフィヤン修道院へ移り、 ラ・ファイエットの「一七八九年協会」と合流して新しい党派「フィヤン派」 Club des Feuillantsを結成し、 富裕市民(ブルジョワ)や自由主義貴族の期待を集めるようになる。一方、公共事業廃止に反対していた労働者大衆やコルドリエ・クラブなどは、その日、パリの練兵場シャン=ド=マルスChamp-de-Marsにおいて大規模な請願大会を予定していたが、ジャコバン・クラブの請願内容の再考を促すために翌日に延期した。ところが同日、国民議会が「国王が憲法への宣誓をすれば王権停止を解いて復権させる。不測の事態に備えて国民衛兵に予防措置を講じさせる」の二点を決議したため、ロベスピエールらジャコバン・クラブ左派は妥協して翌日の請願大会中止を決定した。ところが、ジャコバン・クラブ左派の決定はほとんど伝わらなかったようで、翌一七日、街頭の新聞売りの呼びかけに応じた群衆約五万人がシャン=ド=マルスに集合してしまった。これだけの人数を動員できたのは、人民協会が労働者の社会的不満を政治運動へ転化させることに成功したからにほかならない。だが、群衆の動きは市当局が許可している請願署名だけでなく、次第に禁じられていた「集合」の様相も見せ始め、そのうち取り囲む国民衛兵一万人に対して投石を開始した。緊迫した状況の中で市当局は戒厳令を発し、国民衛兵の発砲で五〇人以上の死者をだす大惨事に発展した(シャン=ド=マルスの虐殺Fusillade du Champ-de-Mars)。かくして革命を指導してきたラ・ファイエットの人気は凋落の一途をたどり、後に市長バイイが処刑される原因ともなった。シャン=ド=マルス事件は一七八九年の七月蜂起で成立した市当局・国民衛兵と民衆がはじめて公然と敵対したわけで、革命が新たなる段階に突入したことを示している。
ところで、保守派の妥協路線を排して革命をさらに徹底させようとした改革派にとっても、民衆運動の持つ潜在的なエネルギーを統御できる術はなく、活動家の一部は人民協会から再びセクションへと戻っていった。シャン=ド=マルス事件の後、市当局は参加者を根こそぎ逮捕しようとし、コルドリエ・クラブも閉鎖された。しかし、ジャコバン・クラブにとって幸いしたのは、事件を挟んで六~九月にかけて全国一斉に「立法議会」 Assemblée législativeのための選挙が行われたことであった。全国三部会代議員がそのまま横滑りした国民議会(憲法制定国民議会)と異なり、立法議会では前議員の再選禁止が定められていたために、保守的貴族の姿はほぼ完全に消え失せた。また、〈能動的市民〉数を納税額で絞る制限選挙制としたため、小ブルジョワや民衆が選出される心配も少なかった。そして選挙集会は、 公正さを期して(立候補制を採らずに)絶対的多数を得る者がでるまで投票を繰り返す方式がとられて長期化した。そして、 そのことが仕事を持つ一般市民の足を遠のかせ、特定の活動家が牛耳ることにつながったのである。例えばパリの議員選挙では、選挙人の多くが九一年体制派(保守派)によって占められていたが、彼らの間には現状肯定と選挙への無関心が広がって参加者が少なかった。こうした情勢の下で改革派は結束して選挙運動を展開し、二四名のパリ選出議員のうちブリソー、コンドルセ(山岳派に属した数学者・社会改革者)Condorcetら七名のジャコバン系選挙人の選出に成功した。また、立法議会議員として全国各地から選ばれてきた総数七四五名の多くは元来フィヤン派を支持していたが、改革派の説得工作が功を奏してジャコバン派議員一三六名を確保できたのである。バイイの辞職にともなって一一月に行われた市長選挙でも、ジャコバン派のペティオンPétionが国民衛兵司令官を辞して選挙に打って出たラ・ファイエットに大勝し、 総代にはマニュエルPierre Louis Manuel、総代代理にはダントンというともに改革派の活動家が市幹部に選ばれた。註⑬

3 革命戦争と八月十日事件
一七九一年九月三日、神聖ローマ皇帝レオポルト二世Leopold II(在位一七九〇~九二、マリ・アントワネットの兄)とプロイセン王フリードリヒ=ヴィルヘルム二世Friedrich Wilhelm II(在位一七八六~九七)が、フランス革命に対する共同警告宣言(「ピルニッツ宣言」Déclaration de Pillnitz)を発してから一週間が経ったこの日に、立憲王政派の懸案であった「一七九一年憲法」がようやく成立し(九月一四日公布)、 立憲王政が開始された。この憲法下では三権分立の原則が採用され、立法権は一院制の立法議会(総数七四五名)に、司法権は裁判所に、そして執行権(行政権)は国王に属した。しかし、国王は議会に対して停止的拒否権(二会期四年間のみ議会の可決した法案を拒否できる権利)しかなかったために、議会の決議が国政を左右することとなった。一〇月一日に開会した立法議会では右翼席にフィヤン派二六四名、中間に独立派三四五名、左翼席にジャコバン派一三六名が座り、一二月九日、フィヤン派内閣が成立した。しかし、 議員を辞めたバルナーヴら三頭派が影響力を持ち続けたフィヤン派は、「封建的特権の無償廃止」に反対して宮廷貴族と結ぶなど、反革命的傾向が明らかとなってブルジョワ層の支持を失っていく。一方、ジャコバン派もブリソーやヴェルニョPierre Victurnien Vergniaud(ジロンド県選出)を中心とするブリソー派(後のジロンド派 Girondins)と、ダントン、マラー、ロベスピエールを中心とする左派(後の山岳派)とに分裂し、前者が有力者のサロンを活動の場として商工業ブルジョワと結びついたのに対して、後者は議員を辞めて『憲法の擁護者』という定期刊行物の発行人となったロベスピエールを中心にサン・キュロット(無産市民)Sans-culotteの支持を集めていた。その間、フランス各地では一七九一年秋から小麦価格の高騰で食糧問題が再燃し、サン・ドマング島の奴隷反乱に伴ってそれまで一リーヴル〔重量〕当たり二二~二五スーだった砂糖価格も九二年一月には突然三フラン=六〇スーに上昇したこと、アシニャ紙幣assignat(一七八九年一二月四日、国有化された教会財産を担保として発行した五分利付債券を、翌年に不換紙幣としたもの)が乱発されたことなどが背景となって、再び民衆運動が活発化した。なかでも九二年三月三日、エタムプ事件(パリ南方のエタムプ市Etampesで住民の価格統制要求を拒否した市長シモノーSimoneauが殺された事件)が発生した時、立法議会はシモノーを殉教者に祭り上げて六月には「法の祭典」という国家的祭典を挙行したが、エタムプ市に近いモーシャン村Mauchampsの司祭ドリヴィエDolivierは暴動を起こした農民たちを擁護する請願運動を開始した。ドリヴィエが同年五月に作成した請願書には「飢えない権利」le droit de ne pas jeûnerという文言があるが、これこそが最低限度の生活を営む権利、すなわち「生存権」であった。そして、この文書に共感を示したのがロベスピエールであった。但し、ドリヴィエが民衆や農民とりわけ貧農の利害を代弁したのに対して、ロベスピエールは「生存権の優位」を掲げてブルジョワジーの利害をある程度まで制約しようとはしたが、貧農の立場に立って土地問題の根本的解決を図る意思はなかった。註⑭
一七九二年三月一〇日、国王ルイ一六世は告発された外相ド・レッサールde Lessartを罷免し、ブリソーを中心とするジロンド派に組閣を命じた(内相を務めたロランの妻は後に断頭台の露と消えたロラン夫人Madame Rolandである)。その頃、フランス国内では国王一家やアルトワ伯、プロヴァンス伯などの亡命貴族と周辺諸国との関係を疑う世論が拡大の一途をたどっていたが、ジロンド派内閣はそうした時流に迎合し、好戦的な愛国心や優越心を煽るショーヴィニスムchauvinismeに走った。宮廷はフランスの敗北を期待して開戦を期待し、フィヤン派のラ・ファイエットも軍部の発言力拡大を見込んで開戦を主張した。また、人民協会や各セクションも「アリストクラート層の陰謀」を一掃できるとして積極的に開戦を支持した。その結果、バルナーヴやロベスピエールらの反対意見は開戦を支持する勇ましい声にかき消され、 四
月二〇日の対墺宣戦布告によって革命戦争が勃発した。ところが、既に革命の影響は軍隊内部にも及んでおり、指揮命令系統が混乱していたフランス軍は各地で敗戦を重ねた。当時の軍隊は、革命前からの正規の軍隊に国民衛兵から選抜された義勇兵が加わったことで二本立てとなっており、正規軍一大隊と義勇軍二大隊とで半旅団を編成し、少しずつ中隊レベルまで下げて軍隊の一本化を図ることができたのは179三年二月以降のことである。
その間、フランス国内では一七九〇年七月一二日、憲法制定国民議会で制定された「聖職者民事基本法」(聖職者市民法)Constitution civile du clergéをめぐる対立が激化していた。この法律により、一七八九年一一月オータン司教タレーランCharles-Maurice de Talleyrand-Périgorの提案に基づいて国家の管理下に置かれたカトリック教会の全ての土地を国有財産とすること、聖職者は公選によって選出され、国家から俸給が支給されることなどが規定され、九〇年一一月二七日には「国民と法と国王に忠実であることを誓う」ことが追加された。一七九一年四月、当時の教皇ピウス六世Pius VI(在位一七七五~九九)が聖書以外に誓いを立てさせる法律に断固反対を表明したため、フランス国内の聖職者は宣誓者と宣誓拒否者とに分かれて対立することになった。国王ルイ一六世は聖職者民事基本法については裁可したが、非宣誓聖職者の国外追放(五月二七日制定)と国民衛兵の基地創設(六月八日制定)を規定した法律の裁可は拒否権を行使している。一七九二年六月一三日、国王がデュムリエ内閣Dumouriezにいたジロンド派の大臣三名を罷免して再びフィヤン派内閣を任命すると、これが引き金となって二〇日にはフォーブール・サン=タントワーヌのキャンズ=ヴァン・セクションQuinze-Vingtsとフォーブール・サン=マルセルFaubourg Saint-Marcelのゴブラン・セクションGobelinsの国民衛兵大隊を中心とする住民が大挙して武装し、(パリ県当局の不許可を無視して)立法議会と国王に請願するという過激な行動に走った。彼らはテュイルリ宮殿の横口から国王の居室まで侵入して数時間にわたって国王一家を面罵しており、宮廷や立憲王政派の受けた衝撃にははかり知れないものがあった。
六月二〇日事件の後、保守派は強硬策に出て七月七日には市長ペティオンを停職させたが、これが裏目に出て中間的な立場のセクションは保守派を警戒するようになった。また、一〇日にフィヤン派内閣が総辞職し、翌日にはジロンド派の提案を受けて立法議会が「祖国は危機にあり」la patrie en dangerという非常事態宣言(公布は二一日)を発した。その間、セーヌ川右岸中央部のモーコンセイユ・セクション Mauconseilが総会の常時開催に踏み切ると、他の多くのセクションもこれに続いたため、二五日には正式に承認されて一種の政治クラブと化した。そして同じ二五日にプロイセン=オーストリア連合軍の最高司令官ブラウンシュヴァイク公フェルディナントKarl (II) Wilhelm Ferdinand von Braunschweig-Wolfenbüttelが発表した、フランス王族に少しでも危害が加えられたならばパリを全面的に破壊するという内容の「ブラウンシュヴァイクの宣言」Manifeste de Brunswickがパリに伝わり、民衆の怒りを増幅させた。その結果、三一日にはテアトル=フランセ・セクションTheatre Francaisが受動的市民を含む「すべての市民」を国民衛兵に参加させる決議をし、翌日には立法議会も全市民を区別なく武装させることを決定した。受動的市民の参加は、政治的権利の不平等を定めた「九一年体制」の変更を意味しており、明らかに〈解釈改憲〉であるが、戦時の興奮がそれを容認したのである。
六月二〇日以後の反動政治のなかで、宮廷には国王に加えられた侮蔑を非難する決議が全国諸県から届くようになり、また立法議会におけるジロンド派の日和見的態度をみて楽観的な空気が漂っていた。一方、 七月二九日、ロベスピエールが〈憲法擁護〉という従来の態度を捨てて新憲法の制定、王権停止、行政官の刷新を行うために「国民公会」Convention nationaleを召集する必要があると演説したが、これはパリ市民の気持ちを代弁する内容であった。そしてその頃、バスティーユ牢獄襲撃を記念する連盟祭(七月一四日)のために集結した地方諸県の国民衛兵(連盟兵)の一部は式典後もパリに残り、とりわけブレスト部隊三〇〇人(二五日到着)とマルセイユ部隊五〇〇人(三〇日到着)の実力は際だって大きいものがあった。マルセイユから来た兵士たちが歌った「ラ=マルセイエーズ」La Marseillaiseは、今日では国歌となっている。各県の連盟兵はロベスピエールの指導下に「連盟兵中央委員会」をつくって相互に連絡をとり、ブレスト部隊の到着を待って二六日夜から二七日早朝にかけての武装蜂起を計画したが、参加者が少なく未遂に終わっている。その後、運動の主導権はフォーブール・サン=タントワーヌのキャンズ=ヴァン・セクションへと移り、八月九日二二時に行動を開始した。彼らは各セクションの代表三名を市庁舎へ派遣し、 開催中の市評議会を廃止して「蜂起コミューン」設置を認めさせ、パリの国民衛兵司令官マンダMandat(フィヤン派)を逮捕し、翌朝グレーヴ広場において銃殺した。フォーブール・サン=タントワーヌの国民衛兵指揮官サンテールAntoine Joseph Santerreは、急遽パリ司令官に任命されたことを知り、現場の指揮をゴブラン・セクションのアレクザンドルに委ねるために市庁舎へと出向いていたため、 王宮前のカルーゼル広場では蜂起部隊の指揮をとる者が誰もいなくなった。そして、国民衛兵の諸大隊やマルセイユ、ブレストの連盟兵が包囲したとき、国王一家はすでに王宮を離れて議場へと避難しており、戦意喪失の状態にあった。しかし、王宮防衛に当たっていたスイス衛兵の一部が発砲したことで戦闘が開始され、 その後は凄惨な殺戮が繰り広げられた。スイス衛兵の死者は約六〇〇人で、蜂起側の死傷者は約四〇〇人と言われる。こうして王権停止の決定がなされ、国王一家はタンプル塔Tour du Templeに幽閉されたのであった(八月十日事件)。註⑮
 
(六)共和政治の樹立とジャコバン独裁(革命独裁)
1 国民公会成立とルイ一六世の処刑
 八月十日事件から一カ月余。蜂起後のパリ市内には、メンバーを一新させた市評議会(パリ・コミューン)と立法議会が成立させた臨時政府(臨時行政評議会)Conseil exécutif provisoireとが出現して、 まさに〈二重権力〉状態と化していた。しかし、後者は六名中五名がジロンド派(蜂起コミューン代表は法相ダントンのみ)であったし、パリ市当局はもとより地方都市の役人たちの顔ぶれにも変化がなかったから、 民衆の間には反革命側の反撃を怖れる空気が急速に広がった。そこで彼らは立法議会に圧力をかけて、一一日に反革命容疑者の逮捕を全国の市町村に許可させ、一七日には特別刑事裁判所の設置を決めさせた。また、二五日には封建的特権の〈条件付無償廃止〉が実現している。これは一七八九年八月四日の「封建的特権廃止宣言」によって領主権の廃止が有償と無償とに分けられた後、農民たちが〈すべて無償廃止〉と理解して地代納入を止めていたものを、この日改めて「領主が自らの権利を正当化する文書や証拠を提出した場合は〈有償廃止〉とする」と定めたものである。そしてこの変更は、もし領主が証拠を提出したならば確実に農民一揆が発生するという状況の下でのことなので、事実上〈すべて無償廃止〉と同じ意味となった。また二六日には宣誓拒否聖職者を二週間以内に国外退去とし、もしこれに従わない場合にはギアナ流刑とするという法令を可決させた。こうして反革命容疑者が大量に逮捕され、 パリの監獄は囚人で溢れんばかりとなったのである。
 しかし、その間にも、八月二三日のロンウィLongwy陥落に続いてパリ東方のヴェルダン要塞包囲という戦況悪化が伝えられ、臨時政府は義勇兵派遣を決定することになった。ところが、義勇兵を派遣している隙に監獄から脱走した囚人たちが義勇兵の家族を襲うという噂が広がり、九月二日から六日(または七日)まで、暴徒と化した群衆が監獄を襲撃する「九月虐殺事件」Massacres de Septembreが発生した。民衆や連盟兵たちは九つの監獄を次々に襲撃し、そこに収監されていた囚人約二六〇〇人のうち、約半数の一一〇〇~一四〇〇人を監獄内に設けた「人民法廷」で即決裁判を行って虐殺を繰り返し、それ以外の囚人を無罪放免にしてしまった。犠牲者のうち何らかの政治的理由で収監されていた者は約四分の一しかいなかったと言われており、大部分は窃盗犯とかアシニャ紙幣偽造の容疑者などの非政治犯であった。この大虐殺の背景には、民衆の中に反革命側の反撃や戦争にたいする恐怖心だけでなく、政府や市当局がやるべきことをやらないから我々が代執行するという「モラル・エコノミー」に関わる観念があったものと思われる。
 さて、八月十日事件や九月虐殺事件によって社会が急速に保守化する中、ヨーロッパ初の男性普通選挙(二一歳以上の男性による二段階の間接選挙)が行われた。一七九二年九月二一日には新憲法制定の任務を持つ国民公会(総数七四九名の一院制)がテュイルリ宮殿大広間に召集された( 第二回以降は立法議会と同じく屋内馬術練習場に移転)。登院した議員の中にはロベスピエールやペティオンなどの旧憲法制定国民議会議員約八〇名と、またブリソーやヴェルニオをはじめとする旧立法議会議員約二〇〇名が含まれていたものの、約三分の二は新人議員が占めていた。さらにその内訳を職業別に分類してみると、弁護士や判事などの法曹関係者が二一五名、地方行政経験者が約三八〇名とブルジョワ階層に属する議員が大半を占め、労働者の肩書きを持つ地方選出議員は二名しかいなかった。また、この時の選挙では受動的市民約三〇〇万人を含む約七〇〇万人の有権者がいたが、彼らは国民公会を自らの代表を送り込むところとは見なしておらず、実際に投票したのもせいぜい十分の一程度だったと推定されている。すなわち、民衆の間には未だ「代議制民主主義」という考えが根付いていなかったのである。それでも一応は普通選挙であったから反革命貴族やフィヤン派は当選できず、議場の右翼席にはブリソー、ヴェルニオ、前市長ペティオンらのジロンド派、平土間にはアベ・シェイエスらラ=プレーヌ党(平原派または沼沢派)La Plaineがそれぞれ座り、左翼席の高い座席はダントン、マラー、ロベスピエールらの山岳派(モンタニャール)が陣取っていた。ただし、それぞれの党派は、ただ単に革命路線の違いに基づいて分化した集団に過ぎない。例えばジロンド派は民衆運動の高揚を期待して革命戦争に突入したものの、そのエネルギーの大きさに戸惑って抑えにかかった議員たちであり、山岳派は革命遂行のためなら(過激化する民衆の要求を丸呑みにしてでも)民衆運動のエネルギーを自分たちの運動に利用したいと考える議員集団である。また、その政治的態度から〈中間派〉と言われることもあるラ=プレーヌ党は、三グループの中では最も保守的かつ流動的な集団であり、彼らがジロンド派・山岳派のどちらに与するかで革命全体の性格が変化した。したがって、刻々と変わる政治状況に応じてそれぞれの党派に属する議員数も変化していった。特に、ジロンド派にすり寄る姿勢を見せていたラ=プレーヌ党が、次第に風見鶏としての本領を発揮して山岳派を支持するようになったため、革命の急進化を促す結果となった。その原因は、劣勢が続いていた革命戦争に変化が生じたからである。九月一九日、ケラーマン Kellermann軍とデュムーリエDumouriez(ジロンド派内閣の外相)軍の合流で五万人の兵力に膨れあがったフランス軍が、翌日のヴァルミー Valmyの戦いでブラウンシュヴァイク公率いるプロイセン軍三万四〇〇〇人を圧倒し、ライン左岸とベルギー地方の占領に成功した。この戦勝は「革命精神の勝利」と称えられ、 プロイセン側に従軍していた文豪ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(一七四〇~一八三二)は「ここから、そしてこの日から世界史の新しい時代が始まる」と述べたと言われる。近代国民国家の軍隊(国民軍)が絶対君主制国家の傭兵軍を撃破した事実は、まさに歴史の分岐点にあったことを示している。
 さて九月二一日、ジロンド派が主導する国民公会は王政廃止の決議をし、翌日の共和制宣言でフランス史上初の共和政治(一七九二~一八〇四年、第一共和政Première République française)を実現した。しかし、ジロンド派がダントンを金銭問題で糾弾し、パリ市内のセクションに影響力のあるマラーやロベスピエールを敵視したことが山岳派のまとまりを強化させ、中間派の離反を招いた。また、ジロンド派はタンプル塔に幽閉されていた前国王ルイ一六世を裁判にかけることは避けたいと考えていたが、一一月二〇日、テュイルリ宮殿内に造らせていた秘密の戸棚が発見され、そこから国王と外敵との通謀を示す動かぬ証拠が出てきた。この事件は秘密の戸棚をつくった錠前師ガマンが、王妃マリ・アントワネットから葡萄酒とビスケットのもてなしを受けたところ猛烈な腹痛に襲われたことを「毒殺の陰謀」と思いこみ、約一年後にジロンド派の内相ロランに通報したことに始まる。秘密の戸棚を自己の責任で開けたロランにも疑惑の眼が向けられ、国王裁判は避けられない事態となった。裁判は一二月六日から国民公会で始められたが、中間派の多くが山岳派に付いたこともあって国王の反革命的行動に対する責任を問う発言が続き、一七九三年一月一五~一七日の投票では投票総数七二一票のうち三八七票が死刑に無条件で賛成し、三三四票が拘留か条件付死刑に賛成したため死刑が確定した。また、翌々日の執行延期の可否を問う投票でも三八〇票対三一〇票の僅差ではあるが延期を否決した。一月二一日、革命広場で断頭台に架けられた後、国王の遺体はマドレーヌ墓地に埋葬された(一九世紀になってサン・ドニ僧院に移葬された)。また、王妃マリ・アントワネットは、八月二日になってシテ島西側のコンシェルジュリーConciergerieの独房に移されている。その間、国民公会は九二年一二月八日の法令で穀物取引の「最も完全な自由」を再確認し、二二日の法令では「穀物ないし穀粉の価格つり上げのために団結した者を二年間の鎖刑に処す」と定めて、 〈経済的自由主義〉を維持し続けている。註⑯

2 公安委員会と革命独裁 
 国王処刑から間もない一七九三年二月一日、国民公会は歯止めを失ったかのごとく、イギリス、オランダに対する宣戦布告を発して革命戦争を拡大させた。それに対して、イギリス首相ウィリアム・ピットWilliam Pitt(小ピット、在任一七八三~一八〇一、〇四~〇六、トーリー党)は、オランダ、プロイセン、 オーストリア、スペイン、ポルトガル、サルデーニャ、ナポリ王国、ドイツ諸侯国、ロシア、スウェーデンとともに第一回対仏大同盟Coalitions against France(一七九三~九七
年)を結成した。こうして俄然劣勢に立たされたフランス軍はベルギー戦線で敗北を喫し、おまけに司令官のデュムーリエ将軍が敵方に寝返るという信じられない事態に陥った。また三月一〇日にはブルターニュ半島南部にあたるヴァンデー地方Vendéeを中心とする農民反乱(一七九三~九五年)が発生し、国民公会を苦しめることとなった。森に囲まれたなかに畑が点在するこの地方は貧農が多く、カトリック信仰の篤い地域であった。保有地を持たない彼らには農民解放の恩恵は少なく、土地の再分配は都市のブルジョワを利するだけであったから〈ブルジョワ革命〉そのものを容認できなかった。とりわけ聖職者や教会に対する弾圧に続く国王処刑や増税に対する反発、二月二四日に発せられた「三〇万人募兵令」Levée de 300、000 hommes(満一八歳以上四一歳未満の未婚または子どものいない男性を対象とする志願兵制度)に対する忌避の動きが武装蜂起に発展し、騒乱は瞬く間に地方全体に拡散していった。行商人出身のジャック・カトリノーJacques Cathelineau を最高司令官に選出した「カトリック王党軍」は、地方貴族を味方に引き入れて勢力を拡大し、革命戦争のために国境線に国民衛兵を送り込んだために手薄となっていた現地政府軍を打ち破っていった。しかし六月に入り、彼らはブルターニュ地方の秘密組織「シュアヌリ」(ふくろう党)Chouannerieと合流するためナント市を攻撃したが、ナント市民が政府軍と協力して徹底抗戦に打って出たため、これを境に反乱軍の力は急速に萎んでいった。
 この間、フランス国内では経済活動が停滞して革命戦争の遂行にも多大な支障を来すようになり、一七九三年一月一日、「一般防衛委員会」Comité de défense généraleを設立した。しかし、そのメンバーのほとんどがジロンド派議員によって占められていたために、民衆の間にはジロンド派批判の声が大きくなっていった。そこで三月二三日には一般防衛委員会を改組して「国防委員会」という全ての会派が参加する大連立政権を発足させたが、議論百出の状態が続いて再び機能不全に陥った。そこで四月六日、バレールBertrand Barère de Vieuzacやコンドルセの提案があって、国防委員会は「公安委員会」Comité de salut publicへと発展した。国民公会には二一の委員会が組織されていたが、こうして外交・軍事・一般行政を担当する公安委員会と主に治安を担当する保安委員会Comité de sûreté générale(一七九二年一〇月二日発足)に権力が集中することになった。公安委員九名は国民公会における投票で選出され、ラ=プレーヌ党七名・山岳派二名によって構成されたが、百戦錬磨のダントンが選ばれていたことから事実上彼の政権となった。公安委員会はテュイルリ宮殿に隣接するフロール舘内に置かれ、五月一〇日以降は国民公会もテュイルリ劇場に移転している。その間、ジロンド派が怖れたとおり、民衆運動の圧力を受けてアシニャ紙幣の強制流通(四月一一日)や穀物と穀粉の最高価格法(五月四日)、富裕者を対象とした一〇億フラン強制公債の発行などが決定された。
 ところが、五月末からパリの民衆が再び蜂起する。五月三一日に発生した蜂起は内部不統一で失敗したが、六月二日には民衆約八万人が蜂起して国民公会を包囲し、パリ・コミューンを監視するための「一二人委員会」を創設したジロンド派幹部の逮捕を要求した。対応に苦慮した国民公会は公安委員会に調査を委ねようとして群衆に拒否され、改めて山岳派議員クートンGeorges Auguste Couthonの提案通りジロンド派逮捕を可決している。逮捕されたジロンド派幹部二九名と大臣二名は自宅監禁とされたが、 その多くはパリを抜け出して出身地のリヨンやボルドー、マルセイユ、トゥーロンなどに逃れ、パリ=山岳派に対する抵抗組織の結成を急ぐことになった。こうして国民公会の主導権を握った山岳派は、その後、新憲法の
起草を名目に公安委員会の改組を図って一時的に一四名体制としたが、今度は山岳派内部の対立が激しくなる。その引き金となったのが、食糧不足と物価騰貴を不満とするパリ民衆の動向であった。山岳派内では、〈経済統制〉に強く反対するダントンら寛容派議員と、民衆運動と関係が深いエベール派(エベールJacques René Hébertを中心とする民衆派)との対立が深刻化し、両者の中間にロベスピエールやその片腕サン・ジュストSaint-Just、クートンというロベスピエール派が座る構図となっていた。七月一〇日、公安委員会の改選が行われてダントン派が退陣したものの、新たな委員九名はバレールを除けばすべて山岳派議員となった。そして七月二七日、ガスパランGasparinの辞任を受けて公安委員会に登場するのがロベスピエールである。
 彼らはまず六月二四日に採択されていた「一七九三年憲法」(共和国第一年憲法・ジャコバン憲法)を八月の人民投票で正式に成立させた。ルソーの影響を受けた新憲法は、主権在民を規定し、生活権や労働権、男性普通選挙権などを保障する画期的内容であった。憲法前文の人権宣言は、一七八九年の人権宣言で認められた権利に加えて公的扶助の義務や教育を受ける権利、圧政に対する蜂起などの権利を保障している。また、法律の制定にレファレンダム(人民投票)制度を採り入れ、直接民主主義の充実にも努めている。ところが八月一一日、ドラクロワDelacroix が新憲法に基づく新議会開設のための準備を提案したとき、ロベスピエールらは憲法発効支持者をエベール派やジロンド派の支持者と見なして反対し、国民公会の非解散と新憲法の無期限停止を決定している。ロベスピエールらは民衆運動の動向を意識しながら政策決定を進めてはいたが、彼らが目指していたのはあくまでも民意の結集点である国民公会を通した革命であって、民衆運動に重心を置くエベール派とは根本的に異なる考えを持っていたのである。しかし、パリの民衆運動はますます力を強め、革命政府に対して経済統制と反革命勢力打倒の厳しい措置を要求した。その結果、革命政府は、まず七月一七日に「封建的特権の無償廃止」を決定し、亡命貴族の土地を払い下げることで小土地所有農民の創設を実現した。また、八月に入ると反革命容疑者に対する逮捕法や、一八 ~二五歳の独身男性を徴兵し、徴兵を免れた者には武器製造などに徴用する「国民総動員令」la levée en masse(八月二三日)を決定した。
 ところが八月二六日、イギリス海軍がトゥーロンに軍艦を入港させ、王党派による「ルイ一七世万歳」宣言が行われたが、この情報をひた隠しにしていた公安委員会はエベール派に近いビヨー=ヴァレンヌJacques Nicolas Billaud-Varenneに詰問されてはじめて明らかにした。九月四~五日、激怒した民衆や国民衛兵が国民公会に対する激しい抗議デモを行い、「革命軍」創設と反革命容疑者の逮捕、革命委員会の粛清だけでなく、生活必要物資の最高価格を定める〈価格統制〉を要求するまでエスカレートした。その圧力の前に震え上がった国民公会は、五日、ダントンが提案した「セクション総会は週二回とし、出席者には日当四〇スーを支払う」という法令を採択して、既に保守化が進んでいたセクションの指導者たちを使って民衆運動を抑制しようとした。その当時、山岳派を含むすべての国民公会議員が〈自由経済〉の死守を模索していたが、彼らは民衆の圧倒的なエネルギーの前に膝を屈してしまう。まず九日に食糧徴発や反革命容疑者の逮捕・処罰を任務とする「革命軍」が創設され、一七日には「反革命容疑者法」loi des suspectsを可決した。また二九日には、穀物・パンに限定されていた最高価格法を日用必需品すべてに拡大し、同時に各地域の一七九〇年の生活必需品と賃金を基準としてそれより三分の一と二分の一高い値に最高価格と最高賃金を設定する「総最高価格法」Maximumに発展させた。また、ラザール・カルノーLazare Nicolas Marguerite Carnotを中心に軍隊制度を整備し、共和暦Calendrier républicain(革命暦、一〇 月五日)や十進法に基づくメートル法の導入、理性崇拝を推進して「理性の祭典」(一一月一〇日)を開催するのは間もなくのことである。とりわけロベスピエールは、人間を再生させ、新しい国民をつくりあげる「教育」の重要性を意識し、教育からカトリック教会の影響力を排除しようとして初等教育制度の整備を構想している。彼の考えはコンドルセが考えた自由主義的な教育案とは対照的で、子どもの生活全体を管理する「国民学寮」による徳育を重視し、共和国に相応しい道徳を備えた市民の育成を目指すものであった。また、地方言語を否定して国語教育の重要性を強調したのは、ひとえに「国民国家」の原理を確立しようとしたからに他ならない。註⑰
 さて、九月に入ってからの一連の動きに動揺した公安委員会は、民衆運動との関係が深いビヨー・ヴァレンヌとコロ・デルボワJean-Marie Collot d'Herboisを新規加入させたためにエベール派の発言力が増していった(一二月二九日、エロー・ド・セシェルHérault de Séchellesの逮捕で一一名体制となる)。因みに当時の公安委員会の構成員一二名は、ロベスピエール派がロベスピエール、サン・ジュスト、クートンの三 
名だけで、エベール派(民衆派)が二名、所属不明が四名(プリュール・ドラ・マルヌPierre-Louis Prieur de la Marne、ジャンボン・サン・タンドレ Jeanbon Saint-Andre 、エロー・ド・セシェルHérault de Séchelles 、バレールBarère de Vieuzac)、その他の三名(ロベール・ランデJean-Baptiste Robert Lindet 、ラザール・カルノーLazare Nicolas Marguerite Carnot、プリュール・ド・ラ・コート・パールClaude Antoine Prieur de la Côte-d'Or)は保守的な右派であった。したがって、政権基盤の弱いロベスピエールははじめダントン派に接近して過激派(アンラジェEnragés)弾圧に乗り出し、その代表的存在である司祭ジャック・ルーJacques Roux(九月五日再逮捕、 翌年二月一〇日獄中自殺)やジャン・ヴァルレJean Varlet(その後の消息は不明)の逮捕に踏み切っている。 
 そして九月一三日、公安委員会以外のすべての委員会の改選を決定し、翌日には公安委員会が作成した候補者リストのなかから国民公会が選抜してそれぞれの委員を任命することになった。こうして、公安委員会と保安委員会の対立が決定的となった。何故なら、公安委員会の狙いは警察権力を持つ保安委員会からダントン派の影響力を排除することと、地方組織から反ロベスピエール派を追放することにあったからである。当時の保安委員会は一二名の委員が(公安委員会と同じく)三つの派閥に分かれており、ロベスピエール派はフランス革命期最大の画家ダヴィッドJacques-Louis David(新古典主義)を含め二名だけであった。また地方行政は、各市町村に設置された「監視委員会」(革命委員会)が自治体当局に代わって行政・治安の実権を握り、「国家代理官」(国民監視官)という役人が一〇日おきに地方の実態を公安委員会・保安委員会に報告する一方、中央からは指令通り実施しているかを監視するために国民公会議員約六〇人が「派遣議員」Représentants du peuple en missionとして地方に出張していたが、今後はいずれも公安委員会に対してのみ報告義務を負うことになった。そして一七日の「反革命容疑者法」制定以降は、 革命委員会が作成する曖昧な反革命容疑者リストに基づいて反ロベスピエール派弾圧がなされることとなった。その後、一〇月一〇日、サン・ジュストの「フランスの政府は平和の到来まで革命的である」という演説が拍手喝采で承認され、ここに憲法に基づかない「革命政府」Gouvernement révolutionnaireによる〈革命独裁〉が開始された。そして、革命政府に批判的な人間は保安委員会よって拘束され、革命裁判所Tribunal révolutionnaire(一七九三年三月一〇日設置、当初の名称は「特別刑事裁判所」)に送付されたのである。特に革命裁判所の裁判長マルティアル・ジョゼフ・アルマン・エルマンMartial Joseph Armand Hermanや検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルAntoine Fouquier de Tinville は大量の死刑判決を出したことで悪名が高い。その当時、ロベスピエールは、啓蒙思想家ルソーの著書『社会契約論』(一七六二年)のなかに出てくる「一般意志論」を自己流に解釈し、「個別的利害intérêt particulierに対する一般的利害intérêt généralの優越」という論理を構築していたが、彼は「我々は国民の真の代表として正義の実現に邁進する必要があり、それを阻害する勢力は打倒しなければならない」とする〈排除の論理〉に行き着いた。すなわち、〈排除の論理〉は、自己の掌握した権力を排他的に正当化する論理と表裏一体の関係にあり、他者に対する排除が暴力的に行われる時、「恐怖政治」terreurに転化するのである。彼らの「恐怖政治」とは、〈徳と恐怖〉を原理とする戦時非常体制下における政治を指し、徳は〈公共の善〉Bien publicへの献身を、そして恐怖はそれに反する者への懲罰を意味した。ロベスピエールによれば、「徳なくして恐怖は罪悪であり、恐怖なくしては無力である」。
 その後、山岳派の革命実績は、革命的テロリズムに支えられていく。山岳派による独裁が始まって間もない一七九三年七月一三日にはジロンド派を支持する女性シャルロット・コルディCharlotte Cordayが浴槽に浸かっていたマラーを刺殺し、一〇月一六日には王妃マリ・アントワネットを処刑した。血なまぐさい雰囲気は、処刑という殺人行為を許す。一〇月三〇日にはブリソーら国民公会議員二一名が断頭台(ギロチン)の露と化し、一一月八日に処刑されたロラン夫人は「自由よ、汝の名において何と罪が犯されていることか」という言葉を残してこの世から去って行った。そしてまた、九三年一〇月から冬にかけて、フランス各地では「非キリスト教化運動」(キリスト教否定運動)が発生していたが、このことが公安委員会と民衆運動との対立を先鋭化させた。非キリスト教運動は聖職者の還俗、司祭の結婚、教会外での礼拝禁止、「理性の祭典」の挙行など多岐にわたったが、公安委員会は無用の混乱を引き起こしかねないと判断して反対を表明し、一二月六日には「礼拝の自由」(信仰の自由)を宣言した。革命政府は民衆運動の持つエネルギーを背景にして革命独裁を実現させたにもかかわらず、今度は自らの手で民衆運動を制御しようと決意し、この後は「革命は凍りついた」(サン・ジュスト)のであった。
 恐怖政治は革命的同志内にも不信感を蔓延させ、深い猜疑心が仲間を死に追いやる。一七九四年、民衆運動家やエベール派に対する弾圧が開始され、三月一三~一四日にかけてエベール派が根こそぎ逮捕され、 エベールの処刑は二四日に行われた。また、恐怖政治に反対して前年七月から逃避生活を続けていたコンドルセも逮捕され、三月二九日獄中自殺を遂げている。そしてエベール派が壊滅すると、今度はその対極にあったダントン派が発言力を強め、山岳派内ではロベスピエール派とダントン派の対立が抜き差しならない事態へと発展する。その時、サン・ジュストは四月一日、「一般警察に関する法令」(ジェルミナル二七日法、芽月)を成立させ、公安委員会内に設置した「一般治安監察局」に公務員を監視して陰謀や職権乱用を摘発する権限を与え、逮捕命令は公安委員一人の署名ともう一人の副署だけで可能とした。その結果、四月五日には右派のダントン(三月三〇日逮捕)や恐怖政治を終了させようと寛容を説いてきたカミーユ・デムーランが処刑された。また四月から五月にかけて反革命容疑者に対する裁判はパリの革命裁判所で行うことと決定し、地方の革命裁判所と特別軍事法廷を原則廃止とした。また、ロベスピエールやコロ・デルボワに対する暗殺未遂事件をきっかけに、六月一〇日、「プレリアール二二日法」Loi du 22 prairial an II(草月)が制定されて反革命容疑者の範囲を拡大し、弁護人や証人を廃止して判決を死刑か無罪かの二者択一とするなど裁判手続きの簡素化・迅速化が進められた。その結果、死刑判決の数は大幅に増えていく。例えばパリ革命裁判所は裁判所設立の一七九三年四月六日から九四年六月一〇日までの約一年二カ月間に一二五一人の死刑判決をだしているが、その後ロベスピエールが失脚する九四年七月二七日までの一カ月半の間に一三七六人と急増している。
 極点に達した恐怖政治は全国各地に拡散し、公安委員会から地方に送られた派遣議員による弾圧はパリ市内を上回る凄惨なものとなっていった。派遣議員はそれぞれ一~二の県を担当したが、地方の自治体当局が中央の公安委員会に非協力であったために、どうしても地方の不満分子と手を組むことが多くなる。彼らはほぼ無制限の権限を付与されており、公安委員会の権力を笠に着て軍隊のための人員徴募、食糧・武器等の徴発、将軍や部隊の監視などを強引に行った。時に任務の妨げになる不都合な事態が生じた場合には、臨時に行政命令や武力行使を含むあらゆる手段をとることが可能であったから、まさに派遣議員は事実上の独裁者であった。その結果、地方行政は大混乱に陥り、公安委員会もその対応に追われた。一七九四年四月一五日には九人の密使を送って派遣議員を監視させ、約六〇人いた派遣議員のうち無能な者、無用に過激なことを行った者など二一人をパリに召還した。そして召還は革命裁判所送りを意味したから、 恐怖心に駆られた彼らはテロリストとして行動することになる。こうして恐怖政治期に反革命容疑者として収監された者は約五〇万人にのぼり、死者の総数は約三・五~四万人に達したと言われる。死刑判決を受けた一万六五九四人のうち七五%は戒厳令に抵触した人々で、一五%は反革命の科で裁かれ、二%は宣誓拒否聖職者、一・五%が「買い占め人」だった。社会職業的に分類すると犠牲者の八〇%は旧第三身分(平民)が占め、なかでも日雇い労働者(三一・二五%)や農民(二八%)が多い。また地域別では、 ヴァンデーの反乱が起きた西部(五二%)が突出しており、 次いでリヨンやトゥーロンがある南東部(1九%)、パリ(一六%)の順に多い。註⑱

 (七) フランス革命の終焉
 1 テルミドールの反動
 恐怖政治に支えられた変革は、それが急進的であればあるほど反発の度合いも高くなり、一気に反動的気運が広がった。革命は、封建的諸権利(封建地代)や教会十分の一税、貴族が有した財政的諸特権を全て廃棄させただけでなく、一七九四年二月二六日、三月三日にはサン・ジュストの提案で土地所有の移動=再分配(ヴァントーズ法décrets de ventôse)にまで踏み込んだ。ジョルジュ・ルフェーヴルの学位論文『フランス革命下のノール県農民』(一九二四年)によれば、国土の約二〇%を占めていた教会領は消滅し、 一七八九年に二二%を占めていた貴族の持分は一八〇二年には約一二%に減少してアリストクラート層の物質的基礎は解体した。その一方で、ブルジョワの土地所有は一六%から二八%以上に増大し、農民のそれも三〇%から四二%以上に増えている。こうして、フランス国内には小土地所有農民が創出されたが、 当時の農村における人口増加を考慮すれば、農民に分配された土地では十分とは言いがたい。その上、 フランス革命が実現した耕作や耕地囲い込みの自由は農村ブルジョワジーの活動を擁護し、大土地所有及び大農経営を促進させる結果となった。こうした農業革命は、ブルジョワと下層農民の双方にこれ以上の改革を望まない〈現状肯定〉の空気を広がらせたのである。
 そして同時に、統制経済に対する抑えがたい嫌悪感を共有していたブルジョワジーにとって、経済活動の自由や私有財産の尊重という〈自由経済〉の原則は死守しなければならない命題であった。一方、革命政府が推し進めていた〈統制経済〉は食糧供給や物価統制を求める民衆の声に応える性格を有していたが、 その根幹をなす「総最高価格法」には賃金の最高価格も含まれており、そのことがサン・キュロットの怒りを爆発させたのである。また一七九三~九四年当時、徴兵による労働力不足が労働市場を底上げしていたが、企業家たちは国民公会議員への陳情を繰り返して賃金相場を低く設定させることに成功した。特に小銃や大砲を生産する軍需部門の賃金が低く抑えられたことが経済界全体に波及し、例えば従来は日給八
フランをとっていた石工の賃金は三・五フランまで下げられている。こうして都市内部でもブルジョワと民衆の対立が厳しさを増していたが、革命政府は民衆運動を規制してブルジョワの利益を優先させた。その結果、民衆の間には急速に山岳派に対する失望感が広がり、ロベスピエールら革命派から離れていったのである。
 一七九四年六月二六日、ジュールダンJean-Baptiste Jourdan率いるフランス軍がフルリュス Fleurusの戦いでオーストリア軍に勝利を収め、南ネーデルラントとラインラントの大部分を制圧することに成功した。フランス軍が対仏大同盟軍をライン川以西から撤退させ、イタリア・スペインへの進撃を開始したという報せに世論がわき上がるなか、山岳派の一部は国民公会内の中間派と手を組み、密かにロベスピエール派打倒の画策を始めていた。そして同時に、一七九三年、ナントで私有財産を禁じる法令を発布してリヨン大虐殺を指導したジョゼフ・フーシェJoseph Fouché、マルセイユやトゥーロンの住民数百人を処刑して財産を没収し、公金横領嫌疑で召喚されたポール・バラスPaul François Jean Nicolas, vicomte de Barras、そしてボルドーにおける反革命派弾圧の際に愛人とした元侯爵夫人テレーズ・カバリュスThérèse Cabarrusに影響されて手心を加えるようになったジャン・ランベール・タリアンらの恥曝し地方派遣議員も反ロベスピエール運動に躍起となっていた。その頃、公安委員会は大きくロベスピエール派(ロベスピエール、サン・ジュスト、クートン)、戦局好転で勢力を拡大した穏健派(ラザール・カルノー)、 恐怖政治のさらなる強化を主張する強硬派(ビョー・ヴァレンヌ、 コロー・デルボワ)に分裂して機能不全に陥り、勢力を盛り返してきた保安委員会との対立も深刻化していた。一方、ロベスピエールは理想通りに進まない革命の現実を前に頑なな態度をとるようになり、六月末からは支持者の多いジャコバン・クラブや公安委員会には顔を出すのに、思うようにならない国民公会には全く出席しなくなった。そして七月二六日、それまで対立関係にあった公安委員会と保安委員会が合同会議を開いて手を結び、反ロベスピエール派の包囲網が整えられたのである。
 一七九四年七月二七日午前一一時頃、反ロベスピエール派が優勢となった国民公会が開かれ、議長コロー・デルボワJean-Marie Collot d'Herboisやタリアンは久しぶりに現れたロベスピエールの演説を阻止し、 短刀を振りかざしながら「暴君を打倒せよ」と叫んだタリアンの大声に呼応して、午後三時頃、ロベスピエール派逮捕が決議された。その時、パリ・コミューンが再び蜂起し、ロベスピエールは辛うじてパリ市庁舎へと逃げ込んだ。市庁舎にはパリ市国民軍司令官フランソワ・アンリオFrançois Hanriot率いる国民衛兵二〇〇人と民衆約三五〇〇人が駆けつけた。その後、国民公会がコミューン参加者の逮捕を決めたために群衆の多くが帰宅した深夜になってから、ポール・バラス率いる国民公会側兵士が市庁舎を襲撃した。市庁舎は大混乱に陥り、騒乱状態のなかで顎に銃弾を受けたロベスピエールがついに逮捕された。同時にロベスピエールの弟オーギュスタン Augustin Bon Joseph de Robespierre(弁護士)やサン・ジュスト、恐怖政治の過激化に一役買ったクートンやアンリオらも逮捕され、コンシェルジュリー牢獄送りとなった。翌二八日、かつてはロベスピエールの指示で多くの反革命派を断頭台に送り込んだ革命裁判所の検事アントワーヌ・フーキエ=タンヴィルによる有罪判決で、午後六時頃「革命広場」でロベスピエール以下二二名の死刑執行がなされた(革命広場はかつての「ルイ一五世広場」で、一七九五年以降の呼称は「コンコルド広場」Place de la Concorde)。翌日にはコミューンの参加者七〇名が、翌々日にはさらに一二名も処刑された。そしてジャン・バティスト・カリエJean-Baptiste Carrierやアントワーヌ・フーキエ・
タンヴィルらの山岳派残党も次々と処刑され、クーデターに加わったビョー・ヴァレンヌやコロー・デルボワらも恐怖政治を推進した責任を問われてギアナ高地への流罪とされた。
 こうした熱月派(テルミドーリアンThermidoriens)によるクーデターは「テルミドールの反動」と呼ばれるが、彼らは〈反ロベスピエール〉という点では一致していたものの、 政治的立場はさまざまであった。熱月派右派は今回の政変には表面上は関わりを持たなかったラ=プレーヌ党議員とそれに同調した旧ダントン派(山岳派右派)であり、彼らの目的は革命独裁の解消にあった。また左派としては、集団指導体制による革命独裁の維持を模索した山岳派左派と、民衆運動を弾圧した革命独裁を解消して九三年憲法の実施を求める民衆運動指導者とがいた。しかし、国民公会では議会多数派の右派勢力がイニシアティヴを執り、急速に革命独裁の解消が進めらた。彼らは公安委員会の権限縮小や革命裁判所の改組、輸入の自由化、 総最高価格法の廃止(一二月二四日)、ジャコバン・クラブの閉鎖を次々と決定し、政教分離の原則の下、 聖職者民事基本法を撤廃(一七九五年二月二一日)して「信教の自由」を認めた。その間、パリ市内では法曹・商人・役人などの中流ブルジョワ家庭の青年(ジュネス・ドレjeunesse doree、 金ぴか若者組)によるジャコバン・クラブや民衆クラブへの襲撃、民衆運動家に対する脅迫・暴行が続いた。心荒む白色テロが相次ぐなか、民衆は「パンと九三年憲法」をスローガンとしてジェルミナールの蜂起(四月一~二日、 芽月)、プレリアールの蜂起(五月二〇~二三日、牧草月)を決行した。しかし二回とも熱月派によって鎮圧され、特に後者の場合はその後の取り締まり強化で活動家約一二〇〇人が逮捕され、国民衛兵約一七〇〇人も除籍されて民衆運動は壊滅的敗北を喫した。また、熱月派左派の議員たちも相次いで逮捕され、 処刑ないし流刑とされたために、国民公会は熱月派右派が牛耳る世界となった。そして彼らは、共和政治の安定やブルジョワ的秩序の確立を目指して、「一七九五年憲法」(共和国第三年憲法)の制定を急いだのである。

2 総裁政府と軍部の台頭
 一七九五年八月二二日、国民公会においてボワシ・ダングラースFrançois-Antoine Boissy-d'Anglasらの憲法草案が採択され、国民公会解散(一〇月二六日)の翌日には新憲法施行の運びとなった。この憲法では行き過ぎた改革を抑えるために制限選挙制を復活させ、「直接税を納入する二一歳以上の男性国民が二五歳以上の男性の中から代議士選挙人三万人を選出する」という方法が採用された。そして代議士選挙人は、三〇歳以上の男性の中から「五百人会」議員五〇〇名と、四〇歳以上でかつ既婚者(または寡夫)の中から「元老院」議員二五〇名を選出した。九一年体制と比較すると資格制限が少し緩和されて有権者数が増えたが、被選挙権資格は逆に厳しく制限されて以前から見ると半減している。ここには選挙の裾野を広げて国家統合を進めたいという意思と、政治権力を握るのは少数のブルジョワ層に限定したいという目論見が透けて見える。また、新議員の三分の二は旧国民公会議員の中から抽選で選ぶという「三分の二法令」が施行されたことも熱月派右派に有利となるはずであった。   
 ところが、革命戦争の動向が彼らの思惑に狂いを生じさせた。一七九四年九月に開始したオランダ侵攻は内戦と財政悪化で続行も危ぶまれる状態となっていたが、翌年四月五日のプロイセン(バーゼル条約)を皮切りに、オランダ(五月一六日)、スペイン(七月二二日)と相次いで講和条約の締結に成功した。但し、オーストリアとだけは一時停戦を挟んで戦争が続いたが、ここにきてフランス軍は墺領ベルギーを併合するという強硬策に出た。一〇月五日、これに反対する王党派が開いた集会が「ヴァンデミエール一三日のクーデター」nsurrection royaliste du 13 Vendémiaire an IV(葡萄月)に発展したとき、有力な銀行家や御用商人と結託して私腹を肥やし、プロイセンやヴェネツィアからも莫大な賄賂を受けてきたポール・バラスが総司令官に任命され、彼は副官ナポレオン・ボナパルトNapoléon Bonaparteを派遣して反乱を鎮圧したのである。政変直後に実施された選挙の結果は、ブルジョワ共和制を志向する共和派三八〇名(穏健派一三八名・中央派二四二名)、王党派一六一名(反革命派八八名・立憲王政派七三名)、ネオ・ジャコバン派六四名、日和見派八四名、不明五二名の合計七五一名が当選し、辛うじて政権を担当することになった共和派(旧熱月派右派)は少数与党として綱渡り的政権運営を余儀なくされた。
 こうして法律の発議権を有する五百人会と、五百人会が提出した法案に対する拒否権をもつ元老院という二院制議会が誕生した。五百人会・元老院の議員はいずれも毎年、定数の三分の一が改選の対象とされ、 五百人会が提出した一〇倍の候補者リストの中から元老院が総裁を選抜し、 毎年一名を改選した。そして一〇月三一日、ポール・バラスやカルノー、ラ・ルヴェリエールLouis-Marie de La Révellière-Lépeaux、 ルーベルJean-François Reubell(Rewbell)、ル・トゥルヌールÉtienne-François-Louis-Honoré Le Tourneurの五名で発足した「総裁政府」 Directoire(~九九年一一月九日)は、王党派への警戒心から左派寄りの政権運営に努めた。ところが一七九六年五月一〇日、私有財産廃止など革命の徹底化を目指した「バブーフの陰謀」が発覚した。この事件は、ピカルディ地方の農村から出て来てエベール派と関わりを持ったバブーフFrançois Noël Babeufと、北イタリアから亡命してロベスピエール派と交わったブオナロティFilippo Giuseppe Maria Ludovico Buonarrotiという二人の男がパリで巡りあったことに始まる。彼らは、ロベスピエールなど従来の革命家が考えた「フランス国民が平等に所有する」という概念から一歩踏み出し、はじめて私的所有の否定と財産の共同管理を柱とする共産主義的理論を打ち出した。しかしながら、 バブーフの革命論が社会変革の可能性を持つことができたのは、名家出身のブオナロティが身につけていた友愛結社フリーメイソンFreemasonryの組織論に負うことが大きく、彼らは秘密結社(「蜂起委員会」)による暴力革命を夢想していた。すなわち、山岳派の革命独裁と民衆運動の大衆動員とがここで初めて合流して大きな反政府運動が組織されようとしたが、ながく政治の世界で揉まれてきたブルジョワ共和派の方が一枚上手であった。
 ところで、バブーフの陰謀事件で左派からの脅威を痛感した総裁政府は、今度は右寄りの政権運動に揺り戻す。その結果、一七九七年三~四月に行われた九五年憲法下における最初の五百人会選挙では三分の一の改選議員の大部分を占める一八二名が王党派によって占められ、両院の王党派議員総数は約三三〇名に達した。一方、再出馬した旧国民公会議員二一六名のうち再選できたのはわずか一一名に過ぎなかった。そこで総裁政府は、次の選挙でまたもや王党派が勝利するのではと危機感を募らせ、次なる行動に移る。選挙後、王党派に近いと噂されたジャン・シャルル・ピシュグリュJean-Charles Pichegruが五百人会議長に選ばれ、ナポレオン・ボナパルトが提出したピシュグリュの反革命活動の証拠を目にした時、三人の総裁(バラス、ルーベル、ラ・ルヴェリエール)が軍隊を動員して「フリュクティドール一八日のクーデター」(一七九七年九月四日、実月)Coup d'État du 18 fructidor an Vを敢行した。東部戦線のオーシュ将軍Louis Lazare Hocheとイタリア戦線のナポレオン・ボナパルト将軍を味方につけた彼らは、オーシュ将軍の軍隊とナポレオンの副官オージュローCharles Pierre François Augereau配下のあわせて約八万人の兵士をパリに集結させ、王党派議員の当選を無効として五三名をギアナ流刑とした。また、残る総裁二人のうちラザール・カルノーは逃亡に成功したが、フランソワ・ド・バルテルミーFrançois de Barthélemyは逮捕されてギアナ送りとなった。
 こうして、総裁政府が再び左派寄りの政治姿勢をとると、一七九八年四月の選挙ではネオ・ジャコバン派の進出が予想された。そこで総裁政府は先手をとって解散前の議会が選挙結果の審査をする権利を持つと決め、五月一一日、ネオ・ジャコバン派一〇六名の当選を無効とした(フロレアール二二日のクーデター、花月)。しかし、翌九九年三~四月の選挙でも総裁政府が推薦した候補者一八七名の大部分が落選したのとは対照的に、再びネオ・ジャコバン派約五〇名が当選し、左派は総数約一二〇名に増えている。しかも五月一六日に改憲派のアベ・シエイエスが総裁となったことで、総裁政府はさらに安定性を欠くことになった。五月に開会した新議会は冒頭から紛糾し、六月一八日、議会は二人の総裁を辞任に追い込み(プレリアール三〇日のクーデター、牧草月)、総裁や大臣に元国民公会議員を据え、「総動員令」(一七九八年九月五日に制定したジュルダン・デルブレル法loi Jourdan-Delbrelに基づき二〇~二五歳の男性を徴兵する)や富裕者に対する強制公債の発行を決めた。また、七月一二日には「人質法」を制定し、地方の県当局に対して亡命者や貴族、反革命容疑者の親戚を人質として逮捕し、彼らが持つ財産を没収して被害者の損害を賠償する権限を与えた。
 その間、ナポレオン・ボナパルト率いるフランス軍はイタリア戦線で勝利を続け、一七九七年一〇月一七日、オーストリアとカンポ・フォルミオの和約Traité de Campo-Formioを結び、ベルギー、ロンバルディア地方、イオニア諸島を獲得した。しかし、総裁政府はその後も膨張政策をとり続け、スイスやイタリアに「姉妹共和国」を建設しただけでなく、イギリス産業革命を頓挫させるためにエジプト遠征(一七九八~九九年)を命じている。しかし、九八年末から翌年三月にかけて、英・露・墺・オスマン帝国・ナポリ王国が第二回対仏大同盟(一七九九~一八〇二年)を結成して対抗したため、一転してフランス軍は全線戦において敗北と後退を余儀なくされていった。ところで総裁政府期に入ってから、フランス軍の士官任命制は家柄にとらわれない才能主義に変化し、職業軍人化が進んでいた。その結果、ながい革命戦争の中で士官と兵士の間に一体感が醸成され、将軍と仕官との間には主従関係だけでなく濃密な人間関係が生まれ、軍部内にいくつかの派閥が誕生した。また、財政難に苦しむ総裁政府が十分な予算を用意しないまま戦争命令を出したことから、前線の部隊は現地調達で戦う必要に迫られ、 このことが軍部の台頭をさらに促す結果となった。こうした内外の情勢に憂慮したアベ・シェイエスは、 エジプト遠征から無断で帰国していたナポレオンと接触し、二人はクーデターを起こすことで合意した。一一月九日、五百人会議長リュシアン・ボナパルトLucien Bonaparte(ナポレオン・ボナパルトの弟)が民衆運動の影響を回避するために両院を郊外のサン・クルーに移し、同日、パリ地方の全軍司令官に任命された兄ナポレオン・ボナパルトが軍隊の圧力のもとで全総裁を辞職に追い込んだ(ブリュメール一八日のクーデター、霧月)。翌一〇日、 ナポレオン・ボナパルトは彼を支持する議員五〇人あまりを集めて、新憲法制定まで議会を休会とし、その間の行政権はナポレオン・ボナパルト、アベ・シェイエス、ロジェ・デュコPierre Roger Ducosの三人による臨時の「統領政府」Consulatに委ねると決議させた。こうして総裁政府はナポレオンによる軍部独裁へと道を譲り、フランス革命の幕は閉じられたのである。

3 フランス革命の史的意義
 一八世紀末のフランスでは、絶対王政期のルイ一四世やその財務総監コルベールらが推進した国家主導主義étatisme, statismが中世以来の身分制秩序と結合し、国家による諸社団への特権授与が続いていた。また、英仏植民地戦争(第二次百年戦争)に勝利を収めて産業革命に突入したイギリスに対して、フランスは産業的発展の立ち遅れから相対的後進国に陥っていた。そしてフランスでは、列強諸国と対抗するために特定の輸出産業のみを保護育成する重商主義政策を続けていたために、大衆消費財部門のマニュファクチュアや農業の発展が滞り、産業革命が起こる環境にはなかった。したがって、ブルジョワの富は産業資本へ投下よりも土地購入に充てられることが多く、彼らは地主や領主・貴族となったのである。その結果、 フランスのブルジョワジーは体制内に取り込まれて独力で革命を担う得る階級には成長できなかったし、 貧しい民衆や零細農民の広範な滞留という問題が未解決のまま残っていた。
 こうしたアンシャン・レジーム社会を背景にしてフランス革命が勃発するが、ジョルジュ・ルフェーヴルは、その著『一七八九年』の中で「アリストクラートの革命」la révolution aristocratique、 「ブルジョワの革命」la révolution bourgeoise、「民衆の革命」la révolution populaire、「農民の革命」la révolution paysanneが複合的に絡み合いながら、それぞれ独自のあるいは自立的な展開をとげたと指摘している。確かに「貴族の反乱」に始まるフランス革命は、一七八九年の「民衆と農民の蜂起」に脅威を感じたブルジョワが自由主義貴族と結んで〈妥協路線〉を選択し、「九一年体制」を築いた。しかしやがて、内外の反革命勢力の脅威に直面した立法議会が、九一年体制から疎外されていた民衆や農民の協力が必要と考え直し、九二年夏以降は一転して革命の徹底化を図った。もちろん、すべてのブルジョワが〈徹底路線〉に賛成するはずもないので、国民公会はジロンド派と山岳派の対立の場となり、やがて九三年六月以降はロベスピエールを中心とする公安委員会による「革命独裁」へと移行する。ロベスピエールは民衆運動を懐柔するためにジロンド派や(山岳派内部の)寛容派を排除したが、彼は基本的にはブルジョワの利害を第一に考える革命家であったから、返す刀で民衆や農民たちの運動に厳しい弾圧を加えている。アルベール・マチエAlbert Mathiez(一八七四~一九三二)は、私的所有を制限しようとしたロベスピエールを〈社会主義の先駆者〉の一人と見なしたが、ジョルジュ・ルフェーヴルやアルベール・ソブール Albert Soboul(一九一四 
~八二)の批判を待つまでもなく、ロベスピエールをバブーフと直結させるには無理がある。旧体制や反革命勢力の一掃という課題を果たした革命政府は、まもなくブルジョワによって切り捨てられ(一七九四年「テルミドール反動」)、ブルジョワ主流派による総裁政府が成立した。
 このようにフランス革命の流れを概観すると、アリストクラート、ブルジョワ、民衆、農民という四つの社会勢力が担った革命は極めて複雑な展開を示したが、そのジグザクに蛇行した歩みの中心にはいつでも〈ブルジョワ〉の存在があり、彼らが最終的には資本主義経済を実現する環境を整えたということを確認することができる。したがって、フランス革命の特徴は、第一に典型的な「ブルジョワ革命」であったことであり、 第二に一七八九年に発表された「人権宣言」や「一七九一年憲法」に始まる〈立憲主義〉の流れがまさしく「国民国家」への道を切り開いた点に求められる。しかし第三には、 ロベスピエールらの「革命独裁」という経験が軍部の台頭を促し、一九世紀以降の自由主義や民族主義を抑圧するウィーン体制につながったことも忘れてはならない。そして第四の特徴としては、「民衆と農民の革命」が社会を変革する大きな要因として登場したことも確認できる。彼らの目標が実現できたのはほんのわずかだが、 〈世論〉が国政を揺り動かし得ることを知らしめ、一九世紀以降の七月革命・二月革命、そして第三共和政の実現へとつながっていった。フランス革命は、著名な指導者か名もなき大衆(民衆・農民)であるかを問わず、人間の尊厳を賭けて立ち上がった人々の「魂の叫びであり、巨大な熱情の噴出であった」(遅塚忠躬『フランス革命―歴史における劇薬』一八四頁)からこそ、その後の世界に大きな影響を与え続けたのである。註⑲

註① 革命前のフランスでは、麦秋が近づく端境期になると食糧不足に陥る恐れがあったため、各地域とも穀  物貯蔵庫を満たすことに腐心していた。したがって、穀物取引は厳重に規制され、農民が自由に販売すること  は固く禁じられていた。彼らが都市の週市へ搬入した穀物は、市当局が作成した市場価格表に基づいて先ず  市民に、次いでパン屋、穀物商人の順で販売されたのである。ところが一七八七年に財務総監ブリエンヌが穀物の国内流通の自由化、週市外における販売の許可、さらには穀物輸出の許可を決定すると、穀物の流通  が加速化し、各地の穀物貯蔵庫は底をついた。そのうえ一七八八年は不作に苦しんだ年だったから、はやくも八月から穀物価格の高騰が始まり、翌年七月まで続いた。そこでネッケルは、外国での穀物買い付けを命じて輸入を奨励し、週市においてのみ販売させる制度を復活させるとともに、一七八九年四月には徴発によって週市に供給させる許可を地方総監に許可した。こうした農業危機は農民の購買力を低下させ、次に訪れた工業危機は大量の失業者や乞食を発生させた。その間、民衆は、十分の一税徴収権者や領主層が現物貢租を徴収して莫大な量の穀物を抱え込み、価格高騰を心待ちにしていることを見抜いていたのである。したがって、民衆が待望していたのは流通規制の強化であった。
  ジョルジュ・ルフェーヴル著『一七八九年―フランス革命序論』(高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳)一七九~一八九頁 GeorgesLefebvre, Quatre-vingt-neuf, Paris, 1939.、柴田三千雄『パリのフランス革命』三一~六五頁参照。なお、フランス革命研究におけるブルジョワ革命論と修正主義の論争等については、ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書の序文(高橋幸八郎)三~二三頁、柴田三千雄前掲書の序論一~一七頁・『フランス革命』一~三八頁に簡潔にまとめられている。
註② アリストクラートとはデモクラートに対立する政治的・社会的概念で、その構成要素としては貴族及び  高位聖職者からなるが、高位聖職者は身分的には貴族noble(貴族身分noblesse)に属している。ジョルジュ・  ルフェーヴル前掲書三~八四、二一九~二三九頁参照。
註③ 一六七〇年、ルイ一四世は中世以来の伝統であったパリを囲む城壁を壊して開放都市とした。彼はまた、 セーヌ川両岸の旧城壁内の地域(町ville)を二〇の「カルティエ」(街区)quartierに区分し、その外側に広がる地域(フォーブール=町外れfoubourg)を放射線状に一四に区分した。ところが一七八五年、財政難に苦しむ政府は再びパリを市壁(通称「徴税請負人の壁」)で囲い込んだ。これは徴税組合に入った化学者のラヴォワジエLavoisierが、入市税関を不法に潜り抜ける密輸品を減らす秘策として壁の建設を提案したことに起因する。一七八五年に建設が開始された市壁は全長二三キロ、高さ三・三メートルで、内側に幅一二メートルの巡察路、外側には幅六〇メートルの大砲設置用の累道(ブールヴァールBoulevard)が走っていた。パリ全域を囲い込むには四五カ所の市門(バリエールbarrière。その後六〇カ所に増加)が設けられ、その側に入市関税事務所が建設された。それまでグラン・ブールヴァールの外側に区切りもなく広がっていたフォーブールは、 市外とは明確に区切られる境界を持ったことになる。なお、カルティエ(街区)は、革命勃発後の「一七九〇年六月二七日法」により四八の地区districtsに分割されて「セクション」 sectionと呼ばれた後、「共和暦四年葡萄月一九日(一七九五年一〇月一一日)法」による合併で一二の行政区(アロンディスマンArrondissement)に整理統合され、一八一一年五月一〇日、「カルティエ」という呼称に落ち着いた。柴田三千雄『パリのフランス革命』二〇~三〇頁参照。
註④ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書八五~一三九頁、柴田三千雄『パリのフランス革命』一〇二~一三二頁、同『フランス革命』三九~八五頁各参照。
註⑤ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書一四〇~一六六頁、柴田三千雄『フランス革命』八五~八九頁、松浦義弘「フランス革命期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第八論文)三三五~三五一頁各参照。
註⑥ 一七八九年の入市関税所襲撃事件で逮捕された七七人は、酒商人一七人・密輸商人一五人を除くと残りのほとんどが手工業者・小商主・雑役日雇いであり、そのうち賃金労働者は二三人と推定される。また、サン・ラザール修道院襲撃事件の逮捕者三七人のうち賃金労働者は三三人にのぼる。そして、徴税請負人の前歴を罪に問われたラヴォワジエは、一七九四年五月八日、ギロチンで処刑された。
柴田三千雄『パリのフランス革命』25、 138頁各参照。
註⑦ 現在、パリ市内を流れるセーヌ川には右岸と左岸、中州の島を結ぶ三七の橋が架けられているが、革命勃発時からのものはポン・ヌフPont Neuf(一五七八年)、マリー橋Pont Marie(一六一四年)、ロワイヤル橋Pont Royal(一六八五年)などごく僅かである。その多くは一九世紀以降に架け替えられたもので、コンコルド広場とオルセー河岸を結ぶコンコルド橋Pont de la Concordeは革命の最中にも建設が継続され、バスティーユ牢獄解体でできた廃材が利用されたことでも知られる。なお、当時のパリの総人口五〇~六〇万人のうち、職人や労働者は約七万五〇〇〇人(家族を含めると二五~三〇万人)程度と思われ、セーヌ川からブールヴァール及びその周辺に二万人以上、セーヌ左岸のパレ・マザランからパンテオンの間に少なくとも六〇〇〇人程度の労働者が住んでいた。ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書一九〇~二〇〇頁参照。
註⑧ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書二四五~二五五頁、柴田三千雄『フランス革命』八九~九五頁各参照。
註⑨ 国民議会の多数派が「都市の民衆蜂起は国民衛兵の設置で抑え込むことができる」と見なしたのは、七  月三一日、国民衛兵司令官ラ・ファイエットが総計六〇〇〇人の有給部隊を創設して旧来のフランス衛兵連隊に編入した際、上限二万四〇〇〇人の志願兵は一着八〇リーヴルもする高額の制服を自弁で購入することとしたため、「下層民」には志願できなかったからである。柴田三千雄『フランス革命』九五~一〇〇頁参照。
註⑩ フランス人権宣言の草稿はマレ地区のパリ歴史博物館Musée de l'Histoire de Paris(カルナヴァレ博物館Musée Carnavalet)に展示されており、共和国広場に立つ女神像の左手に載っているのも「人権宣言」である。
ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書二五九~三〇九・三三一頁、松浦義弘前掲書三五二~三五四頁各参照。
註⑪ ジョルジュ・ルフェーヴル前掲書三三六~三五〇頁参照。柴田三千雄『パリのフランス革命』一六三~一六六頁、同『フランス革命』一〇〇~一〇二頁、松浦前掲書三五四~三五七頁各参照。
 一七八九年一二月、フランスの行政制度は従来の州制度をやめて八三の県に分割され、県はさらに郡(ディストリクト)、小郡(カントン)、市町村に下位区分された。人口二万五〇〇〇人以上の大都市の場合はリヨンとマルセイユがそれぞれ三二セクション、ボルドーが二八セクション、パリが四八セクションに区分され、選挙もセクション単位に行われるよう変更された。また、高等法院を頂点とした旧来の裁判制度も廃止され、地域レベルの治安判事、郡レベルの民事裁判所、県レベルの刑事裁判所、そして唯一の控訴院(破棄院)からなる裁判システムに変更された。そして、地方行政官僚や判事はいずれも原則的に公選とされた。
註⑫ ブリソー主導の「黒人友の会」(一七八八年設立)は植民地の黒人に市民権を与える運動を展開し、ラ・ファイエットらの「一七八九年協会」(一七九〇年四月設立)は宮廷や貴族との妥協を模索したことで知られる。柴田三千雄『パリのフランス革命』一八七~二二五頁、松浦前掲書三五六~三六〇頁各参照。
註⑬ 柴田三千雄『パリのフランス革命』二二五~二六九頁、松浦義弘前掲書三六〇~三六三
頁各参照。工兵大尉ルージュ・ド・リールが作ったフランス国歌「ラ=マルセイエーズ」は、はじめ「ライン軍の歌」として歌われたが、一七九二年七月、パリに入ったマルセイユ部隊の兵士が歌ったことで改名された。ルージュ・ド・リールは後に反革命という指弾を受けて亡命した。原譜はフランス歴史博物館に保存されており、合唱する義勇兵の姿は「凱旋門」Arc de triomphe de l'Étoileの浮彫として残っている。また、国王一家が幽閉されたタンプル塔は、十字軍戦争の際に結成されたテンプル騎士団(一一二八年公認)の見張り塔であった。一三一二年、テンプル騎士団は国王フィリップ四世によって解散を命じられ、騎士団長ジャック・ド・モーレイ以下幹部五〇数名が男色などの罪で焚刑に処せられた。その後、城塞は解体・改修されて聖ヨハネ騎士団(一一一三年公認)に与えられたが、タンプル塔の名前は残った。
 鹿島茂『失われたパリの復元』一一四頁、柴田三千雄『フランス革命』一一四~一二〇頁各参照。
註⑭ 遅塚忠躬『ロベスピエールとドリヴィエ フランス革命の世界史的位置』参照
註⑮ 柴田三千雄『フランス革命』一二〇~一二五頁、松浦義弘前掲書三六四~三六八頁各参照
註⑯ 柴田三千雄『フランス革命』一二七~一四一頁、松浦義弘前掲書三六八~三七四頁各参照。国王ルイ一六  
 世の処刑については安達正勝『死刑執行人サンソン 国王ルイ十六世の首を刎ねた男』が、またマリ・アント  
 ワネットの人物像はシュテファン・ツワイク『マリー・アントワネット(上下)』(高橋禎二・秋山英夫訳)Stefan Zweig, Marie Antoinette-Bildnis eines mittleren Charakters(1932)、パウル・クリストフ編『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』MARIA THERESIA GEHEIMER BRIEFWECHSEL MIT MARIE ANTOINETTE edited by Paul Christoph 、三浦一郎『世界史の中の女性たち』一四一~一五二頁が詳しい。
註⑰ 一七九二年九月二二日、従来のグレゴリウス暦に代わって共和暦(革命暦)の採用が決定され、翌年一〇  
 月五日から一八〇六年一月一日まで使用された。河野健二『フランス革命小史』一三五~一三六頁参照
註⑱ 遅塚忠躬「ルソー、ロベスピエール、テロルとフランス革命」(『フランス革命を生きた「テロリスト」  ルカルパンティエの生涯』所収論文)一八九~二二四頁、松浦義弘前掲書三七四~三九〇頁各参照。
  なお、恐怖政治期に処刑された著名人のうち、ダントン像はサン・ジェルマン通り、カミーユ・デムーラン  像はパレ・ロワイヤルに建てられているが、パリ市内にロベスピエール像は存在しない。田村秀夫『フラン  ス革命 歴史的風土』一七〇頁参照。
註⑲ アルベール・マチエ『フランス大革命(上中下)』(ねづまさし・市原豊太訳)Albert Mathiez, La Révolution   Française, 3 vols. Collection Armand Colin. アルベール・ソブール『フランス革命一七八九―一七九九(上下)』(小場瀬卓三・渡辺淳訳)、La Révolution Française 1789-1799 Albert Soboul Editions sociales, 1948. 柴田三千雄『フランス革命』一七四~二四六頁、遅塚忠躬『フランス革命を生きた「テロリスト」ルカルパンティエの生涯』七~一八八頁、松浦義弘前掲書三九〇~四〇六頁各参照
註⑳ この原稿を書くに際して、右記の著書・論文以外にジュール・ミシュレ『フランス革命史(上下)』(桑  原武夫・多田道太郎・樋口謹一訳)Jules Michelet, Histoire de la Révolution Française, édition etablie et      commentee par Gérard Walter, Bibliothèque de la aPléiade, 2 tomes, 1961. J・M・.トムソン『ロベスピエールとフランス革命』(樋口謹一訳) ROBESOIERRE AND THE FRENCH REVOLUTION J.M.Thompson 1952. 高橋幸三郎『市民革命の構造 増補版』、河野健二編『フランス・ブルジョア社会の成立』、河野健二著『フラ  ンス革命の思想と行動』、同『革命と近代ヨーロッパ』、遅塚忠躬『ヨーロッパの革命』(世界の歴史⒕)、   桑原武夫編『フランス革命の指導者』、安達正勝『フランス革命の志士たち』、柴田三千雄「サン・キュロット」(『シリーズ世界史への問い6 民衆文化』所収第四論文)、松浦義弘「ロベスピエール現象とは何か」(『岩波講座世界歴史⒘ 環大西洋革命』所収第六論文)その他を参考にした。

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フランス絶対主義の光と影

                     
                             
第一節 ブルボン朝の成立
一六世紀後半のフランス王国は、ユグノー戦争(一五六二~九八年)という内戦に揺れていた。そして一五八九年、ヴァロワ朝最後の国王アンリ三世の暗殺により、ユグノー勢力の指導的立場にあったナヴァール王アンリが仏王アンリ四世Henri IV(在位一五八九~一六一〇)として王位を継承した(ブルボン朝Bourbon、一五八九~一七九二、一八一四~三〇年)ため、戦況に大きな変化が生じた。翌九〇年にはブルボン枢機卿シャルル一世が身罷り、後継者をめぐって混乱したカトリック同盟の一瞬の隙を突いたのが国王アンリ四世である。一五九三年七月二六日、彼は一転してサン=ドニ大聖堂でカトリックに改宗し、 翌九四年二月二七日にはシャルトル大聖堂においてフランス国王としての戴冠式(成聖式)を挙行した 。その結果、カトリック教会は仏王アンリ四世を拒否する理由を失い、同年三月二二日、国王のパリ入城が実現している。
その当時、カトリック勢力の中心的立場にいたスペイン国王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)は三度目の王妃エリザベート・ド・ヴァロワÉlisabeth de Valoisとの間に生まれたイサベル・クララ・エウヘニアIsabel Clara Eugenia de Austriaをフランス王位に就けようとして失敗した。また、その年の暮れにはイエズス会クレルモン学院の学生ジャン・シャトルJean Châtelによる国王暗殺未遂事件が発生したため、 翌年一月、パリ高等法院はイエズス会に対して国外追放処分(一五九四~一六〇三年)を決定し、フェリペ二世のフランス征服という野望はついに頓挫した。一五九五年一月一七日、アンリ四世は対西宣戦布告を発し、翌年一月にはカトリック同盟の最高指導者マイエンヌ公シャルル・ド・ロレーヌCharles (II) de Lorraine, duc de Mayenneの降伏で、カトリック同盟を瓦解させた。しかし、スペイン軍の反撃は凄まじく、フランス国王軍は一五九七年九月になってようやくアミアンAmiensを奪回したほどである。その後、アンリ四世はスペインと同盟関係にあったメルクール公フィリップ・エマニュエルPhilippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre, marquis de Nomeny, Baron d'Ancenisを討つためにブルターニュへと向かい、翌年三月二〇日、メーヌ河畔のアンジェAngersでメルクール公の降伏を受け入れた。四月一三日、アンリ四世はシュリー公マクシミリアンMaximilien de Béthune, Duke of Sullyと相談のうえで有名な「ナントの勅令」Édit de Nantesを発して、改革派信徒(ユグノー)に対してカトリック教徒とほぼ同等の権利を与えている。同年五月二日、ヴェルヴァン条約Vervinsが締結され、ユグノー戦争はついに終焉の時を迎えたのである。註①
 しかし、本格的な戦闘は収まったものの、カトリック同盟に与していた有力貴族たちは依然として強大な勢力を誇り、内戦による国土の荒廃も深刻な状態にあった。そこで、アンリ四世と宰相シュリー公は、 ギーズ家 Guiseなど有力貴族にさまざまな特権や役職を与えることによって対抗勢力とならないように周到な配慮をしている(ギーズ家には三つの地方総督職が付与された)。ところで、一六世紀後半の宗教戦争期には売官制vénalité des officesが広がり、中世騎士の流れをくむ伝統的貴族(「帯剣貴族」)と特別な勲功や官職売買をとおして貴族身分を獲得した「法服貴族」が併存していた。そして、官職貴族(廷臣)は毎年官職継承税マルク・ドールMarc d'orを支払い、かつ死ぬ四〇日以前に辞任と継承の宣告をすることで自らの子息に相続させることができたので、法服貴族の間でも官職の世襲化や売買が盛んになっていた。アンリ四世は一六〇四年、ポーレット法Pauletteを制定して、慣習化していた官職の世襲を正式に認める代わりに、毎年、官職価格の六〇分の一を国庫に納めることを義務づけた。その結果、この官職年税droit annuelは国家財政にとって必要不可欠な収入源となり、やがて世襲による官職の家産化は大貴族が築いてきた〈保護・被保護関係〉を破壊していくのである。註②
 また、その一方で、アンリ四世はシュリー公の献言を受け入れて、内戦で疲弊したフランス経済の立て直しにも努めている。彼等は政権内の無駄な部局を整理し、徴税に際しての横領や職権乱用を厳しく取り締まって国家財政の健全化に努めるとともに、さまざまな産業の育成を奨励した。アンリ四世が王権を掌握したとき、フランス財政は破綻の危機に瀕しており、内戦中に地方総督や各都市によって徴税権や財政機構を奪われて租税の約二割が彼等の手に渡っていた。一五九六年には反対する名士会議、高等法院を抑えて消費税の導入を決めたが、ポワティエPoitiersやリモージュLimogesの反乱を受けてまもなく廃止に追い込まれた。
 そこで一五九八年に財務卿となったシュリーは、財政改革に着手した。第一に取り組んだのは、主要財源であるタイユ税tailleの適正配分と徴収であった。当時のフランスは、国王の直轄財務機構が租税の配分・徴収に責任を持つ「エレクシオン地域」pays délectionsと、地方三部会に同意と配分、ときには徴収権すら認める「地方三部会地域」pays d'etatsとが存在したが、シュリーは両者に親任官僚を派遣して徴税業務を厳しく監視し、地方三部会地域をエレクシオン地域に組み込むことによって、地方三部会の課税同意権を剥奪しようと画策したのである。もちろん、地方三部会、地方総督、最高諸院などはこぞって反対したが、大きな流れとしてはシュリーの目指した方向に動き始めている。第二に、特権身分(聖職者・貴族)が免除されていた直接税(タイユ税)の比率を引き下げて、全ての身分が負担する間接税(塩税)を引き上げるという税制改革に取り組んでいる。例えば一五九六年のタイユ税総額は一八〇〇万リーヴルであったが、一六〇〇年代には平均一五八五万リーヴルまで減額されている。もちろん、税収不足は間接税の増税によって補ったわけだが、それは(増税しやすく安定した)財源の確保だけでなく、「特権身分への課税」という画期的改革をも意味していた。こうしたシュリーの財政改革は財政難を急速に克服させ、一六一〇年までに黒字に転換させたばかりか、国庫には一六〇〇万リーヴルもの現金が蓄えられた。財政改革の成功は、王権の財政基盤を安定させ、絶対王政の基礎を固める役割も果たした。何故なら財政改革は、登録権を盾にさまざまな改革に抵抗する高等法院や、徴税請負人の監査・裁判権を持つ会計法院に対して、王権が親任官僚の派遣や公金横領特別法廷を通して奪権闘争を挑む過程でもあったからである。こうした王権拡大の動きによって内務国務会議の重要性がますます増大し、ここから地方に派遣された親任官僚はルイ一四世期に確立する「地方長官制」へと発展していった。註③
 ところで、シュリーには「農耕と牧畜はフランスの二つの乳房」という有名な言葉があるが、開墾を奨励して農耕地を拡張するなど「農本主義」的政策を推進し、葡萄や桑の植樹に力を入れてワイン造りや養蚕を盛んにした。一七世紀はじめは豊作が続き、その間にトウモロコシや野菜、葡萄などの新しい商品作物の栽培も盛んになったため、農業の多様化が進んだ。一方、内乱期に衰退した商工業はなかなか回復しなかったが、シュリーは交通網を整備して商品価格上昇の原因となっていた国内各地の関税を撤廃させている。また、絹織物・綿織物・硝子器具・壁掛けなどの輸出を振興し、絹織物業のリヨンLyon、オスマン帝国との交易の中心的役割を果たしたマルセイユ港Marseille、スペインへの穀物・織物の輸出港となったブレストBrest、ラ・ロシェルLa Rochelle、サン・マロSaint-Maloなどは急速に発展した。
 こうした重商主義(貿易差額主義)的経済政策は、フランスの海外進出を促す結果となった。一六世紀前半、仏王フランソワ一世François I(在位一五一五~四七)の命を受けたカルティエJacques Cartier(一四九一~ 一五五七)の北米探検(一五三四~四二年)に始まる仏領カナダの建設は、一七世紀に入って大きく前進した。一六〇三年、アンリ四世の命を受けた探検家シャンプランSamuel de Champlain(一五六七頃~一六三五)は「ヌーヴェル・フランス会社」Nouvelle Franceの代理人としてノルマンディ地方のオンフルール港Honfleurから新大陸へと渡り、カナダのセント・ローレンス川流域を探検した。そして、1六〇五年にはアカディア沿岸のポール・ロワイヤルに、一六〇八年には現在のケベック市に交易所を設けて先住民との毛皮取引を開始した。こうして一六二七年に設立された「ヌーヴェル・フランス百人会社」Compagnie des Cent Associésは、セント・ローレンス川からミシシッピ川に及ぶ巨大な植民地に発展した。ただし、その後の英仏植民地戦争(第二次百年戦争)に敗れ、この会社は一七五九年、イギリス軍の占領を受けて、一七六三年のパリ条約で完全に消滅する。その間、イングランド(一六〇〇年)、オランダ(一六〇二年)が相次いで東インド会社を設立して香辛料交易に乗り出していたが、一六〇四年にはフランスも一五年間という期限付きの独占特許状を与えて「東インド会社」Compagnie française des Indes Orientalesを設立した。しかし 一六三五年、次の国王ルイ一三世の宰相リシュリューがマダガスカル島に中継港を築いて対インド貿易を活性化しようと目論んで失敗し、東インド会社は一度も商船を派遣できないまま、その構想はしばらく放置されることとなった。註④
 ところで一六〇〇年、前妻マルグリット・ド・ヴァロワMarguerite de Valois(一五五三~一六一五)と離婚したばかりのアンリ四世は、トスカーナ大公フランチェスコ一世Francesco I de' Medici(在位一五七四~八七)の娘マリ・ド・メディシスMarie de Médicis(一五七五~一六四二)と再婚した。二人の間には、一六〇一年の王太子ルイの誕生に続いて合わせて六人の子宝に恵まれ、王太子ルイ、エリザベート(後の西王フェリペ四世妃イザベル)、クリスティーヌ(後のサヴォイア公ヴィットーリオ・アメデーオ一世妃クリスティーナ)、オルレアン公ガストンGaston Jean Baptiste de France(一六〇八~六〇)、アンリエット・マリ(イングランド王チャールズ一世妃ヘンリエッタ)の五人が成長した。再婚から一〇年の歳月が流れた一六一〇年五月一三日、サン=ドニ大聖堂でマリ・ド・メディシスを正式のフランス王妃と認める盛大な戴冠式が挙行された。しかし、その翌日、アンリ四世は寵臣リシュリューとの打ち合わせのためにルーヴル宮を出てマレ地区のアルスナル(工廠Arsenal)に向かったが、現在のレ・アールLes-Halles そばのフェロヌリー通り八番地において狂信的な旧教徒フランソワ・ラヴァイヤックFrançois Ravaillacという男に襲われ、刺殺された(享年五六歳)。王の亡骸は、強い香りのするバルサムを塗られてしばらくルーヴル宮に安置された後、王家の墓所であるサン=ドニ大聖堂に埋葬された。なお、犯人フランソワ・ラヴァイヤックは、五月二七日、グレーヴ広場Place de Grève(現在のパリ市庁舎前広場)において(一六年前の殺人未遂犯シャトルと同じく)「八つ裂きの刑」という惨たらしい方法で公開処刑された。

 

第二節 王母マリ・ド・メディシスとルイ一三世の確執 
 一六一〇年五月一四日、王位を継承したのは王太子ルイであった。しかし、ルイ一三世Louis XIII(在位一六一〇~四三)は僅か八歳の少年であったため、成人する一六一七年までは王母マリが摂政として政務を執ることになり、翌日パリ高等法院の親裁座で摂政宣言がなされた(ルイ一三世の成聖式は、一〇月一七日、ランスReimaで挙行された)。彼女は先王のとった年金と官職の授与という有力貴族への懐柔政策を継続させたが、まもなくアンリ四世期の宰相シュリー公マクシミリアンを罷免して、彼女の輿入れの際に伴った侍女レオノーラ・ガリガイLeonora Galigaïとその夫アンクル元帥(アンクル侯爵コンチーノ・コンチニConcino Concini)を重用するようになった。また、メディチ家出身の彼女は、新旧両教徒の均衡に心を砕いた先王と違ってあからさまにカトリックを擁護する姿勢に転じ、一六一二年にはルイ一三世とスペイン王女アンヌ・ドートリッシュAnne d'Autriche(一六〇一~六六)、娘エリザベートとスペイン王太子フェリペ(後の西王フェリペ四世)という二組の結婚を決め、ハプスブルク家との提携を強めている(結婚式は一六一五年一〇月、ボルドーBordeauxとブルゴスBurgosで同時に挙行された)。また、その一方で、 次第に行き詰まりを見せ始めた財政問題を解決させるために、有力貴族層に授与してきた「特権」の再検討に乗り出した。註⑤
 こうした新たな方針に反発したコンデ親王アンリ二世Henri II de Bourbon-Condéやブイヨン公、ヌムール公など有力貴族層は、一六一四年初め、国王に反旗を翻して東部の都市サント・ヌムーSainte-Menehouldを攻略した。彼等は一五九三年以来途絶えていた全国三部会États générauxの召集を約束させたが、ルイ一三世は反国王の姿勢を示していたブルターニュ地方のヴァンドーム公を屈服させ、その上で全国三部会開催直前の一〇月二日、パリ高等法院において満一三歳の成人年齢に達したことを披露する親臨法廷を開催して摂政体制の終結を宣言した。なお、ルーヴル宮に隣接するブルボン館において開催された全国三部会(一〇月二七日開会)の構成は、第一身分(聖職者)一三五名、第二身分(貴族)一三八名、第三身分(平民)一八七名であり、国王側の裏工作が功を奏して王権支持派が絶対多数を占めていた。また、三部会代表には上級官職に就いていた富裕層が多く、第一身分では大司教ないし司教が五九名、修道院長が三三名であり、下級聖職者に相当する司祭は五名に過ぎない。第二身分では国王から宮廷や軍隊などの上級官職を授与されていた貴族が七八名もおり、そのうち二六名は国務評定官の肩書きを有していた。そして第三身分では司法官職を中心とする官職保有者(オフィシエofficier)が一二一名と圧倒的に多く、法的には貴族と認定できる者が三一名、所領の所有者が七二名もいた。それに対して、商人は二名、ブルジョワは三
名、富農は一名しかおらず、明らかに第三身分代表は特権階級に接近しつつある階層から選抜されていたことが分かる。
 さて、全国三部会は身分ごとの個別集会という形式で行われ、それぞれ地元の陳情書を携えた代表による議論が展開された。この全国三部会は富裕層の代表による議論という側面は否めなかったが、それでも第二身分と第三身分の主張には大きな隔たりがあった。前者は、近年の貴族や農民の貧窮・没落の原因を王権による徴税強化と新興ブルジョワ層による所領や官職の取得によるものと考えており、租税の軽減や 一定官職の貴族への留保、官職の世襲保有に道を開いたポーレット法の廃止、貴族に商業への関与を認めない貴族位喪失規定の見直し、貴族と平民を明確に区別できる服飾規定の制定などを提案した。一方、後者は租税軽減は四〇〇万リーヴル、ポーレット法廃止は一六〇万リーヴルの歳入不足を招くとして反対し、 大幅な貴族年金の削除こそが喫緊の課題であると主張し、ポーレット法を堅持しようとした。一六一五年二月二三日、全国三部会はそれぞれ身分ごとの陳情書を提出して閉幕したため、国政改革は不発に終わった。しかし、三部会代表の一部が政府側の誠意ある回答を期待してパリに留まっていたため、三月二四日、 国王は彼等をルーヴル宮に招き入れ、(1)官職売買の禁止、(2)貴族年金の削減、 (3)不正フィナンシエ(金融業者)financier摘発のための「特別裁判所」設置を約束している。全国三部会はこの後、一七八九 年五月まで召集されていない。一四世紀初めから続いてきた全国三部会という身分制議会は、一六世紀を境に衰退の一途をたどっており、絶対王政の開始とともにその役目を終えたのである。同じく地方三部会も一七世紀には衰退し、オート・オーヴェルニュは一六二四年、ドーフィネは一六二八年、ノルマンディは一六五五年に機能停止となった。これ以降、フランスの政治は国王を頂点とする官僚機構に依拠しつつ利害を調整する方法で進むことになる。註⑥
 ところで、王母マリは全国三部会に出席していたリュソン Luçon 司教リシュリュー(一五八五~一六四二)の卓越した能力に着目し、一六一六年には国務卿に抜擢している。一方、次第に政治意識を高めつつあった息子ルイ一三世は、なかなか実権を手放そうとしない王母の背後にコンチニの影を認め、一六一七年四月二四日、腹心リュイーヌ公 Luynes(シャルル・ド・ダルベールCharles de D'Albert)の入れ知恵もあってルーヴル宮でコンチニを暗殺し、レオノーラを魔女として処刑した。この時、王母マリはロワール渓谷のブロワ城Bloisに幽閉され、国務卿の地位を追われたリシュリューは南部のアヴィニョンAvignonへと逃れている。こうして権力掌握に成功したルイ一三世は、翌年、官職世襲を保障したポーレット法を廃止し、二〇年には売官制度を再開した。その間、一六一九年二月、ブロワ城を脱出した王母マリは次男nのオルレアン公ガストンとともに反乱を起こし、二〇年にはリュイヌ公の政府に不満を抱いていた有力貴族層も加わったが、同年八月七日、ポン・ド・セPonts-de-Céの戦いであえなく鎮圧された。彼女はリシュリュー卿の取りなし(一六二〇年「アンジェ協定」Convention de Angers)で一時的に息子ルイ一三世と和解したが、その後も国王と王母マリや国璽尚書マリヤックMichel de Marillacとの確執は続いた。
 一方、先王が発した「ナントの勅令」は、ユグノーに信仰の自由を保証しただけでなく、向こう八カ月間にわたる「安全保障地」と都市守備隊の存続を認めていたために、彼等の居住地域(一〇〇カ所以上)は半独立状態を維持して社会不安の要因となっていた。ルイ一三世は王母マリと同じく親カトリック政策に回帰していたが、一六一六年に編入したスペイン国境近くのベアルン地方Béarnでカトリックの援助をしたことが契機となって、ユグノー派の反発を買うことになった。一六二〇年の暮れ、ラ・ロシェルにおいて改革派全国大会が開かれ、翌年にはロアン公アンリHenri、duc de Rohanとその弟のスービーズ侯Benjamin deRohan, marquis de Soubiseを中心とする反乱が勃発した。ルイ一三世は、フランス西部のサン=ジャン=ダンジェリSaint-Jean-d'Angélyを陥落させてラ・ロシェルの封鎖を図り、ベアルン地方を襲撃したが、両者とも譲らず戦線膠着の状態となった。やがて一六二二年一〇月一八日、ユグノー都市をラ・ロシェルとフランス南部のモントーバンMontaubanに限定する「モンペリエ協定」Montpellierが締結されて妥協が図られ、モントーバンでは「国王の入市式」が挙行されたが、この日を境にユグノー派の勢力は大きく後退していった。註⑦
 ところで、その当時、イングランド王国ステュアート朝Stuart(一六〇三~四九、一六六〇~一七一四
)を開いたジェームズ一世James I(在位一六〇三~二五)は、ハプスブルク家への対抗意識からフランスに接近しようとして失敗し、英仏関係が急速に悪化していた。それに対して、フランス国内ではルイ一三世から首席国務卿=宰相(在任一六二四~四二)に抜擢されたリシュリュー枢機卿(リシュリュー公爵アルマン・ジャン・デュ・プレシーArmand Jean du Plessis, cardinal et duc de Richelieu)がスペインと秘密講和を結び、イングランドの攻撃に備えていた。一六二五年、ユグノー派が再び武装蜂起した時、リシュリューはユグノー派の拠点ラ・ロシェルを包囲してスービーズ侯軍に致命的な打撃を与えた。一方、イングランド王チャールズ一世Charles I(在位一六二五~四九)の寵臣バッキンガム公ジョージ・ヴィリアーズGeorge Villiers, 1st Duke of Buckingham(一五九二~一六二八、海軍卿一六一九~二八)はユグノー派と連絡を取り合い、一六二七年六月、八〇隻の艦隊を率いてラ・ロシェル近くのレ島 Île de Réに押し寄せ、兵士約六〇〇〇人の上陸に成功した。そして、レ島の中心都市サン・マルタン・ド・レSt-Martin-de-Re は、国王に対する反乱には加わっていなかったためイングランド軍の猛攻を受ける羽目に陥った。一方、アングレーム公シャルルAngoulême率いるフランス国王軍(兵士約七〇〇〇人、騎兵約六〇〇人、砲二四門)は八月からラ・ロシェル包囲を開始し、九月以降はリシュリュー総司令官のもと総延長一二キロに及ぶ包囲線を構築して砦一一カ所、堡塁一八カ所には兵士約三〇〇〇人を配置した。イングランド王国は一六二八年四月、 八月の二度にわたって艦隊を派遣したもののラ・ロシェル支援に失敗し、一〇月二八日、ラ・ロシェルは無条件降伏をした。勢いづいたリシュリューは、一六二九年五月、ラングドック地方で抵抗を続けていたユグノー派を襲撃し、その首領ロアン公を国外追放に処した。こうしてラ・ロシェル包囲戦は、ルイ一三世とカトリック側の大勝利となり、ユグノー派は「信仰の自由」こそ認められたものの、あらゆる特権を失ったのである(一六二九年六月二八日「アレス王令」Alès)。
  
第三節 三十年戦争とフロンドの乱
 一六一八年五月二三日、プロテスタント貴族とハプスブルク家が対立していたベーメン王国では、教会建築禁止令に反発した新教徒たちが市役所(現在のプラハ城)に押しかけて二人の代官と秘書を窓から崖下に突き落とすという事件(プラハ窓外投擲事件)が発生し、長く続く三十年戦争(一六一八~四八年)の発端となった。当時のベーメン王フェルディナン一世(在位一六一七~一九、二〇~三七)は、まもなく神聖ローマ皇帝フェルディナント二世Ferdinand II(在位一六一九~三七、オーストリア大公在位一六一九~三七、 ハンガリー王在位一六一九~二五)となるが、やがて一六二五年のデンマーク王クリスチャン四
世Christian IV(在位一五八八~一六四八)や一六三〇年のスウェーデン王グスタフ=アドルフGustav II Adolf(在位一六一一~三二)といったルター派を信奉する国王らが新教徒援助を名目に軍事介入したことから、単なる宗教戦争の域を超えて激しい国際干渉戦争へと拡大していった。
 そのときフランス宮廷は様子見を決め込んでいたが、一六二四年秋、宰相リシュリューは、ミラノとドイツをつなぐ要衝に位置するヴァルテリン回廊地帯を管轄していた教皇軍が中立の立場を逸脱してスペイン軍の自由通行を認めていたことを口実に、サヴォイア公国を誘って出兵に踏み切った。この作戦はスペイン軍の反撃で失敗したが、一六二七年末、今度はマントヴァ公国継承問題に介入して反皇帝・反ハプスブルク側にまわり、翌年春から三〇年秋にかけて激しいカザーレ包囲戦Casaleを展開した。しかし、リシュリューの強引とも言える作戦は、宮廷内部に亀裂を引き起こした。リシュリューの目覚ましい台頭に不満を抱いた国璽尚書マリヤックMichel de Marillacら一部貴族は、長引く戦乱や飢饉発生による国内疲弊を心配していた王母マリと結託して、一六三〇年一一月一〇~一一日の会議で全面的な和平論を展開し、リシュリュー排斥のクーデターに打って出た。ルイ一三世も一旦はリシュリュー罷免に同意したものの、翌日には態度を翻してしまう(「裏切られた者たちの事件」journée des Dupes)。その結果、マリヤックは罷免され、王母マリと王弟ガストンは翌年フランス北部のコンピエーニュCompiègneに軟禁された後、国外のロレーヌ公のもとへと亡命した。一六三二年六月、ラングドック地方で王弟ガストンと提携した地方総督モンモランシ公の反乱が発生したが、これを鎮圧したリシュリューの支配体制は磐石となった。註⑨
 ところで、リシュリューの宰相就任までのフランスでは海軍提督が海運行政を統括していたが、大西洋側の三つの官職をモンモランシ公、地中海側をギーズ公が担当し、残る海軍提督はブルターニュ総督ヴァンドーム公が兼務していた。しかしリシュリューは、一六二六年、シャレー事件(シュヴルーズ公爵夫人マリー・ド・ロアンMarie Aimée de Rohanが愛人シャレー伯とともに、ルイ一三世と王弟ガストンの地位を入れ替えようとした陰謀事件)に連座したヴァンドーム公から海運行政の権利を剥奪して、同年一〇月に新設された「航海・商業長官」に自ら就任した。翌三一年には海軍提督そのものを廃止し、三月には特権貿易会社の許認可権がすべてリシュリューに集められた。その後、英仏海峡から大西洋にいたるル・アーブル、ブルターニュ、ラ・ロシェル、ブルアージュの総督職を手に入れたリシュリューは、国務会議とは別に評議会を設置して海運行政を取り仕切った。そして一六三二年のモンモランシ公の反乱失敗(一〇月に処刑)で、リシュリューを抑えることが出来るのは国王のみとなったのである。
 さて、一六三一年のロレーヌ出兵に成功したフランスは、一六三四年九月のネルトリンゲンNördlingenの戦いで神聖ローマ皇帝軍がスウェーデン軍に勝利を収めたのを見届けると、かねてより敵対関係にあったハプスブルク家に打撃を与える目的でオランダ、スウェーデンとの同盟関係を更新した。翌年五月、 フランスはついにスペインと神聖ローマ皇帝に宣戦布告して三十年戦争に参戦した。フランス・スペイン戦争(仏西戦争、一六三五~五九年)では、一六三六年七月、スペイン軍がピカルディ地方に侵入し、八月にはパリに近いコルビCorbieを攻略したが、その時ルイ一三世はパリ市民から義勇軍を募ってスペイン軍のパリ攻撃を断念させている。仏軍が攻勢に転じたのは一六四〇年のことで、スペイン王の支配下にあったポルトガル王国の独立(一六四〇年)を支援し、スペインのカタロニア地方では反乱が発生して仏軍を歓呼の声で迎え入れた。また八月には、アルトワ地方の中心都市アラスArrasが仏軍に降伏している。一六四二年には、コンデ親王率いる仏軍がフランドル地方からパリに向かっていたフランシスコ・ダ・メルロFrancisco da Merlot指揮のスペイン軍を撃破することにも成功した(五月一九日、ロクロワRocroiの戦い)。
 こうしたフランスの勝利を支えていたのは、リシュリューによる軍制改革と軍備増強の取り組みであった。ルイ一三世治世初期のフランス軍は、フランス衛兵連隊、スイス衛兵連隊などからなる近衛軍団のほか、ナヴァール連隊やノルマンディ連隊など、一六世紀後半に起源を有する古式連隊(六個連隊)と、それを補強してアンリ四世期に創設された新規連隊(六個連隊)の三系列からなる約二万人の常備軍と、必要に応じて新しく編制される連隊や外国人の傭兵隊などの臨時軍からなり、一六二〇年代には合計約一〇万人で構成されていた。ところが、リシュリューは三十年戦争に参戦した一六三五年前後から軍備増強に乗り出し、一六四八年までに約二〇〇連隊(名目人数約二〇万人、実数は推定一二万五〇〇〇人)を擁する軍隊に発展させた。したがって、増強された大半の部分は傭兵隊などの臨時軍であると思われる。また、 一六二七年には大元帥職を廃止して、軍事行政を統括する権限を文官である陸軍担当国務卿(陸軍卿)に与え、軍隊の徴募や編制、軍需品や糧秣品の供給、軍隊の移動・冬営場所設定などが決定されるようになった。特に一六三五年以降は、軍政監察官や軍務官が各軍団に派遣されて、やがて常駐するようになっている。そして、こうした軍備増強はもちろん軍事費の増大に直結していた。一六三四年、課税台帳の見直しに着手したリシュリューは、頻繁に地方監察官を派遣して直接税の徴税体制を強化し、既存のタイユ税とその付加税以外に、軍隊糧秣税(一六三八年)・軍隊宿泊税(一六四一年)を加えた直接税を徴収し、民衆の生活を圧迫した。因みに、一六三〇年代後半までの通常収入は一〇〇〇万リーヴル台を推移していたが、一六四三年には五〇〇〇万リーヴルの大台に達している(阿河雄二郎「絶対王政成立期のフランス」図7〈一五七七~一六五三年の年間支出の変動〉参照)。また一六三七年には都市に対する御用金取り立てを開始し、一六四二年八月二二日以降は直接税の割当権・徴税権を与えられた地方監察官(司法・治安・財政監察官)が総徴税区(ジェネラリテgénéralité)に常駐する総括責任者(地方長官)として苛烈な徴税を実施した。
 しかし、一六四二年一二月四日、宰相リシュリューはパリの自邸(パレ・カルディナルPalais Cardinal、後のパレ・ロワイヤルPalais Royal)で亡くなった。その少し前の一六三八年、国王夫妻には(二三年の結婚生活の末にようやく)待望の王位継承者(後のルイ一四世)が誕生したが、一六四三年四月二〇日、死を予感したルイ一三世は王族や重臣を召集し、王弟ガストンを王国総代理官とし、コンデ親王には国務会議入りを指示して王母アンヌ・ドートリッシュの摂政体制を支えるよう求めた。しかし五月一四日、ルイ一三世がパリ北西郊外のサン・ジェルマン・アン・レーSaint-Germain-en-Layeにおいて崩御(享年四一歳)すると、 後継者ルイ一四世Louis XIV(在位一六四三~一七一五)がわずか四歳の幼児であったため、フランス国内には動揺が走った。だが王母アンヌは間髪を入れず、翌日にはルイ一四世をルーヴル宮に移して、一八日、パリ高等法院の親臨法廷で事実上の即位式を挙行した。こうして彼女は摂政として国政を取り仕切り、もとは教皇庁駐仏大使だったマザラン枢機卿Jules Mazarin(一六〇二~六一)が王母の相談役と幼王の教育係として摂政を支えた。マザランは一六三九年フランスに帰化し、四一年にルイ一三世の推挙で枢機卿に就任したばかりで、リシュリューから後継者として指名されていた。それ故、彼は政策的にはリシュリューのそれを継承し、後のルイ一四世による絶対王政への地均しをしたとも言える。彼が政権運営を開始した頃のフランス財政は八五〇〇万リーヴルから一億五〇〇〇万リーヴルまで肥大し、間接税の増額などではとうてい対処できる状態ではなくなっていた。そこでマザランは、政府が租税収入を担保として富裕階級から遊休資本をひろく吸収する臨時財政措置、すなわち(1)一六世紀以来実施してきたラントrente(公債ないし長期借款)、(2)金融業者(フィナンシエ)に対して一定の前納金と引き換えに徴税権を譲渡するトレテtrait(特別収入請負)、(3)税収の前借りプレprêt(短期借款)をとる必要があった。政府のこうした措置は、借金返済のための新たな借金を積み重ねることにつながり、 財政破綻を招いた。既にリシュリュー後半期には有力フィナンシエが財務総監、財務監察官、国庫出納官、総徴税区収税官などの財政官職を手中に収めていたが、マザラン期には一六四三年に「直接税請負制」が導入されたことも手伝ってあらゆる財政活動が彼等によって独占されるようになった。その結果、フランスには慢性的な借金財政だけでなく、公私混同を当然視する財政運営、財政当局者とフィナンシエの癒着という構造的弊害が発生し、マザラン自身三七〇〇万リーヴルもの遺産を不正に蓄えた。
 彼はまたハプスブルク家との対抗関係を重視し、三十年戦争への介入を続けたことでも知られる。一六四四年八月、 仏軍はドイツ南西部のフライブルクFreiburgでバイエルン選帝侯軍を主力とする神聖ローマ皇帝軍を破り、一六四八年五月にはテュレンヌ子爵Turenne率いる仏=スウェーデン連合軍がアウクスブルクAugusburg近郊のツスマルシャウゼンZusmarshausenの戦いで神聖ローマ皇帝=バイエルン連合軍を撃破することに成功した。また、 同年八月にはランスLens(アルトワ地方)の戦いでドイツ=スペイン連合軍を破り、三十年戦争におけるフランスの勝利を決定づけた。一〇月二四日、ようやく締結されたウェストファリア条約Pax Westphalica(Westfälischer Friede)は、独帝フェルディナント三世Ferdinand III(在位一六三七~五七)とフランス及びカトリック諸侯との間で結ばれたミュンスター講和条約Instrumentum Pacis Monasterienseと、独帝とスウェーデン(クリスティーナ女王Kristina、 在位一六三二~五四、グスタフ=アドルフの娘)及びプロテスタント諸侯との間で結ばれたオスナブリュック講和条約Instrumentum Pacis Osnabrugenseの総称である。この当時は国家が〈法人格〉を持つとは見なされていなかったので、講和会議には各宮廷が派遣した使節が出席する慣例となっていたが、ヨーロッパ各国から派遣された使節の総数は、ピューリタン革命(清教徒革命、一六四一~四九年)の内戦が続いていたイングランド王国、ロシア正教のモスクワ大公国、イスラーム教のオスマン帝国を除くヨーロッパ諸国とドイツ諸邦の君主が一九四名、全権委任者が一七六名であった。ミュンスターで締結された両条約の内容を総合すると、神聖ローマ帝国においてはアウクスブルク宗教和議(一五五五年)の合意事項を再確認するとともにカルヴァン派の信仰を公認することとし、約三〇〇の領邦主権国家が分立する状態となった。また、〈国家主権の不可侵性〉が確認され、オーストリア大公国からスイス、スペイン王国からネーデルラント連邦共和国がそれぞれ独立を認められた。一方、フランスはアルザス地方などライン左岸に領土を拡張し、スウェーデンも北ドイツに要地を拡大して北欧の大国にのし上がった。したがって、フランスのブルボン家はオーストリア・スペインを支配するハプスブルク家に対して優位に立つことになったのである。また、三十年戦争は王家を中心とする個別国家が主権をもって自国の利益を追求する世界を生み出したが、その結果、宗教やイデオロギーよりも〈国益〉を優先し、「力による均衡」balance of powerの観念や同盟外交を特徴とする主権国家体制(ウェストファリア体制Westphalian sovereignty)が誕生したのであった。
 ところで、その後まもなく成立したイングランド共和国(一六四九~六〇
)の護国卿オリヴァー・クロムウェル Oliver Cromwell(在任一六五三~五八)は、一六五四年、第一次英蘭戦争(一六五二~五四)をウェストミンター講和条約 Westminsterに持ち込むとともに、スウェーデン、デンマーク、ポルトガルとの通商条約を締結し、スペインに対する攻撃を開始した(英西戦争)。同年、ウィリアム・ペンWilliam Penn率いるイングランド艦隊はイスパニョーラ島を急襲し、翌年にはジャマイカを占領した。一六五五年、彼はフランスと和親通商条約を締結したが、五七年には軍事同盟にまで発展させ、一六五八年のフランス・スペイン戦争(仏西戦争、一六三五~五九年)では英仏連合軍が砂丘の戦いに勝利を収めてダンケルク Dunkerque占領に成功した。その結果、一六五九年一一月九日、仏西両国の間を流れるビダソア川にあるフェザント島で締結されたピレネー条約Pyrénéesで、フランスはロレーヌ公領から撤退する一方で、北部のアルトワArtoisと南部のルシヨンRoussillonを編入し、ピレネー山脈を境界とする国境が画定した。また翌六〇年六月九日にはバスク地方のサン・ジャン・ド・リュズ教会Saint-Jean-de-Luzにおいて、ルイ一四世とスペイン王女マリア・テレサMaría Teresa de Austri(マリ・テレーズ・ドートリッシュMarie Thérèse d'Autriche)の結婚式が挙行された。新婚の二人は八月二六日、パリで盛大な「国王の入市式」を行った後、郊外東方のヴァンセンヌ城Vincennesで一六六一年まで過ごしている。なお、この結婚でスペインは五〇万金エキュécuという莫大な持参金支払いを約束し、マリ・テレーズ・ドートリッシュはスペイン王位継承権を放棄している。
 一方、三十年戦争の際に重税を課したことが引き金となって、フランス各地には農民暴動が発生した。リシュリュー期のフランスでは、一六二四年春のケルシー地方の農民一揆に始まり、一六三〇年にはディジョンDijon、エクス・アン・プロヴァンスAix-en-Provenceにおいて、それぞれブルゴーニュ、プロヴァンスの地方三部会が廃止されるとの噂から、監察官赴任への反対と地方特権の擁護を掲げた反王権暴動が勃発した。また一六三五年にはボルドーBordeaux、ペリグーPérigueux、アジャンAgenなど西南部の都市で居酒屋の営業税引き上げに反対する暴動が発生し、翌年にはやはり西南部アングーモア地方の農民たちが酒税増額を柱とする徴税強化に反対する一揆を起こしてアングレームAngoulêmeやコニャックCognacなどを包囲した。その後、一揆は拡大の一途をたどり、やがてポワトゥー地方やサントンジュ地方にまで広がった。翌三七年にはペリゴール地方を震源地とする農民一揆が発生し、宰相リシュリューはラ・ヴァレット公La Valetteの軍団を派遣して武装した農民二~三万人を抑えつけた。しかし、一六三八年一二月から翌年一月にかけては、ガスコーニュ地方に波及した農民一揆の勢力にマルシャックMarcillacとミランドMirandeを占拠されている。そして、 こうした民衆蜂起(クロカンの乱Révolte des Croquants)の中で最も政権を震撼させたのが、一六三九年七月一六日、バス・ノルマンディ地方のアヴランシュAvranchesで発生した塩田労働者を中心とする反塩税蜂起(ニュ・ピエNu-Piedの乱〔裸足党の乱〕)であったが、リシュリューは必死に、そして徹底的に弾圧している。
 さて前述したように、一六四二年から翌年にかけて宰相リシュリューとルイ一三世が相次いで亡くなったが、一六四八年四月、新政権は財政危機を克服しようとしてポーレット法の廃止、官僚の俸給支払い停止を決めたために、今度は官職保有者等を刺激することとなった。とりわけ、ポーレット法廃止に反発した官職保有者たちは、パリのパレ・ド・ジュステスLe palais de justice において最高諸法院(高等法院・会計法院・租税法院・貨幣法院・大法院)の合同会議を開いて改革案を審議し、七月九日には地方長官制の廃止や直接税の減免、徴税請負制の廃止、高等法院の権限等を定める「聖ルイの間の宣言」を発表した。王権側はこうした要求をやむなく了承したが、マザランがパリ高等法院改革派判事ブルーセルBrousselを逮捕した(八月二六日)ことが引き金となって数百人のパリ民衆と法官たちが武装蜂起し、パリ市内には一〇〇〇箇所あまりのバリケードが築かれたという(一六四八~5三年、フロンドの乱。フロンドfrondeとは「投石あそび、 投石器」のこと )。
 翌四九年一月五日の深夜から翌日にかけて、王母アンヌや宰相マザランは、まだ一〇歳の国王とともにパレ・ロワイヤルから退去してサン・ジェルマン・アン・レーへと逃れた(~八月一八日)。その時、反乱軍の中心にはコンティ公アルマン・ド・ブルボン・コンティArmand de Bourbon-Conti, prince de Contiがいたが、彼の兄コンデ親王ルイ二世Louis II de Bourbon, prince de Condé, Duc d'Enghienの軍がパリを逆包囲したため、三月には和議(リュエイユRueilの和約)が成立した。しかし、一六五〇年、自らの待遇に不満を抱いたコンデ親王は弟コンティ公や義兄ロングヴィル公Longuevilleとともに政権転覆を企てて蜂起し、 逆にマザランによって逮捕・投獄されてしまう。憤慨したコンデ親王派はブルゴーニュやノルマンディなどで再挙兵し、混乱は急速に拡大した。翌五一年二月、コンデ親王が釈放された時、身の危険を察知したマザランはドイツへと亡命し、宮廷もポワティエPoitiersに移動した。しかし、パリを制圧した反乱軍側が内部分裂を起こし、コンデ親王は九月にボルドーへ退去した。一六五二年、 コンデ親王は南西部の貴族やスペイン軍の支援を受けて再びパリをめざして進撃し、七月二日、 パリ市壁外のフォブール・サン・タントワーヌ地区Fauburug St.Antoineではテュレンヌ子爵軍とコンデ親王軍が激しい戦闘を繰り広げた。その時、故アンリ四世の三男ガストン・ドルレアンGaston d'Orléansの一人娘モンパンシエ夫人Montpensier(アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンAnne Marie Louise d'Orléans)がバスティーユ要塞の砲門を開けさせ、 コンデ親王軍がサン・タントワーヌ門から入城するのを手助けした。四日にはコンデ派貴族中心の臨時政府が成立したが、彼等はパリ市当局や市民たちと対立し、臨時政府はまもなく瓦解した。その結果、一〇月一三日、敗れたコンデ親王はオランダに逃れ、二一日にはルイ一四世と王母アンヌがパリ市民に迎えられ、ルーヴル宮に入った(~一六七一年)。翌二二日、政府は事態の掌握を宣言し、翌年末までに全国で地方監察官制を復活させた。翌五三年二月にはマザランもパリに帰還して反乱貴族を一掃し、七月にはコンデ親王派の拠点ボルドーが陥落して反乱軍はついに鎮圧された。一六五四年六月七日、ルイ一四世はランスで成聖式を挙行し、九日にはサン・レミ修道院前で瘰癧患者に触れている。また、コンデ親王は一六五四年にパリ高等法院から「死刑」の裁決を出されたが、ピレネー条約が締結された五九年には罪を赦され、フランスに帰国した。フロンドの乱は、このように極めて複雑な経過をたどるが、その担い手であったパリ高等法院を頂点とする官職保有者層、中小商工業者を中心とする民衆、そして最大の勢力を持っていた貴族層、とりわけ中小の帯剣貴族層などはことごとく敗れ去り、あらゆる権力は若き国王ルイ一四世のもとに集中していったのである。註⑩

 

第四節 太陽王ルイ一四世の絶対王政
 (一) 王権神授説とコルベール主義
 一六六一年三月九日、宰相マザランが亡くなった後、 ルイ一四世は宰相制度を廃止し、ボシュエJacques-Bénigne Bossuet(フランスのカトリック司教・神学者)の説く「王権神授説」に基づく親政政治を開始した。絶対主義時代の代表的政治理論である王権神授説は、 イングランドのフィルマーSir Robert Filmer(一五八八頃~一六五三)の『パトリアーカ(家父長論)』Patriarcha(一六八〇年)が有名であるが、 フランスではクロード・ドゥ・セーセルClaude de Seysselの『フランス王政論』La monarchie de France(一五一九年)、新教徒フランソワ・オットマンFrancois Hotmanの『フランコ・ガリア』Franco-Gallia(一五七三年)まで遡ることが出来る。しかし、特に有名なのは、ユグノー戦争の渦中にあって王権擁護と宗教的寛容を主張したポリティーク派のジャン・ボダンJean Bodin(一五三〇~九六)で、その著書『歴史認識方法論』(一五五六年)や『国家論』(一五七六年)などが知られている。時代は移り、一六五七年、王太后アンヌの前で説教したことが契機となって宮廷入りしたボシュエは、王太子ルイの教育係(一六七〇~八一年)を務めた後、一六八一年以降はモーMeaux の司教として活躍し、ガリカニスムの立場から専制政治と王権神授説を支持する発言で国王の信頼を高めた。ボシュエは『世界史叙説』(一六八五年)の中で、「国王の権威は神聖である。神は、国王を使者とし給い、国王を通じて人民を支配し給う。・・・国王の人格は神聖である。・・・王の人格は神聖であって、彼らに逆らうことは、神を汚すことに他ならない」(二宮宏之『西洋史料集成』より引用)と述べ、王権神授説を含む近代的な主権論を説いて中央集権国家体制を理論的に基礎づけた。ヴェルサイユ宮殿ヴィーナスの間に立つルイ一四世の青年像は、彼が「太陽王」と呼ばれたことを如実に表している。なお、彼が「太陽王」と呼ばれたのは、バレエで太陽神に扮したことから生まれた異名であるが、国王として絶対でありたいと願う彼の気持ちを代弁している。また、「朕は国家なり」L'etat, c'est moiという言葉は、 ルイ一四世を敬愛する啓蒙思想家ヴォルテールVoltaire(本名François-Marie Arouet、一六九四~一七七八)が『ルイ一四世の時代』に記したもので、 彼の創作と考えられている。
 さて、親政を開始したルイ一四世は、国政の最高機関である最高国務会議から王太后アンヌや王族・有力貴族たちを排除し、各部門責任者に陸軍卿ミシェル・ル・テリエMichel le Tellierや外務卿ユーグ・ド・リオンヌHugues de Lionne、財務卿フーケNicolas Fouqueを充てるなど新興貴族やブルジョワ階層を登用して王権強化に努めている。ルイ一四世期の最高国務会議の出席者は三~五名程度に限られており、ながい治世を通しても計一七名と少数で、そのうち伝統的な帯剣貴族はルイ一四世の養育係を務めたヴィルロワ侯父子Villeroyなど三名に過ぎない。「三人組」に代表される新しい行政官僚集団は、 財務総監・国務卿・国務評定官という中央政府の要職者、地方行政の中心である「地方長官」(一七世紀半ば以降、地方監察官=アンタンダンintendantを地方長官と呼ぶ)、それらの輩出母体である訴願審査官などによって構成されていたが、多くはブルジョワから法服貴族へと社会的上昇をとげた家柄に属していた。ルイ一四世は彼等が作り上げた人脈関係の頂点に立ちながら、私的な絆を国王や国家に対する〈奉仕の観念〉と結びつけたのである。また、法服貴族や官職保有層に対しては、国王のみが〈主権〉を有するという理由で最高諸院の「最高」という呼称をやめさせて「上級」への変更を強制した後、二度(一六六七年・一六七三年)にわたって王令を発して上級諸院の建言権を奪い、彼等の抵抗能力を弱めている。そして、中世以来の自生的な社会集団であった帯剣貴族は、王権が実施した「貴族改め」(一六六四~六九、九一~九四年)によって身分を承認され、特権を付与される法的集団へと変質し、その勢力は大きく後退していった。
 一方、地方行政では、ルイ一三世期から継承してきた地方監察官制を「地方長官」制に発展させ、 地方総督や地方三部会、自治都市などの権限を削減して当該地方の司法・財政・治安維持の権限を地方長官に与えた。また、従来の官職保有者が王権から相対的に自立した世襲官職であったのに対して、親任官僚(コミッセールcommissaire)である地方長官は委任権限を持つ臨時官という性格を持ち、上位監督権を行使するとともに、状況の変化に敏速に対応できるという利点もあった(一七一五年現在、 全国は三一の地方長官区に分かれていた)。そしてルイ一四世は、地方の事情に精通した名望家、とりわけ官職保有者を地方長官補佐subdéléguéに登用するなどきめ細かな配慮をしており、やがて国王による直接統治が浸透していった。しかし、「絶対王政」とは言っても、そこには限界があった。何故なら、ヨーロッパ近世国家の特徴として、国王権力と人民の間には「中間団体」が介在していたからである。中間団体の起源は中世以来の聖職者・貴族・平民の三身分全体に存在し、毛織物商人・肉屋などの都市ギルドや官職保有者などの職能団体、都市や州などを単位とする地縁的団体、農村共同体などが幅広く存在していた。国王はこれら中間団体に特権を与えてそれぞれに自立性を認め、その代わりに課税その他の義務を課したのである。例えば、 聖職者は定期的に聖職者会議を開催することができる代わりに上納金を納付した。また、ブルターニュなどの辺境の州では地方三部会を開催して自主的に課税額を決定し、農民たちは住民集会を開催して村長を選出して課税額を配分する権利を有していた。こうしてみると、当時のフランスは歴史的な自由や特権を享受する中間団体が層をなす「社団国家」の典型であったと言えよう。但し、ユダヤ人や異端者、浮浪者らは相変わらず「中間団体」からも排除されていた。
 ところで、ルイ一四世が親政を開始して間もない一六六一年、死去したマザランの下で不正に蓄財を重ねていた財務卿ニコラ・フーケ(一六一五~八〇)が逮捕・投獄されて失脚した(一六六一年、財務卿職廃止)。その結果、 財務長官(財務のみ担当)となったのがライバルのコルベールJean-Baptiste Colbert(一六一九~八三)で、フーケがピネローロ要塞Pinerolo(ピエモンテ地方)に送られた一六六五年には財務総監(財務・財政担当)に任命された。コルベールは積年の戦費とフロンドの乱により破綻しかけていた国家財政の再建に着手し、一六六一年一一月、特別裁判所を設置して財務行政に関わったフィナンシエの不正を一六三五年まで遡って摘発するとともに、徴税請負制の合理化によって間接税収入を一六六一年の五二〇万リーヴルから一六八五年の二二〇〇万リーヴルへと引き上げた。また、一六六四年にはパリ周辺の五大徴税請負制領域内における関税が廃止され、一六八一年以降は全ての間接税を一括して引き受ける特定請負人と契約を結ぶ方式(この方式は一七二六年以降の「総括徴税請負制」ferme généraleに発展する)に変更し、さらには間接税増収を実現した。その結果、貧農を苦しめ続けてきたタイユ税の割当額の軽減をもたらし、 一六六一年の四二〇〇万リーヴルから一六六二~七二年平均三五五〇万リーヴルへと引き下げられた。しかし、一六七二年以降はオランダ侵略戦争(一六七二~七八年)、 プファルツ継承戦争(一六八八~九七年)、スペイン継承戦争(一七〇一~一三年)と続く戦争が国家財政の均衡を再び崩してしまう。例えば、 コルベールが亡くなる一六八三年は戦間期に相当するが、その年の軍事関係費総額六五〇〇万リーヴル(陸軍四五〇〇万リーヴル、海軍一一〇〇万リーブル、要塞の建設・補修費九〇〇万リーヴル)は歳費全体の五六・五%を占めているが、当然、戦争が行われていた年には歳費の七割をこえていたこともあり、 債務返済金は雪だるま式に膨れあがった。
 話をもとに戻すと、コルベールは国内産業を保護・育成して輸出を奨励する一方で、保護関税を設けて輸入制限を図る重商主義(貿易差額主義)を推進したことで知られる。後に「コルベール主義」Colbertismeと称される彼の経済政策の特徴は、パリのゴブラン工場を始めとする王立マニュファクチュアの設立や外国人技術者の招聘、国内の道路整備や運河開拓、タペストリー・ガラス・織物・陶磁器などの産業育成と輸出振興にあり、これらはいずれも財政再建に大きく貢献した。また、一六六九年に海軍卿に就任したコルベールは、先行するオランダ・イングランドの海外市場に割り込もうとして、東インド会社Compagnie française des Indes orientales(一六六四年)や西インド会社Compagnie française des Indes occidentales(一六六四年)、レヴァント貿易を行うルヴァン会社Compagnie du Levant(一六七〇年)、西アフリカ貿易に携わるセネガル会社Compagnie du Sénégal(一六七三年)などの勅許会社を相次いで新設ないし再設立し、 市場開拓や植民政策を積極的に実行した。因みに東インド会社の資本金は一五〇〇万リーヴルで、国王・王族が四五%、宮廷貴族・国王役人が一六・五%、貿易商人が一六%、フィナンシエが八・五%を出資していた。南アジアではインド植民の拠点となるポンディシェリPondichéry(一六七三年)、シャンデルナゴルChandernagor(一六八九年)が建設され、北アメリカではヌーベル・フランスやアンティル諸島Antillesに総督が派遣された。また一六八二年には、ルイジアナ植民地 Louisianeを建設している。
 ところで、陸軍卿ミシェル・ル・テリエの息子フランソワ=ミシェル・ル・テリエFrançois-Michel le Tellier(ルーヴォワ侯Marquis de Louvois)は、一六六六年、父辞任後の陸軍卿となり、軍制改革に乗り出した。従来は、陸軍の基本単位である連隊自体が、最高指揮官であるはずの国王に対して強い独立性を持っていた。その原因は、連隊長・中隊長職などの士官ポストが売官職であったために地方の有力貴族に独占され、また兵士の募集・雇用も連隊長が中央政府から請け負う形で実施したためである。そこでルーヴォア侯は国王直属の官僚(中央では陸軍卿、地方では地方長官や軍政監察官)による統制を強化し、(名誉職の連隊長や中隊長とならんで)国王直属の士官に実際上の指揮を執らせた。当時の陸軍の兵員数は、南ネーデルラント継承戦争(一六六七~六八年)時は名目一三万四〇〇〇人であったが、オランダ侵略戦争(一六七二~七八年)の時には名目二七万九六〇〇人(推定実数二五万三〇〇〇人)に増加している。また、プファルツ継承戦争(一六八八~九七年)が勃発した一六八八年一一月には従来の志願兵制から各教区から強制的に兵士を出させる「国王民兵制」に変更し、兵員の増加を図った。その結果、国王民兵を加えたフランス歩兵(砲兵も含む)は名目四二万人(推定実数三四万人)に増大し、これに騎兵、海兵などを加えるとフランス軍は総計約六〇万人の規模を誇るに至った(但し、 逃亡兵や水増し報告などにより少なくとも一五~二〇%の目減りが推定されている)。こうして質量ともに増強されたフランス陸軍は、 多くの侵略戦争を支えることになった。註⑪

 

 (二) ルイ一四世の侵略戦争
 1 南ネーデルラント継承戦争とオランダ侵略戦争
 一六五八年、フランスはハプスブルク家(神聖ローマ帝国、スペイン王国)に対抗してドイツ諸邦と「ライン同盟」(~一六六八年)を結成し、一六六〇年には英蘭両国とともにバルト海支配をめぐるスウェーデン、ポーランド、デンマークの争いを調停して北欧諸国への影響力を確保していた(オリヴァOlivaの和約)。ルイ一四世が親政を開始した頃のイングランドでは、彼の従兄にあたるイングランド王チャールズ二世Charles II(在位一六六〇~八五)が亡命先のオランダから凱旋して王政復古(一六六〇年)を実現したばかりで、翌年には王弟オルレアン公フィリップPhilippe d'Orléans(一六四〇~一七〇一)とチャールズ二世の妹アンリエットHenriette d'Angleterreの婚姻を成立させ、 六二年にはオランダとの同盟も締結した。ところが、英仏両国の平和的な関係はまもなく破綻する。
 一六六五年九月、ルイ一四世の義父に当たる西王フェリペ四世Felipe IV(在位一六二一~六五)が身罷り、その二度目の妃マリアナ・デ・アウストリアMariana de Austriaが産んだ王太子カルロスが即位してカルロス二世Carlos II(在位一六六五~一七〇〇)となった。ところが、フェリペ四世の遺言書には、新国王カルロス二世が死去した場合は神聖ローマ皇帝レオポルト一世Leopold I(在位一六五八~一七〇五)の婚約者マルガリータ・テレサMargarita Teresa de España(仏王妃マリ・テレーズ・ドートリッシの妹)がスペイン領を相続することと書かれていた。この事実を知ったルイ一四世は、王妃の持参金未納も手伝って反ハプスブルク感情を大いに刺激された。そこで彼は、西領ネーデルラントに属すブラバン地方(ブラバントBrabant)はカルロス二世の異母姉(仏王妃)が継承すべきである主張し、スペインに割譲を要求した。こうして勃発した南ネーデルラント継承戦争(一六六七~六八年、フランドル戦争・遺産帰属戦争)は、 ルイ一四世率いる仏軍が圧倒し、スペイン軍は後退を余儀なくされた。危機感を抱いたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)のヨハン・デ・ウィットJohan de Witt(議会派)は、イングランドの外交官ウィリアム・テンプルSir William Templeと交渉してオランダ、イングランド、スウェーデンの「三国同盟」(一六六八年)を結成してフランスに対抗した。そこでルイ一四世はやむなく一六六八年、アーヘンAachen(エクス・ラ・シャペルAix-la-Chapelle)の和約を結び、西=ハプスブルク家からフランドル地方の軍事拠点一二カ所を奪うことには成功したが、戦争中に占領したフランシュ=コンテ地方Franche-Comté(中世のブルゴーニュ伯領にほぼ対応する地域)の返還を余儀なくされた。
 しかし、三国同盟も長続きはしなかった。その当時、イングランド王国ステュアート復古王朝(一六六〇~一七一四年)は、共和制政府時代(一六四九~六〇年)に制定した航海法(一六五一年)が原因で英蘭戦争(一六五二~五四、六五~六七、七二~七四年)を戦っており、第二次英蘭戦争で勝利を収めたイングランドはオランダからニューアムステルダムNieuw Amsterdam(後のニューヨーク New York )を獲得している。その後、チャールズ二世は、ピューリタン革命の成果を骨抜きにしようと画策して議会と対立し、一六七〇年六月一日には独断でルイ一四世との間にドーヴァー密約Secret Treaty of Doverを交わした。この英仏間の密約で、イングランドはフランスからの資金援助を受ける代わりに、国内のカトリック勢力の保護と仏軍への協力を約束している。
 こうして英蘭間の蜜月が短期間で終了した頃、ルイ一四世はスウェーデンにも接近した。しかし、スウェーデンの参戦は、オランダと結んだデンマークやブランデンブルク=プロイセン同君連合の参戦にもつながった。一六七二年、海上からイングランド軍が、陸上からは仏軍がオランダに攻め寄り、オランダ侵略戦争(一六七二~七八年)と第三次英蘭戦争(一六七二~七四年)がほぼ同時に勃発した。デ・ロイテルMichiel de Ruyter(本名Michiel Adriaenszoon)率いるオランダ海軍は頑強に抵抗したが、陸軍が弱体であったため、仏軍は容易にアムステルダムAmsterdamに迫ることができた。講和を模索したヨハン・デ・ウィットは兄コルネリス・デ・ウィットCornelis de Wittとともに民衆によって殺害され、古くからの大貴族であった総督派のオラニエ公ウィレムWillem III van Oranje-Nassau(ナッサウ伯在位一六五〇~一七〇二、オランダ総督在職一六七二~一七〇二)が権力を掌握した。オラニエ公は堤防を決壊させて国土を泥沼に沈めるなど徹底抗戦の構えを示し、海軍もイングランド海軍を撃破することに成功した。こうして仏軍のアムステルダム攻略が見通しの立たなくなった頃、神聖ローマ皇帝レオポルト一世やドイツ諸侯の一部、スペインがオランダと同盟関係を結んだ。また、イングランド議会では、チャールズ二世の専制政治に抵抗して審査法(一六七三~一八二八年)が制定され、七四年にはオランダと講和を結んで戦争から撤退した。オラニエ公はさらにイングランドに接近し、一六七七年にはロンドンで王弟ヨーク公ジェームズ(後のジェームズ二世)の娘メアリMaryと結婚までしている。事態の急変に驚いたルイ一四世はオランダから軍を引き揚げることになったが、フランシュ・コンテでは皇帝軍やスペイン軍を破ることに成功し、 やがてオランダ軍を撃破して仏軍優位のうちに講和に持ち込むことが出来た。フランスは一六七八年、ナイメーヘン条約Nijmegenで、ハプスブルク家から(南ネーデルラント継承戦争で奪うことのできなかった)フランシュ・コンテ地方とフランドル地方の都市を獲得したが、神聖ローマ皇帝との講和では一六七〇年段階の状態に戻されてしまった。そこで、講和内容に満足できなかったルイ一四世は、一六八一年、
アルザス地方のストラスブール Strasbourgを占領した。また、二年後の一六八三年には、神聖ローマ皇帝レオポルト一世がオスマン帝国の第二次ウィーン包囲に苦しむのを脇に見ながらスペインとの戦端を開き、一六八四年、ドイツのレーゲンスブルクRegensburgで締結されたラティスボン条約 Ratisbonでルクセンブルクを獲得している。しかし、フランスの「統合政策」は周辺諸国の警戒心を呼び起こし、一六八六年、オランダ、スペイン、神聖ローマ皇帝、スウェーデン、ドイツ諸侯からなる「アウクスブルク同盟」Alliance of Augusburgが結成された。註⑫

 

 2 プファルツ継承戦争とスペイン継承戦争
 さて、一六八五年、ドイツ南西部のプファルツ選帝侯カール二世Karl IIが亡くなった時、彼には嫡子がなかったためにプファルツ=ジンメルン家Pfalz-Simmernの直系が途絶え、選帝侯位は遠縁のプファルツ=ノイブルク公フィリップ・ヴィルヘルムPhilipp Wilhelmが継承することになった。しかし、ルイ一四世は弟オルレアン公フィリップとカール二世の妹エリザベート・シャルロット・ド・バヴィエールÉlisabeth Charlotte de Bavièreの結婚を口実にして弟の相続権を主張し、一六八八年には仏軍を派兵してプファルツ継承戦争(一六八八~九七年、ファルツ継承戦争・アウクスブルク同盟戦争)に突入した。ところで当時のイングランドでは、ジェームズ二世James II(在位一六八五~八八)が相次いで「信仰自由宣言」(一六八七年、一六八八年)を発してカトリック信仰復活を図り、トーリ党(後の保守党)やホイッグ党(後の自由党)と呼ばれた議会勢力と厳しく対立していた。そして、彼にとってもう一つの頭痛の種は、次期国王に予定されていた長女メアリがプロテスタントで、審査法撤廃の意思がないと明言していたことであった。ところが六月一〇日、王妃メアリ・オヴ・モデナMary of Modenaが男子を出産したことでジェームズ二世の後もカトリックの君主を戴く可能性が高くなり、同月三〇日、危機感を抱いたホイッグ貴族等はオランダのオラニエ公ウィレムに宛てて招請状を発送した。その結果、一一月五日、オラニエ公率いるオランダ軍がイングランド南西部のトーベイTorbayに上陸し、国軍の支持を失っていたジェームズ二
世は一一月中の国外脱出に失敗した後、翌月一八日にはロンドンを出てフランスへと逃亡した。ロンドン入りしたオラニエ公は、翌年一月二二日、仮議会を招集したが、その議会はオラニエ公とメアリに共同王位を認めることで合意に達し、新国王が守るべき規範として一三項目にまとめた「権利宣言」を発表した。ウィリアム三世William III(在位一六八九~一七〇二)とメアリ二世Mary II (在位一六八九
~九四)が即位した直後(二月二三日)、仮議会を正式の議会とする法律が制定され、同年一二月一六日には権利宣言を「権利章典」として立法化した。
 イングランドにおける名誉革命(一六八八~八九年)の動向に驚いたルイ一四世は、オランダ議会にジェームズ二世追討の遠征軍を派遣しないよう要請したが受け入れられず、オランダに対する宣戦布告を発した。一六八九年二月一五日、ジェームズ二世はルイ一四世から提供された仏軍を率いてアイルランドへと出発し、三月一二日、アイルランド南東部のキンセールKinsaleに上陸して、一二日後にはダブリン城Dublinに入った。その後、仏=アイルランド連合軍は東北部のアルスター地方に侵攻し、プロテスタントが立て籠もるロンドンデリーLondonderryを包囲したが、夏以降は戦線膠着状態に入った。一六九〇年六月、ウィリアム三世は三万の軍勢を率いてカリクファーガスCarrickfergusに上陸し、七月一日、レンスター地方のボイン川Boyne流域における戦闘ではイングランドに勝利をもたらした。ジェームズ二世は再びフランスへと逃れ、アイルランドは翌年一〇月に結ばれたリメリック条約Limerickで抵抗の術を失った。その間、ウィリアム三世は一六八九年五月にオーストリア、オランダとの間で対仏同盟を結び、一二月にはイングランド、オランダ、スペイン、神聖ローマ帝国、ブランデンブルク、ザクセン、バイエルン、サヴォイア、スウェーデンからなる「アウクスブルク同盟」に発展させてフランス包囲網をより強固にした。しかし、神聖ローマ帝国がオスマン帝国との戦いに力を削がれていたために、仏軍は南ネーデルラントのフルーリュスFleurusの戦い(一六九〇年)でオランダ軍を撃破し、ナミュールNamur占領に成功した。このようにフランス軍は、緒戦こそ勝利を収めていた。しかし、一六九二年、英仏海峡のラ・ウーグla-Hougueの海戦において英蘭連合軍に敗れ、大陸における戦況も一進一退を続けることとなった。そして、双方とも決定的勝利を得られないまま、戦争は九年間にも及んだのである。その間、フランスでは大飢饉(一六九三~九五年)が猛威を振るい、戦争の長期化は国家財政に過重な負担を強いた。外交交渉を続けていた英仏両国は、一六九七年九月、ライスワイク条約Ryswickを結び、フランスは(1)一六七〇年より占領して来たロレーヌの大部分を返還する、(2)ナイメーヘン条約以降に獲得した領土を(ストラスブールを除いて)返還する、(3)オランダの守備兵が西領ネーデルラントの要塞に駐屯することを許可する、(4)イングランド王ウィリアム三世の王位を承認することを承認した。なお、この条約文はフランス語で作成されており、以後、フランス語が欧州外交の共通言語となった。
 しかし、プファルツ継承戦争が終結しても、ヨーロッパは次期スペイン国王の座をめぐって緊張が続いていた。ルイ一四世(ブルボン家)と神聖ローマ皇帝レオポルト一世(墺=ハプスブルク家)は、ともにスペイン王室と緊密な血縁関係にあり、王位継承権をめぐる争いを展開していたからである。ルイ一四世は西王フェリペ三世Felipe III(在位一五九八~一六二一)の王女アンヌ・ドートリッシュの息子であり、 フェリペ四世Felipe IV(在位一六二一~六五)の王女マリー・テレーズ・ドートリッシュの夫であった。一方、レオポルト一世もまた西王フェリペ三世の次女マリア・アナ・デ・アウストリアMaría Ana de Austriaの子であり、三度目の皇后エレオノーレ・マグダレーネ・テレーゼ・フォン・プファルツ=ノイブルクEleonore Magdalene Therese von Pfalz-Neuburgの妹マリア・アンナ・フォン・デア・プファルツ=ノイブルクMaria Anna von der Pfalz-Neuburgは西王カルロス二世の二度目の王妃である。フランス側のスペイン王位継承候補者は王太子ルイであったが、ルイ一四世は仏西合邦を諸外国が承認する環境にないことから王太子の次男アンジュー公フィリップを推し、レオポルト一世も次男のカール(後の神聖ローマ皇帝カール六世)を推薦していた。一方、スペインは仏=ブルボン家や墺=ハプスブルク家の直系親族を避け、バイエルン選帝侯マクシミリアン二世エマヌエルMaximilian II Emanuelに嫁いでいたマリア・アントニアMaria Antonia von Österreich(レオポルト一世とその最初の皇妃マルガリータ・テレサ・デ・エスパーニャMargarita Teresa de Españaの娘)の公子ヨーゼフ・フェルディナントFerdinand Leopold von Bayern (一六九二~九九)を王位継承者として望んでいた。そこでルイ一四世は密かにイングランド王ウィリアム三世に接近し、第一次スペイン分割条約(一六九八年一〇月一一日)で、ヨーゼフ・フェルディナントの王位継承を承認する代わりに、王太子ルイがスペイン領のシチリア、ナポリ、トスカーナ沿岸諸都市を、カール大公はミラノをそれぞれ獲得し、イングランドには貿易上の利権を与えることで合意に達した。しかし、西王カルロス二世はスペイン分割に強く抵抗し、スペイン王位と全領地をヨーゼフ・フェルディナントに相続させるための遺言書を作成した。ところが一六九九年二月六日、ヨーゼフ・フェルディナントがわずか六歳で早世したため、英仏両国はカール大公のスペイン王位継承と南ネーデルラント、海外植民地の継承を認める代わりに、王太子ルイはミラノを獲得すると決めた(一七〇〇年三月二五日、第二次スペイン分割条約)が、レオポルト一世はこの条約内容に反対した。
 死の床にあった西王カルロス二世は、同年一〇月七日、今度はスペイン領不分割を条件にアンジュー公フィリップを王位継承者に指名する遺言書に署名し、アンジュー公もしくはその弟ベリー公シャルルCharles de France(一六八六~一七一四)が王位継承を拒否する場合はカール大公に相続させるとした。そして一一月一日、カルロス2世はついに身罷り、スペイン王位とスペインの全領土がすべてアンジュー公フィリップに譲られた。そこで、英仏両国は再び緊張関係に入った。一七〇一年八月、ウィリアム三世はイングランド、オーストリア、オランダを中心とする対仏同盟(「ハーグ同盟」Haag)を再結成したが、ルイ一四世はフランスに亡命していたジェームズ二世が亡くなる(九月一六日)と、すぐにその息子を正式のイングランド王「ジェームズ三世」James Francis Edward Stuartと宣言してイングランドとの外交関係を絶った。これは、同年六月にイングランド国内で「王位継承法」が成立し、次の国王と目されていたアン(ジェームズ二世の次女)の跡を継ぐ将来の国王予定者としてドイツのハノーファー選帝侯妃ソフィアSophiaが指名されてプロテスタントによる王位継承を決定したことへの対抗措置であった。また、神聖ローマ皇帝レオポルト一世は、西王フェリペ五世Felipe V(西=ボルボン家Borbón、在位一七〇〇~二四、二四~四六)の即位を認めず、カール大公の王位継承を一方的に宣言した。こうして一七〇一年、オーストリア軍が北イタリアに侵攻し、スペイン継承戦争(一七〇一~一三年)の戦端が開かれたのである。翌〇二年三月八日、今度はウィリアム三世が逝去し、跡を継いだアン女王Anne Stuart(在位一七〇二~〇七
)は同年五月にフランスに対する宣戦布告を発している。
 仏西連合軍は、(仏軍が名目三八万人〔推定実数二五万五〇〇〇人〕と微減しているものの)バイエルン、ポルトガル、サヴォイアの支援を受けたために、兵力的には対仏同盟軍よりも優っていた。しかし、 一七〇三年、同盟軍はイベリア半島への進撃を果たし、 一七〇五年には一時的にバルセロナ占領にも成功してカタルーニャやバレンシアを支配下に置いた。その間、ドナウ河畔で戦われたブレンハイムBlenheimの戦い(一七〇四年八月一三日)でも仏=バイエルン連合軍がイングランド=オーストリア同盟軍に敗れた。その結果、バイエルンは実質的に戦線離脱したし、 ポルトガルとサヴォイアが対仏同盟側に寝返ったため、その後の仏西連合軍はもっぱら守勢にまわるようになった。勢いづいたイングランド海軍はジブラルタル(一七〇四年)、サルデーニャ、ミノルカ島(一七〇八年)を占領した。英仏両国の対立は新大陸にも飛び火し、アン女王戦争(一七〇二~一三年)ではアカディアAcadieをイングランド軍に占領された。しかし、戦争の長期化は同盟国側にもダメージを与え、レオポルト一世の跡を継いだ神聖ローマ皇帝ヨーゼフ一世Joseph I(在位一七〇五~一一)が一七一一年に亡くなると、カール大公がカール六世Karl VI(在位一七一一~四〇)として帝位を継承し、和平の気運が急速に高まった。
 一七一三年四月一一日、ようやくユトレヒト条約Utrechtで講和が成立し、(1)フェリペ五世には、 (仏西合邦をしないことを条件に)スペイン王位継承とアメリカ植民地の領有を認める。(2)フランスは、「ジェームズ三世」を追放し、以後イングランド王位継承に介入しない。(3)イングランドはフランスからアカディアとニューファンドランドNewfoundland、ハドソン湾を、スペインからジブラルタルとミノルカ島を獲得する。(4)フランスは、ルイ一四世の治世に獲得した領土を保持する。(5)イングランドは三〇年間という期限付きで西領アメリカ植民地へのアフリカ黒人奴隷の独占的供給権(アシエントasiento)を獲得する、などが決められた。また翌一四年三月六日には、ルイ一四世と神聖ローマ皇帝カール6世との間でラシュタット条約Rastattが結ばれ、オーストリアはシチリアを除くミラノ、ナポリ、サルデーニャなど西領イタリアと西領ネーデルラントを獲得した。なお、フランスと(プロイセンを除く)神聖ローマ帝国全体とのバーデン条約Baden(九月七日)は別途に締結され、一〇年以上に及んだスペイン継承戦争はついに終結した。註⑬

 

(三) ルイ一四世の宗教政策
 ルイ一四世の宗教政策は、王権の正統性の根拠を王権神授説に求め、教会組織を利用した統治を行ったことから、いきおい徹底した〈統制〉を目指すことになった。彼にとっては国家の正統信仰であるカトリックを守り異端を排除することは当然のことであり、伝統的なガリカニスム(フランス国家教会主義)Gallicanismeを強化するためには教皇権の干渉を排除することも不可避のことであった。ルイ一四世が即位した当時、フランス国内ではジャンセニスム派Jansenismeとイエズス会Societas Iesu(一五三四年創設)とが約三〇年間にわたって神学・道徳論争を繰り広げていた。そしてその一方では、カトリック教会と対立するユグノー派Huguenot(フランス改革派教会Eglise Réformée de France)が、一六二九年の「アレス王令」Alèsによって武装権を剥奪されながらも辛うじて勢力を維持していた。そこでルイ一四世は、 これら二つの問題を解決し、カトリック教とガリカニスムの関係に折り合いをつけようと考えたと思われる。
 まず初めにジャンセニスムであるが、その起源は神の恩寵の意味の絶対化と人間の非力さを強調した一六世期の神学者ミシェル・バイウスMichael Baius(一五一三~八九)に遡ると言われ、彼の考えにはカルヴァン主義の影響が認められる。その後、アウグスティヌスの恩寵論をもとに人間の自由意志の無力さ、 罪深さを説いたイープル司教コルネリウス・ヤンセンCornelius Jansen(一五八五~一六三八)の遺著『アウグスティヌス』《Augustinus;humanae naturae sanitate》(一六四〇年)が出版された。しかし、この大著はアウグスティヌスや聖パウロの引用や注釈で埋め尽くされており、 (ましてやラテン語で書かれていたために)直ちに評判になることはなかった。ところが、パリの南西二八キロに位置するシュヴルーズ谷Chevreuseに建てられたポール・ロワイヤル修道院Port-Royal-des-Champs(シトー会女子修道院)の教導者サン=シランSaint-Cyran(一五八一~一六四三、本名Jean Duvergier de Hauranne)が「宰相リシュリューの政治はキリスト教の教えに反する」と厳しく批判してヴァンセンヌ城Vincennesの牢獄に収監(一六三八~四三年)されたことで、かえって隠修士たちの関心を呼んだと言われている。そして、ポール・ロワイヤル修道院長アンジェリーク・アルノーAngélique Arnauldの兄アントアーヌ・アルノーAntoine rnauld(一六一二~九四)が『頻繁なる聖体拝領について』《De la Frequente Communion》(一六四三年)という小論を発表し、極めて重要な宗教的行為である聖体拝領を週に何度も行うべきでないと指摘したことが論争の引き金となった。人間の原罪の重大性と恩寵の必要性を強調するジャンセニストは、聖体拝領に際しての準備と祈りを重視したのである。
 それに対してイエズス会は、「もしわれわれに恩寵があれば、どんな生活をしていても救われるのだから、われわれの生き方が問題でなくなる恐れがある」と考え、ジャンセニストの主張は自由思想家(リベルタンlibertin)に与するものだと批判した。一方、ジャンセニスム派は「日常の善行に応じて永遠の生が取引されるわけではない」と再反論している。そして、ジャンセニストの敬虔で個人主義的な信仰や宗教的行為から生ずる「価値回復」の観念は、 ブルジョワ層が多数を占めつつあった高等法院の支持を集めていった。一方、 イエズス会を支持したのは(当然のことながら)教皇庁やパリ大学、フランス王権であり、 教皇インノケンティウス一〇世Innocentius X(在位一六四四~五五)は一六五三年の教皇勅書「クム・オッカジオーネ」において『アウグスティヌス』の中から抜き出した〈五つの命題〉(例えば「(五)キリストはすべての人のために死なれ、あるいは血を流し給うた、という主張は半ペラギウス的である」など)を使用してジャンセニスムを異端ととして断罪した。
 ところで、「人間は考える葦である」(『パンセ』 Pensee)という言葉で知られる近代物理学の先駆者パスカルBlaise Pascal(一六二三~六二)もジャンセニストである。彼は、妹ジャクリーヌが一六五二年にポール・ロワイヤル修道院の修道女となった後、自分でも一六五五年一月七日に隠修士となっている。しかし、翌年三月二四日、同修道院礼拝堂で起きた奇蹟(姪のマルグリット・ペリエが、キリスト像に載せられていた茨の冠に触れて眼病が治ったこと)が、ジャンセニストとしての確信をもたらしたと言われる。しかし一六六〇年、教皇アレクサンデル七世Alexander VII(在位一六五五~六七〉はパスカルの『田舎の友への手紙』《Les Provinciales》(一六五六年)を発禁処分とした。ルイ一四世はローマ教皇によるジャンセニスム迫害を利用して統制強化に努め、一六七九年五月一六日、聴罪神父、学生、修練女ら約四〇人をポール・ロワイヤル修道院から追放した。そこで身の危険を感じたアントアーヌ・アルノーは、西領ネーデルラントへと亡命している。その後、一八世紀に入ると、ジャンセニスムは新しい展開を見せる。一六世期にフィリッポ・ロモロ・ネリFilippo Romolo Neri(一五一五~九五)が創設したオラトリオ会oratorio(キリストへの愛徳によって結ばれた司祭と信徒の共同体)に属していたパスキエ・ケネルPasquier Quesnel(16三四~一七一九)が、ジャンセニスムをガリカニスムと結びつけたからである。ルイ一四世は一七〇九年、
ポール・ロワイヤル修道院の取り壊しを命じ、一三年には教皇クレメンス一一世Clemens XI(在位一七〇〇~二一)からジャンセニスムを断罪する教皇勅書「ウニゲニトゥス=デ=フィリウス」を引きだすことに成功したが、この教書の受け入れを拒否したパリ大司教ノアイユ枢機卿Noaillesら一五名の司教、ジャンセニスムに心理的同調を示す高等法院らの反対が続いた。そして、ルイ一四世は国民宗教会議の召集を一七一五年九月に予定していたが、自身の死によって開催できなかった(この計画は摂政のオルレアン公フィリップによって廃棄された)。また、国王の死とともに、バスティーユに収監されていた数百人のジャンセニストが解放され、代わりにイエズス会士が投獄されている。
 次にユグノー派の問題であるが、宰相リシュリューの時代、彼等に対する迫害は三十年戦争という外交上の理由によって和らいでいた。当時は、神聖ローマ帝国内のプロテスタント諸派やスウェーデン王国との同盟関係を維持するために、国内のユグノー派(カトリック教会は「偽改革派」RPR:Religion Prétendue Réforméeと呼んでいた)を敵に回すことは得策ではないと判断していたのである。しかし、一六四二~四三年にリシュリュー、ルイ一三世が相次いで亡くなると、ユグノー派を取り巻く環境は大きく変化した。宰相マザランは、イングランドとの和親通商及び軍事同盟(一六五五年、一六五七年)を締結した後に対ユグノー派政策を転換し、厳しい姿勢で臨むようになった。彼は一六五九年、ルーダンLoudunで開かれたユグノー派の全国教会会議を最後に全国会議開催を許可しないばかりか、外国人牧師(特にジュネーヴからの牧師)の招聘を禁じ、「ナントの勅令」に記されていない事項をすべて禁じたのである。
 そしてルイ一四世が親政を開始した一六六一年以降は、「国家の統一には宗教の統一が不可欠である」との信念から、ユグノー派への迫害を強化した。一六八二年二月三日に開催された聖職者会議ではボシュエ起草の「フランス聖職者宣言」四ヵ条(三月一九日公布)が発表され、公会議至上主義やガリカン派Gallicanの独立などが謳われたが、この前後からルイ一四世の宗教政策に変化が見られた。すなわち、従来のガリカニスム擁護から〈カトリック教会の守護者〉へと姿勢を転換し、教皇庁との結びつきを重視する姿勢に舵を切ったのである。具体的には大法官ル・テリエFrançois-Michel le Tellier、陸軍卿ルーヴォワLouvois父子の指揮の下、ユグノー派の家に竜騎兵dragoon(ドラグーン・マスケット〔小型のマスケット銃〕やカービン銃などで武装した騎兵)を宿泊させ、カトリックへ改宗を強制し始めた。ドラゴナードDragonard(竜騎兵による迫害)は熾烈を極め、ユグノー派の多くは家具やワイン、さらには娘への暴行という恐怖心から改宗を余儀なくされ、新教国への亡命者も続出した。彼等は大西洋沿岸の港から脱出し、プロテスタント諸国はその受け入れに大童となった。一六八五年五月に開始された第二次ドラゴナードでは、スペイン国境に近いベアルンBéarnからラングドックLanguedoc、ローヌ川流域、サントンジュ Saintongeへと拡大し、改革派教会の組織はほぼ壊滅状態に陥った。同年一〇月一八日、ルイ一四世は「フォンテーヌブロー王令」Édit de Fontainebleauを発することで「ナントの勅令」を破棄し、二二日にはパリ高等法院により承認された。主要条文の内容は次のとおりである(『西洋史料集成』四一六~四一七頁引用)。
第一条 余は、永遠にして廃棄されることのない本勅令により、一五九八年四月ナントにおいて発せら  
  れた、余の祖父たる王の勅令をすべての項目にわたり、また同時に、翌五月二日決定せられたる特別勅令及びそれに関する国王勅書、ならびに、一六二九年七月ニームにおいて発せられたる勅令を無効として廃棄する。(中略)それに伴い余は、余に服する王国内に存するすべての改革派教会堂は、直ちに壊さるべきことを命ずる。
 第二条 余は、改革派宗教に属する余の臣民が、いかなる場所または個人の住居におけるを問わず、また、   
  いかなる口実にもとづくによらず、改革派宗教の礼拝のために集会することは、これを認めない。
 第四条 改革派牧師にして、ローマ・カトリック教に改宗することを望まぬものはすべて、本勅令公布後二週間以内に、余に服する王国より退去すべし。なおその間、説教、訓戒、その他の職務は、一切これを行うことを得ず。これに反するものは、ガリー船の刑に処せらるべし。
 第八条 改革派信徒の子女については、爾後教区の司祭によって洗礼さるべきことを命ずる。
 第一〇条 改革派宗教に属するすべての余の臣民、及びその妻子の、余に服する王国より出国すること、 またその資産を国外に搬出することは、これを絶対に禁止する。これに反するものは男子はガリー船の刑、女子は身柄拘束、財産没収の処分を受くべし。註⑭
 フォンテーヌブロー王令が発せられた後、国境線と港の厳重な警戒網をかいくぐって国外に脱出したユグノーの数は、約二〇万人と推定されている。彼等の多くは、オランダ、イングランド、ドイツ北部、スイスなどへ逃れたが、この国外逃亡による労働力、技術、資産の流出は停滞していたフランス経済にさらなる打撃を与え、とりわけノルマンディ地方のカーンCaeやルーアンRouenなどではその影響が深刻であった。ルイ一四世の晩年は、相次ぐ戦争に伴う巨額の戦費支出、権威誇示のためのヴェルサイユ宮殿造営などで国家財政が逼迫していたが、フランス商工業の担い手であったユグノー派の逃亡は財政破綻をもたらす要因の一つとなった。一方、国内に残ったユグノーの多くは「改宗者」としてカトリックに帰依せざるを得なかったが、ラングドック、セヴェンヌ山脈Cévennes、ドーフィネDauphiné、ヴィヴァレVivaraisなどでは棄教を拒否して闘う抵抗運動が続いた(「砂漠の時代」)。特にセヴェンヌ地方ではユグノー派農民が信教の自由を求めて蜂起し、その指揮官カヴァリエJean Cavalier(一六八一~一七四〇)が遺した回想記『カミザール戦争の記録』は彼等の戦いぶりを見事に活写している。しかし、ユグノー派にとってはこのカミザールの乱La guerre des Camisards(一七〇二~〇五年、セヴェンヌ戦争La guerre des Cévennes)こそが最後の抵抗の場となった。
 ところで、「ナントの勅令」廃止は、フランス国内にルイ一四世を讃える賛辞を巻き起こし、セヴィニエ侯爵夫人(マリー・ド・ラビュタン=シャンタルMarie de Rabutin-Chantal, marquise de Sévigné、一六二六~九六)は「いまだかつて、そしていまより後もいかなる王もこれほどすばらしいことはできないでしょう」と述べている。しかし、外交的には思ったほどの成果を上げることは出来なかった。当時の教皇インノケンティウス一一世Innocentius XI(在位一六七六~八九)は「四カ条宣言」を承認したパリの聖職者会議を非難し、この会議に出席した新司教の叙階を拒否したため、一六八八年一月にはフランス国内の三三の司教座が空位となった。ルイ一四世は反教皇の動きを模索したが、同年一一月、イングランドにおいて名誉革命が勃発したために、ローマに対する姿勢を転換させた。一六九三年九月、ルイ一四世はやむなく「四カ条宣言」を取り消し、新教皇インノケンティウス一二世Innocentius XII(在位一六九一~一七〇〇)はそれに応えて(先に拒否した)叙階を執り行い、国王による司教区収入管轄権を全国的に認めている。また、フォンテーヌブロー王令の報せを受けたカトリック諸国の君主たちは慣例通りの祝福を寄せたものの、対フランス外交に特段の変化は見られなかった。註⑮

 

 (四) ヴェルサイユ宮殿と宮廷文化
 一八世期フランスを代表する啓蒙思想家ヴォルテールは、親政が開始された一六六一年以降を「ルイ一四世の世紀」と賞賛した。この「偉大な世紀」《Grand siècle》は、コルネイユPierre Corneille(一六〇六~八四)やラシーヌJean Baptiste Racine(一六三九~九九)、モリエールMolière(一六二二~七三)がフランス古典主義の栄光の座に君臨し、ヴェルサイユの饗宴が全国に放射された時代であった。しかし、それは太陽王ルイ一四世を中心とする王侯貴族の文化が〈権威〉を帯びて押しつけてくる〈秩序化〉の時代でもあり、整然と規則化された生活様式、芸術、学問に見られるように「統制された文化」を特徴としている。すなわち、ルイ一四世の時代には、今日的な意味での文学や芸術、あるいはより広く「文化」と呼ばれるようなものは存在せず、特定の誰かに仕えるという人的束縛から脱出できないでいた。
 しかしそれは、絶対王権側が聖職者とは異なる新しいタイプの世俗的知識人を養成し、彼等の仕事を介して絶対王政という秩序を定着させるための努力をしていたと言うことでもある。彼等は一七世紀初めに誕生したアカデミーacadémieに着目し、一六三五年、宰相リシュリューは詩人ヴァランタン・コンラール Valentin Conrart のまわりに集まっていた私的グループを国家として公認し、アカデミー・フランセーズl'Académie françaiseを立ち上げた。その使命は、フランス語を〈国家〉nationの構成員(すなわち宮廷社会を構成する高位聖職者、宮廷貴族、有力ブルジョワ)の言語として練り上げることを通して、〈民衆〉(平民)personnesとの区別を明確化することにあった。もちろん、国家的制度化の対象となったのは言語だけではなく、ルイ一四世期の財務長官(後に財務総監)コルベールはアカデミー・フランセーズを改組して、官製芸術を定めるべき芸術アカデミーAcadémie des Beaux-Arts(一六四八年絵画彫刻アカデミー、一六六三年碑文・文芸アカデミー、一六六九年王立音楽アカデミー、一六七一年王立建築アカデミー)と科学アカデミーAcadémie des sciences(一六六六年)を創設して役割を拡大した。
 なお、他の芸術分野と異なり、演劇アカデミーは作られなかったが、実質的には国家が演劇を独占・統制していた。例えば、ルイ一四世と劇作家モリエールの密接な関係は、一六五八年、笑劇『恋する博士』を観劇したことに始まり、ルイ一四世はモリエールにパリ滞留を命じてプティ・ブルボン劇場の使用を許可するとともに、モリエール劇団に(ブルゴーニュ座Théâtre de l'Hôtel de Bourgogneと同じく)「王弟殿下専属劇団」の地位を保証した。また一六六三年からは一〇〇〇リーヴルの年金・賞与を与えてモリエールが優れた文芸家であることを証明し、翌年にはモリエールの息子ルイ・ポークランの洗礼の代父を務めるほどであった。一六七三年、そのモリエールが亡くなると、ルイ一四世はオペラ上演に相応しい劇場を探していた宮廷楽長リュリJean-Baptiste de Lully(一六三二~八七)にモリエールが本拠地としていたパレ・ロワイヤル劇場を提供し、一六八〇年一〇月二一日にはゲネゴー座Théâtre Guénégaud(一六七三年、マレー座Théâtre du Maraisとモリエール座が合併)とブルゴーニュ座の合併を命じて王権直属の劇団コメディー・フランセーズComédie-Françaiseを誕生させた。またコルベールは、早くも一六六三年に創設した小アカデミーに知的活動全般を取り仕切る最高指導機関としての性格を与えており、その後に誕生したさまざまなアカデミーは小アカデミーの管理下に置かれた。その結果、「ルイ一四世の親政の最初の四年間のうちにコルベールの側近で練り上げられた計画は、技芸を王権国家に奉仕させることを狙いとしている。採用されたプロパガンダの主題は〈王の偉業〉であった」(アポストリデスJean-Marie Apostolidès )。このように、一七世紀の絶対王政確立期は、国家アカデミーの設立を通して王権が文化を独占し、 文芸や技芸を君主の栄光と国家を構成する少数者の利益に奉仕するための道具に変容させる過程でもあったのである。 
 そして〈王の偉業〉の実現には、ヴェルサイユ宮殿に代表される建築の果たした役割も大きい。ルイ一四世は、 フランス王家の「移動する宮廷」という伝統に従ってフォンテーヌブロー宮(一六六一年)、ルーヴル宮(一六六二~六六年)、サン・ジェルマン・アン・レー宮(一六六六~七三年、一六七六年、一六七八~八一年)などを転々と移動していたが、一六八二年に王宮をヴェルサイユに遷した。そもそもヴェルサイユ宮殿は、一六二三年、当時の国王ルイ一三世がパリ大司教から領地を購入し、翌年、建設長官ジュアン・ド・フルシJuan de Hulusiに命じて「館」(狩り小屋)を建設させたことに始まる。その後、一六三一~三四年に建築家フィリベール・ル・ロワPhilibert Le-Roによって拡張工事が続けられ、次の国王ルイ一四世がヴェルサイユと関わるようになるのは 親政を開始した一六六一年以降のことである。この年、ルイ一四世は財務卿フーケのヴォー・ル・ヴィコント城Château de Vaux-le-Vicomteを見たことが、彼を失脚させる原因となった。一七世紀バロック建築の先駆けとなったこの城は、建築家ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vau、画家シャルル・ル・ブランCharles Le Brun、造園家アンドレ・ル・ノートルAndré Le Nôtreを招いて建設にあたらせたが、国王の宮殿に優るとも劣らない豪華な造りはルイ一四世の不興を買った。ルイ・ル・ヴォー等はそのままヴェルサイユ宮殿の建設に転じることとなったのである。ただし、ヴェルサイユの地は水利が悪く、工事も難航したために一六六八年には一度計画の練り直しを迫られ、ようやく一応の完成を見て王宮移転の運びとなったのは一六八二年のことであった。その間、一六八〇年にはセーヌ左岸に設置された巨大揚水装置「マルリーの機械」Machine de Marly(直径一一・六九メートルの水車一四輪とポンプ二〇〇台)で高さ一五四メートルのマルリーの丘まで水を汲み上げ、そこから水道橋でヴェルサイユ宮殿まで水を引いた(一六八八年竣工)。ヴェルサイユ宮殿の噴水群は、こうした工夫の成果なのである。また、 アンドレ・ル・ノートル設計の庭園は、地形的変化に富み、立体的な空間表現を主体としたイタリア式庭園とは異なり、平坦で広大な敷地に軸線(ビスタvista)を設定しての左右対称性、幾何学的な池の配置や植栽の人工的整形などを特徴としており、一七~一八世紀に発達したフランス式庭園Jardin françaisの特徴を見て取ることが出来る。
 一六八二年五月六日、ルイ一四世は古典様式とバロック様式を合体させたヴェルサイユ宮殿に王宮を遷し、貴族たちを宮殿の内部またはその周辺に住まわせることによって、廷臣や官吏ばかりでなく、多くの外国使節、請願者、出入り業者などがひしめく特異な世界をつくり上げた。彼は「官僚王」Rois ureaucratieと揶揄されるほど政務に精励し、治世末期には九〇〇名を超える国王秘書官(スクレテール・デュ・ロアsecrétaire du roi)に対してそれぞれ別個に課した職務を履行させ、直接国王に報告して指示を仰ぐよう命令したと言われる。ルイ一四世はまた、宮廷内における序列や礼儀作法を厳格に定めて貴族たちに遵守させ、同時に国王から下賜される栄誉や年金を競わせることで貴族たちがヴェルサイユ宮殿にほぼ常駐するように仕向け、彼等を監視下においたのである。彼はまたフランス王家の伝統であった公式晩餐(グラン・クヴェールGrand couvert)を死の直前まで欠かさず行うなど、起床から就寝までの宮廷生活を細部まで「儀式」と化し、複雑な礼儀作法を定めて宮廷礼式を遵守させたとも言われる。
 そしてヴェルサイユに花開いた宮廷文化の世界をさらに華やかなものにしたのが、美しい女性たちである。ルイ一四世にはスペイン王室から迎えた王妃マリ・テレーズ・ドートリッシュ (一六三八~八三)がいたが、ルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールFrançoise Louise de La Baume Le Blanc(一六四四~一七一〇、ラ・ヴァリエール女公爵Duchesse de La Vallière、ヴォージュール女公爵Duchesse de Vaujours)、モンテスパン侯爵夫人Françoise Athénaïs de Mortemart, marquise de Montespan(一六四〇~一七〇七)、フォンタンジュ公爵夫人Duchesse de Fontanges(一六六一~八一)など多くの女性たちを愛妾とし、マントノン侯爵夫人Françoise d'Aubigné, Marquise de Maintenon(一六三五~一七一九)とは秘密結婚をしている。註⑯
 しかし、相次ぐ戦争とヴェルサイユ宮殿建設に代表される〈王の偉業〉は、 深刻な財政困難を引き起こした。そこで王権はついに特権層への課税に踏み切り、一六九五年一月には国内の全住民が実際の収入金額とは全く関係なく、職業と地位に応じて二二の階層に区分され、区分ごとに納税額を定める「カピタシオン」capitationという新しい直接税を創設した(第一階層は王太子・最高国務会議メンバー・総括徴税請負人fermier généralなどで二〇〇〇リーヴル、最下位の第二二階層は兵士・日雇い・徒弟などで一リーヴル)。この新税は年間二一〇〇~二三〇〇万リーヴルの増収をもたらしたが、一六九七年、プファルツ継承戦争の終結とともに一旦廃止された。しかし、スペイン継承戦争に備えて一七〇一年三月に再び設けられ、今度は直接税タイユの納税者に関してはその付加税として徴収し、 タイユ免除者については職業に応じてさまざまな徴収方法が採用されたため、特権層に対する課税という性格が薄らいだままフランス革命勃発まで続いた。また、スペイン継承戦争が戦われていた一七〇九~一〇年にはヨーロッパを寒波と飢饉が襲い、これに対応するために一七一〇年一〇月、王権は(ごく少額の賃金を除いて)あらゆる収入の十分の一を徴収する「ディジエーム」dixième(十分の一税)を課税し、官職保有者については俸給から天引きし、その他の職業の場合は納税者に申告を義務づけた(ディジエームは一七一七年に一旦廃止された後、 一七三三年一〇月に復活した)。しかし、一七〇一年以降のカピタシオン税の場合は地方長官が在地貴族の協力を得て貴族の税額を査定したため不当に低く決定することが多く、地方三部会や都市は王権との間で一括納入契約を結ぶことで課税を免除された(聖職者は納税義務がなかった)。また、ディジエーム税の場合も、地方三部会・都市・フィナンシエなどの特権団体は上納金支払いや一括納入契約によって課税を免れ、聖職者は上納金八〇〇万リーヴルと引き換えに免税特権を得ていた。その結果、ルイ一四世の治世末年には歳入六九〇〇万リーヴルに対して、三四億六〇〇〇万リーヴルもの負債を抱える破綻国家になっていたのである。註⑰
 その間、王室内では不幸が続き、ルイ一四世の嫡出子のなかで唯一成年に達した王太子ルイLouis de France(Dauphin Louis 一六六一~一七一一)が一七一一年四月一四日に、そして翌年二月一八日には彼の長男ブルゴーニュ公ルイLouis, duc de Bourgogne(一六八二~一七一二)が亡くなっている。次男フィリップは既に西王フェリペ五世となっていたため、三男ルイ(後のルイ一五世 一七一〇~七四)が王太子となった。スペイン継承戦争が終わって間もない一七一五年九月一日、ルイ一四世は波乱に富んだ生涯を閉じ、 遺体はフランス王室の慣例に従ってサン=ドニ大聖堂に埋葬された(享年七六歳)。そして、 国際的秩序の原則が、従来の王室間の利害から国民経済の形成を背景とする国家的利害へと流れを変えたのが、他ならぬルイ一四世の死であった。註⑱  

 

註① 一五九四年にパリ高等法院がイエズス会を国外追放処分としたのは、直接的には国王暗殺未遂事件が原因であるが、その背景には一三~一四世紀以来続いてきたガリカニスムGallicanismeの伝統がある。ローマ=カトリック教世界におけるフランス教会(ガリカン教会)の独立性を主張し、フランス王権への服従を唱えるこの理念は、法学者によって理論的支柱を与えられ、高等法院はその守り手を自負していたのである。一五一六年、仏王フランソワ一世が教皇レオ一〇世と結んだボローニャ政教協約によれば、フランス国内の大司教、司教、修道院院長など高級聖職者の任命にあたっては王が候補者を指名し、教皇が叙階すると定め、ガリカニスムの伝統をより強固なものとしていた。一六世紀に発生した宗教改革の嵐を受けて開催されたトリエント公会議(一五四五~六三年)では教皇権至上主義(ユルトラ・モンタニスムultramontanism)が確認されたが、フランス王権と教会がこれを正式に受容したのは一六一五年のことである。アンリ四世がイエズス会のフランス復帰を許したのは一六〇三3年のことで、一六〇八年にはイエズス会士ピエール・コトン神父Pierre Cotonを自らの聴罪司祭としている。なお、一五九八年の調査では、改革派教会はフランス全土で七五九、牧師は八〇〇名を数えていることから、ユグノーは約一二五万人、人口の約一割を占めていたと推定されている。
  拙稿「フランス・プロテスタントの反乱」(水戸一高『紀要』第五三号)、髙澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』)所収第三論文一四三~一五一頁参照
註② フランスの売官制は、一四八三年、財務官職の売官から開始され、やがて行政、司法、軍務などの官職に拡大していった。一六〇四年のポーレット法制定で官職の転売・相続が可能となり、保有官職(オフィスoffice)は報酬あるいは謝礼や賄賂として利用されるようになり、官職保有者(オフィシエofficier)は社会的信用や上流社会の人間としての箔を付けようとした。そのため、保有官職は投資の対象となり、商工業ブルジョワは競って購入した。一五一五年頃の官職保有者は約五〇〇〇人くらいと思われるが、一六一〇年代の約二万五〇〇〇人、一六四〇年代の約四万六〇〇〇人を経て、一六六一年当時は約五万人弱に急増している。とりわけ、高等法院評議官のような上級官職の保有者には「貴族」の資格が与えられたため、富裕者は眼の色を変えてより上級の官職を入手しようとしたのである。その結果、貴族階層には、中世以来の家門や血統を原理とする伝統的な「帯剣貴族」だけでなく、官職保有によって貴族に叙せられた「法服貴族」が現れた。もっとも後者は、鉱山開発や海上交易などの特例を除いて商工業に従事していることが判明すると、貴族資格を剥奪された。やがて多くのブルジョワが官職を購入して国王役人となった結果、国王の官僚統制が可能となり、支配領域の拡大に伴う統治組織の拡充も実現できた。 柴田三千雄『フランス史一〇講』(岩波新書)八八~九二頁、高澤紀恵前掲論文一七二頁各参照
註③ 髙澤紀恵前掲論文一四三~一五一頁、林田伸一「近世のフランス」(福井憲彦編『新版世界各国史⒓ フラ    
 ンス史』所収第四論文)一七二~一七五頁各参照。一七世紀前半、地方財務官trésoriers de France・管区徴税吏élusを中核とする直轄財務機構が整備されたエレクシオン地域は、パリ、アミアン、ボルドー、ブールジュ、 シャロン、リモージュ、リヨン、モントーバン、ムーラン、オルレアン、ポワティエ、リオン、ソワソン、トゥール、ルーアン、カーン、アランソン、ディジョン、グルノーブルという早くから王権に支配されてきた地方で、大部分は対人タイユtaille personelleの形で徴収された。それに対してブルターニュ、ラングドック、プロヴァンス、ベアルンなどの周辺部は地方三部会地域となっており、直接税の割当・徴収は地方三部会の協賛・承認を経て行われ、対物タイユ(地租)taille réelleの形で徴収された。千葉治男「フランス絶対王政の官僚機構」(『岩波講座世界歴史⒖ 近代2』所収第四論文二四二~二六九頁各参照
註④ 林田伸一「近世のフランス」一四四~二三八頁、阿河雄二郎「絶対王政成立期のフランス」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』)所収第四論文一五三~一九九頁各参照
註⑤ 一六一〇年一〇月二一日、ルイ一三世はランス郊外のコルべニー施療院corbenyに赴き、聖別された国王の初仕事として聖マルクー修道院前に集合した瘰癧scrofulae, ecrouelles(結核性のリンパ腺炎ないし皮膚疾患)患者約九〇〇人に触れ、二七日にはパリにおいて勇壮な「国王の入市式」が挙行された。なお、当時の有力貴族は、王位をも狙う王族(国王アンリ四世の庶出子ヴァンドーム公セザール、親族のコンデ親王アンリ)、ユグノー戦争期にカトリック同盟の領袖であったギーズ公、ポリティーク派に転じたモンモランシ公、ヌヴェール公などの名門大貴族、アンリ三世の寵臣から台頭したエペルノン公、ベルガルド公などの新興大貴族に大別されたが、いずれも宮廷官職のほか、地方総督、都市総督など国王の代理人として地方全体を統括する官職を求めた。一六一〇年代を例にとれば、ヴァンドーム公はブルターニュ、コンデ親王はギュイエンヌ、ギーズ公はプロヴァンス、モンモランシ公はラングドック、ヌヴェール公はシャンパーニュ、ベルガルド公はブルゴーニュ、ロングヴィル公はピカルディの地方総督を務めていた。 拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)、髙澤紀恵前掲論文一四三~一五一頁各参照
註⑥ 阿河雄二郎前掲論文一五三~一九九頁参照
註⑦ 拙稿「フランス・プロテスタントの反乱」四〇~四一頁参照
註⑧ マザランの寵臣ニコラ・フーケ(一六一五~八〇)は、大蔵卿の地位を利用して私財を蓄え、自分の地所にヴォー・ル・ヴィコント城を建設した。後任の大蔵卿コルベールからフーケに関する報告を受けた国王ルイ一四世は、一六六一年に逮捕・投獄を命じた。三年後、国外追放の判決が下ったが、ルイ一四世は納得せず「終身刑」に改めた。一六六五年、フーケはピネローロ要塞Pinerolo(ピエモンテ地方)に送られ、一六八〇年三月に亡くなった。
註⑨ 王母マリ・ド・メディシス(一五七五~一六四二)は、一六二二年以降、フランドルの画家ルーベンスPeter Poul Rubensに二四点もの肖像画を描かせたが、一六四二年七月三日、彼がかつて所有していたケルンの屋敷で逝去した。
問⑩ 阿河雄二郎前掲論文一六五~一九九頁、近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史⒗ 主権国家と啓蒙』所収第一論文)四九~六五頁、柴田三千雄「フランス絶対王政の特質」(『岩波講座世界歴史⒖ 近代2』所収第四論文二〇三~二一七頁各参照
註⑪ 阿河雄二郎前掲論文一八一~一九九頁、林田伸一「最盛期の絶対王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』)所収第五論文二〇一~二二一頁、同「近世のフランス」一四四~二三八頁、柴田三千雄前掲書七六~九二頁各参照
註⑫ 林田伸一「最盛期の絶対王政」二二一~二三〇頁参照
註⑬ 林田伸一「最盛期の絶対王政」二二一~二三〇頁、今井宏編『世界歴史大系 イギリス史2 近世』二五一~二七七頁各参照
註⑭ 「フォンテーヌブロー王令」は『西洋史料集成』四一六~四一七頁より引用。なお、条文中の「一六二九年七月ニームにおいて発せられたる勅令」はアレス王令、「ガリー船の刑」はガレー船漕奴刑のことである。
註⑮ 林田伸一「最盛期の絶対王政」二〇一~二四四頁、今野國雄「絶対王政下のキリスト教」(半田元夫・今野圀雄『世界宗教史叢書2 キリスト教史Ⅱ』所収第六論文)二一二~二四一頁、Georges Duby, Robert Mandrou, HISTOIRE DE LA CIVILISATION FRANCAISE Tome II ジョルジュ・デュビィ、ロベール・マンドルー著『フランス文化史2』一五四~一六一頁、Jean Cavalier, Mémoires sur la guerre des Camisards, Traduction et notes par Frank Puaux, Paris, Payot, 1918.カヴァリエ著『フランス・プロテスタントの反乱 カミザール戦争の記録』各参照。
註⑯ 親政を開始したばかりの頃のルイ一四世は、王弟オルレアン公フィリップの妃アンリエット・ダングルテールHenriette d'Angleterr(一六四四~七〇)を愛していたと言われるが、そのスキャンダルを救ったのがルイーズ・ド・ラ・ヴァリエールである(子どもが三人生まれたが、国王の寵愛がモンテスパン侯爵夫人に移ると一六七四年、修道院に入る)。モンテスパン侯爵夫人には〈陶器のトリアノン宮〉が与えられ、彼女は八人の子を産み、宮廷内に君臨した。しかし、一六七九年、モンパスパン侯爵夫人がキリスト教を冒瀆する黒ミサ事件に連座した咎で修道院入りすると、国王の気持ちはフォンタンジュ公爵夫人に移った。彼女も子どもを一人出産するが、国王の寵愛がマントノン侯爵夫人に移ったこともあり、修道院に入ってまもなく死去した。一六八三年七月三〇日、王妃マリ・テレーズ・ドートリッシュがこの世を去ると、一〇月上旬ルイ一四世はマントノン侯爵夫人と(身分が違うために)秘密結婚をした。この後、ルイ一四世の女性遍歴は止んだと言われる。
  なお、ヴェルサイユ宮殿に集う王侯貴族の服装は、まさにバロック様式の〈形式主義〉に添うものであった。男性は螺旋状にカールした長い髪を垂らす「アロンジュ鬘」allongeをかぶり、大きな袖のついた長い胴着で、足元はハイヒールという出で立ちであった。また女性の髪型は「キャベツ巻き」(巻き毛を頭の周りに波立たせる髪型)に花を挿すことが流行していたが、一七世紀に入るとフォンタンジュ公爵夫人の名前がついた「フォンタンジュ結び」(針金を使用して六〇センチくらい持ち上げた髪をリボンやレースで留め、小さな蝶結びで飾りをつける髪型)に取って代わられた。また、男女共通の美顔法に美斑(付け黒子)があり、体臭を消すためには香水が使用された。青木英夫『西洋化粧文化史』六三~七一頁参照
註⑰ 増税は必ずしも民衆蜂起と直結するわけではない。確かにルイ一四世治世前半は一六六二年、ブーロネ地方の貧民戦争、一六六四年ガスコーニュ地方の反塩税一揆、一六七〇年ヴィヴァレ地方(北部ラングドック)の反王税蜂起、一六七五年ブルターニュ地方を中心とする印紙税一揆などの民衆蜂起が頻発したが、その後は大規模な蜂起がほとんど発生していない。その理由としては、王権と地方名望家層との関係が緊密化したことが指摘されている。なお、一七世紀以降の飢饉は一六三〇~三一年、四八~五二年、六一~六二年、九三~九四年、一七〇九~一〇年に発生している。林田伸一「最盛期の絶対王政」二三六~二三七頁、同「近世のフランス」一九〇~一九二頁、二宮浩之「フランス絶対王政の領域的・人口的基礎」((『岩波講座世界歴史⒖ 近代2』所収第四論文二一八~二四一頁各参照
註⑱ 水林章「ドン・ジュアンの埋葬」三七~八四頁、Jean-Marie Apostolidès, Le Roi-mashine : Spectacle et politique au temps de Louis XIV, Editions de Minuit, 1981, p.24. アポストリデス「犠牲に供された君主 ルイ一四世治下の演劇と政治 」、竹中幸史「ヴェルサイユの光と影」(杉本淑彦・竹中幸史編著『教養のフランス近現代史』所収)九~十七頁各参照。

 

【ヴェルサイユ宮殿関連年表】
一六二三 ルイ一三世、パリ大司教が領有していたヴェルサイユVersaillesを購入し、建設長官ジュアン・ド・フルシJuan de Hulusiに命じて「館」(狩り小屋)建設に着手
一六二四 「館」完成。館の周囲をめぐらす濠の工事開始。
一六二九 館近くにジュ・ド・ポーム場jeu de paume(テニスの先駆となったスポーツの施設)を二箇所建設
一六三一~三四 ヴェルサイユ宮拡張工事(建築家フィリベール・ル・ロワPhilibert Le-Roy)
一六五九 ルイ一四世、スペイン王女マリ=テレーズと結婚
一六五九~六六 テュイルリー宮Palais du Tuileriesの増改築工事(パリ1区)
一六六〇 ルーヴル宮Palais du Louvreの増改築開始(パリ一区)
一六六一 ルイ一四世、財務卿ニコラ・フーケNicolas Fouquetのヴォ・ル・ヴィコント城の豪華さに衝撃。
   ヴェルサイユ宮殿の改築・拡大に着手(~一六七〇)。建築家ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vauが担当(1670  
   年以降はフランソワ・ドベルFrançois Dobbelsが継承)。庭園はアンドレ・ル・ノートルAndré Le Nôtre、室内装飾はシャルル・ル・ブランCharles Le Brunが担当。  
一六六四 ヴェルサイユ祭典 モリエール『タルチュフ』初演。
一六六八 ヴェルサイユ宮殿の大拡張計画と政府機能移転を決定。王室建築家ルイ・ル・ヴォーLouis Le Vau と建築長官ジャン=バティスト・コルベールJean-Baptiste Colbertが大改築案を検討。
   大トリアノンGrand Trianonの大運河Grand Canalの第二期工事開始(アンドレ・ル・ノートル)。
一六六九~七〇 愛妾モンテスパン夫人Madame de Montespan(モンテスパン侯爵夫人フランソワーズ・アテナイス・ドゥ・モルトゥマールFrançoise Athénaïs de Mortemar, marquise de Montespan、本名Françoise Athénaïs de Rochechouart de Mortemart、1640~1707)のために〈陶器のトリアノン宮〉建設
一六七〇 ヴェルサイユ宮〈大トリアノン宮〉le Grand Trianon、使用開始
一六七一 画家・室内装飾家シャルル・ル・ブランCharles Le Brunの指揮で〈王の大広間〉Grands Appartementsの装飾工事開始(~一六八一年)。
一六七八 建築家マンサールJules Hardouin-Mansart、大工事総監督に就任し〈鏡の間〉Galerie des Glaces建設着手(一六八五年竣工)。〈鏡の間〉天井の絵はシャルル・ル・ブラン担当。
一六八二 ルーブル宮からヴェルサイユ宮殿に王宮移転(遷都)
一六八四 巨大揚水装置「マルリーの機械」Machine de Marly完成
一六八五 ルイ一四世、マントノン夫人Madame de Maintenon(マントノン侯爵夫人フランソワーズ・ドービニェFrançoise d'Aubigné, Marquise de Maintenon、1635~1719)と秘密結婚。
一六八七 〈陶器のトリアノン宮〉取り壊し。マンサールと義兄ロベール・ド・コットRobert de Cotte、〈大理石のトリアノン宮(大トリアノン)〉Grand Trianon改築(~一六八八年)。一六九一年、モンテスパン夫人、宮廷を退く(一七〇七年死去)
一七〇一 〈王の寝室〉chambre de Roiと控えの間〈牛眼の間〉Salon de l'œil de bœuf」完成
一七〇二 ヴェルサイユ宮殿大改装工事開始(一七一〇年礼拝堂竣工)
一七一五 ルイ一四世、ヴェルサイユ宮殿で逝去(享年七六歳)
一七一七 ロシア皇帝ピョートル一世、 ヴェルサイユ宮殿訪問
一七二二 七年間の空白の後、宮廷がヴェルサイユに帰還
一七二五 ルイ一五世、ポーランド王女マリア=レシツィンスカと結婚
一七三六〈ヘラクレスの間〉Salon d'Hercule完成
一七四一 ルイ一五世、〈トリアノン宮〉を王妃に贈る
一七四五 ポンパドゥール侯爵夫人Madame de Pompadour(Jeanne-Antoinette Poisson, marquise de Pompadour, 1721~64)、ルイ一五世の愛妾となる
一七四八〈観劇の間(オペラ劇場)〉着工。ポンパドゥール夫人の〈田舎家〉建設。 
一七五七 国王ルイ一五世暗殺未遂事件
一七六二 ポンパドゥール夫人のために〈トリアノン宮〉建設開始
一七六四 ポンパドゥール夫人、ヴェルサイユ宮殿で死去。
一七六八 王妃マリ・レグランスカMarie Leszozynska(1703~68)死去。デュ・バリー伯爵夫人Madame du Barry(本名Marie-Jeanne Bécu, 1743~93)、ルイ一五世の愛妾となる。
一七七〇〈観劇の間〉〈小トリアノン宮〉完成。
   ヴェルサイユ宮殿で王太子ルイとオーストリア大公女マリ=アントワネットが結婚。
一七七四 ルイ一五世逝去(享年六四歳)。ルイ一六世、〈小トリアノン宮〉を王妃に贈る。
一七七七 オーストリア大公ヨーゼフ二世、隠密でヴェルサイユ訪問
一七八三 小トリアノンに王妃のための〈小村〉建設
一七八五〈王妃の首飾り〉事件
一七八九 全国三部会États généraux召集。
フランス革命勃発。ヴェルサイユ行進La Marche des Femmes sur Versailles
   国王一家をテュイルリー宮殿へ連行。議会の機能もパリに移動。
*クリストファー・ヒバートChristopher Hibbert編「ベルサイユ宮殿歴史年表」(『ランドマーク世界史6 ベルサイユ宮殿』一六二~一六三頁)を参考にして作成
 *本文中のヴェルサイユ宮殿に関係する写真は、 すべて筆者が一九七九年夏に撮影したものである。

第二節 アンシャン・レジームの終焉                                                        
 (一) はじめに
フランス革命前の旧体制を「アンシャン・レジーム」Ancien régimeという。したがって、 アンシャン・レジームという用語は、 フランス革命との対比の中で定義されることになる。そして、 フランス絶対王政の象徴とされる国王ルイ一四世の時代が過ぎた一八世紀のフランス王国は、まさに革命前のアンシャン・レジーム期に相当する。その当時の西ヨーロッパ各国は、前世紀の不況(「危機の一七世紀」)を克服し、大西洋経済が大きく発展していた。とりわけ一七三〇年以降は好況期に突入し、農業・工業ともに生産が上昇に転じて、それらの価格も長期的な上昇傾向を示し始めた。景気の好転は貿易の動向にも顕著に表れて輸出入ともに増大し、世紀半ばまで急成長を遂げている。また、経済成長は人口の増加をもたらし、ヨーロッパ全体を苦しみのどん底に陥れたペストもマルセイユにおける流行(一七二〇年)を最後に跡絶えたため、フランスの人口も一八世紀初頭の約二一〇〇万人から同世紀末の約二八〇〇万人へと急増している。アンシャン・レジーム期の人口は、(正確な統計があるわけではないので、あくまで推定でしかないが)中世以来続いてきた身分制社会の中で第一身分(聖職者)が約一三万人、 第二身分(貴族)が約四〇万人で特権身分全体で約五三万人であるのに対して、第三身分(平民)は農民約二一五〇万人、市民約四五〇万人で全体では約二六〇〇万人程度だったと推定されている。
しかし、一八世紀フランス社会をもう少し注視してみると、一六世紀後半の宗教戦争期以降に広がりを見せてきた「売官制」vénalité de officesが、身分制度を大きく揺るがしていたことが分かる。「民衆」と呼ばれる社会的階層から何らかの成功を収めて「ブルジョワ」に上昇した人々は、経済的富裕度の違いだけではなく、民衆とは同じ食卓に着かないなどの社会的区別や生活様式の違いをもつ都市の「正規の住民」となり、市政参加権とか民兵や自警団をつくる際の参加権を獲得していた。彼等の中でも最上層ブルジョワに相当する金融業者などは蓄えた資産を官職の購入に投資し、先ずは値段の安い税務、徴税の官職から始まり、次は行政、そして司法、裁判の官職と買い換えを繰り返し、最後にその職を持てば貴族身分になれるという官職を購入したとき、その家はブルジョワを抜け出して「貴族」身分にたどり着けたのである。こうして富裕化したブルジョワが頻繁に貴族として叙任されるようになり、その一方で貴族による経営投資も拡大の一途をたどっていたため、結果として両者の「社会的混交」が進んだのもこの時期のことである。しかし、ブルジョワ間の社会的上昇競争が過熱化すると、数に限りのある「貴族」の身分をめぐって(イギリスの歴史家コリン・ルーカスColin Renshaw Lucasが指摘したように)フラストレーションが起こり、社会のいたるところに「ストレス・ゾーン」が生まれてきた。
一七一五年九月一日、フランス王国ではルイ一四世が崩御し、後を継いだ曾孫アンジュー公ルイはわずか五歳の幼児であった。彼はブルボン朝第四代国王ルイ一五世Louis XV(在位一七一五~七四)として即位したが、幼い国王に代わって政務を取り仕切ったのは、先王の甥にあたるオルレアン公フィリップPhilippe II(一六七四~一七二三)である。彼はパレ・ロワイヤルに居館を定め、ルイ一五世をテュイルリー宮殿に住まわせたため、政治の中心はヴェルサイユ宮殿からパリ市内へと戻ってきた。その結果、 パレ・ロワイヤルやリュクサンブール宮殿(オルレアン公の娘であるベリー公妃の居館)などは社交場としての華やかさを取り戻したと言われる。当時パレ・ロワイヤルの地続きの一角に建っていたオペラ座では頻繁に仮面舞踏会が催され、名門貴族やブルジョワたちが仮面の下に身分を隠して享楽に酔いしれた。格式と序列を重んじるヴェルサイユ宮廷社会とは対極的な世界が誕生し、 新しい「金の力」が社会を揺り動かしていたが、旧制度(アンシャン・レジーム)を根底から破壊するのは容易ではなく、そこにはストレスゾーンに発生した摩擦熱が燃え焦げる炎に変化しようとしていた。また、 大西洋沿岸部と内陸部・地中海沿岸部との地域間格差も拡大し、フランス社会全体に新たな危機が忍び寄っていたのである。
さて、長年、フランス革命の研究に打ち込まれた柴田三千雄氏は著書『フランス革命』(岩波セミナーブックス30)の中で、革命が起こる条件として「第一は、既存の支配体制の統合力が破綻すること、 第二は大規模な民衆騒擾、都市とか農村の民衆蜂起がおこること。第三は新しい政治指導集団にありうるものが存在すること。この三つの条件がそろった時に革命がおこるのであり、一つでもそれが欠けた場合には、 革命はおこらないといわれています。……革命というものは、いろいろな歴史的条件が複合した時におこるものなのです」と述べている。柴田氏の考え方は、アルベール・マティエAlbert Mathiez(一八七四~一九二三)の「複合革命論」を継承・発展させたジョルジュ・ルフェーヴルGeorges Lefebvre(一八七四~一九五九)に影響されたものである。マティエと同じくソルボンヌ大学で長きにわたって教鞭を執ったG・ルフェーヴルは従来の政治史主体の「上からの」視点に立脚した革命史に対して、都市民衆や農民の視点に立った所謂「下から」のまなざしを持つ革命史研究に特徴がある。彼によれば、フランス革命とはアリストクラートaristocrate(貴族とそれに準ずるブルジョワbourgeois)、ブルジョワ、都市民衆、農民の四つの「革命」からなるが、結局は「ブルジョワ革命」が最大の成果を収めたという意味で「ブルジョワ革命」であるという。彼の学説の当否はしばらく措くとして、それまで辛うじて維持されてきた旧体制の「統合力」とは如何なるものであったのだろうか。また、その破綻はどこから始まったのだろうか。註①

 

(二) ルイ一五世の登場
一七一五年、パリ高等法院parlementの支持を得て摂政の座を獲得したオルレアン公フィリップは、旧貴族の影響力を削いできた財務総監や国務卿といった「大臣制」を廃止し、新たに伝統的な名門貴族を国政に関与させる「多元会議制」(ポリシノディPolysynodie)を導入した。すなわち、国政全般を統括する「摂政会議」Conseil de Régenceを設置して、その下に財務・外務・軍事・海事・内務・宗教・商事という七つの評議会を設けて政治・行政上の機能を多元的な合議体に改編したのである。そして、オルレアン公から財務評議会を主宰するように言われたノアイユ公Adrien Maurice, duc de Noaillesは、国家の累積債務を削減しようと考え、公債金利を一律四%の低率に固定して額面を従来の五分の二前後に切り下げ、また特別裁判所の設置を通して公金横領や不正利得の追及を徹底させようとした。しかし、緊縮財政の一方で、貨幣不足による景気低迷を防ぐために正貨の鋳造を増やし、その法定相場の引き上げで通貨流通量の拡大を図るという政策矛盾が原因で深刻な不況に陥り、一七一八年一月、ノアイユ公は財務評議会代表を辞任せざるを得なかった。それでも、財務評議会やトゥールーズ伯louis-Alexandre de Bourbon, comte de Toulouseの海事協議会などは相対的にまだましな方で、実務能力に乏しい名門貴族が担当した評議会の多くは機能不全に陥り、一七一八年以降、海事評議会を除いて徐々に廃止されていった。
そこで起用されたのが、既に一七一六年に個人銀行の設立を認められ、翌年に一般銀行、一八年に国立銀行への改組を認可されていたスコットランド人ジョン・ローJohn Law(一六七一~一七二九)である。彼はフランス初の銀行券(紙幣)を発行して慢性的な通貨不足を解消し、併せてその銀行券によって国家債務を償還して財務赤字の軽減を図ろうとした。また、経済活性化の手がかりとして植民地貿易の拡大にも目をつけていたジョン・ローは、一七一七年、ルイジアナ開発独占権を持つ西方会社(ミシシッピ会社)Compagnie d'Occidentを設立し、一九年にはインド会社Compagnie des Indes (西方会社、セネガル会社、 アフリカ会社、ギニア会社、サン・ドマング会社、シナ会社、東インド会社を統合)に拡大・改組している。しかし、(1)国立銀行が発行した一五億リーヴルの銀行券をインド会社という特権会社に引き受けさせる、(2)インド会社はこれを国家に貸し付けて、政府はそれを国債の債務償還に充てる、(3)債権者は銀行券や国債でインド会社が募集した一五億リーヴルの増資新株を購入する、(4)インド会社は償還金として流出した銀行券を吸収する、という所謂「ローのシステム」は彼の目論み通りには機能しなかった。それは、インド会社が四〇%もの配当を約束したことで熱狂的な投資ブームがおこり、額面五〇〇リーヴルの株券が一七二〇年一月五日には最高値の一万一〇〇〇リーヴルまで高騰したからである。同じ日、ジョン・ローは財務総監にまで上り詰めたが、経営実態からかけ離れた投機熱は冷めるのも早かった。パリ兄弟Pârisのような徴税請負人や、彼等と結びついていたコンティ親王ルイ・アルマンLouis Armand II, prince de Cntiやブルボン公アンリLouis-Henri de Bourbon-Condéなどの王族は先を見越して売り抜けに成功したが、バブル景気に酔いしれていた多くの貴族や民衆が噂を聞いて株取引の中心地カンカンポワ街に駆けつけたときには既に株価の大暴落が始まっていた。こうして金融市場が大混乱に陥り、投資にのめり込んでいた貴族の多くは破産の憂き目を味わうことになった。その結果、ジョン・ローは五月末に財務総監を解任され、ブリュッセル、ロンドンと逃亡を続けた後、一七二九年、ヴェネツィアで貧窮のうちに亡くなっている。註②
その後、一七二二年六月、ルイ一五世は宮廷をルーヴル宮殿からヴェルサイユ宮殿へと戻し、一〇月にはランス大聖堂において成聖式を執り行った。そして翌年二月一五日、一三歳の彼はパリ高等法院において成人の宣言をして摂政政治に終わりを告げた。また、一七二五年には元ポーランド国王スタニスワフ・レシチニスキStanislaw I Leszczynski(在位一七〇四~〇九、一七三三)の娘マリ・レクザンスカMarie Leszczynskaと結婚し、その後一一人もの子宝に恵まれた。その間、一七二三~二六年にはブルボン公アンリを宰相としていたが、二六年以降はかつての養育係である支援者フルーリー枢機卿André Hercule de Fleury(一六五三~一七四三)に替えている。フルーリーは早速、財務総監ミシェル・ロベール・ル・ペルティエ・デ・フォールMichel Robert Le Peletier des Forts(在任一七二六~三〇)やフィリベール・オリーPhilibert Orry(在任一七三〇~四五)の協力を得て財政再建に着手した。彼等は宮廷経費や年金の削減、 軍事費の抑制などの歳出削減策を断行する一方、増税などで歳入の増大を図り、一七三六年には財政収支の均衡に成功した。また、フランス各地の道路舗装に取り組み、 一七三八年にはサン・カンタン運河Saint-Quentinを開通させてセーヌ川右岸の支流オワーズ川とソンム川とを連結させた。その当時、英仏両国はルイ一四世の治世に始まる英仏植民地戦争(第二次百年戦争)の最中にあったが、フルーリー枢機卿は平和外交を展開し、イギリス(グレート・ブリテン王国)のウォルポール首相Robert Walpole(在任一七二一~四二、ホイッグ党。一七二一年、責任内閣制度を創始したことで有名な初代首相)との間にも比較的平和な関係を築くことができた。
ところが一七三三年、ルイ一五世は外務卿ジェルマン・ルイ・ショーブランの勧めもあってポーランド継承戦争(一七三三~三五年)への介入を始めた。この年、ポーランド王アウグスト二世August II(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト一世)が亡くなり、かつて露帝ピョートル一世Pyotr I がスウェーデン王国からバルト海域の覇権を奪取した北方戦争(一七〇〇~二一年)の最中にスウェーデン王カール一二世Karl XIIから傀儡のポーランド王とされたポーランド貴族スタニスワフ・レシチニスキと、 アウグスト二世の息子(ザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世)がともに王位を要求したことで、 継承戦争が勃発したのである。この時、ルイ一五世はスタニスワフ・レシチニスキの娘婿として義父を支持したが、その狙いは神聖ローマ皇帝カール六世Karl VI(在位一七一一~四〇)の皇女マリア・テレジア Maria Theresiaと婚約していたロレーヌ公フランソワ・エティエンヌ(ロートリンゲン公フランツ・シュテファンFranz Stephan von Lothringe)が持つロレーヌ公国を奪うことにあった。その時、フルーリー枢機卿は王妃の父に対して僅かな軍資金と兵力の提供にとどめて、ライン川流域やイタリア方面で展開された対オーストリア戦争に兵力を集中させ、さらにはスペインとサルデーニャ王国がフランス側に参戦したことも手伝って勝利を収めた。その結果、一七三八年に締結されたウィーン条約では、スタニスワフ・レシチニスキがポーランド王位を放棄する代償としてロレーヌ公国を獲得し(一七六六年、彼の死去でフランスに併合)、ロレーヌを失ったフランソワ・エティエンヌはトスカーナ大公国の継承者となった(トスカーナ大公フランチェスコ二世、在位一七三七~六五)。

 

 (三) フランス外交の変化とオーストリア継承戦争・七年戦争
ポーランド継承戦争が終結した頃、(前述したように)フランスの国家財政はようやく均衡を回復したが、長年ルイ一五世を支えてきたフルーリー枢機卿はまもなく九〇歳になろうとしていた。したがって、国王を諫める者は誰もいなくなり、フランス外交の方針は大きく揺らぐことになる。一七四〇年一〇月二〇日、神聖ローマ皇帝カール6世が逝去し、その後は一七一三年の「国事勅書」(プラグマティッシェ=ザンクツィオンPragmatische Sanktion)に基づいて娘のマリア=テレジアがハプスブルク家の全家領を相続した。しかし、バイエルン選帝侯アール・アルブレヒトKarl Albrecht(在位一七二六~四五)がハプスブルク家領の相続を要求し、マリア=テレジアの夫フランツ・シュテファン(一七三六年結婚)がベーメン選帝侯位を帯びることにはザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト二世(ポーランド・リトアニア国王アウグスト三世August III)が異議を唱えた。また、プロイセン王国のフリードリヒ二世Friedrich II(啓蒙専制君主)はシュレジェン占領の承認と引き換えにフランツ・シュテファンの皇帝選挙を支持すると申し出て、マリア=テレジアから拒否されている。註③
 一七四一年四月、モルヴィッツ Mollwitzの会戦におけるプロイセンの勝利を契機に諸国がオーストリアに介入し、六月には普仏同盟が成立、バイエルン、ザクセン、スペインもハプスブルク諸領の分割協定を結んで攻め込んだ。フランスの支援を受けたバイエルン軍はオーストリア北方のベーメンに入り、一一月にはプラハを占領した。一方、プレスブルクに逃れたマリア=テレジアはハンガリー貴族やイタリアの支援を得て反撃に転じ、四二年二月一二日、ミュンヘン占領に成功する。同日、バイエルン選帝侯はフランクフルトで神聖ローマ皇帝カール七世Karl VII(在位一七四二~四五)に選出され、直ちに戴冠した。しかし、プロイセンの戦線離脱が墺軍に勢いをもたらし、バイエルン全域を占領した墺軍はプラハを仏軍から解放し、マリア=テレジアはベーメン王としての戴冠式を挙行した。一七四四年春、ルイ一五世は正式に墺英両国に宣戦布告を発し、六月にはプロイセンとあらためて軍事同盟を締結して戦闘状態に入った。その時、西王フェリペ五世はスペイン継承戦争(一七〇一~一四年)後のラシュタット条約(一七一四年)で墺領となっていたミラノ公国の奪回のために参戦し、一時は成功したものの、サルデーニャ王国が墺側についたことで最終的には失敗している。そして四五年一月には英・蘭・墺・ザクセン四ヵ国によるプロイセン分割協定を含む軍事同盟が成立し、勝敗の行方はがぜん不透明となった。ところが、同年一月二〇日皇帝カール七世が逝去し、一〇月一〇日にトスカーナ大公フランツ・シュテファンが皇帝フランツ一
世Franz I(在位一七四五~六五)に選ばれたことが後押しとなって、一二月二五日「ドレスデンの講和」が成立し、普王フリードリヒ二世はフランツ一世の帝位を承認することになった。
 一方、オーストリア継承戦争中の一七四三年にフルーリー枢機卿が亡くなり、ルイ一五世は先王ルイ一四世に倣って親政を開始した。そして悔しいマリア=テレジアは、従来のヨーロッパ国際政治の常識では考えられない行動に出た。それが仏=ブルボン家と墺=ハプスブルク家という長く敵対関係にあった両国が同盟関係を結ぶ「外交革命」Diplomatic Revolution(一七五六年)である。ところで、ルイ一五世は一七三四年頃から公妾を持つようになっていたが、四四年頃、サロンsalonに出入りしていたジャンヌ=アントワネット・ポワソンJeanne-Antoinette Poisson(一七二一~六四)という女性を見初める。一七二一年、銀行家の娘として生まれた彼女は、既に徴税請負人シャルル=ギヨーム・ル・ノルマン・デティオールCharles-Guillaume Le Normant d'Étiolles(一七一七~九九)と結婚しており、二人の子どもを持つ母親であった。しかし、彼女の美貌と知的な振る舞いに魅了されたルイ一五世は、夫婦を別居させてポンパドゥール侯爵夫人Madame de Pompadourという称号を与え、一七四五年九月一四日には公妾としてヴェルサイユ宮殿三階に部屋を用意した。一七五〇年以降、彼女は体調を崩して公妾という立場を離れたが、国王の信頼が篤かったために政界に「ポンパドゥール派」が誕生したと言われる。そこに目を付けたのが、マリア=テレジアである。もちろん、仏墺同盟結成の最大要因は国際政治の力関係によるものではあるが、駐仏大使のカウニッツ伯爵Kaunitz-Rietberg(のち侯爵、宰相在位一七五三~九二)がルイ一五世の宮廷で権勢を振るっていたポンパドゥール夫人を動かしたことも、その一要因になったと考えられる。そして事態を急展開させたのは、一七五六年一月、イギリスとプロイセンの間で結ばれたウェストミンスター協定Konvention von Westminsterであった。イギリスはこの協定によってハノーファー公国Hannover(正式にはブラウンシュヴァイク=リューネブルク選帝侯国Kurfürstentum Braunschweig-Lüneburg)の安全を、他方プロイセンはロシアからの脅威を解消しようとしたが、フランスにとってこの中立協定締結はプロイセンによる背信行為と映った。また、イギリスと同盟関係にあった露帝エリザベータElizaveta Petrovna(在位一七四一~六二、ピョートル一世の娘でロマノフ朝第六代皇帝)やザクセン選帝侯にとっても同じことであった。こうしてプロイセン王国は、イギリス=ハノーファー両国を除き、ヨーロッパのほぼ全ての国々を敵にまわことになり、孤立無援の状況に陥った。なお、ハノーファー公国がイギリス側についたのは、一七一四年、ハノーファー選帝侯ゲオルク一世がイギリス王ジョージ一世George I(在位一七一四~二七)として即位し、ハノーヴァー朝(現在のウィンザー朝)が創始して以来の関係が続いていたためである。
 一七五六年八月二九日、「一七四〇年の風が嵐になった」(イギリスの歴史家グーチGeorge Peabody Gooch)。普王フリードリヒ二世は機先を制して、当時まだ公式には中立を守っていたザクセン選帝侯領に侵攻し、翌月九日にはドレスデンを陥落させて、ピルナに逃れたザクセン選帝侯を包囲した。一〇月一日にはロボジッツLobositzの戦いでザクセン=オーストリア連合軍を撃破し、一四日にはピルナのザクセン軍も降伏させた。一七五七年に入るとプロイセン軍はベーメン王国への侵攻を開始し、プラハ Prahyの戦い(五月六日)で勝利を収めたが、六月一八日のコーリン Kolinの戦いではダウン将軍麾下の墺軍から猛反撃を受けて初めて敗走した。一方、ハノーファーに軍を進めた仏軍は、七月二六日、ハステンベックHastenbeckの戦いで勝利を収めてその占領に成功し、九月八日の休戦協定(クローステル・ツェーヴェン協定Konvention von Kloster Zeven、クロスター・セヴン協定Convention of Kloster-Zeven)締結でハノーファーを事実上の支配下に置いた。しかし一一月五日、仏軍と(ドイツ帝国議会が派遣した)帝国軍はザーレ川西辺のロスバハRoßbachの戦いにおいて斜行戦術のプロイセン軍に撃破されてしまう。一方、 モイスの戦い(九月七日)、ブレスラウBreslauの戦い(一一月二二日)と順調に進軍していた墺軍も、シュレジェンのロイテンLeuthenの戦い(一二月五日)では敗北を喫している。こうして、プロイセン王国はハノーファーとシュレジェンの奪回に成功したのである。
しかし翌五八年、イギリスから初めて五七万ポンドもの援助金を得たプロイセン王国ではあったが、メーレンMähren(モラヴィアMoravia, Morava)への侵攻には成功したものの、肝心のオルミュッツ要塞Olmützを落とすことはできなかった。また、都ベルリンに迫っていたロシア軍をオーデル川・ヴァルタ川の合流点の北東に位置するツォルンドルフZorndorfの戦い(八月二五日)で辛うじて撃退させることに成功したものの、ザクセンのホッホキルヒ Hochkirchの戦い(一〇月一四日)ではダウン将軍率いる墺軍に歩兵の三分の一と砲一〇〇門を失う大敗を喫した。こうして劣勢に立ったプロイセンは、一七五九年八月のクーネルスドルフKunersdorfの会戦(八月一二日)では墺=露連合軍に壊滅的敗北を喫し、国王フリードリヒ二世自身が敵弾によって上着を打ち抜かれるありさまであった。翌六〇年八月にはベルリンの一部を占領されてプロイセンの命運も尽きるかと思われたが、ベルリン総攻撃をめぐって墺=露軍に亀裂が生じて露軍が退却したため、プロイセンとフリードリヒ二世は一命を取りとめることができた(ブランデンブルクの奇跡)。こうして同年一一月三日、エルベ河畔のトールガウTorgauの戦いで墺軍を破ったプロイセンは、 何とかザクセン確保に成功したのであった。
 一方、フランスは北米やインドなどにおける植民地戦争でイギリス軍に負け続け、 プロイセンとの戦争どころではなくなっており、一七六一年八月にはついにスペインとの間で軍事同盟を締結して態勢の立て直しを図った。その時、イギリスのウィリアム・ピットWilliam Pitt(大ピット、後に首相〔在任一七六六~六八〕)はスペインに対しても宣戦布告しようとしたが、ニューカッスル首相Newcastle(在任一七五四~五六、五七~六二)や即位後間もないジョージ三世 George III(在位一七六〇~一八二〇)に反対され、辞職に追い込まれた。しかし結局は一七六二年一月に宣戦布告し、ポルトガルに侵攻したスペイン軍を撃退させるとともに、スペインの植民地であるキューバやフィリピンに大艦隊を派遣してハバマやマニラを占領している。しかし、長期間に及ぶ戦争は各国財政を疲弊させた。一七六一年一〇月、イギリスいぎりすかrあの援助を打ち切られて財政危機に陥ったプロイセンは貨幣改鋳で凌ごうとし、債務が膨らんだオーストリアも軍隊の規模縮小に踏み切っている。
 そして一七六二年一月、露帝エリザベータの崩御が戦況を大きく転回させた。後継者のピョートル三世Pyotr III(在位一七六二年一月五日~七月九日、ドイツ語名カール・ペーター・ウルリヒKarl Peter Ulrich)はプロイセンと即時講和を結んで同盟者に変身し、破滅寸前まで追い詰められていたフリードリヒ二世を救ったのである。ピョートル三世は占領地域を全て返還し、賠償金も要求しなかったため、ロシア国内に不満の声が広がった。彼は早くも七月には皇后エカチェリーナ(後のエカチェリーナ二世Yekaterina II 〔在位1七六二~九六〕)支持の軍人たちによって殺害されてしまうが、エカチェリーナ二世も七年戦争では中立を守った。こうしてフリードリヒ二世は、五月にスウェーデンとの間に「ハンブルクの和議」を結んだ後、 ドイツに残ったロシア軍の一部の協力を得ながら、七月にはブルカースドルフ Burkersdorf の戦いに勝利を収め、七年戦争は終結したのである。神聖ローマ帝国内の主な諸侯は夏のうちに中立を宣言し、一一月にフランス主導で仏西英三ヵ国によるフォンテーヌブロー仮条約が結ばれ、一二月にはザクセン選帝侯領のフベルツスブルクで和平交渉が開始された。フランスは仏英間のパリ条約(一七六三年二月一〇日)でカナダ、ミシシッピ以東のルイジアナ、西インド諸島の一部、セネガル、インドを失い、それらはいずれも英領化された。またフリードリヒ二世は、プロイセン、オーストリア、ザクセン間で結ばれたフベルツスブルク条約(二月一五日)においてシュレジェンを確保し、マリア=テレジアの長男ヨーゼフ(後のヨーゼフ二世Joseph II〔在位一七六五~九〇〕)の皇帝選挙を支持すると約束した。
 なお、ヨーロッパで七年戦争(一七五六~六三年)が戦われていたとき、北米やインドで展開されてきた英仏植民地戦争は、重大な局面を迎えていた。北米では一七五四年五二八日、アレゲニー川とモノンガヘラ川の合流地点(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)でジョージ・ワシントンGeorge Washington率いるヴァージニア植民地軍などがジョゼフ・クーロン・ド・ヴィリエ・ド・ジュモンヴィユ率いるヌーベルフランスNouvelle-France(一五三四~一七六三年)民兵隊を襲撃するジュモンヴィルグレンJumonville Glenの戦いが発生し、翌年にはフレンチ=インディアン戦争French and Indian War(一七五五~六三年)に発展した。開戦直後はヌーベルフランス軍の勝利が続いていたが、イギリスの第二次ニューカッスル内閣で南部担当大臣を務めたウィリアム・ピットが実質的に指導し始めると形勢が逆転した。彼が植民地軍の軍事力を大幅に増強したのに対して、フランスはヨーロッパにおける七年戦争でプロイセンとその同盟国への援助を優先させたためである。一七五八年以降はイギリス軍の攻勢が続き、一七六〇年までにヌーベルフランスの中心地ケベックやモントリオールを攻略した。また、インドでは仏領インドの拠点ポンディシェリと英領インドのマドラスが戦ったカーナティック戦争Carnatic Wars(一七四四~六三年)の最中、一七五七年一〇月、フランス=ベンガル太守連合軍がロバート・クライヴRobert Clive率いる東インド会社軍に敗れた(プラッシーPlasseyの戦い)。フランスはこの劣勢を挽回しようとデカン高原のニザーム王国Nizamに駐屯していた兵士だけでなく軍艦もベンガル地方に派遣したが、圧倒的なイギリス海軍の力の前に大敗を喫したのであった(一七六〇年一月二二日、ヴァンデヴァッシュWandiwashの戦い)。註④

 

 (四)フランスの財政・金融政策
 ヨーロッパ大陸における七年戦争や北米・インドにおける英仏植民地戦争の勝敗を分けた要因の一つは、英仏両国の資金調達能力の差だという指摘がある(玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』)。確かに、(一六〇九年設立のアイルランド銀行よりは大分遅れるが)イギリスでは一六九四年創設のイングランド銀行が中央銀行としての機能を果たしていたのに対して、フランスでは一八〇〇年のナポレオン=ボナパルト Napoléon Bonaparteによるフランス銀行設立まで待たなければならなかった。その当時、イギリス政府の債務はフランスのそれよりも多かったが、中央銀行を持つが故に金融の信用度はフランスよりも高く、外国からの資金導入が容易であった。一八世紀のイギリスでは早くもイングランド銀行が国債を発行し、その返済を政府が保証するファンディング・システムFunding systemが発達しており、既に財政金融システムの中央集権化が進んでいたのである。また、財政面での相違も両国の戦費調達能力を大きく分けていた。当時、イギリスの税制は消費税を中心としており、それも所得が増えた階層をターゲットにしたビール、石炭、石鹸、皮革、ガラスといった「需要の所得弾力性」の高い奢侈品に課すことによって税収を伸ばしていたので、債務を抱えても返済しやすかった。そもそも産業革命前のイギリス議会では地主勢力が圧倒的に強かったために土地税を上げることは困難であり、間接税とりわけ消費税を主たる税収源とする必要があった。ただし、多くの貧民層のことを考慮すれば、生活必需品に課税することは不可能であったため、消費税の最大の負担者は貴族・ジェントリという最上層部ではなく、「中流層」middling sortと呼ばれる中間層であったと言われている。
 一方、フランスの歳費収入の中心は、相変わらず直接税の土地税であった。七年戦争が終結して二年目に当たる一七六五年時点の英仏両国の「直接税・間接税比率」を比較してみると、直接税がイギリス二二%・フランス五四%、間接税がイギリス七五%・フランス四二%、その他がイギリス三%・フランス四%となっており、七年戦争以後のイギリスでは消費税・関税の割合が急速に増大しており、産業革命に突入し始めたことを如実に表している。一方、フランスの税制はどうなっていたのか。直接税の柱となっていたタイユtailleは、本来、防衛・軍事的活動を支えるための領主的課税という性格を継承した税であり、臨時的課税として三部会の協賛を必要としていたが、一五世紀以降は恒常的な国王課税となって王室財源の重要租税に成長していた。ただし、軍事税という名目を持つため聖職者や貴族、官職保有者は同税の負担を免除されていた。また、徴税は国王の直轄財務機構が租税の配分・徴収に責任を持つエレクシオン地域pays délectionsと、地方三部会に同意と配分、ときには徴収権すら認める地方三部会地域pays d'etatsgaとが存在したが、財務卿シュリーが登場した一六世紀末には親任官僚を派遣して徴税業務を厳しく監視し、地方三部会地域をエレクシオン地域に組み込むことによって地方三部会の課税同意権を剥奪しようとする努力がなされた。そして、親任官僚の派遣はルイ一四世期の地方長官(アンタンダンintendant de province)制に発展した。また、シュリーの改革には特権身分が免除されていたタイユ税の比率を引き下げて、全ての身分が負担する間接税(塩税)を引き上げるという税制改革に努めていることも特徴的であった。
 また、タイユの納税者に対する付加税として徴収したカピタシオンcapitationという直接税は一七〇一年三月に再設されたが、地方長官が在地貴族の協力を得て貴族の税額を査定したために不当に低く決定されることが多く、地方三部会や都市は王権との間で一括納入契約を結ぶことで課税を免除されていたし、聖職者は納税義務そのものがなかった。さらには、一七三三年に復活したディジエーム(十分の一税)dixièmeもあらゆる収入の十分の一を徴収する直接税であったが、こちらも地方三部会や都市・フィナンシエfinancier(金融業者)などの特権団体は上納金支払いや一括納入契約により課税を免れ、聖職者は上納金八〇〇万リーヴルと引き換えに免税特権を得ていた。そこで一七四五年、財務総監に就任したマショー・ダルヌーヴィルJean-Baptiste de Machault d'Arnouville(在任一七四五~五四)は、戦間期の一七四九 
年にヴァンティエームvingtième(二十分の一税)という新税を提案した。原案では全ての身分に差別なく、あらゆる土地や官職を課税対象にしていたため、翌年に開催された全国聖職者会議を始め、高等法院や地方三部会が激しく反発し、結果的には国王政府が例によって譲歩を重ねて顴骨堕胎され、ヴァンティエームは専ら農民に課す直接税と化してしまった。その結果、フランス革命勃発までの直接税・間接税の比率は、表「イギリスとフランスの直接税・間接税比率」のように推移し、ポーランド継承戦争、オーストリア継承戦争、七年戦争が戦われた時期を除けば、直間比率は概ね直接税が間接税よりも若干上回る数字を残している。註⑤

 

 (五)国王政府と高等法院の対立(1) ~ショワーズ改革と大法官モプー~
 アンシャン・レジーム期に国王政府と激しく対立した高等法院の歴史は長く、一三世紀のルイ九世Louis IX(在位一二二六~七〇)の治世まで遡る。一三世紀後半の王権拡大にともなって、後の高等法院パルルマンParlement(一三二八年成立)の前身をなす、会計検査院シャンブル・デ・コントChambre des comptes(一三二〇年成立)の前身をなす、大評議会Grand conseil(一三一六年成立)の前身をなすが設立され、政務担当の国務会議、財政担当の会計監査院、司法を扱う高等法院へと発展し、宮廷の専門分化が進んだのである。シテ島に開設されたパリ高等法院は初め全国を管轄していたが、一四四三年に国王シャルル七世Charles VII(在位一四二二~六一)がトゥールーズ高等法院(ラングドック地方)の開設を認めた後は全国各地の行政首都に地方高等法院が設置された。しかし、パリ高等法院が最も広大な地域を管轄しており、最も権威のある法院であった。
高等法院は民事・刑事・行政の裁判権限を有し、終審裁判所の役割を担ったが、他の行政諸院の管轄事件に関しては上告が許された。また、最高責任者は国王に親任される法院長で、法院の司法官になるには弁護士資格を取得した後に売官制度を利用して官職を購入すれば良かった。なお、司法官の地位を世襲するにはポーレット法Paulette(一六〇四年)に基づいて毎年官職継承税マルク・ドールMarc d'orを支払い、かつ死ぬ四〇日以前に辞任と継承の宣告を行うことで子息に相続させることが可能となり、官職年税droit annuelを九年間払うことにより四〇日規定も免除された。このように、高等法院はあくまでも「裁判所」であったが、高等法院には全ての王令・法令を登録する責務(王令登録権)があり、国王に対して助言する権利(建白書提出権)と義務を帯びており、さらには治安維持や行政に関する指導権限を有したことで、やがて国王政府に対抗する組織へと成長したのである。しかし、絶対王政の最盛期を出現させた国王ルイ一四世は、国王のみが主権を行使できるとして最高諸院(高等法院・会計法院・租税法院・貨幣法院・大法院)cours souveratinesから「最高」という呼称を剥奪して「上級」という呼び名に変更した。また、最高諸院の中でも特に国王権力からの独立性が強かった高等法院に対しては王令登録権を奪い、 一六六七年と一六七三年の王令により建白書提出権を制限した。一六七五年三月、ボルドーで発生した民衆蜂起がブルターニュ地方に飛び火し、四月にレンヌ、五月初めにナントで大規模な反王税都市暴動が発生したときには、 有効な鎮圧手段を執らなかったレンヌとボルドーの高等法院を追放処分にしている。ところが、ルイ一四世が崩御してまもない一七一五年九月一二日、パリ高等法院はしたたかにもルイ一五世の親臨法廷で王令登録権・建白書提出権の回復に成功し、その後は租税問題や宗教問題などで国王政府とことごとく対立を繰り返すようになる。註⑥
 この当時の宗教問題としては、一八世紀初め、南フランス各地に発生したプロテスタントの反乱(一七〇二~〇五年カミザールの乱La guerre des Camisards、セヴェンヌ戦争La guerre des Cévennes)以外に、ジャンセニスムJansénismeやイエズス会の問題が続いていた。そして、国王政府と高等法院はプロテスタント(ユグノー派)やイエズス会の問題に関しては概ね同一歩調をとったが、ジャンセニスム問題では深刻な対立関係に陥っている。一七一三年、教皇クレメンス一一世Clemens XI(在位一七〇〇~二一)が発したジャンセニスム弾劾の教皇勅書「ウニゲニトゥス」(神の御独り子Unigenitus)をめぐる教皇庁とジャンセニストの対立は、一七五二年、パリ大司教クリストフ・ド・ボーモンChristophe de beaumont du Repaireの指示を受けたサン・テティエンヌ・デュ・モン教区司祭が教皇勅書を受け入れない信者に「終油の秘蹟」を拒否するという事件を起こしたことで、一気に先鋭化した。一七世紀以降に流行したジャンセニスムは人間の意志の力を軽視し、腐敗した人間本性の罪深さを強調して人々の心を捉えるようになり、高等法院の評定官の間にもジャンセニストが少なくなかったのである。そのため、パリ高等法院は「秘蹟拒否は行き過ぎた行為である」と判断して司祭を断罪したが、今度は反発した国務会議が高等法院裁決を破棄してしまった。翌年になると、パリ高等法院は「大建白書」を発して王権を厳しく批判し、国王政府も負けじとパリ高等法院のポントワーズPontoise追放を決定している。しかし、高等法院側も負けてはいない。彼等はエクス、ボルドー、トゥールーズ、レンヌ、ルーアンなどの地方高等法院や租税法院、さらには沸き立つ世論を味方にして対抗し、最後は国王政府の譲歩を引きだして追放解除を勝ち取ったのであった。註⑦
 ところで、七年戦争が勃発して間もない一七五七年一月五日に発生した国王暗殺未遂事件(ダミアン事件、註⑧)の前後、ポンパドゥール夫人の不興を買った財務総監マショー・ダルヌーヴィル、陸軍卿ダルジャンソンRené Louis de Voyer de Paulmy d'Argensonが相次いで罷免され、一七五八年には彼女の推挙で外務卿となったショワズール公Étienne-François de Choiseul(在任一七五八~六一、六六~七〇)が登場する。彼は一七五二年、ショワズール・ボープレ夫人(従兄弟の妻)を国王の新しい愛妾にしようとする陰謀を密告してポンパドゥール夫人の信頼を獲得し、その後はローマ駐在大使として教皇ベネディクトゥス一四世Benedictus XIV(在位一七四〇~五八)とイエズス会問題の解決を探り、ウィーン大使としては外交革命(一七五六年)を側面から支えた。ショワズールが外務卿になった当時は七年戦争の最中であり、主戦派の彼はやがて陸軍卿(在任一七六一~七〇)・海軍卿(在任一七六一~六六)をも兼務する国王政府の最有力者にのし上がっていった。
 ショワズールは「フランスの敵はイギリス」と考えており、その信念は七年戦争に敗れた後も変化することがなかった。また、彼自身は内政を重視したとは言いがたいが、彼の時代には開明的な専門職事務官によって国務会議の部局が充実している。特にリヨン地方長官から財務総監に任用されたベルタンHenri Léonard Bertin(在任一七五九~六三。辞任後も国務卿して残る)はトリュデーヌ父子(Daniel Charles Trudaine, Jean Charles Trudaine de Montigny)、ドルメッソンMarie François-de-Paule Lefèvre d'Ormessonなどの補佐を受けて自由主義的改革に乗り出した。例えば、農業では免税を伴う開墾・干拓の奨励(17六四年)、耕地囲い込みや共有地分割の許可(一七六七年以降、州単位で実施)を行い、工業では一七六二年に宣誓ギルドに加盟しない農村織物工業を許可してマニュファクチュア経営を拡大していた商人=製造業者層の経済的・社会的上昇を促した。また一七六三年には国内の穀物流通を自由化し、豊作時の輸出も許可している。こうした改革は改革立法をてこに中央集権化を強めようとする国王政府の意図に基づいていたが、地方に根を張る高等法院の頑強な抵抗に遭うことになった。また彼等の農業改革はフランス社会を根底から規定していた領主制の問題にメスを入れるものではないために、むしろ農村社会においては内部対立の火種となった。そして穀物流通の自由化は、買い占めを恐れる都市民衆・貧農層の不安を高めて騒擾に発展したため、一七七〇年には撤回されている。
 ショワズールの下で財務総監ベルタンが自由主義的改革を行っていた一七六三年、ブルターニュ州軍司令官として赴任していたデギュイヨン公エマニュエルEmmanuel Armand, duc d'Aiguillonという人物が、住民の同意なく総括徴税請負人への新税を課そうとしてレンヌ高等法院と対立し、現地の司法機能は完全に麻痺した。翌年六月、国王ルイ一五世はレンヌ高等法院を解散させ、検事総長ラ・シャロテLa Chalotaisを逮捕して臨時法廷で裁こうとした。しかし、ラ・シャロテはポンパドゥール夫人やショワズールの人脈に与する男であり、パリやルーアンの高等法院がレンヌ高等法院を支持して一歩も譲らなかったことから、 最後はレンヌ高等法院の再開を容認せざるを得なかった。一七七〇年、デギュイヨン公がパリ高等法院で有罪判決を受けると、国王は所謂「ブルターニュ事件」のすべてを破棄し、さらには高等法院とショワズールとが繋がることを恐れてショワズール罷免に踏み切っている。その間に権勢を誇ったポンパドゥール夫人が死去し(一七六四年)、新しい愛妾デュ・バリ夫人Du Barry(一七四三~九三)と結びついた大法官モプーRené Nicolas Charles Augustin de Maupeou、財務総監テレJoseph Marie Terray、外務卿デギュイヨン公エマニュエルという反ショワズール派の三頭政治が開始された。特に大法官モプーは、一七七一年二月二三日司法改革に着手し、司法官職の売官制や裁判官への謝礼を禁止し、パリ高等法院管区内に控訴院に相当する五つの上級評定院を設置して高等法院が持つ権限の縮小化を図り、後には有給で解任可能な判事からなる新高等法院を設置した。モプーの改革は他の地域の高等法院にも拡大され、会計法院・租税法院など五つの最高諸院はすべて廃止された。註⑨

 

 (六) 国王政府と高等法院の対立(2) ~テュルゴ、ネッケル、カロンヌの改革~
 ショワズール失脚の一七七〇年、オーストリアから王太子ルイ・オーギュストのもとに嫁いできたのがマリ=アントワネットMarie Antoinette Josepha Jeanne de Lorraine d'Autriche(一七五五~九三)である。彼女は一七五五年一一月二日、神聖ローマ皇帝フランツ一世と帝妃マリア=テレジアの九番目の子として誕生した。七年戦争が終結して間もない一七六三年五月、母マリア=テレジアは末娘を仏王ルイ一五世の孫ルイ・オーギュストと結婚させようと考えてド・メルシー伯をフランスに派遣し、教育係としてド・ヴェルモン神父(ソルボンヌ大学)を招聘した。ルイ・オーギュストの父親(王太子ルイ・フェルディナン・ド・フランスLouis Ferdinand de France)はこの結婚話に反対していたが、その彼が一七六五年一二月に亡くなり、兄二人が夭折していたため三男ルイ・オーギュストが王太子となったのである。一七六九年六月、ルイ一五世から王太子との結婚に関する手紙が届き、翌年の復活祭(四月一五日)の日にフランスの特別大使ド・デュルフォールが六頭立て馬車四八台を連ねてウィーンに到着し、翌日には宮中参内と正式な結婚の申込みがなされた。一七日には大晩餐会・舞踏会が催され、翌日には大使側の返礼祝宴が開かれた。四月一九日、アウグスティヌス教会で形式的な結婚式が挙行され、ルイ王太子の代理は兄フェディナントが務めた。二一日にはマリ・アントワネット一行がフランスに向けて出発し、三七六頭の騎馬行列が華やかな雰囲気を醸し出したと言われる。五月六日には国境の町ストラスブルクに近いライン川の中州で「引き渡し式」が行われた。独仏両国側にそれぞれ玄関・控えの間(二小部屋付き)が設けられ、その中間につくられた大広間で花嫁の引き渡し式が挙行された。ただし、この会場を目撃した古典主義文学者ゲーテJohann Wolfgang von Goethe(一七四九~一八三二)はゴブラン織りの壁掛けに描かれたギリシア神話「イアソンとメディアの物語」に不吉を感じ、憤慨したと言われている。五月一四日、国王ルイ一五世と王太子ルイはコンピエーニュの森まで出迎え、一六日にはヴェルサイユ宮殿「ルイ一四世の礼拝堂」で正式の結婚式が挙行された(ルイ王太子一五歳、マリ・アントワネット一四歳)。国家的な祝賀行事とするために当日は宮殿を一般開放としたが、夜の花火大会はあいにくの雷雨で中止となった。マリ・アントワネットが初めてパリを訪れたのは一七七三年六月八日のことで、ノートルダム大聖堂のミサに参列している。
 さて、一七七四年五月一〇日、ルイ一五世が天然痘で身罷り、孫のルイ一六世Louis XVI(在位一七七四~九二)が即位した。彼は既に二〇歳になっていたが、一七四九年にポンパドゥール派によって失脚させられていたモールパ伯Comte de Maurepas(七三歳)が国務卿として復帰し、宮廷を取り仕切ることとなった。モールパ伯はスウェーデン大使ヴェルジェンヌCharles Gravier de Vergennesを外務卿に、リムーザン地方長官テュルゴAnne Robert Jaacques Turgot を海軍卿に招いた後、大法官モプーや財務総監テレを罷免してテュルゴを財務総監(在任一七七四~七六)につけた。こうして反ショワズール派による三頭政治の改革はすべて否定され、高等法院は旧に復したのである。モールパ伯の政治はショワズール派・改革派・高等法院などの勢力均衡の上に権力を維持しようとするものであったが、それはかえって宮廷内抗争を激化させ、王妃派と王弟派の対立を生んでしまった。その当時、王妃マリ・アントワネットは母マリア・テレジアの影響もあって愛妾の存在を嫌悪し、かねてからデュ・バリ夫人を嫌っていたルイ一五世の娘たち(アデライード王女、ヴィクトワール王女、ソフィー王女)が王妃を味方につけようと画策したことが対立を一層深める結果となったのである。註⑩
 財務総監となったテュルゴは宮廷費の削減や徴税の政府直轄化などの財政改革だけでなく、自由主義的経済理論に基づく改革に乗り出した。一七七四年九月には高等法院の反対にもかかわらず穀物・小麦粉の自由化を決定し、一二月には王令として登録させた。同年、天候不順で農作物は深刻な不作となり、翌年初めから穀物価格が急騰した。その結果、四月末から九月にかけてパリ周辺の民衆が市場と穀物価格の自主管理を求めて決起し、「小麦粉戦争」Guerre de Farinesと呼ばれる大規模な食糧暴動に発展した。その当時、蜂起した民衆は倉庫やパン屋の襲撃、輸送車や運搬船の差し押さえなどを行い、彼等の言う「公正価格」による販売を強制するのが通常の形態であったが、その理由は小麦やパンの値上がりの原因は天候不順などではなく、アリストクラートarisutocrate(貴族及び高位聖職者)による陰謀的な買い占めによるものだと決めつけていたからである。そして、彼等は自らの行動を政府当局への「警告」と見なし、当局が果たすべき義務の「代執行」を行っているに過ぎないと正当化していた(モラル・エコノミーmoral economy)。一方、政府当局側にもこうした民衆的観念に対応しようとする伝統的にパターナリズム(家父長制)paternalism的統治観念が存在した。ところがテュルゴは従来の慣行を全く無視して激しい弾圧を行ったため、これを境に伝統的な国王政府と民衆の関係にひびが入り、 民衆の国王に対するまなざしに変化が生じ始めた。また一七七六年一月、テュルゴは国王道路賦役やギルドの廃止など六王令を提案し、反対するパリ高等法院に対しては親臨法廷をもって強制的に登録させている。また同年、イングランド銀行をまねた割引銀行banque d'escompteを設置した。テュルゴはそのほか「ナントの勅令」復活や、全ての身分に課す単一地租、王領地の領主権廃止、デュポン・ド・ヌムールDupont de Nemoursの協力を得た地方行政改革などの構想を持っていたが、各方面から「秩序破壊」という批判が殺到して孤立感を深め、一七七六年五月、国王により罷免された。  
 その後、短期間、財務総監に任ぜられたクリュニーClugny de Nuits(在任一七七六) がテュルゴ時代の全ての王令を廃止し、同年一〇月には銀行家ネッケルJacques Necker(在任一七七六~八一)が財務長官に任命された。ジュネーヴ生まれの外国人であったネッケルは、政府内における権力基盤が脆弱であったため、 新課税には慎重な態度をとり続けた。既に大西洋の彼岸ではアメリカ独立革命(一七七五~八三年)が勃発していたが、一七七八年、アメリカ大陸会議のベンジャミン・フランクリンBenjamin Franklinの働きかけで仏王ルイ一六世が支援に踏み切ったときも、国庫借り入れによって戦費を賄おうとしたために負債が大幅に膨らむ結果となった。しかし、本来は開明的な銀行家であるネッケルは、まもなくテュルゴの構想へと回帰し、徴税など地方行政を行う(選挙による)「州議会」の設置に着手した。州議会の開設はベリー、オート・ギュイエンヌの二州にとどまったが、第三身分の議員数が特権身分のそれと同じく構想されており、国王政府と地方の知的エリート層を結ぶ機関となりうる画期的なものであった。しかし、こうした政策は既得権を侵害されることに敏感な地方長官や高等法院の抵抗を受け、また宮廷内でも孤立化を強いられたネッケルは一七八一年に罷免されてしまった。註⑪ 
 ネッケルの後継者としてはジョリ・ド・フルリーJean Frannçois Joly de fleury(在任一七八一~八三)、ルフェーブル・ドルメッソンAndré Lefèvre d'Ormesson(在任一七八三)がいたが、いずれもたいした成果を残すことなく、一七八三年一〇月にリール地方長官カロンヌCharles Aleexandre de Calonne と交替した (財務総監在位一七八三~八七)。彼が就任した当時はアメリカ独立革命が終結し、その戦勝気分に浮かれた時期であった。カロンヌが財務総監に就任する少し前にヴェルサイユ条約Traité de Versailles(九月三日)が締結されて英仏西三カ国間に和平が成立したが、フランスにとっては莫大な負債を作ってまで参戦した割にはセネガル、セント・ルシア、トバゴ、インド植民地を回復したに過ぎないという情報が広がると、 国王政府に対する不満が高まっていった。その一方で、トマス・ジェファソンThomas Jefferson(第三代米大統領、在任一八〇一~〇九)らが起草した「アメリカ独立宣言」(一七七六年七月四日)に見られる天賦人権、人民主権、革命権(抵抗権)などの啓蒙思想はフランス国内に大きな影響を与えた。トマス・ジェファソン等に影響を与えたのはイギリスの思想家ジョン・ロックJohn Locke(一六三二~一七〇四)であるが、彼は名誉革命後の一六九〇年に『市民政府二論』(統治二論)Two Treatises of Governmentを発表し、「政府とは個々人が自己の自然権を守るために社会契約に基づいて作るものであるから、政府がこの目的にそぐわないものと化した場合には抵抗することができる」として名誉革命を理論的に正当化した。ジョン・ロックの社会契約説はイギリス植民地の人々に影響を与えただけでなく、アメリカ独立革命に参加したラ・ファイエット侯Marie-Joseph Paul de La Fayette(一七五七~一八三四)、サン・シモン伯Claude Henri de Rouvroy, comte de Saint-Simon(一七六〇~一八二五)らによってフランス各地に伝えられたのである。ただし、ラ・ファイエットやサン・シモンが貴族身分であったことからも明らかなように、 啓蒙思想の影響を受けたのは民衆とは限らず、むしろ身分に関係なく知的エリート層に広がったと見なすべきである。
 なぜなら、一七世紀後半のイギリスで興り、一八世紀にヨーロッパやアメリカの都市部に広まった啓蒙思想は、広範な人々に自由な考えと社会改革を促すことになったからである(「啓蒙」=リュミエールlumière〔光明〕の時代)。例えば一八世紀にはヴォルテールVoltaire(François-Marie Arouet、一六九四~一七七八)と親交を結んだ普王フリードリヒ二世、古典派音楽の代表モーツァルトWolfgang Amadeus Mozart(一七五六~九一)を宮廷音楽家として雇い入れた神聖ローマ皇帝ヨーゼフ二世、ヴォルテールやディドロDenis Diderot(一七一三~八四)の影響を受けた露帝エカチェリーナ二世などの「啓蒙専制君主」が現れている。一方、フランス王国ではラ・ファイエット夫人Madame de La Fayette(一六三四~九三)の小説『クレーヴの奥方』で知られているように、 既に一七世紀にはランブイエ館やスキュデリ嬢Magdeleine de Scudéry(一六〇七~一七〇一)の「土曜会」などのサロンsalonが開かれていたが、 (ルイ一四世の親政期にはヴェルサイユ宮殿が社交の中心となってサロン文化は廃れたものの)一八世紀に入るとタンサン夫人Guérin de Tencin(一六八五~一七四九)、ランベール伯夫人Anne Thérèse, comtesse de Lambert(一六四七~一七三三)、メーヌ公夫人Anne-Louise, duchesse du Maine(一六七六~一七五三)、同世紀後半にはジョフラン夫人Marie Thérèse Geoffrin(一六九九~一七七七)、デュ・デファン夫人Marquise Du Deffand(一六九七~一七八〇)、レスピナス嬢Julie Jeanne Eléonore, medemoisellie de Lespinasse(一七三二~七六)などが催したサロンには大貴族とその奥方、高等法院評定官、国王政府要人だけでなく、学者・作家・芸術家が招待されて賑わった。とりわけ注目すべきは、啓蒙思想家の領袖とでも呼ぶべきヴォルテールや人民主権を唱えたルソーJean-Jacques Rousseau(一七一二~七八)らがサロンに出入りし、新しい思想を普及させたことである。またその当時、民衆の間にも読み書きを習う習慣が広まり、物語やニュース・評論を載せる新聞・雑誌の刊行が始まったことも社会の変化を促す大きな要因となった。パリのカフェ文化は、一六八六年、サン=ジェルマン=デ=プレ界隈で営業を開始したル・プロコップLe-Procopeに始まると言われているが、居酒屋よりも少し上品なカフェcaféではコーヒーを飲むだけでなく、店内備え付けの新聞や雑誌が読まれ、市民の社交や情報交換の場所となったのである。やがてカフェ文化は、コーヒー・紅茶を飲む習慣の広がりとともにフランス人の生活に根付き、一八世紀に入るころには三〇〇軒ほどに増え、フランス革命前には約七〇〇軒になっていたという。大学やアカデミー、科学協会で誕生した啓蒙思想は、サロンやカフェを通じて多くの人々の間に浸透し、一八世紀後半には「世論」(「公共意見」opinion publique)を登場させる。深刻な財政難に陥った国王政府は、高等法院との確執を乗り切るために世論を味方につけようとし、選挙による代表制を導入して「啓蒙専制主義」despotisme éclairéの傾向を強めることとなった。その結果、国王政府と高等法院の双方は激しいパンフレット合戦を展開し、これが知的エリート層のみならず一般民衆をも「政治化」させたのである。註⑫
 ところで、戦後不況が深刻化した一七八六年八月、カロンヌが提出した財政改革案は、全ての身分を対象とする新税「土地上納金」の課税、割引銀行の国立銀行への改組、州議会の設置という大胆な内容で、高等法院との無用な対決を避けるために「名士会議」に諮ることにした。この会議は国王が構成員を指名する臨時の諮問機関で、王族・高位聖職者・将軍・高等法院評定官・大都市市長ら合わせて一四四名によって構成された。翌年二月に召集された会議では、提案された改革案のほとんどに賛成が得られたが、 新税の問題から財政改革全体が暗礁に乗り上げ、混乱を収拾できないカロンヌは四月に罷免された。翌月、 名士会議議員のトゥールーズ大司教ロメニ・ド・ブリエンヌÉtienne Charles Loménie de Brienne を財務総監(在任一七八七~八八)に任命したが、名士会議自体が「自分たちには新税案に同意する権能がない」として討議の続行を拒否したため、月末には解散することとなった。しかし、ブリエンヌは六月二三日の王令で(ネッケル案を継承した)州議会設置を命じている。この議会は、 (市町村・県・州という階層性を有するものの)個々人の投票で議員が選出され、第三身分の議席数と特権身分の合計とを同数とするなど画期的な内容であった。ブリエンヌの狙いは、高等法院・地方三部会に代わる新たな代表機関の設置にあり、 地方の知的エリート層を国王政府に取り込むことにあった。ところが、この改革もまた激しい抵抗に遭い、 州議会設置は全部で一七州(ネッケル時代のベリー州、オート・ギュイエンヌ州を加えると一九州)にとどまった。しかし、新たな政治的・社会的基礎を創出しようとする国王政府の取り組みは、特権身分の抵抗だけでなく、第三身分の意識覚醒をも促すことに繫がったのである。
 一方、パリ高等法院は「州議会」設置などの改革案については寛容であったが、七月以降に提案された財政改革案については断固として反対の姿勢を示した。彼等が全国三部会の開催を求めて国王政府と厳しく対立すると、地方の高等法院もこれに追随するようになった。こうして一七八七年夏以降は、国王ルイ一六世の親臨法廷における「王令の強制登録」、パリ高等法院による王令の破棄、パリ高等法院のトロワ追放(八月一四日、その後撤回)、一一月の「一七九二年全国三部会開催」の約束と続き、国王政府と高等法院は支離滅裂の対立を繰り返した。フランスの国王裁判権はいわゆる三審制で、代官裁判所(baillage, sénéchaussée)、上座裁判所présidial、最上級の高等法院parlementとに分かれていたが、一七八八年五月八日、国璽尚書ラモワニョンChrétien François de Lamoignonは、控訴審に相当する四七の「大バイヤージュ」法廷を創設して高等法院の権限を縮小させ、併せて王令登録権・建白書提出権を剥奪する王令を強制登録させた。この強硬策は全国各地の高等法院の反発を生み、これに帯剣貴族・聖職者が同調して「貴族の反乱」が広がった。反乱軍の主張は、州議会の設置反対(フランシュ・コンテ、ドーフィネ、ギュイエンヌなど)や地方三部会の復活(エノー、プロヴァンス、ドーフィネ)など地域差が見られたが、概ね貴族の慣習的特権を維持しようとする「地域割拠主義」の色彩が濃厚であった。なかでも地方三部会が存続していたブルターニュ州では、五月九日、レンヌで地方長官ベルトラン・ド・モルヴィルAntoine François de Bertrand de Moolleville が負傷する騒擾に発展した。一方、ドーフィネ州では六月七日、追放処分を受けた高等法院が町を出ようとした時、後に全国三部会議員となる弁護士のムーニエJean-Joseph MounierやバルナーヴAntoine Pierre Joseph Marie Barnaveら第三身分の人々が貴族と連携して軍隊と衝突し、屈服した地方長官は高等法院の復活を認めている(「瓦の日Journée des Tuiles」)。七月二一日、ムーニエやブルナーヴらが近郊のヴィジーユVizilleで開いた会議には聖職者・貴族・市民が合わせて七〇〇名以上も参加し、 地方三部会や全国三部会の同意がなければ新税を支払わないこと、それらの三部会では第三身分の議員数を他二身分の合計数と同じくすることを決議し、地方的特権よりも国家的統一性を優先させる意志を表明した。
 ところで、一七八〇年以降、アメリカ独立革命でフランスを支援していたオランダ(ネーデルラント連邦共和国)は、第四次英蘭戦争(一七八〇~八四年)に敗れ、一七八四年五月二〇日、パリ条約でインド南部のナーガパッティナムNagapattinamをイギリスに割譲した。仏蘭両国は一七八五年以降に公的な同盟関係に入ったが、一七八七年、親仏的な「パトリオッテン派」(愛国派)が総督ウィレム五世Willem V van Oranje-Nassau(在位一七五一~九五)に反乱を起こし、ウィレム五世はハーグからナイメーヘンへと逃れ、 首都アムステルダムやロッテルダムは反乱軍の手に落ちた。その時、義兄のプロイセン王フリードリヒ・ヴィルヘルム二世Friedrich Wilhelm IIが派遣した普軍がオランダを制圧して愛国派を掃討し、翌年八月にはイギリス、プロイセン、オランダ間で軍事同盟が結成された。こうした危機的状況に陥ったとき、フランス政府内部では陸軍卿セギュールや海軍卿カストリが普軍に対抗するための派兵を主張したが、財務総監ブリエンヌは財政難を理由にこれを抑えてしまった。その当時のフランスの財政問題は、アメリカ独立革命への派兵が生んだ負債の増加だけではなかった。一七八六年九月二六日、 英仏両国は英仏通商条約の締結で相互に関税引き下げを合意していたが、既に産業革命(一七六〇~一八三〇年代)に突入していたイギリスの商品が大量に流入し、フランス経済を圧迫していたのである。オランダ問題は国王政府内の対立を激化させ、陸軍・海軍の二大臣の辞任に続いて、ブリエンヌもまた(さきに約束した全国三部会召集を一七八九年五月一日に繰り上げることを決めたうえで)八月二四日に辞職した。こうして、フランスの司法改革はまたしても挫折し、ネッケルの再登場となるのである。
 しかし、「時すでに遅し」の状態となっていた。旧体制(アンシャン・レジーム)を支えてきた身分秩序の崩壊に続いて、国王政府と高等法院の間で保たれてきた絶妙なバランスが崩れたことが抜き差しならない対立に発展し、ストレス・ゾーンの摩擦熱がついに発火点に達したのである。一九世紀の政治思想家トクヴィルAlexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville(一八〇五~五九)によれば「革命というものは突然おこるものではない。改革がその前にあって、改革が失敗するところから革命がおこるのだ」。革命はすぐ間近に迫っていたのである。註⑬

 

註① 柴田三千雄『フランス革命』(岩波セミナーブックス30)一~六三頁、柴田三千雄「フランス革命とヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史⒙ 近代5』所収第六論文)六七~八〇頁、Albert Mathiez, La Révolution française, 3 vols.Collection Armand Colin. ねずまさし・市原豊太訳『フランス大革命』上・中・下(岩波文庫)、Georges Lefebvre, Quatre-vingt-neuf, Paris, 1939.高橋幸八郎・柴田三千雄・遅塚忠躬訳『1789―フランス革命序論』(岩波文庫)、各参照
註② 「ローのシステム」崩壊は、フランス経済を大混乱に陥れたものの、(長期的展望に立てば)その功績を見   
 逃してはならない。国家債務は明らかに減少し、流通し出した銀行券で農民の土地に重くのしかかっていた永代ラントを買い戻す例も数多く見られた。貿易面でも大西洋経済の活性化により、アンティル諸島の砂糖生産が増加し、ナントやボルドーなどの貿易港は活況にわいた。インド会社の根拠地ロリアン港では専属船舶数が倍増して三〇隻となり、北米のルイジアナ植民地では摂政オルレアン公の名に因むヌーヴェル・オルレアンLa Nouvelle-Orléans(ニューオリンズNew Orleans)という町が建設された。二宮宏之「十八世紀の政治と社会」第一~三節(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二四五~二六八頁参照
註③ 神聖ローマ皇帝カール六世は一七〇三3年の相続協定に加えて、一七一三年には「国事勅書」(プラグマティッシェ=ザンクツィオンPragmatische Sanktion)を発してハプスブルク家領の不分割・不分離のみならず、女子相続の場合は自らの家系がヨーゼフ系に優先することを確定し、双方の家系に女子もなければ前代のレオポルト一世に発する女子を相続人とした。一七一七年にはマリア=テレジアが誕生したが、バイエルン選帝侯アール・アルブレヒトや西王フェリペ五世Felipe V(在位一七〇〇~二四、二四~四六年、仏王ルイ一四世の孫、西ボルボン朝=ブルボン朝の祖)は女子相続に反対し、普王フリードリヒ=ヴィルヘルム一世Friedrich Wilhelm I(在位一七一三~四〇、ホーエンツォレルン家)や仏王ルイ一五世も同調した。坂井榮八郎「二大国の対立と帝国」(成瀬治・山田欣吾・木村靖二編『世界歴史大系 ドイツ史2』所収)一〇五~一一七頁参照
註④ 坂井榮八郎前掲論文一一一~一一七頁参照
註⑤ 玉木俊明『ヨーロッパ覇権史』(ちくま新書)二九~三八頁参照。Peter Mathias and Patrick Karl O'Brien.   “Taxation in Britain and France, 1750-1810:A comparison of the Social and Economic Incidence of Taxes Collected for the Centoral Governments ”, Journal of European Economic History.Vol.6, No.3, 1976, p.622. ジョン・ブリュアJohn Brewer『財政=軍事国家の衝撃―戦争・カネ・イギリス国家一六八八―一七八三』、BritishParliamentary Papers, vol.35(1668-69)参照
註⑥ 柴田三千雄『フランス史一〇講』(岩波新書)八八~九二頁、高澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)一七二頁、林田伸一「最盛期の絶対王政」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二〇四頁、拙稿「フランス絶対主義の光と影」(水戸一高『紀要』第五四号)各参照。
註⑦ 一七一五年「管区に関する王令は、高等法院で審議し登録されない限り効力を持たない」と定められた王令登録権(ただし、国王が親臨会議を開催して登録を強制すれば従う必要がある)と建白書提出権を回復して蘇生した高等法院は、その後、プロテスタントやイエズス会の問題では国王政府と協調関係を維持した。例えば、一七六一年、パリ高等法院はあるイエズス会士の破産事件を契機にイエズス会そのものを有罪と断じて、 翌年には管区外への追放処分を行ったが、国王政府も一七六四年の王令でフランス全土におけるイエズス会の活動を禁じている。高等法院とイエズス会が対立した背景には、一七五八年、教皇クレメンス一三世Clemens XIII(在位一七五八~六九) の選出まで遡り、ガリカニスム(フランス国家教会主義)Gallicanisme的傾向があるジャンセニストとローマ教皇庁に直結していたイエズス会とが激しく対立したのである。なお、高等法院については拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(上)」(水戸一高『紀要』第五二号)三~一一頁、カミザールの乱(セヴェンヌ戦争)については拙稿「フランス・プロテスタントの反乱」(水戸一高『紀要』第五三号)を各参照のこと。
註⑧ 一七五七年一月五日の夕刻、ヴェルサイユ宮殿からトリアノン宮殿へ赴くために馬車に乗ろうとしたルイ一五世は、ロベール・フランソワ・ダミアンRobert-François Damiensという男に襲撃された。ダミアンは短刀で王の脇腹を刺したが、王は普通のコートの上にさらに毛皮のコートを重ね着していたため、傷はかすり傷程度のものであった。ダミアンはアルトワ地方の生まれだが妻や娘を捨ててパリへ出て、 高等法院評定官の邸などで働いていた四二歳の男で、勤め先の金貨二四〇ルイ(五七六〇リヴール)を盗んで逃亡していた。ダミアンはパリ市庁舎前のグレーヴ広場で、足責めの拷問を受けた上で八つ裂きの刑に処せられた。安達正勝『死刑執行人サンソン』(集英社新書)九五~一〇二頁参照
註⑨ 柴田三千雄「十八世紀の政治と社会」第四~五節(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系  フランス史2』所収)二六八~二八〇頁参照
註⑩ 三浦一郎『世界史の中の女性たち』(社会思想社)一四一~一五二頁、パウル・クリストフ編『マリー・アントワネットとマリア・テレジア 秘密の往復書簡』(岩波書店)Paul Christoph, MARIA THERESIA GEHEIMER BRIEFWECHSEL MIT MARIE ANTOINETTE参照のこと。なお一七八五年八月一五日に起きた王妃マリ・アントワネットの「首飾り事件」は、宮廷に出入りしていたド・ラ・モット・ヴァロア伯爵夫人と称する女が、王妃の名を騙って、宝石商ベメールから五四〇粒ものダイヤモンドを連ねた首飾りを奪った事件。裁判ではヴァロア夫人が有罪となったが、民衆は王妃も同罪と受けとめた。また、マリ・アントワネットは一七七八年末の第一王女マリ・テレーズ・シャルロットMarie Thérèse Charlotte de France(一七七八~一八五一)出産以後、 第一王子ルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワLouis-Joseph Xavier François de France(一七八一~八九、王太子)、第二王子ルイ・シャルルLouis-Charles de France(王太子、 ルイ17世Louis XVII、一七八五~九五)、第二王女マリ・ソフィー・ベアトリス(一七八六~八七)と相次いで子宝に恵まれたが、一七八九年六月四日、第一王子が亡くなったとき、王室には埋葬費さえない状態となっており、銀の食器を売って工面したと伝えられている。
註⑪ 柴田三千雄前掲論文第六節二八〇~二八四頁参照
註⑫ フランスではプロテスタント教会が早くから聖書を日常語訳で読むのに必要な識字教育に取り組み、一七世紀にはカトリック教会も力を入れた。一九世紀後半に行われたマッジオロLouis Maggiolo(一八一一~九五)の調査では、教区記録簿に書かれた新郎・新婦の署名の有無から識字率を算出する方法がとられた、それによれば一六八六~九〇年の時点では男性二八・七%、女性一四%であった識字率が、一七八六~九〇年には男性四七・五%、女性二六・九%へと急上昇している。地域別に見ると西フランスのサン・マロとスイスのジュネーヴとを結ぶ直線の上方に位置する地域の識字率が高く、下方は低い。また、山岳地帯よりも平地で、貧しい地方よりも豊かな地方で、人口の過疎地域よりも稠密地域で識字率が高く、都市住民は周辺農村のそれよりも高い。農村の識字率が低い原因は、住民共同体の財政に干渉していた地方長官や行政官たちが、農業生産に使われるべき資金が教育費に回されることや、教育を受けた農村青年が都会に向かう離村向都現象を起こすことを恐れて農民教育に消極的だったことが考えられている。そして、重農主義者やディドロ、エルヴェシウスClaude-Adrien Helvétius(一七一五~七一)、ドルバックPaul-Henri Thiry,barond'Holbach(一七二三~八九)を除く啓蒙思想家の多く、例えばヴォルテールやルソーは農民教育に否定的であったことにも注目する必要がある。
柴田三千雄前掲論文第六節二八〇~二八四頁、長谷川輝夫「十八世紀の社会と文化」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収)二九六~三一四頁、林田伸一「近世のフランス」(福井憲彦編『新版世界各国史⒓ フランス史』所収)二二一~二三八頁、各参照。
註⑬ Alexis de Tocqueville;L'Ancien régime et la Révolution .トクヴィル著『アンシャン・レジームと革命』(井伊玄太郎訳、講談社学術文庫)参照
* 本文中の地図は『朝日=タイムズ 世界歴史地図』(朝日新聞社)一九六頁から引用し、写真はインターネットから利用させていただいた。

 

 

 

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フランス・プロテスタントの反乱 ~カルヴァン主義とユグノー戦争~

                                   
第一節 カルヴァン主義とは何か
(一)カルヴァンの生い立ち
 スイス宗教改革に名を残すジャン・カルヴァンJean Calvin(1509~64)は、一五〇九年七月一〇日、北フランスの小さな町ノワイヨンNoyonで生まれた。父ジェラール=コーヴァンは苦労して法律事務所を開設し、美しく信心深い母ジャンヌは若くして亡くなっている。当時のノワイヨンはブルゴーニュ公国État bourguignonの一部とされ、イタリア戦争(一四九四~一五五九年)を最終的に終結させたカトー・カンブレジ条約Traités du Cateau-Cambrésis締結(一五五九年)によってようやくフランス王国に復帰している。さて、コーヴァン家には子どもに大学教育を受けさせる経済的余裕はなかったが、幸い当時は将来教会に仕える者のために学資を提供する「教職禄」という制度が存在した。カルヴァンがこの制度を利用して兄(長男)シャルルの後を追うようにパリに遊学したのは、一四歳の夏のことであった(一五二三年八月)。彼が入学したのは、ラテン語学者・教育者として著名なマチュラン・コルディエMathurin Cordier(一四七九~一五六四)が指導する進歩的なラ・マルシュ学寮(コレージュ=ド=マルシュ)という学校であった。しかし、何故か一年後には保守的な校風で知られるモンテーギュ学寮(コレージュ=ド=モンテーギュ)に転校している。当時、隣国の神聖ローマ帝国内では、ヴィッテンベルク大学のマルティン・ルターMartin Luther(一四八三~一五四六)が「九五カ条の論題」を掲げて贖宥状批判を行ったことにより宗教改革の嵐が吹き荒れていた(一五一七年一〇月三一日)。したがって、フランス国内でも宗教改革の理論に論駁できる人材を養成することが喫緊の課題となっており、カトリック側の急先鋒ノエル・ベディエが学寮長を務めるモンテーギュ学寮がその要請に応えようとしていた。この学寮では、人文主義者ギヨーム・コップの教えを受ける機会に恵まれ、ほぼ同時期の学生としてイグナティウス・ロヨラIgnatius de Loyola(一四九一~一五五六)やフランソワ・ラブレーFrançois Rabelais(一四八三~一五五三
)がいる。註①
 一五二八年、モンテーギュ学寮を卒業して文学士の学位を得たカルヴァンは、オルレアン大学Universite d'Orleans法学部に進学する。カルヴァンはパリ時代から聖書研究を始めていたが、ドイツ人教師メルキョール・ヴォルマールMelchion Wolmar(一四九六~一五六一)の指導を受けてからはギリシア語原典を利用して学ぶようになった。これは、教皇レオ一〇世Leo X(在位一五一三~二一、メディチ家)に破門され、 神聖ローマ皇帝カール五世Karl V(在位一五一九~五六)から帝国公民権を剥奪されたルターが、ザクセン選帝侯フリードリヒのヴァルトブルク城に匿われている間に『新約聖書』(一五二一年)・『旧約聖書』(一五二三~二四年)をドイツ語に翻訳したのと同じで、カルヴァンもまたカトリック教会が使用しているラテン語訳聖書を信用できなくなっていたからである。また、 教師のヴォルマールはギリシア語聖書研究の手引きをすると同時に、ドイツにおける宗教改革の情報をもたらした。ただし、カルヴァンのオルレアンでの生活は短く、翌二九年にはベリー地方のブールジュ大学Bourgesへと移っている。ブールジュはゴシック建築のサン=テチエンヌ大聖堂(ブールジュ大聖堂Cathédrale de Bourges, 一一九五~一二五五年建造)が有名で、カトリック世界の重要な都市であった。このブールジュ大学には恩師のヴォルマールも転勤し、引き続き師弟の研究生活が継続された。
 しかしその頃、 故郷ノワイヨンでは父親が大変困難な状況にあった。カルヴァンがオルレアン大学に進学した頃から父ジェラールはノワイヨン司教と対立するようになり、やがて教会から破門され、ついにはその破門が解けないまま一五三一年五月二六日に亡くなったのである。晩年の父親はカルヴァンがこれ以上哲学や神学を学ぶことを好まなかったとも言われ、一五三一年ブールジュ大学を卒業して法学得業士の称号を手にしたカルヴァンは、王立教授団に加わって古典文学研究に邁進し、一五三二年四月には『セネカの寛容についての注解』を出版している。

(二)奴隷意志論とカルヴァンの回心
 古代末期の教父アウグスティヌスAurelius Augustinus(三五四~四三〇)によれば、人間はアダムの原罪によって「善をなす」意志の自由を失っており、罪人のままイエスの贖罪による救済を待つしかない、と説いた。この考えは中世キリスト教神学に継承され、「人間は自由な存在であるが自力では救いに入ることが出来ず、神の恵みによって救いを実現するためには善きわざを積み重ねる必要がある」と説かれ続けたのである。イタリア・ルネサンス期の哲学者ピコ・デラ・ミランドラGiovanni Pico della Mirandola(一四六三 ~九四) は、その論文『人間の尊厳について』において「おおアダムよ、・・・・われはおまえを天上的でも地上的でもない存在、可死的でも不死的でもない存在として創造した。それはおまえが自分でどういう形態をとっても、いわば自分の理解をもって、また自分の名誉のために、おまえの創造者にして形成者となるようにというためである。おまえは堕落して下等な被造物である禽獣となることもできる。おまえは自分の意志で決定して、より高等な園、言いかえれば神の園に再生することもできるのだ」(註②)と述べ、主体的な決断次第で人間は無限の可能性を切り開く事ができるとした。ピコは人間が無限の可能性を持てる前提としてキリストによる救済を措いている。
 この「自由意志論」を継承したのが、ルターと同時代に生きたヒューマニスト(人文主義者)のエラスムスErasmus(蘭、一四六九~一五三六)である。一五二四年、 エラスムスは『自由意志論』De lebero Arbitrioのなかで自由意志の役割を肯定し、人間の努力によって救済が神から与えられることを認めなければ一切の道徳が成立しないと主張した。したがって、ピコやエラスムスの自由意志論は、アウグスティヌス以来の系譜を引き継ぐものであった。ところが翌二五年、ルターはエラスムスの考えを真っ向から否定する『奴隷意志論』Deservo Arbitrioを発表し、救済はあくまでも神の恩寵によるものであり、自由意志は全く無力だと断言した。人間の運命は神に予定されており、自由意志に基づく努力によって何かになれると考えるのは神に対する冒涜に他ならない、としたのである。この論争の発端はノエル・ベダを中心とするパリ大学神学部がエラスムスに圧力をかけてルター批判を行わせたことに端を発するが、両者の相互批判は互いの誤解も手伝って水掛け論に終始した。註③
 しかし、ルターの「神の絶対的決定」の思想は、カルヴァンによって継承された。一五三三年、 突然、 カルヴァンに「回心」conversionが起きたのである。「神に背いている自らの罪を認め、神に立ち返る」という信仰体験をしたカルヴァンは、それ以来ヒューマニストとしての生き方をやめ、一生を神に捧げることになる。一五五七年、彼が旧約聖書「詩篇」の注解を書いたとき、その序文の中に「・・・・しかし、神は突然の回心によって、年齢のわりには余りにも頑なになっている私の心を、屈服させて従順にならせたもうた」と記している。一五三三年以前のカルヴァンも神の存在を認めて直向きに崇拝していたことは事実であるが、回心以降は神が全てとなり、 自分は完全に無と化したのである。こうして神に捉えられたカルヴァンは、神の前で自由を放棄している人間こそが個人の自由と社会的自由とを獲得するための闘いを行える、と考えるようになる。

(三)フランスからの逃亡~ジュネーヴにおける改革(1)~
 一五三三年一一月一日、パリ大学総長ニコラ・コップNicolas Cop(一五〇六~?、ギョーム・コップの息子)は大学開講日に「キリスト教的哲学」という演題で講演を行ったが、その内容が極めて宗教改革の色合いが濃厚だったために問題となった。彼はカルヴァンの親友であったことから、今でも講演原稿の起草者はカルヴァンではないかと推測されている。その当時、仏王フランソワ一世François Ier de France(在位一五一五~四七)は教皇クレメンス七世Clemens VII (在位一五二三~三四)とフランス国内の異端撲滅を約束するマルセイユ協定(一五三三年)を締結したばかりであった。パリ大学からの内部告発を受けた国王は直ちに王令を発して、ニコラ・コップを最高裁判所に召喚した。危険を察知した二人はパリを脱出する。カルヴァンは友人ルイ・デュ・ティエが主任司祭をしていたフランス南西部の町アングレームAngoulêmeへと逃げ、シャルル・デスペヴィルという偽名を使っている。また翌三四年にはネラクNérac(四月)を経て故郷ノワイヨン(五月)へ行き、教職禄辞退の手続きをしている。その後、カルヴァンはメスMetzからシュトラスブルクStraßburg(ストラスブールStrasbourg)へと逃亡の旅を続けた。ところが、この年の一〇月、何者かがカトリック教会のミサを罵倒し、パリをはじめブロワ、オルレアンなど多くの都市で教皇やカトリック教徒を偽善者呼ばわりする怪文書をばら撒く事件が発生し、国王の寝室の扉にまで貼られる始末であった。この檄文事件に激怒したフランソワ一世が、即日「異端撲滅令」を発したため、フランス全土では約一カ月間にわたって迫害の嵐が吹き荒れた。パリではエチエンヌ・ド・ラ・フォルジュなど多くの殉教者を出す一方、イグナティウス・ロヨラ等によってカトリック的世界を守るためのイエズス会が結成された(一五四〇年認可)。
 ところがカルヴァンは、一五三五年一月、バーゼルBaselを訪れて『キリスト教綱要』初版を脱稿し、 フランソワ一世への献呈の辞を書き加えている。おそらく、その理由としてはフランソワ一世の落ち着かない宗教政策が挙げられるのではないか。カルヴァンの書いた『キリスト教綱要』の内容は、「信仰は聖書を基準とし、救済は信仰によってのみ得られる」とする福音主義(註④)そのものであるが、同時にフランソワ一世に対する反論という側面も併せ持っていた。出版は翌年三月まで遅れ(第二版一五三九年、 第三版一五四三年、第四版一五五〇年、最終版一五五九年)、生活に窮したカルヴァンはプロテスタントを保護していた北イタリアのフェラーラ公Ferrara の宮廷を訪ねている(一五三六年二月)。フェラーラ公エルレコ二世Ercole II d'Esteはカトリックの信奉者であったが、公爵夫人ルネRenee de France(国王ルイ一二世の娘。フランソワ一世の妃クロードの妹)は新教徒に対する理解者であった。しかし、やがて皇帝カール五世によるフェラーラ公国に対する圧力が強まり、宮廷の客人たちは四散するしかなかった。カルヴァンは西へ向かい、ピエモンテ地方の町アオスタAostaからサン=ベルナール峠越えでスイスに入り、 バーゼルからマルチン=ブーツァーMartin Butzer(一四九一~一五五一)やヴォルフガング=カピト Wolfgang Capito(一四七八~一五四一)など高名な指導者の住むストラスブルクへ向かうつもりであった。ところが、そのルートは仏王フランソワ一世と皇帝カール五世の戦いで通行不能となっており、やむを得ず一旦リヨンに出てからジュネーヴ Genève入りを目指すことになった。
 当時のジュネーヴは三方をサヴォイア公国Savoiaに囲まれ、司教はサヴォイア公と結びついていた。したがって、ジュネーヴはスイスの他の都市と同じく市会があり、時には市民総会が開催されていたが、 一五二六年の「共和都市独立宣言」後も完全に独立しているとは言い難い状態にあった。しかし、一五三二 年、所謂「モーMeauxの人々」の一人ギヨーム・ファレルGuillaume Farel(一四八九~一五六五)が訪れたときから、ジュネーヴは大きく変化した。ファレルが宗教改革を始めたからである(註⑤)。始めのうちはファレルの教えに耳を傾ける人はほとんど居なかったが、やがて新しい宗教こそがジュネーヴの独立に必要だと考える人々が増え、一五三六年五月二一日、全市民集会における投票を経て「福音によって生きる」宣言を発したのであった。但し、 ジュネーヴ市民が行ったのはあくまでも政治的独立を願った決断であり、宗教改革に踏み込んだわけではなかった。 
 しかし、 ファレルはついていた。カルヴァンがジュネーヴの町にやってきたからである。ファレルは早速、カルヴァンを訪ね、改革への手助けを懇願した。そしてファレルの熱意に感動したカルヴァンは、自らの予定を破棄して協力を約束したのである。バーゼルでの事務手続きを済ませたカルヴァンがジュネーヴで活動を開始するのは八月に入ってからで、彼の仕事はサン=ピエール教会La cathedrale protestante Saint-Pierre de Genèveの聖書講師であった。やがて一〇月になり、カルヴァンは新旧両派が激論を交わしていたローザンヌ会議Lausanneにファレルの随員として出席している。会議はファレル側が不利であったが、やがてカルヴァンの登場で新教徒側の勝利となり、ローザンヌも宗教改革に取り組むことを決意した。
 同年、カルヴァンはジュネーヴ教会の牧師となり、サン=ピエール教会で説教を開始した。当時、ジュネーヴには偶像破壊で飾りを削ぎ落とされた殺風景な教会堂があるのみで、教会組織や礼拝の様式はまだ確定していなかった。カルヴァンは教会組織の再建に当たって、さまざまな改革に乗り出した。第一に「規律」を要求し、そのためには信徒の間から信仰の模範となり、指導者たりうる長老たちを選出し、彼等に教会運営の一部を委ねたのである。第二に殺風景な礼拝を心豊かにするため「讃美歌」を重視した。彼は「神はわがやぐら」Ein' feste Burg ist unser Gott(現行讃美歌二六七番)を作詞・作曲したルターほどではないが、詩人クレマン・マローClément Marotが作詞した「詩編歌集」やテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeの訳詞を大切にし、無伴奏で歌わせた。ジュネーヴ詩編歌はフランスのユグノー詩編歌となり、やがて一七世紀のオランダや北ドイツでオルガン音楽を発展させる礎となっていく。
 カルヴァンが取り組んだ第三の改革は、「信仰教育」である。信仰とはまさしく心情に根ざすものではあるが、感情的にただ「ありがたがる」ことではない。宗教改革者が掲げた信仰とは、「あなたまかせの無自覚さをしりぞけた、きわめて主体的で、自己自身の存在の問題を深くとらえた、確乎とした認識(知識)」である(渡辺信夫著『カルヴァン』六三~六四頁)。彼等はキリストの「御言葉」を教えられ(聞き)、それを受け入れる決断をすることによって信仰が始まると考えた。カルヴァンは、一五三七年二月、信仰教育に用いる教程「信仰の手引き」(第一回カテキズムcatechism)を作成している。そして第四の改革は、カトリック教会の教会法によって規定されてきた「結婚」観を排し、新たなる倫理規範を構築することであった。宗教改革者の多くは結婚をしているが、カルヴァン自身も一五四〇年八月に子連れの未亡人イドレット・ド・ビュルIdelette de Bureと結婚している。彼女とその夫(病死)はフランスから逃れてきた再洗礼派(アナバプテストAnabaptist 註⑥)であったが、カルヴァンの指導で再洗礼派から離れていた。夫と死別したイドレットの中に純粋な信仰心と優れた家政能力を認めたカルヴァンは、まさに市民的感覚をもって結婚に踏み切ったと言われている。もっとも、一五四二年七月二八日に誕生した長男は間もなく亡くなり、妻イドレットも一五四九年三月二九日に没している。以上の改革四項目が一五三七年一月、「ジュネーヴ教会教会規則」としてまとめられ、 同年四月に成立した「ジュネーヴ教会信仰告白」では「第一にわれわれは明言する。われわれは、己が信仰と宗教の規範として、聖書―すなわち、神の言葉によらずして人間の知恵が考え出した如何なるものも混じておらぬ聖書にのみ従いたいと決意するものである」と徹底した聖書主義を表明している。

(四)ジュネーヴ市会との対立
 ところが一五三八年春、ファレルやカルヴァンとジュネーヴ市会とが衝突し、ジュネーヴにおける宗教改革は一時頓挫した。その原因は二つある。第一に、カルヴァンが作成した「信仰告白」は市会の承認を得て全市民に強制されることになったが、有力市民たちで構成されていたリベルタン(自由主義者)libertinが激しく抵抗し、信仰告白の宣誓を拒否する者が続出したからである。これに対してカルヴァンたちは市当局にリベルタン追放を要求し、両者の対立は決定的となった。そして第二の原因は、教会とジュネーヴ市会の関係をめぐる対立であった。その当時、宗教改革を推進していた政治家たちは、サヴォイア公国との繋がりを断ってスイス諸都市との連係を強めようと考えていたが、同じスイスの都市ベルンBernから宗教改革の形式面での統一を図りたいとの申し入れがあり、ジュネーヴ市会はそれを受け入れていた。ベルンの形式はジュネーヴのそれよりもかなり保守的で、聖餐式に使うパンはカトリック教会と同じくパン種を入れない円い薄い堅焼きパン(ホスティアhostia)であり、教会堂の中には洗礼盤を復活させる必要があった(洗礼盤は偶像破壊の際に取り払われていた)。また教会の祝日も、日曜日と受難週(カトリック教の聖週間。棕櫚の主日から復活祭の前日までの一週間)、復活節(復活祭から聖霊降臨祭までの五〇日間)だけでなく、ファレルが廃止したクリスマス、新年、受胎告知日、キリスト昇天日を守らなければならないとしていた。宗教改革者たちにとって、それらの申し入れ内容に反対すべき項目はなかったが、「ジュネーヴ政府からの要請によって教会の形式を変更する」ことは絶対に容認できなかった。カルヴァンたちは春の復活節に予定されていた聖餐式を取りやめ、市会はそれに対抗して牧師たちの説教を禁じた。しかし、カルヴァンたちは死を覚悟して説教を続けたため、市側はついにカルヴァン、ファレル、そして盲人牧師クローの三人を追放したのであった(一五三八年四月)。三人はひとまずバーゼルに滞在し、ファレルはヌーシャテルNeuchâtelへ、クローはローザンヌへと向かい、生涯を彼の地で過ごすことになる。
 ストラスブルクに招かれたカルヴァンは、(一旦バーゼルに戻るものの)マルチン・ブーツァーからの再要請で、あらためてこの都市に赴いたのは九月のことである。ストラスブルクはバーゼルからライン川沿いに下ったところにある古くからの「街道筋の町」で、 当時は自由都市であった。ここでも一五二四年から宗教改革が進められていたが、ルター派に同調することはなかった。宗教改革の中心にはブーツァーがおり、改革はヴォルフガング=カピト、カスパル・ヘディオ、マティアス・ツェル等の合議に基づいて進められていた。教会組織は一種の長老制を採用し、信徒の中から選ばれた教会執事が病人や貧者を助ける「愛のわざ」に従事していた。そして彼らがカルヴァンに求めたのはフランス人亡命者に対する牧師の役目であり、大学で講義を行うことであった。その間、カルヴァンは著作活動に励み、一五三九年には『キリスト教綱要』改訂第二版を出版し、『ローマ書注解』(一五四〇年出版)、『サドレト枢機卿への手紙』を書いている。また、カルヴァンは積極的に宗教会議に出席し、一五三九年のフランクフルト会議ではメランヒトンPhilipp Melanchthon(一四九七~一五六〇)と知り合い、一五四〇年にはハーゲナウ会議(七月)・ヴォルムス会議(一〇月)、そして一五四一年にはレーゲンスブルク会議に参加している。
 ところで当時のプロテスタントは、ルター派以外に、ブーツァーたちストラスブルク派、チューリヒZürichで宗教改革(一五二三~三一年)を始めたツヴィングリZwingl(一四八四~一五三一)の後継者たち、 そして第四グループとしてドイツ農民戦争(一五二四~二五年)を起こしたトマス・ミュンツァーThomas Müntzer(一四八九~一五二五)の後継者や再洗礼派のように「聖霊」を強調する派閥に分かれていた。そしてルター派は第四グループの存在を全く認めなかったが、ストラスブルク派やカルヴァンは彼等を切り捨てようとはしなかった。カルヴァンは神の御言葉と結びつかない聖霊の働きはないとして、 聖霊だけを強調して重視することを批判したが、 第四グループを全否定することはなかったのである。彼のこうした態度は第四グループの人々に受け容れられ、その聖霊論はカルヴァン神学の中で重要な位置を占めるようになっていく。

(五)ジュネーヴにおける改革(2)
 一五四一年九月一三日、カルヴァンは再びジュネーヴに呼び戻された。ジュネーヴでは、カルヴァン以外にこの難局を切り抜けることができる人物はいない、との意見が他を圧倒したのである。しかし、カルヴァンはジュネーヴでの仕事を再び一からやり直さなければならなかった。前回同様、まずは教会諸規定を整え(一一月公布)、カテキズムを用意することから始めた。彼が再建した教会組織の最高責任者は牧師であり、一人の牧師以上の権威を持つことができたのは毎週開かれる牧師会のみであった(そこでは聖書の共同研究がなされた)。また、市会によって選出された一二名の長老たちは、牧師五名とともに長老会(コンシストワールconsistoire)を構成して教会員の信仰生活の規律を厳守させるとともに、長老会内部の誤りを是正する機能をも果たした。長老は教会内部の職だから本来であれば信徒間の選挙で選ばれるべきだが、カルヴァンたちの教会は未だ都市国家ジュネーヴの政治的権力から完全には分離できていなかったため、長老は市会によって選出されたのである。しかし、長老が教会内では牧師と同格の存在となり、 以前なら牧師のみが行い得た霊的指導という権能を持ったことの意義は大きい。牧師と長老がともに協力して、キリストの権威を鮮やかに浮かび上がらせるように教会の秩序を整える体制が誕生したのである。そして、司教制の廃止と長老制の導入は、宗教改革と政治的独立を結びつけることとなった。註⑦
 ただし、カルヴァンは政治権力の必要性を認めていたものの、自分自身が神からその務めを命じられたとは受けとめてはいなかったと思われる。彼の政治に対する態度は、次のようなものである。すなわち、 神から政治権力を預かった者はこれを委託した神の意志から逸脱しないように細心の注意を払いながら統治行為を行う必要があり、統治される側の人民は政治の改善を求めても良いが、さまざまな権利を要求することは許されなかった。ただし、カルヴァンは説教者として政治権力を持つ者たちを神の御言葉に信服させただけでなく、教会代表として教会の要望を市政に反映させるよう要求・助言を繰り返したが、直接的な統治行為はとっていない。ルターが政治権力の教会監督権を容認していたのに対して、カルヴァンは神の意志と真理を決定するのはあくまでも教会であるとして、政治権力は教会を助け、教会が求める規律を忠実に実行する義務を持つと考えたのである。
 しかし、カルヴァンの教会諸規定に基づく要求が、放蕩に明け暮れていたジュネーヴ市民にとっては些か厳しすぎたようである。カルヴァンの厳しい態度に反発したリベルタンはわざと教会に反抗したが、教会側は市当局を動かして力で抑圧しようとした。例えば、トランプ作りのアモーは公衆の面前で謝罪させられたうえ罰金を払わされ、旧約聖書「雅歌」を聖書正典と認めなかったセバスティアン・カステリオンSebastian Castellioというサヴォイア人は一五四四年に追放処分を受けた。また、有力者フランシス・フェーブルFrancis Favreを後ろ楯に抵抗した軍司令官アミ・ペランAmi Prinは投獄され、一五五〇年にはジュネーヴから逃走した。さらには、自由恋愛主義を標榜していた都市貴族ジャック・グリュエJacques Gruetは瀆神と無神論のかどで処刑され(一五四七年)、仏人ジャン・ボルセックJean Bolsecはカルヴァンの予定説を攻撃したこと理由に追放の憂き目を味わっている(一五五一年)。リベルタンにとっては、こうした教会側の強権的態度こそが(フランス人亡命者カルヴァンによる)ジュネーヴの自由・独立に対する侵害と映ったようである。そこで自由主義者たちは暴動を起こしたが、カルヴァン等も聖餐停止処分で対抗した。その当時、ジュネーヴ教会はツヴィングリの後継者ブリンガーJohann Heinrich Bullinger(一五〇四~七五)率いるチューリヒ教会との間で「聖餐」に関する理解で一致を見たばかりであった(一五四九年チューリヒ協定)が、教会側の聖餐停止処分がまたしても市民を二分する結果となった。そして、一五四九年、当時の市会はまだリベルタンが主導権を握っていたが、翌年のアミ・ペラン逃亡以後は改革派が優勢となった。註⑧

(六)宗教改革と予定説
 宗教改革でルターやカルヴァンが目指したのは、何と言っても「原始キリスト教」への復帰であった。したがって、彼等にとってイエス・キリストとは神に近い人間ではなく、人間となった神そのものである。そして信徒にとっての救いとは、すべて神からの恵みとしてもたらされるものだった。ところが、ルネサンス運動の根幹をなすユマニスム(ヒューマニズム)humanismeの影響を受けた人々の中には、キリスト教の根本的教義である三位一体説を否定する者がいた。その代表がスペイン人ミゲル・セルベトMiguel Serveto(一五一一~五三)である。彼は長年にわたって南仏のヴィエンヌ大司教Vienneの侍医として生計を立てていたが、一五五三年、『キリスト教の再建』で三位一体説を批判するとともに、 カルケドン信条(註⑨)や幼児洗礼を否定した。その後、逮捕されたセルベトは監視の目を盗んで逃亡し、同年八月、ジュネーヴに姿を現した。セルベトはジュネーヴにおけるリベルタンの情報を得ていたので、彼らが歓迎してくれるものと信じていたが、意に反して逮捕・起訴されてしまった。それでもセルベトの目論見では、無罪判決を勝ち取った後はカルヴァンに代わって自らジュネーヴにおける宗教改革の主導権を握るという強気の算段であった。そのとき、まだ市民権を持っていなかったカルヴァンはセルベトを告訴する権利がなかったが、彼の意を体した若者が告訴人となった。ジュネーヴ市会は最初のうちはこの裁判をどう処理していいか分からず、同盟関係にある周辺諸都市に問い合わせたところ、すべてカルヴァンを支持する返事が戻ってきた。その結果、セルベト裁判は(本人の予想とは全く相反する)焚刑という厳しい判決を下したのであった。その時、ファレルが死刑囚となったセルベトを慰めて、最後の悔い改めをさせるためにヌーシャテルから呼ばれた。ファレルは、「彼は胸を叩いて恵みを祈り、神に呼ばわり、キリストに祈りを捧げ、キリストを救い主、いなそれ以上のものとして認めた。けれども、かれはキリストのうちに、神の子を認めず、ただ時間のうちに生きる人間を認めるものであった」との記録を残している。死刑が執行された一〇月二七日、二人の市会議員を連れたカルヴァンがセルベトを訪ねたが、死刑囚は最後まで自らの考えを変えなかったという。また、カルヴァンのストラスブルク時代の学生で、後に仲違いしたセバスティアン・カステリオンSebastian Castellioは、マルティヌス・ベリウスMartinus Belliusという偽名で『異端者についてーかれらは迫害されるべきかどうか』(一五五四年)を著し、セルベト裁判におけるカルヴァンの態度を厳しく批判している。こうしてセルベト裁判は、カルヴァンが「神権政治」を行ったという後世の評価を決定づけた。しかし、(繰り返すが)カルヴァンは教会代表として教会の要望を市政に反映させようとはしたが、統治者とはならかった。一六世紀半ば、まもなく激化する「魔女狩り」の季節を前にして、断固として異端の存在を許さない彼の姿勢が神権政治と映ったのである。註⑩
 次に、 ルターやカルヴァンの教えに共通するものとして、「予定説」を挙げなければならない。人間の罪性と無力さへの深刻な自覚からは、人間の可能性に関する徹底した悲観的、絶望的教説しか生まれない。すなわち、人間存在そのものが罪を犯さざるを得ない宿命を持ち、人間の意志が悪だけしか欲することが出来ないとすれば、人間とは自己の救いについて何ら関与できない全く無価値の存在ということになる。ここから、ルターは「それゆえ、善行によってではなく、ただ信仰のみ」(信仰義認説)と考えたが、 カルヴァンはより徹底して「恩寵を信じることも、これに服従することもすべて神の意志にある」と判断した。したがってカルヴァンの考え方に従えば、救いに相応しい者になるか(恩寵を信じるか)、それとも救いを拒む者となるか(恩寵を信じないのか)という決定についても、人間の自主的判断が入り込む余地はない。カルヴァンの「絶対予定説」は、信徒が宿命論的怠惰や奴隷的無気力に安住することを許さず、厳しい禁欲的実践へと駆り立てる。何故なら、「あらゆる被造物はそれ自体のために存在するものではなく、神に属すものとしてその存在の全てを〈神の栄光〉の顕現のために捧げることが被造物である信徒の義務だ」と考えたからである。そして具体的には、「滅びの子の徴は、厳しい教会規律から脱落していくことである。救いに選ばれた保証は、日毎の実践における証しによって確証される」と受けとめたのである。
 ところで一五五五年以降、ジュネーヴ市民はおおむねカルヴァンの教えに信服するようになり、教会と市政当局との関係も格段に良い方向に変化していった。そのため、カルヴァンの関心は次第にヨーロッパ各地の宗教改革、とりわけ祖国フランスの改革へと向けられ始めた。カルヴァンが『キリスト教綱要』を最初に出版したのは一五三六年で、五年後の一五四一年にはそのフランス語版を刊行した。その後、版を重ねるたびにフランス語版も作られていることからも明らかなように、彼の意識からフランスが消え去ることはなかったものと思われる。しかし、当時のフランス=プロテスタントがおかれていた状況は、同じ新教徒であってもジュネーヴや神聖ローマ帝国のそれとは全く異なっていた。先ずドイツでは、ルター派教会が君主権に大きな役割を認めたために世俗権力間の宗教戦争が長く続いていた。アウクスブルク宗教和議Augsburger Reichs- und Religionsfrieden(一五五五年九月二五日)で宗教戦争が終結し、ルター派の信仰が許されたが、この「信仰の自由」は領邦国家や自由都市単位の自由であったために領邦教会制度の発達を促し、国家権力と教会の結びつきを強化する結果となった。その頃、カトリック教会側はトリエント公会議Trient(一五四五~六三年)を開催し、教皇至上主義を確認して結束を固めるとともに、新航路発見と結びついたイエズス会の布教活動で失地回復を果たしていた。こうした対抗宗教改革(反宗教改革)の動きに対して、ドイツにおけるプロテスタント陣営の旗色は悪かった。ルターの晩年は宗派内の論争が続き、彼は道徳不要論のヨーハン・アグリコラJohann Agricola(一四九九~一五六六)を追放し、メランヒトンさえ攻撃している。ルターの死(一五四六年)後は、メランヒトンを範としてプロテスタント諸派の間に平和をもたらそうとしたフィリップ派と、フラキウス・イリュリクスFracius Illyricus(一五二〇~七五)を指導者としてルターの教えの神髄を守ろうとした純正ルター派に分かれて対立するようになった。こうして、 ドイツにおける宗教改革は急速に硬直化し、 カルヴァン派との連携は可能性を失ってしまった。また、 ストラスブルクのブーツァーはカトリックとの和解を目指したが失敗し、一五四九年にカンタベリー大主教トマス・クランマーThomas Cranmer の招きでイングランドに渡った後は、エドワード六世時代の教会改革に携わっている(イングランド国教会は摂政サマセット公の影響で初めのうちはカルヴァン主義的傾向が顕著であった)。
 それに対して、カルヴァンの影響を受けたフランスのプロテスタント教会は、国家権力とは離れた形で、 時には国家権力と対決する中で信徒を増やす努力をし、フランス各地に教会を増設させていった。カルヴァンはジュネーヴで一種の「神権政治」を行ったという誹りを受けたが、彼の理想は政治との繋がりを清算した純粋な教会の創造にあった。一五五九年五月二五日、フランス改革派教会が正式に発足し、カルヴァンが起草した「信条」と「教会諸規定」に基づく全く新しい教会として活動を開始した。しかし、カルヴァン主義を、勃興期にあるブルジョワ中産階級が封建的・教権的支配に対する闘争の一手段として採用した宗教と見なすことは出来ないし、資本主義社会の実践に適合的な宗教と単純に述べるのも無理がある。二〇世紀初め、マックス・ウェーバーMax Weber(一八六四~一九二〇)は『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』の中で「カルヴァン派信徒が現世においておこなう社会的な労働は、ひたすら〈神の栄光を増すため〉のものだ。だから、現世で人々全体の生活のために役立とうとする職業労働もまたこのような性格をもつことになる」と評価したが、一六世紀半ば以降の宗教改革はカトリック教会の支配に対する闘争だけでなく、新旧両派の宗教と結びついた世俗権力相互の闘いという側面を持ったがために、 極めて複雑な展開をする。
 カルヴァンは宗教改革への支持を得るために沢山の手紙を書き送っているが、その宛先はヨーロッパ各地で奮闘している改革者のみならず、権力闘争に明け暮れている王侯貴族や無名の信徒と多岐にわたっていた。その結果、カルヴィニズム(カルヴァン主義)Calvinismは一六世紀という新しい時代と結びつき、西欧各地に浸透していく。カルヴァン主義が最初に浸透したのは、一五五〇年代のネーデルラント南部の職人・農民やポーランド、ハンガリー、ベーメンなどの貴族層であり、一五六〇年代以降はフランス、イングランド、スコットランドへと拡がった。カルヴァンの思想ははじめのうち職人・農民という下層民に支持されたが、宗教改革がそれぞれの国家を揺るがす巨大なうねりとなったのは、貴族層の支持を集めるようになってからである。カルヴァンの絶対予定説を信じた人々は、カトリック勢力からの迫害を受けるたびに教派としての団結を強め、長老制度を有する彼らの教会組織が規律と力を高めていった。彼らの組織は都市や集会を単位として編成されたために教派的分裂の危険性が常につきまとっていたが、カルヴァンも(一六世紀前半に現れた宗教改革者の例にもれず)「悪い統治者といえども、これを罰しうるのは神だけだ」と見なしており、カルヴァン派と世俗権力の衝突は回避可能であった。スコットランドでも地方的、国民的な大会が開催されるようになり、そこには下部組織から選出・任命された代表者が出席するようになった。こうして改革派教会は比較的穏健な民衆性を保つと同時に、組織としての規律や、会衆の自発性・活力の維持を両立させることができたのである。その結果、スコットランドでは一五六〇年、ジョン・ノックスJohn Knoxが長老主義教会と「スコットランド信仰告白」をつくり、ネーデルラントでは一五六一年、ギイ・ド・ブレがフランス信条の影響を受けて「ベルギー信条」を作成した。またドイツのプファルツ侯フリードリヒ三世Friedrich III(在位一五五九~七六、ヴィッテルスバッハ家)がカルヴァン派に改宗し、カルヴァンの弟子たちに「ハイデルベルク信仰問答」(一五六三年)を作らせている。こうして西欧各地にカルヴァンの影響を受けた人々が活躍し、彼らは「改革派」(リフォームド・チャーチReformed Church)と呼ばれるようになる。しかし、ヨーロッパの中で経済的先進地域となるネーデルラント、イングランド、フランスなどでは国王と貴族層の権力闘争に新旧両派の教会が結びつき、カルヴァン主義は反権威的自由思想という性格を濃厚にするのである。晩年のカルヴァンは、ユグノー戦争Guerres de religion(一五六二~九八年)ではもちろんプロテスタント側を応援したが、一五六四年五月二七日、波乱の生涯に終わりを告げた(享年五五歳)。註⑪

第二節 フランスにおける福音主義
 一六世紀初め、フランス王国ヴァロワ朝の第九代国王フランソワ一世François I(在位一五一五~四七)は、即位直後から神聖ローマ帝国のマクシミリアン一世Maximilian I(在位一四九三~一五一九)とのイタリア戦争(一四九四~一五五九年)に直面していた。一五一五年、ヴェネツィアと結んだフランス軍はミラノに侵攻して教皇庁に圧力を加え、翌一六年には教皇レオ一〇世との間で、フランス国内の大司教・司教・修道院長など高級聖職者の任命に際しては仏王が候補者を指名し、教皇が叙階することを定めた「ボローニャ協定」Concordat of Bolognaを締結した。教会を国家の枠内で捉え、王権の支配下に従属させようとするガリカニスムGallicanisme(国家教会主義)の画期となったのは英仏百年戦争(一三三九~一四五三年)末期に発布された「ブールジュの国事証書」(一四三八年)であるが、このボローニャ協定によって長年続いた聖職叙任権をめぐる争いが決着し、フランス国王は国内教会に対する教皇権の影響力を弱めることが出来ただけでなく、貴族勢力に対しても大きな力を発揮することが出来るようになった。したがって、当時のフランスでは約六〇〇に及ぶ司教座、修道院が国王の権力機構の中に組み込まれており、王権を支える強力な柱としての機能を果たしていたのである。
 こうした国家教会体制の確立は、王権伸長に大きく貢献した。何故なら、中世以来続いてきた教会の末端組織「教区」を王権が利用できるようになったからである。一五三九年、ヴィレール・コトレ勅令は各教区の司祭に洗礼記録を載せた教区簿冊をつけるように命じ、その一一〇条・一一一条では公的文書におけるフランス語使用を義務づけている。また一五七九年、ブロワ勅令では洗礼に加えて婚姻や埋葬の記録も残すよう命じている。これらの教区簿冊の写しは国王裁判所に提出することが義務づけられていたため、 王権は「戸籍」の管理が可能となり、やがて来る中央集権国家、国民国家成立への足がかりを手にしたのである。そして王権の伸長は、王領地拡大によっても裏付けられる。当時、王国中心部に広大な領域を持ち、王権から半独立的状態になっていたブルボン公家の所領は、 当主シャルル三世Charles III de Bourbonが独帝カール五世やイングランド王ヘンリ八世と通じていたかどで没収され、一五二七年に王領に併合された。また、既に婚姻政策によってヴァロワ王朝と結びつけられていたブルゴーニュ公領も、一五三二年には地方三部会の同意を得て王領に統合されている。註⑫
 ところが、一五一七年、ヴィッテンベルク大学教授マルティン・ルターが始めたドイツ宗教改革や二年後の神聖ローマ皇帝選挙は、フランソワ一世の思惑から大きく外れることとなった。先ず宗教改革の発生は自らの権力基盤を危うくする恐れがあり、皇帝選挙ではより潤沢な資金を用意したハプスブルク家の西王カルロス一世Carlos I(在位一五一六~五六、独帝カール五世在位一五一九~五六)に敗れている(註⑬)。一五二〇年代には早くもルター派の思想がフランス国内にも浸透し始め、一五二五年のアランソン公シャルル四世の死後、二年たってナヴァール王エンリケ二世と再婚した王姉マルグリット・ド・ナヴァールMarguerite de Navarre(一四九二~一五四九)が暮らすナヴァール宮廷には、フランス宗教改革を始めたと言われるルフェーブル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaples(一四五〇頃~一五三六)やジェラール・ルセルGérard Roussel(一五〇〇頃~五〇)、ラ・マルシュ学寮でカルヴァンを指導したマチュラン・コルディエMathurin Cordier(一四七九~一五六四)、フランス語訳聖書の改訂(一五三五年)で名高いオリヴェタンOlivétan(一五〇六頃~三八)など数多くの人文主義者が集ったと言われる。また、ブールジュではカルヴァンを導いたドイツ人教師メルキョール・ヴォルマールMelchion Wolmar(一四九六~一五六一)がルター主義に理解を示し、パリ近郊のモー司教区Meauxでは一五二一年頃からブリソンネGuillaume Briçonnetやギヨーム・ファレル、ルフェーヴル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaples(一五三〇年アントウェルペンでフランス語訳聖書刊行)を中心として教会改革が開始されていた。しかし彼等は、聖書の権威を尊重し、信仰によってのみ義とされる福音主義の原理には目覚めていたが、カトリック改良派の範疇から抜け出るものではなかった。
 しかし、こうした人文主義的な福音主義運動やルターの著作物の流入、ドイツやスイスからやって来る遍歴説教者の活動などによって、フランスにも福音主義がじわりと浸透し始める。当時、独帝カール五世とのイタリア戦争の最中にあったフランソワ一世は、カトリックの信徒として基本的には反福音主義の立場にあったが、時には国内の超保守派やドイツ=プロテスタントとの関係を考慮してフランス=プロテスタントの活動を黙認するという相反する宗教政策を展開していた。
 一五二一年、フランソワ一世はミラノ公国を支配していたスフォルツァ家Sforzaの追放に成功したが、皇帝カール五世が教皇レオ一〇世と結んでミラノを攻撃し、フランス軍は退却を余儀なくされた。しかし、一五二三年に即位した教皇クレメンス七世Clemens VII(在位一五二三~三四、レオ一〇世の従弟)は、フランス王と皇帝のどちらにつくかで揺れていた。そこで一五二五年、ドイツ農民戦争(一五二四~二五年)の混乱の隙を突くように、フランソワ一世が直接指揮するフランス軍がロンバルディア地方になだれ込んだ。しかし、スペイン=神聖ローマ帝国連合軍(ハプスブルク家)とパヴィア駐屯軍は小銃とピケpiqueを巧みに使用してフランス軍を撃退することに成功した(二月二四日パヴィアPaviaの戦い)。その時、かつてフランソワ一世に仕え、一五二三年神聖ローマ帝国に亡命していたブルボン公シャルル三世が、皇帝軍を指揮してフランソワ一世を捕虜にする活躍を見せた。註⑭
 マドリードで幽囚の身となったフランソワ一世は、カール五世と教皇の関係を分断する目的でフランス国内における新教徒迫害指令(一五二五年)を出し、一五二六年には屈辱的なマドリード条約を結んで釈放された。帰国したフランソワ一世は条約不履行を宣言して、スペイン=神聖ローマ帝国連合に対抗するためにフランス南西部でコニャック神聖同盟Cognac(教皇・仏・英・ヴェネツィア・フィレンツェ・ミラノ)を結成した。教皇もこれに加わり、皇帝と同盟していたフェラーラ公アルフォンソ・デステAlfonso d'Esteを破門し、ローマに幽閉した。また、 ドイツではヘッセン方伯フィリップ一世ら改革派諸侯によるゴータ・トルガウ同盟Gotha-Torgauが結成され、カトリック側のデサウ同盟Dessau に対抗している。翌二七年、周到な準備を重ねたフランソワ一世は戦争を再開したが、その時彼はゴータ・トルガウ同盟の支持を得るために一転してプロテスタントへの迫害中止命令を発している。一方、独帝カール五世はフランスと結んだ教皇クレメンス七世への報復のためにブルボン公シャルル三世をローマに派遣し、同年五月六日の戦闘で教皇軍を撃破した(教皇はティベル川右岸のサンタンジェロ城Castel Sant'Angeloに逃げ込んだ)。シャルル三世の指揮する皇帝軍はローマ包囲に成功したが、指揮官が狙撃で落命し、統制を失った皇帝軍は破壊と略奪の限りを尽くした(ローマ略奪Sacco di Roma)。皇帝軍は教皇の降伏(六月)後も居座り続け、この混乱の中で「イタリア・ルネサンス」は終焉の時を迎えたのである。
 その間、神聖ローマ帝国は、スレイマン一世Süleyman I(在位一五二〇~六六)率いるオスマン帝国という強大なイスラーム国家の進撃に怯えていた。一五二六年六月には迫り来るオスマン軍に動揺して第一回シュパイエル帝国議会が開催され、ヴォルムス勅令(一五二一年、ルター派禁止)の実施延期を決めている。しかし同年八月二九日、ハンガリー王兼ベーメン王ラヨシュ二世Lajos II(在位一五一六~二六、ベーメン王ルドヴィーク Ludvik Jagellonsky)率いる3万の軍勢はドナウ川のほとりのモハーチ平原で倍以上のオスマン軍と戦ったが、国王自身が戦死するなど壊滅的な敗北を喫した。ハンガリー軍が騎士を中心とする古い戦術をとったのに対して、オスマン軍が歩兵の小銃だけでなく三〇〇門の大砲を持っていたことが勝敗を分けたのである。そして、ハンガリー王の後継者としてはトランシルヴァニア地方の領主サポヤイ・ヤーノシュSzapolyai Janosが有力であったが、スレイマン一世を後ろ楯としたことでヨーロッパ諸国の君主から嫌われ、ラヨシュ二世の姉アンナの夫で王妃マリアの兄に当たるフェルディナント大公(後の神聖ローマ皇帝フェルディナント一世)がベーメン・ハンガリーの統治を継承することになった。
 三年後の一五二九年四月二二日、神聖ローマ帝国内では第二回シュパイエル帝国議会が開催され、ヴォルムス勅令を再確認した。また、独仏間の戦争はドイツ軍の勝利となり、皇帝カール五世は教皇との間にバロセロナ条約Barcelona(六月)、フランスとの間にはカンブレー和議Cambrai(八月三日)をそれぞれ締結した。しかし同年、ハンガリー王位を逃したヤーノシュの要請で再びオスマン軍がハンガリーへと進撃し、九月二八日にはオーストリア大公国の都ウィーンが包囲された。しかし、スレイマン一世率いるオスマン軍は確かに強力ではあったが、既に補給線が伸びきっており、早くも冬将軍が押し寄せようとしていた。そのため、スレイマン一世はやむなく撤退を選択したのであった。第一次ウィーン包囲の緊張下、 カール五世はイタリアを支配下に収め、 翌三〇年には教皇クレメンス七世をボローニャに招いて神聖ローマ皇帝戴冠式を挙行している。(これが教皇による神聖ローマ皇帝戴冠の最後となった)註⑮
 一方、 仏王フランソワ一世は、一五二九年のカンブレー和議後は再びプロテスタントの迫害に転じ、 一五三三年(カルヴァン「回心」の年)に教皇クレメンス七世とマルセイユ協定を結んで異端撲滅を約束したことは先に見たとおりである。パリ大学総長ニコラス・コップの福音主義的演述が異端と断罪され、コップやカルヴァンがパリから逃げ出したのは、フランソワ一世がマルセイユ協定を即座に実行に移したからであった。しかし僅か三カ月後にはフランスとドイツ=プロテスタント諸侯との秘密同盟が成立したため迫害停止に変更し、一五三四年一〇月の檄文事件後の約一カ月に及ぶ激しい弾圧の後も三度目の寛容策を採用するなど、その新教徒対策は猫の目のようにめまぐるしく変化した。フランソワ一世はドイツ=プロテスタントの離反を恐れてプロテスタントに対する弾圧を中止し、デ・ベレの献言を容れてメランヒトンMelanchthonやブーツァーをフランスに招こうとしただけでなく、プロテスタントに好意的なアントワーヌ・デュプラ Antoineduprat Chancellierを大法官に任命し、亡命者を帰国させるための「寛容令」さえ発している。そして彼は、フランスにおける新教徒取り締まりは謀反を企てている騒擾者(具体的には再洗礼派)の掃討が目的であると宣伝していた。
 やがて一五三五年二月になると、フランソワ一世とスレイマン一世は、宗教の違いを乗り越えて共通の敵「神聖ローマ帝国」と対決することにした。すなわち、オスマン帝国が領内に住むフランス人に対して、 非イスラーム教徒であるにもかかわらず通商の自由や治外法権などを認める〈カピチュレーション〉capitulationという特権を与えたのである。その結果、イタリア戦争第三戦(一五三六~三八年)はフランス優位のうちに「ニースNiceの和約」(一五三八年)を結ぶことができ、もはやプロテスタントに甘い顔を見せる必要がなくなったフランソワ一世は一転して厳しい弾圧に乗り出した。一五三八年、一五三九年、 一五四〇年と連続して勅令が発せられ、一五四二年の「出版物検閲に関する勅令」ではカルヴァン著『キリスト教綱要』の写しを二時間以内に破棄することを命じ、一五四四年二月一四日にはノートルダム大聖堂の前庭でエティエンヌ・ドレによって印刷された『キリスト教綱要』が焼却され、七月一日の勅令では『キリスト教綱要』を高等法院に差し出さなかった者を絞首刑に処することを告げている(八月一九日には禁書目録が発表された)。また、一五四六年四月一七日ルーアン高等法院に異端を裁くための特別委員会が創設され、フランソワ一世が逝去してまもない一五四七年一〇月八日にはパリ高等裁判所内に火刑裁判所が設けられた。
 ところで、宗教改革の開始以降、新旧両派がともに公会議の召集を模索していたのに対して、フランソワ一世やイングランド王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)は公会議開催によってドイツ国内の宗教的対立が解消することを危惧していた。一五三七年五月二三日に召集されたマントヴァ公会議Mantovaは、ドイツ国内のシュマルカルデン同盟Schmalkaldischer Bund(一五三〇年結成)が事前に公会議への招請を拒否し(同年二月二四日)、フランソワ一世も開催地が皇帝の勢力圏内にあることを理由に断ったため開催が不可能となった。しかし、独帝カール五世はプロテスタント側との和解を追求し、一五三八年、フランスとの間に「ニームNîmesの和議」を結んで、一時的な休戦を実現させた。ところが、スペイン=ヴェネツィア連合艦隊がオスマン帝国海軍に敗れて(一五三八年、プレヴェザPrevezaの戦い)恐怖のどん底に陥れられた神聖ローマ帝国では、皮肉にも新旧両派の対立を解消する絶好の機会が訪れた。一五四一年には、そのオスマン帝国が再びハンガリーへの侵攻を開始した。カール五世がレーゲンスブルクRegensburgで調停工作に乗り出したとき、教皇パウルス三世Paulus III(在位一五三四~四九
)は枢機卿ガスパロ・コンタリーニを派遣したが、この試みは失敗に終わった。しかし、レーゲンスブルクでの調停失敗は、公会議開催の必要性を改めて痛感させたのである。枢機卿ジョヴァンニ・モローネがドイツとの折衝に当たった結果、枢機卿司教クリストフ・マドルッツォーが領主を務める北イタリアの帝国都市トリエントTrient(トレントTrento)で公会議を開催することでようやく合意に達した。ところがこの年の夏に仏独間の戦争が再開されたため、またしても公会議は中止となってしまった。翌四四年には、 独帝カール五世が勝利を収めて「フレピーの和議」(九月一八日)を締結したが、敗れたフランソワ一世が秘密条項でフランス司教の出席を約束したため公会議開催の主たる障碍は取り除かれた。一一月三〇日、教皇パウルス三世は公会議中止を取り消し、一五四五年三月一五日(四旬節第四日曜日)を期して開会することを宣言した(ただし、実際に開会できたのは一二月一三日)。トリエント公会議は一五六三年一二月四日の閉会まで都合一八年間にわたって開催されたが、フランスの司教が出席するのは第三期(一五六二年一月一八日第一七会議~六三年第二五会議)のみであった。トリエント公会議では、教義上の妥協が一切なかっただけでなく、聖書はヴルガータ版 Vulgata(カトリック教会の標準ラテン語訳聖書)以外の各国語訳を認められず、伝統的秘蹟の有効性や人の自由意志、神の赦しを再確認し、聖職者の職務励行や規律と資格改善を謳ったのであった。
 その間、ドイツのルターは改革派の急進的行動に当惑し、プロテスタント諸侯すなわち世俗権力との同盟関係を結ぶようになっていた。その結果、帝国都市六五のうち五〇都市までが改革派を受容し、ルターが亡くなる一五四六年にはシュマルカルデン戦争(一五四六~四七年)が勃発している。ドイツ北部の改革派諸侯・都市と皇帝やカトリック諸侯・都市が拠った南部勢力との戦いは、一五四七年四月二四日ミュールベルクMühlbergの戦いでザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒJohann Friedrich が捕虜となり、カトリック側の勝利となった。一五五五年九月二五日、アウクスブルク帝国議会Augsburgで新旧両派の和議が結ばれ、(1)帝国内における宗教戦争の終結(ただし、再洗礼派・カルヴァン派を除く)、(2)領邦君主および帝国都市の宗教的領域主権の容認(諸侯がカトリックとルター派のいずれかを選択し、各領域にその宗教を強制するcuius regio eius religio)とした。すなわち、領邦教会制度が成立したのである。この和議内容に失望したカール五世は欠席し(弟フェルディナントが臨席)、翌月にはブリュッセルの宮廷でネーデルラントを嫡子フェリペに生前贈与する式典を催した。また、その後半年もしないうちにスペインをフェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)に、オーストリアなどを弟フェルディナント一世Ferdinand I(在位一五五六~六四)に譲っている。
 一方、フランス国内の新旧両派は活発に布教活動を展開していたが、一五四〇年代から広まりだしたフランス=プロテスタント(ユグノーHuguenot)の勢力は、始めは都市の手工業者や小商人に信仰されただけだったが、次第に幅広い階層に支持されるようになった。一五五〇年代後半からは高等法院内部にユグノーが現れ、ついで兵士や貴族の中にも改宗者が続出してパリ地方、ロワール流域、西部および西南部フランス、リヨンやローヌ川下流の諸都市に浸透し、一五五九年には最初の全国教会会議がパリで開催されるまでになった(五月二五日、議長はフランソワ・モレル牧師)。一五六一年にはユグノー派の教会もしくは集団が二一五〇も存在し、プロテスタント人口は二〇〇万人にのぼった(その後は弾圧が激しくなったために、一五九八年に一二五万人、一六八一年に七三万人と減少したと推定されている)。

第三節 イングランド宗教改革とフランスの内乱
 1.イングランド宗教改革
 一六世紀前半、イングランド王国テューダー朝(一四八五~一六〇三年)では、第二代国王ヘンリ八世Henry VIII(在位一五〇九~四七)が国家主導で宗教改革を行い、カトリック世界からの自立を図っていた。しかし、元来の彼はルターの宗教改革に反対し、一五二一年には教皇レオ一〇世から「信仰擁護者」fidei defensorという称号を与えられたほどであった。ところが一五三三年、ヘンリ八世は王妃キャサリン・オブ・アラゴン Catherine of Aragon(メアリ一世の生母)との離婚を教皇クレメンス七
世に反対されたことに立腹し、翌年議会の協賛を得て国王至上法(首長法)Act of Supremacyを定め、国王を最高の長とするイングランド国教会Church of Englandを成立させた。その後、一五三六年、三九年には修道院を解散させ、ローマ派教会や修道院の土地・財産を没収してジェントリ(郷紳)gentryに売却している。ヘンリ八世は、再婚した王妃アン・ブーリンAnne Boleyn(エリザベス一世の生母)を反逆、姦通、近親相姦及び魔術という罪でロンドン塔に幽閉したうえ斬首刑とした(一五三六年五月一九日)後、3度目の結婚相手に選んだのが前の二人の王妃に仕えていたジェーン・シーモアJane Seymour(エドワード六世の生母。産褥死)という女性であった。ヘンリ八世はその後も、アン・オブ・クレーヴズAnne of Cleves(一五四〇年結婚、同年離婚)、キャサリン・ハワードKatherine Howard(アン・ブーリンの従姉妹、一五四〇年結婚、一五四二年離婚・刑死)、キャサリン・パーCatherine Parr(一五四三年結婚)と続けて不幸な結婚を繰り返す。そして、シーモア家はジェーンが唯一の嫡子エドワードを産んだことで王室に深く関与することに成功する。
 エドワード六世Edward VI(在位一五四七~五三)がわずか九歳の幼さで王位に就いた一五四七年、サマセット公エドワード・シーモアEdward Seymour, 1st Duke of Somersetは王室の実権を掌握したが、その間、一五四九年と一五五二年の二度にわたって祈禱書が作成され、イングランド国教会の脱カトリック化が進んだ。しかし、一五五二年始めにはエドワード・シーモアが王権壟断と反逆の科で処刑され、次いでノーサンバランド公ジョン・ダドリーJohn Dudley, 1st Duke of Northumberlandが実権を奪った。やがて病弱な国王の死期が近いと察知したノーサンバランド公は、自分の六男ギルフォードをエドワード六世の従姉フランセス・ブランドンの娘ジェーン・グレイJane Greyと結婚させて彼女を次の国王に据えようと画策した。死の床にあったエドワード六世は、結局それを了承して七月六日に亡くなった(享年一五歳)。ノーサンバランド公は王位継承権者メアリの身柄を拘束しようとしたが、身の危険を察知したメアリはノーフォーク公トーマス・ハワードThomas Howard, 3rd Duke of Norfolkに匿われロンドンを脱出する。七月一〇日にはジェーンがロンドン塔に入城して王位継承を宣言したが(ジェーン女王〔在位一五五三年七月一〇~一九日])、一方のメアリも一三日にイングランド東部のノリッチNorwichで即位を宣言した。やがて多くの支持者がメアリのもとに集結し、ノーサンバランド公の軍隊を撃破した。こうしてロンドンに呼び戻されたメアリは改めて「正統」の女王メアリ一世Mary I (在位一五五三~五八)の即位を宣言し、ノーサンバランド公とその子ギルフォード、そしてジェーン・グレイをいずれも反逆罪で斬首刑に処した。
 さて、スペイン王家の血を引くメアリ一世は敬虔なカトリック信者であり、彼女が結婚相手として選んだのは従兄の子にあたる西王太子フェリペ(後のフェリペ二世)であった。しかし、フェリペはメアリ一世より一一歳も年下であり、カトリックの宗主国のような国家の王太子であったから、この結婚には反対する者も多かった。だが、一五五四年七月に結婚式が挙行され、フェリペには共同王としてのイングランド王位が与えられた。翌五五年、メアリ一世は父ヘンリ八世以来の宗教改革を覆し、イングランド王国をカトリック世界に復帰させた。彼女はプロテスタントを迫害し、女性や子どもを含む多くの人々を処刑したことから「血まみれのメアリ」Bloody Maryと呼ばれている。一五五六年、夫フェリペはスペイン王フェリペ二世Felipe II(在位一五五六~九八)として即位するために本国に帰国し、一年半後にはロンドンに戻ったものの、わずか三か月後には再びスペインに帰国して二度とメアリと会うことはなかった。メアリ一世は五年余の在位の後、一五五八年一一月一七日、卵巣腫瘍が原因で他界した。
 次の国王は、ヘンリ八世の二番目の王妃アン・ブーリンが産んだエリザベス一世Elizabeth I(在位一五五八~一六〇三)である。母親が処刑された後の彼女は「庶子」とされたが、一五四三年、第三王位継承法の発令で姉メアリとともに王位継承権を回復した(一五五二年には再び剥奪された)。メアリ一世の治世が始まって間もない一五五四年、エリザベスはワイアットWyattの乱に関与したのではないかと疑われ、最初ロンドン塔に、ついでコッツウォルズの町ウッドストックWoodstockに幽閉された。一五五八年、病に倒れたメアリ一世はエリザベスの王位継承を承認し、まもなくエリザベス一世が即位したのである。戴冠式は翌五九年一月一五日、ウェストミンスター寺院で行われ、カトリックのカーライル司教から聖別された。同年、イングランド議会はエドワード六世の宗教政策に基づいた教会法の作成に着手し、五月八日に新たな国王至上法と信仰統一法が制定され、イングランド国教会が再建されたのであった。イングランド宗教改革はその原因をヘンリ八世の個人的気質に求められることが多いが、実態はフランス、スペイン、神聖ローマ帝国という強大国に隣接するイングランドの存亡をかけた事件と捉えるべきであろう。すなわち、ヘンリ八世、エドワード六世、メアリ一世、エリザベス一世と続く紆余曲折は、イングランド統治階級が共通して模索した国家像の変遷でもあった。

 (二)カトリーヌ・ド・メディシスとアンボワーズ陰謀事件
 一方、フランス王国では一五四七年三月三一日、フランス=ルネサンスに巨大な足跡を残したフランソワ一世がついに身罷った。そして、一五世紀半ばから一六世紀前半にかけて強大化した王権は、彼の死とともに一旦後退期に入る。フランソワ一世から王位を継承したのは、第二王子オルレアン公アンリ・ド・ヴァロワであった。そしてこのアンリ二世Henri II(在位一五四七~五九)と結ばれたのが、ユグノー戦争の中心人物の一人となるカトリーヌ・ド・メディシスCatherine de Médicis(伊語Caterina di Lorenzo de' Medici)であった。
 彼女は、一五一九年四月一三日、イタリアのフィレンツェFirenzeでウルビーノ公ロレンツォ二世・デ・メディチLorenzo di Piero de 'Medici(ロレンツォ・デ・メディチの孫)とオーヴェルニュ伯ジャン三世Jean de La Tour d'Auvergneの娘マドレーヌとの間に生まれた。父ロレンツォ二世は叔父の教皇レオ一〇世(在位一五一三~二一)によってウルビーノ公Urbinoに叙されたが、彼の亡き後はその称号を剥奪された。母マドレーヌはカトリーヌを出産するとまもなく黒死病に罹って亡くなり、一五一九年には父ロレンツォ二
世も死去したため、カトリーヌは親戚を転々としながら育つことになった。そのためカトリーヌ本人は、 父が公爵で母がブローニュ女伯爵であるにもかかわらず、比較的低い出自となった。しかし、一五二三年に一門のジュリオ・デ・メディチ枢機卿が教皇クレメンス七世(在位一五二三~三四)に選出され、翌二四年にはマドレーヌの姉アンナが子どものないまま没したため、オーヴェルニュ伯領、ブーローニュ伯領、 ラ・トゥール男爵領がマドレーヌの一人娘カトリーヌに引き継がれることになった。一五三三年、教皇と仏王フランソワ一世の間で縁組交渉がまとまり、一〇月二八日、アンリ王子とカトリーヌはマルセイユで盛大な結婚式を挙げたのである。新婚の二人はともに一四歳の幼さで、カトリーヌは持参金一〇万デュカやオーヴェルニュ伯領などの領地、教皇から贈られた一〇万デュカ相当の宝石のほか、お供一〇〇〇人を伴って嫁いだ。しかし、夫アンリの寵愛は一八歳年上の愛妾ディアーヌ・ド・ポワティエ夫人Diane de Poitiersに独占されていたと言われる。
 結婚後三年が経過した一五三六年八月、王太子フランソワ毒殺事件が発生し、夫アンリは王太子となる。そして、一五四七年フランソワ一世の死去によって、王太子はアンリ二世として王位を継承した。その間、カトリーヌは一五四四年の嫡男フランソワの誕生に始まり、エリザベート(一五四五年)、クロード(一五四七年)、シャルル(一五五〇年)、アンリ(一五五一年)、マルグリット(一五五二年)、エルキュール(一五五四年)と相次いで子宝に恵まれている(他の三人は嬰児のまま死亡)。しかし、カトリーヌの王妃としての権限は大きな制約を受け、彼女の求めたロワール渓谷のシュノンソー城Chenonceauはディアーヌ・ド・ポワチエ夫人に贈られてしまう。 
 ところで、アンリ二世の治世の間に、フランス政界で大きく台頭するのがギーズ家 Guiseである。ギーズ家は、ロレーヌ公国の君主家門ロレーヌ家の分家で、ロレーヌ公ルネ二世の次男クロードに始まる。クロードはフランソワ一世に仕えて公爵位とプランス・エトランジェPrince étrangerという地位を獲得し、フランス宮廷において極めて高い序列をしめるようになった。彼の長女メアリ・オブ・ギーズはスコットランド王ジェームズ五世James V(在位一五一三~四二)の妃となり、一五四二年一二月八日、二人の間の第三子(長女)として誕生したのがメアリ・ステュアートMary Stuart(スコットランド女王メアリ一世、在位一五四二~六七)である。しかし、彼女は生誕まもない一二月一四日に父が急死し、兄二人が早世していたためにわずか生後六日で王位を継承した。摂政にはジェームズ二世の曾孫アラン伯ジェームズ・ハミルトンが就任し、イングランド王ヘンリ八世の要求で王太子エドワード(後のエドワード六世)と婚約させられたりもした。一五四七年、イングランドの実権を掌握したサマセット公エドワード・シーモアがスコットランドを攻撃し、 迎撃したアラン伯は大敗を喫した。危機に瀕したスコットランドでは、翌四八年、王母メアリの計らいで女王メアリ・ステュアートを仏王アンリ二世のもとに移し、彼女は以後フランス宮廷で育てられることとなった。やがて一五五八年四月二四日、メアリ・ステュアートと仏王太子フランソワ(後のフランソワ二 
世)の結婚式が挙行された。 
 一五五九年、長く続いたイタリア戦争がようやく終結し、四月初めにはフランスと神聖ローマ帝国・スペイン王国との間にカトー・カンブレジ条約(カトー・カンブレジはフランス北部ノール県の町)が締結された。この条約で、フランスはイタリアへの権利を完全に放棄し、ミラノ、ナポリ、シチリア、サルデーニャ、トスカーナ西南岸をハプスブルク家の統治下におき、その代償としてロレーヌ地方を譲り受けた。また、スペインのフェリペ二世は一五五八年、イングランド王メアリ一世と死別した後、仏王アンリ二世の娘エリザベートÉlisabeth de Valois(イサベル・デ・バロイスIsabel de Valois)と再婚し、フィレンツェ公国(メディチ家)はトスカーナ地方の都市シエナSienaを獲得した。しかし、ユグノー派が初めて全国教会会議を開催したこの年の暮れ、待降節adventus(一一月三〇日の「聖アンデレの日」に最も近い日曜日からクリスマスイブまでの約四週間)から次の年の四旬節Quadragesima(復活祭の四六日前の水曜日[灰の水曜日]から復活祭の前日[聖土曜日]まで)の期間、カトリック民衆による虐殺が続いた。六月二日に発せられた「エクーアン勅令」Écouenはユグノー派に対する宣戦布告だったが、法の施行に責任を負わなければならない高等法院自体は極めて寛容的な態度であった。そこでアンリ二世は激怒し、トゥールーズで有罪判決を受けた四名の異端に恩赦を与えたとしてアンヌ・デュ・ブールを焚刑に処し、高等法院部長アントワーヌ・フュメなどはバスティーユに投獄された。ところが同年七月、イタリア戦争終結を祝う馬上槍試合でモンゴメリ伯ガブリエル・ド・ロルジュの突き出した槍が国王の眼に刺さるという不慮の事故が発生し、アンリ二世は急逝した(七月一〇日、享年四一歳)。その結果、病弱でまだ一五歳という若さの王太子が王位を継承し、フランソワ二世Francois II(在位一五五九~六〇)として即位したのである。また王母カトリーヌはその後の半生を黒い喪服で過ごすことになるが、仇敵ディアーヌ夫人の宮中立ち入りを禁じた。もっとも彼女は、ディアーヌ夫人からシュノンソー城を取り上げるが、その代わりにショーモン城Chaumontを与えている。
 ところで、フランソワ二世の即位は、王妃の外戚に当たるカトリック貴族ギーズ家一門とユグノー派貴族ブルボン家の対立を表面化させた(註⑯)。即位式の翌日、王妃の伯父にあたるロレーヌ枢機卿やギーズ公フランソワは国王夫妻とともにルーヴル宮殿に入り、ユグノー派弾圧に着手した。一方、ブルボン家のナヴァール王アントワーヌ(ヴァンドーム公アントワーヌ・ド・ブルボンAntoine de Bourbon, duc de Vendôme)やその弟コンデ公ルイ一世Louis Ier de Bourbon-Condéを盟主としたユグノー派は、ギーズ家打倒とブロワ城にいた国王の拉致を謀ったが、(弁護士ダヴィネルがロレーヌ枢機卿にその情報を漏らしたため)事前に露見してしまった。ギーズ家は、ユグノー派の動きを察知して宮廷をロワール渓谷のアンボワーズ城Amboiseへと移し、城外の森に潜んでいた反乱軍に奇襲をかけて指導者ラ・ルノディー等を惨殺した。捕縛された一五〇〇人以上のユグノーたちは、宮廷人の目の前でそれぞれ絞首刑、斬首刑、車裂の刑に処され、見せしめとして晒されたという(一五六〇年三月、アンボワーズ陰謀事件 la Conjuration d'Amboise)。
 王母カトリーヌは当初、ギーズ家とともに動かざるを得なかったが、宗教問題で一方に肩入れするのを避けようと配慮した。一五六〇年六月、カトリーヌはオルレアン三部会で国法の擁護者ミシェル・ド・ロピタル Michel de l'Hôpital を尚書局長(大法官)に任命し、八月にはフォンテーヌブロー宮Fontainebleauに諮問会議を召集してユグノーが特定の場所なら自由に礼拝できるようにしようとした。しかし、当のコンデ公がフランス南部で武装蜂起を開始したため、カトリーヌは彼を宮廷に召還し、国王に対する反逆罪で死刑の宣告をしなければならなかった。ところが同じ頃、息子フランソワ二世が狩猟から帰るやいなや「耳の後ろが痛い」と訴えて倒れてしまった。彼の病気は中耳炎であったが、その症状は脳葉にまで達して脳炎を引き起こしており、一二月五日には他界してしまった(享年一六歳)。カトリーヌはフランソワ二世が助からないと悟ったとき、ナヴァール王アントワーヌが次の国王(シャルル九世)の摂政になる権利を放棄するならば彼の弟コンデ公を釈放すると約束した。こうしてフランソワ二世の死去後、一三日に全国三部会がオルレアンで開催され、二一日の国務会議においてカトリーヌを摂政に任命して全権を委任し、コンデ公の命は救われたのである。なお、フランソワ二世との間に子供ができなかったメアリ・ステュアートは、翌六一年八月二〇日にスコットランドに帰国するはめとなった。註⑰

第四節 ユグノー戦争(一五六二~九八年)
 (一)宗教的融和策と戦争勃発
 新国王シャルル九世Charles IX(在位一五六〇~七四)は僅か一〇歳の幼王であり、対立するカトリック(ギーズ家)とユグノー派(ブルボン家)の調停は必然的に摂政カトリーヌの役目となった。彼女は国務会議を主宰して国政をスムーズに展開するためには宗教的融和策が肝要と考えたが、両者の関係改善を図るのは容易ではなかった。一五六一年一月、カトリーヌはユグノー派に対する「オルレアン寛容令」を出したが、猛反発したギーズ公フランソワは国王軍司令官アンヌ・ド・モンモランシAnne de Montmorencyやジャック・ド・サンタンドレJacques d'Albon de Saint-André 等と反動への道を進むことになる(カトリック「三頭政治」 triumviratの結成)。そして同年九月にはサン・ジェルマン・アン・レー三部会Saint-Germain-en-Layeの中でテオドール・ド・ベーズThéodore de Bèzeを含む一二名の新教徒牧師をポワシーPoissyに招いてカトリック聖職者との会談を主宰したが、一〇月の最終会談で新旧両派は完全に決裂してしまった。それでもカトリーヌは、一五六〇年、六一年と連続して全国三部会を開き、国務会議に高等法院のメンバーを加えた拡大国務会議の討議を経て、翌六二年一月、「サン・ジェルマン寛容令」を発してユグノーの城壁外及び屋内での礼拝を容認した。しかし、同年三月一日ギーズ公がヴァシー村Vassy(シャンパーニュ地方)で開かれていたユグノー派の日曜礼拝を襲撃して七四人を殺害し、一〇四人を負傷させる事件(死者三〇人・負傷者一二〇人や、死者六〇人・負傷者二五〇人という異説あり)を起こしたことが、ユグノー戦争Guerres de religion (一五六二 ~九八)の戦端を開くことにつながった。
 ヴァシー事件後、ユグノー派は直ちに反撃に打って出た。コンデ公ルイ一世やガスパール・ド・コリニー提督Gaspard de Coligny(シャティヨン・コリニーの領主)を中心とするユグノー派は、シャルトル管区防衛長官ロベール・ド・ラ・エイ等を派遣してイングランド王エリザベス一世とハンプトン・コート密約Hampton Court を結び、兵士一万人とクラウン銀貨一〇万枚(クラウン銀貨一枚は五シリングに相当)という援助の見返りにカレーCalaisの返還とル・アーヴルLe Havreの担保がついた(秘密条項としてディエップDieppeとルーアンRouenの割譲も約束した)。その結果、イングランド軍はセーヌ河口のル・アーブルに上陸し、ユグノー派もフランス国内の諸都市を占拠した。しかし、国王軍も速やかに行動し、ユグノー派の拠点ルーアンを包囲した(一五六二年五~一〇月)。またドルーDreuxの戦い(一五六二年一二月)ではコンデ公ルイ一世を捕虜としたが、国王軍司令官モンモランシも捕らえられた。摂政カトリーヌはコリニー提督に帰順を呼びかけ、包囲戦で狙撃され死の床にあったナヴァール王アントワーヌのもとを訪ねている。しかし、六三年二月一八日、オルレアン包囲中のギーズ公フランソワはユグノー派のポルトロ・ド・メレという男が背後から撃った銃弾を受けて斃れるという事件が発生し、新旧両派とも戦争継続が困難となったこともあって、三月一九日にはアンボワーズ和解令(和解勅令)が発せられて休戦となった。この和解令はすべての臣下に「信仰の自由」を認めたが、「礼拝の自由」は貴族とりわけ上級裁判権を持つ貴族には認めたものの、一般民衆には極めて厳しい制約を課しており、パリ市内ではカトリックの礼拝しか認められなかった。
 一五六三年七月、カトリーヌは新旧両派の軍隊を派遣してイングランド軍に占領されていたル・アーヴルの奪還に成功した。そして翌月一七日、ルーアン高等法院はシャルル九世の成人を宣言し、カトリーヌの摂政は終了した。しかし、彼女は国政を主導し続け、一五六四年一月以降に行われた国王の国内巡幸(~一五六五年五月)に同行して王権回復に努めている。巡幸の途中、カトリーヌはブルゴーニュ地方のマコンMâconとアキテーヌ地方のネラックNéracと二度にわたってナヴァール王アントワーヌの未亡人ジャンヌ・ダンブレ Jeanne d'Albret(ナヴァール女王フアナ三世Juana III de Navarra、ユグノー派)と会見し、一五六五年二月にはスペイン国境付近のバイヨンヌBayonneにおいて娘エリザベートや西王フェリペ二世の首席顧問アルバ公フェルナンド・アルバレス・デ・トレドFernando Álvarez de Toledo, Duque de Albaと会っている。しかし、カトリーヌが熱烈なカトリック信者フェリペ二世の顧問と会ったことや、国王シャルル九世がフランドル地方における旧教勢力を支援したことが、ユグノー派に危機感を募らせることとなった。註⑱
 一五六七年九月二八日、西王フェリペ二世が派遣したアルバ公の軍隊通過に怯えたユグノー派は、コンデ公を中心にシャルル九世を襲撃して自陣営に引き込もうとして失敗した(モーMeauxの奇襲)。不意を突かれた宮廷は、スイス傭兵六〇〇〇人に護られながらパリへと逃げ帰った。ユグノー派はその後、ビスケー湾の港湾都市ラ・ロシェルLa Rochelleなど幾つかの都市を征服し、ジャンヌ・ダルブレやその息子アンリ・ド・ブルボン(後のアンリ四世)が合流している。また九月二九日(聖ミカエルの祝日)、南フランスのニームではユグノー派がカトリック教徒一五〇人を井戸の底に投げ落とすという虐殺事件(ミチェラードMichelade)を起こしている。同年一一月一〇日に発生したサン=ドニの戦いは国王軍の勝利となった(この戦いで司令官モンモランシが戦死)が、プファルツ選帝侯の息子ヨハン・カジミール率いるドイツ軍の支援を受けたユグノー派はシャルトルChartres占領に成功している。その後、ユグノー軍はロワール川沿いのオルレアンやブロワBloisを攻略してパリに迫った。やがて戦いに疲れた両軍は、翌六八年3 
月二三日に「ロンジュモーLongjumeauの和議」を結び、アンボワーズ和解令の制限を撤廃してユグノーに対する「信仰の自由」を認めることになった。しかし、これを機にカトリーヌは宥和政策の破綻を認めてカトリック側に立つようになり、それまで宗教的融和策を推進してきた大法官ロピタルは罷免されて、ギーズ家一門が復権したのである。
 一五六八年八月、新旧両派は前年に結んだ和議を無視して緊張感を高め、身の危険を感じたコンデ公ルイ一世やコリニー提督等はノワイエNoyersの館から脱出してラ・ロシェルに籠城した。しかし、国王派によるユグノー虐殺が頻発し、ユグノー派の信仰は九月に発せられた「サン・モール勅令」Saint-Maurによって再び禁止されてしまった。国王軍が王弟アンジュー公アンリ(後のアンリ三世)を司令官としてスペイン・教皇領・トスカーナ大公国の支援を受けたのに対して、コンデ公ルイ一世を司令官とするユグノー派軍はフランス南西部の軍勢やドイツから駆けつけたプロテスタント民兵の協力を得て対抗した(ネーデルラントから駆けつけたオラニエ公ウィレム率いる軍隊は軍資金不足から国王軍の調略を受けて撤退した)。また、ユグノー派の軍資金の多くはイングランド王エリザベス一世から提供されたものであった。英仏百年戦争(一三三九~一四五三年)が終結してから既に一〇〇年以上が経過したが、その後も続いていた両国の対立関係は、スペインがフランス王室を援助し、イングランドがユグノー派の味方をする「宗教戦争」として激しい戦闘が繰り返されたのである。註⑲
 ユグノー派軍は先ずラ・ロシェルを防衛するためにポワトゥーPoitouなどサントンジュ地方の諸都市を包囲し、アングレームAngoulêmeやコニャックCognacを攻撃した。しかし、一五六九年三月一六日、ジャルナックJarnacの戦いで領袖コンデ公ルイ一世が戦死し、やむを得ず息子アンリ(一五歳)を名目上の司令官として実際はコリニー提督が指揮を執ることになった。また、国王シャルル九世の権威に対抗するため、ナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレの息子アンリ・ド・ブルボン(一六歳)を指導者とした。その後、ユグノー派軍はラロシュ=ラベイユLa Roche-l'Abeilleの戦い(六月二五日)で勝利を収めたものの、 一〇月三日のモンコントゥールMoncontour(ブルターニュ地方)の戦いでは大敗を喫してしまう。やがてフランス南西部で体勢を建て直したユグノー派軍は、一五七〇年春にトゥールーズToulouse を陥落させてローヌ川沿いに北上し、パリから約二〇〇キロのラ・シャリテ・シュルラ・ロワールLa Charite-sur-Loire まで迫った。しかし、ここで両軍は軍資金の問題もあって妥協し、八月八日「サン・ジェルマンの和議」を結んでいる。この和議では、ユグノー派の「信仰と礼拝の自由」についてアンボワーズ和解令(一五六三年)の線まで戻ったばかりでなく、ユグノー派に対してラ・ロシェル、モントーバン、ラ・シャリテ、コニャックという四都市を安全保障都市として認めるという画期的な譲歩がなされた。註⑳

 (二)「サン・バルテルミの虐殺」と戦争の激化
 ユグノー戦争が小休止をした一五七〇年、王母カトリーヌは婚姻政策によってヴァロワ朝の権益を守ろうとした。同年、仏王シャルル九世は神聖ローマ皇帝マクシミリアン二世Maximilian II(在位一五六四~七六)の皇女エリザベート・ドートリッシュÉlisabeth d'Autricheと結婚し、カトリーヌは二人いた王弟のいずれかをイングランド王エリザベス一世と結婚させようと画策した。また、西王フェリペ二世に嫁いだ長女エリザベートは一五六八年出産の際に亡くなっていたが、今度は末娘マルグリット・ド・ヴァロワMarguerite de Valoisをアンリ・ド・ブルボンのもとへ嫁がせようとしたのである。一五七二年、ジャンヌ・ダンブレは息子がユグノーに留まることを条件に息子とマルグリットの結婚に同意した。しかし、結婚式の準備やユグノー派への援助などで身をすり減らしていたジャンヌは肋膜炎に罹り、五日間病床に就いた後、六月九日に息を引き取った(享年四四歳)。そのため、息子アンリはナヴァール王位(在位一五七二~一六一〇)を継承した後、八月一八日にパリ市内のノートルダム大聖堂で結婚式を挙行したのであった。カトリックの新婦だけが大聖堂内に入り、新郎は司教館で待つという奇妙な結婚式は、新旧両派の「平和」の象徴という政治的意味をこめた儀式であった。
 その当時、ユグノー派の首領コリニー提督は国王シャルル九世の信任を得てカトリック教徒を援助する西王フェリペ2世を討とうとしていた(カトリーヌもコリニー提督に多額の一時金と年金を与えて国王諮問会議に復帰させた)。しかし、カトリーヌは新旧両教徒の均衡の上にこそ王室の安寧があると考えて旧教徒の首領ギーズ公アンリとも結んでいた。ナヴァール王アンリとマルグリットの結婚式には多くのユグノー派貴族も出席していたが、式の三日後、コリニー提督はルーヴル宮殿から宿舎へ戻ろうとしてプーリー通り(現在のルーヴル通り)の教会参事会員ヴィルミュールの屋敷にさしかかったところ、狙撃犯モールヴェールに銃撃を受けるという事件が発生した。提督は二発の銃撃で右手の人差し指を吹き飛ばされ、 左腕の肘を打ち砕かれた。狙撃犯は建物の裏手に用意していた馬に乗って逃亡しており、事件の首謀者が誰であったかは未だに確定してはいない。明らかなことは、王母カトリーヌに説得されたシャルル九世がユグノー派弾圧を決意し、市長ル・シャロンに命じてパリ市の城門を閉じてその鍵を保管し、セーヌ川の舟を引き揚げさせたということである。また、市民軍を武装させて広場、四つ辻、河岸の警護に当たらせ、 市庁舎前には狙撃兵を配置している。
 そして、コリニー提督狙撃事件の二日後にあたるサン・バルテルミSaint-Barthélemyの祝日(八月二四日)の朝四時頃、ユグノー派による報復を怖れたギーズ公アンリ、その伯父オーマール公とアングレームの私生児アンリ等が大勢の兵士を率いてコリニー提督の宿舎を襲撃した。提督はチェコ人ジャン・シマノヴィッチ(ベーメン出身であるためベームと呼ばれていた)の猟槍で突き刺され、窓の外に放り投げられた。瀕死の提督はトッシーニという男によってとどめを刺され、ヌヴェール公の従僕ペトルッチが首を切ってルーヴル宮殿に運び込んだ。ところが、「どぶ板の私生児たち」(ジュール・ミシュレJules Michelet)が死骸に飛びかかって切り刻み、セーヌ河岸まで引きずっていった。その後、血に飢えた民衆が遺体を引き取ってモンフォーコンMontfauconの死刑台に吊り下げ、その下で火を焚いて歓喜の声を上げたという。コリニー提督の死を確認したカトリーヌは、サン・ジェルマン・ローセロワ教会St-Germain l'Auxerroisの鐘を乱打させた。そして、この鐘の音が合図となって大規模な民衆暴動が発生し、国王派兵士とカトリック市民はユグノー派の貴族や市民たちを男女のみさかいなく、そして子どもまでをも惨殺したのである。パリの都市機能はほぼ崩壊し、市民たちの憎しみの感情はユグノーという宗派だけでなく、 ユグノー派貴族層の「豊かさ」に対しても向けられていた。彼等にとっては、帯剣貴族や法服貴族、商業資本家の区別は意味をなさず、ただ単にユグノー派という「貴族階級」に見えたのである。一五七二年当時のパリは、貨幣価値が下落して物価上昇が続き、夜ともなれば夜盗が横行する無法地帯と化していた。多くの浮浪者、乞食、荒んだ生活を強いられていた労務者、盗人たちにとって、物質的繁栄を「神の好意の表れ」とみなして謳歌していたユグノー派は許すことの出来ない存在でしかなかった。パリにおける虐殺は約一週間続き、約三〇〇〇人前後が犠牲者となった。その後、殺戮の嵐はフランス全土に吹き荒れ、秋までに一万人を超えるユグノーが殺害されたと言われる。
 その間、ナヴァール王アンリやコンデ公アンリは、元ユグノー派牧師ユーグ・シュロー・デュ・ロジエやブルボン枢機卿の説得を受け容れてカトリックに改宗し、辛うじて死を免れた。しかし、フランスにおけるユグノー派弾圧は苛烈を極め、恐慌状態に陥った人々の中にはカトリックへの改宗をしたり、国外逃亡を図る者も続出した。こうした情報に接した西王フェリペ二世はフランス大使サン・グアールを宮中に招いて談笑し、教皇グレゴリウス一三世Gregorius XIII(在位一五七二~八五)は祝砲を撃ち上げてカトリックの勝利を喜んだ。この後、ヴァザーリGiorgio Vasariは教皇の命令でフレスコ壁画「聖バルテルミの虐殺」(ヴァチカン宮殿)を描くことになる。対照的にイングランド王エリザベス一世は精神的ダメージを受けて喪に服し、駐仏大使ウォルシンガムを召還して抗議の意志を示した。しかし、ユグノー派は民衆を担い手とする抵抗運動を組織し、ロワール川中流のサンセールSancerreや武将ラ・ヌーが死守した大西洋岸の城塞都市ラ・ロシェルなどで激しい戦闘を繰り返した。特にラ・ロシェルでは、市長ジャック・アンリと商業資本家ジャック・サルベールが一三〇〇人の兵士とブルジョワ市民軍からなる守備隊を結成して徹底抗戦を続けた。一五七三年の聖燭祭 Candelaria(二月二日、聖母のお潔めの日Purificatio Maria)の数日後、アンジュー公アンリが率いる先遣隊に合流するため、アランソン公、コンデ公、モンモランシ公など多くの貴族が本来の宗派の壁を乗り越えて一緒にパリを発った。しかし、この混成部隊に亀裂が入るのに時間はかからなかった。当てもなく続く攻囲戦の中でポリティーク派をアランソン公の味方に引き込んだモンモランシ公はギーズ家一門を襲撃し、アランソン公はアンジュー公の部隊を攻撃する始末であった。こうしてユグノー派に対する攻撃は事実上困難となり、同年七月、ついに「ブーローニュ勅令」Boulogneが発せられて全てのユグノーに「信仰の自由」が与えられただけでなく、南部の3都市(ラ・ロシェル、ニーム、モントーバンMontauban)では「礼拝の自由」も認められた。註㉑
 一方、王母カトリーヌは新たな難問に直面していた。それはヨーロッパ東部の大国ポーランド=リトアニア連合王国の王位継承問題であった。この国家では、一五六九年「ルブリンLublinの連合」によってポーランド王国とリトアニア大公国が合同して複合君主制(ポーランド王がリトアニア大公を兼ねる)国家を誕生させたばかりであったが、国王ジグムント二世が嗣子なくして没したためにヤゲウォ朝Jagello(一三八六~一五七二年)が断絶してしまった。そこでポーランド議会は次期国王を選挙で決めると宣言し、独帝マクシミリアン二世の息子エルンスト大公、スウェーデン王ヨハン三世、ロシア皇帝イヴァン四世らと並んでフランスの王弟アンジュー公アンリが国王候補の一人として浮上したのであった。ポーランド国内では、悲惨なサン・バルテルミ事件の噂が広がってアンリの王位継承には否定的な意見も出たが、フランス王室からの働きかけが功を奏したようで、一五七三年五月五日、ポーランド議会はアンリをポーランド王に選出した。ところが、そのポーランド議会が王権制限条項(ヘンリク条項)やアンリ個人との統治契約(パクタ・コンヴェンタ)」の承認を要求したため、これに署名したアンリの心中にはポーランドに対する違和感が急速に広がってきた。また、兄シャルル九世の病気が悪化したため、次期フランス王位継承権者たるアンリは出国を躊躇するようになる。しかし翌七四年一月にはやむなくポーランドに入り、二月クラクフにあるヴァヴェル大聖堂Katedra Wawelskaで戴冠式を挙行した。ところが、五月三〇日、祖国フランスにおいてシャルル九世が崩御(享年二三歳)し、その訃報が六月一四日になってようやくアンリのもとへ届いた。同月一八日深夜、アンリは王宮から出奔し、二度とポーランドに戻ることはなかった。
 ところでサン・バルテルミ事件以後、ユグノー派は北部やロワール川流域において多くの亡命者や改宗者を出したが、この頃、宗教戦争は新しい段階に突入していた。従来のユグノー派は「礼拝の自由」が保障されることを願って王権を尊重してきたが、サン・バルテルミ事件という残虐な裏切り行為を知ったいまとなっては、王権に対する淡い期待も失われてしまったからである。ユグノーとして残った人々の中には『フランコ・ガリア』の著者オットマンHotmanのように「暴君放伐論」monarchomachia(人民は暴君に服従する義務はなく、その殺害も許されるとする反君主制理論)を主張する過激派も現れ、彼らは密かにカトリーヌの末子アランソン公フランソワHercule Françoisに接近し、一五七四年二月、ナヴァール王やコンデ公を宮廷から奪還しようとして失敗している。ほぼ同じ頃、北西部のバス・ノルマンディやポワトゥー、南部のローヌ渓谷などでもユグノー派が蜂起している。一方、パリなど大都市の内部では、都市商人層や高等法院官僚などを中心とするカトリック穏健派の間に新旧両派の融和を模索する集団(ポリティーク派Politiques)が台頭し、宗教問題よりも政治的配慮を優先する主張を展開して次第にギーズ家一門と対立するようになった。同年九月、アランソン公が宮廷から脱出してポリティーク派に加わり、東からはプファルツ=ツヴァイブリュッケン公ヨハンJohn I, Count Palatine of Zweibrückenがシャンパーニュ地方に侵入してきた。そして一一月には、ポリティーク派のラングドック地方総督アンリ・ド・ダンヴィル(モンモランシ大元帥の次男)が南仏のユグノー派と結託して王室に反旗を翻したため、フランス国内は大混乱に陥った。
 翌七五年二月一三日、アンジュー公アンリはランス大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Reimsで戴冠式を挙行して仏王アンリ三世Henri III(在位一五七四~八九)となり、その直後にはギーズ家の同族にあたるメルクール公ニコラNicolas de Lorraine, duc de Mercœurの娘ルイーズ・ド・ロレーヌ・ヴォーデモンLouise de Lorraine-Vaudémontと結婚している。しかし、翌年始め、ついに宮廷からの脱走に成功したナヴァール王アンリとコンデ公アンリが再びユグノー派に改宗して指導者に復帰した。また、国王夫妻に世継ぎが生まれなかったことで王位継承者の如く振る舞いだした王弟フランソワがドイツのプロテスタント諸侯の援軍を得てパリ進軍を行ったため、アンリ三世はやむなく「ボーリュー勅令」Édit de Beaulieu (五月六日所謂「王弟殿下の講和」)を発してユグノーの要求をほぼ全面的に受け入れた。すなわち、サン・バルテルミ事件における犠牲者の名誉回復や各高等法院における「新旧両派合同法廷」の設置、さらにはユグノーの「礼拝の自由」がパリ及び国王が滞在する町以外の全ての都市と場所で身分の区別なく認められたのである。
 しかし、国王の妥協に反発したギーズ公アンリは、一五七六年六月八日、親族のマイエンヌ公シャルルCharles (II) de Lorraine, duc de Mayenne、オマール公シャルルAumale、エルブフ公シャルルCharles Ier de Lorraine-Guise, duc d'Elbeuf、メルクール公フィリップ・エマニュエルPhilippe-Emmanuel de Lorraine, duc de Mercœur et de Penthièvre、ロレーヌ公シャルル三世Charles IIIとともに「聖なるキリスト教同盟」(所謂「カトリック同盟」La ligue catholique)を結成して広大な領域を支配し、都市中間層の支持を集めることにも成功した。その結果、国王アンリ三世はやむなくブロワ三部会でカトリック同盟の要求を受け容れ、ボーリュー勅令はあえなく骨抜きとされた。同年一二月には、ユグノー派がポワトゥーやギュイエンヌで武装蜂起したが、この時は王弟アンジュー公フランソワ(元アランソン公)やダンヴィル伯のようなポリティーク派もカトリック同盟側に与しており、ユグノー派は全く不利な情勢にあった。結局、屈服したユグノー派は「ベルジュラック協定」Bergeracを結び、ボーリュー勅令で獲得した権利を全て失ったのである(その六日後、アンリ三世はその内容を確認し、「ポワティエ勅令」Poitiersを発した)。なお、 一五七九年一一月にコンデ公アンリ率いるユグノー派軍がカトリック同盟の拠点ラ・フェールを陥れて新たな戦いが始まったが、翌年一一月には「ル・フルクスの和議」が結ばれて停戦した。しかし、この妥協も四年間ほどしか維持できなかった。
 その間、一五八一年、フランスからの支援を期待していたネーデルラント議会は、王弟アンジュー公フランソワを王に選出し、スペインからの独立を宣言した(ネーデルラント連邦共和国)。しかし一五八四年、(何の権限も与えられず、カトリック信者であることから猜疑の目で見られていた)アンジュー公はクーデターを起こして失敗し、這々の体でフランスへ逃げ帰っている。また、ナヴァール王アンリのもとへ嫁いだマルグリット(王母カトリーヌの末娘)はフランス宮廷に戻って来てしまい(一五八二年)、一旦は帰国させたが、 八五年には再びナヴァール王国から逃げ出してガロンヌ河畔のアジャンAgenに引き籠もった。岩山の上に立つカルラ城Carlatに移ったマルグリットは愛人と暮らし始めたが、八六年一〇月、今度はウッソン城Ussonに幽閉され、愛人は処刑された。カトリーヌはその後、 二度と娘マルグリットと会うことはなかったと言われる。

 (三) 三アンリの戦い
 一五八四年六月一〇日、王弟で推定相続人であったアンジュー公フランソワが逝去した。その結果、サリカ法典第五九条に基づきルイ九世 Louis IX(在位一二二六~七〇
)の血を引くナヴァール王アンリが王位継承者として選ばれた(註㉒)。何故なら、ブルボン家の祖であるクレルモン公ロベールRobert de Clermontはルイ九世の六男であり、フィリップ三世Philippe III(在位一二七〇~八五)の末弟だったことでカペー家男系支流の一門となっており、ナヴァール王アンリはその家長であった。しかし、当時の彼は従弟のコンデ公アンリとともに教皇から破門された身にあり、ユグノーとしての信仰を捨てる意志のないことを表明していた。そこで同年一二月、宿敵ギーズ公アンリはカトリック同盟を代表する形で西王フェリペ二世と「ジョアンヴィル条約」Joinvilleを締結し、「異端」との戦争の準備をした。その当時、フェリペ二世は一五八〇年にスペイン=ポルトガル同君連合を成立させてヨーロッパ各地のカトリック支援を強化しており、彼としても渡りに船だった。一五八五年三月、ギーズ公アンリはピカルディ地方のペロンヌPéronneで旧教同盟を再結成し、ナヴァール王アンリの仏王位継承権を否定する宣言を発した(三〇日)。フランス王位への野心に燃えるギーズ家一門を中心に、彼らと保護=被保護関係で結ばれることによって特権回復や全国三部会の定期的開催を求める貴族たち、急進的なカトリック聖職者たちに加えて、多くの都市住民が自生的な組織をつくってギーズ家側に加わった。パリの場合、聖職者や司法役人、富裕商人層を中核とするグループが、パリ一六区内部とりわけ民兵組織の中に密かに根を張るようになった。二年後の六月、リヨン、オルレアン、ボルドー、ブールジュ、ナントなど多くの都市がパリの旧教組織と同盟関係を結んだ。こうしてユグノー戦争は、 国王アンリ3世(ヴァロワ朝)、ナヴァール王アンリ(ブルボン家)、ギーズ公アンリ(ギーズ家)が三つどもえの抗争を展開する「三アンリの戦い」という段階へと移行した。
 一五八五年三月、ギーズ公の北フランス占領で再び戦闘が開始された。同年七月七日、国王アンリ三世はギーズ公に配慮して、ユグノーの礼拝禁止や改宗に応じない者の国外追放(牧師は一カ月以内、信者は六カ月以内に国外追放)、ナヴァール王アンリの王位継承権無効を内容とする「ヌムール勅令」Nemoursを発した。教皇シクストゥス五世Sixtus V(在位一五八五~九〇)もこれに呼応してナヴァール王アンリを破門し、彼が持っていたナヴァール王位とフランス王位継承権の剥奪を宣言している(九月九日奪権回勅)。また、イングランド王エリザベス一世によるメアリ・ステュアート処刑(一五八七年二月一八日)は、カトリック世界全体を怒りの渦に巻き込んだ。これに対してナヴァール王アンリは、ドイツ諸邦やイングランド、デンマークに資金援助を求めるとともに国内のポリティーク派などと結んで、一五八七年一〇月二〇日、クートラCoutrasの戦いで国王軍・カトリック同盟軍・スイス人傭兵の連合軍を撃破することに成功した。しかしその直後、アンリ三世はドイツから来ていたユグノー派支援軍を破ってパリ市民の期待を集めるようになったギーズ公の存在が疎ましくなった。翌八八年五月、国王はギーズ公勢力を抑えようとして失敗し、一二日には旧教同盟派を中核とするパリ市民が全市にバリケードを築いて反旗を翻し、国王とその軍隊が敗走するという事件が発生した(五月一二~一八日、バリケードの日)。この市民蜂起の背後にはギーズ公の熱狂的人気やカトリック信者の宗教的情熱に加えて、パリ市民の自治都市再現への期待などが混在していたと思われる。いずれにせよ、パリの全権はパリ一六区に設けられた九人制の評議会と一六区代表、三身分代表からなる連合総評議会が掌握し、カトリック同盟はこの革命政権を全国に拡大しようと考えた。その時、年老いた王母カトリーヌが国王とギーズ公の仲介役を果たし、アンリ三世はカトリック同盟が求めたヌムール勅令の再確認や、ナヴァール王アンリの叔父ブルボン枢機卿シャルル一世 Charles Ier de Bourbon(ギーズ公派)の王位継承、ギーズ公の国王総代官任命など屈辱的な内容を呑むことになった(七月二一日、ルーアンRouenで「統一王令」に署名)。
 パリを追われ、ロワール河岸に逃れたアンリ三世は、ルイ一二世の騎馬像が迎えるブロワ城に入った。城の中庭に立つと、今日でもゴシック風の繊細な飾りをつけた〈ルイ一二世の翼〉とフランス・ルネサンスの傑作とされる〈フランソワ一世の翼〉が残っている。後者の四層になっている塔形螺旋階段を登ると、 かつては二階に王太后カトリーヌの寝室があり、三階にはアンリ三世のそれがあった。九月になってアンリ三世が召集した三部会では平民部会議員がカトリック同盟の意向に沿った発言をし、一〇月には西王フェリペ二世の女婿サヴォイア公カルロ・エマヌエーレ一世Carlo Emanuele I di Savoiaがピエモンテ地方のサルッツォSaluzzoに侵攻して来た。アンリ三世はこれらの背後にはギーズ公がいると確信した。そこで彼は先手を打つことにした。一二月二三日、会議のために伺候したギーズ公アンリは弟の枢機卿ルイLouis de Lorraineが待つ会議室に入った。彼は国王室隣の書斎で国王が会見を望んでいると告げられたが、それが合図で衛兵たちに襲われたのである。瀕死のギーズ公は王の寝室まで辿り着いて息絶えた(枢機卿ルイも連行中に矛で突き殺された)。その時姿を現したアンリ三世は、「生きていた頃よりも偉そうにして死んでいる」と言いながら、死体を足蹴にしたと言われている。しかし、未だこの大混乱が鎮まらない一五八九年一月五日、病床にあった王太后カトリーヌが逝去したのである(享年七〇歳)。註㉓
 盟主を失ったカトリック同盟は、ギーズ公アンリの次弟マイエンヌ公シャルルを後継者とし、アンリ三
世に対して宣戦布告をした。彼らは、ギーズ公シャルルCharles Ier de Guise(ギーズ公アンリの子)を西王フェリペ二世の娘イサベル・クララ・エウヘニアIsabel Clara Eugenia(仏王アンリ二世の孫娘)と結婚させてフランス王に擁立する計画を立てたとも言われている。対するアンリ三世は、ナヴァール王アンリ率いるユグノー派軍と連合してカトリック同盟との戦いを続けていた。ところが、パリ近くのサン・クルー城Saint-Cloudに滞在していた八月一日、アンリ三世はドミニコ会修道士ジャック・クレマンJacques Clémentの謁見を許したところ、この修道士は隠し持っていた短刀で国王を刺してしまった。瀕死の重体となったアンリ三世は死の床にナヴァール王アンリを呼び、彼にフランス王位を託すこととなった。翌日未明、アンリ三世は崩御し、一四世紀以来永きにわたって続いてきたヴァロワ朝はついに断絶した。なお、犯人クレマンはその場で取り押さえられ、まもなく八つ裂きの刑に処せられた。

 (四)ナントの勅令
 こうしてナヴァール王アンリがフランス王位を継承してアンリ四世Henri IV(在位一五八九~一六一〇)となり、新たにブルボン朝 Bourbons(一五八九~一七九二、一八一四~三〇)が開かれた。しかし、カトリック同盟はローマ教皇から破門されているアンリ四世の即位を認めず、ブルボン枢機卿シャルル一世を新国王シャルル一〇世として擁立し、マイエンヌ公を王国総代官に任命した。当時、アンリ四世の国王軍はフランス西部と南部を抑えただけで、北部と東部はカトリック同盟軍が支配していた。しかし、九月のアルクArquesの戦い(二〇~二一日)は国王軍側の勝利となり、その後もノルマンディ地方の掃討に成功した。年が明けて三月一四日、イヴリーIvryの戦い(ノルマンディ地方)でも勝利を収めたアンリ四世はパリを包囲したが、八月末にはパルマ公アレッサンドロ・ファルネーゼAlessandro Farnese率いるスペイン軍が攻め込んできたため、包囲網を解かなければならなかった。そして、一五九一年から翌年にかけてのルーアン包囲戦も同じような展開となっている。このように、アンリ四世は各地でカトリック同盟軍と戦いながらパリ攻略を目指していたが、頑強な抵抗を受けてどうにも陥落させることが出来ず、やがて「カトリック信者が圧倒的に多いパリの市民たちはユグノーのままの自分をフランス王として受け容れることはない」と観念することになる。
 その間、一五九〇年五月九日、ブルボン枢機卿シャルル一世が身罷った。一五九三年一月二六日、カトリック同盟のマイエンヌ公は新国王選出のための全国三部会をパリに招集した。西王フェリペ二世は王女イサベル・クララ・エウヘニアをフランス王として送り込もうとしたが、パリ高等法院はこれに反対した。こうしたカトリック同盟側の足並みの乱れを突いたのがアンリ四世である。同年七月二六日、アンリ四世はサン=ドニ大聖堂Basilique de Saint-Denis でカトリックに改宗し、翌九四年二月二七7日にはパリ南西八〇キロにあるシャルトル大聖堂Cathédrale Notre-Dame de Chartresにおいて戴冠式(成聖式)が執り行われた(戴冠式は伝統的にランス大聖堂で挙行するのが望ましいが、当時はカトリック同盟の影響下にあった)。こうしてカトリック教会はアンリ四世を拒むことが難しくなり、一五九四年三月二二日、王は念願のパリ入城を果たしたのである。また、この年の暮れにイエズス会クレルモン学院の学生による国王暗殺未遂事件が発生したため、翌年一月、カトリック教会はイエズス会をパリから追放し、一六日の聖職者会議では国王アンリ四世の即位を承認することになる。そしてパリ開城後、国内の都市の多くは国王に帰順するようになり、教皇クレメンス八世Clemens VIII(在位一五九二~一六〇五)もアンリ四世を赦免し、破門を取り消した。アンリ四世のパリ入城を可能にした要因の一つとしては、パリ市民の中にスペイン王国に対する恐怖心や、フランスの統一回復を期待したポリティーク派の勢いが増していたことなども挙げられる。
 一方、ユグノー派はアンリ四世の豹変に驚愕し、一五九四年と一五九六年の二回に亘って政治会議を開催して国王を警戒するようになった。こうした状況の下でアンリ四世は、一五九五年一月一七日、スペインに対して宣戦布告を発した。これは、カトリック教会に対しては西王フェリペ二世の本音がフランス侵略にあることを、そしてユグノー派には「国王は改宗をしたが決してカトリックのみに肩入れすることがない」ことを示すためであった。アンリ四世の対西戦争で標的としたのはカトリック同盟であり、 翌年一月にはマイエンヌ公の降伏によって同盟はついに瓦解した。しかし、スペイン軍の猛攻はすざましく、一五九五年四月にはカレーCalaisなど幾つかの都市を占領されてしまう。国王軍は何とか体勢を維持し、 九七年九月、半年以上にわたってスペイン軍に占領されていたアミアンAmiensを奪還し、その後はブルターニュ地方へと向かった。当時ブルターニュでは、カトリック同盟の指導者の一人メルクール公フィリップ・エマニュエルが地方総督に任命されていたが、彼は妻の持つ世襲権を根拠にブルターニュ公領とパンティエーブル公領の所有権を主張してナントNantesに政府を樹立し、西王フェリペ二
世とは同盟関係にあった。一五九八年三月二〇日、攻勢をかけていたアンリ四世はメーヌ川河畔のアンジェAngersでメルクール公の降伏を受け入れ、和平交渉のための特使をスペインに派遣した。また、四月一三日には国王顧問シュリー公マクシミリアンMaximilien de Béthune, Duke of Sullyと相談の上で「ナントの勅令」Édit de Nantesを発し、ユグノーに対してカトリック教徒とほぼ同等の権利を与えたのである。ここで、「ナントの勅令」の内容を確認してみよう。註㉔
 「ナントの勅令」は、公布趣旨を謳った前文に続いて全文九二条項(四月一三日)が記載されている( それに先立つ四月三日の許可書、その後に作成された四月三〇日の秘密条項、五月二日の五六秘密条項も含まれる)。先ず前文では、武力と敵意が王国内から消え去り、平安と安息とが達成された現在、あらゆる問題の中で常に最も危険で浸透力のある宗教問題から起こる悪と騒乱の原因を除去するために、カトリックと改革宗教(ユグノー)側双方から寄せられた苦情を慎重に考慮して、普遍的にして明快、率直にして絶対的な法令を与えるべく、この永久にして撤回すべからざる勅令を通じて以下のごとく命令する、と述べられている。
 主文第一条・第二条では、一五八五年以前から起きてきた争乱に関する記憶を消滅させ、今後如何なる人物もこれについて言及し、訴訟を起こすことは許されないと言論を封じ、現状凍結で事態の収束を図っている。また主文第三条以下の要旨は次のようである。第一に、カトリック信仰は王国で支配的なものと認められ、これまで中断されていたカトリックの礼拝は再興され、奪われていた建物や財産は返却されなければならない。第二に、改革宗教の信者(プロテスタント)は王国内すべてで「良心の自由」を、 また一五九六/九七年に事実上礼拝を行っていた場所において、さらには貴族の所領とパリを除く上級裁判管轄領域内での「礼拝の自由」を有する。また、彼等は自由礼拝権を有する場所で宗務会議や教会会議を開催し、埋葬地を設け、学校や印刷所を建てることが出来る。第三に、改革宗教の信者は大学、学校、病院への受け入れに関してはいかなる不利益も課されない。しかし、商業活動に際してはカトリックの祭日を尊重し、(カトリック教徒と同じく)近親結婚の禁令や納税義務には服さなければならない。第四に、改革宗教の信者は市民権の権能において制限を受けず、あらゆる公職にも就くことが出来る。そして、公共の安寧、治安維持、係争事件の解決のために、新旧両派合同の(同等に構成された)法廷を設けなければならない、としている。また、高等法院に登録する必要のない認可書と秘密条項のうち、前者は改革宗教の信者に対して都市単位に年間総額四万五〇〇〇エキュの援助金を授与した。後者ではユグノーに対して向こう八カ月間、一〇〇カ所以上の安全保障地を認め、ユグノー派が保持している都市守備隊も同じ期間維持することが許されただけでなく、年間一八万エキュの補助金支給が約束されたのである。
 以上のように、アンリ四世は、改革派信徒(ユグノー)の「信仰の自由」を保障し、(一定地域に限定はしたものの)公の「礼拝の自由」や、書籍の出版・販売を認めた。また、ユグノーがあらゆる地位・要職・官職・公務に就く権利も認めている。確かに「ナントの勅令」は新旧両派に完全平等の地位を与えたわけではないが、明らかに従来の寛容政策の枠を越えており、ながく続いた宗教戦争を終結させる力を持っていた。換言するならば、武力や論争では混迷したフランス王国の諸問題を解決することができないことが明らかとなり、新旧両派は現実的な政治レベルでの解決に身を委ねるしかなかったのである。一五九八年五月二日、フランス北部のピカルディ地方で結ばれたヴェルヴァン条約Vervinsによりユグノー戦争は終結の時を迎えることが出来た。西王フェリペ二世はこの条約締結によりカトー・カンブレジ条約(一五五九年)の時と同じ領土を仏王アンリ四世に認めることになり、やがて訪れるフランス絶対王政への出発点となったのである。註㉕

終節 「繁栄の一六世紀」から「危機の一七世紀」へ
 一五世紀初め、明帝国永楽帝の治世に、ムスリムの宦官鄭和が率いる大艦隊が南シナ海からインド洋を経て東アフリカのマリンディに至る南海遠征を敢行した(一四〇五~三三年、七回実施)。その結果、従来の中国を中心とする朝貢交易圏とムスリムのインド洋交易圏が結びつき、琉球王国、マラッカ海峡、南インド沿岸、紅海沿岸などを結節点とする東西交易ネットワークが成立し、同世紀末には香辛料の直接獲得に乗り出したポルトガル王国がこのネットワークに参入した。そしてほぼ同時期、スペイン王国は銀を求めてアメリカ大陸に進出し、ポトシ銀山やサカテカス銀山で産出された大量の銀をアカプルコ貿易(ガレオン貿易)でマニラにもたらし、同じくガレオン船でヨーロッパに輸送した。こうして東シナ海、南シナ海、インド洋だけでなく、大西洋と太平洋も東西交易ネットワークに加わり、全地球規模の交易網が誕生した。大西洋沿岸諸国の繁栄をもたらした「商業革命」は、「価格革命」と呼ばれる物価騰貴を発生させ、 それまで停滞していたヨーロッパ経済に活気を与えて、所謂「繁栄の一六世紀」を現出させたと言われている。ただし、一六世紀後半のメキシコ銀(墨銀)を中心とするアメリカ銀の流入が直接的に価格革命を引き起こした訳ではなく、近世三〇〇年間をかけて形成されたヨーロッパ市場は従来から緩やかなインフレ傾向を示しており、銀の流入が更なる押し上げ効果を発揮したのである。そして貨幣経済はやがて農村社会にまで浸透し、農民の一部は経済力をつけて領主から自立するようになる。次のグラフはF・ブローデルFernand Braudel(一九〇二~八五)が一四五〇~一七五〇年のヨーロッパにおける六〇弱の都市および地域における小麦価格の推移を集計したもので、「馬の首」として知られるものである。このグラフから一六世紀ヨーロッパにおける小麦価格の急騰が明らかであり、既に普及していた貨幣地代の固定化は、領主層に対して極めて多大なるダメージとなって社会階層の流動化を促すことになった。また、東部ドイツやポーランドでは西欧から毛織物や奢侈品を輸入し、代わりに穀物や原材料を輸出するために農場領主制(グーツヘルシャフトGutsherrschaft)が成立した。註㉖
 しかし、経済の繁栄が人々の心性に安定をもたらすとは限らない。一六世紀という大きな変動の時代は、社会の格差拡大が顕著になる時期であり、世紀後半は地球の小氷河期に相当したから天候不順による凶作・飢饉が追い打ちをかけた。一六世紀前半に始まるルターやカルヴァンの宗教改革は、後半に入って果てしない宗教騒擾の時代をもたらした。カルヴァン派の全国教会会議が初めて開催された一五五九年頃から新旧両派の騒擾が多発し、「悪さをする幽霊」という意味のユグノーHuguenotという語句がプロテスタント(新教徒)を意味する言葉として定着する。ただし、新旧両派の暴力行為はただ単に憎悪の発作による無軌道な行動ではなく、それぞれが持っている〈真の教義〉を擁護し、〈偽りの教義〉を論破する説教にも似た目的を有していたと言われる。また、当時のキリスト教信仰は信者個々人の内面的な営みとは限らず、家族や教区、村落といった共同体的な絆の中で行われる行為でもあったから、異端を自分たちの共同体を汚す存在と見なし、神の怒りを鎮め、異端によって傷つけられた社会的身体の統一を回復して真の統一を生み出すためには、異端という汚れを祓う必要があると考えたようである。プロテスタントの場合は聖具や聖画像に汚れを認めてその破壊に力を注いだ(偶像破壊運動)が、カトリック教会は異端者の身体を汚れの源泉ととらえて殺戮と死体冒瀆を行い、異端根絶に血道を上げた。フランス全土で一万人を超えるユグノーが惨殺されたサン・バルテルミ事件はその典型である。そして、宗教騒擾を引き起こす群衆の中核をなしたのは信心会、祭りの組織、若者組、民兵組織など共同体の中で重要な役割を担っていた集団であった。異様なまでに宗教的情熱が高まって新旧両派が激突した一六世紀後半、司法官ら都市部のエリート層は農村民衆の異教的伝統の中に「悪魔の陰謀」を見いだし、その宗教的・文化的征服に乗り出したのが、悪魔と契約しその手先となる魔女を告発する「魔女狩り」だと言われる。魔女狩りが最も盛んに行われたのはユグノー戦争期の一五六〇~一六三〇年(とりわけ一五八〇~一六一〇年)で、魔女狩りに新旧両派の区別はなかった。註㉗
 また、この時期の農村ではしばらく発生していなかった農民反乱が頻発するようになる。農民反乱が発生したのはフランス王国の周縁部に多く、魔女狩りが多発した地域と重複するという特徴がある。一五六二年のユグノー戦争勃発以降、軍隊が通過し戦場となった農村では、軍隊による糧食調達や宿営提供という過酷な負担を強いられ、これに黒死病(ペスト)の流行や飢饉が重なる。また、国王は戦争遂行のために重税を課し、地方貴族たちは種籾や家畜までをも奪い去る。そして、社会的混乱は人々を分極化する。ユグノー戦争の時期、とりわけ一五八六年から一六世紀末までの期間は土地の所有権が激しく移動した。東部のロレーヌ地方では、売却された土地の三五%は貴族に、二九%は都市住民に、一三%は聖職者の手に移り、残り一七・五%の農地は富農(領主所領の請負人や富裕な土地所有農民)が買い取ったという。その結果、農村共同体は彼ら富農と貧農(小作人、小屋住み農、農業労働者)との格差が極端に広がり、それが民衆蜂起につながった。一五七八年、プロヴァンスに発生した農民反乱は、翌年ローヌ川流域やノルマンディに拡大し、やがてブルターニュ、ブルゴーニュへと広がった。とりわけ一五九三年、南西部一帯に広まったクロカンの乱Révolte des Croquants(~一五九五年)は約五万人の叛徒が国王に対する反税闘争と反貴族の運動を展開したという。
 ところで、一六世紀を特徴づける都市化の動きは内乱に苦しんだ世紀後半にも続き、フランス全体の都市人口は増加の一途をたどった。都市人口(人口一万人以上の都市に住む人口)は、一五五〇年には約八一万人であったが、一六〇〇年には約一一〇万人に増加している(一六〇〇年頃のフランスの国土は約四六万平方キロメートルで、人口は約一九〇〇万人)。そして都市人口増加の原因は、自然増よりも新参者の流入という社会増によってもたらされた。米国の歴史家ナタリー・Z・デーヴィスNatalie Zemon Davis(一九二八~)の研究によれば、一五五〇~八〇年のリヨンではプロテスタントの男性の場合、七割近くが新参者だったという。都市の内部では一五三〇年頃から農産物の不足や物価騰貴によって実質賃金が低下し始めていたが、一五七〇年代以降は産業発展の鈍化に加えて穀物価格の高騰と失業の増加が職人ら賃金生活者をより貧窮化させた。また、この当時は原材料と道具を貸し付ける前貸問屋制と農村工業が結びついた「問屋制農村工業」が進展して農民層に現金収入の機会を提供したが、都市の手工業者にとっては高価な原料の供給を独占する問屋商人(商業資本家)への従属を強める結果となった。リヨンの絹織物、ノルマンディの毛織物、アミアンのセイエテ(絹を混ぜたサージ)製造、ブルターニュの綿織物などが問屋制の支配下に組み込まれ、手工業者は独立性を失っていく。そして貧窮化とともに手工業者の社会的地位は低下し、サンスSensでは一五三〇年、パリでは一五五四年、ランスでは一五九五年から親方層も含めあらゆる手工業者が市政から排除され、都市の役職は富裕商人、法曹家、国王役人が独占した。一五
世紀半ば以降、国王権力は都市財政に介入し始め、都市的新興貴族層と結んで国王課税を実現してきたが、彼らは国家の重要役職に補任されて社会的地位と利益を獲得していく。特に行政の中心都市では国王役人の数が増加し、租税法院や会計法院がおかれたモンペリエMontpellierでは、一五五〇~一六〇〇年の間に総人口が一万二五〇〇人から一万五五〇〇人に増えたのに対して、役人の数は一二四人から四四一人へと約四倍近く膨れあがっている。
 ところで、英仏百年戦争が終結した一五世紀半ば頃、大所領を持つ有力家系の貴族=領主層は王・諸侯からそれ相応の官職を得て俸給を確保し、所領支配の安堵を受けるようになった。彼らは新たな役人集団officiersを結成し、貴族・上層都市民双方の出身者からなる「名士」notablesと呼ばれる集団を構成するようになる。貴族=領主層の官職貴族(廷臣)化の動きは、国王への権力集中をもたらすことになるが、 一六世紀後半の宗教戦争期には「売官制」vénalité des officesの広がりと法服貴族の台頭で変化に拍車がかかった。中世以来、貴族とは家柄の古さと名誉を重んじ、血を通してのみ継承される特別な家門を指したが、この頃には貴族身分を新たに入手することが可能となった。すなわち、国王が特別な勲功をあげた臣下に対して貴族叙任状を付与したり、富裕な都市民が国王官職や都市の役職に就くことによって貴族身分を獲得する途が開かれたのである。一六世紀前半には既に国王官職を売却して戦費調達にあてる国王がいたが、同世紀後半にはその動きがいっそう強まった。一五七五年から八八年までの間にルーアン高等法院評定官職の価格が二倍に跳ね上がったように、官職価格の高騰はユグノー戦争期間中が特に著しい。そうなると地方の小貴族では入手が困難となり、これらの官職を購入したのは都市の富裕市民であった。こうして中世騎士の流れをくむ伝統的貴族(「帯剣貴族」)と官職売買をとおしてその身分を入手した「法服貴族」が併存することになり、後者の中には国家の政務を扱う国務会議に席を占める者までいた(一六世紀後半には法服貴族の間でも官職の世襲化が進み、官職の売買も増えた)。
 しかし、全ての帯剣貴族が没落傾向にあったわけではなく、地方総督gouverneurs de provinceとして強大な影響力、軍事力を誇る大貴族がフランス各地に割拠するようになる。一五世紀末から一六世紀初頭に国境地帯におかれた地方総督は、フランソワ一世の時代に一一から一六に増え、その権限も強化された。しかもポストの世襲が認められたため、大貴族は半ば独立した支配者として、数世代にわたってその地方に君臨し続けたのである。ラングドックのモンモランシ家、ドーフィネのレディギエール家、ブルゴーニュのマイエンヌ家などがその代表例で、彼等はしばしば地方三部会の支持を得て、王権の統制がきかない半独立的勢力として権勢を振るった。一方、家門と財産の保持を願う中小貴族は、大貴族をパトロン(保護者patron)、自らをクリアン(被保護者client)として認めて保護=被保護関係を結ぶ。この関係では、封建制のように封土の授受は伴わないが、相互利益と忠誠に基づく名誉ある関係には変わりない。例えば、 大貴族(保護者)は王権に働きかけて傘下の中小貴族が年金や官職を得られるように便宜を図り、中小貴族(被保護者)は大貴族の軍隊や家政に役職を得て戦争や宮廷伺候の際にはパトロンの紋章や制服を身につけて馳せ参じた。こうしてフランス全土に張りめぐらされた保護=被保護関係は、ラングドック、プロヴァンス、イル・ド・フランスに勢力を張るモンモランシ家、南西部を支配するブルボン親王家、シャンパーニュ、ブルゴーニュを拠点とするギーズ家の三大グループが成立した。この三大グループのクリアンたちはパトロンの信仰に従ったため、ユグノー戦争は保護=被保護関係に宗教的結束が重なって複雑な展開を見せたが、最後に勝利を収めたのはカトリックに変化したブルボン家であった。註㉘
 以上のように、カトリック教会の普遍的権威を打ち砕いた宗教改革・宗教戦争は、それぞれの地域で世俗権力が宗派を内側に取り込みつつ権力強化を図ったため、宗教的対立が主権国家およびそれを基礎単位とする国際秩序を成立させるための重要な契機となった。これはフランスも例外ではなく、ハプスブルク家など外国勢力の介入に危機感を抱いて王国の統一を最優先する勢力を王権の周囲に集合させたことがユグノー戦争を終結に導き、次第に「主権国家」としてのフランス王国の姿が浮かんで見え始める。このように、イタリア戦争と宗教改革・宗教戦争が繰り広げられた一六世紀のヨーロッパでは、教皇や皇帝という個々の国家を超越する権力が衰えて、各国が独自性を強めた結果、自国の領域内で最高権力(主権)を主張する主権国家が形成されたのである。また、各国は特定の国家が強大化することを阻止する「勢力均衡」balance of power の考えに立って同盟外交を展開した。大使の駐在は一四五五年、ミラノとジェノヴァとの間で始まり、ヴェネツィアとオスマン帝国、スペイン、ネーデルラント、フランス、イングランドと神聖ローマ帝国、教皇庁が相互に使節団を駐在させてその安全を保障し、文書を交わすという恒常的外交の慣行が一六世紀初めまでに定着していた。こうした外交官の常駐制度や文書に基づく行政制度の整備によって、混沌とした近世ヨーロッパ世界に誕生した大小さまざまな主権国家群の中に、形式的に対等のルールを定めて戦争と交渉を繰り返す独特の秩序、すなわち主権国家体制Staatensystemが成立し、付随的に外交文書主義も定着したのである。なお、主権国家の内部には初歩的な「国民意識」も芽生えているが、 国民国家の誕生は市民革命期まで待たなければならない。

註① キリスト教の信徒が爆発的に増大した一一世紀頃、カトリック教会は一定条件の苦行を行えば暫有的罪は消滅するとした。そして一〇九六年の第一回十字軍派遣に際し、教皇ウルバヌス二世は従軍を苦行と認め、 非従軍者に対しては金品の寄進による罪業消滅を許した。やがて一三〇〇年には、教皇ボニファティウス八世がローマの聖ペテロ教会、聖パウロ教会への参詣・寄進を苦行の一部としている(「聖年」宣言)。そして一三九三年、教皇ボニファティウス九世は「贖宥状」(免罪符)の地方出張販売を開始し、指定された日時以内にローマ参詣や寄進を行った証として符(受取証)を交付した。一四五七年には贖宥状の効力が死後の浄罪界にまで及ぶと宣言し、地方での委託販売が開始された。一六世紀に入って、一五〇七年、教皇ユリウス二世が贖宥状総売上の三分の一を教皇庁に納入させ(販売許可料は別途納入)、一五一四年には教皇レオ一〇世が二分の一まで引き上げている。
  神聖ローマ帝国のマインツ大司教アルブレヒトAlbrecht(ホーエンツォレルン家。ブランデンブルク選帝侯の子でマグデブルク大司教とマインツ大司教を兼任。一五一八年枢機卿)は、フッガー家ヤーコプ二世Jakob II Fuggerが用立てた三万グルデンgulden(一グルデン=一フローリンflorinは三・五グラム金貨)を教皇に献上して贖宥状販売権を獲得した。ドミニコ派説教師テッツェルが贖宥状を売り歩いた際、売上金の半分はフッガー家ローマ支店を通じて教皇庁に入り、残り半分はフッガー家の金庫に入った。
註② 羽野幸春ほか『新倫理資料 改訂版』(実教出版)一三九頁より引用。ピコ・デラ・ミランドラGiovanni Pico della Mirandola(一四六三~九四) 『人間の尊厳について』(創元社)参照。
註③ エラスムスについては、沓掛良彦『エラスムス』(岩波現代全書)二〇~七二頁を参照のこと。
註④ 福音とは、イエス・キリストによってもたらされた神からの喜びの使信のことである。パウロは、福音の内容をイエス・キリストの死と復活を結びつけて「救い」の出来事と説いた。パウロ的な福音概念を継承したのがルターであり、彼は聖書に書かれたイエス・キリストの教えのみを福音とし、教会や聖職者の言葉ではなく、福音だけを信仰の拠り所とすべきであると主張した(福音主義・聖書主義)。したがって、福音主義という用語は、宗教改革の立場をとる考え方として使用されることが多い。
註⑤ ルモーヌ学寮(カルディナル・ルモワーヌ学院)で教鞭を執っていたときに同僚のルフェーブル・デタープルJacques Lefèvre d'Étaplesから感化を受けたギヨーム・ファレルは、やがて一緒にギヨーム・ブリソンネGuillaume Briçonnetがパリ郊外のモーで始めていた改革運動に参加した。彼等「モーの人々」は、 はじめのうちは民衆の支持を得ていたが、一五二三年には異端視されて改革は挫折した。その後、ブリソンネやデタープルは王姉マルグリット・ド・ナヴァルMarguerite de Navarreのもとで保護を受けるようになり、ファレルは一五三二年にジュネーヴで改革に乗り出した後、一五三八年からはノイシャテルで宗教改革に取り組んだ。
註⑥ 再洗礼派(アナバプテストAnabaptist)はツヴィングリ派の中の急進派であったが、一五二五年に分離した。教理的特徴の一つは、幼児洗礼を否定して、成人の信仰告白に基づくバプテスマ(成人洗礼)baptismaを認めることにあり、幼児洗礼者にバプテスマを授けることがあるため再洗礼派と呼ばれる。カトリック教会だけでなく他のプロテスタント勢力からも迫害を受け、改革派からはウェストミンスター教会会議で排斥され、ルター派からは和協信条(一五七七年)などにより異端とされた。ドイツのミュンスターMünsterではB・ロートマンBernhard Rothmannの説教に応えてネーデルラントの再洗礼派が結集し、一五三四年、再洗礼派の神聖共同体、すなわち私的所有と貨幣を否定する「新しきイェルサレム」を出現させた(指導者ライデンのヤンJan van Leiden)。この神政独裁は翌年瓦解した。近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座世界歴史16』所収第一論文)三七頁参照。
註⑦ 長老制とは、元来イスラエル時代の部族長を意味する長老が教会の指導・管理・運営することを指してい      
 たが、新約聖書では会衆の霊的指導に当たる職となっている。教会の職制の一つとして明示されるのは宗教改革の時代のことであり、バーゼルの宗教改革者エコランパーディウスJohannes Oecolampadiusの提唱に基づいてストラスブルクのブーツァーが導入したのが最初である。カルヴァンは牧師・教師・長老・執事の四重職制を教会規定の形で制度化した。また、長老制は段階的合議制をとっており、 信徒代表が牧師職と構成する長老会(小会)、幾つかの長老会で作られる会議体(中会presbytery)、最終的には全国的組織(大会)となる。
註⑧ 聖餐eucharistia(感謝の意)とは、キリスト者がパンと葡萄酒をもって象徴的に食事を共にすることによってキリストの死と復活を記念する儀礼である。『新約聖書』の「コリント人への第一の手紙」(一一:二三―二六)に登場する「最後の晩餐」の場で、イエスはパンをとり「これはあなたがたのための私のからだである」と言い、杯をとって「この杯は私の血における新しい契約である。あなたがたは飲むたびに、わたしを想い起こすために、このことを行いなさい」と述べたという。聖餐をめぐる解釈の相違は古くから存在し、宗教改革者たちの間でも違いが見られた。ルターはキリストの体と血とがパンと葡萄酒とともに在る(共在説)と主張したが、ツヴィングリなどスイスの神学者たちはパンと葡萄酒はキリストの体や血の徴に過ぎない(象徴説)とした。一五二九年、ヘッセン方伯フィリップ一世Philipp Iがマールブルク会談Marburgを召集して両者の和解を図ろうとしたが、ともに一歩も譲らなかったという。カルヴァンは一五四一年『聖餐論』を著し、両派の誤りは表象と真理の関係に関する不十分な理解と、表現の不的確さに由来するとした。すなわち、パンと葡萄酒はキリストが自らの実体を分かち与えるための道具であり、真理と結びついた徴であると説明している。
註⑨ 四五一年、マルキアヌス帝が召集したカルケドン公会議Concilium Chalcedonense(第四回公会議)は、 神たるイエスだけを認める単性論を異端とするとともに、正統アタナシウス派の説を整えて神とイエスと聖霊との三者を不可分なものとする三位一体説を確立した。公会議の閉会時に朗読されたカルケドン信条は、 「唯一且つ同一の」イエス・キリストは「真の神であり、真の人間」であり、「神性において父と同一本質の者であり、且つまた人性においてわれわれと同一本質の者」であり、「二つの本性において混合されることなく、変化することなく、分割されることなく、分離されることがない」と宣言している。
註⑩ セバスティアン・カステリヨンSebastian Castellio『異端者を処罰すべからざるを論ず』(中央大学人文科学研究所編、 中央大学出版部)、シュテファン・ツヴァイクStefan Zweig『権力とたたかう良心』(みすず書房)、渡辺一夫『フランス・ルネサンスの人々』(岩波文庫)・『フランス・ルネサンス断章』(岩波新書)各参照。
註⑪ G.R.Elton, Reformation Europe 1517-1559, London, 1963(The Fontana History of Europe). G・R・エルトン『宗教改革の時代一五一七―一五五九』(越智武臣訳、みすず書房)一五七~一七九頁、渡辺信夫『カルヴァン』(清水書院)一二~一一三頁、半田元夫・今野國雄『世界宗教史叢書2 キリスト教史Ⅱ』(山川出版社)九二~一二四頁各参照 
註⑫ 一六世紀のフランスでは、学芸や生活習慣におけるイタリア化italianisationという形でルネサンスが進行する。一五一五年、ルネサンス君主の典型と言われるフランソワ一世はボローニャで開催した教皇レオ一〇世との和平会談の際にイタリア・ルネサンスの巨匠レオナルド・ダ・ヴィンチLeonardo da Vinci(一四五二~一五一九)を招き、翌年暮れにはアンボワーズ城近くのクルー荘園を与えてその居館(クロ・リュセChâteau du Clos Lucé)に住まわせた。レオナルドは一五一九年五月二日にこの邸宅で亡くなるが、最晩年の二年半ほどはフランソワ一世から年金を受け取り、ミラノ貴族フランチェスコ・メルツィFrancesco Melziらとともに暮らした。田村秀夫『ルネサンス 歴史的風土』(中央大学出版部)一九二~二〇六頁参照。ガリカニスムについては、拙稿「英仏百年戦争とジャンヌ・ダルク(下)」(水戸一高『紀要』第五三号)参照。
註⑬ 仏王フランソワ一世は皇帝選挙資金として金貨四〇万エキュécu(一・五トン)を用意したが、ライバルの西王カルロス一世の選挙資金は金貨八五万グルデン(二トン)であった。後者の内訳はアウクスブルクの鉱山・金融業者フッガー家からの融資が五四万グルデンで、残りはヴェルザー家とヴェネツィア商人から調達したといわれる。そのうち四六万グルデンが七選帝侯(首席は債務に苦しんでいたマインツ大司教アルブレヒト)に渡った。カルロス一世は満場一致で神聖ローマ皇帝に選出され、ハプスブルク帝国が成立した。こうしてスペイン語・ドイツ語を解さないブルゴーニュ人シャルルは、一五二〇年、アーヘンで「ローマ人の王」として戴冠し、一五三〇年には教皇クレメンス七世をボローニャに招いて皇帝としての戴冠式を挙行したのである。これが教皇による神聖ローマ皇帝戴冠の最後となった。近藤和彦「近世ヨーロッパ」(『岩波講座 世界歴史⒗ 主権国家と啓蒙』所収論文)三二頁参照
註⑭ ピケpique(英語ではパイクpike)とは、一五~一七世紀頃、歩兵用の武器として使用された槍の一種である。四~七メートル程度の長い柄に二五センチほどの木の葉状の刃がついており、重量は三・五キログラムであった。ピケを持った歩兵は密集方陣または横隊を組んで前進し、突撃してくる騎兵や歩兵を迎撃した。一七世紀末、マスケット銃の先端に取り付け使用する銃剣の発明により、ピケは姿を消した。
註⑮ 一五四一年九月二九日、オスマン軍がブダ城を占拠したため、ハンガリー中・南部はオスマン帝国直轄領(~一六九九年)、北・北西部とクロアティアはハプスブルク家が統治するハンガリー王国(一五二六~一八六七年、都ブラチスラヴァ)、東部は東ハンガリー王国(一五二九~七〇年)とに三分割された。なお、現ルーマニアのトランシルヴァニア地方に誕生した東ハンガリー王国は後にトランシルヴァニア侯国Principatul Transilvaniei(1571~1711)となるが、オスマン帝国の宗主権下に置かれた半独立国家であり、支配者の多くは改革派のハンガリー人であった。
註⑯ ブルボン家はカペー王家の支流の一つで、一三二七年、カペー朝最後の王シャルル四世からブルボン公に叙せられたルイ一世に始まる。一五〇三年、ピエール二世が没するとブルボン家嫡流(第一ブルボン家)の男系が途絶え、娘シュザンヌと傍系ブルボン=モンパンシエ家 Montpensierのモンパンシエ伯シャルル(シャルル三世Charles III)が結婚して、共同で公位を継承した。しかし、仏王フランソワ一世と対立したシャルル三世の戦死(一五二七年)でブルボン家本流は途絶え、ブルボン公ルイ一世の四男ラ・マルシュ伯ジャック一世から五代目の末裔ヴァンドーム公シャルルCharles がブルボン=ヴァンドーム家Vendômeを興す。そしてシャルルの息子アントワーヌAntoineがナヴァール女王ジャンヌ・ダンブレJeanne d'Albret(在位一五五五~七二)と結婚してナヴァール王位を獲得し、アントニオ一世(在位一五五五~六二)となった。なお、 ジャンヌ・ダンブレ(西名フアナ三世Juana III 、仏名ジャンヌ三世Jeanne III )は、ナヴァール王エンリケ二世と仏王フランソワ一世の姉マルグリットの娘で、熱心なユグノーであった。
註⑰ スコットランドでは一五五九~六〇年にプロテスタント(長老派教会・プレスビテリアンPresbyterianism, Presbyterian Church)の反乱が起こり、スコットランド王室を支援したフランス海軍はイングランド軍の介入で大打撃を受けた(一五六〇年七月六日、仏軍のスコットランド介入を禁止するエディンバラ条約Edinburghを締結した)。メアリ・ステュアートは一五六一年にスコットランドに戻ったが、 そのとき既にスコットランドの宗教改革は成功し、カトリックの彼女は孤立することになる。一五六五年七月二九日にイングランド王国の王位継承権を持つダーンリー卿ヘンリHenry Stuart, Lord Darnleyと再婚したが、その直後、政治顧問マリ伯ジェームズ・ステュアートJames Stewart(メアリの異母兄でプロテスタント)がエリザベス一世の支援を受けて反乱を起こした。この反乱はボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンJames Hepburn, 4th Earl of Bothwellが鎮圧した。翌六六年三月に重用していた秘書ダヴィッド・リッチオDavid Riccioが目の前で殺害されるという事件が起き、同年六月一九日には息子ジェームズ(後のスコットランド王ジェームズ六世、イングランド王ジェームズ一世)をエディンバラ城Edinburgh内で出産した。一五六七年二月、ダーンリー卿の轢死体がカーク・オ・フィールド教会Kirk O'Field(エディンバラ)で発見された数日後、ボスウェル伯が女王メアリをダンバー城Dunbarへと連れ去り、五月一五日には結婚式を挙げた。しかし、まもなく反ボスウェル派貴族が決起し、六月一五日、カーバリー・ヒルで投降したメアリはロッホリーヴン城Loch Levenへと移され、七月二六日には廃位された。翌六八年五月、ロッホ リーヴン城から脱出したメアリは武装蜂起したもののあえなくマリ伯軍に敗れ、イングランドへ逃亡した。だが、彼女は相変わらずイングランド王位継承権者であると主張してエリザベス一世の不興を買い、エリザベス一世廃位の陰謀(一五七〇年リドルフィ事件、一五八六年バビントン事件)に関与したとされて死刑の判決が下され、一五八七7年二月一三日、フォザリンゲイ城 Fotheringayで処刑された。西王フェリペ二世がイングランドへ無敵艦隊(アルマダ)を派遣するのは翌八八年のことである。髙澤紀恵「宗教対立の時代」(柴田三千雄・樺山紘一・福井憲彦編『世界歴史大系 フランス史2』所収第三論文、山川出版社)一一三~一五一頁、三浦一郎『世界史の中の女性たち』(社会思想社教養文庫)九二~一一一頁、 岩根圀和『物語スペインの歴史』(中公新書)各参照
註⑱ ネーデルラントは古くから毛織物業や商業で栄えていたが、商業革命以後はフランドル地方のアントウェルペンAntwerpen(仏語Anvers)が国際商業の中心地となった。一六世紀後半、西王フェリペ二世はネーデルラントにカトリック信仰を強制し、都市に重税を課したため、一五六六年、貴族たちが自治権を求めて決起した。この反乱にカルヴァン派(ゴイセンGeusen)の商工業者が加わってオランダ独立戦争(一五六八~16〇九年)が勃発した。
註⑲ イングランド王エリザベス一世は、即位当初、フランスやスコットランドとは対立関係にあり、むしろカ トリック教国スペインとは友好関係を保っていた。しかし、イングランド国教会の確立とともにフランスやネーデルラントのプロテスタントを支援するようになり、イングランド北部のカトリック反乱を鎮圧したことで一五七〇年、教皇庁から破門された。この頃から彼女の反カトリック路線が定着し、イングランド海賊によるスペイン銀船隊襲撃などによって両国関係は緊迫した。髙澤紀恵前掲論文一一六頁、 三浦一郎前掲書一一二~一二三頁参照
註⑳ Philippe Erlanger, Le Massacre de la Saint-Bartélemy, Paris, 1960. フィリップ・エルランジェ『聖バルテルミーの大虐殺』(白水社ドキュメンタリー フランス史)磯見辰典編訳七~三一頁参照
註㉑ 磯見辰典編訳前掲書一二九~二〇四頁参照
註㉒ 久保正幡訳『サリカ法典』(創文社)一五八~一六〇頁参照
註㉓ 磯見辰典編訳二〇五~二四〇頁、田村秀夫『ルネサンス歴史的風土』一九二~一九六頁(中央大学出版部)各参照
註㉔ 二宮宏之訳『西洋史料集成』(平凡社)より引用 
 第1条 第一に、一五八五年三月初め以来余の即位に至る間、さらには、それに先立つ騒乱の間に、各地に生   
  じたる一切の事件は、起らざりしものとして、記憶より抹消せらるべし。なお、検事総長その他、公人・私人を問わず、なにびとといえども、これらの事件に関し、いかなる時、いかなる機会にあっても、これを陳述・訴訟・訴追することは、いかなる裁判所におけるを問わず、これを認めない。
 第六条 余が臣民の間に、騒乱・紛議のいかなる動機も残さぬため、余は改革派信徒が、余に服する王国のすべての都市において、なんら審問・誅求・迫害されることなく、生活し居住することを認める。彼らは、事宗教に関して、その信仰に反する行為を強いられることなく、また、本勅令の規定に従う限り、彼らの住まわんと欲する住居、居住地内において、その信仰のゆえに追及されることもない。 
 第9条 余はまた、一五九六年より一五九七年八月末に至る間、改革派信徒によって、幾度か公に礼拝のおこなわれたる、余に服する都市においてはすべて、これに反する一切の法令、判決にかかわりなく、引き続きその礼拝を行うことを認める。 
 第⒔条 本勅令によって、裁可・承認せられたる場所におけるほかは、・・・いかなる改革派宗教の礼拝も、これをおこなうことを絶対に禁止する。 
 第⒕条 余の宮廷、イタリアに存する余の所領、およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域においては、 改革派宗教の礼拝は、いかなるものも、これを禁止する。ただしイタリアの所領およびパリ市ならびにその周辺五リウの領域に居住する改革派信徒は、本勅令の規定に従う限り、その住居内において追及されることなく、その宗教のゆえをもって、その信仰に反する行為を強制せられることもない。 
 第21条 改革派宗教に関する書籍は、その公の礼拝の許されている都市における以外は、公に、印刷・販売されてはならない。 
 第27条 余が臣民の意志を望むごとく、より良く和解せしめ、爾後の一切の不満を除去するために、余は、 改革派宗教を現在または未来において公然と奉ずる者も、余の王国の、国王・領主あるいは都市の、すべての地位・要職・官職・公務を、この規定に反する一切の決定にかかわりなく、これを保持し行使しうるものとし、 なんら差別されることなく、これらの職務に従事しうるものとする。 
註㉕ ユグノー戦争は、第一次戦争(一五六二年三月~六三年三月アンボワーズ勅令)、第二次戦争(一五六七年九月~六八年三月ロンジュモー和議)、第三次戦争(一五六八~七〇年サン・ジェルマン和議)、第四次戦争(一五七二~七三年ブーローニュ勅令)、第五次戦争(一五七四~七六年ボーリュー勅令)、第六次戦争(一五七六~七七年ベルジュラック和議・ポワティエ勅令)、第七次戦争(一五七九~八〇年ル・フレクス和議)、第八次戦争(一五八五~九八年ナント勅令・ヴェルヴァン和議)に区分される。
註㉖ Fernand Braudel, “LA MÉDITERRANÉEE et le monde méditerranéen à l'époque de Philippe III”Armand Colin, Deuxième édition revue et corrigée, 1966. F・ブローデル『地中海⑤』(藤原書店)二七四頁、F.Braudel & F.Spooner, “Prices in Europe from 1450 to 1750”、 The Cambridge Economic History of Europe, vol. IV, Cambrige, at the University Press, 967, p.470. 
近藤和彦前掲論文二一頁、遅塚忠躬「経済史上の一八世紀」(『旧岩波講座 世界歴史⒘』所収第一論文)四四~五四頁各参照。なお、グラフは高校教科書『世界史B』(東京書籍)二一六頁より引用。
註㉗ Robert Muchembled, L'invention de l'homme moderne. Sensibilités, moeurs et comportements collectifs sous l'Ancien Régime, Fayard 1988. ロベール・ミュシャンブレッド『近代人の誕生 フランス民衆社会と習俗の文明化』(石井洋二郎訳、筑摩書房)参照
註㉘ 林田伸一「近世のフランス」(『新版世界各国史⒓ フランス史』所収第四論文、山川出版社)一四
四~一六九頁、近藤和彦前掲論文一七~二六、四三~四九頁、髙澤紀恵前掲論文一二〇~一二九頁各参照
*文中の地図は林田伸一「近世のフランス」(『新版世界各国史⒓ フランス史』所収第四論文、山川出版社) から複写し、写真は筆者が撮影したものである。

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March 02, 2014

2014年東京大学入試 世界史解答例


第1問
  19世紀, ロシア帝国は不凍港や地中海への出口を求めて黒海沿岸やバルカン半島への南下政策を推進し, シベリア・沿海州や日本海などへの進出も図った。先ずウィーン会議で神聖同盟結成の中心的役割を果たした皇帝アレクサンドル1世が, ポーランド王やフィンランド大公を兼ね, 黒海に近いベッサラビアも獲得した。次の皇帝ニコライ1世は, カージャール朝とトルコマンチャーイ条約(1828年)を結び, 東のアフガニスタンに 進出した。1830年七月革命の際にはポーランド独立運動を徹底的に弾圧し, 63年にロシア領に編入した。また, オスマン帝国の衰退に乗じてバルカン半島に進出し, 第一次エジプト・トルコ戦争後にはボスフォラス・ダーダネルス両海峡の自由航行権を獲得した。しかし, 第二次エジプト・トルコ戦争後には英国のパーマストン外交で両海峡とも 中立化された。その後, 聖地管理権問題から勃発したクリミア戦争では英仏等がオスマン帝国を支援し, 再び挫折した。約20年後にはボスニア・ヘルツェゴヴィナにおける 反乱を契機とする露土戦争に勝利を収めたが, ビスマルクが招集したベルリン会議(1878年)で南下策を阻止され, 独露関係の悪化につながった。
  一方, 19世紀後半には沿海州方面への進出を図り, 1858年愛琿条約でアムール川以北を, 1860年北京条約では沿海州をそれぞれ獲得し, ウラジヴォストクに軍港を建設した。 また中央アジアでは, ムスリムの反乱を機に新疆に出兵し, 1881年イリ条約で清との国境線を定めた。1891年には露仏同盟締結によってシベリア鉄道の建設が開始され, 清の東北地方(満州)における東清鉄道敷設権も獲得した。日清戦争後の日本への三国干渉では遼東半島を還付させたが, 1898年にはその遼東半島南部の旅順・大連をロシアが租借したため日露関係が緊張することになった。

第2問
問(1)11世紀後半, セルジューク朝の侵攻を受けたビザンツ皇帝アレクシオス1世は, ロー マ教皇に援助を求め, これを期に十字軍がおこった。しかし, 第4回十字軍によって首都を一時占領された後は, 国力が衰退していった。14世紀にはオスマン帝国がバルカン半島に進出し, 1453年首都コンスタンティノープルの陥落で滅亡した。
問(2)(a)マラッカ
(b)開発や農業生産の上昇では人口急増に伴う食糧難を賄いきれず, 福建・広東など沿岸部住民は東南アジ   ア各地に移住して華僑(南洋華僑)となった。
問(3)(a)ジョンソン大統領。北ベトナムへの大規模な爆撃(北爆)を行い, 50万の大軍をベトナムに派遣した。
   (b)米国がドルと金の交換を停止したため国際通貨体制が大きく動揺し(ドル=ショック), 1973年には変動為替相場制に移行した。

第3問
問(1)ヒッタイト
問(2)ペリオイコイ
問(3)養蚕
問(4)占城稲
問(5)市政を独占していた大商人に対して市政参加権を要求した。
問(6)領主層は直営地を拡大して農民を土地に縛り付け, 輸出用穀物を栽培させた。
問(7)第一インターナショナル(国際労働者協会)。ロンドン。
問(8)マハトマ=ガンジー。塩の行進。
問(9)農業調整法AAA。全国産業復興法NIRA。
問(10)ヨーロッパ石炭鉄鋼共同体ECSC  

注:文字数は全く無視してあります。

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July 20, 2013

チェコスロヴァキアの歴史 18

 ビロード革命とその後
(1)東欧革命
 1985年(3/11)【ソ連】ゴルバチョフ書記長選出
 *ペレストロイカ政策(立て直し)・グラスノスチ(情報公開)
企業の自主権拡大, 個人企業の自由, 官僚による統制是正, 軍縮
(5/22)フサーク大統領再選
 1986年(3/28)チェコスロヴァキア共産党大会:フサーク書記長5選
(6/16)シュトロウガル内閣成立
 1987年(3/18)共産党中央委員会総会:フサーク書記長, 経済・社会改革推進を強調
    (4/3)チェコスロヴァキア・東独, 「中欧非核回廊設置」を西独に提案
    (12/8)【米ソ】中距離核戦力全廃条約(INF全廃条約)The Intermediate-Range Nuclear
       Forces Treaty):アメリカ大統領ロナルド・レーガンとソビエト連邦共産党
       書記長ミハイル・ゴルバチョフ。条約は1988年5月27日にアメリカ合衆
       国上院にで批准され, 6月1日に発効。射程が500km(300マイル)から 
       5,500km(3,400マイル)までの範囲の核弾頭, 及び通常弾頭を搭載した地
       上発射型の弾道ミサイルと巡航ミサイルを廃棄。1991年6月1日までに合
       計で2,692基の兵器が破壊された(米846基・ソ1,846基)
      ・カムパ公園で「ジョン・レノン追悼集会」:オタ・ベベルカ(『憲章77』の
       発起人の一人)演説
    (12/10)『憲章77』活動家らが示威行進(バツラフ広場)
    (12/17)フサーク共産党書記長辞任(大統領職には留まる)
      →ミロシュ・ヤケシュ書記長(65歳)
       ルボミール・シュトロウガル首相(在任1970~88年)
 1988年(7/8)ワルシャワ条約機構首脳会談:「制限主権論」無効宣言
(8/21)プラハで軍事介入20周年の1万人抗議デモ
    (10月)ラディスラフ・アダメッツ首相Ladislav Adamec(在任1988年10/12~  
       1989年12/7, 改革派)
    (11月)ドプチェク, ボローニャ大学(伊)から名誉学位を受ける。
      *沈黙を破る(「プラハの春」を擁護し, その後のチェコ当局が陥った「比類
       なき道義的破綻」を語る)
 1989年東欧革命
  【ポーランド】(6/18)自由選挙でポーランド統一労働者党潰滅
    *ヤルゼルスキ大統領選出(在任1989~90)→ワレサ大統領(在任1990~95)
    *「連帯」主導の政権成立:マゾビエツキ連立内閣
*ヤルゼルスキ将軍に大統領選出馬を説得したのはジョージ・ブッシュ米大統領
  【ハンガリー】
   ・(5/2)ハンガリー, 自国部分の「鉄のカーテン」撤去開始
     *東独の人々はハンガリーへ行けば西側へ脱出できると考えたが, 東独は1960年代初めから
       「西独のパスポートで入国しない限り, 出国できない」という協定をワルシャワ条約諸国
       と締結していた。
   ・(6/23)ハンガリー社会主義労働者党, プロレタリア独裁放棄宣言
   ・(8/9)汎ヨーロッパ・ピクニックPaneuropai piknik, Paneuropaisches Picknick:ハン
    ガリー領ショプロンで開かれた政治集会。西ドイツへの亡命を求める約1000人
    の東ドイツ市民が参加し, ハンガリー・オーストリア国境を越え亡命を果たした。
 │(1)「汎ヨーロッパ・ピクニック」の発案者は, 最後のオーストリア皇帝兼ハンガリ│
 │ ー王カール1世の長男オットー・フォン・ハプスブルクOtto von Habsburg│
 │(1912.11.20~ )。1999年までドイツ選出の欧州議会議員(キリスト教社会同盟所│
 │ 属)を務め, 「古きよき保守派」と評価されている。2007年には, 1922年から84│
 │ 年間つとめていた家長の座を長男カールに譲っている。│
 │(2)トラビの旅:東独製自動車トラバント(二気筒エンジンの箱型車)│
 │ ハンガリー国内難民は, 東独約85,000人, ルーマニア35,000人│
 │(3)オットー・フォン・ハプスブルクは, ハンガリーの人権グループや民主フォーラ│
 │ ムとともに「鉄のカーテンに別れを告げる祝賀の日」を計画。ショプロン近くの│
 │ 対オーストリア国境に象徴的な門を設置し, ハンガリー・オーストリア両国代表団│
 │ が国境を渡り, 移動の自由を表現する。│
 │(4)改革派共産党員ポジュガイが参加し, 内相イシュトバーン・ホルバートと非公式│
 │ の取り決めを結び, 国境警備兵は違法に越境しようとする東独市民に対して少なく│
 │ とも数時間の間は黙認させた。│
 │(5)「シンボルの門」を通ったのは600人以上, 近くの国境線を越えたのは約14,00人。│
 │(6)ギムニッヒ城会議(8/25):ハンガリー首相ネーメト, 外相ホルンがボン郊外の城で│
 │  西独首相コール, 外相ゲンシャーと会談。│
 │ (8/31)ハンガリー外相ホルン, 東独外相フィッシャーと会談│
 │(9/10)難民に出国許可│
   ・(10/23)憲法改正→「ハンガリー共和国」成立:複数政党制・大統領制
  【東ドイツ】
   ・(9/11)反対派グループ, 「新フォーラム」結成
       →月曜日夜のデモ再開(ライプツィヒのニコライ教会)
     *ホーネッカー議長は病気療養中(結腸にできたがん性腫瘍を切除)で, 政治
      的空白が出現
   ・(9月第三週)ホーネッカー議長執務復帰→チェコスロヴァキア(ヤケシュ書記
     長)・西独(ゲンシャー外相)と交渉し, 東独難民の西側行きを承認
   ・(10/7)東ドイツ建国40周年記念式典(ゴルバチョフ出席)「ゴルビー, われわれ
     を助けて。」→式典終了後, 全国的にデモ発生(逮捕者ベルリン1,067人, ドレ
     スデン中央部約200人)
・(10/9)月曜日:ライプツィヒのニコライ教会に約7万人が集結(指揮者クルト・
     マズアが平和的行進に誘導)
   ・(10/16)ライプツィヒのニコライ教会に12万人以上が集結(西独テレビ生中継)
   ・(10/18)エーリッヒ・ホーネッカーErich Honecker(ドイツ民主共和国第3代国家
     評議会議長〔在任:1976~89〕・ドイツ社会主義統一党書記長)失脚→エゴン
     ・クレンツ書記長。
     *東独負債額1,230億マルク(年100億マルクのペースで増加):国家破産
   ・(11/4)ベルリンのアレクサンダー広場に市民約70万人が集結:スローガン「われ
     われは国民だ」
・(11/9)国境開放:「ベルリンの壁」を開いたのは手違いから。
 │(1)新旅行法(草案):パスポートとビザを有する者は誰でも, 東独と西ベルリンないし西独│
 │ の間の国境検問所を通って, 永久に, もしくは短期訪問のために, 国を離れることができる。│
 │(2)シャポウスキ(共産党), 国際プレスセンターで記者会見│
 │ ・米NBC放送のトム・ブロコウ「この新規則はいつ発効するのか。」│
 │ ・(新規則が翌日発効し, このニュースは翌日午後解禁であることを知らない)シャポウス│
 │  キ「遅滞なく」→トム・ブロコウ「人々は壁を通ることができるのか。」→シャポウス│
 │  キ「境界線を通ることはできます。」│
 │(3)19:30までに, 世界中の通信社がベルリンの境界線開放を速報│
 │(4)ベルリンのフランス管理区域検問所(司令官はハラルド・イエーガー中佐):22:30頃, 部│
 │  下の二人に命じて紅白縞のゲートを上げさせる。│
 │  チャーリー検問所(司令官はギュンター・メル大佐):23:30頃, 境界線開放│
 │(5)(11/10)0:15東独の青年グループとウェッシー(西側の人々)がブランデンブルク門で合│
 │  流→壁の上で踊る。→「ベルリンの壁」崩壊│

  【ブルガリア】(11/10)ジフコク政権(共産党書記1954~89, 首相1962~89, 国家評
    議会議長〔国家元首〕1971~89)崩壊→ペータル・ムラデノフ政権(国家元首)
    1990年(2月)共産党一党独裁制放棄(党名を「ブルガリア社会党」と改称)
       (6月)複数政党制, (11月)国名改称「ブルガリア共和国」
  【ルーマニア】(12/25)ニコラエ・チャウシェスク(ルーマニア社会主義共和国初代大
    統領1974~89, 国家評議会議長・国家元首1967~89, ルーマニア共産党書記長
    1965~89)処刑
   ・外交政策:ソ連とは距離を置く親西欧路線。1968年チェコ事件では派兵を拒否し,
    公然とソ連批判。1989年ポーランドに民主的政権が誕生すると, ワルシャワ条約
    機構による軍事介入を主張→ソ連のゴルバチョフがこの要求を一蹴
   ・ルーマニア革命:(12/16)ティミショアラでハンガリー系住民のデモ発生→   
    (12/17)チャウシェスク, イラン訪問。デモ鎮圧。→(12/21)首都ブカレストを含め
    て全国規模で暴動→(12/22)ルーマニア全土に戒厳令(西側報道機関は犠牲者数を
    64,000人と推計)。チャウシェスクがブカレストから逃亡→(12/23)逃亡先のトゥ
    ルゴヴィシュテで, 国防次官主導の「救国戦線」により逮捕→(12/25)大量虐殺と10
    億ドル不正蓄財などの罪で起訴→〔軍事裁判(学校の教室)〕銃殺刑の判決→妻
    エレナとともに公開処刑(銃殺刑)*チャウシェスクの死後, ルーマニア全土の
    病院は革命の犠牲者数を「1000人未満」と報告。
 【チェコ=スロヴァキア】ビロード革命Sametova revoluce, Velvet Revolution
*「ビロード革命」と名付けたのはリタ・クリモバ(女性。反体制派報道官)
    スロヴァキアでは「静かな革命」Gentle Revolutionと呼ぶ。
   *「ヘイ・ジュード」:チェコの歌手マルタ・クビショヴァーは, 1968年の「プラハ
    の春」弾圧に抵抗するためチェコ語で「ヘイ・ジュード」のカバー曲と「マルタ
    の祈り」をレコーディングし, 民主化運動を励ました。なお, チェコ語版の歌詞に
    おいては「ジュード」は女性という事になっている。
  ・反体制派, 「パラフ週間」(1/15~21)発表:パラフの20年目の命日を記念
   (1/15)ヴァーツラフ広場に約4,500人集合→さらに4日間続行(500人以上逮捕)
      ハヴェル禁錮9カ月→釈放を求める嘆願書(4,000人以上署名)
  ・(8月末)ワルシャワ条約機構による軍事介入21周年記念集会(バーツラフ広場,
    約4,000人参加)→参加者数十人逮捕
  ・(9月)バーツラフ・ハヴェル『数行の短文』(反体制派と政権側の協議, 全ての政
    治犯の釈放を要求)
・汎ヨーロッパ・ピクニック(8/9)成功後, チェコスロバキアにも西独への越境を求め
    る数千人の東独市民が大量に流入
   ①東独から圧力を受け, ハンガリーとの国境閉鎖→東独からの難民約3,000人はプラ
    ハの西独大使館(宮殿地区にあるバロック様式のロブコビッツ宮殿)を取り囲む。
   ②ハヴェル, 東独市民の西側への自由出国要求
   ③(9月第三週)ホーネッカー議長執務復帰→チェコスロヴァキア(ヤケシュ書記
    長)・西独(ゲンシャー外相)と交渉し, 東独難民の西側行きを承認
④(10/2)プラハ郊外の小さな駅から難民列車出発(8本の封印列車。西独当局者が
    同行)→ドレスデン駅→バイエルン州ホーフ駅
    *西ドイツのテレビが生中継
   ⑤(11/3)西独の求めに応じ東独市民の輸送開始
  ・(10/28)プラハで民主化要求デモ
  ・(11/17)国際学生日:学生デモに警察機動隊実力行使
    *ヤン・オプレタルJan Opletal(1915.1.1~39.11.11)没後50周年記念集会
 │ ヤン・オプレタルはカレル大学薬学部の学生で, 1939年(10/28)チェコスロバキア共和国独│
 │立記念祭に反ナチスのデモと暴動が発生し, ヤン・オプレタルは腹部を撃たれて重傷を負い,
 │11月11日に死亡した。15日に行われた葬儀には数千人の学生が参加し, 反ナチスのデモが│
 │再び発生した。その結果, 総督コンスタンティン・フォン・ノイラートはチェコの全ての大│
 │学・短大を閉鎖し, 学生1,200人を強制収容所に送り, 9名の学生が処刑された(11月17│
 │日)。オプレタルの名前は, 彼が生まれた村ナークロ村や多数の都市の通りに残る。11月17│
 │日は, 国際学生連合(w:International Union of Students)などにより「国際学生日」として制定│
 │された。また, 彼の墓地は市北部ビシェフラトの国民墓地にある。│
8:00フランティシュカ・キンツラ内務相, 秩序維持のための緊急指令発令
15:40カレル大学があるプラハ市アルベルトフ地区に500~600人の学生が集結
16:00チェコスロバキア社会主義青年同盟(共産党下部組織)が主催する当局許可
     のデモ行進がカレル大学医学部前で開始(約15,000人程度。5万人説もある)。
行進は市中心部を避け,市北部ビシェフラトの国民墓地を終着点して整然と行わ
     れた(17:30解散, 学生・青年労働者は残る)。
18:30学生たちはチェコスロバキア国旗や蝋燭を掲げて民主化を呼びかけてプラハ
     旧市街に行進。デモ隊が市中心部のヴァーツラフ広場に向かい始めたため, 公
     安部が市街地各所を封鎖してプラハ国立劇場近くのナロードニ通りでデモ隊約
     1万人を包囲。学生たちは路上に座り込み, 賛美歌・国歌・ビートルズの歌・
     「ウィー・シャル・オーバー・カムWe Shall Overcome」(ピート・シーガーPete
     Seeger, 1960年代米国の公民権運動 )などを合唱。
19:30(21:00過ぎという説もある)学生たちの背後から現れた内務省軍特殊目的部
     隊(OZU, 通称レッドベレー)がデモ隊に対して警棒で攻撃し, 強制的に解散。
     後に民主化勢力の「独立医療委員会」は学生ら568人が負傷したと発表(561人
     説あり)。
 │*1人の若者がナロードニー通りの石畳に倒れたまま放置されていたが, やがて毛布にく│
 │ るまれ救急車の担架で運ばれた。→ドラホミラ・ドラシスカという女性が反体制グルー│
 │ プ「憲章77」の活動家ペテル・ウフルに「遺体は20歳の男子学生マルチン・シュミー│
 │ ド(数学専攻)だ」と伝える。ペテル・ウフルは西側メディアに情報提供。→ナロード│
 │ ニー通りのアーチ道は聖地と化し, 数万人が訪れた。│
 │【事実】チェコ治安警察StBの陰謀:チェコ治安警察長官アロイス・ロレンツ将軍と少数│
 │ の党内改革派グループが立案(暗号名「くさび」)。学生地下組織に潜入した若いStB士│
 │ 官ルデク・ジフチャクが国立墓地への大行進を率いるリーダー格の一人となり, 「バー│
 │ ツラフ広場へ」と扇動した後, OZUによる襲撃の際には隠れていた。その後, 地面に横│
 │ たわり, 死んだふりをした。ドラホミラ・ドラシスカも工作員。│
     
  ・(11/18)学生2人がラディスラフ・アダメッツ首相の私邸を訪問し, 前夜ナロードニ
     ー通りで発生した警官隊との衝突事件を伝える。
    ・国家舞台芸術アカデミーの学生が主導する形でプラハ市内の学生がストライキ
     に突入→全国の大学に波及。プラハでは, 学生・国立劇場職員・演劇俳優らが
     民主化を訴えて手製のポスターや壁新聞貼付。
    ・自由ヨーロッパ放送, 前日発生した衝突で20歳の男子学生マルチン・シュミー
     ドが警官隊に殺害されたと放送。共産党機関紙『ルデ・プラボ』, 「正常化」
     後初めて, 「プラハの春」を再評価する党論評を発表。
  ・(11/19)日曜日。ブラチスラヴァ, ブルノ, オストラヴァなどの地方都市の国立劇場
     や芸術文化同盟スト突入。反体制グループがアダメッツ首相と会談。
   22:00プラハでもヴァーツラフ・ハヴェルら憲章77派や反体制組織が会合を開いて
     「市民フォーラム」OF結成。
      *ハヴェルは前日はベーメンの別荘にいたが, 急遽プラハに戻る。
       リタ・クリモバを呼び, 外国報道陣との即席会見。バーツラフ広場に近い
       箱型劇場ラテルナ・マギカ(魔法のランタン)に本部設置。
    ・国営チェコスロバキアテレビ, 自由ヨーロッパ放送などによって死亡説が流れ
     た大学生マルチン・シュミード本人にインタビューを行って死亡説を否定。し
     かし, 映像や音声の質の悪さがさらに市民の憶測を呼ぶ結果を招いた。
  ・(11/20)月曜日。ブラチスラヴァで芸術家・科学者・教師など約500人が「暴力に反
     対する公衆」VPNを結成。
    ・大学および劇場のストライキが無期限ストに移行。プラハではデモ参加者が10
     万人規模(一説に30万人)に達し, ブラチスラヴァでも市民による初の大衆デ
     モが行われた。
     *チェコの音楽家ミハエル・コツァプが結成したロックグループの音楽。音楽
      が止んだときはカギを振る音(共産党指導部に向けて「さようなら, お別れ
       の時間です。」)
    ・「市民フォーラム」がアダメッツ首相と非公式に折衝。首相自身は学生の要求
     に同調する考えを示したが, その後開かれた閣僚会議はこれを否定。政府は一
     切の譲歩を拒否する公式声明を発表。→「市民フォーラム」, 対政府要求に「共
     産党の一党独裁廃止」の項目を加えた。
    ・共産党の報道や見解を否定する非共産党系の地下系新聞が発行開始。
・(11/21)「市民フォーラム」とアダメッツ首相が初めて公式折衝。首相は市民に対し
     て官憲による暴力が不行使を保証すると確約。
    ・プラハやブラチスラヴァなどで大規模デモ。
    ・アレクサンデル・ドプチェクが失脚後初めて大衆の前で演説。・・・「人間の顔
     をした社会主義」について語る(民衆は失望)。
    ・チェコスロバキア・カトリック教会の枢機卿が学生デモ支持を表明し, 政府を
     批判。
    ・「暴力に反対する公衆」, 共産党の主導的役割を定めた憲法の廃止を要求。
     →(11/25)大規模デモで市民が支持→スロヴァキア共産党は受け入れ。
    ・同日夜, ヤケシュ党第一書記は国営テレビ放送で演説。「社会主義がチェコスロ
     ヴァキアの唯一の選択肢」として民主化グループを批判。
    ・ヤケシュ, 人民警察(LM, 共産党直属の民兵組織)部隊4000人を招集してプラ
     ハ市内の民主化デモ鎮圧の指令→実行直前に中止(人民警察が拒否)。
・(11/22)「市民フォーラム」, 11月27日に2時間のゼネストを行うと発表。
    ・国営チェコスロバキアテレビ, 初めてヴァーツラフ広場から民主化デモの生中
     継。ドゥプチェクを称え, 現政権を批判した市民は即座にカメラの前から引き
     離された。
    ・ブラチスラヴァテレビ局では職員がストライキを構え, 放送局幹部に対し国内
     情勢に関する真実の報道を行うよう要求。ブラチスラヴァ市内のデモが無検閲
     で生中継。
・(11/23)国営チェコスロヴァキアテレビ, 夕方のニュースでデモ参加の工場労働者が
     首都プラハの共産党最高幹部(ミロスラフ・シチェパン第一書記)を野次る様
     子を放送。
    ・チェコスロバキア人民軍, デモを武力制圧する部隊の準備が整ったことを共産
     党指導部に報告。国防大臣はその直後テレビで「陸軍は決してチェコスロバキ
     ア国民に対して武力行動は起こさない」と演説。
    ・チェコスロバキア駐留ソ連軍, チェコスロバキア国内の事態に対し武力介入を
     しないと発表。
  ・(11/24)ヤケシュ第一書記らチェコスロバキア共産党幹部全員が辞任
     →共産党政権が事実上崩壊。
     ・ヴァーツラフ広場で「市民フォーラム」代表のハヴェルが勝利宣言。
     ・国営チェコスロヴァキアテレビ, 「市民フォーラム」が呼びかけた27日のゼ
      ネスト計画を報道し, ハヴェルの演説を初めて放送。また17日以降の一連の
      民主化運動の映像も公開し, テレビ局もゼネストに参加する予定であると報
      道。
     ・ブラチスラヴァテレビ局, 民主化勢力の代表者との討論番組を放送。
・(11/25)チェコスロバキア共産党新執行部が記者会見。民主化勢力側の要求を取り上
      げない姿勢を示したため, 失望感が広がる。同日午後にはプラハ市党委員会
      のシチェパン第一書記辞任。
     ・民主化デモはレトナー公園に場所を移動。参加者は, プラハで推定80万人(50
      万人説あり), ブラチスラヴァで過去最高の10万人。
・(11/26)日曜日。アダメッツ首相が初めてハヴェルと会見。
     ・市民フォーラム, ①複数主義に立つ民主制度と市場経済への移行, ②欧州統合
      への参加, ③環境保護などを求める綱領発表
     ・スロヴァキア共産党機関紙『プラウダ』編集部は, 民主化支持表明。
・(11/27)12:00~14:00全国民の75%がゼネスト参加。
     ・連邦政府文化省, 反共産主義に関する文書などを対象にした国家検閲を廃止
      すると発表。
     ・1週間以上続いた大規模な民主化デモはいったん収束。大学生や国立劇場俳
      優のストライキは12月29日まで継続。
  ・(11/29)連邦議会, 共産党の「指導的役割」を規定した憲法の条項削除
  ・(12/1)ワルシャワ条約機構5カ国, 1968年チェコスロヴァキアへの軍事介入を自己
      批判。
  ・(12/2~3)米ソ首脳会談(マルタ会談):ブッシュ, ゴルバチョフ
      「マルタ宣言」→冷戦構造の解消
【ソ連】憲法改正:複数政党制に移行。ゴルバチョフ, 大統領就任。
     ・バルト3国(ラトヴィア, エストニア, リトアニア), カザフスタン, モルダヴ
      ィア, グルジアなどが独立運動。
     ・アゼルヴァイジャンなどが, カフカス地方で民族抗争激化
  ・(12/3)アダメッツ内閣改造(非共産党員も入閣)→在野勢力は不満
・(12/8)円卓会議開催:チェコスロヴァキア共産党と「市民フォーラム」および「暴
      力に反対する公衆」による実務者協議。
     ・共産党の一党独裁放棄と複数政党制の導入決定。
・(12/10)フサーク大統領辞任。
      チャルファ首相(共産党)中心に新連邦政府成立:共産党9名, 国民戦線政
      党・在野勢力13名(後にチャルファ首相など3名が共産党離党)
       *内相ヤン・チャルノグルスキー(市民運動家), 外相イジー・ディーン
        ストビール(用務員)
       *組閣は実質的にハヴェルが行う。
連邦議会から一定数の共産党員が辞任し, 議会の任命で在野勢力から補充
・(12/28)ドプチェクが連邦議会議長に就任
  ・(12/29)連邦議会, ハヴェル大統領選出(チェコスロヴァキア共和国大統領1989~
      1992, チェコ共和国大統領1993~2003)
  ・(12/30)連邦議会, 憲法改正。一党独裁制廃止。
(2)冷戦終結後のチェコ=スロヴァキア
 1990年(2月)ソ連軍撤収の合意成立→1991年(6月)撤収完了
  ・(4/20)新国名「チェコ及びスロヴァキア連邦共和国」
【チェコ】経済改革のためには強い連邦権限が必要と主張
    【スロヴァキア】共和国の権限拡大を要求
・(6/8~9)自由選挙
    【チェコ】「市民フォーラム」過半数確保 
    【スロヴァキア】「暴力に反対する公衆」第一党, 「キリスト教民主運動」第二党
  ・(6/27)「市民フォーラム」・「暴力に反対する公衆」主導の連立内閣成立
      →チャルファ内閣 :計画経済から市場経済への移行開始
       ○「ショック療法」派(急速な移行を求める連邦財務相クラウス派)
        ・1948年共産党政権成立後に国家によって接収された資産を旧所有者に
         返還する。
        ・競売による商店などの小規模企業の売却
        ・クーポン方式による大企業の民営化(一定の手数料で登録を行った18
         歳以上の国民に株式を分配)
        ・価格の自由化(1991年実施)
       □財政均衡維持に成功。物価上昇。
【スロヴァキア】(6/27)国民議会, 第1次メチアル内閣成立
            (10/25)国民会議, 公用語に関する法律可決
  ・(10/3)【独】東西ドイツ統一:ドイツ連邦共和国
  ・(12月)連邦議会, 権限法可決:連邦権限の大部分が共和国に委譲
 1991年(2/10)「市民フォーラム」分裂
 │ ・クラウスなどの市場経済主義者→「市民民主党」ODS結成│
 │ ・ディーンストビール外相などの中道派→「市民運動」結成│
 │ ・社会民主主義者→「社会民主党」に合流│
  ・(2/14~15)チェコ・スロヴァキア, ハンガリー, ポーランド首脳会談
      →「ヴィシェグラード協力」V4発足
  ・(2/26)国営企業民営化法採択
  ・(3月)「暴力に反対する公衆」分裂
 │ ・主流派は連邦維持を前提に行動│
 │ ・スロヴァキア政府首相メチアルを中心とするグループ→「民主スロヴ│
 │  ァキア運動」結成│
・(4/23)【スロヴァキア】第1次メチアル内閣罷免→チャルノグルスキー内閣成立
・(6/28)COMECON総会で解散決定→(9/28)COMECON解散
・(7/1) ワルシャワ条約機構, 解体を定める議定書調印
      →東ヨーロッパ社会主義圏の消滅
・(12/16)チェコ・スロヴァキア, ハンガリー, ポーランド, ECと欧州連合協定に正式
      調印→EC(欧州共同体)準加盟
  ・【アルバニア】自由化政策に移行
   【ユーゴスラヴィア】スロヴェニア・クロアティア両共和国が独立宣言
      →ユーゴ内戦
   【ソ連】エリツィン, ゴルバチョフ体制批判, ロシア共和国の独立主張
     ・保守派のクーデター失敗→ソ連共産党解体→バルト3国独立
     ・(12/25)ソヴィエト社会主義共和国連邦解体→独立国家共同体CIS創設  
 1992年(2月)ドイツのコール首相, プラハ訪問→チェコ=スロヴァキア・ドイツ善隣 
       友好条約締結:ドイツ人追放によって犠牲が生じたことと, ミュンヘン 
       協定の無効を確認
  ・(3/20)欧州自由貿易連合EFTAと自由貿易協定調印
  ・(3/24)ハンガリー国民議会, カプチーコヴォ=ナジマロシュ・ダム建設に関する国
       家間条約を一方的破棄を承認→(10/23)ハーグ国際裁判所提訴
*1977(9/16)カプチーコヴォ=ナジマロシュ・ダム建設に関する国家間条約
       締結(チェコスロヴァキア・ハンガリー)
  ・(6/5~6)総選挙:市民民主党第一党, 民主スロヴァキア運動第二党
* メチアル(民主スロヴァキア運動), 2つの主権国家からなる国家連合へ
       の改組, 漸進的な経済移行政策を主張
  ・(6/20)クラウス(市民民主党)・メチアル(民主スロヴァキア運動)会談
      ①連邦解体への基本的合意
      ②クラウスはチェコ政府首相(在任1992~97), メチアルはスロヴァキア政
       府首相, 連邦政府首相はストラースキーで合意
*ハヴェル大統領, 連邦議会で連邦解消の信任を得られず辞任
 ・(6/24)【スロヴァキア】第2次メチアル内閣成立
     ・(7/17)国民議会, 国家主権宣言
     ・(9/1)国民議会, 共和国憲法可決(発効10/1)
  ・(7/2) 市民民主党党首クラウス, チェコ政府首相就任
・(7月)ヘクサゴナーレ(6カ国協力)第3回首脳会議
      →中欧イニシアティヴCEIに改称
  ・(11月)連邦議会, 連邦解消法成立→国民投票なしで解体
・(12/21)中欧自由貿易協定CEFTA調印
      (チェコ, ハンガリー, スロヴァキア, ポーランド)
(3)ビロード離婚velvet divorce
 1993年(1/1)チェコスロヴァキア解体(ビロード離婚)
     ・連邦財産は人口に応じて2:1の比率で分割すること, 独立後も関税同盟・
      通貨同盟を維持することで合意
      →チェコ政府が通貨の分離を決定し, 2月通貨同盟解消
・チェコ共和国・スロヴァキア共和国は, (1月)国際連合, (4月)GATT〔関税及
      び貿易に関する一般協定〕, (6月)欧州審議会に加盟。
      6月にEUとの間に連合協定調印。
【チェコ】
 1993年(1/1)チェコ共和国成立(都プラハ)
 (2/2)ハヴェル大統領就任(在任1993~2003)
■チェコ共和国憲法(1992年12月チェコ国民評議会採択)
    (1)議会:国権の最高機関
        代議院(下院):200名。比例代表選挙。任期4年
          *独立時は連邦時代のチェコ国民評議会が新国家の下院を構成
元老院(上院):81名。小選挙区制選挙。
               任期6年(2年毎に1/3ずつ改選)
    (2)内閣:首相は大統領が任命するが, 下院の信任が必要。
        →下院に基礎を置く議院内閣制
クラウス首相(中道右派連立内閣):インフレ抑制の均衡財政維持。ク
         ーポン方式による大企業民営化。自由貿易推進。
    (3)大統領:任期5年
 1994年(2月)チェコ, ハンガリー, スロヴァキア, ポーランド, CEFTAに関する共同宣言
       調印
*1994年経済成長率がプラスに転換。低い失業率, 比較的安定したインフレ率
      を維持→「チェコ経済の奇跡」
 1995年(11/28)経済協力開発機構OECD加盟
 1996年(1/17)EU加盟申請
    (5/31)総選挙:市民民主党辛勝(市民民主党68議席, 社会民主党61議席)
    (6/27)市民民主党主軸の与党三党, 連立協定署名
(7/4)クラウス内閣成立。社会民主党党首ゼマンは下院議長就任。
    (11/22)上院決選投票で連立与党三党が過半数維持
 1997年(1/21)「和解宣告」調印:チェコ政府(クラウス首相)とドイツ政府(コール首相)
 〔独〕ナチスによるチェコ支配がドイツ人追放の要因になったことを認め, 謝罪
     〔チェコ〕ドイツ人追放が不正なものであったことを認め, 謝罪
    (12月)クラウス首相辞任
       *経済成長鈍化(1996年~)。財政赤字・貿易赤字が上昇。1997~99年3
        年連続マイナス成長。市民民主党の秘密政治資金問題が露見。
    (12/16)NATO外相理事会:チェコ, ハンガリー, ポーランド3カ国外相, 加盟議定
       書調印
 1998年(1/20)ハヴェル大統領再選
    (1/28)下院, トショフスキ内閣を承認(トショフスキーは国立銀行総裁)
    (4/15)下院, NATO加盟承認
(6/19)下院繰り上げ選挙:社会民主党第一党(74議席)
    (7/17)ゼマン内閣成立(社会民主党単独少数内閣)。クラウス, 下院議長就任。

1999年プラス成長に転換
 2002年(6月)下院選挙:社会民主党CSSD第一党
    (7月)シュピドラ内閣成立:社会民主党, キリスト教民主連合・人民党KDU-CSL
      (中道), 自由連合・民主連合US-DEU(右派)の連立政権
 2003年(2月)ハヴェル大統領, 任期満了退任
    (3月)ヴァーツラフ・クラウス大統領Vaclav Klaus(2008年3月再任, 2期目, 任
       期5年)
 2004年(5月)EU(ヨーロッパ連合)加盟
    ・欧州議会選挙で敗北→シュピドラ首相辞任→グロス内閣:第2次三党連立内閣
(11月)上院選挙:与党敗北。政治スキャンダル。
 2005年(4月)グロス首相辞任→パロウベク内閣成立
 2006年(6月)下院選挙:野党第一党の市民民主党ODS勝利
    (9月 トポラーネク内閣成立:市民民主党少数内閣→下院の信任を得られず総辞
       職
 2007年(1/9)再度トポラーネクが首相に任命され, 第二次トポラーネク内閣成立
    (1/19)下院で信任を受け, 正式に成立。
 2008年(2月)クラウス大統領再選
(10月)上院選挙:野党第一党の社会民主党CSSDが躍進
 2009年(3/24)下院, 内閣不信任案可決→トポラーネク内閣総辞職
    (5/8)フィシェル内閣(選挙管理内閣)成立:フィシェル首相は前統計局長官
    *10月に繰り上げ総選挙を予定していたが, 下院議員の任期短縮に関する異議申
     し立てを受け, 憲法裁判所が繰り上げ総選挙の実施取り消しを決定。
*2005年以降6%台の高い経済成長立→2008年景気減速(物価上昇, チェココ
     ルナ高の影響)→同年9月の国際金融危機以降, 急激に景気低迷→2009年マイ
     ナス成長。
*ユーロ導入時期は未定。
 2010年(5/28~29)下院選挙:社会民主党(中道左派)第一党, 市民民主党(中道右派)
     第二党。
    *社会民主党は同じく左派のチェコ・モラヴィア共産党の議席数とあわせても過
     半数に達しないことから敗北表明→パロウベク社会民主党党首辞任。
    (6/28)市民民主党・新党「TOP09」・「公共の物(VV)」が連立政権合意。
    (7/13)ペトル・ネチャス内閣成立:ネチャスは市民民主党党首。
 2011年(12/18)ヴァーツラフ・ハヴェル逝去(75歳)
【スロヴァキア】
 1993年(1/1)スロヴァキア共和国成立(都ブラチスラヴァ)
■スロヴァキア共和国憲法(1992年9月スロヴァキア国民評議会採択)
     (1)評議会(一院制):国権の最高機関。大統領選出。150名。
    (2)内閣:首相は大統領が任命するが, 評議会の信任が必要。→議院内閣制
(3)大統領:任期5年
(2/15)コヴァーチ大統領就任
 1994年(3/16)反アメチアル派が「民主スロヴァキア運動」から離党→第2次メチアル内
                                 閣罷免
       モラウチーク内閣成立:キリスト教民主運動, 民主左翼党(旧共産党), 民
         主連合(「民主スロヴァキア運動」離党者)の連立内閣。
         ハンガリー人諸党が閣外協力。
    (9/30~10/1)国民議会選挙:民主スロヴァキア運動勝利
(12/13)第3次メチアル内閣成立:民主スロヴァキア運動・国民党(民族主義政党)
        ・労働者連盟(民主左翼党から離脱した左派)の連立内閣
(1)メチアル首相:強引な議会運営
・1995年(11/15)「言語法」可決:ハンガリー語など少数民族言語の公的使
        用を制限
・ハンガリー人学校におけるスロヴァキア語教育の強化。少数民族文化保
        護の予算削減。→ハンガリーとの関係悪化
       ・コヴァーチ大統領, 国民議会選挙で反メチアル勢力支援→大統領・首相の
        対立
      (2)クーポンによる大企業民営化廃棄→首相側近・与党支持者による不透明
        な民営化→1998年総選挙前には貿易赤字・財政赤字の拡大, 深刻な国営
        銀行の不良債権問題等が顕在化
      (3)マスコミ管理
      (4)NATO・EU加盟が外交の最優先事項・・・国民党・労働者連盟が反対
      (5)対ロシア関係強化に積極的
 1995年(3/19)ハンガリーと善隣友好条約調印:少数民族の権利, 既存の国境を尊重
・連立与党の国民党が反対
       ・1996年(3月)スロヴァキア議会, 批准
         少数民族の「集団的な権利」否定の付帯決議採択
    (8月)大統領の息子誘拐事件(オーストリアへ):情報局関与の疑い→大統領・首
      相の関係, 更に悪化
 1997年(5/23)NATO加盟の是非を問う国民投票:棄権多数で混乱→(5/26)無効
 1998年(3/2)コヴァーチ大統領, 任期満了退任→大統領不在(首相が代行)
    (9/25~26)国民議会選挙:野党連合「スロヴァキア民主連合」, 過半数獲得
      ・民主スロヴァキア運動43議席(第一党), 国民党14議席, 労働者連盟0
      ・スロヴァキア民主連立(キリスト教民主運動・民主連合など5政党が結集)
       41議席(第二党), 民主左翼党23議席, ハンガリー人連立14議席, 市民合
       意党13議席 
    (9/30)ズリンダ首相(スロヴァキア民主連立議長)選出:ハンガリー人政党が入閣
・民主化政策推進。
・財政健全化政策:公共投資の大幅削減, 公共料金の値上げ。
       メチアル政権時の国内資本保護政策を転換し, 積極的に外資導入。
       銀行その他の国営基幹産業の民営化を推進。
       1999年に1%台まで低下した経済成長が2002年には4.4%に回復。
 1999年(1月)憲法改正:大統領の直接選挙制度導入
    (6月)シュステル大統領就任:1年以上空席となっていた大統領に与党「市民理
                  解党」SOPの党首が就任   
 2002年(9月)総選挙:第2次ズリンダ内閣成立:中道右派4党の連立政権→2003年以
            降は少数内閣
     ・社会保障制度改革。
     ・法人税・所得税・付加価値税をすべて19%とするフラット・タックス制度
      導入。外国直接投資も増加。
     ・経済成長率2004年5.5%, 2005年6.6%。
     ・構造改革→経済格差に対する国民の不満
 2004年(4月)大統領選挙:院外野党「民主擁護運動」HZDのガシュパロヴィチ党首当選
    (5月)EU(ヨーロッパ連合)加盟

(6月)イヴァン・ガシュパロヴィチ大統領Ivan Gasparovic(2009年6月より二期
       目。任期5年。三選不可)
 2006年(6月)総選挙:野党「方向党」(スメルSmer, 中道左派)が第一党。
     ・ズリンダ政権による構造改革→経済格差に対する国民の不満
    (7月)フィツォ内閣成立:「方向党」・「人民党/民主スロバキア擁護運動」LS-HZDS
      (メチアル元首相)・「スロバキア国民党」SNSの連立政権
     ・目標「低所得者に優しい社会福祉国家の創設」
・ズリンダ前政権の経済自由改革路線と知識集約型経済を継続。
      積極的な外国投資の誘致
     ・前政権の構造改革路線を一部軌道修正:最低賃金引き上げ。 年金制度改革。
     ・高い経済成長率(2008年GDP成長率6.4%)→世界的経済危機の影響で2009
      年GDPはマイナス成長。
 2009年(1月)ユーロEUR導入
 2010年(6/12)総選挙:第一与党「方向党」Smerは最大議席を得たが, 連立交渉に失敗。
    (7/9)イヴェタ・ラディチョヴァー内閣成立
      ・ラディチョヴァー「スロバキア民主キリスト教同盟」SDKU(選挙リーダ
       ーラディチョヴァー)・「自由と連帯」SaS・「キリスト教民主運動」KDH・
       「架け橋」Most-Hidの4党による中道右派政権

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チェコスロヴァキアの歴史 17


 「プラハの春」とチェコ事件
(1)スターリン批判
 ■1953年(3/5)【ソ連】スターリン死去→(3/6)マレンコフ首相就任(在任1953~54)
(3/14)フルシチョフ第一書記就任
            *重工業変調政策の是正, 生活水準引き上げ策
(3/14)ゴットヴァルト大統領死去
         →ザーポトツキー大統領(前首相, マレンコフ派)・シロキー首相
          ノヴォトニー第一書記(フルシチョフ派)
         *ソ連のコルホーズ式農業集団化政策をチェコに適用することにザー
          ポトツキー大統領は批判的で, ノヴォトニー第一書記は原理的賛成
          →1954年(4月)ソ連・チェコ指導部合同会議フルシチョフはノヴォ
           トニー支持→農業集団化の停止を撤回(1955年)
・1959年初頭のコルホーズ型集団農場数12,140(全農地の71.9%)
         ・食糧生産の低下
〔1937年〕製パン用穀物 94,000トン輸入
〔1965年〕製パン用穀物742,000トン輸入
         *ソ連の非スターリン主義的指導部は, 向ソ一辺倒の小スターリン主
          義者の方が好ましい。
(6/1)通貨改革→実質賃金の大幅低下。労働ノルマの強化。
         *プルゼン・プラハ・オストラヴァなどで労働者の暴動→軍隊鎮圧
・スターリンの死後, ソ連・東欧諸国ではなし崩しの非スターリン化が進んだが, チ
 ェコは例外。・・・1955年5月, プラハに巨大なスターリン像建立
1956年(1/1)第2次五カ年計画
 ■1956年(2/14~25)【ソ連】ソ連共産党第20回大会
スターリン批判(フルシチョフKhrushchov)
 │ スターリンは, 説得や説明, あるいは人々との忍耐強い協力という方法には頼らず, 自分の考│
 │えを暴力的に押しつけ, 無条件に服従させる方法をとっておりました。このような事態に反対│
 │したり, 自分自身の見解の正しさを証明しようと試みた人々は, 指導部から外されたり, ひいて│
 │は精神的, 肉体的に抹殺される運命に陥ったのであります。│
・バラーク内相主宰の粛清裁判調査会が活動開始
 →(4/25)スラーンスキー事件関係者釈放:スラーンスキー, クレメンティス, フサー
     クらの「ティトー主義者」という罪名取り消し
*スラーンスキー:「外国のスパイ」という罪名は残る。
  (3/10)チュピチカ副首相解任:故ゴットヴァルト大統領の女婿。第一副首相兼国
     防相→(4月)党及び政府の全役職解除。党中央委員会から追放。
・(4/17)コミンフォルム解散
・(4/25)スラーンスキー事件関係者釈放。学生・知識人らの反政府デモ発生。
  【ポーランド】(6/28)ポズナニ暴動→ゴムウカ政権(統一労働者党第一書記1956~70)
自由化路線。ソ連派官僚を一掃(非スターリン主義の先駆)
【ハンガリー】(10/23)ハンガリー事件〔ブダペスト暴動〕:スターリン主義に反発し
       た民衆が, ナジ=イムレの復権を求めて蜂起→(10/24)ナジ首相就任:自由化
      政策開始。ソ連軍介入→カダール政権(1956~89)。ナジ=イムレ処刑。
 ■1957年(11/13)ザーポトツキー大統領死去→ノヴォトニー第一書記, 大統領も兼務
(スターリン主義)
(1)1960年(7/11)社会主義共和国憲法制定→チェコスロヴァキア社会主義共和国
   (2)第三次五カ年計画(1961年~62年夏に中止)
     *1963年までに農業生産の93.9%が国有化・協同化。
   (3)党中央委員会報告(1961年11/15):過去の誤謬の大半はスラーンスキーの責任
    バラーク内相追放(1962年2/8)→(6月)逮捕 
   (4)知識人・青年層, 自由化を要求・・・特に自治を無視されたスロヴァキア人はチ
                      ェコ人に対する不満鬱積。
  《非スターリン化が進まなかった原因》
①共産党の粛清→労働者出身の党員に昇進の機会(ノヴォトニー体制を補完)
②重工業優遇政策→順調な経済情勢
        (1950年代の国民所得8%上昇, 工業生産11%上昇)
③民主主義とヒューマニズムの伝統
④「心の武器」によって権威に反抗するシュヴェイク的伝統
 *ヤロスラフ・ハシェクJaroslav Hašek(1883~1923年):チェコのユーモア作家,
  風刺作家。代表作『兵士シュヴェイクの冒険』(岩波文庫全4巻)。
■1961年(10/17~31)ソ連共産党第22回大会:第二次スターリン批判
*アルバニア批判→(10/19)【中国】周恩来, ソ連のアルバニア批判に反論・帰国
(11/25)【ソ連】対アルバニア断交
*レーニン廟からスターリンの遺体撤去
1962年(12/4~8)チェコスロヴァキア共産党第12回大会 
    *大会直前, プラハ市内のスターリン像爆破
*ノヴォトニー大統領, スターリン時代の不正を認める(故ゴットヴァルト批判)
*第三次五カ年計画(1961~)中止
1963年(4/3~4)党中央委員会総会
    ①スラーンスキー事件・「スロヴァキア民族主義」事件関係者の部分的名誉回復
    ②スロヴァキア共産党第一書記バチーレク罷免・・・粛正の責任
スロヴァキア共産党第一書記にアレクサンデル・ドプチェクAlexander Dubček,
     1921(11/27)~-1992(11/7)選出
 │ スロヴァキア・ウフロベツ生まれ。1925年ソ連に移住し, キルギスのビシュケクおよびゴー│
 │リキー市(現在のニジニ・ノヴゴロド市)で過ごし, 1938年に帰国。1939年スロヴァキア共│
 │産党に入党し, 反ファシズム闘争に加わる。戦後, トレンチーンの党書記局に勤務し, 1955~│
 │1958年, モスクワに留学。1963年, バチーレクに代わってスロヴァキア共産党第一書記に就│
 │任。│
 │ 1968年にチェコスロバキア共産党第一書記に選出され, 「人間の顔をした社会主義」を掲│
 │げた「プラハの春」と呼ばれる改革運動を実施。8月20日のワルシャワ条約機構軍による│
 │軍事介入後も引き続き第一書記の地位に留まったが, ソ連および党内保守派の圧力によって│
 │1969年4月17日の党中央委員会総会で辞任を余儀なくされ, 連邦議会議長という閑職に追い│
 │やられる。その後, 1970年1月トルコ駐在大使に任命されるが, 6月に解任, 党籍剥奪処分を│
 │受け, 秘密警察の監視下でブラティスラヴァ近郊の営林署での勤務生活を強いられる。年金│
 │生活に入った後の1988年にはボローニャ大学での名誉博士号授与のためにイタリアを訪問│
 │し, 失脚後初めて自らの政治見解をウニタ紙上で公表した。│
 │ 1989年のビロード革命ではヴァーツラフ・ハヴェルの率いる市民フォーラムを支援し, 大│
 │規模な民主化デモが展開されていた首都プラハのヴァーツラフ広場に面したバルコニーに登│
 │場して大きな歓声を受けた。これはビロード革命の成功とドプチェク自身の復権を後押しし,
 │共産党体制が倒れた同年12月に連邦議会議長として政界に復帰した。│
 │ 1992年スロヴァキア社会民主党 (SSDS) 党首に就任。同年の総選挙を経て, チェコスロバ│
 │キア連邦議会議長に再選。チェコスロバキア解体直前の1992年9月1日の交通事故で重傷│
 │を負い, 11月7日に死去。その年の終わりとともにチェコとスロヴァキアに分離する事にな│
 │った(ビロード離婚)。│
(5/22~24)作家同盟大会:ラディスラフ・ムニャチコ(スロヴァキア),粛正裁判
の見直し要求
(6/上旬)処刑されたクレメンティス外相の名誉回復
    (8/7)処刑されたスラーンスキー党書記長の名誉回復
    (12月)元政府議長フサーク(終身刑)等スロヴァキア民族主義者の完全名誉回復
(9/21)シロキー首相(スラーンスキー粛正の中心人物)解任
      →後任はスロヴァキア国民議会議長ヨーゼフ=レナールト
(2)「プラハの春」とその挫折
  ①経済改革の進行
   ・1950年代:国民所得8%上昇, 工業生産11%上昇
・1961年:国民所得6.8%上昇, 工業生産9.2%上昇
    1962年:国民所得1.4%上昇, 工業生産6.3%上昇
1963年:国民所得マイナス2.2%, 工業生産マイナス0.6%
 ・1962年チェコスロヴァキア共産党第12回大会→第三次五カ年計画中止
・経済学者ラドスラフ=セルツキーによる批判・・・チェコ経済を破局に追い込ん
     だのは「計画経済」。計画経済は手段であって目的ではない。計画経済・個人
     崇拝は清算すべきである。
・科学アカデミー経済研究所所長オタ=シク教授・・・市場経済原理の導入提案
・1965年(1/29)党中央委員会, 1966年1月からの経済改革導入(第四次五カ年計画)
    を決定→新経済政策
1)生産手段の社会化及び他人の労働の不搾取は厳守
2)市場経済の利点(企業の独立採算・自由競争, 利潤・利子の導入, 報償金の復
 活)を採用
*中央集権的な計画・運営の分散化。企業の自主性確保。
   ・1966年(5/31~6/4)チェコスロヴァキア共産党第13回大会:オタ=シク教授, 「政
    治改革なくして経済改革なし」と主張
 ②体制批判の表面化
・1967年(6/27~29)チェコスロヴァキア作家同盟大会:党の文化政策批判。検閲
     の存続, アラブ寄りの中東政策を非難。
 *ヴァツリーク演説「市民と権力の関係について, 権力と文化について」
(9/26~27)党中央委員会総会
      ・ヴァツリークなど作家同盟幹部の党除名と, 機関紙発行停止を決定
・映画監督ヤン=プロハーズカを中央委員会候補の地位から追放するための
       討議資料配付(電話の盗聴記録)→ノヴォトニーの人権蹂躙に批判
(10/31)党中央委員会:ドプチェク第一書記がノヴォトニーを非難
カレル大学生, 学生寮の管理改善を求めてデモ→警察, 厳しく弾圧
(12/8)ソ連共産党書記長ブレジネフ, プラハ訪問・・ノヴォトニーの不評を知る
(12/19~21)党中央委員会:ノヴォトニー批判噴出
 ③ドプチェク政権の成立
・1968年(1/5)党中央委員会総会
     *ノヴォトニー第一書記解任→ドプチェク第一書記
国民経済計画委員会議長オルドジヒ=チェルニーク, 首相就任
オタ=シク副首相
・(3月)ノヴォトニー派の内相・検事総長を解任→ノヴォトニーの軍事クーデター
 失敗→(3/21)ノヴォトニー大統領辞任→スヴォボダ大統領就任
(4/18)ヨーゼフ=スムルコフスキー国民議会議長, 選出
・ドプチェク政権:自由化路線「人間の顔をした社会主義」
1)検閲の廃止, ノヴォトニー派要人の追放, 秘密警察の権力縮小
労働者に旅行の自由, 会話の自由, 言論・集会の自由を許可
2)労働者評議会による企業自主管理, 市場論理の導入
3)西側からの経済援助・技術援助も考慮
*ソ連, コメコン銀行に預けてある輸出超過分を外貨(または金貨)に換え
  るのを拒否。西ドイツとの外交再開も拒否。
*「二月事件」(1948)におけるソ連秘密警察の動きを暴露
・(4/5)チェコスロヴァキア共産党「行動綱領」
1)集会・結社の自由。事前検閲の廃止(6/20新聞法採択)。
      指導者の定期的記者会見を約束。
2)西側諸国への旅行及び長期滞在を許可
3)西ドイツとの友好関係樹立 *西ドイツ国境地帯へのソ連軍駐留を拒否
4)政治犯の釈放と精神的・物質的な補償を約束
5)チェコとスロヴァキアは同等の地位とし, 連邦形成も想定
   ・(5/8)ソ連・東欧党首脳会議〔モスクワ〕:チェコスロヴァキア・ルーマニアは招
      待されず。→反チェコスロヴァキア論調が急増
・(6/20~30)ワルシャワ条約統一軍, チェコスロヴァキア国内で合同演習
・(6/27)「2000語宣言」(ヴァツリーク起草):「プラハの春」
     1)民主化の積極的推進 2)民主化を妨害する保守派との闘い 
     3)外国の干渉に対する事前警告
      →ソ連共産党機関紙『プラウダ』, 反革命文書と規定し厳重警告
・(7/14~15)ソ連・東欧5カ国首脳会談〔ワルシャワ〕
ソ連・ブルガリア・ポーランド・ハンガリー・東ドイツ
     *チェコスロヴァキア指導部への警告書簡採択
      「チェコスロヴァキアの独立と主権は社会主義国としてのみ維持される」
(7/29~8/1)ソ連・チェコスロヴァキア首脳会談〔チュルナ(チェコ)〕
1)新聞の一部検閲の復活  2)共産党指導下の国民戦線以外は政治集団禁止
3)治安維持の強化     4)自由化に反対する共産党員の保護
5)ソ連との論争中止
(8/3)ソ連・東欧6カ国首脳会談〔ブラティスラヴァ〕:共同声明発表・・・妥協
(8/9~11)ユーゴのティトー大統領, プラハ訪問・・・ソ連中心主義反対
(8/15~17)ルーマニア共産党党首チャウシェスク, プラハ訪問・・・ソ連の内政
                               干渉反対
(8/20)【ソ連】中央委員会緊急総会:軍事介入派の勝利
・強行派:シェレスト, キリレンコ, ポリャンスキー
・中道派:ブレジネフ *賛成にまわる
・消極派:コスイギン, ポドゴールヌイ
■チェコ事件:ソ連軍中心のワルシャワ条約5カ国軍50万人, チェコスロヴァキア侵入
       (ソ連中心, ポーランド10万, ブルガリア・ハンガリー各1.5万, 東独軍は補給部隊)
  *外国軍侵入後, 1週間のうちにプラハで24人殺害, 356人負傷。全国の
   生産損失高は40億コロナ(1ドル=15コロナ)
(8/21)ドプチェク第一書記・チェルニーク首相・スムルコフスキー国民議会議長
       逮捕→モスクワ連行
*スヴォボダ大統領・閣僚・国会幹部会などが占領に抗議する声明発表
*市民, 非暴力抵抗開始
*ルーマニア・ユーゴスラヴィア・アルバニア, 軍事介入非難(8/21~23)
(8/22)チェコスロヴァキア共産党第14回臨時大会
       *ドプチェク第一書記再任
       *占領軍の撤退, 指導者の釈放などを要求する宣言採択
(8/23)ゼネスト(12:00~13:00)
       スヴォボダ大統領, 訪ソ→ソ連首脳と会談(8/24ドプチェク第一書記も参加)
(8/27)チェコスロヴァキア代表団帰国→共同声明発表
       1)ドプチェク政権承認 2)社会主義諸国の団結尊重 3)国内正常化。
*(8/28~29)スロヴァキア共産党大会:フサーク第一書記選出。臨時党大
                         会の正当性否定。
(9月)オタ=シク副首相解任。報道規制法成立。
(10月)【ソ連】ブレジネフ=ドクトリン:制限主権論
       「社会主義共同体の利益は各国の個別的利益に優先する」
第二次モスクワ会談:ソ連軍駐留を半永久的に認可。
    (10/16)コスイギン首相〔ソ連〕, 来訪→ソ連軍のチェコ駐留協定調印。
   《チェコ事件の意義》
①ソ連軍中心のワルシャワ条約5カ国軍の軍事介入
      1)チェコスロヴァキアは「ソ連・東欧共産圏」の西端にあって西ドイツと国
       境を接する重要な戦略的地位にあったから。
 2)チェコスロヴァキアは共産圏では最も進んだ工業国の1つで, COMECON
       諸国にとって不可欠の存在であったから。
 3)中ソ対立が深刻化する中で, 東欧共産圏の掌握は至上命令であったから。
      4)チェコスロヴァキアの自由化が他の社会主義圏に拡大することを恐れたか
       ら。
②国際世論による激しい非難
③ドプチェクの自由化路線に限界
1)共産党一党独裁という建前を崩そうとはしない。
      2)ドプチェクが認めた非共産政党(社会党・人民党)は複数政党制を志向。
3)「自由化の象徴」として政治的甘さを露呈・・・慎重さを欠く。
(5)フサーク体制期と“正常化”
 1969年(1/1)連邦制導入(チェコ共和国・スロヴァキア共和国)
       国家名称:「チェコスロヴァキア社会主義連邦共和国」
*1968(9/25)連邦政府案発表:中央集権立法制をやめ, 主権の一部を連邦に
        委譲
       *連邦議会:人民院・民族院
       *スロヴァキア人勢力の台頭。ソ連への協力姿勢が濃厚。
     (1/16)カレル大学生ヤン=パラフJan Palach(プラハ経済大学), 抗議の焼身自
       殺(16:00バツラフ広場に面したチェコスロヴァキア国立博物館の表階段)
       →(1/19)死去:彼の遺灰は当初埋葬されたプラハ郊外の墓地から別の場所
        に移され, 元の墓地には全く無縁の年老いた年金生活者の遺体を埋葬。
(3/28)アイスホッケー事件:ストックホルムで開催されたアイスホッケー世界選
       手権でチェコがソ連に勝利→プラハで歓喜の反ソデモ。
(3/31~4/8)ソ連国防相グレチコ来訪:ソ連軍再出動の警告
(4/1)事前検閲制の再導入
(4/17)党中央委員会
・ドプチェク第一書記解任→フサーク第一書記Gustav Husak就任
                 (第一書記1969~1987, 大統領1975~1989)
 │ 1933年, スロヴァキア共産党に入党。第二次世界大戦中の1944年, ナチス・ドイ│
 │ツおよびその傀儡国家であったヨゼフ・ティソが統治する独立スロヴァキアに対す│
 │るスロヴァキア民衆蜂起に参加。戦後はスロヴァキア共委員会議長(自治政府首相)│
 │として1948年の共産党体制成立に貢献したが, チトー主義者・シオニスト・民族主│
 │義者に対する粛清が猛威を振るった1950年代に「ブルジョワ民族主義」を理由に終│
 │身刑を宣告される(1954~60年獄中で過ごし, 60年釈放。1963年名誉回復)。│
 │ 1968年の所謂「プラハの春」の時期に政界に復帰し, 4月に成立したオルドジフ│
 │・チェルニーク内閣で連邦化問題を担当する副首相となるなど改革派の一人とみら│
 │れていた。しかし, 8月の軍事介入後, 次第に改革派から距離を置いてソ連の信頼を│
 │勝ち取り, 1969年4月, ドプチェクに代わって党第一書記に就任。改革勢力や反体制│
 │派に対する弾圧を強め, 「正常化」路線を進める。1980年代後半, ミハイル・ゴルバ│
 │チョフの登場によって国内でも改革を求める気運が高まる中, 第一書記の地位をミロ│
 │シュ・ヤケシュに譲り, 批判を和らげようとする。1989年11月のビロード革命後に│
 │は大統領を辞任し, 翌年には党を除名された。2年後の1991年11月18日死去。│
・幹部会から改革派追放:スムルコフスキー(1/6国民議会議長解任)を党幹部
                  会員からも追放
(8/20~22)軍事介入一周年記念行動:警察と戦車を動員し, 催涙ガスと警棒で
                      抗議デモを解散させた。2000人以上逮捕。
(9/25~27)党中央委員会
・ドプチェクを党幹部会員から解任
・チェコスロヴァキア共産党第14回臨時大会(1968)を否定し, ワルシャワ条
       約軍侵入の正当性を承認。
      *超保守派(ビリャーク):「ノヴォトニー失脚及びドプチェク登場」は反社
                  会主義勢力によるクーデターと考える。
       保守派(シュトロウガル)
       現実中道派(フサーク):「一月政変」(1968)は合法・正当と考える。
1970年(1/27)オタ=シク前副首相, スイス亡命
      *物価凍結令(1月)→経済成長:実質賃金の上昇(1971年4.1%,1972年6.4%)
                    消費物資の供給改善
    (1/28)チェルニーク首相解任(12/13党籍剥奪)→シュトロウガル首相(保守派)
・粛清(1970~71)共産党員140万人のうち46万人を追放
・ドプチェク, トルコ大使に転出→(6月)大使解任。党籍剥奪。→スロヴァキ
       アの営林署下級職員
(5/4~7)ブレジネフ, コスイギンが来訪→(5/6)新友好協力相互援助条約締結: 
                         「制限主権論」条約化
(6/25~26)党中央委員会:ドプチェク・スムルコフスキーの党籍剥奪
    (7/22~8月上旬)フサーク第一書記・シュトロウガル首相, 訪ソ
      ・(8/10)ブレジネフと会談
(12/11)党中央委員会総会:「危機的時期からの教訓」採択
1)1968年の軍事介入はチェコ側の“要請”で実施
2)ノヴォトニー時代から“危機”が存在し, 「一月政変」は正当な行為。  
      3)「一月政変」後の改革路線は, 右翼日和見主義・反社会主義によって悪用さ
       れたが, 党内の“健全な核”がワルシャワ条約国の援助の下で反革命を撃退。
 1971年(1/1)第5次五カ年計画開始
(1/25)フサーク第一書記・シュトロウガル首相・ビリャーク, 訪ソ→ブレジネフ,
       コスイギンらと会見
    (5/14)スロヴァキア共産党大会:レナールト第一書記選出
1973年(7/3~7)全欧州安全保障協力会議(CSCE, ヘルシンキ):東西両陣営が参加
    (9/18)東西ドイツ, 国連同時加盟
    (12/11)西ドイツとの国交回復
 1974年(6月) 新警察法施行(警察官の権限強化)
        →タクシー運転手50人の免許停止(自由派の元ジャーナリスト・教師)
 1975年(1月)【ソ連】東欧向け石油価格2割以上引き上げ
    (2/17~19)欧州共産党会議準備会(東ベルリン)→(4/8)再開:意見対立
    (5/29)スヴォボダ大統領辞任→フサーク第一書記が兼務(1975~1989)
(7/30~8/1)全欧州安全保障協力会議首脳会議→ヘルシンキ宣言:冷戦終結, 将来
                                 の平和を協議
・ソ連外交の勝利
・ソ連・東欧の改革派への援護射撃
  *政治的な信頼醸成。科学技術面での協力。人権の保護。国際的連帯の輪。

 1976年(6/29~30)欧州共産党会議(東ベルリン):各党の平等確認 
 1977年(1/6)「憲章77」発表
     ・発起人:作家ヴァーツラフ=ハヴェル, 1968年当時の外相イジー・ハーイェ
          ク, 大学教授ヤン・パトチカ
     ・自由派知識人257名署名→最終的に約1,200名署名
     ・ハンガリー・ルーマニア・ポーランドの自由派知識人も連帯声明
・ハヴェル拘束→罪状「国外における共和国の利益損傷謀議」で懲役14カ月
 の判決
・憲章77派, 「不当被起訴追者擁護委員会」結成
(1/26)カーター米新政権・中国政府, 「憲章77」支持声明
(10月)ハヴェル, 反逆罪で執行猶予付き1年2カ月禁錮刑
 1978年(11/22~23)ワルシャワ条約機構首脳会議:ルーマニア(チャウシェスク大統領),
                        ソ連の路線に反発
 1979年(12/27)【ソ連】アフガニスタン侵攻(~1989)
 1980年(5/22)フサーク大統領再選
    (9/17)ポーランドで自主管理労組「連帯」成立(ワレサ議長)
       →1981(12/13)戒厳令
(12/3)東ドイツと新国境条約締結
 1981年(4/10)チェコスロヴァキア共産党第16回大会:フサーク書記長再選
 1983年(1/4)ソ連・東欧首脳会議:NATOとの武力不行使条約締結を提案
    (6/20)内閣大幅改造:農業食糧相, 労働・社会福祉相を更迭
    (6/21)「平和と命を守り核戦争に反対する世界会議」開催(プラハ)
 1984年(12/3~4)ワルシャワ条約機構外相会議(ベルリン)
     *核軍縮と宇宙の非軍事化をNATO諸国に訴えるコミュニケ採択
(12/5)ワルシャワ条約機構国防相会議(ブダペスト):国防力増強決議

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